善の研究

西田幾多郎

   序

 此書は余が多年、金澤なる第四高等學校に於て教鞭を執つてゐた間に書いたのである。初は此書の中、特に實在に關する部分を精細に論述して、すぐにも世に出さうといふ考であつたが、病と種々の事情とに妨げられて其志を果すことができなかつた。かくして數年を過し居る中に、いくらか自分の思想も變り來り、從つて余が志す所の容易に完成し難きを感ずる樣になり、此書は此書として一先づ世に出して見たいといふ考になつたのである。

 此書は第二編第三編が先づ出來て、第一編第四編といふ順序に後から附加したものである。第一編は余の思想の根柢である純粹經驗の性質を明にしたものであるが、初めて讀む人は之を略する方がよい。第二編は余の哲學的思想を述べたもので此書の骨子といふべきものである。第三編は前編の考を基礎として善を論じた積であるが、又之を獨立の倫理學と見ても差支ないと思ふ。第四編は余が、かねて哲學の終結と考へて居る宗教に就いて余の考を述べたものである。此編は余が病中の作で不完全の處も多いが、とにかくこれにて余が云はうと思うて居ることの終まで達したのである。此書を特に「善の研究」と名づけた譯は、哲學的研究が其前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考へた故である。

 純粹經驗を唯一の實在としてすべてを説明して見たいといふのは、余が大分前から有つて居た考であつた。初はマッハなどを讀んで見たが、どうも滿足はできなかつた。其中、個人あつて經驗あるにあらず、經驗あつて個人あるのである、個人的區別よりも經驗が根本的であるといふ考から獨我論を脱することができ、又經驗を能働的と考ふることに由つてフィヒテ以後の超越哲學とも調和し得るかの樣に考へ、遂に此書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいふまでもない。

 思索などする奴は緑の野にあつて枯草を食ふ動物の如しとメィフストに嘲らるるかも知らぬが、我は哲理を考へる樣に罸せられて居るといつた哲學者(ヘーゲル)もある樣に、一たび禁斷の果を食つた人間には、かゝる苦惱のあるのも已むを得ぬことであらう。

   明治四十四年一月           京都にて

                西田幾多郎

   再版の序

 此書を出版してから既に十年餘の歳月を經たのであるが、此書を書いたのはそれよりも尚幾年の昔であつた。京都に來てから讀書と思索とに專なることを得て、余もいくらか余の思想を洗練し豐富にすることを得た。從つて此書に對しては飽き足らなく思ふやうになり、遂に此書を絶版としようと思うたのである。併し其後諸方から此書の出版を求められるのと、余が此書の如き形に於て余の思想の全體を述べ得るのは尚幾年の後なるかを思ひ、再び此書を世に出すこととした。今度の出版に當りて、務臺、世良の兩文學士が余の爲に字句の訂正と校正との勞を執られたのは、余が兩君に對し感謝に堪へざる所である。

   大正十年一月

                西田幾多郎

   版を新にするに當つて

 此書刷行を重ねること多く、文字も往々鮮明を缺くものがあるやうになつたので、今度書肆に於て版を新にすることになつた。この書は私が多少とも自分の考をまとめて世に出した最初の著述であり、若かりし日の考に過ぎない。私は此際此書に色々の點に於て加筆したいのであるが、思想はその時々に生きたものであり、幾十年を隔てた後からは筆の加へやうもない。此書は此書としてこの儘として置くの外はない。

 今日から見れば、此書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考へられるであらう。然非難せられても致方はない。併し此書を書いた時代に於ても、私の考の奧底に潛むものは單にそれだけのものでなかつたと思ふ。純粹經驗の立場は「自覺に於ける直觀と反省」に至つて、フィヒテの事行の立場を介して絶對意志の立場に進み、更に「働くものから見るものへ」の後半に於て、ギリシャ哲學を介し、一轉して「場所」の考に至つた。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思ふ。「場所」の考は「辯證法的一般者」として具體化せられ、「辯證法的一般者」の立場は「行爲的直觀」の立場として直接化せられた。此書に於て直接經驗の世界とか純粹經驗の世界とか云つたものは、今は歴史的實在の世界と考へる樣になつた。行爲的直觀の世界、ポイエシスの世界こそ眞に純粹經驗の世界であるのである。

 フェヒネルは或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らひながら、日麗に花薫り鳥歌ひ蝶舞ふ春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科學的な夜の見方に反して、ありの儘が眞である晝の見方に耽つたと自ら云つて居る。私は何の影響によつたかは知らないが、早くから實在は現實そのまゝのものでなければならない、所謂物質の世界といふ如きものは此から考へられたものに過ぎないといふ考を有つてゐた。まだ高等學校の學生であつた頃、金澤の街を歩きながら、夢みる如くかゝる考に耽つたことが今も思ひ出される。その頃の考が此書の基ともなつたかと思ふ。私が此書を物せし頃、此書が斯くまでに長く多くの人に讀まれ、私が斯くまでに生き長がらへて、此書の重版を見ようとは思ひもよらないことであつた。此書に對して、命なりけり小夜の中山の感なきを得ない。

   昭和十一年十月     著者

    第一編 純粹經驗

     第一章 純粹經驗

 經驗するといふのは事實其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てゝ、事實に從うて知るのである。純粹といふのは、普通に經驗といつて居る者も其實は何等かの思想を交へて居るから、毫も思慮分別を加へない、眞に經驗其儘の状態をいふのである。例へば、色を見、音を聞く刹那、未だ之が外物の作用であるとか、我が之を感じて居るとかいふやうな考のないのみならず、此色、此音は何であるといふ判斷すら加はらない前をいふのである。それで純粹經驗は直接經驗と同一である。自己の意識状態を直下に經驗した時、未だ主もなく客もない、知識と其對象とが全く合一して居る。これが經驗の最醇なる者である。勿論、普通には經驗といふ語の意義が明に定まつて居らず、ヴントの如きは經驗に基づいて推理せられたる知識をも間接經驗と名づけ、物理學、化學などを間接經驗の學と稱して居る(Wundt, Grundriss der Psychologie, Einl. §I)。併し此等の知識は正當の意味に於て經驗といふことができぬばかりではなく、意識現象であつても、他人の意識は自己に經驗ができず、自己の意識であつても、過去に就いての想起、現前であつても、之を判斷した時は已に純粹の經驗ではない。眞の純粹經驗は何等の意味もない、事實其儘の現在意識あるのみである。

 右にいつた樣な意味に於て、如何なる精神現象が純粹經驗の事實であるか。感覺や知覺が之に屬することは誰も異論はあるまい。併し余は凡ての精神現象がこの形に於て現はれるものであると信ずる。記憶に於ても、過去の意識が直に起つてくるのでもなく、從つて過去を直覺するのでもない。過去と感ずるのも現在の感情である。抽象的概念といつても決して超經驗的の者ではなく、やはり一種の現在意識である。幾何學者が一個の三角を想像しながら、之を以て凡ての三角の代表となす樣に、概念の代表的要素なる者も現前に於ては一種の感情にすぎないのである(James, The Principles of Psychology, Vol. I, Chap. VII)。その外所謂意識の縁暈fringeなるものを直接經驗の事實の中に入れて見ると、經驗的事實間に於ける種々の關係の意識すらも、感覺、知覺と同じく皆此中に入つてくるのである(James, A World of Pure Experience)。然らば情意の現象は如何といふに、快、不快の感情が現在意識であることはいふまでもなく、意志に於ても、其目的は未來にあるにせよ、我々はいつも之を現在の欲望として感ずるのである。

 扨、斯く我々に直接であつて、凡ての精神現象の原因である純粹經驗とは如何なる者であるか、之より少しくその性質を考へて見よう。先づ純粹經驗は單純であるか、將た複雜であるかの問題が起つてくる。直下の純粹經驗であつても、之が過去の經驗の構成せられた者であるとか、又後にて之を單一なる要素に分析できるとかいふ點より見れば、複雜といつてもよからう。併し純粹經驗はいかに複雜であつても、その瞬間に於ては、いつも單純なる一事實である。たとひ過去の意識の再現であつても、現在の意識中に統一せられ、之が一要素となつて、新なる意味を得た時には、已に過去の意識と同一といはれぬ(Stout, Analytic Psychology, Vol. II, p. 45)。之と同じく、現在の意識を分析した時にも、その分析せられた者はもはや現在の意識と同一ではない。純粹經驗の上から見れば凡てが種別的であつて、其場合毎に、單純で、獨創的であるのである。次にかゝる純粹經驗の綜合は何處まで及ぶか。純粹經驗の現在は、現在に就いて考ふる時、已に現在にあらずといふやうな思想上の現在ではない。意識上の事實としての現在には、いくらかの時間的繼續がなければならぬ(James, The Principles of Psychology, Vol. I. Chap. XV)。即ち意識の焦點がいつでも現在となるのである。それで、純粹經驗の範圍は自ら注意の範圍と一致してくる。併し余は此の範圍は必ずしも一注意の下にかぎらぬと思ふ。我々は少しの思想も交へず、主客未分の状態に注意を轉じて行くことができるのである。例へば一生懸命に斷岸を攀づる場合の如き、音樂家が熟練した曲を奏する時の如き、全く知覺の連續perceptual trainといつてもよい(Stout, Manual of Psychology, p. 252)。又動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うて居るのであらう。此等の精神現象に於ては、知覺が嚴密なる統一と連絡とを保ち、意識が一より他に轉ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起し其間に思惟を入るべき少しの龜裂もない。之を瞬間的知覺と比較するに、注意の推移、時間の長短こそあれ、その直接にして主客合一の點に於ては少しの差別もないのである。特に所謂瞬間知覺なる者も、其實は複雜なる經驗の結合構成せられたる者であるとすれば、右二者の區別は性質の差ではなくして、單に程度の差であるといはねばならぬ。純粹經驗は必ずしも單一なる感覺とはかぎらぬ。心理學者のいふやうな嚴密なる意味の單一感覺とは、學問上分析の結果として假想した者であつて、事實上に直接なる具體的經驗ではないのである。

 純粹經驗の直接にして純粹なる所以は、單一であつて、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいふことにあるのではない。反つて具體的意識の嚴密なる統一にあるのである。意識は決して心理學者の所謂單一なる精神的要素の結合より成つたものではなく、元來一の體系を成したものである。初生兒の意識の如きは明暗の別すら、さだかならざる混沌たる統一であらう。此の中より多樣なる種々の意識状態が分化發展し來るのである。併しいかに精細に分化しても、何處までもその根本的なる體系の形を失ふことはない。我々に直接なる具體的意識はいつでも此形に於て現はれるものである。瞬間的知覺の如き者でも決して此形に背くことはない。例へば一目して物の全體を知覺すると思ふ場合でも、仔細に研究すれば、眼の運動と共に注意は自ら推移して、その全體を知るに至るのである。かく意識の本來は體系的發展であつて、此の統一が嚴密で、意識が自ら發展する間は、我々は純粹經驗の立脚地を失はぬのである。此點は知覺的經驗に於ても、表象的經驗に於ても同一である。表象の體系が自ら發展する時は、全體が直に純粹經驗である。ゲーテが夢の中で直覺的に詩を作つたといふ如きは、その一例である。或は知覺的經驗では、注意が外物から支配せられるので、意識の統一とはいへないやうに思はれるかも知れない。併し、知覺的活動の背後にも、やはり或無意識統一力が働いて居なければならぬ。注意は之に由りて導かれるのである。又之に反し、表象的經驗はいかに統一せられてあつても、必ず主觀的所作に屬し、純粹の經驗とはいはれぬやうにも見える。併し表象的經驗であつても、其統一が必然で自ら結合する時には我々は之を純粹の經驗と見なければならぬ、例へば夢に於てのやうに外より統一を破る者がない時には、全く知覺的經驗と混同せられるのである。元來、經驗に内外の別あるのではない、之をして純粹ならしむる者はその統一にあつて、種類にあるのではない。表象であつても、感覺と嚴密に結合して居る時には直に一つの經驗である。唯、之が現在の統一を離れて他の意識と關係する時、もはや現在の經驗ではなくして、意味となるのである。又表象だけであつた時には、夢に於てのやうに全く知覺と混同せられるのである。感覺がいつでも經驗であると思はれるのはそがいつも注意の焦點となり統一の中心となるが爲であらう。

 今尚少しく精細に意識統一の意義を定め、純粹經驗の性質を明にせうと思ふ。意識の體系といふのは凡ての有機物のやうに、統一的或者が秩序的に分化發展し、其全體を實現するのである。意識に於ては、先づその一端が現はれると共に、統一作用は傾向の感情として之に伴うて居る。我々の注意を指導する者は此作用であつて、統一が嚴密であるか或は他より妨げられぬ時には、此作用は無意識であるが、然らざる時には別に表象となつて意識上に現はれ來り、直に純粹經驗の状態を離れるやうになるのである。即ち統一作用が働いて居る間は全體が現實であり純粹經驗である。而して意識は凡て衝動的であつて、主意説のいふ樣に、意志が意識の根本的形式であるといひ得るならば、意識發展の形式は即ち廣義に於て意志發展の形式であり、その統一的傾向とは意志の目的であるといはねばならぬ。純粹經驗とは意志の要求と實現との間に少しの間隙もなく、其最も自由にして、活溌なる状態である。勿論選擇的意志より見れば此の如く衝動的意志に由りて支配せられるのは反つて意志の束縛であるかも知れぬが、選擇的意志とは已に意志が自由を失つた状態である故に之が訓練せられた時には又衝動的となるのである。意志の本質は未來に對する欲求の状態にあるのではなく、現在に於ける現在の活動にあるのである。元來、意志に伴ふ動作は意志の要素ではない。純心理的に見れば意志は内面に於ける意識の統覺作用である。而して此の統一作用を離れて別に意志なる特殊の現象あるのではない、此の統一作用の頂點が意志である。思惟も意志と同じく一種の統覺作用であるが、その統一は單に主觀的である。然るに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのも之が爲である(Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung, §54)。純粹經驗は事實の直覺その儘であつて、意味がないといはれて居る。斯くいへば、純粹經驗とは何だか混沌無差別の状態であるかの樣に思はれるかも知れぬが、種々の意味とか判斷とかいふものは經驗其者の差別より起るので、後者は前者によりて與へられるのではない、經驗は自ら差別相を具へた者でなければならぬ。例へば、一の色を見て之を青と判定したところが、原色覺が之に由りて分明になるのではない、唯、之と同樣なる從來の感覺との關係をつけたまでである。又今余が視覺として現はれたる一經驗を指して机となし、之に就いて種々の判斷を下すとも、之に由りて此の經驗其者の内容に何等の豐富をも加へないのである。要するに經驗の意味とか判斷とかいふのは他との關係を示すにすぎぬので、經驗其者の内容を豐富にするのではない。意味或は判斷の中に現はれたる者は原經驗より抽象せられたるその一部であつて、その内容に於ては反つて之よりも貧なる者である。勿論原經驗を想起した場合に、前に無意識であつた者が後に意識せられるやうな事もあるが、こは前に注意せざりし部分に注意したまでであつて、意味や判斷に由りて前に無かつた者が加へられたのではない。

 純粹經驗はかく自ら差別相を具へた者とすれば、之に加へられる意味或は判斷といふのは如何なる者であらうか、又之と純粹經驗との關係は如何であらう。普通では純粹經驗が客觀的實在に結合せられる時、意味を生じ、判斷の形をなすといふ。併し純粹經驗説の立脚地より見れば、我々は純粹經驗の範圍外に出ることはできぬ。意味とか判斷とかを生ずるのもつまり現在の意識を過去の意識に結合するより起るのである。即ち之を大なる意識系統の中に統一する統一作用に基づくのである。意味とか判斷とかいふのは現在意識と他との關係を示す者で、即ち意識系統の中に於ける現在意識の位置を現はすに過ぎない。例へば或聽覺について之を鐘聲と判じた時は、唯過去の經驗中に於て之が位置を定めたのである。それで、いかなる意識があつても、そが嚴密なる統一の状態にある間は、いつでも純粹經驗である、即ち單に事實である。之に反し、この統一が破れた時、即ち他との關係に入つた時、意味を生じ判斷を生ずるのである。我々に直接に現はれ來る純粹經驗に對し、すぐ過去の意識が働いて來るので、之が現在意識の一部と結合し一部と衝突し、此處に純粹經驗の状態が分析せられ破壞せられるやうになる。意味とか判斷とかいふものはこの不統一の状態である。併しこの統一、不統一といふことも、よく考へて見ると畢竟程度の差である、全然統一せる意識もなければ、全然不統一なる意識もなからう。凡ての意識は體系的發展である。瞬間的知識であつても種々の對立、變化を含蓄して居るやうに、意味とか判斷とかいふ如き關係の意識の背後には、此關係を成立せしむる統一的意識がなければならぬ。ヴントのいつたやうに、凡ての判斷は複雜なる表象の分析に由りて起るのである(Wundt, Logik, Bd. I, Abs. III, Kap. 1)。又判斷が漸々に訓練せられ、その統一が嚴密となつた時には全く純粹經驗の形となるのである、例へば技藝を習ふ場合に、始は意識的であつた事も之に熟するに從つて無意識となるのである。更に一歩を進んで考へて見れば、純粹經驗とその意味又は判斷とは意識の兩面を現はす者である、即ち同一物の見方の相違にすぎない。意識は一面に於て統一性を有すると共に、又一方には分化發展の方面がなければならぬ。而もジェームスが「意識の流」に於て説明したやうに、意識はその現はれたる處について居るのではなく、含蓄的に他と關係をもつて居る。現在はいつでも大なる體系の一部と見ることが出來る。所謂分化發展なる者は更に大なる統一の作用である。

 かく意味といふ者も大なる統一の作用であるとすれば、純粹經驗はかゝる場合に於て自己の範圍を超越するのであらうか。例へば記憶に於て過去と關係し意志に於て未來と關係する時、純粹經驗は現在を超越すると考へることが出來るであらうか。心理學者は意識は物でなく事件である、されば時々刻々に新であつて、同一の意識が再生することはないといふ。併し余はかゝる考は純粹經驗説の立脚地より見たのではなく、反つて過去は再び還らず、未來は未だ來らずといふの時間性質より推理したのではないかと思ふ。純粹經驗の立脚地より見れば、同一内容の意識は何處までも同一の意識とせねばなるまい。例へば思惟或は意志に於て一つの目的表象が連續的に働く時、我々は之を一つの者と見なければならぬ樣に、たとひその統一作用が時間上には切れて居ても、一つの者と考へねばならぬと思ふ。

     第二章 思惟

 思惟といふのは心理學から見れば、表象間の關係を定め之を統一する作用である。その最も單一なる形は判斷であつて、即ち二つの表象の關係を定め、之を結合するのである。併し我々は判斷に於て二つの獨立なる表象を結合するのではなく、反つて或一つの全き表象を分析するのである。例へば「馬が走る」といふ判斷は、「走る馬」といふ一表象を分析して生ずるのである。それで、判斷の背後にはいつでも純粹經驗の事實がある。判斷に於て主客兩表象の結合は、實に之に由りてできるのである。勿論いつでも全き表象が先づ現はれて、之より分析が始まるといふのではない。先づ主語表象があつて、之より一定の方向に於て種々の聯想を起し、選擇の後其一に決定する場合もある。併し此場合でも、愈々之を決定する時には、先づ主客兩表象を含む全き表象が現はれて來なければならぬ。つまり此表象が始から含蓄的に働いて居たのが、現實となる所に於て判斷を得るのである。かく判斷の本には純粹經驗がなければならぬといふことは、啻に事實に對する判斷の場合のみではなく、純理的判斷といふ樣な者に於ても同樣である。例へば幾何學の公理の如き者でも皆一種の直覺に基づいて居る。たとひ抽象的概念であつても、二つの者を比較し判斷するには其本に於て統一的或者の經驗がなければならぬ。所謂思惟の必然性といふのは之より出でくるのである。故に若し前にいつた樣に知覺の如き者のみでなく、關係の意識をも經驗と名づくることができるならば、純理的判斷の本にも純粹經驗の事實があるといふことができるのである。又推論の結果として生ずる判斷に就いて見ても、ロックが論證的知識に於ても一歩一歩に直覺的證明がなければならぬといつた樣に(Essay on the Human Understanding, Bk. IV, Chap. II, 7)連鎖となる各判斷の本にはいつも純粹經驗の事實がなければならぬ。種々の方面の判斷を綜合して斷案を下す場合に於ても、たとひ全體を統一する事實的直覺はないにしても、凡ての關係を綜合統一する論理的直覺が働いて居る(所謂思想の三法則の如きも一種の内面的直覺である)。例へば種々の觀察より推して地球が動いて居なければならぬといふのも、つまり一種の直覺に基づける論理法に由りて判斷するのである。

 從來傳統的に思惟と純粹經驗とは全く類を異にせる精神作用であると考へられて居る。併し今凡ての獨斷を棄てゝ直接に考へ、ジェームスが「純粹經驗の世界」と題せる小論文にいつた樣に、關係の意識をも經驗の中に入れて考へて見ると、思惟の作用も純粹經驗の一種であるといふことができると思ふ。知覺と思惟の要素たる心像とは、外より見れば、一は外物より來る末端神經の刺戟に基づき、一は腦の皮質の刺戟に基づくといふ樣に區別ができ、又内から見ても、我々は通常知覺と心像とを混同することはない。併し純心理的に考へて、何處までも嚴密に區別ができるかといふに、そは頗る困難である、つまり強度の差とかその外種々の關係の異なるより來るので、絶對的區別はないのである(夢、幻覺等に於て我々は屡々心像を知覺と混同することがある)。原始的意識にかゝる區別があつたのではなく、唯種々の關係より區別せられる樣になつたのであらう。又一見、知覺は單一であつて、思惟は複雜なる過程である樣に見えるが、知覺といつても必ずしも單一ではない、知覺も構成的作用である。思惟といつてもその統一の方面より見れば一の作用である。或統一者の發展と見ることができる。

 かく思惟と知覺的經驗の如き者とを同一種と考へることに就いては種々の異論もあるであらうから、余は之より少しく此等の點に就いて論じて見ようと思ふ。普通には知覺的經驗の如きは所働的で、其作用が凡て無意識であり、思惟は之に反し能働的で其作用が凡て意識的であると考へられて居る。併しかやうに明なる區別は何處にあるであらうか。思惟であつても、そが自由に活動し發展する時には殆ど無意識的注意の下に於て行はれるのである、意識的となるのは反つて此進行が妨げられた場合である。思惟を進行せしむる者は我々の隨意作用ではない、思惟は己自身にて發展するのである。我々が全く自己を棄てゝ思惟の對象即ち問題に純一となつた時、更に適當にいへば自己をその中に沒した時、始めて思惟の活動を見るのである。思惟には自ら思惟の法則があつて自ら活動するのである。我々の意志に從ふのではない。對象に純一になること、即ち注意を向けることを有意的といへばいひうるであらうが、此點に於ては知覺も同一であらうと思ふ、我々は見んと欲する物に自由に注意を向けて見ることができる。勿論思惟に於ては知覺の場合よりも統一が寛であり、その推移が意識的であるやうに思はれるので、前に之を以てその特徴として置いたが、嚴密に考へて見ると此の區別も相對的であつて、思惟に於ても一表象より一表象に推移する瞬間に於ては無意識である、統一作用が現實に働きつゝある間は無意識でなければならぬ。之を對象として意識する時には、已にその作用は過去に屬するのである。かく思惟の統一作用は全然意志の外にあるのであるが、唯我々が或問題について考へる時、種々の方向があつてその取捨が自由である樣に思はれるのである。併しかゝる現象は知覺の場合にもないのではない。少しく複雜なる知覺に於ては如何に注意を向けるかは自由である、例へば一幀の畫を見るにしても、形に注意することもでき又色彩に注意することもできる。その外、知覺では我々は外から動かされ、思惟では内より動くなどいふが、内外の區別といふも要するに相對的にすぎぬ、唯思惟の材料たる心像は比較的變動し易く自由であるからよく見えるのである。

 次に普通には知覺は具象的事實の意識であり、思惟は抽象的關係の意識であつて、兩者全然その類を異にする者の樣に考へられて居る。併し純粹に抽象的關係といふやうな者は我々は之を意識することはできぬ、思惟の運行も或具象的心像を藉りて行はれるのである、心像なくして思惟は成立しない。例へば三角形の總べての角の和は二直角であるといふことを證明するにも、或特殊なる三角形の心像に由らねばならぬのである、思惟は心像を離れた獨立の意識ではない、之に伴ふ一現象である。ゴールGoreは、心像と其意味との關係は刺戟と其反應との關係と同一であると説いて居る(Dewey, Studies in Logical Theory)。思惟は心像に對する意識の反應であつて、而して又心像は思惟の端緒である、思惟と心像とは別物ではない。いかなる心像であつても決して獨立ではない、必ず全意識と何等かの關係に於て現はれる、而して此方面が思惟に於ける關係の意識である、純粹なる思惟と思はれる者も、唯此の方面の著しき者にすぎないのである。さて心像と思惟との關係を右の如く考へた所で、知覺に於てはかくの如き思惟的方面がないかといふに、決してさうではない。凡ての意識現象のやうに知覺も一の體系的作用である、知覺に於てはその反應は反つて顯著であつて意志となり動作となつて現はれるのであるが、心像に於ては單に思惟として内面的關係に止まるのである。されば事實上の意識には知覺と心像との區別はあるが、具象と抽象との別はない、思惟は心像間の事實の意識である、而して知覺と心像との別も前にいつた樣に嚴密なる純粹經驗の立脚地よりしては、何處までも區別することはできないのである。

 以上は心理學上より見て、思惟も純粹經驗の一種であることを論じたのであるが、思惟は單に個人的意識の上の事實ではなくして客觀的意味を有つて居る、思惟の本領とする所は眞理を現はすにあるのである、自分で自分の意識現象を直覺する純粹經驗の場合には眞妄と云ふことはないが、思惟には眞妄の別があるともいへる。此等の點を明にするには所謂客觀、實在、眞理等の意義を詳論する必要はあるが、極めて批評的に考へて見ると、純粹經驗の事實の外に實在なく、此等の性質も心理的に説明ができると思ふ。前にもいつた樣に、意識の意味といふのは他との關係より生じてくる、換言すればその意識の入り込む體系に由りて定まつてくる。同一の意識であつても、その入り込む體系の異なるに由りて種々の意味を生ずるのである。たとへば意味の意識である或心像であつても、他に關係なく唯それだけとして見た時には、何等の意味も持たない單に純粹經驗の事實である。之に反し事實の意識なる或知覺も、意識體系の上に他と關係を有する點より見れば意味を有つて居る、唯多くの場合に其意味が無意識であるのである。然らば如何なる思想が眞であり如何なる思想が僞であるかと云ふに、我々はいつでも意識體系の中で最も有力なる者、即ち最大最深なる體系を客觀的實在と信じ、之に合つた場合を眞理、之と衝突した場合を僞と考へるのである。此の考より見れば、知覺にも正しいとか誤るとかいふことがある。即ち或體系よりして見て、よくその目的に合うた時が正しく、之に反した時が誤つたのである。勿論此等の體系の中には種々の意味があるので、知覺の背後に於ける體系は多く實踐的であるが、思惟の體系は純知識的であるといふやうな區別もできるであらう。併し余は知識の究竟的目的は實踐的であるやうに、意志の本に理性が潛んで居るといへると思ふ。この事は後に意志の處に論じようと思ふが、かゝる體系の區別も絶對的とはいへないのである。又同じ知識的作用であつても、聯想とか記憶とかいふのは單に個人的意識内の關係統一であるが、思惟だけは超個人的で一般的であるともいへる。併しかゝる區別も我々の經驗の範圍を強ひて個人的と限るより起るので、純粹經驗の前には反つて個人なる者のないことに考へ到らぬのである(意志は意識統一の小なる要求で、理性はその深遠なる要求である)。

 之まで思惟と純粹經驗とを比較し、普通には此の二者が全く類を異にすると思うて居る點も、深く考へて見ると一致の點を見出し得ることを述べたのであるが、今少しく思惟の起源及歸趣について論じ、更に右二者の關係を明にせうと思ふ。我々の意識の原始的状態又は發達せる意識でもその直接の状態は、いつでも純粹經驗の状態であることは誰しも許す所であらう。反省的思惟の作用は次位的に之より生じた者である。然らば何故に此の如き作用が生ずるのであるかといふに、前にいつた樣に意識は元來一の體系である、自ら己を發展完成するのがその自然の状態である、而もその發展の行路に於て種々なる體系の矛盾衝突が起つてくる、反省的思惟はこの場合に現はれるのである。併し一面より見て斯の如く矛盾衝突するものも、他面より見れば直に一層大なる體系的發展の端緒である。換言すれば大なる統一の未完の状態ともいふべき者である。例へば行爲に於ても又知識に於ても、我々の經驗が複雜となり種々の聯想が現はれ、その自然の行路を妨げた時我々は反省的となる。此の矛盾衝突の裏面には暗に統一の可能を意味して居るのであつて、決意或は解決の時已に大なる統一の端緒が成立するのである。併し我々は決して單に決意または解決といふ如き内面的統一の状態にのみ止まるのではない、決意は之に實行の伴ふは言をまたず、思想でも必ず何等かの實踐的意味をもつて居る、思想は必ず實行に現はれねばならぬ、即ち純粹經驗の統一に達せねばならぬ。されば純粹經驗の事實は我々の思想のアルファであり又オメガである。要するに思惟は大なる意識體系の發展實現する過程にすぎない、若し大なる意識統一に住して之を見れば、思惟といふのも大なる一直覺の上に於ける波瀾にすぎぬのである。例へば我々が或目的について苦慮する時、目的なる統一的意識はいつでもその背後に直覺的事實として働いて居るのである。それで思惟といつても別に純粹經驗とは異なつた内容も形式も有つて居らぬ、唯その深く大ではあるが未完の状態である。他面より見れば眞の純粹經驗とは單に所働的ではなく、反つて構成的で一般的方面を有つて居る、即ち思惟を含んで居るといつてよい。

 純粹經驗と思惟とは元來同一事實の見方を異にした者である。嘗てヘーゲルが力を極めて主張したやうに、思惟の本質は抽象的なるにあるのでなく、反つてその具體的なるにあるとすれば、余が上にいつた意味の純粹經驗と殆ど同一となつてくる、純粹經驗は直に思惟であるといつてもよい。具體的思惟より見れば、概念の一般性といふのは普通にいふ樣に類似の性質を抽象した者ではない、具體的事實の統一力である、ヘーゲルも一般とは具體的なる者の魂であるといつて居る(Hegel, Wissenschaft der Logik, III, S. 37)。而して我々の純粹經驗は體系的發展であるから、その根柢に働きつゝある統一力は直に概念の一般性其者でなければならぬ、經驗の發展は直に思惟の進行となる、即ち純粹經驗の事實とは所謂一般なる者が己自身を實現するのである。感覺或は聯想の如き者に於てすら、その背後に潛在的統一作用が働いて居る。之に反し思惟に於ても統一が働く瞬間には、前に云つた樣にその統一自身は無意識である。唯統一が抽象せられ、對象化せられた時、別の意識となつて現はれる、併しこの時は已に統一の作用を失つて居るのである。純粹經驗とは單一とか所働的とかいふ意味ならば思惟と相反するでもあらうが、經驗とはありのまゝを知るといふ意ならば、單一とか所働的とかいふことは反つて純粹經驗の状態とはいはれない、眞に直接なる状態は構成的で能働的である。

 我々は普通に思惟に由りて一般的なる者を知り、經驗に由りて個體的なる者を知ると思うて居る。併し個體を離れて一般的なる者があるのではない、眞に一般的なる者は個體的實現の背後に於ける潛勢力である、個體の中にありて之を發展せしむる力である、例へば植物の種子の如き者である。若し個體より抽象せられた他の特殊と對立する如き者ならば、そは眞の一般ではなくして、やはり特殊である、かゝる場合では一般は特殊の上に位するのではなく、之と同列にあるのである、例へば、色ある三角形について、三角形より見れば色は特殊であるであらうが、色より見れば三角は特殊である。かくの如き抽象的で無力なる一般ならば推理や綜合の本となることはできぬ。それで思惟の活動に於て統一の本たる眞に一般なる者は、個體的現實と其内容を同じうする潛勢力でなければならぬ、唯その含蓄的なると顯現的なるとに由りて異なつて居るのである。個體とは一般的なる者の限定せられたのである。個體と一般との關係を斯の如く考へると、論理的にも思惟と經驗との差別がなくなつてくる。我々が現在の個體的經驗といつて居る者も、その實は發展の途中にある者と見ることができる、即ち尚精細に限定せらるべき潛勢力を有つて居るのである。例へば我々の感覺の如き者でも尚分化發展の餘地があるのであらう、此の點より見て尚一般的となすこともできる。之に反し一般的の者でも、發展をその處にかぎつて見れば、個體的といふこともできるであらう。普通には空間時間の上に於て限定せられた者をのみ個體的と稱へて居る、併しかゝる限定は單に外面的である、眞の個體とはその内容に於て個體的でなければならぬ、即ち唯一の特色を具へた者でなければならぬ、一般的なる者が發展の極處に到つた處が個體である。此の意味より見れば、普通に感覺或は知覺といつて居るやうな者は極めて内容に乏しき一般的なるもので、深き意味に充ちたる畫家の直覺の如き者が反つて眞に個體的と云ひうるであらう。凡て空間時間の上より限定せられた單に物質的なる者を以て、個體的となすのはその根柢に於て唯物論的獨斷があるであらうと思ふ。純粹經驗の立脚地より見れば、經驗を比較するにはその内容を以てすべきものである。時間空間といふ如き者もかゝる内容に基づいて之を統一する一つの形式にすぎないのである。或は又感覺的印象の強く明なることと、その情意と密接の關係をもつことなどが之を個體的と思はしめる一原因でもあらうが、所謂思想の如きも決して情意に關係がないのではない。強く情意を動かす者が特に個體的と考へられるのは、情意は知識に比して我々の目的其者であり、發展の極致に近いからであると思ふ。

 之を要するに思惟と經驗とは同一であつて、その間に相對的の差異を見ることはできるが絶對的區別はないと思ふ。併し余は之が爲に思惟は單に個人的で主觀的であるといふのではない、前にもいつた樣に純粹經驗は個人の上に超越することができる。かくいへば甚だ異樣に聞えるであらうが、經驗は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、個人あつて經驗あるのではなく、經驗あつて個人あるのである。個人的經驗とは經驗の中に於て限られし經驗の特殊なる一小範圍にすぎない。

     第三章 意志

 余は今純粹經驗の立脚地より意志の性質を論じ、知と意との關係を明にしようと思ふ。意志は多くの場合に於て動作を目的とし又之を伴ふのであるが、意志は精神現象であつて外界の動作とは自ら別物である。動作は必ずしも意志の要件ではない、或外界の事情のため動作が起らなかつたにしても、意志は意志であつたのである。心理學者のいふやうに、我々が運動を意志するにはたゞ過去の記憶を想起すれば足りる、即ち之に注意を向けさへすればよい、運動は自ら之に伴ふのである、而してこの運動其者も純粹經驗より見れば運動感覺の連續にすぎない。凡て意志の目的といふ者も直接に之を見れば、やはり意識内の事實である、我々はいつでも自己の状態を意志するのである、意志には内面的と外面的との區別はないのである。

 意志といへば何か特別なる力がある樣に思はれて居るが、その實は一の心像より他の心像に移る推移の經驗にすぎない、或事を意志するといふのは即ち之に注意を向けることである。この事は最も明に所謂無意的行爲の如き者に於て見ることができる、前にいつた知覺の連續のやうな場合でも、注意の推移と意志の進行とが全く一致するのである。勿論注意の状態は意志の場合に限つた譯ではなく、その範圍が廣いやうであるが、普通に意志といふのは運動表象の體系に對する注意の状態である、換言すれば此の體系が意識を占領し、我々が之に純一となつた場合をいふのである。或は單に一表象に注意するのと之を意志の目的として見るのと違ふやうに思ふでもあらうが、そは其表象の屬する體系の差異である。凡て意識は體系的であつて、表象も決して孤獨では起らない、必ず何かの體系に屬して居る。同一の表象であつても、その屬する體系に由りて知識知對象ともなり又意志の目的ともなるのである。例へば、一杯の水を想起するにしても、單に外界の事情と聯想する時は知識的對象であるが、自己の運動と聯想せられた時は意志の目的となるのである。ゲーテが「意欲せざる天の星は美し」といつた樣に、いかなる者も自己運動の表象の系統に入り來らざる者は意志の目的とはならぬのである。我々の欲求は凡て過去の經驗の想起に因りて成立することは明なる事實である。其特徴たる強き感情と緊張の感覺とは、前者は運動表象の體系が我々に取りて最も強き生活本能に基づくのと、後者は運動に伴ふ筋覺に外ならぬのである。又單に運動を想起するのみではまだ直に之を意志するとまでいふことはできぬ樣であるが、そは未だ運動表象が全意識を占領せぬ故である、眞に之に純一となれば直に意志の決行となるのである。

 然らば運動表象の體系と知識表象の體系と如何なる差異があるであらうか。意識發達の始に遡りて見るとかくの如き區別があるのではない、我々の有機體は元來生命保存の爲に種々の運動をなす樣に作られて居る、意識はかくの如き本能的動作に副うて發生するので、知覺的なるよりも寧ろ衝動的なるのが其原始的状態である。然るに經驗の積むに從ひ種々の聯想ができるので、遂に知覺中樞を本とするのと運動中樞を本とするのと兩種の體系ができるやうになる。併しいかに兩體系が分化したといつても、全然別種の者となるのではない、純知識であつても何處かに實踐的意味を有つて居り、純意志であつても何等かの知識に基づいて居る。具象的精神現象は必ず兩方面を具へて居る、知識と意志とは同一現象をその著しき方面に由りて區別したのにすぎぬのである、つまり知覺は一種の衝動的意志であり、意志は一種の想起である。加之、記憶表象の純知識的なる者であつても、必ず多少の實踐的意味を有つて居らぬことはない、之に反し偶然に起る樣に思はれる意志であつても、何かの刺戟に基づいて居るのである。又意志は多く内より目的を以て進行するといふが、知覺であつても豫め目的を定めて之に感官を向ける事もできる、特に思惟の如きは盡く有意的であるといつてもよい。之に反し衝動的意志の如き者は全く受働的である。右の如く考へて見ると、運動表象と知識表象とは全く類を異にせるものではなく、意志と知識との區別も單に相對的であるといはねばならぬやうになる。意志の特徴である苦樂の情、緊張の感も、其程度は弱くとも、知的作用に必ず伴うて居る。知識も主觀的に見れば、内面的潛勢力の發展とも見ることができる、嘗つていつた樣に、意志も知識も潛在的或者の體系的發展と見做すことができるのである。勿論主觀と客觀とを分けて考へて見れば、知識に於ては我々は主觀を客觀に從へるが、意志に於ては客觀を主觀に從へるといふ區別もあるであらう。之を詳論するには主客の性質及關係を明にする必要もあるであらうが、余は此點に於ても知と意との間に共通の點があるのであらうと思ふ。知識的作用に於ては、我々は豫め一の假定を抱き之を事實に照らして見るのである、いかに經驗的研究であつても必ず先づ假定を有つて居なければならぬ、而して此の假定が所謂客觀と一致する時、之を眞理と信ずるのである、即ち眞理を知り得たのである。意志的動作に於ても、我は一の欲求を有つて居ても、直に之が意志の決行となるのではない、之を客觀的事實に鑒み、その適當にして可能なるを知つた時、始めて實行に移るのである。前者に於て我々は全然主觀を客觀に從へるが、後者に於ては客觀を主觀に從へるといふことができるであらうか。欲求は能く客觀と一致することに因りてのみ實現することができる、意志は客觀より遠ざかれば遠ざかる程無效となり、之に近づけば近づく程有效となるのである。我々が現實と離れた高き目的を實行しようと思ふ場合には種々の手段を考へ、之に因りて一歩一歩と進まねばならぬ、而してかく手段を考へるのは即ち客觀に調和を求めるのである、之に從ふのである、若し到底其手段を見出すことができぬならば、目的其者を變更するより外はなからう。之に反し目的が極めて現實に近かつた時には、飮食起臥の習慣的行爲の如く、欲求は直に實行となるのである、かゝる場合には主觀より働くのではなく、反つて客觀より働くとも見らるゝのである。

 かく意志に於て全然客觀を主觀に從へるといへないやうに、知識に於て主觀を客觀に從へるとはいはれぬ。自己の思想が客觀的眞理となつた時、即ちそが實在の法則であつて實在は之に由りて動くことを知つた時、我は我理想を實現し得たといふことができぬであらうか。思惟も一種の統覺作用であつて、知識的要求に基づく内面的意志である。我々が思惟の目的を達し得たのは一種の意志實現ではなからうか。唯兩者の異なるのは、一は自己の理想に從うて客觀的事實を變更し、一は客觀的事實に從うて自己の理想を變更するにあるのである。即ち一は作爲し一は見出すといつてよからう、眞理は我々の作爲すべき者ではなく、反つて之に從うて思惟すべき者であるといふのである。併し我々が眞理といつて居る者は果して全く主觀を離れて存する者であらうか。純粹經驗の立脚地より見れば、主觀を離れた客觀といふ者はない。眞理とは我々の經驗的事實を統一した者である、最も有力にして統括的なる表象の體系が客觀的眞理である。眞理を知るとか之に從ふとかいふのは、自己の經驗を統一する謂である、小なる統一より大なる統一にすゝむのである。而して我々の眞正な自己は此統一作用其者であるとすれば、眞理を知るといふのは大なる自己に從ふのである。大なる自己の實現である(ヘーゲルのいつた樣に、凡ての學問の目的は、精神が天地間の萬物に於て己自身を知るのである)。知識の深遠となるに從ひ自己の活動が大きくなる、之まで非自己であつた者も自己の體系の中に入つてくるやうになる。我々はいつでも個人的要求を中心として考へるから、知識に於て所働的であるやうに感ぜられるのであるが、若しこの意識的中心を變じて之を所謂理性的要求に置くならば、我々は知識に於ても能働的となるのである。スピノーザのいつた樣に知は力である。我々は常に過去の運動表象の喚起に由りて自由に身體を動かし得ると信じて居る。併し我々の身體も物體である、此點より見ては他の物體と變りはない。視覺にて外物の變化を知るのも、筋覺にて自己の身體の運動を感ずるのも同一である、外界といへば兩者共に外界である。然るに何故に他物とは違つて、自己の身體だけは自己が自由に支配することができると考へ得るのであらうか。我々は普通に運動表象をば、一方に於て我々の心像であると共に一方に於て外界の運動を起す原因となると考へて居るが、純粹經驗の立脚地より見れば、運動表象に由りて身體の運動を起すといふも、或豫期的運動表象に直に運動感覺を伴ふといふにすぎない、此點に於ては凡て豫期せられた外界の變化が實現せられるのと同一である。實際、原始的意識の状態では自己の身體の運動と外物の運動とは同一であつたであらうと思ふ、唯經驗の進むにつれて此二者が分化したのである。即ち種々なる約束の下に起る者が外界の變化と見られ、豫期的表象にすぐに從ふ者が自己の運動と考へられるやうになつたのである。併し固より此區別は絶對的でないのであるから、自己の運動であつても少しく複雜なる者は豫期的表象に直に從ふことはできぬ、此場合に於ては意志の作用は著しく知識の作用に近づいてくるのである。要するに、外界の變化といつて居る者も、その實は我々の意識界即ち純粹經驗内の變化であり、又約束の有無といふことも程度の差であるとすれば、知識的實現と意志的實現とは畢竟同一性質の者となつてくる。或は意志的運動に於ては豫期的表象は單に之に先だつのでなく、其者が直に運動の原因となるのであるが、外界の變化に於ては知識的なる豫期表象其者が變化の原因となるのではないといふかも知れぬが、元來、因果とは意識現象の不變的連續である、假に意識を離れて全然獨立の外界なる者があるとするならば、意志に於ても意識的なる豫期表象が直に外界に於ける運動の原因とはいはれまい、單に兩現象が平行するといふまででなければならぬ。かく見れば意志的豫期表象の運動に對する關係は知識的豫期表象の外界に對する關係と同一になる。實際、意志的豫期表象と身體の運動とは必ずしも相伴ふのではない、やはり或約束の下に伴ふのである。

 又我々は普通に意志は自由であるといつて居る。併し所謂自由とは如何なることをいふのであらうか。元來我々の欲求は我々に與へられた者であつて、自由に之を生ずることはできない。唯或與へられた最深の動機に從うて働いた時には、自己が能働であつて自由であつたと感ぜられるのである、之に反し、かゝる動機に反して働いた時は強迫を感ずるのである、これが自由の眞意義である。而してこの意味に於ての自由は單に意識の體系的發展と同意義であつて、知識に於ても同一の場合には自由であるといふことができる。我々はいかなる事をも自由に欲することができるやうに思ふが、そは單に可能であるといふ迄である、實際の欲求は其時に與へられるのである、或一の動機が發展する場合には次の欲求を豫知することができるかも知れぬが、然らざれば次の瞬間に自己が何を欲求するか之を豫知することもできぬ。要するに我が欲求を生ずるといふよりは寧ろ現實の動機が即ち我である。普通には欲求の外に超然たる自己があつて自由に動機を決定するやうにいふのであるが、斯の如き神祕力のないのはいふまでもなく、若しかかる超然的自己の決定が存するならば、それは偶然の決定であつて、自由の決定とは思はれぬのである。

 上來論じ來つた樣に、意志と知識との間には絶對的區別のあるのではなく、その所謂區別とは多く外より與へられた獨斷にすぎないのである。純粹經驗の事實としては意志と知識との區別はない、共に一般的或者が體系的に自己を實現する過程であつて、その統一の極致が眞理であり兼ねて又實行であるのである。嘗ていつた知覺の連續のやうな場合では、未だ知と意と分れて居らぬ、眞に知即行である。唯意識の發展につれて、一方より見れば種々なる體系の衝突の爲、一方より見れば更に大なる統一に進む爲、理想と事實との區別ができ、主觀界と客觀界とが分れてくる、そこで主より客に行くのが意で、客より主に來るのが知であるといふやうな考も出てくる。知と意との區別は主觀と客觀とが離れ、純粹經驗の統一せる状態を失つた場合に生ずるのである。意志に於ける欲求も知識に於ける思想も共に理想が事實と離れた不統一の状態である。思想といふのも我々が客觀的事實に對する一種の要求である、所謂眞理とは事實に合うた實現し得べき思想といふことであらう。此點より見れば事實に合うた實現し得べき欲求と同一といつてよい、唯前者は一般的で、後者は個人的なるの差があるのである。それで意志の實現とか眞理の極致とかいふのは此不統一の状態から純粹經驗の統一の状態に達するの謂である。意志の實現をかく考へるのは明であるが、眞理をもかく考へるには多少の説明を要するであらう。如何なる者が眞理であるかといふに就いては種々の議論もあるであらうが、余は最も具體的なる經驗の事實に近づいた者が眞理であると思ふ。往々眞理は一般的であるといふ、もしその意味が單に抽象的共通といふことであれば、かゝる者は反つて眞理と遠ざかつたものである。眞理の極致は種々の方面を綜合する最も具體的なる直接の事實其者でなければならぬ。この事實が凡ての眞理の本であつて、所謂眞理とは之より抽象せられ、構成せられた者である。眞理は統一にあるといふが、その統一とは抽象概念の統一をいふのではない、眞の統一はこの直接の事實にあるのである。完全なる眞理は個人的であり、現實的である。それ故に完全なる眞理は言語に云ひ現はすべき者ではない、所謂科學的眞理の如きは完全なる眞理とはいへないのである。

 凡て眞理の標準は外にあるのではなく、反つて我々の純粹經驗の状態にあるのである、眞理を知るといふのはこの状態に一致するのである。數學などの樣な抽象的學問といはれて居る者でも、その基礎たる原理は我々の直覺即ち直接經驗にあるのである。經驗には種々の階級がある、嘗ていつた樣に、關係の意識をも經驗の中に入れて考へて見ると、數學的直覺の如き者も一種の經驗である。かく種々の直接經驗があるならば、何に由りて其眞僞を定むるかの疑も起るであらうが、そは二つの經驗が第三の經驗の中に包容せられた時、この經驗に由りて之を決することができる。兎に角直接經驗の状態に於て、主客相沒し、天地唯一の現實、疑はんと欲して疑ふ能はざる處に眞理の確信があるのである。一方に於て意志の活動といふことを考へて見るとやはり此の如き直接經驗の現前即ち意識統一の成立をいふにすぎぬ。一の欲求の現前は單に表象の現前と同じく直接經驗の事實である。種々の欲求の爭の後一つの決斷ができたのは、種々思慮の後一の判斷ができた樣に、一の内面約統一が成立したのである。意志が外界に實現されたといふ時は、學問上自己の考が實驗に由りて證明せられた場合の樣に、主客の別を打破した最も統一せる直接經驗の現前したのである。或は意識内の統一は自由であるが、外界との統一は自然に從はねばならぬと云ふが、内界の統一であつても自由ではない、統一は凡て我々に與へられる者である、純粹經驗より見れば内外などの區別も相對的である。意志の活動とは單に希望の状態ではない、希望は意識不統一の状態であつて、反つて意志の實現が妨げられた場合である、唯意識統一が意志活動の状態である。たとひ現實が自己の眞實の希望に反して居ても、現實に滿足し之に統一なる時は、現實が意志の實現である。之に反し、いかに完備した境遇であつても、他に種々の希望があつて現實が不統一の状態であつた時には、意志が妨げられて居るのである。意志の活動と否とは純一と不純一、即ち統一と不統一とに關するのである。

 例へば此處に一本のペンがある。之を見た瞬間は、知といふこともなく、意といふこともなく、唯一個の現實である。之に就いて種々の聯想が起り、意識の中心が推移し、前の意識が對象視せられた時、前意識は單に知識的となる。之に反し、このペンは文字を書くべきものだといふ樣な聯想が起る。この聯想が尚前意識の縁暈として之に附屬して居る時は知識であるが、この聯想的意識其者が獨立に傾く時、即ち意識中心が之に移らうとした時は欲求の状態となる。而して此聯想的意識が愈々獨立の現實となつた時が意志であり、兼ねて又眞に之を知つたといふのである。何でも現實に於ける意識體系の發展する状態を意志の作用といふのである。思惟の場合でも、或問題に注意を集中して之が解決を求むる所は意志である。之に反し茶をのみ酒をのむといふ樣なことでも、之だけの現實ならば意志であるが、其味をためすといふ意識が出て來て之が中心となるならば知識となる、而してこのためすといふ意識其者がこの場合に於て意志である。意志といふのは普通の知識といふ者よりも一層根本的なる意識體系であつて統一の中心となる者である。知と意との區別は意識の内容にあるのではなく、その體系内の地位に由りて定まつてくるのであると思ふ。

 理性と欲求とは一見相衝突するやうであるが、其實は兩者同一の性質を有し、唯大小深淺の差あるのみであると思ふ。我々が理性の要求といつて居る者は更に大なる統一の要求である、即ち個人を超越せる一般的意識體系の要求であつて、反つて大なる超個人的意志の發現とも見ることができる。意識の範圍は決して所謂個人の中に限られて居らぬ、個人とは意識の中の一小體系にすぎない。我々は普通に肉體生存を核とせる小體系を中心として居るが、若し、更に大なる意識體系を中軸として考へて見れば、此の大なる體系が自己であり、其發展が自己の意志實現である。例へば熱心なる宗教家、學者、美術家の如き者である。「かくなければならぬ」といふ理性の法則と、單に「余はかく欲する」といふ意志の傾向とは全く相異なつて見えるが、深く考へて見ると其根柢を同じうする者であると思ふ。凡て理性とか法則とかいつて居る者の根本には意志の統一作用が働いて居る、シラーなどが論じて居る樣に、公理axiomといふやうな者でも元來實用上より發達した者であつて、其發生の方法に於ては單なる我々の希望と異なつて居らぬ(Sturt, Personal Idealism, p. 92)。飜つて我々の意志の傾向を見るに、無法則の樣ではあるが、自ら必然の法則に支配せられて居るのである(個人的意識の統一である)。右の二者は共に意識體系の發展の法則であつて、唯其效力の範圍を異にするのみである。又或は意志は盲目であるといふので理性と區別する人もあるが、何ごとにせよ我々に直接の事實であるものは説明できぬ、理性であつても其根本である直覺的原理の説明はできぬ。説明とは一の體系の中に他を包容し得るの謂である。統一の中軸となる者は説明はできぬ、兎に角其場合は盲目である。

     第四章 知的直觀

 余が此處に知的直觀intellektuelle Anschauungといふのは所謂理想的なる、普通に經驗以上といつて居る者の直覺である。辯證的に知るべき者を直覺するのである、例へば美術家や宗教家の直覺の如き者をいふのである。直覺といふ點に於ては普通の知覺と同一であるが、其内容に於ては遙に之より豐富深遠なるものである。

 知的直觀といふことは或人には一種特別の神祕的能力の樣に思はれ、また或人には全く經驗的事實以外の空想のやうに思はれて居る。併し余は之と普通の知覺とは同一種であつて、其間にはつきりした分界線を引くことはできないと信ずる。普通の知覺であつても、前にいつた樣に、決して單純ではない必ず構成的である、理想的要素を含んで居る。余が現在に見て居る物は現在の儘を見て居るのではない、過去の經驗の力に由りて説明的に見て居るのである。この理想的要素は單に外より加へられた聯想といふ樣なものではなく、知覺其者を構成する要素となつて居る、知覺其者が之に由りて變化せられるのである。この直覺の根柢に潛める理想的要素は何處までも豐富、深遠となることができる。各人の天賦により、又同一の人でもその經驗の進歩に由りて異なつてくるのである。始は經驗のできなかつた事又は辯證的に漸くに知り得た事も、經驗の進むに從ひ直覺的事實として現はれてくる、この範圍は自己の現在の經驗を標準として限定することはできぬ、自分ができぬから人もできぬといふことはない。モツァルトは樂譜を作る場合に、長き譜にても、畫や立像のやうに、その全體を直視することができたといふ、單に數量的に擴大せられるのでなく、性質的に深遠となるのである、例へば我々の愛に由りて彼我合一の直覺を得ることができる宗教家の直覺の如きはその極致に達したものであらう。或人の超凡的直覺が單に空想であるか、將た眞に實在の直覺であるかは他との關係即ち其效果如何に由つて定まつてくる。直接經驗より見れば、空想も眞の直覺も同一の性質をもつて居る、唯其統一の範圍に於て大小の別あるのみである。

 或人は知的直觀がその時間、空間、個人を超越し、實在の眞相を直視する點に於て普通の知覺と其類を異にすると考へて居る。併し前にもいつた樣に、嚴密なる純粹經驗の立場より見れば、經驗は時間、空間、個人等の形式に拘束せられるのではなく、此等の差別は反つて此等を超越せる直覺に由りて成立するものである。又實在を直視すると云ふも、凡て直接經驗の状態に於ては主客の區別はない、實在と面々相對するのである、獨り知的直觀の場合にのみ限つた譯ではない、シェルリングの同一Identit\"atは直接經驗の状態である。主客の別は經驗の統一を失つた場合に起る相對的形式である、之を互に獨立せる實在と見做すのは獨斷にすぎないのである。ショーペンハウエルの意志なき純粹直覺と云ふものも天才の特殊なる能力ではない、反つて我々の最も自然にして統一せる意識状態である、天眞瀾漫なる嬰兒の直覺は凡て此種に屬するのである。それで知的直觀とは我々の純粹經驗の状態を一層深く大きくした者にすぎない、即ち意識體系の發展上に於ける大なる統一の發現をいふのである。學者の新思想を得るのも、道徳家の新動機を得るのも、美術家の新理想を得るのも、宗教家の新覺醒を得るのも凡て斯かる統一の發現に基づくのである(故に凡て神祕的直覺に基づくのである)。我々の意識が單に感官的性質のものならば、普通の知覺的直覺の状態に止まるのであらう、併し理想的なる精神は無限の統一を求める、而して此統一は所謂知的直觀の形に於て與へられたのである。知的直觀とは知覺と同じく意識の最も統一せる状態である。

 普通の知覺が單に受働的と考へられて居る樣に、知的直觀も亦單に受働的觀照の状態と考へられて居る。併し眞の知的直觀とは純粹經驗に於ける統一作用其者である、生命の捕捉である、即ち技術の骨の如き者、一層深く云へば美術の精神の如き者がそれである。例へば畫家の興來り筆自ら動く樣に複雜なる作用の背後に統一的或者が働いて居る。その變化は無意識の變化ではない、一つの物の發展完成である。この一物の會得が知的直觀であつて、而もかゝる直覺は獨り高尚なる藝術の場合のみではなく、すべて我々の熟練せる行動に於ても見る所の極めて普通の現象である。普通の心理學は單に習慣であるとか、有機的作用であるとかいふであらうが、純粹經驗説の立場より見れば、こは實に主客合一、知意融合の状態である。物我相忘じ、物が我を動かすのでもなく、我が物を動かすのでもない、たゞ一の世界、一の光景あるのみである。知的直觀といへば主觀的作用の樣に聞えるのであるが、その實は主客を超越した状態である、主客の對立は寧ろこの統一に由りて成立するといつてよい、藝術の神來の如きものは皆此境に達するのである。又知的直觀とは事實を離れたる抽象的一般性の直覺をいふのではない。畫の精神は描かれたる個々の事物と異なれども又之を離れてあるのではない。嘗ていつた樣に、眞の一般と個性とは相反する者でない、個性的限定に由りて反つて眞の一般を現はすことができる、藝術家の精巧なる一刀一筆は全體の眞意を現はすが爲である。

 知的直觀を右の如く考へれば、思惟の根柢には知的直觀なる者の横はつて居ることは明である。思惟は一種の體系である、體系の根柢には統一の直覺がなければならぬ。之を小にしては、ジェームスが「意識の流」に於ていつて居る樣に、「骨牌の一束が机上にある」といふ意識に於て、主語が意識せられた時客語が暗に含まれて居り、客語が意識せられた時主語が暗に含まれて居る、つまり根柢に一つの直覺が働いて居るのである。余は此の統一的直覺は技術の骨と同一性質のものであると考へる。又之を大にしては、プラトー、スピノーザの哲學の如き凡て偉大なる思想の背後には大なる直覺が働いて居るのである。思想に於て天才の直覺といふも、普通の思惟といふも唯量に於て異なるので、質に於て異なるのではない、前者は新にして深遠なる統一の直覺にすぎないのである。凡ての關係の本には直覺がある、關係は之に由りて成立するのである。我々がいかに縱横に思想を馳せるとも、根本的直覺を超出することはできぬ、思想は此上に成立するのである。思想は何處までも説明のできる者ではない、其根柢には説明し得べからざる直覺がある、凡ての證明は此上に築き上げられるのである。思想の根柢にはいつでも神祕的或者が潛んで居るのである、幾何學の公理の如き者すらこの一種である。往々思想は説明ができるが、直覺は説明ができぬといふが、説明と云ふのは更に根本的なる直覺に攝歸し得るといふ意味にすぎないのである。此思想の根本的直覺なる者は一方に於て説明の根柢となると同時に、單に靜學的なる思想の形式ではなく一方に於て思惟の力となる者である。

 思惟の根柢に知的直觀がある樣に、意志の根柢にも知的直觀がある。我々が或事を意志するといふのは主客合一の状態を直覺するので、意志はこの直覺に由りて成立するのである。意志の進行とはこの直覺的統一の發展完成であつて、其根柢には始終此の直覺が働いて居る、而してその完成した所が意志の實現となるのである。我々が意志に於て自己が活動すると思ふのはこの直覺あるの故である。自己といつて別にあるのではない。眞の自己とはこの統一的直覺をいふのである。それで古人も終日なして而も行せずといつたが、若し此の直覺より見れば動中に靜あり、爲して而も爲さずと云ふことができる。又かく知と意とを超越し、而もこの二者の根本となる直覺に於て、知と意との合一を見出すこともできる。

 眞の宗教的覺悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、又單に盲目的感情でもない、知識及意志の根柢に横はれる深遠なる統一を自得するのである、即ち一種の知的直觀である、深き生命の捕捉である。故にいかなる論理の刃も之に向ふことはできず、いかなる欲求も之を動かすことはできぬ、凡ての眞理及滿足の根本となるのである。その形は種々あるべけれど、凡ての宗教の本には此の根本的直覺がなければならぬと思ふ。學問道徳の本には宗教がなければならぬ、學問道徳は之に由りて成立するのである。

    第二編 實在

     第一章 考究の出立點

 世界はこの樣なもの、人生はこの樣なものといふ哲學的世界觀及び人生觀と、人間はかくせねばならぬ、かゝる處に安心せねばならぬといふ道徳宗教の實踐的要求とは密接の關係を持つて居る。人は相容れない知識的確信と實踐的要求とをもつて滿足することはできない。たとへば高尚なる精神的要求を持つて居る人は唯物論に滿足ができず、唯物論を信じて居る人は、いつしか高尚なる精神的要求に疑を抱く樣になる。元來眞理は一である。知識に於ての眞理は直に實踐上の眞理であり、實踐上の眞理は直に知識に於ての眞理でなければならぬ。深く考へる人、眞摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むる樣になる。我々は何を爲すべきか、何處に安心すべきかの問題を論ずる前に、先づ天地人生の眞相は如何なる者であるか、眞の實在とは如何なる者なるかを明にせねばならぬ。

 哲學と宗教と最も能く一致したのは印度の哲學、宗教である。印度の哲學、宗教では知即善で迷即惡である。宇宙の本體はブラハマンBrahmanでブラハマンは吾人の心即アートマンAtmanである。此ブラハマン即アートマンなることを知るのが、哲學及宗教の奧義であつた。基督教は始め全く實踐的であつたが、知識的滿足を求むる人心の要求は抑へ難く、遂に中世の基督教哲學なる者が發達した。支那の道徳には哲學的方面の發達が甚だ乏しいが、宋代以後の思想は頗る此の傾向がある。此等の事實は皆人心の根柢には知識と情意との一致を求むる深き要求のある事を證明するのである。歐州の思想の發達に就いて見ても、古代の哲學でソクラテース、プラトーを始とし教訓の目的が主となつて居る。近代に於て知識の方が特に長足の進歩をなすと共に知識と情意との統一が困難になり、此の兩方面が相分れる樣な傾向ができた。併しこれは人心本來の要求に合うた者ではない。

 今若し眞の實在を理解し、天地人生の眞面目を知らうと思うたならば、疑ひうるだけ疑つて、凡ての人工的假定を去り、疑ふにももはや疑ひ樣のない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には心なる物があつて色々の働をなす樣に考へて居る。又此考が凡ての人の行爲の基礎ともなつて居る。併し物心の獨立的存在などといふことは我々の思惟の要求に由りて假定したまでで、いくらも疑へば疑ひうる餘地があるのである。其外科學といふ樣な者も、何か假定的知識の上に築き上げられた者で、實在の最深なる説明を目的とした者ではない。又之を目的として居る哲學の中にも充分に批判的でなく、在來の假定を基礎として深く疑はない者が多い。

 物心の獨立的存在といふことが直覺的事實であるかの樣に考へられて居るが、少しく反省して見ると直にその然らざることが明になる。今目前にある机とは何であるか、其色其形は眼の感覺である、之に觸れて抵抗を感ずるのは手の感覺である。物の形状、大小、位置、運動といふ如きことすら、我々が直覺する所の者は凡て物其者の客觀的状態ではない。我等の意識を離れて物其者を直覺することは到底不可能である。自分の心其者に就いて見ても右の通りである。我々の知る所は知情意の作用であつて、心其者でない。我々が同一の自己があつて始終働くかの樣に思ふのも、心理學より見れば同一の感覺及感情の連續にすぎない、我々の直覺的事實として居る物も心も單に類似せる意識現象の不變的結合といふにすぎぬ。唯我々をして物心其者の存在を信ぜしむるのは因果律の要求である。併し因果律に由りて果して意識外の存在を推すことができるかどうか、これが先づ究明すべき問題である。

 さらば疑ふにも疑ひ樣のない直接の知識とは何であるか。そは唯我々の直覺的經驗の事實即ち意識現象に就いての知識あるのみである。現前の意識現象と之を意識するといふこととは直に同一であつて、其間に主觀と客觀とを分つこともできない。事實と認識の間に一毫の間隙がない。眞に疑ふに疑ひ樣がないのである。勿論、意識現象であつても之を判定するとか之を想起するとかいふ場合では誤に陷ることもある。併し此時はもはや直覺ではなく、推理である。後の意識と前の意識とは別の意識現象である、直覺といふは後者を前者の判斷として見るのではない、唯ありのまゝの事實を知るのである。誤るとか誤らぬとかいふのは無意義である。斯の如き直覺的經驗が基礎となつて、其上に我々の凡ての知識が築き上げられねばならぬ。

 哲學が傳來の假定を脱し、新に確固たる基礎を求むる時には、いつでもかゝる直接の知識に還つてくる。近世哲學の始に於てベーコンが經驗を以て凡ての知識の本としたのも、デカートが「余は考ふ故に余在り」cogito ergo sumの命題を本として、之と同じく明瞭なるものを眞理としたのも之に由るのである。併しベーコンの經驗といつたのは純粹なる經驗ではなく、我々は之に由りて意識外の事實を直覺しうるといふ獨斷を伴うた經驗であつた。デカートが余は考ふ故に余在りといふのは已に直接經驗の事實ではなく、已に余ありといふことを推理して居る。又明瞭なる思惟が物の本體を知りうるとなすのは獨斷である。カント以後の哲學に於ては疑ふ能はざる眞理として直に之を受取ることはできぬ。余が此處に直接の知識といふのは凡て此等の獨斷を去り、唯直覺的事實として承認するまでである(勿論ヘーゲルを始め諸の哲學史家のいつて居る樣に、デカートの「余は考ふ故に余在り」は推理ではなく、實在と思惟との合一せる直覺的確實をいひ現はしたものとすれば、余の出立點と同一になる)。

 意識上に於ける事實の直覺、即ち直接經驗の事實を以て凡ての知識の出立點となすに反し、思惟を以て最も確實なる標準となす人がある。此等の人は物の眞相と假相とを分ち、我々が直覺的に經驗する事實は假相であつて、唯思惟の作用に由つて眞相を明にすることができるといふ。勿論此の中でも常識又は科學のいふのは全く直覺的經驗を排するのではないが、或一種の經驗的事實を以て物の眞となし、他の經驗的事實を以て僞となすのである。例へば日月星辰は小さく見ゆるが其實は非常に大なるものであるとか、天體は動く樣に見ゆるが其の實は地球が動くのであるといふ樣なことである。併しかくの如き考は或約束の下に起る經驗的事實を以て、他の約束の下に起る經驗的事實を推すより起るのである。各其約束の下では動かすべからざる事實である。同一の直覺的事實であるのに、何故其一が眞であつて他が僞であるか。此の如き考の起るのは、つまり觸覺が他の感覺に比して一般的であり且つ實地上最も大切なる感覺であるから、此の感覺より來る者を物の眞相となすに由るので、少しく考へて見れば直にその首尾貫徹せぬことが明になる。或一派の哲學者に至つては之と違ひ、經驗的事實を以て全く假相となし、物の本體は唯思惟に由りて知ることができると主張するのである。併し假に我々の經驗のできない超經驗的實在があるとした所で、かくの如き者が如何にして思惟に由つて知ることができるか。我々の思惟の作用といふのも、やはり意識に於て起る意識現象の一種であることは何人も拒むことができまい。若し我々の經驗的事實が物の本體を知ることができぬとなすならば、同一の現象である思惟も、やはり之ができない筈である。或人は思惟の一般性、必然性を以て眞實在を知る標準とすれど、此等の性質もつまり我々が自己の意識上に於て直覺する一種の感情であつて、やはり意識上の事實である。

 我々の感覺的知識を以て凡て誤となし、唯思惟を以てのみ物の眞相を知りうるとなすのはエレヤ學派に始まり、プラトーに至つて其頂點に達した。近世哲學にてはデカート學派の人は皆明確なる思惟に由りて實在の眞相を知り得るものと信じた。

 思惟と直覺とは全く別の作用であるかの樣に考へられて居るが、單に之を意識上の事實として見た時は同一種の作用である。直覺とか經驗とかいふのは、個々の事物を他と關係なくその儘に知覺する純粹の受働的作用であつて、思惟とは之に反し事物を比較し判斷し其關係を定むる能働的作用と考へられて居るが、實地に於ける意識作用としては全く受働的作用なる者があるのではない。直覺は直に直接の判斷である。余が曩に假定なき知識の出立點として直覺といつたのは此の意義に於て用ひたのである。

 上來直覺といつたのは單に感覺とかいふ作用のみをいふのではない。思惟の根柢にも常に統一的或者がある。之は直覺すべき者である。判斷は此分析より起るのである。

     第二章 意識現象が唯一の實在である

 少しの假定も置かない直接の知識に基づいて見れば、實在とは唯我々の意識現象即ち直接經驗の事實あるのみである。この外に實在といふのは思惟の要求よりいでたる假定にすぎない。已に意識現象の範圍を脱せぬ思惟の作用に、經驗以上の實在を直覺する神祕的能力なきは言ふまでもなく、此等の假定は、つまり思惟が直接經驗の事實を系統的に組織する爲に起つた抽象的概念である。

 凡ての獨斷を排除し、最も疑なき直接の知識より出立せんとする極めて批判的の考と、直接經驗の事實以外に實在を假定する考とは、どうしても兩立することはできぬ。ロック、カントの如き大哲學者でも此の兩主義の矛盾を免れない。余は今凡ての假定的思想を棄てゝ嚴密に前の主義を取らうと思ふのである。哲學史の上に於て見ればバークレー、フィヒテの如きは此の主義をとつた人と思ふ。

 普通には我々の意識現象といふのは、物體界の中特に動物の神經系統に伴ふ一種の現象であると考へられて居る。併し少しく反省して見ると、我々に最も直接である原始的事實は意識現象であつて、物體現象ではない。我々の身體もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。意識が身體の中にあるのではなく、身體は反つて自己の意識の中にあるのである。神經中樞の刺戟に意識現象が伴ふといふのは、一種の意識現象は必ず他の一種の意識現象に伴うて起るといふにすぎない。若し我々が直接に自己の腦中の現象を知り得るものとせば、所謂意識現象と腦中の刺戟との關係は、丁度耳には音と感ずる者が眼や手には絲の震動と感ずると同一であらう。

 我々は意識現象と物體現象と二種の經驗的事實があるやうに考へて居るが、其實は唯一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物體現象といふのは其中で各人に共通で不變的關係を有する者を抽象したのにすぎない。

 又普通には、意識の外に或定まつた性質を具へた物の本體が獨立に存在し、意識現象は之に基づいて起る現象にすぎないと考へられて居る。併し意識外に獨立固定せる物とは如何なる者であるか。嚴密に意識現象を離れては物其者の性質を想像することはできぬ。單に或一定の約束の下に一定の現象を起す不知的の或者といふより外にない。即ち我々の思惟の要求に由つて想像したまでである。然らば思惟は何故にかゝる物の存在を假定せねばならぬか。唯類似した意識現象がいつも結合して起るといふにすぎない。我々が物といつて居る者の眞意義はかくの如くである。純粹經驗の上より見れば、意識現象の不變的結合といふのが根本的事實であつて、物の存在とは説明の爲に設けられた假定にすぎぬ。

 所謂唯物論者なる者は、物の存在といふことを疑のない直接自明の事實であるかの樣に考へて、之を以て精神現象をも説明せうとして居る。併し少しく考へて見ると、こは本末を轉倒して居るのである。

 それで純粹經驗の上から嚴密に考へて見ると、我々の意識現象の外に獨立自全の事實なく、バークレーのいつた樣に眞に有即知esse=percipiである。我々の世界は意識現象の事實より組み立てられてある。種々の哲學も科學も皆此事實の説明にすぎない。

 余が此處に意識現象といふのは或は誤解を生ずる恐がある。意識現象といへば、物體と分れて精神のみ存するといふことに考へられるかも知れない。余の眞意では眞實在とは意識現象とも物體現象とも名づけられない者である。又バークレーの有即知といふも余の眞意に適しない。直接の實在は受働的の者でない、獨立自全の活動である。有即活動とでも云つた方がよい。

 右の考は、我々が深き反省の結果としてどうしても此處に到らねばならぬのであるが、一見我々の常識と非常に相違するばかりでなく、之に由りて宇宙の現象を説明せうとすると種々の難問に出逢ふのである。併し此等の難問は、多くは純粹經驗の立脚地を嚴密に守るより起つたといふよりも、寧ろ純粹經驗の上に加へた獨斷の結果であると考へる。

 かくの如き難問の一は、若し意識現象をのみ實在とするならば、世界は凡て自己の觀念であるといふ獨知論に陷るではないか。又はさなくとも、各自の意識が互に獨立の實在であるならば、いかにして其間の關係を説明することができるかといふことである。併し意識は必ず誰かの意識でなければならぬといふのは、單に意識には必ず統一がなければならぬといふの意にすぎない。若しこれ以上に所有者がなければならぬとの考ならば、そは明に獨斷である。然るに此統一作用即ち統覺といふのは、類似せる觀念感情が中樞となつて意識を統一するといふまでであつて、此の意識統一の範圍なる者が、純粹經驗の立場より見て、彼我の間に絶對的分別をなすことはできぬ。若し個人的意識に於て、昨日の意識と今日の意識とが獨立の意識でありながら、その同一系統に屬するの故を以て一つの意識と考へることができるならば、自他の意識の間にも同一の關係を見出すことができるであらう。

 我々の思想感情の内容は凡て一般的である。幾千年を經過し幾千里を隔てゝ居ても思想感情は互に相通ずることができる。例へば數理の如き者は誰が何時何處に考へても同一である。故に偉大なる人は幾多の人を感化して一團となし、同一の精神を以て支配する。此時此等の人の精神を一と見做すことができる。

 次に意識現象を以て唯一の實在となすについて解釋に苦むのは、我々の意識現象は固定せる物ではなく、始終變化する出來事の連續であつて見れば、此等の現象は何處より起り、何處に去るかの問題である。併し此の問題もつまり物には必ず原因結果がなければならぬといふ因果律の要求より起るのであるから、此の問題を考ふる前に、先づ因果律の要求とは如何なる者であるかを攻究せねばならぬ。普通には因果律は直に現象の背後に於ける固定せる物其者の存在を要求する樣に考へて居るが、そは誤である。因果律の正當なる意義はヒュームのいつた樣に、或現象の起るには必ず之に先だつ一定の現象があるといふまでであつて、現象以上の物の存在を要求するのではない。一現象より他の現象を生ずるといふのは、一現象が現象の中に含まれて居つたのでもなく、又何處か外に潛んで居つたのが引き出されるのでもない。唯充分なる約束即ち原因が具備した時は必ず或現象即ち結果が生ずるといふのである。約束がまだ完備しない時之に伴ふべき或現象即ち結果なる者は何處にもない。例へば石を打つて火を發する以前に、火は何處にもないのである。或は之を生ずる力があるといふでもあらうが、前にいつた樣に、力とか物とかいふのは説明の爲に設けられた假定であつて、我々の直接に知る所では、唯火と全く異なつた或現象があるのみである。それで或現象に或現象が伴ふといふのが我々に直接に與へられたる根本的事實であつて、因果律の要求は反つて此の事實に基づいて起つたものである。然るに此事實と因果律とが矛盾する樣に考ふるのは、つまり因果律の誤解より起るのである。

 因果律といふのは、我々の意識現象の變化を本として、之より起つた思惟の習慣であることは、此の因果律に由りて宇宙全體を説明せうとすると、すぐに自家撞着に陷るのを以て見ても分る。因果律は世界に始がなければならぬと要求する。併し若し何處かを始と定むれば因果律は更に其原因は如何と尋ねる、即ち自分で自分の不完全なることを明にして居るのである。

 終りに、無より有を生ぜぬといふ因果律の考に就いても一言して置かう。普通の意味に於て物がないといつても、主客の別を打破したる直覺の上より見れば、やはり無の意識が實在して居るのである。無といふのを單に語でなく之に何か具體的の意味を與へて見ると、一方では或性質の缺乏といふことであるが、一方には何等かの積極的性質をもつて居る(例へば心理學からいへば黒色も一種の感覺である)。それで物體界にて無より有を生ずると思はれることも、意識の事實として見れば無は眞の無でなく、意識發展の或一契機であると見ることができる。さらば意識に於ては如何、無より有を生ずることができるか。意識は時、場所、力の數量的限定の下に立つべき者ではなく、從つて機械的因果律の支配を受くべき者ではない。此等の形式は反つて意識統一の上に成立するのである。意識に於ては凡てが性質的であつて、潛勢的一者が己自身を發展するのである。意識はヘーゲルの所謂無限das Unendlicheである。

 此處に一種の色の感覺があるとしても、此中に無限の變化を含んで居るといへる、即ち我々の意識が精細となりゆけば、一種の色の中にも無限の變化を感ずる樣になる。今日我々の感覺の差別も斯くして分化し來れるものであらう。ヴントは感覺の性質を次元に併べて居るが(Wundt, Grundriss der Psychologie, §5)、元來一の一般的なる者が分化して出來たのであるから、かゝる體系があるのだと思ふ。

     第三章 實在の眞景

 我々がまだ思惟の細工を加へない直接の實在とは如何なる者であるか。即ち眞に純粹經驗の事實といふのは如何なる者であるか。此時にはまだ主客の對立なく、知情意の分離なく、單に獨立自全の純活動あるのみである。

 主知説の心理學者は、感覺及觀念を以て精神現象の要素となし、凡ての精神現象は此等の結合より成る者と考へて居る。かく考へれば、純粹經驗の事實とは、意識の最受働的なる状態即ち感覺であるといはねばならぬ。併し此の如き考は學問上分析の結果として出來た者を、直接經驗の事實と混同したものである。我々の直接經驗の事實に於ては純粹感覺なる者はない。我々が純粹感覺といつて居る者も已に簡單なる知覺である。而して知覺は、いかに簡單であつても決して全く受働的でない、必ず能働的即ち構成的要素を含んで居る(此事は空間的知覺の例を見ても明である)。聯想とか思惟とか複雜なる知的作用に至れば、尚一層此方面が明瞭となるので、普通に聯想は受働的であるといふが、聯想に於ても觀念聯合の方向を定むる者は單に外界の事情のみでは無く、意識の内面的性質に由るのである。聯想と思惟との間には唯程度の差あるのみである。元來我々の意識現象を知情意と分つのは學問上の便宜に由るので、實地に於ては三種の現象あるのではなく、意識現象は凡て此方面を具備して居るのである(例へば學問的研究の如く純知的作用といつても、決して情意を離れて存在することはできぬ)。併し此三方面の中、意志がその最も根本的なる形式である。主意説の心理學者のいふ樣に、我々の意識は始終能働的であつて、衝動を以て始まり意志を以て終るのである。それで我々に最も直接なる意識現象はいかに簡單であつても意志の形を成して居る。即ち意志が純粹經驗の事實であるといはねばならぬ。

 從來の心理學は主として主知説であつたが、近來は漸々主意説が勢力を占める樣になつた。ヴントの如きはその巨擘である。意識はいかに單純であつても必ず構成的である。内容の對照といふのは意識成立の一要件である。若し眞に單純なる意識があつたならば、そは直に無意識となるのである。

 純粹經驗に於ては未だ知情意の分離なく、唯一の活動である樣に、又未だ主觀客觀の對立もない。主觀客觀の對立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接經驗の事實ではない。直接經驗の上に於ては唯獨立自全の一事實あるのみである、見る主觀もなければ見らるゝ客觀もない。恰も我々が美妙なる音樂に心を奪はれ、物我相忘れ、天地唯嚠喨たる一樂聲のみなるが如く、此刹那所謂眞實在が現前して居る。之を空氣の振動であるとか、自分が之を聽いて居るとかいふ考は、我々が此の實在の眞景を離れて反省し思惟するに由つて起つてくるので、此時我々は已に眞實在を離れて居るのである。

 普通には主觀客觀を別々に獨立しうる實在であるかの樣に思ひ、此の二者の作用に由りて意識現象を生ずる樣に考へて居る。從つて精神と物體との兩實在があると考へて居るが、これは凡て誤である。主觀客觀とは一の事實を考察する見方の相違である、精神物體の區別も此の見方より生ずるのであつて、事實其者の區別でない。事實上の花は決して理學者のいふ樣な純物體的の花ではない、色や形や香をそなへた美にして愛すべき花である。ハイネが靜夜の星を仰いで蒼空に於ける金の鋲といつたが、天文學者は之を詩人の囈語として一笑に附するのであらうが、星の眞相は反つて此の一句の中に現はれて居るかも知れない。

 かくの如く主客の未だ分れざる獨立自全の眞實在は知情意を一にしたものである。眞實在は普通に考へられて居る樣な冷靜なる知識の對象ではない。我々の情意より成り立つた者である。即ち單に存在ではなくして意味をもつた者である。それで若しこの現實界から我々の情意を除き去つたならば、もはや具體的の事實ではなく、單に抽象的概念となる。物理學者のいふ如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく、實際に存在するものではない。此點より見て、學者よりも藝術家の方が實在の眞相に達して居る。我々の見る者聞く者の中に皆我々の個性を含んで居る。同一の意識といつても決して眞に同一でない。例へば同一の牛を見るにしても、農夫、動物學者、美術家に由りて各其心象が異なつて居らねばならぬ。同一の景色でも自分の心持に由つて鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして悲しく見ゆることもある。佛教などにて自分の心持次第にて此世界が天堂ともなり地獄ともなるといふが如く、つまり我々の世は我々の情意を本として組み立てられたものである。いかに純知識の對象なる客觀的世界であるといつても、此の關係を免れることはできぬ。

 科學的に見た世界が最も客觀的であつて、此中には少しも我々の情意の要素を含んで居らぬ樣に考へて居る。併し學問といつても元は我々生存競爭上實地の要求より起つた者である、決して全然情意の要求を離れた見方ではない。特にエルザレムなどのいふ樣に、科學的見方の根本義である外界に種々の作用をなす力があるといふ考は、自分の意志より類推したものであると見做さねばならぬ(Jerusalem, Einleitung in die Philosophie, 6. Aufl. §27)。それ故に太古の萬象を説明するのは凡て擬人的であつた、今日の科學的説明はこれより發達したものである。

 我々は主觀客觀の區別を根本的であると考へる處から、知識の中にのみ客觀的要素を含み、情意は全く我々の個人的主觀的出來事であると考へて居る。此考は已に其根本的の假定に於て誤つて居る。併し假に主客相互の作用に由つて現象が生ずるものとしても、色形などいふ如き知識の内容も、主觀的と見れば主觀的である、個人的と見れば個人的である。之に反し情意といふことも、外界にかくの如き情意を起す性質があるとすれば客觀的根據をもつてくる、情意が全く個人的であるといふのは誤である。我々の情意は互に相通じ相感ずることができる。即ち超個人的要素を含んで居るのである。

 我々が個人なる者があつて喜怒愛慾の情意を起すと思ふが故に、情意が純個人的であるといふ考も起る。併し人が情意を有するのでなく、情意が個人を作るのである、情意は直接經驗の事實である。

 萬象の擬人的説明といふことは太古人間の説明法であつて、又今日でも純白無邪氣なる小兒の説明法である。所謂科學者は凡て之を一笑に附し去るであらう、勿論此説明法は幼稚ではあるが、一方より見れば實在の眞實なる説明法である。科學者の説明法は知識の一方にのみ偏したるものである。實在の完全なる説明に於ては知識的要求を滿足すると共に情意の要求を度外に置いてはならぬ。

 希臘人民には自然は皆生きた自然であつた。雷電はオリムプス山上に於けるツォイス神の怒であり、杜鵑の聲はフィロメーレが千古の怨恨であつた(Schiller, Die G\"otter Griechenlandsを看よ)。自然なる希臘人の眼には現在の眞意がその儘に現んじたのである。今日の美術、宗教、哲學、皆此眞意を現さんと努めて居るのである。

     第四章 眞實在は常に同一の形式を有つて居る

 上にいつた樣に主客を沒したる知情意合一の意識状態が眞實在である。我々が獨立自全の眞實在を想起すれば自ら此の形に於て現はれてくる。此の如き實在の眞景は唯我々が之を自得すべき者であつて、之を反省し分析し言語に表はしうべき者ではなからう。併し我々の種々なる差別的知識とは此の實在を反省するに由つて起るのであるから、今此の唯一實在の成立する形式を考へ、如何にして之より種々の差別を生ずるかを明にせうと思ふ。

 眞正の實在は藝術の眞意の如く互に相傳ふることのできない者である。傳へうべき者は唯抽象的空殼である。我々は同一の言語に由つて同一の事を理解し居ると思つて居るが、其内容は必ず多少異なつて居る。

 獨立自全なる眞實在の成立する方式を考へて見ると、皆同一の形式に由つて成立するのである。即ち次の如き形式に由るのである。先づ全體が含蓄的implicitに現はれる、それより其内容が分化發展する、而して此の分化發展が終つた時實在の全體が實現せられ完成せられるのである。一言にていへば、一つの者が自分自身にて發展完成するのである。此の方式は我々の活動的意識作用に於て最も明に見ることができる。意志に就いて見るに、先づ目的觀念なる者があつて、之より事情に應じて之を實現するに適當なる觀念が體系的に組織せられ、此の組織が完成せられし時行爲となり、此處に目的が實現せられ、意志の作用が終結するのである。啻に意志作用のみではなく、所謂知識作用である思惟想像等について見てもこの通りである。やはり先づ目的觀念があつて之より種々の觀念聯合を生じ、正當なる觀念結合を得た時此の作用が完成せらるゝのである。

 ジェームスが「意識の流」に於ていつた樣に、凡て意識は右の如き形式をなして居る。例へば一文章を意識の上に想起するとせよ、其主語が意識上に現はれた時已に全文章を暗に含んで居る。但し客語が現はれて來る時其内容が發展實現せらるゝのである。

 意志、思惟、想像等の發達せる意識現象に就いては右の形式は明であるが、知覺、衝動等に於ては一見直に其全體を實現して、右の過程を蹈まない樣にも見える。併し前にいつた樣に、意識はいかなる場合でも決して單純で受働的ではない、能働的で複合せるものである。而して其成立は必ず右の形式に由るのである。主意説のいふ樣に、意志が凡ての意識の原形であるから、凡ての意識はいかに簡單であつても、意志と同一の形式に由つて成立するものといはねばならぬ。

 衝動及知覺などと意志及思惟などとの別は程度の差であつて、種類の差ではない。前者に於ては無意識である過程が後者に於ては意識に自らを現はし來るのであるから、我々は後者より推して前者も同一の構造でなければならぬことを知るのである。我々の知覺といふのも其發達から考へて見ると、種々なる經驗の結果として生じたのである。例へば音樂などを聽いても、始の中は何の感をも與へないのが、段々耳に馴れてくれば其中に明瞭なる知覺をうる樣になるのである。知覺は一種の思惟と云つても差支ない。

 次に受働的意識と能働的意識との區別より起る誤解についても一言して置かねばならぬ。能働的意識にては右の形式が明であるが、受働的意識では觀念を結合する者は外にあり、觀念は單に外界の事情に由りて結合せらるゝので、或全き者が内より發展完成するのでない樣に見える。併し我々の意識は受働と能働とに峻別することはできぬ。これも畢竟程度の差である。聯想又は記憶の如き意識作用も全然聯想の法則といふが如き外界の事情より支配せらるゝものでない、各人の内面的性質が其主動力である、やはり内より統一的或者が發展すると見ることができる。唯所謂能働的意識では此の統一的或者が觀念として明に意識の上に浮んで居るが、受働的意識では此者が無意識か又は一種の感情となつて働いて居るのである。

 能働受働の區別、即ち精神が内から働くとか外から働を受けるとかいふことは、思惟に由つて精神と物體との獨立的存在を假定し、意識現象は精神と外物との相互の作用より起るものとなすより來るので、純粹經驗の事實上に於ける區別ではない。純粹經驗の事實上では單に程度の差である。我々が明瞭なる目的觀念を有つて居る時は能働と思はれるのである。

 經驗學派の主張する所に由ると、我々の意識は凡て外物の作用に由りて發達するものであるといふ。併しいかに外物が働くにしても、内に之に應ずる先在的性質がなかつたならば意識現象を生ずることはできまい。いかに外より培養するも、種子に發生の力がなかつたならば植物が發生せぬと同樣である。固より反對に種子のみあつても植物は發生せぬといふこともできる。要するに此の雙方とも一方を見て他方を忘れたものである。眞實在の活動では唯一の者の自發自展である、内外能受の別は之を説明する爲に思惟に由つて構成したものである。

 凡ての意識現象を同一の形式に由つて成立すると考へるのは左程六づかしいことでもないと信ずるが、更に一歩を進んで、我々が通常外界の現象といつて居る自然界の出來事をも、同一の形式の下に入れようとするのは頗る難事と思はれるかも知れない。併し前にいつた樣に、意識を離れたる純粹物體界といふ如き者は抽象的概念である、眞實在は意識現象の外にない、直接經驗の眞實在はいつも同一の形式によつて成立するといふことができる。

 普通には固定せる物體なる者が事實として存在する樣に思うて居る。併し實地に於ける事實はいつでも出來事である。希臘の哲學者ヘラクライトスが萬物は流轉し何物も止まることなしAlles fliesst und nichts hat Bestand.といつた樣に、實在は流轉して暫くも留まることなき出來事の連續である。

 我々が外界に於ける客觀的世界といふものも、吾人の意識現象の外になく、やはり或一種の統一作用に由つて統一せられた者である。唯此の現象が普遍的である時即ち個人の小なる意識以上の統一を保つ時、我々より獨立せる客觀的世界と見るのである。例へば此處に一のランプが見える、此が自分のみに見えるならば、或は主觀的幻覺とでも思ふであらう。唯各人が同じく之を認むるに由りて客觀的事實となる。客觀的獨立の世界といふのは此の普遍的性質より起るのである。

     第五章 眞實在の根本的方式

 我々の經驗する所の事實は種々ある樣であるが、少しく考へて見ると皆同一の實在であつて、同一の方式に由つて成り立つて居るのである。今此の如き凡ての實在の根本的方式に就いて話して見よう。

 先づ凡ての實在の背後には統一的或者の働き居ることを認めねばならぬ。或學者は眞に單純であつて獨立せる要素、例へば元子論者の元子の如き者が根本的實在であると考へて居る、併し此の如き要素は説明の爲に設けられた抽象的概念であつて、事實上に存在することはできぬ。試に想へ、今此處に何か一つの元子があるならば、そは必ず何等かの性質又は作用をもつたものでなければならぬ、全く性質又は作用なき者は無と同一である。然るに一つの物が働くといふのは必ず他の物に對して働くのである、而して之には必ず此の二つの物を結合して互に相働くを得しめる第三者がなくてはならぬ、例へば甲の物體の運動が乙に傳はるといふには、此の兩物體の間に力といふものがなければならぬ、又性質といふことも一の性質が成立するには必ず他に對して成立するのである。例へば色が赤のみであつたならば赤といふ色は現はれ樣がない、赤が現はれるには赤ならざる色がなければならぬ、而して一の性質が他の性質と比較し區別せらるゝには、兩性質は其根柢に於て同一でなければならぬ、全く類を異にし其間に何等の共通なる點をもたぬ者は比較し區別することができぬ。かくの如く凡て物は對立に由つて成立するといふならば、其根柢には必ず統一的或者が潛んで居るのである。

 この統一的或者が物體現象では之を外界に存する物力となし、精神現象では之を意識の統一力に歸するのであるが、前にいつた樣に、物體現象といひ精神現象といふも純粹經驗の上に於ては同一であるから、この二種の統一作用は元來、同一種に屬すべきものである。我々の思惟意志の根柢に於ける統一力と宇宙現象の根柢に於ける統一力とは直に同一である、例へば我々の論理、數學の法則は直に宇宙現象が之に由りて成立しうる原則である。

 實在の成立には、右に云つた樣に其根柢に於て統一といふものが必要であると共に、相互の反對寧ろ矛盾といふことが必要である。ヘラクライトスが爭は萬物の父といつた樣に、實在は矛盾に由つて成立するのである、赤き物は赤からざる色に對し、働く者は之をうける者に對して成立するのである。この矛盾が消滅すると共に實在も消え失せてしまふ。元來この矛盾と統一とは同一の事柄を兩方面より見たものにすぎない、統一があるから矛盾があり、矛盾があるから統一がある。例へば白と黒との樣に凡ての點に於て共通であつて、唯一點に於て異なつて居る者が互に最も反對となる、之に反し徳と三角といふ樣に明了の反對なき者は又明了なる統一もない。最も有力なる實在は種々の矛盾を最も能く調和統一した者である。

 統一する者と統一せらるゝ者とを別々に考へるのは抽象的思惟に由るので、具體的實在にてはこの二つの者を離すことはできない。一本の樹とは枝葉根幹の種々異なりたる作用をなす部分を統一した上に存在するが、樹は單に枝葉根幹の集合ではない、樹全體の統一力が無かつたならば枝葉根幹も無意義である。樹は其部分の對立と統一との上に存するのである。

 統一力と統一せらるゝ者と分離した時には實在とならない。例へば人が石を積みかさねた樣に、石と人とは別物である、かゝる時に石の積みかさねは人工的であつて、獨立の一實在とはならない。

 そこで實在の根本的方式は一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである。而して此二方面は離すことのできないものであるから、つまり一つの者の自家發展といふことができる。獨立自全の眞實在はいつでも此方式を具へて居る、然らざる者は皆我々の抽象的概念である。

 實在は自分にて一の體系をなした者である。我々をして確實なる實在と信ぜしむる者は此性質に由るのである。之に反し體系を成さぬ事柄は例へば夢の如く之を實在とは信ぜぬのである。

 右の如く眞に一にして多なる實在は自動不息でなければならぬ。靜止の状態とは他と對立せぬ獨存の状態であつて、即ち多を排斥したる一の状態である。併し此状態にて實在は成立することはできない。若し統一に由つて或一つの状態が成立したとすれば、直に此處に他の反對の状態が成立して居らねばならぬ。一の統一が立てば直に之を破る不統一が成立する。眞實在はかくの如き無限の對立を以て成立するのである。物理學者は勢力保存などといつて實在に極限があるかの樣にいつて居るが、こは説明の便宜上に設けられた假定であつて、かくの如き考は恰も空間に極限があるといふと同じく、唯抽象的に一方のみを見て他方を忘れて居たのである。

 活きた者は皆無限の對立を含んで居る、即ち無限の變化を生ずる能力をもつたものである。精神を活物といふのは始終無限の對立を存し、停止する所がない故である。若しこれが一状態に固定して更に他の對立に移る能はざる時は死物である。

 實在は之に對立する者に由つて成立するといふが、この對立は他より出で來るのではなく、自家の中より生ずるのである。前に云つた樣に對立の根柢には統一があつて、無限の對立は皆自家の内面的性質より必然の結果として發展し來るので、眞實在は一つの者の内面的必然より起る自由の發展である。例へば空間の限定に由つて種々の幾何學的形状ができ、此等の形は互に相對立して特殊の性質を保つて居る。併し皆別々に對立するのではなくして、空間といふ一者の必然的性質に由りて結合せられて居る、即ち空間的性質の無限の發展である樣に、我々が自然現象といつて居る者に就いて見ても、實際の自然現象なる者は前にもいつた樣に個々獨立の要素より成るのではなく、又我々の意識現象を離れて存在するのではない。やはり一の統一的作用によりて成立するので、一自然の發展と看做すべきものである。

 ヘーゲルは何でも理性的なる者は實在であつて、實在は必ず理性的なる者であるといつた。この語は種々の反對をうけたにも拘らず、見方に由つては動かすべからざる眞理である。宇宙の現象はいかに些細なる者であつても、決して偶然に起り前後に全く何等の關係をもたぬものはない。必ず起るべき理由を具して起るのである。我等は之を偶然と見るのは單に知識の不足より來るのである。

 普通には何か活動の主があつて、之より活動が起るものと考へて居る。併し直接經驗より見れば活動其者が實在である。この主たる物といふは抽象的概念である。我々は統一と其内容との對立を互に獨立の實在であるかの樣に思ふから斯の如き考を生ずるのである。

     第六章 唯一實在

 實在は前に云つた樣に意識活動である。而して意識活動とは普通の解釋に由れば其時々に現はれ又忽ち消え去るもので、同一の活動が永久に連結することはできない。して見ると、小にして我々の一生の經驗、大にしては今日に至るまでの宇宙の發展、此等の事實は畢竟虚幻夢の如く、支離滅裂なるものであつて、其間に何等の統一的基礎がないのであらうか。此の如き疑問に對しては、實在は相互の關係に於て成立するもので、宇宙は唯一實在の唯一活動であることを述べて置かうと思ふ。

 意識活動は或範圍内では統一に由つて成立することは略説明したと思ふが、尚或範圍以外ではかゝる統一のあることを信ぜぬ人が多い。例へば昨日の意識と今日の意識とは全く獨立であつて、もはや一の意識とは看做されないと考へて居る人がある。併し直接經驗の立脚地より考へて見ると、此の如き區別は單に相對的の區別であつて絶對的區別ではない。何人でも統一せる一の意識現象と考へて居る思惟又は意志等について見ても、其過程は各相異なつて居る觀念の連續にすぎない。精細に之を區別して見れば此等の觀念は別々の意識であるとも考へることができる。然るに此の連續せる觀念が個々獨立の實在ではなく、一の意識活動として見ることができるならば、昨日の意識と今日の意識とは一の意識活動として見られぬことはない、我々が幾日にも亙りて或一の問題を考へ、又は一の事業を計畫するといふ場合には、明に同一の意識が連續的に働くと見ることができる、唯時間の長短に於て異なるばかりである。

 意識の結合には知覺の如き同時の結合、聯想思惟の如き繼續的結合、及び自覺の如き一生に亙れる結合も皆程度の差異であつて、同一の性質より成り立つ者である。

 意識現象は時々刻々に移りゆくもので、同一の意識が再び起ることはない。昨日の意識と今日の意識とは、よし其内容に於て同一なるにせよ、全然異なつた意識であるといふ考は、直接經驗の立脚地より見たのではなくて、反つて時間といふ者を假定し、意識現象は其上に顯はれる者として推論した結果である。意識現象が時間といふ形式に由つて成立する者とすれば、時間の性質上一たび過ぎ去つた意識現象は再び還ることはできぬ。時間は唯一つの方向を有するのみである。假令全く同一の内容を有する意識であつても、時間の形式上已に同一とはいはれないこととなる。併し今直接經驗の本に立ち還つて見ると、此等の關係は全く反對とならねばならぬ。時間といふのは我々の經驗の内容を整頓する形式にすぎないので、時間といふ考の起るには先づ意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならぬ。然らざれば前後を連合配列して時間的に考へることはできない。されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、反つて時間は此統一作用に由つて成立するのである。意識の根柢には時間の外に超越せる不變的或者があるといはねばならぬことになる。

 直接經驗より見れば同一内容の意識は直に同一の意識である、眞理は何人が何時代に考へても同一である樣に、我々の昨日の意識と今日の意識とは同一の體系に屬し同一の内容を有するが故に、直に結合せられて一意識と成るのである。個人の一生といふ者は此の如き一體系を成せる意識の發展である。

 此點より見れば精神の根柢には常に不變的或者がある。此者が日々その發展を大きくするのである。時間の經過とは此發展に伴ふ統一的中心點が變じてゆくのである、此中心點がいつでも「今」である。

 右にいつた樣に意識の根柢に不變の統一力が働いて居るとすれば、この統一力なる者は如何なる形に於て存在するか、いかにして自分を維持するかの疑が起るであらう。心理學では此の如き統一作用の本を腦といふ物質に歸して居る。併し嘗ていつた樣に、意識外に獨立の物體を假定するのは意識現象の不變的結合より推論したので、之よりも意識内容の直接の結合といふ統一作用が根本的事實である。此統一力は或他の實在よりして出で來るのではなく、實在は反つて此作用に由りて成立するのである。人は皆宇宙に一定不變の理なる者あつて、萬物は之に由りて成立すると信じて居る。此理とは萬物の統一力であつて兼ねて又意識内面の統一力である、理は物や心に由つて所持せられるのではなく、理が物心を成立せしむるのである。理は獨立自存であつて、時間、空間、人に由つて異なることなく、顯滅用不用に由りて變ぜざる者である。

 普通に理といへば、我々の主觀的意識上の觀念聯合を支配する作用と考へられて居る。併し斯の如き作用は理の活動の足跡であつて、理其者ではない。理其者は創作的であつて、我々は之になりきり之に即して働くことができるが、之を意識の對象として見ることのできないものである。

 普通の意義に於て物が存在するといふことは、或場處或時に於て或形に於て存在するのである。併し此處にいふ理の存在といふのは之と類を異にして居る。此の如く一處に束縛せらるゝものならば統一の働をなすことはできない、かくの如き者は活きた眞の理でない。

 個人の意識が右にいつた樣に昨日の意識と今日の意識と直に統一せられて一實在をなす如く、我々の一生の意識も同樣に一と見做すことができる。此考を推し進めて行く時は、啻に一個人の範圍内ばかりではなく、他人との意識も亦同一の理由に由つて連結して一と見做すことができる。理は何人が考へても同一である樣に、我々の意識の根柢には普遍的なる者がある。我々は之に由りて互に相理會し相交通することができる。啻に所謂普遍的理性が一般人心の根柢に通ずるばかりでなく、或一社會に生れたる人はいかに獨創に富むにせよ、皆其特殊なる社會精神の支配を受けざる者はない、各個人の精神は皆此社會精神の一細胞にすぎないのである。

 前にもいつた樣に、個人と個人との意識の連結と、一個人に於て昨日の意識と今日の意識との連結とは同一である。前者は外より間接に結合せられ、後者は内より直に結合する樣に見ゆるが、若し外より結合せらるゝ樣に見れば、後者も或一種の内面的感覺の符徴によりて結合せらるゝので、個人間の意識が言語等の符徴に由つて結合せらるゝのと同一である。若し内より結合せらるゝ樣に見れば、前者に於ても個人間に元來同一の根柢あればこそ直に結合せられるのである。

 我々の所謂客觀的世界と名づけて居る者も、幾度か言つたやうに、我々の主觀を離れて成立するものではなく、客觀的世界の統一力と主觀的意識の統一力とは同一である、即ち所謂客觀的世界も意識も同一の理に由つて成立するものである。此故に人は自己の中にある理に由つて宇宙成立の原理を理會することができるのである。若し我々の意識の統一と異なつた世界があるとするも、此の如き世界は我々と全然沒交渉の世界である。苟も我々の知り得る、理會し得る世界は我々の意識と同一の統一力の下に立たねばならぬ。

     第七章 實在の分化發展

 意識を離れて世界ありといふ考より見れば、萬物は個々獨立に存在するものといふことができるかも知らぬが、意識現象が唯一の實在であるといふ考より見れば、宇宙萬象の根柢には唯一の統一力あり、萬物は同一の實在の發現したものといはねばならぬ。我々の知識が進歩するに從つて益々この同一の理あることを確信する樣になる。今此の唯一の實在より如何にして種々の差別的對立を生ずるかを述べて見よう。

 實在は一に統一せられて居ると共に對立を含んで居らねばならぬ。此處に一の實在があれば必ずこれに對する他の實在がある。而してかくこの二つの物が互に相對立するには、此の二つの物が獨立の實在ではなくして、統一せられたるものでなければならぬ、即ち一の實在の分化發展でなければならぬ。而してこの兩者が統一せられて一の實在として現はれた時には、更に一の對立が生ぜねばならぬ。併し此時この兩者の背後に、又一の統一が働いて居らねばならぬ。かくして無限の統一に進むのである。之を逆に一方より考へて見れば、無限なる唯一實在が小より大に、淺より深に、自己を分化發展するのであると考へることができる。此の如き過程が實在發現の方式であつて、宇宙現象は之に由りて成立し進行するのである。

 斯の如き實在發展の過程は我々の意識現象について明に之を見ることができる。例へば意志について見ると、意志とは或理想を現實にせんとするので、現在の理想との對立である。併しこの意志が實行せられ理想と一致した時、この現在は更に他の理想と對立して新なる意志が出でくる。かくして我々の生きて居る間は、何處までも自己を發展し實現しゆくのである。次に生物の生活及發達について見ても、此の如き實在の方式を認むることができる。生物の生活は實に斯の如き不息の活動である。唯無生物の存在は一寸この方式にあてはめて考へることが困難である樣に見えるが、このことに就いては後に自然を論ずる時に話すこととせう。

 さて右に述べた樣な實在の根本的方式より、如何にして種々なる實在の差別を生ずるのであるか。先づ所謂主觀客觀の別は何から起つてくるか。主觀と客觀とは相離れて存在するものではなく、一實在の相對せる兩方面である、即ち我々の主觀といふものは統一的方面であつて、客觀といふのは統一せらるゝ方面である、我とはいつでも實在の統一者であつて、物とは統一せられる者である(爰に客觀と云ふのは我々の意識より獨立せる實在といふ意義ではなく、單に意識對象の意義である)。例へば我々が何物かを知覺するとか、若しくは思惟するとかいふ場合に於て、自己とは彼此相比較し統一する作用であつて、物とは之に對して立つ對象である、即ち比較統一の材料である。後の意識より前の意識を見た時、自己を對象として見ることができる樣に思ふが、其實はこの自己とは眞の自己ではなく、眞の自己は現在の觀察者即ち統一者である。此時は前の統一は已に一たび完結し、次の統一の材料として此中に包含せられたものと考へねばならぬ。自己はかくの如く無限の統一者である、決して之を對象として比較統一の材料とすることのできない者である。

 心理學から見ても吾人の自己とは意識の統一者である。而して今意識が唯一の眞實在であるといふ立脚地より見れば、この自己は實在の統一者でなければならぬ。心理學ではこの統一者である自己なる者が、統一せらるゝものから離れて別に存在する樣にいへども、此の如き自己は單に抽象的概念にすぎない。事實に於ては、物を離れて自己あるのではなく、我々の自己は直に宇宙實在の統一力其者である。

 精神現象、物體現象の區別といふのも決して二種の實在があるのではない。精神現象といふのは統一的方面即ち主觀の方から見たので、物體現象とは統一せらるゝ者即ち客觀の方から見たのである。唯同一實在を相反せる兩方面より見たのにすぎない。それで統一の方より見れば凡てが主觀に屬して精神現象となり、統一を除いて考へれば凡てが客觀的物體現象となる(唯心論、唯物論の對立はかくの如き兩方面の一を固執せるより起るのである)。

 次に能働所働の差別は何から起つてくるか。能働所働といふことも實在に二種の區別があるのではなく、やはり同一實在の兩方面である、統一者がいつでも能働であつて、被統一者がいつでも所働である。例へば意識現象に就いて見ると、我々の意志が働いたといふのは意志の統一的觀念即ち目的が實現せられたといふので、即ち統一が成立したことである。其外凡て精神が働いたといふことは統一の目的を達したといふことで、これができなくつて他より統一せられた時には所働といふのである。物體現象に於ても甲の者が乙に對して働くといふことは、甲の性質の中に乙の性質を包含し統括し得た場合をいふのである。かくの如く統一が即ち能働の眞意義であつて、我々が統一の位置にある時は能働的で、自由である。之に反して他より統一せられた時は所働的で、必然法の下に支配せられたことゝなる。

 普通では時間上の連續に於て先だつ者が能働者と考へられて居るが、時間上に先だつ者が必ずしも能働者ではない、能働者は力をもつたものでなければならぬ。而して力といふのは實在の統一作用をいふのである。例へば物體の運動は運動力より起るといふ、然るにこの力といふのはつまり或現象間の不變的關係をさすので、即ち此現象を連結綜合する統一者をいふのである。而して嚴密なる意義に於ては唯精神のみ能働である。

 次に無意識と意識との區別について一言せん。主觀的統一作用は常に無意識であつて、統一の對象となる者が意識内容として現はれるのである。思惟について見ても、又意志についてみても、眞の統一作用其者はいつも無意識である。唯之を反省して見た時、この統一作用は一の觀念として意識上に現はれる。併し此時は已に統一作用ではなくして、統一の對象となつて居るのである。前にいつた樣に、統一作用はいつでも主觀であるから、從つていつでも無意識でなければならぬ。ハルトマンも無意識が活動であるといつて居る樣に、我々が主觀の位置に立ち活動の状態にある時はいつも無意識である。之に反し或意識を客觀的對象として意識した時には、其意識は已に活動を失つたものである。例へば或藝術の修錬についても、一々の動作を意識して居る間は未だ眞に生きた藝術ではない、無意識の状態に至つて始めて生きた藝術となるのである。

 心理學より見て精神現象は凡て意識現象であるから、無意識なる精神現象は存在せぬと云ふ非難がある。併し我々の精神現象は單に觀念の連續でない、必ず之を連結統一する無意識の活動があつて、始めて精神現象が成立するのである。

 最後に現象と本體との關係に就いて見ても、やはり實在の兩方面の關係と見て説明することができる。我々が物の本體といつて居るのは實在の統一力をいふのであつて、現象とは其分化發展せる對立の状態をいふのである。例へば此處に机の本體が存在するといふのは、我々の意識がいつでも或一定の結合に由つて現ずるといふことで、此處に不變の本體といふのはこの統一力をさすのである。

 かくいへば眞正の主觀が實在の本體であると言はねばならぬ事になる、然るに我々は通常反つて物體は客觀にあると考へて居る。併しこれは眞正の主觀を考へないで抽象的主觀を考へるに由るのである。此の如き主觀は無力なる概念であつて、之に對しては物の本體は反つて客觀に屬するといつた方が至當である。併し眞正にいへば主觀を離れた客觀とは亦抽象的概念であつて、無力である。眞に活動せる物の本體といふのは、實在成立の根本的作用である統一力であつて、即ち眞正の主觀でなければならぬ。

     第八章 自然

 實在は唯一つあるのみであつて、其見方の異なるに由りて種々の形を呈するのである。自然といへば全然我々の主觀より獨立した客觀的實在であると考へられて居る、併し嚴密に言へば、斯の如き自然は抽象的概念であつて決して眞の實在ではない。自然の本體はやはり未だ主客の分れざる直接經驗の事實であるのである。例へば我々が眞に草木として考ふる物は、生々たる色と形とを具へた草木であつて、我々の直覺的事實である。唯我々が此具體的實在より姑く主觀的活動の方面を除去して考へた時は、純客觀的自然であるかの樣に考へられるのである。而して科學者の所謂最も嚴密なる意味に於ける自然とは、此考へ方を極端に迄推し進めた者であつて、最抽象的なる者即ち最も實在の眞景を遠ざかつた者である。

 自然とは、具體的實在より主觀的方面、即ち統一作用を除き去つたものである。それ故に自然には自己がない。自然は唯必然の法則に從つて外より動かされるのである、自己より自動的に働くことができないのである。それで自然現象の連結統一は精神現象に於ての樣に内面的統一ではなく、單に時間空間上に於ける偶然的連結である。所謂歸納法に由つて得たる自然法なる者は、或兩種の現象が不變的連續に於て起るから、一は他の原因であると假定したまでであつて、如何に自然科學が進歩しても、我々はこれ以上の説明を得ることはできぬ。唯この説明が精細に且つ一般的となるまでである。

 現今科學の趨勢はできるだけ客觀的ならんことをつとめて居る。それで心理現象は生理的に、生理現象は化學的に、化學現象は物理的に、物理現象は機械的に説明せねばならぬこととなる。此の如き説明の基礎となる純機械的説明とはいかなる者であるか。純物質とは全く我々の經驗のできない實在である、苟も之について何等かの經驗のできうる者ならば、意識現象として我々の意識の上に現はれ來る者でなければならぬ。然るに意識の事實として現はれきたる者は盡く主觀的であつて、純客觀的なる物質とはいはれない、純物質といふのは何等の捕捉すべき積極的性質もない、單に空間時間運動といふ如き純數量的性質のみを有する者で、數學上の概念の如く全く抽象的概念にすぎないのである。

 物質は空間を充す者として恰も之を直覺しうるかの樣に考へて居るが、併し我々が具體的に考へうる物の延長といふことは、觸覺及視覺の意識現象にすぎない。我々の感覺に大きく見えるとも必ずしも物質が多いとはいはれぬ。物理學上物質の多少はつまり其力の大小に由りて定まるので、即ち彼此の作用的關係より推理するのである、決して直覺的事實ではない。

 又右の如く自然を純物質的に考へれば動物、植物、生物の區別もなく、凡て同一なる機械力の作用といふの外なく、自然現象は何等の特殊なる性質及意義を有せぬものとなる。人間も土塊も何の異なる所もない。然るに我々が實際に經驗する眞の自然は決して右にいつた樣な抽象的概念でなく、從つて單に同一なる機械力の作用でもない。動物は動物、植物は植物、金石は金石、それぞれ特色と意義とを具へた具體的事實である。我々の所謂山川草木蟲魚禽獸といふものは、皆斯の如くそれぞれの個性を具へた者で、之を説明するには種々の立脚地より、種々に説明することもできるが、此の直接に與へられたる直覺的事實の自然は到底動かすことのできない者である。

 我々が普通に純機械的自然を眞に客觀的實在となし、直接經驗に於ける具體的自然を主觀的現象となすのは、凡て意識現象は自己の主觀的現象であるといふ假定より推理した考である。併し幾度もいつた樣に、我々は全然意識現象より離れた實在を考へることはできぬ。もし意識現象に關係あるが故に主觀的であるといふならば、純機械的自然も主觀的である、空間、時間、運動といふ如きも我々の意識現象を離れては考へることはできない。唯比較的に客觀的であるので絶對的に客觀的であるのではない。

 眞に具體的實在としての自然は、全く統一作用なくして成立するものではない。自然もやはり一種の自己を具へて居るのである。一本の植物、一匹の動物もその發現する種々の形態變化及運動は、單に無意義なる物質の結合及機械的運動ではなく、一々其全體と離すべからざる關係をもつて居るので、つまり一の統一的自己の發現と看做すべきものである。例へば動物の手足鼻口等凡て一々動物生存の目的と密接なる關係があつて、之を離れて其意義を解することはできぬ。少くとも動植物の現象を説明するには、かくの如き自然の統一力を假定せねばならぬ。生物學者は凡て生活本能を以て生物の現象を説明するのである。啻に生物にのみ此の如き統一作用があるのではなく、無機物の結晶に於ても已に多少この作用が現はれて居る。即ち凡ての鑛物は皆特有の結晶形を具へて居るのである。自然の自己即ち統一作用は此の如く無機物の結晶より動植物の有機體に至つて益々明となるのである(眞の自己は精神に至つて始めて現はれる)。

 現今科學の嚴密なる機械的説明の立脚地より見れば、有機體の合目的發達も畢竟物理及化學の法則より説明されねばならぬ。即ち單に偶然の結果にすぎないこととなる。併し斯の如き考はあまり事實を無視することになるから、科學者は潛勢力といふ假定をもつて之を説明しようとする。即ち生物の卵又は種にはそれぞれの生物を發生する潛勢力をもつて居るといふ、此潛勢力が即ち今の所謂自然の統一力に相當するのである。

 自然の説明の上に於て、機械力の外に斯の如き統一力の作用を許すとするも、この二つの説明が衝突する必要はない。反つて兩者相待つて完全なる自然の説明ができるのである。例へば此處に一の銅像があるとせよ、その材料たる銅としては物理化學の法則に從ふでもあらうが、こは單に銅の一塊と見るべき者ではなく、我々の理想を現はしたる美術品である。即ち我々の理想の統一力に由りて現はれたるものである。併し此理想の統一作用と材料其者を支配する物理化學の法則とは自ら別範圍に屬し、決して相犯す筈のものではない。

 右にいつた樣な統一的自己があつて、而して後自然に目的あり、意義あり、甫めて生きた自然となるのである。斯の如き自然の生命である統一力は單に我々の思惟に由りて作爲せる抽象的概念ではなく、反つて我々の直覺の上に現んじ來る事實である。我々は愛する花を見、又親しき動物を見て、直に全體に於て統一的或者を捕捉するのである。之が其物の自己、其物の本體である。美術家は斯の如き直覺の最もすぐれた人である。彼等は一見、物の眞相を看破して統一的或物を捕捉するのである。彼等の現はす所の者は表面の事實ではなく、深く物の根柢に潛める不變の本體である。

 ゲーテは生物の研究に潛心し、今日の進化論の先驅者であつた。氏の説に由ると自然現象の背後には本源的現象Urph\"anomenなる者がある。詩人は之を直覺するのである。種々の動物植物は此本源的現象たる本源的動物、本源的植物の變化せる者であるといふ。現に今日の動植物の中に一定不變の典型がある。氏はこの説に基づいて、凡て生物は進化し來つたものであることを論じたのである。

 然らば自然の背後に潛める統一的自己とは如何なる者であるか。我々は自然現象をば我々の主觀と關係なき純客觀的現象であると考へて居るが故に、この自然の統一力も我々の全く知り得べからざる不可知的或者と考へられて居る。併し已に論じた樣に、眞實在は主觀客觀の分離しないものである、實際の自然は單に客觀的一方といふ如き抽象的概念ではなく、主客を具したる意識の具體的事實である。從つてその統一的自己は我々の意識と何等の關係のない不可知的或者ではなく、實に我々の意識の統一作用その者である。この故に我々が自然の意義目的を理會するのは、自己の理想及情意の主觀的統一に由るのである。例へば我々が能く動物の種々の機關及動作の本に横はれる根本的意義を理會するのは、自分の情意を以て直に之を直覺するので、自分に情意がなかつたならば到底動物の根本的意義を理會する事はできぬ。我々の理想及情意が深遠博大となるに從つて、愈々自然の眞意義を理會することができる。之を要するに我々の主觀的統一と自然の客觀的統一力とはもと同一である。之を客觀的に見れば自然の統一力となり、之を主觀的に見れば自己の知情意の統一となるのである。

 物力といふ如き者は全く吾人の主觀的統一に關係がないと信ぜられて居る。勿論之は最も無意義の統一でもあらう、併しこれとても全然主觀的統一を離れたものではない、我々が物體の中に力あり、種々の作用をなすといふことは、つまり自己の意志作用を客觀的に見たのである。

 普通には、我々が自己の理想又は情意を以て自然の意義を推斷するといふのは單に類推であつて、確固たる眞理でないと考へられて居る。併しこは主觀客觀を獨立に考へ、精神と自然とを二種の實在となすより起るのである。純粹經驗の上からいへば直に之を同一と見るのが至當である。

     第九章 精神

 自然は一見我々の精神より獨立せる純客觀的實在であるかの樣に見ゆるが、其實は主觀を離れた實在ではない。所謂自然現象をば其主觀的方面即ち統一作用の方より見れば凡て意識現象となる。例へば此處に一個の石がある、此石を我々の主觀より獨立せる或不可知的實在の力に由りて現んじた者とすれば自然となる。併し此石なる者を直接經驗の事實として直に之を見れば、單に客觀的に獨立せる實在ではなく、我々の視覺觸覺等の結合であつて、即ち我々の意識統一に由つて成立する意識現象である。それで所謂自然現象をば直接經驗の本に立ち返つて見ると、凡て主觀的統一に由つて成立する自己の意識現象となる。唯心論者が世界は余の觀念なりと云ふのはこの立脚地より見たのである。

 我々が同一の石を見るといふ時、各人が同一の觀念を有つて居ると信じて居る。併し其實は各人の性質經驗に由つて異なつて居るのである。故に具體的實在は凡て主觀的個人的であつて、客觀的實在といふ者はなくなる。客觀的實在といふのは各人に共通なる抽象的概念にすぎない。

 然らば我々が通常自然に對して精神といつて居る者は何であるか。即ち主觀的意識現象とは如何なる者であるか、所謂精神現象とは唯實在の統一的方面、即ち活動的方面を抽象的に考へたものである。前に云つた樣に、實在の眞景に於ては主觀、客觀、精神、物體の區別はない、併し實在の成立には凡て統一作用が必要である。この統一作用なる者は固より實在を離れて特別に存在するものではないが、我々がこの統一作用を抽象して、統一せらるゝ客觀に對立せしめて考へた時、所謂精神現象となるのである。例へば爰に一つの感覺がある、併し此の一つの感覺は獨立に存在するものではない、必ず他と對立の上に於て成立するのである、即ち他と比較し區別せられて成立するのである。此の比較區別の作用即ち統一的作用が我々の所謂精神なる者である。それでこの作用が進むと共に、精神と物體との區別が益々著しくなつてくる。子供の時には我々の精神は自然的である、從つて主觀の作用が微弱である。然るに成長するに從つて統一的作用が盛になり、客觀的自然より區別せられた自己の心なる者を自覺する樣になるのである。

 普通には我々の精神なる者は、客觀的自然と區別せられたる獨立の實在であると考へて居る。併し精神の主觀的統一を離れた純客觀的自然が抽象的概念である樣に、客觀的自然を離れた純主觀的精神も抽象的概念である。統一せらるゝ者があつて、統一する作用があるのである。假に外界に於ける物の作用を感受する精神の本體があるとするも、働く物があつて、感ずる心があるのである。働かない精神其者は、働かない物其者の如く不可知的である。

 然らば何故に實在の統一作用が特に其内容即ち統一せらるべき者より區別せられて、恰も獨立の實在であるかの樣に現はるゝのであるか。そは疑もなく實在に於ける種々の統一の矛盾衝突より起るのである。實在には種々の體系がある、即ち種々の統一がある、此の體系的統一が相衝突し相矛盾した時、此の統一が明に意識の上に現はれてくるのである。衝突矛盾のある處に精神あり、精神のある處には矛盾衝突がある。例へば我々の意志活動について見ても、動機の衝突のない時には無意識である、即ち所謂客觀的自然に近いのである。併し動機の衝突が著しくなるに從つて意志が明瞭に意識せられ、自己の心なる者を自覺することができる。然らば何處よりこの體系の矛盾衝突が起るか、こは實在其物の性質より起るのである。嘗ていつた樣に、實在は一方に於て無限の衝突であると共に、一方に於て又無限の統一である。衝突は統一に缺くべからざる半面である。衝突に由つて我々は更に一層大なる統一に進むのである。實在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、其統一が活動し居る時ではなく、此の衝突の際に於てである。

 我々が或一藝に熟した時、即ち實在の統一を得た時は反つて無意識である、即ちこの自家の統一を知らない。併し更に深く進まんとする時、已に得た所の者と衝突を起し、此處に又意識的となる、意識はいつも此の如き衝突より生ずるのである。又精神のある處には必ず衝突のあることは、精神には理想を伴ふことを考へてみるがよい。理想は現實との矛盾衝突を意味して居る(かく我々の精神は衝突によりて現んずるが故に、精神には必ず苦悶がある、厭世論者が世界は苦の世界であるといふのは一面の眞理をふくんで居る)。

 我々の精神とは實在の統一作用であるとして見ると、實在には凡て統一がある、即ち實在には凡て精神があるといはねばならぬ。然るに我々は無生物と生物とを分ち、精神のある者と無い物とを區別するのは何に由るのであるか。嚴密にいへば、凡ての實在には精神があるといつてよい、前にいつた樣に自然に於ても統一的自己がある、之が即ち我々の精神と同一なる統一力である。例へば此處に一本の樹といふ意識現象が現はれたとすれば、普通には之を客觀的實在として自然力に由りて成立する者と考へるのであるが、意識現象の一體系をなせる者と見れば、意識の統一作用によりて成立するのである。併し所謂無心物に於ては、此統一的自己が未だ直接經驗の事實として現實に現はれて居ない。樹其者は自己の統一作用を自覺して居ない、其統一的自己は他の意識の中にあつて樹其者の中にはない、即ち單に外面より統一せられた者で、未だ内面的に統一せる者ではない。此故に未だ獨立自全の實在とはいはれぬ。動物では之に反し、内面的統一即ち自己なる者が現實に現はれて居る、動物の種々なる現象(たとへば其形態動作)は皆此内面的統一の發表と見ることができる。實在は凡て統一に由つて成立するが、精神に於て其統一が明瞭なる事實として現はれるのである。實在は精神に於て始めて完全なる實在となるのである、即ち獨立自全の實在となるのである。

 所謂精神なき者にあつては、其統一は外より與へられたので、自己の内面的統一でない。それ故に見る人によりて其統一を變ずることができる。例へば普通には樹といふ統一せられたる一實在があると思うて居るが、化學者の眼から見れば一の有機的化合物であつて、元素の集合にすぎない、別に樹といふ實在は無いともいひうる。併し動物の精神はかく看ることができぬ、動物の肉體は植物と同じく化合物と看ることもできるであらうが、精神其者は見る人の隨意に之を變ずることはできない、之をいかに解釋するにしても、兎に角事實上動かすべからざる一の統一を現はして居るのである。

 今日の進化論に於て無機物、植物、動物、人間といふ樣に進化するといふのは、實在が漸々其隱れたる本質を現實として現はし來るのであるといふことができる。精神の發展に於て始めて實在成立の根本的性質が現はれてくるのである。ライプニッツのいつた樣に發展evolutionは内展involutionである。

 精神の統一者である我々の自己なる者は元來實在の統一作用である。一派の心理學では我々の自己は觀念及感情の結合にすぎない、此等の者を除いて外に自己はないといふが、こは單に分析の方面のみより見て統一の方面を忘れて居るのである。凡て物を分析して考へて見れば、統一作用を認むることはできない、併しこの故に統一作用を無視することはできぬ。物は統一に由りて成立するのである、觀念感情も、之をして具體的實在たらしむるのは純一的自己の力によるのである。この統一力即ち自己は何處より來るかといふに、つまり實在統一力の發現であつて、即ち永久不變の力である。我々の自己は常に創造的で自由で無限の活動と感ぜらるゝのは此爲である。前にいつた樣に、我々が内に省みて何だか自己といふ一種の感情あるが如くに感ずるのは眞の自己でない。此の如き自己は何の活動もできないのである。唯實在の統一が内に働く時に於て、我々は自己の理想の如く實在を支配し、自己が自由の活動をなしつゝあると感ずるのである。而して此の實在の統一作用は無限であるから、我々の自己は無限であつて宇宙を包容するかの樣に感ぜられるのである。

 余が曩に出立した純粹經驗の立場より見れば、此處にいふ樣な實在の統一作用なる者は單に抽象的觀念であつて、直接經驗の事實ではない樣に思はれるかも知れない。併し我々の直接經驗の事實は觀念や感情ではなくて意志活動である、この統一作用は直接經驗に缺くべからざる要素である。

 之までは精神を自然と對立せしめて考へてきたのであるが、之より精神と自然との關係に就いて少しく考へて見よう。我々の精神は實在の統一作用として、自然に對して特別の實在であるかの樣に考へられて居るが、其實は統一せられる者を離れて統一作用があるのでなく、客觀的自然を離れて主觀的精神はないのである。我々が物を知るといふことは、自己が物と一致するといふにすぎない。花を見た時は即ち自己が花となつて居るのである。花を研究して其本性を明にするといふは、自己の主觀的臆斷をすてゝ、花其物の本性に一致するの意である。理を考へるといふ場合にても、理は決して我々の主觀的空想ではない、理は萬人に共通なるのみならず、又實に客觀的實在が之に由りて成立する原理である。動かすべからざる眞理は、常に我々の主觀的自己を沒し客觀的となるに由つて得らるゝのである。之を要するに我々の知識が深遠となるといふは即ち客觀的自然に合するの意である。啻に知識に於て然るのみならず、意志に於ても其通りである。純主觀的では何事も成すことはできない。意志は唯客觀的自然に從ふに由つてのみ實現し得るのである。水を動かすのは水の性に從ふのである、人を支配するのは人の性に從ふのである、自分を支配するのは自分の性に從ふのである、我々の意志が客觀的となるだけそれだけ有力となるのである。釋迦、基督が千歳の後にも萬人を動かす力を有するのは、實に彼等の精神が能く客觀的であつた故である。我なき者即ち自己を滅せる者は最も偉大なる者である。

 普通には精神現象と物體現象とを内外に由りて區別し、前者は内に後者は外にあると考へて居る。併しかくの如き考は、精神が肉體の中にあるといふ獨斷より起るので、直接經驗より見れば凡て同一の意識現象であつて、内外の區別があるのではない。我々が單に内面的なる主觀的精神といつて居る者は極めて表面的なる微弱なる精神である、即ち個人的空想である。之に反して大なる深き精神は宇宙の眞理に合したる宇宙の活動其者である。それでかくの如き精神には自ら外界の活動を伴ふのである、活動すまいと思うてもできないのである。美術家の神來の如きは其一例である。

 最後に人心の苦樂に就いて一言せう。一言にていへば、我々の精神が完全の状態即ち統一の状態にある時が快樂であつて、不完全の状態即ち分裂の状態にある時が苦痛である。右にいつた如く精神は實在の統一作用であるが、統一の裏面には必ず矛盾衝突を伴ふ。この矛盾衝突の場合には常に苦痛である、無限なる統一的活動は直にこの矛盾衝突を脱して更に一層大なる統一に達せんとするのである。此時我々の心に種々の欲望を生じ理想を生ずる。而してこの一層大なる統一に達し得たる時即ち我々の欲望又は理想を滿足し得た時は快樂となるのである。故に快樂の一面には必ず苦痛あり、苦痛の一面には必ず快樂が伴ふ、かくして人心は絶對に快樂に達することはできまいが、唯努めて客觀的となり自然と一致する時には無限の幸福を保つことができる。

 心理學者は我々の生活を助くる者が快樂であつて、之を妨ぐる者が苦痛であるといふ。生活とは生物の本性の發展であつて、即ち自己の統一の維持である、やはり統一を助くる者が快樂で、之を害する者が苦痛であるといふと同一である。

 前にいつた樣に精神は實在の統一作用であつて、大なる精神は自然と一致するのであるから、我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客觀的自然と一致するに從つて幸福となるのである。

     第十章 實在としての神

 之まで論じた所に由つて見ると、我々が自然と名づけて居る所の者も、精神といつて居る所の者も、全く種類を異にした二種の實在ではない。つまり同一實在を見る見方の相違に由つて起る區別である。自然を深く理解せば、其根柢に於て精神的統一を認めねばならず、又完全なる眞の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ、即ち宇宙には唯一つの實在のみ存在するのである。而して此唯一實在は嘗ていつた樣に、一方に於ては無限の對立衝突であると共に、一方に於ては無限の統一である、一言にて云へば獨立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本をば我々は之を神と名づけるのである。神とは決してこの實在の外に超越せる者ではない、實在の根柢が直に神である、主觀客觀の區別を沒し、精神と自然とを合一した者が神である。

 いづれの時代でも、いづれの人民でも、神といふ語をもたない者はない。併し知識の程度及要求の差異に由つて種々の意義に解せられて居る。所謂宗教家の多くは神は宇宙の外に立ちて而も此宇宙を支配する偉大なる人間の如き者と考へて居る。併し此の如き神の考は甚だ幼稚であつて、啻に今日の學問知識と衝突するばかりでなく、宗教上に於ても此の如き神と我々人間とは内心に於ける親密なる一致を得ることはできぬと考へる。併し今日の極端なる科學者の樣に、物體が唯一の實在であつて物力が宇宙の根本であると考へることもできぬ。上にいつた樣に、實在の根柢には精神的原理があつて、此原理が即ち神である。印度宗教の根本義である樣にアートマンとブラハマンとは同一である。神は宇宙の大精神である。

 古來神の存在を證明するに種々の議論がある。或者は此世界は無より始まることはできぬ、何者か此世界を作つた者がなければならぬ、かくの如き世界の創造者が神であるといふ。即ち因果律に基づいて此世界の原因を神であるとするのである。或者は此世界は偶然に存在する者ではなくして一々意味をもつた者である、即ち或一定の目的に向つて組織せられたものであるといふ事實を根據として、何者か斯の如き組織を與へた者がなければならぬと推論し、此の如き宇宙の指導者が即ち神であるといふ、即ち世界と神との關係を藝術の作品と藝術家の如くに考へるのである。此等は皆知識の方より神の存在を證明し、且つ其性質を定めんとする者であるが、其外全く知識を離れて、道徳的要求の上より神の存在を證明せんとする者がある。此等の人のいふ所に由れば、我々人間には道徳的要求なる者がある、即ち良心なる者がある、然るに若し此宇宙に勸善懲惡の大主宰者が無かつたならば、我々の道徳は無意義のものとなる、道徳の維持者として是非、神の存在を認めねばならぬといふのである、カントの如きは此種の論者である。併し此等の議論は果して眞の神の存在を證明し得るであらうか。世界に原因がなければならぬから、神の存在を認めねばならぬといふが、若し因果律を根據としてかくの如くいふならば、何故に更に一歩を進んで神の原因を尋ぬることはできないか。神は無始無終であつて原因なくして存在するといふならば、此世界も何故にその樣に存在するといふことはできないか。又世界が或目的に從うて都合よく組織せられてあるといふ事實から、全智なる支配者がなければならぬと推理するには、事實上宇宙の萬物が盡く合目的に出來て居るといふ事を證明せねばならぬ、併しこは頗る難事である。若しかくの如きことが證明せられねば、神の存在が證明できぬといふならば、神の存在は甚だ不確實となる。或人は之を信ずるであらうが、或人は之を信ぜぬであらう。且つ此事が證明せられたとしても我々は此世界が偶然に斯く合目的に出來たものと考へることを得るのである。道徳的要求より神の存在を證明せんとするのは、尚更に薄弱である。全知全能の神なる者があつて我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大なる力を與へるには相違ないが、我々の實行上かく考へた方が有益であるからといつて、かゝる者がなければならぬといふ證明にはならぬ。此の如き考は單に方便と見ることもできる。此等の説はすべて神を間接に外より證明せんとするので、神其者を自己の直接經驗に於て直に之を證明したのではない。

 然らば我々の直接經驗の事實上に於て如何に神の存在を求むることができるか。時間空間の間に束縛せられたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潛んで居る。即ち無限なる實在の統一力が潛んで居る、我々は此力を有するが故に學問に於て宇宙の眞理を探ることができ、藝術に於て實在の眞意を現はすことができる、我々は自己の心底に於て宇宙を構成する實在の根本を知ることができる、即ち神の面目を捕捉することができる。人心の無限に自在なる活動は直に神其者を證明するのである。ヤコブ・ベーメのいつた樣に翻されたる眼umgewandtes Augeを以て神を見るのである。

 神を外界の事實の上に求めたならば、神は到底假定の神たるを免れない。又宇宙の外に立てる宇宙の創造者とか指導者とかいふ神は眞に絶對無限なる神とはいはれない。上古に於ける印度の宗教及歐州の十五六世紀の時代に盛であつた神祕學派は神を内心に於ける直覺に求めて居る、之が最も深き神の知識であると考へる。

 神は如何なる形に於て存在するか、一方より見れば神はニコラウス・クザヌスなどのいつた樣に凡ての否定である、之といつて肯定すべき者即ち捕捉すべき者は神でない、若し之といつて捕捉すべき者ならば已に有限であつて、宇宙を統一する無限の作用をなすことはできないのである(De docta ignorantia, Cap. 24)。此點より見て神は全く無である。然らば神は單に無であるかといふに決してさうではない。實在成立の根柢には歴々として動かすべからざる統一の作用が働いて居る。實在は實に之に由つて成立するのである。例へば三角形の凡ての角の和は二直角であるといふの理は何處にあるのであるか、我々は理其者を見ることも聞くこともできない、而も此處に嚴然として動かすべからざる理が存在するではないか。又一幅の名畫に對するとせよ、我々は其全體に於て神韻縹渺として靈氣人を襲ふ者あるを見る、而も其中の一物一景に就いてその然る所以の者を見出さんとしても到底之を求むることはできない。神は此等の意味に於ける宇宙の統一者である、實在の根本である、唯その能く無なるが故に、有らざる所なく働かざる所がないのである。

 數理を解し得ざる者には、いかに深遠なる數理も何等の知識を與へず、美を解せざる者には、いかに巧妙なる名畫も何等の感動を與へぬ樣に、平凡にして淺薄なる人間には神の存在は空想の如くに思はれ、何等の意味もない樣に感ぜられる、從つて宗教などを無用視して居る。眞正の神を知らんと欲する者は是非自己をそれだけに修錬して、之を知り得るの眼を具へねばならぬ。かくの如き人には宇宙全體の上に神の力なる者が、名畫の中に於ける畫家の精神の如くに活躍し、直接經驗の事實として感ぜられるのである。之を見神の事實といふのである。

 上來述べたる所を以て見ると、神は實在統一の根本といふ如き冷靜なる哲學上の存在であつて、我々の暖き情意の活動と何等の關係もない樣に感ぜらるゝかも知らぬが、其實は決してさうではない。曩にいつた樣に、我々の欲望は大なる統一を求むるより起るので、此統一が達せられた時が喜悦である。所謂個人の自愛といふも畢竟此の如き統一的要求にすぎないのである。然るに元來無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一を以て滿足するものではない。更に進んで一層大なる統一を求めねばならぬ。我々の大なる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情を表はし他人と自己との一致統一を求むる樣になる。我々の他愛とはかくの如くして起つてくる超個人的統一の要求である。故に我々は他愛に於て、自愛に於けるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。而して宇宙の統一なる神は實にかゝる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。

    第三編 善

     第一章 行爲 上

 實在は如何なる者であるかといふことは大略説明したと思ふから、之より我々人間は何を爲すべきか、善とは如何なる者であるか、人間の行動は何處に歸着すべきかといふ樣な實踐的問題を論ずることとしよう。而して人間の種々なる實踐的方面の現象は凡て行爲といふ中に總括することができると思ふから、此等の問題を論ずるに先だち、先づ行爲とは如何なる者であるかといふことを考へて見ようと思ふ。

 行爲といふのは、外面から見れば肉體の運動であるが、單に水が流れる石が落つるといふ樣な物體的運動とは異なつて居る。一種の意識を具へた目的のある運動である。併し單に有機體に於て現はれる所の目的はあるが全く無意識である種々の反射運動や、稍高等なる動物に於て見る樣な目的あり且つ多少意識を伴ふが、未だ目的が明瞭に意識されて居らぬ本能的動作とも區別せねばならぬ。行爲とは、其目的が明瞭に意識せられて居る動作の謂である。我々人間も肉體を具へて居るからは種々の物體的運動もあり、又反射運動、本能的動作もなすことはあるが、特に自己の作用といふべき者は此行爲にかぎられて居るのである。

 此行爲には多くの場合に於て外界の運動即ち動作を伴ふのであるが、無論其要部は内界の意識現象にあるのであるから、心理學上行爲とは如何なる意識現象であるかを考へて見よう。行爲とは右にいつた樣に意識されたる目的より起る動作のことで、即ち所謂有意的動作の謂である。但し行爲といへば外界の動作をも含めていふが、意志といへば主として内面的意識現象をさすので、今行爲の意識現象を論ずるといふことは即ち意志を論ずるといふことになるのである。さて意志は如何にして起るか。元來我々の身體は大體に於て自己の生命を保持發展する爲に自ら適當なる運動をなす樣に作られて居り、意識は此運動に副うて發生するので、始は單純なる苦樂の情である。然るに外界に對する觀念が次第に明瞭となり且つ聯想作用が活溌になると共に、前の運動は外界刺戟に對して無意識に發せずして、先づ結果の觀念を想起し、之より其手段となるべき運動の觀念を伴ひ、而して後運動に移るといふ風になる、即ち意志なる者が發生するのである。夫で意志の起るには先づ運動の方向、意識上にていへば聯想の方向を定むる肉體的若しくは精神的の素因といふものがなければならぬ。此者は意識の上には一種の衝動的感情として現はれてくる。こはその生受的なると後得的なるとを問はず意志の力とも稱すべき者で、爰に之を動機と名づけて置く。次に經驗に由りて得、聯想に由りて惹起せられたる結果の觀念即ち目的、詳しくいへば目的觀念といふ者が右の動機に伴はねばならぬ。此時漸く意志の形が成立するので、之を欲求と名づけ、即ち意志の初位である。此欲求が唯一つであつた時には運動の觀念を伴うて動作に發するのであるが、欲求が二つ以上あつた時には所謂欲求の競爭なる者が起つて、其中最も有力なる者が意識の主位を占め、動作に發する樣になる。之を決意といふ。我々の意志といふのはかゝる意識現象の全體をさすのであるが、時には狹義に於ては愈々動作に移る瞬間の作用或は特に決意の如き者をいふこともある。行爲の要部は實に此の内面的意識現象たる意志にあるので、外面の動作は其要部ではない。何等かの障碍の爲め動作が起らなかつたとしても、立派に意志があつたのであれば之を行爲といふことができ、之に反し、動作が起つても充分に意志がなかつたならば之を行爲といふことはできぬ。意識の内面的活動が盛になると、始より意識内の出來事を目的とする意志が起つてくる。かゝる場合に於ても勿論行爲と名づけることができる。心理學者は内外といふ樣に區別をするが意識現象としては全然同一の性質を具へて居るのである。

 右に述べたところは單に行爲の要部たる意志の過程を記載したのにすぎないから、今一歩を進んで、意志は如何なる性質の意識現象で、意識の中に於て如何なる地位を占める者であるかを説明して見よう。心理學から見れば、意志は觀念統一の作用である。即ち統覺の一種に屬すべき者である。意識に於ける觀念結合の作用には二種あつて、一つは觀念結合の原因が主として外界の事情に存し、意識に於ては結合の方向が明でなく、受働的と感ぜらるゝので、之を聯想といひ、一つは結合の原因が意識内にあり、結合の方向が明に意識せられて居り、意識が能働的に結合すると感ぜらるゝので、之を統覺といふ。然るに右にいつたやうに、意志とは先づ觀念結合の方向を定むる目的觀念なる者があつて、之より從來の經驗にて得たる種々の運動觀念の中に就いて自己の實現に適當なる觀念の結合を構成するので、全く一の統覺作用である。斯く意志が觀念統一の作用であるといふことは、欲求の競爭の場合に於て益々明となる。所謂決意とは此統一の終結にすぎないのである。

 然らば此意志の統覺作用と他の統覺作用とは如何なる關係に於て立ち居るのであるか。意志の外に思惟、想像の作用も同じく統覺作用に屬して居る。此等の作用に於ても或統一的觀念が本となつて、之より其目的に合ふ樣に觀念を統一するので、觀念活動の形式に於ては全く意志と同一である。唯其統一の目的が同じくなく、從つて統一の法則が異なつて居るから、各相異なつた意識の作用と考へられて居るのである。併し今一層精細に何點に於て異なり何點に於て同じきかを考究して見よう。先づ想像と意志とを比較して見ると、想像の目的は自然の模擬であつて、意志の目的は自身の運動である。從つて想像に於ては自然の眞状態に合ふ樣に觀念を統一し、意志では自己の欲望に合ふ樣に統一するのである。併し精しく考へて見ると、意志の運動の前には必ず先づ一度其運動を想像せねばならず、又自然を想像するには自分が先づ其物になつて考へて見なければならぬ。唯想像といふものはどうしても外物を想像するので、自己が全く之と一致することができず、從つて自己の現實でないといふ樣な感がする。即ち或事を想像するといふのと之を實行するといふのとはどうしても異なる樣に思はれるのである。併し更に一歩を進めて考へて見ると、こは程度の差であつて性質の差ではない。想像も美術家の想像に於て見るが如く入神の域に達すれば、全く自己を其中に沒し自己と物と全然一致して、物の活動が直に自己の意志活動と感ぜらるゝ樣にもなるのである。次に思惟と意志とを比較して見ると、思惟の目的は眞理にあるので、其觀念結合を支配する法則は論理の法則である。我々は眞理とする所の者を必ず意志するとは限らない、又意志する所の者が必ず眞理であるとは考へて居らぬ。加之、思惟の統一は單に抽象的概念の統一であるが、意志と想像とは具體的觀念の統一である。此等の點に於て思惟と意志とは一見明に區別があつて、誰も之を混ずる者はないのであるが又能く考へて見ると、此區別も左程に明確にして動かすべからざるものではない。意志の背後にはいつでも相當の理由が潛んで居る。其理由は完全ならざるにせよ、兎に角意志は或眞理の上に働くものである、即ち思惟に由つて成立するのである。之に反し、王陽明が知行同一を主張した樣に眞實の知識は必ず意志の實行を伴はなければならぬ。自分はかく思惟するが、かくは欲せぬといふのは未だ眞に知らないのである。斯く考へて見ると、思惟、想像、意志の三つの統覺は其根本に於ては同一の統一作用である。其中思惟及び想像は物及自己の凡てに關する觀念に對する統一作用であるが、意志は特に自己の活動のみに關する觀念の統一作用である。之に反し、前者は單に理想的、即ち可能的統一であるが、後者は現實的統一である、即ち統一の極致であるといふことができる。

 已に意志の統覺作用に於ける地位を略述した所で、今度は他の觀念的結合、即ち聯想及融合との關係を述べよう。聯想に就いては曩に、其觀念結合の方向を定むる者は外界にありて内界にないといつたが、是は單に程度の上より論じたので、聯想に於ても其統一作用が全く内にないとはいはれない。唯明に意識上に現はれぬまでである。融合に至つては觀念の結合が更に無意識であつて、結合作用すら意識しないのであるが、それとて決して内面的統一がないのではない。之を要するに意識現象は凡て意志と同一の形式を具へて居て、凡て或意味に於ける意志であるといふことができる、而して此等の統一作用の根本となる統一力を自己と名づくるならば、意志は其中にて最も明に自己を發表したものである。それで我々は意志活動に於て最も明に自己を意識するのである。

     第二章 行爲 下

 之までは心理學上より、行爲とは如何なる意識現象であるかを論じたのであるが、之より行爲の本たる意志の統一力なるものが何處より起るか、實在の上に於てこの力は如何なる意義をもつて居るかの問題を論じ、哲學上意志及行爲の性質を明にして置かうと思ふ。

 或定まれる目的に由りて内より觀念を統一するといふ意志の統一とは果して何より起るのであるか。物質の外に實在なしといふ科學者の見地より見れば、此力は我々の身體より起るといふの外なからう。我々の身體は動物のそれと同じく、一の體系をなせる有機體である。動物の有機體は精神の有無に關せず、神經系統の中樞に於て機械的に種々の秩序立ちたる運動をなすことができる。即ち反射運動、自動運動、更に複雜なる本能的動作をなすことができるのである。我々の意志も元は此等の無意識運動より發達し來つたもので、今でも意志が訓練せられた時には復此等の無意識運動の状態に還るのであるから、つまり同一の力に基づいて起る同一種の運動であると考へるの外はない。而して有機體の種々の目的は凡て自己及自己の種屬に於ける生活の維持發展といふことに歸するのであるから、我々の意志の目的も生活保存の外になからう。唯意志に於ては目的が意識せられて居るので、他と異なつて見えるのみである。それで科學者は我々人間に於ける種々高尚なる精神上の要求をも皆此生活の目的より説明せうとするのである。

 併し斯く意志の本を物質力に求め、微妙幽遠なる人生の要求を單に生活慾より説明せうとするのは頗る難事である。縱令高尚なる意志の發達は同時に生活作用の隆盛を伴ふものとしても、最上の目的は前者にありて後者にあるのではあるまい。後者は反つて前者の手段と考へねばならぬのであらう。併し姑く此等の議論は後にして、若し科學者のいふ樣に我々の意志は有機體の物質的作用より起る者とするならば、物質は如何なる能力を有するものと假定せねばならぬであらうか。有機體の合目的運動が物質より起るといふには二つの考へ方がある。一つは自然を合目的なる者と見て、生物の種子に於ての如く、物質の中にも合目的力を潛勢的に含んで居らねばならぬとするので、一つは物質は單に機械力をのみ具するものと見て、合目的なる自然現象は凡て偶然に起るものとするのである。嚴密なる科學者の見解は寧ろ後者にあるのであるが、余は此の二つの見解が同一の考へ方であつて、決して其根柢までを異にせるものではないと思ふ。後者の見解にしても何處かに或一定不變の現象を起す力があると假定せねばならぬ。機械的運動を生ずるには之を生ずる力が物體の中に潛在すると假定せねばならぬ。かくいひうるならば、何故に同じ理由に由りて有機體の合目的力を物體の中に潛在すると考へることができぬか。或は有機體の合目的運動の如きは、かゝる力を假定せずとも、更に簡單なる物理化學の法則に由りて説明することが出來るといふ者もあらう。併しかくいへば、今日の物理化學の法則も尚一層簡單なる法則に由りて説明ができるかも知れぬ。否知識の進歩は無限であるから必ず説明されねばならぬと思ふ。かく考ふれば眞理は單に相對的である。余は寧ろ此考を反對となし、分析よりも綜合に重きを置いて、合目的なる自然が個々の分立より綜合にすゝみ、階段を蹈んで己が眞意を發揮すると見るのが至當であると思ふ。

 更に余が曩に述べた實在の見方に由れば、物體といふのは意識現象の不變的關係に名づけた名目にすぎないので、物體が意識を生ずるのではなく、意識が物體を作るのである。最も客觀的なる機械的運動といふ如き者も我々の論理的統一に由りて成立するので、決して意識の統一を離れたものではない。之より進んで生物の生活現象となり、更に進んで動物の意識現象となるに從つて、其統一は愈々活溌となり多方面となり且つ深遠となるのである。意志は我々の意識の最も深き統一力であつて、又實在統一力の最も深遠なる發現である。外面より見て單に機械的運動であり生活現象の過程であるものが、其内面の眞意義に於ては意志であるのである。恰も單に木であり石であると思つて居たものが、其眞意義に於ては慈悲圓滿なる佛像であり、勇氣滿々たる仁王であるが如く、所謂自然は意志の發現であつて、我々は自己の意志を通して幽玄なる自然の眞意義を捕捉することができるのである。固より現象を内外に分ち精神現象と物體現象とが全く異なれる現象と見做す時は、右の如き説は空想に止まる樣に思はれるかも知れぬが、直接經驗に於ける具體的事實には内外の別なく、斯の如き考が反つて直接の事實であるのである。

 右に述べし所は物體の機械的運動、有機體の合目的をもつて意志と根本を一つにし作用を同じうすると見る科學者のいふ所と一致するのであるが、併し其根本とする所の者は全く正反對である。彼は物質力を以て本となし、是は意志を以て本とするのである。

 此考に由れば、前に行爲を分析して意志と動作の二としたのであるが、この二者の關係は原因と結果との關係ではなく、寧ろ同一物の兩面である。動作は意志の表現である。外より動作と見らるゝ者が内より見て意志であるのである。

     第三章 意志の自由

 意志は心理的にいへば意識の一現象たるに過ぎないが、其本體に於ては實在の根本であることを論じた。今此意志が如何なる意味に於て自由の活動であるかを論じて見よう。意志が自由であるか、將又必然であるかは久しき以來學者の頭を惱ました問題である。此議論は道徳上大切であるのみならず、之に由りて意志の哲學的性質をも明にすることができるのである。

 先づ我々が普通に信ずる所に由つて見れば、誰も自分の意志が自由であると考へぬ者はない。自分が自分の意識に就いて經驗する所では、或範圍に於て或事を爲すこともできれば又爲さぬこともできる。即ち或範圍内に於ては自由であると信じて居る。之が爲に責任、無責任、自負、後悔、賞讚、非難等の念が起つてくるのである。併し此の或範圍内といふことを今少しく詳しく考へて見よう。凡て外界の事物に屬する者は我々は之を自由に支配することはできぬ。自己の身體すらも何處までも自由に取扱ふことができるとはいはれない。隨意筋肉の運動は自由のやうであるが、一旦病氣にでもかゝれば之を自由に動かすことはできぬ。自由にできるといふのは單に自己の意識現象である。併し自己の意識内の現象とても、我々は新に觀念を作り出す自由も持たず、又一度經驗した事をいつでも呼び起す自由すらも持たない。眞に自由と思はれるのは唯觀念結合の作用あるのみである。即ち觀念を如何に分析し、如何に綜合するかが自己の自由に屬するのである。勿論此場合に於ても觀念の分析綜合には動かすべからざる先在的法則なる者があつて、勝手にできるのではなく、又觀念間の結合が唯一であるか、又は或結合が特に強盛であつた時には、我々はどうしても此結合に從はねばならぬのである。唯觀念成立の先在的法則の範圍内に於て、而も觀念結合に二つ以上の途があり、此等の結合の強度が強迫的ならざる場合に於てのみ、全然選擇の自由を有するのである。

 自由意志論を主張する人は、多くこの内界經驗の事實を根據として立論するのである。右の範圍内に於て動機を選擇決定するのは全く我々の自由に屬し、我々の他に理由はない、此決定は外界の事情又は内界の氣質、習慣、性格より獨立せる意志といふ一の神祕力に由るものと考へて居る。即ち觀念の結合の外に之を支配する一の力があると考へて居る。之に反し、意志の必然論を主張する人は大概外界に於ける事實の觀察を本として之より推論するのである。宇宙の現象は一として偶然に起る者はない、極めて些細なる事柄でも、精しく研究すれば必ず相當の原因をもつて居る。此考は凡て學問と稱するものの根本的思想であつて、且つ科學の發達と共に益々この思想が確實となるのである。自然現象の中にて從來神祕的と思はれて居たものも、一々其原因結果が明瞭となつて、數學的に計算ができる樣にまで進んできた。今日の所で尚原因がないなどと思はれて居るものは我々の意志位である。併し意志といつてもこの動かすべからざる自然の大法則の外に脱することはできまい。今日意志が自由であると思うて居るのは、畢竟未だ科學の發達が幼稚であつて、一々この原因を説明することができぬ故である。加之、意志的動作も個々の場合に於ては、實に不規則であつて一見定まつた原因がない樣であるが、多數の人の動作を統計的に考へて見ると案外秩序的である、決して一定の原因結果がないとは見られない。此等の考は益々我々の意志に原因があるといふ確信を強くし、我々の意志は凡ての自然現象と同じく、必然なる機械的因果の法則に支配せらるゝ者で、別に意志といふ一種の神祕力はないといふ斷案に到達するのである。

 さて此の二つの反對論の孰れが正當であらうか。極端なる自由意志論者は右にいつた樣に、全く原因も理由もなく、自由に動機を決定する一の神祕的能力があるといふ。併しかゝる意義に於て意志の自由を主張するならば、そは全く誤謬である。我々が動機を決する時には、何か相當の理由がなければならぬ。縱ひ、之が明瞭に意識の上に現はれて居らぬにしても、意識下に於て何か原因がなければならぬ。又若し此等の論者のいふ樣に、何等の理由なくして全く偶然に事を決する如きことがあつたならば、我々は此時意志の自由を感じないで、反つて之を偶然の出來事として外より働いた者と考へるのである。從つて之に對し責任を感ずることが薄いのである。自由意志論者が内界の經驗を本として議論を立つるといふが、内界の經驗は反つて反對の事實を證明するのである。

 次に必然論者の議論に就いて少しく批評を下して見よう。此種の論者は自然現象が機械的必然の法則に支配せらるゝから、意識現象もその通りでなければならぬといふのであるが、元來此議論には意識現象と自然現象(換言すれば物體現象)とは同一であつて、同一の法則に由つて支配せらるべきものであるといふ假定が根據となつて居る。併し此假定は果して正しきものであらうか。意識現象が物體現象と同一の法則に支配せらるべきものか否かは未定の議論である。斯の如き假定の上に立つ議論は甚だ薄弱であるといはねばならぬ。たとひ今日の生理的心理學が非常に進歩して、意識現象の基礎たる腦の作用が一々物理的及化學的に説明ができたとしても、之に由りて意識現象は機械的必然法に因つて支配せらるべき者であると主張することができるだろうか。例へば一銅像の材料たる銅は機械的必然法の支配の外に出でぬであらうが、此銅像の現はす意味は此外に存するではないか。所謂精神上の意味なるものは見るべからず聞くべからず數ふべからざるものであつて、機械的必然法以外に超然たるものであるといはねばならぬ。

 之を要するに、自由意志論者のいふ樣な全く原因も理由もない意志は何處にもない。かくの如き偶然の意志は決して自由と感ぜられないで、反つて強迫と感ぜらるゝのである。我々が或理由より働いた時即ち自己の内面的性質より働いた時、反つて自由であると感ぜられるのである。つまり動機の原因が自己の最深なる内面的性質より出でた時、最も自由と感ずるのである。併しその所謂意志の理由なる者は必然論者のいふ樣な機械的原因ではない。我々の精神には精神活動の法則がある。精神が此の己自身の法則に從うて働いた時が眞に自由であるのである。自由には二つの意義がある。一は全く原因がない即ち偶然といふことと同意義の自由であつて、一は自分が外の束縛を受けない、己自らにて働く意味の自由である。即ち必然的自由の意義である。意志の自由といふのは、後者に於ける意味の自由である。併し是に於て次の如き問題が起つてくるであらう。自己の性質に從うて働くのが自由であるといふならば、萬物皆自己の性質に從つて働かぬ者はない、水の流れるのも火の燃えるのも皆自己の性質に從ふのである。然るに何故に他を必然として、獨り意志のみ自由となすのであるか。

 所謂自然界に於ては、或一つの現象の起るのは其事情に由りて嚴密に定められて居る。或定まつた事情よりは、或定まつた一の現象を生ずるのみであつて、毫釐も他の可能性を許さない。自然現象は皆かくの如き盲目的必然の法則に從うて生ずるのである。然るに意識現象は單に生ずるのではなくして、意識されたる現象である。即ち生ずるのみならず、生じたことを自知して居るのである。而してこの知るといひ意識するといふことは即ち他の可能性を含むといふことである。我々が取ることを意識するといふことは其裏面に取らぬといふ可能性を含むといふの意味である。更に詳言すれば、意識には必ず一般的性質の者がある、即ち意識は理想的要素をもつて居る。これでなければ意識ではない。而して此等の性質があるといふことは、現實のかゝる出來事の外更に他の可能性を有して居るといふのである。現實にして而も理想を含み、理想的にして而も現實を離れぬといふのが意識の特性である。眞實に云へば、意識は決して他より支配される者ではない、常に他を支配して居るのである。故に我々の行爲は必然の法則に由りて生じたるにせよ、我々は之を知るが故にこの行爲の中に窘束せられて居らぬ。意識の根柢たる理想の方より見れば、此現實は理想の特殊なる一例にすぎない。即ち理想が己自身を實現する一過程にすぎない。其行爲は外より來たのではなく、内より出でたるのである。又斯の如く現實を理想の一例にすぎないと見るから、他にいくらも可能性を含むこととなるのである。

 それで意識の自由といふのは、自然の法則を破つて偶然的に働くから自由であるのではない、反つて自己の自然に從ふが故に自由である。理由なくして働くから自由であるのではない、能く理由を知るが故に自由であるのである。我々は知識の進むと共に益々自由の人となることができる。人は他より制せられ壓せられてもこれを知るが故に、此抑壓以外に脱して居るのである。更に進んでよくその已むを得ざる所以を自得すれば、抑壓が反つて自己の自由となる。ソクラテースを毒殺せしアゼンス人よりも、ソクラテースの方が自由の人である。パスカルも、人は葦の如き弱き者である、併し人は考へる葦である、全世界が彼を滅さんとするも彼は彼が死することを、自知するが故に殺す者より尚しといつて居る。

 意識の根柢たる理想的要素、換言すれば統一作用なる者は、嘗て實在の編に論じた樣に、自然の産物ではなくして、反つて自然は此統一に由りて成立するのである。こは實に實在の根本たる無限の力であつて、之を數量的に限定することはできない。全然自然の必然的法則以外に存する者である。我々の意志は此力の發現なるが故に自由である、自然的法則の支配は受けない。

     第四章 價値的研究

 凡て現象或は出來事を見るに二つの點よりすることができる。一は如何にして起つたか、又何故にかくあらざるべからざるかの原因もしくは理由の考究であり、一は何の爲に起つたかといふ目的の考究である。例へば此處に一個の花ありとせよ。こは如何にして出來たかといへば、植物と外圍の事情とにより、物理及化學の法則に因りて生じたものであるといはねばならず、何の爲かといへば果實を結ぶ爲であるといふこととなる。前者は單に物の成立の法則を研究する理論的研究であつて、後者は物の活動の法則を研究する實踐的研究である。

 所謂無機界の現象にては、何故に起つたかといふ事はあるが、何の爲といふことはない、即ち目的がないといはねばならぬ。但此場合でも目的と原因とが同一となつて居るといふ事ができる。例へば玉突臺の上に於て玉を或力を以て或方向に突けば、必ず一定の方向に向つて轉るが、此時玉に何等の目的があるのではない。或は之を突いた人には何か目的があるかも知れぬが、之は玉其者の内面的目的でない、玉は外界の原因よりして必然的に動かされるのである。併し又一方より考へれば、玉其物に斯の如き運動の力があればこそ玉は一定の方向に動くのである。玉其物の内面的力より云へば、自己を實現する合目的作用とも見ることができる。更に進んで動植物に至ると、自己の内面的目的といふ者が明になると共に、原因と目的とが區別せらるゝ樣になる。動植物に起る現象は物理及化學の必然的法則に從うて起ると共に、全然無意義の現象ではない。生物全體の生存及發達を目的とした現象である。かゝる現象にありては或原因の結果として起つた者が必ずしも合目的とはいはれない、全體の目的と一部の現象とは衝突を來す事がある。そこで我々は如何なる現象が最も目的に合うて居るか、現象の價値的研究をせねばならぬやうになる。

 生物の現象ではまだ、其統一的目的なる者が我々人間の外より加へた想像にすぎないとして之を除去することもできぬではない。即ち生物の現象は單に若干の力の集合に依りて成れる無意義の結合と見做すこともできるのである。獨り我々の意識現象に至つては、決してかく見ることはできない、意識現象は始より無意義なる要素の結合ではなくして、統一せる一活動である。思惟、想像、意志の作用より其統一的活動を除去したならば、此等の現象は消滅するのである。此等の作用に就いては、如何にして起るかといふよりも、如何に考へ、如何に想像し、如何に爲すべきかを論ずるのが、第一の問題である。是に於て論理、審美、倫理の研究が起つて來る。

 或學者の中には存在の法則よりして價値の法則を導き出さうとする人もある。併し我々は單に之より之が生ずるといふことから、物の價値的判斷を導き出すことは出來ぬと思ふ。赤き花はかゝる結果を生じ、又は青き花はかゝる結果を生ずといふ原因結果の法則からして、何故に此の花は美にして彼の花は醜であるか、何故に一は大なる價値を有し、一は之を有せぬかを説明することはできぬ。此等の價値的判斷には、之が標準となるべき別の原理がなければならぬ。我々の思惟、想像、意志といふ如き者も、已に事實として起つた上は、いかに誤つた思惟でも、惡しき意志でも、又拙劣なる想像でも、盡くそれぞれ相當の原因に因つて起るのである。人を殺すといふ意志も、人を助くるの意志も皆或必然の原因ありて起り、又必然の結果を生ずるのである。此點に於ては兩者少しも優劣がない。唯此處に良心の要求とか、又は生活の欲望といふ如き標準があつて、始めて此兩行爲の間に大なる優劣の差異を生ずるのである。或論者は大なる快樂を與ふる者が大なる價値を有するものであるといふ樣に説明して、之に由りて原因結果の法則より價値の法則を導き得た樣に考へて居る。併し何故に或結果が我々に快樂を與へ、或結果が我々に快樂を與へぬか、こは單に因果の法則より説明はできまい。我々が如何なるものを好み、如何なるものを惡むかは、別に根據を有する直接經驗の事實である。心理學者は我々の生活力を増進する者は快樂であるといふ、併し生活力を増進するのが何故に快樂であるか、厭世家は反つて生活が苦痛の源であるとも考へて居るではないか。又或論者は有力なる者が價値ある者であると考へて居る。併し人心に對し如何なる者が最も有力であるか、物質的に有力なる者が必ずしも人心に對して有力なる者とは云へまい、人心に對して有力なる者は最も我々の欲望を動かす者、即ち我々に對して價値ある者である。有力に由りて價値が定まるのではない、反つて價値に由りて有力と否とが定まるのである。凡て我々の欲望又は要求なる者は説明しうべからざる、與へられたる事實である。我々は生きる爲に食ふといふ、併しこの生きる爲といふのは後より加へたる説明である。我々の食欲はかゝる理由より起つたのではない。小兒が始めて乳をのむのもかゝる理由の爲ではない、唯飮む爲に飮むのである。我々の欲望或は要求は啻にかくの如き説明しうべからざる直接經驗の事實であるのみならず、反つて我々が之に由つて實在の眞意を理解する祕鑰である。實在の完全なる説明は、單に如何にして存在するかの説明のみではなく何の爲に存在するかを説明せねばならぬ。

     第五章 倫理學の諸説 其一

 已に價値的研究とは如何なる者なるかを論じたので、之より善とは如何なるものであるかの問題に移ることとせう。我々は上にいつた樣に我々の行爲に就いて價値的判斷を下す、此價値的判斷の標準は那邊にあるか、如何なる行爲が善であつて、如何なる行爲が惡であるか、此等の倫理學的問題を論ぜうと思ふのである。かゝる倫理學の問題は我々に取りて最も大切なる問題である。いかなる人も此問題を疎外することはできぬ。東洋に於ても又西洋に於ても、倫理學は最も古き學問の一であつて、從つて古來倫理學に種々の學説があるから、今先づ此學に於ける主なる學派の大綱をあげ且つ之に批評を加へて、余が執らんとする倫理學説の立脚地を明かにせうと思ふ。

 古來の倫理學説を大別すると、大體二つに別れる。一つは他律的倫理學説といふので、善惡の標準を人性以外の權力に置かうとする者と、一つは自律的倫理學説といつて、此標準を人性の中に求めようとするのである。外に尚直覺説といふのがある、此説の中には色々あつて、或者は他律的倫理學説の中に入ることができるが、或者は自律的倫理學説の中に入らねばならぬものである。今先づ直覺説より始めて順次他に及ばうと思ふ。

 此學説の中には種々あるが、其綱領とする所は我々の行爲を律すべき道徳の法則は直覺的に明なる者であつて、他に理由があるのではない、如何なる行爲が善であり、如何なる行爲が惡であるかは、火は熱にして、水は冷なるを知るが如く、直覺的に知ることができる、行爲の善惡は行爲其者の性質であつて、説明すべき者でないといふのである。成程我々の日常の經驗に就いて考へて見ると、行爲の善惡を判斷するのは、かれこれ理由を考へるのではなく、大抵直覺的に判斷するのである。所謂良心なる者があつて、恰も眼が物の美醜を判ずるが如く、直に行爲の善惡を判ずることができるのである。直覺説は此事實を根據とした者で、最も事實に近い學説である。加之、行爲の善惡は理由の説明を許さぬといふのは、道徳の威嚴を保つ上に於て頗る有效である。

 直覺説は簡單であつて實踐上有效なるにも拘らず、之を倫理學説として如何程の價値があるであらうか。直覺説に於て直覺的に明であるといふのは、人性の究竟的目的といふ如きものではなくて、行爲の法則である。勿論直覺説の中にも、凡ての行爲の善惡が個々の場合に於て直覺的に明であるといふのと、個々の道徳的判斷を總括する根本的道徳法が直覺的に明瞭であるといふのと二つあるが、孰れにしても或直接自明なる行爲の法則があるといふのが直覺説の生命である。併し我々が日常行爲に就いて下す所の道徳的判斷、即ち所謂良心の命令といふ如き者の中に、果して直覺論者のいふ如き直接自明で、從つて正確で矛盾のない道徳法なる者を見出しうるであらうか。先づ個々の場合に就いて見るに、決してかくの如き明確なる判斷のないことは明である。我々は個々の場合に於て善惡の判斷に迷ふこともあり、今は是と考へることも後には非と考へることもあり、又同一の場合でも、人に由りて大に善惡の判斷を異にすることもある。個々の場合に於て明確なる道徳的判斷があるなどとは少しく反省的精神を有する者の到底考へることができないことである。然らば一般の場合に於ては如何ん、果して論者のいふ如き自明の原則なる者があるであらうか。第一に所謂直覺論者が自明の原則として掲げて居る所の者が人に由りて異なり決して常に一致することなきことが、一般に認めらるべき程の自明の原則なる者がないことを證明して居る。加之、世人が自明の義務として承認して居るものの中より、一もかゝる原則を見出すことはできぬ。忠孝といふ如きことは固より當然の義務であるが、其間には種々衝突もあり、變遷もあり、さていかにするのが眞の忠孝であるか、決して明瞭ではない。又智勇仁義の意義に就いて考へて見ても、いかなる智いかなる勇が眞の智勇であるか、凡ての智勇が善とはいはれない、智勇が反つて惡の爲に用ゐられることもある。仁と義とは其内で最も自明の原則に近いのであるが、仁はいつ如何なる場合に於ても、絶對的に善であるとはいはれない、不當の仁は反つて惡結果を生ずることもある。又正義といつても如何なる者が眞の正義であるか、決して自明とはいはれない、例へば人を待遇するにしても、如何にするのが正當であるか、單に各人の平等といふことが正義でもない、反つて各人の價値に由るが正義である。然るに若し各人の價値に由るとするならば、之を定むる者は何であるか。要するに我々は我々の道徳的判斷に於て、一も直覺論者のいふ如き自明の原則をもつて居らぬ。時に自明の原則と思はれるものは、何等の内容なき單に同意義なる語を繰返せる命題にすぎないのである。

 右に論じた如く、直覺説はその主張する如き、善惡の直覺を證明することができないとすれば、學説としては甚だ價値少きものであるが、今假に斯かる直覺があるものとして、之に由りて與へられたる法則に從ふのが善であるとしたならば、直覺説は如何なる倫理學説となるであらうかを考へて見よう。純粹に直覺といへば、論者のいふ如く理性に由りて説明することができない、又苦樂の感情、好惡の欲求に關係のない、全く直接にして無意義の意識といはねばならぬ。若しかくの如き直覺に從ふのが善であるとすれば、善とは我々に取りて無意義の者であつて、我々が善に從ふのは單に盲從である、即ち道徳の法則は人性に對して外より與へられたる抑壓となり、直覺説は他律的倫理學と同一とならねばならぬ。然るに多くの直覺論者は右の如き意味に於ける直覺を主張して居らぬ。或者は直覺を理性と同一視して居る、即ち道徳の根本的法則が理性に由りて自明なる者と考へて居る。併しかく云へば善とは理に從ふ事であつて、善惡の區別は直覺に由つて明なるのではなく、理に由りて説明しうることとなる。又或直覺論者は直覺と直接の快不快、又は好惡といふことを同一視して居る。併しかく考へれば善は一種の快樂又は滿足を與ふるが故に善であるので、即ち善惡の標準は快樂又は滿足の大小といふことに移つて來る。かくの如く直覺なる語の意味に由つて、直覺説は他の種々なる倫理學説と接近する。勿論純粹なる直覺説といへば、全く無意義の直覺を意味するのでなければならぬのであるが、斯の如き倫理學説は他律的倫理學と同じく、何故に我々は善に從はねばならぬかを説明することはできぬ。道徳の本は全く偶然にして無意味の者となる。元來我々が實際に道徳的直覺といつて居る者の中には種々の原理を含んで居るのである。其中全く他の權威より來る他律的の者もあれば、理性より來れる者又感情及欲求より來れる者をも含んで居る。是所謂自明の原則なる者が種々の矛盾衝突に陷る所以である。かゝる混雜せる原理を以て學説を設立する能はざることは明である。

     第六章 倫理學の諸説 其二

 前に直覺説の不完全なることを論じ、且つ直覺の意義に由りて、種々相異なれる學説に變じうることをのべた。今純粹なる他律的倫理學、即ち權力説に就いて述べようと思ふ。此派の論者は、我々が道徳的善といつて居る者が、一面に於て自己の快樂或は滿足といふ如き人性の要求と趣を異にし、嚴肅な命令の意味を有する邊に着目し、道徳は吾人に對し絶大なる威嚴又は勢力を有する者の命令より起つてくるので、我々が道徳の法則に從ふのは自己の利害得失の爲ではなく、單に此の絶大なる權力の命令に從ふのである、善と惡とは一に此の如き權力者の命令に由つて定まると考へて居る。凡て我々の道徳的判斷の本は師父の教訓、法律、制度、習慣等に由りて養成せられたる者であるから、かゝる倫理學説の起るのも無理ならぬことであつて、此説は丁度前の直覺説に於ける良心の命令に代ふるに外界の權威を以てした者である。

 此種の學説に於て外界の權力者と考へられる者は、勿論自ら我々に對して絶大の威嚴勢力をもつた者でなければならぬ。倫理學史上に現はれたる權力説の中では、君主を本としたる君權的權力説と、神を本としたる神權的權力説との二種がある。神權的倫理學は基督教が無上の勢力をもつて居た中世時代に行はれたので、ドゥンス・スコトゥスなどが其主張者である。氏に從へば神は我々に對し無限の勢力を有するものであつて、而も神意は全く自由である。神は善なる故に命ずるのでもなく、又理の爲に爲すのでもない、神は全く此等の束縛以外に超越して居る。善なるが故に神之を命ずるのでは無く、神之を命ずるが故に善なるのである。氏は極端にまで此説を推論して、若し神が我々に命ずるに殺戮を以てしたならば、殺戮も善となるであらうとまでにいつた。又君權的權力説を主張したのは近世の始に出た英國のホッブスといふ人である。氏に從へば人性は全然惡であつて弱肉強食が自然の状態である。之より來る人生の不幸を脱するのは、唯各人が凡ての權力を一君主に托して絶對にその命令に服從するにある。それで何でもこの君主の命に從ふのが善であり、之に背くのが惡であるといつて居る。其他支那に於て荀子が凡て先王の道に從ふのが善であるといつたのも、一種の權力説である。

 右の權力説の立場より嚴密に論じたならば、如何なる結論に達するであらうか。權力説に於ては何故に我々は善をなさねばならぬかの説明ができぬ、否説明のできぬのが權力説の本意である。我々は唯權威であるから之に從ふのである。何か或理由の爲に之に從ふならば、已に權威其者の爲に從ふのではなく、理由の爲に從ふこととなる。或人は恐怖といふことが權威に從ふ爲の最適當なる動機であるといふ、併し恐怖といふことの裏面には自己の利害得失といふことを含んで居る。併し若し自己の利害の爲に從ふならば已に權威の爲に從ふのではない。ホッブスの如きは之が爲に純粹なる權威説の立脚地を離れて居る。又近頃最も面白く權威説を説明したキルヒマンの説に由ると、我々は何でも絶大なる勢力を有するもの、例へば高山、大海の如き者に接する時は、自ら其絶大なる力に打たれて驚動の情を生ずる、此情は恐怖でもなく、苦痛でもなく、自己が外界の雄大なる事物に擒にせられ、之に平服し沒入するの状態である。而して此絶大なる勢力者が若し意志をもつた者であるならば、自ら此處に尊敬の念を生ぜねばならぬ、即ち此者の命令には尊敬の念を以て服從する樣になる、それで尊敬の念といふことが、權威に從ふ動機であるといつて居る。併し能く考へて見ると、我々が他を尊敬するといふのは、全然故なくして尊敬するのではない、我々は我々の達する能はざる理想を實現し得たる人なるが故に尊敬するのである。單に人其者を尊敬するのではなく理想を尊敬するのである。禽獸には釋迦も孔子も半文錢の價値もないのである。それで嚴密なる權力説では道徳は全く盲目的服從でなければならぬ。恐怖といふも、尊敬といふも、全く何等の意義のない盲目的感情でなければならぬ。エソップの寓話の中に、或時鹿の子が母鹿の犬の聲に怖れて逃げるのを見て、お母さんは大きな體をして何故に小い犬の聲に駭いて逃げるのであるかと問うた。所が母鹿は何故かは知らぬが、唯犬の聲が無暗にこわいから逃るのだといつたといふ話がある。かくの如き無意義の恐怖が權力説に於て最も適當なる道徳的動機であると考へる。果してかゝる者であるならば、道徳と知識とは全く正反對であつて、無知なる者が最も善人である。人間が進歩發達するには一日も早く道徳の束縛を脱せねばならぬといふことになる。又いかなる善行でも權威の命令に從ふといふ考なく、自分がその爲さゞるべからざる所以を自得して爲したことは道徳的善行でないといふこととなる。

 權威説よりはかくの如く道徳的動機を説明することができぬばかりでなく、所謂道徳法といふものも殆ど無意義となり、從つて善惡の區別も全く標準がなくなつてくる。我々は唯權威なる故に盲目的に之に服從するといふならば、權威には種々の權威がある。暴力的權威もあれば、高尚なる精神的權威もある。併し孰れに從ふのも權威に從ふのであるから、齊しく一であるといはねばならぬ。即ち善惡の標準は全く立たなくなる。勿論力の強弱大小といふのが標準となる樣に思はれるが、力の強弱大小といふことも、何か我々が理想とする所の者が定まつて、始めて之を論じ得るのである。耶蘇とナポレオンとは孰れが強いか、そは我々の理想の定め樣に由るのである。若し單に世界に存在する力をもつて居る者が有力であるといふならば、腕力をもつた者が最も有力といふことにもなる。

 西行法師が「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさになみだこぼるる」と詠じた樣に、道徳の威嚴は實に其不測の邊に存するのである。權威説の此點に着目したのは一方の眞理を含んでは居るが、之が爲に全然人性自然の要求を忘却したのは、其大なる缺點である。道徳は人性自然の上に根據をもつた者で、何故に善をなさねばならぬかといふことは人性の内より説明されねばならぬ。

     第七章 倫理學の諸説 其三

 他律的倫理學では、上にいつた樣に、どうしても何故に我々は善を爲さねばならぬかを説明することができぬ。善は全く無意義の者となるのである。そこで我々は道徳の本を人性の中に求めねばならぬ樣になつてくる。善は如何なる者であるか、何故に善を爲さねばならぬかの問題を、人性より説明せねばならぬ樣になつてくる。かくの如き倫理學を自律的倫理學といふ。これには三種あつて、一つは理性を本とする者で合理説又は主知説といひ、一つは苦樂の感情を本とする者で快樂説といひ、又一つは意志の活動を本とする者で活動説といふ。今先づ合理説より話さう。

 合理的若しくは主知的倫理學dianoetic ethicsといふのは、道徳上の善惡正邪といふことと知識上の眞僞といふこととを同一視して居る。物の眞相が即ち善である、物の眞相を知れば自ら何を爲さねばならぬかが明となる、我々の義務は幾何學的眞理の如く演繹しうる者であると考へて居る。それで我々は何故に善を爲さねばならぬかといへば、眞理なるが故であるといふのである。我々人間は理性を具して居つて、知識に於て理に從はねばならぬ樣に、實行に於ても理に從はねばならぬのである(ちょつと注意しておくが、理といふ語には哲學上色々の意味があるが、此處に理といふのは普通の意味に於ける抽象的概念の關係をいふのである)。此説は一方に於てはホッブスなどの樣に、道徳法は君主の意志に由りて左右し得る隨意的の者であるといふに反し、道徳法は物の性質であつて、永久不變なることを主張し、又一方では、善惡の本を知覺又は感情の如き感受性に求むる時は、道徳法の一般性を説明することができず、義務の威嚴を滅却し、各人の好尚を以て唯一の標準とせねばならぬ樣になるのを恐れて、理の一般性に基づいて、道徳法の一般性を説明し義務の威嚴を立せんとしたのである。此説は往々前にいつた直覺説と混同せらるゝことが多いが、直覺といふことは必ずしも理性の直覺と限るには及ばぬ。この二者は二つに分つて考へた方がよいと思ふ。

 余は合理説の最醇なる者はクラークの説であると考へる。氏の考に依れば、凡て人事界に於ける物の關係は數理の如く明確なる者で、之に由りて自ら物の適當不適當を知ることができるといふ。例へば神は我々より無限に優秀なる者であるから、我々は之に服從せねばならぬとか、他人が己に施して不正なる事は自分が他人に爲しても不正であるといふ樣な譯である。氏は又何故に人間は善を爲さねばならぬかを論じて、合理的動物は理に從はざるべからずといつて居る。時としては、正義に反して働かんとする者は物の性質を變ぜんと欲するが如き者であるとまでにいつて、全く「ある」といふことと「あらねばならぬ」といふことを混同して居る。

 合理説が道徳法の一般性を明にし、義務を嚴肅ならしめんとするは可なれども、之を以て道徳の全豹を説き得たるものとなすことはできぬ。論者のいふ樣に、我々の行爲を指導する道徳法なる者が、形式的理解力によりて先天的に知りうる者であらうか。純粹なる形式的理解力は論理學の所謂思想の三法則といふ如き、單に形式的理解の法則を與ふることはできるが、何等の内容を與ふることはできぬ。論者は好んで例を幾何學に取るが、幾何學に於ても、其公理なる者は單に形式的理解力に由りて、明になつたのではなく、空間の性質より來るのである。幾何學の演繹的推理は空間の性質に就いての根本的直覺に、論理法を應用したものである。倫理學に於ても、已に根本原理が明となつた上は之を應用するには、論理の法則に由らねばならぬのであらうが、この原則其者は論理の法則に由つて明になつたのではない。例へば汝の隣人を愛せよといふ道徳法は單に理解力に由りて明であるであらうか。我々に他愛の性質もあれば、又自愛の性質もある。然るに何故に其一が優つて居て他が劣つて居るのであらうか、之を定むる者は理解力ではなくして、我々の感情又は欲求である。我々は單に知識上に物の眞相を知り得たりとしても、之より何が善であるかを知ることはできぬ。斯くあるといふことより、かくあらねばならぬといふことを知ることはできぬ。クラークは物の眞相より適不適を知ることができるといふが、適不適といふことは已に純粹なる知識上の判斷ではなくして、價値的判斷である。何か求むる所の者があつて、然る後適不適の判斷が起つてくるのである。

 次に論者は何故に我々は善を爲さねばならぬかといふことを説明して、理性的動物なるが故に理に從はねばならぬといふ。理を解する者は知識上に於て理に從はねばならぬのは當然である。併し單に論理的判斷といふ者と意志の選擇とは別物である。論理の判斷は必ずしも意志の原因とはならぬ。意志は感情又は衝動より起るもので、單に抽象的論理より起るものではない。己の欲せざる所人に施す勿れといふ格言も、若し同情といふ動機がなかつたならば、我々に對して殆ど無意義である。若し抽象的論理が直に意志の動機となり得るものならば、最も推理に長じた人は即ち最善の人といはねばならぬ。然るに事實は時に之に反して知ある人よりも反つて無知なる人が一層善人であることは誰も否定することはできない。

 曩には合理説の代表者としてクラークをあげたが、クラークは此説の理論的方面の代表者であつて、實行的方面を代表する者は所謂犬儒學派であらう。此派はソクラテースが善と知とを同一視するに基づき、凡ての情慾快樂を惡となし、之に打克つて純理に從ふのを唯一の善となした、而も其所謂理なる者は單に情慾に反するのみにて、何等の内容なき消極的の理である。道徳の目的は單に情慾快樂に克ちて精神の自由を保つといふことのみであつた。有名なるディオゲネスの如きが其好模範である。其學派の後又ストア學派なる者があつて、同一の主義を唱道した。ストア學派に從へば、宇宙は唯一の理に由りて支配せらるゝ者で、人間の本質も此理性の外にいでぬ、理に從ふのは即ち自然の法則に從ふのであつて、之が人間に於て唯一の善である、生命、健康、財産も善ではなく、貧苦、病死も惡ではない、唯内心の自由と平靜とが最上の善であると考へた。其結果犬儒學派と同じく、凡ての情慾を排斥して單に無欲apathieたらんことを務むる樣になつた。エピクテートの如きは其好例である。

 右の學派の如く、全然情慾に反對する純理を以て人性の目的となす時には、理論上に於ても何等の道徳的動機を與ふることができぬ樣に、實行上に於ても何等の積極的善の内容を與ふることはできぬ。シニックスやストアがいつた樣に、單に情慾に打克つといふことが唯一の善と考ふるより外はない。併し我々が情慾に打克たねばならぬといふのは、更に何か大なる目的の求むべき者がある故である。單に情慾を制する爲に制するのが善であるといへば、これより不合理なることはあるまい。

     第八章 倫理學の諸説 其四

 合理説は他律的倫理學に比すれば更に一歩をすゝめて、人性自然の中より善を説明せんとする者である。併し單に形式的理性を本としては、前にいつた樣に、到底何故に善をなさゞるべからざるかの根本的問題を説明することはできぬ。そこで我々が深く自己の中に反省して見ると、意志は凡て苦樂の感情より生ずるので、快を求め不快を避けるといふのが人情の自然で動かすべからざる事實である。我々が表面上全く快樂の爲にせざる行爲、たとへば身を殺して仁をなすといふ如き場合にても、其裏面に就いて探つて見ると、やはり一種の快樂を求めて居るのである。意志の目的は畢竟快樂の外になく、我々が快樂を以て人生の目的となすといふことは更に説明を要しない自明の眞理である。それで快樂を以て人性唯一の目的となし、道徳的善惡の區別をも此原理に由りて説明せんとする倫理學説の起るのは自然の勢である。之を快樂説といふ。この快樂説には二種あつて、一つを利己的快樂説といひ、他を公衆的快樂説といふ。

 利己的快樂説とは自己の快樂を以て人生唯一の目的となし、我々が他人の爲にするといふ場合に於ても、其實は自己の快樂を求めて居るのであると考へ、最大なる自己の快樂が最大の善であるとなすのである。此説の完全なる代表者は希臘に於けるキレーネ學派とエピクロースとである。アリスチッポスは肉體的快樂の外に精神的快樂のあることは許したが、快樂はいかなる快樂でも凡て同一の快樂である、唯大なる快樂が善であると考へた。而して氏は凡て積極的快樂を尚び、又一生の快樂よりも寧ろ瞬間の快樂を重んじたので、最も純粹なる快樂説の代表者といはねばならぬ。エピクロースはやはり凡ての快樂を以て同一となし、快樂が唯一の善で、如何なる快樂も苦痛の結果を生ぜざる以上は、排斥すべきものにあらずと考へたが、氏は瞬間の快樂よりも一生の快樂を重しとし、積極的快樂よりも寧ろ消極的快樂、即ち苦惱なき状態を尚んだ。氏の最大の善といふのは心の平和tranquility of mindといふことである。併し氏の根本主義は何處までも利己的快樂説であつて、希臘人の所謂四つの主徳、睿知、節制、勇氣、正義といふ如き者も自己の快樂の手段として必要であるのである。正義といふことも、正義其者が價値あるのではなく、各人相犯さずして幸福を享ける手段として必要なのである。此主義は氏の社會的生活に關する意見に於て最も明である。社會は自己の利益を得る爲に必要なのである。國家は單に個人の安全を謀る爲に存在するのである。若し社會的煩累を避けて而も充分なる安全を得ることができるならば、こは大に望むべき所である。氏の主義は寧ろ隱遁主義λαθε βιωσασである。氏は之に由りて、なるべく家族生活をも避けんとした。

 次に公衆的快樂説、即ち所謂功利教に就いて述べよう。此説は根本的主義に於ては全く前説と同一であるが、唯個人の快樂を以て最上の善となさず、社會公衆の快樂を以て最上の善となす點に於て前説と異なつて居る。此説の完全なる代表者はベンザムである。氏に從へば人生の目的は快樂であつて、善は快樂の外にない。而していかなる快樂も同一であつて、快樂には種類の差別はない(留針押しの遊の快樂も高尚なる詩歌の快樂も同一である)、唯大小の數量的差異あるのみである。我々の行爲の價値は直覺論者のいふ樣に其者に價値があるのではなく、全く之より生ずる結果に由りて定まるのである。即ち大なる快樂を生ずる行爲が善行である。而して如何なる行爲が最も大なる善行であるかといへば、氏は個人の最大幸福よりも多人數の最大幸福が快樂説の原則よりして道理上一層大なる快樂と考へねばならぬから、最大多數の最大幸福といふのが最上の善であるといつて居る。又ベンザムは此快樂説に由りて、行爲の價値を定むる科學的方法をも論じて居る。氏に從へば、快樂の價値は大抵數量的に定め得る者であつて、例へば強度、長短、確實、不確實等の標準に由りて快樂の計算ができると考へたのである。氏の説は快樂説として實に能く辻褄の合つた者であるが、唯一つ何故に個人の最大快樂ではなくて、最大多數の最大幸福が最上の善でなければならぬかの説明が明瞭でない。快樂には之を感ずる主觀がなければなるまい。感ずる者があればこそ快樂があるのである。而して此感ずる主といふのはいつでも個人でなければならぬ。然らば快樂説の原則よりして何故に個人の快樂よりも多人數の快樂が上に置かれねばならぬのであるか。人間には同情といふものがあるから己獨り樂むよりは、人と共に樂んだ方が一層大なる快樂であるかも知れない、ミルなどは此點に注目して居る。併し此場合に於ても、此同情より來る快樂は他人の快樂ではなく、自分の快樂である。やはり自己の快樂が唯一の標準であるのである。若し自己の快樂と他人の快樂と相衝突した場合は如何。快樂説の立脚地よりしては、それでも自己の快樂をすてゝ他人の快樂を求めねばならぬといふことができるであらうか。エピクロースの樣に利己主義となるのが、反つて快樂説の必然なる結果であらう。ベンザムもミルも極力自己の快樂と他人の快樂とが一致するものであると論じて居るが、かゝる事は到底、經驗的事實の上に於て證明はできまいと思ふ。

 これまで一通り快樂説の主なる點をのべたので、之より其批評に移らう。先づ快樂説の根本的假定たる快樂は人生唯一の目的であるといふことを承認した處で、果して快樂説に由りて充分なる行爲の規範を與ふることができるであらうか。嚴密なる快樂説の立脚地より見れば、快樂は如何なる快樂でも皆同種であつて、唯大小の數量的差異あるのみでなければならぬ。若し快樂に色々の性質的差別があつて、之に由りて價値が異なるものであるとするならば、快樂の外に別に價値を定むる原則を許さねばならぬこととなる。即ち快樂が行爲の價値を定むる唯一の原則であるといふ主義と衝突する。ベンザムの後を受けたるミルは快樂に色々性質上の差別あることを許し、二種の快樂の優劣は、此二種を同じく經驗し得る人は容易に之を定めうると考へて居る。例へば豕となりて滿足するよりはソクラテースとなつて不滿足なることは誰も望む所である。而して此等の差別は人間の品位の感sense of dignityより來るものと考へて居る。併しミルの如き考は明に快樂説の立脚地を離れたもので、快樂説よりいへば一の快樂が他の快樂より小なるに關せず、他の快樂よりも尚き者であるといふ事は許されない。さらばエピクロース、ベンザム諸氏の如く純粹に快樂は同一であつて唯數量的に異なるものとして、如何にして快樂の數量的關係を定め、之に由りて行爲の價値を定めることができるであらうか。アリスチッポスやエピクロースは單に知識に由りて辨別ができるといつて居るだけで、明瞭なる標準を與へては居らぬ。獨りベンザムは上にいつた樣に此標準を詳論して居る。併し快樂の感情なる者は一人の人に於ても、時と場合とに由りて非常に變化し易い物である、一の快樂より他の快樂が強度に於て勝るかは頗る明瞭でない。更に如何程の強度が如何程の繼續に相當するかを定むるのは極めて困難である。一人の人に於てすら斯く快樂の尺度を定むるのは困難であつて見れば公衆的快樂説の樣に他人の快樂をも計算して快樂の大小を定めんとするのは尚更困難である。普通には凡て肉體の快樂より精神の快樂が上であると考へられ、富より名譽が大切で、己一人の快樂より多人數の快樂が尚いなどと、傳説的に快樂の價値が定まつて居る樣であるが、かゝる標準は種々なる方面の觀察よりできたもので、決して單純なる快樂の大小より定まつたものとは思はれない。

 右は快樂説の根本的原理を正しきものとして論じたのであるが、かくして見ても、快樂説に由りて我々の行爲の價値を定むべき正確なる規範を得ることは頗る困難である。今一歩を進めて此説の根本的原理に就いて考究して見よう。凡て人は快樂を希望し、快樂が人生唯一の目的であるとは此説の根本的假定であつて、又すべての人のいふ所であるが、少しく考へて見ると、その決して眞理でないことが明である。人間には利己的快樂の外に、高尚なる他愛的又は理想的の欲求のあることは許さねばなるまい。たとへば己の慾を抑へても、愛する者に與へたいとか、自己の身を失つても理想を實行せねばならぬといふ樣な考は誰の胸裡にも多少は潛み居るのである。時あつて此等の動機が非常なる力を現はし來り、人をして思はず悲慘なる犧牲的行爲を敢てせしむることも少くない。快樂論者のいふ樣に人間が全然自己の快樂を求めて居るといふのは頗る穿ち得たる眞理の樣であるが、反つて事實に遠ざかつたものである。勿論快樂論者も此等の事實を認めないのではないが、人間が此等の欲望を有し之が爲に犧牲的行爲を敢てするのも、つまり自己の欲望を滿足せんとするので、裏面より見ればやはり自己の快樂を求むるにすぎないと考へて居るのである。併しいかなる人も又いかなる場合でも欲求の滿足を求めて居るといふことは事實であるが、欲求の滿足を求むる者が即ち快樂を求むる者であるとはいはれない。いかに苦痛多き理想でも之を實行し得た時には、必ず滿足の感情を伴ふのである。而して此感情は一種の快樂には相違ないが、之が爲に此快感が始より行爲の目的であつたとはいはれまい。かくの如き滿足の快感なる者が起るには、先づ我々に自然の欲求といふ者がなければならぬ。此欲求があればこそ、之を實行して滿足の快樂を生ずるのである。然るに此快感あるが爲に、欲求は凡て快樂を目的として居るといふのは、原因と結果とを混同したものである。我々人間には先天的に他愛の本能がある。之あるが故に、他を愛するといふことは我々に無限の滿足を與ふるのである。併し之が爲に自己の快樂の爲に他を愛したのだとはいはれない。毫釐にても自己の快樂の爲にするといふ考があつたならば、決して他愛より來る滿足の感情をうることができないのである。啻に他愛の欲求ばかりではなく、全く自愛的欲求といはれて居る者も單に快樂を目的として居る者はない。たとへば食色の慾も快樂を目的とするといふよりは、反つて一種先天的本能の必然に驅られて起るものである。飢ゑたる者は反つて食慾のあるを悲み、失戀の人は反つて愛情あるを怨むであらう。人間若し快樂が唯一の目的であるならば、人生程矛盾に富んだ者はなからう。寧ろ凡て人間の欲求を斷ち去つた方が反つて快樂を求むるの途である。エピクロースが凡ての慾を脱したる状態、即ち心の平靜を以て最上の快樂となし、反つて正反對の原理より出立したストイックの理想と一致したのも此故である。

 併し或快樂論者では、我々が今日快樂を目的としない自然の欲求であると思うて居る者でも、個人の一生又は生物進化の經過に於て、習慣に由りて第二の天性となつたので、元は意識的に快樂を求めた者が無意識となつたのであると論じて居る。即ち快樂を目的とせざる自然の欲求といふのは、つまり快樂を得る手段であつたのが、習慣に由つて目的其者となつたといふのである(ミルなどは之に就いてよく金錢の例を引いて居る)。成程我々の欲求の中には此の如き心理的作用に由つて第二の天性となつた者もあるであらう。併し快樂を目的とせざる欲求は盡くかゝる過程に由りて生じたものとはいはれない。我々の精神は其身體と同じく生れながらにして活動的である。種々の本能をもつて居る。鷄の子が生れながら籾を拾ひ、鶩の子が生れながら水に入るのも同理である。此等の本能と稱すべき者が果して遺傳に由つて、元來意識的であつた者が無意識的習慣となつたのであらうか。今日の生物進化の説に由れば、生物の本能は決してかゝる過程に由つて出來たものではない。元來生物の卵に於て具有した能力であつて、事情に適する者が生存して遂に一種特有なる本能を發揮するに至つたのである。

 上來論じ來つた樣に、快樂説は合理説に比すれば一層人性の自然に近づきたる者であるが、此説に由れば善惡の判別は單に苦樂の感情に由りて定めらるゝこととなり、正確なる客觀的標準を與ふることができず、且つ道徳的善の命令的要素を説明することはできない。加之、快樂を以て人生の唯一の目的となすのは未だ眞に人性自然の事實に合つたものといはれない。我々は決して快樂に由りて滿足することはできない。若し單に快樂のみを目的とする人があつたならば反つて人性に悖つた人である。

     第九章 善(活動説)

 已に善に就いての種々の見解を論じ且つ其不充分なる點を指摘したので、自ら善の眞正なる見解は如何なるものであるかが明になつたと思ふ。我々の意志が目的とせなければならない善、即ち我々の行爲の價値を定むべき規範は何處に之を求めねばならぬか。嘗て價値的判斷の本を論じた所にいつた樣に、此判斷の本は是非之を意識の直接經驗に求めねばならぬ。善とは唯意識の内面的要求より説明すべき者であつて外より説明すべき者でない。單に事物は斯くある又は斯くして起つたといふことより、斯くあらねばならぬといふことを説明することはできぬ。眞理の標準もつまる所は意識の内面的必然にあつて、アウグスチヌスやデカートの如き最も根本に立ち返つて考へた人は皆此處より出立した樣に、善の根本的標準も亦此處に求めねばならぬ。然るに他律的倫理學の如きは善惡の標準を外に求めようとして居る。かくしては到底善の何故に爲さゞるべからざるかを説明することはできぬ。合理説が意識の内面的作用の一である理性より善惡の價値を定めようとするのは、他律的倫理學説に比して一歩を進めた者といふことはできるが、理は意志の價値を定むべきものではない。ヘフディングが意識は意志の活動を以て始まり又之を以て終るといつた樣に、意志は抽象的理解の作用よりも根本的事實である。後者が前者を起すのではなく、反つて前者が後者を支配するのである。然らば快樂説は如何、感情と意志とは殆ど同一現象の強度の差異といつてもよい位であるが、前にいつた樣に快樂は寧ろ意識の先天的要求の滿足より起る者で、所謂衝動、本能といふ如き先天的要求が快不快の感情よりも根本的であるといはねばならぬ。

 それで善は何であるかの説明は意志其者の性質に求めねばならぬことは明である。意志は意識の根本的統一作用であつて、直に又實在の根本たる統一力の發現である。意志は他の爲の活動ではなく、己自らの爲の活動である。意志の價値を定むる根本は意志其者の中に求むるより外はないのである。意志活動の性質は、嚮に行爲の性質を論じた時にいつた樣に、其根柢には先天的要求(意識の素因)なる者があつて、意識の上には目的觀念として現はれ、之によりて意識の統一するにあるのである。此統一が完成せられた時、即ち理想が實現せられた時我々に滿足の感情を生じ、之に反した時は不滿足の感情を生ずるのである。行爲の價値を定むる者は一に此意志の根本たる先天的要求にあるので、能く此要求即ち吾人の理想を實現し得た時には其行爲は善として賞讚せられ、之に反した時は惡として非難せられるのである。そこで善とは我々の内面的要求即ち理想の實現換言すれば意志の發展完成であるといふこととなる。斯の如き根本的理想に基づく倫理學説を活動説energetismといふ。

 此説はプラトー、アリストテレースに始まる。特にアリストテレースは之に基づいて一つの倫理を組織したのである。氏に從へば人生の目的は幸福eudaimoniaである。併し之に達するには快樂を求むるに由るにあらずして、完全なる活動に由るのである。

 世の所謂道徳家なる者は多くこの活動的方面を見逃して居る。義務とか法則とかいつて、徒らに自己の要求を抑壓し活動を束縛するのを以て善の本性と心得て居る。勿論不完全なる我々はとかく活動の眞意義を解せず岐路に陷る場合が多いのであるから、かゝる傾向を生じたのも無理ならぬことであるが、一層大なる要求を攀援すべき者があつてこそ、小なる要求を抑制する必要が起るのである、徒らに要求を抑制するのは反つて善の本性に悖つたものである。善には命令的威嚴の性質をも具へて居らねばならぬが、之よりも自然的好樂といふのが一層必要なる性質である。所謂道徳の義務とか法則とかいふのは、義務或は法則其者に價値があるのではなく、反つて大なる要求に基づいて起るのである。此點より見て善と幸福とは相衝突せぬばかりでなく、反つてアリストテレースのいつた樣に善は幸福であるといふことができる。我々が自己の要求を充す又は理想を實現するといふことは、いつでも幸福である。善の裏面には必ず幸福の感情を伴ふの要がある。唯快樂説のいふ樣に意志は快樂の感情を目的とする者で、快樂が即ち善であるとはいはれない。快樂と幸福とは似て非なる者である。幸福は滿足に由りて得ることができ、滿足は理想的要求の實現に起るのである。孔子が飯疏食、飮水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣といはれた樣に、我々は場合に由りては苦痛の中に居ても尚幸福を保つことができるのである。眞正の幸福は反つて嚴肅なる理想の實現に由りて得らるべき者である。世人は往々自己の理想の實現又は要求の滿足などいへば利己主義又は我儘主義と同一視して居る。併し最も深き自己の内面的要求の聲は我々に取りて大なる威力を有し、人生に於て之より嚴なるものはないのである。

 さて善とは理想の實現、要求の滿足であるとすれば、この要求といひ理想といふ者は何から起つてくるので、善とは如何なる性質の者であるか。意志は意識の最深なる統一作用であつて即ち自己其者の活動であるから、意志の原因となる本來の要求或は理想は要するに自己其者の性質より起るのである、即ち自己の力であるといつてもよいのである。我々の意識は思惟、想像に於ても意志に於ても又所謂知覺、感情、衝動に於ても皆其根柢には内面的統一なる者が働いて居るので、意識現象は凡て此一なる者の發展完成である。而してこの全體を統一する最深なる統一力が我々の所謂自己であつて、意志は最も能く此力を發表したものである。かく考へて見れば意志の發展完成は直に自己の發展完成となるので、善とは自己の發展完成self-realizationであるといふことができる。即ち我々の精神が種々の能力を發展し圓滿なる發達を遂げるのが最上の善である(アリストテレースの所謂entelechieが善である)。竹は竹、松は松と各自其天賦を充分に發揮するやうに、人間が人間の天性自然を發揮するのが人間の善である。スピノーザも徳とは自己固有の性質に從うて働くの謂に外ならずといつた。

 是に於て善の概念は美の概念と近接してくる。美とは物が理想の如くに實現する場合に感ぜらるゝのである。理想の如く實現するといふのは物が自然の本性を發揮する謂である。それで花が花の本性を現んじたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現んじた時は美の頂上に達するのである。善は即ち美である。たとひ行爲其者は大なる人性の要求から見て何等の價値なき者であつても、其行爲が眞に其人の天性より出でたる自然の行爲であつた時には一種の美感を惹く樣に、道徳上に於ても一種寛容の情を生ずるのである。希臘人は善と美とを同一視して居る。此考は最も能くプラトーに於て現はれて居る。

 又一方より見れば善の概念は實在の概念とも一致してくる。嘗て論じた樣に、一の者の發展完成といふのが凡て實在成立の根本的形式であつて、精神も自然も宇宙も皆此形式に於て成立して居る。して見れば、今自己の發展完成であるといふ善とは自己の實在の法則に從ふの謂である。即ち自己の眞實在と一致するのが最上の善といふことになる。そこで道徳の法則は實在の法則の中に含まるゝ樣になり、善とは自己の實在の眞性より説明ができることとなる。所謂價値的判斷の本である内面的要求と實在の統一力とは一つであつて二つあるのではない。存在と價値とを分けて考へるのは、知識の對象と情意の對象とを分つ抽象的作用よりくるので、具體的眞實在に於ては此兩者は元來一であるのである。乃ち善を求め善に遷るといふのは、つまり自己の眞を知ることとなる。合理論者が眞と善とを同一にしたのも一面の眞理を含んで居る。併し抽象的知識と善とは必ずしも一致しない。此場合に於ける知るとは所謂體得の意味でなければならぬ。此等の考は希臘に於てプラトー又印度に於てウパニシヤッドの根本的思想であつて、善に對する最深の思想であると思ふ(プラトーでは善の理想が實在の根本である、又中世哲學に於ても「すべての實在は善なり」omne ens est bonumといふ句がある)。

     第十章 人格的善

 前には先づ善とは如何なる者でなければならぬかを論じ、善の一般の概念を與へたのであるが、之より我々人間の善とは如何なる者であるかを考究し、之が特徴を明にせうと思ふ。我々の意識は決して單純なる一の活動ではなく、種々なる活動の綜合であることは誰にも明なる事實である。して見ると、我々の要求なる者も決して單純ではない、種々なる要求のあるのが當然である。然らば此等の種々なる要求の中で、孰れの要求を充すのが最上の善であるか。我々の自己全體の善とは如何なる者であるかの問題が起つてくる。

 我々の意識現象には一つも孤獨なる者がない、必ず他と關係の上に於て成立するのである。一瞬の意識でも已に單純でない、其中に複雜なる要素を含んで居る。而して此等の要素は互に獨立せるものではなくして、彼此關係上に於て一種の意味をもつた者である。啻に一時の意識が斯の如く組織せられてあるのみではなく、一生の意識も亦斯の如き一體系である。自己とは此全體の統一に名づけたのである。

 して見ると、我々の要求といふのも決して孤獨に起るものではない。必ず他との關係上に於て生じてくるのである。我々の善とは或一種又は一時の要求のみを滿足するの謂でなく、或一つの要求は唯全體との關係上に於て始めて善となることは明である。例へば身體の善は其一局部の健康でなくして、全身の健全なる關係にあると同一である。それで活動説より見て、善とは先づ種々なる活動の一致調和或は中庸といふこととならねばならぬ。我々の良心とは調和統一の意識作用といふこととなる。

 調和が善であるといふのはプラトーの考であつた。氏は善を音樂の調和に喩へてをる。英のシャフツベリなども此考を取つて居る。又中庸が善であるといふのはアリストテレースの説であつて、東洋に於ては中庸の書にも現はれて居る。アリストテレースは凡て徳は中庸にあるとなし、例へば勇氣は粗暴と怯弱との中庸で、節儉は吝嗇と浪費との中庸であるといつた。能く子思の考に似て居る。又進化論の倫理學者スペンサーの如きが、善は種々なる能力の平均であるといつて居るのも、つまり同一の意味である。

 併し、單に調和であるとか中庸であるとかいつたのでは未だ意味が明瞭でない。調和とは如何なる意味に於ての調和であるか、中庸とは如何なる意味に於ての中庸であるか。意識は同列なる活動の集合ではなくして統一せられたる一體系である。其調和又は中庸といふことは、數量的の意味ではなくして體系的秩序の意味でなければならぬ。然らば我々の精神の種々なる活動に於ける固有の秩序は如何なるものであるか。我々の精神も其低き程度に於ては動物の精神と同じく單に本能活動である。即ち目前の對象に對して衝動的に働くので、全く肉慾に由りて動かされるのである。併し意識現象はいかに單純であつても必ず觀念の要求を具へて居る。それで意識活動がいかに本能的といつても、其背後に觀念活動が潛んで居らねばならぬ(動物でも高等なる者は必ずさうであらうと思ふ)。いかなる人間でも白痴の如き者にあらざる以上は、決して純粹に肉體的欲望を以て滿足する者ではない、必ず其心の底には觀念的欲望が働いて居る。即ちいかなる人も何等かの理想を抱いて居る。守錢奴の利を貪るのも一種の理想より來るのである。つまり人間は肉體の上に於て生存して居るのではなく、觀念の上に於て生命を有して居るのである。ゲーテの菫といふ詩に、野の菫が少き牧女に蹈まれながら愛の滿足を得たといふ樣なことがある。これが凡ての人間の眞情であると思ふ。そこで觀念活動といふのは精神の根本的作用であつて、我々の意識は之に由りて支配せらるべき者である。即ち之より起る要求を滿足するのが我々の眞の善であるといはねばならぬ。然らば更に一歩を進んで、觀念活動の根本的法則とは如何なる者であるかといへば、即ち理性の法則といふこととなる。理性の法則といふのは觀念と觀念との間の最も一般的なる且つ最も根本的なる關係を言ひ現はした者で、觀念活動を支配する最上の法則である。そこで又理性といふ者が我々の精神を支配すべき根本的能力で、理性の滿足が我々の最上の善である。何でも理に從ふのが人間の善であるといふことになる。シニックやストイックは此考を極端に主張した者で、之が爲に凡て人心の他の要求を惡として排斥し、理にのみ從ふのが一の善であるとまでにいつた。併しプラトーの晩年の考やアリストテレースでは理性の活動より起るのが最上の善であるが、又之より他の活動を支配し統御するのも善であるといつた。

 プラトーは有名なる「共和國」に於て人心の組織を國家の組織と同一視し、理性に統御せられた状態が國家に於ても個人に於ても最上の善と云つて居る。

 若し我々の意識が種々なる能力の綜合より成て居て、其一が他を支配すべき樣に構成せられてある者ならば、活動説に於ける善とは右にいつた如く理性に從うて他を制御するにあるといはねばならぬ。併し我々の意識は元來一の活動である。其根柢にはいつでも唯一の力が働いて居る。知覺とか衝動とかいふ瞬間的意識活動にも已に此力が現はれて居る。更に進んで思惟、想像、意志といふ如き意識的活動に至れば、此力が一層深遠なる形に於て現はれてくる。我々が理性に從ふといふのも、つまり此深遠なる統一力に從ふの意に外ならない。然らずして抽象的に考へた單に理性といふものは、嘗て合理説を評した處に述べたやうに、何等の内容なき形式的關係を與ふるにすぎないのである。此意識の統一力なる者は決して意識の内容を離れて存するのではない、反つて意識内容は此力に由つて成立するものである。勿論意識の内容を個々に分析して考ふる時は、此統一力を見出すことはできぬ。併し其綜合の上に嚴然として動かすべからざる一事實として現はれるのである。例へば畫面に現はれたる一種の理想、音樂に現はれたる一種の感情の如き者で、分析理解すべき者ではなく、直覺自得すべき者である。而して斯の如き統一力を此處に各人の人格と名づくるならば、善は斯の如き人格即ち統一力の維持發展にあるのである。

 爰に所謂人格の力とは單に動植物の生活力といふ如き自然的物力をさすのではない。又本能といふ如き無意識の能力をさすのでもない。本能作用とは有機作用より起る一種の物力である。人格とは之に反し意識の統一力である。併しかくいへばとて、人格とは各人の表面的意識の中心として極めて主觀的なる種々の希望の如き者をいふのではない。此等の希望は幾分か其人の人格を現はす者であらうが、反つて此等の希望を沒し自己を忘れたる所に眞の人格は現はれるのである。さらばとてカントのいつた樣な全く經驗的内容を離れ、各人に一般なる純理の作用といふ如き者でもない。人格は其人其人に由りて特殊の意味をもつた者でなければならぬ。眞の意識統一といふのは我々を知らずして自然に現はれ來る純一無雜の作用であつて、知情意の分別なく主客の隔離なく獨立自全なる意識本來の状態である。我々の眞人格は此の如き時に其全體を現はすのである。故に人格は單に理性にあらず欲望にあらず況んや無意識衝動にあらず、恰も天才の神來の如く各人の内より直接に自發的に活動する無限の統一力である(古人も道は知、不知に屬せずといつた)。而して嘗て實在の論に述べた樣に意識現象が唯一の實在であるとすれば、我々の人格とは直に宇宙統一力の發動である。即ち物心の別を打破せる唯一實在が事情に應じ或特殊なる形に於て現はれたものである。

 我々の善とは斯の如き偉大なる力の實現であるから、其要求は極めて嚴肅である。カントも我々が常に無限の歎美と畏敬とを以て見る者が二つある、一は上にかゝる星斗爛漫なる天と、一は心内に於ける道徳的法則であるといつた。

     第十一章 善行爲の動機(善の形式)

 上來論じた所を總括していへば、善とは自己の内面的要求を滿足する者をいふので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力即ち人格の要求であるから、之を滿足する事即ち人格の實現といふのが我々に取りて絶對的善である。而して此人格の要求とは意識の統一力であると共に實在の根柢に於ける無限なる統一力の發現である、我々の人格を實現するといふは此力に合一するの謂である。善はかくの如き者であるとすれば、之より善行爲とは如何なる行爲であるかを定めることができると思ふ。

 右の考よりして先づ善行爲とは凡て人格を目的とした行爲であるといふことは明である。人格は凡ての價値の根本であつて、宇宙間に於て唯人格のみ絶對的價値をもつて居るのである。我々には固より種々の要求がある、肉體的欲求もあれば精神的欲求もある、從つて富、力、知識、藝術等種々貴ぶべき者があるに相違ない。併しいかに強大なる要求でも高尚なる要求でも、人格の要求を離れては何等の價値を有しない、唯人格的要求の一部又は手段としてのみ價値を有するのである。富貴、權力、健康、技能、學識もそれ自身に於て善なるのではない、若し人格的要求に反した時には反つて惡となる。そこで絶對的善行とは人格の實現其者を目的とした即ち意識統一其者の爲に働いた行爲でなければならぬ。

 カントに從へば、物は外より其價値を定めらるゝので其價値は相對的であるが、唯我々の意志は自ら價値を定むるもので、即ち人格は絶對的價値を有して居る。氏の教は誰も知る如く汝及び他人の人格を敬し、目的其者end in itselfとして取扱へよ、決して手段として用うる勿れといふことであつた。

 然らば眞に人格其者を目的とする善行爲とは如何なる行爲でなければならぬか。此問に答ふるには人格活動の客觀的内容を論じ、行爲の目的を明にせねばならぬのであるが、先づ善行爲に於ける主觀的性質即ち其動機を論ずることとしよう。善行爲とは凡て自己の内面的必然より起る行爲でなければならぬ。曩にもいつた樣に、我々の全人格の要求は我々が未だ思慮分別せざる直接經驗の状態に於てのみ自覺することができる。人格とはかゝる場合に於て心の奧底より現はれ來つて、徐に全心を包容する一種の内面的要求の聲である。人格其者を目的とする善行とは斯の如き要求に從つた行爲でなければならぬ。之に背けば自己の人格を否定した者である。至誠とは善行に缺くべからざる要件である。キリストも天眞爛漫嬰兒の如き者のみ天國に入るを得るといはれた。至誠の善なるのは、之より生ずる結果の爲に善なるのでない、それ自身に於て善なるのである。人を欺くのが惡であるといふは、之より起る結果に由るよりも、寧ろ自己を欺き自己の人格を否定するの故である。

 自己の内面的必然とか天眞の要求とかいふのは往々誤解を免れない。或人は放縱無頼社會の規律を顧みず自己の情慾を檢束せぬのが天眞であると考へてをる。併し人格の内面的必然即ち至誠といふのは知情意合一の上の要求である。知識の判斷、人情の要求に反して單に盲目的衝動に從ふの謂ではない。自己の知を盡し情を盡した上に於て始めて眞の人格的要求即ち至誠が現はれてくるのである。自己の全力を盡しきり、殆ど自己の意識が無くなり、自己が自己を意識せざる所に、始めて眞の人格の活動を見るのである。試に藝術の作品に就いて見よ。畫家の眞の人格即ちオリジナリテイは如何なる場合に現はれるか。畫家が意識の上に於て種々の企圖をなす間は未だ眞に畫家の人格を見ることはできない。多年苦心の結果、技藝内に熟して意到り筆自ら隨ふ所に至つて始めて之を見ることができるのである。道徳上に於ける人格の發現も之と異ならぬのである。人格を發現するのは一時の情慾に從ふのではなく、最も嚴肅なる内面の要求に從ふのである。放縱懦弱とは正反對であつて、反つて艱難辛苦の事業である。

 自己の眞摯なる内面的要求に從ふといふこと、即ち自己の眞人格を實現するといふことは、客觀に對して主觀を立し、外物を自己に從へるといふ意味ではない。自己の主觀的空想を消磨し盡して全然物と一致したる處に、反つて自己の眞要求を滿足し眞の自己を見る事ができるのである。一面より見れば各自の客觀的世界は各自の人格の反影であるといふことができる。否各自の眞の自己は各自の前に現はれたる獨立自全なる實在の體系其者の外にはないのである。それで如何なる人でも、其人の最も眞摯なる要求はいつでも其人の見る客觀的世界の理想と常に一致したものでなければならぬ。例へばいかに私慾的なる人間であつても、其人に多少の同情といふものがあれば、其人の最大要求は、必ず自己の滿足を得た上は他人に滿足を與へたいといふことであらう。自己の要求といふのは單に肉體的慾望とかぎらず理想的要求といふことを含めていふならば、どうしてもかくいはねばならぬ。私慾的なればなる程、他人の私慾を害することに少なからざる心中の苦悶を感ずるのである。反つて私慾なき人にして甫めて心を安んじて他人の私慾を破ることができるであらうと思ふ。それで自己の最大要求を充し自己を實現するといふことは、自己の客觀的理想を實現するといふことになる、即ち客觀と一致するといふことである。この點より見て善行爲は必ず愛であるといふことができる。愛といふのは凡て自他一致の感情である。主客合一の感情である。啻に人が人に對する場合のみでなく、畫家が自然に對する場合も愛である。

 プラトーは有名な「シムポジューム」に於て愛は缺けたる者が元の全き状態に還らんとする情であるといつて居る。

 併し更に一歩を進めて考へて見ると、眞の善行といふのは客觀を主觀に從へるのでもなく、又主觀が客觀に從ふのでもない。主客相沒し物我相忘れ天地唯一實在の活動あるのみなるに至つて、甫めて善行の極致に達するのである。物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元來物と我と區別のあるのではない、客觀世界は自己の反影といひ得る樣に自己は客觀世界の反影である。我が見る世界を離れて我はない(實在第九精神の章を參看せよ)。天地同根萬物一體である。印度の古賢は之を「それは汝である」Tat twam asiといひ、パウロはもはや余生けるにあらず基督余に在りて生けるなりといひ(加拉太書第二章二〇)、孔子は心の欲する所に從うて矩を踰えずといはれたのである。

     第十二章 善行爲の目的(善の内容)

 人格其者を目的とする善行爲を説明するに就いて、先づ善行爲とは如何なる動機より發する行爲でなければならぬかを示したが、之より如何なる目的をもつた行爲であるかを論じて見よう。善行爲といふのも單に意識内面の事にあらず、此事實界に或客觀的結果を生ずるのを目的とする動作であるから、我々は今此の目的の具體的内容を明にせねばならぬ。前に論じたのはいはゞ善の形式で、今論ぜんとするのは善の内容である。

 意識の統一力であつて兼ねて實在の統一力である人格は、先づ我々の個人に於て實現せられる。我々の意識の根柢には分析のできない個人性といふものがある。意識活動は凡て皆個人性の發動である。各人の知識、感情、意志は盡く其人に特有なる性質を具へて居る。意識現象ばかりでなく、各人の容貌、言語、擧動の上にも此個人性が現はれて居る。肖像畫の現はさうとするのは實にこの個人性である。此個人性は、人がこの世に生れると共に活動を始め死に至るまで種々の經驗と境遇とに從うて種々の發展をなすのである。科學者は之を腦の素質に歸するであらうが、余は屡々いつた樣に實在の無限なる統一力の發現であると考へる。それで我々は先づ此個人性の實現といふことを目的とせねばならぬ。即ちこれが最も直接なる善である。健康とか知識とかいふものは固より尚ぶべき者である。併し健康、知識其者が善ではない。我々は單に之にて滿足はできぬ。個人に於て絶對の滿足を與へる者は自己の個人性の實現である。即ち他人に模倣のできない自家の特色を實行の上に發揮するのである。個人性の發揮といふことは其人の天賦境遇の如何に關せず誰にでもできることである。いかなる人間でも皆各其顏の異なる樣に、他人の模倣のできない一あつて二なき特色をもつて居るのである。而してこの實現は各人に無上の滿足を與へ、又宇宙進化の上に缺くべからざる一員とならしむるのである。從來世人はあまり個人的善といふことに重きを置いて居らぬ。併し余は個人の善といふことは最も大切なるもので、凡て他の善の基礎となるであらうと思ふ。眞に偉人とは其事業の偉大なるが爲に偉大なるのではなく、強大なる個人性を發揮した爲である。高い處に登つて呼べば其聲は遠い處に達するであらうが、そは聲が大きいのではない、立つ處が高いからである。余は自己の本分を忘れ徒らに他の爲に奔走した人よりも、能く自分の本色を發揮した人が偉大であると思ふ。

 併し余が此處に個人的善といふのは私利私慾といふこととは異なつて居る。個人主義と利己主義とは嚴しく區別しおかねばならぬ。利己主義とは自己の快樂を目的とした、つまり我儘といふことである。個人主義は之と正反對である。各人が自己の物質慾を恣にするといふ事は反つて個人性を沒することになる。豕が幾匹居ても其間に個人性はない。又人は個人主義と共同主義と相反對する樣にいふが、余は此兩者は一致するものであると考へる。一社會の中に居る個人が各充分に活動して其天分を發揮してこそ、始めて社會が進歩するのである。個人を無視した社會は決して健全なる社會といはれぬ。

 個人的善に最も必要なる徳は強盛なる意志である。イブセンのブランドの如き者が個人的道徳の理想である。之に反し意志の薄弱と虚榮心とは最も嫌ふべき惡である(共に自重の念を失ふより起るのである)。又個人に對し最大なる罪を犯したる者は失望の極自殺する者である。

 右にいつた樣に眞正の個人主義は決して非難すべき者でない、又社會と衝突すべき者でもない。併し所謂各人の個人性といふ者は各獨立で互に無關係なる實在であらうか。或は又我々個人の本には社會的自己なる者があつて、我々の個人はその發現であらうか。若し前者ならば個人的善が我々の最上の善でなければならぬ。若し後者ならば我々には一層大なる社會の善があるといはねばならぬ。余はアリストテレースが其政治學の始に、人は社會的動物であるといつたのは動かすべからざる眞理であると思ふ。今日の生理學上から考へて見ると我々の肉體が已に個人的の者ではない。我々の肉體の本は祖先の細胞にある。我々は我々の子孫と共に同一細胞の分裂に由りて生じた者である。生物の全種屬を通じて同一の生物と見ることができる。生物學者は今日生物は死せずといつて居る。意識生活に就いて見てもその通である。人間が共同生活を營む處には必ず各人の意識を統一する社會的意識なる者がある。言語、風俗、習慣、制度、法律、宗教、文學等は凡て此社會的意識の現象である。我々の個人的意識は此中に發生し此中に養成せられた者で、この大なる意識を構成する一細胞にすぎない。知識も道徳も趣味も凡て社會的意義をもつて居る。最も普遍的なる學問すらも社會的因襲を脱しない(今日各國に學風といふものがあるのは之が爲である)。所謂個人の特性といふ者は此社會的意識なる基礎の上に現はれ來る多樣なる變化にすぎない、いかに奇拔なる天才でもこの社會的意識の範圍を脱することはできぬ。反つて社會的意識の深大なる意義を發揮した人である(キリストの猶太教に對する關係が其一例である)。眞に社會的意識と何等の關係なき者は狂人の意識の如きものにすぎぬ。

 右の如き事實は誰も拒むことはできぬが、さて此共同的意識なる者が個人的意識と同一の意味に於て存在する者で、一の人格と見ることができるか否かに至つては種々の異論がある。ヘッフディングなどは統一的意識の實在を否定し、森は木の集合であつて之を分てば森なる者がない、社會も個人の集合で個人の外に社會といふ獨立なる存在はないといつて居る(H\"offding, Ethik, S. 157)。併し分析した上で統一が實在せぬから統一がないとはいはれぬ。個人の意識でも之を分析すれば別に統一的自己といふ者は見出されない。併し統一の上に一つの特色があつて、種々の現象は此統一に由つて成立する者と見做さねばならぬから、一つの生きた實在と看做すのである。社會的意識も同一の理由に由つて一つの生きた實在と見ることができる。社會的意識にも個人的意識と同じ樣に中心もある連絡もある立派に一の體系である。唯個人的意識には肉體といふ一つの基礎がある。これは社會的意識と異なる點であるが、腦といふ者も決して單純なる物體でない、細胞の集合である。社會が個人といふ細胞に由つて成つて居ると違ふ所はない。

 斯く社會的意識なる者があつて我々の個人的意識は其一部であるから、我々の要求の大部分は凡て社會的である。若し我々の欲望の中より其他愛的要素を去つたならば、殆ど何物も殘らない位である。我々の生命慾も主なる原因は他愛にあるを以て見ても明である。我々は自己の滿足よりも反つて自己の愛する者又は自己の屬する社會の滿足に由りて滿足されるのである。元來我々の自己の中心は個體の中に限られたる者ではない。母の自己は子の中にあり、忠臣の自己は君主の中にある。自分の人格が偉大となるに從うて、自己の要求が社會的となつてくるのである。

 之より少しく社會的善の階級を述べよう。社會的意識に種々の階級がある。其中最小であつて、直接なる者は家族である、家族とは我々の人格が社會に發展する最初の階級といはねばならぬ。男女相合して一家族を成すの目的は、單に子孫を遺すといふよりも、一層深遠なる精神的(道徳的)目的をもつて居る。プラトーの「シムポジューム」の中に、元は男女が一體であつたのが、神に由つて分割されたので、今に及んで男女が相慕ふのであるといふ話がある。これは餘程面白い考である。人類といふ典型より見たならば、個人的男女は完全なる人でない、男女を合した者が完全なる一人である。オットー・ヴァイニンゲルが人間は肉體に於ても精神に於ても男性的要素と女性的要素との結合より成つた者である、兩性の相愛するのはこの二つの要素が合して完全なる人間となる爲であるといつて居る。男子の性格が人類の完全なる典型でない樣に、女子の性格も完全なる典型ではあるまい。男女の兩性が相補うて完全なる人格の發展ができるのである。

 併し我々の社會的意識の發達は家族といふ樣な小團體の中にかぎられたものではない。我々の精神的並に物質的生活は凡てそれぞれの社會的團體に於て發達することができるのである。家族に次いで我々の意識活動の全體を統一し、一人格の發現とも看做すべき者は國家である。國家の目的に就いては色々の説がある。或人は國家の本體を主權の威力に置き、其目的は單に外は敵をふせぎ内は國民相互の間の生命財産を保護するにあると考へて居る(ショーペンハウエル、テーン、ホッブスなどは之に屬する)。又或人は國家の本體を個人の上に置き、其目的は單に個人の人格發展の調和にあると考へて居る(ルソーなどの説である)。併し國家の眞正なる目的は第一の論者のいふ樣な物質的で又消極的なものでなく、又第二の論者のいふ樣に個人の人格が國家の基礎でもない。我々の個人は反つて一社會の細胞として發達し來つたものである。國家の本體は我々の精神の根柢である共同的意識の發現である。我々は國家に於て人格の大なる發展を遂げることができるのである。國家は統一した一の人格であつて、國家の制度法律はかくの如き共同意識の意志の發現である(此説は古代ではプラトー、アリストテレース、近代ではヘーゲルの説である)。我々が國家の爲に盡すのは偉大なる人格の發展完成の爲である。又國家が人を罰するのは復讐の爲でもなく、又社會安寧の爲でもない、人格に犯すべからざる威嚴がある爲である。

 國家は今日の處では統一した共同的意識の最も偉大なる發現であるが、我々の人格的發現は此處に止まることはできない、尚一層大なる者を要求する。夫は即ち人類を打して一團とした人類的社會の團結である。此の如き理想は已にパウロの基督教に於て又ストイック學派に於て現はれて居る。併し此理想は容易に實現はできぬ。今日は尚武裝的平和の時代である。

 遠き歴史の初から人類發達の跡をたどつて見ると、國家といふものは人類最終の目的ではない。人類の發展には一貫の意味目的があつて、國家は各其一部の使命を充す爲に興亡盛衰する者であるらしい(萬國史はヘーゲルの所謂世界的精神の發展である)。併し眞正の世界主義といふは各國家が無くなるといふ意味ではない。各國家が益々強固となつて各自の特徴を發揮し、世界の歴史に貢獻するの意味である。

     第十三章 完全なる善行

 善とは一言にていへば人格の實現である。之を内より見れば、眞摯なる要求の滿足、即ち意識統一であつて、其極は自他相忘れ、主客相沒するといふ所に到らねばならぬ。外に現はれたる事實として見れば、小は個人性の發展より、進んで人類一般の統一的發達に到つて其頂點に達するのである。この兩樣の見解よりして尚一つ重要なる問題を説明せねばならぬ必要が起つて來る。内に大なる滿足を與ふる者が必ず又事實に於ても大なる善と稱すべき者であらうか。即ち善に對する二樣の解釋はいつでも一致するであらうかの問題である。

 余は先づ嘗て述べた實在の論より推論して、此兩見解は決して相矛盾衝突することがないと斷言する。元來現象に内外の區別はない、主觀的意識といふも客觀的實在界といふも、同一の現象を異なつた方面より見たので、具體的には唯一つの事實があるだけである。屡々いつた樣に世界は自己の意識統一に由りて成立するといつてもよし、又自己は實在の或特殊なる小體系といつてもよい。佛教の根本的思想である樣に、自己と宇宙とは同一の根柢をもつて居る、否直に同一物である。この故に我々は自己の心内に於て、知識では無限の眞理として、感情では無限の美として、意志では無限の善として、皆實在無限の意義を感ずることができるのである。我々が實在を知るといふのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである。實在の眞善美は直に自己の眞善美でなければならぬ。然らば何故に此の世の中に僞醜惡があるかの疑が起るであらう。深く考へて見れば世の中に絶對的眞善美といふ者もなければ、絶對的僞醜惡といふ者もない。僞醜惡はいつも抽象的に物の一面を見て全豹を知らず、一方に偏して全體の統一に反する所に現はれるのである(實在第五章に於ていつた樣に、一面より見れば僞醜惡は實在成立に必要である、所謂對立的原理より生ずるのである)。

 アウグスチヌスに從へば元來世の中に惡といふ者はない、神より造られたる自然は凡て善である、唯本質の缺乏が惡である。又神は美しき詩の如くに對立を以て世界を飾つた、影が畫の美を増すが如く、若し達觀する時は世界は罪を持ちながらに美である。

 試に善の事實と善の要求との衝突する場合を考へて見ると二つあるのである。一は或行爲が事實としては善であるが其動機は善でないといふのと、一は動機は善であるが事實としては善でないといふのである。先づ第一の場合について考へて見ると、内面的動機が私利私慾であつて、唯外面的事實に於て善目的に合うて居るとしても、決してそれが人格實現を目的とする善行といはれまい。我々は時にかゝる行爲をも賞讚することがあるであらう。併しそは決して道徳の點より見たのでなく、單に利益といふ點より見たのである。道徳の點より見れば、かゝる行爲はたとひ愚であつても己が至誠を盡した者に劣つて居る。或は一個人が己自身を潔うする一人の善行よりも、たとひ純粹なる善動機より出でずとするも、多數の人を利する行爲の方が勝つて居るといふのでもあらう。併し人を益するといふにも色々の意味があつて、單に物質上の利益を與ふるといふならば、其利益が善い目的に用ゐらるれば善となるが、惡い目的に用ゐらるれば反つて惡を助ける樣にもなる。又所謂世道人心を益するといふ眞に道徳的裨益の意味でいふならば、その行爲が内面的に眞の善行でなかつたならばそは單に善行を助くる手段であつて、善行其者ではない、たとひ小であつても眞の善行其者とは比較はできないのである。次に第二の場合に就いて考へて見よう。動機が善くとも、必ずしも事實上善とはいはれないことがある。個人の至誠と人類一般の最上の善とは衝突することがあるとはよく人のいふ所である。併しかくいふ人は至誠といふ語を正當に解して居らぬと思ふ。若し至誠といふ語を眞に精神全體の最深なる要求といふ意味に用ゐたならば、此等の人のいふ所は殆ど事實でないと考へる。我々の眞摯なる要求は我々の作爲したものではない、自然の事實である。眞及美に於て人心の根本に一般的要素を含む樣に、善に於ても一般的要素を含んでをる。ファウストが人世に就いて大煩悶の後、夜深く野の散歩より淋しき己が書齋にかへつた時の樣に、夜靜に心平なるの時、自らこの感情が動いてくるのである(Goethe, Faust, Erster Teil. Studierzimmer)。我々と全く意識の根柢を異にせるものがあつたならば兎に角、凡ての人に共通なる理性を具した人間であるならば、必ず同一に考へ同一に求めねばならぬと思ふ。勿論人類最大の要求が場合に由つては單に可能性に止まつて、現實となつて働かぬこともあるであらう、併しかゝる場合では要求がないのではない、蔽はれて居るのである、自己が眞の自己を知らないのである。

 右に述べた樣な理由に由つて、我々の最深なる要求と最大の目的とは自ら一致するものであると考へる。我々が内に自己を鍛錬して自己の眞體に達すると共に、外自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合ふ樣になる、之を完全なる眞の善行といふのである。かくの如き完全なる善行は一方より見れば極めて難事の樣であるが、又一方より見れば誰にもできなければならぬことである。道徳の事は自己の外にある者を求むるのではない、唯自己にある者を見出すのである。世人は往々善の本質と其外殼とを混ずるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でない樣に思つて居る。併し事業の種類は其人の能力と境遇とに由つて定まるもので、誰にも同一の事業はできない。併し我々はいかに事業が異なつて居ても、同一の精神を以て働くことはできる。いかに小さい事業にしても、常に人類一味の愛情より働いて居る人は、偉大なる人類的人格を實現しつゝある人といはねばならぬ。ラファエルの高尚優美なる性格は聖母に於ても其最も適當なる實現の材料を得たかも知れぬが、ラファエルの性格は啻に聖母に於てのみではなく、彼の描きし凡ての畫に於て現はれて居るのである。たとひラファエルとミケランジェロと同一の畫題を擇んだにしても、ラファエルはラファエルの性格を現はしミケランジェロはミケランジェロの性格を現はすのである。美術や道徳の本體は精神にあつて外界の事物にないのである。

 終に臨んで一言して置く。善を學問的に説明すれば色々の説明はできるが、實地上眞の善とは唯一つあるのみである、即ち眞の自己を知るといふに盡きて居る。我々の眞の自己は宇宙の本體である、眞の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本體と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も實に此處に盡きて居る。而して眞の自己を知り神と合する法は、唯主客合一の力を自得するにあるのみである。而して此力を得るのは我々の此僞我を殺し盡して一たび此世の欲より死して後蘇るのである(マホメットがいつた樣に天國は劍の影にある)。此の如くにして始めて眞に主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意である。基督教では之を再生といひ佛教では之を見性といふ。昔ローマ法皇ベネディクト十一世がジョットーに畫家として腕を示すべき作を見せよといつてやつたら、ジョットーは唯一圓形を描いて與へたといふ話がある。我々は道徳上に於てこのジョットーの一圓形を得ねばならぬ。

    第四編 宗教

     第一章 宗教的要求

 宗教的要求は自己に對する要求である、自己の生命に就いての要求である。我々の自己がその相對的にして有限なることを覺知すると共に、絶對無限の力に合一して之に由りて永遠の眞生命を得んと欲するの要求である。パウロが既にわれ生けるにあらず基督我にありて生けるなりといつた樣に、肉的生命の凡てを十字架に釘付け了りて獨り神に由りて生きんとするの情である。眞正の宗教は自己の變換、生命の革新を求めるのである。基督が十字架を取りて我に從はざる者は我に協はざる者なりといつた樣に、一點尚自己を信ずるの念ある間は未だ眞正の宗教心とはいはれないのである。

 現世利益の爲に神に祈る如きはいふに及ばず、徒らに往生を目的として念佛するのも眞の宗教心ではない。されば歎異鈔にも「わが心に往生の業をはげみて申すところの念佛も自行になすなり」といつてある。又基督教に於てもかの單に神助を頼み、神罰を恐れるといふ如きは眞の基督教ではない。此等は凡て利己心の變形にすぎないのである。加之、余は現時多くの人のいふ如き宗教は自己の安心の爲であるといふことすら誤つて居るのではないかと思ふ。かゝる考をもつて居るから、進取活動の氣象を滅却して少慾無憂の消極的生活を以て宗教の眞意を得たと心得る樣にもなるのである。我々は自己の安心の爲に宗教を求めるのではない、安心は宗教より來る結果にすぎない。宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能はざる大なる生命の要求である、嚴肅なる意志の要求である。宗教は人間の目的其者であつて、決して他の手段とすべき者ではないのである。

 主意説の心理學者のいふ樣に、意志は精神の根本的作用であつて、凡ての精神現象が意志の形をなして居るとすれば、我々の精神は欲求の體系であつて、此體系の中心となる最も有力なる欲求が我々の自己であるといふこととなる。而して此中心より凡てを統一して行くこと即ち自己を維持發展することが我々の精神的生命である。此統一の進行する間は我々は生きて居るのであるが、若し此統一が破れたときには、たとひ肉體に於て生きて居るにもせよ、精神に於ては死せるも同然となるのである。然るに我々は個人的欲求を中心として凡てを統一することができるであらうか。即ち、個人的生命は何處までも維持發展することのできるものであらうか。世界は個人の爲に造られたる者ではなく、又個人的欲求が人生最大の欲求でもない。個人的生命は必ず外は世界と衝突し内は自ら矛盾に陷らねばならぬ。是に於て我々は更に大なる生命を求めねばならぬやうになる、即ち、意識中心の推移に由りて更に大なる統一を求めねばならぬやうになるのである。かくの如き要求は凡て我々の共同的精神の發生の場合に於ても之を見ることができるのであるが、唯宗教的要求はかゝる要求の極點である。我々は客觀的世界に對して主觀的自己を立し之に由りて前者を統一せんとする間は、その主觀的自己はいかに大なるにもせよ、その統一は未だ相對的たるを免れない、絶對的統一は唯全然主觀的統一を棄てゝ客觀的統一に一致することに由りて得られるのである。

 元來、意識の統一といふのは意識成立の要件であつて、その根本的要求である。統一なき意識は無も同然である、意識は内容の對立に由りて成立することができ、その内容が多樣なればなる程一方に於て大なる統一を要するのである。この統一の極まる所が我々の所謂客觀的實在といふもので、此統一は主客の合一に至つてその頂點に達するのである。客觀的實在といふのも主觀的意識を離れて別に存在するのではない、意識統一の結果、疑はんと欲して疑ふ能はず、求めんと欲してこれ以上に求むるの途なきものをいふのである。而してかくの如き意識統一の頂點即ち主客合一の状態といふのは啻に意識の根本的要求であるのみならず又實に意識本來の状態である。コンヂヤックがいつた樣に、我々が始めて光を見た時には之を見るといふよりも寧ろ我は光其者である。凡て最初の感覺は小兒に取りては直に宇宙其者でなければならぬ。この境涯に於ては未だ主客の分離なく、物我一體、唯、一事實あるのみである。我と物と一なるが故に更に眞理の求むべき者なく、欲望の滿すべき者もない、人は神と共にあり、エデンの花園とはかくの如き者をいふのであらう。然るに意識の分化發展するに從ひ主客相對立し、物我相背き、人生是に於て要求あり、苦惱あり、人は神より離れ、樂園は長へにアダムの子孫より鎖されるやうになるのである。併し意識はいかに分化發展するにしても到底主客合一の統一より離れることはできぬ、我々は知識に於て意志に於て始終この統一を求めて居るのである。意識の分化發展は統一の他面であつてやはり意識成立の要件である。意識の分化發展するのは反つて一層大なる統一を求めるのである。統一は實に意識のアルファであり又オメガであるといはねばならぬ。宗教的要求はかくの如き意味に於ける意識統一の要求であつて、兼ねて宇宙と合一の要求である。

 かくして宗教的要求は人心の最深最大なる要求である。我々は種々の肉體的要求や又精神的要求をもつて居る。併しそは皆自己の一部の要求にすぎない、獨り宗教は自己其者の解決である。我々は知識に於て又意志に於て意識の統一を求め主客の合一を求める、併しこは尚半面の統一にすぎない、宗教は此等の統一の背後に於ける最深の統一を求めるのである、知意未分以前の統一を求めるのである。我々の凡ての要求は宗教的要求より分化したもので、又その發展の結果之に歸着するといつてよい。人智の未だ開けない時は人々反つて宗教的であつて、學問道徳の極致はまた宗教に入らねばならぬやうになる。世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。併しかくの如き問は何故に生きる必要があるかといふと同一である。宗教は己の生命を離れて存するのではない、その要求は生命其者の要求である。かゝる問を發するのは自己の生涯の眞面目ならざるを示すものである。眞摯に考へ眞摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずには居られないのである。

     第二章 宗教の本質

 宗教とは神と人との關係である。神とは種々の考へ方もあるであらうが、之を宇宙の根本と見ておくのが最も適當であらうと思ふ、而して人とは我々の個人的意識をさすのである。此兩者の關係の考へ方に由つて種々の宗教が定まつてくるのである。然らば如何なる關係が眞の宗教的關係であらうか。若し神と我とは其根柢に於て本質を異にし、神は單に人間以上の偉大なる力といふ如き者とするならば、我々は之に向つて毫も宗教的動機を見出すことはできぬ。或は之を恐れて其命に從ふこともあらう、或は之に媚びて福利を求めることもあらう。併しそは皆利己心より出づるにすぎない、本質を異にせる者の相互の關係は利己心の外に成り立つことはできないのである。ロバルトソン・スミスも宗教は不可知的力を恐れるより起るのではない、己と血族の關係ある神を敬愛するより起るのである、又宗教は個人が超自然力に對する隨意的關係ではなくして、一社會の各員がその社會の安寧秩序を維持する力に對する共同的關係であるといつて居る。凡ての宗教の本には神人同性の關係がなければならぬ、即ち父子の關係がなければならぬ。併し單に神と人と利害を同じうし神は我等を助け我等を保護するといふのでは未だ眞の宗教ではない、神は宇宙の根本であつて兼ねて我等の根本でなければならぬ、我等が神に歸するのは其本に歸するのである。又神は萬物の目的であつて即ち又人間の目的でなければならぬ、人は各神に於て己が眞の目的を見出すのである。手足が人の物なるが如く、人は神の物である。我々が神に歸するのは一方より見れば己を失ふやうであるが、一方より見れば己を得る所以である。基督がその生命を得る者は之を失ひ我が爲に生命を失ふ者は之を得べしといはれたのが宗教の最も醇なる者である。眞の宗教に於ける神人の關係は必ず斯の如き者でなければならぬ。我々が神に祈り又は感謝するといふも、自己の存在の爲にするのではない、己が本分の家郷たる神に歸せんことを祈り又之に歸せしことを感謝するのである。又神が人を愛するといふのも此世の幸福を與ふるのではない、之をして己に歸せしめるのである。神は生命の源である、我は唯神に於て生く。かくありてこそ宗教は生命に充ち、眞の敬虔の念も出でくるのである。單に諦めるといひ、任すといふ如きは尚自己の臭氣を脱して居らぬ、未だ眞の敬虔の念とはいはれない。神に於て眞の自己を見出すなどいふ語は或は自己に重きを置く樣に思はれるかも知らぬが、これ反つて眞に己をすてゝ神を崇ぶ所以である。

 神人その性を同じうし、人は神に於て其本に歸すといふのは凡ての宗教の根本的思想であつて、この思想に基づくものにして始めて眞の宗教と稱することができると思ふ。併し斯の如き一思想の上に於ても亦神人の關係を種々に考へることができる。神は宇宙の外に超越せる者であつて、外より世界を支配し人に對しても外から働く樣に考へることもでき、又は神は内在的であつて、人は神の一部であり神は内より人に働くと考へることもできる。前者は所謂有神論theismの考であつて、後者は所謂汎神論pantheismの考である。後者の如く考ふる時は合理的であるかも知らぬが、多くの宗教家は之に反對するのである。何となれば神と自然とを同一視することは神の人格性をなくすることになり、又萬有を神の變形の如くに見做すのは神の超越性を失ひその尊嚴を害ふばかりでなく、惡の根源も神に歸せねばならぬ樣な不都合も出てくるのである。併しよく考へて見ると、汎神論的思想に必ず此等の缺點があるともいへず、有神論に必ず此等の缺點がないともいはれない。神と實在の本體とを同一視するも、實在の根本が精神的であるとすれば必ずしも神の人格性を失ふ事とはならぬ。又いかなる汎神論であつても個々の萬物そのまゝが直に神であるといふのではない、スピノーザ哲學に於ても萬物は神の差別相modesである。また有神論に於ても神の全知全能と此世に於ける惡の存在とは容易に調和することはできぬ。こは實に中世哲學に於ても幾多の人の頭を惱ました問題であつたのである。

 超越的神があつて外から世界を支配するといふ如き考は啻に我々の理性と衝突するばかりでなく、かゝる宗教は宗教の最深なる者とはいはれない樣に思ふ。我々が神意として知るべき者は自然の理法あるのみである、この外に天啓といふべき者はない。勿論神は不可測であるから、我々の知る所はその一部にすぎぬであらう。併しこの外に天啓なるものがあるにしても我々は之を知ることはできまい、又若し之に反する天啓ありとすれば、こは反つて神の矛盾を示すのである。我々が基督の神性を信ずるのは、その一生が最深なる人生の眞理を含む故である。我々の神とは天地之に由りて位し萬物之に由りて育する宇宙の内面的統一力でなければならぬ、この外に神といふべきものはない。若し神が人格的であるといふならば、此の如き實在の根本に於て直に人格的意義を認めるとの意味でなくてはならぬ。然らずして別に超自然的を云々する者は、歴史的傳説に由るにあらざれば自家の主觀的空想にすぎないのである。又我々はこの自然の根柢に於て、又自己の根柢に於て直に神を見ればこそ神に於て無限の暖さを感じ、我は神に於て生くといふ宗教の眞髓に達することもできるのである。神に對する眞の敬愛の念は唯此中より出でくることができる。愛といふのは二つの人格が合して一となるの謂であり、敬とは部分的人格が全人格に對して起す感情である。敬愛の本には必ず人格の統一といふことがなければならぬ。故に敬愛の念は人と人との間に起るばかりでなく、自己の意識中に於ても現はれるのである。我々のきのふ、けふと相異なれる意識が同一なる意識中心を有するが故に自敬自愛の念を以て充されると同じ樣に、我々が神を敬し神を愛するのは神と同一の根柢を有するが故でなければならぬ、我々の精神が神の部分的意識なるが故でなければならぬ。勿論神と人とは同一なる精神の根柢を有するも、同一なる思想を有する二人の精神が互に獨立するが如く獨立すると考へることもできるであらう。併しこは肉體より見て時間及空間的に精神を區別したのである。精神に於ては同一の根柢を有する者は同一の精神である。我々の日々に變ずる意識が同一の統一を有するが故に同一の精神と見られるが如くに、我々の精神は神と同一體でなければならぬ。かくして我は神に於て生くといふのも單に比喩ではなくして事實であることができる(ウェストコットといふビショップも約翰傳第十七章第二十一節に註して信者の一致とは單に目的感情等の徳義上の合一moral unityではなくして生命の合一vital unityであるといつて居る)。

 かく最深の宗教は神人同體の上に成立することができ、宗教の眞意はこの神人合一の意義を獲得するにあるのである。即ち我々は意識の根柢に於て自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神を實驗するにあるのである。信念といふのは傳説や理論に由りて外から與へらるべき者ではない、内より磨き出さるべき者である。ヤコブ・ベーメのいつた樣に、我々は最深なる内生die innerste Geburtに由りて神に到るのである。我々はこの内面的再生に於て直に神を見、之を信ずると共に、こゝに自己の眞生命を見出し無限の力を感ずるのである。信念とは單なる知識ではない、かゝる意味に於ける直觀であると共に活力であるのである。凡て我々の精神活動の根柢には一つの統一力が働いて居る、これを我々の自己といひ又人格ともいふのである。欲求の如きはいふまでもなく、知識の如き最も客觀的なる者もこの統一力即ち各人の人格の色を帶びて居らぬ者はない。知識も欲望も皆此力に由りて成立するのである。信念とはかくの如く知識を超越せる統一力である。知識や意志に由りて信念が支へられるといふよりも、寧ろ信念に由りて知識や意志が支へられるのである。信念はかゝる意味に於て神祕的である。信念が神祕的であるといふのは知識に反するの意味ではない、知識と衝突する如き信念ならば之を以て生命の本となすことは出來ぬ。我々は知を盡し意を盡したる上に於て、信ぜざらんと欲して信ぜざる能はざる信念を内より得るのである。

     第三章 神

 神とはこの宇宙の根本をいふのである。上に述べたやうに、余は神を宇宙の外に超越せる造物者とは見ずして、直にこの實在の根柢と考へるのである。神と宇宙との關係は藝術家とその作品との如き關係ではなく、本體と現象との關係である。宇宙は神の所作物ではなく、神の表現manifestationである。外は日月星辰の運行より内は人心の機微に至るまで悉く神の表現でないものはない、我々は此等の物の根柢に於て一々神の靈光を拜することができるのである。

 ニュートンやケプレルが天體運行の整齊を見て敬虔の念に打たれたといふ樣に、我々は自然の現象を研究すればする程、其背後に一つの統一力が支配して居るのを知ることができる。學問の進歩とはかくの如き知識の統一をいふにすぎないのである。斯く外は自然の根柢に於て一つの統一力の支配を認むるやうに、内は人心の根柢に於ても一つの統一力の支配を認めねばならぬ。人心は千状萬態殆ど定法なきが如くに見ゆるも、之を達觀する時は古今に通じ東西に亙りて偉大なる統一力が支配して居る樣である。更に進んで考へる時は、自然と精神とは全然沒交渉の者ではない、彼此密接の關係がある。我々は此二者の統一を考へずには居られない、即ち此二者の根柢に更に大なる唯一の統一力がなければならぬ。哲學も科學も皆此統一を認めない者はないのである。而して此統一が即ち神である。勿論唯物論者や一般の科學者のいふ樣に、物體が唯一の實在であつて萬物は單に物力の法則に從ふものならば神といふやうなものを考へることはできぬであらう。併し實在の眞相は果してかくの如き者であらうか。

 余が前に實在に就いて論じた樣に、物體といふも我々の意識現象を離れて別に獨立の實在を知り得るのではない。我々に與へられたる直接經驗の事實は唯この意識現象あるのみである。空間といひ、時間といひ、物力といひ皆この事實を統一説明する爲に設けられたる概念にすぎない。物理學者のいふ樣な、すべて我々の個人の性を除去したる純物質といふ如き者は最も具體的事實に遠ざかりたる抽象的概念である。具體的事實に近づけば近づく程個人的となる。最も具體的なる事實は最も個人的なる者である。此故に原始的説明は神話に於ての樣に凡て擬人的であつたが、純知識の進むに從ひ益々一般的となり抽象的となり遂に純物質といふ如き概念を生ずるに至つたのである。併しかくの如き説明は極めて外面的で淺薄なると共に、かゝる説明の背後にも我々の主觀的統一なる者の潛んで居ることを忘れてはならぬ。最も根本的なる説明は必ず自己に還つてくる。宇宙を説明する祕鑰は此自己にあるのである。物體に由りて精神を説明せうとするのはその本末を顛倒した者といはねばならぬ。

 ニュートンやケプレルが見て以て自然現象の整齊となす所の者もその實は我々の意識現象の整齊にすぎない。意識はすべて統一に由りて成立するのである。而して此統一といふのは、小は各個人の日々の意識間の統一より、大は總べての人の意識を結合する宇宙的意識統一に達するのである(意識統一を個人的意識内に限るは純粹經驗に加へたる獨斷にすぎない)。自然界といふのはかくの如き超個人的統一に由りて成れる意識の一體系である。我々が個人的主觀に由りて自己の經驗を統一し、更に超個人的主觀に由りて各人の經驗を統一してゆくのであつて、自然界はこの超個人的主觀の對象として生ずるのである。ロイスも自然の存在は我々の同胞の存在の信仰と結合されて居るといつて居る(Royce, The World and the Individual, Second Series, Lect. IV)。それで自然界の統一といふのも畢竟意識統一の一種にすぎないといふことになる。元來精神と自然と二種の實在があるのではない、この二者の區別は同一實在の見方の相違より起るのである。直接經驗の事實に於ては主客の對立なく、精神物體の區別なく、物即心、心即物、唯一箇の現實あるのみである。唯かくの如き實在の體系の衝突即ち一方より見ればその發展上より主客の對立が出てくる。換言すれば知覺の連續に於ては主客の別はない、唯この對立は反省に由つて起つてくるのである。實在體系の衝突の時、その統一作用の方面が精神と考へられ、之が對象として之に對抗する方面が自然と考へられるのである。併し所謂客觀的自然も其實主觀的統一を離れて存することはできず、主觀的統一といふも統一の對象即ち内容なき統一のある筈はない。兩者共に同一種の實在であつて唯其統一の形を異にするのである。且つかく孰れか一方に偏せるものは抽象的で不完全なる實在である。かゝる實在は兩者の合一に於て始めて完全なる具體的實在となるのである。精神と自然との統一といふものは二種の體系を統一するのではない、元來同一の統一の下にあるのである。

 斯く實在に精神と自然との別なく、從うて二種の統一あることなく、唯同一なる直接經驗の事實其物が見方に由りて種々の差別を生ずるものとすれば、余が前にいつた實在の根柢たる神とは、この直接經驗の事實即ち我々の意識現象の根柢でなければならぬ。然るにすべて我々の意識現象は體系をなした者である。超個人的統一に由りて成れる所謂自然現象といへども此形式を離れることはできぬ。統一的或者の自己發展といふのが凡ての實在の形式であつて、神とはかくの如き實在の統一者である。宇宙と神との關係は、我々の意識現象とその統一との關係である。思惟に於ても意志に於ても心象が一の目的觀念に由り統一せられ、凡てがこの統一的觀念の表現と看做される如くに、神は宇宙の統一者であり宇宙は神の表現である。この比較は單に比喩ではなくして事實である。神は我々の意識の最大最終の統一者である、否、我々の意識は神の意識の一部であつて、その統一は神の統一より來るのである。小は我々の一喜一憂より大は日月星辰の運行に至るまで皆この統一に由らぬものはない。ニュートンやケプレルもこの偉大なる宇宙的意識の統一に打たれたのである。

 然らばかくの如き意味に於て宇宙の統一者であり實在の根柢たる神とは如何なる者であらうか。精神を支配する者は精神の法則でなければならぬ。物質といふ如き者は上にいつた樣に、説明の爲に設けられたる最も淺薄なる抽象的概念に過ぎない。精神現象とは所謂知情意の作用であつて、之を支配する者は亦知情意の法則でなければならぬ。而して精神は單に此等の作用の集合ではなく、その背後に一の統一力があつて、此等の現象はその發現である。今此統一力を人格と名づくるならば、神は宇宙の根柢たる一大人格であるといはねばならぬ。自然の現象より人類の歴史的發展に至るまで一々大なる思想、大なる意志の形をなさぬものはない、宇宙は神の人格的發現といふこととなるのである。併しかくいふも余は或一派の人々の考ふる樣に、神は宇宙の外に超越し、宇宙の進行を離れて別に特殊なる思想、意志を有する我々の主觀的精神の如き者と考へることはできぬ。神に於ては知即行、行即知であつて、實在は直に神の思想であり又意志でなければならぬ(Spinoza, Ethica, I Pr. 17 Schol. を見よ)。我々の主觀的思惟及意志といふ如き者は種々の體系の衝突より起る不完全なる抽象的實在である。かくの如き者を以て直に神に擬することはできぬ。イリングウォルスといふ人は「人及神の人格」と題する書中に於て、人格の要素として自覺、意志の自由、及愛の三つをあげて居る。併しこの三つの者を以て人格の要素となす前に、此等の作用が實地に於て如何なる事實を意味し居るかを明にして置かねばならぬ。自覺とは部分的意識體系が全意識の中心に於て統一せらるゝ場合に伴ふ現象である。自覺は反省に由つて起る、而して自己の反省とはかくの如く意識の中心を求むる作用である。自己とは意識の統一作用の外にない、この統一がかはれば自己もかはる、この外に自己の本體といふやうの者は空名にすぎぬのである。我々が内に省みて一種特別なる自己の意識を得る樣に思ふが、そは心理學者のいふ如くこの統一に伴ふ感情にすぎない。かくの如き意識あつてこの統一が行はれるのではなく、この統一あつてかくの如き意識を生ずるのである。この統一其者は知識の對象となることはできぬ、我々は此者となつて働くことはできるが、之を知ることはできぬ。眞の自覺は寧ろ意志活動の上にあつて知的反省の上にないのである。若し神の人格に於ける自覺といふならば、この宇宙現象の統一が一々その自覺でなければならぬ。たとへば三角形の總べての角の和は二直角なりといふは何人も何の時代にもかく考へねばならぬ。これも神の自覺の一つである。すべて我々の精神を支配する宇宙統一の念は神の自己同一の意識であるといつてよからう。萬物は神の統一に由りて成立し、神に於ては凡てが現實である、神は常に能働的である。神には過去も未來もない、時間、空間は宇宙的意識統一に由りて生ずるのである、神に於ては凡てが現在である。アウグスチヌスのいつた樣に、時は神に由りて造られ神は時を超越するが故に神は永久の今に於てある。この故に神には反省なく、記憶なく、希望なく、從つて特別なる自己の意識はない。凡てが自己であつて自己の外に物なきが故に自己の意識はないのである。

 次に意志の自由といふことにも色々の意味はあるが、眞の自由とは自己の内面的性質より働くといふ所謂必然的自由の意味でなければならぬ。全く原因のない意志といふ樣のことは啻に不合理であるばかりでなく、此の如きものは自己に於ても全く偶然の出來事であつて、自己の自由的行爲とは感ぜられぬであらう。神は萬有の根本であつて、神の外に物あることなく、萬物悉く神の内面的性質より出づるが故に神は自由である、此意味に於ては神は實に絶對的に自由である。かくいへば、神は自己の性質に束縛せられ其全能を失ふ樣に見えるかも知らぬが、自己の性質に反して働くと云ふのは自己の性質の不完全なるか或はその矛盾を示すものである。神の完全にして全知なることと彼の不定的なる自由意志とは兩立することはできまいと思ふ。アウグスチヌスも神の意志は不變であつて時に欲し時に欲せず、況んや前の決斷を後に翻へす如きものにあらずといつて居る(Conf. XII. 15)。選擇的意志といふが如きは寧ろ不完全なる我々の意識状態に伴ふべきものであつて、之を以て神に擬すべきものではない。例へば我々が充分に熟達した事柄に於ては少しも選擇的意志を入るゝの餘地がない、選擇的意志は疑惑、矛盾、衝突の場合に必要となるのである。勿論誰もいふ如く知るといふ中には已に自由といふことを含んでをる、知は即ち可能を意味して居るのである。併しその可能とは必ずしも不定的可能の意味でなければならぬことはない。知とは反省の場合にのみいふべきではない、直覺も知である。直覺の方が寧ろ眞の知である。知が完全となればなる程反つて不定的可能はなくなるのである。かく神には不定的意志即ち隨意といふことがないのであるから、神の愛といふのも神は或人々を愛し、或人々を憎み、或人々を榮えしめ、或人々を亡ぼすといふ如き偏狹の愛ではない。神は凡ての實在の根柢として、其愛は平等普遍でなければならず、且つその自己發展其者が直に我々に取りて無限の愛でなければならぬ。萬物自然の發展の外に特別なる神の愛はないのである。元來愛とは統一を求むるの情である、自己統一の要求が自愛であり、自他統一の要求が他愛である。神の統一作用は直に萬物の統一作用であるから、エッカルトのいつた樣に神の他愛は即ちその自愛でなければならぬ。我々が自己の手足を愛するが如くに神は萬物を愛するのである。エッカルトは又神の人を愛するは隨意の行動ではなく、かくせねばならぬのであるといつて居る。

 以上論じた樣に、神は人格的であるといふも直に之を我々の主觀的精神と同一に見ることはできぬ、寧ろ主客の分離なく物我の差別なき純粹經驗の状態に比すべきものである。この状態が實に我々の精神の始であり終であり、兼ねて又實在の眞相である。基督が心の清き者は神を見るといひ、又嬰兒の若くにして天國に入るといつた樣に、かゝる時我々の心は最も神に近づいて居るのである。純粹經驗といふも單に知覺的意識をさすのでない。反省的意識の背後にも統一があつて、反省的意識は之に由つて成立するのである、即ちこれも亦一種の純粹經驗である。我々の意識の根柢にはいかなる場合にも純粹經驗の統一があつて、我々はこの外に跳出することはできぬ(第一編を看よ)。神はかゝる意味に於て宇宙の根柢に於ける一大知的直觀と見ることができ、又宇宙を包括する純粹經驗の統一者と見ることができる。かくしてアウグスチヌスが神は不變的直觀を以て萬物を直觀するといひ又神は靜にして動、動にして靜といつたのも解することができ(Storz, Die Philosophie des HL. Augstinus, §20)、又エッカルトの「神性」Gottheit及ベーメの「物なき靜さ」Stille ohne Wesenといへる語の意味も窺ふことができる。すべて意識の統一は變化の上に超越して湛然不動でなければならぬ、而も變化はこれより起つてくるのである、即ち動いて動かざるものである。又意識の統一は知識の對象となることはできぬ、總べての範疇を超越して居る、我々はこれに何等の定形を與ふることもできぬ、而も萬物は之に由りて成立するのである。それで神の精神といふ如きことは、一方より見ればいかにも不可知的であるが、又一方より見れば反つて我々の精神と密接して居るのである。我々はこの意識統一の根柢に於て直に神の面影に接することができる。故にベーメも天は到る處にあり、汝の立つ處行く處皆天ありといひ又最深なる内生に由つて神に到るといつて居る(Morgenr\"ote)。

 或人はいふであらう、右の如く論じた時には、神は物の本質と同一となり、縱し精神的なりとするも理性又は良心と何等の區別なく、その生きた個人的人格を失ふやうになるではなからうか。個人性は唯不定的自由意志より生ずることができるのである(これ嘗て中世哲學に於てスコトゥスがトーマスに反對せる論點であつた)。かゝる神に對して我々は決して宗教的感情を起すことはできぬ。宗教に於ては罪は單に法を破るのではない、人格に背くのである、後悔は單に道徳的後悔ではない、親を害し恩人に背いた切なる後悔である。アルスキンErskine of Linlathenは宗教と道徳とは良心の背後に人格を認むると否とに由つて分れるといつて居る。併しヘーゲルなどのいつたやうに、眞の個人性といふのは一般性を離れて存するものではない、一般性の限定せられたもの、bestimmte Allgemeinheitが個人性となるのである。一般的なる者は具體的なる者の精神である。個人性とは一般性に外より他の或者を加へたのではない、一般性の發展したものが個人性となるのである。何等の内面的統一もない單に種々の性質の偶然的結合といふやうな者には個人性といふべきものはない。個人的人格の要素たる意志の自由といふことは一般的なる者が己自身を限定するselfdeterminationの謂である。三角形の概念が種々の三角形に分化し得る樣に、或一般的なる者が其中に含める種々なる限定の可能を自覺するのが自由の感である。全く基礎のない絶對的自由意志よりは反つて個人的自覺は起らぬであらう。個性に理由なしratio singularitatis frustra quaeriturといふ語もあれど、眞にかくの如き個人性は何等の内容なき無と同一でなければならぬ。唯具體的なる個人性は抽象的概念にて知ることができぬまでである。抽象的概念に現はすことのできない個人性でも畫家や小説家の筆にて鮮かに現はすことができるのである。

 神が宇宙の統一であるといふのは單に抽象的概念の統一ではない、神は我々の個人的自己のやうに具體的統一である、即ち一の生きた精神である。我々の精神が上に云つた意味で個人的であるといひ得るやうに、神も個人的といひ得るであらう。理性や良心は神の統一作用の一部であらうが、その生きた精神其者ではない。かくの如き神性的精神の存在といふことは單に哲學上の議論ではなくして、實地に於ける心靈的經驗の事實である。我々の意識の底には誰にもかゝる精神が働いて居るのである(理性や良心はその聲である)。唯我々の小なる自己に妨げられて之を知ることができないのである。例へば詩人テニスンの如きも次の如き經驗をもつてをつた。氏が靜に自分の名を唱へて居ると、自己の個人的意識の深き底から、自己の個人が溶解して無限の實在となる、而も意識は決して朦朧たるのではなく最も明晰確實である。此時死とは笑ふべき不可能事で、個人の死といふ事が眞の生であると感ぜられるといつて居る。氏は幼時より淋しき獨居の際に於て屡々かゝる事を經驗したといふ。又文學者シモンヅJ. A. Symondsの如きも、我々の通常の意識が漸々薄らぐと共に其根柢にある本來の意識が強くなり、遂には一の純粹なる絶對的抽象的自己だけが殘るといつて居る。其外、宗教的神祕家のかゝる經驗を擧げれば限もないのである(James, The Varieties of Religious Experiences, Lect. XVI, XVII.)。或はかゝる現象を以て盡く病的となすかも知らぬがその果して病的なるか否かは合理的なるか否かに由つて定まつてくる。余が嘗て述べた樣に、實在は精神的であつて我々の精神はその一小部分にすぎないとすれば、我々が自己の小意識を破つて一大精神を感得するのは毫も怪むべき理由がない。我々の小意識の範圍を固執するのが反つて迷であるかも知れぬ。偉人には必ず右の樣に常人より一層深遠なる心靈的經驗がなければならぬと思ふ。

     第四章 神と世界

 純粹經驗の事實が唯一の實在であつて神はその統一であるとすれば、神の性質及世界との關係もすべて我々の純粹經驗の統一即ち意識統一の性質及之と其内容との關係より知ることができる。先づ我々の意識統一は見ることもできず、聞くこともできぬ、全く知識の對象となることはできぬ。一切は之に由りて成立するが故に能く一切を超絶して居る。黒にあうて黒を現んずるも心は黒なるのではない、白にあうて白を現んずるも心は白なるのではない。佛教はいふに及ばず、中世哲學に於てディオニシュースDionysius一派の所謂消極的神學が神を論ずるに否定を以てしたのもこの面影を寫したのである。ニコラウス・クザヌスの如きは神は有無をも超絶し、神は有にして又無なりといつて居る。我々が深く自己の意識の奧底を反省してみる時は嘗てヤコブ・ベーメが、神は「物なき靜さ」であるとか、「無底」Ungrundであるとか又は「對象なき意志」Wille ohne Gegenstandであるとかいつた語に深き意味を見出すこともでき、又一種崇高にして不可思議の感に打たれるのである。其他神の永久とか遍在とか全知全能とかいふやうのことも、皆この意識統一の性質より解釋せねばならぬ。時間、空間は意識統一に由つて成立するが故に、神は時間、空間の上に超絶し永久不滅にして在らざる所なしである。一切は意識統一に由りて生ずるが故に、神は全知全能であつて知らぬ所もなく能はぬ所もない、神に於ては知と能と同一である。

 然らば右の如き絶對無限なる神と此世界との關係は如何なるものであらうか。有を離れたる無は眞の無でない、一切を離れたる一は眞の一でない、差別を離れたる平等は眞の平等でない。神がなければ世界はないやうに、世界がなければ神もない。固より\UTF{7386}に世界といふのは我々の此世界のみをさすのではない。スピノーザのいつた樣に神の屬性attributesは無限であるから、神は無限の世界を包含して居らねばならぬ。唯世界的表現は神の本質に屬すべきものであつて決してその偶然的作用ではない、神は嘗て一度世界を創造したのではなく、その永久の創造者である(ヘーゲル)。要するに神と世界との關係は意識統一と其内容との關係である。意識内容は統一に由つて成立するが、又意識内容を離れて統一なる者はない。意識内容と其統一とは統一せられる者とする者との二あるのではなく、同一實在の兩方面にすぎないのである。すべて意識現象はその直接經驗の状態に於ては唯一つの活動であるが、之を知識の對象として反省することに由つてその内容が種々に分析せられ差別せられるのである。若しその發展の過程より云へば、先づ全體が一活動として衝動的に現はれたものが矛盾衝突に由つてその内容が反省せられ分別せられたのである。余は是に於てもベーメの語を想ひ起さずには居られない。氏は對象なき意志ともいふべき發現以前の神が己自身を省みること即ち己自身を鏡となすことに由つて主觀と客觀とが分れ、之より神及世界が發展するといつて居る。

 元來、實在の分化と其統一とは一あつて二あるべきものではない。一方に於て統一といふことは、一方に於て分化といふことを意味して居る。例へば樹に於て花はよく花たり葉はよく葉たるのが樹の本質を現はすのである。右の如き區別は單に我々の思想上のことであつて直接的なる事實上の事ではないのである。ゲーテが自然は核も殼も持たぬ、すべてが同時に核であり殼であるNatur hat weder Kern noch Schale, alles ist sie mit einemmaleといつた樣に、具體的眞實在即ち直接經驗の事實に於ては分化と統一とは唯一の活動である。例へば一幅の畫、一曲の譜に於て、その一筆一聲何れも直に全體の精神を現はさゞるものはなく、又畫家や音樂家に於て一つの感興である者が直に溢れて千變萬化の山水となり、紆餘曲折の樂音ともなるのである。斯の如き状態に於ては神は即ち世界、世界は即ち神である。ゲーテが「エペソ人のディヤナは大なるかな」といへる詩の中にいつた樣に、人間の腦中に於ける抽象的の神に騷ぐよりは、專心ディヤナの銀龕を作りつゝパウロの教を顧みなかつたといふ銀工の方が、或意味に於て反つて眞の神に接して居たともいへる。エッカルトのいつた樣に神すらも失つた所に眞の神を見るのである。右の如き状態に於ては天地唯一指、萬物我と一體であるが、曩にもいつた樣に、一方より見れば實在體系の衝突により、一方より見ればその發展の必然的過程として實在體系の分裂を來すやうになる、即ち所謂反省なる者が起つて來なければならぬ。之に由つて現實であつた者が觀念的となり、具體的であつた者が抽象的となり、一であつた者が多となる。是に於て一方に神あれば一方に世界あり、一方に我あれば一方に物あり、彼此相對し物々相背く樣になる。我等の祖先が知慧の樹の果を食うて神の樂園より追ひ出だされたといふのも、此眞理を意味するのであらう。人祖墮落はアダム、エヴの昔ばかりではなく、我等の心の中に時々刻々行はれて居るのである。併し翻つて考へて見れば、分裂といひ反省といひ別にかゝる作用があるのではない、皆是統一の半面たる分化作用の發展にすぎないのである。分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含んで居る、反省は深き統一に達する途である(善人なほ往生す、いかにいはんや惡人をやといふ語がある)。神はその最深なる統一を現はすには先づ大に分裂せねばならぬ。人間は一方より見れば直に神の自覺である。基督教の傳説をかりて云へば、アダムの墮落があつてこそ基督の救があり、從つて無限なる神の愛が明となつたのである。

 扨、世界と神との關係を右の樣に考へることより、我々の個人性は如何に説明せねばならぬであらうか。萬物は神の表現であつて神のみ眞實在であるとすれば、我々の個人性といふ如き者は虚僞の假相であつて、泡沫の如く全く無意義の者と考へねばならぬであらうか。余は必ずしもかく考ふるには及ばぬと思ふ。固より神より離れて獨立せる個人性といふ者はなからう。併し之が爲に我々の個人性は全然虚幻とみるべきものではない、反つて神の發展の一部とみることもできる、即ちその分化作用の一とみることもできる。凡ての人が各自神より與へられた使命をもつて生れてきたといふ樣に、我々の個人性は神性の分化せる者である、各自の發展は即ち神の發展を完成するのである。此意味に於て我々の個人性は永久の生命を有し、永遠の發展を成すといふことができるのである(ロイスの靈魂不滅論を看よ)。神と我々の個人的意識との關係は意識の全體とその部分との關係である。凡て精神現象に於ては各部分は全體の統一の下に立つと共に、各自が獨立の意識でなければならぬ(精神現象に於ては各部分がend in itselfである)。萬物は唯一なる神の表現であるといふことは、必ずしも各人の自覺的獨立を否定するに及ばぬ。例へば我々の時々刻々の意識は個人的統一の下にあると共に、各自が獨立の意識と見ることもできると一般である。イリングウォルスは一の人格は必ず他の人格を求める、他の人格に於て自己が全人格の滿足を得るのである、即ち愛は人格の缺くべからざる特徴であるといつて居る(Illingworth, Personality human and divine)。他人の人格を認めるといふことは即ち自己の人格を認めることである、而してかく各が相互に人格を認めたる關係は即ち愛であつて、一方より見れば兩人格の合一である。愛に於て二つの人格が互に相尊重し相獨立しながら而も合一して一人格を形成するのである。かく考へれば神は無限の愛なるが故に、凡ての人格を包含すると共に凡ての人格の獨立を認めるといふことができる。

 次に萬物は神の表現であるといふ如き汎神論的思想に對する非難は、如何にして惡の根本を説明することができるかといふのである。余の考ふる所にては元來絶對的に惡といふべき者はない、物は總べて其本來に於ては善である。實在は即ち善であるといはねばならぬ。宗教家は口を極めて肉の惡を説けども、肉慾とても絶對的に惡であるのではない、唯その精神的向上を妨ぐることに於て惡となるのである。又進化論の倫理學者のいふ樣に、今日我々が罪惡と稱する所の者も或時代に於ての道徳であつたのである。即ち過去の道徳の遺物であるといふこともできる、唯現今の時代に適せざるが爲に惡となるのである。さればもの其者に於て本來惡なる者があるのではない、惡は實在體系の矛盾衝突より起るのである。而して此衝突なる者は何から起るかといへば、こは實在の分化作用に基づくもので實在發展の一要件である、實在は矛盾衝突に由りて發展するのである。メフィストフェレスが常に惡を求めて、常に善を造る力の一部と自ら名乘つた樣に、惡は宇宙を構成する一要素といつてもよいのである。固より惡は宇宙の統一進歩の作用ではないから、それ自身に於て目的とすべきものでないことは勿論である、併し又何等の罪惡もなく何等の不滿もなき平穩無事なる世界は極めて平凡であつて且つ淺薄なる世界といはねばならぬ。罪を知らざる者は眞に神の愛を知ることはできない。不滿なく苦惱なき者は深き精神的趣味を解することはできぬ。罪惡、不滿、苦惱は我々人間が精神的向上の要件である、されば眞の宗教家は此等の者に於て神の矛盾を見ずして反つて深き神の恩寵を感ずるのである。此等の者あるが爲に世界はそれだけ不完全となるのではなく、反つて豐富深遠となるのである。若し此世から盡く此等の者を除き去つたならば、啻に精神的向上の途を失ふのみならず、いかに多くの美しき精神的事業は亦之と共に此世から失せ去るであらうか。宇宙全體の上より考へ、且つ宇宙が精神的意義に由つて建てられたるものとするならば、此等の者の存在の爲に何等の不完全をも見出すことはできない、反つてその必要缺くべからざる所以を知ることができるのである。罪はにくむべき者である、併し悔い改められたる罪程世に美しきものもない。余は是に於てオスカル・ワイルドの獄中記De Profundisの中の一節を想ひ起さゞるをえない。基督は罪人をば人間の完成に最も近き者として愛した。面白き盜賊をくだくだしい正直者に變ずるのは彼の目的ではなかつた。彼は嘗て世に知られなかつた仕方に於て罪及苦惱を美しき神聖なる者となした。勿論罪人は悔い改めねばならぬ。併しこれ彼が爲した所のものを完成するのである。希臘人は人は己が過去を變ずることのできないものと考へた、神も過去を變ずる能はずといふ語もあつた。併し基督は最も普通の罪人も之を能くし得ることを示した。例の放蕩子息が跪いて泣いた時、かれはその過去の罪惡及苦惱をば生涯に於て最も美しく神聖なる時となしたのであると基督がいはれるであらうといつて居る。ワイルドは罪の人であつた、故に能く罪の本質を知つたのである。

     第五章 知と愛

此一篇は此書の續として書いたものではない。併し此書の思想と連絡を有すると思ふから此に附加することとした。

 知と愛とは普通には全然相異なつた精神作用であると考へられて居る。併し余は此二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本來同一の精神作用であると考へる。然らば如何なる精神作用であるか、一言にて云へば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。何故に知は主客合一であるか。我々が物の眞相を知るといふのは、自己の妄想臆斷即ち所謂主觀的の者を消磨し盡して物の眞相に一致した時、即ち純客觀に一致した時始めて之を能くするのである。例へば明月の薄黒い處のあるは兎が餠を搗いて居るのであるとか、地震は地下の大鯰が動くのであるとかいふのは主觀的妄想である。然るに我々は天文、地質の學に於て全然かゝる主觀的妄想を棄て、純客觀的なる自然法則に從うて考究し、爰に始めて此等の現象の眞相に到達することができるのである。我々は客觀的になればなるだけ益々能く物の眞相を知ることができる。數千年來の學問進歩の歴史は我々人間が主觀を棄て客觀に從ひ來つた道筋を示した者である。次に何故に愛は主客合一であるかを話して見よう。我々が物を愛するといふのは、自己をすてゝ他に一致するの謂である。自他合一、其間一點の間隙なくして始めて眞の愛情が起るのである。我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。親が子となり子が親となり此處に始めて親子の愛情が起るのである。親が子となるが故に子の一利一害は己の利害の樣に感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである。我々が自己の私を棄てゝ純客觀的即ち無私となればなる程愛は大きくなり深くなる。親子夫妻の愛より朋友の愛に進み、朋友の愛より人類の愛にすゝむ。佛陀の愛は禽獸草木にまでも及んだものである。

 斯の如く知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るには之を愛せねばならず、物を愛するのは之を知らねばならぬ。數學者は自己を棄てゝ數理を愛し數理其者と一致するが故に、能く數理を明にすることができるのである。美術家は能く自然を愛し、自然に一致し、自己を自然の中に沒することに由りて甫めて自然の眞を看破し得るのである。又一方より考へて見れば、我は我友を知るが故に之を愛するのである。境遇を同じうし思想趣味を同じうし、相理會する愈々深ければ深い程同情は益々濃かになる譯である。併し愛は知の結果、知は愛の結果といふ樣に、此兩作用を分けて考へては未だ愛と知の眞相を得た者ではない。知は愛、愛は知である。例へば我々が自己の好む所に熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、唯自己以上の不可思議力が獨り堂々として働いて居る。此時が主もなく客もなく、眞の主客合一である。此時が知即愛、愛即知である。數理の妙に心を奪はれ寢食を忘れて之に耽ける時、我は數理を知ると共に之を愛しつゝあるのである。又我々が他人の喜憂に對して、全く自他の區別がなく、他人の感ずる所を直に自己に感じ、共に笑ひ共に泣く、此時我は他人を愛し又之を知りつゝあるのである。愛は他人の感情を直覺するのである。池に陷らんとする幼兒を救ふに當りては、可愛いといふ考すら起る餘裕もない。

 普通には愛は感情であつて純粹なる知識と區別されねばならぬといふ。併し事實上の精神現象には純知識といふ者もなければ純感情といふ者もない。斯の如き區別は心理學者が學問上便宜の爲に作つた抽象的概念にすぎない。學理の研究が一種の感情に由つて維持せられねばならぬ樣に、他を愛するには一種の直覺が基とならねばならぬ。余の考を以て見ると、普通の知とは非人格的對象の知識である。たとひ對象が人格的であつても、之を非人格的として見た時の知識である。之に反し、愛とは人格的對象の知識である、たとひ對象が非人格的であつても之を人格的として見た時の知識である。兩者の差は精神作用其者にあるのではなく、寧ろ對象の種類に由るといつてよろしい。而して古來幾多の學者哲人のいつた樣に、宇宙實在の本體は人格的の者であるとすると、愛は實在の本體を捕捉する力である。物の最も深き知識である。分析推論の知識は物の表面的知識であつて實在其者を捕捉することはできぬ。我々は唯愛に由りてのみ之に達することができる。愛は知の極點である。

 以上少しく知と愛との關係を述べた所で、今之を宗教上の事に當てはめて考へて見よう。主觀は自力である、客觀は他力である。我々が物を知り物を愛すといふのは自力をすてゝ他力の信心に入る謂である。人間一生の仕事が知と愛との外にないものとすれば、我々は日々に他力信心の上に働いて居るのである。學問も道徳も皆佛陀の光明であり、宗教といふ者は此作用の極致である。學問や道徳は個々の差別的現象の上に此他力の光明に浴するのであるが、宗教は宇宙全體の上に於て絶對無限の佛陀其者に接するのである。「父よ、若しみこゝろにかなはゞこの杯を我より離したまへ、されど我が意のまゝをなすにあらず、唯みこゝろのまゝになしたまへ」とか、「念佛はまことに淨土にむまるゝたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、總じてもて存知せざるなり」とかいふ語が宗教の極意である。而してこの絶對無限の佛若しくは神を知るのは只之を愛するに因りて能くするのである、之を愛するが即ち之を知るである。印度のヴェーダ教や新プラトー學派や佛教の聖道門は之を知るといひ、基督教や淨土宗は之を愛すといひ又は之に依るといふ。各自其特色はないではないが其本質に於ては同一である。神は分析や推論に由りて知り得べき者でない。實在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのは唯愛又は信の直覺に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我唯神を愛す又は之を信ずといふ者は、最も能く神を知り居る者である。

底本:「西田幾多郎全集」第一巻、岩波書店
   昭和22年07月10日発行