當流比較言語學

森 林太郎

 或る國民には或る詞が闕けてゐる。

 ()()闕けてゐるかと思つて、よくよく考へて見ると、それは或る感情が闕けてゐるからである。

 手近い處で言つて見ると、獨逸語にStreberといふ詞がある。動詞のstrebenはもと(からだ)で無理な運動をするやうな心持の語であつたさうだ。それからもがくやうな心持の語になつた。今では總て抗抵を排して前進する義になつてゐる。努力するのである。勉強するのである。隨てStreberは努力家である。勉強家である。抗抵を排して前進する。努力する。勉強する。こんな結構な事は無い。努力せよといふ漢語も、勉強し給へといふ俗語も、學問や何か、總て善い事を人に勸めるときに用ゐられるのである。勉強家といふ詞は、學校では生徒を褒めるとき、お役所では官吏を褒めるときに用ゐられるのである。

 然るに獨逸語のStreberには嘲る意を帶びてゐる。生徒は學科に骨を折つてゐれば、ひとりでに一級の上位に居るやうになる。試驗に高點を贏ち得る。早く卒業する。併し一級の上位にゐよう、試驗に高點を貰はう、早く卒業しようと心掛ける、其心掛が主になることがある。さういふ生徒は教師の心を射るやうになる。教師に迎合するやうになる。陞進をしたがる官吏も同じ事である。其外學者としては頻に論文を書く。藝術家としては頻に製作を出す。えらいのもえらくないのもある。Talentの有るのも無いのもある。學問界、藝術界に地位を得ようと思つて骨を折るのである。獨逸人はこんな人物をStreberといふのである。

 Moritz Heyneの字書を開けて見ると、Bismarckの手紙が引いてある。某は中尉で白髮になつてゐるのだから、Streberであるのも是非が無いといふやうな文句である。此例も明白に嘲る意を帶びてゐる。

 僕は書生をしてゐる間に、多くのStreberを仲間に持つてゐたことがある。自分が教師になつてからも、預かつてゐる生徒の中にStreberのゐたのを知つてゐる。官立學校の特待生で幅を利かしてゐる人の中には、澤山さういふのがある。

 官吏になつてからも、僕は隨分Streberのゐるのを見受けた。上官の御覺めでたい人物にはそれが多い。祕書官的人物の中に澤山さういふのがゐる。自分が上官になつて見ると、部下にStreberの多いのに驚く。

 Streberはなまけものやいくぢなしよりはえらい。場合によつては一廉の用に立つ。併し信任は出來ない。學問藝術で言へば、こんな人物は學問藝術のために學問藝術をするので無い。學問藝術を手段にしてゐる。勤務で言へば、勤務のために勤務をするので無い。勤務を方便にしてゐる。いつ何どき魚を得て筌を忘れてしまふやら知れない。

 日本語にStreberに相當する詞が無い。それは日本人がStreberを卑しむといふ思想を有してゐないからである。

 も一つ同じやうな事を言つて見よう。

 獨逸人はsittliche Entrüstungといふことを言ふ。Entrüstenといふ動詞はもと甲を解く、衣を卸すといふやうな意味から轉じて、體裁も何も構はなくなる程おこることになつてゐる。腹を立つことになつてゐる。Sittlichは勿論道義的、風俗的である。Sittliche Entrüstungといふと、或事が不道徳である、背俗であると云つて立腹するのである。道徳的憤怒と譯しても好からう。(つづ)めて言へば義憤であらう。

 然るに日本語では勉強家といふのに何の(おと)しめる意味も無いやうに、義憤は當然の事であつて、少しも嘲る意味を帶びてはゐない。獨逸語でsittliche Entrüstungといふと、頗るかたはらいたい。

 此詞はHeyneの字書のEntrüstungの條を見ても、Streberといふ詞のやうに、明白に嘲を帶びてゐるといふ説明を加へては無い。併し引例には矢張Bismarckの演説が出てゐる。それは論敵がBismarckに對して義憤がしたいといふ需要があるので云云といふ文句であつて、慥に嘲を帶びてゐる。

 前宮内大臣が自分より年の餘程若い夫人を迎へようとした。實にけしからん。衆議院議員が砂糖事件で賄賂を取つた。實にけしからん。此けしからんが義憤である。日本の新聞は第一面の社説を始として、第三面の雜報まで悉く此けしからんで充たされてゐる。悉く義憤の文字である。

 田山花袋君が蒲團を書いた。けしからん。永井荷風君が祝盃を書いた。けしからん。日本には文藝の批評にも義憤が澤山有る。唯繪畫彫刻の裸體に對する義憤だけが、昨今やつと無くなつたやうである。

 自分より遙に年の若い妻を持つのは、縱ひ不徳といふ程で無いにしても、少くも背俗であらう。賄賂を取るのは惡い。併しそれに對してsittliche Entrüstungを起して、けしからんと叫ぶのは、獨逸人なら氣恥かしく思ふであらう。()()といふに、若し(はた)から「その義憤をなさるお前さんは第一の石を罪人に抛つ資格がお有りなさるのですか」と云はれると、赤面しなくてはならないと感じるからである。そこで義憤といふことが氣恥かしい事になつてゐる。それを敢てする人は面皮の厚い人とせられてゐる。Sittliche Entrüstungといふ詞に嘲の意味を帶びてゐるのは、かういふわけである。

 これは()()だらう。これが獨逸人の道義心が日本人より薄いためであるなら、日本人は大いに誇つて好からう。日本人は迷はない人間であらう。日本人は誰も彼も道徳上の裁判官になる資格を有してゐるのであらう。實に國家の幸福である。

 僕は此問題に深入をすることを好まない。とにかく義憤が氣恥かしいといふ感情が日本人に闕けてゐるのは事實である。そこで嘲の意味を帶びたsittliche Entrüstungといふやうな詞は日本には無いのである。

 それからさつき一寸云つた文藝の批評に出て來る義憤はどうであらう。蒲團は助兵衞である。Geilである。Lascivusである。祝盃は手當り放題である。尻輕である。襤褸買である。Leichtsinnig, leichtfertigである。Frivolusである。書いてある事柄は、どちらも惡いに相違ない。P. R. B.をRuskinが引き立てたやうに、所謂自然派を引き立てた嶋村抱月君も、蒲團を評して、醜のことを書かないで、醜の心を書いたと云つてゐる。祝盃の評はまだ拜見しない。醜の心は助兵衞の心である。

 兎に角事柄は惡い。併しこの事柄をけしからんと云ふのが、相手の假設人物であるために、別に氣恥かしい筈も無い代りには、それを書いたのをけしからんと云ふのは、書いた動機、書いたBeweggrundの評になつて、作品の評にならない。人の行爲の動機はわからないものだとKantが云つてゐる。藝術家の物を作る動機も恐らくはわかるまい。序だから云ふが、人間の心は醜惡なものだと(まへ)(ぎめ)をして置いて、醜惡で無い心を書くのをposeだとするのも、矢張動機の穿鑿で、あぶない話だ。醜惡の心を書くposeurも無いには限るまい。

 も一つ今の日本人に闕けてゐる詞に就いて簡單に話さう。

 外でも無い。Sich lächerlich machenといふ獨逸語である。尤も獨逸には限らない。Pose, poseurなんぞといふ佛語を必要上から出したから、佛語で同じ事を言つて見れば、se rendre ridiculeである。

 Lächerlichもridiculeも可笑しいといふことである。然るに自分を可笑しくするといふ詞が日本には無い。人に笑はれるといふと、大相意味が輕くなつてしまふ。世の物笑へになるなどといふ詞が古くは有つた。これは稍似てゐるやうだが、今はそんな詞も行はれてゐない。

 西洋人は自分を可笑しくすることをひどく嫌ふ。それだから其詞がある。日本人は自分を可笑しくするのが平氣である。それだから其詞が無い。

 義憤なんぞが好い例である。義憤の當否は措いて、何に寄らず、けしからん、けしからんを連發するのは、傍から見ると可笑しい。日本人がそれを構はずに遣るのは、自分を可笑しくすることを厭はないのである。

 Maupassantの譯書が發賣禁止になるなんぞを見ると、政府も或は自分を可笑しくするのを厭はないのではあるまいか。(東亞之光)

底本:鴎外全集刊行会第一次全集第二巻、大正13年