坊つちやん
夏目漱石
一
親讓りの無鐵砲で小供の時から損ばかりして居る。小學校に居る時分學校の二階から飛び降りて一週間程腰を拔かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出して居たら、同級生の一人が冗談に、いくら威張つても、そこから飛び降りる事は出來まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさつて歸つて來た時、おやぢが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を拔かす奴があるかと云つたから、此次は拔かさずに飛んで見せますと答へた。
親類のものから西洋製のナイフを貰つて奇麗な刃を日に翳して、友達に見せて居たら、一人が光る事は光るが切れさうもないと云つた。切れぬ事があるか、何でも切つて見せると受け合つた。そんなら君の指を切つて見ろと注文したから、何だ指位此通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かつたので、今だに親指は手に付いて居る。然し創痕は死ぬ迄消えぬ。
庭を東へ二十歩に行き盡すと、南上がりに聊か許りの菜園があつて、眞中に栗の木が一本立つて居る。是は命より大事な栗だ。實の熟する時分は起き拔けに脊戸を出て落ちた奴を拾つてきて、學校で食ふ。菜園の西側が山城屋と云ふ質屋の庭續きで、此質屋に勘太郎といふ十三四の忰が居た。勘太郎は無論弱虫である。弱虫の癖に四つ目垣を乘りこえて、栗を盜みにくる。ある日の夕方折戸の蔭に隱れて、とう/\勘太郎を捕まへてやつた。其時勘太郎は逃げ路を失つて、一生懸命に飛びかゝつて來た。向ふは二つ許り年上である。弱虫だが力は強い。鉢の開いた頭を、こつちの胸へ宛てゝぐい/\押した拍子に、勘太郎の頭がすべつて、おれの袷の袖の中に這入つた。邪魔になつて手が使へぬから、無暗に手を振つたら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐら/\靡いた。仕舞に苦しがつて袖の中から、おれの二の腕へ食ひ付いた。痛かつたから勘太郎を垣根へ押しつけて置いて、足搦をかけて向へ倒してやつた。山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ眞逆樣に落ちて、ぐうと云つた。勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になつた。其晩母が山城屋に詫びに行つた序でに袷の片袖も取り返して來た。
此外いたづらは大分やつた。大工の兼公と肴屋の角をつれて、茂作の人參畠をあらした事がある。人參の芽が出揃はぬ處へ藁が一面に敷いてあつたから、其上で三人が半日相撲をとりつゞけに取つたら、人參がみんな踏みつぶされて仕舞つた。古川の持つて居る田圃の井戸を埋めて尻を持ち込まれた事もある。太い孟宗の節を拔いて、深く埋めた中から水が湧き出て、そこいらの稻に水がかゝる仕掛であつた。其時分はどんな仕掛か知らぬから、石や棒ちぎれをぎう/\井戸の中へ插し込んで、水が出なくなつたのを見屆けて、うちへ歸つて飯を食つて居たら、古川が眞赤になつて怒鳴り込んで來た。慥か罸金を出して濟んだ樣である。
おやぢは些ともおれを可愛がつて呉れなかつた。母は兄許り贔屓にして居た。此兄はやに色が白くつて、芝居の眞似をして女形になるのが好きだつた。おれを見る度にこいつはどうせ碌なものにはならないと、おやぢが云つた。亂暴で亂暴で行く先が案じられると母が云つた。成程碌なものにはならない。御覽の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。只懲役に行かないで生きて居る許りである。
母が病氣で死ぬ二三日前臺所で宙返りをしてへつついの角で肋骨を撲つて大に痛かつた。母が大層怒つて、御前の樣なものゝ顏は見たくないと云ふから、親類へ泊りに行つて居た。するととう/\死んだと云ふ報知が來た。さう早く死ぬとは思はなかつた。そんな大病なら、もう少し大人しくすればよかつたと思つて歸つて來た。さうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれの爲めに、おつかさんが早く死んだんだと云つた。口惜しかつたから、兄の横つ面を張つて大變叱られた。
母が死んでからは、おやぢと兄と三人で暮して居た。おやぢは何にもせぬ男で、人の顏さへ見れば貴樣は駄目だ/\と口癖の樣に云つて居た。何が駄目なんだか今に分らない。妙なおやぢが有つたもんだ。兄は實業家になるとか云つて頻りに英語を勉強して居た。元來女の樣な性分で、ずるいから、仲がよくなかつた。十日に一遍位の割で喧嘩をして居た。ある時將棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しさうに冷やかした。あんまり腹が立つたから、手に在つた飛車を眉間へ擲きつけてやつた。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやぢに言付けた。おやぢがおれを勘當すると言ひ出した。
其時はもう仕方がないと觀念して先方の云ふ通り勘當される積りで居たら、十年來召し使つて居る清と云ふ下女が、泣きながらおやぢに詫まつて、漸くおやぢの怒りが解けた。それにも關らずあまりおやぢを怖いとは思はなかつた。却つて此清と云ふ下女に氣の毒であつた。此下女はもと由緒のあるものだつたさうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公迄する樣になつたのだと聞いて居る。だから婆さんである。此婆さんがどう云ふ因縁か、おれを非常に可愛がつて呉れた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想をつかした——おやぢも年中持て餘してゐる——町内では亂暴者の惡太郎と爪彈きをする——此おれを無暗に珍重してくれた。おれは到底人に好かれる性でないとあきらめて居たから、他人から木の端の樣に取り扱はれるのは何とも思はない、却つて此清の樣にちやほやしてくれるのを不審に考へた。清は時々臺所で人の居ない時に「あなたは眞つ直でよい御氣性だ」と賞める事が時々あつた。然しおれには清の云ふ意味が分からなかつた。好い氣性なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだらうと思つた。清がこんな事を云ふ度におれは御世辭は嫌だと答へるのが常であつた。すると婆さんは夫だから好い御氣性ですと云つては、嬉しさうにおれの顏を眺めて居る。自分の力でおれを製造して誇つてる樣に見える。少々氣味がわるかつた。
母が死んでから清は愈おれを可愛がつた。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思つた。つまらない、廢せばいゝのにと思つた。氣の毒だと思つた。夫でも清は可愛がる。折々は自分の小遣で金鍔や紅梅燒を買つてくれる。寒い夜などはひそかに蕎麥粉を仕入れて置いて、いつの間にか寐て居る枕元へ蕎麥湯を持つて來てくれる。時には鍋燒饂飩さへ買つてくれた。只食ひ物許りではない。靴足袋ももらつた。鉛筆も貰つた、帳面も貰つた。是はずつと後の事であるが金を三圓許り貸してくれた事さへある。何も貸せと云つた譯ではない。向で部屋へ持つて來て御小遣がなくて御困りでせう、御使ひなさいと云つて呉れたんだ。おれは無論入らないと云つたが、是非使へと云ふから、借りて置いた。實は大變嬉しかつた。其三圓を蝦蟇口へ入れて、懷へ入れたなり便所へ行つたら、すぽりと後架の中へ落して仕舞つた。仕方がないから、のそ/\出て來て實は是々だと清に話した所が、清は早速竹の棒を搜して來て、取つて上げますと云つた。しばらくすると井戸端でざあ/\音がするから、出て見たら竹の先へ蝦蟇口の紐を引き懸けたのを水で洗つて居た。夫から口をあけて壹圓札を改めたら茶色になつて模樣が消えかゝつて居た。清は火鉢で乾かして、是でいゝでせうと出した。一寸かいで見て臭いやと云つたら、それぢや御出しなさい、取り換へて來て上げますからと、どこでどう胡魔化したか札の代りに銀貨を三圓持つて來た。此三圓は何に使つたか忘れて仕舞つた。今に返すよと云つたぎり、返さない。今となつては十倍にして返してやりたくても返せない。
清が物を呉れる時には必ずおやぢも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌だと云つて人に隱れて自分丈得をする程嫌な事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隱して清から菓子や色鉛筆を貰ひたくはない。なぜ、おれ一人に呉れて、兄さんには遣らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄したもので御兄樣は御父樣が買つて御上げなさるから構ひませんと云ふ。是は不公平である。おやぢは頑固だけれども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。然し清の眼から見るとさう見えるのだらう。全く愛に溺れて居たに違ない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。單に是許りではない。贔負目は恐ろしいものだ。清はおれを以て將來立身出世して立派なものになると思ひ込んで居た。其癖勉強をする兄は色許り白くつて、迚も役には立たないと一人できめて仕舞つた。こんな婆さんに逢つては叶はない。自分の好きなものは必ずえらい人物になつて、嫌なひとは屹度落ち振れるものと信じて居る。おれは其時から別段何になると云ふ了見もなかつた。然し清がなる/\と云ふものだから、矢つ張り何かに成れるんだらうと思つて居た。今から考へると馬鹿々々しい。ある時抔は清にどんなものになるだらうと聞いて見た事がある。所が清にも別段の考もなかつた樣だ。只手車へ乘つて、立派な玄關のある家をこしらへるに相違ないと云つた。
夫から清はおれがうちでも持つて獨立したら、一所になる氣で居た。どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。おれも何だかうちが持てる樣な氣がして、うん置いてやると返事丈はして置いた。所が此女は中々想像の強い女で、あなたはどこが御好き、麹町ですか麻布ですか、御庭へぶらんこを御こしらへ遊ばせ、西洋間は一つで澤山です抔と勝手な計畫を獨りで並べて居た。其時は家なんか欲しくも何ともなかつた。西洋館も日本建も全く不用であつたから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答へた。すると、あなたは慾がすくなくつて、心が奇麗だと云つて又賞めた。清は何と云つても賞めてくれる。
母が死んでから五六年の間は此状態で暮して居た。おやぢには叱られる。兄とは喧嘩をする。清には菓子を貰ふ、時々賞められる。別に望もない、是で澤山だと思つて居た。ほかの小供も一概にこんなものだらうと思つて居た。只清が何かにつけて、あなたは御可哀想だ、不仕合だと無暗に云ふものだから、それぢや可哀想で不仕合せなんだらうと思つた。其外に苦になる事は少しもなかつた。只おやぢが小遣いを呉れないには閉口した。
母が死んでから六年目の正月におやぢも卒中で亡くなつた。其年の四月におれはある私立の中學校を卒業する。六月に兄は商業學校を卒業した。兄は何とか會社の九州の支店に口があつて行かなければならん。おれは東京でまだ學問をしなければならない。兄は家を賣つて財産を片付けて任地へ出立すると云ひ出した。おれはどうでもするが宜からうと返事をした。どうせ兄の厄介になる氣はない。世話をしてくれるにした所で、喧嘩をするから、向でも何とか云ひ出すに極つて居る。なまじい保護を受ければこそ、こんな兄に頭を下げなければならない。牛乳配達をしても食つてられると覺悟をした。兄は夫から道具屋を呼んで來て、先祖代々の瓦落多を二束三文に賣つた。家屋敷はある人の周旋である金滿家に讓つた。此方は大分金になつた樣だが、詳しい事は一向知らぬ。おれは一ケ月以前から、しばらく前途の方向のつく迄神田の小川町へ下宿して居た。清は十何年居たうちが人手に渡るのを大に殘念がつたが、自分のものでないから、仕樣がなかつた。あなたがもう少し年をとつて入らつしやれば、こゝが御相續が出來ますものをとしきりに口説いて居た。もう少し年をとつて相續が出來るものなら、今でも相續が出來る筈だ。婆さんは何も知らないから年さへ取れば兄の家がもらへると信じて居る。
兄とおれは斯樣に分れたが、困つたのは清の行く先である。兄は無論連れて行ける身分でなし、清も兄の尻にくつ付いて九州下り迄出掛ける氣は毛頭なし、と云つて此時のおれは四疊半の安下宿に籠つて、夫すらもいざとなれば直ちに引き拂はねばならぬ始末だ。どうする事も出來ん。清に聞いて見た。どこかへ奉公でもする氣かねと云つたらあなたが御うちを持つて、奧さまを御貰ひになる迄は、仕方がないから、甥の厄介になりませうと漸く決心した返事をした。此甥は裁判所の書記で先づ今日には差支なく暮して居たから、今迄も清に來るなら來いと二三度勸めたのだが、清は假令下女奉公はしても年來住み馴れた家の方がいゝと云つて應じなかつた。然し今の場合知らぬ屋敷へ奉公易をして入らぬ氣兼を仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思つたのだらう。夫にしても早くうちを持ての、妻を貰への、來て世話をするのと云ふ。親身の甥よりも他人のおれの方が好きなのだらう。
九州へ立つ二日前兄が下宿へ來て金を六百圓出して是を資本にして商買をするなり、學資にして勉強をするなり、どうでも隨意に使ふがいゝ、其代りあとは構はないと云つた。兄にしては感心なやり方だ、何の六百圓位貰はんでも困りはせんと思つたが、例に似ぬ淡泊な處置が氣に入つたから、禮を云つて貰つて置いた。兄は夫から五十圓出して之を序に清に渡してくれと云つたから、異議なく引き受けた。二日立つて新橋の停車場で分れたぎり兄には其後一遍も逢はない。
おれは六百圓の使用法に就て寐ながら考へた。商買をしたつて面倒くさくつて旨く出來るものぢやなし、ことに六百圓の金で商買らしい商買がやれる譯でもなからう。よしやれるとしても、今の樣ぢや人の前へ出て教育を受けたと威張れないから詰り損になる許りだ。資本抔はどうでもいゝから、これを學資にして勉強してやらう。六百圓を三に割つて一年に二百圓宛使へば三年間は勉強が出來る。三年間一生懸命にやれば何か出來る。夫からどこの學校へは這入らうと考へたが、學問は生來どれもこれも好きでない。ことに語學とか文學とか云ふものは眞平御免だ。新體詩などゝ來ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌なものなら何をやつても同じ事だと思つたが、幸ひ物理學校の前を通り掛つたら生徒募集の廣告が出て居たから、何も縁だと思つて規則書をもらつてすぐ入學の手續をして仕舞つた。今考へると是も親讓りの無鐵砲から起つた失策だ。
三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいゝ方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であつた。然し不思議なもので、三年立つたらとう/\卒業して仕舞つた。自分でも可笑しいと思つたが苦情を云ふ譯もないから大人しく卒業して置いた。
卒業してから八日目に校長が呼びに來たから、何か用だらうと思つて、出掛けて行つたら、四國邊のある中學校で數學の教師が入る。月給は四十圓だが、行つてはどうだと云ふ相談である。おれは三年間學問はしたが實を云ふと教師になる氣も、田舍へ行く考へも何もなかつた。尤も教師以外に何をしやうと云ふあてもなかつたから、此相談を受けた時、行きませうと即席に返事をした。是も親讓りの無鐵砲が祟つたのである。
引き受けた以上は赴任せねばならぬ。此三年間は四疊半に蟄居して小言は只の一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに濟んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑氣な時節であつた。然しかうなると四疊半も引き拂はなければならん。生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時許りである。今度は鎌倉所ではない。大變な遠くへ行かねばならぬ。地圖で見ると海濱で針の先程小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。心配にはならぬ。只行く許である。尤も少々面倒臭い。
家を疊んでからも清の所へは折々行つた。清の甥と云ふのは存外結構な人である。おれが行くたびに、居りさへすれば、何くれと款待なして呉れた。清はおれを前へ置いて、色々おれの自慢を甥に聞かせた。今に學校を卒業すると麹町邊へ屋敷を買つて役所へ通ふのだ抔と吹聽した事もある。獨りで極めて一人で喋舌るから、こつちは困まつて顏を赤くした。夫も一度や二度ではない。折々おれが小さい時寐小便をした事迄持ち出すには閉口した。甥は何と思つて清の自慢を聞いて居たか分らぬ。只清は昔風の女だから、自分とおれの關係を封建時代の主從の樣に考へて居た。自分の主人なら甥の爲にも主人に相違ないと合點したものらしい。甥こそいゝ面の皮だ。
愈約束が極まつて、もう立つと云ふ三日前に清を尋ねたら、北向きの三疊に風邪を引いて寐て居た。おれの來たのを見て起き直るが早いか、坊つちやん何時家を御持ちなさいますと聞いた。卒業さへすれば金が自然とポツケツトの中に湧いて來ると思つて居る。そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊つちやんと呼ぶのは愈馬鹿氣て居る。おれは單簡に當分うちは持たない。田舍へ行くんだと云つたら、非常に失望した容子で、胡麻塩の鬢の亂れを頻りに撫でた。餘り氣の毒だから「行く事は行くがぢき歸る。來年の夏休には屹度歸る」と慰めてやつた。夫でも妙な顏をして居るから「何を見やげに買つて來てやらう、何が欲しい」と聞いて見たら「越後の笹飴が食べたい」と云つた。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違ふ。「おれの行く田舍には笹飴はなさゝうだ」と云つて聞かしたら「そんなら、どつちの見當です」と聞き返した。「西の方だよ」と云ふと「箱根のさきですか手前ですか」と問ふ。隨分持てあました。
出立の日には朝から來て、色々世話をやいた。來る途中小間物屋で買つて來た齒磨と楊子と手拭をズツクの革鞄に入れて呉れた。そんな物は入らないと云つても中々承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラツトフォームの上へ出た時、車へ乘り込んだおれの顏を昵と見て「もう御別れになるかも知れません。隨分御機嫌やう」と小さな聲で云つた。目に涙が一杯たまつて居る。おれは泣かなかつた。然しもう少しで泣く所であつた。汽車が餘つ程動き出してから、もう大丈夫だらうと思つて、窓から首を出して、振り向いたら、矢つ張り立つて居た。何だか大變小さく見えた。
二
ぶうと云つて汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて來た。船頭は眞つ裸に赤ふんどしをしめてゐる。野蠻な所だ。尤も此熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見詰めて居ても眼がくらむ。事務員に聞いて見るとおれは此所へ降りるのださうだ。見る所では大森位な漁村だ。人を馬鹿にしてゐらあ、こんな所に我慢が出來るものかと思つたが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。續づいて五六人は乘つたらう。外に大きな箱を四つ許積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して來た。陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がつて、いきなり、磯に立つて居た鼻たれ小僧をつらまへて中學校はどこだと聞いた。小僧は茫やりして、知らんがの、と云つた。氣の利かぬ田舍ものだ。猫の額程な町内の癖に、中學校のありかも知らぬ奴があるものか。所へ妙な筒つぽうを着た男がきて、こつちへ來いと云ふから、尾いて行つたら、港屋とか云ふ宿屋へ連れて來た。やな女が聲を揃へて御上がりなさいと云ふので、上がるのがいやになつた。門口へ立つたなり中學校を教へろと云つたら、中學校は是から汽車で二里許り行かなくつちやいけないと聞いて、猶上がるのがいやになつた。おれは、筒つぽうを着た男から、おれの革鞄を二つ引きたくつて、のそ/\あるき出した。宿屋のものは變な顏をして居た。
停車場はすぐ知れた。切符も譯なく買つた。乘り込んで見るとマツチ箱の樣な汽車だ。ごろ/\と五分許り動いたと思つたら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思つた。たつた三錢である。夫から車を傭つて、中學校へ來たら、もう放課後で誰も居ない。宿直は一寸用達に出たと小使が教へた。隨分氣樂な宿直がゐるものだ。校長でも尋ね樣かと思つたが、草臥れたから、車に乘つて宿屋へ連れて行けと車夫に云ひ付けた。車夫は威勢よく山城屋と云ふうちへ横付けにした。山城屋とは質屋の勘太郎の屋號と同じだから一寸面白く思つた。
何だか二階の楷子段の下の暗い部屋へ案内した。熱くつて居られやしない。こんな部屋はいやだと云つたら生憎みんな塞がつて居りますからと云ひながら革鞄を抛り出した儘出て行つた。仕方がないから部屋の中へ這入つて汗をかいて我慢して居た。やがて湯に入れと云ふから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がつた。歸りがけに覗いて見ると凉しさうな部屋が澤山空いてゐる。失敬な奴だ。嘘をつきやあがつた。それから下女が膳を持つて來た。部屋は熱つかつたが、飯は下宿のよりも大分旨かつた。給仕をしながら下女がどちらから御出になりましたと聞くから、東京から來たと答へた。すると東京はよい所で御座いませうと云つたから當り前だと答へてやつた。膳を下げた下女が臺所へ行つた時分、大きな笑ひ聲が聞えた。くだらないから、すぐ寐たが、中々寐られない。熱い許りではない。騷々しい。下宿の五倍位八釜しい。うと/\したら清の夢を見た。清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしや/\食つて居る。笹は毒だから、よしたらよからうと云ふと、いえ此笹が御藥で御座いますと云つて旨さうに食つて居る。おれがあきれ返つて大きな口を開いてハヽヽヽと笑つたら眼が覺めた。下女が雨戸を明けてゐる。相變らず空の底が突き拔けた樣な天氣だ。
道中をしたら茶代をやるものだと聞いて居た。茶代をやらないと粗末に取り扱はれると聞いて居た。こんな、狹くて暗い部屋へ押し込めるのも茶代をやらない所爲だらう。見すぼらしい服裝をして、ズツクの革鞄と毛繻子の蝙蝠傘を提げてるからだらう。田舍者の癖に人を見括つたな。一番茶代をやつて驚かしてやらう。おれは是でも學資の餘りを三十圓程懷に入れて東京を出て來たのだ。汽車と汽船の切符代と雜費を差し引いて、まだ十四圓程ある。みんなやつたつて是からは月給を貰ふんだから構はない。田舍者はしみつたれだから五圓もやれば驚ろいて眼を廻すに極つて居る。どうするか見ろと濟して顏を洗つて、部屋へ歸つて待つてると、夕べの下女が膳を持つて來た。盆を持つて給仕をしながら、やににや/\笑つてる。失敬な奴だ。顏のなかを御祭りでも通りやしまいし。是でも此下女の面より餘つ程上等だ。飯を濟ましてからにしやうと思つて居たが、癪に障つたから、中途で五圓札を一枚出して、あとで是を帳場へ持つて行けと云つたら、下女は變な顏をして居た。夫から飯を濟ましてすぐ學校へ出懸けた。靴は磨いてなかつた。
學校は昨日車で乘りつけたから、大概の見當は分つて居る。四つ角を二三度曲がつたらすぐ門の前へ出た。門から玄關迄は御影石で敷きつめてある。きのふ此敷石の上を車でがら/\と通つた時は、無暗に仰山な音がするので少し弱つた。途中から小倉の制服を着た生徒に澤山逢つたが、みんな此門を這入つて行く。中にはおれより脊が高くつて強さうなのが居る。あんな奴を教へるのかと思つたら何だか氣味が惡るくなつた。名刺を出したら校長室へ通した。校長は薄髯のある、色の黒い、眼の大きな狸の樣な男である。やに勿體ぶつて居た。まあ精出して勉強してくれと云つて、恭しく大きな印の捺つた、辭令を渡した。此辭令は東京へ歸るとき丸めて海の中へ抛り込んで仕舞つた。校長は今に職員に紹介してやるから、一々其人に此辭令を見せるんだと言つて聞かした。餘計な手數だ。そんな面倒な事をするより此辭令を三日間教員室へ張り付ける方がましだ。
教員が控所へ揃ふには一時間目の喇叭が鳴らなくてはならぬ。大分時間がある。校長は時計を出して見て、追々ゆるりと話す積だが、先づ大體の事を呑み込んで置いて貰はうと云つて、夫から教育の精神について長い御談義を聞かした。おれは無論いゝ加減に聞いて居たが、途中から是は飛んだ所へ來たと思つた。校長の云ふ樣にはとても出來ない。おれ見た樣な無鐵砲なものをつらまへて、生徒の模範になれの、一校の師表と仰がれなくては行かんの、學問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。そんなえらい人が月給四十圓で遙々こんな田舍へくるもんか。人間は大概似たもんだ。腹が立てば喧嘩の一つ位は誰でもするだらうと思つてたが、此樣子ぢや滅多に口も聞けない、散歩も出來ない。そんな六づかしい役なら雇ふ前にこれ/\だと話すがいゝ。おれは嘘をつくのが嫌だから、仕方がない、だまされて來たのだとあきらめて、思ひ切りよく、こゝで斷はつて歸つちまはうと思つた。宿屋へ五圓やつたから財布の中には九圓なにがししかない。九圓ぢや東京迄は歸れない。茶代なんかやらなければよかつた。惜しい事をした。然し九圓だつて、どうかならない事はない。旅費は足りなくつても嘘をつくよりましだと思つて、到底あなたの仰やる通りにや、出來ません、此辭令は返しますと云つたら、校長は狸の樣な眼をぱちつかせておれの顏を見て居た。やがて、今のは只希望である、あなたが希望通り出來ないのはよく知つて居るから心配しなくつてもいゝと云ひながら笑つた。その位よく知つてるなら、始めから威嚇さなければいゝのに。
さう、かうする内に喇叭が鳴つた。教場の方が急にがや/\する。もう教員も控所へ揃ひましたらうと云ふから、校長に尾いて教員控所へ這入つた。廣い細長い部屋の周圍に机を並べてみんな腰をかけて居る。おれが這入つたのを見て、みんな申し合せた樣におれの顏を見た。見世物ぢやあるまいし。夫から申し付けられた通り一人々々の前へ行つて辭令を出して挨拶をした。大概は椅子を離れて腰をかゞめる許りであつたが、念の入つたのは差し出した辭令を受け取つて一應拜見をして夫を恭しく返却した。丸で宮芝居の眞似だ。十五人目に體操の教師へと廻つて來た時には、同じ事を何返もやるので少々ぢれつたくなつた。向は一度で濟む、こつちは同じ所作を十五返繰り返して居る。少しはひとの了見も察して見るがいゝ。
挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云ふのが居た。是は文學士ださうだ。文學士と云へば大學の卒業生だからえらい人なんだらう。妙に女の樣な優しい聲を出す人だつた。尤も驚いたのは此暑いのにフランネルの襯衣を着て居る。いくらか薄い地には相違なくつても暑いには極つてる。文學士丈に御苦勞千萬な服裝をしたもんだ。しかも夫が赤シヤツだから人を馬鹿にしてゐる。あとから聞いたら此男は年が年中赤シヤツを着るんださうだ。妙な病氣があつた者だ。當人の説明では赤は身體に藥になるから、衞生の爲めにわざ/\誂らへるんださうだが、入らざる心配だ。そんなら序に着物も袴も赤にすればいゝ。夫から英語の教師に古賀とか云ふ大變顏色の惡るい男が居た。大概顏の蒼い人は瘠せてるもんだが此男は蒼くふくれて居る。昔し小學校へ行く時分、淺井の民さんと云ふ子が同級生にあつたが、此淺井のおやぢが矢張り、こんな色つやだつた。淺井は百姓だから、百姓になるとあんな顏になるかと清に聞いて見たら、さうぢやありません、あの人はうらなりの唐茄子許り食べるから、蒼くふくれるんですと教へて呉れた。それ以來蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食つた酬だと思ふ。此の英語の教師もうらなり許り食つてるに違ない。尤もうらなりとは何の事か今以て知らない。清に聞いて見た事はあるが、清は笑つて答へなかつた。大方清も知らないんだらう。夫からおれと同じ數學の教師に堀田と云ふのが居た。是は逞しい毬栗坊主で、叡山の惡僧と云ふべき面構である。人が叮寧に辭令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、些と遊びに來給へアハヽヽと云つた。何がアハヽヽだ。そんな禮儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。おれは此時から此坊主に山嵐と云ふ渾名をつけてやつた。漢學の先生は流石に堅いものだ。昨日御着で、嘸御疲れで、夫でもう授業を御始めで、大分御勵精で、——とのべつに辯じたのは愛嬌のある御爺さんだ。畫學の教師は全く藝人風だ。べら/\した透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、御國はどちらでげす、え? 東京? 夫りや嬉しい、御仲間が出來て……私もこれで江戸つ子ですと云つた。こんなのが江戸つ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考へた。其ほか一人々々に就てこんな事を書けばいくらでもある。然し際限がないからやめる。
挨拶が一通り濟んだら、校長が今日はもう引き取つてもいゝ、尤も授業上の事は數學の主任と打ち合せをして置いて、明後日から課業を始めてくれと云つた。數學の主任は誰かと聞いて見たら例の山嵐であつた。忌々しい、こいつの下に働くのかおや/\と失望した。山嵐は「おい君どこに宿つてるか、山城屋か、うん、今に行つて相談する」と云ひ殘して白墨を持つて教場へ出て行つた。主任の癖に向から來て相談するなんて不見識な男だ。然し呼び付けるよりは感心だ。
夫から學校の門を出て、すぐ宿へ歸らうと思つたが、歸つたつて仕方がないから、少し町を散歩してやらうと思つて、無暗に足の向く方をあるき散らした。縣廳も見た。古い前世紀の建築である。兵營も見た。麻布の聯隊より立派でない。大通りも見た。神樂坂を半分に狹くした位な道幅で町並はあれより落ちる。廿五萬石の城下だつて高の知れたものだ。こんな所に住んで御城下だ抔と威張つてる人間は可哀想なものだと考へながらくると、いつしか山城屋の前に出た。廣い樣でも狹いものだ。是で大抵は見盡したのだらう。歸つて飯でも食はうと門口を這入つた。帳場に坐つて居たかみさんが、おれの顏を見ると急に飛び出して來て御歸り……と板の間へ頭をつけた。靴を脱いで上がると、御座敷があきましたからと下女が二階へ案内をした。十五疊の表二階で大きな床の間がついて居る。おれは生れてからまだこんな立派な座敷へ這入つた事はない。此後いつ這入れるか分らないから、洋服を脱いで浴衣一枚になつて座敷の眞中へ大の字に寐て見た。いゝ心持ちである。
晝飯を食つてから早速清へ手紙をかいてやつた。おれは文章がまづい上に字を知らないから手紙をかくのが大嫌だ。又やる所もない。然し清は心配して居るだらう。難船して死にやしないか抔と思つちや困るから、奮發して長いのを書いてやつた。其文句はかうである。
「きのふ着いた。つまらん所だ。十五疊の座敷に寐て居る。宿屋へ茶代を五圓やつた。かみさんが頭を板の間へすりつけた。夕べは寐られなかつた。清が笹飴を笹ごと食ふ夢を見た。來年の夏は歸る。今日學校へ行つてみんなにあだなをつけてやつた。校長は狸、教頭は赤シヤツ、英語の教師はうらなり、數學は山嵐、畫學はのだいこ。今に色々な事を書いてやる。左樣なら」
手紙をかいて仕舞つたら、いゝ心持になつて眠氣がさしたから、最前の樣に座敷の眞中へのび/\と大の字に寐た。今度は夢も何も見ないでぐつすり寐た。この部屋かいと大きな聲がするので眼が覺めたら、山嵐が這入つて來た。最前は失敬、君の受持ちは……と人が起き上がるや否や談判を開かれたので大いに狼狽した。受持ちを聞いて見ると別段六づかしい事もなさゝうだから承知した。此位の事なら、明後日は愚、明日から始めろと云つたつて驚ろかない。授業上の打ち合せが濟んだら、君はいつ迄こんな宿屋に居る積りでもあるまい、僕がいゝ下宿を周旋してやるから移り玉へ。外のものでは承知しないが僕が話せばすぐ出來る。早い方がいゝから、今日見て、あす移つて、あさつてから學校へ行けば極りがいゝと一人で呑み込んで居る。成程十五疊敷にいつ迄居る譯にも行くまい。月給をみんな宿料に拂つても追つつかないかもしれぬ。五圓の茶代を奮發してすぐ移るのはちと殘念だが、どうせ移る者なら、早く引き越して落ち付く方が便利だから、そこの所はよろしく山嵐に頼む事にした。すると山嵐は兎も角も一所に來て見ろと云ふから、行つた。町はづれの岡の中腹にある家で至極閑靜だ。主人は骨董を賣買するいか銀と云ふ男で、女房は亭主よりも四つ許り年嵩の女だ。中學校に居た時ヰツチと云ふ言葉を習つた事があるが此女房はまさにヰツチに似て居る。ヰツチだつて人の女房だから構はない。とう/\明日から引き移る事にした。歸りに山嵐は通町で氷水を一杯奢つた。學校で逢つた時はやに横風な失敬な奴だと思つたが、こんなに色々世話をしてくれる所を見ると、わるい男でもなさゝうだ。只おれと同じ樣にせつかちで肝癪持らしい。あとで聞いたら此男が一番生徒に人望があるのださうだ。
三
愈學校へ出た。初めて教場へ這入つて高い所へ乘つた時は、何だか變だつた。講釋をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思つた。生徒は八釜しい。時々圖拔けた大きな聲で先生と云ふ。先生には應へた。今迄物理學校で毎日先生々々と呼びつけて居たが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。何だか足の裏がむづ/\する。おれは卑怯な人間ではない。臆病な男でもないが、惜しい事に膽力が缺けて居る。先生と大きな聲をされると、腹の減つた時に丸の内で午砲を聞いた樣な氣がする。最初の一時間は何だかいゝ加減にやつて仕舞つた。然し別段困つた質問も掛けられずに濟んだ。控所へ歸つて來たら、山嵐がどうだいと聞いた。うんと單簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかつた。
二時間目に白墨を持つて控所を出た時には何だか敵地へ乘り込む樣な氣がした。教場へ出ると今度の組は前より大きな奴ばかりである。おれは江戸つ子で華奢に小作りに出來て居るから、どうも高い所へ上がつても押しが利かない。喧嘩なら相撲取とでもやつて見せるが、こんな大僧を四十人も前へ並べて、只一枚の舌をたゝいて恐縮させる手際はない。然しこんな田舍者に弱身を見せると癖になると思つたから、成るべく大きな聲をして、少々卷き舌で講釋してやつた。最初のうちは、生徒も烟に捲かれてぼんやりして居たから、それ見ろと益得意になつて、べらんめい調を用ゐてたら、一番前の列の眞中に居た、一番強さうな奴が、いきなり起立して先生と云ふ。そら來たと思ひながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちつと、ゆる/\遣つて、おくれんかな、もし」と云つた。おくれんかな[#「おくれんかな」に傍点]、もし[#「もし」に傍点]は生温るい言葉だ。早過ぎるなら、ゆつくり云つてやるが、おれは江戸つ子だから君等の言葉は使へない、分らなければ、分る迄待つてるがいゝと答へてやつた。此調子で二時間目は思つたより、うまく行つた。只歸りがけに生徒の一人が一寸此問題を解釋をしておくれんかな、もし、と出來さうもない幾何の問題を持つて逼つたには冷汗を流した。仕方がないから何だか分らない、此の次教へてやると急いで引き揚げたら、生徒がわあと囃した。其中に出來ん/\と云ふ聲が聞える。箆棒め、先生だつて、出來ないのは當り前だ。出來ないのを出來ないと云ふのに不思議があるもんか。そんなものが出來る位なら四十圓でこんな田舍へくるもんかと控所へ歸つて來た。今度はどうだと又山嵐が聞いた。うんと云つたが、うん丈では氣が濟まなかつたから、此學校の生徒は分らずやだなと云つてやつた。山嵐は妙な顏をして居た。
三時間目も、四時間目も晝過ぎの一時間も大同小異であつた。最初の日に出た級は、孰れも少々づゝ失敗した。教師ははたで見る程樂ぢやないと思つた。授業は一と通り濟んだが、まだ歸れない、三時迄ぽつ然として待つてなくてはならん。三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除して報知にくるから檢分をするんださうだ。夫から、出席簿を一應調べて漸く御暇が出る。いくら月給で買はれた身體だつて、あいた時間迄學校へ縛りつけて机と睨めつくらをさせるなんて法があるものか。然しほかの連中はみんな大人しく御規則通りやつてるから新參のおればかり、だゞを捏ねるのも宜しくないと思つて我慢して居た。歸りがけに、君何でも蚊んでも三時過迄學校にゐさせるのは愚だぜと山嵐に訴へたら、山嵐はさうさアハヽヽと笑つたが、あとから眞面目になつて、君あまり學校の不平を云ふと、いかんぜ。云ふなら僕丈に話せ、隨分妙な人も居るからなと忠告がましい事を云つた。四つ角で分れたから詳しい事は聞くひまがなかつた。
夫からうちへ歸つてくると、宿の亭主が御茶を入れませうと云つてやつて來る。御茶を入れると云ふから御馳走をするのかと思ふと、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飮むのだ。此樣子では留守中も勝手に御茶を入れませうを一人で履行して居るかも知れない。亭主が云ふには手前は書畫骨董がすきで、とう/\こんな商買を内々で始める樣になりました。あなたも御見受申す所大分御風流で居らつしやるらしい。ちと道樂に御始めなすつては如何ですと、飛んでもない勸誘をやる。二年前ある人の使に帝國ホテルへ行つた時は錠前直しと間違へられた事がある。ケツトを被つて、鎌倉の大佛を見物した時は車屋から親方と云はれた。其外今日迄見損はれた事は隨分あるが、まだおれをつらまへて大分御風流で居らつしやると云つたものはない。大抵はなりや樣子でも分る。風流人なんて云ふものは、畫を見ても、頭巾を被るか短冊を持つてるものだ。このおれを風流人だ抔と眞面目に云ふのは只の曲者ぢやない。おれはそんな呑氣な隱居のやる樣な事は嫌だと云つたら、亭主はへヽヽヽと笑ひながら、いえ始めから好きなものは、どなたも御座いませんが、一旦此道に這入ると中々出られませんと一人で茶を注いで妙な手付をして飮んで居る。實はゆふべ茶を買つてくれと頼んで置いたのだが、こんな苦い濃い茶はいやだ。一杯飮むと胃に答へる樣な氣がする。今度からもつと苦くないのを買つてくれと云つたら、かしこまりましたと又一杯しぼつて飮んだ。人の茶だと思つて無暗に飮む奴だ。主人が引き下がつてから、あしたの下讀をしてすぐ寐て仕舞つた。
それから毎日々々學校へ出ては規則通り働く、毎日々々歸つて來ると主人が御茶を入れませうと出てくる。一週間許りしたら學校の樣子も一と通りは飮み込めたし、宿の夫婦の人物も大概は分つた。ほかの教師に聞いて見ると辭令を受けて一週間から一ケ月位の間は自分の評判がいゝだらうか、惡るいだらうか非常に氣に掛かるさうであるが、おれは一向そんな感じはなかつた。教場で折々しくぢると其時丈はやな心持だが三十分許り立つと奇麗に消えて仕舞ふ。おれは何事によらず長く心配しやうと思つても心配が出來ない男だ。教場のしくぢりが生徒にどんな影響を與へて、其影響が校長や教頭にどんな反應を呈するか丸で無頓着であつた。おれは前に云ふ通りあまり度胸の据つた男ではないのだが、思ひ切りは頗るいゝ人間である。此學校がいけなければすぐどつかへ行く覺悟で居たから、狸も赤シヤツも、些とも恐しくはなかつた。まして教場の小僧共なんかには愛嬌も御世辭も使ふ氣になれなかつた。學校はそれでいゝのだが下宿の方はさうはいかなかつた。亭主が茶を飮みに來る丈なら我慢もするが、色々な者を持つてくる。始めに持つて來たのは何でも印材で、十ばかり並べて置いて、みんなで三圓なら安い物だ御買なさいと云ふ。田舍巡りのヘボ繪師ぢやあるまいし、そんなものは入らないと云つたら、今度は華山とか何とか云ふ男の花鳥の掛物をもつて來た。自分で床の間へかけて、いゝ出來ぢやありませんかと云ふから、さうかなと好加減に挨拶をすると、華山には二人ある、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、此幅はその何とか華山の方だと、くだらない講釋をしたあとで、どうです、あなたなら十五圓にして置きます。御買なさいと催促をする。金がないと斷はると、金なんか、いつでも宜う御座いますと中々頑固だ。金があつても買はないんだと、其時は追つ拂つちまつた。其次には鬼瓦位な大硯を擔ぎ込んだ。是は端溪です、端溪ですと二遍も三遍も端溪がるから、面白半分に端溪た何だいと聞いたら、すぐ講釋を始め出した。端溪には上層中層下層とあつて、今時のものはみんな上層ですが、是は慥かに中層です、此眼を御覽なさい。眼が三つあるのは珍らしい。溌墨の具合も至極宜しい、試して御覽なさいと、おれの前へ大きな硯を突きつける。いくらだと聞くと、持主が支那から持つて歸つて來て是非賣りたいと云ひますから、御安くして三十圓にして置きませうと云ふ。此男は馬鹿に相違ない。學校の方はどうかかうか無事に勤まりさうだが、かう骨董責に逢つてはとても長く續きさうにない。
其うち學校もいやになつた。 ある日の晩大町と云ふ所を散歩して居たら郵便局の隣りに蕎麥とかいて、下に東京と注を加へた看板があつた。おれは蕎麥が大好きである。東京に居つた時でも蕎麥屋の前を通つて藥味の香ひをかぐと、どうしても暖簾がくゞりたくなつた。今日迄は數學と骨董で蕎麥を忘れて居たが、かうして看板を見ると素通りが出來なくなる。序でだから一杯食つて行かうと思つて上がり込んだ。見ると看板程でもない。東京と斷はる以上はもう少し奇麗にしさうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、滅法きたない。疊は色が變つて御負けに砂でざら/\して居る。壁は煤で眞黒だ。天井はランプの油烟で燻ぼつてるのみか、低くつて、思はず首を縮める位だ。只麗々と蕎麥の名前をかいて張り付けたねだん付け丈は全く新しい。何でも古いうちを買つて二三日前から開業したに違なからう。ねだん付の第一號に天麩羅とある。おい天麩羅を持つてこいと大きな聲を出した。すると此時迄隅の方に三人かたまつて、何かつる/\、ちゆ/\食つてた連中が、ひとしくおれの方を見た。部屋が暗いので、一寸氣がつかなかつたが顏を合せると、みんな學校の生徒である。先方で挨拶をしたから、おれも挨拶をした。其晩は久し振に蕎麥を食つたので、旨かつたから天麩羅を四杯平げた。
翌日何の氣もなく教場へ這入ると、黒板一杯位な大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顏を見てみんなわあと笑つた。おれは馬鹿々々しいから、天麩羅を食つちや可笑しいかと聞いた。すると生徒の一人が、然し四杯は過ぎるぞな、もし、と云つた。四杯食はうが五杯食はうがおれの錢でおれが食ふのに文句があるもんかと、さつさと講義を濟まして控所へ歸つて來た。十分立つて次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯也。但し笑ふ可らず。と黒板にかいてある。さつきは別に腹も立たなかつたが今度は癪に障つた。冗談も度を過ごせばいたづらだ。燒餠の黒焦の樣なもので誰も賞め手はない。田舍者は此呼吸が分からないからどこ迄押して行つても構はないと云ふ了見だらう。一時間あるくと見物する町もない樣な狹い都に住んで、外に何にも藝がないから、天麩羅事件を日露戰爭の樣に觸れちらかすんだらう。憐れな奴等だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねつこびた、植木鉢の楓見た樣な小人が出來るんだ。無邪氣なら一所に笑つてもいゝが、こりやなんだ。小供の癖に乙に毒氣を持つてる。おれはだまつて、天麩羅を消して、こんないたづらが面白いか、卑怯な冗談だ。君等は卑怯と云ふ意味を知つてるか、と云つたら、自分がした事を笑はれて怒るのが卑怯ぢやらうがな、もしと答へた奴がある。やな奴だ。わざ/\東京から、こんな奴を教へに來たのかと思つたら情なくなつた。餘計な減らず口を利かないで勉強しろと云つて、授業を始めて仕舞つた。夫から次の教場へ出たら天麩羅を食ふと減らず口が利き度なるものなりと書いてある。どうも始末に終へない。あんまり腹が立つたから、そんな生意氣な奴は教へないと云つてすた/\歸つて來てやつた。生徒は休みになつて喜こんださうだ。かうなると學校より骨董の方がまだましだ。
天麩羅蕎麥もうちへ歸つて、一晩寐たらそんなに肝癪に障らなくなつた。學校へ出て見ると、生徒も出て居る。何だか譯が分らない。夫から三日許りは無事であつたが、四日目の晩に住田と云ふ所へ行つて團子を食つた。此住田と云ふ所は温泉のある町で城下から汽車だと十分許り、歩行いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。おれの這入つた團子屋は遊廓の入口にあつて、大變うまいと云ふ評判だから、温泉に行つた歸りがけに一寸食つて見た。今度は生徒にも逢はなかつたから、誰も知るまいと思つて、翌日學校へ行つて、一時間目の教場へ這入ると團子二皿七錢と書いてある。實際おれは二皿食つて七錢拂つた。どうも厄介な奴等だ。二時間目にも屹度何かあると思ふと遊廓の團子旨い/\と書いてある。あきれ返つた奴等だ。團子が夫で濟んだと思つたら今度は赤手拭と云ふのが評判になつた。何の事だと思つたら、詰らない來歴だ。おれはこゝへ來てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めて居る。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉丈は立派なものだ。折角來た者だから毎日這入つてやらうと云ふ氣で、晩飯前に運動旁出掛る。所が行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。此手拭が湯に染まつた上へ、赤い縞が流れ出したので一寸見ると紅色に見える。おれは此手拭を行きも歸りも、汽車に乘つてもあるいても、常にぶら下げて居る。それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云ふんださうだ。どうも狹い土地に住んでるとうるさいものだ。まだある。温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八錢で濟む。其上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へ這入つた。すると四十圓の月給で毎日上等へ這入るのは贅澤だと云ひ出した。餘計な御世話だ。まだある。湯壺は花崗石を疊み上げて、十五疊敷位の廣さに仕切つてある。大抵は十三四人漬つてるがたまには誰も居ない事がある。深さは立つて乳の邊まであるから、運動の爲めに、湯の中を泳ぐのは中々愉快だ。おれは人の居ないのを見濟ましては十五疊の湯壺を泳ぎ巡つて喜こんで居た。所がある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いて見ると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまり有るまいから、此貼札はおれの爲めに特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは斷念した。泳ぐのは斷念したが、學校へ出て見ると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚ろいた。何だか生徒全體がおれ一人を探偵して居る樣に思はれた。くさ/\した。生徒が何を云つたつて、やらうと思つた事をやめる樣なおれではないが、何でこんな狹苦しい鼻の先がつかへる樣な所へ來たのかと思ふと情なくなつた。それでうちへ歸ると相變らず骨董責である。
四
學校には宿直があつて、職員が代る/\これをつとめる。但し狸と赤シヤツは例外である。何で此兩人が當然の義務を免かれるのかと聞いて見たら、奏任待遇だからと云ふ。面白くもない。月給は澤山とる、時間は少ない、夫で宿直を逃がれるなんて不公平があるものか。勝手な規則をこしらへて、それが當り前だと云ふ樣な顏をしてゐる。よくまああんなに圖迂/\しく出來るものだ。これに就ては大分不平であるが、山嵐の説によると、いくら一人で不平を並べたつて通るものぢやないさうだ。一人だつて二人だつて正しい事なら通りさうなものだ。山嵐はmight
is
rightといふ英語を引いて説諭を加へたが、何だか要領を得ないから、聞き返して見たら強者の權利と云ふ意味ださうだ。強者の權利位なら昔から知つて居る。今更山嵐から講釋をきかなくつてもいゝ。強者の權利と宿直とは別問題だ。狸や赤シヤツが強者だなんて、誰が承知するものか。議論は議論として此宿直が愈おれの番に廻つて來た。一體疳性だから夜具蒲團抔は自分のものへ樂に寐ないと寐た樣な心持ちがしない。小供の時から、友達のうちへ泊つた事は殆んどない位だ。友達のうちでさへ厭なら學校の宿直は猶更厭だ。厭だけれども、是が四十圓のうちへ籠つてゐるなら仕方がない。我慢して勤めてやらう。
教師も生徒も歸つて仕舞つたあとで、一人ぽかんとして居るのは隨分間が拔けたものだ。宿直部屋は教場の裏手にある寄宿舍の西はづれの一室だ。一寸這入つて見たが、西日をまともに受けて、苦しくつて居たゝまれない。田舍丈あつて秋がきても、氣長に暑いもんだ。生徒の賄を取りよせて晩飯を濟ましたが、まづいには恐れ入つた。よくあんなものを食つて、あれ丈に暴れられたもんだ。それで晩飯を急いで四時半に片付けて仕舞ふんだから豪傑に違ない。飯は食つたが、まだ日が暮れないから寐る譯に行かない。一寸温泉に行きたくなつた。宿直をして、外へ出るのはいゝ事だか、惡るい事だかしらないが、かうつくねんとして重禁錮同樣な憂目に逢ふのは我慢の出來るもんぢやない。始めて學校へ來た時當直の人はと聞いたら、一寸用達に出たと小使が答へたのを妙だと思つたが、自分に番が廻つて見ると思ひ當る。出る方が正しいのだ。おれは小使に一寸出てくると云つたら、何か御用ですかと聞くから、用ぢやない、温泉へ這入るんだと答へて、さつさと出掛けた。赤手拭は宿へ忘れて來たのが殘念だが今日は先方で借りるとしやう。
夫から可成ゆるりと、出たり這入つたりして、漸く日暮方になつたから、汽車へ乘つて古町の停車場迄來て下りた。學校迄は是から四丁だ。譯はないとあるき出すと、向ふから狸が來た。狸は是から此汽車で温泉へ行かうと云ふ計畫なんだらう。すた/\急ぎ足にやつてきたが、擦れ違つた時おれの顏を見たから、一寸挨拶をした。すると狸はあなたは今日は宿直ではなかつたですかねえと眞面目くさつて聞いた。無かつたですかねえ[#「無かつたですかねえ」に傍点]もないもんだ。二時間前おれに向つて今夜は始めての宿直ですね。御苦勞さま。と禮を云つたぢやないか。校長なんかになるといやに曲りくねつた言葉を使ふもんだ。おれは腹が立つたから、えゝ宿直です。宿直ですから、是から歸つて泊る事は慥かに泊りますと云ひ捨てゝ濟ましてあるき出した。竪町の四つ角迄くると今度は山嵐に出つ喰はした。どうも狹い所だ。出てあるきさへすれば必ず誰かに逢ふ。「おい君は宿直ぢやないか」と聞くから「うん、宿直だ」と答へたら、「宿直が無暗に出てあるくなんて、不都合ぢやないか」と云つた。「些とも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」と威張つて見せた。「君のづぼらにも困るな、校長か教頭に出逢ふと面倒だぜ」と山嵐に似合はない事を云ふから「校長にはたつた今逢つた。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でせうと校長が、おれの散歩をほめたよ」と云つて、面倒臭いから、さつさと學校へ歸つて來た。
夫から日はすぐくれる。くれてから二時間許りは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、夫も飽きたから、寐られない迄も床へ這入らうと思つて、寐卷に着換へて、蚊帳を捲くつて、赤い毛布を跳ねのけて、頓と尻持を突いて、仰向けになつた。おれが寐るときに頓と尻持をつくのは小供の時からの癖だ。わるい癖だと云つて小川町の下宿に居た時分、二階下に居た法律學校の書生が苦情を持ち込んだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、愚な事を長たらしく述べ立てるから、寐る時にどん/\音がするのはおれの尻がわるいのぢやない。下宿の建築が粗末なんだ。掛ケ合ふなら下宿へ掛ケ合へと凹ましてやつた。此宿直部屋は二階ぢやないから、いくら、どしんと倒れても構はない。成る可く勢よく倒れないと寐た樣な心持ちがしない。あゝ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか兩足へ飛び付いた。ざら/\して蚤の樣でもないからこいつあと驚ろいて、足を二三度毛布の中で振つて見た。するとざら/\と當つたものが、急に殖え出して脛が五六ケ所、股が二三ケ所、尻の下でぐちやりと踏み潰したのが一つ、臍の所迄飛び上がつたのが一つ——愈驚ろいた。早速起き上つて、毛布をぱつと後ろへ抛ると、蒲團の中から、バツタが五六十飛び出した。正體の知れない時は多少氣味が惡るかつたが、バツタと相場が極まつて見たら急に腹が立つた。バツタの癖に人を驚ろかしやがつて、どうするか見ろと、いきなり括り枕を取つて、二三度擲きつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく抛げつける割に利目がない。仕方がないから、又布團の上へ坐つて、煤掃の時に蓙を丸めて疊を叩く樣に、そこら近邊を無暗にたゝいた。バツタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、おれの肩だの、頭だの鼻の先だのへくつ付いたり、ぶつかつたりする。顏へ付いた奴は枕で叩く譯に行かないから、手で攫んで、一生懸命に擲きつける。忌々しい事に、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動く丈で少しも手答がない。バツタは擲きつけられた儘蚊帳へつらまつて居る。死にもどうもしない。漸くの事に三十分許でバツタは退治た。箒を持つて來てバツタの死骸を掃き出した。小使が來て何ですかと云ふから、何ですかもあるもんか、バツタを床の中に飼つとく奴がどこの國にある。間拔め。と叱つたら、私は存じませんと辯解をした。存じませんで濟むかと箒を椽側へ抛り出したら、小使は恐る/\箒を擔いで歸つて行つた。
おれは早速寄宿生を三人ばかり總代に呼び出した。すると六人出て來た。六人だらうが十人だらうが構ふものか。寐卷の儘腕まくりをして談判を始めた。
「なんでバツタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バツタた何ぞな」と眞先の一人がいつた。やに落ち付いて居やがる。此學校ぢや校長ばかりぢやない、生徒迄曲りくねつた言葉を使ふんだらう。
「バツタを知らないのか、知らなけりや見せてやらう」と云つたが、生憎掃き出して仕舞つて一匹も居ない。又小使を呼んで、「さつきのバツタを持つてこい」と云つたら、「もう掃溜へ棄てゝしまひましたが、拾つて參りませうか」と聞いた。「うんすぐ拾つて來い」と云ふと小使は急いで馳け出したが、やがて半紙の上へ十匹許り載せて來て「どうも御氣の毒ですが、生憎夜で是丈しか見當りません。あしたになりましたらもつと拾つて參ります」と云ふ。小使迄馬鹿だ。おれはバツタの一つを生徒に見せて「バツタた是れだ、大きなずう體をして、バツタを知らないた、何の事だ」と云ふと、一番左の方に居た顏の丸い奴が「そりや、イナゴぞな、もし」と生意氣におれを遣り込めた。「篦棒め、イナゴもバツタも同じもんだ。第一先生を捕まへてなもし[#「なもし」に傍点]た何だ。菜飯は田樂の時より外に食ふもんぢやない」とあべこべに遣り込めてやつたら「なもしと菜飯とは違ふぞな、もし」と云つた。いつ迄行つてもなもし[#「なもし」に傍点]を使ふ奴だ。
「イナゴでもバツタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バツタを入れて呉れと頼んだ」
「誰れも入れやせんがな」
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「イナゴは温い所が好きぢやけれ、大方一人で御這入りたのぢやあろ」
「馬鹿あ云へ。バツタが一人で御這入りになるなんて——バツタに御這入りになられてたまるもんか。——さあなぜこんないたづらをしたか、云へ」
「云へてゝ、入れんものを説明しやうがないがな」
けちな奴等だ。自分で自分のした事が云へない位なら、てんで仕ないがいゝ。證據さへ擧がらなければ、しらを切る積りで圖太く構へて居やがる。おれだつて中學に居た時分は少しはいたづらもしたもんだ。然しだれがしたと聞かれた時に、尻込みをする樣な卑怯な事は只の一度もなかつた。仕たものは仕たので、仕ないものは仕ないに極つてる。おれなんぞは、いくら、いたづらをしたつて潔白なものだ。嘘を吐いて罸を逃げる位なら、始めからいたづらなんかやるものか。いたづらと罸はつきもんだ。罸があるからいたづらも心持ちよく出來る。いたづら丈で罸は御免蒙るなんて下劣な根性がどこの國に流行ると思つてるんだ。金は借りるが、返す事は御免だと云ふ連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違ない。全體中學校へ何しに這入つてるんだ。學校へ這入つて、嘘を吐いて、胡魔化して、陰でこせ/\生意氣な惡いたづらをして、さうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違をして居やがる。話せない雜兵だ。
おれはこんな腐つた了見の奴等と談判するのは胸糞が惡るいから、「そんなに云はれなきや、聞かなくつていゝ。中學校へ這入つて、上品も下品も區別が出來ないのは氣の毒なものだ」と云つて六人を逐つ放してやつた。おれは言葉や樣子こそ餘り上品ぢやないが、心はこいつらよりも遙かに上品な積りだ。六人は悠々と引き揚げた。上部丈は教師のおれより餘つ程えらく見える。實は落ち付いて居る丈猶惡るい。おれには到底是程の度胸はない。
夫から又床へ這入つて横になつたら、さつきの騷動で蚊帳の中はぶん/\唸つて居る。手燭をつけて一匹宛燒くなんて面倒な事は出來ないから、釣手をはづして、長く疊んで置いて部屋の中で横竪十文字に振つたら、環が飛んで手の甲をいやと云ふ程撲つた。三度目に床へ這入つた時は少々落ち付いたが中々寐られない。時計を見ると十時半だ。考へて見ると厄介な所へ來たもんだ。一體中學の先生なんて、どこへ行つても、こんなものを相手にするなら氣の毒なものだ。よく先生が品切れにならない。餘つ程辛防強い朴念仁がなるんだらう。おれには到底やり切れない。それを思ふと清なんてのは見上げたものだ。教育もない身分もない婆さんだが、人間としては頗る尊とい。今迄はあんなに世話になつて別段難有いとも思はなかつたが、かうして、一人で遠國へ來て見ると、始めてあの親切がわかる。越後の笹飴が食ひたければ、わざ/\越後迄買ひに行つて食はしてやつても、食はせる丈の價値は充分ある。清はおれの事を慾がなくつて、眞直な氣性だと云つて、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢ひたくなつた。
清の事を考へながら、のつそつして居ると、突然おれの頭の上で、數で云つたら三四十人もあらうか、二階が落つこちる程どん、どん、どんと拍子を取つて床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きな鬨の聲が起つた。おれは何事が持ち上がつたのかと驚ろいて飛び起きた。飛び起きる途端に、はゝあさつきの意趣返しに生徒があばれるのだなと氣がついた。手前のわるい事は惡るかつたと言つて仕舞はないうちは罪は消えないもんだ。わるい事は、手前達に覺があるだらう。本來なら寐てから後悔してあしたの朝でもあやまりに來るのが本筋だ。たとひ、あやまらない迄も恐れ入つて、靜肅に寐て居るべきだ。それを何だ此騷ぎは。寄宿舍を建てゝ豚でも飼つて置きあしまいし。氣狂ひじみた眞似も大抵にするがいゝ。どうするか見ろと、寐卷の儘宿直部屋を飛び出して、楷子段を三股半に二階迄躍り上がつた。すると不思議な事に、今迄頭の上で、慥にどたばた暴れて居たのが、急に靜まり返つて、人聲所か足音もしなくなつた。是は妙だ。ランプは既に消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然と分らないが、人氣のあるとないとは樣子でも知れる。長く東から西へ貫いた廊下には鼠一匹も隱れて居ない。廊下のはづれから月がさして、遙か向ふが際どく明るい。どうも變だ、己れは小供の時から、よく夢を見る癖があつて、夢中に跳ね起きて、わからぬ寐言を云つて、人に笑はれた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾つた夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がつて、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢で尋ねた位だ。其時は三日ばかりうち中の笑ひ草になつて大に弱つた。ことによると今のも夢かも知れない。然し慥かにあばれたに違ないがと、廊下の眞中で考へ込んで居ると、月のさして居る向ふのはづれで、一二三わあと、三四十人の聲がかたまつて響いたかと思ふ間もなく、前の樣に拍子を取つて、一同が床板を踏み鳴らした。夫れ見ろ夢ぢやない矢つ張り事實だ。靜かにしろ、夜なかだぞ、とこつちも負けん位な聲を出して、廊下を向へ馳けだした。おれの通る路は暗い、只はづれに見える月あかりが目標だ。おれが馳け出して二間も來たかと思ふと、廊下の眞中で、堅い大きなものに向脛をぶつけて、あ痛い[#「あ痛い」に傍点]が頭へひゞく間に、身體はすとんと前へ抛り出された。こん畜生と起き上がつて見たが、馳けられない。氣はせくが、足丈は云ふ事を利かない。じれつたいから、一本足で飛んで來たら、もう足音も人聲も靜まり返つて、森として居る。いくら人間が卑怯だつて、こんなに卑怯に出來るものぢやない。まるで豚だ。かうなれば隱れて居る奴を引きずり出して、あやまらせてやる迄はひかないぞと、心を極めて寢室の一つを開けて中を檢査し樣と思つたが開かない。錠をかけてあるのか、机か何か積んで立て懸けてあるのか、押しても、押しても決して開かない。今度は向ふ合せの北側の室を試みた。開かない事は矢つ張り同然である。おれが戸をあけて中に居る奴を引つ捕らまへてやらうと、焦慮てると、又東のはづれで鬨の聲と足拍子が始まつた。此野郎申し合せて、東西相應じておれを馬鹿にする氣だな、とは思つたが偖どうしていゝか分らない。正直に白状してしまふが、おれは勇氣のある割合に智慧が足りない。こんな時にはどうしていゝか薩張りわからない。わからないけれども、決して負ける積りはない。此儘に濟ましてはおれの顏にかゝはる。江戸つ子は意氣地がないと云はれるのは殘念だ。宿直をして鼻垂れ小僧にからかはれて、手のつけ樣がなくつて、仕方がないから泣き寐入りにしたと思はれちや一生の名折れだ。是でも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の滿仲の後裔だ。こんな土百姓とは生れからして違ふんだ。只智慧のない所が惜しい丈だ。どうしていゝか分らないのが困る丈だ。困つたつて負けるものか。正直だから、どうしていゝか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考へて見ろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさつて勝つ。あさつて勝てなければ、下宿から辨當を取り寄せて勝つ迄こゝに居る。おれはかう決心をしたから、廊下の眞中へあぐらをかいて夜のあけるのを待つて居た。蚊がぶん/\來たけれども何ともなかつた。さつき、ぶつけた向脛を撫でゝ見ると、何だかぬら/\する。血が出るんだらう。血なんか出たければ勝手に出るがいゝ。其うち最前からの疲れが出て、ついうと/\寐て仕舞つた。何だか騷がしいので、眼が覺めた時はえつ糞しまつたと飛び上がつた。おれの坐つてた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、おれの前に立つて居る。おれは正氣に返つて、はつと思ふ途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を引つ攫んで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと仰向に倒れた。ざまを見ろ。殘る一人が一寸狼狽した所を、飛びかゝつて、肩を抑へて二三度こづき廻したら、あつけに取られて、眼をぱち/\させた。さあおれの部屋迄來いと引つ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなく尾いて來た。夜はとうにあけて居る。
おれが宿直部屋へ連れて來た奴を詰問し始めると、豚は、打つても擲いても豚だから、只知らんがなで、どこ迄も通す了見と見えて、決して白状しない。其うち一人來る、二人來る、段々二階から宿直部屋へ集まつてくる。見るとみんな眠さうに瞼をはらして居る。けちな奴等だ。一晩位寐ないで、そんな面をして男と云はれるか。面でも洗つて議論に來いと云つてやつたが、誰も面を洗ひに行かない。
おれは五十人餘りを相手に約一時間許り押問答をして居ると、ひよつくり狸がやつて來た。あとから聞いたら、小使が學校に騷動がありますつて、わざ/\知らせに行つたのださうだ。是しきの事に、校長を呼ぶなんて意氣地がなさ過ぎる。夫だから中學校の小使なんぞをしてるんだ。
校長は一と通りおれの説明を聞いた、生徒の言草も一寸聞いた。追つて處分する迄は、今迄通り學校へ出ろ。早く顏を洗つて、朝飯を食はないと時間に間に合はないから、早くしろと云つて寄宿生をみんな放免した。手温るい事だ。おれなら即席に寄宿生をこと/″\く退校して仕舞ふ。こんな悠長な事をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。其上おれに向つて、あなたも嘸御心配で御疲れでせう、今日は御授業に及ばんと云ふから、おれはかう答へた。「いへ、ちつとも心配ぢやありません。こんな事が毎晩あつても、命のある間は心配にやなりません。授業はやります、一晩位寐なくつて、授業が出來ない位なら、頂戴した月給を學校の方へ割戻します」校長は何と思つたものか、暫らくおれの顏を見詰めて居たが、然し顏が大分はれて居ますよと注意した。成程何だか少々重たい氣がする。其上べた一面痒い。蚊が餘つ程刺したに相違ない。おれは顏中ぼり/\掻きながら、顏はいくら膨れたつて、口は慥かにきけますから、授業には差し支ませんと答へた。校長は笑ひながら、大分元氣ですねと賞めた。實を云ふと賞めたんぢやあるまい、ひやかしたんだらう。
五
君釣りに行きませんかと赤シヤツがおれに聞いた。赤シヤツは氣味の惡るい樣に優しい聲を出す男である。丸で男だか女だか分りやしない。男なら男らしい聲を出すもんだ。ことに大學卒業生ぢやないか。物理學校でさへおれ位な聲が出るのに、文學士が是ぢや見つともない。
おれはさうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅の釣堀で鮒を三匹釣つた事がある。夫から神樂坂の毘沙門の縁日で八寸許りの鯉を針で引つかけて、しめたと思つたら、ぽちやりと落として仕舞つたが是は今考へても惜しいと云つたら、赤シヤツは顋を前の方へ突き出してホヽヽヽと笑つた。何もさう氣取つて笑はなくつても、よささうな者だ。「夫れぢや、まだ釣の味は分らんですな。御望みならちと傳授しませう」と頗る得意である。だれが御傳授をうけるものか。一體釣や獵をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくつて、殺生をして喜ぶ譯がない。魚だつて、鳥だつて殺されるより生きてる方が樂に極まつてる。釣や獵をしなくつちや活計がたゝないなら格別だが、何不足なく暮して居る上に、生き物を殺さなくつちや寐られないなんて贅澤な話だ。かう思つたが向ふは文學士丈に口が達者だから、議論ぢや叶はないと思つて、だまつてた。すると先生此おれを降參させたと疳違して、早速傳授しませう。御ひまなら、今日どうです、一所に行つちや。吉川君と二人ぎりぢや、淋しいから、來給へとしきりに勸める。吉川君と云ふのは畫學の教師で例の野だいこの事だ。此野だは、どういふ了見だか、赤シヤツのうちへ朝夕出入して、どこへでも隨行して行く。丸で同輩ぢやない。主從見た樣だ。赤シヤツの行く所なら、野だは必ず行くに極つて居るんだから、今更驚ろきもしないが、二人で行けば濟む所を、なんで無愛想のおれへ口を掛けたんだらう。大方高慢ちきな釣道樂で、自分の釣る所をおれに見せびらかす積かなんかで誘つたに違ない。そんな事で見せびらかされるおれぢやない。鮪の二匹や三匹釣つたつて、びくともするもんか。おれだつて人間だ、いくら下手だつて糸さへ卸しや、何かかゝるだらう、こゝでおれが行かないと、赤シヤツの事だから、下手だから行かないんだ、嫌だから行かないんぢやないと邪推するに相違ない。おれはかう考へたから、行きませうと答へた。それから、學校を仕舞つて、一應うちへ歸つて、支度を整へて、停車場で赤シヤツと野だを待ち合せて濱へ行つた。船頭は一人で、舟は細長い東京邊では見た事もない恰好である。さつきから船中見渡すが釣竿が一本も見えない。釣竿なしで釣が出來るものか、どうする了見だらうと、野だに聞くと、沖釣には竿は用ゐません、糸丈でげすと顋を撫でゝ黒人じみた事を云つた。かう遣り込められる位ならだまつて居れば宜かつた。
船頭はゆつくり/\漕いでゐるが熟練は恐しいもので、見返へると、濱が小さく見える位もう出てゐる。高柏寺の五重の塔が森の上へ拔け出して針の樣に尖がつてる。向側を見ると青嶋が浮いてゐる。是は人の住まない島ださうだ。よく見ると石と松ばかりだ。成程石と松ばかりぢや住めつこない。赤シヤツは、しきりに眺望していゝ景色だと云つてる。野だは絶景でげすと云つてる。絶景だか何だか知らないが、いゝ心持には相違ない。ひろ/″\とした海の上で、潮風に吹かれるのは藥だと思つた。いやに腹が減る。「あの松を見給へ、幹が眞直で、上が傘の樣に開いてターナーの畫にありさうだね」と赤シヤツが野だに云ふと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合つたらありませんね。ターナーそつくりですよ」と心得顏である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから默つて居た。舟は島を右に見てぐるりと廻つた。波は全くない。是で海だとは受け取りにくい程平だ。赤シヤツの御陰で甚だ愉快だ。出來る事なら、あの島の上へ上がつて見たいと思つたから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いて見た。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸ぢやいけないですと赤シヤツが異議を申し立てた。おれは默つてた。すると野だがどうです教頭、是からあの島をターナー島と名づけ樣ぢやありませんかと餘計な發議をした。赤シヤツはそいつは面白い、吾々は是からさう云はうと賛成した。此吾々のうちにおれも這入つてるなら迷惑だ。おれには青嶋で澤山だ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちや。いゝ畫が出來ますぜと野だが云ふと、マドンナの話はよさうぢやないかホヽヽヽと赤シヤツが氣味の惡るい笑ひ方をした。なに誰も居ないから大丈夫ですと、一寸おれの方を見たが、わざと顏をそむけてにや/\と笑つた。おれは何だかやな心持ちがした。マドンナだらうが、小旦那だらうが、おれの關係した事でないから、勝手に立たせるがよからうが、人に分らない事を言つて分らないから聞いたつて構やしませんてえ樣な風をする。下品な仕草だ。是で當人は私も江戸つ子でげす抔と云つてる。マドンナと云ふのは何でも赤シヤツの馴染の藝者の渾名か何かに違ないと思つた。なじみの藝者を無人島の松の木の下に立たして眺めて居れば世話はない。夫れを野だが油繪にでもかいて展覽會へ出したらよからう。
此所らがいゝだらうと船頭は船をとめて、錨を卸した。幾尋あるかねと赤シヤツが聞くと、六尋位だと云ふ。六尋位ぢや鯛は六づかしいなと、赤シヤツは糸を海へなげ込んだ。大將鯛を釣る氣と見える、豪膽なものだ。野だは、なに教頭の御手際ぢやかゝりますよ。それになぎですからと御世辭を云ひながら、是も糸を繰り出して投げ入れる。何だか先に錘の樣な鉛がぶら下がつてる丈だ。浮がない。浮がなくつて釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかる樣なものだ。おれには到底出來ないと見て居ると、さあ君もやり玉へ糸はありますかと聞く。糸はあまる程あるが、浮がありませんと云つたら、浮がなくつちや釣が出來ないのは素人ですよ。かうしてね、糸が水底へついた時分に、船縁の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食ふとすぐ手に答へる。——そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかゝつたと思つたら何にもかゝらない、餌がなくなつてた許りだ。いゝ氣味だ。教頭、殘念な事をしましたね、今のは慥かに大ものに違なかつたんですが、どうも教頭の御手際でさへ逃げられちや、今日は油斷が出來ませんよ。然し逃げられても何ですね。浮と睨めくらをしてゐる連中よりはましですね。丁度齒どめがなくつちや自轉車へ乘れないのと同程度ですからねと野だは妙な事ばかり喋舌る。よつぽど撲りつけてやらうかと思つた。おれだつて人間だ、教頭ひとりで借り切つた海ぢやあるまいし。廣い所だ。鰹の一匹位義理にだつて、かゝつて呉れるだらうと、どぼんと錘と糸を抛り込んでいゝ加減に指の先であやつつてゐた。
しばらくすると、何だかぴく/\と糸にあたるものがある。おれは考へた。こいつは魚に相違ない。生きてるものでなくつちや、かうぴくつく譯がない。しめた、釣れたとぐい/\手繰り寄せた。おや釣れましたかね、後世恐るべしだと野だがひやかすうち、糸はもう大概手繰り込んで只五尺ばかり程しか、水に浸いて居らん。船縁から覗いて見たら、金魚の樣な縞のある魚が糸にくつついて、右左へ漾いながら、手に應じて浮き上がつてくる。面白い。水際から上げるとき、ぽちやりと跳ねたから、おれの顏は潮水だらけになつた。漸くつらまへて、針をとらうとするが中々取れない。捕まへた手はぬる/\する。大に氣味がわるい。面倒だから糸を振つて胴の間へ擲きつけたら、すぐ死んで仕舞つた。赤シヤツと野だは驚ろいて見てゐる。おれは海の中で手をざぶ/\と洗つて、鼻の先へあてがつて見た。まだ腥臭い。もう懲り/\だ、何が釣れたつて魚は握りたくない。魚も握られたくなからう。さう/\糸を捲いて仕舞つた。
一番槍は御手柄だがゴルキぢや、と野だが又生意氣を云ふと、ゴルキと云ふと露西亞の文學者見た樣な名だねと赤シヤツが洒落た。さうですね、丸で露西亞の文學者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。ゴルキが露西亞の文學者で、丸木が芝の寫眞師で、米のなる木が命の親だらう。一體此赤シヤツはわるい癖だ。誰を捕まへても片假名の唐人の名を並べたがる。人には夫々專門があつたものだ。おれの樣な數學の教師にゴルキだか車力だか見當がつくものか、少しは遠慮するがいゝ。云ふならフランクリンの自傳だとかプツシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知つてる名を使ふがいゝ。赤シヤツは時々帝國文學とか云ふ眞赤な雜誌を學校へ持つて來て難有さうに讀んでゐる。山嵐に聞いて見たら、赤シヤツの片假名はみんなあの雜誌から出るんださうだ。帝國文學も罪な雜誌だ。
それから赤シヤツと野だは一生懸命に釣つて居たが、約一時間許りのうちに二人で十五六上げた。可笑しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキ許りだ。鯛なんて藥にしたくつてもありやしない。今日は露西亞文學の大當りだと赤シヤツが野だに話してゐる。あなたの手腕でゴルキなんですから、私なんぞがゴルキなのは仕方がありません。當り前ですなと野だが答へてゐる。船頭に聞くと此小魚は骨が多くつて、まづくつて、とても食へないんださうだ。只肥料には出來るさうだ。赤シヤツと野だは一生懸命に肥料を釣つて居るんだ。氣の毒の至りだ。おれは一匹で懲りたから、胴の間へ仰向けになつて、さつきから大空を眺めて居た。釣をするより此方が餘つ程洒落て居る。
すると二人は小聲で何か話し始めた。おれにはよく聞えない、又聞きたくもない。おれは空を見ながら清の事を考へて居る。金があつて、清をつれて、こんな奇麗な所へ遊びに來たら嘸愉快だらう。いくら景色がよくつても野だ抔と一所ぢや詰らない。清は皺苦茶だらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たつて耻づかしい心持ちはしない。野だの樣なのは、馬車に乘らうが、船に乘らうが、凌雲閣へのらうが、到底寄り付けたものぢやない。おれが教頭で、赤シヤツがおれだつたら、矢つ張りおれにへけつけ御世辭を使つて赤シヤツを冷かすに違ない。江戸つ子は輕薄だと云ふが成程こんなものが田舍巡りをして、私は江戸つ子でげすと繰り返して居たら、輕薄は江戸つ子で、江戸つ子は輕薄の事だと田舍者が思ふに極まつてる。こんな事を考へて居ると、何だか二人がくす/\笑ひ出した。笑ひ聲の間に何か云ふが途切れ/\で頓と要領を得ない。「え? どうだか……」「……全くです……知らないんですから……罪ですね」「まさか……」「バツタを……本當ですよ」
おれは外の言葉には耳を傾けなかつたが、バツタと云ふ野だの語を聽いた時は、思はず屹となつた。野だは何の爲かバツタと云ふ言葉丈ことさら力を入れて、明瞭におれの耳に這入る樣にして、其あとをわざとぼかして仕舞つた。おれは動かないで矢張り聞いて居た。
「又例の堀田が……」「さうかも知れない……」「天麩羅……ハヽヽヽヽ」「……煽動して……」「團子も?」
言葉は斯樣に途切れ/\であるけれども、バツタだの天麩羅だの、團子だのと云ふ所を以て推し測つて見ると、何でもおれのことに就て内所話しをして居るに相違ない。話すならもつと大きな聲で話すがいゝ、又内所話をする位なら、おれなんか誘はなければいゝ。いけ好かない連中だ。バツタだらうが雪踏だらうが、非はおれにある事ぢやない。校長が一と先づあづけろと云つたから、狸の顏にめんじて只今の所は控へて居るんだ。野だの癖に入らぬ批評をしやがる。毛筆でもしやぶつて引つ込んでるがいゝ。おれの事は、遲かれ早かれ、おれ一人で片付けて見せるから、差支へないが、又例の堀田が[#「又例の堀田が」に傍点]とか煽動して[#「煽動して」に傍点]とか云ふ文句が氣にかゝる。堀田がおれを煽動して騷動を大きくしたと云ふ意味なのか、或は堀田が生徒を煽動しておれをいぢめたと云ふのか方角がわからない。青空を見て居ると、日の光が段々弱つて來て、少しはひやりとする風が吹き出した。線香の烟の樣な雲が、透き徹る底の上を靜かに伸して行つたと思つたら、いつしか底の奧に流れ込んで、うすくもやを掛けた樣になつた。
もう歸らうかと赤シヤツが思ひ出した樣に云ふと、えゝ丁度時分ですね。今夜はマドンナの君に御逢ひですかと野だが云ふ。赤シヤツは馬鹿あ云つちやいけない、間違になると、船縁に身を倚たした奴を、少し起き直る。エヘヽヽヽ大丈夫ですよ。聞いたつて……と野だが振り返つた時、おれは皿の樣な眼を野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやつた。野だはまぼしさうに引つ繰り返つて、や、こいつは降參だと首を縮めて、頭を掻いた。何といふ猪口才だらう。
船は靜かな海を岸へ漕ぎ戻る。君釣はあまり好きでないと見えますねと赤シヤツが聞くから、えゝ寐て居て空を見る方がいゝですと答へて、吸ひかけた卷烟草を海の中へたゝき込んだら、ジユと音がして艪の足で掻き分けられた浪の上を搖られながら漾つていつた。「君が來たんで生徒も大に喜んで居るから、奮發してやつて呉れ給へ」と今度は釣には丸で縁故もない事を云ひ出した。「あんまり喜んでも居ないでせう」「いえ、御世辭ぢやない。全く喜んで居るんです、ね、吉川君」「喜んでる所ぢやない。大騷ぎです」と野だはにや/\と笑つた。こいつの云ふ事は一々癪に障るから妙だ。「然し君注意しないと、險呑ですよ」と赤シヤツが云ふから「どうせ險呑です。かうなりや險呑は覺悟です」と云つてやつた。實際おれは免職になるか、寄宿生を悉くあやまらせるか、どつちか一つにする了見で居た。「さう云つちや、取りつき所もないが——實は僕も教頭として君の爲を思ふから云ふんだが、わるく取つちや困る」「教頭は全く君に好意を持つてるんですよ。僕も及ばずながら、同じ江戸つ子だから、可成長く御在校を願つて、御互に力にならうと思つて、是でも蔭ながら盡力して居るんですよ」と野だが人間並の事を云つた。野だの御世話になる位なら首を縊つて死んじまはあ。
「夫でね、生徒は君の來たのを大變歡迎して居るんだが、そこには色々な事情があつてね。君も腹の立つ事もあるだらうが、こゝが我慢だと思つて、辛防してくれ玉へ。決して君の爲にならない樣な事はしないから」
「色々の事情た、どんな事情です」
「夫が少し込み入つてるんだが、まあ段々分りますよ。僕が話さないでも自然と分つて來るです、ね吉川君」
「えゝ中々込み入つてますからね。一朝一夕にや到底分りません。然し段々分ります、僕が話さないでも自然と分つて來るです」と野だは赤シヤツと同じ樣な事を云ふ。
「そんな面倒な事情なら聞かなくてもいゝんですが、あなたの方から話し出したから伺ふんです」
「そりや御尤だ。こつちで口を切つて、あとをつけないのは無責任ですね。夫ぢや是丈の事を云つて置きませう。あなたは失禮ながら、まだ學校を卒業したてで、教師は始めての、經驗である。所が學校と云ふものは中々情實のあるもので、さう書生流に淡泊には行かないですからね」
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「さあ君はさう率直だから、まだ經驗に乏しいと云ふんですがね……」
「どうせ經驗には乏しい筈です。履歴書にもかいときましたが二十三年四ケ月ですから」
「さ、そこで思はぬ邊から乘ぜられる事があるんです」
「正直にして居れば誰が乘じたつて怖くはないです」
「無論怖くはない、怖くはないが、乘ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、氣を付けないといけないと云ふんです」
野だが大人しくなつたなと氣が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫の方で船頭と釣の話をして居る。野だが居ないんで餘つ程話しよくなつた。
「僕の前任者が、誰れに乘ぜられたんです」
「だれと指すと、其人の名譽に關係するから云へない。又判然と證據のない事だから云ふと此方の落度になる。とにかく、折角君が來たもんだから、こゝで失敗しちや僕等も君を呼んだ甲斐がない。どうか氣を付けてくれ玉へ」
「氣をつけろつたつて、是より氣の付け樣はありません。わるい事をしなけりや好いんでせう」
赤シヤツはホヽヽヽと笑つた。別段おれは笑はれる樣な事を云つた覺はない。今日只今に至る迄是でいゝと堅く信じて居る。考へて見ると世間の大部分の人はわるくなる事を獎勵して居る樣に思ふ。わるくならなければ社會に成功はしないものと信じて居るらしい。たまに正直な純粹な人を見ると、坊つちやんだの小僧だのと難癖をつけて輕蔑する。夫ぢや小學校や中學校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教へない方がいゝ。いつそ思ひ切つて學校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乘せる策を教授する方が、世の爲にも當人の爲にもなるだらう。赤シヤツがホヽヽヽと笑つたのは、おれの單純なのを笑つたのだ。單純や眞率が笑はれる世の中ぢや仕樣がない。清はこんな時に決して笑つた事はない。大に感心して聞いたもんだ。清の方が赤シヤツより餘つ程上等だ。
「無論惡るい事をしなければ好いんですが、自分丈惡るい事をしなくつても、人の惡るいのが分らなくつちや、矢つ張りひどい目に逢ふでせう。世の中には磊落な樣に見えても、淡泊な樣に見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、滅多に油斷の出來ないのがありますから……。大分寒くなつた。もう秋ですね、濱の方は靄でセピヤ色になつた。いゝ景色だ。おい、吉川君どうだい、あの濱の景色は……」と大きな聲を出して野だを呼んだ。なある程こりや奇絶ですね。時間があると寫生するんだが、惜しいですね、此儘にして置くのはと野だは大にたゝく。
港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛がヒユーと鳴るとき、おれの乘つて居た舟は磯の砂へざぐりと、舳をつき込んで動かなくなつた。御早う御歸りと、かみさんが、濱に立つて赤シヤツに挨拶する。おれは船端から、やつと掛聲をして磯へ飛び下りた。
六
野だは大嫌だ。こんな奴は澤庵石をつけて海の底へ沈めちまふ方が日本の爲だ。赤シヤツは聲が氣に食はない。あれは持前の聲をわざと氣取つてあんな優しい樣に見せてるんだらう。いくら氣取つたつて、あの面ぢや駄目だ。惚れるものがあつたつてマドンナ位なものだ。然し教頭丈に野だより六づかしい事を云ふ。うちへ歸つて、あいつの申し條を考へて見ると一應尤もの樣でもある。判然とした事は云はないから、見當がつきかねるが、何でも山嵐がよくない奴だから用心しろと云ふのらしい。それならさうと確乎斷言するがいゝ、男らしくもない。さうして、そんな惡るい教師なら、早く免職さしたらよからう。教頭なんて文學士の癖に意氣地のないもんだ。蔭口をきくのでさへ、公然と名前が云へない位な男だから、弱虫に極まつてる。弱虫は親切なものだから、あの赤シヤツも女の樣な親切ものなんだらう。親切は親切、聲は聲だから、聲が氣に入らないつて、親切を無にしちや筋が違ふ。夫にしても世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、氣の合つた友達が惡漢だなんて、人を馬鹿にして居る。大方田舍だから萬事東京のさかに行くんだらう。物騷な所だ。今に火事が氷つて、石が豆腐になるかも知れない。然し、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたづらをしさうもないがな。一番人望のある教師だと云ふから、やらうと思つたら大抵の事は出來るかも知れないが、——第一そんな廻りくどい事をしないでも、ぢかにおれを捕まへて喧嘩を吹き懸けりや手數が省ける譯だ。おれが邪魔になるなら、實は是々だ、邪魔だから辭職してくれと云や、よさゝうなもんだ。物は相談づくでどうでもなる。向ふの云ひ條が尤もなら、明日にでも辭職してやる。こゝ許り米が出來る譯でもあるまい。どこの果へ行つたつて、のたれ死はしない積だ。山嵐も餘つ程話せない奴だな。
こゝへ來た時第一番に氷水を奢つたのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢つてもらつちや、おれの顏に關はる。おれはたつた一杯しか飮まなかつたから一錢五厘しか拂はしちやない。然し一錢だらうが五厘だらうが、詐欺師の恩になつては、死ぬ迄心持ちがよくない。あした學校へ行つたら、一錢五厘返して置かう。おれは清から三圓借りて居る。其三圓は五年經つた今日迄まだ返さない。返せないんぢやない。返さないんだ。清は今に返すだらう抔と、苟めにもおれの懷中をあてにはして居ない。おれも今に返さう抔と他人がましい義理立てはしない積だ。こつちがこんな心配をすればする程清の心を疑ぐる樣なもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏みつけるのぢやない、清をおれの片破れと思ふからだ。清と山嵐とは固より比べ物にならないが、たとひ氷水だらうが、甘茶だらうが、他人から惠を受けて、だまつて居るのは向ふを一と角の人間と見立てゝ、其人間に對する厚意の所作だ。割前を出せば夫丈の事で濟む所を、心のうちで難有いと恩に着るのは錢金で買へる返禮ぢやない。無位無官でも一人前の獨立した人間だ。獨立した人間が頭を下げるのは百萬兩より尊とい御禮と思はなければならない。
おれは是でも山嵐に一錢五厘奮發させて、百萬兩より尊とい返禮をした氣で居る。山嵐は難有いと思つて然るべきだ。それに裏へ廻つて卑劣な振舞をするとは怪しからん野郎だ。あした行つて一錢五厘返して仕舞へば借も貸もない。さうして置いて喧嘩をしてやらう。
おれはこゝ迄考へたら、眠くなつたからぐう/\寐て仕舞つた。あくる日は思ふ仔細があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。所が中々出て來ない。うらなりが出て來る。漢學の先生が出て來る。野だが出て來る。仕舞には赤シヤツ迄出て來たが山嵐の机の上は白墨が一本竪に寐て居る丈で閑靜なものだ。おれは、控所へ這入るや否や返さうと思つて、うちを出る時から、湯錢の樣に手の平へ入れて一錢五厘、學校迄握つて來た。おれは膏つ手だから、開けて見ると一錢五厘が汗をかいて居る。汗をかいてる錢を返しちや、山嵐が何とか云ふだらうと思つたから、机の上へ置いてふう/\吹いて又握つた。所へ赤シヤツが來て昨日は失敬、迷惑でしたらうと云つたから、迷惑ぢやありません、御蔭で腹が減りましたと答へた。すると赤シヤツは山嵐の机の上へ肱を突いて、あの盤臺面をおれの鼻の側面へ持つて來たから、何をするかと思つたら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれ玉へ。まだ誰にも話しやしますまいねと云つた。女の樣な聲を出す丈に心配性な男と見える。話さない事は慥かである。然し是から話さうと云ふ心持ちで、既に一錢五厘手の平に用意して居る位だから、こゝで赤シヤツから口留めをされちや、些と困る。赤シヤツも赤シヤツだ。山嵐と名を指さないにしろ、あれ程推察の出來る謎をかけて置きながら、今更其謎を解いちや迷惑だとは教頭とも思へぬ無責任だ。元來ならおれが山嵐と戰爭をはじめて鎬を削つてる眞中へ出て堂々とおれの肩を持つべきだ。夫でこそ一校の教頭で、赤シヤツを着て居る主意も立つと云ふもんだ。
おれは教頭に向つて、まだ誰にも話さないが、是から山嵐と談判する積だと云つたら、赤シヤツは大に狼狽して、君そんな無法な事をしちや困る。僕は堀田君の事に就いて、別段君に何も明言した覺えはないんだから——君がもし玆で亂暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。君は學校に騷動を起す積りで來たんぢやなからうと妙に常識をはづれた質問をするから、當り前です、月給をもらつたり、騷動を起したりしちや、學校の方でも困るでせうと云つた。すると赤シヤツはそれぢや昨日の事は君の參考丈にとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼に及ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしませうと受け合つた。君大丈夫かいと赤シヤツは念を押した。どこ迄女らしいんだか奧行がわからない。文學士なんて、みんなあんな連中なら詰らんものだ。辻褄の合はない、論理に缺けた注文をして恬然として居る。然も此おれを疑ぐつてる。憚りながら男だ。受け合つた事を裏へ廻つて反古にする樣なさもしい了見は持つてるもんか。
所へ兩隣りの机の所有主も出校したんで、赤シヤツは早々自分の席へ歸つて行つた。赤シヤツは歩るき方から氣取つてる。部屋の中を徃來するのでも、音を立てない樣に靴の底をそつと落す。音を立てないであるくのが自慢になるもんだとは、此時から始めて知つた。泥棒の稽古ぢやあるまいし、當り前にするがいゝ。やがて始業の喇叭がなつた。山嵐はとう/\出て來ない。仕方がないから、一錢五厘を机の上へ置いて教場へ出掛けた。
授業の都合で一時間目は少し後れて、控所へ歸つたら、ほかの教師はみんな机を控へて話をして居る。山嵐もいつの間にか來て居る。缺勤だと思つたら遲刻したんだ。おれの顏を見るや否や今日は君の御蔭で遲刻したんだ。罸金を出し玉へと云つた。おれは机の上にあつた一錢五厘を出して、是をやるから取つて置け。先達て通町で飮んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を云つてるんだと笑ひかけたが、おれが存外眞面目で居るので、詰らない冗談をするなと錢をおれの机の上に掃き返した。おや山嵐の癖にどこ迄も奢る氣だな。
「冗談ぢやない本當だ。おれは君に氷水を奢られる因縁がないから、出すんだ。取らない法があるか」
「そんなに一錢五厘が氣になるなら取つてもいゝが、なぜ思ひ出した樣に、今時分返すんだ」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
山嵐は冷然とおれの顏を見てふんと云つた。赤シヤツの依頼がなければ、こゝで山嵐の卑劣をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合つたんだから動きがとれない。人がこんなに眞赤になつてるのにふん[#「ふん」に傍点]と云ふ理窟があるものか。
「氷水の代は受け取るから、下宿は出て呉れ」
「一錢五厘受け取れば夫でいゝ。下宿を出やうが出まいがおれの勝手だ」
「所が勝手でない、昨日、あすこの亭主が來て君に出て貰ひたいと云ふから、其譯を聞いたら亭主の云ふのは尤もだ。夫でももう一應慥かめる積りで今朝あすこへ寄つて詳しい話を聞いてきたんだ」
おれには山嵐の云ふ事が何の意味だか分らない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知つてるもんか。さう自分丈で極めたつて仕樣があるか。譯があるなら、譯を話すが順だ。てんから亭主の云ふ方が尤もだなんて失敬千萬な事を云ふな」
「うん、そんなら云つてやらう。君は亂暴であの下宿で持て餘まされて居るんだ。いくら下宿の女房だつて、下女たあ違ふぜ。足を出して拭かせるなんて、威張り過ぎるさ」
「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
「拭かせたかどうだか知らないが、兎に角向ふぢや、君に困つてるんだ。下宿料の十圓や十五圓は懸物を一幅賣りや、すぐ浮いてくるつて云つてたぜ」
「利いた風な事をぬかす野郎だ。そんなら、なぜ置いた」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになつたんだから、出ろと云ふんだらう。君出てやれ」
「當り前だ。居てくれと手を合せたつて、居るものか。一體そんな云ひ懸りを云ふ樣な所へ周旋する君からしてが不埒だ」
「おれが不埒か、君が大人しくないんだか、どつちかだらう」
山嵐もおれに劣らぬ肝癪持ちだから、負け嫌な大きな聲を出す。控所に居た連中は何事が始まつたかと思つて、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋を長くしてぼんやりして居る。おれは、別に耻づかしい事をした覺えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡はしてやつた。みんなが驚ろいてるなかに野だ丈は面白さうに笑つて居た。おれの大きな眼が、貴樣も喧嘩をする積りかと云ふ權幕で、野だの干瓢づらを射貫いた時に、野だは突然眞面目な顏をして、大につゝしんだ。少し怖はかつたと見える。其うち喇叭が鳴る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。
午後は、先夜おれに對して無禮を働いた寄宿生の處分法に就ての會議だ。會議と云ふものは生れて始めてだから頓と容子が分らないが、職員が寄つて、たかつて自分勝手な説をたてゝ、夫を校長が好い加減に纏めるのだらう。纏めると云ふのは黒白の決しかねる事柄に就て云ふべき言葉だ。この場合の樣な、誰が見たつて、不都合としか思はれない事件に會議をするのは暇潰しだ。誰が何と解釋したつて異説の出樣筈がない。こんな明白なのは即座に校長が處分して仕舞へばいゝに。隨分決斷のない事だ。校長つてものが、これならば、何の事はない、煑え切らない愚圖の異名だ。
會議室は校長室の隣りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張つた椅子が二十脚ばかり、長いテーブルの周圍に並んで一寸神田の西洋料理屋位な格だ。其テーブルの端に校長が坐つて、校長の隣りに赤シヤツが構へる。あとは勝手次第に席に着くんださうだが、體操の教師丈はいつも席末に謙遜すると云ふ話だ。おれは樣子が分らないから、博物の教師と漢學の教師の間へ這入り込んだ。向ふを見ると山嵐と野だが並んでる。野だの顏はどう考へても劣等だ。喧嘩はしても山嵐の方が遙かに趣がある。おやぢの葬式の時に小日向の養源寺の座敷にかゝつてた懸物は此顏によく似て居る。坊主に聞いて見たら韋駄天と云ふ怪物ださうだ。今日は怒つてるから、眼をぐる/\廻しちや、時々おれの方を見る。そんな事で威嚇かされて堪まるもんかと、おれも負けない氣で、矢つ張り眼をぐりつかせて、山嵐をにらめてやつた。おれの眼は恰好はよくないが、大きい事に於ては大抵な人には負けない。あなたは眼が大きいから役者になると屹度似合ひますと清がよく云つた位だ。
もう大抵御揃でせうかと校長が云ふと、書記の川村と云ふのが一つ二つと頭數を勘定して見る。一人足りない。一人不足ですがと考へてゐたが、是は足りない筈だ。唐茄子のうらなり君が來て居ない。おれとうらなり君とはどう云ふ宿世の因縁かしらないが、此人の顏を見て以來どうしても忘れられない。控所へくれば、すぐ、うらなり君が眼につく、途中をあるいて居ても、うらなり先生の樣子が心に浮ぶ。温泉へ行くと、うらなり君が時々蒼い顏をして湯壺のなかに膨れて居る。挨拶をするとへえと恐縮して頭を下げるから氣の毒になる。學校へ出てうらなり君程大人しい人は居ない。滅多に笑つた事もないが、餘計な口をきいた事もない。おれは君子と云ふ言葉を書物の上で知つてるが、是は字引にある許りで、生きてるものではないと思つてたが、うらなり君に逢つてから始めて、矢つ張り正體のある文字だと感心した位だ。
此位關係の深い人の事だから、會議室へ這入るや否や、うらなり君の居ないのは、すぐ氣がついた。實を云ふと、此男の次へでも坐はらうかと、ひそかに目標にして來た位だ。校長はもうやがて見えるでせうと、自分の前にある紫の袱紗包をほどいて、蒟蒻版の樣な者を讀んで居る。赤シヤツは琥珀のパイプを絹ハンケチで磨き始めた。此男は是が道樂である。赤シヤツ相當の所だらう。ほかの連中は隣り同志で何だか私語き合つて居る。手持無沙汰なのは鉛筆の尻に着いて居る、護謨の頭でテーブルの上へしきりに何か書いて居る。野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向應じない。只うん[#「うん」に傍点]とかあゝ[#「あゝ」に傍点]と云ふ許りで、時々怖い眼をして、おれの方を見る。おれも負けずに睨め返す。
所へ待ちかねた、うらなり君が氣の毒さうに這入つて來て少々用事がありまして、遲刻致しましたと慇懃に狸に挨拶をした。では會議を開きますと狸は先づ書記の川村君に蒟蒻版を配布させる。見ると最初が處分の件、次が生徒取締の件、其他二三ケ條である。狸は例の通り勿體ぶつて、教育の生靈と云ふ見えでこんな意味の事を述べた。「學校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳の致す所で、何か事件がある度に、自分はよく是で校長が勤まるとひそかに慚愧の念に堪へんが、不幸にして今回も亦かゝる騷動を引き起したのは、深く諸君に向つて謝罪しなければならん。然し一たび起つた以上は仕方がない、どうにか處分をせんければならん、事實は既に諸君の御承知の通であるからして、善後策について腹藏のない事を參考の爲めに御述べ下さい」
おれは校長の言葉を聞いて、成程校長だの狸だのと云ふものは、えらい事を云ふもんだと感心した。かう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎だとか、不徳だとか云ふ位なら、生徒を處分するのは、やめにして、自分から先へ免職になつたら、よさゝうなもんだ。さうすればこんな面倒な會議なんぞを開く必要もなくなる譯だ。第一常識から云つても分つてる。おれが大人しく宿直をする。生徒が亂暴をする。わるいのは校長でもなけりや、おれでもない、生徒丈に極つてる。もし山嵐が煽動したとすれば、生徒と山嵐を退治れば夫で澤山だ。人の尻を自分で脊負い込んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかす奴が、どこの國にあるもんか、狸でなくつちや出來る藝當ぢやない。彼はこんな條理に適はない議論を吐いて、得意氣に一同を見廻した。所が誰も口を開くものがない。博物の教師は第一教場の屋根に烏がとまつてるのを眺めて居る。漢學の先生は蒟蒻版を疊んだり、延ばしたりしてる。山嵐はまだおれの顏をにらめて居る。會議と云ふものが、こんな馬鹿氣たものなら、缺席して晝寐でもして居る方がましだ。
おれは、ぢれつたく成つたから、一番大に辯じてやらうと思つて、半分尻をあげかけたら、赤シヤツが何か云ひ出したから、やめにした。見るとパイプを仕舞つて、縞のある絹ハンケチで顏をふきながら、何か云つて居る。あの手巾は屹度マドンナから卷き上げたに相違ない。男は白い麻を使ふもんだ。「私も寄宿生の亂暴を聞いて甚だ教頭として不行屆であり、且つ平常の徳化が少年に及ばなかつたのを深く慚づるのであります。でかう云ふ事は、何か陷缺があると起るもので、事件其物を見ると何だか生徒丈がわるい樣であるが、其眞相を極めると責任は却つて學校にあるかも知れない。だから表面上にあらはれた所丈で嚴重な制裁を加へるのは、却て未來の爲によくないかとも思はれます。且つ少年血氣のものであるから活氣があふれて、善惡の考はなく、半ば無意識にこんな惡戲をやる事はないとも限らん。で固より處分法は校長の御考にある事だから、私の容喙する限ではないが、どうか其邊を御斟酌になつて、なるべく寛大な御取計を願ひたいと思ひます」
成程狸が狸なら、赤シヤツも赤シヤツだ。生徒があばれるのは、生徒がわるいんぢやない教師が惡るいんだと公言して居る。氣狂が人の頭を撲り付けるのは、なぐられた人がわるいから、氣狂がなぐるんださうだ。難有い仕合せだ。活氣にみちて困るなら運動場へ出て相撲でも取るがいゝ、半ば無意識に床の中へバツタを入れられて堪るもんか。此樣子ぢや寐頸をかゝれても、半ば無意識だつて放免する積だらう。
おれはかう考へて何か云はうかなと考へて見たが、云ふなら人を驚ろかす樣に滔々と述べたてなくつちや詰らない、おれの癖として、腹が立つたときに口をきくと、二言か三言で必ず行き塞つて仕舞ふ。狸でも赤シヤツでも人物から云ふと、おれよりも下等だが、辯舌は中々達者だから、まづい事を喋舌つて揚足を取られちや面白くない。一寸腹案を作つて見樣と、胸のなかで文章を作つてる。すると前に居た野だが突然起立したには驚ろいた。野だの癖に意見を述べるなんて生意氣だ。野だは例のへら/\調で「實に今回のバツタ事件及び咄喊事件は吾々心ある職員をして、ひそかに吾校將來の前途に危惧の念を抱かしむるに足る珍事でありまして、吾々職員たるものは此際奮つて自ら省りみて、全校の風紀を振肅しなければなりません。それで只今校長及び教頭の御述べになつた御説は、實に肯綮に中つた剴切な御考へで私は徹頭徹尾賛成致します。どうか成るべく寛大の御處分を仰ぎたいと思ひます」と云つた。野だの云ふ事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するぎりで譯が分らない。分つたのは徹頭徹尾賛成致しますと云ふ言葉だけだ。
おれは野だの云ふ意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立つたから、腹案も出來ないうちに起ち上がつて仕舞つた。「私は徹頭徹尾反對です……」と云つたがあとが急に出て來ない。「……そんな頓珍漢な、處分は大嫌です」とつけたら、職員が一同笑ひ出した。「一體生徒が全然惡るいです。どうしても詫まらせなくつちあ、癖になります。退校さしても構ひません。……何だ失敬な、新しく來た教師だと思つて……」と云つて着席した。すると右隣りに居る博物が「生徒がわるい事も、わるいが、あまり嚴重な罸抔をすると却つて反動を起していけないでせう。矢つ張り教頭の仰しやる通り、寛な方に賛成します」と弱い事を云つた。左隣の漢學は穩便説に賛成と云つた。歴史も教頭と同説だと云つた。忌々しい、大抵のものは赤シヤツ黨だ。こんな連中が寄り合つて學校を立てゝ居りや世話はない。おれは生徒をあやまらせるか、辭職するか二つのうち一つに極めてるんだから、もし赤シヤツが勝ちを制したら、早速うちへ歸つて荷作りをする覺悟で居た。どうせ、こんな手合を辯口で屈伏させる手際はなし、させた所でいつ迄御交際を願ふのは、此方で御免だ。學校に居ないとすればどうなつたつて構ふもんか。また何か云ふと笑ふに違ない。だれが云ふもんかと澄して居た。
すると今迄だまつて聞いて居た山嵐が奮然として、起ち上がつた。野郎又赤シヤツ賛成の意を表するな、どうせ、貴樣とは喧嘩だ、勝手にしろと見てゐると山嵐は硝子窓を振はせる樣な聲で「私は教頭及び其他諸君の御説には全然不同意であります。と云ふものは此事件はどの點から見ても、五十名の寄宿生が新來の教師某氏を輕侮して之を翻弄し樣とした所爲とより外には認められんのであります。教頭は其源因を教師の人物如何に御求めになる樣でありますが失禮ながら夫は失言かと思ひます。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、未だ生徒に接せられてから二十日に滿たぬ頃であります。此短かい二十日間に於て生徒は君の學問人物を評價し得る餘地がないのであります。輕侮されべき至當な理由があつて、輕侮を受けたのなら生徒の行爲に斟酌を加へる理由もありませうが、何等の源因もないのに新來の先生を愚弄する樣な輕薄な生徒を寛假しては學校の威信に關はる事と思ひます。教育の精神は單に學問を授ける許りではない、高尚な、正直な、武士的な元氣を鼓吹すると同時に、野卑な、輕躁な、暴慢な惡風を掃蕩するにあると思ひます。もし反動が恐しいの、騷動が大きくなるのと姑息な事を云つた日には此弊風はいつ矯正出來るか知れません。かゝる弊風を杜絶する爲めにこそ吾々は此學校に職を奉じて居るので、之を見逃がす位なら始めから教師にならん方がいゝと思ひます。私は以上の理由で寄宿生一同を嚴罸に處する上に、當該教師の面前に於て公けに謝罪の意を表せしむるのを至當の所置と心得ます」と云ひながら、どんと腰を卸した。一同はだまつて何にも言はない。赤シヤツは又パイプを拭き始めた。おれは何だか非常に嬉しかつた。おれの云はうと思ふ所をおれの代りに山嵐がすつかり言つてくれた樣なものだ。おれはかう云ふ單純な人間だから、今迄の喧嘩は丸で忘れて、大いに難有いと云ふ顏を以て、腰を卸した山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らん面をしてゐる。
しばらくして山嵐は又起立した。「只今一寸失念して言ひ落しましたから、申します。當夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれた樣であるが、あれは以ての外の事と考へます。苟しくも自分が一校の留守番を引き受けながら、咎める者のないのを幸に、場所もあらうに温泉抔へ入湯に行く抔と云ふのは大な失體である。生徒は生徒として、此點に就ては校長からとくに責任者に御注意あらん事を希望します」
妙な奴だ、ほめたと思つたら、あとからすぐ人の失策をあばいて居る。おれは何の氣もなく、前の宿直が出あるいた事を知つて、そんな習慣だと思つて、つい温泉迄行つて仕舞つたんだが、成程さう云はれて見ると、これはおれが惡るかつた。攻撃されても仕方がない。そこでおれは又起つて「私は正に宿直中に温泉に行きました。是は全くわるい。あやまります」と云つて着席したら、一同が又笑ひ出した。おれが何か云ひさへすれば笑ふ。つまらん奴等だ。貴樣等是程自分のわるい事を公けにわるかつたと斷言出來るか、出來ないから笑ふんだらう。
夫から校長は、もう大抵御意見もない樣でありますから、よく考へた上で處分しませうと云つた。序だから其結果を云ふと、寄宿生は一週間の禁足になつた上に、おれの前へ出て謝罪をした。謝罪をしなければ其時辭職して歸る所だつたがなまじい、おれの云ふ通になつたのでとう/\大變な事になつて仕舞つた。夫はあとから話すが、校長は此時會議の引き續きだと號してこんな事を云つた。生徒の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならん、其一着手として、教師は可成飮食店抔に出入しない事にしたい。尤も送別會抔の節は特別であるが、單獨にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい——たとへば蕎麥屋だの、團子屋だの——と云ひかけたら又一同が笑つた。野だが山嵐を見て天麩羅と云つて目くばせをしたが山嵐は取り合はなかつた。いゝ氣味だ。
おれは腦がわるいから、狸の云ふことなんか、よく分らないが、蕎麥屋や團子屋へ行つて、中學の教師が勤まらなくつちや、おれ見た樣な食ひ心棒にや到底出來つ子ないと思つた。それなら、夫でいゝから、初手から蕎麥と團子の嫌なものと注文して雇ふがいゝ。だんまりで辭令を下げて置いて、蕎麥を食ふな、團子を食ふなと罪な御布令を出すのは、おれの樣な外に道樂のないものに取つては大變な打撃だ。すると赤シヤツが又口を出した。「元來中學の教師なぞは社會の上流に位するものだからして、單に物質的の快樂ばかり求める可きものでない。其方に耽るとつい品性にわるい影響を及ぼす樣になる。然し人間だから、何か娯樂がないと、田舍へ來て狹い土地では到底暮せるものではない。其で釣に行くとか、文學書を讀むとか、又は新體詩や俳句を作るとか、何でも高尚な精神的娯樂を求めなくつてはいけない……」
だまつて聞いてると勝手な熱を吹く。沖へ行つて肥料を釣つたり、ゴルキが露西亞の文學者だつたり、馴染の藝者が松の木の下に立つたり、古池へ蛙が飛び込んだりするのが精神的娯樂なら、天麩羅を食つて團子を呑み込むのも精神的娯樂だ。そんな下さらない娯樂を授けるより赤シヤツの洗濯でもするがいゝ。あんまり腹が立つたから「マドンナに逢ふのも精神的娯樂ですか」と聞いてやつた。すると今度は誰も笑はない。妙な顏をして互に眼と眼を見合せて居る。赤シヤツ自身は苦しさうに下を向いた。夫れ見ろ。利いたらう。只氣の毒だつたのはうらなり君で、おれが、かう云つたら蒼い顏を益蒼くした。
七
おれは即夜下宿を引き拂つた。宿へ歸つて荷物をまとめて居ると、女房が何か不都合でも御座いましたか、御腹の立つ事があるなら、云つて御呉れたら改めますと云ふ。どうも驚ろく。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかり揃つてるんだらう。出て貰ひたいんだか、居て貰ひたいんだか分りやしない。丸で氣狂だ。こんな者を相手に喧嘩をしたつて江戸つ子の名折れだから、車屋をつれて來てさつさと出て來た。
出た事は出たが、どこへ行くと云ふあてもない。車屋が、どちらへ參りますと云ふから、だまつて尾いて來い、今にわかる、と云つて、すた/\やつて來た。面倒だから山城屋へ行かうかとも考へたが、又出なければならないから、つまり手數だ。かうして歩行いてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだらう。さうしたら、そこが天意に叶つたわが宿と云ふ事にしやう。とぐる/\、閑靜で住みよさゝうな所をあるいてるうち、とう/\鍛冶屋町へ出て仕舞つた。こゝは士族屋敷で下宿屋抔のある町ではないから、もつと賑やかな方へ引き返さうかとも思つたが、不圖いゝ事を考へ付いた。おれが敬愛するうらなり君は此町内に住んで居る。うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷を控へてゐる位だから、此邊の事情には通じて居るに相違ない。あの人を尋ねて聞いたら、よさゝうな下宿を教へてくれるかも知れない。幸一度挨拶に來て勝手は知つてるから、搜がしてあるく面倒はない。こゝだらうと、いゝ加減に見當をつけて、御免/\と二返許り云ふと、奧から五十位な年寄が古風な紙燭をつけて、出て來た。おれは若い女も嫌ではないが、年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。大方清がすきだから、其魂が方々の御婆さんに乘り移るんだらう。是は大方うらなり君の御母さんだらう。切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似て居る。まあ御上がりと云ふ所を、一寸御目にかゝりたいからと、主人を玄關迄呼び出して實は是々だが君どこか心當りはありませんかと尋ねて見た。うらなり先生夫は嘸御困りで御座いませう、としばらく考へて居たが、此裏町に萩野と云つて老人夫婦ぎりで暮らして居るものがある、いつぞや座敷を明けて置いても無駄だから、慥かな人があるなら貸してもいゝから周旋してくれと頼んだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあ一所に行つて聞いて見ませうと、親切に連れて行つてくれた。
其夜から萩野の家の下宿人となつた。驚いたのは、おれがいか銀の座敷を引き拂ふと、翌日から入れ違に野だが平氣な顏をして、おれの居た部屋を占領した事だ。さすがのおれも是にはあきれた。世の中はいかさま師許りで、御互に乘せつこをして居るのかも知れない。いやになつた。
世間がこんなものなら、おれも負けない氣で、世間並にしなくちや、遣り切れない譯になる。巾着切りの上前をはねなければ三度の御膳が戴けないと、事が極まればかうして、生きてるのも考へ物だ。と云つてぴん/\した達者なからだで、首を縊つちや先祖へ濟まない上に、外聞が惡い。考へると物理學校抔へ這入つて、數學なんて役にも立たない藝を覺えるよりも、六百圓を資本にして牛乳屋でも始めればよかつた。さうすれば清もおれの傍を離れずに濟むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しずに暮らされる。一所に居るうちは、さうでもなかつたが、かうして田舍へ來て見ると清は矢つ張り善人だ。あんな氣立のいゝ女は日本中さがして歩行いたつて滅多にはない。婆さん、おれの立つときに、少々風邪を引いて居たが今頃はどうしてるか知らん。先達ての手紙を見たら嘸喜んだらう。それにしても、もう返事がきさうなものだが——おれはこんな事許り考へて二三日暮して居た。
氣になるから、宿の御婆さんに、東京から手紙は來ませんかと時々尋ねて見るが、聞くたんびに何にも參りませんと氣の毒さうな顏をする。こゝの夫婦はいか銀とは違つて、もとが士族だけに双方共上品だ。爺さんが夜るになると、變な聲を出して謠をうたふには閉口するが、いか銀の樣に御茶を入れませうと無暗に出て來ないから大きに樂だ。御婆さんは時々部屋へ來て色々な話をする。どうして奧さんをお連れなさつて、一所に御出でなんだのぞなもしなどゝ質問をする。奧さんがある樣に見えますかね。可哀想に是でもまだ二十四ですぜと云つたらそれでも、あなた二十四で奧さんが御有りなさるのは當り前ぞなもしと冒頭を置いて、どこの誰さんは二十で御嫁を御貰ひたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人御持ちたのと、何でも例を半ダース許り擧げて反駁を試みたには恐れ入つた。それぢや僕も二十四で御嫁を御貰ひるけれ、世話をして御呉れんかなと田舍言葉を眞似て頼んで見たら、御婆さん正直に本當かなもしと聞いた。
「本當の本當のつて僕あ、嫁が貰ひ度つて仕方がないんだ」
「左樣ぢやらうがな、もし。若いうちは誰もそんなものぢやけれ」此挨拶には痛み入つて返事が出來なかつた。
「然し先生はもう、御嫁が御有りなさるに極つとらい。私はちやんと、もう、睨らんどるぞなもし」
「へえ、活眼だね。どうして、睨らんどるんですか」
「何故しててゝ。東京から便りはないか、便りはないかてゝ、毎日便りを待ち焦がれて御いでるぢやないかなもし」
「こいつあ驚いた。大變な活眼だ」
「中りましたらうがな、もし」
「さうですね。中つたかも知れませんよ」
「然し今時の女子は、昔と違ふて油斷が出來んけれ、御氣を御付けたがえゝぞなもし」
「何ですかい、僕の奧さんが東京で間男でもこしらへて居ますかい」
「いゝえ、あなたの奧さんは慥かぢやけれど……」
「それで、漸と安心した。夫ぢや何を氣を付けるんですい」
「あなたのは慥か——あなたのは慥かぢやが——」
「何處に不慥かなのが居ますかね」
「こゝ等にも大分居ります。先生、あの遠山の御孃さんを御存知かなもし」
「いゝえ、知りませんね」
「まだ御存知ないかなもし。こゝらであなた一番の別嬪さんぢやがなもし。あまり別嬪さんぢやけれ、學校の先生方はみんなマドンナ/\と言ふといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
「うん、マドンナですか。僕あ藝者の名かと思つた」
「いゝえ、あなた。マドンナと云ふと唐人の言葉で、別嬪さんの事ぢやらうがなもし」
「さうかも知れないね。驚いた」
「大方畫學の先生が御付けた名ぞなもし」
「野だがつけたんですかい」
「いゝえ、あの吉川先生が御付けたのぢやがなもし」
「其マドンナが不慥なんですかい」
「其マドンナさんが不慥なマドンナさんでな、もし」
「厄介だね。渾名の付いてる女にや昔から碌なものは居ませんからね。さうかも知れませんよ」
「ほん當にさうぢやなもし。鬼神のお松ぢやの、妲妃のお百ぢやのてゝ怖い女が居りましたなもし」
「マドンナも其同類なんですかね」
「其マドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたを此所へ世話をして御呉れた古賀先生なもし——あの方の所へ御嫁に行く約束が出來て居たのぢやがなもし——」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艷福のある男とは思はなかつた。人は見懸けによらない者だな。ちつと氣を付けやう」
「所が、去年あすこの御父さんが、御亡くなりて、——夫迄は御金もあるし、銀行の株も持つて御出るし、萬事都合がよかつたのぢやが——夫からと云ふものは、どう云ふものか急に暮し向きが思はしくなくなつて——詰り古賀さんがあまり御人が好過ぎるけれ、御欺されたんぞなもし。それや、これやで御輿入も延びて居る所へ、あの教頭さんが御出でゝ、是非御嫁にほしいと御云ひるのぢやがなもし」
「あの赤シヤツがですか。ひどい奴だ。どうもあのシヤツは只のシヤツぢやないと思つてた。それから?」
「人を頼んで懸合ふてお見ると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出來かねて——まあよう考へて見やう位の挨拶を御したのぢやがなもし。すると赤シヤツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をおしる樣になつて、とう/\あなた、御孃さんを手馴付けてお仕舞ひたのぢやがなもし。赤シヤツさんも赤シヤツさんぢやが、御孃さんも御孃さんぢやてゝ、みんなが惡るく云ひますのよ。一旦古賀さんへ嫁に行くてゝ承知をしときながら、今更學士さんが御出たけれ、其方に替へよてゝ、それぢや今日樣へ濟むまいがなもし、あなた」
「全く濟まないね。今日樣所か明日樣にも明後日樣にも、いつ迄行つたつて濟みつこありませんね」
「夫で古賀さんに御氣の毒ぢやてゝ、御友達の堀田さんが教頭の所へ意見をしに御行きたら、赤シヤツさんが、あしは約束のあるものを横取りする積はない。破約になれば貰ふかも知れんが、今の所は遠山家と只交際をして居る許りぢや、遠山家と交際をするには別段古賀さんに濟まん事もなからうと御云ひるけれ、堀田さんも仕方がなしに御戻りたさうな。赤シヤツさんと堀田さんは、それ以來折合がわるいと云ふ評判ぞなもし」
「よく色々な事を知つてますね。どうして、そんな詳しい事が分るんですか。感心しちまつた」
「狹いけれ何でも分りますぞなもし」
分り過ぎて困る位だ。此容子ぢやおれの天麩羅や團子の事も知つてるかも知れない。厄介な所だ。然し御蔭樣でマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シヤツの關係もわかるし大に後學になつた。只困るのはどつちが惡る者だか判然しない。おれの樣な單純なものには白とか黒とか片づけて貰はないと、どつちへ味方をしていゝか分らない。
「赤シヤツと山嵐たあ、どつちがいゝ人ですかね」
「山嵐て何ぞなもし」
「山嵐と云ふのは堀田の事ですよ」
「そりや強い事は堀田さんの方が強さうぢやけれど、然し赤シヤツさんは學士さんぢやけれ、働らきはある方ぞな、もし。夫から優しい事も赤シヤツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がえゝといふぞなもし」
「つまり何方がいゝんですかね」
「つまり月給の多い方が豪いのぢやらうがなもし」
是ぢや聞いたつて仕方がないから、やめにした。夫から二三日して學校から歸ると御婆さんがにこ/\して、へえ御待遠さま。やつと參りました。と一本の手紙を持つて來てゆつくり御覽と云つて出て行つた。取り上げて見ると清からの便りだ。符箋が二三枚ついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ廻して、いか銀から、萩野へ廻つて來たのである。其上山城屋では一週間許り逗留して居る。宿屋丈に手紙迄泊る積なんだらう。開いて見ると、非常に長いもんだ。坊つちやんの手紙を頂いてから、すぐ返事をかゝうと思つたが、生憎風邪を引いて一週間許り寐て居たものだから、つい遲くなつて濟まない。其上今時の御孃さんの樣に讀み書きが達者でないものだから、こんなまづい字でも、かくのに餘つ程骨が折れる。甥に代筆を頼まうと思つたが、折角あげるのに自分でかゝなくつちや、坊つちやんに濟まないと思つて、わざ/\下たがきを一返して、それから清書をした。清書をするには二日で濟んだが、下た書きをするには四日かゝつた。讀みにくいかも知れないが、是でも一生懸命にかいたのだから、どうぞ仕舞迄讀んでくれ。と云ふ冒頭で四尺ばかり何やら蚊やら認めてある。成程讀みにくい。字がまづい許ではない、大抵平假名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句讀をつけるのに餘つ程骨が折れる。おれは焦つ勝ちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は五圓やるから讀んでくれと頼まれても斷はるのだが、此時ばかりは眞面目になつて、始から終迄讀み通した。讀み通した事は事實だが、讀む方に骨が折れて、意味がつながらないから、又頭から讀み直して見た。部屋のなかは少し暗くなつて、前の時より見にくゝ、なつたから、とう/\椽鼻へ出て腰をかけながら鄭寧に拜見した。すると初秋の風が芭蕉の葉を動かして、素肌に吹きつけた歸りに、讀みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、仕舞ぎはには四尺あまりの半切れがさらり/\と鳴つて、手を放すと、向ふの生垣迄飛んで行きさうだ。おれはそんな事には構つて居られない。坊つちやんは竹を割つた樣な氣性だが、只肝癪が強過ぎてそれが心配になる。——ほかの人に無暗に渾名なんか、つけるのは人に恨まれるもとになるから、矢鱈に使つちやいけない、もしつけたら、清丈に手紙で知らせろ。——田舍者は人がわるいさうだから、氣をつけて苛い目に遭はない樣にしろ。——氣候だつて東京より不順に極つてるから、寐冷をして風邪を引いてはいけない。坊つちやんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわからないから、此次には責めて此手紙の半分位の長さのを書いてくれ。——宿屋へ茶代を五圓やるのはいゝが、あとで困りやしないか、田舍へ行つて頼りになるは御金ばかりだから、なるべく儉約して、萬一の時に差支へない樣にしなくつちやいけない。——御小遣がなくて困るかも知れないから、爲替で十圓あげる。——先達て坊つちやんからもらつた五十圓を、坊つちやんが、東京へ歸つて、うちを持つ時の足しにと思つて、郵便局へ預けて置いたが、此十圓を引いてもまだ四十圓あるから大丈夫だ。——成程女と云ふものは細かいものだ。
おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考へ込んで居ると、しきりの襖をあけて、萩野の御婆さんが晩めしを持つてきた。まだ見て御出でるのかなもし。えつぽど長い御手紙ぢやなもし、と云つたから、えゝ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳についた。見ると今夜も薩摩芋の煑つけだ。こゝのうちは、いか銀よりも鄭寧で、親切で、しかも上品だが、惜しい事に食ひ物がまづい。昨日も芋、一昨日も芋で今夜も芋だ。おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、かう立てつづけに芋を食はされては命がつづかない。うらなり君を笑ふ所か、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になつちまふ。清ならこんな時に、おれの好きな鮪のさし身か、蒲鉾のつけ燒を食はせるんだが、貧乏士族のけちん坊と來ちや仕方がない。どう考へても清と一所でなくつちあ駄目だ。もしあの學校に長くでも居る模樣なら、東京から召び寄せてやらう。天麩羅蕎麥を食つちやならない、團子を食つちやならない、夫で下宿に居て芋許り食つて黄色くなつて居ろなんて、教育者はつらいものだ。禪宗坊主だつて、是よりは口に榮耀をさせて居るだらう。——おれは一皿の芋を平げて、机の抽斗から生卵を二つ出して、茶碗の縁でたゝき割つて、漸く凌いだ。生卵でゞも營養をとらなくつちあ一週二十一時間の授業が出來るものか。
今日は清の手紙で湯に行く時間が遲くなつた。然し毎日行きつけたのを一日でも缺かすのは心持ちがわるい。汽車にでも乘つて出懸樣と、例の赤手拭をぶら下げて停車場迄來ると二三分前に發車した許りで、少々待たなければならぬ。ベンチへ腰を懸けて、敷島を吹かして居ると、偶然にもうらなり君がやつて來た。おれはさつきの話を聞いてから、うらなり君が猶更氣の毒になつた。平常から天地の間に居候をして居る樣に、小さく構へてゐるのが如何にも憐れに見えたが、今夜は憐れ所の騷ぎではない。出來るならば月給を倍にして、遠山の御孃さんと明日から結婚さして、一ケ月許り東京へでも遊びにやつて遣りたい氣がした矢先だから、や御湯ですか、さあ、こつちへ御懸けなさいと威勢よく席を讓ると、うらなり君は恐れ入つた體裁で、いえ構ふておくれなさるな、と遠慮だか何だか矢つ張立つてる。少し待たなくつちや出ません、草臥れますから御懸けなさいと又勸めて見た。實はどうかして、そばへ懸けて貰ひたかつた位に氣の毒で堪らない。それでは御邪魔を致しませうと漸くおれの云ふ事を聞いて呉れた。世の中には野だ見た樣に生意氣な、出ないで濟む所へ必ず顏を出す奴も居る。山嵐の樣におれが居なくつちや日本が困るだらうと云ふ樣な面を肩の上へ載せてる奴もゐる。さうかと思ふと、赤シヤツの樣にコスメチツクと色男の問屋を以て自ら任じてゐるのもある。教育が生きてフロツクコートを着ればおれになるんだと云はぬ許りの狸もゐる。皆々夫れ相應に威張つてるんだが、このうらなり先生の樣に在れどもなきが如く、人質に取られた人形の樣