有樂門
森鴎外
「日比谷公園有樂門。お乘替はありませんか。」
三田より來れる電車は駐まりたり。所は日比谷公園近く、時は大祭日の夕なれば此停留塲にも、あらゆる階級、あらゆる年齡の男女二十人あまり、押し合ひて立てり。午頃まで晴れたりし空、やうやく雲に蔽はれて、傾きかかる冬の日は、近き際に纔に殘れる空氣の淺葱色を、最早久しくはえ保つまじう思はる。停留塲に待てる群衆は、先を爭ひて車に薄りぬ。
「お乘の方は少少お待を願ひます。」
眞先に足をぺろんに掛けしは、四十代の職人めきたる男にて、丈高く肉緊り目鋭きが、腰のあたりに赤き印ほの見ゆる印絆纏の上に襲ねし、唐棧の羽織の肩尖を押されて、たじろき降りぬ。車掌は乳の香まだ失せぬ小男にて、色白く髯のあと蒼く、着たるは極まりの小倉服に、地絲あらはなる、あやしき毛織の外套なれど自然色の靴新しく、しやつ沓下なども、垢つき汚れずして、長き髮を項のあたりに揃へて截りたり。かうざまなるを、世には高襟刈と云ふとか。今職人らしき男の肩尖を押し戻しつる左手を長く差し伸べて、掌を開き、芝居めきたる姿勢を取りて立てる車掌は、車を爭ふ二十人あまりの客を隻手もて押さへて、額狹く眉根蹙まり、常に嘲る如き微笑を湛へたる面に、己が權能の十分に發揮せられたるに滿足せる色を呈せり。斜に射下す夕日の光は、車掌が開きたる掌に中りて、展べたる纖き長き指の透明なるかを疑はしむ。車より降りんとする客も十人ばかりはあるべし。彼職人らしき男の押し戻されしとき、いちはやく跳り降りたるは、某の學校の制服着て、黒き毛繻子の袱に包める書物を脇挾みたる、脩長き少年なり。これは前の停留塲を過ぎし頃より、後の口に出で居たるなるべし。次は葡桃茶袴に銘仙の綿入羽織着て、古びし駝鳥糸の襟卷したる、薹の立ちたる女生徒なりしが、これも席を讓る人なければ、後の口近く、弔革に掴まり居たるならん。その次なる肥え太りたる老媼の、己が腰の圍よりも大なるべき袱包を擁へたるは、あなもどかし、百忙の中にその袱の結目の弛みたるを締め直さんとあせりたり。此時押し戻されし職人の傍なりし、十五ばかりの小僧の古びたる布子に小倉の角帶の捩れたるをしどけなく結びて、左手に判取帳持てるが、職人の腋の下を潛りて再び突貫を試みしに、車掌は從容として右の脚を差し伸べ、この小き反抗者を支へ留めて、昇降口の秩序を維持せり。日光を浴みたる白き掌は依然として開かれ居て、甲高き聲は再び響きわたりぬ。
「お乘の方は少少お待を願ひます。」
袱包持てる老媼やうやう降るれば、こたびは麥酒の廣告に畫ける如き腹したる男、後の口に立ち留まりて遽に乘替切符を求めたり。乘らんとする客は、心に皆車掌の杓子定木を憤れり。押し戻されし職人はさらなり、そが背後なる砲兵の下士官の、髯おどろおどろしく、胸に黄白の光猶鮮かなる金鵄勳章懸けたるは、その怒を押へて立てるさま、余所目にも著かりけり。想ふに此壯漢は肚の中にて、勅諭の五箇條の一つなる、軍人は禮義を正しうすべしといふ句を繰り返して念じ居るにやあらん。されど、されど奈何せん、透明なる纖き長き車掌の指は、縱令權宜には合はずとも、現に公認せられたる法規の保護の下に、己が權能を行ふものなるを。
忽ち職人は叫べり。
「誰が乘るものかい。」
叫び畢りて、車の側に沿ひて、前の方へ馳せ去る如くなりしが、この世馴れたる男、いかでか小忿の爲めに利害を忘るることあるべき。車をば、折しも軌道の修覆すとて、花崗石引き起したるあたりに掛けて留めたるが故に、今まで人の昇降なかりし前の口の、運轉手の左手より、職人は突と鎖を脱して乘りぬ。これを見て、前より車掌の白き掌を睨みて、魔睡に陷りたるやうなりし客の過半は、忽ち夢の覺めたる如く、皆彼職人の後に跟きて乘りぬ。遲れたるは力を極めて先なるを壓せり。匾に押し潰されんとしたる運轉手は、何思ひけん、己れも力を籍して、乘客の背を押しつ。甲高なる聲は、習慣によりて發せられたり。
「少少づつ前の方にお詰を願ひます。」
猶車中にて押し合ふ間より、小僧の聲は響きぬ。
「少少づつ後の方へお詰を願ひますか。聞いてあきれらあ。」
車中所々に笑ふ聲起りぬれど、かかる品卑しき戲言に借すべき耳は持たじといひたげなる車掌は、例の微笑みつつ右手さし伸べて、滿員の赤き札を下し、鈴索を引き動しつ。
「お跡の車に願ひます。動きますよ。」
腹大いなる人も乘替切符を得て、降るる人は兎に角に降りしならめど、後の口より乘りし客は殆ど無かりき。彼職人の跡より乘りし客の中に、逞しげなる下女の、小き日章旗持てる四歳ばかりの童部を背負へるありけり。此童部前よりの混雜の状を、演劇見る如く面白がりて見やり、圓く睜きたる黒き目を輝かし居たるが、車の動き始むると共に、聲高く唱歌をうたひ出しつ。
「玉の宮居は丸の内。
近き日比谷に集まれる
電車の道は十文字。」
車はこのかはゆき聲を載せて、馬塲先門の方へ走りぬ。
底本:「鴎外全集」第三巻、岩波書店
昭和47年01月22日発行