朝寐
森鴎外
寒きときは太だ寒く、熱きときは又太だ熱き、見るかぎり只高梁の畠なる平原の正中に、忘物したるやうに置かれたる此村落に留まりてより、はや久しうなりぬ。快きは只拂曉の一時間が程なれば、早く起き出でて南窓の外に椅子を据ゑさせ、鮮しき空氣を吸ひ、旨からぬ朝餉代に、友の送りくれたるちよこれえと煮させて飮みつ。わが前なるは、收獲の頃、刈黍積める大車を引き入れつべき、稍廣き中庭なり。良き家ならば、東西廂とも名づくべき、そが左右の家の、一つは驢馬牛など畜へる小屋にて、一つは物置の傍に作男を居くやうに造れるものなるを、母屋の舍營に當てられしより、家族等の栖としたり、この家族の居る東側の家の屋根と、母屋の檐端との朝日を遮る間、椅子に腰掛け居て、われは日かげ狹まりゆくと共に、南窓近く椅子を卻らせ、鎖されたる窓に入り兼ねて、あちこち飛びめぐれる燕を眺めつ。日のいよいよ高く昇りて、窓の障子を照らすとき、われは起ちて家の内に入りぬ。
われと一間の炕を分てるは、大坂毎朝新聞の記者小島君なり。南京虫多き炕を避けて、われも小島君も、脱したる扉の一枚づゝを、べんちの上に横たへて、臥床としたるが、小島君は猶赤げつと被きて、その扉の上に寐たり。
小島君の善き人なるをば、何人といへども認めざること能はざるべし。われ等從軍記者中間には、隨分無遠慮に口わるき人少からねど、小島君を惡しき人と云ふを聞きしことなし。故郷は大坂にて富める商人の子と生れぬとか、小き頭には、五分刈の黒き髮濃く生えて、赤色勝ちたる顏の狹き額を圍めり。絶間なき微笑の爲めに、白き細き齒はいつも見えざることなし。苦力に車賃多く討められたる時など、小島君はその顏に強て威嚴の相を與へんとすれど、そは必ず徒勞に歸して、割増の銀貨は、冷笑せる苦力の手にわたさるゝを常とす。通信をなすにも、機敏なる某君の如く、をりをり人知れず好き種を聞き出して、檢閲の參謀に目を睜らせ、常は懷手して遊び歩くにもあらず、狡猾なる某君の如く、軍人まがひの態度もて參謀の意を迎へ、機密以外の事實をば、なるべく多くなるべく早く知らんと努むるにもあらず、小島君が正直に書きて、正直に送る通信は、郵便日ごとに、可もなく不可もなき一欄ばかりの原稿となりて、毎朝新聞に載せらる。約めて言へば、小島君は教育あるぼんちの、偶新聞記者となりたるものにて、ぼんちとしてはいやみ少く愛すべき部類に屬す。
此ぼんちは今項を屈め、面を赤げつとに埋みて眠れり。こは時午前十時に近く、屋内漸く暑くなりたるを見て、わが當番卒に窓の障子を脱させしより、日の光は直ちに眶を射るやうになりて、光に蘇りたる蠅さへ目の匝に集ひ來ぬればなるべし。
小島君は善き人なれど朝寐坊なり。讀者よ。渠の起んまでにはまだ程あり。わがその朝寐の事を語るを聞き給へ。わが小島君と同じ司令部に附けられてより、はや一年余となりぬ。此間小島君は一日として朝寐せざりしことなし。かく云はば、讀者は幾度かの戰鬪ありし一年余の間に、日ごとに朝寐せんことは不可能なりと難じ給ふべし。いかにも戰鬪は數度なりき。中には全軍の安危の爲めに頭を惱ましゝ會戰もありき。前日日暮れて命令を受け、軍隊は午前二時に出發する日あり。かゝるとき兵卒は夜炊ぎて食ひ、眠らずして集合地に赴くなり。われ等は司令部に附けられたれば、一時間遲れて、午前三時に出發す。管理部の當番も眠らずして炊げり。時計と燐寸とを枕もとにおきて眠り、殆一時間ごとに目を醒して、時計の針を見しわれ等、二時三十分に跳ね起くれば、一人の當番卒は待ち構へたる如く、麻索手にして進み出で、今まで夜着布團の用をなしたりしけつとをあつめて梱包す。今一人が受け取り來たる味噌汁を飯に添へて出せば、われ等は漱ぎもあへず食へり。われ等の行李を積める大車は、戸の外に待てり。食ふ間に、梱包せられたる寐具は、早く車に載せられたり。食ひ畢るを待ちて、當番卒は食器をも梱包す。われ等はこれを跡に見て、集合地さして出で立つなり。讀者は、小島君といへども、かゝる朝には、われ等と共に起き、われ等と共にいで立つとおもふならん。されど讀者の想像はあたらざること遠し。
小島君は、われ等が起くるとき猶赤げつとの下にあり。われ等が食ふ時も赤げつとの下にあり。われ等が出立つ時も赤げつとの下にあり。從卒は食器の梱包の片隅を開き置きて、小島君の起きて食ふを待てり。われ等が集合地にありて、司令部の全く集合し畢るを待つ五分乃至十分の時間に、小島君は離れ難き黒甜郷を離れて、福あるべき殘物の朝餉をとゝのへ、時としては遲れ馳せに集合地に馳せ附け、時としては及ばずして管理部の車の後に跟きて出で立つなり。
司令部は午前三時に出發し、小島記者も午前三時に出發するは事實なり。さればとてこれを朝寐ならずと曰はんは、朝寐の概念をあまりに窮屈に定むるものといふべし。朝寐とは晏く起くることにて、その晏しといふは、比較の詞なること勿論なり。かゝる朝には、われ等が起くるときと、小島君の起くる時との差、僅かに十分乃至二十分なれども、なべての人の一分をも爭ふ時の十分二十分は、常の日の數時間にも匹當すべし。否、かゝる朝の十分二十分の朝寐は、常の日終日起きざると同じ。
小島君の頭は今全く赤げつとの下に沒せり。こは日の中ること漸く強く、厚き頭の皮にも感ずるやうになりて、五分刈の上を散歩する蠅の數も漸く多くなれればなるべし。今日は終日起きざらんも知る可からず。
小島君の朝寢の爲めには、隨分氣樂なる我等記者中間も、迷惑を蒙ること少からねば、いかにもしてこれを匡正せんといふ議度度出でて、われは禿頭といふ長者の看板を有するより、此匡正法の實施を委托せられしことあり。初は余所ながら諷し、又は小兒など賺すやうにして誘ひなどしつれど功なかりき。去年の冬籠の頃の事なりき。司令部の馬卒、傭人等は無事に倦みて、博奕などに耽るもの多く、規律の下に居るに慣れたる當番卒さへ、掃除を怠りなどするやうになりぬ。或日小島君當番卒等を集へて、嚴に怠惰を戒めつ。流石服從に慣れたる兵卒等の謹みて聽き居る後の方に、其頃自炊の爲めに附けられたる傭人ありき。だだつ子めきたる顏色の男なりしが、つと進み出でて、「なあに、當番さんだつて、私どもだつて、惰る氣ぢやあないのです、朝の御飯と晝の御飯と續くやうな鹽梅ですから、何でも順繰に延びるのでさあ」と辯解したり。小島君はぎつくりしながら、「順繰に延びても、丸で爲ずにしまふといふ事はない」と云へり。傭人毫も屈せずして「延びて行くと、しまひには爲ずに置くことも出來て來まさあ」と突込んだり。かくまで論理上正確なる答辯あるべしとは豫期せざりし小島君は大にたじろけり。初め軍人の見眞似に嚴重なりし訓誡は、「なるべく」「爲し得る限」などの約束附の要求となりて終りぬ。此始終の樣子を見て、可笑しさを忍び居たるわれは、好機逸すべからずと、此度は正面より諫言を試みたり。わが言ひしことの大要は左の如くなりき。戰爭の生活は最も虚飾なき生活なり。されば用あれば何時にても起きざるべからざる代には、用なきときは、何時にても眠ることを得べし。朝人の起くる時には、君も勉めて起き給へ。朝餉終りて再び眠り給はんは勝手なり。朝起くることの難きは、人皆眠れるに、己れ一人時を定めて起くるが難きなり。それすら堰口參謀などは、三時にても四時にても五時にても、前晩起きんと思ひし時には、翌朝必ず起くといへり。かばかりのSuggestionは強ち行ひ難きものにあらず。僕など二十代三十代の頃は折々試みて、大抵成功せし經驗あり。只此頃稍衰へてか、神經過敏になりて、朝早く起きんとおもふときは、夜半にしばしば目醒むるやうになりぬ。君の朝寢はこれと違ひて、人皆起きて立ち騷ぐを知りて起きず、人の呼び醒ますを聞きて起きず、剩へ前晩に起こしくれよと頼みおきながら、翌朝その人に起こされて、猶起きざるなり。起きんとおもふ意志の最小量だにあらば、起きられぬ筈なし。諫言のあらましは此の如きものなりき。爾時小島君容を正して答へて曰はく。これまでの度々の諷諫を解せざるにはあらず。さるを失敬ながら聽かざる眞似し、又は生返辭して止みしは、僕の朝寢は所詮死すとも改め難き天性なればなり。今長者たる君に、かく眞面目に意見せられては、さて已むべきにあらねば、有體に思ふところを陳ぶべし。僕の朝寢は穉きより、難波江のあしき事ぞと、兩親も心づきて、目覺しの菓子翫具もて賺し、霜のあしたに夜着をまくり、まだ起きねば、絞罪の臺の如く、體の下なる敷布團を引き除けて、體を石の如く轉しなどもしつれど、寛猛いづれの手段を問はず、些の効驗だにあらざりき。少年時代には、學校通の時間を過らせじの母の苦勞、一方ならざりき。少しの月給取らせんは快からねど、規則正しき生活に慣れさせたしと、父が頼みて、或會社に出だしくれしときは、新婚の當座なりしかば、遲刻する度に隣席のぼんち等に揶揄はれしも數なりき。間もなく一年志願兵として入營しつ。尋常の朝寢ならば、此軍隊生活にて匡正せられぬ筈なけれど、僕の癖のみは依然たりき。僕は眠むたくて堪へ難き朝、髯軍曹を誑きて、首尾よく病氣になり濟まししことあり。原來合格はしつれど、薄弱なる僕の體には、いつも多少の故障あれば、診斷のとき健康者として斥けらるる虞は少かりしなり。兎角するうち、器械體操にて肘を折りて入院し、除隊と極まりしとき、日ごとに衞戍病院に見舞に來し父は、僕の豫備少尉にならぬを憾としつれど、僕は只家に歸りて、おもひの儘に寢んとおもひぬ。その頃投書が縁となりて、毎朝新聞社に出づることとなり、ここにても編輯時間に遲るるものは小島と、すぐ目星をつけられしが、憖に勉強ぶるよりは骨惜せぬ此男のかた増なりなどの辯護説に庇保せられ、居殘の用事あるときは、遲出の罸に引き受けなどして、後編輯局の古株となりては、多く家にありて書くやうなる業を擔當せしめられぬ。これより朝寢坊得意の秋は來ぬ。當分は味噌汁の冷ゆるに困じて、その頃四つばかりになりし子に、冷き手して寢顏を撫でさせなどせし妻も、その勞して功なきを知りて、朝飯は食はぬ人とあきらめつ。かかれば僕の朝寢は、多年流俗に抗して贏ち得たる僕の權利なり。此權利をば、僕死に至るまで棄てざるべし。小島君の答辯はほぼ此の如くなりき。僕もこれを聞きては再び諫めんやうなくて、敢て復口を開かざりき。僕はこれより後、小島君の朝飯食ふを見るごとに、己がいやなる酒讌につきあふときの心にひきくらべて、氣の毒にのみおもひぬ。
けふも早午近うなりぬ。明日外國武官に防禦工事見せに往けば、望ならば伴はんと言ひに來し、情報課の參謀は見慣れたる赤げつとの底なる塊を横目に見て、笑ひて去りぬ。此塊はいま蠢爾として動けり。きらきらと日に照らされたる赤げつとの上に、胡麻を點じたる如く集まれる蠅は、中なる塊動けばぱつと飛び立ち、靜まるを候ひて又住り居る。塊の眞上、梁と窓との眞中くらゐの桁の間に、燕の巣あり。支那の書には、簷に巣ふを胡燕となし、堂に巣ふを越燕となすといへど、此地方にては簷に巣ふものをば絶えて見しことなし。親燕は今塊の上を一文字に横ぎりて、窓を出入し、折折は巣の入口に住まりて憩へり。室内靜にして、風を通さんとて、穿ちたる北壁の外にて、當番卒が楡の木の下に据えたる卓の上に、食器を置き並べて、午餉の用意する物音のみ、ことことと聞えたり。
この時赤げつとの下なる塊、前よりは劇しく屈伸して、小島君の五分刈頭忽ち顯れ、「どりや起きようか」と呼べり。小島君がかく呼ぶを實に起くる時なりとおもはば、そは大なる誤なり。小島君はかく呼びて、又眠ること十五分、再び、「どりや起きようか」と呼びて、又眠ること十分、三たび、「どりや起きようか」と呼びて又眠ること五分と、かやうに反復して後、纔に起くるを例とす。未だ小島君に交ること久しからざりし程は、僕もこの聲を聞く度に、頗る不快を感じ、或時、「せめて、どりや起きようか丈なりとも廢めて、默つて寢て居てはどうだ、あれを度度言ふのは、必要もないに、意志の弱いのを白状するやうなものだ、默つて寢て居て、人には大膽に寢る積で寢て居ると思はせて置いても好いではないか」などと云ひしことあり。今は幾度繰返されても、わが神經に感ぜぬやうになりぬ。
「どりや起きようか」の五六遍目なりきと覺ゆ。小島君は雙手を伸べて蠅を拂ひ、口を大きく開きて欠したるに、巣の入口に住まりたる燕の落しし糞、氣の毒にも口の眞中に落ちぬ。
底本:「鴎外全集」第三巻、岩波書店
昭和47年01月22日発行