霞亭生涯の末一年
森鴎外
その一
わたくしは今人に松崎慊堂の日記を寫させてゐる。丁度寫し畢つて持つて來た天保八年七月四日の條に、「買羊羮六梃、二梃爲一函、一函奠棭翁家塋、一函伊澤、一函小島」と云つてある。此狩谷棭齋一派の學者の事蹟を湮滅せしめぬやうにしたいと思ひ立つたのが、わたくしの官を罷めた時の事であつた。
初めわたくしの思つたは、近く説文會などが再興せられて、世に知られた狩谷は其事蹟も既に明かになつてゐるだらうといふことであつた。それが必ずしもさうでないことは後に至つて纔にわかつた。しかしわたくしは先づ狩谷を除いて、伊澤蘭軒、小島寶素の傳を作つた。以上は羊羹をもらつた人々であるが、わたくしはそれを遣つた松崎をも、狩谷と共に、比較的に知れわたつてゐる人と認めて跡廻しにしたのである。
さて蘭軒の事を叙してゐるうちに、これと親善であつた菅茶山の名が出たり、茶山が家塾を讓らうとした北條霞亭の名が出たりした。すると、蘭軒傳の東京日々新聞、大阪毎日新聞に載せられるのを見て、霞亭の書牘などをわたくしに借してくれる人が出て來た。是がわたくしの遂に霞亭傳を草するに至つた所以である。
とかくするうちに、わたくしは又出でて仕へたので、日刊新聞に物書くに便惡しくなつてしまつた。そこで帝國文學を借りて稿を續ぐこととした。然るに其帝國文學が休刊になつた。それが霞亭傳の將に終らむとする時であつた。
霞亭の歿したのは文政六年癸未八月十七日である。傳記の帝國文學に載せられたのは、其前年五年壬午の秋の末に至るまでである。跡には壬午の冬より終焉の癸未の秋に至る凡そ十二月間の事が殘つてゐる。是が「霞亭生涯の末一年」である。
わたくしは雜誌「あららぎ」の片隅をまうし受けてこれを書き畢らうとおもふ。わたくしの傳へようとする人々の主なるもの、即ち狩谷、松崎等は、史に儒林と文苑とを分つとすると、必ずや儒林に入るべきで、到底文章家、詩人を取る文苑に入るべきではない。獨り松崎のみは詩文も他人の企て及ばぬところであつた。
霞亭はわたくしの初より傳を立てようとした人ではない。儒林に入るとしても、文苑に入るとしても、あまり高い位置をば占め得ぬ人であらう。その代には此人は文章も作れば、詩も作り、剩へ歌をさへ詠む。しかしそれは「あららぎ」の片隅を借る分疏になる程のものではない。
これに反してわたくしは「あららぎ」の讀者にかういふ事を思量してもらひたい。狩谷一派の學者は一切の學問の淵源を窮めなくては已まぬ人達である。漢文學に於て説文を講じた渠等は、松崎の友山梨稻川を除く外、完書を成就するには至らなかつたが、國文學に於て狩谷は和名鈔の所謂箋註を留與して、國語を正確に使用しようとするものの津筏となしてゐる。是は讀者の些の思量を費して可なる事ではなからうか。
その二
わたくしは甞て霞亭の事を叙して文政壬午の秋末に至つた。そしてその既に記した所は此秋の事跡にして月日を徴することを得たものである。爰に的矢尺牘の間に夾雜してゐた一張の破紙がある。わたくしは此破紙のわたくしに教へた所を此に追記する。
霞亭の主君棕軒阿部侯は壬午九月中に洲崎の別莊に遊んで詩を賦した。そして霞亭にこれを刪潤せむことを命じた。詩は七律で、「壬午季秋遊洲崎別莊攄懷」と題し、末に「阿精未定稿、乞斧政」と書してある。第一の二字、第七の二字、第八の一字は全く毀損せられてゐる。二聯は間半ば闕けた字があるが、猶讀み得られる。「秋闌池畔菰蘆折。日照岸邊松樹遮。爲奉洪恩趨殿閣。難抛簪笏臥烟霞。」これを書したものは阿部侯にあらずして霞亭である。推するに霞亭は侯の詩を削つて還す時、副本を作つて留存したものであらう。若し棕軒侯の詩文集が存してゐるならば、全璧を知ることが容易であらう。
阿部侯の此遊には霞亭も亦扈隨した。歳寒堂遺稿に「扈隨公駕於洲崎別墅、恭同諸臣賦」の五律がある。「朝政乘清暇。海莊臨釣磯。江山呈霽色。楓菊耀秋暉。雙坐高吟賞。羣僚近徳威。留連天欲夕。餘興便還歸。」棕軒詩の日照の字、霞亭詩の霽色、秋暉の字は、人をして此九月某日の好天氣であつたことを想はしめる。
遺稿には此詩を插んだ律詩二首が存してゐて、並に皆交友と相往來する際に成つたものである。前なるは岡本花亭が嚢里の家を訪うた後の作で、後なるは古賀穀堂の來り過つた時の作である。そして穀堂に答へた詩以下の諸篇には冬に入つた後の作たる徴證があるのである。
花亭に寄せた五律はかうである。「岡本醒翁見過、別後却寄。對君眞可樂。去後轉難忘。話勝十年讀。坐留三日香。殘壺猶細酌。孤月復清光。靜向秋空淨。朗吟聞鶴章。」題の下に「君近有聞鶴篇、言志」と註してある。所謂「聞鶴篇」は三十一字の國風で、竹柏園所藏の花亭が田内月堂に與へた書に其事が見えてゐたと記憶する。穀堂に答へた七律は下に抄するであらう。
冬に入つて霞亭校刻の小學纂註が白川樂翁侯に獻ぜられた。侯は酬ゆるに集古十種新刊の部を以てした。事は月堂の書牘に見えてゐる。書牘は濱野氏の示す所である。「寒さやゝ身にしみ候。御擧家倍御萬祥奉賀上候。先以新刻小學一部寡君へ御贈り被遣、則さし出候處、千萬忝被存候、この御本にて、久しぶりにて小學一閲、坐間にさし置、調法いたされ候。御謝辭よろしく申上候樣、且集古十種之内銅器文房五册、摹刻共拙惡、第一撰も麤漏に候へども、御いらへ迄に進上いたされ度、御笑受被下候はば大幸可被存候。此旨可然申上候樣、翁被申付候。謹白、頓首。十月初六。田内主税。北條讓四郎樣。」
次に十月二十三日に花亭が書を霞亭に寄せた。「打絶御物遠(物字不明)御床敷存居候處、御手教、愈御清適奉賀候。但御痰喘のよし、御加養奉祈候。痰は若は酒祟にはあらず候や。節飮湯藥にまさるべくや。伯民御逢被成候はば懇に御致聲奉憑候。古賀修理中路會所希に御坐候。御相談次第早々訂盟可仕候。萬期拜話候。此間備後翁惠音、拙詩之評被仰下候。淺く近き所をもと被仰下候。誠に欽服仕候。來翰懸御目候。追而御序に御還可被下候。拙作少々乞正仕候。如何と存候處、其外共、あしき事御見出御さとし可被下候。昌光寺への書牘など、既に遣し候而事濟候ものには候へ共、よからぬ處被仰下候はば、追而書直し可遣候。是は詩も尤みるにたらぬものに御坐候。末の五古いまだ錬らぬ詩に而候。よく御覽被下、あしき處御示被下候やう殊に所望いたし候。法帖御還被下、領手仕候。高文、寄想乎孤蓬獨棹之境に而丁度程よく候半と奉存候。獅子巖集、田内みたがり候故、御斷申而と申遣候内、又使之序有之候故、轉貸いたし候跡、御斷候なり。御海恕可被下候。田内へ御返歌よく調候と奉存候。私も同人へ茶を貰候禮數首、波響へ贈候數首等有之候。從後御目に懸可申候。今日も冗雜匇々申殘候。餘者期拜接候頓首。十月廿三日。忠次郎。讓四郎樣。書經蔡傳願はくは所持の人に御かり被下候樣仕度と二男申上候。本たらぬ故願候よし。」書中に留目すべき事が頗る多い。霞亭が痰喘を患へてゐたことは其一である。次に中路會の事がある。主催者たる古賀修理は穀堂燾であらう。穀堂が同人胥會して學を講ずるに意があつて、豫めこれを霞亭に謀つたことは早く上に見えてゐた。當時の江戸に中路會といふもののあつたことは、或は他書にも出でてゐるだらうが、わたくしは未だ知るに及ばない。且中路の名はその據る所を審にしない。按ずるに宋玉九辨に「中路而迷惑兮、自厭按而學誦」と云ふことがある。會の名は此に本づくか。是が其二である。次に茶山の花亭がために詩を説いた一語がゆくりなく此書によつて傳へられた。わたくしは花亭の集を知らぬが、偶〻その絲瓜の絶句一幅を藏してゐて、その取材措詞の奇僻なるを見、茶山の語の此人の病に中るものあるを想ふのである。是が其三である。其他霞亭と月堂、月堂と花亭、花亭と蠣崎波響の間の唱和の迹が此書によつて窺はれる。僧涌蓮の獅子巖集の如きは霞亭より花亭へ、花亭より又月堂へと遞傳して讀まれてゐる。周防の南部伯民は又江戸へ來てゐる。花亭の二男は書の蔡傳の輪講に加はつてゐて、霞亭に就て一本を借らむと欲してゐる。最後に書中に見えたる霞亭の文の一句は、これを歳寒堂遺稿並附録の諸篇に求むるに未だ檢出しない。
十一月に入つて穀堂が嚢里の家をおとづれた。遺稿に「古賀溥卿見訪草堂、有詩、次韻答謝」の七律がある。「都士如雲匪思存。深居却跡掩郊園。客來門巷迷藤竹。市遠盤餐慚野村。矜飾誰能投俗好。醉歌唯是答君恩。不知燈灺杯乾久。海内人文終夕論。」濱野氏の示す所に此訪問此應酬の事を言ふ一書があつて、末に「小春十三日」と書してある。所謂「先日」の訪問が十一月の前半に於いてせられたことは疑を容れない。推するに穀堂は來つて中路會を創立せんことを議つたのであらう。わたくしは下に穀堂の此柬を寫し出す積である。
その三
文政壬午十一月十三日に古賀穀堂の霞亭に與へた書はかうである。「時下寒凉差募候處、倍御勝常被成御座奉賀候。先月は奉訊之處、蒙御款接、種々御馳走被成下、不堪感謝之至候。蕪詩一首率賦乞正候。御粲覽可被下候。貴作數囘吟誦、任命僭評返完仕候。此粗茗菲薄之至に候得共、藩製に付差上候。御約束之文會は何とぞ有時而可催候。(此間二字不明。)同調を御見立可被成候。先日も御示談之通、文風益頽靡、不勝浩歎、人才も餘程衰候樣相見候。此上とても閣老之御威勢に而、鼓舞之道は有之間敷や、當時聖堂板刻は大要出來立、是はよ程盛事に候得ば、何卒天下之才俊を教育するの費用に分ち度ものに御座候。當時も被褐懷玉之もの隨分可有之、右樣の如きもの候はゞ振拔汙塗と申手段は有之間敷や。箇樣之儀嫌疑も有之候得共、謙恭のみに而は不悉事情候故、吐出心腹候。扨又此間も内々御咄出候御要官之内に、文氣も有之候人は、追々敝藩のため締交度意も有之候。尤僕疎狂甚敷、與世背馳ゆゑ、強而は不求候。乍然一寸耿々之丹心は有之候間、其思召に而御周旋可被下候。當時樂翁侯の如きは天下之人物、兼而所景慕に御座候。彼侯之事蹟書候もの有之候はゞ致一覽度、幸彼藩に御知音も御座候ゆゑ、御周旋可被下候。京坂之人物も御垂示被下度、及平生遠游之奇癖有之、箇樣之拘束に而、誠に不勝神飛候間、紀行之文、先日御沙汰候類、何とぞ飽迄寓目(仕)度候。右旁爲可得御意如此に御座候。尚其内期拜晤候。草々不盡。小春十三日。燾。北條盟臺侍史。」
此書は文會の事を主としてゐる。會は霞亭の穀堂と謀つて興さうとしてゐるものである。さて穀堂はこれを言ふに當つて、當時の幕府の文教に論及し、遂に自家身上の事をさへ云云してゐる。
わたくしはかう讀み解く。「幕府の文教が衰替に傾いて、人才も出ない。君の主侯(阿部正精)も老中の一人であるから、今少しどうにか獎勵してくれることは出來ぬものであらうか。昌平學校の官版が追々出來るのは結構な事だ。あの本の賣上金を教育費の方へ分けてもらひたいものだ。まだ世間には立派な學者で隱れてゐるものがある。どうかそれを引き上げて使ふことは出來まいか。こんな事を言ふのは、なんだかうしろめたいやうだが、謙遜ばかししてゐては、心に思つてゐる事が言ひ盡されぬから、遠慮なく思ふ通りに言ふのだ。又上の方の役人衆の中で、學問の事のわかる人があるなら、僕は我佐賀藩のためにさういふ人と相識になりたい。しかし僕はなか/\變人だから、そんな交際をしようといふのは無理な注文かも知れぬ。これは強ひては願ひにくい事だ。只僕の腹の綺麗な處を承知して、それにかかはらずに世話をしてくれるなら難有からう。」
此詞は穀堂の傳の資料として頗る價値のあるものであらう。第わたくしは古賀一家の事蹟に通じてをらぬので、其價値の大さを知り、此資料を以て填むべき穴を填めることが出來ない。
古賀家は精里樸が歿してから五年を經てゐる。精里の子は穀堂燾、晉城煒、侗庵煜であつた。精里は佐賀の鍋島家から幕府へ召し出されて、「御儒者」になり、穀堂を鍋島家に殘して置き、晉城を同藩の洪氏へ養子に遣り、侗庵を繼嗣にした。そこで精里と侗庵とは、丁度當時の林家で、述齋衡と檉宇皝とが親子勤をしてゐたやうに、やはり親子勤をしてゐた。文化壬午には穀堂は四十五歳で鍋島肥前守齊直の嫡子貞丸に事へ、鍋島氏の溜池の中邸にある清風樓に住んでゐた。武鑑に「側用人古賀修理」と記してある。侗庵は三十五歳で昌平學校に奉職してゐた。武鑑に「御儒者衆二百俵、聖堂附、古賀小太郎」と記してある。
穀堂は其書に幕府の人材を擧用せむことを望んで、「嫌疑」云々と云つてゐる。幕府の己を用ゐむことを欲したのであらうか。しかしその「敝藩のため」云々と云ふを見れば、鍋島氏のために謀つてゐることは明かである。それは固よりさもあるべき事で、穀堂は所謂世子傅の職を守つて、八年の後貞丸が信濃守齊正として家督相續をする時に至るまで渝らなかつたのである。只わたくしは古賀氏の事蹟に通じてゐぬ故に、此間の消息を忖度するに一膜を隔つる憾があるのである。
穀堂が霞亭を訪うた時、詩を作つて示したので、霞亭が次韻した。歳寒堂遺稿に見えてゐる詩は上に抄出した。書中に「貴作」と云ふものが即彼詩であらうか。果して然らば、書中の「蕪詩」は初に嚢里の家で作つた詩とは別でなくてはならない。憾むらくは刊本穀堂遺稿抄の七律の部を檢するに、霞亭と應酬する作の一首をだに載せてゐない。そして所謂穀堂全集は、わたくしは其存否をだに知らぬのである。
その四
文政壬午十二月に入つてから、二日に岡本花亭の霞亭に與へた書が殘つてゐる。亦濱野氏の示す所である。「嚴寒愈御佳勝奉賀候。うち絶不奉尊諭、御ゆかしく罷過候。御痰喘は既に御清快に候や、御尋申度而已日々存居候へ共、塵冗扨々御無音、御海容可被下候。今日野村生入來候へ共、手ふさがり居候而不能對談、幸寸楮相託候而、御無さたの申譯而已如此御坐候。乍序小學代料も相託候。御落手可被下候。貝原軸預置候へ共、色々持物(有之)、今日は殘し申候。從後返璧可仕候。一兩日は別而寒凛、御自玉奉祈候。餘は期拜話、匇々申殘候。頓首。十二月二日。岡本忠次郎。北條讓四郎樣。」
此書を花亭に受けて霞亭に授けた野村某の何人なるかは未詳である。花亭は霞亭のために小學を人に售つて、此便に籍つて其價を償つた。霞亭の痰喘は或は脚氣とは別であらうか。「貝原軸」の事は下方に讓る。
尋で五日に花亭は又書を霞亭に與へた。亦濱野氏の示す所である。「雪中愈御勝常奉賀候。御痰喘は御快候や。一昨は野村生へ一封相託候。(小學代料共。)定而相達候半。扨々大御無音、御床しく奉存候。御近作御示可被下候。尊棲、雪はさぞ靜に而、殊に趣あるべく想像仕候。老懷、爐頭縮蝸、御憐察可被下候。○湖亭渉筆と申もの御著述と承及候而、拜見いたし度と一書生願候。さるもの御舊作有之候や。或は湖は霞の誤歟。傳聞のあやまりに候歟。水戸の安積著作にこの名ありと覺申候、いかが。もし御著作に、似たるもの候はば、御見せ被下候やう仕たく候。○貝原軸拙題。小字故別而不出來、甚きのどくに奉存候。近來段々と目あしく、かやうのもの出來兼候而見ぐるしく候。御海涵可被下候。○敝友天遊と申もの詩稿、三年前に歟さしこし直しを請申候。未熟の詩、疵おほく、見るべき詩もなく候へ共、願はくは御一閲被下、乍御面倒御直しにかかり可申分は、直に御書入御直し被下候やう仕度、あしき分は御抹去可被下候。私も舊友の折角たのみ候事もだしがたく、此外一二册竄改いたし遣し候。若御一閲御痛刪も被成下候はば忝奉存候。乍去全册は詩あまり多く、御面倒もはばかる所に候故、半分なりとも御心任せに奉頼候。くれ/″\も御面倒の事、悚息仕候へ共、先願試候。右草々申殘候。書餘期拜眉候。(以下細註。)右詩稿、題のかきやうなども、あしきところ願はくはべた/\と直に御直し被遣被下候はば、於私大幸に御坐候。十二月五日。成拜。霞亭詞壇。」
前書と後書との間に、江戸は雪の日となつた。某生の花亭を介して見むと欲した書は湖亭渉筆ではなくて、霞亭渉筆であつた。湖亭渉筆は安積澹泊の撰なること、花亭の言の如くである。貝原軸は初め益軒の肖像ならむかともおもつたが、再思するに貝原某が霞亭を介して花亭に詩を題せむことを乞うた畫幅であらう。花亭が霞亭に斧政を乞うた詩の作者天游は未だ考へない。
霞亭は此書を得た後、書を花亭に與へた。花亭のこれに報いた書が、同じく濱野氏の示した尺牘中にある。「如高諭、雪後寒甚。御痰喘嘸御困被成候事と奉察候。御保重千萬奉祷候。萬金丹御惠被下、家内毎々用候要藥に而、別而辱奉存候。疊表の儀も、御心に被懸、委曲被仰下、別簡も御添被下、奉謝候。親類共頼候間、御問合申候事に御坐候。早速遣し候やう可仕候。煩涜甚悚息仕候。○南部藥五六十服、さしてしるしも無之と被仰候に付竊に愚案いたし候は、處劑は定而宋元以後の法歟。或は加減方などにも候や。素人料簡申も如何に候へ共、御患状古方の小青龍湯宜くや、五味子を去、杏仁を加而御服被成候はば、效あるべくや。同じ麻杏の司るところ歟と被存候。あまり久しくなり、喘氣御持病のやうなり候よし、私四五年前此症やみ候時、此方に而しるしを得候故、若御考合のためにもと申上候。御用試被成候而は如何。私は加減なしに本方五味を杏に換而用申候。○今村詩稿、御うた一册大に延引御免可被下候。少々書入仕候而と存候而其ままに御坐候。長々留置候而そのまま還璧仕候も不本意、今少し御待可被下候。ここより爲持還納可仕候。○天遊は私より年四五も下に而早く衰、年來病居り、この頃は別而不出來のよし、詩は至而好きに御坐候。爲人温雅、茶山先生を景慕いたし、先年いかがの詩など贈呈いたし候事も御坐候。力不足故、觀るべき詩もなく候へ共、舊社のよしみもだし難く、御たのみも申上候。御面倒ながら痛く御直し被遣被下候はば、於私幸甚。何分相願候。冗中匇々拜復。十二月七日。成拜復。霞亭詞壇。」
霞亭の病は未だ瘥えてゐない。南部伯民の處方に效驗がないので花亭に愬へると、花亭がこれに別方を勸めた。花亭の醫方に通じてゐたことは、此書に由つて始めて知ることが出來た。霞亭の評を乞うた詩の作者今村は蓮陂勝寛であらう。福田氏藏蓮陂詩稿を閲するに、壬午は蓮陂の多く詩を作つた年である。天遊は詩を茶山に贈つたことがあるさうである。しかし茶山集に就てこれに酬いた詩を索むるに未だ得ない。
花亭の此書を獲た日に、霞亭は弟碧山に書を與へた。是は的矢尺牘中にある。「十月廿四日御状、霜月廿二日に相達候。時節嚴寒に御座候處、愈御安泰被遊御揃、珍重之至奉存候。當方皆々無事罷在候。此方よりも十月三日金子一兩入、霜月五日飛脚へ差出申候。夫々に相達候哉。磨翳散又々所望いたし遣候。御用可被成候。何分胎毒解し候手あて可被成候。煎藥のまねばむづかし、少し宛にても用ひさせ、或は食粒など少しくひ候はば、丸藥にいたし、まぜて御用被成候ては如何。いづれ大黄或は鷓鴣菜など入候方可然候。當地先達而より痘瘡はやり候。近邊にも有之候へ共、先は大方無難に候。紫草といふむらさきそめる草の穗を煎じて、痘前にのますればやすしとて、皆々用ひ候。根はひやすものに候而よろしからぬよし。痘瘡の藥によく配劑いたし有之ものに候。昨日友人の處より兎血丸少々分配いたし(來)候。これは誠に靈藥のよし、製法むづかしきもののよし。香月牛山が小兒必用藥などともいへり。おとらに用ひさせ候。此度のこり候はば、新太郎へも分與可仕候。一角(ウニコウル)の御たくはへにても候はば、誠にすこしばかりにても御惠可被下候。なければよし。さし當り流行の節は都下あのやうなるもの高價に候。御詩作隨分おもしろく候。一々くわしくも得不申候。とかく精思にしくはなし。如何と思ふ處へ——を引候。御考合可被成候。文章を御心懸可(被)成候。何事にても無油斷かき置候(事)肝要也。お通縁談の事、いづれ御雙親樣の思召にまかせらるべく候。町家も隨分よく候へ共、すぐれて人のいふ富家などは却而平生何歟と氣がはり候て如何可有之候哉。夫になんぼ其身其儘と申ても、十兩と十五兩の支度等も入可申候へば、所詮そのやうなる事にては、富家のとりやりは出來申間敷、貴家の御難澁になり候事なれば、今一兩年見合候ても可然歟。夫とも雨航山口など御深切に取計くれられ候事なれば、無腹藏打あかし、まけ出して向ふへまかせ、世話御頼可被成候。何分女子は縁談は大事のもの也。ふいといたしたる事にて、跡のつまらぬ事のなきやう、御分別可被成候。甚平などへもとくと内談可被成候。三日ころりといふ病、大坂にはやり候よし、山陽も廣島邊大分有之候よし申參り候。江戸にも先達而より專らうわさいたし候へども、これは風説のみにて、只今はとんと無之候。御在所邊の霍亂症などに類し候もの、これ又同樣一般邪疫の氣と被存候。此類の事、其時にあたり治療の法、跡の考にも相成可申候。よく/\御試御録しなど可被成候。今年は寒さも嚴敷樣に御坐候。都下火沙汰も先靜なる方に候。御在所邊漁獵は如何。私方新宅故、さむきものに候故、此節大紙帳など製し、專ら防寒之備いたし候。最早今年は差あたり候用事なく候はば、書状是切にいたし可申候。早春めでたく御左右可申上候。寒中折角御自愛專一に奉祈候。匇々頓首。十二月七日。北條讓四郎華押。北條立敬樣文几。」
通女は霞亭の季の妹である。屡注したる如く、雨航は宇仁館氏、山口は凹巷である。通女を嫁すべき家の事について、霞亭の弟碧山に諭す所は懇到深切を極めてゐる。女を嫁する支度の「十兩と十五兩」は、人をして百年前の物價の廉なるに驚かしめる。霞亭は弟の冢子新太郎儼に眼藥を與へ、又女虎に服せしむる藥をも分ち與へむとしてゐる。書には又痧病の流行の事が見えてゐる。此疫の行はれた始である。防寒用の紙帳も珍しい。
その五
文政壬午十二月二十八日に、和氣柳齋が書を霞亭に與へた。亦濱野氏の示す所である。「雪後餘寒甚御座候處、御喘氣如何被爲在候哉相伺度候。扨先達而奉願候小學料、別紙之通昨夕相越候に付、爲持差上候。御落手可被下候。延引之段御用捨奉願候。將又小生よりも御禮奉呈度候へ共、普請婚儀等諸債不殘相濟し候處、此節金氣拂底に相成候間、背本懷候。不敬之段御海容可被下候。當年最早窮陰にも御座候間、尚來陽芽出度期面晤候。切角御自愛御迎陽被成候樣奉祈候。頓首。十二月二十八日。和氣行藏。北條讓四郎樣。尚々此鹽物近所出入之者よりもらひ申候。外々のよりは少したべられ候由に付、乍序さし上候。御叱留可被下候。乍憚令閨君へ宜被仰達可被下候。」これが壬午の歳霞亭と諸友との往復の最後の書である。柳齋はやはり霞亭の脚氣を言はずして其喘息を言つてゐる。柳齋の家には啻に造營の事があつたのみでなく、亦婚禮があつた。或は子のために婦を迎へなどしたものか。猶考ふべきである。
霞亭の此冬の詩が歳寒堂遺稿に見えてゐて、其月日を詳にせざるものに、先づ「奉送内藤大夫歸福山」の七律がある。内藤氏は茶山集に所謂東門大夫である。門田朴齋の集を檢するに、東門大夫が李太白集を朴齋に贈つたのが恰も此年である。想ふに人材を掖誘するに意を用ゐた人であつたらしい。此詩ある所以である。次に「和答讚岐尾池玉民見寄」の七絶がある。自註に「君清痩善詩、家近飯山」と云つてある。飯山は「いひやま」である。茶山集に讚岐の尾池寛翁があつて茶山と應酬してゐる。寛翁、名は文槃、通稱は左膳、桐陽と號す。二子大鄰、世璜、大鄰は靜處と號し、世璜は松灣と號す。玉民は世璜の字である。次に「雪日書況、寄伊澤澹父、澹父久臥病、予亦因疾廢酒」の七律がある。頸聯の「獨醒長學幽憂客、高臥更憐同病翁」を見るに、霞亭には猶脚氣の徴候があつて、足疾の蘭軒を呼ぶに同病翁を以てしたのであらう。次に「賀石峰師秉拂鳳山」の五言排律がある。僧石峰が前年廉塾を去つて石見に往たことは上に見えてゐる。自ら署して「藝州沙門」と云ひ、詩文稿の序に陸奧の蘆舟が「藝石峰師兄」と稱してゐるから、安藝の人であらう。詩文稿に永平忌の作があるのを見るに、曹洞宗の僧か。
是年霞亭は四十三歳であつた。
文政癸未の正月は七十六歳の菅茶山が「驚殺吾齡長一郷」と云つた時である。霞亭は病を抱いて歳を迎へた。病は脚氣と痰喘とである。わたくしは初め痰喘の一時の氣管枝病なるべきを推測した。しかしその餘りに久しく痊えざるを見れば、わたくしは疑を生ずる。霞亭は或は萎縮腎などに嬰つてゐたので、脚腫も脚氣に由つて發したのでなかつたかも知れない。
霞亭が此正月に弟碧山に與へた書二通が的矢書牘中にある。第一の書はかうである。「春寒退兼候。愈御安康被成御揃、珍重之儀奉存候。霜月廿一日(壬午)出(の書状)達し候後は消息無之候。此方より十月八日書状、金一兩、眼藥、烟草筒等入、差出し申候。其後廿二日(十一月)早便に又々書状差出し申候。夫々相達し候哉。去冬は當地各別寒氣甚しく候。雪も度々有之候。しかし節分後は甚和暖を覺候。大晦日に鶯をきゝて。いそかしき世のいとなみもわすれけりとしの内なる鶯の聲。など口占いたし候。去冬漁獵は如何候哉。日外酒の事申上候へども、已に御遣し被下候はばよろしく候。まだならば、先御無用に被成可被下候。又々追而御願可申上候。小學二部承知いたし候。とかくあの類の荷はり候物、去々年より道中筋貫目改きびしく、春木などへ言傳候も氣の毒に候。先見合、船便にでも差出し可申候。其内幸便あらば遣し可申候。めづらしからぬ品に候得共何も差上候もの無之、例の淺草のり少々差上候。鮭よろしからず候得共、是又少々差上候。これも荷のはり候を恐候故、誠になまぐさ迄に候。それにとどき候内には風味も落可申候。宜敷御斷被仰上可被下候。貝の柱少々、そまつなるものなれど差上候。一日も水につけ置候而、吸物などに、醤油したぢだしなど入候而御遣(使)ひ可被成候。扇子二本、一本は母樣へ御上可被下候。一本は阿波屋叔母へ御上可被下候。よろしからざる品に候へども、去春日野樣より御手づから頂戴いたし候もの故に候。當年掛金、春五會、二十一匁四分六厘、秋六會、二十一匁、右の内へ金二歩先差上候。是は便の序故に候。四分六厘不足に候。去年過上の内に而御算用被成置可被下候。先は差向之用事のみ申上候。萬々其内期永日之時候、匇々、頓首。正月三日。北條讓四郎。北條立敬樣。」日野資愛に謁した時賜はつた扇二握が、新春の贈として母と叔母とに遣られた。酒を乞うて又これを辭したのが痰喘のためであつたことは、後の書に徴して知るべきである。
その六
文政癸未の正月に霞亭の碧山に與へた二書の中、其一は上に録した。さて其二を録するに先つて、わたくしは此に太田全齋の短簡を插みたい。それは上の書と相發明するものがあるからである。全齋の書は濱野氏の手より獲た謄本である。「過刻は御手翰、致拜見候。先以早春御出被下、辱奉存候。世中百首御貸被下、辱奉存候。また山井の假字の事、御挨拶愧入候。扨また暮と春との御詠奉感候。但第二の御詠にて、説文也(原文篆體)女陰也象形のことおもひいだし。鶯の聲なりの字を見とかめて我もおぼえずうちゑみにけり。蘆胡、頓首。正月五日。八郎。讓四郎樣。」按ずるに暮の歌は霞亭の弟に與へた書に見えてゐるものと同じ歌であらう。そして春に至つて作つた鶯の歌には、鶯の聲なりとつゞけた句があつたのであらう。
正月の第二の書はかうである。「春寒未退候。愈御安泰被成御揃、珍重奉存候。當方皆々無事罷在候。左樣御放意可被下候。當四日年始状認、品々入、春木大夫旅宿へ頼遣し、(此間原文「候處」の二字あり)已に發し候樣存候處、昨日廣瀬源一被見、先便には出しかね候由、夫にては大方二月末になり可申候間、此書状別段に差出し申候。早春書状は達し候節御覽可被下候。諸般相替候儀も無之、私少々痰喘に而引込攝養いたし候。追々暖氣になり候故か、先は快く覺え候。御案じ被下間敷候。先封の中、鮭肉など有之候。嘸味あしくなり可申候間、あしく候はば御棄可被成候。わるくすると、鹽引はあたり候ものに候間、兼而申上置候。御大人樣などへは、先御無用に被成可被下候。極月(壬午十二月)廿二日書状差出し申候。相達し候哉。極月廿三日御手簡當月五日相達し申候。痘瘡少々はやり候由如何候哉。紫草といふもの煎じ候而庖瘡前にのませば、胎毒を解し、かるきと、當地醫家皆々申候。紫草は染草なり。むらさきそめしから也。その莖也。藥種屋御吟味可被成候。根は冷物にてあしき由。此表(江戸)も專ら流行いたし候へども、おとらもいまだいたし不申候。三四月にもなり候はば、してもよろしく被存候。酒の儀委曲被仰聞、辱存候。右痰喘保養の爲、當元日より先禁酒いたし候。專ら保養になり候藥ぐひをいたし候。又々追而御頼可申上候。此せつ油こきもの等は一切絶し候。常食に麥飯をいたし候。備後より少々もらひ候へども、昨日までにたべ終候。此表にてはよき麥なく、搗そまつにて込(困)り候。何卒船便之節、搗麥一俵程御もとめ被遣可被下候。乍御世話頼上候。いりこ(海參か)も少々にてもよろしく候。奉頼候。梅花御封じ御贈、めづらしく拜見仕候。清香甚しく、家園光景、不堪神馳候。早春書状延引候故、御案じもやと、不取敢此書状差出し候。餘寒折角御自愛奉頼候。匇々頓首。正月廿五日。北條讓四郎。北條立敬樣。尚々十月八日書状金子一兩入、摩翳散、烟筒(烟管)など入差出し申候。相達し候哉。」
霞亭は己の病を痰喘と稱してゐる。そして麥飯を常食として酒を絶つてゐる。推するに喘息と脚腫と並び存してゐて、主に喘息のために苦んだものか。前にも記した如く、氣管枝の徴候が此の如く久しく去らぬのは、或は脚腫が脚氣ではなくて、萎縮腎などのために起つた水腫であつたのではなからうか。若し然らば醫療の功を奏せなかつたのも、復怪むに足らぬであらう。
その七
文政癸未の二月に入つて、霞亭は所謂痰喘のために困臥し、一時筆硯を絶つに至つたらしい。岡本氏の囑した某氏天遊の詩を刪ることも其請を容れ難くなつたので、詩卷を岡本氏に還した。花亭の復章は濱野氏がわたくしに眎した。「拜承。于今御伏枕筆研御廢絶のよし、御鬱悶奉察候。御噂は野村生又廣瀬氏より前日も承候へば、まづ少しづつ御快方のよし、やゝ慰念仕候。御見舞申度心懸居候内、私も不快、一日一日と心外御無沙汰に相なり候而無申譯候。御歌御示被下、ゆる/\拜吟可致と相樂申候。私も雪の頃奉懷のうた三首か口號、今さしあたり思出不申、思出候而かき付懸御目可申候。天游詩稿御返被下、何樣御病中御面倒にも候半。先收手仕候。蘐園の餘習不免候へ共、蘐園を奉じ候ものには無之候。先年備後の老先生へ奉贈の詩、若くは御覽も不被成候哉。元來長崎人に而御徒士方の隱居、温藉可愛人となりに御坐候。數年以來病居り候而、衰殆極候。此頃は幼童のいふやうなる語而已に而、詩らしきもの一向出來不申候。されども吟不絶口候。大に可憐候。前年の詩稿強而直しくれ候へと申には、私もちとあぐみ居り候故、一卷御たのみ申上候に而御坐候。臘尾以來少々拙作詩歌も御坐候。録候而近日乞正可仕候。二三日暖和、又今日は雨寒、御保調專一奉祈候。長日御無聊嘸々と御察申候。見合御尋可申候。よく社御書通被下、大に相悦申候。日々のやうに御噂は申出候。草々拜復。二月十日。成復。霞亭詞壇。」天游の誰なるを知らぬことは上にも言つたが、「長崎人にて、御徒士方の隱居」と云ふだけの身分が此書に見えてゐる。
次に歳寒堂遺稿に就て此頃の詩を求むるに、二月の詩と看做さるべきものが二三ある。引に月日を注したものは欵冬花の絶句一首であるが、的矢文書中の詩箋に、「病中口號」の作が其前に、又「病稍復」云々の作が其後に列記してあるより推すに、此等は皆二月の詩と看て可なるものである。
先づ遺稿の「病中口號」の一絶を抄する。「春來抱病負風光。過了梅花未掃牀。臥聽蕭々三日雨。麹塵看已上園楊。」詩箋に徴するに、霞亭は本二絶を作つたが、後に其一を刪つたのであらう。箋に連書する所の二十八字はかうである。「強半春光枕上過。養生降得酒詩魔。自嘲仍作看花計。不識沈痾竟若何。」
所謂欵冬花の詩は遺稿にも詩箋にも前詩の次に並んでゐる。今其小引のみを抄する。「二月十八日、勢南鷹羽生來告別、乃夜夢余踰函關、路傍見欵冬著巨花、即吟曰、欵冬花綻大芙蕖、覺後足句成一絶。」福田氏の示す所の詩箋謄本を併せ考ふるに、鷹羽生の名は應であつたらしい。
欵冬花の詩の後には、遺稿にも、詩箋にも下の一絶が並んでゐる。「病稍復、有訛傳予死者、弔客或至、因賦。世間萬事念全灰。且向春風眉爲開。三百瓮韲應未盡。先生許自道山囘。」三百の瓮韲は侯鯖録の故事を使つたものである。「東坡曰。世傳。王状元未第時。醉墜汴河。河神扶出曰。公有三百千料錢。若死。何處消散。士有效之。佯醉落水。神亦扶出。士喜曰。我料錢幾何。神曰。有三百壅黄韲。無處消散耳。」末に歌一首がある。「生けりともおもほえぬまで疲れけりげに分け來しか死での山路を。」
三月に霞亭は季弟惟寧に小學一部を贈つた。的矢書牘中にこれに添へた訓誨の書が存してゐる。「一筆致啓上候。時分柄春暖に御坐候處、愈御壯健被成御揃珍重奉存候。當方無事罷在候。然ば此小學一部もとめ遣し候。立敬へ御願申上候而、本文はもとより注文まで、日々少し宛にても熟讀可被成候。此書は分而人間一生之寶訓也。大切に服贋可被致候。書物はよみ候のみに而は無益の事也。その書物のをしへの事を身に行なひ心に忘れぬ樣にいたし候が誠の讀書學問之第一に御坐候。能々御勤學可被成候。尚近々可申入候。萬事立敬被申候樣に被成候而、御雙親樣によくよく御つかへ可被成候。右申入度如此御坐候。以上。三月十四日。讓四郎。敬助樣。」霞亭の季弟は撫松惟寧である。兄弟の順位は既に屡注したが、讀者の記憶を新にせむために此に反復する。第一、讓四郎、名は讓、字は景陽、號は霞亭、第二、内藏太郎、名は彦、字は子彦、第三、貞藏、第四、立敬、初め大助、名は惟長、號は碧山、第五、良助、谷岡氏を冒す、第六、敬助、名は惟寧、號は撫松、山口氏を冒して名を沖、字を澹人と改む、以上六人である。
二十日に古賀穀堂が書を霞亭に寄せた。これは濱野氏の示した所である。「前月二十五日出之貴書忝拜見仕候。時下春暄相成候處、文候愈御祥迪と奉賀候。先達而者貴恙御難澀之趣承知仕、不堪懸念之至、隨分調護可被成候。御病中二絶御垂示、感吟仕候。僕疾病は無之候得共、官事束縛、兀々度日、雅事雅情掃地と申樣相成、何とぞ老兄輩と有時得商榷度ものと相願居申候。何とぞ日外御沙汰之伯民など如き之徒と可相談(存居)候。御近所もちの木へ者例月罷出候得共、どこぞに結小社候事は可然やと被存候。御序に何時にても御出被成度、乍然俗事多端、且其節故障等に而者御氣之毒に候間、態々に無之、御通行之御序抔に被成下度候。藝州之御門生被見候得共、上局中に而不能面晤、殘念に御坐候。何卒御近著等近々拜見仕度事に御坐候。先は右爲可得御意、若此御坐候。不宣。三月廿日。燾頓首。北條儒宗。○近日松平冠山侯幼女六歳に而死去、辭世之歌、其外珍敷才女なり。詩を被求ければ。掌珠弄得六逢春。莫是觀音暫化身。韶慧未曾聞曠古。黄金何惜鑄斯人。(原注。第二句非本色語。以冠山精佛學故云。)又。開篋錦篇墨未乾。奚圖暴雨碎庭蘭。露花風蝶(歌中語)成讖語。一字眞將一涙看。又。遺草殷勤諫醉翁。(遺草中有諫侯好酒語。)廟堂君子愧精忠。仙都俄借女才子。應爲玉樓記未工。右漫作不足觀候得共、近作寫呈、御笑政可被下候、以上。」是に由りて觀れば、中路會は未だ成立してゐない。穀堂は南部伯民がこれがために周旋せむことを望んでゐるのであらうか。本郷西片町附近にもちの木といふ地名があると見えるが、わたくしは知らない。麹町區飯田町の黐木坂と別なることは論を須たない。冠山は因幡支封の主松平縫殿頭定常で、當時致仕して鐵砲洲の邸にゐた。冠山六歳の女露が前年十一月に庖瘡を病んで死んだことは、諸家の集に散見してゐる。佐藤一齋の愛日樓文に「跋阿露君哀詞卷」があつて、「檢篋笥、得遺蹟、上父君諫飮書一通、訣生母藏頭和歌一首。訣傅女乳人和歌一首、題自畫俳詞三首、又得一小册子、手記遺誡數十百言、及和歌若干首、理致精詣、似有所得者、至於遺誠、往々語及家國事、亦誠可驚矣」と云つてある。穀堂の詩は遺稿抄にも載せて、「爲冠山侯題女公子遺艸」と題してあるが、三首の第一、第三が有つて、第二が無い。
霞亭の碧山に與へた三月廿五日の書が的矢書牘中にある。その宛名なきを見れば、此書は或は別に本文ありてこれに副へたものであつたかも知れない。「二月十一日御手柬、三月十七日相達致拜見候。春暖愈御揃御安靜奉賀候。私病氣も追々快く候。緩症故、始終同じ調子故、急に復しがたく候。二三の醫人に相談いたし候。只今伊澤辭安と申藩醫の藥用ひ居候。もはや只胸膈のさばけのみになり候。元來肺にかかり候症と被存候。いづれ降氣劑服用いたし候。御藥、樣々の御書付、毎々御厚意辱奉存候。氣色も飮食も常にことならず、只歩行いたし候に跌(此字不明)し候而こまり候のみに候。こゝ三十日程藥湯願を差出し、花時は少々宛外出、暖氣には心にまかせ、試歩いたし候。(正月來引籠に候。引籠なれば、藩法に而門外へ出られず、藥湯願といへば、藥湯にいるといふ名目にて、どこへでも勝手次第に出てあるかれ候。)今暫く再願いたし候而、得と補養いたし候つもりに候。酒も四五杯程は退屈の節用ひ候。食物は嚴敷用心いたし候。○甚平妻懷孕の由一段の事に候。○お通縁談の儀承知いたし候。すべてよく間違出來候ものに候。意とするにたらず。併かのやうな類の事は成就する迄人にしれぬ樣可被成候。此後もいくらもあるなり。又々相應の儀も可有之候。まだ兩三年おそくても不苦儀に候。何より配偶の人物をえらび候事に候。私明年にても歸省いたし候はば、又々御相談も可致候。其内嫁前の女子はすべて嚴格に行儀に御心を付らるべく候。其内雨航など相談いたし候儀も候はば可被仰越候。○妻共へかうがい母樣御世話被下置候趣、(難)有奉存候。あれには過分なる位に候。餘金は五月春木太夫便のせつにても差上可申候。飛脚便賃錢多く懸り候故に候。○御地庖瘡如何。御當地は大方仕廻(しまひ)候。おとら此度は免かれ候。○今年は歸省もいたしたく心懸候得共、新家持何歟と行屆兼ね、夫に正月以來不出勤故、學問所なども同役代勤いたしくれ居候儀故、何歟と差つかへ、先今年は相やめ可申候。これも親の病氣とさへ申出し候得者、即日許容有之儀に候。併私も身體丈夫にて春の長日に旅行いたし度候。明春は何卒一寸歸省仕度候。歸省いたし候ても、何歟と費用多く候故、先表むきにはいたし不申、勿論私用故内分のつもりに候。夫故鑓持など申儀も相やめ、私名前差出し不申、御關所なども、備中守家中でない面にて通行のつもりに候。僕か弟子か一人つれ候位の事に可致候。○茶山翁も當正月中旬より風邪の處、一時は餘程むづかしく候ひしが、二月初は追々快く候由、此間國元飛脚の者よりくわしく承り候。其外諸般相替候義も無之候由。以上三月廿五日相認。右は御來書の答のみ也。○世間ばなし。當十五日か初鰹十四本小田原町へ上り候。七本は公儀へ御買上、これはいつも定値段百疋宛と申事に候。二本は八百善といふ料理茶屋、一本四兩づつに買候よし。其翌日は壹分貳朱位、三四日過候ては七八匁位に候。○此頃相撲御上覽有之候よし。判(番)付に柏戸と玉垣が大關に候。總體相撲とり貳百人ばかり見え候。」
霞亭の主治醫は別人ならず、伊澤蘭軒であつたことが此書で塙證せられる。又藥湯願の事は下に引くべき散策看花の詩の注脚である。霞亭の季の妹通の縁談は半途にして挫折したらしい。菅茶山の健康状態は略此書の云ふ所の如くである。本集に據れば、豐後の田能村竹田が訪ねた時の詩に、「伏枕春來未渉園」と云つてあるのに、稍後に至れば「暮春登山寺」、「箱田道中」等の作がある。即ち「追々快く候由」と云ふに合つてゐる。書中の事で最も氣の毒とすべきは、霞亭が明年歸省せむとしてゐることである。餘命は既にいくばくもないことを知らずに、渠は望を明年に繋いでゐた。初鰹の事は開明史料として價値がある。
その八
歳寒堂遺稿の「病起郊外試歩」より「因病禁酒戲賦」に至る五首の詩は文政癸未三月中の作なることが、殆ど遺憾なきまでに、立證せられる。何故といふに、詩句に暮春の景物多きなどは姑く措き、下に擧ぐべき四月二日の書に五首中の第四「病中」の七律が録せられてゐるからである。その第五を録せなかつたのは、語のあまりに曠達なるがために、弟に視すことを憚つたものかと察せられる。
此五首の下には只二首の詩があるのみで遺稿の詩は盡きてしまふ。それゆゑわたくしは五首を悉く抄しても好い。しかし悉く抄して、そのうへに著語するといふと、あまりに多く筆墨を費すこととなる。そこで徑に著語する。
五首の第一、第二「病起郊外試歩」は七絶と五律とで、上の三月二十五日に「花時は少々宛外出、暖氣には心にまかせ試歩いたし候」と云つてある、その試歩の時に成つたものである。今第一の轉結に菜花畠を寫し出してある二句のみを鈔する。「揩拭病眸何物可。郊村十里菜花黄。」恐らくは王子あたりの景であらう。
第三はこれも試歩の日の獲ものであつて、偶然霞亭の友人二人の名を傳へてゐる。「感應寺看花、庭中有下田芳澤、本山仲庶碑、二子倶是二十年前相見於京師人也」と題する五律が即是である。感應寺は上野の感應寺であらう。しかし上野の寺には、下田、本山二氏の墓碑は存してゐない。霞亭は二十年前に此二人と京都で相見たと云ふ。霞亭の京都を去つた年を享和二年であつたとすれば、癸未より逆算して二十一年である。二人の事はわたくしは所見が無い。しかし「新碑皆舊識」の句があるより推せば、坏土未だ乾かなかつたこととおもはれる。
第四は霞亭が弟碧山に與ふる書に見えてゐるから、下に引く所に讓る。第五「因病禁酒、戲賦」はかうである。「天放先生如喪偶。看花對月忍空手。從玆姓字沒人言。令我有名元是酒。」
文政癸未四月に入つて、先づ霞亭が弟碧山に與へた四月二日の書がある。的矢尺牘の一である。「三月十五日御状、同廿八日相達、拜見仕候。愈御安靜被爲入恭賀候。當方皆々無事罷在候。乍憚御安意可被下候。○魚譜の事は先書に申入候。これも一學問に候間、ゆる/\御心掛可被成候。○貝の柱は江戸に而澤山ある、ばかといふものの柱に候。身は味あしく價やすきもの、柱は調法いたし、料理むきにも用ひ候。それらによりて、ばかのむきみなどいふにや。○春秋掛金跡に而心付候。あれにては不足に可有之候。後便被仰聞可被下候。○小學の代料先づ御預り置可被下候。夫にくしかうがい(櫛笄)の代など、いづれ此方より差上候分可有之候。後便御算用被仰聞可被下候。委細此間認置候書状に御座候。書餘期再信之時候。以上。四月二日。北條讓四郎。北條立敬樣。廿八日即事。蹉跎歳月棄人馳。一病悠悠任臥治。跡絶交遊如隔世。傷多恐懼不銜巵。飛花經眼春將晩。語燕妨眠晝更遲。擡枕欣然聊慰藉。家書陸續到茅茨。博粲。○白河侯松平越中守樣伊勢桑名へ。これは御先代桑名御城主也。桑名侯武州忍へ。阿部鐵丸樣、此方樣御同家也、忍侯白河へ。三月廿四日右御所替被仰付候よし。」
魚譜の事は碧山が問ひ、霞亭が先つて答へたものであらう。碧山は漁業地的矢に居る故、魚の名を知らむと欲したこととおもはれる。蛤丁は霞亭が故郷に送つて遣つたことが前に見えてゐる。碧山がこれを獲て問ふ所があつたものか。ばかがひ(Mactra,
Eulamellibranchia)の丁が其名を擅にしてゐることは、今も古に同じく、ばかがひの名の由つて來たる所も、必ずや霞亭の云ふが如くであらう。廿八日即事は歳寒堂遺稿の「病中」と題するものと全く同じである。わたくし共は乃ち此に由つて病中の七律が癸未三月二十八日に成つたことを知るのである。末に見えてゐる三月二十四日の交迭は徳川實記にかう書いてある。「廿四日。陸奧國白川城主松平越中守定永は、伊勢國桑名城へ、桑名城主松平下總守忠堯は、武藏國忍城へ、忍城主阿部鐵丸正權は、白川城へ遷移せしめらる。」霞亭が松平定永の桑名に轉封せられたることを記して、下に「これは御先代桑名御城主也」と注したのは、越中守定綱が寛永十二年美濃の大垣より桑名に徙り、攝津守定良を經て越中守定重に至つて、越後の高田に徙つたことを謂ふのである。其後因幡守定逵、越中守定輝、越中守定儀を經て、越中守定賢に至つて、陸奧の白川に徙つた。定賢の嗣が越中守定邦で、即ち樂翁定信の養父である。又霞亭は阿部正權の武藏の忍から白川に轉封せられたことを記して、下に「此方樣御同家也」と注した。此方樣は霞亭の主家備後福山の城主備中守正精である。正精の祖先伊豫守正勝は長子正次に宗家を襲がせた。第二子正吉は別に家を立て、正吉の子忠秋が忍の城主にせられた。正權は忠秋十世の孫である。正權の子孫は後に磐城の棚倉に徙つたので、此家を棚倉阿部家といふ。
四月七日に狩谷棭齋が霞亭に昆布を餽つた。事は濱野氏のわたくしに視した尺牘に見えてゐる。「菟角寒温難定候處、御不快如何被成御入候哉、承度奉存候。事に觸、御近邊迄參候儀も有之候へ共御面話御難儀奉察候間、態と拜謁差扣申候。自蘭軒承候へば、此節昆布御食用に宜候趣、依之國産手製仕候間、風味無覺束候へ共、奉獻之候。萬々其内拜顏可申上候。先は右申上度、草々頓首。四月七日。狩谷棭齋。北條讓四郎樣。貴答御口上にて可被仰候。」霞亭と棭齋との交は多く痕迹を留めてゐない。それゆゑ人は或は二人の間に交のあつたことをさへ疑ふであらう。此書はその絶て無くして僅に有る證左の一である。しかも二人の交は太だ疎ならぬこと、彼此の間に時々往來のあつたことなどが此に由つて推測せられる。一面に棭齋と藏書多き酌源堂主との親みがあつて、一面に又堂主と茶山の塾頭たる霞亭との親みのあることを思へば、二人の間に介居してゐる蘭軒が二人の相識る媒とならずに已まぬことは、殆ど自明の理、必然の數である。しかし若し此書の如きものが偶存してゐなかつたら、わたくし共は恐らくは塙に二人の交通の迹を認むることを得なかつたであらう。「貴答御口上にて可被仰候」は、霞亭をして謝状を作る煩を免れしめようとしたので、棭齋の病める霞亭に對する温存の工夫の至れるを見るべきである。昆布の事は下に引く霞亭の碧山に與へた五月の書を併せ考へて始て明かにすることが出來る。
その九
文政癸未五月は霞亭の事を徴すべき三通の書牘を遺留してゐる。霞亭の弟碧山に與へた細に病状を叙した書一通、山口凹巷の霞亭に與へた書一通、山口甚平の霞亭に與へた書一通が即是である。
兩山口の書は皆五月二十一日に作られた。霞亭の書の日づけは塗抹改竄の爲に讀み難くなつてゐるが、推するに初め淡墨を以て廿一日と書し、後に濃墨を以て「一日」の二字の上に「日」の一字を書したやうである。
今三書を抄出せむと欲するに臨んで、わたくしは孰れを先にし、孰れを後にすべきかを思つた。そして霞亭の書より始めようと決定した。それは最も長い霞亭の此書が、五月頃の霞亭の情況を知るに尤も便なるが故である。其情況はどんなものであるか。約して言へば、霞亭の病は著るく變じたとはおもはれない。しかし既に久しく病勢が一進一退してゐるので、霞亭の自ら憂ふることも漸く切になり、霞亭の親戚朋友もその久しきに亘るを見て漸くこれを重視するに至つたらしい。霞亭の一書も、兩山口の二書も齊しく此情況の下に書かれたものである。霞亭は己の病を憂へて數醫を易へ、既に良醫を獲たと信ずるに及んで、其言に從つて廣く治療攝養の方法を知人の間に求めた。此要求の一端は下の霞亭の書にも見えてゐるが、霞亭は是より先にも、既に人に向つて此の如き言をなすこと啻に一再のみでなかつたらしい。山口氏の書には其反響が見れてゐる。此より先づ霞亭の書を録する。
「四月兩度御出しの華柬各通披見、向暑愈御安泰御揃被成、珍重之至奉存候。當方皆々無事罷在候。乍憚御安意可被下候。○私病氣今少しとなりいかにも順快いたし不申、又々醫人をかへ、此度は藝洲惠美三白をむかへ候。(自註。先三白養子、年六十二歳。)この人見立には、元來脚氣にて、心下水氣充滿いたし候故、留飮とも癪ともみえ候へども、それは餘派也。脚氣の水氣を逐ねばならぬ處と申候。かの家の流には鹽物だちを嚴敷いたし、赤小豆計を喫し、少々宛大麥を食料とし、米をたち、長芋、くわゐ、(此三字不明)こんぶなどやうのもの計、鹽氣なく煮くらひ候。方は蘇子檳榔湯に加減有之、已に四十貼餘用ひ候處、大に效驗有之、全身水氣皆よくとれ、心下も追々ゆるみ、只今にては大方平常にもなり候。いづれ此後食用など第一と申事に候。鹽氣は其内少々宛用ひても不苦候由、酒魚品は一切不可然との事に候。赤小豆、大麥計、初はつらく候へども、此頃にてはなれ候て、隨分甘く喫申候。二椀半位宛たべ申候。此樣子なれば無程全復可仕候へども、先用心の爲、當年は已に半年病氣引込故、炎暑中は靜養可致奉存候。元來去冬より催し候痰に候を等閑にいたし候油斷も有之候。○最初、南部伯民(自註、周防の人、近頃出都、長門侯に仕ふ、下地懇意也、著述なども有之、名高き醫者也)に相談いたし、手合の藥用ひ、其後内田玄郁と申町醫(自註、これも懇意に而相應に行はれ候人)にみせ、屋敷醫者、小野玄關藥三十日程(用ひ)、やはり當屋敷、伊澤辭安(自註、格別懇意なる人也、學問も有之、醫學尤精苦いたし候、これは脚氣ならんかとも申居候)これへかかり候へども效見え不申、又々本郷町醫、横田某に少しの間かかり、其後惠美にみせ候。さすが名家だけたけ(長)候而、水氣の病には尚更高名に候。最初より是と存候へども、何にもせよ二里許も隔り、それに當表にても、諸侯以下爭迎、ただそれ故申遣し不申候處、不外儀と申され、早速みえ、療治いたしくれられ候。何分此水氣病脚氣などには鹽味たち候事第一と被存候。無左ては藥も水氣と鹽味に妨られ、少々の事は(森云、少量にてはの意か)きき不申と被存候。○尚又脚氣病後心得の事御氣付くわしく御書付被仰付可被下候。廣岡文臺が書き候隨筆に何歟脚氣の論少し有之候樣覺え候。御録出被遣可被下候。其外手近き醫書中に有之候儀共、一々被仰聞可被下奉頼候。○脚氣水氣浮腫は上部に有之候へども、下部にはなく候。先は乾脚氣に屬し候歟。衝心と申程の事は無候へども、水氣心下につき候事も、正二月頃は折節有之候。此度の痰に而、十五年來の留飮も次手にさばけ候樣にも被存候。右の通參候はば重疊に候。○麥の儀被仰下辱存候。此間外よりとりよせみ申候。極上擣に而百文に付一升四合にて差上可申と申候。それなれば此表にて求め可申、もはや御無用に候。○櫛の儀母樣御厚意難有奉存候へども、御宅にても金子出候儀故、是は御勘定可仕候。(森云、此より下勘定書の數字不明。)くしかうがい代金一兩三歩先金二兩一歩、金十六匁八分三厘講未秋掛金、計二兩二分餘、これへ御あつらへ小學料二部代二十六匁其内へ御入可被下候。外に金一兩二歩願上候。大方これにて相濟可申候。すこし過上にや。○首飾など近來奢靡(二字不明)一般の惡風俗に候。わけ而伊勢の山田など申處は、上にこはきもの無之處故に候。何國にても貧富の違に而、千金を芥にいたし候者も、また錢百文も持不申者も有之、不同の世也。貧人が富人をうらやむといふは愚者の常なれど、これほど分をしらぬ事はなき也。心正しく行かけねば千金の子も襤褸甕戸の人に恥候ものに候。(森云。「心正しく行缺けぬ藍縷甕戸の人には千金の子も恥候ものに候」の意か。)わけ而家法は婦女子を嚴敷制禁せねばならぬものに候。足下などよく/\御心得可被成候。○わり菜其後煮候事(處か)甚和らかに候。○魚譜今年中に仕上可申やとの事、箇樣に性急には何事もききだし候事は出來申間敷候。尤老人の儀故、待遠には候べく候へども、先二三年もかかり候御心掛可然候。其内あちらよりいそぎ參り候へば格別、いづれ諸方へ參り候册(此一字不明)もそのやうに急にはかへり申間敷候。先堯佐へ一應御答置可被成候。すべて著述にても何にても、急に仕立る事緩にする事と見計第一に候。心懸は敏に事は緩にする事と見計第一に候。已に茶山後集、去去年もはや板下にかかり候處、今に埒明不申位に候。きまり候事さへ菟角落成は手間とり候ものに候。就夫蒿溪が隨筆にてみ候。或君上の此手紙は急なる事申遣し候間、隨分靜かにかけと筆者に被仰候由、面白き事也。私性質火急の非を覺候。近來はいたくため直し候。とかく宿習出やすきものに候。先はいそがぬ事と被存候。○御大名の御所替などの儀、下のうわさにしれ候ものには無之候。公儀より被仰出候迄者、一向わかり不申もののよし。○母樣へ麤末なる小袖一差上申たく候。何ぞ御好被遊候樣、御序に被仰上可被下候。地は何、染色何、うら何、或は島(縞)にても、紋は何をつけ(可申哉)、右等被仰上可被下候。とてもよき物は差上候事出來申間敷候へども、この樣なるものがよきと思召候もの無御心置被仰聞可被下候。當冬あたり迄に被仰聞可被下候。○主人にも少々御中症のきみ被爲入、久敷御引込に候。去年も百日餘御引込有之候。此頃、是は極内々、御退役御願書御差出しの思召も有之候由、如何被仰出候や不可測候。御家中者一統殘念がり候事なれど、御大役御病身に而御勤、御壽命にさはり候より、乍恐御良計と、私共は奉存候。是は機密之事、口外被成間敷候。○私今度の病中、幸に新居物靜に而、南むき風吹いれよろしく、のみ、蚊、蠅少なく、引籠の儀故、懇意の外は一人不來、讀書詩文もいたし不申、當元日より公の事々は一日も勤不申、ゆるやかに養保いたし候儀、扨々難有君恩に候。終日無一事、腰折うたなどよみてまぎれ、水飴をなめ藥とし居るさま、ひまなる僧家にちかく候。此節ほととぎす鶯澤山音づれ、後園に笋生じ、家内喫し候外、私たべ不申、ちかく二三里の所ならば差上度などと此頃妻共申居候。おとらが此頃ちひさき笋にて花いけをこしらへ、草花をさして、御とと樣の御なぐさみにと持出候節の腰折、花さすとをさな子がきる竹の子のなほき誠をみてぞなぐさむ、すこしむづかしき歌に候。○私共の樣なる不調法なるものは、かせぎてまうけるなどと申事は出來不申候。夫に出來ても、いづれはやる樣になれば人にも出會せねばならず、外勤も多く、人も集め不申候ては叶ひ不申、病身物むづかしく、自分修業と御上並に御家中の稽古の外は皆々大方やめのつもりに候。節儉して、さむからず、びだるからずば足りぬといふありさまにて、其餘は天道まかせといたし候了簡に候。江戸は勢利の地故、外觀をかざる(此六字不可讀なる故、姑く填む)輩、醫者などは勿論の事、儒者畫家書家時めき候ものなど、皆々權門勢家をつとめまわり、榮利を計るがなべての風に候。うるさきありさまに候。○立原翠軒死去、葛西健藏死去、寐ぼけ先生死去、老人たち皆なくなり候て、鵬齋一人になり候。これも久敷中風、此頃私方之弟子を見舞に遣承り候處ます/\不遂、只右手に而物書て、二便抱きかかへのさまの由、氣はまめにて、酒も四五杯宛は被參候よし。近年は格別高名になり、書などのもとめ多く、金子など多くとれ候由、夫にてもやはりたり不申候由。先月兩國萬八樓とやらにて、門人などの一統申合に而、七十の賀の書畫會いたし候由。(自註。七十二延引。)其日來集八九百人にも餘り候由。富豪の弟子など多金いだし候者も有之、三百金程内入有之候處、下地の物入、饗應、借財などにて、わづか五十金計になり候由。其節の事に、市川團十郎使を以て御祝儀申上候。まんぢうせい籠三十荷先生に奉ると大くかき、これをよく人のみる處へ御張被下候へと申參り候處、弟子先生に如何取計可申やと申候處、其使に返詞に、よくぞいはひ被下、辱、團十郎へよろしく、せいろうはつみ可申候、これは少しながら御祝儀なりと、金五兩つゝみ、使の者へ遣し、其書付はやぶりしまひ候由、例の儒侠、始終この樣なる事にも費多き事とみえ候。教にはなり不申候へども、一奇人に候。近年池田に而鵬といふ銘の酒をこしらへ、自分もそれをとりよせのみ候。何分病人ながら今暫は生したきものに候。悴三藏は町住家に而、久世長門守樣御儒者に、十五人扶持に而近頃有付候。町弟子なども段々有之、相應にいたし候。もはや四十六七にも相成可申候。○ふと存付候。扨何事につけ、私は他人には大槩の事はいはぬ流義なれど、骨肉兄弟へは少しにても氣の付候事は一々申す性質に候。申候とて、一々それがよきには無之候。如何敷事なれば何によらず、さ有まじきと被仰可被下候。手前の事は手前にてはしれかね候もの也。是は朋友中にも入懇の人には頼置申事なれど、扨その樣之忠告する人の少なきものに候。足下など、これは如何の事や、いふもあしきやと思ふ事も、兄弟などへは隨分いふてみるがよし、用ひられぬ事なれば、それきりといたし候迄の事也。是は平生の御心懸に申上候。時節大暑に向ひ候。二尊樣始、御家内一統、御食物御用心御保養專一に奉存候。餘期再信候以上。五月廿日。讓四郎。立敬樣。」
此書には註すべき事が頗多い。その書中に見えた序次に從つて左にこれを略叙する。
その十
霞亭が文政癸未五月に弟碧山に與へた書には、最初に治を託する醫師を替へたことが言つてある。醫師は安藝の惠美三白で、これに「先三白養子、年六十二歳」と註してある。惠美氏は伊豫國より出でて安藝國廣島に移り住んだ醫家で、その三白と稱することは寧固惠美貞榮に始まる。堤氏に生れて惠美氏に養はれた人である。寧固は天明六年十月八日に七十五歳で歿した。二世三白は大笑惠美貞璋である。本長尾氏で、寧固に養はれて家を嗣いだ。是が霞亭の謂ふ「先三白」で、先だつこと三年、文政三年六月八日に江戸で歿した。霞亭を療した三白は三世三白で、名は貞秀、玄覽と號した。實は初代三白の子で惠美三圭と稱してゐたのを、二代三白が取つて繼嗣としたのである。寶暦十二年の生で文政六年癸未には、霞亭自註の如く「年六十二歳」になつてゐた。
玄覽は霞亭の病を脚氣と診斷した。其徴候は詳でないが、病人の自ら云ふを聞くに、十五年前より留飮があつた。酒を好む人の慢性の胃病である。さて今度の病になつてからは、霞亭は主に痰喘に惱された。そのうち上半身に浮腫が來たらしい。是は此書に於て始て明に記されてゐる。その「水氣心下につき候事」もあるといふのは、上半身に浮腫が來ると同時に、或るときは胸より心窩にかけて苦悶を覺えたものであらう。しかし下半身には浮腫が無い、自ら「乾脚氣に屬し候歟」と云ふ所以である。そして下肢の知覺異常、所謂しびれに至つては、霞亭は未だ曾てこれを説いたことがない。霞亭の病の徴候として記されてゐるものは、唯是のみである。
此事實は後より推して霞亭の病の脚氣なりしや否を決するに足るものでないことは言を須たない。さて初より霞亭を診した南部、内田、小野、伊澤、横田の五人は、脚氣とは看做さなかつた。中に就て伊澤は「脚氣ならむかとも申居候」と云つてあるが、是とても診察上彼か此かと、とつおいつ考へた間に、或は脚氣ならむも測られぬと云つたことがあるに過ぎぬであらう。然るに惠美一人が脚氣と確言した。惠美三白貞秀は「名家」であつて、「わけて水氣の病には尚更高名」であつたから、霞亭が信じて一身を此人に託したのも當然の事であつただらう。又惠美の診斷は眞に中つてゐたかも知れない。
しかし傳はつてゐる所の事實は、既往症として慢性の胃病があり、そこへ慢性の氣管枝病が起つて來て、終に上半身に浮腫を見るに至つたと云ふに過ぎない。されば單に疾醫たるのみでなく、學醫と稱するに足る伊澤蘭軒も、又多少書を讀んでゐた南部伯民も脚氣と斷ずることを敢てしなかつたのは是亦怪むに足らない。且霞亭自身は脚腫がない爲に、「先は乾脚氣に屬し候歟」と云つてゐるが、所謂乾脚氣の主なる徴候たる神經系の障礙は毫も記載せられてゐない。
わたくしは上に霞亭の病は萎縮腎ではなからうかと言ふ疑問を提起したが、説いて此に至つても、此疑問を撤囘する必要を見ない。霞亭が常に痰喘痰喘と云ふのみで、何の苦惱をも訴へぬのも、上の神經系諸徴の記載が闕けてゐる事實以外に、わたくしをして前の提案を維持せしむる一の理由となつてゐる。わたくしは下に霞亭の終焉を記するに至つて、再び此問題を囘顧するであらう。
惠美は霞亭の病の脚氣なることを斷定して、脚氣を治する法を勵行した。米を絶つて、大麥、赤小豆を食せしめた。是は今も行はれてゐる療法である。しかし惠美の法の主とする所は此に存せずして鹽を絶つに在つた。其可否は此に論ずべきではないが、蔬食者をして久しく那篤留謨を遏絶せしむるのは、頗る峻烈な處置だと謂はなくてはならない。わたくしはこれに耐へた霞亭の意志を尊重する。
霞亭は脚氣を病むものの養生方を録送せむことを碧山に求めた。特に見むと欲したのは舊師廣岡文臺の隨筆中なる脚氣の條である。此隨筆は今傳はつてゐぬやうである。恐らくは刊本ではなからう。
當時の江戸の大麥の價「百文に付一升四合」は、これを白米の市價に較べて見るに、稍貴きに過ぐるやうである。「極上擣」なるが故か。
櫛笄の價等の一條は艸體の讀み難いのを強ひて讀んだ。それゆゑ錯誤なきことを保し難い。しかし權に金一兩銀六十三匁四分の相場として算し、其乘除の迹を討ぬるに、意義概ね通ずるものの如くである。
霞亭は女子首飾の奢侈を語つて、貧富の懸隔に及んでゐる。伊勢國山田が當時特殊の状態をなしてゐて、地方行政の制裁を受くること少く、奢靡の風が盛であつたと云ふは、げにさもあるべき事である。「何國にても貧富の違に而、千金を芥にいたし候者も、また錢百文も持不申ものも有之、不同の世也。貧人が富人をうらやむといふは愚者の常なれど、これほど分をしらぬ事はなき也。皆人に命祿といふもの有之候。」今の社會主義乃至共産主義を駁するものとなして讀まむも亦可なりである。霞亭をして言はしむれば、社會主義の國家若くは中央機關は愚者の政を爲す處である。
的矢から霞亭の許にわり菜が來た。霞亭は一たびこれを硬しと謂ひ、此書を作るに及んで、「其後煮候事(處)甚和らかに候」と云つてゐる。わたくしはわり菜の何物なるかを知らぬので、竹柏園主を介して、これを志摩國鳥羽の人門野錬八郎さんに質した。其答はかうである。「わり菜は菜にあらず。芋苗を日にほしたるものをいへり。かたまりたるを一夜水につけて煮、又三杯酢にして食ふに、蕨又薇などに似たる味あり。」これでわり菜の義は渙釋した。
魚譜の事は上にも見えてゐた。しかしわたくしが碧山を以て魚譜を得んと欲するものとなしたのは誤であつた。此書を讀んだ後に再び按ずるに、事は菅茶山が魚譜の資料を諸方に求めたのに起つたらしい。的矢の北條氏は門田朴齋の手から此資料を徴せられて、これを江戸にある霞亭に諮つた。霞亭はこれがために力を致すことを辭せない。唯年を踰えずして資料を集め畢らむことを要請する茶山の性急に過ぐるをおもふのである。かくては獨り的矢の資料が全きことを得ぬばかりでなく、諸方の資料も亦遺漏多きことを免れぬであらうと云ふのである。
霞亭は事の急にすべからざることを證せむがために、茶山集の顛末を引いてゐる。「已に茶山後集去去年もはや板下にかかり候處、今に埒明不申位に候。」茶山後集とは黄葉夕陽村舍詩後編である。去去年は文政四年辛巳である。刊本を檢するに、其前年庚辰に登登庵武元質の弟恒の評が成つて、辛巳の十二月に霞亭の序が成つた。剞劂も辛巳を以て著手せられたことと見える。書の首尾に「文政癸夫鐫」又「文政六年歳次癸未冬十一月刻成」と書するを見れば、霞亭の此柬を作つた時は刻が未だ成らず、此年の暮に薄つて、霞亭の歿後に纔に成つたのである。
霞亭は又事の急にすべからざるを證せむがために伴蒿蹊の隨筆を引いた。「或君上の此手紙は急なる事申遣し候間、隨分靜かにかけと筆者に被仰候由、面白き事也。」此事は閑田耕筆、閑田次筆、近世畸人傳、同續編、門田の早苗等には見えぬやうである。徳川時代の諸侯の事蹟に精しい人の教を受けたい。
書中に主人退役の願書云云の事がある。阿部正精が老中の職を辭せむとしてゐるのである。正精は霞亭の歿後に至つて十月十一日に老中を免ぜられた。徳川實記文政六年十月十一日の下に、「十一日宿老阿部備中守病により職とかん事、かさねて請ひ申すにより、免されて雁の間席命ぜらるると、一族井上河内守めして傳へらる」と書してある。井上河内守正春は陸奧國棚倉の城主で、當時虎門内の邸に居り、やはり雁の間詰を勤めてゐた。その「一族」といふ所以は、正春が正精の女壻であるからである。
その十一
文政癸未五月の霞亭の書には猶注すべき事がある。霞亭は龜田鵬齋の壽筵の事を言はむと欲して先づ癸未の年に入つてより以還歿した知名の士を數へた。「立原翠軒死去、葛西健藏死去、寐ぼけ先生死去、老人たち皆なくなり候。」翠軒立原萬の歿したのは癸未の三月十四日で、名人忌辰録の十八日は誤である。因是葛西質の歿したのは同年四月六日である。狂詩に寐惚先生と云ひ、狂歌に四方赤良と云つた南畝大田覃は偶因是と同じく四月六日に歿したのである。霞亭の書が五月二十日に成つたとすれば、書は翠軒死後六十五日、因是と南畝との死後四十三日に、新なる記念の下に艸せられたのである。
鵬齋の宴は七十を賀せむがために、四月に兩國萬八樓に開かれた。鵬齋は寶暦二年の生れなるが故に、其七十は前前年、文政四年である。霞亭の「實は七十二、延引」と注した所以である。此段の末に「悴三藏は町住家に而、久世長門守樣御儒者に、十五人扶持に而近頃有付候」と、云つてある。三藏は鵬齋の養嗣子綾瀬梓である。これに儒官を命じた久世長門守は、名は廣運、下總國關宿の城主で五萬八千石を領し、雁の間詰を勤め、其邸は常盤橋内にあつた。霞亭は綾瀬の年齒を「もはや四十六七にも相成可申候」と云つてゐるが、綾瀬は安永七年の生れで、文政癸未には四十六歳になつてゐた。
山口凹巷の霞亭に與へた五月二十一日の書は濱野氏の眎す所で、其文はかうである。「急便一筆呈上、時節炎暑、御渾家御安寧奉欣祝候。當方無恙、御省慮被下度候。誠に、甚平へ本月朔之御書中兎角御所勞之趣、不勝耿々候。折節於別家右御書拜見之夜、文亮被參合候に付御病症等も試に相質し候處、甚平より御覽に入候醫按申越候。宜鋪御考奉希候。醫事は小生等倀々、如何可然哉可申上儀も無之候得共、文亮被申候に付御脚氣にも無之候哉と覺候。乍併此御症千里懸隔之儀に候へば、必確難期(此一字不明)候なりに、隨分輕症に候間御攝養次第御快然可有之と文亮被申候故、先少しは安心仕候。また小生存出し候には、此節御所勞之儀、若御歸養御願出も有之候はば、御家内樣等も御携候而、秋凉頃に一先御歸御座候事は不相成候哉。何分にも人生平安に無之候而は不相樂候樣奉存候。率爾之至に候得共、御一計奉希候。乍去追日炎熱に赴候間、蹔は何分にも御養生可被下候。今夕甚平より書状差出し候趣承申候間、燈下に而心事を申上候而已。宜鋪御推恕被下度候。縷々は期再便候。恐惶頓首。五月廿一日。韓玨拜。霞亭兄侍座。尚々先便杢殿東下呈一書候。相達し可申奉存候。甚平方一統無事候間、是又御安意可被下候。杢殿にも無程御還裝候はば、御近状も委敷可承と企望居申候、不宣。外封。北條讓四郎樣文梧。山口長次郎。」
是は霞亭の病が久しきを經るために、知友の間に種々に評議せられた一端を見るべき書である。書を作つた山口凹巷は世に謂ふ韓聯玉で、其簡牘の今に存するものは甚だ少い。わたくしは霞亭傳の稿を起すに當つて、書牘の重要ならざるものは節録して、文のあまりに長きを致さざるべきを約した。しかし漸く主人公の末路に迫るに從つて、資料を愛惜する念を生じ、遂に全文を録するものの多きに至つた。讀者がわたくしの徒に筆墨を費すを讓めようとも、わたくしには言ひ解くべき辭がない。惟此書の如きは全録せざることを得ぬものである。わたくしは此の如くに思惟して、終に外封の文字をさへ寫し出した。本文の自署は氏を修して韓とし、名を玨と書してある。外封には氏を山口とし、長次郎と稱してゐる。
長次郎の凹巷の小字なることは東夢亭撰の墓表に云ふ如くである。然るに癸未五十二歳にして又長次郎と署してゐる。是は文化十三年丙子に致仕した時、小字に復つたのである。然らば人となつてから丙子四十五歳まで何と稱したかと云ふに、角太夫と稱してゐた。わたくしが前に角太夫と書いたのを見て、書を寄せて、凹巷は終始長次郎と稱したと教へた人があるが、それは不穿鑿の謬である。此人は墓表の「小字長二郎」とある「小字」を通稱の義と見たかも知れぬが、是は夢亭が少時の字の義に填用したのである。
凹巷の國牘文は頗る常に異なつてゐる。耿々と云ひ倀々と云ふ類は、他人の容易に下さざる字面である。これを讀めば錬字の工夫上に一種の癖のある韓聯玉の詩が想ひ起される。
此書に據るに、凹巷と同じく、霞亭と往復してゐる山口甚平は凹巷の別家である。又書に文亮とあるは青山文亮で、東氏に養はれて東夢亭と云ふ。凹巷は別家に往つて霞亭が甚平に與へた書を見た。そこへ夢亭が來合せたので、霞亭の病の事を質した。夢亭は醫按を作つて凹巷に遣つた。凹巷はそれを此書と倶に霞亭に寄せたものと見える。
夢亭の醫按の傳はらぬのは、惜むべき事である。何故といふに、霞亭の病は後より推究して、何の症とも定め難いものである。それがために醫按を作つた夢亭は學醫としても識見のあつた人である。そして凹巷が霞亭を兄弟の如くに視る密友であつたに反して、夢亭は霞亭を冷靜な眼を以て客觀的に看てゐたことが、鉏雨亭隨筆に霞亭の文を評した一節に由つても推せられる。わたくしは夢亭の醫按を以て公平なる觀察より得來つた判斷だとして、多少これに重きを置く、惜むべしとなす所以である。
わたくしは初め凹巷の此書を見てかう思つた。凹巷の別家をおとづれた夜讀んだ霞亭の書には、霞亭が己れの病を脚氣なりとする塙信が見えてゐたであらう。さて凹巷は醫按を求めて見た。夢亭は霞亭の病を脚氣とは見てゐなかつた。そこで凹巷はこれを霞亭に轉致するに當つて、故らに其辭を婉曲にした。「醫事は小生等倀々、如何可然哉可申上儀も無之候得共、文亮被申候に付、御脚氣にも無之候哉と覺候。」譯して云へば「醫學の事には私共は方角が立たない、どうなさるが好いと申し上げる意見もありませぬが、文亮の云ふのを聞けば、御病氣は脚氣でもないやうに思はれます」となる。夢亭が霞亭の病は脚氣でないと云ひ、凹巷も亦これを聞いて脚氣と云ふ診斷に疑を挾んだ。さて凹巷は書中に霞亭に的矢へ歸らむことを勸めてゐる。是は或は脚氣として治療してゐる江戸の醫者の手より霞亭を奪ひ返して、脚氣にあらずと視る夢亭の如き醫者の手に委ねようとしたものであつたかも知れない。しかし若し霞亭の病が萎縮腎であつたとすると、是も亦恃むに足らぬ事であつただらう。かうわたくしは思つたのである。
しかしわたくしが凹巷の文を是の如く解したのは錯つてゐたらしい。わたくしは後に山口甚平の霞亭に與へた書を讀んで、夢亭が霞亭の病を以て脚氣となしてゐたことを知つた。甚平が夢亭の醫按を錯り讀んでをらぬ限は、錯讀の失はわたくしの上に歸せざることを得ない。
此に至つて考へて見れば、凹巷が「文亮被申候に付、御脚氣にも無之候哉と覺候」と書したのは、「御脚氣には無之候哉と覺候」と云ふに同じく、譯すれば「脚氣ではないかと、思はれます」となるのであつただらう。下の甚平の書を併せ考ふべきである。
書中に又杢の名がある。是は恐らくは河崎敬軒の子誠宇松であらう。果して然らば誠宇は癸未の夏江戸に來てゐただらう。そして凹巷はその伊勢に還るを竢つて霞亭の病状を聞かうとおもつてゐたのである。
その十二
文政癸未五月二十一日に山口甚平が霞亭に與へた書は、恐らくは凹巷の書と同封せられてゐたであらう。そして東夢亭の醫按が霞亭の病を以て脚氣となしたことは、此甚平の書にあまりに明白に書かれてゐて、殆ど疑を挾むべき餘地を留めない。「五月朔尊翰昨日相達辱拜見仕候。時下暑氣相催候處、愈御渾家樣御揃御萬福不勝欣幸候。當方皆々無故障罷在候、乍恐御安意奉希上候。然者御病氣已に御復常と奉存候處、于今御勝れ不被遊候よし、甚案じ居申候。御申越被下候御病症早速文亮子へ相尋しばらくして接對候處、御申越之趣に而者脾胃虚にては有之間敷、脚氣緩症と被存候樣被申候。其明日此尺牘被贈萬一之利益にも相成候哉、早々此樣子可申上樣申來り候。御油斷は無御坐候かなれども、何卒都下之名醫へ御見せ被遊候樣呉々奉希上候。文亮子文之中へ加へ候醫人など如何御坐候哉、今にては都下第一之醫と申事に御坐候。何分御病不長中御養生專一奉希上候。只今勢南之醫いづれも可然人は無御座、先文亮君などを除候而者外に者無之樣承り候。尚又御病氣樣子後便委曲御しらせ可被下奉希上候。郷里皆々無恙御揃被遊候、必々御案じ被下間敷奉希上候。御姉上樣定而御心配奉察候、おとらも追々成長と奉存候。乍恐可然御致聲奉希上候。右申上度、餘奉期再信候。恐惶謹言。五月二十一日。山口甚平拜具。北條霞亭先生侍坐下。亂筆御高免奉希上候以上。尚々拙妻よりも可然御見舞可申上樣呉々申附候也。」此書には霞亭の病の事より見て特に註すべきものはない。しかし霞亭の妻を「御姉上樣」と呼ぶのは何故であらうか。霞亭の季の弟敬助は、名を惟寧と云つたが、山口凹巷に養はれて名を沖字を澹人と更めたと云ふことである。或は思ふに山口氏の所謂養子は宗家を襲がしめむがための子ではなくて、別家の主人たらしめたものではなからうか。甚平は敬助が改稱したものではなからうか。凹巷の書に一言の敬助が上に及ぶものゝないのも、わたくしの推測をして葢然性を増さしむるに足るではないか。
癸未五月に霞亭の受けた書牘の三通は此に終つた。然るに尚追加すべき一書がある。それは前三書に後るゝこと約十日に、岡本花亭が霞亭に與へた書で、濱野氏の視す所である。即ち江戸市中の往復である。「先日は御手教、此節惠美藥御相應御快方のよし目出度奉存候。扨々御長病御退窟可被成、とくに御快しと存候に、やう/\御家内御あるき位に至候よし、御病候も色々轉變いたし候にや、此せつは脚氣御患被成候由、河崎氏被申聞候。左樣に候や。脚氣は惠美得手と承候へば御屬し被成候而御尤と被存候。私も當春以來大病人うち續、魔事多く、妻はやう/\死を免れ候而、此せつは大方快復、女壻は下世いたし候。かかる事共にて、大に御無音、詩なども元日に少々有之候ままにて、其後筆硯棄擲至今日候。この程少し心にひまも出來、頻に御なつかしく存續候。近日中凉しき日御見廻旁可罷出候。御病中御著作は如何。鵬齋先生染筆奉謝候。聯玉致聲辱存候。此方無音而已に打過候。御序に宜しく奉憑候。碑文御存寄も少々被仰遣候よし、私も一見、みだりに難容喙候へども、卒の字如何くるしからずや。四品以下の人には用不申方宜やと、私などは心得罷在候。其外少し心付候處も有之、其中拜話可仕候。古賀一封、先頃被頼候へども、其砌は大混雜の中にて無人、旁大に延引仕候。御落手可被下候。茶山先生瘟疫、一時は危きほどの御やうす、此節は御快復と承り、安心仕候。さばかりの御病患も治候は、畢堯御高年ながら強き處おはし候故之事とたのもしく、悦申候。春以來一度も状出不申、あまりの御無音、近日呈書可致、御序のせつ何分宜奉願候。頓首。五月二十九日。成拜啓。霞亭詞壇。」
花亭が霞亭の病氣の脚氣だといふこと、其治療を屬せられた醫者の惠美三白だといふことを聞知した時の書牘である。わたくしは語調の間に花亭のあまり三白に心折してをらぬらしい意を聞き出すやうにおもふがいかがであらう。當時の醫家より觀れば、專門分科の人に大いに敬重すべき人は少かつた筈である。しかし花亭は三白の水腫を治する技倆を全く認めなかつたのではない。「御屬し被成候而御尤と被存候」と云ふのは、脚氣ならばこれを治することに長じてゐる惠美の迎へられたのも怪むには足らないと云ふ意であらう。花亭は此霞亭の近状を「河崎氏」に聞いた。即ち誠宇木工である。
わたくしは未だ花亭の詳傳を知らない。それ故、癸未の春夏に花亭の妻と女壻とが大病に嬰つてゐて妻は僅に死を免れ、女壻は終に歿したことを、此書によつて知りながら、これに注解を加ふることを得ない。聞くが如くば、花亭は當時幕府の譴を受けて小普請入の身となつてゐた。明和五年の生で癸未五十六歳である。その幕府に大用せられて世に出たのは、此より十三年の後天保八年七十歳の時である。されば此時に見えてゐる厄難は皆失意の花亭が上に加はつたのである。
鵬齋の書は花亭が霞亭の紹介に由つて乞ひ得たものであらう。凹巷は霞亭に書を寄する次に、花亭に致聲したのである。墓誌銘の事は審にし難いが、撰者は同時に霞亭と花亭とに閲を請うたものとおもはれる。
茶山の病は病中雜詩の五律五首中に「臥病春過半」「昏々渉數旬」等の句があり、田能村竹田(君彝)に酬いる七律一首中に「伏枕春來未渉園」の句があるより推すに、初春仲春の頃であつた。花亭の此書は忽ち「瘟疫」の二字を點出してゐる。然れば茶山の病は膓窒扶斯などの類であつたか。茶山集には下に暮春登山寺の五律一首があるが、下に引く霞亭の六月朔の書に徴するに、茶山の全く囘復したのはこれより晩いやうである。彼五律は課題の作ではなからうか。
癸未六月に入つた頃には、霞亭の病はあまり險惡ではなかつたらしい。わたくしは六月朔に作つた尺牘三通が存じてゐるから此の如くに云ふのである。わたくしは下に此三通を連載しようとおもふ。
その十三
文政癸未六月朔に霞亭の作つた三通の尺牘の中、わたくしは此に先づその弟碧山に與へた二通を録する。「五月十五日御書状相達、先以暑蒸(の節なるに)御平安奉賀候。私儀日々快く候。御放意可被下候。御作愚評(を加へ)返納仕候。ふと存附候間、如在は有之間敷候へども、甚平方へ御郷里より、御用事の人は格別、親族といふて人のゆく事御用捨可然候。兄弟などは格別の事也。何にもせよ、親族といふていけば、あちらにても麤末も相成申間敷、多事込(困)り可申候。これは私も近年備後にて時々迷惑致し候事有之故に候。此間は又々御前より私病氣御尋被仰出候とて、御納戸より御肴、あわび、きすご、ひらめ、古索麪など頂戴被仰附候。難有奉存候。乍序御風聽可被下候。一昨日(五月二十八日)備後よりも信有之、菅翁も全く復し候由、こまやかなる書状參り候。鵬齋も、とてもいけぬ疾に候へば、自分には醫師には一向かけぬよし、かの妻並三藏などむりにすゝめ、惠美三白むかへるつもりになり候由、私方へ昨日(五月二十九日)申參り候間申遣置候。三白も主人家の姫君の上杉樣や、加賀の御別家出雲樣へ(被)爲入候と、自分の主人の奧方などの御用(此一字不明ゆゑ姑く填む)に而外療治さつぱりやめ居候由に候。先達而御頼申上候いりこは私養生喫にいたし候也。可成はいらたかの高きがよろしく候。是は飛脚は御無用のこと、何ぞ物のついで(に)、船便に御頼申上候。いそぎは不申候。暑蒸切角御用心可被成候。匇々頓首。六月朔日。讓四郎。立敬樣。」これが第一の書である。
「先状相認置候處、河崎杢被參、山田書状等相達、御郷里之御左右も承知仕候處、御平安之由、珍重奉存候。爾來諸般相替候儀も無之、賤症も段々順適いたし候。併藥用保養はいたし候。藥はやはり惠美に候。此節越婢加附子に蘇子五味など加へ候方に候。惠美も此節藝州御上御産、藝州より上杉候へ(被)爲入候姫君御産などにて、足どめいたされ、外治療大方謝絶之由。殿樣先書御噂申候通、十八日御退役願書被差出候處、其翌日直に御差留被仰出候。長く保養可仕候旨との事に候。先難有事に候。御家中も御首尾旁一統悦候事に候。御前御心中、且は御病氣の事なれば、此後いかゞ相成や、はかられはいたさず候へども此上とも、御全快御出勤長く有之候はば、福山臣民は申に不及、天下一統之大慶に候。書外は先書申上置候。追々暑蒸、切角御自愛奉祈候。御家内中樣、御食物中暑の御用心專一に候。夏のあひだ大方讀書其外客人應對などは省略いたし候が養生かと被存候。餘期再信候。匇々頓首。六月朔日。北條讓四郎。北條立敬樣。」これが第二の書である。
此二書は前後二度に書かれて同時に發送せられたものである。文中で尤も註釋に待つことある處は惠美三白を拘束して技を外間に售らしめなかつた諸侯の夫人達である。第一に「藝州御上」の産と云ひ「自分の主人の奧方」の産と云ふは安藝國廣島の城主松平安藝守齊賢の夫人である。第二に「加賀の御別家出雲樣へ(被)爲入候」奧方と云ふは越中國富山の城主松平出雲守利保の夫人で、松平齊賢の女である。第三に「藝州より上杉候へ(被)爲入候姫君」又「主人家の姫君の上杉樣」の産と云ふは出羽國米澤の城主上杉彈正大弼齊定の夫人で、これも亦齊賢の女である。要するに皆淺野松平と其女壻との家の事である。
此外文中には自明の事が多い。唯霞亭は藥食のために故郷に沙噀をあつらへて、「いらたかの高き」ものを擇ばしめた。いらたかとは沙噀の疣であらうか。創聞に屬するが故に注する。
霞亭の六月朔に作つた第三の書は菅茶山にあてたものである。弟に與へた二書は的矢書牘中の一であるが、茶山に呈する此書は濱野氏の視す所である。わたくしは數行を抄してこれを返した。「五月朔惠美三白見舞被下(中略)水氣段々とれ、心下の痞も追々退き候。乍憚御安意可被下候。(中略)昨日は肩輿にて霞關へ參候。格別動氣も無之、先をり合申候。(中略)お敬、おとら皆々無事罷在候。(中略)御上にも先(月)十八日御病氣之爲御退役御免御願被遊候處、翌日早速御差留心長く養生可仕旨被仰出候由、御家中一統恭悦仕候。段々御快氣之由に承候。私病中兩度御尋被仰出、内々御肴、索麪等被下置候。難有仕合奉存候。」末には「六月朔、北條讓四郎、茶山先生函丈」と書してあつた。
此書に據つて、わたくしは霞亭が癸未五月二十九日に駒籠西片町の所謂嚢里の家から駕籠で霞關の阿部家本邸へ往つたことを知つた。久病の霞亭が當時小康を得てゐた確證である。
此後未だ幾ならざるに、霞亭の二弟立敬、良助は突然江戸に來て伯兄の病牀の前に拜伏した。立敬は霞亭に代つて北條氏の嗣子となつた碧山惟長、良助は谷岡氏を冒した其次の弟である。現存してゐた伯仲叔季が、山口氏を冒した季弟沖を除くの外、皆會合したのである。
立敬良助はいつ的矢を發したか、いつ江戸に著いたか、詳にすることが出來ない。唯わたくしの知ることを得た所は、六月十六日に二人既に江戸にゐたこと、その江戸を發したのが十九日か二十日頃であつたこと、此二つの事のみである。
これを證するものは「六月十六日高城(二字不明)羣右衞門、北條讓四郎樣、貴酬」と書した一通の書牘で、濱野氏の視す所である。羣右衞門の筆迹は極て讀み難い俗書で、其氏をだに確には知り難い。わたくしは且く高城と讀んだ。しかし高の字は又馬とも看ることが出來る。城の字も土に從ふや否やが不明である。是は奈何ともすることが出來ない。此書に下の句がある。「御令弟樣御出府之處、十九廿日頃御歸郷に付、箱根手形之義被仰下、承知仕候。相認させ候而、其以前差上可申候。何の御心配も無御座候。」羣右衞門は十六日に霞亭の書に答へた。霞亭は十六日若くは其前日頃に、我家に見まひに來てゐる二弟のために封傳を乞うた。羣右衞門はこれを諾したのである。二弟の江戸を發すべき日が十九日若くは二十日であることも、此書に見えてゐる。
推定の最も難いのは、二弟が此より先何日に江戸に來たかといふ一事である。しかし歳寒堂遺稿の詩集の末に、「立敬良助二弟來訪病、臨歸賦贈」の五古があつて、其中に「相見數晨夕、明朝將却囘」の句がある。二弟が果して豫定の如くに辭し去つたとすると、此詩の成つたのは十八日若くは十九日でなくてはならない。そして二弟が歸途に就く日を變更したらしい形迹は一も存してゐない。さて「相見數晨夕」の五字を見れば、二弟は久しくは留まらなかつた。或はおもふに霞亭は二弟の來た直後に書を羣右衞門に與へたかも知れない。若し然らば二弟は僅に十五若くは十六日より十八若くは十九日に至る三日乃至五日の逗留をなしたに過ぎぬかも知れない。
此に附記すべきは的矢書牘中山口凹巷が霞亭の父北條適齋に與ふる書で、是は二弟入府の月日を考ふる上に於て、旁證に充つべきものである。二弟が已に的矢を去つた後、河崎誠宇は江戸より伊勢に歸つて、霞亭の病の小康を得てゐる樣子を齎した。凹巷はこれを適齋に報じたのである。「誠に先達而江戸表御令息(此一字不明)君御不快之趣、甚以御案じ申上、別而立敬御兄弟御東下、暑中御勞煩奉察候御事に御座候處、此頃先河崎良佐(敬軒)令息杢(誠宇)と申仁用向有之東行に而、於江戸表兩度迄丸山御屋敷へ被致參敲、追々御快然御座候樣、今朝(六月十五日)杢殿來訪承之安心仕候。幸今日御出入之仁立寄被呉候便宜此段申上候。乍憚御一統御悦可被下候。委曲は甚平よりも書中に可申上、御承知御安堵奉希候。(中略)立敬御昆弟にも無程御還裝有之、目出度可得拜陳と欣想罷在候間、必々御案じ被成間鋪候。」末には「六月十五日。山口長次郎。北條道有樣侍史」と書してある。此に由つて觀れば誠宇が凹巷を伊勢に訪うた日は六月十五日、或は二弟が霞亭を江戸に訪うた日と同じかつたかも知れない。縱ひ然らずとも、此日に二弟は既に霞亭の家にあつたであらう。
その十四
碧山と谷岡良助との仲叔二弟が、文政癸未六月の中頃伯兄霞亭を江戸に訪うた前後の事情は推測し難くはない。しかし上に引いた霞亭の五古はこれを叙すること太だ周密であるから、此に其要を抄する。「一病渉春夏。醫藥無寸效。微命不足惜。先親實不孝。憂慮來百端。孤影伴妻孥。天涯親交少。向誰訴區々。毎欲脩家書。展紙屡停筆。不告類不情。告則勞遠恤。遂書其梗概。因弟知小異。豈意傳説者。紛々不一二。二弟經千里。故來忽對牀。驚喜疑夢寐。各眼熱涙滂。乃言煩百聞。不如一見審。朅來察安否。令親安衾枕。可歎不愼咎。罹痾致其憂。幸且有天助。以得就微瘳。」(説文、朅去也、丘竭切。)叙筆は復注脚を須たない。霞亭は己の病の日ならずして治すべきを信じ、二弟に速に歸らむことを勸めた。「留汝不知厭。定省奈闕人。違意促歸去。吾志苦而勤。」
二弟の江戸を去つた日が六月十八日若くは十九日であつた筈だとは上に云つた。さて故郷に著いたのは七月の初である。その的矢の家に還つたのが何日であつたかは記載を闕いてゐるが、二弟は七月三日に伊勢の山田に著いて、そこから霞亭に書を發した。此事は下に引くべき霞亭の書に見えてゐる。
霞亭が二弟の山田より發した書を得たのは十一日である。歳寒堂遺稿の最後の詩にかう云つてある。「七月十一日得二弟歸家信志喜。日夜相思數去程。南雲如火正崢嶗。倏披歸到平安報。將勝應門見汝情。」嚴密に言へば山田に至つたのは的矢に至つたのではない。しかし霞亭の謂ふ歸家の信が山田より發せられた書であることは、是も亦下に引く書に徴して明である。
此詩は獨り遺稿に載せられてゐるのみではない。的矢書牘中にこれを書した詩箋がある。惟題の「歸家信」が「歸家消息」に作つてあるを異なりとする。詩の起句は「別後相思數去程」と書して、「別後」の二字を塗抹し、旁に「日夜」と細書してある。詩箋の末には猶歌一首並に二行の追記がある。しかし此は下の書柬と共に抄することにする。詩箋は書柬に卷き籠めて送られた者とおもはれるからである。
わたくしは此に八月二日の霞亭の書を擧げる。亦的矢書牘の一である。「秋暑愈御安康御揃珍重奉存候。先達は七月三日山田よりの御状十一日に相達、擧家大安心仕候。船に御のりも一術に而、甚はやく、わけて御宅に而も御悦奉察候。先(月)九日(書状)差出申候、其後は先段々快方に候。心下も追々さばけ、腹の筋もずつと引込申候。氣力精神は常の如くに候。ただ膝腰の軟弱にこまり候。これは脚氣のもち前の症と見え候。復後の用心等御心付次第被仰可被下候。○いまだ米鹽肉たち居候。とてもの事に四五日に而百日故、たち可申候。復後補養にそろ/\かかり可申候。其内厚味は用捨可仕、何卒乍御面倒海參二朱にても百疋のにても早々御世話可被下候。船のたよりに御出し可被下候。併し少々づつ追々なれば飛脚にてもよろしく候。○此表朝夕は大分凉しく凌ぎよく相成申候。病人には甚相適申候。○杉ノ木ノ節御心懸御とり置御惠可被下候。藥に用ひ候積りに候。此方に而はまき屋に不自由に候。これはいそぎ不申候。○良助方分娩は如何。乍恐二尊樣へ可然奉願候。時節折角御自愛奉祈候。先は近状報じたく如此御坐候、以上。八月二日。讓四郎。立敬樣。」按ずるに上の詩箋は此書状に卷き籠めてあつたのであらう。詩箋の末に記してある歌は「よしさらば足たたずともふみみてむわが目のあきてあらむかぎりは。」其下の追記二行はかうである。「三白も廿二日出立いたし候。三圭に跡頼居候。」
書中に霞亭の病症の上より看て注意すべき句がある。「ただ膝腰の軟弱にこまり候。これは脚氣のもち前の症とみえ候。」此句は詩箋の歌に聯繋してゐる。霞亭は此に至つて始て下肢の徴候に言及してゐて、そして其言が遽に見れば病の脚氣たるを證するものの如くである。しかし是は必ずしもさうでない。霞亭は久しく病んだ後に、峻烈な食餌療法即絶鹽法を行つてゐる。その「膝腰の軟弱」は全身衰弱の顯象として看ることを得るのである。且その今に及んで纔に顯れたのも、わたくしをして脚氣の徴候でないと云ふ判斷に傾かしめる。
詩箋の末の追記に據れば、惠美三白は廣島へ歸つたらしい。霞亭の跡を頼んでゐると云ふ三圭は三世三白、玄覽貞秀の女壻にして養嗣子たる桂洲貞興である。貞興は本堤氏、父を柳軒貞滿と曰ふ。母は二世三白大笑貞璋の妹である。天明二年の生だから、霞亭を療した文政癸未には四十二歳になつてゐた。此人は後に君命に依つて分家したので、貞秀の家をば貞纉が繼いで四世三白となつた。
わたくしは碧山と谷岡良助との二弟が霞亭を江戸に訪うた顛末を明にせむが爲に、上に霞亭の八月二日の書を録した。それは二弟の歸郷後に作られた第二書で、其第一書(七月九日發)は佚したのである。わたくしは既にこれを録した後に、此書が現存する所の霞亭の柬牘中最終のもので、同時に的矢尺牘中の最後の一通であることを特筆しなくてはならない。
さて此より進んで霞亭の餘命を保つてゐた半月間の事を叙するに先つて、わたくしは泝つて一事を言はなくてはならない。それは霞亭が楠公の碑を立てむと欲した事で、是は田内月堂の霞亭に與へた書に見えてゐる。書は七月二十五日に作られたもので、濱野氏の視す所である。即ち二弟の嚢里の家を辭し去つた一月後、霞亭の八月二日の書を作つた一週前のものである。
「心外に御疎音打過申候。先以被爲揃御榮福奉恭賀候。過日吉川武助參り、御容體委曲相伺御案思申上候所、其後伯民より御快方之御消息承り及、大に降氣且扑舞仕候。此節はとくと御全快に候哉、御樣子伺ひ申度御座候。炎熱依然折角御自重專一奉祈候。先比楠公詩碑之事も内々御下問被下謹承仕候。いまだ致仕翁へは不申聞候間、認候哉否しかと申上げがたく候。扨唐突なる申事に候へども、茶翁楠公之詩長篇有之、一家之御論も有之、過年感誦いたされ候き。あの詩もともに御上石被成候ては如何。碑の正面に詩二首と申はをかしきものに候半哉。僕等はあしからずとも被存候。如何思召候哉。さて右樣にては建碑企望之御諸生たち不得意にては不宜、先づ御内分貴意相伺申候のみ。春頃か柳井徳藏(柳字不明)もとめられ候小學之代料つりといふもの被遣、先方へ遣し申候受取がき、つゐ失ひ申候。御免可被下候。紅梅この炎熱にかれ不申候哉。早春は御いらへ數首被下、有がたく感吟仕候。實は御歌にてはあき足り不申候。佳作(詩)をこそ所希に候。是はこん(來)年の春をまち得てきかまほし、梅の立枝に鶯の聲、今より奉待候也。茶翁春の比患状くはしく承り驚き候所、其後御自書にて、例之蠅頭書參り、少しもむかしに不變、大に欣抃仕候。其後御壯健と奉存候。伯民もあまり金をためてやまひ動き、大に疲痩いたし候。稍快方、既に廿日に西發、また春は出可申候也。頓首。七月廿有五。月堂拜。霞亭先醒左右。」
田内の書は下に注する。
その十五
文政癸未七月二十五日に、田内月堂が霞亭に與へた書には楠公碑の事が言つてある。霞亭は詩碑を湊川なる楠木正成の墓側に立てようとした。そのこれに刻すべき詩は、言ふまでもなく前年作つた「武臣曾跋扈、兇豎況迷昏」云々の二十韻の排律である。さて霞亭は此發意を月堂に告げて、白河樂翁侯の題額を獲ようとした。しかし月堂は敢て輒ちこれを侯に稟さなかつた。「いまだ致仕翁へは不申聞候間、認候哉否しかと申上がたく候」と云ふ所以である。月堂は侯に稟さないで、却つて霞亭に忠告した。石を立てるは好いが、これに刻する詩は茶山の作を併せ刻しては何如と云つたのである。茶山の詩とは本集後編卷八に載する所の「楠公墓下作並引」と題した七古である。詩は「致身所事是臣道、別有大忠知者少」を以て起し、「當時若無公輩出、乾坤亦豈有今日」を以て結んである。茶山は足利高氏の非望は源頼朝、北條泰時の類でないとおもつた。頼朝、泰時は院宣を奉じて諸侯を約束するに過ぎなかつた。高氏は親王を殺し天子を幽して顧ざるものである。正成等の兵力に壓せられて已むことを得ずして光明院天皇を擁立した。「設使其及其身、掌握海内、雖其所立、固弗可保。」茶山は高氏を新莽視してゐる。能くこれを防止した正成等は單に南朝の忠臣たるのみではない。「皇統之綿綿、諸將實有致此者焉。」茶山は南北合一後の帝系の永續にも、正成等が與つて力あるのだとおもつた。「能使楚國無問鼎、何論和議非眞情。」月堂が茶山の詩に「一家之御論も有之」と云つたのは即是である。又その「過年感誦いたされ候き」と云つたのは樂翁侯が此論に感じてゐたと云ふのである。そこで月堂は霞亭に忠告して、若し霞亭が己が詩を石に刻するなら、茶山の此詩をも併せ刻しては何如と云つた。
わたくしは此に於て霞亭の詩を一顧せざることを得ない。「昊天歸閏位。大統有常尊。千歳堪冥目。九原當慰魂。」或は想ふに此一解は茶山の詩先づ在つて而後に纔に有ることを得るものではなからうか。
月堂の言は霞亭のためには苦言である。霞亭の何の辭を以てこれに酬いようとしたかは、今知ることが出來ない。
其他書中には菅茶山の病の愈えたこと、南部伯民の病んで長門に還つたこと等がある、小學を買つた柳井徳藏は、わたくしは初め「揚井謙藏」と讀んだ。姑く一友人の讀む所に從つて記したが、未だ釋然たらざるものがある。紅梅は月堂が霞亭に贈り、霞亭は倭歌を詠じて謝し、月堂は慊ずに更に詩を求めたらしくおもはれる。「梅のたちえに鶯の聲」は金葉集第一、春、東宮大夫公實、「けふよりや梅のたちえに鶯の聲里馴るる始なるらむ」又女房越前集、「雪のつもれりける梅に鶯の來鳴きけれは、ふる雪を花とまかへてさきやらぬ梅のたちえに鶯の聲」等の典故がある。此内越前の歌は正治二年百首には「鶯、ふる雪を花に[#「に」に白丸傍点]まかへてさきやらぬ梅のたちえに鶯のなく[#「なく」に白丸傍点]」と改刪して載せてある。
わたくしは上に霞亭の八月二日の書を擧げて、その現存柬牘中最終の書なることを言つた。霞亭の死は山陽撰の墓碣銘に「居丸山邸舍、三年罹疾不起、實文政癸未八月十七日、享年四十四、葬巣鴨眞性寺」と書してある。即ち彼書を作つた後第十五日である。此十五日間の消息、霞亭臨終の状況は渾て闇黒の中にある。惟井上氏敬と少女虎とが傍にゐたのを知ることが出來る。又主治醫が桂洲惠美貞興であつたのを察することが出來る。
霞亭を葬つた眞性寺は巣鴨車庫前を北へ行くこと數十歩の地にある。寺門に向ひて左に笠を戴ける地藏尊の大石像の安置してあることを知れば尋ね易い。霞亭の墓は本堂に向ひて右の墓地の中央にあつて、山陽書の誌銘が刻まれてゐる。誌銘の事は猶下に記すであらう。寺は眞宗である。
霞亭の法謚は、「歳寒院霞亭弘毅居士」であるが、石には刻まれてゐない。
霞亭の死因は何であつたか。その病症が二樣の見解を容すと同じく、その死因も亦二樣の見解を容す。若し病が脚氣であつたら、霞亭は衝心に僵れたであらう。若し病が萎縮腎であつたら、霞亭は溺毒に僵れたであらう。わたくしはやはり衝心の或は其時期にあらざるべきを斥けて、溺毒の毎に急遽なる侵襲を例とするを取らむと欲する。霞亭は全く死の己に薄るを曉らずにゐたらしい。この儆戒せざる隙に乘じて、人をして手を措くに遑あらざらしむるは、脚氣の某期に於て衝心の能く爲す所ではあるが、亦萎縮腎の全經過を通じて溺毒の能く爲す所である。
霞亭の訃音は何時的矢に達したか知ることが出來ない。これに反して、その備後の菅茶山の許に達した日は記載せられてゐる。茶山集に癸未重九の七律がある。「九日與小野泉藏對酌、二日前子讓計至。重九從今更幾囘。衰殘觸感盡悲哀。況聞東野簀新易。不得西原筵一開。旱後村閭偏索莫。霜前林薄已低摧。幸忻崔署尋彭澤。揮涙聊傳芳菊杯。」是に由つて觀れば、茶山の訃を得たのは九月七日である。
訃音が的矢に達した時、霞亭の仲弟碧山と季弟撫松とは直に途に上つて江戸に來たらしい。しかし二弟は何時的矢を發したか、何時江戸に著いたか、何時又江戸を去つたか知ることが出來ない。二弟が伯兄の喪事を終へて的矢に歸り著いたのは、十一月二十一日前である。此入府の顛末は未亡人井上氏に與へた二弟連署の書に見えてゐる。
下に濱野氏の示す所の此書を抄出する。「此度は兩人共なが/\御せわ樣に相成、まん/\ありがたくぞんじ上候。(中略。)十四日土山とみなぐちの間にて福山北條とかき付あるにもつ見付候ものあるよしきき、まづ/\御出立とさつし、あんど致し候。十四日土山あたり御とほりの事ま事にて候はば、もはや此頃御國元へ御つき遊さるべくさつし上候。いさい御文にて御しらせ被下度候。(中略。)扨此度御たちより被下候ては、御上より御かへし被成候事ゆへ、御ためによろしからぬよし、夫ゆへ近年の内思召たち被遊候よし、御もつともにぞんじ上候。さりながら老人共申され候には、いまだ一度のたいめんもいたし不申、かつ孫のかほしらぬさへあるに、年よりし身は末はかりがたしとうらみ被申候へば、何卒御しゆん見はからひ一兩年の内はやく思召たち御越被下候はばありがたくぞんじ上候。(中略。)せきひの事、はんぎの事せうちいたし候。(中略。)殿樣の御書、ならびにさかづき、ひやうたん、衣類御遣し被下候よし、かたじけなくぞんじ上候。何につけても今さら涙に御坐候。(中略。)やま田社中にこう(香)料禮の事、わたくし共一々よろしく申のぶべくぞんじ候。(中略。)お虎事御じよさい有之まじく候へども、ずいぶん大切に御そだて、そうおうなる養子にても致し、家名御つがせ被下度候。今にてはお互にこれのみたよりにござ候。文政六年十一月廿一日。北條立敬、山口甚平。北條御姉上樣。」
此署名者の一人山口甚平は霞亭の季弟で、山口凹巷に養れた撫松韓沖、字は澹人だといふことは上に一たびこれを推論して、猶些の疑を存して置いたが、此書を獲た上は、もはや疑ふべき所がなくなつた。此人は初の名惟寧を沖と改むると同時に、初の稱敬助を甚平と改めたのである。
碧山撫松は此書を作つて、これを江戸に送遣せず、菅茶山の家のある備後國神邊に送遣したらしい。是は書中に未亡人の歸郷途上にあるべきを推測した言のあるに由つて知ることが出來る。
是より先江戸駒込阿部邸内にあつた、所謂嚢里の家は撤せられて、未亡人井上氏と少女虎とは茶山の家のある神邊をさして江戸を立つた。阿部侯正精は未亡人に三人扶持を給することを命じた。此間の消息は、「霞亭先生事跡」の一本に下の如く記されてゐる。「十月五日侯(阿部正精)配井上氏に俸三口を賜ふ。同月二十二日福山引越を命ぜられ、江戸を發し、神邊に歸り、菅氏に寄寓す。」三人扶持を給することが十月五日に命ぜられ、歸郷が二十二日に命ぜられたことが此に由つて知られる。
二弟の書に「まづ/\御出立とさつし」と云ふは母子の江戸を發したこと、「御上より御かへしに成候」と云ふは阿部侯の歸郷を命じたことである。
未亡人敬が歸郷を命ぜられた日は十月二十二日である。しかしその眞に出發した日は知ることが出來ない。これに反してその神邊に到著した日は今明塙に知ることが出來る。濱野氏の示す所の尺牘中に、「霜月廿六日、中山造酒助、菅太中樣」と署した一通があつて、其末に下の追記がある。「北條氏御後室御令愛昨日(十一月二十五日)は御無難に被歸候而御安心、何歟と御安心中之御感慨御察申候。宜御傳へ可被下候。」お敬お虎の母子は十一月二十五日に神邊に著いたのである。
母子の江戸神邊間の旅は何の障礙もなく、日を費すことも少かつたらしい。試にこれを二年前の霞亭の旅に較べて見る。霞亭は辛巳八月九日に江戸へ引越すことを命ぜられ、二十三日に更に福山へ向けて江戸を發すべきことを命ぜられた。霞亭は二十五日に江戸を發して、九月二十三日に福山に到著した。此日數二十八日である。假に母子も亦霞亭と同じく命を受けた後、中一日を隔てて、十月二十四日に江戸を發したとする。そして十一月二十五日に神邊に著いた。此日數三十一日である。婦人女子の旅として視れば、快速であつたと謂はなくてはなるまい。
二弟の書に「十四日土山とみなぐちの間にて福山北條とかき付あるにもつ見つけ候ものあるよし」と云つてある。前段の假定を以てすれば、十一月十四日は母子の江戸を出た第二十日である。某が北條氏の行李に土山邊に逢著したのは當然である。
二弟の書に又「扨此度御たちより被下候ては(中略)御ためによろしからぬよし」と云つてある御たちよりは的矢に立寄ることである。想ふにお敬は江戸を發するに先つて、途中に的矢の北條氏を訪ふことを辭したものであらう。
霞亭の遺物として的矢に遣られたのは、阿部侯正精の書、杯、瓢箪、衣類であつた。石碑とは、霞亭の墓碣、版木とは小學の刻版を謂つたものであらう。
その十六
文政癸未八月十七日に霞亭は歿し、駒込嚢里の家は撤せられ、妻井上氏敬と少女虎とは備後神邊なる菅茶山の家に寄寓した。わたくしは此に至つて生存せる霞亭の親戚の上を一顧したい。生父適齋は延享四年生で七十七歳、生母中村氏は明和四年生で五十九歳であつた。霞亭は二親に先つて歿したのである。其齡は安永九年生の四十四歳であつた。次は未亡人敬で、天明三年生の四十一歳である。的矢の生家を繼いでゐる碧山は寛政七年生の二十九歳、其弟谷岡良助は同十年生の二十六歳、其弟山口撫松は生歿年を知らない。碧山の妻田口氏は寛政十一年生の二十五歳である。霞亭の遺孤虎は文政元年生の六歳である。
文政七年甲申四月十四日には霞亭の生父適齋が歿した。霞亭に後るること八月である。婦お敬をも孫女お虎をも見ることを得なかつた。次で八月三日に虎が茶山の家に夭折した。年僅に七歳である。茶山集に「孫女葬後數日、棲碧山人來訪」の七絶がある。「老年不必問喪儀。悽惻多於少壯時。坐臥昏々欲旬浹。得君此日始開眉。」次に「十五夜」の七絶があつて、「半月前喪姪孫女」と註してある。「客逐秋期可共娯。況逢新霽片陰無。奈何天上團圓影。不照牀頭一小珠。」並に虎の事に言ひ及んでゐる。隔つること一日にして霞亭一周年の忌日が來た。同じ集に「十七夜當子讓忌日」の七絶がある。「去歳今宵正哭君。遠愁空望海東雲。備西城上仍圓月。應照江都宿草墳。」是歳に福山北條氏の繼嗣が定まつた。其人は河村新助である。
新助名は知退、字は進之、悔堂と號する。小字は道之進であつた。阿部侯正精が致仕の侍醫東郭河村重善の第二子である。文化五年生で、甲申には十七歳になつてゐた。「悔堂先生事跡」にかう云つてある。「文政七年茶山先生東郭翁に請うて先生を養て北條霞亭の後を承けしめ、名を退藏と改む。」悔堂が霞亭の後を承けたのは、茶山が世話をしたのであつた。
九年丙戌に阿部家に代替があつた。正精が卒して正寧が嗣いだ。
十年丁亥に茶山が歿した。未亡人敬と養子退藏とが庇護者を失つたのである。
十一年戊子八月三十日に的矢北條氏の碧山立敬が歿した。年を享くること三十四である。是歳に悔堂が江戸に來て昌平黌に入り、佐藤一齋、古賀侗庵に經學を受けることになつた。此時退一郎と改稱した。
天保元年庚寅に霞亭の心友伊勢の山口凹巷が歿した。
二年辛卯に悔堂が江戸から福山に還つて、又養母敬と同じく茶山の繼嗣菅惟繩の家に寓することになつた。惟繩は茶山の弟の孫で、茶山の養子になつた。母は敬で、敬と前の夫萬年との間に生れた。萬年の父は汝楩、汝楩は茶山の弟である。それゆゑ敬は戸主のためには生母、悔堂のためには養母である。
三年壬辰に悔堂は山路氏由嘉を娶つた。そして菅氏の邸内に別に一戸をなして住むやうになつた。所謂學問所新宅である。由嘉は關藤藤陰撰の墓銘に據るに、「山路氏(中略)諱由嘉、備後藤江村人利兵衞某之女」で、「生母田頭氏」だと云つてある。そして「悔堂先生事跡」には「養母井上氏の姪孫女山路氏」と云つてある。然らば父は山路利兵衞、母は田頭氏であらう。それがいかにして敬の姪孫女に當るかは稍明塙を闕く。「高橋氏系圖」に據れば、茶山と汝楩との妹ちよが井上正信に嫁して三女を生んだ。長は田頭氏に嫁し、次は萬年の妻となつて夫に先つて歿し、季女は又萬年の後妻となつた。季女即敬である。さて系圖に「同人に男子あり、國松と云、女子は藤江村山路氏に嫁す」の文があつて、此「同人」とは誰を斥して言ふか不詳である。若し「同人」とは長女だとすると、其人が田頭氏の妻になつて、男國松を生み、又一女を生んで山路氏に嫁せしめたこととなる。此山路氏の子が由嘉であらうか。さうすると由嘉は敬の姊の孫女である。
由嘉は文化十二年生で、悔堂に嫁した時は十八歳であつた。
是歳山陽が「北條子讓墓碣銘」を作つた。初め茶山は山口凹巷をして霞亭を銘せしめようとした。そのうち文政十年に茶山が死に、天保元年に凹巷が死んだ。悔堂は當時江戸にゐて建碑の計畫をしてゐたので、二年の夏江戸から備後に還り、三年の春書を山陽に寄せて撰文を請うた。山陽は喜んで諾した。此顛末が「墓碣銘」には下の如く書かれてゐる。「君歿於江戸(山陽遺稿には歿の上に病の字がある。石には無い。下に罹疾不起とあるから刪つたものであらう。)後九年。其子進之寓昌平學。計建墓碣。來請曰。在先友。伊勢韓聯玉最舊。菅翁嘗託之銘。未成。翁逝。韓亦踵歿。使翁在。必更託之於子。先人亦頷之也。余與君同庚。又前後同掌菅氏塾教。余辭君就。如代吾勞者。且進之在東。所識鉅匠匪尠。乃遠求於余。余寧可辭。」此文には少しく語勢の累する所となつて、事實と牴牾してゐる處がある。「君歿於江戸、後九年」と云ふと、霞亭が文政六年に歿して後九年で、天保三年になる。此より直ちに「來請曰」に接すれば好い。しかし悔堂の江戸にゐたのは、文政十一年より天保二年に至る間であるから、後五年より後八年に至る間で、後九年ではない。
悔堂が山陽に墓銘を請うたのが、眞に霞亭歿後九年、天保三年であつて、而も春であつたことは、下の山陽の尺牘に由つて證せられる。書中に悔堂を斥して「退佐」と云つてある。そして「當春退佐子より申來候」の句がある。「退佐」はたいすけである。悔堂は江戸にゐた時退一郎と稱し、天保二年に備後に還つた後退輔と更めた。退輔と稱した後の第一の春は天保三年の春でなくてはならない。
山陽の書は門田朴齋に答へたもので、其文はかうである。「先日は御状被下、北條退佐(森云、佐當作輔)子より之御状御傳語も委曲承知仕候。當年は梅天雨少と存候處さも無之、土用に入、晴日連綿に候て少雨、大抵豐穰と見え候。武士は困可申候へども、爲世界可慶候。御健全に御勤仕被成候哉。北條墓碑の義、當春退佐子より申來候。書辭鄭重、眞情溢紙、感誦仕候。不敢辭避候積にて、別に不裁答、此度又御催促、駄賃迄被下候義、御丁寧之甚に候。都下評判は誌銘などは下手と申候由、何之碑誌を看て申候事哉、あまり東人は看ぬ筈に候。文より詩がよき抔も、どう云事に哉。雖足下曰歌行勝文、是は足下だけ也。併いづれも未嘗審讀拙文數行者之申候事に候。使僕以其用於文之力、少分之於詩、則不患不成名於詩、與今時所謂詩家連鑣馳也。それはともあれ北條碑を張込で書てくれ、可鉗(森云、二字不可讀、臆度以填)人口と被仰下、ひいきの實情、忝奉存候へども、據實而書、不泯沒其人之眞樣にいたすより外無之候。雖欲張込、無它可爲也。しかし景陽(森云、霞亭一字)不死と申樣には書て可上と存候。其上衆評不肯候はば、林世子(森云、檉宇皝)に託も可也べし。但石大小如何ほどにや、近日公制も被仰出有之、何百字ほど迄は可也歟。實は未敢相示候。示候上にて字數減てくれなど被言ては氣色にさはり候故に豫申入候。先は紙窮閣筆。七夕前一日。襄。堯佐、進之兩賢契。尚々唯今稿本大抵七百五十字ほどに候。五百字ほどに可約哉とも存候。尚々北條子之遺事行状、所未盡も可有之、拙之觀志處は勿論に候へども、又收拾遺聞可申と、此間嵯峨三秀院へ參候。月江は既化、殘僧に承合候。」
此書に據つて考へると、悔堂が始て銘を請うたのは是年壬辰の春であつた。山陽は承諾したつもりで答へずにゐた。さて「七夕前一日」七月六日に此書を作る前に、(先日と書いてある)門田朴齋の催促状が來た。それには悔堂の「傳語」が書いてあつて、悔堂の書が添へてあつた。朴齋は山陽に江戸人の毀訾の語を傳へて激勵しようとしたらしく、山陽は地歩を占めてこれに答へてゐる。朴齋は文政十三年に江戸に來て、安政元年に福山に歸つたのだから、是年には江戸にゐた。宛名には備後にある悔堂の名が連書してあるが、書柬は江戸へ向けて發せられたものであらう。
啻に然るのみではない。山陽の此書は通篇朴齋に對する語をなしてゐて、悔堂の名は止宛名として書き添へられたに過ぎない。何故に朴齋は山陽をして霞亭を銘せしめむがために力を竭したか、又山陽は主として朴齋に答へたか。是は少しく此に註しておくべき事であらう。
朴齋門田重鄰は備後の安那郡百谷村山手八右衞門の子である。母は同郡法成寺村門田政峯の女で、此女は茶山の後妻宣の妹である。それゆゑ朴齋は茶山のためには妻の妹の子、敬のためには前夫の伯父の妻(姑)の妹の子である。朴齋は幼くして孤になつたので、政峰の繼嗣政周の養子になつた。そして政周には嗣子政賚があつたから、其義弟として門田氏を名告つた。尋で朴齋は茶山の塾に入つて學問をしてゐるうちに、茶山は其才を愛して養子にしたが、何か養父子の間に意志の衝突があつたらしく、遂に離縁になつた。「朴齋詩鈔」初篇の文政十年丁亥「養父茶山先生八十壽言」の次に「以上係爲菅氏養子八年間所作」と註してあるより推せば、朴齋は文政三年より十年に至るまでの間菅氏を冒してゐて、茶山の歿前に薄つて離縁になつたものと見える。そして萬年の子惟繩が始てこれに代つたのであらう。然れば朴齋の霞亭のために力を竭したのは、先輩のためでもあり、又親戚のためでもある。
朴齋は寛政九年に生れて、霞亭より少きこと十八年、悔堂より長ずること十一年であるから、朴齋のために霞亭が先輩であると同時に、悔堂のためには朴齋が先輩である。山陽が悔堂をさしおいて朴齋に答へた所以であらう。
その十七
天保壬辰七月六日に山陽は書を門田朴齋、北條悔堂に與へて、霞亭墓碣銘の事を言つた。中に猶註すべき事がある。山陽は「石大小如何ほどにや、近日公制も被仰出有之、何百字ほど迄は可也歟」と云つてゐる。此公制は續徳川實記(經濟雜誌社本)天保二年四月十八日の條に「近ごろ百姓市人ら過分の葬埋、壯大の墓碑法號の事等により、きびしく令せらるゝむねあり」と云つてあるのが即是であらう。圖書寮所藏の御觸書と稱するものを閲するに下の如くである。「天保二年四月十九日。近來百姓町人共身分不相應大造之葬式致し、又墓所え壯大之石碑を建、院號、居士號等附候趣も相聞、如何之事に候。自今以後百姓町人共葬式は、假令富有或は由緒有之者に而も、集僧十僧より厚執行はいたす間敷、施物等も分限に應寄附致し、墓碑之儀も高さ臺石とも四尺を限り戒名え院號、居士號決而附申間敷候。尤是迄有來候石碑は其儘差置、追而修復等之節、院號、居士號相除、石碑取縮候樣可仕候。右之趣御領、私領、寺社領共不洩樣可觸知者也。」山陽が石の大小の公制と謂つたのは此觸書を斥して言つたのであらう。これは百姓町人のために制を設けたるが如くであるが、當時此の如き制を敷かれたときは、士分のものと雖、憚つて「臺石とも四尺を限」ると云ふ法を遵守したものであらうか。
山陽の碑文は書を裁して朴齋悔堂に答へたとき七百五十字程であつたといふが、現に石に刻まれてゐる文は六百八十一字である。書中に「五百字ほどに可約哉とも存候」と云つてある三分一の削減、即ち二百五十字許の削減は行はれなかつたが、約七十字は後に刪られたものと見える。
文は好く出來てゐる。凹巷が書いたり、檉宇が書いたりしたら、これ程の文が出來なかつたことは勿論である。死して此文を獲たのは霞亭の幸であつた。「據實而書、不泯沒其人之眞樣にいたす」と云ひ、「景陽不死と申樣には書て可上」と云つた山陽は、實に言を食まなかつた。
山陽は此文を艸するに先つて、わざ/\嵯峨の三秀院を訪うた。「月江は既化、殘僧に承合候」と云つてある。三秀院は霞亭が文化八年の春から九年の春まで栖んだ遺跡で、當時の詩を輯めた嵯峨樵歌には月江の跋がある。序を作つた茶山も、跋を作つた月江も既に歿したのである。しかし山陽の嵯峨行は徒事ではなかつた。碑文の精彩ある末段は此行に胚胎してゐる。「余(山陽)重進之(悔堂)之請。已叙吾所知。又就嵐峽。訪於其舊識僧。僧曰。吾驟往。見其(霞亭)焚香靜坐。不見甚讀書也。作詩亦不甚耽。吁乎君葢欲自驗其所學者也。」
わたくしは山陽がいかなる時に於て此文を作つたかを言つて置きたい。行實に據るに、山陽は壬辰の六月に喀血した。柬を朴齋悔堂に寄せたのは其翌月である。踰ゆること二月、九月二十三日に山陽は歿した。是に由つて觀れば、山陽が此文を艸したのは初て血を喀いた前後で、今墓碣に殘つてゐる隸の大字、楷の細字は並に皆病を力めて書したものである。
天保四年癸巳には霞亭の母中村氏が歿した。忌辰は十一月二日である。年を饗くること六十九。
七年丙申に阿部家に代替があつた。正寧が致仕して正弘が嗣いだのである。悔堂亂稿を閲するに、霞亭の歳寒堂遺稿は此時既に繕寫せられてゐたらしい。悔堂は此歳の秋大阪に往つて、(出郷七絶第四、九月秋風出故郷)遂に年を越したが、(五律第二首第一、客居逢歳杪)大阪にあつて篠崎小竹に詩を贈つた。その「贈畏堂先生」七律の七八に「家集今將謀不朽、憑君屬定更誰因」と云つてある。小竹の校定を請はうとしてゐたのである。
八年丁酉に悔堂は大阪から神邊に歸つた。
九年戊戌二月二十一日に悔堂の嫡男徳太郎が生れた。母は由嘉である。徳太郎、名は念祖、字は修徳、笠峰と號した。
弘化二年乙巳正月十七日に悔堂は弘道館會讀掛を授けられて三人扶持の祿を受けた。又霞亭校刻の小學纂註の版を官に納めて、誠之館藏版とした。十月二日に悔堂の生父東郭河村重善が歿した。年七十四である。十一月十七日に悔堂は儒者を命ぜられ、十人扶持を賜はり、大目附觸流格を以て遇せられ、福山に徙ることとなつた。
三年丙午五月に悔堂は福山西町の賜邸に移つた。そして新助と改稱した。生母高橋氏徳を家に引取つたのも亦此年である。
四年丁未五月四日に悔堂の妻山路氏由嘉が歿した。年三十三である。
嘉永元年戊申六月に悔堂は桑田氏を娶つた。文政二年生れの三十歳である。
二年己酉正月二十八日に悔堂の第二子孝之助が生れた。名は念徳、字は叔道、後洗藏と稱し、友松と號した。八月二十三日に霞亭の未亡人敬が歿した。六十七歳である。
安政元年甲寅正月に笠峰が十八歳を以て元服して、新兵衞と改稱し、尋で原田氏多喜代を娶つた。
二年乙卯正月に笠峰が誠之館會讀掛を命ぜられた。二月に悔堂が江戸在番を命ぜられ、笠峰を伴ひ行かむことを請うて允された。そして三月九日福山を發して二十九日に江戸丸山の藩邸に著いた。十月に父子は所謂安政の大地震に遭つた。十二月に笠峰は添川拙堂の門人となり、尋で益三郎と改稱した。拙堂、名は栗、字は寛夫、一號は廉齋、寛平と稱した。會津の人で、甞て廉塾に學び、悔堂の友となつてゐた。今は上野國碓氷郡安中の城主板倉伊豫守勝明の儒官である。
三年丙辰冬に悔堂笠峰父子は備後に歸省した。悔堂の生母高橋氏の病を問うたのである。
四年丁巳に笠峰の嫡男徳太郎が生れた。是歳阿部家に代替があつた。正弘が卒して正教が嗣いだのである。
五年戊午悔堂は歸藩を命ぜられ、五月九日に笠峰と共に江戸を發し、六月二日に福山に著いた。
文久元年辛酉に阿部家に代替があつた。正教が卒し正方が嗣いだのである。
三年壬戌に悔堂が病に依つて職を辭し、笠峰が儒者心得を命ぜられた。
三年癸亥に悔堂は再び文學教授を命ぜられ、笠峰は廣間番を命ぜられた。
元治元年甲子に悔堂は奧勤を命ぜられ、供頭格の待遇を受けた。阿部侯正方が長門を討つ軍の安藝口先鋒を命ぜられたので、笠峰は從征した。
慶應元年乙丑正月二日に笠峰は安藝より還つた。十六日に悔堂は病歿した。年五十八である。四月に正方が長門を再討する軍の石見口先鋒を命ぜられて、笠峰は又從征した。六月六日に悔堂の生母高橋氏が歿した。年八十三である。七月に笠峰は石見より還つた。
三年丁卯に阿部侯正方が卒した。
明治元年戊辰正月に長門の杉孫七郎が福山城を襲うたので、笠峰は入城して大手門を守り、尋で媾和の後家に還つた。三月藩兵が朝命を奉じて攝津西宮を戍り、又天保山を戍つたので、笠峰も西宮天保山に居つた。阿部侯正桓が淺野氏より出でて封を襲いだ。八月に笠峰は正桓に隨つて京都に上つた。そして正桓が箱館の榎本釜次郎を討つことを命ぜられたので、笠峰は從征した。笠峰は箱館にある間、故あつて氏名を變じ、喜多増一と云つた。
二年己巳に箱館が平定したので、笠峰は六月に家に還つた。尋で新一と改稱した。十一月に東京在勤を命ぜられ、十二月五日に東京丸山邸に著いた。
三年庚午七月二十八日に笠峰は根津高田屋の娼妓を誘ひ出だして失踪した。九月八日に福山の北條氏は籍沒にせられ、笠峰の母は桑田氏に、妻多喜代は原田氏に、弟友松は河村氏に、子徳太郎は菅氏に寄寓した。後友松は高橋杏五に養はれて其氏を冒した。徳太郎さんは今滋賀縣に寄留してゐる。
四年辛未に霞亭の弟碧山の繼嗣一可が的矢に歿して、子新民が嗣いだ。今の北條新助さんは新民の繼嗣で、三重縣多氣郡領内村に住んでゐる。
五年壬申九月三日に霞亭の弟谷岡良助が歿した。年七十五である。
八年乙亥三月三日に霞亭の弟碧山の妻田口氏禮以が歿した。年七十七である。
十三年庚辰一月二十日に笠峰が栃木縣宇都宮に歿した。上野國山田郡市場村の廣田氏に寄寓して其氏を冒し、廣田恒と稱して中學教員をしてゐたさうである。
三十一年戊戌九月十七日に悔堂の未亡人桑田氏が福山に歿した。年八十である。
大正八年己未十二月十八日に笠峰の弟友松が歿した。嗣子は五松さんといふ。福山盈進商業學校の生徒である。
底本:「鴎外全集」第十八巻、岩波書店
昭和48年4月23日発行