北條霞亭 (下)

森鴎外

     その八十八

 (ぶん)(くわ)十三(ねん)(ぐわん)(たん)には、(ちや)(ざん)(ぜん)(ねん)(おつ)(がい)(とし)()()()()(てい)(むか)へたことを(おも)()でて一(ぜつ)(つく)つた。「彩畫屏前碧澗阿。新嬉兩歳境如何。曉趨路寢榮堪戀。夜會郷親興亦多。」(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()(てい)(かう)(ゐん)(さく)がある。「元日和茶山翁韻。樂道安貧老澗阿。不知朝市事如何。梅花香裏人如玉。偏覺春風此際多。」

 (かは)(さき)(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)(たま/\)(この)(さい)(しゆ)(ちや)(ざん)()(てふ)(うつ)してゐる。(けい)(けん)(あた)へたものであらう。「單帖。菅晋帥、竹田琮、甲原義、臼杵愚、同恭賀新嬉。」(ちく)(ぜん)(たけ)()(さだ)()(じよう)()(そう)(あざな)()()であつたと()える。(ぶん)()(かふ)(はら)(ぎよ)(さう)()()(あざな)(げん)(じゆ)で、(この)(ひと)(とう)(がい)(ふう)(ぞく)(しよう)(もつ)(あざな)としてゐたと()える。()(ぬき)(うす)()(もく)(あん)(のち)(まき)(もく)(あん)()()(また)()()(あざな)(ちよく)(けい)であつたと()える。()()(げん)(じゆ)(ちよく)(けい)(ちや)(ざん)(しふ)(るゐ)(けん)する()であるから、(かう)()()のために(こゝ)(ちゆう)する。

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)には(この)(しやう)(ぐわつ)(しよ)(みと)むべきものが一も(そん)してをらぬが、()稿(かう)(けみ)するに()(てい)(この)(しやう)(ぐわつ)()(つく)ることが(きはめ)(おほ)かつた。()づ七()には(ちや)(ざん)(とも)(ゐん)(わか)つて()()した。(ちや)(ざん)に「晴久溪村轉凍凝」の(りつ)があれば、()(てい)に「他郷他席亦清歡」の(りつ)がある。(つい)(たけ)()()()(たづ)ねて()て、()()(せい)()()する(でふ)(ゐん)(しめ)し、()(てい)がこれに()したのが「牛日」だと()つてある。(この)(とし)(へい)()(ぐわん)(たん)(しん)()であつたから、(ぎう)(じつ)は九()()(ちう)である。

 (つぎ)に「寄韓聯玉」「聞高木呆翁隱梅坳」の二(りつ)(ならび)()稿(かう)()えてゐるが、(じゆ)(げふ)(ろく)にこれを(せう)して、(すゑ)に「丙子初春正」と(しよ)してある。わたくしは(とく)(あふ)(こう)(かん)()()する()(ろく)して、()稿(かう)()(ところ)(ちや)(ざん)(ひやう)を一()したい。「寄韓聯玉、社友冢士瞻、東君孚相繼淪謝。書劍飄零滯海隅。愁中抱病歳年徂。(受業録歳作幾。)誰人白首交相許。何處青山茅可誅。淡月梅花春似昔。疎燈雨滴夢還孤。嵆生夭後阮生沒。(受業録阮生作阮公、似不可從、第八有黄公故也。)忍問黄公舊酒壚。(受業録壚作墟、非。)茶山翁評。合作。但何處一句雖出眞情、而老所不欲聞。」わたくしは(この)(ひやう)()んで(らう)(ちや)(ざん)(きよう)(くわい)(おも)()つた。(ちや)(ざん)(れん)(じゆく)のために一たび(さん)(やう)(へい)してこれを(うしな)つた。(いま)(また)(わづか)()(てい)(へい)したのに、(その)()(てい)()(ばう)(せい)(ざん)(ちゆう)せば奈何(いかん)(ちや)(ざん)(この)()()くことを(ほつ)せなかつたのは、ことわりせめてあはれである。

 (たか)()(ばい)(をう)(いん)(きよ)(じよ)(ばい)(あう)(いとな)んだのは、(おそら)くは(ぜん)(ねん)(おつ)(がい)(ばん)(しう)(こう)であつただらう。(あふ)(こう)に「乙亥十月三日訪梅坳」の三(りつ)があつて、(じゆ)(げふ)(ろく)()えてゐる。(いま)(その)一を(ろく)する。「菜根霜味肉應讓。登爼載如肪玉状。屋淨全無鼠壤遺。池深自可魚苗養。頑詩恐我汚山中。勝蹟倩誰題石上。多謝毎留煩主人。酒添何况樵青餉。」

 (つぎ)に「和看松子過任有亭見懷韻」も(また)()(てい)(しやう)(ぐわつ)(さく)であらう。(じゆ)(げふ)(ろく)西(にし)(むら)(きふ)()(げん)(しやう)()せてある。「嵯峨任有亭寄懷霞亭。流憩憶君楓際寮。壁空無復舊詩瓢。高調任上樵童口。梅發山村不寂寥。」(けつ)()()(てい)()()(もち)ゐたものである。「寂しさを忘るるまでにうれしきは梅さきそむる冬の山里。讓。」()稿(かう)()(てい)()(ゐん)があつて、(へい)()(じん)(じつ)()(のち)()でてゐる。「楓陰有逕遶書寮。窓裏無人對酒瓢。不是孤高西處士。寒山誰復問幽寥。」

     その八十九

 わたくしは(ぶん)(くわ)(へい)()(しやう)(ぐわつ)()(てい)(おほ)()(つく)つた(こと)()つた。しかし(この)(せつ)(いま)()きない。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)には(この)(しやう)(ぐわつ)(かん)(どく)()いが、(たま/\)()(せん)(その)(うち)(そん)してゐて五(りつ)一、七(りつ)一が(うつ)してある。(はじめ)なるは(さい)(かん)(だう)()稿(かう)(しよ)(さい)の「送惠美子繼歸省廣島」の()で、(のち)なるは()稿(かう)(をさ)めざる(ところ)である。「正月二十九日、東門大夫集、分韻得麻。大夫文雅厭紛華。爲政餘閒客滿家。厨下烹羞新雁肉。瓶中亂插老梅花。城墻小雨催芳草。庭院斜陽送晩鴉。酒罷燈前揮快筆。剡藤颯々走龍蛇。自註。大夫有臨池癖。故及。」(すゑ)に「二首とも甚麤作也、讓」と(しよ)してある。

 (あん)ずるに()()()()()(けい)(おく)()は、()稿(かう)(たか)()(うぢ)(ばい)(あう)()(つぎ)()つてゐる。そして(とう)(もん)(たい)()()に「正月二十九日」の()(づけ)がある。わたくしは二(しゆ)(みな)(へい)()(しやう)(ぐわつ)(さく)なること(ほとんど)(うたがひ)なきものかとおもふ。

 わたくしは(さら)に一()(すゝ)めて、()稿(かう)(ちゆう)(かん)(しよう)()()する七(ぜつ)()()(おく)る五(りつ)との(あひだ)(をさ)めてある(しよ)(さく)(もち)(ろん)(その)(しも)(すう)(しゆ)(いた)るまで、(みな)(へい)()(しやう)(ぐわつ)()つたかとおもふ。()(しか)らば()(てい)(しやう)(ぐわつ)()には(ふく)(やま)()き、(八日福山途上)十一(にち)(はふ)(じやう)()()き、(十一日法城寺途上)十二(にち)には()(てい)(つま)(きやう)(ゐの)(うへ)(うぢ)()(ねい)したのである。(十二日内人歸寧、余獨居。)

 二(ぐわつ)(さく)(いた)つて(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(はじめ)()(てい)(へき)(ざん)(あた)ふる(しよ)がある。(この)(しよ)(へい)()のものなることは、(てき)(さい)七十の()(こと)()ふを(もつ)(しよう)せられる。(これ)()つて(かんが)ふるに、(しやう)(ぐわつ)にも(しよ)(はつ)したが、(その)(しよ)(いつ)してしまつたのである。「當方よりも極月及當正月兩度小簡差出申候。」(かみ)()いた()(せん)はこれに()へられたものであらう。

 ()()(てい)()(きん)(じやう)(せう)する。「此地閑には候へども、唯一友も無之、是而已迷惑仕候。俗物なれど江原與兵衞飮伴に有之候故、少々はつれになり候へども、これも物故いたし、益寂寥無聊、夫に近來とかく酒は體に合不申候而、大方はのめ不申候。獨酌一合半にて前の量とは甚相違に候。(別項。)小生方拙妻も此節妊娠仕候。五月か六月には臨盆と申事に候。此節隨分壯健に候。御序之節雙親樣へ御噂可被下候。(別項。)此方名所神邊北條讓四郎に而よろしく候。かた書に學問所と御認被成候てもよろしく候。」

 (いん)(はん)()(ばら)()(かみ)()えてゐる。(ゐの)(うへ)(うぢ)(きやう)(たい)にある()(ちやう)(ぢよ)(うめ)であらう。(れん)(じゆく)(ぞく)(しよう)は「神邊學問所」であつたか。

 (つぎ)(てき)(さい)()()(こと)(せう)する。「當年は尊大人樣七十に御成被遊候。益御勇健被爲入候哉。千鶴萬龜至祝抃舞仕候。何卒當年中歸省仕度奉存候。一筵開き、親族打集、壽觴奉獻仕候事相計申たく候。菟角小生等業がら少しも盛んなる事は無之、恥入候次第に御坐候。それと申も、我輩世人のいとなみを皆々脱却いたし、只閑居を愛し候崇と奉存候。何分菽水の歡を奉じ候而、御安心ありたく候へば、夫を樂しみと御互に可致候。尚又くわしき事は追而可申上候。此方はじめ而の居宅、小生一切不構に有之、先は廉塾にまかし候。甚打つめ候事にて、漸う一杯の酒に憂を散じ候と申位の事に候。御憐察可被下候。」()(てい)(ちゝ)(じゆ)せむと(ほつ)するに(のぞ)んで、()()(いま)()()(いへ)(おこ)すに(いた)らざるを(たん)ずるのである。

     その九十

 わたくしは(ぶん)(くわ)(へい)()(ぐわつ)(さく)()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(せう)して(ちゝ)(てき)(さい)の七十の()(こと)(およ)んだ。(あに)(おとうと)(じゆ)()(こと)(はか)つてゐる。「壽詩を相識の先生達へ頼申たく、江戸京へも追々申遣候。勢州の分は足下御周旋可被下候。しかし帖にいたし候つもり故、小生方よりも又々頼遣可申候。其御心得に頼入候。菊を御愛し被遊候故陶淵明が秋菊有佳色の句を詩題と可仕歟と奉存候。御相談申上候。」(へき)(ざん)(この)(こと)(したが)つたことは(げん)(そん)する(ところ)(しよ)()()()つて(しよう)せられる。

 (しよ)(ちゆう)()えてゐる(ほう)(いう)()(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(たか)()(せい)(ちゆう)との二つである。

 「凹巷も角大夫の名前を七歳の令兒に讓り候而、もとの長二郎になられ候よし、樣子も有之候義と被存候。しかし閑にはなられ候義と奉存候。」(あふ)(こう)(せう)()(ちやう)()(らう)()ひ、(のち)(かく)(だい)()(しよう)してゐた。(いま)(かく)(だい)()(しよう)を七(さい)()(ゆづ)つて、(もと)(ちやう)()(らう)(かへ)つたのである。(ちやう)()(らう)()(てい)(ふる)(かん)(どく)(ちよう)()(らう)(つく)つてあつた。(あん)ずるに(しふ)(しよう)()(あふ)(こう)(ちやく)(なん)であらう。()()()るに、(あふ)(こう)は「初娶藤田氏、早沒、再娶山原氏、生二男三女、曰觀平、曰群平、山原氏亦沒、後納加藤氏爲妾、生二男、曰興平、曰梅兒、梅兒夭」と()ふことである。(はま)()(うぢ)(けみ)する(ところ)の「月瀬梅花帖」に「男觀、男群、男興」の三(にん)(しよ)(めい)してゐるさうである。(これ)()つて()れば、(しふ)(しよう)()()(くわん)(はじめ)(しよう)(くわん)(ぺい)(のち)(しよう)(かく)(だい)()であらう。()(てい)(しよ)(ちよう)するに(くわん)(へい)()(さい)であつた。(しか)らば(ぶん)(くわ)(ねん)(かう)()(うまれ)であらう。

 ()(てい)(しよ)(あふ)(こう)(もつ)退(たい)(いん)せるものとなすが(ごと)く、(しよう)(ゆづ)(かん)()いたと()ふ。()()(いは)く。「晩年婚嫁已畢。退居于先人別業。花竹一區。流水遶屋。有古棲逸風。毎遇秋晴。携釣具到北江。與漁人舟子。陶然醉於荻花楓葉間。」()(この)退(たい)(きよ)(へい)()(とし)(おい)てせられたとすると、(あふ)(こう)(ぢよ)(みな)(くわん)より(ちやう)ずること十(さい)()でなくてはならない。

 ()(むら)(うぢ)(しよ)(ざう)(こん)(ない)()(ねん)()()(めい)の一(くわん)があつて、(かは)(さき)(けい)(けん)()(せい)()(しよう)(げん)(ぷく)(こと)()してゐる。(ぶん)(ちゆう)(あふ)(こう)()(しよう)(しよ)して「山口角大夫」と()ひ、「角大夫」の三()(まつ)(さつ)して「長次郎」と(ばう)(しよ)してゐる。(あるひ)(あふ)(こう)(じやう)(しよう)(ちよく)()(しよ)せられたものではなからうか。()(しか)らば(せい)()(へい)()(とし)(げん)(ぷく)したこととなるであらう。(こん)(ない)()()れば、(せい)()()(しよう)(つう)(しよう)(まつ)()(じよう)(げん)(ぷく)して(けい)(ざん)(あざな)し、()()(かい)(しよう)した。

 ()(てい)(しよ)()えてゐる(いま)一人(ひとり)()(じん)(たか)()(せい)(ちゆう)である。「文之助、鵬齋方に居寓したり、雄二郎と申伯母次男の方などにも居候よし、小生は二三年書通も不仕候。」(ぶん)()(すけ)(すで)()つた(ごと)(せい)(ちゆう)(つう)(しよう)である。(あん)ずるに()(てい)(あらた)(ぼう)(さい)(もし)くは(せい)(ちゆう)()()(しよ)()てこれを(へき)(ざん)(はう)じたのであらう。

 (さい)()()(てい)(この)(しよ)(ちゆう)(おい)(へき)(ざん)(をし)ふるに(せき)(どく)(もち)ゐるべき(しよう)()(こと)(もつ)てしてゐる。「老輩へ御文通旁書は、梧右は平交の稱(故)、凾丈とか、侍史或は侍座下など可然候。」(おそら)くは(へき)(ざん)(とひ)(こた)へたのであらう。

 二(ぐわつ)()()(てい)(また)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(これ)(また)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。()(てい)(みづか)(かた)(ところ)はかうである。「小生無事罷在候。乍憚御安意可被下候。(中略。)歸省之儀は飛立やうに思候へども、時宜如何、未だ言ひ出し不申候。何樣秋になり可申哉と奉存候。」

 (てき)(さい)の七十を(じゆ)すべき(しい)()(こと)(ふたゝ)()えてゐる。「尊大人樣七十壽詩歌之義は、先書も申上候通、去冬より相心懸申候。京江戸の相識などへも頼置候。急々にも集り申間敷候へども、此節專一諸方へ頼遣申候。先は此方の相識ならぬ方へは頼み申まじき了簡に候。それとも名家大家は格別之事に候。賢弟方も其心得御頼可被下候。山田社中へも此節頼遣可申候。帖にいたし候つもりに御坐候。」

 (へき)(ざん)()(ばら)()(へい)(すが)(なみ)()(らう)とに()する(しよ)()(てい)(たく)した。「江原、菅波への書状は、江原は死去いたし候故、年始状なれば不吉故、さしひかへ候。江原も跡は弟など有之候へども、なんとなり可申や。先は書通に及不申候。菅波は本陣に而、菅家の本家分、夫に小生婚姻の媒灼に而、親族之第一になり居申候。左樣御心得可被下候。」()(ばら)()(へい)には(おとうと)があつた。(すが)(なみ)()(らう)(こと)(この)(しよ)()(はじめ)(あきらか)なることを()た。

 ()(じやう)の二(しよ)(のぞ)(ほか)には、(おつ)(がい)(ぐわつ)(つく)られたと(みと)むべき(しよ)(くわん)(ぞん)してゐない。(たゞ)()稿(かう)(たけ)()()()(おく)()があり、(なほ)(ぐわつ)(すゑ)(さい)したらしい()(てい)(しゆ)(かん)(だん)(ぺん)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)するのみである。

     その九十一

 (ぶん)(くわ)(へい)()(ぐわつ)二十六(にち)(ちく)(ぜん)(ひと)(たけ)()(さだ)()(じよう)(れん)(じゆく)()して()(きやう)した。(びん)()(ひと)(ふぢ)(かは)()(せん)(くわう)(えふ)(せき)(やう)(そん)(しや)()(らん)(ぐわい)(しよ)には(さだ)()(じよう)(つく)つてある。(たう)()(ひと)(じよう)(じよう)(じよう)(ごと)きは、()(しよ)()()なることを(まぬか)れない。(たけ)()(かみ)()えた(ごと)()(そう)(あざな)()()であつた。その(はつ)(てい)()(ちや)(ざん)が「二月廿六日、竹田器甫、甲原玄壽西歸」と()してゐる。(かふ)(はら)(ぎよ)(さう)(どう)(じつ)(じゆく)()したのである。「老衰隨觸易愴神、一朝況送二故人。」(これ)(ちや)(ざん)()(ちゆう)()である。()(てい)()(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()えてゐる。「送竹器甫歸筑前。故人分手向郷城。千里歸程草始生。他日相期上堂約。及時堪慰倚門情。春風野館花光亂。暮雨江天帆影明。路入下關應一笑。家山如黛馬頭横。」()(てい)(また)(かふ)(はら)をも(おく)つた。()稿(かう)に「送甲原玄壽歸豐後」の五()がある。(かふ)(はら)(うぢ)()()(ぎよ)(さう)(がう)した。(げん)(じゆ)(その)(つう)(しよう)である。()(また)(とう)(がい)(ふう)(つう)(しよう)(もつ)(あざな)()ててゐたと()える。()(てい)()(だい)()に「杵築古市人」と(ちゆう)してある。(じつ)(よし)(ひろ)(むら)(いま)(なか)武藏(むさし)(むら))に(うま)れたのである。

 (つぎ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)()(てい)(しよ)(どく)(だん)(かん)がある。(この)(ぐわつ)(すゑ)(ちゝ)(もし)くは(おとうと)()つた(しよ)の一(せつ)であらう。「頼春水翁うす/\と此邊へ死去のうわさいたし候。未だしらし(爲知)は參り不申候。久太郎(山陽)も十八日(二月)京出立、日夜馳行、廿二日夜神邊へ立寄、直に駕輿に而夜行いたし候。氣之毒なる事に候。大方うわさに違も有之間敷にや。」

 (らい)(しゆん)(すゐ)()(ぎやう)(じやう)に「歿年七十一、實文化十三年丙子二月十九日也」と()つてある。(さん)(やう)(はゝ)の十二(にち)(しよ)()て、十八(にち)(きやう)()()つたことは(しう)()()(じつ)である。二十二(にち)()(れん)(じゆく)(よぎ)つたことは(この)(しよ)()えてゐる。さて二十四(にち)(ひろ)(しま)(いへ)()き、二十七(にち)()()(やま)(あん)(やう)(ゐん)(はか)(はい)し、三(ぐわつ)二十二(にち)(きやう)()(かへ)つたさうである。

 ()(てい)()稿(かう)には(なほ)(この)(とし)(しやう)(ぐわつ)(ぐわつ)(かう)()つたものと()()すべき()がある。「送惠美子繼歸省廣島」「送山下顯吾歸讚州」「送田中辭卿遊京」(とう)(みな)(これ)である。()()()(けい)(ひろ)(しま)()()()()(うぢ)(こと)である。()(はら)(いち)()(らう)さんの()ふを()くに、(ひろ)(しま)には()()(うぢ)(しよう)する二(ぞく)がある。一は()(じゆつ)(いへ)で、(いま)()(しゆ)()()(ぶん)()()ふ。一は()()で、(いま)()(しゆ)()()(とく)()(すけ)()ふ。(こう)(しや)(ぶん)(くわ)(へい)()には二(せい)(ぱく)(とき)であつた。二(せい)(ぱく)()(てい)(しやう)(あざな)(くん)(たつ)(たい)(せう)(がう)した。(じつ)(なが)()(やう)()()で、(しよ)(せい)(ぱく)(てい)(えい)(やう)()()となつた。その(やしな)はれたのは(てい)(えい)(じつ)()(けい)(てい)(えい)歿(ぼつ)した(とき)(天明元年)(じやく)(ねん)であつたためである。(へい)()(とし)には三(ぱく)(てい)(しやう)七十二(さい)、三(けい)(てい)(しう)五十五(さい)であつた。()(けい)(おそ)らくは(てい)(しう)()(なん)(てい)(さん)であらう。(のち)に四(せい)(ぱく)となつた。(やま)(した)(けん)()(こと)(まつた)()(めい)である。()(なか)()(けい)(のち)()(てい)(きやう)()(おい)(くわい)(いん)してゐる。(歸省詩嚢。)

 三(ぐわつ)()()(てい)(とう)()(えん)(ひやう)()(かへ)るを(おく)つた。()稿(かう)に七(ぜつ)がある。()(えん)(なに)(ひと)なるを()らない。(この)(つき)(なほ)()稿(かう)に「春盡同諸子遊國分寺、得尤」の五(りつ)がある。

 四(ぐわつ)()(ざん)(くわん)の一なる「山南觀漁」の(とき)である。()十二(しゆ)があつて、(すゑ)に「右丙子初夏」と(ちゆう)してある。(この)(しよ)(へん)(ちゆう)に五(にん)()()えてゐて、(みな)(しん)(ぞく)である。()(さう)()(けい)(てい)がある。(あに)(はく)(げん)()ひ、(おとうと)(よく)(しゆく)と曰ふ。(はく)(げん)(びん)(けい)(つな)()(らう)の二()がある。(のこ)る一(にん)()()(くん)(すゐ)で、(さう)(よく)(しゆく)(この)(くん)(すゐ)の「女甥」だと()つてゐる。(ぢよ)(せい)(あるひ)(ぢよ)(せい)ではなからうか。

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)には(この)(つき)(しよ)(みと)むべきものが(たゞ)(ぺん)ある。それは十()(へき)(ざん)(あた)へた()(てい)(しよ)である。()(てい)()()(しん)(じやう)()いて()(ところ)はかうである。「小生無事罷在候。乍憚御安意可被下候。(中略。)拙荊隨分無事罷在候。併先頃より少々腫氣のきみ有之候。これも大方よろしく、首尾能分娩いたし候は先運次第、いたし方もなく候。(中略。)此方此節は年輩の諸生皆々歸省いたし候而、はなし相手無之候而迷惑仕候。晩間獨酌仕候のみに候。(中略。)當塾は多く小兒輩あちこちより參り候。十三以上の者多く候。此間備中より入門仕候一生、書など見事、且は棋の上手に候而、かつて備前侯樣へめされ出候事など有之候由、十四五の子也。(中略。)此邊も先頃より鯛網はじまり候ゆへに、紅魚は時々たべ申候。此間藤井料助參宮いたされ候を一寸送り候詩に、囘首能無憶吾輩、杜鵑聲裏撃新鵑(下鵑字恐當作鮮)と云句をいたし候也。實は甚麤作故全篇は録し不申候。」(きやう)(しゆ)()(にん)(しん)のためであらう。(たい)()()(ちやう)(ぢよ)(うめ)である。(ふぢ)()(れう)(すけ)(なに)(ひと)なるかは()(めい)である。()(てい)(たひ)(あみ)()いて(さん)()(いう)(およ)ばない。(くわん)(ぎよ)(おそ)らくは十()より(のち)(こと)であつただらう。

 (しよ)()()(さふ)(ちゆう)(こと)()えてゐる。「杜詩論文と申杜詩の全集の注を見候に付、先頃より別に見候序でに、插註をざつと認見候。夫故詩作等など一向出來不申候。插註四五册も出來候へども、田舍類書無之不自由に候。いづれ一遍位にてはとても役に立申間敷候。人に見せ候程の物は出來不申候とも、先は手前の詩學といたし候積りにてかかり申候。」

 ()(てい)(また)(ちゝ)(てき)(さい)(じゆ)する(しい)()(こと)()つてゐる。「壽詩の儀外へ段々頼置候。遠方のはいまだより不申候。近邊のはだん/\あつまり候。學者、一方に名有之候人にはぬめ或はきぬを遣候而、帖にいたし候積りに仕候。山田詩の儀は小生よりも相頼遣可申候。尤これはあとよりきぬ地差出し、夫に認もらゐ可申候。此節少々あつまり居候へども、いづれ小生參り候頃一處にとりあつめ參り可申と存候。いづれ人に頼候事、夫に御同前に壽詩はおもしろからぬもの故、とかく埒明兼可申候。先は氣長に夫々の手筋へ頼可申候。京都堂上方へも御頼申上候積りに候。足下も兼而御構案可被成候。歌などもあつめたく候。」

 (へき)(ざん)()稿(かう)(れい)(ごと)(つう)()(かうむ)つたらしい。「御作拜吟仕候。隨分おもしろく候。隨例無遠慮にあしく申候。外へは箇樣に申候事出來不申候。且亦其内にはあまりいひすごし可有之哉、何分御取捨可被下候。」

 ()(しよう)(きん)(がく)(こと)(また)()(てい)(わす)れざる(ところ)である。「敬助素讀はもはやどれ位になり候か被仰聞可被下候。清書大字など半紙を時々つぎ合せ御かかせ可被成候。この方へもちと御見せ可被成候。詩作出來候はゞ、少々宛にても御遣し可被下候。」

 (こう)(しん)(しや)(こと)はかう()つてある。「勢南社中も御無事の由、久敷何方よりも便無之候。いつぞや高木令郎の手圖いたされ候呆翁隱居圖、凹巷兄よりよせられ候。南歸いたし候はゞ、そこに宿をいたし候などと被申遣候。おもしろさうなる處也。凹巷の御作も上に認被遣候。」(ばい)(をう)(いん)(きよ)所謂(いはゆる)(ばい)(あう)である。これを()した()(あるひ)(こん)(ない)()の「高木次郎大夫」()

 (しよ)(しん)(ひと)(へう)(たう)(こと)()えてゐる。「南京船入津いたし候由、めづらしく候。併村中さわぎ迷惑察入候。下田とやらへ漂著いたし候由、先達而江戸より申來候。筆談など出來候者は一向無之由、足下御療治に被御頼被成候はゞどのやうなる樣子、なんぞ筆話などは不被成候哉、夫らも禁じ候事に候や、再便くわしく被仰聞可被下候。一昨日とか當地鞆浦へ著いたし候由、とり/″\噂有之候。」

     その九十二

 (ぶん)(くわ)(へい)()(ぐわつ)(さく)()(てい)(しよ)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた。わたくしの(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(この)(しよ)(もつ)(へい)()のものとするのは、(しも)の一(せつ)あるが(ゆゑ)である。「三月廿一日、京都天變大雹ふり候由、御受禪の日に候處、のび候よし、定而御地にも噂可有之候。」わたくしはその(にん)(かう)(てん)(のう)(じゆ)(ぜん)なるを(おも)ふのである。

 (この)(しよ)(なに)(ゆゑ)(ぜん)(はん)()()られてゐる。(のり)(ばな)れにはあらざるが(ごと)くである。(しよ)(ちゆう)()(てい)(はゝ)(なか)(むら)(うぢ)(よめ)(たい)して(けい)()(もち)ゐるを(うれ)へ、(へき)(ざん)をして(いさ)めしめむとしてゐる。「母樣へをりを以被仰上(度)候。御文通妻どもなどへ餘り御丁寧過候て恐入候。私共はやはり呼ずてに御認被遊候やう可被仰上候。」(おも)ふに(なか)(むら)(うぢ)(くわん)(うぢ)(そん)(けい)するが(ゆゑ)に、(ゐの)(うへ)(うぢ)(きやう)を「呼ずて」にすることを(はゞか)つたのであらう。

 ()(てい)(また)(くわ)(さう)(しゆ)()(まと)()(いへ)(おく)つた。「追而草花類の種さし上可申候。植木屋の物は俗物の玩物なり。たゞありふれたるものなどおもしろく候。」()()(てい)をして(いま)(たく)()()(ひさ)(ところ)()しめたなら、(はた)して(なん)()ふだらうか。()(ちよ)「分身」(ちゆう)に「田樂豆腐」の一(ぺん)がある。()(てい)(この)()(あは)()るべきである。

 (しよ)には()(じん)(にん)()()えてゐる。(その)一。「佐藤も今に臥蓐の由、淺井當春見舞に下り候由、此頃書通に承り候。」わたくしは(おも)(ところ)あつて(この)(しも)(ぎやう)(せう)せずに()く。()(とう)()(ぶん)のために()むが(ゆゑ)である。()(ぶん)(やまひ)()うた人は(あさ)()(しう)(すけ)である。(その)二。「先日鳥羽の中村九皐と申候て畫師尋參り候。力松と申候もの也。二十八九年めに逢申候。京の岸が弟子のよし。外へ添書いたし遣候。長崎まで參ると申居候。畫はかなりにかき候。」(がん)()(もん)(じん)(なか)(むら)(きう)(かう)である。

 七()には()(てい)(ゆめ)()()()てこれを(そく)(せい)した。()(ちゆう)()は「檻前一片看雲坐、林外數聲聽鳥眠」の一(れん)である。(ぜん)(ぺん)()稿(かう)()えてゐる。

 十九(にち)には()(てい)(つま)(きやう)(ぶん)(めん)した。(うま)れたのは(ちやう)(ぢよ)(うめ)である。()(てい)(なに)(ゆゑ)か六(ぐわつ)(さく)(いた)つて(はう)(ざん)これを(まと)()(はう)じた。(こと)(しも)()えてゐる。

 (この)(つき)()(さん)(くわん)の一なる「竹田觀螢」の(とき)である。七(ぜつ)(しゆ)(つく)つた。(かん)(ぽん)(この)()(すゑ)に「右丙子仲夏」と(ちゆう)してある。

 (この)(つき)(すゑ)()(てい)(また)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。しかし(ぢよ)()(うま)れたことは()はなかつた。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)「五月廿六日」の()(づけ)のあるものが(これ)である。(しよ)には(また)(てき)(さい)の七(ちつ)(じゆ)する(しい)()(こと)(つまびらか)()つてある。「壽詩、うた、參り候だけ先々差上候。とかく遠方も近所も埒明不申候。いづれ氣長にあつめ可申候。ぬめ、きぬの部は畫帖にしたため候つもりに候。茶山翁、鵬齋翁の分は、きぬ地ぬめ地表具にいたし候樣に頼置候。大頼(春水)へ頼み候半と申候内に、かの病氣死去に及び候。遺憾に候。しかし新死之人故、たのまなんだもよきかとも被存候。(別項。)壽詩山田へ頼候分、敬軒凹巷宜堂呆翁孫福山口佐藤宇仁館池上へはぬめきぬ地、以上九つ差上候而頼遣し候。左樣思召可被下候。」(やま)()の九()(ちゆう)()(だう)西(にし)(むら)(きふ)()の一(がう)である。()(かなら)ずしも(ちゆう)することを(もち)ゐぬであらう。

 (この)(しよ)(なほ)(せう)すべきものがある。それは(へき)(ざん)()(しよう)の二(てい)(たい)する()である。

 (へき)(ざん)にはかう()つてある。「春來御療用御多事のよし一段之御義と奉存候。山田へ御越被成候由、敬軒よりも委曲御噂被下候。御作等多く可有之、後便御擬示可被下候。此節御佳什因例雌黄仕差上候。」

 ()(しよう)のためには(しも)()をなしてゐる。「方正學詩うつし、朱子家訓等敬助へ御遣し可被下候。」()(てい)(しゆ)(しや)する(ところ)(そん)()(さい)(しふ)(ちゆう)(くわん)()いて(せう)(しゆつ)したものであらう。()(くん)(この)()()へて(さづ)けた(よう)()()るべきである。

     その九十三

 (ぶん)(くわ)(へい)()(ぐわつ)(さく)()(てい)(しよ)(はゝ)()せて(つま)(きやう)(ぶん)(めん)(はう)じた。(はじ)めわたくしは()(てい)(うめ)(せい)()(しよ)(へき)(ざん)(あた)へたのに、一()のこれに(およ)ばなかつたことを(あやし)んだ。しかし(これ)(ぢよ)()(うま)れたことを(もつ)て、(おとうと)(はう)ずべき(こと)となさず、(はゝ)(はう)ずべき(こと)となした(ゆゑ)ではなからうか。「一筆申上まゐらせ候。時しも暑氣相催し候處、彌御機嫌能被遊御入、目出度ぞんじ上まゐらせ候。此方老人(茶山)をはじめ家内皆々無事罷在候。御安心被遊可被下候。然ばけう(敬)儀先月(五月)十九日安産いたし候。母子ともすこやかに肥立申候て、一とう悦申候。是又乍憚御安心被下候樣ねがひ上まゐらせ候。生子は女に御座候て梅と名付申候。左樣思召可被下候。子は隨分丈夫にて大きなる方に候。女子にてすこしおもしろからず候へども、いたし方も無之候。親父樣(適齋)始御親類中へも乍憚御つゐでに御うわさ被遊可被下候。先達而はおけうへ御文下し置れ難有存上まゐらせ候。此度は文差上不申候間あつく申上候樣申出候。當年わ時候おくれ候而、今にあわせなど著用いたし候位に候。隨分時節御いとゐ御用心いのり上まゐらせ候。盆頃あつく有之べきやとぞんじ候。先は右御しらせ申上度如此御座候。くわしくは又々あとより可申上候。愛たくかしこ。六月朔日當賀。讓四郎。御母上樣人々御中。」

 (つぎ)()(てい)は六(ぐわつ)()(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(これ)(たん)(しん)で、「先書(五月二十六日の書であらう)色々くわしく申上候、此信は何の事も無之候へども、便故消息仕候計に御座候」と()つてある。(ちや)(ざん)(とき)(もち)ゐた(こう)()(しよ)してある。

 しかし(この)(たん)(しん)(ちゆう)(かへ)つて(いう)(よう)なる(もん)()がある。それは()(さん)(くわん)(かん)(こく)(こと)である。「此節京にて小生の薇山三觀詩上木仕候。大方七月中には出來可申候。淺井周旋被致候。しかし是は社中始、先々御無言に被成可被下候。尤土産(に)いたし候積り也。」三(くわん)(かん)(ぽん)には(あさ)()(うぢ)(じよ)があつて、(すゑ)に「文化丙子仲夏井毅達夫識」と(しよ)してある。(あさ)()(うぢ)()()(あざな)(たつ)()(つう)(しよう)は十(すけ)であつたと()える。

 (つぎ)に「六月廿六日」の()(づけ)のある(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。(これ)(また)(こう)()である。「當方大小皆々無事に候。暑中折角御自愛、飮食御用心專一に存候。小生東上(歸省)もいづれ盆後と被存候。待遠に被存候。此頃はたび/\夢に見申候。こしをれ歌御目にかけ申候。ちゝ母の旅なるわれをおもへばやよひ/\ごとの夢に見えぬる。菅波武十の歌有之候故乍序懸御目候。何分大暑御用心、乍憚二尊へ可然被仰上可被下候。書外期再信之時候。恐惶謹言。賀の歌はさぬき金比羅牧久兵衞なる者の歌也。」(すが)(なみ)(うぢ)(まき)(うぢ)との(うた)(いつ)した。(まき)(うぢ)(せい)(へき)(さん)(じん)()(この)(ひと)(つう)(しよう)は一に(とう)()()(つく)つてある。(なほ)(かんが)ふべきである。

 (この)(しよ)には(おな)(こう)()()(せん)()()めてある。()は七(ぜつ)(しゆ)で、「東窓即事」と(だい)してある。(その)一は(さい)(かん)(だう)()稿(かう)に「東園矚目」と(だい)してあるものと(おな)じである。「思詩閑坐碧林隈。雨氣侵簾香始灰。幽鳥不知人熟視。苔花啄遍近階來。」

     その九十四

 (ぶん)(くわ)(へい)()(ぐわつ)二十五(にち)(しよ)()()められた()(てい)(こう)()(せん)には(なほ)「東窓即事」の(だい)(しゆ)があつて、(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()えない。「又。一拳菖石小盆池。中畜丁斑與細龜。看弄旋忘亭午熱。游嬉偶爾憶童時。」二()(のち)()()(しゆ)()()へてある。「あつき日のひねもす待ちし夕風は吹くたびごとにめづらしきかな。」()()に「讓」の一()(しよ)してある。

 (なつ)()ぎた。わたくしは()()(せい)()(ちやう)()(こく)(だう)(かん)(なべ)()ぎて()(てい)(あひ)()たのは(この)(なつ)(こと)であらうとおもふ。(なに)(ゆゑ)()ふに、()稿(かう)(へい)()(しよ)(さく)(ちゆう)(かん)に「古賀溥卿見過、賦呈」の七(りつ)(をさ)めてゐて、(その)(けい)(れん)(つき)(りよく)(じゆ)(のぼ)るの()があるからである。「孤身寂寞老荒山。唯喜屡逢君往還。蘇氏文名動天下。賈生經術照朝班。杯傳几榻青燈畔。月上溪巒緑樹間。明日縱有離別恨。清談一夜且開顏。」(あん)ずるに()(てい)()()にあつて(はや)(せい)()(いへ)(おい)(こく)(だう)(あひ)()つてゐたであらう。(かつ)(この)(へん)(だい)二に(ちよう)するに、(こく)(だう)(かん)(なべ)(よぎ)つたことは(すう)()であつたと()える。

 七(ぐわつ)()(てい)(せい)(しん)()(のぼ)つた(つき)である。()(せい)()(なう)(しゆ)に、「留別塾子」の七(ぜつ)がある。「雲山千里一擔簦。暫此會文抛友朋。歸日相逢須刮目。新凉莫負讀書燈。」(けつ)()は七(ぐわつ)()でなくてはならない。

 しかしわたくしは(はつ)(てい)の十六(にち)()()なるべきを(おも)ふ。(なに)(ゆゑ)()ふに(さき)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(ぼん)()()(はう)してあつて、(また)()稿(かう)(ちゆう)「中元有懷江原與平」の五()の七八にも「劉墳聊一酹、對月悵囘頭」と()つてあるからである。

 (これ)よりわたくしは()(なう)(ちゆう)(つい)()(じつ)(かんが)ふべきものを(けつ)(しゆ)しようとおもふ。わたくしは()づ「出門」の()(りう)(もく)すべきものあることを()はなくてはならない。「瞻望南雲心已馳。趨庭僂指想恰々。出門何事還濡滯。垂白之人呱泣兒。」(さん)(やう)(ひやう)して()つた。「精里詩云。東已有家西又家。霞亭亦然。」()(てい)西(せい)()(すゐ)(はく)(ひと)(たれ)か、(また)(くわ)(きふ)()(たれ)か。(かれ)(ちや)(ざん)(これ)(うめ)である。わたくしは(さき)()(なう)(ちゆう)より()(てい)()(こん)()(いだ)した。しかし(この)(くわ)(きふ)()をば(さく)(くわ)してゐたのである。(しよ)(せい)(どく)しなくてはならない。

     その九十五

 ()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)の七十の()(えん)(れつ)せむがために、(きやう)()(まと)()()かむとして、(ぶん)(くわ)(へい)()(ぐわつ)十六(にち)()()(かん)(なべ)(はつ)した。

 ()(せい)()(なう)()つて()(てい)(もと)むるに、()(だい)には(たか)()()(かけ)(をか)(やま)(ふな)(さか)明石(あかし)(まひ)()、一(のたに)()()()(かげ)(あまが)(さき)()(めい)()えてゐて、()(てい)(よど)(ぶね)()つて(きやう)()()つた。

 ()(てい)(きやう)()にあつて(あさ)()(たつ)()(しん)(きよ)()ひ、(しよ)(いう)(ふく)(そう)(てい)(くわい)(いん)した。(たつ)()()()(いん)に、「達夫曾寓予錯薪里僑居」の()がある。(さく)(しん)()()()(まち)である。(ふく)(そう)(てい)はいづれの()(てい)なるを()らない。

 (きやう)()より()(せの)(やま)()(いた)()(じやう)()(なう)には(なつ)()(みな)(ぐち)(すゞ)鹿()()(めい)()えてゐる。

 ()(てい)(やま)()(いた)つて(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(あう)(えふ)(くわん)()うた。「千里訂期客始來。主人相見兩眉開。」(つい)(しよ)(いう)(くわ)(げつ)(ろう)(くわい)(いん)した。わたくしは七(りつ)(こう)(はん)(せう)する。「不見詩窮老東野。依然歌妙舊園桃。感來杯酒還無數。年少結交多二毛。」()(きう)(らう)(とう)()(こう)(けん)(ひがし)(きつ)(いん)である。

 ()(てい)(まと)()(かへ)つて(てき)(さい)(じゆ)(えん)(れつ)した(とき)(じやう)(きやう)は七()(ちやう)(へん)(うつ)(いだ)されてゐる。わたくしは(すで)に一たび(この)()(ぶん)(せき)して(さい)(ろん)したことがあるから、(いま)(また)(ぜい)せない。(こゝ)には(たゞ)()(ぞく)(ねん)()(ちゆう)して()きたい。「游子省親日。高堂上壽時。小弟及一妹。次第侍嚴慈。」(げん)(くん)(てき)(さい)七十、()(くん)(なか)(むら)(うぢ)五十二、()(てい)(じやう)三十七、(へき)(ざん)()(ちやう)二十二、(りやう)(すけ)十九、()(しよう)()(ねい)十五、(ぢよ)(つう)(ねん)()()(しやう)である。

 ()(えん)(へき)(しやう)には(しよ)()の「秋菊有佳色」の(しい)()()(つら)ねられたことであらう。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にも()(せん)(じやく)(かん)(えふ)(まじ)つてゐる。わたくしは(たゞ)(かは)(さき)(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)(ちゆう)より()(ちや)(ざん)(さく)(せう)(しゆつ)する。(ほん)(しふ)()せざる(ところ)なるが(ゆゑ)である。「北條適齋先生七十壽言、同賦秋菊有佳色。秋菊有佳色。采々泛杯觴。衆賓酬且酢。四坐澹清香。主人卜薖軸。齒操長隣郷。二子倶英發。美行名已揚。主客皆藻士。歌頗聲琳琅。予辱瓜蔓末。拍帨情特長。恨在千里外。不得歡一堂。願各分君福。家庭致壽昌。願同師君操。晩節保芬芳。」(てき)(さい)(こと)()()(ちゆう)「薖軸」は()(ゑい)(ふう)より()でてゐる。(えい)(はつ)の二()()(てい)(へき)(ざん)で、(りやう)(すけ)()(せう)(けい)(すけ)(せう)(ねん)とは(あづか)らない。(ちや)(ざん)(みづか)(じよ)する()に「予辱瓜蔓末」と()つてある。(てき)(さい)(さだめ)(かん)(げき)()へなかつたであらう。

 ()(てい)(まと)()にあつて(いけ)(がみ)(りん)(さい)(いへ)()ひ、(また)(たか)()(ばい)(をう)(いへ)()うた。就中(なかんづく)(たか)()(うぢ)(ばい)(あう)には(しゆ)(かく)十七(にん)(きた)(あつま)つた。「尊空童走市。席滿客茵苔。」

 ()(なう)()るに、()(てい)(まと)()より(また)(きやう)()(いた)つて(せう)(りう)した。(そう)(げつ)(こう)を三(しう)(ゐん)()うた()(しゆ)の一に、(げつ)(こう)()(せき)(ちよう)すべきものがある。「三秀院賦呈宣長老。(節録。)聞説明春向對州。波濤萬里去悠々。路過薇海如思我。爲卸高帆鞆浦頭。」(げつ)(こう)(たい)(しう)(かう)()(ねん)(てい)(ちう)なることが(これ)()つて()られる。()(てい)(また)(にん)(いう)(てい)(がん)(きよく)(けん)(れき)(いう)した。

 ()(じやう)(かん)(なべ)(はつ)してより(のち)()(てい)(かう)(ぢゆう)には一も(つき)()(ちよう)すべきものがない。就中(なかんづく)(うら)むべきは()(なう)(まと)()()(えん)()(ちゆう)せなかつたことである。()(えん)(おそら)くは(てき)(さい)(せい)(じつ)(ひら)かれたことであらう。(しか)るに(てき)(さい)()()歿(ぼつ)(じつ)(しよ)して(せい)(じつ)(しよ)せない。

     その九十六

 ()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)(ぶん)(くわ)(へい)()(あき)七十の()(えん)(ひら)き、()(てい)(かん)(なべ)よりこれに(おもむ)いた。わたくしは(この)()(えん)()()(せい)()(なう)(ちゆう)せられざるを(うらみ)とした。(しか)るに(こゝ)()(とう)()(ぶん)の一(しよ)があつて、(この)(けつ)(かん)(おぎな)ふべきが(ごと)くである。(また)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)の一である。

 ()(ぶん)(しよ)には(あて)()()い。しかしその(てき)(さい)()(あた)へたものなることは(あきらか)である。「御書翰被下忝拜見仕候。朝夕秋冷、益御全家樣御清福被成御座奉恭賀候。然者十日(丙子閏八月十日)御祝筵御開被成候に付、香魚壽苔御申こし被成、香魚水後に而取がたく纔十五頭得申候(て)さし上申候。明日迄は置がたく候と奉存、やかせ差上候。壽苔、菊花漬御祝儀迄に呈上仕候。御祝納可被下候。菊花漬今少し有之候へば宜候處、是ほどならでは無之呈上仕候。右今日より水に御醮し鹽出し被成、御したし物に御あしらい被下度候。香魚の料二匁(一字不明)申受候。殘五錢目御返進申上候。(中略。)御賀章之義、御斧正被下候上認め上申度奉存候。詩先認め上申候。御風正可被下候。菊有黄花又白英。侵凌風露帶秋榮。羅家不獨呈祥瑞。況復讓君延壽名。右奉賀適齋北條君七十。佐藤昭拜草。伏乞風正。延壽客、避邪翁は仙經にありと、琅瑘代醉に見え申候。自註無之候而も宜候哉御尋申上候。何れ近日拜面可申上候。先は取急ぎ草々如此に御座候。頓首。閏八月九日。尚以尊大人樣へ別段書中御祝詞可申上候處、急ぎ不得其意候。乍末筆宜被仰上可被下候。尚々此節は近年之大水、貴郷は無御別條候哉、乍次御尋申上候。當地は格別之事無之候。鳴海邊は大分當り候處も有之(由)承り申候。」(あん)ずるに()(ぶん)(この)(しよ)()(てい)(あた)へたものである。(へき)(ざん)(こう)(しん)なるが(ゆゑ)に、縱令(たとひ)(こつ)(せい)()(れい)()ぎずとせむも、()(ぶん)はこれに(てん)()(ちゆう)すべきものなりや(いな)(たゞ)すべきではなからう。

 それはとまれかくまれ、(てき)(さい)七十の()(えん)(ぶん)(くわ)(へい)()(じゆん)(ぐわつ)()(ひら)かれたことは(うたがひ)()れない。()(ぶん)(この)(しよ)(たま/\)(そん)してゐたのは(じつ)(よろこ)ぶべきである。

 (じゆ)(えん)()(はた)して(じゆん)(ぐわつ)()であつたとすると、七(ぐわつ)(こう)(はん)(かん)(なべ)(はつ)して()(せい)した()(てい)は、八(ぐわつ)(くわ)(はん)()()(しつ)()(おく)つたであらう。(てつ)(かん)(しん)()(じよ)に「文化十三丙子八月」と(しよ)するを()れば、(この)(ぶん)(ごと)きは(まと)()()(せい)(ちゆう)(ぞく)稿(かう)(かゝ)ることが(あきらか)である。

 (さき)にわたくしは(じゆ)(えん)(てき)(さい)(せい)(じつ)(ひら)かれたであらうと()つた。しかし(げん)(みつ)()ふときは、(へい)()(じゆん)(ぐわつ)()(せい)(じつ)ではなからう。歿(ぼつ)(ねん)より(げき)(すゐ)するに、(てき)(さい)(えん)(きやう)(ねん)(うま)れた(はず)である。そして(えん)(きやう)(ねん)(てい)(ばう)には(たゞ)(じゆん)(ぐわつ)がないのみでなく、(この)(とし)(じゆん)(ねん)でなかつた。(しひ)(すゐ)(そく)(たくま)しうすれば、(てき)(さい)(てい)(ばう)(ぐわつ)()(うま)れたのに、(その)()(えん)(おく)るゝこと一(げつ)にして、(じゆん)(ぐわつ)()(ひら)かれたかともおもはれる。

 わたくしは()(なう)()つて()(てい)()(せい)(つゐ)(じよ)し、(すで)()(てい)(まと)()()し、(きやう)()(いた)つて(ざん)(りう)したと()つた。(これ)より(しも)、わたくしは(きやう)()より(かん)(なべ)(いた)(りよ)(てい)()するであらう。

     その九十七

 ()(てい)(ぶん)(くわ)(へい)()(ぐわつ)(かん)(なべ)(はつ)して(まと)()()(せい)し、(ちゝ)(てき)(さい)の七十の()(えん)(れつ)して(のち)(くびす)(めぐら)した。そして(きやう)()()つて(せう)(りう)した。(この)(あひだ)()(せい)()(なう)には一として(げつ)(じつ)(つまびらか)にすべきものがなかつた。

 ()(なう)()(てい)(きやう)()(はつ)するに(あた)つて、(はじめ)て「閏八月念五日」の(もん)()(てん)(しゆつ)してゐる。(まと)()(じゆ)(えん)にして(はた)して(じゆん)(ぐわつ)()(ひら)かれたとすると、()(てい)(これ)より(のち)(すで)に十五(にち)(けい)(くわ)してゐる。「閏八月念五日。從嵯峨歩經山崎櫻井。(中略。)到芥川宿。翌(二十六日)尋伊勢寺。(中略。)宿禪師(國常)之院。其翌(二十七日)登金龍寺。下到前嶼、乘舟至浪華。」(これ)より(しも)()(なう)(ちゆう)する(ところ)()(めい)は、(さかひ)(たか)(しの)(はま)(しの)(だの)(もり)()()(かん)(ざき)西(にしの)(みや)の六(しよ)()ぎない。(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()()(だち)()(かう)の二(にん)(おく)つて(かん)(ざき)(いた)り、(さけ)()(こう)(てい)()んで(わか)れた。「客意蕭條共憶家。重陽時節各天涯。巴江亭上三杯酒。暫破愁顏對菊花。霞亭。」(とき)(あたか)()れ九(ぐわつ)()であつた。

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)()()(かん)(いん)()(てい)()せた一(しよ)があつて、(すゑ)に「閏月廿八日、百々内藏太、北條霞亭樣」と(しよ)してある。(これ)(じゆ)()()せた(とき)(しよ)で、そのこれを(さい)した()()(てい)(おほ)(さか)(たつ)した()(じつ)である。(すゐ)するに(かん)(いん)(しよ)(きやう)()より(とう)(かう)して(まと)()(いた)り、()(てい)はこれに(はん)して(おほ)(さか)より西(さい)(かう)して(かん)(なべ)(むか)つたであらう。「誠(に)先比者御來訪被下忝、併紛冗不得寛晤、匇々殘念不少奉存候。其節蒙命候壽詩及延引申候。此節淨寫仕、呈案下候。久絶文雅、藻思荒落、別而拙劣、深(く)愧入申候。舊交の誼に酬候迄に候。御笑覽可被成下候。御絹者跡より可呈候。此二枚御勝手の御屏風にも御押被下候はゞ忝奉存候。近所にも候はゞ、麤末の屏風御避風の爲に進上も可仕候も、遠路不任鄙中候。書は山脇法眼へ代筆相頼申候。小生拙筆故、代筆にて呈し申候。畫は竹内由右衞門と申人、狩野家にては舊名ある人に候。畫工之氣習無之候故相頼かかせ申候。甚圖陋(杜漏か)御海恕可被下候。近日御入京も被成候はゞ、好時節にも候故、久々にて御郊行陪遊仕度奉企翹候。山口君並賢弟惟長君(に)も宜御致意可被下候。當春賜書候返書相認め郵亭へ差出し申候。未著候哉。毎々御懇篤之御投書被下忝、御高作も御見せ被下忝奉存候。呉々も宜く御致聲可被下候。北小路へも申聞候も未詩作不脱藁候故、先差上くれ候樣被申候故、今便小弟のみ申上候。何分御入京之節御知らせ可被下候。草々頓首。」

 (これ)()つて()れば()(てい)(じゆ)()(きた)(こう)()(まい)(くわい)(かん)(いん)とに()うた。(しか)るに(かん)(いん)()()()つた。()(てい)(わう)()(かん)(いん)西(にしの)(とう)(ゐん)(たけ)()(まち)(きた)()うたが、(へん)()には()げずして(きやう)()()ぎた。()(てい)()()(とき)(きぬ)(おく)つたのに、(かん)(いん)(あへ)()けず、(べつ)(しよ)(ぐわ)(まい)(せい)して()せたらしい。()(かん)(いん)(つく)り、(やま)(わき)(とう)(かい)をして(しよ)せしめ、(ぐわ)(たけの)(うち)(しげ)(かた)をして(つく)らしめた。「麤末の屏風御避風の爲に進上も可仕候も、遠路不任鄙中候。」(あるひ)()(れい)()ぎざるやも(はか)られぬが、(いん)(ぎん)(いたり)である。(きぬ)()けざる(ゑん)(りよ)()ひ、(この)()(しやく)()ひ、(れい)(ぞく)(あつ)(きん)(じん)()(れう)(およ)ばざる(ところ)である。「進上も可仕候も」、「北小路へも申聞候も」、(この)()()は「へども」の()である。わたくしは(この)()()()()(もつ)(はなはだ)(あらた)なるものとなしてゐたが、(かん)(いん)(しよ)(ちよう)するに(はや)(ぶん)(くわ)(ちゆう)(おこな)はれてゐたと()える。

     その九十八

 (ぶん)(くわ)(へい)()(ぐわつ)十五(にち)()(てい)(せい)(しん)(たび)より(かん)(なべ)(かへ)()いた。(こと)は十(ぐわつ)(さく)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)()えてゐる。「浪華より凹巷へ托し一書差上候。凹巷雨航(此二字不可讀、據詩嚢填之)二君と尼崎に而御別申候而、當(九月)十五日初更歸宅いたし候。(中略。)凹巷別後は獨行故、夫に短日、溪山中興も有之候へども、いそぎ候而歸り申候。京都はすぐ通り、嵯峨へ立寄兩宿いたし候。淺井宅に一宿いたし候。かの人例の篤實家、何か(と)よく周旋いたしくれられ候。醫事大分行はれ候やうに見え候。可悦候。急にさむくなり候而孫福のどうぎと淺井の袷著に而やう/\ふせぎ歸宅いたし候。御一笑可被下候。(中略。)塾翁始、家族皆々無事罷在候。乍憚御安意可被下候。此度は凹巷君御寵送、殊之外御苦勞奉存候。かの人の庇蔭に而名勝等色々探索仕相樂候事に御坐候。宇公へ新宅之方位御尋被成候哉。」

 (この)(しよ)(すゑ)に「十月朔」と(しよ)しながら、(ぶん)(ちゆう)には(かん)(なべ)()いた()を「當十五日」と(しよ)してゐる。(これ)(せん)(げつ)十五(にち)()ふべきを、ふと(あやま)つたものである。()(なう)()るに()()(りやう)宿(しゆく)は三(しう)(ゐん)(がん)(きよく)(けん)とである。(がん)(きよく)(けん)(また)(そう)(ゐん)であつたことが()()つて()られる。(つぎ)の一宿(しゆく)(あさ)()(たつ)()(いへ)であつた。(たつ)()()(げふ)としてゐた。(まご)(ふく)(まう)(しやく)(おく)つて(こゝ)(いた)つて(わか)れたと()える。(つい)(あまが)(さき)(いた)つて(あふ)(こう)()()つた。()(てい)(これ)より(どく)(かう)したのである。「一別今朝獨杖藜。」わたくしは(かみ)に二()()むべからざるものがあることを(ちゆう)した。(これ)(かつ)(ぴつ)にあらず、()(しよく)にあらず、(さう)(たい)(べん)(がた)きものである。(あるひ)は「觀魚」であらう()(すゐ)するに()()(だち)(うぢ)の一(がう)にしてわたくしの(いま)()るに(およ)ばざるものであらう。

 (しよ)には(なほ)(じゆ)()(こと)がある。「壽詩あつまり候分差上候。御接手可被下候。山田社中の詩追々まゐり候はゞ御寫録御遣し可被下候。」()(てい)(そう)(けん)したものは、()()(ちゆう)(もし)くは()()(かん)(なべ)(あつ)まつた(しよ)(さく)である。()(てい)()()(びと)(しよ)(さく)()むことを(ほつ)してゐる。

 わたくしは(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(しゆ)()なき一()(へん)(こゝ)(さふ)(にふ)すべきものかとおもふ。それは()(ところ)(もつ)(まと)()より(かへ)つた(とき)(こと)となす(ゆゑ)である。「二白。先達而見受候處、敬助儀上送(逆上)のためとて元服いたし居申候。病の事はいたし方も無之候へども、髮有之候ても各別違ひ候ものにも有之間敷候間、やはりはやさせ(總髮)醫生にしたて候事可然候。尤頭つきにより候ものには無之候へども、御地など風俗あしき處に而惡少年などの中に居り候事故、人に違ふて身持等正しく無之候へば、よき人にはなられ申間敷候。髮など人にちがひ候へば人も自然とかわり候ものに候。是非見合、のばさせ可被成候。併頭つき人がらはどのやうになり候ても、性根あしければなんの益に立不申候。是第一之事也。」

 (おな)じ十(ぐわつ)二十一(にち)()(てい)(また)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(ぜん)(しよ)(とも)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。(しよ)()(ところ)(おほ)(じゆ)()(こと)(かゝ)つてゐる。

 (その)一。()()(かん)(いん)。わたくしは(まへ)にその()(てい)(あた)ふる(しよ)(せう)して、()(ふく)(きやう)()より(まと)()(そう)()せらるべきを(おも)つた。(しか)るに()(ふく)(かへ)つて(かん)(なべ)(いう)()せられた。(おそら)くは(きやう)()(へん)(おい)()(てい)西(せい)()()るものの()()ち、(ことさら)(びん)()(はん)(けん)せられたのであらう。「百々兄より詩被遣候。此便は餘り大きなるものに而人に托しかね候。追而差上可申候。詩は。金葩翠葉數枝新。老圃秋容巧寫眞。要識此花生面目。高堂正有古稀人。題菊畫壽北條霞亭先生尊翁七十。書は山脇道作樣御認に而甚大幅、二枚折屏風になり候位、菊の畫も添候。」

 (その)二。(きた)(こう)()(まい)(くわい)。「北小路先生より(の)壽詩うつし拜見仕候。辱奉存候。未此方へは參り不申候。」玫(まい)(くわい)()(まと)()(おく)られ、(へき)(ざん)(うつ)して(あに)(しめ)したのである。

 (その)三。(そう)(げつ)(こう)。「月江長老の詩並に書状は九月中西村及時君方迄達し候由に候。」

 (じゆ)()(こと)(いま)()きない。わたくしは(しも)(ぞく)(せう)しようとおもふ。

     その九十九

 (ぶん)(くわ)(へい)()(ぐわつ)二十一(にち)()(てい)(しよ)に一、(かん)(いん)。二、玫(まい)(くわい)。三、(げつ)(こう)(じゆ)()(こと)()えてゐることは(すで)()つた。(つぎ)

 (その)四。()()()(こう)()(すけ)(たる)。「勘解由小路樣御作も被下候樣子、是もまだ參り不申候。御苑御菊、勘解小路殿より御周旋被遊候由、難有幸と奉存候。菊は參り候樣子に候へども、いかゞいたし候而參り候や承度候。切り而花かれ候はゞ、大切にをし花になりとも被成置度候。追而拜見仕度候。」

 (その)五六。(ない)(とう)(くわう)(さい)(すゞ)()()(ざん)。「此方より内藤老大夫並に鈴木文學詩は茶山翁書中山口(凹巷)迄達し候由に候。しかし其方へ參り不申候はゞ、序に御聞可被下候。詩はうつしをこちらへ御遣可被下候。」(ない)(とう)(たい)()(ぶん)(くわ)(かふ)(じゆつ)(けん)(しよう)(へん)()えてゐる(ない)(とう)(かげ)(みつ)であらう。(くわう)(さい)(いん)がある。()()(がく)(すゐ)稿(かう)(ほん)(ふく)(やま)(ふう)()(しふ)()れば、(くわう)(さい)(つう)(しよう)(かく)右衞()(もん)である。(すゞ)()(ぶん)(がく)(けい)(すけ)である。

 (その)七。(こう)(しん)(しや)(いう)。「山田社中御作も其方より御催促被成、御集録可被下候。」(こう)(しん)(しや)(いう)(さく)(あつ)むる(にん)(へき)(ざん)にあるのであつた。

 (まと)()(いへ)(あつ)まつた()は、(うつ)して一(くわん)となし、(たか)()(ばい)(をう)(もと)(とゞ)め、()(てい)(ふく)(ほん)(つく)つて(たづさ)(かへ)つた。しかし(せう)(しや)(くわう)(りやく)があつたので、()(てい)(さら)(へき)(ざん)をして(ふく)(ほん)(つく)らしめ、()(せう)(ぼん)()へようとした。わたくしは(しも)(ぶん)(かく)(ごと)くに()むのである。「梅坳(高木氏)に壽詩卷は有之候。併ながら御手透之節、又々一通りていねいに御録寫可被下奉頼候。此方のはそちらへ差上可申候。外より段々見せくれ候へと被申候が、小生匇略にかき候故見苦敷候故に候。かわりめのなき題言はかくに不及、少し事の有之候題は御書き可被下候。姓名の下の處附は此方にていたし可申候。」

 ()(てい)(しよ)(はう)(しう)(こと)にも(げん)(きふ)してゐる。「北小路百々へは此方よりも三觀(薇山三觀刊本)か何ぞ産物にても挨拶之印に遣し可申候。百々は格別、北小路は折角御周旋被下候間、當冬伊勢鯔つつこみ一尾にても、大坂園部迄御遣可被下候。此方へも一尾被仰付可被下候。いづれもこれは飛脚は御無用、冬の中に船便大坂迄、とくといたし候船頭御頼可被下候。しかし御面働ならば御見合可被成候。」

 ()(てい)(ぜん)(しよ)に、()(かう)(はう)()()ひしや(いな)()つた。(この)(しよ)にも(また)(この)(こと)(はん)(ぷく)してある。(あん)ずるに(まと)()(ほう)(でう)(うぢ)(まさ)(しん)(をく)(かま)へむとしてゐたであらう。「雨航に方位造作(之)事御尋被申候哉。是も大方此節は浪華勤と被察候。」()()(だち)()(かう)(けい)(はふ)(がく)(つう)じてゐたものと()える。

 十一(ぐわつ)十七(にち)()(てい)(また)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(また)(まと)()(しよ)(どく)の一で、その()(ところ)(たゞち)()(ぜん)(しよ)(せつ)してゐる。()(じゆ)()(こと)(せう)する。「壽詩あつまり候分差上候。御落掌可被下候。内藤は内藤角右衞門と被申候御隱居之國老に御坐候。鈴木、伊藤とも福山教授文學に御坐候。北小路より詩參り候哉、此方へは屆不申候。」(ない)(とう)(たい)()(ぜん)(かう)(ごと)(かく)右衞()(もん)(かげ)(みつ)であつた。(すゞ)()(くん)(ぺき)よりして(ほか)(いま)(あらた)()(とう)(ぶん)(がく)()(いだ)された。()(とう)(こう)(かう)(あざな)(てい)(ざう)(ちく)()(がう)した。(じん)(さい)()(なん)(ばい)()(ちやう)(えい)(とう)(がい)(おとうと)(かい)(てい)(ちく)()(および)(らん)(ぐう)(あに))、(ばい)()()(なん)(らん)(ゑん)(くわい)()(らん)(ゑん)(ちやう)(なん)(ちく)()である。

     その百

 ()(てい)(ぶん)(くわ)(へい)()十一(ぐわつ)十七(にち)(しよ)はわたくしに(ほう)(でう)(うぢ)(ぢゆう)(えう)なる一()のあつたことを()らしめた。それは(たう)()()(てい)一人(ひとり)(おとうと)(りやう)(すけ)(すで)(さい)(めと)()()ませてゐたと()(こと)である。「良助女子出産之由、目出度悦候。彼方へもよろしく御祝儀可被下候。なんぞと被存候へども、遠方故不任心候。又々折も可有之候。二尊へも御祝詞可然奉頼候。」

 (すで)(しば/\)()した(ごと)く、(てき)(さい)()(じやう)(らう)(じやう)内藏(くら)()(らう)(げん)(てい)(ざう)(だい)(すけ)()(ちやう)(りやう)(すけ)(けい)(すけ)()(ねい)の六(にん)であつた。就中(なかんづく)内藏(くら)()(らう)(てい)(ざう)の二(にん)(さう)(せい)した。(へい)()(とし)(そん)してゐたものは、()(てい)(じやう)(らう)三十七、(へき)(ざん)(だい)(すけ)二十二、(りやう)(すけ)十九、()(しよう)(けい)(すけ)十五である。

 (ほう)(でう)(うぢ)()()()るに、(りやう)(すけ)(たに)(をか)(うぢ)(おか)してゐる。(あん)ずるに(たに)(をか)(ぼう)(りやう)(すけ)(やしな)つて()としたのは、(おそ)くも(へい)()(さう)(しゆん)であつただらう。(この)(しよ)()(ところ)(せい)(たん)(たに)(をか)(りやう)(すけ)(ちやう)(ぢよ)(せい)(たん)である。(りやう)(すけ)(てき)(さい)(しよ)()(ちゆう)にあつて、()(せい)(にぶ)く、(がく)(げふ)(なり)(がた)かつた()(せう)()であつた。(おも)ふに(たに)(をか)(うぢ)()(げふ)はこれを()ぐに(どく)(しよ)(じん)(もと)むることを(もち)ゐなかつたのであらう。

 (この)(しよ)には(しよ)(いう)(せう)(そく)(きはめ)(とぼ)しい。(たゞ)「此間山口氏(凹巷)宜堂兄(西村及時)などより御状被下」(うん)(ぬん)()()るのみである。

 ()(てい)(じゆつ)(さく)(こと)(しよ)(ちゆう)に二(でう)ある。(その)一。「先日紀行詩四十首計卒業いたし候へども、副本無之故、又又追而可入御覽候。山口へ一本遣し候。彼方(山田)にて見てもらひ候上、其方(的矢)より此方(神邊)へ御返却可被下候。」()(かう)()(まと)()(わう)(へん)した(とき)(さく)であらう。(かん)(ぽん)()(せい)()(なう)()する(ところ)()(こん)(たい)五十四(しゆ)である。(あるひ)(おも)ふに(その)四十(しゆ)(きよ)()()つて()の十(すう)(しゆ)(のち)()(さく)せられたものか。

 (その)二。「山口、宜堂より杜詩註解、詳説、心解等御惠借被下候。遠方辱奉存候。是は來春中に卒業仕たく候。」(これ)()つて()れば()()(さふ)(ちゆう)(へい)()(ふゆ)()稿(かう)する(ところ)であつた。()(てい)はこれがために(あふ)(こう)(きふ)()(しよ)()りた。

 ()(てい)(つぎ)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)は、(まつ)(ぷく)(だん)(れつ)してこれを(つく)つた(つき)()()ることが()()ない。しかしその()(はつ)(さい)()(しよ)を「十一月十七日」とするを()れば、(たゞち)(ぜん)(しよ)()ぐものなることは(あきらか)である。(これ)(また)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。

 ()(てき)(さい)(じゆ)する()(こと)(せう)する。「北小路より御高作被下候。此信呈上仕候外に勘解由(今次不脱由字)小路樣御染筆等皆北小路御周旋被下候。足下よりも厚く御禮書状御差出し可被下候。ぼらにても御序に御遣し可被下候。三紙共縉紳家の御筆に候。いづれ後便御家號、爵位等尋遣可申候。」(しよ)()(きた)(こう)()(まい)(くわい)()()()(こう)()()(しよ)(ほか)(こう)(きやう)(しよ)(まい)をも()(きやう)()(おく)つた。

 ()(てい)()(つく)つて(じやう)(あん)()ふものに(おく)つた。「常安へ此詩御遣可被下候。甚拙作也。只塞責耳。」(この)()()稿(かう)()えない。

     その百一

 (ぶん)(くわ)(へい)()十一(ぐわつ)十七(にち)()()(てい)(しよ)には()(ねん)(てい)(ちう)(ちや)(ざん)七十の()(こと)()えてゐる。「此方茶山翁來春二月七十壽辰、同伯母(原註、翁妻)も六十一に御座候。夫妻とも賀年にあたり候。伯母の事は女の事故しらぬふりにてもよろしかるべく候。翁へは御宅よりも何ぞ御祝儀可被下候。先達而金子に而酒料參り候と覺え候。同じやうにてもかつこういかがあるべく、其節の間に合不申候てもよろしく、いつにても何ぞ思召付之品御賀進可被下候。大人へ御相談可然候。翁とかくすぐれ不申候へども、對客講釋はたえず有之候。」

 (くわん)(うぢ)()()()るに、(ちや)(ざん)(しよ)(はい)(うつ)()(うぢ)(ため)で、(てん)(めい)(ねん)(じん)(いん)(ぐわつ)十七(にち)歿(ぼつ)した。(とし)(わづか)に二十三であつた。(こう)(さい)(もん)(でん)(うぢ)(のぶ)で、(ぶん)(せい)(ねん)(へい)(じゆつ)(ぐわつ)十九(にち)歿(ぼつ)した。(ちや)(ざん)(さき)だつこと一(ねん)にして歿(ぼつ)したのである。

 (この)(しよ)()(ところ)()るに、(のぶ)(てい)(ちう)に六十一(さい)になるさうである。(しか)らば(その)(せい)(ねん)(はう)(れき)(ねん)で、歿(ぼつ)した(とき)は七十(さい)であつた(はず)である。

 (この)(しよ)は三たび()(かう)()(さう)(こと)()いてゐる。「雨航より此間書状まゐり候。歳晩(丙子)か初春(丁丑)には御宅(的矢)へも被參候而家相得と見可申由被申越候。繁用なる人故、如意被參候哉無覺束候。いづれ可然御頼可被成候。」

 これよりして(ほか)(しよ)(ちゆう)(あま)(ところ)は二三の(ざつ)()のみである。(その)一。「池上鄰哉之詩いつぞ御序に御返し可被下候。」(りん)(さい)()とはいかなる(さく)であらうか。(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)(けみ)するに、()(てい)(へい)()()(せい)した(とき)(しよ)(いう)(あひ)(くわい)する(ごと)(ひがし)(こう)(けん)(おも)()(つく)つた。(りん)(さい)に二(ぜつ)がある。所謂(いはゆる)(りん)(さい)()(あるひ)(これ)()。「花月樓作。秋風此夕不蕭條。一曲絃歌聲欲飄。縱使幽明路相隔。沈檀一瓣爲君燒。」「漑蘭社集、憶恒軒先生、時霞亭先生歸省自備後。逢霽逢君把酒頻。有情有感剪燈親。秋窓閑話皆依舊。唯是此中少一人。」(くわ)(げつ)(ろう)(しふ)()(てい)()()(なう)(しよ)(さい)「行邁忽忘旬日勞」(うん)(ぬん)の七(りつ)である。(その)二。「薇山三觀御入用も候はゞ被仰越可被下候。何部にても差上可申候。」()(てい)は三(くわん)(もつ)()()()てたので、(でん)(ぶん)して()ふものもあつたのであらう。

 ()(てい)(へい)()(しよ)にして(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)するものは(こゝ)()きた。わたくしは(まと)()(しよ)(どく)(まじ)つてゐる一()(せん)(こと)()()したい。

 (せん)に三()(しよ)してあつて、(その)一は(さい)(かん)(だう)()稿(かう)(へい)()(さい)(ぢよ)()(まへ)()えてゐる。「橘好直送新釀彭祖春數斗、酒味勁甚、賦此寄謝」と(だい)するものが(これ)である。(あん)ずるに(よし)(なほ)(ちや)(ざん)(しふ)(ちゆう)()(らう)である。(もん)(でん)()(しふ)()れば(ふぢ)()(うぢ)で、(ひやう)()(ひと)()(さけ)(ちや)(ざん)()(てい)とに(おく)られた。「故人偶以家釀羞。臘味餘辛氣浮々。」わたくしは()の二(しゆ)(こゝ)(さふ)(にふ)すべきものなるを(おも)ふのである。「弔杉林主鈴。(疑齡。)越中出奇士。落魄滯京城。猖獗思阮籍。粗豪壓禰衡。抱痾終歳臥。論志萬金輕。憶起生前日。猶聞罵酒聲。」「伊藤子直君萱堂七十壽言。兒孫遶膝靄慈顏。百歳無□意思閑。應是不騫添壽算。君家檻外有南山。」

 (へい)()(とし)(こゝ)()れた。「歳除、是時杜詩卒業。抱志悠悠何所爲。光陰無待棄予馳。年年筋力成衰境。事事歡情異少時。千里故山抛弟妹。一燈清酌對妻兒。朝來聊有欣然意。注了少陵全部詩。」()()(さふ)(ちゆう)(しよ)(かう)()つたのである。(とき)()(てい)(とし)三十七。

     その百二

 (ぶん)(くわ)十四(ねん)(ぐわん)(たん)には(ちや)(ざん)()があつて()(てい)にない。(かれ)は「東風吹老老梅林、元日今年春已深」の一(ぺん)である。

 ()(てい)は二()(きやう)(しん)()する()(せい)(しよ)(つく)り、八()(はつ)(そう)した。(はつ)(そう)(こと)(しも)(しやう)(ぐわつ)十五(にち)(しよ)(みと)むべき(だん)(ぺん)()えてゐる。(また)(まと)()(しよ)(どく)(うち)にある。

 (しよ)(ちゆう)()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(ひつ)(さつ)(こと)(をし)へてゐる。「習書の思召一段之義と奉存候。法帖類は何と申にても無之、古人帖なれば皆々よろしく候。其中銘々の好尚も有之候間御取捨可被成候。よろしくぞんじ候品にても見當り候はゞ、購求仕差上可申候。併僻境故何もさしたる物無之候。山田邊御出之節御相談可被成候。楷書習ひ候方甚益多かるべく候。小生輩のやうに狼籍にかき習ひ候癖付候而(は)今更去りがたく後悔仕候。」わたくしの(たま/\)(この)()(せう)するは椿(ちん)(ざん)(こう)()(しよう)()(えい)(おく)られた()(じつ)である。二(のみや)()(しよう)()(てい)(うた)(しゆ)()とを(がふ)(さう)したる一(ぷく)(あい)(ざう)してゐた。そして「其書の妙なる殆ど山陽の俗牘に讓らざるものあり」と()つてゐる。「狼籍に書き習」つた()(てい)が百(ねん)()()()()たのは()とすべきである。

 ()(てい)(また)(つぎ)の二(てい)(かう)(がく)(げん)(きふ)してゐる。「良助、敬助素讀等(此下二字不明)出精のよし爲御知大悦仕候。尚又無怠慢樣御心懸可被下候。」

 (また)(やま)()()(しや)(せう)(そく)がある。「山田よりも河崎、西村、長井、文亮子などより書状參候而、くわしく樣子承知仕候。山口は何歟檀家の大金出入事間違候而、公邊かかり合等有之候由、河崎より申來候。餘程取込筋に候へども、例の御氣質故、其中にも格別御不貪著のよし、よしの詩稿百首計も卒業とやらむの事に候。しかし家事取込氣之毒に存候。」(しよ)()せた(かは)(さき)(けい)(けん)西(にし)(むら)(きふ)()(なが)()()六、(ぶん)(すけ)()(てい)である。(けい)(けん)(しよ)(あふ)(こう)(きん)(じやう)()えてゐた。()(しよう)(こと)()(しやう)である。「よしの詩稿百首計」は(よし)()(いう)稿(かう)である。(よし)()(いう)(ぶん)(くわ)()(いう)であつたが、(かん)(ぽん)(すゑ)(けみ)すれば、「文化十四年丁丑孟春、平安書舖梶川七良兵衞開雕」と(しよ)してある。()する(ところ)()は九十八(しゆ)である。

 (その)()(しよ)(ちゆう)には(へき)(ざん)()(てい)()せた(もの)()(てい)(へき)(ざん)()せた(もの)()えてゐる。「霜月末御状除夜に相達し申候。女院日記慥に受取申上候。」(によ)(ゐん)(につ)()とは(ぐん)(しよ)(るゐ)(じゆう)(をさ)むる(ところ)(によ)(ゐん)()()(なほ)(かんが)ふべきである。「近作少々入御覽候。(中略。)此記は認そこなゐに候。入御覽候。外へは御示し御無用に奉存候。」()(へい)()(さい)(ぢよ)(さく)(とう)であらう。所謂(いはゆる)(この)()とは(なに)()(さい)(かん)(だう)()稿(かう)には(はん)()(ていの)()()()(へん)(ぶん)があつて、(みな)()である。(この)(とき)(へき)(ざん)(しめ)したものは(いづ)れの(へん)であらうか。

 (こえ)て四()()(てい)(また)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(また)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。(しよ)()(ちや)(ざん)の七十の()(こと)()つてゐる。「老先生今年二月七十誕辰に候。先達而申上候通御賀儀可被遣候。且御詩作御達可被成候。伯母菅翁妻も六十一に候。この人は法成寺村と申大庄屋の姉に候。門田久兵衞と申人極月末死去いたし候。別段弔書には及申まじく、小生よりよきやうに申置べく候。老先生の賀言はをくれても御挨拶可被成候。大人樣へ已に賀有之候事なれば也。」(ちや)(ざん)(こと)(しばら)()く。(つま)(もん)(でん)(うぢ)(のぶ)(よはひ)との(こと)(かみ)(ちゆう)した。(もん)(でん)(うぢ)(いへ)(やす)()(ごほり)西(にし)()(じやう)()(むら)である。(のぶ)(ちゝ)(でん)(ない)(まさ)(みね)()つた。(へい)()十二(ぐわつ)歿(ぼつ)した(きう)()()(こと)は、()(じつ)(もん)(でん)(うぢ)(けい)()(つい)(けん)したい。

     その百三

 (ぶん)(くわ)(てい)(ちう)(しやう)(ぐわつ)()()(てい)(しよ)には、(なほ)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()()(だち)()(かう)との()()えてゐる。

 「三月末、四月頃には凹巷播州の囘檀の序、此邊へも枉臨可有やうかねて被申候。何卒如意御越有之候はば、小生歡意無此上候。尚御出會も候はば、御勸聳可然候。」(くわい)(だん)とは(だん)()(れき)(ばう)する()()(あるひ)(おも)ふに(あふ)(こう)(しん)(ぐう)(くわん)する(しよく)(ほう)じてゐたのであらうか。()()(つう)(へん)()(しやう)(こと)()つて、(たえ)(しよく)(げふ)(およ)ばない。わたくしの(かい)(しやく)(なや)所以(ゆゑん)である。

 ()(かう)(こと)(まへ)()えた(まと)()(ほう)(でう)(うぢ)()(そう)(こと)(つらな)つてゐる。「雨航正月に御宅へ被參候樣に、小生方へも被仰遣候。併甚繁用の人故、氣之毒千萬に候。御出なくとも濟候事ならば、勞し申さぬ方可然候。先第一申上候は外の事には無之、隨分麤末にいたし、財のかからぬやうの事に候。此意は先達而も申上候。其御主意を御ふくみ被成候樣御頼申上候。」(ほう)(でう)(うぢ)(はた)して()(ぼく)(おこ)さうとしてゐるのであつた。

 (しよ)(ちゆう)()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)のために(さく)()(けつ)(かた)つてゐる。「御詩作隨分おもしろく候。さりながら隨例贊歎いたし候は不深切なる事也。力を極めわるく申候。そこを御考可被成候。讀書の力なくては、詩もよくは出來不申候。御用意專一に奉存候。」()(てい)(がく)(しよく)あつて(はじめ)()()くするものと(しん)じてゐたのである。(えう)するに()(らい)(れき)あらむことを(ほつ)してゐたのであらう。

 (さい)()()(てい)(ちゝ)()()(けん)ぜむとして(あへ)てせぬ(こと)()つてゐる。「大人樣にこの邊のぶり(海鰱)又はさより(鱵)などを差上たく心懸候へども、實はたわいもなきもの、且は諸方へ世話かけ候も氣之毒に候故、先差上不申候。いづれ小生參り候節と奉存候。」

 (この)(しよ)よりして(のち)()(てい)(しやう)(ぐわつ)()、十五(にち)、二十一(にち)(しよ)(まと)()()つた。(こと)(のち)の三(ぐわつ)()(しよ)()えてゐる。しかし(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)には(これ)()()(づけ)(しよ)(そん)してゐない。(たゞ)(しやう)(ぐわつ)十五(にち)(しよ)(だん)(ぺん)(みと)むべき一()(そん)してゐるが、(その)(こと)(しも)(ちゆう)する。

 二(ぐわつ)には三()、七()(しよ)(まと)()()つた。(また)(ぐわつ)()(しよ)()えてゐて、(いま)(つた)はつてゐない。しかし(この)(つき)(ちや)(ざん)(じゆ)(えん)(ひら)かれた(つき)である。(ちや)(ざん)(くわん)(えん)(ぐわん)(ねん)(ぐわつ)()(うま)れた。(いん)(えん)(せい)(じつ)(ひら)かれたことは(うたがひ)()れない。(げん)(ほん)(しふ)()する(ところ)の「醉月迷花七十年」(うん)(ぬん)の七(りつ)にも「七十誕辰」と(だい)してある。しかし(くわん)(うぢ)()(かく)(しやう)じた()(たゞ)(せい)(じつ)のみではなかつた。()(てい)の三(ぐわつ)()(しよ)に「度々賀客の筵有之」と()つてある。()(てい)(じゆ)()は「壽茶山先生七秩」と(だい)する五()で、(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()えてゐる。(へん)(ちゆう)には(つき)()つて()()はない。「此日壽覽揆。青陽二月初。」(こゝ)にはその()(ぶん)()いた(すう)()(せう)する。「吾躬辱姻族。知愛受恩殊。皐比分半席。祿米賑窮厨。抃舞携兒女。一堂侍杯盂。」(つま)(きやう)(ぢよ)(うめ)とを(ともな)つて(せき)(れつ)したのである。

 三(ぐわつ)()(うめ)(はつ)(ひな)であつた。(これ)(また)(ぐわつ)()(しよ)()えてゐる。わたくしは(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)なる九()(へき)(ざん)(あた)ふる(しよ)(せう)する。「今年は塾先生七十に而度々賀客の筵有之、或は私方初ひななどと、俗事に而日をくらし候。花も殊の外はやく皆々落殘いたし候。此邊花なく、一度も出不申候。」(うめ)(かも)(むら)(よぼろ)(だに)にあつて、(かれ)(ほろ)(これ)(そん)してゐたが(丁谷幾叢開滿岸、鴨村千樹墾成田、茶山)、(さくら)(かん)(なべ)(きん)(じよ)(すくな)かつたと()える。

     その百四

 (ぶん)(くわ)(てい)(ちう)(ぐわつ)()()(てい)(しよ)には、(まと)()(ほう)(でう)(うぢ)()(ぼく)(こと)のはかどつた(あと)()えてゐる。「御宅普請の圖等御見せ被下大慶仕候。何分ざつと被成候やう可然、大人樣など御心配無之候樣御心付可被成候。」

 ()(てい)(しよ)(ちゆう)(りやう)(すけ)(けい)(すけ)(てい)(せき)(どく)(かい)(しき)(をし)へてゐる。「良助より年始状辱存候。よろしく頼入候。敬助なども年始暑寒の御見舞状等(此間「塾翁へ」など添へて看るべきであらう)差出させ可被成候。良助はもとより、敬助にても、平生通用之書面隨分俗通之方之文體可然候。學者は却而手紙書状等にうとく、世の中の用に立かね候故、わけ而心付可申候。」()(てい)()(てう)()(たく)(せき)(どく)(よろこ)ばぬのである。

 (やま)()()(しや)(せう)(そく)(くわう)()である。「正月には山田諸君御宅へ御訪被下候由、いまだ此方へは(此間「いまだ」重出)書通無之候。御無事と察入候。」九()(しよ)(こと)(こゝ)(をは)る。

 (さい)(かん)(だう)()稿(かう)(けみ)するに、()(てい)(この)(はる)(いま)(むら)(れん)()()ひ、(また)(ちく)(ぜん)(かぢ)(はら)(つき)(がた)(よし)(とみ)()(きた)()ぐるに(くわい)した。「訪今村綽夫、主人時閲録舊詩草」の七(ぜつ)、「晩春筑藩梶原月形吉富諸君見過、用梶君贈茶山韻」の七(りつ)がある。就中(なかんづく)(いま)(むら)(めい)()(ふく)()(うぢ)(をしへ)()(つまびらか)にすることを()た。(いま)(むら)(かつ)(ひろ)(あざな)(しやく)()、一()()(まう)(れん)()(披一作陂)(また)退(たい)(をう)(がう)した。(つう)(しよう)は五()()である。()(ところ)(ぐう)(ふう)(きよ)()つた。わたくしは(ふく)()(うぢ)(しよ)(ざう)の「蓮坡詩稿」(ならび)に「藕風居百絶」を(ぐう)(もく)することを()た。(こう)(しや)に「今村完綽夫著、廣住翰十五校」と(しよ)してある。(ひろ)(ずみ)(うぢ)(そう)となつて(いう)(けい)(しよう)し、(さい)(ぜん)()(ぢゆう)した。(さん)(やう)(かつ)宿(しゆく)した(てら)である。(いう)(けい)()(かん)(せい)(あん)(がう)した。(ちく)(ぜん)の三()(ちゆう)(かぢ)(はら)(つき)(がた)の二()(ちや)(ざん)(しふ)()えてゐる。(ちや)(ざん)(しふ)(ふぢ)()()(せん)(ちゆう)()るに、(かぢ)(はら)(よく)(あざな)()()(つう)(しよう)は七(たい)()(つき)(がた)(しつ)(あざな)(くん)(ぱく)(つう)(しよう)は七(すけ)(だう)(がう)(せう)(せい)である。

 四(ぐわつ)には()(てい)が六()(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(まへ)の三(ぐわつ)()(しよ)(この)(しよ)との(あひだ)には(つう)(しん)のなかつたことが(ぶん)(ちゆう)()えてゐる。

 ()()(てい)()()(せう)する。「正月來里方妻父病氣に而度々妻など罷越候。それや來客、講業等に而、今年は一度も花も見不申、殺風景罷過候。此節小學詩經講説に而皆々半になり候。」(さと)(かた)(さい)(ちゝ)(ゐの)(うへ)(げん)右衞()(もん)(まさ)(のぶ)である。わたくしは(こゝ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(つき)()()い一(かん)(はさ)みたい。それは(この)(とし)(てい)(ちう)(さく)なることが(あきらか)だからである。「此頃は大分暖氣相催候。(中略。)妻共親早戸村源右衞門此頃大病に而、妻お梅携、十日(正月か)參り居申候。少々よき方にも申候由、併六十有餘の人故、急にも本復出來兼可申候。小生此節獨居甚靜に而、詩歌など出來悦候。(中略。)十八日頃より又々講業にかかり候。」(あるひ)(かみ)()つた(てい)(ちう)(しやう)(ぐわつ)の十五(にち)(しよ)であらうか。(この)(だん)(ぺん)には(なほ)(あさ)()(しう)(すけ)(へい)()(ふゆ)(たう)()つた(こと)(まへ)(なみ)(もく)(けん)(ちゆう)(ふう)(かゝ)つてゐる(こと)()えてゐる。「淺井去冬盜に逢候由新居昨今の事故嘸こまり可申候。狂歌や詩など數々被遣候。何卒ひるみなくとりつづかせたきもの(醫業を謂ふか)と默祷仕候。」「登々庵詩、前波宗匠歌差上候。前波も久敷中風、老耄のきみにて、この位の事も餘程大義に有之候よし。」(以下切れて無し。)(まへ)(なみ)(もく)(けん)()(けい)()、一(がう)(せう)()(けん)(きやう)()(りやう)(がへ)(まち)(でう)(みなみ)()んでゐた。

 (しよ)(いう)(どう)(せい)にして(かみ)の四(ぐわつ)()(しよ)()えてゐるものの(うち)()(げつ)(こう)(しよう)(せん)(こと)()げる。「月江上人も二月御乘船のよし、鞆へは順風に而寄舟無之、三月八日豫州岩木と申處より書状到來いたし候。承芸、天隱など從事いたし候よし、長老より涌蓮歌集、竹(此字不明)たんざく、くわし等數品たまはり候。」(げつ)(こう)(きやう)()より對馬(つしま)(ゆき)(ふね)(のぼ)つたのである。(ずゐ)(かう)には(しよう)(うん)(ほか)(てん)(いん)()ふものがあつた。()(れん)()(しふ)は「獅子巖集」であらう。

 (つぎ)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)である。「凹巷も春來一度も便無之候如何。囘檀用事も延ばし候哉。」

 (つぎ)(あさ)()(しう)(すけ)である。「淺井もいかがいたし候哉、今春はたえて便無之候。御地邊へはいかが。病氣にてもなきや。此間又々尋遣候。」

 (つぎ)()(ぐち)(ぼう)で、(これ)(あるひ)(もん)()(まじはり)にあらざるかとおもはれる。「田口氏書状受取申候。尚又よろしく奉頼候。鯔魚は被遣ぬが甚妙に候。是のみならず、一切贈品御無用に被存候。」

     その百五

 (ぶん)(くわ)(てい)(ちう)(ぐわつ)()()(てい)(しよ)より(こと)(きやう)()(まと)()(くわん)するものを(ひろ)へば、()()(ぼく)(こと)がある。「此節土木事御營作何歟(と)御事多く奉察候。」(つぎ)(こう)(しん)(しや)(どう)(じん)(てき)(さい)(じゆ)する()(こと)である。「山田社中の詩先々朽葉をかるべく候。いづれ其内小生より促し可申候。」(きう)(えふ)()るとは、(すで)()(さく)(ちゆう)()いて(そん)すべきは(そん)し、()つべきは()つる()であらう。(その)(うち)(うなが)すべしとは、(いま)()ざる(さく)(ちゆう)(きう)せむとする()であらう。(つぎ)(ばつ)(てい)()(しよう)(けう)(いく)(こと)である。「敬助へ之書状先達而差出候。尚無油斷御策勵可然候。」

 (しよ)(ちゆう)(なほ)(へき)(ざん)(ちや)(ざん)(じゆ)する()(こと)()えてゐる。「老先生賀詩御序に御淨書被遣可被下候。(中略。)茶山翁賀詩尚又御序に凹巷兄へも御斧正御頼可被成候。併いそぎ候はば、それにも及申間敷候也。」(へき)(ざん)()(そん)せりや(いな)やを()らない。

 (ぜん)(しよ)(つく)つた(のち)()、四(ぐわつ)十二(にち)()(てい)(また)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。しかし(その)(しよ)(いつ)して、(つぎ)の五(ぐわつ)十一(にち)(しよ)(そん)してゐる。(また)(まと)()(しよ)(どく)の一である。()(こう)は「此節少々暑氣相催候處、愈御安祥可被成御揃奉仰祝候」と()つてある。

 (この)(しよ)(まと)()()(ぼく)(こと)()ふこと(やゝ)(つまびらか)である。「此節御普請中嘸御取込奉察候。隱居(所)へ御移被成候由、可然被存候へども、かの隱居(所)は此暑中にむかゐ候ては、御老人方は勿論、其方皆々あつさに御こまり可被成候。暑中に風すきあしき、むし候處にこらへ居候事甚人の毒に御坐候。ひよつと暑熱の入候ては、とりかへしもならず候。普請中はいづれにても近處の宅へひとつに御宿し被成候方可然奉存候。何分足下よく/\御心付可被成候。身の不養生は何にもかへがたく候。此段御心得可被下候。普請出來候のち、壁のかわかぬ處に起臥、是又よろしからず候。兼好が徒然草に人の家は夏をむねとしてつくるべしとあり、夏風いれよく、すずしき處は冬もあたたかなるもの也。草木隨分あき地へ何なりとも多くうへられ候やう可然候。竹松など猶さら也。是皆人のなぐさみのみにあらず、養生になり候たすけに候。去年まき候なでしこはさき申候哉。此方此節一面さき候て見事に候。」瞿麥(なでしこ)種子(たね)()(てい)(へい)()()(せい)()(びん)()より()つて()つたものであらう。それゆゑ(かん)(なべ)(いへ)(その)にも()かれ、(この)(しよ)(つく)つた(とき)(はな)(ひら)いてゐたのであらう。

 (この)(しよ)には(また)(へき)(ざん)()(てい)(その)(じゆく)(れう)(にん)とに(たん)(もの)(おく)つたことが()えてゐる。「塾へ紬一反御遣被下調法之品於小生辱奉存候。塾二位よりも宜敷御禮申上候樣申出候。」一(たん)(つむぎ)は三(にん)()(さい)するに()らない。(なに)(れう)()てしめむとしたもの()

 (この)(しよ)(すゑ)()たれてゐて()(づけ)()い。(なか)に「三月廿日の御状四月十三日相達候」と()つてある。(のち)の六(ぐわつ)十七(にち)(しよ)(ちよう)するに、()(てい)(この)(とし)(ぐわつ)十二(にち)と五(ぐわつ)十一(にち)との(あひだ)には(しよ)(まと)()()らなかつた。(この)(しよ)が四(ぐわつ)十三(にち)(たつ)した(きやう)(しよ)(こと)()つてゐるより()すに、その五(ぐわつ)十一(にち)(しよ)たることが(あきらか)である。

 (つぎ)は六(ぐわつ)十七(にち)(しよ)で、(その)(はじめ)()えてゐる(はつ)(しん)(じゆん)(じよ)はわたくしをして(ぜん)(しよ)(つく)られた()()らしめた。「此方より四月十二日、五月十一日書状差出し候。追々相達可申候。」(この)(しよ)(また)()(てい)(へき)(ざん)(あた)へたもので、(まと)()(しよ)(どく)の一である。

     その百六

 わたくしは(ぶん)(くわ)(てい)(ちう)(ぐわつ)十七(にち)()(てい)(しよ)より、()(こと)(かん)(なべ)(くわん)するものを(せう)する。()(せつ)(すゞ)しき(なつ)であつた。「今年はけしからぬ凉しき夏にて、今月迄各別こまり候あつさも無之候。南國(志摩)は如何候哉。(中略。)殘暑強く有之候半歟。折角御心付肝要に候。此頃朝夕已に秋凉の心を覺え候位に候。」()(てい)の一()()()であつた。「此方無事罷在候。乍憚御安意可被下候。(中略。)何も別段申上候事も無之候。」()(てい)(おほ)(やま)()(しよ)(いう)(ぞう)()()けた。「凹巷より吸物椀よき品御惠投、呆翁よりも右之類御惠投被下候。御出會之節御謝可被下候。河崎、雨航などよりも御投贈もの有之、春來之消息先日一同參り、甚慰遠情申候。」(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(たか)()(ばい)(をう)(かは)(さき)(けい)(けん)()()(だち)()(かう)(みな)(もの)(おく)(しよ)()せたのである。

 (つぎ)(こと)(まと)()(くわん)するものを(せう)する。「御普請近々御落成におもむき可申奉存候。御樣子承りたく候。」()()()()(りう)(さい)()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)(かみ)()(おく)つた。「和氣行藏子より紙子被下候由、御地へむけ參り可申候。御入念之儀と奉存候。何ぞ其内謝答いたしたきものに候。いづれ其内御見合何ぞ御考置可被下候。いつにてもよし。」(これ)(かなら)(じゆ)()(とも)(おく)られたものであらう。

 ()(てい)(この)(しよ)(そう)(ばう)(うち)(つく)つた。「御雙親樣へ別段暑中御見舞書状可差上候處、福山より士人參り待受候(ふ)へ頼候故不克其意候。よろしく御斷被仰上可被下候。」

 (さい)(かん)(だう)()稿(かう)(この)(なつ)(もと)()くべき(こと)(でう)がある。一は「伏日高瀧、島田、小野諸君見過」の七(ぜつ)である。(たか)(たき)(うぢ)(ぼく)(さい)()(せう)(るゐ)(けん)してゐる「高瀧大夫」であらう。そして(どう)(しふ)(すゑ)に「拜高瀧常明墓」と()ふものも(また)(おそら)くは(どう)(にん)であらう。(しま)()(うぢ)(けん)(しよう)(へん)の「嶋田遠」であらう。(いん)(ぶん)()るに「字子廣」である。(ぼく)(さい)(しふ)には「島田子廣」と()つてある。()()(うぢ)(けん)(しよう)(へん)の「小野明」であらう。(いん)(ぶん)()るに(あざな)は「士遠氏」である。(ぼく)(さい)(しふ)()るに()()()(ゑん)()(ところ)(せい)(おん)(てい)()つた。二は「壽楢園先生七秩」の五(りつ)である。(なら)(ぞの)(こと)(らい)(きやう)(へい)()()(つまびらか)である。「姓源。氏小寺。諱清先。通稱常陸介。楢園其號。備中笠岡人。家世奉其邑稻荷祠。考諱清續。稱豐前守。本磯田氏。來嗣小寺氏。故妣小寺氏。(中略。)文政十年丁亥夏患瘍。閏六月廿六日。端坐而逝。年八十。葬于館後山下。」(これ)()つて()れば()(でら)(なら)(ぞの)(くわん)(えん)(ぐわん)(ねん)(うま)れ、(この)(とし)(てい)(ちう)に七十(さい)になつてゐた。(すゐ)するに(せい)(じつ)は六(ぐわつ)(ぼう)(じつ)であつただらう。

 七(ぐわつ)には()すべき(こと)()い。八(ぐわつ)(さく)()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(うち)にある。(てい)(ちう)(ざん)(しよ)(はた)して(はげ)しかつた。「今年は暑中は各別にも無之候へども、殘暑の方却而甚しく候。併此頃は朝夕稍凉冷を覺え候。」

 (かん)(なべ)には(こと)がなかつた。「小生無事罷在候。(中略。)其後諸般相替り候事少しも無之候。」()(てい)()(じやう)(こと)()かむと(ほつ)すること(すこぶる)(せつ)であつた。「御地の御樣子等何に付ても御しらせ可被下候。其外世間のうわさ雅俗にかかわらず説話等御きかせ可被下候。田舍に僻在いたし候ては、世上の事などきくが甚おもしろく一樂事に相成候ものに御坐候。」

     その百七

 (ぶん)(くわ)(てい)(ちう)(ぐわつ)(さく)()(てい)(しよ)には、(さい)()(ちゝ)(てき)(さい)()()(けん)ぜざる所以(ゆゑん)(べん)じてある。「大人樣へ國産(備後産)の索麪にても獻じたく候得共、さまでもなきものを遠方へ差上候て、其上立入候事は大阪よりいせまでの賃錢、いせより御郷里へやるのなにかと(「やるのなんのと」の意歟)費なることに奉存候故、先々やめ申候。産物と申もの、よそへやりて、それほどに人の思はぬもの多きものに候。備後人がさうめんを人にやるとて、上方人のをりふしわらひ候よし、尤のことに候。其段御斷可被下候。それとも御入用も候はば被仰聞可被下候。いつにても差上可申候、以上。」

 九(ぐわつ)()()(てい)(しよ)(おとうと)(へき)(ざん)()り、これに(たん)(かん)()()へた。(こう)(しや)(ちゆう)「諸事本書に認置候」と()つてある。(しか)るに所謂(いはゆる)「本書」は(そん)してゐない。

 (この)(たん)(かん)はわたくしに(まと)()(ほう)(でう)(うぢ)(ひと)(/″\)(しん)(きよ)(うつ)つた()(をし)へる。それは七(ぐわつ)()であつた。「七月末御状今日相達拜見仕候。愈御安康奉賀候。六日(七月六日)移徙有之候由、重疊目出度奉存候。」(その)()(しよ)(ちゆう)には(まと)()より(かん)(ぺう)()(てい)(おく)り、(かん)(なべ)より(ゑん)()()(さい)種子(たね)(きやう)(しん)(おく)つたことが()えてゐるのみである。「乾瓢條澤山御惠投辱奉存候。何より調法之品別而辱奉存候。佐藤(子文)より塾へは先達而參り候故、皆私方へ申受候。(中略。)種物の内、大方皆春の彼岸頃(蒔くが)よろしく候。石竹は八月がよろしく候。しも(霜)かかわり候に及不申候。」

 (この)(しよ)(つぎ)(れつ)すべき()(てい)(しよ)は、(まつ)(ぷく)(のり)(ばな)れのために(うしな)はれて、(つき)()(つまびらか)にすることが()()ない。しかしわたくしは(しも)の一(だん)()つて(れつ)()(さだ)めた。「御新居段々御居馴染被成候哉。御勝手は如何に候哉。内造作も色々事多きものに御坐候。」(この)()()()(はう)()(ちよく)()()かれたものでなくてはならない。(これ)(また)(まと)()(しよ)(どく)の一で、その(へき)(ざん)(あた)へたものなるは(げん)()たない。

 (この)(しよ)(びん)()(こう)()()(まさ)(きよ)(らう)(ぢゆう)になつたことが()えてゐる。「此方殿樣寺社奉行より直に御老中に御昇進被成候而、領内は一統悦候而、祭などいたし候而、郡中にぎやかに候。しかし何事も儉約を嚴重にいたし候。」()()(まさ)(きよ)(らう)(ぢゆう)(れつ)せられたのは(てい)(ちう)(ぐわつ)二十五(にち)であつた。

 (しよ)(また)()()(ひと)()()(ぼう)(こと)()えてゐる。「豫州西條家中の醫生矢野生が詩懸御目候。大分よくつくりたるものに候。二十二三の男にて、先日尋參候。これ迄江戸聖堂に居候而、京都にて頼徳太郎が弟子になり候由。此詩御返しに及不申候。」()()(こと)(いま)(かんが)へない。(さん)(やう)(しふ)(ちゆう)には()せざる(ごと)くである。(ちや)(ざん)(しふ)(たゞ)()()()(ぜん)()ふものがあるのみである。

 (また)(もり)(をか)()(いん)(こと)()えてゐる。「先日來讚州より才子の童子入門滯留いたし候。森岡綱太と申もの、十二歳にてふりわけ髮の小兒に候へども、書物はよくよみ候。史記左傳なども一通手を通し居候。先は奇童と申べきもの也。」(つな)()()()(いん)(あざな)()(ちよく)(もり)(をか)(やす)()()である。(ちや)(ざん)()()(めい)に、「綱太年始十二、航海來、寓余塾、白皙纖叟、如不勝綺、賦詩作書、略已就緒、而與人應接、如老成人、人皆愛慕焉」と()つてある。

 (その)()(しよ)(ちゆう)には(せう)するに()るものが(すくな)い。()(てい)(また)(くわ)()()(さい)種子(たね)(きやう)()(そう)(けん)した。「あさがほ種少々差上候。漳州種の中には常の種、須磨などいふしろき種もまじり候。來年三月頃御まき可被成候。松なのたねは御地にも可有之候へども差上候。うらのすみか畑のすみに、いつにても御まき置可被成候。先春がよろしく候。」

     その百八

 (ぶん)(くわ)(てい)(ちう)(あき)には(なほ)(さい)(かん)(だう)()稿(かう)より(うかゞ)ふべき(こと)二三がある。(その)一は()(てい)(そう)(たん)(がい)()(ゐん)したことである。「和慧充上人韻。禪悦由來厭世囂。風流未必廢吟嘲。丹崖翠壁秋應好。想掃雲牀對泬寥。」()(じゆう)(たん)(がい)なることは()(いん)()()つて(しよう)せられる。泬(けつ)(れう)()()より()でた()である。

 (その)二は()(てい)(くわい)(じん)の五(りつ)に、()(とう)()(てい)(この)(とし)(きやう)()(あそ)んでゐて、(せの)()(りよく)谿(けい)(まじ)つてゐたことが()えてゐる。「懷伊藤文佐在京、兼寄瀬尾子章。京洛故人遙。別來變涼燠。尋詩誰子同。戀月何邊宿。北雁念音書。東籬已芳菊。嵯峨經過時。爲我題幽竹。」()(とう)(りやう)(へい)(あざな)(ぶん)()()(てい)(がう)した、(もと)(びん)()()(かは)(ごえ)()()()(もん)(みつ)(たか)(おとうと)で、(ちく)()(こう)(かう)(やう)()()となつて()(とう)(うぢ)(おか)した。(じん)(さい)より(だい)(せい)(とう)(がい)(おとうと)(ばい)()より(だい)(せい)である。(せの)()(ぶん)(あざな)()(しやう)(りよく)谿(けい)(がう)した。(つう)(しよう)()()()である。(いへ)(きやう)()(なか)(たち)(うり)(しん)(まち)西(にし)にあつた。

 (その)()(けん)(ぎう)(くわ)(えい)じた「碧花雜題」、(だい)(ぐわ)(すう)(しゆ)(とう)(また)(この)(あき)()(てい)(つく)つたものであらう。

 (ふゆ)()つて十(ぐわつ)()()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)がある。(また)(まと)()(しよ)(どく)の一である。(この)(しよ)(ぜん)(はん)(うしな)はれてゐる。しかし(ぜん)(ぱん)()(てい)(かめ)()(ぼう)(さい)(しよ)()(もの)(おく)つたことが()えてゐた(はず)である。

 ()(てい)(へき)(ざん)(たく)して(もの)(ぼう)(さい)()()(りう)(さい)とに(おく)つた。(だん)(ぺん)(しゆ)(わづか)(そん)してゐる(すう)()はかうである。「そして北條讓四郎、龜田文左衞門樣と上封御書被遣可被下候。」(つぎ)(もの)(りう)(さい)(おく)ることが()つてある。「和氣へ。これもかの方より年々何歟被遣候。今年も遣し候也。去年の賀の禮旁、これは小生と足下と連名にて(鵬齋に寄するものに、碧山が連署せぬゆゑ、これはとことわつたのである)此書状そへ、鰹節一連、五六日の處御遣可被下候。是も封じて上へ兩人名御書被遣可被下候。別段足下より紙布等被遣候挨拶禮状御そへ可然候。右之通御認、霜月末、極月初之内、河崎氏迄御遣置可被下候。御めんどうながら頼入候。代銀は來年參り候節勘定可仕候。」所謂(いはゆる)(きよ)(ねん)()は、(ぜん)(ねん)(へい)()(てき)(さい)七十の()である。(りう)(さい)(もの)(てき)(さい)(おく)つたことであらう。わたくしは(これ)()つて(しよ)(てい)(ちう)()つたことを()つた。

 ()(てい)(おな)(しよ)(ちゆう)(また)對馬(つしま)にある(そう)(げつ)(こう)()(およ)んだ。「對州へも此間書状差出し候。例の索麪を遣し候。無恙相達し可申や。遠境一向便もしれ不申候。京都へは定而便も可有之候らむ。」

 (また)(いけ)(がみ)(りん)(さい)(やまひ)(こと)(しよ)(ちゆう)()えてゐる。「池上隣哉久敷臥蓐の由、此頃初而承り候。」

 (これ)より(のち)()(てい)(せう)(そく)にして(この)(ふゆ)()くべきものが(ほとんど)()い。()稿(かう)の「牧百穀、諸子見過」の七(りつ)は「落葉滿庭人不蹊」の()より()してその(ふゆ)なるべきを(おも)ふのみである。(ひやく)(こく)(こと)(かみ)にも()でてゐたが、わたくしはその(せい)(へき)(さん)(じん)(しん)(せき)なるべきを(おも)ひつつも、これを(つまびらか)にすることを()なかつた。(いま)わたくしは(ひやく)(こく)()(せき)()つたことを()(けい)(ひやく)(ぜつ)(ちゆう)より()(いだ)し、その(しん)(ざう)(つう)(しよう)して、()(けい)(いもうと)(めと)り、一()(れん)(じゆく)(ちやう)となつてゐたことを(ちや)(ざん)(しふ)()(せん)(ちゆう)()つて()つた。()稿(かう)()する(ところ)(かく)(ごと)きに()ぎぬが、(なほ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(ぜん)(ぱん)(うしな)はれたる一(かん)があつて、その(てい)(ちう)十二(ぐわつ)(つく)られたことが(しよう)せられる。わたくしの(かく)(ごと)()ふは、(しよ)(ちゆう)に「論語竟宴、得原壤」の五(ぜつ)と、「冬日即事、三體詩竟宴、傚一意體、得先」の五(りつ)とがあつて、(ならび)()稿(かう)(てい)(ちう)(しよ)(さく)(はさ)まつてゐるものと(おな)じきが(ゆゑ)である。(かれ)()稿(かう)に「原壤、論語竟宴」と(だい)し、(これ)(たん)に「冬日即事」と(だい)してある。(しよ)には(なほ)(しも)(ごと)()がある。「無程漁獵之秋と奉察候。郷味想像、流涎仕候。しかしつつこみはもはや御惠には及不申候。左思召可被下候。近作一向無之候。短日講業に驅馳せられ候のみ。此節孟子杜律隔日、文章軌範などよみ候。(此間有詩二首。)此外色々可申上候得共、難盡筆頭候。苦寒折角御自愛奉祈候。御雙親樣へ可然奉願候。餘期再信之時候。匇々頓首。讓。立敬賢弟。」

 ()稿(かう)に「除夜和茶山翁」の七(ぜつ)がある。「城市喧闐人未還」を(もつ)(おこ)るものが(これ)である。(ちや)(ざん)(しふ)(けん)すれば、「放學經旬靜掩關」(うん)(ぬん)(ぢよ)()()がある。(その)()()稿(かう)には「雪中和茶山翁」の五(りつ)があつて(かん)(ゐん)(もち)ゐてあるが、(ちや)(ざん)(しふ)(その)(げん)(しやう)()せない。

 (この)(とし)()(てい)は三十八であつた。

     その百九

 (ぶん)(せい)(ぐわん)(ねん)には()(てい)に「戊寅元日」の七(りつ)があつて、(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()えてゐる。「飛騰暮景二毛新。四十今朝欠一身。漸覺歡情在兒女。近疎杯杓養形神。梅開蛙谷香先動。氷泮鷹川緑自淪。遙拜雙親看雲立。東風吹送故山春。」(だい)二に(さく)(しや)(ねん)()(てん)(しゆつ)してゐる。三十九(さい)になつたのである。二(まう)はその()(じつ)なりや(いな)()らない。()(とゞ)めて()るべきは(だい)四の「近疎杯杓養形神」の()である。(だい)(しも)にも(すで)に「予因病新禁酒」と(ちゆう)してある。

 ()稿(かう)(また)これと(あは)()るべき七(ぜつ)がある。「修家書。意至宛如泉有源。幾囘加筆不知煩。寫來還恐人添憶。抹却憂痺止酒言。」(これ)()つて()れば()(てい)()()むことを(おもんぱか)つたかと(うたが)はれる。「憂痺」の(いう)(かなら)ずしも()(いう)でなかつたとは()はれない。しかし(ぐわん)(じつ)()(だい)()に「因病禁酒」と()ふを(おも)へば、(あるひ)(はや)(ちゆう)(ふう)()(びやう)(てう)(あらは)れたことがあるのではなからうか。

 所謂(いはゆる)()(しよ)(さいはひ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)してゐる。そして一()(きん)(しゆ)(およ)ぶものがない。(しよ)(しやう)(ぐわつ)()(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へたものである。それが()(いん)(はる)(はじめ)(つく)られたものなることは、(はじめ)に「改春之御慶重疊申納候」と()ふを(もつ)()られる。

 わたくしは()()(てい)()()(かた)るを()かむと(ほつ)する。「小生始家内皆々無事越歳仕候。御安意可被下候。舊冬よりは例よりも暖に而くらしよく候。雪はたえて無之候。御地は猶更と奉察候。(中略。)私も當年は歸省可仕と心懸候。いつ頃にいたし候やしれ不申候。とかく小家にても主人となれば何歟と纏累、容易に出かね候。どふぞ春中と心懸候。春なれば同道なども有之候。尤同道はいくらも有之候ても、氣にいらぬ者はいや故に候。未一寸も其事は申出不申候。これも順により可申故、きつと定めかね候。必々御待被下間敷候。」

 (つぎ)()(せい)()(なう)(かん)(かう)(こと)を一()する。「去々年(丙子)歸省詩稿京師にて又々上木いたし候。かの三觀(薇山三觀)に附し候つもり、達夫(淺井)周旋いたされ候。しかしいつ頃出來候哉、近來は信無之候。」(こく)(ほん)には(たつ)()(てい)(ちう)(ふゆ)(ばつ)がある。(おも)ふに()(てい)(この)(こと)をなした(とき)()(なう)(すで)()(けつ)()()にわたつてゐたことであらう。

 (つぎ)(おとうと)(へき)(ざん)(くわん)する(こと)どもである。「御草稿返璧いたし候。(中略。)唐宋詩醇をどこぞで御かり出し被成候而御熟讀可然候。文庫(林崎)には有之候。是はむづかしきか。佐藤(子文)へ内々御頼被成候て、一帙づつにても出來可申や。」(へき)(ざん)()(ちやう)(たう)()二十三(さい)であつた。

 (つぎ)()(とう)()(ぶん)(いけ)(がみ)(りん)(さい)とに(くわん)する(こと)である。「佐藤より歳末(丁丑)信有之、先は全快のよし、詩など多く參り候。池上はとかく得と無之候由、氣之毒に存候。」(りん)(さい)(やまひ)(こと)(ぜん)(ねん)(ぐわつ)()(しよ)()えてゐた。()(ぶん)(やまひ)(こと)(はじめ)(こゝ)()えてゐる。

 (さい)()(せう)(ねん)()(じん)(うへ)()(さく)(こと)(せう)する。「上田作といふ人は誰の子に候哉。御郷里にこの位の詩にても出來候人はめづらしく候。」()(へき)(ざん)(しやう)()したもので、(へき)(ざん)稿(かう)(ちゆう)()えてゐたものであらう。(うへ)()(たれ)なるをば(いま)(かんが)へない。

 十二(にち)には(びん)()(はじめ)(ゆき)()つた。()(てい)に「十二日曉起、看黄葉山雪」の五()がある。「開戸僮驚叫。夜雪沒千峰。」又、「倚軒方一笑。此景無昨冬。」

 十三(にち)には()(てい)(ふく)(やま)()つたらしい。(のち)()(ところ)(しよ)(どく)がこれを(しよう)する。

     その百十

 (ぶん)(せい)()(いん)(しやう)(ぐわつ)十三(にち)()(てい)(ふく)(やま)にゐたと()ふことは、(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(つき)()()いた(しよ)()つて()ふのである。(しよ)()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へたもので、その(つき)()()いてゐるのは、(はじめ)あつて(をはり)なきが(ゆゑ)である。(この)(しよ)に「霜月御状正月十三日福山に而接手仕候」と()つてある。

 (この)(しよ)()(いん)()つたことは、(へき)(ざん)(しん)(きよ)(こと)()えてゐるより()すことが()()る。(へき)(ざん)(ぜん)(ねん)(てい)(ちう)(しん)(きよ)(いとな)んだが(ゆゑ)である。「御新居之額の儀色々案申候。前江後山村舍(或は堂)などは如何候哉。杜詩の古詩(五字本のまま)に家居所居堂、前江後山根と申すこと有之候。同號の事、嵐山も龜山も餘り漠然か。碧山などは如何。御近邊青峰と申山ある、夫にとり候て、出處は李白が問君何事棲碧山と申字有之、いづれ御考可被成候。」()(ちやう)(りつ)(けい)(へき)(ざん)(がう)した(らい)(れき)(こゝ)()えてゐる。

 二(ぐわつ)(ついたち)()(てい)(くわん)(ちや)(ざん)(ほく)(いう)(こと)(きやう)()(はう)じた。(これ)(しよ)()(はう)ではない。しかし(ぜん)(しよ)(この)(しよ)との(あひだ)()つた(しよ)(いつ)(ばう)してゐる。(この)(しよ)(また)(へき)(ざん)(あた)へたもので(まと)()(しよ)(どく)の一である。「先書(佚亡)申上候通、菅翁二月末頃上京之由、順に寄候てはいせへも可被參候。いせへ被參候はば貴郷(的矢)へも立寄可被申や。かの人は餘り構候もきらひ被申候。といふて不構もいかが。飮食は格別このみなき人に候。御地のかまぼこ、をぼろなどが口によく合可申候。いづれ兩三日も滯留いたされ候はば、燈明などへ舟遊御すすめ被成てもよろしく候。しかし本人の意にまかすべし。尤十に七八はいせへは被參申間敷候間、必々御心待御無用と被存候。」

 (おな)(しよ)(また)(てき)(さい)(ちつ)(じゆ)()(こと)()えてゐる。「大人樣壽詩録、小生初録之分一遍此方へ御贈可被下候。さなくば華山公の處の爲天放子と申處御破可被下候。別段あの通御願可申と存じ候へどもむづかしく候故に候。あの一枚を反古に被成可被下候。」わたくしは(この)(ぶん)(しも)(ごと)(かい)する。()(てい)(ちゝ)のために(じゆ)()(しふ)(ろく)した。(その)(うち)(くわ)(ざん)(こう)()()(てい)がこれを(うつ)すに(のぞ)んで(せう)(いん)(かい)(さん)した。(これ)(こう)(あらた)(しよ)せむことを()はむと(ほつ)したが(ゆゑ)であつた。(しか)るに(この)(こひ)をなすことは(よう)()でないので(だん)(ねん)した。()(てい)(かい)(さん)(あと)(のち)(のこ)さむことを(はゞか)つて、(おとうと)()()せむことを(めい)じたのであらう。(くわ)(ざん)(こう)とは(くわ)(ざん)(ゐん)(ない)(だい)(じん)愛徳(なるえ)か、()か。(なほ)(かんが)ふべきである。

 (また)()(てい)(へき)(ざん)のために(ちや)(ざん)(しよ)(もと)めた(こと)(しよ)(ちゆう)()えてゐる。「菅翁より志州磯邊途中の詩二首、鳥羽の詩二首、足下よりの頼にいたし、かいてもらひ候。いつにても御序に御謝辭可被下候。これは屏風か、からかみの用にもと存候故に候。先々いづれ小生歸省仕候節の事に可被成候。よき趣向可有之候。」

 (さい)()に二三の()()(しよ)(ちゆう)()つて(こゝ)(ろく)(そん)する。(その)一。「江戸へ木魚御遣被下候儀御世話之至に存候。」(もく)(ぎよ)(たれ)(おく)つたものか()(しやう)である。(その)二。「雜録、詩文、時喜(此一字不明)録、これは先他へ御見せ被成ぬやうに被成可被下候。其御心得可被下候。」()()(ろく)(こと)(のち)()えてゐて、(しよ)(どく)(つく)られた(とし)()()(れう)となるゆゑ、(とく)(ちゆう)()(あたひ)する。しかし()()(さう)(たい)()(めい)である。(その)三。「小生歸省は右先書申上候次第に(而)いまだ申分も立不申候故、いつともしれ不申候。」()(てい)()(せい)()(なほ)()(てい)である。(その)四。「御詩稿例の如く愚案申上候。弟共書状被遣、皆々へ宜敷(可被申)候。書状の認方など、一々御指圖可被成候。俗通用は隨分俗文ひらたくきこえ候が第一よろしく候。其心得可被下候。良助などは百姓の儀故、猶更の事なり。」

     その百十一

 (ぶん)(せい)()(いん)(ぐわつ)(ちゆう)(ぜん)(しよ)(はつ)した(のち)()(てい)(また)(くわん)(ちや)(ざん)(こと)(おとうと)(へき)(ざん)()げた。「先書申上候通、菅翁も當廿日頃上京いたされ候。病人の儀故、京坂の間の名醫などに見せ候つもりを主意の由、夫によしのの花などかけ候事に候。事により候ては、いせ參宮も可被致候。よしのは三月中頃廿日迄の内にも可有之候へば、いせへは中頃か三月末迄の内と被存候。老人の儀故、しかともいたし不申候へども、山田へ被參候はば、貴郷へも可被參候。其御心懸可然候。佐藤へ一寸しらせ候事を頼遣し申候。尚又足下よりも頼置れ可然候。被見候噂きこえ候はば、足下山田へ御越被成候而もよろしく、何分郷里にも御越被下度儀、親共始御願申上たく候へども、僻郷之儀故申上兼候、御苦勞にも思召候はば、山田切にてもよろしくと御挨拶可被成候。其上は翁の意次第にまかせられ候而可然候。被參候ても格別御搆にも及申間敷候。御膳などは隨分ざつといたし候而よろしく候。朝夕は茶漬にてよろしく候。珍物はきらひに候。こわき物口に合不申候。何分被參候はば料理人御やとひ被成、それに何もかもまかせられ候て可然候。定而滯留一兩日に過申間敷候。舟遊一日御すすめ可被成候。これもあの方の勝手次第、しゐては被仰まじく候。書畫類床にかけ候(は)何に而もよろしく候。御宅には何も人に見せ候もの無之候故、一切御出し被成間敷候。壽詩類は人のみて詮なきもの故、これも御出し被成ぬがよく候。歸途行廚にても被成候而磯邊邊迄御送行可被成候。親族中皆々御挨拶に罷出候はづに候へども、御面働を憚候故差控候と御斷可被仰候。その方が翁も勝手に候。滯留中足下并に敬助は著袴可被成候。これも其時の見合にて必とせず。大抵其御心得にて宜敷候へども、參不參は定められず候間、前方より御用意は決して入不申候。噂きこえ候はば少し御心懸可然と申に候。たとへ山田へ被出候ても、翁被參候より前日さきへ御歸宅可被成候。日しれ候はば迎舟にても御遣被成候てよろしく候。翁ももはやこれきりの旅行故、足下少年輩なるたけ周旋被成候て可然候。さとうへ頼候事失念被成間敷候。人二重になり候故、外へは別段御頼被成間敷候。」

 ()(てい)(ちや)(ざん)がために()(もち)ゐること(いた)れりと()ふべきである。(あん)ずるに(この)()()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)()へられたもので、(その)(しよ)(いつ)したと()える。しかしその二(げつ)(さく)()(ばう)(ぜん)(つく)られたことは(うたがひ)()れない。

 ()(てい)の二(ぐわつ)十五(にち)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)してゐる。(ぶん)(ちゆう)「此方より書状正月兩(此間蠧蝕)度、内一通金子二方入、二月一通差出し候、内菅翁書入、夫々相達可申候」と()つてある。しかし(すゐ)するに()(てい)は二(ぐわつ)(ついたち)(しよ)(しやう)(ぐわつ)(しよ)(ちゆう)(さん)したのではなからうか。そして「兩度」は(もと)「兩三度」などに(つく)つてあつたのではなからうか。()(てい)朔日(ついたち)(しよ)(その)(ぜん)(げつ)(しよ)(ちゆう)(さん)した(れい)は、(すで)(かみ)にも()えてゐた。

 (この)(しよ)()(てい)河相(かはひ)(やす)(へい)(たく)したものである。「此書状近處千田と申處の河相保平と申人に頼候。此人參宮便なり。ちかく候はば事に寄御尋も申上たきと被申しことに候。此人は此地に而無二懇意、内外世話いたしくれ候人に候。其御心得に而御挨拶可被下候、以上。(此下行間に書き入れあり。)被參候はば御取持被成可被下候。深切づくに態々被參候事に候。併先は參らぬ樣に申居候。」(やす)(へい)(くわん)(うぢ)(しん)(ぜん)であつた河相(かはひ)(しう)()()()()である。

 (しよ)(ちゆう)()(てい)()()()くことは(しも)(ごと)くである。「小生講書も杜律をはり候而此頃周易講釋はじめ候。(中略。)當春歸省は先々延引仕候。翁(茶山)近日上京のよし、未何のうわさもなく候へども、其つもりと被存候。小生は秋にも相成可申哉。夫に付種々説話も可有之候へども、いづれ面上ならでは不分明に候。二尊樣へ可然樣被仰上可被下候。」

     その百十二

 (これ)より(ぶん)(せい)()(いん)(ぐわつ)十五(にち)()(てい)(しよ)()いて、(その)(うち)()えてゐる二三の(じん)(ぶつ)(こと)(せう)する。(その)一は(なか)(むら)(きう)(かう)である。「中村九皐此地よりとも(鞆)へ書状をつけ遣し候。九月頃也。ともに五六十日滯留いたし、長崎の方へむけだん/\參候よし申候。夫故只今何方に居申候哉、蹤跡しれ不申候。聞合候もあてのなきものに候間無是非候。つまらぬものに候。」(きう)(かう)(へき)(ざん)()(じん)で、(へき)(ざん)(あに)(その)行方(ゆくへ)()うたのであらう。

 (その)二は()(とう)()(ぶん)である。「子文への詩稿を表具(に)御遣被下候哉。此間も早春のたより相屆、かの人は不相替鄭重に候。度々書状被遣候。」()稿(かう)()(てい)()(ぶん)(おく)るものであらう。

 (その)三は()(とう)(しつ)(こく)(こと)である。「さぬき高松漆谷老人詩差上候。この人は油屋彌之助と申町家にて、詩と書とは當時甚高名家也。この詩は舊作を頼候。」()(てい)(しつ)(こく)(きう)(さく)(しよ)せしめ、これを(へき)(ざん)(いた)したのである。(しつ)(こく)()(こう)(かん)(あざな)()(えき)、一()(でん)()(また)(ぼく)(さい)(がう)した。(うぢ)(しう)して(とう)となしてゐた。()(じやう)(めい)()は五(さん)(だう)()()()(ぶつ)(しふ)()()(せつ)(しよ)(どく)(とう)より()たものである。わたくしは()(てい)(この)(しよ)()つて(ぞく)(しよう)(あぶら)()()()(すけ)であつたことを()つた。

 (その)四は(らい)(さん)(やう)(こと)である。「頼徳太郎もこの十八日春水翁大祥に付先日下り候。はやきものに候。」(しゆん)(すゐ)()(にち)は二(ぐわつ)十四()なるが(ごと)くである。しかしわたくしは(しゆん)(すゐ)(たい)(しやう)()ふに()つて、()(てい)(この)(しよ)()(いん)(つく)られたことを()つた。

 (その)五は(さぬ)()(しん)(どう)(もり)(をか)()(いん)(こと)である。「金毘羅の神童此頃又々再遊いたし候。」()(いん)(こと)(すで)に一たび(まへ)(しよ)()えてゐた。

 (つぎ)()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた三(ぐわつ)()(しよ)がある。(また)(まと)()(しよ)(どく)の一である。(この)()(ちや)(ざん)(はつ)(てい)()である。「菅翁今日出立被致、芳野へ直に被參候と申事に候。順路にいせへも御立寄も可有之候哉無覺束候。五十日の御暇を願候との事に候。京都などにて醫家に見てもらひ候事と相きこえ候。」西(せい)()(しん)(ぶん)(しや)(かん)する(ところ)(ちや)(ざん)大和(やまと)(ゆき)(につ)()に「三月六日いそぎて門を出づ」と()つてある。

 (ちや)(ざん)(どう)(かう)(しや)(につ)()()るに「牧周藏、林新九郎、臼杵直記、渡邊鐵藏」の四(にん)であつた。(たま/\)(どう)(きやう)(ひと)「別所有俊」が(きた)つて(この)(かう)(くは)はつた。

 (そう)(かう)(しや)(につ)()に「井原の瀧藏兄弟、庫右衞門、玄冲、寛平」と()つてある。(ちや)(ざん)(しふ)に「平野橋示送者」の(ぜつ)()がある。「閑行本自往來輕。不似前遊嚴路程。唯爲衰躬重離別。出門已有異郷情。」

 ()(てい)に「送茶山翁之和州、翁時就醫于和州」と(だい)する()があつて(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()えてゐる。「春風扶懶出郷閻。勝踐知應養病兼。何處杏林尋董奉。無由籃轝捧陶潛。花村柳驛行行好。酒思詩懷日日添。想見芳山千樹賞。滿峰香雪照吟髯。」(がん)(れん)(わう)()の「董奉杏成林、陶潛菊盈把」より()でてゐる。

 ()(てい)(この)(しよ)(さい)せられた(とき)()()()()よりは()(せい)(しよ)(むらが)(いた)つてゐた。「良助、敬助より年始状辱、尚よろしく被仰可被下候。」又、「佐藤より先日年始状參り候。其外(山田諸友)はたえて消息不承候。定而皆々御無事と奉察候。」

     その百十三

 (ぶん)(せい)()(いん)(ぐわつ)()()(てい)(しよ)には、(すゑ)()(へん)がある。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()(にふ)すべきものなるを(おも)ふが(ゆゑ)に、(こゝ)(ろく)(そん)する。「春思。客舍江南已換衣。梅花零落草菲菲。誰憐萬里春風恨。送盡歸鴻人未歸。」「溪館讀書圖。溪館長清寂。讀書心自樂。將終秋水篇。獨笑看魚躍。」

 (しよ)(ちゆう)には(なほ)(れい)()つて(へき)(ざん)()(さく)(せい)したことが()えてゐる。「詩例の通愚案申上候。」(また)(しよ)(せき)(しゆ)(まと)()(いへ)()()くことを(へき)(ざん)(めい)じてゐる。(その)一は()(ぼく)(でん)である。(その)二は(ぼう)()(しふ)であるらしいが、(さう)(たい)()(めい)なるを(もつ)()むことを()ない。

 (つい)で十七(にち)()(てい)(また)(しよ)(へき)(ざん)()せた。(これ)(また)(まと)()(しよ)(どく)(うち)にある。(しよ)西(にし)(むら)()()(もん)()ふものに(たく)して(おく)つたものである。「西村十左衞門殿幸便一筆啓上仕候。」

 (なか)(ちや)(ざん)(ほく)(いう)(ちゆう)(れん)(じゆく)(じやう)(きやう)(じよ)してある。「先書申上候通、茶山翁當六日發裝留主中寂寥罷在候。殊に留主故先生講業等迄相務、日間夜分大方在塾いたし、殊更當春は俗了、花は已に爛落いたし候へども、未だ一度も出門不仕候。夫に塾生に大病人有之、何歟と詩も一向無之候。一昨日(三月十五日)みのの山伏體圓と申が尋申候。茶山を態々問參り候もの、十一年前(文化丁卯)に居申候人のよし、夫に贈り候詩。普門道士月中山、故來問茶山翁、翁時遊芳山不在、有詩見贈、次韻以呈。別書煩しく草稿のまま。」(この)(しも)(はゞ)(しやく)(きよ)(くう)(はく)(そん)してある。(すゐ)するに()(さう)()()(もし)くは()()けてあつたのが(うしな)はれたものであらう。(たい)(ゑん)()ひ、(げつ)(ちゆう)(ざん)()ふ、(ならび)(やま)(ぶし)()であらう。()()稿(かう)()えない。(ちや)(ざん)()(かう)(あん)ずるに、(たい)(ゑん)(かん)(なべ)より(ちや)(ざん)(あと)()うて(きやう)()()き、四(ぐわつ)二十六(にち)(ちや)(ざん)(ます)()(べつ)(たく)()ひ、二十七(にち)には(べつ)(たく)(うつ)つて()(どう)(きよ)した。西(せい)()(しん)(ぶん)(しや)(くわつ)()(ぼん)(きう)(たん)(つく)り、(また)(たい)(たん)(つく)つてあるのは、(みな)(たい)(ゑん)(あやまり)である。

 十七(にち)(しよ)には(べつ)(ろく)すべきものが()い。(たゞ)「爲藏弔書には及不申候」の()がある。しかし(ため)(ざう)(なに)(ひと)なるを()らない。()(てい)(この)(しよ)(つく)つた十七(にち)には、大和(やまと)(ゆき)(につ)()()るに、(ちや)(ざん)(よし)()()でて服部(はつとり)(そう)(かん)()ふものの(いへ)宿(やど)つた。

 (つぎ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)に五(ぐわつ)()()(てい)(しよ)がある。(また)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へたものである。

 ()(てい)()()(きん)(じやう)はかう()つてある。「留主(茶山の留守)中兩人講業事有之(茶山と自己との講業歟)晝夜塾へ引移居申候。多事、何も興趣無之候。」

 (ちや)(ざん)(こと)はかう()つてある。「二月三月兩度御状(碧山の書)拜見仕候。茶山翁御待も被成候由、是も私方への書状(茶山の書)に、伊勢までと存候へども、輿中とかく眩量のきみ有之、不得已直に京へ引かへし候由に候。未歸期もしれ不申候へども、大方此節歸計と被察候。」(ちや)(ざん)は三(ぐわつ)二十()(きやう)(かへ)つて(ます)()宿(やど)り、二十五(にち)(おな)(いへ)(てら)(まち)(かく)(さが)(べつ)(たく)(うつ)つて、そこに(たい)(りう)してゐた。()(てい)(この)(しよ)(つく)つた五(ぐわつ)()には、(なか)(やま)(げん)(りん)(たづ)ねて()て、()(とう)(とう)(がい)(しよ)などを(おく)つたと、(につ)()()つてある。

 (つぎ)(ふせ)(はら)(きう)(どう)(たけ)(もと)(とう)(/\)(あん)(らい)(さん)(やう)(こと)(この)(しよ)()えてゐる。「京都の人々の詩畫、ある儒生よりあつめ遣し候。皆々おかしなるものに候へども、先々差上候。此内久童卿と申は、伏原三位殿に而、御所の儒家に候。登々庵も先々月病死いたし候。京都に而詩書にて追々業のうりひろめ出來候最中を、可憐事いたし候。頼徳太郎も春水翁三年に二月に下り候。それより直に九州邊より長崎邊迄漫遊、もふけるつもりにて出懸罷在候。いまだ歸らぬよしに候。」(ふせ)(はら)(さん)()(じやう)(さん)()(のり)(たけ)(きやう)である。(たけ)(もと)()は二(ぐわつ)二十四()(こと)で、(ちや)(ざん)は三(ぐわつ)()(みや)(うち)でこれを()いた。「聞登々庵下世。本擬相逢共醉吟。忽聞君宅北邙陰。遠郷恐有傳言誤。將就親朋看訃音。」(さん)(やう)西(せい)(いう)()(あまね)()(ところ)で、(つひ)()(いん)(とし)(あか)(まが)(せき)(おく)つた。

     その百十四

 (ぶん)(せい)()(いん)(ぐわつ)()()(てい)(しよ)には(なほ)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(かは)(さき)(けい)(けん)(こと)()えてゐる。「先日は凹巷君より通書有之、社中近況も承知仕候。敬軒も江戸より去月(四月)上旬不快にてもどられ候由、此節は快然と奉存候。私も先達而承り候へども、多事書状差出し不申、漸今日見舞状遣し候。御便(碧山書信)の節、書中にても御尋可被遣候。」()(てい)(あふ)(こう)(しよ)()て、(けい)(けん)()んで()()より()()(かへ)つたことを()つたのである。(けい)(けん)()(せい)()()(ばう)(につ)()(ばつ)して、「戊寅之春、先人罹疾于東府、輿而南歸」と()つてある。(これ)(けい)(けん)のためには()()(やまひ)であつた。

 (へき)(ざん)(こと)にして(この)(しよ)より(せう)(しゆつ)すべきものは(しも)(ごと)くである。「額の儀さしあたりこれと申人も無之候。いづれ見合頼可申候。御號之事は追而面談にて申候。青峰開帳に而來客等多く有之候由、勞擾察し入候。人世これも不可免儀に候。小生輩なりたけ俗事にはなれ候積に候へども、とかく時々慶弔事などに近來は役せられ候而迷惑仕候。」(がく)(へき)(ざん)(しん)(きよ)(へん)(がく)である。()(てい)(だう)()づけたことは(ぜん)(しよ)()えてゐる。(へき)(ざん)(あに)(えら)んだ(もん)()(しよ)すべき(ひと)(もと)めてゐるのである。(がう)()(てい)(おとうと)のために(えら)んだ(へき)(ざん)(がう)である。(へき)(ざん)(かさね)(この)(もん)()(こと)(あに)(たゞ)したのであらう。

 五(ぐわつ)()(じゆん)()(てい)(また)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(また)(まと)()(しよ)(どく)の一である。(この)(しよ)()(づけ)(にはか)()れば「六月四日」と(しよ)したるものの(ごと)くである。しかし(ちや)(ざん)(いま)(かん)(なべ)(かへ)つてをらぬを()れば、その()なること(あきらか)である。「此間太中翁便宜に京へむけ書状差出し候得共、昨日大坂書状到來、十七日(五月)浪華に下られ候よし、然れば行違に相成候而、差出し候状屆申間敷被存候間、又々別段認此書候。(中略。)太中も兩三日中に歸家と被存候。」(ちや)(ざん)(につ)()(ちよう)するに、五(ぐわつ)十七(にち)の條に「大坂に著、藏屋敷にやどる」と()つてある。(すなはち)()(てい)(ぶん)()する。(しか)れば()(づけ)の「六月」は「五月」にして、「四日」の(うへ)に「廿」を(だつ)したもの()

 (この)(しよ)には(かい)(げん)(ふう)(ぶん)(こと)、四(ぐわつ)(つごもり)(てん)(ぺん)(こと)(つう)(くわ)(かい)(ちう)(こと)などが()えてゐる。「年號文政と改まり候よし、此邊にてうわさいたし候。四月晦雷雨に、此邊夥敷雹ふり申候。大いなるは七八匁位かけめ有之候。福山邊は野菜麥穗を大に損じ候。御地邊如何に候哉。金銀相場ふきかへ有之候而大にさがり候。此節二朱に而七匁五分位にとりかへのよし、まだもさがり可申や、金子たくわへ候者は迷惑なるもの也。」(こゝろみ)(おほ)(さか)(さう)()(けん)すれば、(きん)(りやう)(つき)六十三匁二分四厘である。(すなはち)(しゆ)(つき)七匁九分である。

 六(ぐわつ)()()(てい)(また)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(また)(まと)()(しよ)(どく)の一である。(しよ)(ちゆう)には()(てい)()()()(およ)ぶを()ない。(たゞ)「當方無事罷在候。乍憚御安意可被下候」と()つてあるのみである。

 (ちや)(ざん)(すで)(ほく)(いう)より(かへ)つてゐる。「茶山翁も五月晦日歸宅被致候。先々安心仕候。」大和(やまと)(ゆき)(につ)()(けみ)するに、「廿九日(五月)神邊より輿丁二人來り迎へ、薄暮に家にかへる」と()つてある。()(いん)の五(ぐわつ)(せう)であつたから、(くわい)(じつ)()かつた。()(てい)(くわい)(じつ)()つたのは(じん)(じつ)()である。

 (へき)(ざん)(すで)(つま)(めと)つたと()える。「山田永々御滯留被成、一瀬邊遊行被成候由、佳興不堪羨望候。定而詩文等澤山御出來可被成と奉察候。婚事之儀被仰聞、先は相調候而目出度存候。くわしく被仰聞可被下候。御雙親樣へ御助力、御安心被成候樣萬事御心付可被成奉願候。」(ぶん)(ちゆう)「相調候而目出度存候」と()ふを()れば、(へき)(ざん)(すで)(めと)つたことは(あきらか)である。

 ()(てい)(けい)(けん)(やまひ)()つて(なか)(やま)(げん)(りん)(こと)(およ)んでゐる。「敬軒は病氣餘程むづかし(き)ものと被存候。何卒本復いのり候。いづれ酒は嚴敷禁ぜねばなり申間敷候。中山言倫肺癰なれど、粉劑など用ひ、爾來八九年一滴も胸間に下し不申候故、今に先は生活いたし被居候。何卒あのやうになりともいたしたきものに候。」(けい)(けん)()は、(その)()(せい)()()(ばう)(につ)()(ばつ)に、「是歳(戊寅)五月廿七日沒」と()つてある。(しか)れば()(てい)(この)(しよ)(けい)(けん)歿(ぼつ)()()(つく)られたものである。(せい)()(けん)(ぶん)()(ろく)に「敬軒先生臨終作、五月廿八日」と(だい)する七(ぜつ)(しゆ)がある。「河崎良佐勢南人。病肺一朝欲殞身。志業未成年卌九。愧稱文政太平民。」「讀書無復一經專。郡志將修猶未編。徒謂老年期了事。而今何愬彼蒼天。」(これ)()つて()れば(けい)(けん)(はい)()んで四十九(さい)にして(をは)つた。(ぐん)()(へん)せむと(ほつ)して(はた)さなかつたのである。(なか)(やま)(げん)(りん)()(ぼう)(あざな)()(とく)()(しゆ)(がう)した。(ちゝ)()(かん)()ふ。(ならび)(ちや)(ざん)(しふ)(さん)(けん)してゐる。

 十一(にち)()(てい)(ぢよ)(うめ)(えう)した、(くわん)()(くわ)()(ちやう)に「栽玉童女、文政元年寅六月十一日、北條讓四郎嫡女、名梅」と()つてある。(あん)ずるに(うめ)は三(さい)であつた(はず)である。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)()(てい)の七(ぐわつ)()(しよ)があつて、(うめ)()(おとうと)(はう)じてゐる。

     その百十五

 (ぶん)(せい)()(いん)(ぐわつ)()(しよ)()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(ぢよ)(うめ)()()()(やまひ)とを(はう)じたものである。「此地五月末より痢病流行いたし候。小兒など多くいたみ候。等閑に存罷在候處、八日(六月八日)より少女お梅やみ付候而、段々重り候而、醫療等は手を盡し候得共、未三歳之小兒體もちかね、それにさしこみつよく、終に六月十一日午時はかなく相成申候。大分愛嬌らしくなり、物などもいひ候處、可憐事いたし候。葬送何歟仕上等いたし候内、十三日より又々小生やみ付候而、小生は餘程重症に而、晝夜大凡百行餘に及候事二三日に候。醫家も三四人の配劑に候。三箇角兵衞殿始終療治に預り候。時疫を兼候症とて熱をさばき候事を第一に被致候。夫故か二十日頃よりは段々快き方に相赴候而、二三日前より大方平常に相成申候。併病後の事故、萬事廢却いたし、唯養生のみにかゝり候。最早氣遣は少しも有之間敷醫家も皆々被申候。不存寄大病相煩候。大に迷惑仕候。しかし最早食事等も味よろしく候。此分にては日々平復可仕候。必々二尊御案じなきやう被仰可被下候。小兒の事は天命無是非候。近隣にても十二三人死去いたし候位の事故、時節と存じ候。病夜の作章をなし兼候。幾囘勵志體元孱。多少傷心伏枕間。千里相關老親意。一眠猶見病兒顏。風驚後夜燈殘壁。蟲咽幽叢秋滿山。蝉翼繭絲何所況。曉鐘聲裏涙潺湲。自註、陸游詩、官情薄似秋蝉翼、郷思多於春繭絲。病後讀詩作詩等氣のあつまり候事よろしくなきと申事に而、何もかもやみにいたし居申候。閑居攝養送日候。」

 (うめ)(やまひ)所謂(いはゆる)(えき)()である。()(てい)はこれに(かん)(せん)して()(うれ)へた。そして()(れう)を三()(かく)()()(たく)した。わたくしは(かつ)()(さは)(しん)(けん)(しよ)に、(ふく)(やま)()(じん)(ちゆう)(がく)(しよく)あるものは一の三()(うぢ)あるのみと()つてあるのを()た。(たう)()()(てい)の三()(うぢ)(しん)(らい)したことを(おも)へば、(こう)(ねん)(しん)(けん)のこれを(すゐ)(ちよう)したのがげにもと(うなづ)かれる。

 ()(てい)(しよ)(ちゆう)(また)(へき)(ざん)(こん)()(およ)んでゐる。「扨先達而御婚事首尾能相調候由、目出度存候。此方よりも早速祝詞等差出し可申候處、右に申上候通之仕合、(女梅と霞亭との痢疾)延引仕候。いづれ是は來春にても歸省之節と心懸居申候。乍憚二尊並に新娘へもよろしく御斷置可被下候。」(へき)(ざん)(めと)つた(つま)()(ぐち)(うぢ)()()であらう。()()()(いん)に二十(さい)になつてゐた。

 ()(てい)(また)(かは)(さき)(けい)(けん)()(をし)んでゐる。「敬軒下世同歎之儀、無是非事に候。」(これ)(へき)(ざん)(しよ)(ちゆう)(あい)(たう)()があつたのでこれに(こた)へたものであらう。

 八(ぐわつ)(さく)()(てい)(おとうと)(しよ)(あた)へたが、(この)(くわい)(ほとんど)(まつた)(ぜん)(げん)(はん)(ぷく)するのみであつた。(また)(まと)()(しよ)(どく)の一である。「先月九日(六日の誤歟)福山便書状差出し申候。相達候哉。山田山口(凹巷)へむけ相可屋へ達し候。共書中申上候通小生病氣も追々快く相成申候而、此節にては掲病牀候。併病後閑適何もかも廢却罷在候。此邊流行痢病時疫も大方穩に相成候。先日子文(佐藤氏)より書中勢南にも疫或は瘧流行いたし候由、御地並に山田社中は無恙候哉。小生痢疾は三箇氏の見立にては疫痢と申にて、熱のさばき第一の處、はじめの醫家隨分巧者に而最初葛根湯用ひ候へども、はや痢疾の療治にとりかかり、熱の發散かひなく、夫故始終熱氣のさしひき三十日餘に及候。いづれ醫と申ものは天地の間の大役に而人命の關係する所なれば可愼第一に候。精細の工夫平日相用申さねば相成申間敷候。足下なども詩文の事よりも先我先業故ひろく醫籍療法の上に御用心被成、良醫に御なり被成候樣奉祈候。此内拙荊並に菅三なども少々氣味も有之、案じ候へども、是は皆々輕症に而早速本復仕安心仕候。此度拙者病氣に付而は、塾二位はもとより親族其外他所よりも皆々奔走いたしくれ、のこる方なき介抱に逢申候。併痢後は却而腹部などはよくなり候樣にも御坐候。小生も此度にこり候而、以來益修攝に心を用ひ可申、當春中酒など思ひ合候處、先は酒を第一節し候樣心掛可申候。もとより此節は一滴も入口不仕候。」(これ)()つて()れば、(たゞ)(ぢよ)(うめ)()(てい)とのみならず、(きやう)(くわん)三も()(かん)(せん)したのであつた。

 「お梅をいたみ候和文和歌も數々有之候へどもいまだ清書いたし不申候。」()(てい)(ほん)(ぶん)(かく)(ごと)(しよ)し、(さら)(ぎやう)(かん)(さい)(しよ)した。「むすめがいたみの記、歌懸御目候。御覽後またのたよりにかへし遣され度候。」(いま)(じやう)(しよ)せざる稿(かう)(ほん)(まと)()(おく)()られたのである。

 (この)(しよ)()(せい)()(なう)(こく)(せい)(こと)()えてゐる。「新刻到來、一部進上いたし候。先達而之三觀(薇山三觀)と一つにいたし、霞亭二稿と題し發行いたし候。二匁宛にてうり候よし。三觀をはづして歸省(歸省詩嚢)ばかりなれば一匁二分宛に候。望人あらば御世話可被下候。」()(さん)(くわん)()(せい)()(なう)には(おの/\)(たん)(かう)のものと(がふ)(こく)のものとがあつたのである。

 ()(てい)(また)()(てい)()(しよう)(ねん)()(わす)れて(へき)(ざん)()うた。「敬助はいくつに相成候哉、十六か十七と覺え候。御序に被仰聞可被下候。」()(しよう)(ちゆう)(きやう)()(ねん)(うまれ)で、十七(さい)になつてゐたのである。

 (さい)()(かは)(さき)(けい)(けん)(てう)する()(こと)()えてゐる。「河崎悼詩した書懸御目候。病中ろくな事も出來不申候。」()(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()する(ところ)の七(ぜつ)(しゆ)である。(こゝ)(その)(せう)(いん)(ろく)する。「七月六日河崎良佐訃音至、賦此遙悼、用其絶命詞韻、余時嬰病。」

     その百十六

 (ぶん)(せい)()(いん)(ぐわつ)()()(てい)(しよ)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた。(また)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。(たう)()()(てい)(やまひ)(すで)(まつた)()えてゐた。「小生此節は全く快復仕候而、日々講業に從事仕候。乍憚御安意可被下候。(中略。)痢疾此邊は先月(八月)末頃よりしづまり候。福山は今に少しのこり有之候よし。小生も病後いづかたへもいで不申、唯靜養仕候。詩も一向出來不申候。此間近野に出候節口號。出門(歳寒堂遺稿門作戸、可從)看秋色。行々悶漸忘。蟲聲陰處早。菊氣露中(遺稿中作邊)香。笛遠呼牛谷。歌喧打稻場。携來有柑酒。一路興偏長。中秋は此地宵の間は陰り候。小生も夜坐を畏れ候故、塾に暫時よばれ候而、早く歸りいね申候。詩も有之ども一向惡作也。」(ちや)(ざん)(この)(ちゆう)(しう)()に「忽覩庭沙白、出歩階除前、頭上雲行疾、走月在林端、須臾還陰翳、有似羞人看」の(すう)()がある。

 ()(てい)(しよ)(てい)(うめ)(てう)する(しよ)(すで)(いた)つてゐた。「亡兒に香火燈籠等御手向被下候由、御厚意奉謝候。おけう(敬)へも申きかせ候處、難有がり泣涕いたし候。亡兒へ悼詩辱奉存候。(以上謂碧山。)二弟(良助、敬助)弔状辱、宜敷頼申候。」(へき)(ざん)()をも()せたのである。

 (この)(しよ)()(とう)()(ぶん)(せう)(そく)()えてゐる。「一兩日前佐藤より來書有之候。近來は壯健之由申來候。」

     その百十七

 (ぶん)(せい)()(いん)(ぐわつ)十二(にち)()(てい)(また)(しよ)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた。(これ)()(てい)()(しよう)(れん)(じゆく)(むか)へむと(ほつ)する(しよ)である。わたくしは()(しよう)(よはひ)十七と()ふを(もつ)て、その()(いん)(つく)られたことを()つた。(また)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)してゐる。

 ()(しよう)(こと)(はん)(きれ)(みぎ)(しも)(けつ)(すう)(しる)したる四()(くわ)(はん)(わた)つてゐる。「敬助十七歳に御坐候はば成長の儀一段之事に候。隨分壯健になり候やう心懸第一に候。近年中には此方塾などへも參り候やういたしたく候。これは小生參り候節御相談申候而よろしき儀に候へども、大略のやうす一寸御相談申上置候。廉塾は御上の御所持に而、太中翁預り分となり居申候。入塾之書生は何もかも一統ひとつにいたし、一月の上に而總勘定いたし候。大體一人前食物油の代迄に而一日七八歩に而濟候。外には紙筆髮結ちんなど計也。是は親族の子弟にても外人にても同じやうに勘定たて候事勿論に候。間ま貧窮の者には扶持方なく置候もの有之候へども、是は學僕の積りに而家の事色々いたさせ候。敬助參り候ても、右之扶持をば出し不申候ては叶不申候。私方へ置候へば夫にも及不申候へども、書生塾の外に置候事禁じ申候。私もあてがい身上故、家内入用の外に一箇月廿三四匁の入用出しがたく且は塾へ對し候ても不可然候。されども一々長き間御宅より御物入御坐候も御苦勞の義とぞんじ候。右に付先達而より小生色々工夫いたし候處、先一箇月食料一分二朱といたし候而、半分は私よりいで、半分御宅より御出し可被下候。さすれば一年の飯費四兩二歩にいたし候而、其半分を二兩御出し被下候やう奉頼候。小遣紙筆の費、髮結賃等は此方に而辨じてよく、外に一切入用なし。洗濯物、是は此方に而世話いたし候。書物は持參に及ばず、當用のものは此方に有之候。衣類、めん服に而よし。右之段二尊へ御相談被成置可被下候。尤これは當分の事に候。後には又々よきしかた可有之候。くわしくは面談に可申上候。敬助さし料大小御坐候哉、かつこうよきもの有之候へばよし、なければ其用意被成可被下候。山口長二郎殿(凹巷)いつぞや大阪へさし被參候大小、甚手がるにてしかも簡便に有之候。子息の觀平にこしらへ遣候由、道具屋平兵衞方にてこしらへ候由、其價も甚やすく、金一兩にて出來候よし、もしこしらへ候はば山口へ御頼可被成候。其價は私より進じ候てもよろしく候。これはいそがぬ事に候へども、ふと氣付候故に候。書生の内は事さへ各別かかねばなんでもよし。私どものくらし、やはり林崎などに居申候せつにかわり無之候。家内有之、親類の吉凶事のつとめにうるさくこまり入候。とかく昔が安心に有之したはしく候。」わたくしは(これ)()つて(たう)()(れん)(じゆく)(しよ)(せい)(せい)(くわつ)()(つまびらか)にすることを()た。一(じつ)(ふん)、一(げつ)二百四十(ぶん)一は(もつ)(いん)(ぜん)より(とう)()(いた)る一(さい)(つひえ)(べん)ずるに()つた。(ぎん)(さう)()(けん)するに(たう)()(きん)(りやう)(ぎん)六十三(もんめ)(ふん)(りん)(すなはち)六百三十二(ふん)四であつた。一(げつ)(つひえ)(きん)()(しゆ)(ふん)(りん)、一(ねん)(つひえ)は四(りやう)()(もんめ)(ふん)(りん)である。(いま)(つひえ)(やく)(ぶん)の一である。そして()(てい)()(せい)(くわつ)()(また)(じよう)()(もつ)(この)(ぜん)(がく)(きふ)するに()らぬので、()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)をして(その)(ぱん)(きよ)(しゆつ)せしめようとした。わたくしは(また)(これ)()つて(たう)()(たう)(けん)(あたひ)()ることを()た。(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(その)()(くわん)(ぺい)のために(つく)らしめた(たう)(あたひ)(きん)(りやう)であつた。(ほとんど)(げつ)(さゝ)ふべき(せい)(くわつ)()(あた)る。そして()(てい)はこれを(れん)なりとして、()(しよう)がためにこれを(もと)めようとした。

     その百十八

 (ぶん)(せい)()(いん)(ぐわつ)十二(にち)()(てい)(しよ)()()()くことが(きはめ)(すくな)い。(かみ)()(ところ)(ぶん)に、(いん)()(けい)(てう)(わづら)はしきを(いと)ひ、(はやし)(ざき)()(だい)(せい)(くわつ)(つゐ)()してゐる(ほか)には、(たゞ)(れい)()つて「小生方皆々無事罷在候。乍憚御安意可被下候」と()ふに()ぎない。

 (まと)()()(おとうと)(へき)(ざん)(たう)()(ふう)(じや)(おか)されてゐた。「御風邪御用心專一に候。風邪もあなどりて長引候と、人の性により、勞咳のやうになり候ものも御坐候。足下など少し腹よわきやう見え候。隨分用心專一に候。灸治おこたらず可被成候。弟妹共へも御すすめ可被成候。」

 (しよ)(なか)(むら)(きう)(かう)(こと)がある。「九皐畫人參り候よし、これは内分なれど、この人には説あり、參り候ともよいくらゐに御あしらひ可被成候。御懇意に被成候事は無用に候。」

 (すゑ)にわたくしは()()(けん)(せう)する。(その)一。「水松澤山被遣、辱賞味仕候。水松は腫氣などによきと申事故に申上候。しかしあしらひ、吸物あしらひに專ら用ひ候。時節過候而申上候而甚御勞煩をかけ候。」(あん)ずるに水松(みる)()(てい)(もと)め、(へき)(ざん)がこれに(おう)じたのである。(その)二。「和中丸御序に少し御惠可被下候。來正月出來候節にてもよろしく候。」(あん)ずるに()(ちゆう)(ぐわん)()(てい)()(てい)(よう)のために()うたのである。

 十一(ぐわつ)()()(てい)(また)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(かん)(なべ)(いへ)には(きつ)()(はう)ずべきものがあつた。それは(つま)(きやう)(ぢよ)()(さん)したのである。「當方無事罷在候。先日大阪便書状差上申候。(此書の事は下に出す。)其節申上候通出産やすく御坐候而、母子追々肥立申候。乍憚御安心可被下候。」(あん)ずるに(うま)れた()()(てい)(だい)(ぢよ)(とら)であらう。()(いん)(うまれ)であつた(ゆゑ)()()(この)(とし)(ぐわつ)(ちやう)(ぢよ)(うめ)(えう)し、十(ぐわつ)(とら)(うま)れたことと()える。

 ()(てい)(みづか)()(ところ)には(なほ)(しも)()がある。「此頃は短日、講業等に逐はれ候而好意思もなく、詩も一向出來不申候。此間の惡作。題後赤壁圖、得覃。臨皐良夜憶江潭。有客有肴情興酣。斗酒如無細君蓄。千年風月欠佳談。順輔、辭卿見過、得樵字。有客茅樓問醉樵。挽留吟袖指山瓢。傖儜莫笑非時樣。請坐聽吾酒後謠。」二()(みな)(さい)(かん)(だう)()稿(かう)(をさ)めざる(ところ)である。(じゆん)()(いま)(かむが)へない。()(けい)()(なか)(うぢ)である。

 ()(てい)()(てい)()(しよう)(らい)(がく)(こと)(うなが)した。「先書申談遣候敬助儀もはやく御相談被成御返辭可被下候。さすれば來春小生歸省のせつの心積りも有之候。」

 (たか)()(ばい)(をう)西(にし)(むら)(きふ)()(しよ)(ちゆう)より、()(てい)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()(びやう)(こと)()()だした。「高木、西村兩子より通書有之候而始而承知仕候。聯玉君久敷耳痛に而すぐれ不申候由、八月頃は餘程危篤にも有之候由、併し此節は涼膈散など適中いたし、先は氣遣も無之候由、先々お互に安心仕候。足下など定而御存じ之事と被存候。御通書之節一寸被仰聞可被下之處、疎略なる事と被存候。右故か六月以來一向此方へ通書も無之候。」

 ()(てい)(てき)(さい)(うみ)(ざう)(めん)(おく)つた。「海ぞうめん少々差上候。大人樣へ御上可被下候。是は但馬城崎より出候のみとぞんじ候處、先日御領内田島と申處に而とれ候とて、其土人の手製をくれ候。さしみ、いり酒のわきもりによろしく、京に而よく遣候遣候。(二字衍。)少し前に水に而よく/\洗候而御用可被成候。」うみぞうめんは(こう)(しよく)(さう)(もん)のネマリオン()

 (とら)(たん)(じやう)(はう)じた()(てい)の「大阪便書状」は、わたくしは(はじ)(いつ)(ばう)したものと(おも)つてゐた。(のち)(いた)つてわたくしは()(てい)(はゝ)()せた(しよ)(こう)(はん)()()られたものを(はつ)(けん)した。そして(この)(だん)(ぺん)(おほ)(さか)便(びん)()せられたものなることは(いま)(うたがひ)()れない。「扨せん日おけう(敬)も安産いたし候。又々女子に御坐候。母子とも追々肥立申候。名は虎と名づけ申候。とらのとしの生れの故に候。さつそく御しらせ申上候はづ(筈)に候處、何歟と用事しげく、夫に女子ゆへ(故)さほどおもしろくも無之候故延引いたし候。しかしお梅などより生れだちは丈夫に見え候。産衣七夜に親類より少々もらひ候。學問所より紫紋ちりめん小袖とつむぎ小袖。本庄屋(菅波武十郎)よりもゝいろきぬ。」(()()()れて()し。)

     その百十九

 (ぶん)(せい)()(いん)十一(ぐわつ)十一(にち)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた()(てい)(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。(つう)(へん)(ほとんど)(みな)()()(かた)つてゐる。「當方無事、小兒(虎)も追々肥立申候。御安意可被下候。(中略。)此頃看書講業に追れ、詩は一切無之候。夜前(十一月十日夜)人の索に應じ候雙狗兒の贊。穉犬日相嬉。無心殊可喜。不知長大時。還憶同胞否。御一笑可被下候。最早當年も五十日にたらぬ光陰に候。はやき歳月、更に驚き候。來二月(己卯二月)頃は何卒歸省果し申たく候。只今此状認候に付ふと出候。夢のごと過る月日も故里をおもへばひさしいつか歸らむ。きこえかね候樣に候。」()(てい)()(ねん)(ぐわつ)(もつ)()()となしてゐた。(さう)()(じの)(さん)(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()えない。

 (やま)()()(しや)(せう)(そく)(しばら)()えてゐた。「良佐(河崎敬軒)下世いたされて、山田の信も甚疎濶に候。山口君(凹巷)耳疾追々全快と被察候。」

 (しよ)(ちゆう)()()二三がある。「此頃中風の防ぎ並に中症になり候て後にてもよろしきと申名灸傳授うけ候。書中に(て)はわかりかね候。歸省のせつ可申上候。其内相しれる人の左樣の事も候はば被仰可被下候。書付進じ可申候。テリアカの製法もつたへ候。是又同段。」テリアカは希臘(グレシア)()テリアコンの(てん)で、()(どく)(みつ)(ざい)である。

 (この)(しよ)は十一(ぐわつ)十一(にち)(つく)(ところ)ではあるが、その(はつ)せられたのは(あるひ)は二十六(にち)であつたかとおもはれる。(なに)(ゆゑ)()ふに、(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(べつ)に「霜月廿六日」の(しよ)があつて、「別状は先日認置候得共、便間違延引仕候、やはり一併に差上候」と()つてあるからである。(この)十一(ぐわつ)二十六(にち)(しよ)()(いん)()つた(しよう)は、「此方書信」と(だい)して()(はつ)(しよ)(れつ)()した(なか)に「霜月二日、うみそうめん入」の一(しん)があつて、(その)(うみ)(ざう)(めん)(いり)(しよ)(かみ)()いた(ごと)(そん)してゐるのである。

 (つぎ)()(てい)が十二(ぐわつ)()(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)で、(また)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。(かん)(なべ)(こと)(はじめ)に「小生無事罷在候、左樣御安意可被下候」と()つてあるより(ほか)(しも)(すう)()がある。「扨今年は此境けしからぬ暖なる冬に而くらしよく候。今朝梅がこの位にさき候とて、一枝(此下三字不明)もらひ候。御地邊は如何に候哉。私明春歸省も先二月頃とは思ひ候。故障さへなくば是非發程可仕候。」

 ()(てい)歸遺(みやげ)(こと)(はう)じてゐる。「大人樣へ明春土産の一物に筑前より到來の帶地(此下三字不明)先御差上可被下候。良助へ書物一册、是は頼萬四郎殿(杏坪)比配下へ行ひ候書なりとてもらひ候。藝州にてけしからぬ發行の由、教にもなり、手本にならひ候が可然候。良助へこれも來春の土産のつもり也。左樣被仰可被下候。(京よりは獨行のつもり也。)」

 (いけ)(がみ)(りん)(さい)(しよ)()(てい)()せた。「一昨日(十二月六日)池上氏よりの信有之候。これも段々快き方に候由、凹巷も段々御快復之由、いづれも重疊之事に候。」(りん)(さい)()んでゐたと()える。

 (つぎ)は十二(ぐわつ)十八(にち)()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)である。(これ)(また)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。(すゑ)に「最早當年は大方此限に通書不申上候、萬々御自愛奉祈候、頓首、極月十八日夕燈下書」と()つてある。

 (しよ)(へき)(ざん)(げい)(さい)()(ろう)(こと)()えてゐる。「御婚儀御披露御坐候由、目出度存候。右御祝詞之印迄書状並に金子入、先月末大阪書商へ相托し申候。相達し候哉承度候。すべ而何事によらず、中分より質素に被成候樣可然候。是は足下へ内々心得に候。其方が自他安心なるものと存候。」

     その百二十

 ()(いん)十二(ぐわつ)十八(にち)()(てい)(しよ)(ぞく)(せう)する。

 (てき)(さい)(つま)(なか)(むら)(うぢ)()(てい)(ぢよ)(とら)(ぜん)()(おく)つた。「おとらへ母樣よりけつこうなる涎かけ御送、辱奉存候。拙内(敬)も早速御禮可申上候處、今夕は甚急故不得其意候。可然御禮申上候樣申出候。」

 ()(せい)(うを)(ぬま)(ぶん)(すけ)(こと)(おな)(しよ)(ちゆう)にある。「魚沼文佐、成程存候ものに御坐候。菅塾にて大分世話になり候もの、私も心易くはいたし不申候へども、相識には有之候。醫療も相應にいたし、詩文などもかなりに出來候由、併甚不人物、大阪に而去々年歟大分惡事いたし候よし、先は遠ざけ候人物に候。一宿は無據義に候。すべてあのやうなる人物何方ぞ書状にてもそへ頼參り候はゞ格別、先は大概にあしらい被遣候樣可然候。尤私をよくしり候人と申候ても、私書状そへ不申候はゞ、一宿も御無用に候。乍去これはその人物次第御見計も可有之候。此邊などは色々なるもの參り候てこまり候。中には名をかたり候而人の世話をかけ候類有之候。一飯一宿の事はいかやうにてもよろしく候へども、それをつてにいたし、外々へ厄介をかけ候類、書畫(家)醫人儒生などに近來多く候間、御心得肝要に候。」(うを)(ぬま)(かつ)(れん)(じゆく)にあつたもので、(みづか)()(てい)(とも)(しよう)し、(まと)()(ほう)(でう)()をおとづれたものと()える。

 ()(てい)()(いん)(せき)(どく)にして(いま)(そん)するものは(こゝ)()きた。そこでわたくしは()稿(かう)を一()する。その(をさ)むる(ところ)()(ちゆう)(あきらか)()(いん)(ふゆ)()つたことを(ちよう)すべきものが二三(しゆ)ある。()づ「贈濱希卿」「送岡部子道」の七(ぜつ)(しゆ)がある。(ちや)(ざん)(しふ)()(いん)()の七(りつ)に「送岡濱二子還筑」と(だい)するものは、()(けい)()(だう)の二(にん)でなくてはならない。()(だう)(ちく)(ぜん)(ひと)なることは、()(てい)の「天邊何處覇家臺」の()がこれを(しよう)してゐる。(つぎ)は「題插秧圖」の七(ぜつ)である。(これ)(ちや)(ざん)の「插田圖、爲惠美玄仙」の五()(どう)()(つく)られたものであらう。()()(げん)(せん)はわたくしの()(はら)(いち)()(らう)さんに()()()(てふ)()るに、(のち)に四(せい)()()(ぱく)となつた(ぞく)(さい)(てい)(さん)()くてはならない。(ぞく)(さい)(れん)(じゆく)の一(しよ)(せい)で、(ひろ)(しま)より(らい)(いう)してゐたのである。(さい)()に「菅岱立至、賦呈」の五(りつ)がある。(たか)(はし)(せん)(ざう)さんの(ざう)(せん)に「戊寅臘月七日、北條先生宅夜話」と(だい)する五(りつ)があつて、「菅景知拜」と(しよ)してある。(また)(くわん)(うぢ)より()(しよ)(どく)(すげ)()(けい)()(しよ)してあつた。(すげ)()(うぢ)()(けい)()(あざな)(たい)(りつ)である。(せん)(だい)する(ところ)はかうである。「卅里來相見。清丰過所聞。言談何娓々。意氣共忻々。爐火留人暖。梅花入酒薫。還家春已近。雞黍好徯君。」「卅里」と()ひ「徯君」と()ふを()るに、その()(ところ)の「西村」は三()(うち)でなくてはならない。()(てい)()に「西村明歳約」と()ひ、(しも)に「西村菅所居」と(ちゆう)してある。(たゞ)(のち)()には「西村」が「西構村」に(つく)つてある。

 ()(いん)「除夜」の()(てい)()()稿(かう)()えてゐる。「四十無聞客。百年多病身。悠々思遠道。寂々絶囂塵。冬暖梅全吐。燈明酒作淪。不愁厨下冷。爛醉已生春。」(ちや)(ざん)には(よし)(むら)(たい)()()する()があつて、(ぢよ)()(さく)はなかつた。(なか)に「七十一齡年欲盡、三千餘里夢還新」の一(れん)がある。(たい)()(しら)(かは)(ひと)である。

 (この)(とし)()(てい)は三十九(さい)であつた。「四十無聞客」は(まさ)(むか)へむとする(とし)()つたものである。

     その百二十一

 (ぶん)(せい)(ねん)には()(てい)(ぐわん)(たん)()()い。(ちや)(ざん)は「村閭相慶往來頻」(うん)(ぬん)(ぜつ)()(つく)つた。八()(いた)つて()(てい)に「正月八日夜、睡起看雪」の七(ぜつ)がある。(その)三四は(せき)(ねん)(ほく)(ゑつ)(いう)()(およ)んでゐる。(せふ)(ひつ)(あは)()るべきである。

 ()稿(かう)の「看梅憶亡女二首」は「梅是亡兒名」と()ひ、「梅開似兒面」と()ふ、(ならび)(この)(はる)(はじめ)()つたことは(あきらか)である。()(いん)(ぢよ)(うめ)()して(のち)(はじめ)(ばい)(くわ)(たい)したのは()(ばう)(まう)(しゆん)であつたからである。

 (まと)()(しよ)(どく)には()(ばう)(しやう)(ぐわつ)()()(さく)(みと)むべきものが(はなはだ)(すくな)い。(しひ)(もと)むれば(しやう)(ぐわつ)十四(にち)(たん)(かん)があつて、「當年かけ、冬より大分例よりもあたたかに候へども、梅ははなはだをそく、漸く一二花開し位の事に候」の()がある。()(いん)十二(ぐわつ)()(しよ)(ならび)(ぢよ)()()の「冬暖梅全吐」と(あは)(かむが)ふべきである。

 これに(はん)してわたくしは()稿(かう)(ちゆう)より、()(てい)()()(ごと)く二(ぐわつ)()(せい)()(のぼ)つたことを(すゐ)(そく)する。()(この)(すゐ)(そく)(あやま)らぬならば、(しよ)(どく)(そん)してゐぬのも(あやし)むこと(もち)ゐぬこととなるであらう。

 (さい)(かん)(だう)()稿(かう)(げん)(みつ)(へん)(じつ)(たい)(れい)(したが)つたものとは()(がた)い。しかしわたくしは「出門」「倉鋪過鷦鷯大卿僑居」「岡山早發」「西構村宿菅岱立家」「姫路途上」「途中口占」「蟹坂」「贈韓聯玉」「宿高厚之家、翌朝携出、到南垠別墅別」「歸到」の(しよ)(へん)()んで、()(てい)(かん)(なべ)より(やま)()()(まと)()(かへ)つた(りよ)(てい)(さう)(ざう)する。

 ()(たう)()(いは)く。「歸到仲春十五夜。家人月影共團團。風光何似天倫樂。眞是千金一刻看。」わたくしは(この)()(てい)(だん)(らん)(くわう)(けい)(まと)()(ほう)(でう)(うぢ)()(てい)とする。(まへ)に「出門」の()があり、(のち)に「將辭」の()があるを()れば、(この)(だん)(てい)(あやま)らぬであらう。()(てい)()(ばう)(ぐわつ)十五(にち)(まと)()(いへ)(たう)(ちやく)したのである。

 (これ)よりわたくしは()(てい)(しゆつ)(もん)(とき)(さかのぼ)つて、(さら)(こまか)(その)()(けん)する。(かん)(なべ)()でた(つき)()(いま)()ることが()()ない。しかし(たう)()(かん)(なべ)には(はう)(さう)(おこな)はれてゐたので、(きやう)(とら)とは(おや)(もと)()つてゐた。それゆゑ()(てい)(はつ)(じん)()には()()(こく)(べつ)(かへ)つて()た。(しゆつ)(もん)()(だい)()に「時妻(敬)兒(虎)避痘、久在他、是日來取別」と(ちゆう)してあり、()(はじめ)に「兒女寄舅里、(井上氏、)舅里非遠程、不見未旬日、相思魂易驚」と()つてある。()(てい)(おのれ)(とら)(おも)(じやう)と、(てき)(さい)()(さい)(おのれ)(おも)(じやう)(あひ)(こと)ならざるべきを()り、(因我念兒切、轉思父母情、)(きやう)(とら)との(なげき)(かへり)みずして(てい)(のぼ)つた。(我私豈足恤。擺脱萬縁輕。)

 ()(てい)(くら)(しき)()ぎ、(をか)(やま)()ぎた。そして「西構村」に(すげ)(たい)(りつ)()うた。「梅綻君過我。梅殘我問君。(中略。)隔歳心纔慰。明朝手復分。」

 ()(てい)(ひめ)()()(かに)(ざか)()えた。そして(やま)()(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()うた。「贈韓聯玉」の七(りつ)がある。「攝西(尼崎)分手歳三更。(丙子、戊寅、己卯。)長憶旗亭離別情。相見一懽消積想。倶經萬死(凹巷耳疾、霞亭痢病)賀重生。二毛潘岳閑方得。(凹巷退隱。)落齒香山詞既成。(霞亭痢瘥一齒落、作歌。)對酒茫々膓欲斷。春風苔緑故人(河崎敬軒)塋。」

 (つい)()()(やま)()より()()(まと)()(かへ)(いた)つたのが、(かみ)()つた(ごと)く二(ぐわつ)十五(にち)であつた。(へい)()()(せい)(のち)(なか)(ねん)()()()(てい)(まい)(あひ)()たのである。

 ()(てい)(まと)()(えん)(りう)したのは十()(あまり)であつた。「將辭」の五()()(しゆ)に「膝下來奉歡、旬餘忘恨歎」と()つてある。二(ぐわつ)十五(にち)より二十四()()(いた)(あひだ)(ほう)(でう)(うぢ)宿(やど)つてゐたのである。

     その百二十二

 (ぶん)(せい)()(ばう)(ぐわつ)二十四(にち)()(こと)である。()(てい)(まと)()(はつ)する()(さだ)めて、(その)(ぜん)(せき)(べつ)(えん)(もよほ)した。「將辭」の()に「今夜侍坐宴、頓異昨來情、款々情話久、燈花照面明」と()つてある。

 ()(てい)(まと)()(はつ)した()(おそ)らくは三(ぐわつ)(さく)であつたらしい。()(ねん)(じやう)()()(いへ)()でて三(じつ)であつたと()つてある。(へき)(ざん)(おく)つて()()(まつ)(ざか)(いた)り、(べつ)(しゆ)()んだ。

 ()(てい)(まつ)(ざか)より(きやう)()(おほ)(さか)()(かん)(なべ)(かへ)つた。()稿(かう)の「天龍寺與古海師夜話」「過三秀院、時月江長老在馬島」「篠崎小竹、武内確齋命舟遊墨江同賦、分得梅字」「過瀬尾子章話舊、分得韻東」四(へん)(この)()(ちゆう)(さく)である。(なか)()いて(そう)()(かい)(たけの)(うち)(かく)(さい)とは(あらた)()でた(じん)(ぶつ)である。

 ()(てい)(かん)(なべ)(ちやく)した()(つまびらか)にし(がた)い。わたくしは(たゞ)(その)()の三(ぐわつ)二十五(にち)(ぜん)なることを()るのみである。(なに)(もつ)てこれを()るか。(こゝ)()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた、(つき)()(しよ)せざる一(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。そして(この)(しよ)の四(ぐわつ)()つたことは、(はじめ)に「新夏和暖」と()ふより()すべく、その()(ばう)()つたことは(はる)()(せい)()(こと)()ふより()すべきである。(この)(しよ)に「先月(三月)十二日大坂より書状(原註、梅疾口訣入)歸後廿五六日頃京迄書状差出し申候」と()つてある。十二(にち)(しよ)(まと)()より(かん)(なべ)(かへ)()(じやう)(はつ)せられ、二十五六(にち)(しよ)(かん)(なべ)(かへ)つた(のち)(はつ)せられたのである。

 (この)(ぐわつ)(しよ)(さら)にわたくしに一の(ぢゆう)(えう)なる(こと)(をし)へる。それは()(てい)(まと)()より(かん)(なべ)(かへ)(とき)()(てい)()(しよう)(したが)(きた)つたことである。「敬助(撫松沖)も晝間は塾(廉塾)へ參り居申候。隨分無事講業に從事いたし候。」

 (この)(とき)()(てい)(じやう)(きやう)(しも)(ごと)くに()つてある。「當方皆々無事罷在候。(中略。)菅翁中庸、唐詩選隔日、小生易、古文隔日にいたし候。昨日(四月某日)は諸生山行、殘花を賞しに參り候。私歸後いまだ半丁も出行いたし不申候。」

 ()(てい)(へき)(ざん)(やまひ)(うれ)へてゐた。「御病氣いかが候哉、くわしく御樣子承度候。無御油斷御藥治可然候。」

 (しよ)()(まつ)()(かう)(ざう)()ふものに(たく)したのである。「小松屋幸藏といへる塾出入之仁今夕(四月某日)急に乘舟、匇々申殘し候。」

 わたくしは(たゞ)(しよ)の四(ぐわつ)()つたことを()るのみならず、(また)その四(ぐわつ)十六(にち)()(ぜん)()つたことを()つてゐる。(なに)(ゆゑ)()ふに、四(ぐわつ)十七(にち)には()(てい)(ふく)(やま)(はん)(ちよう)(へき)(かうむ)つたからである。(ぎやう)(じやう)の一(しよ)にかう()つてある。「文政二年四月十七日、福山侯(原註、正精公)俸五口を賜ひ、時に弘道館に出て書を講ぜしむ。」(この)(かい)(かつ)(こと)は「五月二日」の()(づけ)のある()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(おい)て、(はう)(ざん)(きやう)(しん)(はう)ぜられてゐる。(しよ)(まと)()(しよ)(どく)の一で、(じつ)(じゆん)(ぐわつ)()(つく)られたものである。わたくしのいかにして(この)(さく)()()つたかは(しも)()えてゐる。

 「五月二日」(閏四月二日)の()(づけ)(しよ)(いは)く。「小生無事罷在候。(中略。)先月十七日(四月十七日)御用書到來、私へ別段五人扶持被仰付、時々は弘道館と申學校へ罷出、講釋等世話いたし候樣被命候。先難有義と、兩三日中御家老や年寄衆へ御禮まわりいたし候。私心中には甚迷惑にもぞんじ候得共、表向御用に而被仰付候故、只今のふり合御斷も申出がたく候。尤月に兩度位も出席いたし候へば濟可申、それが勤と申ものに候。儒者四家、親子勤も有之、以上五人、私ともに六人を日わりにいたし勤め候事、私在宅故、遠方故、家中の人よりすくなく成候樣に願置候。塾と兩方に相成候故、只今よりは又々世話しく相成候而、自分の事出來兼候。それがつらく候。尤茶山翁最初三人扶持に而被召出、學校暫つとめ候由、いづれ私も一二年罷出候而、其後はどふぞ御斷申たきものに候。在宅の者へ御扶持に而も被下候義、御領分の人などは甚榮幸に存候而、此頃は日々賀客など參り候。これも一つの累に候。御笑可被下候。」

     その百二十三

 (ぶん)(せい)()(ばう)「五月二日」(閏四月二日)の()(てい)(しよ)に、(ふく)(やま)(はん)()ける(どう)(れう)(かぞ)へて、「儒者四家、親子勤も有之、以上五人、私ともに六人」と()つてある。(この)()(てい)(のぞ)く五(にん)(たれ)(/\)であらう()(はま)()(うぢ)は「鈴木圭輔、衣川吉藏、伊藤貞藏、同文佐、菅太中」であらうと()つてゐる。(きぬ)(がは)(きち)(ざう)()(くわう)(とく)()(とう)(てい)(ざう)(ちく)()(こう)(かう)(どう)(ぶん)()()(てい)(りやう)(へい)である。

 (しよ)(ちゆう)(おとうと)(へき)(ざん)(やまひ)(こと)()(でう)はかうである。「足下の御病氣如何、くわしく御樣子承度候。(中略。)貴郷最早鰹魚の頃と察し候。併今年は足下たべられ不申候故氣之毒に存候。(中略。)尚々追々向暑折角御いとひ可被成候。」

 (おとうと)()(しよう)(こと)()(でう)はかうである。「敬助は甚たつしや、日々塾へ罷出居候。參り候而以來風ひとつ引不申候而悦申候。」

 (その)()()()が二三ある。(その)一。「田口氏へ此書状御附屬可被下候。外に御寫し被成候郡縣要略これへそへ御かし被遣可被下候。」()(てい)()(ぐち)(ぼう)(あた)ふる(しよ)(へき)(ざん)(あた)ふる(しよ)(とも)(はつ)せられた。そして()(てい)(へき)(ざん)(うつ)した(ぐん)(けん)(えう)(りやく)()(ぐち)(ぼう)()さうとしてゐる。()(ぐち)(うぢ)(あるひ)(へき)(ざん)(さい)()()()(けい)ではなからうか。(その)二。「お敬よりそまつの品ながら母樣へ進上仕候。中陰中故書状は上不申候。」

 (ぜん)(しよ)(つぎ)()(てい)(はつ)したる(ごと)き一(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にあつて「五月三日」の()(づけ)になつてゐる。しかしその()する(ところ)(けん)するに、(ぜん)(しよ)(つく)つた(よく)(じつ)(さく)ではない。わたくしは(じゆく)(かう)した(すゑ)に、(ぜん)(しよ)()(づけ)(あやま)つてゐることを()つた。(ぜん)(しよ)は「五月二日」の(さく)ではなくて(じゆん)(ぐわつ)()(さく)であつた。(なに)(ゆゑ)()ふに()(てい)(かい)(かつ)の四(ぐわつ)であつたことは()(ぶん)(しよ)(しよう)する(ところ)で、(ぜん)(しよ)はそれを「先月」の(こと)となしてゐるからである。()(ばう)には(じゆん)(ぐわつ)があつて、五(ぐわつ)(せん)(げつ)は四(ぐわつ)でなくて(じゆん)(ぐわつ)だからである。

 五(ぐわつ)()(しよ)(しも)(ごと)()(てい)(きん)(じやう)(あらは)してゐる。「當方無事罷在候。乍憚御放意可被下候。私も福山出勤、十一日、十二日、廿五日、廿六日右四日とまりがけに相つとめ候。先廿五日よりはじめて罷出候。つらく候へどもいたしかたなく候。當年は閏月有之候故、今までは隨分すゞしく、一兩日前よりひとへもの折々き候。」(あん)ずるに「先廿五日」は(じゆん)(ぐわつ)二十五(にち)であらう。

 (こと)(へき)(ざん)(くわん)するものは(しも)(ごと)くである。「三月御出しの兩通、先月(閏四月)相達し拜見仕候。御舊疾追々御快き方の由、折角御攝養奉願候。一たんよきとて御油斷被成まじく候。とかく氣體のよく調候やう第一に候。いりこ(海參)など煮て始終御上り被成候など可然候。御詩拜見仕候。此度のは皆々かくべつよろしく候。又々御みせ可被成候。」(へき)(ざん)(くわい)(ふく)(こと)()(てい)が「五月二日」(閏四月二日)の(しよ)(つく)つた(のち)(きやう)(しよ)()()つたものである。

 (こと)()(しよう)(くわん)するものは(しも)(ごと)くである。「敬助も無事出精仕候。いつにてもたより急になり候て、別段書状得認不申候。」

 (この)(つき)()(そう)(げつ)(こう)()(てい)(とも)(うら)(むか)へ、(また)(おな)(じやう)(じゆん)(うち)(そう)(だう)(くわう)(かん)(なべ)()た。(だう)(くわう)(こと)(ちや)(ざん)(しふ)には(たゞ)「今雨重歡五月天、紅榴依舊隔簾然」と()つて、(しも)に「上人七年前來訪、正當五月」と(ちゆう)してあるのみである。しかし(しも)()()(てい)(しよ)に五(ぐわつ)(はじめ)()つてある。(じやう)(じゆん)(くだ)らなかつたものと()るべきであらう。

 六(ぐわつ)(ついたち)()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。(こと)(かん)(なべ)(いへ)(くわん)するものは(しも)(ごと)くである。「當方無事罷在候。乍憚御安意可被下候。(中略。)弘道館へも月に兩度二日宛四日講書に出候。凉しき處にて悦申候。(中略。)當夏は只今迄は大にくらしよく候。此方久敷五月中雨ふり候。盆前あつく可有之候。」

 (かみ)()つた(そう)(だう)(くわう)(こと)(この)(しよ)()えてゐる。「先月(五月)初道光上人久々に而被見候。七十四に被成候。各別衰老之氣味も見え不申候。いづれ暫くは滯留之由、此節は笠岡と申へ被參居候。」(だう)(くわう)は七(ねん)(ぜん)()(ゆゑ)、「久々」と()つてある。(すなは)()()(せう)()(じよ)(ちや)(ざん)()けて(きやう)()にある()(てい)(さづ)けた(ぶん)(くわ)(ねん)(じん)(しん)(いう)である。(この)(しよ)()(ところ)より()せば、(だう)(くわう)(えん)(ぎやう)(ねん)(うまれ)で、()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)より(ちやう)ずること(わづか)に一(さい)である。

 (しも)()くべき(しよ)(どく)に「喜道光師至、次其韻」の七(りつ)がある。「吾師徳望滿人天。高臘眞乘何儼然。病貌輕癯閑白鶴。慈顏微笑接青蓮。新詩可賦塵縁遠。清話屡參趺坐堅。一炷爐香茅屋底。山如太古日如年。」(だう)(くわう)()(てい)(いへ)をも()うたのである。()()稿(かう)()えない。

     その百二十四

 (そう)(げつ)(こう)(ぶん)(せい)()(ばう)(ぐわつ)()(とも)(うら)()たと()(こと)(また)(ぐわつ)(さく)()(てい)(しよ)()えてゐる。「先月(五月)八日月江長老對州より歸帆順風の處、鞆浦へつけられ、人被遣候故、晝後より小生も竹輿にて罷越、其夜は舟中にて饗應にあづかり、翌日(九日)は對潮樓の隣寺をかり受置酒終日談話仕候。釣首座、承芸など、其外僧徒五六人居申候。對馬より送船、三百石位の人附來候。醫者なども被添候。以上舟四艘ほどにて、おもきとりあつかいなるものに候。足下(碧山)御噂等もいたし候。長老隨分壯健に候。色々朝鮮の品土宜にもらゐ候。十日は弘道館出席日故、其夜福山迄歸申候。定而長老は最早歸山と被察候。」

 (さい)(かん)(だう)()稿(かう)に「鞆浦途上」の七(ぜつ)がある。「忽報歸帆入鞆灣。輕輿軋々向江山。江山滿眼舟何在。欲見月師(月江)微笑顏。」(だい)(もと)に「五月八日、峨山(嵯峨)月江師自對州歸、卸帆於鞆浦、予往見、途中作」と(ちゆう)してある。(しよ)(どく)(おな)()(ろく)して、「先日月江師鞆浦へ維舟のせつ途上口號」とはしがきしてゐる。

 ()稿(かう)(また)「鞆浦舟中呈月江長老」の七(ぜつ)がある。「西州留錫三年役。南浦歸帆一日期。不意鞆津新暑夕。柁樓風月對吾師。」

 (しよ)(どく)(かみ)(ともの)(うら)()(じやう)()(つぎ)(そう)(だう)(くわう)()(ゐん)した(さく)()せてゐるが、(その)()(すで)(かみ)(ろく)(しゆつ)した。

 六(ぐわつ)(さく)(しよ)(へき)(ざん)(びやう)()(こと)()ふこと(しも)(ごと)くである。「追々御快復の由、一段の儀に存候。猶々御油斷無之御攝養所祈に候。藥ぐひなどいりこ(煎海鼠)など可然候。かつを(鰹)は少しはかくべつ、先御用捨可被成候。酒は少々宛は不苦被存候。いづれ油こきものは毒を激し可申候。」

 (この)(しよ)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()()(だち)()(かう)()()えてゐる。「山口宇仁館などより通書、何歟參居候由、福山迄參り、いまだ接手不仕候。いづれ皆々無事と被存候。」

 (しよ)(さう)(もく)(こと)(でう)()せてゐる。(みな)()(てい)(まと)()(いへ)(おく)つて()ゑさせたものである。「姫ぶきはえ候由、餘よろしからぬものに候へども、只めづらしといふ計の事に候。したしものの外に、備前にては葉を火に炙り醤油打てたべ候由、山の里とやら申候由。」ひめぶきの(なに)(さい)なるを()らない。「柳附候由、夏の間はじめは餘り日にあたらぬやう、生長の後はいかやうにても不苦候。」(これ)(おそ)らくは(くわん)(うぢ)西(せい)()(りう)であらう。

 ()(てい)(この)(しよ)(とも)(ぶん)(へん)(へき)(ざん)()()した。「鈴木伊藤送序懸御目候。御序に御かへし可被下候。」(あん)ずるに(そう)(じよ)の一は「送鈴木君璧序」なること(あきらか)である。(くん)(ぺき)()(ざん)(けい)(あざな)である。(じよ)はその(ふたゝ)()()()された(とき)(つく)られたものである。(いま)一つの(そう)(じよ)(おそ)らくは「送藤希宋序」であらう。「日向藤君希宋、奉君命、辭母遠遊數年、其人卓異、其志嘐々然、方聚首黄備、今將適安藝」と()つてある。わたくしは(この)(しよ)(どく)()つて()(そう)()(とう)(うぢ)なるべきを()すのである。

 (これ)より(のち)()(てい)は七(ぐわつ)()(どう)二十二三(にち)(ごろ)、八(ぐわつ)(なか)(ごろ)、九(ぐわつ)(さく)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へしことが九(ぐわつ)十二(にち)(しよ)()えてゐる。しかし(まと)()(しよ)(どく)(けん)するに、「七月四日」は「七月九日」、「八月中頃」は「八月三日」の(あやまり)であるらしい。

 七(ぐわつ)()(しよ)(たん)(ぶん)である。「殘暑未退候處、御安康御揃珍重に奉存候。當方無事罷在候。乍憚御放意可被下候。御舊疾(碧山の持病)今頃とくとよろしく候由、一段之義と奉存候。隨分御攝養奉祈候。先月(六月)地震いづかたも有之候由、此邊は常の事にてさまで覺え不申候。江州八幡邊は人死ども有之候由、上方にはめづらしき地震に候。姫路革きせる筒おかしなるものに候へども、もらひ候まゝ大人樣に差上候。御便はいつも園部氏(大阪藏屋敷園部長之助)がよろしく候。何物にても丁寧に候故間違無之候。高科(二字稍不明)方へも御療治に御越の由、御苦勞に奉存候。とかくひろくどこ迄も通行有之候樣御心懸專要に奉存候。何歟申上候事も可有之候へども、今日急便、明日學館出勤日、何歟と多事故匇略仕候。餘期再信之時候。七月九日。北條讓四郎。北條立敬樣文案。」(この)(しよ)には()(ばう)()つた(しよう)はなく、(たま/\)これが(しよう)()つべき六(ぐわつ)()(しん)があつても、()(ぢか)(けん)すべき(しよ)()い。しかし(つぎ)()ぐべき八(ぐわつ)()(しよ)(この)(しよ)との(くわん)(れん)は、()(しん)()つて(しよう)すべく、八(ぐわつ)()(しよ)には(べつ)()(ばう)()つた(しよう)があるのである。

 (つぎ)の八(ぐわつ)()(しよ)はかうである。「殘暑未退候處、愈御安康可被成御座、珍重之至奉存候。先日(七月九日歟)大阪迄書状相達し申候。無程著可仕候。以來此方皆々無別條候。乍憚御安意可被下候。先々月(六月)御地邊地震大雷等有之候、嘸々御驚奉察候。此邊は甚かすかなる事に候。江州八幡邊、彦城、勢州桑名邊大分損じ候由承り候。淺井(十助、京都住)も五月中に紀州より歸り候由通書有之候。先十一日(先月即ち七月十一日歟)福山御城代佐原作右衞門殿屋敷燒失いたし候而、此邊甚騷動いたし候。御本丸(福山城本丸)下之處、幸に御城はまぬかれ候而、國中悦候事に候。近詩少々、書損に候、御慰に御覽可被成候。乍憚御兩親樣へ可然御伺被仰上被下度候。(下略。)」

 ()(しん)(こと)(ぜん)(しよ)()してゐる。(ふく)(やま)()(はら)(うぢ)(しつ)(くわ)(こと)()(ぢか)(かう)(しよう)すべき()(れう)(いう)せない。これに(はん)して(きやう)()(あさ)()(すけ)()(いの)(くに)より(かへ)つたのは、(この)(とし)()(ばう)でなくてはならない。(しも)()くべき十(ぐわつ)二十一(にち)(しよ)がこれを(かく)(はう)するが(ゆゑ)である。(かの)(しよ)には(あさ)()()(いの)(くに)より(かへ)つた(のち)(きよ)(うつ)したことが()つてあるからである。

 (あさ)()(なに)(ゆゑ)()(いの)(くに)()つたか、(また)その()つたのは何時(いつ)であるか。(まと)()(しよ)(どく)にこれを()るに()()(れう)(そん)してゐる。それは(はゞ)(ずん)(きよ)(まき)(がみ)(せう)()(へん)で、(しも)(ごと)(ぶん)(しる)したものである。「淺井も當月(下を見よ)より冬かけて紀州へ下り花輪に外科の事修業に參り候由、結構なる事に候。醫業に出精いたされ候而一段之事に候。足下(碧山)なども三四箇月の閑暇を得候はゞ、あのあたりにて外科などの事、眼などの事も心得被成たきもの也。花輪は古今の神醫、またもあのやうなる人は出申間敷との事に候。」(はな)()(はな)(をか)(せい)(しう)である。(あさ)()はこれを()ふために(ぼう)(げつ)より(ふゆ)にかけて(りよ)(かう)した。(あん)ずるに(その)(はつ)(てい)()(てい)()(じつ)(ぜん)(ねん)()(いん)(ばん)(しう)なるが(ごと)くである。しかし(のち)(しよ)(ちよう)するに、(あさ)()()(ねん)(はる)(いた)つて(わづか)(はつ)(てい)し、(ちゆう)()(いた)るまで()()(えん)(りう)したのであらう。(せい)(しう)(こと)(なほ)(しも)(ちゆう)することとする。

     その百二十五

 わたくしは()(てい)(ぶん)(せい)()(ばう)(ぐわつ)十二(にち)(しよ)()くに(さきだ)つて、(さい)(かん)(だう)()稿(かう)(ちゆう)()いて()(ばう)()(しう)()(みと)むべきものを(けん)したい。

 「奉追和林祭酒父子(述齋、檉宇)春淺疊韻詩」、「和頼子成贈茶山韻以呈」の二(しゆ)は、わたくしはその(なつ)(さく)なることを(すゐ)(そく)する。(なに)(ゆゑ)()ふに、(ちや)(ざん)が「新年奉次林祭酒橋梓疊韻」を(つく)つた(とき)()(てい)(すで)()(せい)()(のぼ)つて()り、(また)(さん)(やう)西(せい)(いう)()()(はゝ)(ひろ)(しま)(せい)し、(ひろ)(しま)より(きやう)()(かへ)()()(れん)(じゆく)()()つた(とき)()(てい)(いま)(かん)(なべ)(かへ)らなかつたらしいからである。

 (さん)(やう)は二(ぐわつ)二十八(にち)(かん)(なべ)()て、(つごもり)()つた。()(てい)(かみ)()つた(ごと)く、二(ぐわつ)二十四(にち)()(まと)()()し、三(ぐわつ)二十五(にち)(ぜん)(かん)(なべ)(かへ)つた。(あひ)()ることを()なかつた所以(ゆゑん)である。(さん)(やう)の「贈茶山」の()は「肥山雲霧薩海風」を(もつ)(おこ)り、(ちや)(ざん)の「次韻頼子成見贈」は「披襟流鬼萬里風」を(もつ)(おこ)り、(ならび)(ほん)(しふ)()えてゐる。()(てい)()(ゐん)はかうである。「和頼子成贈茶山韻以呈。西州遊蹤雲海重。極目蒼茫送斷鴻。歸來一尊談勝槩。奇觀躍々抵掌中。太史文思應益壯。莫説周流道術空。」

 (その)()「寄道光師在笠岡」に「未見別來消夏詩」の()があり、「下宮氏集」の()に「忘却晝間炎日紅」の()があり、「高瀧彦先君招飮」の()に「晩榻留人處、涼颸氣正蘇」の()があり、「本間度支家集」に「餘酣人掬漱、凉月滿階除」の()がある。(みな)(なつ)(さく)であらう。

 (やま)(ぐち)(あふ)(こう)(つきの)()(かん)(ばい)()(れん)(じゆく)(おく)つて、(ちや)(ざん)()(てい)とに()(だい)(もと)めたのは、(おそ)らくは(この)(なつ)(こと)であつただらう。()(てい)の「題韓聯玉月瀬詩卷」の五()と七(ぜつ)(かみ)(れつ)()した(なつ)(しよ)(さく)(あひだ)(まじ)つてゐる。(また)(ちや)(ざん)の「韓聯玉示遊月瀬梅林詩、賦此却寄」の三(ぜつ)()も、(ほん)(しふ)()(ばう)の「夏日雜詩」の(のち)、「所見」と(だい)する一(ぜつ)()(まへ)()でてゐて、(こう)()に「秧田萬頃緑畇々」の()がある。(ならび)(こと)()(ばう)(なつ)にあつたことを(しよう)すべきが(ごと)くである。

 (あふ)(こう)の「月瀬梅花帖」は(のち)(かん)(かう)せられた。(はま)()(とも)(さぶ)(らう)さんは(ぜん)(ねん)(てい)()に、(とう)(けい)より(びん)()(わう)(へん)するに(あた)り、(みち)()げて()()(しん)(ぐう)(ぶん)()()ひ、(この)(しよ)(けみ)することを()た。(あふ)(こう)(いう)()(ばう)(ぐわつ)十八(にち)であつた。その(つく)(ところ)(ぜん)(しや)して(れん)(じゆく)(おく)つたのが(しゆん)()(かう)で、(ちや)(ざん)()(てい)()(だい)(なつ)(おい)てせられたと()るは(しつ)(たう)ではなからう。

 ()(てい)()(だい)の五()はわたくしに一の(しん)()(じつ)(をし)へた。それは()(てい)()(ばう)(はる)(まと)()()(せい)した(ついで)に、(つきの)()()()つた(こと)である。「吾遊半海内。梅花稱西備。曾觀三原林。天下謂無二。讀君月瀬詩。舌撟驚絶異。或意詩人巧。誇言頗放肆。不然勝如許。豈無人標識。信疑交横胸。思想存夢寐。一見欲得實。今春(己卯春)杖屨試。」

 (こゝ)(いた)つて()(てい)(わう)()(つきの)()()たか、(へん)()(つきの)()()たかと()はざることを()ない。()(てい)は二(ぐわつ)(はじめ)(かん)(なべ)()で、十五(にち)(まと)()(かへ)()き、二十四(にち)()(まと)()()し、三(ぐわつ)二十五(にち)(ぜん)(かん)(なべ)(かへ)つた。(くわん)(ばい)によろ(よろ)しき()(せつ)(わう)()にあつて(へん)()にあらざるが(ごと)くである。

 しかし(あふ)(こう)(いう)は二(ぐわつ)十八(にち)であつた。()(てい)(あふ)(こう)()(しよ)稿(かう)()むことを()たのは、(おそ)らくは(まと)()(えん)(りう)()であつただらう。「讀君月瀬詩、舌撟驚絶異」は(まと)()(えん)(りう)()であつただらう。(これ)()(てい)(かん)(ばい)(へん)()(おい)てせられたことを(しよう)するに()てゐる。

 ()(てい)(つきの)()(しよう)(あふ)(こう)()いた。しかし(あふ)(こう)()(てい)(この)(しよう)(かた)つたのは、(かなら)ずしも()(ばう)(ぐわつ)(いう)()(はじ)まつたのではない。(あふ)(こう)(かつ)(しよ)(びん)()()せて(つきの)()(しよう)()いたことがある。()(てい)()(てい)()(しよう)(ちゆう)(ちやう)(けい)歿(ぼつ)()()(つきの)()(ばい)(くわ)(てふ)(だい)して、(その)()(ちゆう)にかう()つてゐる。「亡兄霞亭在備西日、先生(凹巷)寄書、盛説月瀬之勝」と()つてゐる。()(てい)(かん)(ばい)(けつ)して(わう)()(おい)てせられなかつたとも()(がた)い。

 (たゞ)(しか)るのみではない。()()(てい)(へん)()(つきの)()()ぎたとすると、(まと)()より(かん)(なべ)(ともな)(かへ)られた()(てい)()(しよう)(おな)じく(うめ)()(はず)である。(しか)るに()(しよう)(せん)(つきの)()(ばい)(くわ)(てふ)(ばつ)には「辛巳歳(文政四年)兄弟省親、自奈良至月瀬」と()つて、(たえ)()(ばう)(こと)()はない。

 (あるひ)(うたが)ふ。()(しよう)()(ばう)(はる)(あに)()(てい)()(せい)(のち)(かん)(なべ)(きた)(ぐう)したが、(まと)()より(かん)(なべ)(いた)(あひだ)(あに)(どう)(かう)しなかつたか。わたくしは(しばら)(うたがひ)(そん)して()く。

     その百二十六

 (さい)(かん)(だう)()稿(かう)(ちゆう)(ぶん)(せい)()(ばう)(あき)(さく)()るべき()には、()づ「及時居士在峨山、與諸禪衲唱和、録以寄示、因次韻却寄」の一(ぺん)がある。「遠寄清詩慰恨人。西山舊興爲君新。秋來石上藤蘿月。憶否天邊弔影身。」西(にし)(むら)(きふ)()(なほ)()()()んでゐたと()える。

 (ぜん)()と「秋夜」の七(ぜつ)との(ちゆう)(かん)に、「哭池上鄰哉」の()がある。「奉母長貧窶。手操晨夕炊。病中曾哭婦。身後孰收兒。聞雁思來信。開筺泣贈詩。重泉逢二老。聚首盡交期。」(これ)()つて()れば、(いけ)(がみ)(りん)(さい)歿(ぼつ)したのは(この)(あき)であつた。わたくしは(かみ)()(せい)()(なう)()いて、(りん)(さい)()(はく)との(あるひ)(べつ)(にん)なるべきことを()つたが、(のち)(たま)()(かう)()(らう)さんに()けば、「池上徳隣、字希白、號隣哉」が(いけ)(がみ)()(もり)であつたらしい。(てう)()()(せん)()の二(らう)(ひがし)(こう)(けん)(かは)(さき)(けい)(けん)である。

 (この)(しも)に九(ぐわつ)()()がある。わたくしはこれを(ろく)するに(さきだ)つて九(ぐわつ)()()(てい)(たん)(しん)(こと)(さふ)()して()きたい。()(てい)が四十(さい)(たん)(しん)である。()(てい)(はじめ)よりこれを(しゆく)する()がなかつた。しかし(ちや)(ざん)()(きた)つて(さけ)()み、(まと)()(せい)()(この)()(しゆく)して(もの)(おく)つた。(こと)(しも)()くべき九(ぐわつ)十二(にち)(しよ)()えてゐる。

 九(ぐわつ)()には(つるが)(はし)(くわい)があつた。「重九與茶山翁聽松師、會東溝致仕大夫及諸君於鶴橋、客各有行厨之携、時鈴木文學在江戸、末句故及、分得韻灰。半道相要宴正開。鶴橋南畔柳楊隈。水味野餐紛几席。丹萸黄菊照尊罍。僧是耽茶咬然趣。賓皆愛酒孟嘉才。却思朱邸趨陪客。天末遙々首重囘。」(ちや)(ざん)()(てい)(らい)(いう)(ちゆう)(そう)(だう)(くわう)(いざな)つて、(とう)(こう)()(つるが)(はし)(むか)へたのである。(すゞ)()(ぶん)(がく)()(ざん)(けい)である。(ちや)(ざん)(しふ)(この)(くわい)()()せない。

 (ちよう)(やう)(つるが)(はし)()(つぎ)に「聽松上人歸山陰、餞以蒲團一坐、副此詩」の七(ぜつ)がある。「三生石上豈無縁。聊把蒲團贈老禪。却想山陰深夜雪。吟安一字坐能堅。」()(てい)(かん)(なべ)()(だう)(くわう)()(とん)(おく)つた。(だう)(くわう)()(とき)(ちや)(ざん)(おく)つて()(ちゆう)(いた)り、(よく)(じつ)(みやう)(じやう)()(べつ)(しゆ)(かたぶ)けた。(ほん)(しふ)に「近田道中呈道光上人」、「送光師、同往府中」、「明淨寺席上限韻」の三(ぜつ)がある。

 (だう)(くわう)(いづ)れの()(かん)(なべ)()つたか(つまびらか)にし(がた)い。しかし(かみ)()した三(ぜつ)と「呈聽松上人」の七(りつ)(しゆ)とは(ちや)(ざん)(しふ)(ちゆう)「中秋有食」と「十三夜樂群館賞月限韻」との(あひだ)(かい)(ざい)してゐる。(みやう)(じやう)()()(えん)が九(ぐわつ)十三(にち)より(まへ)(ひら)かれたことは(あきらか)である。(しか)らば()(てい)(しも)の九(ぐわつ)十二(にち)(しよ)(つく)つた(とき)は、(あるひ)(ちや)(ざん)(だう)(くわう)(おく)つて()(ちゆう)()つた()()(ちゆう)であつたかも()れない。

 九(ぐわつ)十二(にち)()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。(しよ)(ちゆう)()(てい)()()()くことは(しも)(ごと)くである。「小生無事罷在候。乍憚御放意可被下候。然者爲年賀(四十初度)太織紬一段御惠投被下、御厚意千萬難有拜受仕候。乍憚二尊樣(適齋夫妻)へも可然御禮被仰上被下度候。先達而御斷申上置候處、却而御心配をかけ候而甚痛却仕候。何より調法之品と辱奉存候。外に蚿海苔めづらしく賞味仕候。至極齒ぎれよろしく候。七日(九月七日)誕辰に塾翁(茶山)外に備中の一客有之用ひ候處、皆々悦申候而、すそわけいたし候。御國のみの産に候や、外にも有之候や。」

 (しよ)(これ)より()(てい)(まと)()(やま)()(きやう)()(しん)(せき)()(きう)(のこ)つた(さう)(めん)(こと)(およ)んで、(こう)(しん)(しや)(いう)(せう)(そく)(うん)(ぬん)してゐる。「七月二十二三日頃書状、索麪一箱差上候。京都呉服屋便に候。如何いたし候哉大阪へ此頃達せぬよしに候。いづれ間違は有之間敷候へども、日數かゝり居、損じ可申候。屆候はゞ其樣子被仰聞可被下候。いせにても高木佐藤などへ遣し候。大阪屋敷へも遣し候故に候。損じ居申候はゞ氣の毒なるものに候。佐藤はかわり候儀もなく候哉、久敷便きゝ不申候。」

     その百二十七

 (ぶん)(せい)()(ばう)(ぐわつ)十二(にち)()(てい)(しよ)には(おとうと)(へき)(ざん)(こく)()()ふに(こた)ふる一(だん)がある。「國史は本書等は日本紀以下六國史と申候而百七十卷も大數有之候。これらはあまり大きく候而卒業不容易候。水戸の大日本史は結構なるものに候。神武より後小松天皇迄の事皆々くわしく候。これは山田社中の内に有之と覺え候。少し宛にてもかり候はゞよろしく候。これも百二十卷計も有之候。古今の大段のかはりめを論じ候ものは白石先生の讀史餘論六册、これはかなにてかけり。同人の作古史通は神代上古の事を紀せり。御當代(徳川氏)の事は水戸の烈祖成績、近來竹山の逸史などよく候。何にても書物のあるものを心懸よみ候て可然候。いづれ又々面上いたし候節御咄可申候。」

 (この)(つき)(ぐわつ)(ちゆう)(へき)(ざん)(こん)(れい)(おこな)つた。(こと)(しも)()くべき十(ぐわつ)二十一(にち)()(てい)(しよ)()えてゐる。(へき)(ざん)(めと)つたことは(はや)()(いん)(ぐわつ)()()(てい)(しよ)()えてゐた。その「婚事」が調(とゝの)つたと()ふは、(あるひ)所謂(いはゆる)(きやく)(ぶん)として(むか)へたもので、(この)(とき)(およ)んで(はじめ)(れい)(おこな)つたのではなからうか。それは()まれ(かく)まれ、(しん)(じん)(おそ)らくは()(ぐち)(うぢ)()()であらう。(へき)(ざん)二十五、()()二十一であつた。

 十(ぐわつ)二十一(にち)()(てい)(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。(また)(へき)(ざん)(あた)ふるもので、()(てい)(みづか)(かた)(ところ)(しも)(ごと)くである。「當方無事罷在候。乍憚御放意奉希候。講習私は詩經朱傳、莊子など隔日也。老先生(茶山)は近思録、孟子隔日也。いづかたも諸色下直也。わけて米仙は猶更也。」()(きやう)(しゆ)(でん)所謂(いはゆる)()(しふ)(でん)で、()(きやう)(しふ)(ちゆう)(しよう)するものと(おな)じである。

 (れん)(じゆく)にある()(てい)()(しよう)(こと)はかう()つてある。「敬助も無事日夜勤學いたし候。髮をはやしかけ候やうにみうけ候。私は何とも不申候。足下より被命候や。只今の内はいづれにても可然候。」()(しよう)(びん)()()(とき)(てい)(はつ)してゐた。それが(また)()らなくなつた。(おそ)らくは()()めむことを(ほつ)したためであらう。()(てい)(へき)(ざん)(じやう)()つてゐるや(いな)(うたが)つてゐるのである。

 (へき)(ざん)(こん)(れい)(こと)はかう()つてある。「母樣よりお敬へ御文中足下婚禮も九月中御調可被成旨珍重に御坐候。然首尾能相調候哉承度候。先御左右承り候上と存候而賀状も延引仕候。早々御しらせ可被下候。」

 ()()(こう)(しん)(しや)(こと)はかうである。「西村兵大夫より便有之候而、社中樣子もうけたまはり候。干瓢かつをなど被遣候。」西(にし)(むら)(きふ)()(なほ)()()にある(はず)である。(きふ)()(つう)(しよう)(ちやう)(だい)()であつたらしい。一に()(だい)()(つく)つてあるが(やゝ)(うたが)はしい。(こん)(ない)()(ちやう)(だい)()(ひやう)(だい)()(しよう)(ならび)()えてゐる。(ひやう)(だい)()(あるひ)(きふ)()()()()

 (しよ)(あさ)()(すけ)(こと)()つて(はな)(をか)(せい)(しう)(およ)んでゐる。「四五日前(十月十六七日の頃)淺井十助より書状參り、歸京後東洞院押小路下るへ借宅いたし候由、業事も不相替相應に行はれ候樣子御坐候。紀州華岡の事などくわしく申來候。三月許も居候由、春秋病人夥敷集り候節治療を見候へば益有之候由、當今の華陀神醫なるよし、足下なども何卒手透も出來候はゞ、ちかき處にも候へば二三箇月も從遊いたし候はゞと存候。もはや六十歳のよし、來年賀のよし、其子息盆後より廉塾へ參り居候。大阪に居候良平は瑞賢の弟也。是は私も書生の頃の相識也。」

 (はな)(をか)(うぢ)、一に(はな)()(うぢ)(つく)る、()(しん)(あざな)(はく)(かう)(ずゐ)(けん)(しよう)し、(せい)(しう)(がう)した。()(てい)は「瑞軒」と(しよ)して()(まつ)し、「瑞賢」と(あらた)めてゐる。(けい)(ざい)(ざつ)()(しや)(じん)(めい)()(しよ)も「隨軒」と(しよ)し、(しも)に「軒一に賢に作る」と(ちゆう)してゐる。(てん)(ぱう)(ねん)(ぐわつ)七十六(さい)にして歿(ぼつ)した。(ぶん)(せい)()(ばう)に六十(さい)であつたことは()(てい)()ふが(ごと)くである。

 ()(てい)(きやう)()にあつた(とき)(せい)(しう)(おとうと)(まじは)つたと()ふ。(この)(おとうと)()(ぶん)(けん)(あざな)()(ちよう)鹿(ろく)(じやう)(また)(ちゆう)(しう)(がう)した。()(てい)の「良平」と()ふは(その)(つう)(しよう)である。

 (せい)(しう)()(ぼう)()(ばう)(ぐわつ)(れん)(じゆく)()つたことは、()(てい)(しよ)()つて(はじめ)()られた。

 わたくしは(しばら)(こゝ)()()して()いて、()(じつ)(さら)(かんが)(さだ)めたく(おも)(こと)がある。それは(かつ)()(さは)(らん)(けん)(でん)(しよ)し、(また)()(てい)()(れう)したために(かみ)にも()した三()(かく)()()()(ぶん)()(じやう)である。わたくしの(のち)()(いだ)した()(てい)(ぶん)(くわ)(ちゆう)(しよ)(どく)によれば、(かく)()()()()にして()(はう)(つう)じてゐた。そして(ちや)(ざん)()(びやう)をも(れう)してゐた。(また)(この)(かく)()()(おほ)(さか)(はな)()鹿(しか)(すけ)()ふものの(あに)である。()(てい)(はな)(をか)(うぢ)(また)(はな)()(うぢ)とも(しよ)してゐる。(おほ)(さか)(はな)()鹿(しか)(すけ)とは(あるひ)(はな)(をか)鹿(ろく)(じやう)ではなからうか。鹿(ろく)(じやう)(つう)(しよう)(りやう)(へい)としてあるが、一に鹿(しか)(すけ)とも()つたのではなからうか。()(しか)らば(ずゐ)(けん)(かく)()()(りやう)(へい)(はく)(ちゆう)()となるであらう。()(てい)(ぶん)はかうである。「三箇角兵衞と申福山藩武士、殊之外醫事にくわしく、先其人甚流行、かねて塾(廉塾)へもよく()え候。先其人の處方(茶山のための處方)之柴胡劑になにやらむ加減致候。角兵衞殿は大阪の花輪鹿助の兄なり。」

     その百二十八

 (ぶん)(せい)()(ばう)(ぐわつ)二十一(にち)()(てい)(しよ)には(なほ)(そう)(げつ)(こう)(こと)()えてゐる。「是も淺井より申參り候。月江長老此度台命下り候而、天龍寺住職になられ候よし、當霜月十四日(己卯十一月十四日)とやらむ登壇儀式有之候由、先々重疊の儀、紫衣住職天龍に久敷無之候由、長老甚御手柄と被存候。」

 (しよ)(また)(みな)(がは)(くわう)(さい)()(やけ)(きつ)(ゑん)(にん)(こと)()えてゐる。「淺井書中に承り候。皆川猷藏當夏死亡、三宅又太郎も八月脚氣にて死去のよし、皆々きのどくなるものに候。」(みな)(がは)(くわう)(さい)()(いん)(あざな)(くん)(いう)(いう)(ざう)(しよう)した。(ぢゆう)(しよ)(なか)(たち)(うり)(むろ)(まち)西(にし)歿(ぼつ)(じつ)(なつ)ではなく、七(ぐわつ)十八(にち)である。()(ゑん)()()で、(とし)()くること五十八であつた。()(やけ)(きつ)(ゑん)()(はう)(あざな)(げん)(こう)(また)()(らう)(しよう)した。(また)()(じよ)(さい)(がう)がある。()(ゑん)(もん)(ひと)で、五十三(さい)にして歿(ぼつ)し、(ぶん)(けい)()()せられた。(いへ)()()(ちやう)(でう)(みなみ)にあつた。

 (ぜん)(しよ)(はつ)した(のち)(なか)()(へだ)てて、十(ぐわつ)二十四(にち)()(てい)(また)(せう)(かん)(へき)(ざん)()()した。「御祝儀書状(賀婚書)一々差上可申候處、明朝(二十五日)より學校へ出勤日に而、夫に只今大阪へ上り候たより申參候故、急に相認候間、御免可被下候。拙内(敬)も祝状相認可申候處、右今夜になり何歟ととり込候故、跡より差上可申候。尚々可然申上候樣申出候。十月廿四日夕燈下。」()(てい)(へき)(ざん)(こん)()(はう)ずるを()つて()したいと()つてゐた。(この)(かん)(へき)(ざん)(しよ)()(つく)つたもので、(じやう)(ぶん)(まへ)に「九月廿五日御状(碧山の書)今夕相達し拜見仕候。」と()つてある。

 十(ぐわつ)には(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)()(てい)(しよ)()い。(たゞ)(この)(ころ)(しよ)して(へき)(ざん)(しめ)したかと(おも)はれる()(せん)(そん)してゐる。(その)()は七(ぜつ)(しゆ)(だい)一「今村綽夫小齋分得韻尤」、(だい)二「小春課題」、(だい)三「孟母斷機圖、賀佐渡中山顯民母氏」である。(だい)(だい)二は(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()せてあつて、()()(まつた)(おな)じである。

 (だい)三は()稿(かう)()(にふ)すべき()である。「蒙養遷居就義方。母儀千古有遺芳。誰知尺寸刀餘布。雲錦天章失彩光。」そして(ちや)(ざん)(しふ)(この)()(さん)(せう)すべき(さく)がある。「孟母斷機圖、壽中山言倫叔母七十。七篇微旨本三遷。命世兼欽母徳賢。機上斷絲長幾許。續來聖緒萬斯年。」

 (あん)ずるに(ぶん)(せい)()(ばう)に七十(さい)であつた(らう)(をん)は、()()(なか)(やま)(けん)(みん)がこれを(はゝ)とし、(きやう)()(なか)(やま)(げん)(りん)がこれを(しゆく)()としてゐる。(しか)らば(けん)(みん)(げん)(りん)とは(じゆ)()(けい)(てい)でなくてはならない。(これ)より(さき)()()より()でて(きやう)()()となつた(なか)(やま)(うぢ)(らん)(しよ)(げん)(かう)がある。(げん)(りん)(その)(えい)にして、(けん)(みん)(また)(その)(ぞく)ではなからうか。

     その百二十九

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(ぶん)(せい)()(ばう)十一(ぐわつ)二十九(にち)(つく)つた()(しよ)した一(せう)(せん)がある。「仲冬廿九日大雪、得窓字。騷屑醒幽夢。曙光明映窓。高眠吟白屋。獨釣憶寒江。團掬濫孺子。走狂輸小尨。誰歟乘興客。緑酒湛盈缸。」

 わたくしの(これ)(もつ)()(ばう)(ちゆう)(とう)とするは、(せん)(なほ)(しゆ)()(へい)(ろく)してあるが(ゆゑ)である。そして(この)(しゆ)()(ばう)()つたことは(さい)(かん)(だう)()稿(かう)がこれを(しよう)する。()(その)(しゆ)(せう)する。「讀廣瀬子詩卷、和其東樓韻以寄。林鳥何好聲。拭几焚雞舌。西州有隱君。高臥抱清節。誦詩想其人。襟懷瑩氷雪。又。近詩日輕浮。競巧在脣舌。多君眞性情。仰攀陶靖節。吟來塵想消。一點紅爐雪。」二(しゆ)()稿(かう)()(ばう)(もと)()えてゐて、()()()(どう)がない。(せん)には(すゑ)に「廣瀬求馬、農後日田の儒生、作家也」と(ちゆう)してある。(ひろ)()(もと)()(たん)(さう)(けん)で、(この)(とし)三十八(さい)()(てい)より(わか)きこと二(さい)である。(おとうと)(きよく)(さう)(けん)(とし)(はじめ)て十三、その(きつ)()(あざな)したのが(これ)より七(ねん)()(きよく)(さう)(がう)したのが八九(ねん)()である。

 十二(ぐわつ)()つて(のち)()(てい)は三()(よぼろ)(だに)(かん)(ばい)()つた。()稿(かう)に「十二月三日與捫蝨子丁谷探梅」の七(ぜつ)がある。「一枝初認溪橋曲」の()より()すに、(すで)(はな)(ひら)いた一()があつたと()える。(もん)(しつ)()(たれ)なるを()らない。

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)には十七(にち)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)がある。その()(ばう)のものたる(かく)(しよう)()(がた)いながら、()(じゆん)なく(こゝ)(さふ)(にふ)するに()へたる(しよ)である。「以來(十一月書を發してより)何のかはり候事も無之候。寒前は甚暖かに候處、寒中は餘程寒く有之候處、また兩三日以來大分温和を覺候。梅も已に七八分に及候。御地はわけてはやかるべくと奉存候。御地今年は鯔魚は如何に候哉。郷味想像仕候。何も申上候事も無之候。學館講釋は此間十一日に仕廻(仕舞)申候。塾はいつといふ限なし。諸生あれば二十七八日頃にいたし候。此信も高木(呆翁)へ頼遣し申候。左樣思召可被下候。何樣當冬は大方通信これ限に可仕候。來春早々めでたく可申上候。」(がく)(くわん)(ふく)(やま)(こう)(だう)(くわん)(じゆく)(れん)(じゆく)である。三()(はな)()()けた(うめ)が、(すで)に七八()(さかり)になつてゐる。

 二十二(にち)()(てい)(ゆめ)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()うた。()稿(かう)(その)(とき)(つく)つた()があつて、(せう)(いん)(ゆめ)()してある。「十二月廿二夜。忽夢予在林崎。會中秋。出敲呆翁門。不在。遂至凹巷。凹巷云。今日事故不可出。因叙話片時。共歎敬軒、鄰哉今則亡。又欲就觀魚。意其之浪華。不果。須臾而夢醒。時沈燈明滅。風雨交作矣。」()(りやく)する。()()(だち)()(かう)の一(がう)(くわん)(ぎよ)であつたことは(こゝ)(かく)(はう)せられた。

 (こゝ)(この)(つき)(つく)られたと(みと)むべき()があつて、()稿(かう)はこれを(いつ)してゐる。わたくしは(まと)()(しよ)(どく)(あひだ)(まじ)つてゐる()(せん)(おい)てこれを()()だした。「客到寒暄無費辭。嗒焉隱几寫新詩。世間多少聾心者。虚籟滿前聞不知。棲碧山人聾、賦此。讓拜草。」(かたはら)(さい)(しよ)してかう()つてある。「讚岐金比羅牧藤兵衞也。詩集など有之男に候。」

 (この)()()(ばう)十二(ぐわつ)()つたことは(ちや)(ざん)(しふ)がこれを(しよう)する。(ちや)(ざん)(しふ)()(ばう)()(そう)(きう)()(のち)に「棲碧山人耳聾、因寄」の七(ぜつ)()せてゐる。「十歳耽詩厭世營。恐佗外事攪幽情。疾聾雙耳君何恨。免見啾々毀譽聲。(結、樂天成詩。)」()(てい)()(ちや)(ざん)()(どう)()()つたことは(ほとん)(うたがひ)()れない。そして(まき)()(けい)(ろう)したのが()(ばう)(とし)であつたことが(すゐ)()せられる。(ちや)(ざん)(しふ)()(ばう)()(おう)(しう)(しよ)(へん)(あつ)めて(すゑ)()したものらしい。(はた)して(しか)らば(ちや)(ざん)()()(ばう)()つたと()ふべくして、()(ばう)十二(ぐわつ)()つたとは()ふべからざる(ごと)くである。しかし(かみ)()は十二(ぐわつ)()つた(そう)(きう)()と「牧百穀來訪、臨去賦此」の()との(あひだ)(はさ)まつてゐる。(まき)(ひやく)(こく)(藤兵衞畏犧妹壻信藏碩)は(くわん)(うぢ)()うたのである。(この)()()()(おう)(しう)(さく)とは(やゝ)(おもむき)(こと)にしてゐて、(なほ)(へん)(じつ)(じゆん)(じよ)(したが)つて(ろく)せられたものかとおもはれる。

 (この)(とし)()(ばう)には()(てい)は四十(さい)であつた。

     その百三十

 (ぶん)(せい)(ねん)には()(てい)(ぐわん)(たん)()がある。「庚辰元旦口占、邦俗謂四十一爲初老。不羨朝趁韡曉天。瓶梅香裏聽雞眠。誰言今日是初老。自賦閑居已十年。」(へい)(ばい)(もと)には四十一(さい)(しゆ)(じん)、三十八(さい)(つま)(きやう)、三(さい)の二(ぢよ)(とら)の三(にん)がゐた。()()(しよ)(らう)ながら()いて(すで)(ひさ)しいと()()である。(みづか)(あざけ)()とも()るべく、()(にく)(たん)(ぐう)した(ことば)とも()るべきである。(ちや)(ざん)(しふ)(けん)すれば、(おな)()()つた七(りつ)(しゆ)がある。(みな)(らう)(きやう)(かなし)(さく)である。わたくしは(これ)()つて(この)(ぐわん)(たん)(せい)(てん)(ゆき)(のこ)つてゐたことを()る。「倚欄郊雪半成烟」「殘雪輝々林日斜」(とう)()がある。

 (しやう)(ぐわつ)()(おほ)(ゆき)であつた。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)(かみ)(ぐわん)(たん)()(つぎ)に「四日大雪」の七(ぜつ)がある。

 七()()がこれに()いで()稿(かう)()えてゐる。わたくしは「人日」の七(りつ)(こう)(はん)(せう)する。「隣叟餉魚驚倦枕。山妻買酒勸携笻。今朝且幸逢初子。好挈女兒移穉松。」(さけ)()(さん)(さい)(きやう)(まつ)(うつ)(ぢよ)()(とら)である。

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)に二(ぐわつ)(さく)()(てい)(しよ)がある。わたくしは(いま)()(へき)(ざん)(あた)ふる(しよ)(かう)(しん)のものたるか、()(ねん)(しん)()のものたるかを(つまびらか)にせぬが、(しばら)くこれを(この)(とし)()けて()く。(しよ)(ちゆう)(もん)(でん)(ぼく)(さい)(こと)がある。「菅太中翁も此節門田堯佐といへる男(原註、いつぞや御逢被成候歟)、久しく塾に罷在候少年、翁の妻の姪に御坐候、これを養子にいたしたき願書御上へ差出され候。菅三幼少、何になり候やらまだしれ不申候故の事と見え候。堯佐も大分近來學問上り候。もはや廿四五になり候。」

 (ぼく)(さい)(げう)(すけ)(くわん)(せい)(ねん)(てい)()(うまれ)であるから、(その)二十四(さい)(かう)(しん)、二十五(さい)(しん)()である。(ぼく)(さい)()(せう)(しよ)(へん)(けみ)するに、()(ばう)二十三(さい)(いた)るまでの()(かん)()(ちゆう)せずに、「以上係在菅茶山先生塾弱冠前後所作」と()つてある。そして(かう)(しん)二十四(さい)()()(さく)(こと/″\)(かん)()(ちゆう)してある。わたくしは(はじ)めこれを()(とき)、その「在菅茶山先生塾」と()()(かん)には(やう)()()(だい)(ふく)まれてゐるものと以爲(おも)つた。(いま)(あん)ずるに(ぼく)(さい)()(こく)する(とき)(じゆく)(せい)()(だい)(やう)()()(だい)とを()(べつ)したことは(あきらか)である。(たゞ)(けつ)(がた)いのは(やう)()()(だい)(かう)(しん)(はじ)まつたか、(しん)()(はじ)まつたかである。そして(この)(もん)(だい)()(てい)が二(ぐわつ)(さく)(しよ)(つく)つた(とき)(ぼく)(さい)が二十四であつたか、二十五であつたかの(もん)(だい)(れん)(けい)してゐるのである。わたくしは(しばら)(かう)(しん)二十四(さい)(もつ)(やう)()()(だい)(はじめ)とする。(これ)()(せう)(はじめ)(かん)()(ちゆう)した(とし)が、()(てい)の「近來學問上り候」と()つた(とし)(さう)(おう)するが(ごと)(かん)ずるが(ゆゑ)である。

 二(ぐわつ)(さく)(しよ)は「何も用事も無御坐候へども、幸便故平安を報じ候」と()つてある(ごと)く、(とく)(せう)すべき(こと)(すくな)いが、(かみ)(ぼく)(さい)(やう)()(もん)(だい)(のぞ)(ほか)(なほ)(やま)()()(しや)(せう)(そく)がある。「吉大夫より此間書通、山田社中は皆々無別條候由。」(きち)(だい)()()(とう)()(ぶん)なることは(ちや)(ざん)大和(やまと)()(かう)より(すゐ)することが()()る。

 (つぎ)(まと)()(しよ)(どく)()(てい)の二(ぐわつ)()(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)がある。(この)(しよ)にも(また)その(かう)(しん)のものたる(かく)(しよう)()いが、(なほ)(さき)(ついたち)(しよ)(あひ)(はつ)(めい)するものが()いことも()い。「此頃も兩度程書状差出候。伊勢より佐藤など二度春來便有之候。高木、西村皆々便有之候。御地の便は未だ屆不申候。嘸御出し可被成と奉察候。此方春來凡四五度も出し候と覺え候。」()(とう)(きち)(だい)()(しよ)(こと)(また)(こゝ)にも()えてゐるのである。

 (つぎ)(まと)()(しよ)(どく)(どう)(げつ)二十八(にち)()(てい)(しよ)がある。(この)()(づけ)(あるひ)は二十一(にち)ならむも(はか)られぬが、(しばら)く二十八(にち)()む。(あて)()は「高木勘助樣侍史」と()つてあつて、(しよ)(しん)(まと)()(でん)()せむことを()(ぶん)である。(かん)(すけ)(ばい)(をう)(しゆん)(みん)である。(これ)(また)(かう)(しん)のものたる(かく)(しよう)()いが、(かり)(こゝ)(さふ)(にふ)して()く。「春暖相催候處、愈御安泰可被成御揃、奉恭賀候。小生無事罷在候。乍憚御放意可被下候。然ば此書状(郷に寄する書)毎々乍御勞煩御便に被仰付可被下候。少々急ぎ之用事に付、何卒早便奉願候。今般差掛り何事も申殘候。書餘期再鴻之時候。」(なほ)(かみ)(はし)(しも)(ぶん)()()へてある。「老人養草一部並に胎毒丸一封此書状と一併に的屋へ御遣し可被下奉煩候。」(たか)()(うぢ)との(わう)(ふく)(さき)の八()(しよ)にも()えてゐる。()(てい)(てき)(さい)(おく)つた(らう)(じん)(やしなひ)(ぐさ)()(ぜん)()(がは)(ぎう)(ざん)(あらは)(ところ)である。(たい)(どく)(ぐわん)(たに)(をか)(りやう)(すけ)(むすめ)などに(ふく)せしめむが(ため)であらう()

 ()(てい)は二(ぐわつ)(ちゆう)(しん)(せき)三四(にん)(かん)(なべ)(いへ)(まね)いて、四十一の()(おこな)つた。(こと)は六(ぐわつ)(しよ)()えてゐる。

     その百三十一

 (ぶん)(せい)(かう)(しん)(ぐわつ)()()(てい)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(この)(しよ)(かう)(しん)のものたることは(しも)(かく)(しよう)があるが、(かなら)ずしも(しよう)()たずして()るべきである。(なに)(ゆゑ)()ふに()(ねん)(しん)()(この)(ころ)には()(てい)(たび)をしてゐるからである。(しよ)(しやう)(ぐわつ)(ぐわつ)(まと)()(しよ)()(のち)(つく)られた。「正月二月御書状此間相達拜見仕候。(中略。)正月頃少々御腫物にて御難義被成候由(腫物を患へたのは碧山である)、何分下地の病氣とくと根ぬけいたしかね候と被存候。隨分御用心可被成候。佐藤、彌六などがやうに、いづれ一旦痼疾を得候ては、終身の害に相成候ものに候。無御油斷御攝生奉祈候。」()(しつ)(れい)()かれた()(とう)()(ぶん)()六は(なが)()(うぢ)である。

 (しよ)(ちゆう)(また)(へき)(ざん)()(こと)()つてある。「御近作御示し、皆々おもしろく被存候。如何敷處へ線を引候。いづれ好文字を御思惟可被成候。多作より推敲の念入候が詩學の第一。」

 ()(てい)(しよ)(とも)出雲(いづも)十六島(うつぶるい)()()(ひろ)(しま)との海苔(のり)(きやう)()(おく)つた。「十六島海苔少々大人樣(適齋)へ進呈仕候。雲州道光師より被遣候。これは酒をいれ候而久敷にるがよく候よし、生にてもよし。廣島のり少々、これは淺草などにかわりも無之候へども、土地の産故懸御目候。粗なるのりは伊勢あまのりに少しもかわりなし。」出雲(いづも)海苔(のり)(そう)(だう)(くわう)(おくりもの)であつた。

 二十()()(てい)(しよ)(ちゝ)(てき)(さい)()せた。(これ)(へき)(ざん)(いへ)()らざる(ゆゑ)であつた。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(この)(しよ)(たゞ)にその(かう)(しん)(さく)たることが(たしか)なるのみでなく、(また)(かみ)()いた()(つう)(しよ)(うへ)(くわう)(みやう)(とう)ずるのである。わたくしは()()(てい)()(こと)(せう)する。「當方私始家内皆々無事、敬助(撫松)も壯健に勤學罷在候。乍慮外御放意被遊可被下候。」

 (へき)(ざん)(たび)(はな)(をか)(せい)(しう)()()()うたのである。(あたか)()(せい)(しう)六十一の(じゆ)(しゆく)せむために、(その)()(うん)(ぺい)(れん)(じゆく)より()(せい)した(とき)である。「然ば源兵衞より敬助へ(の)書中承知仕候處、立敬先月三日(二月三日)紀州へ參候由、御事しげき中よくぞ御許被遊御遣し被遊候。無程歸宅可仕候得共、御療用等御苦勞に奉存候。長くはいらざる事に候得共、當世癰科の名醫に候故、暫時見習候も可然候。併私方へ(の)二月朔日の書状になんとも申越不申候。甚急におもひたち候義に候哉。以來何事も先相談いたし候上取計候樣、乍憚被仰付可被下候。掛隔候へども、又何歟の心懸等も氣付候事は何に限らず申入たく候故に候。華岡子息雲平此方に在塾罷在候。これも瑞賢先生(青洲)六十一にて年賀のために此節紀州へ歸省いたし候。此書状はこの仁へ託し申候。」

 (せい)(しう)のためには(ちや)(ざん)()(てい)(じゆ)()(つく)つた。(かれ)の七(りつ)には「應諳徐福采殘藥、非授華佗遺得方」の(れん)があり、(これ)の七()にも(また)「千里輿病集門下、人道華岡今華佗」の()がある。(せい)(しう)(はう)(れき)(ねん)(うまれ)で、(この)(とし)(かう)(しん)に六十一(さい)になつてゐた。(のち)(てん)(ぱう)(ねん)(いた)つて七十六(さい)(もつ)(をは)るのである。(せい)(しう)()(いの)(くに)()()(ごほり)()んでゐた。

 (せい)(しう)(おとうと)鹿(ろく)(じやう)(おほ)(さか)にあつて()(くわ)()のあつたことは()()られてゐるが、(せい)(しう)()(こと)(かみ)にも()つた(ごと)(しよ)(/\)()えない。わたくしは()(てい)(しよ)()つてその(うん)(ぺい)(しよう)したことを()つた。

 ()(てい)(しよ)(ちゆう)(しやう)(ぐわつ)()(じゆん)()()(きやう)()()つた(いん)(しん)(こと)()つてゐる。「正月下旬、京都呉服屋便に金子十兩山田鈴木屋武右衞門へ向け差出し申候。(中略。)鍵屋大夫手紙の便にそうめんの書状高木氏迄、二月下旬參宮人便に書状佐藤氏迄、三月上旬飛脚便書状うつぶるいのり少々入山口氏迄、右等追々相達し可申候。」(かね)(おく)つたことは(まへ)の三(ぐわつ)()(しよ)にも()えてゐたが、わたくしは(せう)せなかつた。「高木氏迄」の(しよ)が「二月下旬」の(しよ)(まへ)にあるより()すに、わたくしの(かみ)に「二月廿八日」と()んだ()(づけ)(なほ)(あるひ)は二(ぐわつ)二十一(にち)であつたかも()れない。三(ぐわつ)()十六島(うつぶるい)海苔(のり)(いり)(しよ)(かう)(しん)であつたことは、(この)(しよ)がこれを(かく)(はう)してゐる。(この)(しよ)(さら)海苔(のり)(こと)(つゐ)()してゐる。「うつぶるいのり、此間出雲の人に承り候處、これも久敷はもちかね候由、(久敷たてば味もにほひもおち候由、)長くもたすならば火にあてゝ風のいらぬ樣壺などへつめ置候がよろしく候よし、吸物にいたし候は水にひたし候はよろしく無之候由、下地の汁こしらへ置、このまゝにきざみ入、其後はよく/\煮候がよきよしに御座候。」

 (しよ)(ちゆう)には(さい)()(せう)(ぢよ)(とら)(がん)()黒子(ほくろ)(こと)()えてゐる。「あざの藥、なんぞ妙方は無御座候哉、乍憚御示し被遊可被下候。少女とら目の下に●ほど計のあざ出候。構も不仕候へども、目にさわり候而見苦敷候。いつにてもよろしく候。以上。」

     その百三十二

 (ぶん)(せい)(かう)(しん)(はる)()れた。わたくしは(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()いて(この)(はる)()(けん)(ちゆう)(しよ)(しん)()えなかつたものを(もと)め、これを(しも)(れつ)()しようとおもふ。(その)一。()(てい)(ある)()()()(めい)()うた。「小野士遠小齋得蕭」の()がある。(ころ)は二(ぐわつ)(なかば)でもあつただらうか。「一春幽事看將半、且爲殘梅叩小寮」と()つてある。(その)二。()(てい)(また)(さう)(きやう)(てい)(くわい)(おもむ)いて()()した。(てい)(たれ)(いとな)(ところ)なるを()らない。「雙鏡亭集分得韻冬」の()がある。(その)三。()(てい)(すゞ)()()(ざん)()()をおとづれて、(ゑん)(ちゆう)(すゐ)()(あう)()た。()(ざん)()()()(えき)してゐたのである。「過宜山園、觀垂絲櫻、主人時在江戸。庭花不改舊嬋娟。獨奈絲絲春恨牽。想得主人官舍睡。香雲一片夢中懸。」(その)四。(ぐん)(さい)(やま)(をか)(ぼう)()(てい)()(しやう)じて(さけ)(すゝ)めた。「山岡郡宰招飮、同諸君賦、得杯字」の()に、「會客勸春杯」の()がある。(その)五。(きやう)()(せの)()(りよく)谿(けい)退(たい)(いん)して()()()したので、()(てい)はこれに()した。「和瀬尾子章退休志喜韻」の()がある。(この)(へん)には()(せつ)(ちよう)すべき(もん)()()いが、稿(かう)(ほん)(ちゆう)(はる)()(ちゆう)(かん)(うつ)された()(はる)()()()すのである。(その)六。三(ぐわつ)()()(ちゆう)(たい)()()(はら)(ぼう)()()(てい)()うて()()した。「是日(上巳)雨中佐原大夫及諸子見枉村舍、分得韻陽」の二()がある。(その)七。三(ぐわつ)二十(にち)()()(せん)(ざう)()(てい)()うた。(この)()()(せう)(いん)に「我輩方飮花下、會小野泉藏携一瓢自長尾來、有詩、率爾和之、時晩春廿日也」と()つてある。(ちや)(ざん)(しふ)(けん)するに、三(ぐわつ)(じん)()(なら)んで、「小野泉藏叔姪更迭來宿、次韻泉藏」の()がある。(せん)(ざう)(くわう)(えふ)(せき)(やう)(そん)(しや)(やど)つたと()える。「二阮相尋信草堂。吟牀並遺語音芳。春來沿例多人客。能若君曹得未嘗。」(その)八。(あさ)(かは)(れん)(けん)()(てい)(せう)(えん)した。「楝軒招飮」の()に「晴窓納春野」の()がある。(その)九。(ぐん)(さい)(もり)(しま)(ぼう)()(くわい)(もよほ)し、(かね)(はゝ)の八十を(じゆ)した(とき)()(てい)もこれに(あづか)つた。「森島郡宰父子會諸子、余亦與焉、分得韻虞、兼壽大孺人八十」の()に「黄鶯催彩筆、緑柳拂金壺、萱草春愈茂、芝蘭日自敷」の(れん)がある。(もり)(しま)(ぼく)(ちゆう)であらう()(ゆゐ)(しよ)(がき)()れば、(ぼく)(ちゆう)一の()(たゞ)(とし)は「文化八未二月廿三日、御者頭席、十酉五月七日中山斧助元組郡御奉行寺社兼役、大御目付兼役、十一戌二月七日、町御奉行兼役、十三子九月廿七日、大御目付兼役御免、文政元寅十月十七日、御番頭格」である。(しか)れば(だい)(じゆ)(じん)(たゞ)(くに)(ぢよ)(たゞ)(ひろ)(つま)(たゞ)(とし)(はゝ)で、()()とは(たゞ)(とし)(たゞ)(あつ)であらう。(その)十。()()(はく)(ほん)()(ちゆう)()(てい)()うた。「和小野伯本途上韻。久期相見屡相違。君子有情來款扉。泥路且欣歸馬滯。屬杯閑看雨霏々。」()()()(じやう)()(すなはち)(らい)()()であらう。そしてわたくしは(この)(かう)()(はる)(つく)(ころ)(おい)てせられたことを(すゐ)する。(なに)(ゆゑ)()ふに()稿(かう)(この)()(つぎ)()(てい)(やま)(がた)()()(あさ)()(にん)(まね)いた(とき)()()せて、(その)(うち)に「春逕留紅藥、夏峰含翠嵐」の()()るからである。

 (かう)(しん)(なつ)()つてからは、()づ四(ぐわつ)()()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)がある。()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(なほ)()()()るを()るが(ゆゑ)(あて)()(ちゝ)にした。(この)(しよ)(ぶん)(みじか)いのに、(ぜん)()()(じつ)(れん)(けい)(あきらか)にするに便(べん)なるものである。それゆゑわたくしは(れい)(やぶ)つて(こゝ)(ぜん)(ぶん)()せようとおもふ。「二月廿九日御手簡(適齋の書)三月廿二日福山へ出勤之節相達拜見仕候。(小野泉藏來訪の日、前書を父に寄せた日の後二日である。)愈御安泰被遊御揃奉恭祝候。當方私共皆々無事罷在候。乍憚御放意奉希候。金子無間違相達し申候由安心仕候。何分宜敷御取計奉願候。(是は餽る所の金の用途である。今これを知ることが出來ない。)立敬紀州行之儀敬助方へ源兵衞より申來候。立敬紀州よりの書状等皆々一度につき申候。無程(立敬)歸宅可仕候。嘸々事かけと奉察候。華岡隨賢よりも此方へ書通被致候。かの子息(雲平)去年(己卯)より在塾故に候。立敬かへり候はゞ、月瀬の梅並に紀州へ參り候道すがらのあり樣、路はどのやうに通行いたし候や、途中詩なども、くわしくはなし申こし候樣、乍慮外被仰可被下奉願候。二月頃(實は三月二日)の便に十六島のり少々山口(凹巷)迄むけ差上候。相達し候哉。其外は去年來當春書状皆々相達し候由承知仕候。右平安報じ申上度如此御坐候。萬々奉期再信之時候。恐惶謹言。四月二日。北條讓四郎。北尊大人樣左右。尚々時節御自愛萬々奉願候。乍憚母樣始立敬夫婦にも可然奉頼候。以上。」

     その百三十三

 ()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(しよ)()()より(いた)るに(くわい)して、一(めん)(かん)(まと)()(ちゝ)(てき)(さい)()せ、一(めん)(また)(へき)(ざん)(をし)ふる(ぶん)(さう)した。しかし(この)(ぶん)(のち)(ぐわつ)二十四(にち)(いた)つて(わづか)(かん)(なべ)より(はつ)せられた。

 (この)(ぶん)(げん)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。(をし)むらくは(その)(はじめ)(いく)(ぎやう)かが(だん)(れつ)せられてゐる。「いづれ一度御越、術をみるもよろしく候。物入の事はさしかかり候事なればいたしかたなく候。外之事にて節儉可然候。且又乍内分少し心得有之候。」(この)(だん)(ぜん)(だん)()いてゐて、(なに)(もの)()くるかを(つまびらか)にせぬが、(おそら)くは(へき)(ざん)(こん)(くわい)()(しう)(かう)()して()ふのであらう。()(てい)(えう)するときは(りよ)()()(そく)(おぎな)つて()ることも()()ると()つてゐる。「かの家(華岡青洲の家)などは老練故、色々奇妙なる術も施し候由、未熟の内にそのまねいたしては却而しくじりも出來候。備中西山先生(備中鴨方の拙齋西山正)孫某(孝淑若くは孝恂の子歟)醫になり居申候。華岡弟子になり候而歸り候而一術を施し候處、手ぎわあしく人死亡候而、その人(西山)の殺し候樣風説出來候而、終には人もろくに頼まぬやうになり候。醫人は何事によらず大切の心得第一に候。人が此人ならではと信ずる人物ならではなり不申候。何分京攝其外此邊惠美(安藝廣島の三白貞秀、三世三白)などのふり合も學んで、(學ぶも可なれどもの意歟)それに久敷つき候とてよき醫にもなられ不申候。所詮は豪傑の士は一分より發明を出し候より外は有之間敷候。其内知人方書の治療に益あるものは無御油斷讀閲可被成候。足下など既に治療の施に當り候故、それが直に修業の第一に候。いづれ何の業も小心と放膽と相兼候わねばなり申間敷候。此度御越被成候路程其外近事追々御報知可被成候。隨賢(青洲)よりも此間拙者へ書状參り候。これは雲平世話になり候禮状也。雲平たち候跡へとゞき候。大方雲平も備前に少し淹留、四月上旬には歸家いたし候由。大坂の良平(鹿城文獻)と申は隨賢弟也。これは私二十年前の相識也。(寛政京遊の日である。)近頃言傳などいたしをこし候。是も大分流行いたし候由。今迄は堺に罷在候。近頃大坂へ出たり。名手(那賀郡名手村)までは大坂より泉州へ出てゆけば牛瀧(和泉國泉北郡山瀧村南方)の方を通り候而十六七里の路程也。先達而御こしはどのやうに取路候や。名手まで十日かかり候樣見え申候。定而迂路と被存候。いづれかながきにても路すがらの樣子くわしく被仰可被下候。醫事も胸懷高くなく候ては上手にもなり申間敷候。胸懷高くするは讀書にしくはなし。香川太中(一本堂修徳、庚辰より六十五年前歿)などは聖賢傳中の醫などとも申候。近來蘭方などを治療にまじへ候事世間通用のはやりになり、外科などは兼用も尤なる事に候。(しかし)實は讀聖賢書ものの餘りに信用になり申さざる事。雲平はなしには華岡(青洲)なども書は先外科正治、正宗なども用ひ候よしに候。これ迄書状(碧山紀伊の書)達し候節に相認候。四月三日。此書状認置候處、彼此仕候而延引仕候。一昨日より學館(福山)へ出勤罷在候而船便此書状差出申候。四月廿四日福山旅寓に書。」

 ()(てい)()(がく)(しゆう)()()き、(かね)()(しよ)(せい)(はふ)(およ)んでゐる。(かみ)にも()つた(ごと)くに、わたくしは()(てい)(しよ)()つて(はな)(をか)(せい)(しう)(おとうと)鹿(ろく)(じやう)(りやう)(へい)(しよう)したことを()り、(また)()(てい)(せう)()(きやう)()(いう)(がく)して鹿(ろく)(じやう)(まじは)つたことを()つた。(ぶん)(せい)(かう)(しん)より二十(ねん)(ぜん)(くわん)(せい)十二(ねん)である。しかし()(てい)の二十(ねん)(ぜん)()ふは(がい)(さん)であらう。

 わたくしは()(てい)(くわん)(せい)(けい)(いう)(こと)()(ついで)に、(こゝ)(ふたゝ)びその(はじめ)(まと)()より(きやう)()(おもむ)いた(とし)(かへり)み、(ぜん)()()らざる(ところ)(おぎな)はうとおもふ。それは(あらた)なる()(れう)(けみ)して、(にふ)(きやう)(ねん)()(ばう)(しよう)()(ため)である。(はま)()(うぢ)(ちかご)()(てい)(じよ)()(べん)(あがな)()た。(この)(しよ)は「霞亭先生述、助字辨初編、北越仙城院藏」と(だい)し、「關根」「廓如之印」の二(いん)がある。(すなは)()(てい)(ゑち)()(せき)()(うぢ)(かく)たりし()(かん)せられたものである。(しよ)の「題言」にかう()つてある。「年十八。負笈京師。謁大典禪師請教。禪師示以一隅。後就淇園先生而正焉。」一(ぐう)とは(じよ)()(はふ)の一(ぐう)()ふのである。()(てい)(くわん)(せい)(ねん)に十八(さい)になつた。(にふ)(きやう)(とし)()(てい)(せふ)(ひつ)の「十三年前」と()(がふ)する。(かつ)()(てい)(みな)(がは)()(ゑん)(じゆう)(いう)するに(さき)だつて(そう)(だい)(てん)()たことも、()(てい)(でん)(ちゆう)(ばく)()すべからざる()(じつ)である。(じよ)()(べん)には(かん)(かう)(ねん)(げつ)(あらは)さない。

     その百三十四

 ()(てい)(かう)(しん)(ぐわつ)二十四(にち)(しよ)には(なほ)(そう)(じよう)(によ)(こと)()えてゐる。(すゐ)するに(へき)(ざん)()()(おい)てこれと(あひ)()(あに)(はう)(だう)したのであらう。「高野の詩僧と申は大方正智院乘如にて可有之候。茶山の弟子也。神邊近村の生れの者也。今は大分出世いたし居申候。是は小生も隨分相識に候。かなりに何か出來候。只今高野の碩學職を被命居候人也。(中略。)此書をかき候處へ茶山翁來りて、乘如の事とひ候へば、即正智院の事の由、それなれば小生も相識也。近年歸省のせつは高野へよられよと度々言傳いたしをこし候。その弟子の僧は塾に久敷居申候者も參居候。」(この)(ぶん)(ぜん)()(あひ)(つらな)らざる(ところ)あれども、それは(はじめ)の「乘如」の二()(その)()(すう)()(のち)()(くは)へられし(ゆゑ)である。()(てい)(かう)()()(そう)(こと)()いて、()づその(しやう)()(ゐん)なるべきを(おも)ひ、(のち)(ちや)(ざん)()()つて(その)(しやう)()(ゐん)(すなはち)(じよう)(によ)なることを()つたのである。

 (つぎ)に六(ぐわつ)()()(てい)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。()(てい)()(へい)(をん)であつた。(たん)に「當方無事罷在候、乍憚御放意可被下候」と()つてある。

 (へき)(ざん)(あに)()(しう)(いう)(はう)じて、(みち)(つきの)()()たことを()つた。()(てい)(こた)へて()つた。「月瀬の奇觀健羨仕候。御作等候はば後便御示可被下候。芳野は花時に候や。今年は全體花はやく候由承り候。扨今年は三月中大方陰雨に而、又々梅雨中も四五日ふりつめ候。御地邊は如何候哉承度候。」

 ()(てい)(おとうと)のために()(がく)()き、(また)()(こと)(かた)つてゐる。「本業の餘暇、日本の事實などしるし候もの等御心懸御覽可然候。此方に生れ候而一向しらぬもつまらぬもの、詩文などの用、議論の事など面墻多きものに候。大日本史山田社中に所持に候。少々宛なりとも御恩借御よみ可被成候。しかしそれにも限り不申候。もちと小さきものにてもよし。(原註、軍書俗談類にても。)歴史は通鑑など見候へばよし。資治通鑑にても綱目にても。しかし本まれに可有之候。先御心懸可被成候。晉書、三國など正史にしくはなけれども、餘り浩博すぎ候而にわかに卒業出來ねば手短き方よりいたし候も一手段に候。詩は唐宋詩醇など先よろしく候。王阮亭精華録など詩學に益あり。たれぞ社中に所持も可有之候。」

 (てき)(さい)(つま)(なか)(むら)(うぢ)(この)(かう)(しん)(はる)()(はり)(あそ)んだと()える。「母樣尾張へ御遊覽被遊候由、よくぞ御越、御機嫌よく御歸宅めでたく奉存候。よきつれにても御坐候哉。ことの外早く御歸りと奉存候。」

 (へき)(ざん)(あに)に四十一の()(こと)()うたので、()(てい)はこれに(こた)へた。「私四十一の年賀の儀一寸御噂申上候へども、二月親類三四人相招き内祝已にすみ候。一切他人の祝儀等は相斷申候。夫故もはや已にすみ候儀故、御祝意の御心遣は必々御無用に奉願候。」

 ()(てい)(れい)(ごと)(まと)()(きやう)(しん)のために(せつ)(せい)()いてゐる。「暑中にむき候而食物御用心專一に奉存候。此四五日前彌九郎と申大莊屋(原註、川南藤井料助の兄)平生積持に候處、ふと章魚をくひ候而あたり死去いたし候。あたる時はこわきものに候。」(しよ)(ちゆう)(せつ)(せい)()くは(すで)(おそ)い。()(てい)()(せい)()()いて(くん)(かい)(きやう)(じん)(あた)へようとしたのであらう。()(しや)(おとうと)(ふぢ)()(れう)(すけ)(こと)は、(さき)(たま/\)(わす)れて(その)(ひと)()らぬやうに()つたが、(はま)()(うぢ)()(ざき)(うぢ)(とう)(たう)()(たゞち)(しゆ)(しよ)してわたくしにその()(あん)なることを(はう)じ、就中(なかんづく)(はま)()(うぢ)()(めい)()()した。()(あん)()(こう)(けん)(あざな)()(くわい)(びん)()(かん)(なべ)(ひと)で、(せい)()(たん)(さい)(やう)()(らん)(すゐ)である。()(あん)(たん)(さい)の二(なん)(うま)れ、()でて(そう)()()いだ。二()(みな)()(せい)である。()(らう)(おそら)くは(たん)(さい)(ちやう)()であらう。章魚(たこ)()つて()んだ(れい)(また)(なが)(とみ)(どく)(せう)(あん)(まん)(いう)(ざつ)()にも()えてゐた。(いま)(その)(びやう)(しやう)(どう)()(つまびらか)にし(がた)い。

 (さい)(かん)(だう)()稿(かう)には(この)(なつ)()(すくな)い。()(ちゆう)(じん)(めい)(やま)(がた)(ぼう)()()(こう)()(あさ)()()(はる)(「招平戸山縣某、長尾小野公熈、淺野千春飮」。)(まき)()(けい)(「寄棲碧山人」)()(けい)(「留暮溪」)(そう)(せき)(ほう)(「石峰師見過」)の六(にん)があるのみである。「中山典客招飮」は()(しう)のいづれなるかを()らない。

 わたくしは(こゝ)()(てい)(おとうと)()(しよう)(この)(なつ)()()()したい。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)に「北條敬助寧拜、奉呈北條尊大人(適齋)樣、同尊大兄(碧山)樣人々御中」と(しよ)した(しよ)(だん)(ぺん)があつて、七(ぜつ)(しゆ)()してある。「閒居。緑陰深處讀書家。雨歇檐前啼乳鴉。睡起呼童汲溪水。半簾斜日煮雲芽。恭敏先生忌祭。一去塵寰十四年。復開遺卷歎君賢。瓣香羞罷人無語。穆々清風半沼蓮。」(きよう)(びん)(れん)(じゆく)()(かう)であつたが、わたくしは(いま)(その)()(めい)(けん)(しゆつ)しない。(おち)(あひ)(さう)(せき)(こう)(さう)()(しふ)にも、「君諱某、私諡恭敏、廉塾都講、苦學罹疾早歿」と()つてあるのみである。(ぶん)(くわ)(ねん)(しん)()(ちや)(ざん)(さい)(てん)()に「琴亡忽五(ねん)」の()がある。(ぶん)(くわ)(しん)()を五(ねん)とすれば(ぶん)(せい)(ねん)は十四(ねん)である。(まへ)(かん)(きよ)()(あは)(かんが)ふるに、(この)(しよ)(かん)(かう)(しん)(なつ)(つく)られたものである。()(れん)(じゆく)(まつり)所謂(いはゆる)(ねん)()(もつ)てせられたとすると、(きよう)(びん)歿(ぼつ)(ねん)(ぶん)(くわ)(ねん)(てい)(ばう)であつただらう。

     その百三十五

 (ぶん)(せい)(かう)(しん)(あき)(まと)()(しよ)(どく)()づ七(ぐわつ)()()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(つた)へてゐる。その()()(うへ)(かた)るものは(しも)(ごと)くである。「殘暑に相成候得共、却而酷しく御坐候。(中略。)此方皆々無事罷在候。乍憚御放意可被下候。(中略。)今年は例よりは久敷凉しく候而、こゝ四五日前各別暑氣を覺え候。併已に秋意を催候樣子なれば、さほどの事も有間敷被存候。暑中詩も一向出來不申候。少々有之候も皆只應酬勉強のみに候。(中略。)今日上京の人へ急に托し候故何事も略書いたし候。いづれ盆後書中に申上候。」

 ()()(ぱく)()(こと)(この)(しよ)()えてゐる。そして(これ)(この)(しよ)(かう)(しん)(さく)たる(かく)(しよう)である。「惠美三白當春御供(松平齊賢の供)に而出府いたし候。先月(六月)江戸邸(櫻田霞が關淺野邸)に而下世いたし候由、昨日(七月三日)しらせ參り候。參りがけから餘程衰老にみえ候。七十五六に可有之候。」三(ぱく)は三(せい)(ぱく)で、()(てい)(しやう)(たい)(せう)(がう)した。(かう)(しん)(ぐわつ)()に七十六(さい)(もつ)(をは)つたのである。(はふ)()()(しん)(ゐん)(くわん)(ずゐ)(れい)(はう)()()(あか)(さか)()(とく)()(はうむ)られたと()ふ。(おとうと)(じゆん)(ざぶ)(らう)をして(さぐ)らしめたが、(しん)(ごん)(しゆう)()(けん)(ざん)()(とく)()(あか)(さか)()(ひと)()(ちやう)十三(ばん)()にあつて、(ぞく)(ひと)()()(どう)()ばれてゐる。「墓は墓地の中央部に南面して立てり。趺石三層あり。石の玉垣を繞らし、前面に扉あり。垣の内左右に石燈籠あり。墓の前面には「大笑惠美先生之墓」と彫り、左右後三面に「大笑惠美先生墓誌銘」を刻す。龜井昭陽の撰ぶ所なり。」

 (つぎ)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(こと)()えてゐる。「此間は凹巷より久々に而來書、社中(伊勢恒心社中)近況くわしく承知致し候。孟綽(孫福包蒙)留主に而多用に御入との事に候。」(たま)()(うぢ)()ふを()くに、(まご)(ふく)(こう)()(あざな)(まう)(しやく)(はう)(もう)(ふう)(さう)(しよう)(けう)、齯(げい)(さい)(とう)(がう)がある。(あふ)(こう)(じつ)(けい)()(さん)(まご)(ふく)(こう)(ゐく)()である。(あふ)(こう)(しよ)(かう)して(てつ)(しよ)した所以(ゆゑん)である。さて()(さん)(あふ)(こう)(ちゝ)(まご)(ふく)(はく)(だう)(しよ)(めい)()(しう)(のち)(ぶん)(けい)(あざな)(けい)()(のち)(とほ)(やま)(うぢ)(おか)したのである。

 (しよ)(なほ)二三の()()がある。一、「調息養氣法、ある醫書中にて檢出仕候。匇々敬助(撫松)にうつさし懸御目候。」(この)(せう)(ほん)(いま)(つた)はつてゐない。二、「唐宋詩醇、どこぞに所藏あらば御借覽可然候。林崎文庫には有之候が、借用如何有之哉、佐藤(子文)などへ御逢之節御咄可被成候。」

 (この)(ぐわつ)()(しよ)よりして(ほか)(まと)()(しよ)(どく)(この)(あき)(せう)(そく)(つた)ふるものが(はなはだ)(とぼ)しい。それ(ゆゑ)わたくしは()()(さい)(かん)(だう)()稿(かう)(もつ)(しゆ)なる(てん)(きよ)とせざることを()ない。

 七(ぐわつ)()には()(てい)()()した。(この)(りつ)(こう)(はん)にはお(きやう)とお(とら)とが(うつ)(いだ)されてゐる。「七夕。倒翻書簏撲蟫魚。渫治井泉勞僕夫。一掬晩凉生徑草。半鉤新月在庭梧。年光容易不相待。兒女團欒聊可樂。還苦渠儂妨著睡。問星指漢挽吾鬚。」

 十五(にち)には七()(ちやう)(へん)(つく)つて(きやう)()(そう)(げつ)(こう)()()せた。「勝事十年水東流」は(ぶん)(くわ)(ねん)(おほ)()(がは)(ふな)(あそび)(つゐ)(くわい)したのである。(かう)(しん)より(げき)(さん)すれば(ぶん)(くわ)(ねん)は九(ねん)(ぜん)である。その十(ねん)()ふは(がい)(さん)()ぎない。「清空塵土長相隔。時時幽夢到林丘。」()()(せい)(くわつ)(ゆめ)()ることも(やゝ)(まれ)である。

 八(ぐわつ)十五(にち)には(れん)(じゆく)()(くわい)があつて、()(てい)()(まき)()(けい)(おく)つた。()稿(かう)の「社日廉塾席上贈牧詩牛」の七()(これ)である。(かう)(しん)(ちゆう)(しう)(しや)(にち)(あた)つた。(ちや)(ざん)には「中秋値秋社」の()(だい)がある。()(ぎう)()(けい)なることは「近來其耳燥且聾」と()ふを(もつ)()るべきである。(ちや)(ざん)にも(また)「棲碧山人航海來訪、病後耳聾口喎、談話不似舊日壯快」の()があつて、(うち)に「三五秋輝喜共看」と()つてある。(れん)(じゆく)(えん)には(ちや)(ざん)(のぞ)んだものと()える。(つぎ)()(てい)(しよ)はわたくしをして(さら)(ちゆう)(しう)(こと)()()せしむるであらう。

 ()(てい)は十七(にち)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(この)(しよ)には「八月十七夜」と()してある。(かん)(なべ)(いへ)(こと)は「小生無事、敬助も無恙罷在候、乍憚御安意可被下候」と()つてある。

 ()(しよう)(がく)()(まと)()から()た。「七月十五日御手簡當月(八月)十二日自大坂相達拜見仕候。(中略。)金子二兩一歩慥に落手仕候。御世話之儀に候。」

 (かう)(しん)(べい)()(やす)(とし)であつた。「扨米價殊之外下直に御坐候。貴境邊も同樣と被存候。此頃石三十八匁位と申事に候。私共米にて何もかも受取候故、去年來餘りにやす過候而諸事手支に候。おかしき事に候。乍去太平のありさま無此上事に候。」(こめ)(こく)(ぎん)三十八(もんめ)(ぎん)(もんめ)(こめ)(しよう)(がふ)三である。(たい)(てい)(たう)()(べい)()(ぎん)(もんめ)(こめ)(しよう)(がふ)(ない)()(しよう)(れい)としてゐたのである。

 ()(てい)(ちゆう)(しう)(ぜん)()(こと)(さい)(はう)した。「中秋は甚清光に候。十四夜もよく候。夜前(十六夜)もよく候へども、すこしくもりごゝちに候。御地邊の樣子承度候。十五夜に木星月にはいり候。をりには有之候事のよし。詩は一首落成、敬助にうつさし御目にかけ候。歌は。いぬるまにあけむ夜をしと玉櫛笥ふたゝびおきて月をみるかな。」(もく)(せい)(こと)(ちや)(ざん)に「忽覩一星排戸入、得非后羿覓妻來」の()がある。()(てい)()(しよう)(うつ)させた()は、()稿(かう)の「十五夜溪上即事」の七(りつ)であらう。十六()(くもり)(ちや)(ざん)をして「陰嗟今夜月、歡倍昨宵人」と(ぎん)ぜしめたのである。

 ()(てい)(つう)(しん)(なか)(つぎ)をする(ひと)(しや)()(おく)ることを(うん)(ぬん)してゐる。「大坂園部(長之助)へは二季に何なりとも御挨拶の品被遣可被下候。此方は勿論かけず遣し候。高木(呆翁)へも其心得、これは至交なれば不必。」

 (しよ)(すゑ)には()(こう)(こと)()つてある。「昨今は朝夕冷氣を催し候。追々秋凉、切角御自愛奉祈候。乍憚二尊樣へ可然奉願候。大阪河内屋(書估儀助)便匇々申殘候。匇々頓首。」

     その百三十六

 (ぶん)(せい)(かう)(しん)の九(ぐわつ)()には()(てい)()(ちや)(ざん)(したが)つて()(りやう)(やま)(のぼ)つた。(たま/\)(そう)(ふう)(しやう)()()(せん)(ざう)とが(ぜん)(じつ)(らい)(れん)(じゆく)()てゐたので(どう)(かう)した。()()(らい)()があつたので、一(かう)(こく)(ぶん)()()けた。

 ()()(せん)(ざう)(せう)(げつ)(てい)()(せう)には三(じつ)(ぜん)()があり(九月六日至神邊途中戲題)、(ちや)(ざん)(しふ)(ふう)(しやう)()稿(かう)とには(ぜん)(じつ)()がある。(ちや)(ざん)は「忽忻惠遠過橋去、遙伴王弘載酒來」と()ひ(九月八日呈風牀上人、小野泉藏)、(ふう)(しやう)(この)()()(ゐん)してゐる。(九月八日同泉藏遊廉塾、和茶山先生高韻。)

 (ちよう)(やう)(いう)(ちや)(ざん)(しふ)に「九日與二客及諸子遊鼕鼕澗、値雷雨入國分寺、晴後再入澗飮石上、分得韻文」と(だい)する七()があり、(ふう)(しやう)()稿(かう)に「重陽同茶山霞亭二先生及小野泉藏諸子、登御領山、午時雷雨、急避國分寺、分韻得五歌」と(だい)する七(りつ)があり、(さい)(かん)(だう)()稿(かう)に「重陽同諸子陪茶山翁登御領山、備中風牀師、小野泉藏適在」と(だい)する七(りつ)がある。(ひと)(せう)(げつ)(てい)()(せう)には()()い。

 ()(てい)()に「籃轝爭攀三十人」の()があるのを()れば、(ちよう)(やう)(いう)(したが)つた(れん)(じゆく)(しよ)(せい)(すこぶる)(おほ)かつたことが()られる。

 (さい)(かん)(だう)()稿(かう)には(この)(あき)()(なほ)(すう)(しゆ)ある。「橋元吉過訪」は(はし)(もと)(ちく)()()(てい)(いへ)()うた(とき)(たま/\)(ちや)(ざん)()にあつて、(しゆ)(じん)()(つら)ねたのである。()は「秋燈一點細論詩」(霞亭)の()(もつ)(おこ)つてゐる。(ちく)()()(せん)(げん)(きつ)(その)(あざな)(びん)()(をの)(みち)(ひと)である。「廿二日福山途上」は()(てい)が九(ぐわつ)二十二(にち)(こう)(だう)(くわん)(おもむ)いた(とき)(ぜつ)()であらう。()(あき)(さく)(あひだ)(かい)(ざい)してゐて、しかも(ちよう)(やう)()(のち)()でてゐるからである。(この)()()つて(かんが)ふるに、()(てい)は九(ぐわつ)()(じゆん)()(やう)(おか)されてゐたらしい。(籃輿朝護病身行。)(さい)()(しう)(とう)その(いづ)れなるかを(べん)ずべからざる七(りつ)(しゆ)がある。「高久南谷集、飮既酣、本間蓉溪挈壺至、四坐歡然、同賦得虞」が(これ)である。(たか)()(なん)(こく)(ほん)()(よう)(けい)(ならび)(はじめ)()えてゐる。(はま)()(うぢ)(ざう)(ほん)()(よう)(けい)(やま)(をか)()(りう)()(しふ)()るに、(たか)()(あざな)()(せい)(さう)()(らう)(しよう)し、(ともの)(うら)()み、(ほん)()()(なが)(やす)(あざな)()(けい)、六()()(もん)(しよう)し、「密書」の(しよく)(ほう)じてゐた(ごと)くである。しかし(どう)(せい)()(じん)(こん)ずる(おそれ)がないでもない。()には一()()(せつ)(くわん)するものがない。

 (ふゆ)()つて十(ぐわつ)二十三(にち)()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(だん)(ぺん)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)してゐる。(はじ)めわたくしはその(なん)(ねん)(さく)なるかを(うたが)つたが、(いま)(かり)にこれを(かう)(しん)(もと)()ける。(だん)(ぺん)には()(しゆ)がある。(みな)()稿(かう)()せざる(ところ)である。「十月望分韻。爲思良夜買村醪。無復雅游浮野舫。風月清佳客乘興。出門一笑唱山高。」「同前、高久諸君到、得登字。有客携魚興此乘。喜聞柴戸響登々。不勞江上浮舟去。起掃東軒月正昇。」わたくしの(はじ)()(なん)(ねん)(さく)なるかを(うたが)つたのは、(すゐ)(へん)()んで(つく)つたらしい()があるからである。しかし(かく)(たか)()があつて、(たか)()(ぜん)(げつ)(こう)(はん)(もし)くは(この)(つき)(ぜん)(はん)()(てい)()(まね)いて(えん)(まう)けたものである。(この)(ゆゑ)にわたくしは(かり)にこれを(かう)(しん)(もと)()けた。

 ()(のち)に三(ぎやう)(もん)()があつて(くう)(はく)(うづ)めてゐる。「これは甚匇作也、博粲。蘇州集返璧いたし候。」(くわん)(ぱん)()()(しう)()には「文政三年刊」と()つてある。(すゐ)するに()(てい)(へき)(ざん)()()つて、()()(しや)(いう)(ざう)(きよ)なる(しん)(かん)()()()りて()んだものであらう。(はた)して(しか)らば十(げつ)(ばう)の二(ぜつ)(かう)(しん)()つたことは(たしか)だと()ふことが()()よう。

     その百三十七

 (かう)(しん)十一(ぐわつ)二十二(にち)()(てい)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(この)(しよ)(ぜん)(はん)(うしな)はれてゐる。「昨日(十一月二十一日)冬至なれどもいまだ梅は一花もみえ不申候。これまで暖なれども三四日前より大分寒氣になり申候。御地はいかが。今年冬至轉嚴凝。憶昨尋梅向馬塍。春入山園人未省。琴聲鏗爾半池冰。(原文失題。)また昨日人の求に應じて富士の畫贊。峯容厲且温。獨立無矜色。自是衆山宗。鎭玆君子國。敬助も稽古の爲塾中之小生へ隔日に小學、十八史略など講釋いたし候やうすに候。詩なども相應に上進いたし候樣にて候。先は近状報じたく如此御座候。(從此下追書。)三先生(原註、清田、皆川、富士谷)一夜百詠と申うすき册子二卷(原註、終に和歌あり)如意庵亡師へ久敷前にかし候。かへり候哉。もし有之候はゞ御宅へ御とり置可被下候。紛失いたし候はゞいたし方なし。」

 わたくしの(この)(しよ)(もつ)(かう)(しん)()つたものとするは、「今年冬至轉嚴凝」の七(ぜつ)(さい)(かん)(だう)()稿(かう)(ちゆう)(かう)(しん)(ふゆ)(しよ)(さく)(かん)(かい)(ざい)してゐるからである。(だい)は「冬至偶作」である。()()(ぐわ)(さん)()稿(かう)()えない。(まさ)()(にふ)すべきである。()(てい)()(しよう)(かう)(しよ)(こと)(はじめ)(こゝ)()でてゐる。

 ()(てい)(せき)(じつ)(しよ)を「如意庵亡師」に()した。(によ)()(あん)とは(たれ)であらうか。()(てい)(かろ/″\)しく(ひと)(しよう)して()となすものではない。(じゆ)には(みな)(がは)()(ゑん)()とし、()には(ひろ)(をか)(ぶん)(たい)()としたのみである。(あん)ずるに(によ)()(あん)(そう)(りよ)ではなからうか。

 一()(えい)はわたくしは(その)(しよ)()らない。しかし(どう)(せん)(しや)(にん)(ちゆう)(みな)(がは)()()(たに)とは()(ゑん)(そう)(じやう)(きやう)(だい)なるべきこと、(ほとん)(うたがひ)()れない。(はた)して(しか)らば(この)(しよ)(あるひ)(そう)(じやう)(せい)(しやう)(ちよ)(じゆつ)(ちゆう)にある「北邊一夜百首詩歌」と(おな)じではなからうか。(きよ)()(たん)(そう)(けん)であらう。

 二十七(にち)(ゆき)()つた。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)に「十一月念七朝大雪即事得江」の七(りつ)がある。(ちや)(ざん)(しふ)(ちゆう)「雪日分得韵冬」の七(りつ)(また)(おそ)らくは(どう)()(さく)であらう。()(てい)に「山妻臥病兒號凍」の()がある。(きやう)()んでゐたものか。(ちや)(ざん)の「雪光侵枕起吾慵」の()はわたくしをしてその(あさ)(ゆき)なるを(おも)はしめる。二()()(どう)()()つたことは(ほとんど)(うたがひ)()からう。

 (ちや)(ざん)()(てい)(しふ)(かう)(しん)()は、(ならび)(みな)(かみ)の二(へん)殿(でん)としてゐる。わたくしは()(てい)十二(ぐわつ)(ちゆう)(せう)(そく)()らない。

 (この)(とし)()(てい)は四十一(さい)であつた。

     その百三十八

 (ぶん)(せい)(ねん)(ぐわん)(たん)()(てい)がこれを(れん)(じゆく)(むか)へた。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()づ「辛巳元旦」の七(りつ)()せて、(つぎ)に「同前和茶山先生韻」の五()(およ)んでゐる。五()には(ちや)(ざん)()(てい)(みな)(ねん)()(てん)(しゆつ)してゐる。(ちや)(ざん)。「吾年七十四。所餘知幾多。不如決我策。閑行日醉歌。」()(てい)。「今朝四十二。歳月徒爾過。既往不可咎。來日已無多。」

 七()()(てい)(どう)(じん)(うめ)(なん)(かう)(さぐ)つた。()稿(かう)に「尋梅」と(だい)する七(ぜつ)があつて、「芒鞋跟斷入深幽」を(もつ)(おこ)つてゐる。しかし二十八()(ちゆう)には(とき)(ところ)とを(ちよう)すべき()がない。わたくしの「七日」と()ひ「南郊」と()ふは(この)()(まへ)に「首春六日、高瀧諸君見過、得江」の五(りつ)がある(ゆゑ)である。その「佳期在人日、先喜足音跫」を(もつ)(おこ)り、「明逐登臨興、城南挈翠缸」を(もつ)(をは)るを()れば、()(てい)(うめ)(さぐ)つた(とき)(ところ)とが(おのづか)(あきらか)である。

 (まと)()(しよ)(どく)に「芒鞋跟斷入深幽」の()(しよ)した(しゆ)(かん)(だん)(ぺん)がある。その(じん)(じつ)()(つく)られたことは(うたがひ)()れない。「晩冬廿九日御手簡(碧山の書)今日相達拜見仕候。愈御安祥珍重奉存候。此方無事罷在候。乍憚御安意可被下候。敬助(撫松)入用二兩二歩慥に接手仕候。御世話に奉存候。个樣に嚴重にいそぎ御差出し無之候ても不苦候。此頃より書状相認候而上京の人を相待居候。何も用は無之候へども御状相達候御請迄に認候。」(この)(した)に「探梅」と(だい)して(かみ)の七(ぜつ)(しよ)してある。

 二(ぐわつ)()(てい)(まと)()()(せい)せむがために(かん)(なべ)(はつ)した。(これ)(あたか)(れん)(じゆく)(やま)(がた)(てい)(ざう)(ひら)()(かへ)り、(そう)(ぎよく)(さん)(ひこ)()(かへ)ると(どう)()であつた。(ちや)(ざん)(しふ)に三(にん)(おく)()がある。「北條子讓之志州、山縣貞三還飛蘭島。玉産上人之江州、賦贈。梅影娟々柳影輕。東風吹入別離情。花前一日一尊酒。春半三人三處行。」(さい)(かん)(だう)()稿(かう)にも(また)(この)(とき)()がある。「二月八日送山縣貞三歸平戸、僧玉産赴彦根。余亦歸省、發期在近。一歸海曲一湖邊。吾亦省親郷國旋。別後半輪今夜月。三人三處各天圓。」二()(けつ)()()るに、(おそ)らくは(ちや)(ざん)()()()つて、()(てい)がこれに(なら)つて(つく)つたのであらう。

 三(にん)(この)(かう)(ぜん)()して(れん)(じゆく)(そう)(せき)(ほう)(そう)(でい)(ぎう)(いは)()()うた。(ちや)(ざん)(しふ)の「石峰師善病、忽將遍參、來告別、賦此以呈」の()は三(にん)(おく)()(つぎ)()せてある。これに(はん)して(さい)(かん)(だう)()稿(かう)の「送石峰師問泥牛師于石州」の()(やま)(がた)(ぎよく)(さん)とを(おく)()(まへ)()せてある。わたくしの(ざう)する(ところ)に、()()(そう)()(しう)(れん)(じゆく)(ざつ)()(くわん)がある。()(しう)(ぜん)(ねん)(かう)(しん)(とし)(せき)(ほう)(おな)じく(じゆく)にゐて、(せき)(ほう)()(とき)(なほ)(とゞま)つてゐた。(せき)(ほう)(いは)(みの)(くに)より(しよ)()せて、「偃息褥上」と()つたさうである。(せき)(ほう)()()(ひと)である。

 ()(てい)(かん)(なべ)(はつ)して()(せい)()()いたのは(しん)()(ぐわつ)()(のち)である。しかし(この)(かう)(につ)(てい)(ちよう)すべき(ざい)(れう)(はなはだ)(すくな)い。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)には「河邊途上」「三石嶺上作」「麑川途上」「菟原」「楠公墓下作、二十韻」「亡弟子彦曾寓尼崎某寺、余自京來迎取而歸、翌年(寛政十一年)九月罹病沒于家、距今已二十四年矣」「南京」「櫻葉館、賦呈韓聯玉」の八(へん)がある。(かは)()(びつ)(ちゆうの)(くに)()(だう)(ぐん)(かは)()(むら)(さん)(せき)(れい)()(ぜんの)(くに)()()(ごほり)(みつ)(いし)(むら)(かこ)(がは)(はり)(まの)(くに)()()(ごほり)()()(がは)(まち)()(ばら)(せつ)(つの)(くに)()(ばら)(ごほり)(なん)(こう)()(せつ)(つの)(くに)()()(ごほり)(さか)(もと)(むら)(いま)(かう)()())、(あまが)(さき)(せつ)(つの)(くに)(かはの)()(ごほり)(あまが)(さき)(まち)(なん)(けい)大和(やまとの)(くに)(そふの)(かみ)(ごほり)()()(まち)(あう)(えふ)(くわん)()(せの)(くに)度會(わたらひ)(ごほり)(やま)()(まち)である。

 (かは)()()ぐる(とき)(みちの)()(やなぎ)がめぐみ、()(ざは)(みづ)がぬるんでゐたが(芹香殘野水、柳色入東風)、(みつ)(いし)(さん)(えき)()れば(あい)(こん)(げう)(さう)(いん)し、(うぐひす)(こゑ)もまだ(しぶ)(がち)であつた。(曉霜料峭春霜白。出谷鶯聲恨未圓。)(みつ)(いし)(うぐひす)(めい)(しよ)ださうである。()()(がは)(かん)(なべ)(まと)()との(ほゞ)(ちゆう)(あう)である。(郷國路將半。歸興日陶々。)()(てい)が一(ぼく)をしたがへて(りよ)(かう)したことは()()(がは)()()つて()られる。(倦就芳塘憩。僮肩有小瓢。)()(ばら)には(こう)(ばい)()いてゐた。(靄々盈々遙認來。疑看紅雪萬千堆。菟原東北甲山麓。戸々爭栽鶴頂梅。)(かふ)(ざん)(かぶと)(やま)ではなくて(ろく)(かふ)(ざん)であらう。()(ばら)(かい)(だう)(ろく)(かふ)(ざん)(なん)(ろく)である。

 ()(てい)(せつ)()(さか)(もと)(むら)()ぎて「楠公墓下作二十韻」を()た。(しふ)(ちゆう)(たい)(さく)の一である。(かつ)(ごん)(はい)(りつ)()(てい)()(ちゆう)(ぜつ)()(きん)(いう)である。()(てい)()づこれを(さん)(やう)()()した。(さん)(やう)(しも)(ごと)(その)(のち)(しよ)した。「高作雄渾嚴整。與題相稱。有朱竹垞風。豈小生輩所可容喙。然辱垂示下問。不敢不言志。襄妄評。」(また)これに(しも)(こく)()(どく)()へて(かへ)した。「先頃御状被下、且雄篇刮目候。今時かゝる詩は景雲鳳凰に候。容喙任貴命候。茶翁へ兄之原稿と僕鄙見と一併質正、翁之雌黄又々乍御煩御示及被下度、學問に仕度奉存候。茶翁垂老矍鑠御同慶に候。しかし餘寒殘暑、夕陽追黄昏、喜懼交集候。碩果一墜、誰當後生之瞻望者。」(ちや)(ざん)(げん)稿(かう)(らい)(ひやう)とを(けみ)し、これに()(けん)()して(かへ)(とき)(しも)(たん)(しん)()(てい)()せた。「用事。楠公詩、學殖才調ともに見え候而感吟仕候。鄙評は思出し次第之事、とり留たる慥なる事はなく候。御取捨可被下候。近來老耄之上今春之病に而性根ます/\ぬけ候而よき分別出不申候。これは居間の壁へでもはりつけおき、時々よき字を見出し候へば改候が宜候。いづれ大作なれば也。」

 (あまが)(さき)(ばう)(てい)(げん)(おも)()(いん)に「二十四年」と()つてあるのは、(おそ)らくは二十二(ねん)(あやまり)であらう。(げん)()(くわん)(せい)十一(ねん)であつたから、(ぶん)(せい)(しん)()より(さかのぼ)れば二十二(ねん)(ぜん)である。()()()(きう)()(くわい)()(さく)である。(やま)()()(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(あう)(えふ)(くわん)(おい)(つく)られた。()(てい)(いま)(まと)()(いた)らざるに、(ほとんど)(きやう)(かへ)つた(おもひ)をした。「東歸千里上君堂。已是羇懷一半忘。」(あふ)(こう)()(ぢよ)(せい)(ねん)(つまびらか)でないが、(きさ)(とら)の二(ぢよ)(くわん)(ぺい)(ぐん)(ぺい)の二()、いづれも(ちやう)(せい)してゐたであらう。「人世悲懽無定在。且欣兒女粲成行。」

     その百三十九

 ()(てい)(しん)()()(せい)はその(かん)(なべ)(はつ)した()()ることが()()ない。(たゞ)その二(ぐわつ)()()なるべきを()るのみである。さてその(まと)()(いた)つた()をいかにと()ふに、(これ)(また)()ることが()()ない。(たゞ)その三(ぐわつ)()(ぜん)なるべきを()るのみである。

 三(ぐわつ)()には()(てい)(すで)(まと)()にゐた。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)に「上巳陪宴二尊、賦示諸弟」の七()がある。(その)()(しゆ)(すう)()はかうである。「至幸得天如我稀。父母倶存舊庭闈。千里歸來時覲省。起居食息和不違。上壽適逢上巳節。春風桃李照斑衣。弟妹取次更行酒。捧觴深樂接容輝。」(てい)(まい)(へき)(ざん)(りつ)(けい)(たに)(をか)(うぢ)(りやう)(すけ)()(しよう)(けい)(すけ)(つう)の四(にん)である。

 ()(てい)(まと)()()つた()(また)()(しやう)である。()稿(かう)に「辭郷」の五()がある。(はじめ)に「來時一何樂、去時一何悲、臨行不多語、酸腸涙暗垂」と()ひ、(をはり)に「頼有賢弟妹、定省無缺虧、以此排感念、決然拜而辭、扁舟離岸遠、春江渺別思」と()つてある。一の()(せつ)()をだに()けてない。

 ()(てい)(いへ)()して(しや)(いう)(やま)()()うた。(おとうと)(へき)(ざん)()()(どう)(かう)した。()稿(かう)に「楊柳渡別韓聯玉、宇清蔚、藤子文、孫孟綽、東伯頎、弟立敬諸君」の()がある。「逢君幾醉故山春。十日歡悰跡已陳。楊柳渡頭何限恨。落花時節獨行人。」わたくしは十(じつ)の二()(ちやく)(もく)する。(らい)()(あう)(えふ)(くわん)()うた(とき)より(この)()(べつ)(とき)(いた)るまで(やく)()になつてゐたかと(すゐ)せられる。(そう)(べつ)(かく)(へき)(ざん)(のぞ)(ほか)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()()(だち)()(かう)()(とう)()(ぶん)(まご)(ふく)(まう)(しやく)(ひがし)()(てい)の五(にん)であつた。

 ()(てい)(さか)(もと)(いし)()()(きやう)()()()()宿(やど)つた。()稿(かう)に「阪下驛舍作」「自石部入京、日尚不哺、遂到嵯峨宿、山花已盡、纔留一樹而己」の二(ぜつ)()がある。(こゝ)(のち)()(ろく)する。「不問京城一故人。尋花先向桂河津。山靈待我非無意。獨樹分明尚駐春。」

 「不問京城一故人」と()ふと(いへども)()(てい)(かう)()()()(おろ)して(のち)(ことさら)(さん)(やう)(かも)(がは)(ほとり)()うて(とゞ)まること(ふた)()であつた。「宿頼子成鳧水僑居。春風三月入皇州。一笑相逢皆舊儔。貪看鳧川楊柳色。兩宵沈醉宿君樓。」(さん)(やう)(いへ)()()(まち)で、(さん)()(すゐ)(めい)(しよ)(いま)(いとな)まれてゐなかつた。(しゆ)(じん)(かく)(とも)に四十二(さい)である。(これ)より(さき)(ぶん)(くわ)(へい)()()(てい)()(せい)した(とき)(さん)(やう)()はなかつたので、(さん)(やう)()(へい)(ちや)(ざん)(まへ)()らしたことがある。わたくしは(はま)()(うぢ)()りて一(どく)した「十月廿二日頼襄拜、菅先生函丈」と(しよ)した(せき)(どく)(ちゆう)()(かく)(ごと)くに(かい)するのである。「北條君京へ歸路被枉候樣兼約にて、中山(言倫)などと申合相待居候處、山崎間道より被落候段、其翌日一僧より傳承、遣一支兵追撃とも奉存候へども不能其儀、扨々失望、中山などは腹を立居候。」()(てい)(こん)()(わう)(ばう)して(ぜん)(くわ)(つぐの)はなくてはならなかつたのである。

 ()(てい)()()宿(やど)は三(しう)(ゐん)であつた。()稿(かう)()()の二()がある。一は五()、一は七()にして(ならび)(せう)(いん)がある。五()(いん)。「三秀院賦呈月江長老。己卯五月師從對州還。繋舟鞆浦。報予相見。歸山後賜紫衣。住持天龍寺。」七()(いん)。「余在三秀院。瀬尾子章、瓦全叟、井達夫、皆自京至。共會任有亭。十一年前余暫寓亭中焉。」十一(ねん)の「一」は(えん)(ぶん)である。

 五()(きう)(ゐん)(しゆ)(げつ)(こう)(しよう)(せん)(おく)つたものである。七()(きう)(いう)(せの)()(りよく)谿(けい)(かしは)(ばら)(ぐわ)(ぜん)(あさ)()(たつ)()()(くわい)して(つく)つたものである。(かれ)には()(ばう)(ともの)(うら)(こと)(つゐ)(おく)してゐる。(却憶邀歸棹。凉宵泛鞆灣。)(これ)には(しん)()(ざん)(りう)(こと)(つゐ)(おく)してゐる。(恠吾何事抛玆境。來往風塵已十年。)

 ()()(えん)(りう)(すう)(じつ)は三(ぐわつ)()(じゆん)(こと)であつた。()()(まち)()には「春風三月入皇州」の()があるが、(あう)(くわ)(すで)()ちて、(しん)(りよく)()(よろこ)ばしめてゐた。(げつ)(こう)(おく)()に「花雨殘春寺、烏聲新翠山」の(れん)があり、(りよく)谿(けい)()(つく)つた()に「山色如新櫻葉嫩、溪聲依舊瀑泉懸」の(れん)がある。

     その百四十

 ()(てい)(ぶん)(せい)(しん)()(ぐわつ)()(じゆん)(おぼ)しき(ころ)(ふし)()をさして()()()つた。(かしは)(ばら)(ぐわ)(ぜん)(あさ)()(たつ)()の二(にん)(おく)つて太秦(うづまさ)(いた)つた。()稿(かう)()に。「自嵯峨赴伏水、瓦全叟、井達夫携送到太秦、一酌而別。岐路依依牽我衣。蜂岡寺裏醉斜輝。殘花全與離情似。猶惜餘春不肯飛。」(はち)(をか)(でら)(くわう)(りう)()である。

 (せつ)(つの)(くに)()()(ごほり)(うを)(さき)()ぐる(とき)(あう)(くわ)()(つく)して(むぎ)()()いてゐた。()稿(かう)に。「魚崎途上。節物風光轉眼忙。殘花落盡緑陰凉。去時麰麥方盈寸。驚見滿岡抽穎芒。」

 かくて()(てい)(かん)(なべ)(かへ)つた。()稿(かう)に。「春盡歸家。九十風光將盡日。一千餘里客新歸。佗山花事恍如夢。臥看清陰滿舊扉。又。故山囘首又天涯。憶昨高堂日奉巵。憑仗雲中後飛雁。一家安穩報親知。」(いへ)(かへ)つたのは三(ぐわつ)二十九(にち)(ぜん)であつた。(しん)()の三(ぐわつ)(せう)であつた。

 四(ぐわつ)十三(にち)()(てい)(はん)(しゆ)()()()された。(はん)(しゆ)()()(まさ)(きよ)で、(しん)()は三(なん)(くわん)(ざぶ)(らう)(りつ)(てき)せしめた(とし)である。()(てい)は十八(にち)(おとうと)(へき)(ざん)(はう)ずるに(にふ)()(こと)(もつ)てした。「一筆致啓上候。時下新暑相催候處、愈御安健可被成御揃奉欣祝候。當方無事罷在候。乍憚御放意可被下候。當月十日頃小簡差出申候。相達候哉。(此書佚亡。)諸般不相替候。然者當十二日御飛脚(阿部侯使价)到著之由に而、十三日江戸屋敷より御用に付出府仕候樣被仰付候。難有仕合と翌十四日城中に罷出御受申上候。成程榮幸之儀とも存候得共、爰十二三年來閑放之癖有之、一圖に勤仕筋の儀きらひになり居候故、甚迷惑にも被存候故、内々當役の者へも御辭退申上候儀願出候得共、已に公命なれば、何分にも一旦は出府いたし不申候わねば(申さずては)叶不申、もし是非出ぬ氣なれば申出候外無之、さすれば始終病人となり、外出もみだりに出來申さぬ事と被存候。差當り病氣もなきを(ありと)申立候も欺上且欺心候儀、不可然候。先出府のつもりに決定仕候。まだとくと日期はしれ不申候へども、いづれ來月(五月)上旬十日頃の立、中旬には大坂著可仕候。供まわりの儀これもまだ仰付けられ無之候へども、大てい内々のかつこう鑓持草履取などと申やうなる位の事に候由、萬事業がらにも候へば質素にて省略いたし候。敬助(撫松)儀如何いたし可申哉、若黨代りのつもりなれば、弟子などつれられ候故、彼もめしつれ可申や、外にも段々頼參り候者も多く候。是は上より御扶持出ず、手前物入也。いまだとくと決し不申候。官程ならずば、わづか二三日の行程故、一寸(的矢に)立寄御伺可申候へども、それも參りがけには出來不申候。御用の筋も何事やらむしれ不申候。いつまで居り候や、江戸へ參らねばしれ不申候。いづれ大坂三四日滯留いたし候故、彼地より三日限にても書状差出し可申候。先心づもり十五六日頃には大坂屋敷著と被存候。御閑暇に候はゞ、關宿あたりに迄御出懸被下候はゞ、一面御咄も申度候得共如何候哉。それもおつくうなる事にも被存候へばみ合可被成候。何歟と取込居候故略書申上候。乍憚二尊樣始どなたへも可然奉頼候。萬大坂よりの再信を期し候。恐々謹言。四月十八日。北條讓四郎。北條立敬樣貴下。」(この)(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。

 ()(てい)(はじ)(はつ)(じん)(ぜん)(ふたゝ)(しよ)(へき)(ざん)(あた)ふることを()せなかつた。しかし四(ぐわつ)()(じゆん)()つてより(ちと)()(ゆう)があつたと()えて、(ぜん)(しよ)(たい)()なき(しよ)(きやう)()()つた。

     その百四十一

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)()(てい)(にふ)()(おとうと)(へき)(ざん)(はう)ずる(だい)二の(しよ)(ぶん)(せい)(しん)()(ぐわつ)二十二(にち)(つく)られたものである。「安達生便、一筆致啓上候。薄暑相催候處、愈御安祥可被成御揃珍重奉存候。小生無事罷在候。乍憚御放意可被下候。然者先日書中略申上候通、出府公命有之、五月十日爰元出立いたし候。さ樣思召可被下候。支度送用金(三字不明)等一昨日被仰付候。御用の儀は何事とも此方にてはしれ不申候。隨分御手あて結構に被仰付候。いまだ無格浪人同樣故、道中供まわりの儀は如何樣とも勝手次第に有之候。供一人若黨代りの弟子一人、外にも弟子一人、其内敬助(撫松)も召連候。扨右に付御近邊通行いたし候儀故、一寸立寄御見舞も申たく候へども、官路はさ樣なる事むづかしく、歸路なれば願候へば叶申候へども、此節はむづかしく候。もし二尊御許も候はゞ、關驛あたり迄乍御苦勞御出懸被下候はゞ甚悦候事に候。一夕ゆる/\御咄申たく、夫とも御業用さしかゝり手透無之候はゞ御無用に候。山田山口(凹巷)高木(呆翁)佐藤(子文)などは一寸しらせ候。是は如何候哉。日づもりは別紙に申遣候。萬々御考可被下候。此書状日限にせまり候はゞ必々御無用に候。途中にては間違出來やすきものに候。乍筆末雙親樣へ可然被仰上可被下候。暑蒸折角御自玉祈候。餘期再信候。匇々頓首。四月廿二日。北條讓四郎。北條立敬樣侍史。」

 (いま)(しよ)()(ところ)(かんが)ふるに、()(てい)(おほ)(のぞみ)(とう)(かう)(ぞく)せざるものの(ごと)くである。しかし()()(てい)()(じよう)じて(さい)()べむと(ほつ)する()がなかつたものと()()したなら、それは(この)(ひと)(こゝろ)()らざるものであらう。その(ふで)(のぼ)して(きやう)(じん)()ぐる(ところ)は、(おそら)くは()(たい)(さい)()(げん)であらう。わたくしは()()(あひだ)()(てい)(よう)(じん)(しう)(みつ)なることを(うかゞ)()たるが(ごと)(かん)ずる。

 (しん)()(とう)(じやう)(りよ)(てい)(がう)(つた)はつてゐない。しかし()(てい)()(てい)(ごと)く五(ぐわつ)()(かん)(なべ)(はつ)したことであらう。(ちや)(ざん)(しふ)(この)(かう)(おく)()()せない。(たゞ)(おとうと)()(しよう)(ずゐ)(かう)したこと、(へき)(ざん)(まと)()より(せき)宿(じゆく)(おもむ)いて(あひ)(くわい)したこと、六(ぐわつ)()(つゝが)なく()()(ちやく)したこと(とう)は、(しも)の六(ぐわつ)()(しよ)()つて()ることが()()る。(また)(もん)(でん)(しん)六さんの(ざう)(ちよ)せる()(せん)(たう)()(かん)(なべ)(はつ)するに(のぞ)んで(しよ)した()(しよう)(りう)(べつ)(さく)である。(ふく)()(うぢ)はわたくしに(その)()(ろく)()した。「將赴東都留別菅堯佐老兄。山村五月楝風時。又別故人天一涯。渭樹江雲君憶我。鱗鴻爲寄幾篇詩。北條惟寧拜具。」

 ()(てい)の六(ぐわつ)()(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)は、(にふ)()()(だい)(しよ)で、(さいはひ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)してゐる。「一筆啓上仕候。暑蒸相加候。愈御揃御平安と奉恭賀候。先日は遠方御出懸被下(關驛會見)御苦勞辱奉存候。別後無恙皆々達者に而、當二日(六月二日)著府仕候。乍憚御安意可被下候。本郷丸山御屋敷に而長屋相わたり申候。一昨日家老中などの囘勤は相濟申候。いまだ君上謁見は被仰出不申、何事を被仰出候事やらむ一向知れ不申候。滯留の儀勿論の事に候。しかし諸事御客あしらひのやうすに而、少しも不自由なる事は無御坐候。右之順故朋友其外へもいづ方へも尋不申、先草臥やすめ居申候。敬助(撫松)其後は足もいたみ不申(碧山の關驛に來た時、撫松は足痛に惱んでゐたと見える)至極すこやかに候。乍憚尊親樣へ可然被仰上可被下候。餘は近日又々可申上候。著之樣子爲御知申上度如此御坐候。頓首。六月四日。北條讓四郎。御状御出し被下候はゞ江戸本郷丸山阿部備中守樣御屋敷(自註、三番長屋、これはかくに不及候)右之通御認可被下候。鳴海途上寄懷立敬弟。昨逢吾弟旅情忘。新別朝來意更傷。隔海勢山青未了。白雲親舍轉凝望。これは惡詩に候。作りすて候まゝ入御覽候。」(この)(しよ)(どく)には(あて)()()い。()(だい)の「寄懷立敬弟」を(もつ)(あて)()()ふべきにもあらざる(ゆゑ)、わたくしは()(てい)(たま/\)(しよ)することを(わす)れたものと()る。()()稿(かう)()えない。(あるひ)(おも)ふに()(てい)(しん)稿(かう)(とゞ)むることを(ほつ)せなかつたのではなからうか。

 ()(てい)は六(ぐわつ)()()()()いた。(しか)るに(のち)(じつ)(いた)るまで、()()(まさ)(きよ)はこれを(いん)(けん)せず、(また)(なに)(めい)をも(つた)へなかつたのである。

     その百四十二

 (ぶん)(せい)(しん)()(ぐわつ)()()(てい)(かめ)()(ぼう)(さい)()うた。(ぼう)(さい)は二(ねん)(ぜん)(己卯)より(そつ)(ちゆう)()のために(びやう)(ぐわ)してゐた。(ねん)(れい)は七十四(さい)であつた。

 七()(いた)つて()(てい)(まる)(やま)(がく)(もん)(じよ)(じゆ)(しや)(もつ)(めい)(つた)へられた。(めい)(ざん)()()()き、(がく)(もん)(じよ)(おい)(かう)(しよ)せしめるとの(こと)であつた。しかし(のち)(この)(めい)()(でん)であつた、()()(こう)()ではなかつたと()ふことが(はん)(めい)した。

 ()(じやう)(こと)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(せう)()(へん)(えふ)によつて()ることが()()る。(たゞ)()(てい)(はじ)(つた)へられた(めい)(さく)()()でたことを()るに(およ)ばなかつたのである。(さき)()かれた()(へん)(しも)(ごと)くである。「今日迄何とも御用不被仰候。御上(阿部正精)御事多き歟、又私を休息いたさせ候思召やらむ、如何難測候。昨日鵬齋へ尋申候。三年來(己卯、庚辰、辛巳)中風の氣味に而言語ろくにわかり不申候へども、書などは隨分出來候。(鵬齋)悦申候而酒などたべ申候。六月七日。」(のち)()(へん)(しも)(ごと)くである。「今日御年寄より被仰渡候趣に而、大目附より御儒者迄被申出候。暫差留候樣、御上御用は近々被仰出候由、丸山學問所講釋いたし候樣との事に有之、(此)順なれば先當年は在府とみえ候。其上の事はいまだ何ともしれ不申候。六月七日八つ時。」

 (みぎ)()(でん)(めい)(のち)(六月十三日)の(たゞ)しき(めい)との(あひだ)(くわん)(けい)()(てい)(ちや)(ざん)()せたる「機密」の(へう)()ある(しよ)()つて()ることが()()る。(この)(しよ)は二(つう)あつて、(みな)(すゑ)(どく)()(ふん)()()ふと(しよ)してある。わたくしは(はま)()(うぢ)()より()りてこれを一(べつ)することを()たが、(ゆゑ)あつて(なに)(ひと)(ざう)(きよ)なるを(はつ)(ぺう)することを(はゞか)る。

 わたくしは()()(でん)とはいかなる()なるかを(げん)(めい)して()きたい。所謂(いはゆる)()(でん)(めい)()(らう)より(おほ)()(つけ)(つた)へ、(おほ)()(つけ)より(まる)(やま)(がく)(もん)(じよ)(じゆ)(しや)(つた)へ、(じゆ)(しや)より()(てい)(つた)へたものなることが()(てい)(しよ)()えてゐる。(あん)ずるに()()(こう)(はじめ)よりこれを()(てい)(つた)へしめむと(ほつ)したのではなくて、(がく)(もん)(じよ)(じゆ)(しや)()げしめむと(ほつ)したのであらう。()()(こう)(じゆ)(しや)()をして(あらかじ)(しん)(にふ)(はん)のものがあることを()らしめようとしたに()ぎなかつたであらう。(えう)するに(この)(めい)(てい)(でん)(あひだ)()()して、()(まと)(はい)()(たつ)したのであらう。

 (これ)よりわたくしは()(おく)をたどつて()(てい)(みつ)(しよ)()(ところ)(でう)()する。六(ぐわつ)()(よる)八つ(すぎ)(おほ)()(ぜん)(さい)()(また)()(らう)使(つかひ)(しよ)(じやう)(もた)せて()(てい)(もと)(つかは)した。それは(みやう)(てう)(めん)(だん)すべき(こと)があるから()(もら)ひたいと()ふのであつた。(よく)()(あさ)()(てい)(また)()(らう)()うた。(また)()(らう)()(てい)()()(こう)(ない)()(つた)へた。(えう)()んで()へばかうである。(さんぬ)る七()()(てい)(つた)へられた(めい)(まつた)(ゆき)(ちがへ)であつた。(しん)(にん)(めい)(ほど)なく(せい)(しき)(つた)へられるであらう。しかし(こう)()(てい)()(ところ)(すこぶる)(ぢゆう)(だい)である。「一藩の風俗をも正しくし、學問と政事と相通じ、賞罰黜陟の權やはり學官の方に有之候樣との思召之由、」(この)(すう)()(みつ)(しよ)を一(えつ)した(とき)、わたくしが(そらん)じて()いたのである。(また)()(らう)(しん)(ちよう)にこれを()(てい)(つた)へた。()(てい)(かく)(ごと)(ぢゆう)(にん)(おのれ)()(あた)(ところ)でもなく、(また)(じゆ)(くわん)(ちゆう)には(ちやう)(じや)がある(こと)ゆゑ(せん)(ゑつ)(おそれ)もあると()ふを(もつ)()退(たい)した。(また)()(らう)(こう)(しん)(にん)(きはめ)(あつ)く、(その)(けつ)()(うごか)すべからざることを()げた。

 (この)(みつ)(しよ)は十()()(てい)(しよ)して(ちや)(ざん)(もと)(おく)つたものである。()(てい)()()(まさ)(きよ)(すゝ)めて(こゝ)(いた)らしめたものの(たれ)なるかは()(めい)であるが、(また)()(らう)()(ちゆう)に、「山岡治左衞門の主張」に()つて(うん)(ぬん)()ふことがあつた。(この)(とし)()(かん)(けん)するに(とし)(より)は「岩野與三右衞門、吉田助右衞門、山岡治左衞門、高瀧左仲、岡半左衞門、三浦音人、青木勘右衞門、太田八郎」の八(にん)であつた。(やま)(をか)()()()(もん)()(りう)か。(おほ)()(らう)(ぜん)(さい)である。(はま)()(うぢ)()ふを()けば、(その)()(また)()(らう)(この)(とし)(しやう)(ぐわつ)二十一(にち)(がく)(もん)(じよ)(がかり)(めい)ぜられてゐた。

     その百四十三

 (ぶん)(せい)(しん)()(ぐわつ)十三(にち)()(てい)(おほ)()(つけ)(ぢゆう)より(おほ)()(つけ)(かく)(じゆ)(くわん)(けん)(おく)(づめ)(めい)ぜられ「御前講釋」に(じゆう)()することになつた。(こえ)て十五(にち)()(てい)(どう)()にこれを(ちや)(ざん)(おとうと)(へき)(ざん)とに(はう)じた。(ぜん)(しや)所謂(いはゆる)(みつ)(しよ)(だい)二である。しかし(だい)(たい)(こう)(しや)(えら)ぶことが()い。(こう)(しや)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にあつて(いん)(よう)便(べん)なるが(ゆゑ)に、(しも)(ぜん)(ぶん)()せる。(こと)(しゆつ)(しよ)(しん)退(たい)(くわん)して(はなはだ)(ぢゆう)(えう)であるから、これを(せつ)(りやく)することを(ほつ)せぬのである。

 「當十日御物頭交代便、大坂藏屋敷迄書状差出し申候。(()(てい)の六(ぐわつ)()(まと)()()つた(しよ)(いつ)(ばう)した。しかし(かみ)(かん)(なべ)()つた(しよ)(おそら)くは(おな)じく(もの)(がしら)(かう)(たい)便(びん)()せられたものであらう。)大暑中愈御安泰可被遊御揃欣喜之至奉存候。私無事滯留仕候。然者當十三日(六月十三日)御館へ御召出し、大目附中より申渡し有之、三十人扶持被下置、大目附格に被仰附、儒官相勤候樣との事に候。尚又奧詰相兼、月並御前講釋等申上候樣被仰出候。其後家老中列坐御逢、御請申上、即刻御前(阿部正精)御目見被仰付候。難有次第に御坐候。其日御前は御登城より御歸り御休息の處、御小姓頭より申上候は御疲にも被爲入候へば、御平服御逢被遊候樣申上候處、いや初而逢事故、道に對してもと被仰、御紋服御袴に而御逢、兼々ききつたへ候、此度は大儀に存ずると御挨拶有之、其儘退出仕候。不肖之一分箇樣に御用之儀、いくへにも任にたへ不申義と、御前内意有之候節(六月十日)一旦御斷も申上候へども、是非にと之事にて右之仰付に及候。これらわづかの御扶持にも候得共、太中翁は五十近き時三人扶持被下、其後五人扶持になり、江戸在番十七年前にいたし候節十人扶持になり、この六年前在番御用之節二十人扶持に相成、夫に格式も上下格給人に而、大目附とは七八段も下に御坐候。右等のかつこう、高名學術太中翁にいくらか減少いたし候私故、色々と御内意御請思惟もいたし候。何分此度は御上之御主意有之、家中一統の風俗をも正し、學問と政事と相通じ候樣との御主意の由、(太田又太郎傳宣)誠に難有思召に御坐候。當御屋敷儒官御國江戸かけ候而六七人も御坐候。夫に皆々私格式よりははるかにひくき候。家中にては大目附以上は貴官にて、下坐格と申候て、御門出入に御門番足輕總下坐いたし候。扨末々如何被命候哉、先在番と申事に候。在番なれば來年此頃迄の滯留に候。萬一定府被仰付候はゞ、故郷父母歸省の義は別格にをりをり御許容被下度と願ひ候つもりに候。其儀はうすうす相含申出候。是は定府になり候時の事にて、今より申べき事にも無之候。何分隨分壯健相勤候間、必々御案じ無御坐候樣、兩尊樣へ被仰上可被下候。右御報じ申上度如此御坐候。書餘期再信之時候。恐惶謹言。六月十五日。北條讓四郎華押。北條立敬樣。尚々本文之儀先々御一家中は格別、さまでこと/″\敷御うわさ被下間敷候。何歟これらの事にほこり候樣俗人のきゝとり候ははづかしく候以上。敬助(撫松)始、外兩人も皆々無事相勤居候。御上より僕一人わたり居候。」(にん)(めい)()()(てい)(しよ)は、(ちや)(ざん)(てい)した所謂(いはゆる)()(みつ)(しよ)も、(おとうと)(あた)へた(この)(しよ)(ほゞ)(おな)じである。(この)(しよ)()(みつ)(だい)せず、(また)(おとうと)(ふん)()(めい)ぜなかつたのは(さい)()(しや)(まじ)へた(どう)(はん)()のために()むべき(こと)も、餘所(よそ)(ごと)として()(なが)()()(びと)のためには(かなら)ずしも()まざるが(ゆゑ)である。(ぶん)(ちゆう)()()(まさ)(きよ)(せつ)()もて(がく)()()ることを(がへん)ぜざる(ところ)(ちゆう)(もく)(あたひ)する。(この)(こう)()(てい)(ぢゆう)(よう)する()()のあつたことは、(この)()よりして()すことが()()る。(ひと)(おほ)()(また)()(らう)(つた)へた(すう)()のみではないのである。

 ()(てい)(あらた)(めい)()けて、(ほう)(いう)()(じん)のこれを(しゆく)()するものが(すくな)くなかつたであらう。(たま/\)(たか)(はし)(せん)(ざう)さんの(もと)()(ぞん)せられてゐる(かめ)()(ぼう)(さい)(しよ)(どく)があつて、(その)(れい)として()られるのである。()(てい)(ぼう)(さい)()うたことは(すで)(かみ)()えてゐた。さて(にん)(めい)(はう)()るに(およ)んで、(ぼう)(さい)(しよ)()せて()した。(その)()(あたか)()(てい)(かみ)(おとうと)(あた)ふる(しよ)(つく)つた()(おな)じであつた。十五(にち)であつた。「朶雲拜誦、時下無恙被成御座候事雀躍不少候。扨又十三日貴藩へ被召出候而、儒官(の命)を蒙り、殊に三十口之月俸被下置候事、實に結構なる事無窮存候。定而嘸や志州之御兩人(適齋夫妻)にも、生前之面目を開とて感涙(御流し)可被成事と奉察候。先づは御受までに如此候。いづれ近日奉接貴眉、萬々可(申)述候。紛冗罷在、匇々頓首。六月十五日。龜田興再拜。北條讓四郎賢弟座右。」(のち)()(てい)(しよ)()れば、(ぼう)(さい)()(てい)(はかま)(おく)つたさうである。(ぶん)(ちゆう)(はかま)(こと)()えぬから、(あるひ)(この)(ふく)(かん)(あた)へた(のち)(おく)つたものであらう()

 わたくしは(こゝ)(さふ)(じよ)しなくてはならぬ(こと)がある。それは(さい)(かん)(だう)()稿(かう)の「不忍池旗亭、有懷亡友木小蓮」の()である。()稿(かう)には(この)()()(てい)の三(ぐわつ)(まと)()より(かん)(なべ)(かへ)つた()(つぎ)()えてゐる。(すなは)()()()てより(のち)(だい)一の()である。

 ()(てい)(いけの)(はた)(れう)()()()つた(つき)()()(めい)である。しかしわたくしは(その)()が六(ぐわつ)十五(にち)より(まへ)であつたのを()ることを()た。()(てい)の十五(にち)(ちや)(ざん)(あた)へた(しよ)に、「先日」の(こと)として(いけの)(はた)(あそ)んだ(こと)()つてあつた。そして(この)()に一(しゆ)()()()へてあつた。(いま)(こゝ)(しい)()(あは)(ろく)する。「囘首前遊思惘然。來看六月滿池蓮。蓮香撲酒人何處。撩起清愁二十年。不忍の池の蓮の物言はゞいざ語らなむしのぶ昔を。」

 所謂(いはゆる)二十(ねん)(がい)(さん)で、(じつ)は十八(ねん)である。(しん)()の十八(ねん)(ぜん)(きやう)()(ねん)()(がい)(なつ)(せう)(れん)(すゞ)()(きよう)()くなつたことは(まへ)(しる)した。わたくしはその歿(ぼつ)した()(こと)(つまびらか)にすることを()ずに、(まへ)(ぶん)(さう)した。

 (のち)(いた)つてわたくしは(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)より、(せう)(れん)歿(ぼつ)した(とき)()(てい)(しよ)()(いだ)した。それは(きやう)()(ねん)(ぐわつ)()(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)である。()(てい)(しも)(ごと)(せう)(れん)()(はう)じてゐる。「鈴木文藏儀、先月(五月)下旬麻疹に而、甚輕症に而、早速肥立被成候樣子に而、先晦日(五月晦日)抔は序も候て、友人と同道に而談話に參り候處、常體よりも快く致し被居候。然る處當(六月)朔夜より乾霍亂に而以之外あしく、翌日八つ時(六月二日午後二時)死去被致候。甚以急症と申、存外之儀絶言語候。尤前年來病身に而、別而此度麻疹(後)日數も立不申、旁もちこみあしく候而之事と被存候。夫に御存之通母堂(芙蓉鈴木雍妻)長病中、且又御親父(芙蓉)旅行于今歸宅無之、追々急飛脚參り候。大方明日(六月五日)は歸宅と被存候。愁傷之體誠に氣之毒千萬に奉存候。一體近來元氣乏しく候ひしが、箇樣之前表と被存候。未壯年、今より段々業等も成立之め出しに候處、かへす/″\も遺憾之至に候。小子も力落し候事各別に候。何れ不遠御赴弔之御書面御丁寧に相煩可申候。右之順に候得ば、御相談筋も所詮取込中申出し候(こと)も出來にくゝ候。夫に最早旦那(蜂須賀阿波守治昭歟)著府、大方めし出しも可有之候。乍殘念先々此儘に而在留可仕候。其内修業專一に可仕候。乍併此度にかぎらず又々一了簡いたし見可申候。何としても右之混雜故委曲不申上候。先は右御知しを申度如斯御坐候。」所謂(いはゆる)(さう)(だん)(すぢ)()(てい)(ほく)(いう)(くわん)するものであつただらう。

     その百四十四

 (ぶん)(せい)(しん)()(ぐわつ)十五(にち)(ぜん)()(てい)(いけの)(はた)(あそ)んで、(ばう)(いう)(すゞ)()(せう)(れん)(つゐ)(おく)した。わたくしは(きやう)()(ねん)(ぐわつ)()(しよ)()いて、(せう)(れん)()(しやう)(じよ)した。(はじ)(きやう)()(ちゆう)(こと)(しる)した(とき)、わたくしは(たゞ)()(がい)(ぐわつ)十五(にち)(しよ)あるを()るのみで、(これ)より(のち)(さい)()(いた)るまでの(あひだ)()(てい)(しよ)の一(つう)をだに()くことを()なかつたのである。

 (いま)(ぐわつ)()(しよ)(つい)(かんが)ふるに、()(てい)()(がい)(ぐわつ)二十七(にち)(ごろ)にも(しよ)(てき)(さい)()せた。「先(癸亥五月)廿七日頃飛脚便書状差上申候。」しかし(この)(しよ)(つた)はらない。わたくしは(すで)に六(ぐわつ)()(しよ)(げん)(きふ)したから、(この)()(くわい)(おい)(この)(しよ)()えてゐる(きやう)()()(がい)()(てい)(しん)(じやう)(こと)(つゐ)()して()きたい。

 ()(てい)()(がい)二十四(さい)にして()()にあつて()(しん)(かゝ)つた。「小子麻疹後段々順快、甚以快健に御坐候。近頃は食物等もさまでいみ不申候處、益心持よろしく候。」(この)()(しん)(たゞ)()()(りう)(かう)したのみではなく、()()()()(へん)にも(まん)(えん)したのである。「山田(伊勢)春木公御名代石田雄之進儀先月著に而、御國(志摩)邊御樣子も承知仕候。麻疹流行之由、如何に候哉。弟共(立敬、良助、敬助)何卒輕順に爲致(候樣)千萬奉祈候。相濟候はゞ早速御知らせ可被下候。無左候而は不安心に御坐候。何分御頼申上候。山田にても西村長太夫(及時)も池上左織(隣哉か、未考)も(此間二字不明)麻疹のよしに候。雄之進も道中より麻疹に而、例年よりは大に延著に候。御當地も于今流行一統に候。菟角産前後の婦人六か敷多く死亡仕候。先達而之御柳(檉)初發(に)何樣御用ひ可被遊候。尤葛根湯加味によろしく候。」(はる)()(こう)は、(たま)()(うぢ)()(ところ)()るに、()(こん)(くわう)(のち)(くわん)(くわう)(あらた)む、(あざな)(げう)(しやう)(しやう)(けん)(また)(しん)(てい)(がう)した。(つう)(しよう)(はい)()である。(おん)()にして祿(ろく)(ごく)()んでゐた。(かは)(さき)(けい)(けん)(いけ)(がみ)(りん)(さい)(いし)()(ゆう)()(しん)(みな)(その)()(しん)であつたさうである。

 わたくしは()(てい)(こと)()して(ぶん)(せい)(しん)()(ぐわつ)十五(にち)(いた)り、(きやう)()()(がい)(こと)(くわい)()した。(これ)より(また)(ほん)(でん)(ふく)する。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)ずる()(てい)(しよ)にして(この)(しも)(せつ)すべきものは、六(ぐわつ)十八(にち)(のち)、二十七(にち)(まへ)(つく)られたらしい(しよ)である。「一筆致啓上候。大暑、愈御安泰可被遊御揃、珍重之至奉存候。小生始皆々無事罷在候。乍憚御安意可被下候。當十六日(六月十六日、恐らくは上の十五日の書)町飛脚高木(呆翁)へむけ書状差出し申候。定而相達し可申候。爾來相替儀も無之候。あつさ故どこへも出不申候。當十七日當番奧詰相勤申候。(以上既往を語るもの歟。)廿七日御小書院講釋はじめ候積り、丸山學問所は來月(七月)三日よりはじめ候つもりに候。(此二條の事は未來を語るものなること明かである。)甚すこやかにくらし候間必々御案じ被下間敷候。此間和氣行藏樣より劒菱五升、風呂敷など祝儀參り、鵬齋はけつこうなる袴地。」(この)(しも)()()られてしまつてゐる。()(てい)(きう)(かう)にして()()(そん)してゐたものは(かめ)()(ぼう)(さい)()()(りう)(さい)とである。

 七(ぐわつ)()()()(あめ)であつた。(しも)()くべき()(てい)(しよ)(ちよう)して()るべきである。(この)()(あさ)(かん)(なべ)(ちや)(ざん)(ひと)(あた)へた(しよ)(さか)()(もり)さんの(ざう)(きよ)(ちゆう)にある。(ふく)()(うぢ)はこれを(うつ)してわたくしに(しめ)し、(かつ)(その)(しよ)(ふく)(やま)(ない)(とう)(たい)()(あた)へたものなるべきを()げた。(ない)(とう)(ちや)(ざん)(しふ)(ちゆう)()えたる(とう)(もん)(たい)()である。「御手教難有拜見仕候。如仰大暑之候に御坐候處、愈御安祥被遊御坐候由、恭悦之至奉存候。扨御使者被遣、江戸より參候一箱並に蒲鉾御惠投被下、兩品共結構之品、段々御厚意難有奉存候。(此間四字不明)舊作相認候事、鵬齋詩御示被下、奉畏候。近日に差上可申候。(按ずるに受信者は、下に見えたる如く、先づ鵬齋自書の詩を得て、茶山に其舊作を書せむことを請うたのである。鵬齋の詩は「西備雄鎭有詩叟」の七古なるべく、又茶山の舊作は「陌上憧々人馬間」の七古なるべきこと殆ど疑を容れない。)北條事結構蒙仰難有仕合に奉存候。御恩寵に叶候樣に相勤可申と乍恐默祷仕候。昨年は不禮之品進貢仕候處、鄭重御挨拶被仰下、却而恐入奉存候。堯佐へも御書被下難有仕合に奉存候。私義夏首(辛巳四月)より腰痛、今以平常に相成不申、久々御伺も不申上恐入奉存候。いづれ不遠參邸御斷ども可申上候。今年の暑はいつもより殊勝に御坐候よし人々申候。御保護被遊(度)千萬奉祈候。恐惶謹言。七夕朝。(自註。今日は芽出度奉存候。)菅太中晉帥、華押。御侍中樣。尚々被遣候鵬齋書等暫御あづかり申おき候。此頃珍客も有之、海物不自由に御坐候處、よき物御投被下、別而重寶仕候。鵬齋は中風いたし候樣承候處、中々手蹟も相替不申候。遠方のうはさ多くは間違申候。」(ちや)(ざん)()(てい)(にん)(めい)(たい)する(たい)()(わづか)(この)(しよ)(ちよう)すべきあるのみである。(ぼう)(さい)(ひつ)(せき)(きう)()つてゐても、(ちゆう)(ふう)(こと)(きよ)(でん)でなかつたのである。

     その百四十五

 (ぶん)(せい)(しん)()(ぐわつ)()()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)してゐる。()()(てい)()()(かた)るを()くに(しも)(ごと)くである。「私儀無事罷在候。乍憚御放意可被下候。扨關東當年はめづらしき旱に而、私共參り候而既に四十日にも相なり候處、(六月二日著後第三十九日)一雨も無之、皆々こまり候事に候。去ながら七夕より八日かけ大分ふり候而、人物ともに蘇息仕候。先月(六月)二十七日初而奧詰當番(に)罷出候。朝四つ時御小書院講釋つとめ候。當時日々御登城故、御前(阿部侯正精)出御は無之、御年寄御用人番頭物頭衆など聽聞に出られ候。晝後八つ時御前内講仕候。講後御前へ御めし被遊候而、今日は初而拜聽と御挨拶有之、御麻上下一具拜領被仰付候。是又これまで無之例の由難有奉存候。御講釋は月に三度なり。丸山學問所家中諸士子供など(に)講釋、これは月に五、十と三の日、以上九日(三日、五日、十日、十三日、十五日、二十日、二十三日、二十五日、三十日ならむ)出勤也。勤仕むきはかれこれいそがしく候へども、先は甚氣力すこやかにて、國元出立以來ちつとも氣色あしき事なし。此段悦候。飯なども在宅よりはよくいけ候。諸色前々より値段たかきにこまり候。かんひよう(于瓢)其外なんぞ食物類少々船便に御惠可被下候。飛脚には御状ばかり御出し可被下候。必々外のものは御無用に候。併船便にても先何も不(被)遣候がよく候。かへつて世話かかり可申候。此方用聞は新川の井上十二郎問屋に候。」

 (かん)(なべ)(じやう)(きやう)にして(しよ)(ちゆう)()ゆるものはかうである。「備後よりも兩度たより有之候。皆々無事に候。其内子供中暑に而わづらひ候由、例のさしこみにて無之やと少々あんじ候。併大分こゝろよきよしに候。御放意可被下候。」(とら)には(けい)(れん)(はつ)する(とう)(しふ)(へき)ありしものゝ(ごと)くである。

 (しよ)()(ぐう)()(てい)(うた)(しゆ)(さい)(しよ)してある。「七月三日のゆふべ。ひかりそふ秋の三日月いかなればはや山の端にいらむとすらむ。ふるさとの松にはいかにさわぐらむゆめおどろかす秋のはつ風。」(この)()()(づき)(うた)()(てい)(のち)(あらた)めたらしく、(をか)(もと)(くわ)(てい)(しよ)(どく)には「かげうすき秋のみか月出るよりはや山のはに入むとぞおもふ」と()つてある。調(しらべ)(こゝ)(いた)つて(はじめ)(とゝの)つてゐる。()(うち)(げつ)(だう)のこれを()()んだ(うた)は「月の入る山のはもなきむさしのに千世もとどめむ清き光を」と()ふのである。

 (この)(つき)(ぐわつ)二十八(にち)(おほ)()(ぜん)(さい)(ちや)(ざん)(あた)へた(しよ)がある。(これ)(ぼう)()(しよ)(ざう)で、わたくしは(はま)()(うぢ)(つい)(しやく)(らん)することを()た。(しよ)(ちゆう)に「先頃は北條讓四郎結構に被仰付目出度奉存候」の()がある。(すゑ)には「太田八郎」と(しよ)してある。

 八(ぐわつ)()()(てい)は「江戸表引越」の(めい)()けた。そして十二(にち)にこれを(まと)()(へき)(ざん)(はう)じてゐる。(はう)(だう)(かなら)ずや(かん)(なべ)(まと)()とに(はつ)せられたであらうが、(いま)(そん)するものは(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)の一(しよ)のみである。「小生輩皆々無事罷在候。乍慮外御放意奉希候。然る處八日(八月八日)夕方俄に御上屋敷(西丸下阿部邸)より江戸表引越可仕旨被仰出候。先達而は先來(來年壬午)五月迄在番と被命候處、又々右之樣子、隨分御前首尾能、一統御年寄諸役人の場合もよく候事と相みえ候。乍併餘り急なる儀故當惑仕候。いづれ立歸り御願申上、夫より妻子共めしつれ江戸住居に相成候儀に候。扨々大混雜、私は往來になれ候へども妻子など俄に驚き候事と被存候。いづれ當暮より歟、來春かけ候而は、御屋敷中に而地面拜領仕、家造作新に建て可申候。とても長屋にては始終すまれ申間敷候。格式被下候儀故、此度は參りかけとは(違ひて)、道中も色々持もの等も有之、私妻子共皆々乘物等なければ(なくては)表むき並に御關所等も濟不申候。右二百里程往來引越、餘程の費用かゝり可申、尤御上より相應之御手あても被下置候儀に候へども、中々家普請など少々よくいたし申までは屆申間敷と被存候。右に付又々願差上、東海道四日市より入、親共在所一寸見舞申たき願書差出候積りに御坐候。勿論これは無子細御許容の事と被存候。いづれ先九月朔日出立と存候へども、大方それよりははやき方にも可相成やと被存候。此度(は)右官命故、御在所へ御見舞申上候ても、兩三夜ならでは滯留出來申間敷、併是が樂(に)被存候。再び東し候節、妻子共同道御見舞申上候へば(候はば)、妻子共も悦可申候へども、女にて、わけて家中の女は御關所むづかしく、福山より別段大阪屋敷迄飛脚たち、其後大阪御留主(松平右京大夫輝延)、上京御所司代樣(松平和泉守乘寛)の御印をうけ、それを持參仕候事故、日限も可有之候故、不得其意候。いづれ江戸永住の事に候へば、又々其内二尊樣御氣にむき、江戸へ御越被下候はば、其節にても御目にかけ候てよろしく候。以上の樣子くわしく二尊へ被仰上可被下候。大てい心づもり九月十三四の頃は的屋へ參り可申哉と被存候。扨往來雜費何歟とざつと四十金程の費有之候。それに家宅普請にかかり候はば、又々相應の物入可有之、なりたけ節儉仕候へども、先達而矢立半右衞門殿へ預け有之候拾八兩の金子何卒拙者參り候節迄(に)返濟いたし呉候樣かねて被仰可被下候。今一口の五兩の分も、なるべくはとりたて申たく候。夫とも此節出來がたく候はば、暮までにてもよろしく候。右等差上置候儀故、私方へ遣(ひ)候つもりは無之候へども、私も一生のきまり場處、今度のやうなる物入多き事はもはや有之間敷候、俸祿わづかなれども定まつてとれ候儀故、段々ふり合よろしくいたし可申、又々無據御入用等の儀も候はば、いづれとも可仕候間、可相成は右之金子先御間に合せ被下候やう、くれ/″\も頼入候。いづれ其内拜顏萬事可申上候。先は右御報申上度如此御坐候。若日どり延引故障等も候はば又々可申上候。(以下細書。)扨私罷歸り候迄は御家内限參り候うわさ被下間敷候。勿論此度は一切貰(此字不明)物等きびしく相斷申べく、此は主意も有之儀に候。何卒左樣御心得可被下候。以上。」所謂(いはゆる)「來五月迄在番」は六(ぐわつ)十三(にち)(めい)ぜられたものであらうか。(ゆゐ)(しよ)(がき)(ぎやう)(じやう)(とう)()えない。

 二十二(にち)()()(りう)(さい)(しよ)()(てい)(あた)へた。(これ)(はま)()(うぢ)のわたくしに(しめ)したものである。「朝夕は少々凌能相成候。益御戩穀被成御坐奉欣然候。然ば此度急に御引越被仰付候段、先以重疊目出度奉存候。夫に付御願之上御國元へ御下、令閨(敬)令愛(虎)御同道之儀愈廿四五日頃に相成候哉。小生此間中より御暇乞旁參堂可仕存居候處、前月中より流行風邪下利有之、一日一日と延引仕候。今日は繰合參上可仕積に御坐候所、塾生五人病臥、急に無人に相成、不任心底候間、此度は得貴顏不申候。御海容可被下候。無程把臂晤言可仕相樂居候。折角御支度被成御發足被成候樣(にと)奉存候。晝錦之御榮耀一段之儀、爲故人雀躍仕候。前日被仰聞候扇面此間中相認置御屆申上候。御落掌可被下候。將又此一品餘り麤末之至に御坐候へ共、今日人差上候印迄致呈上候。御道中御用も被下候はば本懷仕候。荊婦御尋被下、不淺奉謝候。宜御禮申上候樣申出候。匇々布字。八月廿二日。和氣行藏。霞亭先生侍史。」(りう)(さい)(りう)(かう)(かん)(ばう)(あらた)()えたところで、(じゆく)(せい)(にん)()()いで(びやう)(ぐわ)してゐた。()(てい)(もん)(あん)(かうむ)つた(りう)(さい)(つま)(あるひ)(おな)じく()んでゐたのではなからうか。

     その百四十六

 (ぶん)(せい)(しん)()(ぐわつ)二十三(にち)()(てい)は「妻子召致之爲福山に赴くべき旨」を(めい)ぜられ、二十五(にち)()()(はつ)した。(こと)(ぎやう)(じやう)の一(ぽん)()えてゐる。わたくしは(この)(はつ)(てい)(じよ)するに(さきだ)つて()(てい)()(さは)(らん)(けん)との(こと)()つて()きたい。

 (さい)(かん)(だう)()稿(かう)(すゞ)()(せう)(れん)(おも)()西(せい)()(しよ)(さく)との(ちゆう)(かん)に「過蘭軒」の一(ぜつ)()せてゐる。「孤旅天涯誰共親。官居幸是接芳隣。清風一榻聆君話。洗盡兩旬征路塵。」

 (らん)(けん)(のぶ)(さだ)(ちや)(ざん)(きう)(いう)である。(のち)()(てい)(つま)(きやう)(にふ)()する(とき)(ちや)(ざん)(きやう)(らん)(けん)()ること(われ)()るがごとくせよと()つた。(これ)()つて()れば、その()(てい)(らん)(けん)(せう)(かい)したことは(げん)()たない。()(てい)(にふ)()(ちよく)()(らん)(けん)()うたであらう。()(てん)(けつ)(また)これを(しよう)してゐる。(たゞ)(しか)るのみならず、()(てい)(はじめ)()んだ(まる)(やま)()()()(なか)()(しき)宿(しゆく)(しや)()(さは)(いへ)(のき)(なら)べてゐたと()える。「官居幸是接芳隣」の()(かく)(ごと)くに(かい)すべきである。

 ()(てい)()()(はつ)した()は二十五(にち)である。(その)(ぜん)(じつ)二十四(にち)(をか)(もと)(くわ)(てい)(ちや)(ぶん)(しよ)(つく)つて()(てい)(たく)し、これを(びん)()なる(ちや)(ざん)(いた)した。(しよ)(ぼう)()(ざう)する(ところ)で、わたくしは(はま)()(うぢ)()()(しやく)(らん)した。(いま)(しよ)(ちゆう)(すう)()()(せう)する。

 一、(ぜん)(ねん)(ぶん)(せい)(かう)(しん)の三(ぐわつ)(ちや)(ざん)()()(ひと)(よし)(かは)(ぼう)(たく)して、(くわ)(てい)()(てい)()(せい)()(なう)(おく)つた。(くわ)(てい)はこれを(しや)してゐる。

 二、(くわ)(てい)(もん)(でん)(ぼく)(さい)()(さい)(しやう)してゐる。「堯佐君も追々御成立あるべく御たのもしき事、詩もきつといたしたる事よく御出來被成候。」

 三、(かき)(ざき)()(きやう)(ぜん)(ねん)(かう)(しん)(ぐわつ)(にふ)()し、(ざい)()(ちゆう)(はゝ)(まご)(むすめ)とを(うしな)ひ、九(ぐわつ)(まつ)(まへ)(かへ)り、(この)(とし)(しん)()(ぐわつ)(まつ)(まへ)(こう)()(まの)(かみ)(あき)(ひろ))に()(ずゐ)して(にふ)()し、八(ぐわつ)()(そう)(しう)(やな)(がは)()つた。(くわ)(てい)はその九十(ぐわつ)(かう)()()(かへ)るのを()つてゐる。

 四、()()(この)(とし)(しん)()の八(ぐわつ)(さく)より(あめ)(おほ)く、十四(にち)十五(にち)()(げつ)であつた。十六(にち)(いた)つて(はじめ)()れ、十七(にち)(また)(かう)(てん)()であつた。そこで()(うち)(げつ)(だう)(なん)()(はく)(みん)(いざな)つて(ふね)(やと)つた。(くわ)(てい)は二(なん)(とも)和泉(いづみ)(ばし)から(その)(ふね)()()んだ。さて(つき)(すみ)()(がは)(しやう)し、四(にん)は「清風明月」の四()(わか)つて(ゐん)とし、()()した。(くわ)(てい)(この)(とき)(はじめ)(はく)(みん)(さう)(しき)になつた。(この)(いう)(げつ)(だう)()(てい)をも(しやう)じた。しかし(あや)(にく)()(てい)は七の()(ごと)()()()(かみ)()(しき)宿直(とのゐ)する(れい)になつてゐたのでことわつた。

 五、()(せん)(だう)()(きん)は、(りん)(さい)(しゆ)(じゆつ)(さい)(かう))の(しう)(せん)のために、()()(びと)(おう)ずるものが(おほ)い。(また)()(やす)殿(どの)(權中納言從三位齊匡)が(ひとつ)(ばし)(ぼく)(をう)(齊匡生父權大納言從二位治濟入道)に(すゝ)めて(きよ)(しゆつ)せしめたので、(じやう)(りう)(あひだ)にも(おう)ずるものを()る。

 六、(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(つきの)()(かん)(ばい)()(くわん)(だい)()(くわ)(てい)(すで)(だつ)稿(かう)して(おく)つた。(ちや)(ざん)(さだめ)()(だい)することであらう。

 (くわ)(てい)(しよ)(ちゆう)(ぶん)(げい)()(じやう)(さん)(かう)()すべきものは(おほむ)(かく)(ごと)くである。(しよ)(すゑ)には「八月二十四日、岡本忠次郎成。菅太中樣凾丈」と()つてある。(くわ)(てい)(この)(しよ)()(てい)(たく)するに(あた)つて、()(てい)團扇(うちは)()(せん)とを(おく)つた。二つの(しな)には(みな)()()へてあつた。(この)()(せん)(げん)(いし)()(さだ)()(すけ)さんの(ざう)(きよ)(ちゆう)にある。(さだ)()(すけ)(そう)()()右衞()(もん)(みつ)(ひら)(くわん)()(しん)(かう)のあつた河相(かはひ)(しう)()()(かう)()(おとうと)で、(みつ)(ひら)()(ちやう)()(らう)(みつ)(ちか)()(てい)(さう)(しき)であつた。(みつ)(ちか)()()右衞()(もん)(みつ)(たけ)(みつ)(たけ)()(いま)(けん)(ぞん)せる(えい)()(らう)(みつ)(きよ)(あざな)()(せい)(がう)(さん)(をく)で、(さだ)()(すけ)(ちゝ)である。「一、月影箋一卷。重遊賞月豈無期。當月難勝苦別離。收取月明秋滿紙。相思好寫月前詩。一、團扇一把。運拙所爲多後時。贈君秋扇亦堪嗤。江都八月猶炎暑。此去西風客路秋。右上霞亭詞伯莞存。岡本成拜具。」()(てい)のこれに(むく)いた()()稿(かう)()えてゐる。「余將西歸、岡本豐洲君見惠團扇及月影箋、各附以詩、賦此奉謝。兩種惠遺荷愛情。新詩況復與秋清。團々明月蕭々影。先寄愁心送我行。」

 二十五(にち)()(てい)()()(はつ)した。()稿(かう)に「出都」の()がある。「爲取妻兒賜暇行。行兼濟勝足恩榮。西望笑指郷關道。無數青山馬首横。」

     その百四十七

 ()(てい)(さい)()(むか)()らむがために()()より(びん)()(かへ)つた(たび)は、(しん)()(ぐわつ)二十五(にち)(もつ)()()(はつ)した()とし、九(ぐわつ)二十三(にち)(もつ)(ふく)(やま)()いた()とする。(これ)(ぎやう)(じやう)の一(ぽん)()えてゐる。

 (この)(たび)()(じやう)(さく)(みと)むべき()にして()稿(かう)(ちゆう)(そん)するものは、「大磯」「平冢途上」「凾根坂上作」「宿興津」「宇都山中邂逅刈谷棭齋、立交一臂而別」の五(ぜつ)である。()(てい)(ひら)(つか)()ぎて(かん)(なべ)(いへ)(おも)つた。「前日郷書報暫還。候門兒女想欣顏。輿窓忽納天邊翠。總角丱如雙子山。」(おき)()宿(しゆく)したのは(あめ)()であつた。「客枕凄凉今夜雨。淋々猶作驛鈴聲。」(かり)()(ばう)()西(せい)(いう)(こと)は、わたくしは(かつ)()(さは)(らん)(けん)(でん)(ちゆう)(しよ)した。(かり)()()()(ひがし)し、(ほう)(でう)(わう)()西(にし)して、(たま/\)()()(やま)()(かい)(こう)したのである。「宇山秋雨客思迷。邂逅逢君鼯鼠蹊。空有蔦蘿纏別意。相牽恨不與倶西。」

 (この)()(てい)(わう)()には(つき)()(ちよう)()すべき(ぶん)(しよ)()い。その(わづか)にこれあるは九(ぐわつ)()()(てい)()(かは)(あか)(さか)(えき)宿(しゆく)したと()ふ一()()ぎない。(この)()()(てい)(ゆめ)をみて、()()()()(やま)()(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()うてこれを(かた)つた。「霞亭先生曩應福山侯聘在江戸、今秋(辛巳秋)賜暇歸覲、九月七日宿赤坂驛、夜夢見一小廬於野草流水之間、中有老翁、出迎先生、延之坐、贈以倭歌、云、山里盤寸密與加里計里春毎仁梅咲也止泥幾美乎古曾末氐、意葢似欲與先生偕隱者、先生受而讀之、既覺、奇其事、作和文一篇記之、以述其志云、九月(此間闕字)日余與山士亨(山内氏)謁先生于櫻葉館、酒間談及、且見示其文、因賦二絶奉呈。君言赤阪夢中奇。老屋梅花有好詞。任重轉思方外適。不妨冥想訂棲期。又。記得空疑一首吟。致君身己義如金。豈無梅蘂凌寒質。只有葵花向日心。伏乞慈斧。鷹羽應拜草。」(たかの)()(おう)(その)(ひと)(つまびらか)にしない。(おう)(おな)じく(あふ)(こう)()うた(さん)()(かう)()(てい)()(せう)()えてゐる。(かは)(さき)(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)(ちよう)するに(やまの)(うち)(うぢ)である。()(てい)(この)(たび)(つぎ)(まと)()()(せい)(また)(いう)(じん)()()()うた。(こと)(しも)()くべき(しよ)(かん)()えてゐる。

 ()(てい)西(せい)()()(じやう)にある(あひだ)に、(かん)(なべ)(ちや)(ざん)(らい)(しゆん)(ぷう)(そう)(ふう)(しやう)()との(ばう)(もん)()けた。(ちや)(ざん)(しふ)に「頼兄千齡枉過、酒間走賦」「九日風牀上人至、分得村字」の二()がある。(ふう)(しやう)(ぜん)(ねん)(かう)(しん)(この)(とし)(しん)()との(ちよう)(やう)(かん)(なべ)(すご)したのである。(ふう)(しやう)の「重陽(辛巳)同小野泉藏奉訪茶山先生」の七()(しも)()がある。「去歳庚辰重陽節。嘗共泉翁遊備西。備西行程百里強。遙到先生舊隱棲。先生門下多英俊。御領山頭共攀躋。(中略。)今年辛巳重九日。又伴泉翁引杖藜。再到黄葉夕陽村。熟路迢々行不迷。」

 (おな)(ころ)(さん)(やう)(きやう)()にあつて()(てい)(しん)(にん)(こと)(ぶん)()した。(はま)()(うぢ)のわたくしに(しめ)した一(しよ)には「九月十七日、襄拜、茶山老先生帳下」と(しよ)した(すゑ)(しも)(すう)(かう)()()されてゐる。「尚々北條先生何やら昇進とか、江戸詰は逢舊友とて可面白候へども、山野放浪之性、侍講などは大困と奉存候。可憐々々。」(じん)(じやう)()()(てい)せぬ(ところ)(さん)(やう)(めん)(ぼく)()る。

 (また)()(てい)(ふく)(やま)()(ぜん)(じつ)、九(ぐわつ)二十二(にち)(つき)(がた)(せう)(せい)(ちや)(ざん)(あた)へた(しよ)がある。(これ)(はま)()(うぢ)のわたくしに(しめ)したもので、(ちく)(ぜん)にある(せう)(せい)()(てい)(にん)(めい)(ぶん)()して(ちや)(ざん)()せた()(じやう)である。「霞亭君御榮遇、誠以千萬欣慶仕候。併尊老には賢壻御遠離御寂寞奉察候。近頃乍粗惡、博多に而近來製出候墨一笏附貢仕候。御笑留御試被成可被下候。霞亭君にも呈書も不得仕候間、別包一笏奉托候。」

 ()(てい)は九(ぐわつ)二十三(にち)(ふく)(やま)()いて(のち)、二十九(にち)(しよ)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた。(しよ)(ちゆう)(いは)く。「小生無恙本月廿三日到著仕候。乍憚御放意可被下候。先日は多勢御造作に相成申候。何歟と被仰付、此節混雜罷在候。併皆々無事、來月(十月)五日爰元(神邊)發程之積に御坐候。此つもりなれば十一日大坂著、十三日夜舟ふしみ、十七日關泊りに參り可申候。左樣思召可被下候。足下御苦勞御出懸被下候趣、御宅さわりも無之候はば、御出懸可被下候。母樣御越被成候はば、わけて御苦勞千萬奉謝候。道中往來萬事よく/\御心付、少しは御慰にも相成候樣御心得可被成候。十五日山田御泊、十六日雲津か津あたり、十七日關つる屋へ御著のつもりに被成可被下候。駕籠人足はいそべより山田迄、山田にて泊り候節高木氏か山口あたりの出入の人足(原傍註、かへる迄)御相談可被成候。造用ともに賃御きわめ可被成候。その方がめんどうになくてよろしく候。一人五匁か六匁位にて可然や。關より四日市迄御まわりも被遊候はば、往來とも七日かかり可申候。山田社中、山口、高木、佐藤なども事により候はば、御出懸も可被下やにきこえ候。是は何の風情なき事、氣の毒なるものに候。しかし先き樣の厚意なれば如何樣とも、たとへ御越あるとも道すがらははなれて御往來可然候。お互にめんどうになき樣可然候。(中略。)敬助其後如何いたし候哉。隱居の書物だんすに私幼年のせつうつし候公載秘録と申もの五册か可有之候。御越しのせつ御携可被下候以上。」

 (この)(しよ)はわたくしに二三の(いう)(よう)なる()(じつ)(をし)へた。(その)一は()(てい)()()より(ふく)(やま)(いた)()(ちゆう)(かなら)(まと)()()()つたと()(こと)である。「先日は多勢御造作に相成申候」と()ふを(もつ)てこれを()る。(その)二は()(てい)(おとうと)()(しよう)(まと)()(ともな)(かへ)り、(まと)()(とゞ)()いて(ふく)(やま)()つた(こと)である。「敬助其後如何いたし候哉」と()ふを(もつ)てこれを()る。(その)()(おほ)()(じつ)(とう)(かう)(とき)(こと)(くわん)してゐる。(こう)(さい)()(ろく)(こう)(さい)()(ろく)()()であらう。わたくしはまだ(ぐう)(もく)せぬが、(しやう)(とく)より(げん)(ぶん)(いた)(ころ)(ばく)()(こう)(さい)(ぶん)(しよ)(あつ)めた(しよ)だと()ふことである。

     その百四十八

 (ぶん)(せい)(しん)()(ぐわつ)二十三(にち)()(てい)()()より(ふく)(やま)(かへ)()いた。そしてその(さい)()(たづさ)へて(びん)()(はつ)したのは、(ぎやう)(じやう)の一(ぽん)()るに、十(ぐわつ)()である。(しん)()の九(ぐわつ)(だい)なるが(ゆゑ)に、()(てい)は十三(にち)(かん)(びん)()()たのである。(この)(あひだ)(しゆ)(しよ)にして(いま)(そん)してゐるものは、(かみ)()いた九(ぐわつ)二十九(にち)(しよ)のみである。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)(この)(たび)(わう)()()()せて(へん)()()()せない。(また)(えん)(りう)(ちゆう)の一(さく)をだに(とゞ)めてゐない。

 十(ぐわつ)()(はつ)(てい)は、(かみ)()いた(ぜん)(げつ)二十九(にち)(しよ)にも()えた(ごと)く、()(てい)せられてゐたもので、()(てい)(その)()(あやま)らなかつた。しかし(はつ)(てい)(ところ)(ふく)(やま)なるが(ごと)くである(ゆゑ)、その(かん)(なべ)(いへ)()つたのは五()より(はや)かつたかも()れない。

 四()には(やま)(をか)(りよく)()(もく)(せい)(しや)(おい)(せん)(えん)(ひら)かれた。(ふく)()(うぢ)(せう)して(しめ)した(れん)(けん)()(しふ)(しも)の七(ぜつ)がある。「五日(恐應作四日、其證見下)木犀舍席上別霞亭先生。聊開祖席木犀齋。非擧大杯奈別懷。此會他時君記取。菖蒲薫殺杜茅柴。」(おな)()(しふ)(また)()(てい)(おく)る七()がある。「奉送霞亭北條先生携家赴東都邸。(自註、十月五日。)離觴前日(恐是木犀舍祖宴日)悲且喜。一在別離一徴起。千里別離悲難忘。一朝徴起喜無已。況復即今寵命隆。來携妻孥乍復東。重蒙寵命誰不榮。只於道東心有忡。憐他廉塾青衿子。料知與我同憑恃。別恨愈深夜亦深。何堪嘶馬發郷里。」(れん)(けん)(あさ)(かは)(しよう)(しう)()(ほとん)()として()るべからざるが(ごと)くである。()(しふ)(げん)(ぽん)(ちや)(ざん)(この)()(ひやう)して(たゞ)「條理分明」と()つてゐるさうである。しかし()(てい)()(せき)(ちよう)するに()るが(ゆゑ)に、わたくしは(こゝ)(ぜん)(ぺん)(ろく)(しゆつ)した。

 (ふく)(やま)より()()(いた)(へん)()に、()(てい)(きやう)()(しの)(ざき)(せう)(ちく)()うた。()(てい)(また)(あらかじ)(へん)()(まと)()(せい)()(なか)(むら)(うぢ)(および)(おとうと)(へき)(ざん)(せき)宿(じゆく)(くわい)することを(やく)した。(その)()(じつ)は十七(にち)であつた。そして(この)(やく)()(かう)せられたことは(のち)()くべき()(てい)(しよ)(どく)()つて(しよう)せられてゐる。(はゝ)(きやう)(だい)(にん)とは(どう)(かう)して(くは)()(いた)つて(たもと)(わか)つた。()(てい)(はゝ)(おとうと)の十一(ぐわつ)()(まと)()(かへ)るべきを(すゐ)してゐた。二()()(てい)(いま)(ぎれ)(しう)(ちゆう)にある(とき)であつた。

 (はま)(まつ)(いた)つて、()(てい)(ぢよ)(とら)(やまひ)のために一(じつ)(ゆる)うした。

 十一(ぐわつ)十三(にち)(うまの)(こく)()(てい)()()(はん)(てい)(ちやく)した。(この)(にふ)()()(じつ)(ぎやう)(じやう)の一(ぽん)()えてゐて、(しも)(しよ)(どく)(ぶん)(また)これと()する。

 (しよ)(どく)(まと)()(しよ)(どく)の一で、十一(ぐわつ)二十二(にち)(へき)(ざん)(あた)へたものである。「飛脚便一簡呈上仕候。寒冷相増候處、愈御安康可被成御揃、珍重奉存候。桑名別後、遠州濱松にて小兒少々發熱、おそれ候而一日滯留致し候。其後は段々快く、しかし五里、六里、高々八里位の道中故、十三日午時屋敷著仕候。以來(虎は)おちつき候而、追々なじみ、機嫌よく遊び候。乍憚御安意可被下候。先達而は母樣遠方御苦勞恐入候。二日(十一月二日)には御歸家と察し入候。私共今切(濱名湖口)をのり候節大方御歸郷と想像いたし候。」

 (つぎ)()(てい)(にふ)()()(すう)()(はう)じてゐる。「屋敷其外皆々無別條候。當御屋敷寛三郎樣(阿部正寧)と申御二男御嫡子若殿樣と被成候御願、十三日(十一月十三日)公儀より御許容に候而、家中一統總出仕有之候。御前講釋も又々十七日(十一月十七日)より始まり候。短日著後何歟と多事、一向勤仕の外は外出いたし不申候。先は無事著之報申上度、匇々如此御坐候。」

 (ちゆう)(かん)(ちや)(ざん)(いへ)(せう)(そく)(こと)(さしはさ)んである。「備後(菅氏)よりも此間便有之候。皆々無事の由に候。」

 (また)()(たん)(へき)(ざん)(つま)(こと)()つてある。(たう)()()(ぐち)(うぢ)(にん)(しん)してゐた。「令内御近状如何折角御用意祈候。分娩有之候はば早速御しらせ可被下候。」

     その百四十九

 (ぶん)(せい)(しん)()十二(ぐわつ)()()(てい)(ちや)(ざん)()せた(しよ)(ぼう)()(ざう)する(ところ)で、わたくしは(はま)()(うぢ)()つてこれを()むことを()た。()()(てい)()()(こと)()(でう)(せう)する。「お虎隨分まめに遊び申候。菅三(惟繩)も無事、暫法成寺(門田氏)へ參居申候由、大慶仕候。嘸淋敷無聊に思ひ可申と始終噂仕候事に御坐候。お敬並僕一向不案内故、賤事迄も世話やけ、夫にお上の御祝儀(阿部寛三郎立嫡)何かと取紛、一首の詩歌も出不申候。」

 (つぎ)(この)(しよ)()えたる(しよ)()(せう)(そく)(せう)する。一、()(うち)(げつ)(だう)()()(りう)(ざう)。「先日御上屋敷(霞が關)より鐵炮洲白河(松平越中守定永)御屋敷へまわり候。田内(月堂)折節留主に候。柳藏(田井氏)に一晤仕歸申候。」

 二、(かめ)()(ぼう)(さい)。「繍句圖あちこち聞糺し可申、鵬齋へ此間尋遣候。これも急にはしれ不申候。追而相考可申と申越候。」

 三、(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(まご)(ふく)(はう)(もう)。「聯玉(凹巷)より此額字瀟碧閣の三字御揮毫奉希候。外にかの姪孫福内藏何にても一紙頂戴仕度旨、私より願上候樣申來候。」

 四、(かり)()(えき)(さい)(いち)()(めい)(あん)。「津輕屋、市野屋すべて得出會不仕候。無事之由に候。市野は中風のきみの由に候。」

 五、(まき)()()。「さぬき牧唯助此間見え候。」

 六、()(とう)(げん)(あん)。「尾藤學士(二洲)の子息此間被尋候。」わたくしは所謂(いはゆる)()(そく)(ちやう)()(げん)(あん)(せき)(かう)なるべきをおもふ。

 七、(おほ)()(ぜん)(さい)。「太田大夫存候よりは御氣象に候。」()(じやう)は七()(しよ)()えたる(しゆ)なる(じん)(めい)である。

 十二(ぐわつ)十四(にち)()(てい)(しよ)(ちや)(ざん)()せた。(はま)()(うぢ)はわたくしに(ぼう)()(しよ)(ざう)のものを(しめ)した。(なか)(しも)()がある。「十五日(十二月)限學問所は終會になり候。當番はやはり廿七日迄相勤申候。」

 (つぎ)に十五(にち)()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。(しも)(その)(ぜん)(ぶん)(ろく)する。「寒冱之節愈御安祥被遊御揃、珍重之至奉存候。當方無事罷在候。乍憚御放意可被下候。先月飛脚高木氏(呆翁)迄差出し申候。(十一月二十二日便。)相達候哉。諸般相替候儀も無之候。只在番部屋住居に而萬事不自由にこまり候。春に成候はば普請にかかり可申、此節地面拜領願出置候。屏風たしかに相達可申候。御めんどうの儀に候。味噌澤山に被仰付、辱奉存候。此方にてはあのごとき味噌はめづらしく候。少々宛兩三家へすそわけ遣し候。其實は近來物價たかく候而、厨下大にたすかり、妻ども殊之外悦申候。此方より何歟と差上申度候へども、船便はたれと申船へ遣し候てよろしからむや、それも的屋へよらぬ船なれば間違も出來可申故不得其意候。飛脚便は甚賃錢の費有之候、是又無益の事に候。何分御國よりも必々よく/\よき便なれば各別、船へは御出し被下間敷、平安信は一月一度宛飛脚へ御出し可被下候。船にても此間みそ新堀より私方へ持候賃三百文とり候。(原註、これは人やとひ候由也。)持參り候者船賃濟と書付有之候へども、一錢もとらぬなどと恩にきせ候。あらめなど御送はもはや御無用に被成可被下候。唯無事の御便を承り候へば夫が何よりの大悦に候。最早年内無餘日、折角御自愛奉祈候。二尊樣始、敬助(撫松)などへよろしく奉頼候。令内(田口氏)は如何、出産前隨分大切に被成御用心專一に候。とかく多用いづかたへも得出不申候。おとら段々居馴染、よくあそび候。其後不快のきみもなし。全(く)道中あたりとみえ候。此節は鯔魚如何。郷味想像床敷候。何事も期來春候。恐々謹言。極月十五日。北條讓四郎、華押。北條立敬樣。」()(しよう)(くは)()には()かず、()()にも(ずゐ)(かう)しなかつたのである。

 二十九(にち)()(てい)(ちや)(ざん)(あた)へた(しよ)(ぼう)()(しよ)(ざう)で、(はま)()(うぢ)がわたくしに(しめ)した。(なか)(しも)()がある。「十月扶持御國(備後)にてわたり可申候。五兩位も可有之候。本莊屋か幸藏方へなりとも預りくれ候やう被仰可被下候。出立之節おとらへ賜り候三兩、既に幸藏へ預け置候。序も有之候故に候。」

 (さい)(かん)(だう)()稿(かう)の「丸山寓廨雜詠」と(だい)する七(りつ)(しゆ)は、()(てい)(しん)()(いへ)()げて(にふ)()した(のち)(さく)である。(新携妻子仍覊況。又。歌室嬌嬰操土語。又。旁看山妻撿衣料。)しかもその(だつ)稿(かう)は十二(ぐわつ)(すゑ)(おい)てせられたものと()える。(公朝有制近新正。)

 (ぐう)(かい)(ざつ)(えい)には(あさ)(かは)(れん)(けん)(かう)()があるが、(こゝ)(ぜい)せない。(ざつ)(えい)(ちゆう)(せう)()(きう)(いう)(おも)()がある。(二十年前久滯東。又。舊歴里門如夢中。)(しん)()より二十(ねん)(さかのぼ)れば(きやう)()(ぐわん)(ねん)()る。(すなはち)()(てい)(きやう)()より()()(てん)(いう)した(とし)である。

 (この)(くわい)(きう)(じやう)()(てい)をして(ぢよ)()に一(ぜつ)(つく)らしめた。「余昔在都下(江戸)。社友河良佐(敬軒)池隣哉祗役自勢南至。一日快雪。余與二子泛舟墨水遊賞。酒酣。鄰哉出所齎香爇爐。縷烟裊々。如坐畫圖中。實享和癸亥(三年)十二月除日也。比歳二子相繼就木。今玆余仕官再來此。會歳除追憶當時。音容在目。風流不可復得。黄壚之感。殆難作情矣。(以上引。)憶昨買舟楊柳橋。篷窓霽雪把香燒。誰知十九年前客。獨向江頭泣此宵。」(この)(いう)の「幽遠清澹之趣」は(ふか)()(てい)(こゝろ)(めい)してゐたものと()えて、()(てい)(せふ)(ひつ)(また)これを「係雪之事數條」との(もと)(をさ)めてゐる。(しん)()(ぢよ)()(ちや)(ざん)(さく)(しふ)(ちゆう)()えて「蛇(巳)年今夜盡、鶴髮幾齡存」の(れん)がある。

 (この)(とし)()(てい)(とし)四十二であつた。

     その百五十

 (ぶん)(せい)(ねん)()(てい)(ぐわん)(たん)()がない。(ちや)(ざん)(また)(おな)じである。()()(ぐわん)(じつ)(ゆき)、しかも(はつ)(ゆき)であつたと、(しも)()(てい)(しよ)()えてゐる。

 (しやう)(ぐわつ)()()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。()づその()()(こと)()(でう)(せう)する。「此方皆々無事、例よりは暖和なる方に候。昨日(元旦)雪大分ふり申候。これがはじめての雪に候。(中略。)火事も先靜なる方に候。去霜月(辛巳十一月)池の端やけ、其後日本橋北方六萬坪ほどやけ、飛脚京屋、島屋もやけ申候。丸山は火事は先わきからくらぶれば用心よき所なり。屋敷樹林四方をかこひ候故に候。いづれ早春より家作にかゝり可申候。江戸は萬事高價、中々小屋いとなみ候にも田舍三倍も物入有之候。町住居なれば借宅(又は)古屋買得いたし候へばやすくすみ候へども、いたし方無之候。其代りに一度たておけば地代等はくつろぎ可申候。」()(てい)(すで)(まる)(やま)(てい)(しよ)(ぞく)()()て、(まさ)(のち)所謂(いはゆる)(なう)()(いへ)(いとな)まむとしてゐる。(ぜん)(ねん)(しん)()()()(くわ)(さい)()(こう)(ねん)(ぺう)()(さい)()いてゐる。

 (へき)(ざん)(こと)(しよ)(ちゆう)()えたのはかうである。「御詩稿(碧山詩稿)毎首批點いたし候。乍憚大分調ひよくみえ候而大慶仕候。」「令閨(禮以)出産は如何、安産有之候はゞ早速御報じ可被下候。」

 (つぎ)()()(こう)(しん)(しや)(こと)(しよ)(ちゆう)()えてゐる。「恒心社中山口(凹巷)、高木(呆翁)孫福(包蒙)斯波、宇仁館(雨航)文亮(夢亭)佐藤(子文)文明、丹井、右九輩より家のみまひとして菓子椀十人前、朱盆一枚おくり被下候。山田へでも御こしのせつ、出立のせつ憶ひ出し候はゞ御禮被仰可被下候。」(こう)(しん)(しや)(ちゆう)所謂(いはゆる)(はい)にして(おのづか)(あきらか)なるものは(ぶん)(ちゆう)(ちゆう)した。「斯波」は(まご)(ふく)(はう)(もう)の一(せい)()なるが(ごと)くである。(たま)()(うぢ)()ふを()くに、()()(びと)に一(にん)(りやう)(せい)(おほ)きは(やま)()()(ぎやう)(しよ)簿()(さつ)(のぼ)(せい)()と、(じん)(ぐう)簿()(さつ)(のぼ)(せい)()との(あひ)(おな)じからざるに()るさうである。しかし(この)(しよ)()(ところ)()()(うぢ)(はう)(もう)にあらずして(べつ)(じん)なること(あきらか)である。「丹井」は(かは)(さき)(しよう)()(けん)(ぶん)()(ろく)()えてゐるが、その(つまびらか)なるを()ることが()()ない。「文明」は(いま)(かむが)へない。(こう)(しん)(しや)(いう)()(てい)(なう)()(いへ)(いとな)むを()いて(もの)(おく)つたのである。

 (おな)(しよ)()るに、(へき)(ざん)(これ)より(さき)()(てい)鹿角菜(ひじき)()せ、(ぼう)()(ちやう)(ざう)(みや)(しげ)(だい)(こん)(ぼう)()(はん)()()(ぼら)(おく)つた。(また)()(てい)(へき)(ざん)(かみ)(しも)()(おく)らうとしてゐる。「ぼら九頭御惠投被下、遠境別而辱賞味仕候。(森云。鯔非碧山所貽、閏正月書、當參看。)御當地(江戸)は諸事高價、中々肴など澤山たべ候事出來不申候。此頃より(彼鯔を)正月肴にいたし、外へも少々宛すそわけいたし候。ひじきは達し不申候。石原屋敷(本所石原阿部氏下屋敷)より受取候は、ぼら入樽と宮重三本入と太中(茶山)翁よりの箱入もの計に候。長藏へあつく御禮可被下候。宮重、殊に當地にはめづらしく候。種をうゑて作り候へどもあのやうには出來不申候。(中略。)何ぞ相應なる用事、もとめ物等も候はゞ被仰聞可被下候。江戸には何でもあるやうなれど、さて御國などへ獻じ候ものとては何も存付無之こまり候。淺草のりは定而澤山に參り可申候へば上不申候。麻上下足下にても敬助(撫松)にても入用なれば私去(辛巳)夏こしらへ候分進上いたし可申候。御前(阿部正精)より兩度上下賜り候故、私紋付を差出し可申候。御入用なれば必ず遺可申候。閏月(壬午閏正月)にも池上衞守歸國の節言傳可申候。」(この)(ぶん)()れば(いけ)(がみ)(りん)(さい)(すで)()して(いけ)(がみ)()(もり)(なほ)(そん)してゐる。()()(もり)()(しふ)(めい)ならば、(この)(ぶん)()(もり)(りん)(さい)()であらう()。しかし()(てい)(べつ)(しよ)(どく)()(もり)()(はく)だとしてゐるを(おも)へば、わたくしは(ふたゝ)()(せい)()(なう)の「過池鄰哉家、敬軒凹巷希白勇進源一尋至」の()(いん)(おも)(いた)ることを(きん)()ない。頃日(このごろ)(はま)()(うぢ)()(むら)(うぢ)(しよ)(ざう)()()(じん)(ぶつ)()()た。(この)(しよ)(てん)(ぱう)(ねん)(かん)(ぽん)で、(たう)()(げん)(ぞん)(しや)(しふ)(ろく)したものであるに、「池上衞守、菊所、俳、田中中世古町」と()つてある。(また)(おな)()(むら)(うぢ)(ざう)(しや)(ほん)(しん)(きやう)(じん)(ぶつ)()(れう)に「池上菊所、希白又易玄、詩又俳句」と()つてある。(また)(かは)(さき)(しよう)()(しゆ)(ろく)(ちゆう)(どう)一の()を二(しよ)(いだ)して、一は(えき)(げん)(さく)となし、一は(きく)(しよ)(さく)となしてゐる。(これ)()(あは)(かむが)ふるに、(いけ)(がみ)()(はく)(また)(えき)(げん)(がう)(きく)(しよ)(つう)(しよう)()(もり)は、(いけ)(がみ)(りん)(さい)(いみな)(とく)(りん)(べつ)(にん)にして、(りん)(さい)()()(てん)(ぱう)(ねん)(いた)るまでも(せい)(ぞん)してゐたかとおもはれる。(なほ)(かむが)ふべきである。

 (さい)(かん)(だう)()稿(かう)は「雪後憶山陽舊況」の七(ぜつ)(もつ)(しん)()より(じん)()()るものゝ(ごと)くである。(あん)ずるに(せつ)()とは(ぐわん)(じつ)(ゆき)(のち)()つたのであらう。

 (たか)(はし)(せん)(ざう)さんの(もと)(しの)(ざき)(せう)(ちく)()(てい)(あた)へた(しやう)(ぐわつ)()(しよ)がある。その(じん)()(しやう)(ぐわつ)()つたことは(あきらか)である。「新年目出度奉存候。徳門御揃御清勝可被成御超年奉恭祝候。賤族皆無恙加齡仕候。乍憚御放慮可被成下候。誠に舊年(辛巳)は御引越之節御通行御過訪も被下候處、錯迕不御奉歡、暫時御滯留のよし(なるに)、僕被冒風邪、不能叩問、失敬之至り、園部(長之助)に承り候處、此地及道にて令眷(女虎)御不例にて頗御閒關のよし、嘸御困りと存候。乍然此程は追々御棲馴にて大家團欒之樂奉緬想候。爲差儀も無之候得ども、年頭御祝(申上)及舊歳來之御無沙汰を奉謝候。江都雅事奇談等も候はゞ御示可被下候。萬奉期永日候也。正月五日。篠崎長左衞門。北條讓四郎樣侍史。」()稿(かう)に「篠崎小竹示歳除詩、卒爾和答」の七(ぜつ)がある。(せう)(ちく)()(この)(かん)()へられたものであらう。()(てい)(かう)()(いは)く。「移宅不移天性頑。無求隨處足安眠。何憂閏厄逢今歳。薄福如予過去年。(來詩云。榮枯何足煩人意。一任黄楊厄閏年。自註云。僕明年四十二。而正月閏。故云。)」

 (この)()(ちゆう)とに(ちと)(さく)()がある。()(きよ)(ねん)(しん)()(こん)(さい)(じん)()であるに、(ちゆう)(みやう)(ねん)(また)(じん)()である。(あたか)()(いま)()らざるに、(ちゆう)(はや)(しよ)せられた(ごと)(かん)()してゐるのである。(かつ)()(てい)(せい)(ねん)(あん)(えい)(ねん)であつたことは、わたくしの()(ぎやう)(じやう)の二(ほん)(さん)(やう)(せん)()()(めい)(みな)(おな)じきが(ゆゑ)に、(しん)()四十二(さい)(じん)()四十三(さい)でなくてはならない。(なに)(ゆゑ)()(てい)(じゆん)(しやう)(ぐわつ)のある(じん)()を四十二(さい)として(さん)したであらうか。(あやし)むべきである。

     その百五十一

 わたくしは(こゝ)(さい)(かん)(だう)()稿(かう)の一()(さふ)(にふ)したい。その(はや)くして(しん)()(さい)()(おそ)くして(じん)()(しやう)(ぐわつ)()つたことを(おも)ふが(ゆゑ)である。()(だい)して「近有人目余以滿腔子是懶惰、因成詠」と()つてある。「懶性從來吾自知。無端近日被人窺。不除軒裡昔年夢。已兆半聯雲石詩。」(すゑ)()(ちゆう)がある。「十二年前予與看松居士(西村及時)宿藤子文(佐藤昭)不除軒。夢中得頽石懶雲封句。既覺語之。居士戲曰。詩夢固佳。然頽云懶云。君潦倒可知耳。相共一笑。」

 わたくしは(この)()()つた(とき)(ちよう)するに、(まと)()(しよ)(どく)(まじ)つてゐる()(せん)(もつ)てする。箋は「丸山寓廨雜題」の七(りつ)(しゆ)(ちゆう)(だい)(だい)四を(しよ)し、(すゑ)(この)(かい)(てう)()(しよ)したものである。(りつ)(ぜつ)(みな)()(せう)()(どう)がある。(えう)するに(せん)(しよ)した()()(てい)稿(かう)なること(あきらか)である。就中(なかんづく)(ぜつ)()(だい)三の(せき)(ねん)(せん)に「他年」に(つく)つてあるのは()である。

 (たゞ)()(ちゆう)の十二(ねん)(せん)に「十三年」に(つく)つてあるのは(のち)(かう)(しよう)()すべきである。(かい)(てう)()(しん)()(くれ)()つたとすると、十三(ねん)(ぜん)(ぶん)(くわ)()(しん)、十二(ねん)(ぜん)(ぶん)(くわ)()()となる。(じん)()(はじめ)()つたとすると、十三(ねん)(ぜん)()()、十二(ねん)(ぜん)(かう)()となる。()(てい)の「五鈴川頭」(茶山詩自註)の()(ぢよ)(けん)宿(しゆく)した(とき)(これ)()つて(さだ)まるであらう。

 (じん)()(じゆん)(しやう)(ぐわつ)には()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(だん)(ぺん)(しゆ)があつて、(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)してゐる。しかし二()(みな)(ほん)(しよ)でなくて、(その)一は「尚々」を(もつ)(おこ)つてをり、(その)二は(はじめ)に「用事」と(だい)してある。

 わたくしはその「尚々」を(もつ)(おこ)るものに(つい)て、()(さい)(しよ)の一(でう)(せう)する。()(ところ)(へき)(ざん)(しん)(じやう)(くわん)してゐる。(へき)(ざん)(つま)()()(あらた)()()んだのである。「尚々無如在小兒御そだて、萬事よく/\御心付可被成候。お敬もさつそく文にて御祝詞申上候筈に候へども、先月より蛔蟲のきみにや熱往來いたしはか/″\敷無之、專ら醫藥いたし罷在候故、此度は書状差上不申候。産衣可成は一重ねにいたし進じ度、妻共も呉々申候へども、新居もち一切の物諸道具等だん/″\かひたて、物入つよく、夫に家居もいまだ定まり不申、何歟と不自由心にまかせ不申候ゆゑ、よろしく御斷申上候。(原註。お敬持病なればさし而氣遣候事にはなく候。先々段々快方に候)」(へき)(ざん)()(ちやう)(なん)(しん)()(らう)(げん)であらうか、(いま)(つまびらか)(かんが)へない。

 (つぎ)()(てい)(ざう)(えい)(こと)()つてゐる。「居宅普請も御地面(丸山邸地面)拜領願出候處、丸山屋敷に上屋敷(霞ケ關)へ引越候人有之、どうかそれを買とり住し候へば世話も少なく、新にたて上候よりは物入もすくなからむと見合居申候。これもまだとくときまり不申候へども大方不遠は分り可申、何卒三月節句前二月中に引越しいたし安堵いたしたく、これ迄田舍に住候格とは大ちがひ、そ(此字不明)の上やせ身體、何もかも高直なるにはこまり候。家もち候はゞ下男下女なども入可申こまりものに候。併書籍類は追々當用のものもとめ候。右申候古家には土藏も有之候。火用(心)のためには土藏も序にもとめ置たく存心に候。いづれ近日きまり候はゞ又々可申上候。」()(てい)(うつ)()むべき()(をく)(その)()(しよ)(なほ)()(てい)であつたのである。()(じやう)の一()には「閏正月廿七日」の()(づけ)がある。

 (だい)()(はじめ)に「用事」と(だい)してある。一、「此方(江戸)より當年書状正月に河崎杢へ托し、其後閏月書状鷹羽平藏へ托し申候。」(かは)(さき)(もく)(せい)()である。(こん)(ない)()(まつ)()(じよう)(げん)(ぷく)して()()(しよう)し、()の「陟彼景山、松柏丸々」に()つて、(あざな)(けい)(ざん)(めい)じたと()つてある。(しか)らば(かは)(さき)(しよう)(あざな)(けい)(ざん)(がう)(せい)()(せう)()(まつ)()(じよう)(のち)()()(しよう)したのである。(たかの)()(へい)(ざう)()(おう)(あざな)(せい)()なるが(ごと)くである。しかし(これ)(いま)(かく)(しよう)()ない。(せい)()(もたら)(かへ)つた()(てい)(しよ)(かみ)(しやう)(ぐわつ)()(しよ)なるべきこと(ほとん)(うたがひ)()れない。(へい)(ざう)()(かへ)つた(しよ)(かみ)(じゆん)(しやう)(ぐわつ)二十七(にち)(しよ)(べつ)なることが(しも)(しよう)せられてゐる。

 二、「良助、敬助へ年始状被遣候(禮)宜敷御傳へ可被下候。」(たに)(をか)(うぢ)(おか)した(りやう)(すけ)()(しよう)()(ねい)の二(てい)()(せい)(しや)(つた)へむとしてゐるのである。

 三、「ひじきは如何いたし候哉とゞき不申候。ぼらはとゞき候。今に用ひ申候。とかく鹽からく候而込(困)り候。半兵衞より被下候由、よろしく御禮(御申)可被下候。先は(如此物は)御宅にて御遣ひ可被下候。あの類よりは何ぞひもの類御序も候はゞ御惠可被下候。しかし(干魚も)わざと御遣被下候には及不申候。何ぞよき船便のついでの節にてよろしく候。ひじきわかめも同樣、(但)わかめもはやおそく候。是もよきのには及不申候。隨分雜物がよく候。家内の食用にいたし候。」(さき)(へき)(ざん)(ぼら)鹿角菜(ひじき)とを()(てい)(おく)つた。(しか)るに(ぼら)(いた)つて鹿角菜(ひじき)(いた)らなかつた。(ぼら)(ぼう)()(はん)()()(まと)()(ほう)(でう)(うぢ)(おく)つたもので、(へき)(ざん)(その)(ひと)(たる)()()(そう)()した。()(てい)はその(かん)()ぐるを(きら)つて、(ふたゝ)(おく)らざらしめむと(ほつ)してゐる。

 四、「いつぞや備後へ御宅より被下候ふとりつむぎ一反につき、いか程位いたし候哉。御地邊にてかひ取候直段御しらせ可被下候。ふとりと申ても、いつぞやのはほそく候而、大方本つむぎとみえ候位に候。今に着用いたし候。つよみはいかゞ候哉。」()()(ふとおり)(つむぎ)(あたひ)()ふのである。

 五、「總じてかさ高なるものは格別、平安信は是非飛脚へ御出し可被下候。船便は遲速不可定候。」(きやう)(しん)()(あや)まらずして(いた)らむことを(ほつ)するのである。

 六、「御宅に壒嚢抄と申かたかな書にいたし候もの十四五卷有之候と覺え候。少々入用有之(候に)さしあたり燒板とみえ本無之候。御かし可被下候。外に半紙本かたかなにて俗諺故事とか申(原註、題名とくと不覺候)一册もの、ふる本有之候。是又御一處に御かし可被下候。右は船手便に御差出し可被下候。」(そう)(ぎやう)()(あい)(なう)(せう)(ほう)(でう)(いへ)(ざう)せられてゐた。(ぞく)(げん)()()(いま)(かんが)へない。

 (よう)()(だい)した(しよ)()(ところ)(ほゞ)(かく)(ごと)くで、(すゑ)に「閏月」と(しよ)してある。その(じん)()(じゆん)(しやう)(ぐわつ)なることは(うたがひ)()れない。

     その百五十二

 (じん)()(じゆん)(しやう)(ぐわつ)二十五(にち)(へき)(ざん)(しよ)(あに)()(てい)()せて、(おとうと)()(しよう)(まさ)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(ぢよ)(せい)たらむとする(こと)(はう)じた。二(ぐわつ)()()(てい)はこれに(こた)へた。「閏正月廿五日御書状(碧山の書)今夕(二月七日夕)相達致披見候。春暖相催候處尊兩親樣始、皆々御無事御消光、無此上奉賀候。此方無事罷在候。乍憚御放意可被下候。先廿七日(閏正月二十七日)山田代官山口權左衞門に書状、産衣一托し申候。其内相達可申候。(上に引く所の書。)扨此度敬助入壻之儀被仰渡委細承知仕候。兼々熟友へも私はなし置候事故右之段に及候と被存候。山口氏は格別の懇意に候。凹巷の娘に配偶いたし候儀故、於小生わけて滿足いたし候。それとも縁不縁の儀も可有之候へども、凹巷よりも高木(呆翁)宇仁館(雨航)よりも縷々書面(有之)、皆々兄弟親類同然の儀故、何歟と申子細も無之候。本人も承知、二尊も御許容被遊候はゞ、隨分御相談可被成候。乍去人の家を嗣候は我家よりも大切なるもの、これ義の第一なる事なるべし。敬助儀世間なれぬ人物故、とくと御垂示可被成候。外にあしき事無之候。只人は實義實誠、親兄弟は勿論一切の眞實に心をもち候へば、少々鈍くても自ら人服し候ものに候。御書面に四季相應の物などこしらへたく被思召候由、いづれ少々は御用意可然候。それも各別つくろひ候には及申間敷候。ざつといたし候がよろしく候。さしあたり著がへ三四つに上下小袖もん付など有之候はば相濟可申候。御宅の御物入も不大方被存候。なりたけ質素なる方よろしく候。凹巷など萬事よくのみこみ候人故、つくろひて立派だてするはよろしからず候。從來貧素の事は人もよくしり候事也。少しも恥べき事には無之候。併し右等用意の入用御助も仕度候へども、私手元新世帶萬事費用夥敷不得其意候。彼兩家へ預け有之候金九兩の内五兩程も御用ひ可被成候。是は其譯とくと被仰含、又は私方に急に入用とか申ても(入用と申してなりとも)御取立御用ひ可被成候。餘金は御序に御下し可被下候。夫とも無據當分御差支も候はば、御用ひ被成候而もよろしく候。私方差くり不自由はこらへ可申候。高、宇二の書状も懸御目候。其内凹巷書状は高、字三君媒の事故、私より書通の儀は内證にいたし候樣被申越候間、其御心得可被下候。此書状六日切なれど大方十四五日頃ならでは屆申間敷、餘り急なれば、三月いみ候事ならば、四月にても可然歟、そこはいづれ共可然候。」()(せの)(くに)(やま)()(だい)(くわん)(やま)(ぐち)(ごん)()()(もん)(じん)()()(かん)()えない。

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)には(なほ)(この)(しよ)()せられたかとおもはれる一()(へん)がある。「別啓。これは足下(碧山)へ内々申候。たとひ縁談相調候とも、とかく御郷里の親族知友など名乘り候而、各別は手(に)いたし候は不宜候。俗流と違ひ、凹巷高韻の人なれば、誰にも覺え有之、うるさく可厭ものに候。その處御心得可被成候。何歟なしに吉大夫(佐藤子文)呆翁(高木)雨航(宇仁館)へ諸事御まかせ、可然御願申上候と申がよろしく候。なま中義理だてを多くするはよくなきものに候。これは私が偏介の流義故か、人も大方そふ可有と被存候。萬事足下御見計可被成候。二尊へも右等御はなし可被申上候。家筋の義さし而申分も無之候樣に被存候。何分にも此後いかがと思ふ事、小事大事一應私へ御きかせ可被下候。ちとは益にも相成可申候。遠方間に合兼可申候へども、膝とも談合也。」

 ()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(こた)ふると(どう)()に、(しよ)(たか)()(ばい)(をう)()()(だち)()(かう)とに()せた。これも(また)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。「御手教拜見仕候。春妍相催候處、愈佳祥被成御揃、欣抃之至奉存候。小生無事罷在候。乍憚御放慮可被下候。然者敬助(撫松)儀山口氏へ入贅の儀御周旋被下、件々(此二字不明)御厚意、千萬辱奉存候。御見受も御坐候通、柔弱性質、とても間に合兼可申候。乍去不外家の儀、相調候はば於私大慶無此上奉存候。何分相應いたし候儀に候はば、兩兄賢慮に可任候。可然御垂教可被下、偏奉煩候。急卒御報申上候。餘期再信之時候。恐惶謹言。二月七日。北條讓四郎華押。高木勘助樣。字仁館太郎大夫樣侍史下。勘助樣へ御願申上候。毎々乍御煩勞此書状郷里へ任便御送被仰付度候。鵬齋へ頼候書、去(辛巳)冬遣し置候處、(壬午)早春より勝れ不申、延引仕候。然處竹の詩間違、をかしなる詩認られ候。これ(鵬齋)も此節餘程すぐれ不申候。私一昨日(二月五日)當春初而相尋候處、殊之外病惱、もはや死期をまつなどと申候。其故又々と申にくく候。いづれ本復次第相頼可申候。岡本(花亭)へも昨日(二月六日)尋候。これも多用と病人とに取紛れ未だ出來不申候由。雄二郎(館柳灣)へは近日參り頼可申候。宇仁館樣へ申上候。昨(辛巳)冬は浪華に而段々御世話に預り、今に時々妻どもなどと申出候而難有がり申候。其後御無沙汰計仕候。御免可被下候。御托しの品、茶山へは申遣置候。鵬老へは一寸咄のみ出し候。病人故遠慮いたし罷在候。扨私も到着後一向なにも片付不申、妻ども今に得と無之、萬事拮据、それにあれこれと多用、大方月半過は他出勤め有之、なにも手を付不申候。住宅もいまだ定り不申候。わけなく送日申候。御憐察可被下候。宇公に又々申上候。浪華百絶は何分篠崎長左衞門(小竹)へ一言を御乞可被成候。浪華人なれば、わけてよろしく候。私も申候と被仰、御頼可被成候。」()(かう)(なに)()(えい)(はた)して()(かう)せられたであらうか。(また)()(かう)せられたなら、(その)(ほん)(せう)(ちく)(じよ)()せられたであらうか。

     その百五十三

 (じん)()(しやう)(ぐわつ)(ぐわつ)(かう)()(てい)(せう)(がく)(こく)することに(ちやく)(しゆ)した。(さん)(やう)()(けつ)(めい)に「患東邸士習駁雜、授小學書、欲徐導之」と()ふもの(すなはち)(これ)である。()(てい)()()(りう)(さい)(かう)(ほん)()()して、()(けつ)()(せう)(かい)せむことを()うた。(りう)(さい)のこれに(こた)へた二(ぐわつ)()(しよ)がある。わたくしは(はま)()(うぢ)()りてこれを()ることを()た。「日日鬱陶敷天氣御坐候處、益御安泰被爲在奉欣服候。令閨君如何被爲在候哉。扨前日留守へ御越被下(致失禮)候。小學之儀、兼而御咄申上候板木屋總左(に)申遣候所、過日參候に付、即掛合申候處、何れ拜顏窺度旨申聞候間、明日(二月四日)貴宅へ上り候樣相約候間、御對談可被下候。前日之小學一本即總左より趙璧仕候。御落掌可被下候。此節普請に取掛、俗事紛々、匇々布字。二月三日。」()()めた(うら)に「北條讓四郎樣、和氣行藏」と(しよ)して、(ひだり)(わき)に「小學返上」と(さい)(ちゆう)してある。(りう)(さい)(この)(しよ)はわたくしに(たう)()()(てい)(つま)(きやう)(やまひ)()してゐたことを(をし)へ、(また)(りう)(さい)(をく)(いとな)んでゐたことを(をし)へる。(てう)(こう)(そう)()(かなら)ずや四()()(てい)()て、(せう)(がく)(こく)することを(だく)したことであらう。

 十四(にち)()(てい)使(つかひ)(かめ)()(ぼう)(さい)(もと)()つて(やまひ)()ひ、(ぢゆう)(づめ)(れう)()(しほ)とを(おく)つた。(ぼう)(さい)(あか)()(じほ)(たし)んだことは(ひと)(あまね)()(ところ)である。(ぼう)(さい)のこれに(むく)いた(しよ)(たか)(はし)(うぢ)(しよ)(ざう)である。わたくしはその(えい)(しや)()ることを()たが、二三の()(がた)(ところ)があつた。(いま)()(もつ)()(そく)すること(しも)(ごと)くである。「御尋被下、辱感謝候。私病氣も同樣に而堅(此字不明)臥罷在候。細君(敬)御病氣、今以御同樣之由、御節(不明)愛可被成候。爲御見舞、赤穗鹽一筺並御重之物被下置、(不明)御厚情奉謝候。何事も拜顏之節(不明)御禮可申陳(不明)候也。打臥罷在、亂筆を以申述候。匇々頓首。二月十四日。龜田鵬齋。霞亭樣。」()(てい)(つま)(やまひ)(こと)(ふたゝ)(こゝ)()えてゐる。

 十五(にち)()()(てん)(りう)()(そう)(げつ)(こう)()(てい)()する(かん)(つく)つた。「因幸便一簡呈上仕候。時下逐日春和相催申候處、愈御清健被成御凌、恭喜之至奉存候。去年(辛巳)來兩囘御投書被下、無浮沈相達申候。先達而備後へ御下り之御樣子承知仕、其後如何哉と懸念罷在候處、愈御内室(敬)等被召連御歸府御座候事と察上候。扨兩囘御返書如例懶惰、追々老境に相赴、執筆迷惑申譯無之、失敬御海容可被下候。心底に少しも相替儀無之、只々右之次第に而御不音、何事も御免可被下候。貴境御多忙、鵬齋先生にも中風之由、此節如何候哉。御風流之儀も絶而無御坐候由、當境に而も同樣、衲近來少々相惱、寺務多般、佳友無之、對山水殺風景之事共に而消日罷在候。嵐山花候上巳比に而有之、貴境上野も其比に而可有之相察申候。舊冬來當地格別之寒氣も無之、先者緩やかにて凌能御座候。此間二兩日(本のまゝ)少々餘寒、乍去梅花滿開、追々暖和に可相成候。天我(二字不明)天隱一昨年來病氣、うご/\と致罷在候。芸也儀も只今に而は、字は惟芳と相稱申候。毎度御噂申出し、御床敷(由)申居候。古海、文明いづれも無恙罷在候。毎度御傳聲被下、毎輒相達申候。及時居士隨分無事之樣子に候得共、音信者絶而無之候。是も只今に而は畜髮之由に承申候。此度當地出入之もの出府仕、今日京迄出候由、急に一書相認、前後不文御推覽可被下候。先者御返事之御斷、時候御見廻申上度如此御坐候。恐々頓首。二月十五日。月江。北條讓四郎樣書案下。尚々御内室へ宜敷御傳可被下候。此書状相托し候もの、門前立石町と申に居候こんにやく屋に御坐候。次郎右衞門と申候而、定而御覺えも可有御坐哉。二白。惟芳其外院内之銘々、何れも宜敷申上候樣申居候。嵐山櫻木盃一つ呈上仕候。侑函之印迄に御座候。」(てん)()(てん)(いん)(かみ)の二()(さう)(たい)()(めい)である。(すゐ)するに一(そう)()であらう。(うん)()(あざな)()(はう)(げつ)(こう)()(そう)(しよう)(うん)(どう)(にん)ではなからうか。()(かい)(ぶん)(めい)とは、「いづれも」と()ふより()すに、二(にん)()であらう。西(にし)(むら)(きふ)()(はや)(てい)(はつ)してゐて、(こゝ)(いた)つて(また)(はつ)(たくは)へたことは、(この)(しよ)()つて()られる。()(てい)(まん)(ぴつ)に「外愛佛乘、禪坐習靜」とは()つてあるが、その(てい)(はつ)したことは(いま)(しよう)せられてゐなかつたのである。(らん)(ざん)(はい)()(てい)(はや)く一()(ざう)してゐた。(これ)(ぶん)(くわ)(ねん)(ぐわつ)()()より()()(うつ)つた(とき)(いう)(じん)(おく)つたものである。(らん)(ざん)(はいの)()に「辛未之春、予移居洛西、河氏之子以此杯爲餞、盃面描落花流水浮槎圖、蓋摸堰川之景也」と()ふもの(すなはち)(これ)である。「河氏之子」とは(おそら)くは(かは)(さき)(しよう)()であらう。(つい)(おな)(とし)の四(ぐわつ)()(てい)(べつ)(らん)(ざん)(はい)()(つく)つて(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(おく)つた。(あふ)(こう)(らん)(ざん)(はいの)()(じよ)に、「今又新製一小杯贈予、杯面描飛螢流水、題背曰、辛未四月、石山水樓酌別凹巷韓君」と()ふもの(すなはち)(これ)である。(そう)(げつ)(こう)は十一(ねん)(のち)(さら)()(てい)(おく)るに一(らん)(ざん)(はい)(もつ)てした。()(てい)(でん)(ちゆう)(らん)(ざん)(はい)()()ること(ぜん)()(おほよそ)三たびである。

     その百五十四

 (ぶん)(せい)(じん)()(ぐわつ)()()(てい)(ぜん)(ねん)(辛巳)(まと)()にゐたことを(おも)()して()(つく)つた。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)の「上巳憶諸弟」の七(ぜつ)(これ)である。(つい)で四()(もし)くは六()()()(だい)()(ごん)(すけ)(なる)(えつ)した。(すけ)(なる)(ちよく)使()として()()(くだ)つたので、(その)(ずゐ)(ゐん)(なか)には()(てい)(さう)(しき)(きた)(こう)()(ばい)(さう)もゐた。

 (はま)()(うぢ)のわたくしに(しめ)した(しよ)(どく)(ちゆう)(ばい)(さう)(しよ)(つう)があつて、(みな)(この)(えつ)(けん)(こと)()つてゐる。()(その)一を(こゝ)(ろく)する。「一筆致啓上候。春氣和煦相成候處、愈御清勝被成御勤奉恭祝候。愚夫依舊無異罷在候。然者此般(擡頭)日野大納言殿御當地御參向被遊候に付、御供被仰付、我等も一昨日(二月二十八日)無事到著仕候。然る所貴兄盛名(闕字)大納言殿兼々御聞及御座候に付、御面會も相成度御含に御座候。御勤向御差支も無御座候筋に御座候はば、何卒龍の口傳(闕字)奏御屋敷へ向御入來被下間敷哉、以内意御尋申候樣被申付候。御承諾も被下候はば、御入來御日限一寸と被仰聞被下度候。此段御承引被下候へば、於愚夫も忝可奉存候。右御尋申上度如此御座候。館中取込、草々、恐惶謹言。二月卅日。北小路大學助。北條讓四郎樣。二白。昨年來御加増御進格當地御常居被成候旨、御岳丈(茶山)より承及、重疊目出度奉存候。此度御尋も申上度存候事に御座候へ共、御入來も可被下候へばと、見合罷在候。以上。」

 (ばい)(さう)(だい)二の(しよ)()(てい)(かみ)(だい)一の(しよ)(こた)へた(のち)(つく)られたものであらう。(しか)るに()(づけ)(てん)(だう)して「二月廿九日」となつてゐる。所謂(いはゆる)「館中取込」の(さい)(この)(さく)()をなしたものではなからうか。「朶雲忝致拜誦候。御紙面之趣申上候處、來(三月)四日夜と六日晝後計御閑日にて、其他は御暇も不被爲有候。何卒右兩日之中御繰合御入來被進被下候はば於(擡頭)相公御滿悦可被成候。若右日取御勝手不宜候はば、又々後年御下向之節御出被進候樣との御事に御座候。若御入來無御座候はば、御近作一二首御認御差上被下候樣申請候樣被申付候。乍御不肖右兩日中御入來偏所奉祈候。尚拜面萬々可申上候。頓首拜復。二月廿九日。北小路大學助。北條讓四郎樣。」

 ()(てい)(すけ)(なる)(まみ)えたことは、()稿(かう)()(ちよう)して()るべきであるが、(その)()が四()(ゆふべ)であつたか、六()()()であつたか()(めい)である。()は「奉謁日野相公恭賦」の五(りつ)である。「東下皇華使。文星一位明。絲綸清要職。忠孝古家名。雖在衣冠會。不忘丘壑情。春臺延野父。賜坐聽流鶯。」(この)(とき)(すけ)(なる)(じやう)()(だい)()(ごん)で、(とし)四十三であつた。(すけ)(なる)()(てい)(たま/\)(どう)(かう)(ひと)であつた。

 十五(にち)()(うち)(げつ)(だう)(しよ)()(てい)(あた)へた。(これ)()つて、わたくしは(しゆん)(しよ)()(てい)(をか)(もと)(くわ)(てい)()うて、(せき)(じやう)(げつ)(だう)(かい)(こう)したこと、()(てい)(これ)より(さき)()稿(かう)(げつ)(だう)(しめ)したこと、(また)(げつ)(だう)(かい)して(らく)(をう)(こう)(しよ)()うたことを()つた。(その)()(この)(しよ)には(たち)(はら)(すゐ)(けん)()()(ならび)(なん)()(はく)(みん)()()えてゐる。(しよ)(はま)()(うぢ)()りて()ることを()た。「花亭にて早春一謁後更に契絶(此一字不明)花鳥之折一入想慕仕候へども、紛劇一向不得寸暇空しく打過、遺憾之至、過日は御投書被成下、御舊詠一册拜誦ゆるされ、偸閒燈下に朗吟相樂しみ候。例之不遜なる愚評等可申上と存じつつ、つゐ今以机上にさし置、花亭主人へも轉不申、等閒恐入候。不日に花亭に可達候。歳寒書屋之額字、老寡君(松平定信)に御需被遣、委細敬承仕候。しかるに額字は社寺之外は一向相認不申候。歳寒の二文字にてよろしく候はば横に一揮可被致候。切角被仰下候へども無據御斷申上候。其他揮毫何にても御もとめに可應候。無御隔意可被仰下候。四書附考三册茶山先生より被仰越、舊冬さし上候。右之代銀七匁貳分に御座候。仍而三分呈上仕候間、南一被投可被下候。乍御煩勞御次手に相願申候。水府藩邸立原翠軒、この老人ことし七十九になられ候。茶翁年來之友人にて候。然るに去年(辛巳)より眼病にて蓐臥、近來快方に候へども、いまだ全愈に及びがたく、甚濛鬱之樣子に御坐候。過日參り候所、先生御噂に及申候。御近所の事故、何卒御閒隙之時御枉駕被遣可被下候。さぞ/\歡候と被存候。今退隱して當職は甚太郎と申、是も博識かつ書畫癖にて候。くれ/″\不日に御訪可被下候。草々拜具頓首。暮春既望。先比中より參堂と心組候へども、繁務之上に懶病も加り、無申譯御無音打過不堪恐怖候。此磁器御勝手向之御入用にもと、とくよりもとめ置候處、今日々々と遲引、はや四箇月を經申候。麤物ながら呈上、御笑納可被下候。さてこの蕨めづらしからず候へども、近所(原註、上總)領分より産候ゆゑ呈上、是又麤薄之至、このわらび音信山のつとなればおとづれ絶し人にみせばや。御一粲々々々。この名(音信山)上總之山中に有之候。萬々不日に參上(可申上候)草々再拜。又々言上仕候。嵯峨之御百首誠に刮目感吟、老人(月堂父)も再三朗吟いたされ候。その内赤壁之長篇並短篇二首御抄寫可被下候。百拜(此二字不明)奉希候。(此間二字不可讀)紙呈上、横に御一揮可被下候。伯民一昨日(三月十三日)出府、うれしく奉存候。わが父胸痛之時に而一入歡申候。僑居、柴井町會津侯御中屋敷の向ふがは。悴を携來り候間、此度(は)暫く足をとめ申候つもり。親輔拜啓。霞亭先生左右。」

 (ぶん)(ちゆう)に「老寡君」と(しよう)してある(まつ)(だひら)(さだ)(のぶ)(ぶん)(くわ)(ねん)(らく)(をう)(がう)して(のち)(だい)(ねん)である。(しん)()六十九(さい)である。(しや)()(あら)ざる(かぎり)、匾(へん)(がく)(しよ)せなかつた。

 (たち)(はら)(すゐ)(けん)(しん)()七十九(さい)(その)()(きやう)(しよ)は三十八(さい)である。(ぶん)(ちゆう)(きやう)(しよ)(つう)(しよう)「甚太郎」が(もち)ゐてある。(きやう)(しよ)()()()(そば)()(しやう)()()(づめ)となつた(ぶん)(くわ)(ねん)より(さん)すれば、(これ)(また)(だい)(ねん)になつてゐる。(すゐ)(けん)退(たい)(いん)して()(もと)()んでゐた。わたくしは(この)(しよ)()つて(すゐ)(けん)()()んだことを()つた。(すゐ)するに(すゐ)(けん)()()()(てい)との(まじはり)(こゝ)(てい)せられたことであらう。(すゐ)(けん)(よく)(ねん)(ぐわつ)十四(にち)に八十(さい)歿(ぼつ)したのである。

 (なん)()(はく)(みん)(ぜん)(ねん)(しん)()(あき)()()にゐて、(くわ)(てい)(げつ)(だう)(つき)(すみ)()(がは)()たことが(かみ)()えてゐる。(じん)()(ぐわつ)十三(にち)には、一(たん)(かへ)つた(きやう)()より(また)(にふ)()したのである。(はく)(みん)(むすこ)()()た。(げつ)(だう)(ちゝ)(きやう)(つう)(れう)せしめようとおもふので、(つね)(ばい)して(くわん)(げい)した。(はく)(みん)()()であることは、(はま)()(うぢ)のわたくしに(しめ)した(しよ)(どく)()つて()られる。(その)(きやう)(こく)は、()(てい)()()「扇頭題寄清新句、揮起周洋萬里風」に(ちよう)するに、()(はう)であらう。()()()ける(じん)()(けい)(きよ)「柴井町」は(しば)(しば)()(ちやう)である。(あひ)()(こう)(まつ)(だひら)()(ごの)(かみ)(かた)(ひろ)(てい)()(かん)()るに、「上、和田倉御門内、中、源助町海手、下、三田綱坂、下、深川高橋通」であつた。(げん)(すけ)(ちやう)(しば)()(ちやう)とは(あひ)(せつ)してゐる。

 (ちや)(ざん)(ぜん)(ねん)(しん)()(ふゆ)(げつ)(だう)(たく)して(ろん)()()(かう)()つた。(その)(あたひ)(こと)(ぶん)(ちゆう)()えてゐる。

 ()(てい)(げつ)(だう)(しめ)した()()(しゆ)()()(せう)()であらう。

     その百五十五

 (じん)()(ぐわつ)(すゑ)であらう、(もみぢ)()(すで)(いん)()し、(さくら)(はな)(わづか)(そん)してゐた(ころ)()(てい)(つま)(きやう)(むすめ)(とら)とを()て、()()(ほく)(かう)(あそ)んだ。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)に「晩春携妻兒遊郭北」の七(ぜつ)がある。「路逢佳寺敲門入、催喚妻兒看晩櫻」は(その)(てん)(けつ)である。

 ()()(こう)(やう)()()(くわん)(ざぶ)(らう)()(けん)()(つく)つて、()(てい)をして()(ゐん)せしめたのも、(また)(ぜん)(いう)より(おく)るること(とほ)からぬ(ほど)(こと)であらう。わたくしはその三四(ぐわつ)(かう)なるべきを(すゐ)する。()稿(かう)の「應儲君令、詠杜鵑、奉和其瑤韻」の七(ぜつ)(しゆ)は、(ぜん)(しゆ)に「花白窓紗殘月低」の()があり、(こう)(しゆ)に「春暮城頭杜宇啼」の()がある(ゆゑ)()ふのである。

 四(ぐわつ)()()(てい)(しよ)(をか)(もと)(くわ)(てい)(あた)へ、(くわ)(てい)はこれに(こた)へた。(この)(へん)(しん)(はま)()(うぢ)(しめ)(ところ)である。「欣誦、如諭新霽清和、愈益御勝適奉賀候。うち絶御遠々敷大に御無音申候。備後(茶山)より御便有之、不相變御健寧のよし、慰抃仕候。無申譯御無さた、御序に宜奉憑候。私も久々眼疾、やゝ快方故、やう/\執筆、兼而被遣候題贊類出來いたし候。去年(辛巳)十月後筆硯廢絶、別而不出來、詩も題後噛臍候事不少、汗愧仕候。則御使に付候。拗巷(山口玨)へも乍御世話幸便に御とどけ被下候やう仕たく候。舊冬の來書今に返書不指送、是も心外無音いたし候。不遠書状は別にさし立可申候へども御序に猶御傳言厚奉憑候。茶山先生御別紙御示被仰下候趣承悉、則血怔(未考)に海葠用方、別に録呈いたし候。至而しるしある事如神に御坐候。早々被仰遣可然候。あまり御遠々敷、ちと御出被下候やう奉待候。草々頓首。四月九日。忠次郎。讓四郎樣。」(しよ)(ちゆう)(ちや)(ざん)(あふ)(こう)()()えてゐる。(ちや)(ざん)(こた)ふる()(やく)(こと)は、(ひと)(びやう)(めい)(もん)()()(めい)なるのみならず、(いま)(かむが)ふるに(およ)ばない。(くわ)(てい)(すゐ)(けん)(おな)じく()(うれ)へたことを(おも)へば、(たう)()(がん)(しつ)(りう)(かう)したのではなからうか。

 五(ぐわつ)(さく)(ちや)(ざん)(しよ)()(てい)()せた。(この)(しよ)(かつ)(はま)()(うぢ)()りて、(ぶん)(ちゆう)(さん)(けん)してゐた(じん)(めい)(せう)して()いた。(みな)()らぬ()のみではあるが、(あるひ)()(じつ)(おも)(あた)ることもあらうかとおもふので、(こゝ)(ろく)して()く。一、(ふぢ)()(たみ)(ざう)(なが)()(ひと)である。(ちや)(ざん)はその(にふ)()する(とき)、これを()(てい)(せう)(かい)した。しかし(ちと)(けい)(かい)()()()へた。それは「議論合はざるときは脇差を拔く人ゆゑ用心せられたし」と()ふのであつた。(おも)ふに()はるるままに(せう)(かい)はしたが、(くわい)(あん)んぜざるものがあつたのであらう。二、()()(ちやう)(へい)(これ)は「昨夜(壬午四月二十九日夜)癆症にて死去」と()つてある。(おそ)らくは(かん)(なべ)(ひと)であらう。三、(ぼう)()(ゆう)()(これ)(ちや)(ざん)()(てい)(もと)()つたのに、()(てい)()はずに(すぐ)(せい)(だう)()つたと()つてある。(おも)ふに(びん)()()でて()()(いう)(がく)した一(しよ)(せい)であらう。(この)(しよ)には()(じやう)の三(にん)(こと)(のぞ)(ほか)(とく)(せう)すべきものが()かつた。

 五()(きよう)()()ふものが()(てい)()うて、(とも)(さけ)()()()した。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)に「端午與恭甫對酌、分韻得歌、因憶去年今日(辛巳五月五日)福山諸子餞余東行於高久子家」と(だい)する七(ぜつ)がある。(ぜん)(ねん)(しん)()(ぐわつ)()()(てい)(ざい)()()()(こう)(まさ)(きよ)()されて、(びん)()(はつ)した()である。これに(さき)だつこと五(じつ)に、()(えん)(たか)()(いへ)(まう)けられた。わたくしは(さき)(たか)()(なん)(こく)(いへ)(ともの)(うら)にあつたらしいと()つた。(しか)るに(この)(たか)()(うぢ)(ふく)(やま)()んでゐた。(なほ)(さい)(けん)すべきである。(じん)()(たん)五の(きやく)(きよう)()(なに)(ひと)なるかは(いま)(かむが)へない。

 二十()(をか)(もと)(くわ)(てい)(しよ)()(てい)()つた。「向暑愈御安寧奉賀候。先頃は認物被仰下、早速認置候へ共、無人に而至今日候。則三幅一卷返還いたし候。殊に不出來見ぐるしく候。御免可被下候。泉本正助(原註、私姊むこに而御坐候)佐渡奉行被爲命候而、來月(六月)九日頃發途いたし候。夫に付給人にちと學問氣あり、少年輩などの取しまりにもなり候やうなるもの、目付役などをも兼させ候つもりに而申付置候處、俄に障る事生候而、其もの遠國へ出がたきに付、その代りになるべきもの覓候へ共、さしあたり其人を得不申候。もし何ぞ御心當りの人はあるまじく候や。尤官邊の事なれ候もの、俗事辨候類はいくらもあり、其人備り候へ共、書物氣あり、手がたき人物難得、それに事を闕き申候。浪人に而も何に而もよく候。事にうときは却而よろしく候。たゞ書物氣と人のたしかなるを望申候。若し幸に御存のもの御心あたりも候はゞ、早速御聞被下候やう乍御面倒奉憑候。尤至而いそぎ申候事に御坐候。いなや答教可被仰下候。醫師にも相應にわざ出來候もの御心あたり御坐候や。いづれも來年瓜代までに而、歸府の上は直に退去候も勝手次第に御坐候。老先生(茶山)御詩集中に中山子幹(原註、文肅先生)其子某などの事數篇相見え候。佐渡の人のよし、今は其人の家跡如何なり候や。元來何人に候ひしや。若し御存にも候はゞ御示可被下候。其外にもかの國に御存知のものも候はゞ承度候。萬期拜晤候。頓首。五月廿日。板井蛙、田内より轉達、感吟いたし候。絶唱と覺候もあり。鍾情の御詠などは人を動し候。古賀より被頼候一封御とゞけ申候。」

 (くわ)(てい)(あね)(むこ)(いづみ)(もと)(しやう)(すけ)()()()(にん)するため、これに(ずゐ)(かう)せしむべき(じゆ)(せい)()()()むと(ほつ)し、()(てい)()(じん)(ちゆう)()いて(ぶつ)(しよく)せむことを()うた。(しやう)(すけ)()(かん)に「佐渡奉行泉本正助忠篤、父正助、二百表、下谷長者町、文政五年四月より」と()つてある。四(ぐわつ)(にん)(めい)せられ、六(ぐわつ)(はつ)(てい)することになつてゐたものと()える。

 (くわ)(てい)(また)(たゞ)(あつ)()()()に、いかなる(どく)(しよ)(じん)のあるかを()らむと(ほつ)して、()(てい)()うた。そしてその()(ちやく)(がん)したのは、(ちや)(ざん)(しふ)(ちゆう)()えてゐる(なか)(やま)()(かん)である。()(かん)()()(てい)(つう)(しよう)(てい)(ざう)(きやう)()()んで()(げふ)とした(なか)(やま)(げん)(りん)()(ぼう)(あざな)()(とく)(ちゝ)である。(じゆ)()であつたらしい。(茶山題遺照詩、膽量儒而侠。又云、器眞堪活國。)(かつ)(きやう)()(あそ)ぶこと三(ねん)にして(かへ)つた。(三載滯中原。又云、歸國逾脩行。)(ふたゝ)(つま)(うしな)つて、()()(また)宿(しゆく)()(なや)まされた。(傷神再鼓盆、又云、頻纏二豎困。)その()(ぼう)(のこ)して歿(ぼつ)したのは、(豈料文星燦、空隨泉路昏。又云、庭幸良駒在、文期彩鳳騫。)(くわん)(せい)(ねん)であつたらしい。(ちや)(ざん)(しふ)(かふ)(いん)(さく)(ちゆう)()(せう)(だい)する()()えてゐるからである。

 ()(てい)()稿(かう)(いた)(ゐの)(かはづ)は、()(うち)(げつ)(だう)()より(くわ)(てい)()にわたつた。(この)稿(かう)(ほん)(をし)むらくは(さん)(いつ)した。(くわ)(てい)(その)(うち)(ぜつ)(しやう)さへあつたと()ふを()けば、(いよ/\)(をし)むべきである。(くわ)(てい)(でん)()した()()(しよ)(こく)(だう)(かん)であつただらう。(これ)(また)()ることを()ない。

     その百五十六

 (ぶん)(せい)(じん)()(ぐわつ)二十()(くわ)(てい)(しよ)は、()(てい)との(あひだ)(すう)()(わう)(ふく)(かさ)ねしめたらしい。(たま/\)(そん)する(ところ)の二十五(にち)、二十七(にち)(くわ)(てい)(しよ)(ちよう)するに、()()()()(ぎやう)(ずゐ)(ゐん)(もと)むるが(ごと)()(けん)(いう)()(かゝは)らず、(ほう)(でう)(をか)(もと)()(おう)(しう)(きよ)(じつ)なかりしものゝ(ごと)くである。

 (くわ)(てい)二十五(にち)(しよ)はかうである。「暑氣漸嚴、愈御清適奉賀候。御頼申候一事、色々御きゝ合被下候處、調不申候由承悉仕候。((おそ)らくは()()()くべき(じゆ)(せい)(もと)めて()なかつたのであらう。)御煩勞かけ候事悚息仕候。高作(歳寒堂遺稿不載此詩)君子の子、子孫の子、異用にも候へばくるしかるまじく、郎君をかへ候方歟などと存候處、君子を吉士と御改可被成やのよし、何樣是はそれに而もよろしくや。近有を近見と被成候ては、對句のつり合少しわろくなり候歟。近有終無、改がたきやにも覺申候。有常等の聯何と歟御直し被成方もあるべくや、坤ノ[#「ノ」は小書き]字を韻に押て、此二句のこゝろをいひ廻し方有之候やなどと存候迄に而、存付も無御座候。二ノ[#「ノ」は小書き]有字いづれ一つは御改換不被成候ては難愜やうに覺候。扨かやうの處に至て困り候事に御座候。草々申殘候。頓首。五月廿五日。」(かく)(ごと)(しやう)(りやう)(しよ)(つね)に二(にん)(あひだ)(かう)(くわん)せられたことであらう。

 (つぎ)にわたくしは二十七(にち)(しよ)(せう)する。「昨日は簡教拜桶、愈御安寧奉賀候。醫者之事に付、以別紙御示、委曲被仰下候趣、かたじけなく奉存候。此醫師私は存不申候へ共、親戚中兼而療治もいたし、山崎父子も懇意に而御座候故、佐渡行申試候處、斷に御座候。乍去立歸りになりとも參るまじきやと相談中に御座候へども、それも如何あるべきやのやうすに御座候。被懸御心わざ/\被仰下、呉々も忝奉存候。小野、津山兩氏へも宜御挨拶奉憑候。冗甚。御答迄草々申殘候。頓首。今村氏詩稿瞥見而已に而、其後塵事取紛候而罷在候。さしていそぎにもなく候はゞ、今少し御かし置可被下候。とくと閲申度候。貝原一軸の事領諭仕候。」

 ()(てい)(すゝ)めた()()はその(なに)(ひと)なるを(つまびらか)にしない。()()(うぢ)()(やま)(うぢ)(じゆ)(せい)(もし)くは()()(ぶつ)(しよく)した(ひと)(/″\)であらうか。(やま)(ざき)()()(くわ)(てい)(しん)(きん)(しや)にして、()(てい)(また)()るに(およ)んでゐたらしい。()稿(かう)(さく)(しや)(いま)(むら)(うぢ)(れん)()(かつ)(ひろ)であらう。(かひ)(ばら)(うん)(/\)()(えき)(けん)(しよ)(ふく)()(てい)(くわ)(てい)(にん)(あひだ)(じゆ)(/″\)せられた(ごと)くに()まれる。

 六(ぐわつ)()りて(のち)も、(くわ)(てい)()(てい)(おう)(しう)(きう)()つてゐて、(そん)する(ところ)()(れう)(ちゆう)()()ぐべきものは(くわ)(てい)の七()(しよ)である。「大暑愈御安佳奉賀候。扨は甚恐多(き)願に候へ共、君侯侍史御筆を急に頂戴仕候事は相協申まじくや、萬一侍史下へ御伺被下候事も相成候筋に御座候はゞ、子罕却玉圖に而御座候。是へ左傳の全文なれば百字ほど御座候、節略して不若人有其寶迄なれば五十餘字に御座候。是を御染筆奉願度至願に御座候。其上自由がましく重疊恐入、申兼候事に御座候へ共、先日も御聞に入候佐渡へ罷越候親戚へおくり候畫に而御座候。首途迄に間に合候やう仕度候。(原註。來る十五日立可申歟に御座候。)十二三日迄にも御染筆相協候はゞ、無此上大幸に御座候。色々自由箇間敷申上兼候事に御座候へ共、先づ願試候。何分宜奉希候。今日は御上屋敷へ御當直と被存候間、もし何と歟御伺被下候筋もやと、旁申上試候。幸に相協候事に候はゞ、明日圖はさし上可申候。草々頓首。岡本忠次郎。北條讓四郎殿。」

 (くわ)(てい)は、(いづみ)(もと)(たゞ)(あつ)()(かん)(たま)(しりぞ)くる()(おく)るに(あた)つて、()(てい)(かい)して、(そう)(けん)()()(こう)をしてこれに(だい)せしめむとするのである。

 ()(かん)(けん)(ぎよく)()けざる(こと)()(でん)(じやう)(こう)十五(ねん)(もと)()えてゐる。()(かん)所謂(いはゆる)(たい)(ぞく)()の一なる(がく)()で、(そう)(へい)(こう)(つか)へて()(じやう)(くわん)()つた。さて(へい)(こう)の十八(ねん)(しも)(ごと)(こと)があつた。「宋人或得玉。獻諸子罕。子罕弗受。獻玉者曰。以示玉人。玉人以爲寶也。故敢獻之。子罕曰。我以不貪爲寶。爾以玉爲寶。若以與我。皆喪寶也。不若人有其寶。稽首而告曰。小人懷璧。不可以越郷。納此。以請死也。子罕寘諸其里。使玉人爲之攻之。富。而後使復其所。」(くわ)(てい)(あね)(むこ)(くわん)()つて(れん)(けつ)ならむことを(ほつ)して、()(かん)(こと)(ゑが)かしめ、これを(はなむけ)にしようとしてゐるのである。(かみ)()いた()()(ぶん)(おほよそ)九十九()(さん)するので、「百字ほど」と()つたものである。「節略」するときは五十九()となるのである。

     その百五十七

 (じん)()(ぐわつ)二十三(にち)()(てい)(しよ)(ちや)(ざん)()せた。(はま)()(うぢ)はわたくしのために(ひと)(この)(しよ)(えい)(しや)せしめた。しかし(えい)(しや)した(さう)(たい)(せき)(どく)()(てい)(ひつ)(せき)()むに()れてゐるわたくしにも()(がた)い。わたくしは()むことを()ずして、(しも)にその(わづか)()()(すう)(でう)(せう)(しゆつ)する。わたくしは()()たと(しよ)した。しかし(これ)(また)()(ごと)(かい)すべきではない。()むべからざる()()むことを()ずして()(てん)したのである。「四月廿二日、五月廿六日兩囘の尊簡、先日相達、拜讀仕候。早速拜答可仕候處、追々書状差上、無別條故延引仕候。御海恕可被下候。時下暑蒸、尤例よりは緩き好き夏と奉存候。兎角雨がちにて、御國邊も打續雨天の樣子高詠にて承知仕候。御塾には雨濕あたりの人も有之候由、御一家無御別條候哉。お敬も追々快復、此節は常體に御座候。先達ては團魚丸の事御願申上候得共、小野氏過般製しくれ、其後下總邊より大鼈到來、夫にて家内にても製し申候。既に御製し被下候やも不知候得共、未だしならば先よろしく候間、御見合被下度候。」「太田大夫(全齋)御無事に候。彼家には四月中養子出來候。藤七郎と申武田團平弟に候。又太郎後家に配偶いたし候。右藤七郎近頃大目付役被仰付候。」「先達而田内(月堂)より申上候四書附攷の本書の事聞合せ申候。集註を本書といたし候附考の由に御座候。別に附考定本辨と申もの見當り候まゝ差上候。先達而田内より差上候ものと同物なりや不知候。代はいつにても御序有之候節御遣し可被下候。實はいさゝかのもの、いかやうにてもよろしく御座候。」「新居大工の事に付態々被仰越難有奉存候。被仰下候通一々御尤に奉存候。幸に田内懇意にいたし候御作事方役人錦織庄助と申者相頼、それが萬事引受世話いたしくれ候。直段の處もいろ/\御座候而、四通の内最下等の處にて申付候。四十七兩にて受合、別に雜費三兩程かゝり、五十金にたて上げ候。此上道具其外當用に十兩位もいり可申候。先書八十兩と申上候由なるが、是は誤筆にて可有之候。或は小學翻刻入用の出金と一筆にいたし候やらむと存候。伊藤仙之助に相談可仕樣被仰越候得共、仙之助は御上屋敷に有之、又格別懇意に無之候故相頼申さず候。今年は普請中始終雨がち壁等かわき不申、漸う此頃たて上仕候。當月晦には移居のつもりに候。左樣思召可被下候。書外近き内奉期再信之時候。恐惶謹言。六月廿三日。北條讓四郎華押。茶山老先生函丈。」

 (はま)()(うぢ)(せん)(おほ)()(ぜん)(さい)(ねん)()(あん)ずるに、(おほ)()(また)()(らう)(ぜん)(さい)(だい)()にして、(しよ)(しよう)(しん)(すけ)()()(ぐん)(ぜん)(ねん)(しん)()(ぐわつ)()歿(ぼつ)した。(また)()(らう)()(ばう)(じん)とは(ねん)()(おと)(はた)(うぢ)きん、(のち)()とみであらう。(はま)()(うぢ)(こと)()るに、(また)()(らう)(けつ)(こん)は二(ぐわつ)二十九(にち)であつた。

 四(しよ)()(かう)は「文化十一年刊、呉縣呉志忠輯、四書章句集註附攷」の(こと)ださうである。(これ)(また)(はま)()(うぢ)()(ところ)(したが)つて(こゝ)(ちゆう)する。

 ()(てい)(なう)()(いへ)(きん)五十(りやう)(つひや)して()てられた。そしてこれに(うつ)るべき()(じつ)は六(ぐわつ)(みそか)()(てい)せられてゐた。(だん)(ぎよ)(ぐわん)(せい)した()()(うぢ)(ちや)(ざん)()(てい)(すゝ)めて(ざう)(えい)(こと)(あづか)らしめむと(ほつ)した()(とう)(せん)()(すけ)(なに)(ひと)なるかは(いま)(かんが)へない。

 ()(てい)(ちや)(ざん)(しよ)()せた()に、(また)(おほ)(さか)(くら)()(しき)(その)()(ちやう)()(すけ)(しよ)(あた)へて、(きやう)(しよ)(でん)(たつ)する(らう)(しや)した。(この)(しよ)(ふく)()(うぢ)(ざう)する(ところ)で、わたくしは(その)(とう)(ほん)()た。(こゝ)には(すゑ)の一(せつ)(せう)する。「扇面二、任有合御慰に進上仕候。御笑納可被下候。歌は樂翁樣御小姓頭田内主税詩は同勘定組岡本忠二郎。」(その)()()(たん)に「文政五午年七月八日達」と(ちゆう)してゐる。

     その百五十八

 (ぶん)(せい)(じん)()の六(ぐわつ)(つごもり)()(てい)(こま)(ごめ)()()(てい)(ない)(しん)(きよ)(うつ)つた。(この)()(じつ)(しも)()くべき(しよ)(どく)()えてゐる。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)には()づ「移居」の五()がある。五(さん)(だう)()()(れい)(やぶ)つて(しう)(ろく)した(ちやう)(へん)である。()(ちゆう)に「移徙七月初」と()つてあるのは、(さい)()(むか)(ひつ)(けん)(やす)んじた(とき)()して()つたのであらう。

 七(ぐわつ)()()(てい)()()(こう)(やしき)宿直(とのゐ)して(さう)(めん)(きやう)せられた。「七日當直、賜近臣索麪、因物寓感、遙寄茶山翁」の五()(この)(とき)(さく)である。

 (かう)()(そう)()(じゆう)(しん)(ちや)()せ、陸奧(みちのく)(くま)(さか)(はん)(こく)()(きた)つて(けい)()(へん)、稛(こん)(さい)(ろく)(とう)(しよ)(おく)つたのも、(おそら)くは(この)(ごろ)(こと)であらう。(かれ)は「新居雜賦」の(だい)(しゆ)()(ちゆう)()えてゐる。(これ)()(てい)をして「陸奧熊阪君實來見贈其所著繼志編、稛載録等書」の七(りつ)(つく)らしめた。(りつ)は「熊氏書香久所聞、忽來敲戸手携文」を(もつ)(おこ)つてゐる。(はん)(こく)()()()(りよう)()ひ、(ちゝ)(たい)(しう)()ひ、(ならび)(もん)()のある(ひと)であつた。

 わたくしは(また)()(てい)(につ)()()(あそ)び、(うへ)()(かん)(おう)()(きう)(いう)(よし)(ざは)(ぼう)(はか)(てう)したのも、(この)(とき)より(おく)るゝこと(とほ)からざる(ほど)(こと)であらうと(すゐ)する。(なに)(ゆゑ)()ふに(この)(つき)(すゑ)には()(てい)(すで)(やまひ)(かゝ)つてゐたからである。()稿(かう)に「日暮里臺即目」「感應寺看一碑、讀之乃知芳澤儒生歿已久矣、二十四年前、余初見君於京師、蓋其趣崎嶴時也」の二(ぜつ)(とゞ)めてゐる。二十四(ねん)(ぜん)(くわん)(せい)(ねん)で、()(てい)(きやう)()(みな)(がは)()(ゑん)(じゆう)(がく)してゐた(とき)である。

 ()(てい)(いま)()(きよ)(はう)ぜざるに、(ちや)(ざん)は七(ぐわつ)二十二(にち)(また)(しよ)()(てい)(あた)へた。(なか)にかう()つてある。「土木いかゞ仕候哉。既に經始之後に而鄙説も間にあひ不申候や。然どもせいぜい儉約に可被成候。今一度たてかへるほどは金も貯(此一字不明)不申ては江戸の住ゐは出來不申と存候。」(さき)(ちや)(ざん)()(てい)()(をく)(こと)()つた(しゆ)()は、(この)(しよ)()つて(かん)(めい)(へう)()せられてゐる。(しよ)(はま)()(うぢ)のわたくしに(しめ)したものである。

 二十五(にち)()(てい)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。「呈一簡候。殘蒸退兼候へども、朝夕は餘程秋凉を覺え候。然し御清佳可被遊御揃奉恭祝候。當方皆々無事罷在候。乍憚御放意可被下候。私も新居漸う落成、六月晦に引移申候。内造作なども追々片付申候。幽僻なる處にて得其處申候。先々安心仕候。雜費は存外臨時出申候。甚麤作なれども、六十五金餘に及候。苜蓿先生物力盡申候。まだこの上に井を掘候に五金ほども入候由、なにもかも新規故、存外ゐる事に候。石にても土にても皆々買得いたし候事に候。すまひは甚勝手よろしく候。うら之外に畑などもとられ、竹林有之候。拙詩にてその樣子御想像可被下候。新太郎眼氣如何。山口凹巷、甚平兩君より先達而猿田彦鎭宅符及金百疋祝儀に參り申候。御逢のせつ御禮可被下候。此方より船手へものいだし候節は井上へ遣し候てよろしく候得共、屆候處的矢にては風次第なれば承知いたし申間敷、如何いたし候てよろしきや被仰聞可被下候。先達而の壒嚢並に和漢故事など返納いたしたく、且小學纂注も大方出來あがり候故、遣し度故に候。これは飛脚にてもしれたる事なればいそぎ不申候。淺井書通、北谷玄安も當春死去いたし候由、打續不幸跡には一人もなし、氣之毒なるものに候。殘蒸折角御自愛專一奉祈候。不及申二尊樣へは萬事可然奉頼候。餘期再信之時候。恐惶謹言。七月廿五日。北條讓四郎華押。北條立敬樣侍下。良助へ、暑中御見舞御状辱、宜敷頼入候。其外相識中へ宜敷奉頼候。何ぞ相應の用事御坐候はゞ被仰越可被下候。以上。むら竹の窓にそよげばさよあらし嵯峨野の庵に吹くかとぞ聞く。狂歌に。兩方に口のあいたる袋町そこをたづねよ我家はあり。」

 ()(きよ)()が六(ぐわつ)(つごもり)であつたことは、(この)(かく)(しよう)()(また)(うごか)すべからざるものとなつた。(しん)(きよ)(ざつ)()(いく)(しゆ)かゞ(この)(しよ)(とも)()()せられたことも、(また)「拙詩にて」(しか)(/″\)()(ちよう)して()ることが()()る。(かつ)(きやう)()の「袋町」は(かん)(やく)(なう)()(げん)()なること(うたがひ)()れない。

 「小學纂注も大方出來あがり候。」(これ)(また)()(てい)(でん)(ちゆう)(もつとも)(ぢゆう)(えう)なる()である。()(てい)便(びん)()()てこれを(へき)(ざん)(おく)らうとしてゐる。(また)(あい)(なう)(せう)()(かん)()()とは(さき)(まと)()より(いた)つて、(なほ)()(てい)(もと)にある。

 (さい)(しゆ)(うま)れた(へき)(ざん)()(はた)して「新太郎」(げん)であつた。(たう)()(がん)(しつ)(かゝ)つてゐたと()える。

 (その)()(きた)(だに)(げん)(あん)といふものが(じん)()(はる)歿(ぼつ)して、(あさ)()(しう)(すけ)がこれを()(てい)(はう)じた。(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(とも)(ちん)(たく)()()(てい)(おく)つた(じん)(ぺい)(たれ)か、(いま)(かむが)へない。

     その百五十九

 (じん)()(ぐわつ)二十五(にち)()(うち)(げつ)(だう)()(てい)(あた)へた(しよ)は、(はま)()(うぢ)のわたくしに(しめ)した(せき)(どく)の一である。「築地園中之勝地之名凡三四十景みだりに名づけ申候。その内恍然島御寄題御托申候樣、宜相願候へと申付られ候。扨この島の和名は名ごりのしまと唱申候。もと此名は七八箇年以前奧松島遊覽いたされ、彼地之絶景常に心頭に來往いたし、池を穿て松の島出來候所、おのづから松島之島のけしきに似寄、この池之島を見るごとに絶景を想慕いたされ候ゆゑ、この名つき申候。この丹罫紙へ御揮寫可被下候。異なる紙に候が、是は碑石之大きさにて御坐候。その箇所々々各碑一本づゝ建申候。詩歌を彫、地名を表申候。白河轉封にて何角一藩多忙に御坐候。大夫之隱居、吉村又右衞門之父なり、病にて年若く辭し、退隱仕候而、只風月文墨にのみ耽好のをとこに候。南湖に別莊あり、その御寄題相願度よし申越候。これは春の事にて候ひき。今桑名へ行てはいらぬやうなれども、先生之佳作なくては遺憾に可存、轉封はしらぬふりにて御一首御構成奉祈候。外に一雙如別紙相願申候。乍御面倒ひとつ/″\相願申候。各横卷也。料紙呈上仕候。頓首。七月廿五日。輔拜具。歳寒園主人君。」

 (げつ)(だう)(つき)()(ゑん)(ちゆう)(くわう)(ぜん)(たう)のために()(てい)()(もと)めたのは、(らく)(をう)(こう)(めい)ずる(ところ)である。わたくしは(いま)(かい)(ぐん)(だい)(がく)(かう)になつてゐる(きう)(てい)(その)に、(もん)()(こく)した(いし)(いく)()かゞ(のこ)つてゐることを()いた。(くわう)(ぜん)(たう)(へう)(せき)(その)(うち)(そん)してゐるや(いな)や。

 (しよ)(ちゆう)()(てん)(ぽう)(りやう)(まつ)(だひら)()()との(あひだ)(おこな)はれた。(もと)(おく)(だひら)(うぢ)(ひめ)()(せう)(しやう)(たゞ)(あき)(えい)(まつ)(だひら)(しも)(ふさの)(かみ)(たゞ)(たか)()(せの)(くに)(くは)()(ごほり)(くは)()より武藏(むさしの)(くに)(さい)(たま)(ごほり)(おし)(うつ)り、(らく)(をう)(こう)()(まつ)(だひら)(ゑつ)(ちゆうの)(かみ)(さだ)(なが)()(つの)(くに)(しら)(かは)(ごほり)(しら)(かは)より(くは)()(うつ)り、()()(ぜん)右衞()(もん)(まさ)(かつ)(えい)(てつ)(まる)(まさ)(のり)(おし)より(しら)(かは)(うつ)つたのである。

 (この)(しよ)()(とき)()(てい)(すで)(かつ)()()んでゐた。そして(その)(やまひ)(つひ)()えなかつた。わたくしは(よく)(じつ)(をか)(もと)(くわ)(てい)()(てい)(あた)へた(しよ)()つてこれを(しよう)することが()()る。(また)(はま)()(うぢ)(しめ)した(ところ)である。「拜誦、御清適奉賀候。乍去御脚疾に而御引籠の由、御困り可被成、折角御保養奉祈候。豚兒共も兩人共久々重腿の患に而困却致候。時氣により候や、此夏は所々に有之候。聯玉(山口凹巷)壯寧のよし被仰越候趣具悉、近便私への傳言も委曲申來候由、忝事に御坐候。私も大に無音仕候。御返書被遣候時、何分宜奉願候。御國元御家老方より御一幅托題御求のよし、其外扇頭白紙等被遣被仰下候趣、被入御念候事に奉存候。容易之儀、不日に相認可申候。御新居趨賀こゝろ掛居候へ共、近來冗紛、日又一日延引仕候。何れ近日御尋可申上候。來月この頃には墨水邊へ御同伴仕度含罷在候。何分御脚疾御保護奉祷候。草々拜答、餘は期面晤候。頓首。七月廿六日。成復。霞亭雅宗梧下。茶山先生へ大御無音、やう/\昨日長崎奉行發軔に付し、一封呈し候。如仰昨夜は暴雨、暑はかくて退候半。甚御遠々敷候。ゆる/\御物語を期し、何事も申殘候。御風呂敷もとゞめ置候。」

 (くわ)(てい)(ちや)(ざん)()する(しよ)(たく)した(なが)(さき)()(ぎやう)は、(この)(つき)()(みや)(ちく)(ぜんの)(かみ)(のぶ)(おき)(かは)つた(たか)(はし)(ゑち)(ぜんの)(かみ)(しげ)(かた)である。

 八(ぐわつ)()()()(こく)(だう)(しよ)()(てい)(あた)へた。「秋暑未退候處、愈御清福被成御奉職奉賀上候。御出府後毎度御尋可申上相心得居候處、御聞及も可被成、俗務牽絆不得如意、大背本意候。何とぞ不遠内遂御一面度候。此筋御序御座候はゞ御尋可被下候。何とぞ結社請教(度)ものと存候。東都も諸家林立候得共、色々之流義御坐候と相見、且暇も無之、皆以遠々敷罷過申候。茶山先生毎々御惠書此方よりは甚失敬仕候。別書奉復仕候間、御序に被遣被下度御頼仕候。御近著之書御垂示被成度、此段奉得御意候。草々頓首。八月十日。燾。北條仁兄。尚々此書昌平諸生へ囑候間、御落手遷延候(事)も可有之と存候也。」(この)(しよ)(さう)(たい)()(がた)きが(ゆゑ)に、(しよ)(/\)()(もつ)()(てん)した。(こく)(だう)(しや)(むす)んで(がく)(かう)ぜむとして、()(てい)にこれを(はか)つてゐる。(この)(とき)(こく)(だう)(とし)四十五、()(てい)より(ちやう)ずること二(さい)(ちゝ)(せい)()(うしな)つて(のち)(ねん)である。(おとうと)(どう)(あん)は三十五(さい)である。

     その百六十

 (じん)()(ぐわつ)十二(にち)()(うち)(げつ)(だう)(しよ)()(てい)(あた)へた。「例之秋霖いとはしく候。先以御快方とうかゞひ、欣抃無佗事候。何卒いゆるに加りし説御愼可被成候。さだめて御絶房と奉存候。恍然島は御詩體いか樣にても御隨意に可被成下候。是まで絶句も律もあり、あの紙竪に一ばい御認可被下候。題名はなくてもよろしく候。今日は取込用事のみ、頓首。八月十二。月堂上。霞亭先生函丈。」()(てい)(かつ)()は一()(びやう)(せい)(ゆる)んでゐたと()える。「いゆるに加りし説」とは(かん)()(ぐわい)(でん)の「病加于小愈」を(もち)ゐたものであらう。(この)(しよ)()(てい)(くわう)(ぜん)(たう)(だい)する()(なに)(たい)(もつ)てすべきかを()うたのに(こた)へたものである。()(じやう)()(つう)(せき)(どく)(みな)(はま)()(うぢ)がわたくしに(しめ)した。

 十四(にち)には()(てい)(なう)()(しん)(きよ)(どく)()して、(さけ)()(つき)(しやう)した。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()()るに、(ほとん)(やまひ)()にあるを(わす)れてゐたやうである。「十四夜。山妻向晩摘畦蔬。窓戸豁開親掃除。無復故人尋僻處。且將佳月醉新居。蟲聲滿砌吟相和。歌吹誰家聽漸疏。忽見片雲頭上黒。陰晴明夜果何如。」()(てい)(この)()(ゆめ)()()(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()た。「是夜夢韓聯玉、醒後賦。官羈未遽卜歸休。蹤跡東西戀舊遊。踽々唯供衆人笑。茫々常抱百年憂。音書鴻雁孤樓月。風雨芭蕉一枕秋。安得君來如夢裡。墨川春載墨川舟。」

 十五(にち)(そら)(くも)つて(かぜ)(つよ)かつた。()稿(かう)(いは)く。「中秋無月。陰雲撥墨壓檐端。癡坐無言向夜闌。野靄蒼茫桂香濕。天風蕭瑟雁嘶寒。人情未免偏爲怨。世事從來是此觀。旋徹杯杓引衾臥。竹聲如海夜漫々。」

 二十九(にち)()(てい)(げつ)(だう)(しよ)(あた)(もの)(おく)つた。(とき)(げつ)(だう)()()つた。しかし(いま)()(しや)(なに)(びと)なるかを(かんが)へない。(げつ)(だう)のこれに(こた)へた(しよ)(はま)()(うぢ)(しめ)した(しよ)(どく)(うち)にある。「秋冷相加、日々御快方奉恭賀候。尚又御加養專一奉祈候。恍然島いつにても御快愈之上御構思被下度所希に候。吉村又右衞門願之別業南湖寄題之御作、是又いつぞ御揮毫被下候樣相願申越候。くれ/″\此上御攝養第一奉存候。とかく御疎音恐入候。頓首。八月廿九日。別啓。喪居御訃(恐當作賻)問被下、其上御國産之名品御投被成下、千萬々々奉拜謝候。毎々御懇情感荷々々。御ふろしき返上仕候。以上。御返事は御面倒なるべし。必御筆を勞すべからず候也。月堂上。霞亭先生。」

 (この)(つき)()(てい)(きく)()ゑ、(また)(りん)()なる()(さは)(らん)(けん)()うて()(とう)()(せう)とを(うつ)()ゑた。()稿(かう)に「從蘭軒處覓梧桐芭蕉」「種菊」の二(ぜつ)()えてゐる。

 (また)(せう)(がく)(かう)(こく)(こう)(をは)つて、()(てい)(みづか)(その)(ぽん)(たづさ)へて(をか)(もと)(くわ)(てい)()ひ、これを(その)()(おく)つたのも、(この)(つき)(すゑ)であつた。(こと)は九(ぐわつ)(さく)(くわ)(てい)(しよ)()えてゐる。

 (くわ)(てい)の九(ぐわつ)(さく)()(てい)(あた)へた(しよ)(しも)(ごと)くである。(しよ)(はま)()(うぢ)がわたくしに(しめ)した。「今日は暫晴候へ共、又可變天氣、扨々久雨可厭候。御脚疾趣輕(此二字不明)快候や如何。往日は御出被下、折節南部伯民對酌之處に而、幸と相悦、早々御通し申候へと申付候處、客來と御見受被成、被仰置、直に御歸被成候由故、急ぎ一奴走らせ候へ共、早御うしろ影も不見よし、他客にあらば社、よき折から御出も被下候に、扨々遺憾、御噂申あひ候事に御坐候。其節は新刊御藏版の小學纂註一部御携、豚兒に御惠被下、此本先日も書中申上候通、借用望居候書に而、御藏版出來候事は存不申、御返書委曲被仰下候而、不存寄事と相喜相示罷在候處、早速新版御惠被下、かく丁度なる幸も有之物かと、喜出望外、御禮難申盡感領仕候。版も至(而)宜出來、善本に而、別而悦敷、呉々も辱御事に奉存候。兒此節脚疾に而、一向歩行不相愜候故、快復の日趨拜御禮可申上候へ共、先づ私より宜御禮申置呉候やう申聞候。さて私も御尋可申、久敷心掛候へ共、天氣もあしく、かれのこれの延引仕候。御海涵可被下候。いづれ近日拜話を期候。昌光寺のたのみ物御面倒奉存候。鵬齋病中急には出來兼可申よし、左候はゞ、別人へ畫を御屬、御題贊被下候共、畫なしに高作ばかり御一揮被下候共、可然やう可被成下候。頓首拜白。九月朔。忠次郎。讓四郎樣。」

     その百六十一

 ()(てい)(かう)(こく)した(せう)(がく)(さん)(ちゆう)(しん)(かう)()(つく)(ところ)(しよ)である。(たう)()()(こく)(ぼん)として()(おこな)はれてゐた(せう)(がく)は、(げん)祿(ろく)(ねん)(かん)(みん)(ちん)(せん)(せう)(がく)()(とう)があつたのみで、(かう)()(さん)(ちゆう)(ごと)きは(いま)(ほん)(こく)せられなかつたのである。(こん)(にち)より()ても、(せう)(がく)(ばん)(しゆつ)(かひ)(ばら)(とく)(しん)(たけ)()(てい)(ちよく)()(てい)()()つた(ふく)(をか)(ばん)(しふ)()(のぞ)いては、(ふく)(やま)(ばん)(さん)(ちゆう)()さざることを()ない。

 (ほし)()(こう)さんは()(てい)(さん)(ちゆう)()つて(かん)(ぶん)(たい)(けい)(ちゆう)(をさ)めた(とき)(きふ)西(せい)(ほう)()(だう)(はん)(しん)(ゑん)(だう)(ぼん)(この)(さん)(ちゆう)とを()(かう)して(しも)(ごと)()つた。「今二本を對校するに、豐芑堂校刊本は首に高愈の凡例十則を載せ、次に朱子年譜を載せ、次に小學總論を載せ、然後朱子句讀及題辭を載せ、而して題辭は直に内篇立教篇と連接す。福山藩翻刻本は首に高愈の同學弟華泉の康凞丁丑(三十六年)の序を載せ、次に篇目を載せ、次に總論を載せ、然後朱子の題辭及題小學を載せ以て本篇に接し、(但本篇は紙を別にし、直に連接せず)而して凡例及朱子年譜なし。然れども豐芑堂刊本の朱子總論は僅に七條を録し、福山藩翻刻本の總論は程子朱子以下十八人の説凡三十條を録す。又其題小學の下、註して原本作小學句讀、未知何據、或云、始於陳恭愍(選)、又有作小學書題、小學題序者、皆後人以意名之、今依朱子文集改正とあり。而して豐芑堂校刊本は此註なく、其題猶小學句讀に依れば、福山藩翻刻本の高愈晩年の定本たる審なり。故に今之に據る。其凡例年譜なきは、凡例に陳選句讀の短を擧げ、自ら朱子編輯の本旨を明にせるを述べたるを以て、意自ら快とせず、華泉の序に代言せしめ、以て凡例を刪去せしか。又朱子年譜は凡十一葉あり、其稍冗長なるを以て、亦之を刪りたるか。今其原本を得ざるを以て、其意を詳にする能はず。但四庫全書總目の子部儒家類目に小學纂註を載せ、編修勵守謙家藏本と注し、後附總論及朱子年譜とあれば、其見る所の本も豐芑堂校刊本と同種なるべし。」(いま)()(てい)()(ところ)(さん)(ちゆう)(ぼん)のいかになりゆきしかを(つまびらか)にしない。

 (げん)(ぞん)()(てい)(かう)(こく)(さん)(ちゆう)には(おほよ)そ二(しゆ)(ほん)がある。(その)一は(けん)(たん)に「文政五年壬午夏、清本翻刻、重訂小學纂註、福山藩歳寒堂藏板」と(だい)し、(すゑ)に「福山藩歳寒堂藏板、江戸發行書舖新乘物町鶴屋金助、池端仲町岡村庄助、本石町十軒店英平吉」と()し、(さら)()()(せう)()()(さん)(くわん)()(せい)()(なう)の三()(かん)(しよ)(もく)()したものである。(その)二は(けん)(たん)の「福山藩歳寒堂藏板」に()ふるに、「福山誠之館藏板」を(もつ)てし、(すゑ)の「福山藩歳寒堂藏板」を(けづ)り、(また)()(かん)(しよ)(もく)()せない。(あん)ずるに(かれ)(しよ)(いん)にして、(これ)(のち)(あらた)められたものであらう。

 (この)(しゆ)(ほん)(ならび)(ふく)(やま)()(しよ)(くわん)(そん)して()り、(はま)()(うぢ)(また)これを(あは)(ざう)してゐる。二(ほん)(たゞ)(たん)(まつ)(かい)(こく)したるに(とゞ)まつて、(もと)より(どう)(ほん)である。(さう)して「元亨利貞」の四(ほん)となし、(げん)(かう)(けんの)一より(けんの)四に(いた)(ない)(へん)(をさ)め、()(てい)(けんの)五より(けんの)六に(いた)(ぐわい)(へん)(をさ)め、(まい)(くわん)(とう)に「高愈纂註」、(まい)(くわん)()に「後學北條讓校讀」と()してある。

     その百六十二

 ()(てい)(かう)(こく)した(かう)()(せう)(がく)(さん)(ちゆう)(げん)(ぞん)(しよ)(ほん)(ちゆう)(もつと)(ちん)とすべきは(はま)()(うぢ)(ざう)(さい)(かん)(だう)(しよ)(いん)(ぼん)で、(すなはち)(まつ)(ざき)(かう)(だう)(しゆ)(たく)(ぼん)である。(この)(ほん)(しよ)(/\)(かん)()(げつ)(じつ)()し、(また)(まゝ)(せい)(とく)(しよ)(ゐん)()(ちゆう)するを()る。(かう)(だう)(この)(しよ)(たづさ)へて(しも)(ふさ)()(くら)()き、これを(せい)(とく)(しよ)(ゐん)(かう)じたのである。

 (せい)(とく)(しよ)(ゐん)(なん)(ざん)(よし)()(らい)(やう)(そう)(さい)たる(がく)(かう)で、(なん)(ざん)(かう)(だう)とは(しん)(ぜん)であつた。(ひら)()(ちよう)(きう)(せん)の「南山先生吉見君墓碣銘」にも、「先生、博學強記、於書無所不讀、慊堂松崎翁常稱其學殖」と()つてある。(しか)れば(かう)(だう)(たづさ)()いた(しよ)(いう)(じん)()(てい)(かう)(こく)する(ところ)(しよ)で、その(かう)(せつ)した(がく)(かう)()(じん)(なん)(ざん)(とく)()する(ところ)(がく)(かう)であつた。

 (はま)()(ぼん)()してある(かん)()(げつ)(じつ)は、(てん)(ぱう)(ねん)(かう)(だう)六十七(さい)(とき)より十一(ねん)七十(さい)(とき)(いた)つてゐる。(はま)()(うぢ)(せう)(しゆつ)する(ところ)()(ごと)くである。 卷一、十葉、終、裏「丁酉(天保八年)四月二成徳書院」 卷二、三ノ裏「四月十」 同  七ノ裏「四月廿」 同 十二ノ表「十一月十二」 同 十四ノ表「丁酉十二月二日」 同 十九ノ表「戊戌(天保九年)四月二」 同 廿一ノ裏「戊戌四月廿」 同 廿六ノ裏「戊戌閏月(閏四月)十二日」 同 卅一ノ表「戊戌閏四月廿」 同 卅三ノ表「戊戌五月十二成徳書院」 卷三、五ノ表「戊戌六月二」 同  八ノ表「戊戌六月十二成徳書院」 同 十一ノ裏「戊戌六月廿二」 同 十四、終、表「戊戌七月二日」 卷四、四ノ表「戊戌八月二日」 同  七ノ裏「戊戌八月十二」 同 十一ノ表「戊戌八月廿二」 同 十四ノ裏「戊戌九月二」 同 十七ノ表「戊戌十月十二」 卷五、四ノ表「戊戌十月廿二」 同  七ノ表「十一月七日」 同 十一ノ表「戊戌十一月十二」 同 十四ノ裏「戊戌十二月二日」 同 十七ノ表「戊戌十二月十二」 同 廿三ノ表「己亥(天保十年)三(正カ)月十二日」 同 廿五ノ裏「己亥正月廿二成徳」 同 廿九ノ裏「己亥三月廿二」 同 卅三ノ表「己亥四月二」 同 四十ノ裏「四月廿二」 同 四十五ノ表「己亥五月二」 同 四十九、終、裏「己亥五月十二」 卷六、四ノ表「己亥五月廿二」 同  八ノ表「己亥六月十二」 同 十一ノ裏「己亥七月廿二」 同 十六ノ表「己亥八月十二」 同 十九ノ裏「己亥八月廿一」 同 廿四ノ表「十月二日」 同 廿八ノ裏「己亥十月十一」 同 卅三ノ表「己亥十月廿二」 同 卅八ノ裏「己亥十二月廿二日」 同 四十二ノ表「庚子(天保十一年)二月廿二」 同 四十五ノ裏「庚子三月十二」 同 五十一ノ表、終「庚子三月廿一」

 ()する(ところ)(かう)(せき)(おほよそ)四十四()である。しかし(だい)(かう)の十(えふ)(やゝ)(おほ)きに(すぎ)(ごと)くである。(あるひ)(その)(あひだ)()(ちう)(だつ)したもの()(その)()(けんの)二の(しう)(けつ)(すなはち)(だい)三十六(えふ)(けんの)四の(しう)(けつ)(だい)廿一(えふ)(ごと)きも、()(ちう)(だつ)することなきを(はう)(がた)い。(かう)(だう)(せう)(がく)(かう)(せき)(おそら)くは五十()(ちか)かつたことであらう。

 (かう)(だう)()(くら)(こう)のために(しよ)(かう)じたのは、(いづ)れの(とし)よりの(こと)であらうか。(はま)()(うぢ)(けん)する(ところ)(したが)へば、(その)(はじめ)(ぶん)(せい)(ねん)なるが(ごと)くである。(かう)(だう)(きう)(ざう)()(かん)(ねん)(けい)(ぶん)(せい)(ねん)(もと)に「四月十三日、赴講佐倉侯」と(しよ)してあるが(ゆゑ)である。しかし(こゝ)に一の(うたがひ)がある。それは(この)(かう)(しよ)(こと)(あるひ)(はや)(その)(ぜん)(ねん)(ぶん)(せい)(ねん)(はじ)まつたのではないかと()ふことである。(おな)()(かん)(ねん)(けい)(ぶん)(せい)(ねん)(もと)に「四月始赴佐倉侯講」の(ぶん)()えてゐるからである。(たゞ)(ぶん)(せい)(ねん)()(ちう)(すなはち)(したが)(がた)きは、(かう)(だう)(きう)(ざう)(ぶん)(せい)()(ばう)(れき)(ほん)にこれと()(じゆん)するに()たる()(ちう)(そん)してゐるが(ゆゑ)である。(すなはち)「文政二年二月廿三日發都、三月十四日入京、三月廿八日游吉野、閏四月六日發京、同十八日歸都」の(ぶん)である。(こゝ)()れば()(ばう)(ぐわつ)(かう)(だう)(きやう)()(えん)(りう)してゐた(つき)で、()(くら)()くことは()()なかつた(はず)である。(ぶん)(せい)(ねん)(かう)(だう)五十(さい)()しこれに(さきだ)つこと一(ねん)とすると四十九(さい)である。とまれかくまれその(せう)(がく)(かう)じたのは、()(くら)(こう)のために(しよ)(かう)ずることを(はじ)めた(のち)十六七(ねん)(ころ)(こと)である。()(くら)(ほつ)()相摸(さがみの)(かみ)(まさ)(ちか)()より(びつ)(ちゆうの)(かみ)(まさ)(ひろ)()(うつ)つてゐた。

 (かう)(だう)(せう)(がく)(かう)(をは)つた(のち)(かう)()(ぐわつ)()より(きん)()(ろく)(かう)じたのである。

     その百六十三

 (せう)(がく)(さん)(ちゆう)(ぶん)(せい)(じん)()(ぐわつ)()()()(りう)(さい)()(うち)(げつ)(だう)とに()(そう)せられた。(りう)(さい)(ふく)(しよ)はかうである。「謹讀仕候。如貴諭秋冷相成候處、被爲揃愈御安寧被成御興居、欣然之至に奉存候。然ば小學御翻刻御出來に付、悴方へ一本御惠投被成下、千萬難有奉存候。外十部之儀奉諾候。書肆定價十五錢、目下之處御手元より出候分は十三匁之由是亦奉諾候。九日殊により御光臨も可被下候旨、何卒御出に相成候樣仕度候。來月(十月)五日頃海晏寺之事承知仕候。講義中匇匇拜復。九月六日。和氣行藏。霞亭先生左右。」

 (げつ)(だう)(ふく)(しよ)はかうである。「薫誦。心ならず御疎音打過候所、はからず御手簡被投、忙手拜披、先以御擧家御榮祥と相伺、欣抃無他事候。都下之寒暄俄混交、折角御保養專一奉祈候。さて小學纂註御上木御落成に付御惠被成下御厚情奉拜謝候。永く珍襲、孫裔共に相讓可申候。外に十部舊友へと爲御持被下、是又忝奉存候。文事好候もの一人も無之、誠に可恥事に候。しかし先々懇友共へも相示可申候。先々五部御あづかり申候。其内一部隱居(樂翁侯)へも御贈り被下候ては如何哉。御同意に候はば、別に御示被下候に不及候。此方にてよき樣に取計申候。中秋無月尤寥々、ことしの樣にふる事も稀にて候。佳作數篇御抄録被下、千萬有がたく、私疝利にて病臥、徒然を慰可申候。くれぐれも奉拜謝候。御詠草とく醒翁(花亭)へ轉送いたし候。翁の若(此字不明)き事無限候。老先生(茶山)より畫料百匹相達文晃へ遣候。右之御禮をもこの初夏の比申上候。御使いそぎ、其上肩背痛、艸々拜復、頓首。九の六。月堂上。霞亭先生。廿二日(八月)大風雨の夜に。雨風にあれし軒はをもりかへて夢のとたとる夜半の月哉。博粲。」

 ()(てい)(せう)(がく)(とも)(おく)(また)(とも)()(おく)りて、(どう)()(とも)(すう)()(たく)し、(ひと)()らしめむことを(はか)つた。(のち)()(てい)(しよ)(どく)()るに、()(てい)()()()(かね)()りて(こく)()()て、(すう)(ねん)()してこれを(つぐの)はむと(ほつ)してゐた。(とも)()ることを(たく)した所以(ゆゑん)である。(せう)(がく)(おくりもの)(うけ)た二(いう)(しよ)(ちゆう)(げつ)(だう)(しよ)には(すこぶ)(ちゆう)(もく)すべきものがある。一、()(てい)(せう)(がく)(げつ)(だう)(かい)して(しら)(かは)(らう)(こう)(けん)じた。二、()(てい)()()(えい)じ、(れい)(したが)つて(げつ)(だう)(をか)(もと)(くわ)(てい)との(えつ)()うてゐる。三、(くわん)(ちや)(ざん)(ぶん)(てう)をして()(つく)らしめ、(げつ)(だう)(たく)して(じゆん)(ぴつ)(せん)(おく)つた。(りう)(さい)(しよ)には(とく)()ふべきものが()い。

     その百六十四

 (ぶん)(せい)(じん)()の九(ぐわつ)()には、()(てい)()(ちや)(ざん)()せた。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)(いは)く。「九日寄茶山翁。妻兒對酒話郷關。想得舊園籬菊斑。高興不知如昨否。誰扶籃轝向何山。」(この)(ぜん)(じつ)(ちや)(ざん)に「想君攜上馬頭山、屡顧籃輿歐六一」の()があつた。(きみ)(らい)(いん)(しよ)(かく)()して()ひ、(おう)(やう)(しう)(ちや)(ざん)(みづか)()したのである。九(にち)には(ちや)(ざん)(また)(ぶん)(くわ)十一(ねん)(ちよう)九を(くわい)()して七(ぜつ)(しゆ)()した。(なか)に「醉把茱萸想舊朋、何山此日共吟登」の()がある。()(さん)の二()(りやう)(しよ)(おい)(どう)(じつ)(もち)ゐられた。

 十一(にち)()(てい)(まと)()(しよ)()た。そのこれに(こた)へた(しよ)(だん)(かん)(まと)()(せき)(どく)(ちゆう)にある。「八月十七日芳簡、九月十一日自井上相達、披見仕候。秋凉愈御安泰被遊御揃、奉恭賀候。當方無事罷在候。乍憚御放意可被下候。然者爲新居祝儀、酒尊一御惠投被成下、千萬難有奉存候。御雙親樣へ可然御禮被仰上可被下候。併甚大そうなる御進物甚恐入候。私方にては何よりの品にて、大方正月頃迄は是に而相濟可申候。わけて甚佳酒にて、ぴんといたし候て、私口中に適し、實に難有奉存候。小學一本進上仕候へば受納可被下候。良助へも一本御遣し可被下候。此度小學翻刻、大分板はよく出來候へども五十金近く費用入申候。殆ささへ兼申候。併隨分發行の樣子にきこえ候。書林などへも追々出可申候。御地邊望候人候はば御世話可被下候。此表書林定價は百疋に候。私方より懇意中などへ直に差出し候は十三匁宛にいたし候。呂氏春秋當春文亮へ世話いたしもとめ遣し候處、不用の由に而足下へ遣し候由、あれは大分美本に而二分二朱にて買得いたし候。御入用に候はば進上いたし候。代料には及不申候。格別御好にもなく候はば、いつにても舟便のせつ御遣し可被下候。いかやうにてもよろしく候。先便摩翳(二字不明)散並に金子入書状相達し候哉。此度御書面新太郎眼翳(上の翳と共に醫に作れるが如くなれども、臆度して翳とす)も追々うすく相成よし、一段之儀に候。併かの散藥御試に御用可然候。庭園に、新開の地故、一樹も無之候處、追々あちこちよりもらひ候ものうゑ候。大分よろしく相成申候。少々畠も有之、大根などまき候。柳の枝、蜀(不明)も蘇も、七八寸許宛四五本、大根へ根の方をさしこみ被遣可被下候。これも船便なんぞの荷の中へ入被遣可被下奉煩候。その序に松菜のたね少々御遣し可被下候。」(この)(しも)()けて()し。(しよ)は九(ぐわつ)十一(にち)()(りやう)(にち)(あひだ)(つく)られたものであらう。(あて)()(れい)(ごと)(へき)(ざん)であつたことは(ほとんど)(うたがひ)()れない。(せう)(がく)(さん)(ちゆう)は二(てい)(おの/\)(ぽん)()た。(へき)(ざん)(むすこ)(しん)()(らう)(げん))のために、(はく)()()(てい)()()する(くすり)(おく)つた。()(てい)(もと)むる(やなぎ)のうち、一は(くわん)()より(わか)たれた()(しう)(たね)であらう。(しよく)()()(めい)で、(また)(しよく)(さん)した(やなぎ)(まと)()(いへ)にあつたことも()(しやう)である。

 十九(にち)()(てい)(しよ)(くわ)(てい)(あた)へ、(くわ)(てい)(たゞ)ちにこれに(むく)いた。「如諭□□(二字蠧蝕)天秋寂、愈御勝適奉賀候。往日は趨拜、緩々御清誨、太暢懷仕候。色々御馳走相成、御懇款さて/\かたじけなく奉存候。御口號御眎被下乍一見先感吟仕候。何卒この通り御淨書御惠可被下候。呉々も辱奉存候。小學五部御もたせ被下奉謝候。望人へ相達可申候。扇頭御揮題是又奉謝候。拙詩、徐雪樵詩扇御擲還被下、接收仕候。御掛物拙題草案失ひ候而今に見出し不申、因而別紙認見候。かやうなる事したゝめ候而者不宜候半歟。猶かき方も可有歟と存候へども、只今草し候處へ御使來候故、まづ其儘掛御目乞正仕候。不宜思召候はば書改可申候。無御遠慮被仰下度候。又是にても引直し候はば不苦被思召候はば、無御遠慮御直し被下、問違たる事も候はば、傍へ御書入御指導可被下候。一二日内使上げ可申候間、其せつは痛刪の上御付還可被下候。長過而不宜候やとも存候。短くちやつと認替可申候や。何分高意被仰下候やう仕度候。匇々拜答、不具。御令政樣へも前日の御禮宜奉頼候。二男御尋被下(候へ共)逐日快方にむかひ候。御放念可被下候。九月十九日。忠次郎。讓四郎樣。」二(にん)(あひだ)(おう)(しう)のいかに(しきり)なりしかが(さう)(けん)せられる。(また)(くわ)(てい)(せう)(がく)(さん)(ちゆう)()()のために(ちから)(いた)した(じやう)(うかゞ)()られる。

 (よく)二十(にち)(くわ)(てい)()(てい)()ひ、()えて二十二(にち)(また)(しよ)()せた。「一昨日(二十日)は色々御みせ被下奉謝候。扨々面白き事共(に候。)其内畫軸題言は妄評別紙かき付候。拙文末の方改、其外こゝかしこ刪潤いたし候。今一應とくと御覽被下、高意殘りなく被仰下候やう仕度候。別紙にも申候通冗に失候癖に而、さしてもなき事迄長々と人のかきたる見苦敷ものに候へど、自運毎々如此に候。程合よく、過不及なきは、何事もかたきものと覺候。呉々も御遠慮なく御痛刪可被下候。其上に而御軸に題可申候。茶山先生へはいつ頃御便あるべきや。一書呈度候。御書状御さし出の頃あひ承度候。獅子巖集へ御かき付被成候一首。苔衣うらなる珠のくもらねばうつるも清き月花の影。甚よろしく覺候。但三の句如何。裏なる珠を鏡にてと被成べくや。秀歌なるべし。書經蔡傳、同講義、御藏本拜借いたし度と二男願候。楷書の法帖御約束(により)差出し候。一、黄庭樂毅(趙臨)一帖。一、續千字文一帖。一、明楷一帖。(明楷一帖の傍に細註して曰く。是は前後錯亂甚しく候。はしたに切々となり候を書林が心なく仕立候故失次候か。所々面白事もみえ候故懸御目候。)甚草々申殘候。頓首、白。趙臨眞草千文一帖も相添候。九月廿二日。醒翁。霞亭樣。」(くわ)(てい)()()(ぶん)(しやう)(じよう)(まん)(うれ)へてゐる。わたくしは(おほ)(その)(ぶん)()まぬゆゑ、()(びやう)如何(いか)なるかを(つまびらか)にしない。()()(がん)(しふ)()(てい)(いう)(きよ)()(おな)じうした(そう)()(れん)()(しふ)なること、(すで)()へるが(ごと)くである。()(てい)(へい)(ぜい)(かい)(しよ)()くせぬことを(たん)じてゐた。(いま)(おほ)(かい)(しよ)(はふ)(てふ)(くわ)(てい)()りたのは、(りん)(しよ)せむがためであつたかとおもはれる。(しよ)(てふ)(てう)(りん)(てう)(しよう)(せつ)(りん)(しよ)であらう。

 二十六(にち)()(てい)(しよ)()()(りう)(さい)()つて(せう)(がく)(さん)(ちゆう)(うれ)(ゆき)()うた。(りう)(さい)(ふく)(しよ)はかうである。「捧讀仕候。愈以戩穀被爲在奉欣然候。前日は能ぞ御光臨被下、千萬奉謝候。小學之事被仰下、社中逐々申聞候所、多分藏書有之、或は返事なしにぐず/\など致、裁に三部片付き申候。右料三十九匁付貴价候。御落掌可被下候。先へより小學會讀始申候。其節又相願候樣可仕候。七部は先趙璧仕候。前日御咄之鯨肉乍些少差上候。御笑味可被成下候。觀楓之事被仰下、少は遊意も動候へ共、近日少々普請に取掛り候故、此度は辜負仕候。未免俗、御捧腹可被下候。家族へ御致意被下、奉厚謝候。即申聞候。小生より宜御禮申上候樣申出候。乍末令閨君へ宜奉憚候。匇々拜復。九月廿六日。行藏。北條讓四郎樣。」(りう)(さい)(まじはり)(くわ)(てい)(げつ)(だう)()とは(おのづか)(その)(おもむき)(こと)にしてゐる。()(てい)(この)(ひと)()けるは、(ほゞ)(ぼう)(さい)()けると(あひ)()たものであつたかも()れない。(この)(しよ)(すゑ)()(しゆ)()()へてある。「陪冠山老侯得風字。寒梁相隔水流東。貴賤雖殊道自同。絃管和潮塵世外。丹青染月玉堂中。新知雜舊談難盡。古義裁今感不窮。君作權衡吾老矣。欲乘海上冷然風。」()(ちゆう)(だい)一の(とう)()(うへ)の二()()(がた)いので、(しばら)(すゐ)(りう)の二()(うづ)めて(うつ)(いだ)した。(また)(かく)()(おほ)(ぬま)(ちく)(けい)(くだ)したものだと(ばう)(しよ)してある。(りう)(さい)()(しふ)(こく)せられたか(いな)かを()らない。その(ちく)(けい)(せい)()うたことは(この)(かん)によつて()ることが()()る。(おほ)(ぬま)(ちく)(けい)()(てん)、一の()(もり)()(あざな)(はく)(けい)(つう)(しよう)()右衞()(もん)(ぶん)(せい)(ねん)十二(ぐわつ)二十四(にち)、六十六(さい)にして歿(ぼつ)した。(はふ)()(じん)(じやう)(ゐん)(とく)(をう)(につ)(せう)()()(はか)()()(やく)(わう)()にある。(まつ)(だひら)(さだ)(つね)(この)(あき)()(しゆ)(えん)(もよほ)したものと()える。(かみ)(くわ)(てい)の二(しよ)(りう)(さい)の一(しよ)(すべ)(はま)()(うぢ)(しめ)(ところ)である。

底本:「鴎外全集」第十八巻、岩波書店
   昭和48年4月23日発行