北條霞亭 (上)
森鴎外
その一
わたくしは伊澤蘭軒を傳するに當つて、筆を行る間に料らずも北條霞亭に逢著した。それは霞亭が福山侯阿部正精に仕へて江戸に召された時、菅茶山は其女姪にして霞亭の妻なる井上氏敬に諭すに、蘭軒を視ること猶父のごとくせよと云ふを以てしたからである。
霞亭の事蹟は頼山陽の墓碣銘に由つて世に知られてゐる。文中わたくしに興味を覺えしめたのは、主として霞亭の嵯峨生活である。霞亭は學成りて未だ仕へざる三十二歳の時、弟碧山一人を挈して嵯峨に棲み、其状隱逸傳中の人に似てゐた。わたくしは甞て少うして大學を出でた比、此の如き夢の胸裡に往來したことがある。しかしわたくしは其事の理想として懷くべくして、行實に現すべからざるを謂つて、これを致す道を講ずるにだに及ばずして罷んだ。彼霞亭は何者ぞ。敢てこれを爲した。霞亭は奈何にしてこれを能くしたのであらうか。是がわたくしの曾て提起した問である。
原來此問は墓に銘した山陽の夙く發した所で、山陽も亦あからさまに解釋するには至らずして已んだ。試に句を摘んで山陽の思量の迹を尋ねて見よう。
「北條君子讓。慕唐陽城爲人。自命一字景陽。甞徴余書其説。時酒閒不遑詳其旨。諾而不果。」按ずるに霞亭の嵯峨は亢宗の及第後に隱れた中條山である。碧山惟長は亢宗の弟堦域である。北條が起つて阿部氏の文學となつたのは陽が起つて徳宗の諫官となつたと相類してゐる。しかし山陽も終に霞亭の口づから説くを聞くことを果さなかつた。
「君葢欲自驗其所學者也。其慕陽城。豈非慕其雖求適己。亦能濟物哉。不然。烏能舍其所樂。而役役以沒也。」是が山陽の忖度する所の霞亭の心事である。山陽は霞亭の自ら説くを聞かなかつたので、已むことを得ずして外よりこれを推求した。霞亭が濟物の志は他をして嵯峨生活の適、嵯峨生活の樂を棄てしめたのであらうと謂ふのである。
問ふことは易い。しかし答ふることは難い。わたくしは書を讀むこと五十年である。そしてわたくしの智識は無數の答へられざる問題の集團である。霞亭は何者ぞ。わたくしは今敢て遽にこれに答へむと欲するのでは無い。わたくしは但これに答ふるに資すべき材料を蒐集して、なるべく完全ならむことを欲する。霞亭の言行を知ること、なるべく細密ならむことを欲する。此稿は此希求より生じた一堆の反故に過ぎない。
わたくしは此稿を公衆の前に開披するに臨んで獨り自ら悲む。何故と云ふに、景陽の情はわたくしの嘗て霞亭と與に偕にした所である。然るに霞亭は、縱ひ褐を福山に解いてより後、いかばかりの事業をも爲すことを得なかつたとはいへ、猶能く少壯にして嵯峨より起つた。わたくしの中條山の夢は甞て徒に胸裡に往來して、忽ち復消え去つた。わたくしの遲れて一身の間を得たのは、衰殘復起つべからざるに至つた今である。
その二
霞亭の事蹟にして既に世の人に知られてゐるのは、上に記した山陽の墓碣銘の云ふ所である。銘は山陽遺稿に載せてある。
わたくしは巣鴨眞性寺に霞亭の墓を弔つた時、墓石の刻する所を以て對挍して見た。
寺は巣鴨行電車の終點より北行すること數歩の處にある。街の左側に門があつて、入つて本堂前より右折すれば墓地になつてゐる。東西に長く南北に狹い地域の中程に「霞亭先生北條君墓」がある。山陽の自ら撰んで自ら書した墓碣銘は左右背の三面に刻してある。末には「友人頼襄撰并書、孤子退建」と署してある。濱野知三郎さんは此銘が恐くは山陽の絶筆であらうと云ふ。果して然らば是は今少し廣く世に知らるべき筈の金石文字ではなからうか。
今石刻の文を以て對挍するに、刊本遺稿には二三の異同がある。「君病歿於江戸。」石には「病」字が無い。「給三十口。准大監察。」石には「准」が「班」に作つてある。「學主洛閩。而輔以博覽。」石には上に「其」字がある。「有霞亭摘稿、渉筆、嵯峨樵歌、薇山三觀及杜詩插註等。」石には上に「所著」の二字がある。要するに皆小異同である。わたくしは此に其得失を論ずることを欲せない。
山陽の文に見えてゐる霞亭の著述中、杜詩の註を除く外は、皆著者の事蹟を知る資料たるに足るものである。わたくしは蘭軒傳を草するに當つて、夙く霞亭渉筆、嵯峨樵歌、薇山三觀三書の刊本を濱野氏に借りて引用することを得た。薇山三觀は後に歸省詩嚢と合刻せられたが、わたくしは後者の單行本を横山廉次郎さんに借りて讀んだ。剩す所は未見の霞亭摘稿があるのみである。
別に歳寒堂遺稿三卷があつて、濱野氏は將にこれを挍刻せむとしてゐる。卷之一、詩古今體二百六十二首、卷之二、詩古今體二百十五首、卷之三、文三十二首で、末に行道山行記を坿したものである。わたくしは今これを濱野氏に借ることを得た。
霞亭の事蹟を知ること詳ならむを欲するときは、遺稿は讀まざるべからざる書である。わたくしが此文を草するに當つて遺稿を引用することを得るのは、前に刊本三種を讀むことを得たと同じく、並に皆濱野氏の賜である。
わたくしは此に先づ當に蘭軒傳中に引くべくして引くに及ばなかつた詩三首を遺稿中より抄する。霞亭と蘭軒との關係は既に上に見えてゐるが故である。「過蘭軒。孤旅天涯誰共親。官居幸是接芳隣。清風一榻聆君話。洗盡兩旬征路塵。」「從蘭軒處覔梧桐芭蕉。梅李三根對小寮。園庭十畝太蕭條。閒愁剩欲聽秋雨。爲乞青桐與緑蕉。」「雪日書況、寄伊澤澹父、澹父久臥病、予亦因疾廢酒。重裘圍繞護衰躬。坐看雪華飄急風。篁竹盡眠遮仄徑。樓臺如畫出遙空。獨醒長學幽憂客。高臥更憐同病翁。憶得他年乘興處。墨江晩霽掲寒篷。」共に遺稿第二卷の收むる所である。
その三
山陽撰の墓碣銘と、霞亭が著す所の詩文雜録とよりして外、霞亭の事蹟を徴すべきものは當時の書牘である。
霞亭が故郷志摩國的矢を去つたので、父適齋道有は霞亭の弟碧山惟長をして家を繼がしめた。碧山の子が一可、一可の子が新民、新民の子が新助である。此北條新助さんが霞亭の書牘一篋を藏してゐる。わたくしは島田賢平さんに由つて此書牘を借ることを得、頃日これを讀み盡した。書牘は二百餘通あつて、大半は霞亭が適齋と碧山とに與へたものである。的矢の北條氏が歴世これを愛護して一も散佚することなからしめ、今の新助さんに至つたのは、其ピエテエの深厚なること、實に敬重すべきである。此二百餘通の書牘は、わたくしの新に獲た資料中最大にして最有力なるものである。
霞亭が福山藩の文學となつて江戸に客死した時、同藩河村氏の子悔堂退が來つて其箕裘を繼いだ。山陽に請うて養父の墓に銘せしめたのは此悔堂である。悔堂の子が笠峰念祖、笠峰の子が徳太郎である。徳太郎さんは頃日に至るまで近江國蒲生郡苗村村立川守尋常小學校長であつた。笠峰に弟洗藏があつて高橋氏を冒し、現に神邊にゐる。わたくしは濱野知三郎さんに由つて高橋洗藏さんの所藏の書牘數通をも借ることを得た。是は諸友の霞亭に與へたものである。
前記の外、わたくしは福田祿太郎さんの手より許多の系譜、行状、墓表等の謄本を贈られた。霞亭の事蹟を徴すべき資料は概此の如くである。就中わたくしを促して此稿を起さしめたのは、的矢北條氏所藏の霞亭書牘一篋である。
さて霞亭傳を作るには、いかなる體例に從ふべきであらうか。今わたくしの知る所のものを筆に上せて罫漏なからしめむことを欲したなら、わたくしは霞亭を叙すること猶澁江抽齋を叙し伊澤澹父を叙するがごとくなるを便とするであらう。しかし既往はわたくしをして懲毖せしめた、わたくしは簡淨を努めなくてはならない。插叙する所の書牘の如きは、いかに價値大に興趣饒しと以爲ふものと雖、わたくしは敢て其全文を寫し出すことをなさぬであらう。
幸なるは霞亭の生涯に多少の波欄があつて、縱ひいかなる省筆を用ゐて記述せむも、彼藏儲家挍讎家として幕醫の家に生沒した小嶋寶素の事蹟の如く荒凉落莫なる虞の無い事である。
わたくしは此より前記の材料に據つて、霞亭の祖先より、霞亭自己の生涯を經て、其後裔に至るまで、極て簡潔に叙述しようとおもふ。若し其文字の間に、彷彿として霞亭の陽城に私淑した所以が看取せられたなら、わたくしの願は足るであらう。
その四
山陽が霞亭の祖先を叙した文はかうである。「其先出於早雲氏。後仕内藤侯。侯國除。曾祖道益。祖道可。考道有。皆隱醫本邑。」本邑とは志摩國的矢である。
霞亭の遠祖は北條早雲である。霞亭は渉筆を著すに當つて、祖宗の逸事として早雲の事を語つた。世の普く知る所の、早雲が人の三略を講ずるを聞いて、「夫主將之法、務攬英雄之心」に至り、復他を説かしめなかつたと云ふ傳説である。
わたくしはこれを讀んで、霞亭が名將の種と云ふを以て一種のフイエルテエを感じてゐたものかと想ふ。霞亭は恐くはアリストクラチツクな人であつたゞらう。是は後の嵯峨生活の由つて來る所を知るために、等閑視すべからざる事實である。
しかし文獻は早雲より霞亭の曾祖道益に至るまでの連鎖の幾節を闕いてゐる。福山藩に傳ふる所の「北條系圖」の首にはかう云つてある。「天正十八年七月小田原落城せしかば、同年秋北條家の一門家老悉く高野山に登りしが、同年冬山を下り、麓の天野に居住す。其後家祖は志摩鳥羽の城主内藤志摩守忠重に仕へ、其子道益齋の時、内藤家斷絶して浪人となり、同國的屋に隱れ、醫を業とす。」此に「家祖」と云ふものは、其名こそ詳ならね、即霞亭の高祖である。
内藤家の斷絶は和泉守忠勝の時であつた。延寶八年六月二十六日に、芝増上寺に於て前將軍徳川家綱の四十九日の法要が營まれた。此日に忠勝は宿怨あるを以て、丹後國宮津の城主永井信濃守尚長を寺中に斬つた。二十七日忠勝の三萬三千二百石、尚長の七萬石は並に官沒せられ、忠勝は芝青松寺に於て切腹せしめられた。
此時道益は忠勝に仕へてゐたので、的矢に徙つて醫となつた。道益と云ひ、道益齋と云ふは、固より醫となつた後の稱であらう。是が霞亭の曾祖である。
道益には僧俗二人の兄弟があつた。的矢北條氏藏霞亭書牘中に首尾の裂けて失はれた一書がある。是は渉筆に據つて考ふるに、西村及時に與へたものであらう。今其一節を抄する。「曾祖以醫隱於志州的屋村。其節省北條爲北。或稱喜多。同胞三人。弟市之丞某東遊一諸侯へ仕宦いたし候處、不幸にして讒死いたし候。沒落のせつ道益齋兄薙髮出家いたし、則眞英師に候。」是に由つて觀れば、同胞三人の順位は僧眞英、醫師道益、侍市之丞である。
然るに渉筆には「曾祖父道益弟、有了普禪師」と云つてある。そして市之丞の事は見えない。了普は即眞英であらう。此僧は書牘に從へば道益の兄となり、渉筆に從へば其弟となる。渉筆は後年の刪定を經たものなるを思へば、是を定説とすべきであらうか。果して然らば道益に眞英、市之丞の二弟があつたとすべきであらう。
渉筆に據るに、霞亭は及時に請うて了普の事蹟を記せしめた。上に云つた書牘の斷簡に、猶眞英の事が書してある。わたくしは此を以て及時の記の根本史料となすが故に、此に録存する。「則眞英師に候。(此句重出。)書をもとめ候人多く、常に潤筆の資滿嚢有之候處、人に施し又は佛寺を創建いたし候よし。はじめ青の峰辨天の社を建立、又同州三箇所村棲雲庵建立。其外にも有之候へとも相しれ不申。弊家墳墓へ、手寫の千部經藏凾いたし、今に埋み有之候。其外に尺八をよくふかれ候事も申つたへ候。これ等は皆々ほんの兒女子口碑に御坐候。御取捨可被下候。村松に大般若經の書寫有之候よし承り及候。」
その五
霞亭の曾祖道益は享保十一年十月二十八日に歿した。法謚三友道益庵主である。其同胞僧了普は自ら創する所の三箇所村棲雲庵に住んで、遲るること十七年、寛保三年に寂した。
道益に次いで醫業を的矢に行つた道可は、霞亭の祖父である。名は俊立、又玄と號した。明和七年十二月十八日に妻を喪ひ、安永五年十一月二十八日に歿した。法謚を可卯至道庵主と云ふ。孫霞亭の生るるに先だつこと四年である。
道益の後は道有が襲いだ。是が霞亭の父である。
道有には孫福公※[#「裕」の縦型]撰の墓表があつて、稍其事蹟を詳にすることが出來る。※[#「裕」の縦型]は裕字の變體である。わたくしの記憶にして欺かずば、渉筆には剞劂氏に誤られてゐたかとおもふ。
道有、名は寛、字は士綽、適齋と號した。延享四年に生れ、二十四歳にして恃を失ひ、三十歳にして怙を失つた。その長男霞亭をまうけたのは、霞亭の生日安永九年九月五日なるより推すに、三十四歳の時である。霞亭の母は中村氏である。想ふに適齋道有は父の歿した後に始て娶つたのではなからうか。中村氏は十六歳にして霞亭を生んだ。
わたくしは霞亭のいかなる家庭に鞠育せられたかを知らむがために、此に墓表中より適齋の人となりを抄する。「先生爲人。氣宇爽朗。聞人一善。若享大賚。聞一不善。若有所失。或讀古人書傳。談前言往蹟。甘心於忠良。切齒於姦佞。宛如吾眼前事。慨然歎詑不措。性嗜酒。但不喜獨飮。日夕邀客對酌。率以爲常。其飮量過人。老而不衰。」霞亭の父は庸人ではなかつたらしい。
わたくしは又墓表に據つて、適齋の醫にして儒であつたことを證することが出來る。「里中弟子。嘗問字學書者。凡七十餘人。」適齋は閭里にあつて人の師となつてゐたのである。適齋は後年其子霞亭をして驥足を伸べしめむがために廢嫡した。わたくしは此非常の擧の由つて來る所を推して、公※[#「裕」の縦型]が諛墓の文を作らなかつたことを知る。
天明四年に霞亭の弟内藏太郎が生れた。名は彦、字は子彦である。適齋三十八、中村氏二十の時の子である。兄霞亭は既に五歳になつてゐた。
渉筆に雪で塑ねた布袋和尚の融けたのに泣いた内藏太郎の可憐な姿が寫されてゐる。是は天明八年霞亭九歳、彦五歳の時の事である。
寛政三年四月三日に適齋の三男貞藏が夭折した。其生日を知らない。恐くは生れて未だ幾ならぬに死したのであらう。時に父四十五、母二十七、兩兄は十二歳と八歳とであつた。
五年には霞亭が十四歳になつた。行状一本に、士人某がこれを相した逸事を載せてゐる。「先生幼にして重遲、戲嬉を好まず。惟演史を讀むを以て歡となす。年十四、里中の兒と出て遊ぶ。一士人あり、熟視久うして其同行に謂て曰く。此子擧止凡兒に異なり。他時必ず大名を成さむ。」
その六
わたくしは霞亭が寛政五年十四歳にして一士人に相せられたことを記した。次年六年閏十一月十四日には偶霞亭同胞の女子英の歿したことが傳へられてゐる。按ずるに霞亭の同胞には四女があつた。山陽は「考娶中村氏、生六男四女」と云つてゐる。長女を縫と云ひ、二女を英と云ひ、三女は死産であつたために名が無く、四女を通と云つた。わたくしは唯英が霞亭十五歳の時に死んだことを知るのみで、其他の女子の生歿を明にしない。通は長じて植田氏に嫁したさうである。
七年には霞亭の弟碧山が生れた。父は四十九、母は三十一、長兄霞亭は十六、仲兄子彦は十二であつた。碧山、名は惟長、字は立敬、通稱は大助である。碧山は霞亭が李白の詩に取つて命じたものである、按ずるに後霞亭が郷を去るに及んで、子彦は既に歿してゐたので、此碧山が立嫡せられたのである。
九年に霞亭は京都に遊學した。渉筆の「予年十八、遊京師」の文より推すことが出來るのである。山陽は單に「幼喜讀書、考以次子立敬承家、聽君遊學、入京及江戸」と云つてゐる。しかしわたくしは碧山立敬の立嫡は霞亭が始て京都に遊んだ年に於てせられたのではあるまいとおもふ。父適齋が十八歳の子彦を措いて、十四歳の碧山を立てたとは信じ難いからである。况や子彦は有望な子で翌年踵を兄霞亭に接して京都に往くのである。若し碧山の立嫡が眞に此年に於てせられたなら、それは適齋が霞亭子彦の二人をして齊しく郷を去つて身を立てしめようとおもひ、ことさらに最少なる碧山を以て嗣子としたと看做すより外無からう。是も亦必ずしも想像すべからざる事ではない。
霞亭は京都にあつて經を皆川淇園に學び、醫を廣岡文臺に學んだ。事は載せて渉筆中にある。淇園は當時六十四歳であつた。文臺の事は多く世に顯れてをらぬが、呉秀三さんの撿する所に據るに、宇津木益夫の日本醫譜に、名は元、字は子長、伊賀の人、古醫方を以て自ら任じ、名を四方に馳す、著す所家刻傷寒論ありと云つてある。霞亭が渉筆に「長予二十五歳、折輩行交予」と云ふより推せば、その霞亭を引見したのは四十三歳の時である。按ずるに霞亭が儒を以て立たむと欲する志は、當時猶未だ決せなかつたであらう。
霞亭は京都にあつて山口凹巷、鈴木小蓮、清水雷首、下田芳澤、本山仲庶等と相識つた。就中凹巷は最親く、後に霞亭の弟を迎へ女壻とするに至つた。次に親かつたのは小蓮であつたらしい。
京都は的矢を距ること遠くもないので、霞亭は屡省親のために歸つたらしい。此丁巳の歳には十二月に歸つたことが渉筆に見えてゐる。
十年は霞亭の京都にあつた第二年である。淇園に從つて東山に遊んだことが渉筆に見えてゐる。文臺は此年伊賀に歸つた。渉筆を閲するに、霞亭は「居無幾、先生歸伊州」と云ふのみであるが、後庚午に文臺を伊賀に訪ふ時、「以十三年睽離之久、期一見於二百里外」と云つてゐる。凹巷も亦「蓋相別十有三年」と云つてゐる。分袂の戊午にあつたことが知られる。
霞亭の弟子彦は此年に的矢より來た。渉筆に「彦、字子彦、通稱内藏太郎、予次弟、寛政戊午遊學京師、師事友人源玫瑰先生」と云つてある。子彦の師源玫瑰名は寵、字は天爵、一號は梅莊、北小路氏、肥後守、後大學介と稱した。
此年的矢に於て霞亭の弟良助が生れた。父五十二、母三十四、兄霞亭十九、子彦十五、立敬四歳の時であつた。
その七
寛政十一年は霞亭の京都にあつた第三年である。夏に入つて弟子彦が尼崎に往つて某寺に寓してゐたのを、霞亭は京都から訪ねに往つて、伴つて的矢に歸つた。子彦は九月十九日に家に歿した。年僅に十六であつた。此年田口氏の女禮以が生れた。後に碧山に適く女である。
十二年は霞亭が淹京の第四年で、事の記すべきものが無い。
享和元年に霞亭は京都を去つたらしい。後に歸省した時、霞亭は「經八年南歸」と云つてゐる。そして其歸省の年は文化五年なるが如くである。是は渉筆中の文である。山口凹巷も亦嵯峨樵歌題詞に「別來已八年」と云つてゐる。「嚴慈」に別れてよりの意で、凹巷霞亭の別を謂つたものではない。二友は文化紀元に江戸で別れたから、南歸後林崎時代に至る間に、いかにしても八年を閲する筈がない。初めわたくしは同じ文より推して、霞亭の京都を去つた年を享和二年としたが、今はその元年なるべきを思ふ。是は後に記すべき證迹がある故である。
享和二年には霞亭の既に江戸に來てゐたことが確證せられる。的矢書牘中に此年の書一通がある。此書は霞亭が壬戌七月二十五日に江戸にあつて裁したものである。
わたくしは此書の全文を寫すことのタンタシヨンを感ずる。書の的矢書牘中最古のものなるを思へば、此タンタシヨンは愈大い。しかしわたくしは此念を剋扞してこれを略抄するに止める。
書は霞亭の北條大貳に與へたものである。その云ふ所より推すに大貳は別人ではない。父適齋である。わたくしは此に由つて、後に碧山の子儼が大貳と稱したのは、祖父の稱を襲いだものなることを知る。
書は七月二十五日に作られてゐる。何を以てその壬戌なることを知るか。「此節諸國出水之噂都下日々に御座候。別而上方邊京大坂江州大水之よしに承り候。御國邊は如何に候哉無心元奉存候。委細御樣子等御示し可被下候。九州にても有馬樣御領には山つなみ等も有之候よし。御當地は左程までも無之候へども先月廿一二日より晦日頃迄雨降つづき申候。下總邊笠井猿が股抔切れ候而、大川筋もあづま橋永代橋新大橋落申候。漸う兩國ばかりのこり申候。三圍土手抔は一面に水つき申候。近年未曾有之事に候。」是は享和二年六七月の交の霖雨洪水を叙したものである。武江年表の「大川は兩國橋のみ通行成る」と符合する。
書は七月二十五日に作られた。しかしそれが江戸より發せられた最初の書ではない。「小子無變勤學罷在候。乍慮外御安意奉希候。然者當二日頃書状差上申候。相達候哉。」霞亭は七月二日頃にも亦既に書を父に寄せたのである。是が江戸に於ける霞亭の最古の消息で、其前年辛酉に霞亭が京都を去つただらうと云ふは、後の南歸の年より推算するに過ぎない。
書には始て霞亭の弟敬助の名が見えてゐる。敬助は壬戌に生れたのである。父五十六、母三十八、兄霞亭二十三、碧山八、良助五歳の時に生れたのである。敬助、初の名は惟寧、後沖、字は澹人と改めた。山口凹巷が迎へて女壻とするのが此敬助である。「御小兒は名慶助と御呼被遊候由承知仕候。慶を敬の字に御かへ被遊候方可然奉存候。其わけは當時西丸大納言樣家慶公と被仰候得者此一字を俗稱に相用候儀憚多く候。下々にては構も無之儀に候へども、讀書生等は其心得も可有事に御坐候間、敬助之方可宜候。」是に由つて觀れば適齋は慶助と命じ、霞亭が敬助と更めさせたのである。
その八
わたくしは霞亭が享和二年七月二日頃に、既に江戸にあつたことを確證し、又其去洛の前年辛酉にあるべきことを言つた。霞亭は江戸にあつて誰に從つて學んだか。行状の一本にはかう云つてある。「後江戸に遊び、龜田鵬齋の塾に寓す。鵬齋深く先生を愛敬す。忘年忘義、視る朋友の如し。其妻に謂て曰。子讓年少と雖ども、志行端愨心なり。恨、一女子の之に配するなきを。」霞亭が鵬齋の塾に寓したことは、行状の云ふ所の如くであらう。しかし霞亭が果して贄を執つて師事したかは疑なきことを得ない。何故と云ふに、これを文書に徴するに、啻に鵬齋が朋友として霞亭を遇したのみでなく、霞亭の言にも亦鵬齋を師とした迹が無いからである。霞亭の鵬齋に從遊したのは何年より何年に至る間であつたか不明である。しかし後に北遊の途に上る前に龜田の塾にゐたことは明である。或は想ふに江戸にある初には未だ鵬齋を見なかつたのではなからうか。霞亭の書牘に鵬齋に言及してゐることは後に引く所に就いて見るべきである。渉筆は「先師淇園先生」を説いて絶て鵬齋を説かない。
享和三年は霞亭が在府の徴證せられてゐる第二年である。此歳癸亥には閏正月があつた。的矢書牘に偶霞亭が閏正月十六日に母中村氏に寄せた書がある。そしてその云ふ所は霞亭の志を知らむがために極て重要なるものである。「私などは世上の事も左のみ何ともぞんじ申さず候。萬事氣づよく心をもち候やふにいたし候。そのわけは左樣に無之候ては、江戸おもてなどには住ひ不被申候。と申て人と爭ふと申樣なる事はすこしもいたし不申候。學問等に精力いだし候へども、これは元來このみ候事故、苦勞とはぞんじ不申、かゑつてたのしみ候事に候。たゞ/\運をひらき候て、少々の祿をももらひ候はゞ父母樣兄弟一所にくらし候はんと、それのみたのしみ申候。それとてもつかみ付樣にも出來候はねど、いづれ今暫三十ぢかくもなり候はゞ、ずいぶん出來候やうに相見え候。此頃友達の松崎太藏と申人二十人扶持に而太田備中樣へ御抱に相成候。無左とも學問成就いたし、藝さへよろしく候はゞ、人のすて置申物には無之候。たゞ/\つとめが第一に候。御在所へかへり候てもよろしく候へども、御在所などにては所せん業わ出來不申、かつ又無用之物になりしまひ候。其段いか計かなげかわしくぞんじ爲參候。何分こゝろざし候事故、金石をちかひ修業こゝろがけ申候。」
霞亭は大志ある人物であつた。此一書は次年の避聘北遊の上にも、八年後の嵯峨幽棲の上にも、一道の光明を投射する。祿を干むるには「つかみ付樣」には出來ない。先づこれを避くるは、後に一層大なるものを獲むと欲するが故である。先づ隱るゝは、後に大に顯れむと欲するが故である。人の行爲の動機は微妙である。縱ひ霞亭の北遊と幽棲とに些のポオズに似たる處があつたとしても、固よりこれが累となすには足らない。
霞亭は母の望を繋がむがために、一友人の發迹を例に引いた。松崎太藏は慊堂復である。行述に「退藏」に作つてある。太田備中守は遠江國佐野郡掛川の城主太田資愛である。慊堂の解褐は前年の事であつた。行述に所謂「享和二年、掛川城主大隆公辟爲藩教授、食俸廿人口」は即是である。
その九
わたくしの上に引いた享和癸亥閏正月十六日に霞亭が母に寄せた書は、わたくしに種々の新事實を教へた。其一は松崎慊堂が霞亭の友人であつたと云ふことである。其二は霞亭の母中村氏の賢であつたことである。中村氏が賢でなかつたなら、其子が書信中に此の如く意を攄べ情を盡すには至らなかつたであらう。
霞亭は書を裁した時二十四歳であつた。學既に成つて師友に推稱せられながら、輕しく質を委ぬることを欲せずして、「いづれ今暫三十ちかくもなり候はゞ、ずいぶん出來候やうに相見え候」と云つてゐる。避聘北遊の好註脚である。啻に然るのみではない。霞亭は三十を踰えても猶持重して、自ら售ることを欲せなかつた。嵯峨生活ある所以である。
わたくしは前に霞亭の廢嫡が必ずしも初て京都に遊んだ年に於てせられなかつただらうと云つた。此書の如きも、わたくしをして此疑を増さしむるものである。引く所の文に據るに、的矢の家の繼嗣は未だ定まつてをらぬ如くである。「少々の祿をももらひ候はゞ、父母樣兄弟一處にくらし候はん」と云ひ、「御在所へかへり候てもよろしく候へども、御在所などにては所せん業わ出來不申」と云ふを見るに、霞亭は大諸侯に仕へ、家を擧げて任に赴かむと欲してゐたらしい。是は廢嫡せられたものの言に似ない。
且同じ書の未だ引かぬ一節を見るに、霞亭は何事をか父適齋に謀つてゐる。「此節少々ぞんじよりもおわし候て親父樣迄御相談申上候義も候」と云つてある。所謂相談は或は即繼嗣問題ではなかつただらうか。後の書に據れば、霞亭は曾て父に謀つた事に手を下さず、父の與へた金を人に委託した。是に由つて觀れば、相談即繼嗣問題にはあらざりし如くである。しかしわたくしは尚其事の或は繼嗣問題に關繋するにはあらざるかを思ふ。
尋で三月二十三日に適齋は書を霞亭に與へ、霞亭は四月十五日にこれに答へた。後者は的矢書牘中にある。此書が癸亥の作に係ることは、霞亭の弟良助が六歳になつてゐるより推すことが出來る。「良助、敬助義は庖瘡無恙御濟被成候由、御同然に目出度奉存候。乍去良助危症等有之、其上怪我等も仕候由、驚入候事に御座候。庖瘡之義は天運に候得者、輕重共に是非もなき事に候得共、怪我抔いたし候は如何之事に候哉。此後は決而小供に負戴致させ候義乍憚御無用に奉存候。嘸々御心勞奉察候。最早日數も過候而常體之由、先々安心仕候。(中略。)良助義もはや六歳に相成候得者、をわれ候はずとも可宜候。もし足にてもかよはく候哉如何と奉存候。」良助は明治五年に七十五歳にして歿した故、其六歳は享和三年に當る。
霞亭は前に某の事を父に謀り、父は其言を容れて金二兩を與へた。しかし霞亭は姑く其事を輟めて金を人に委託した。事は關係する所頗重大なるものの如くである。わたくしは下に書牘の一節を引かうとおもふ。
その十
霞亭が享和癸亥の歳に爲さむと欲して果さなかつた事は、その何事なるを知らぬが、父適齋はこれを許して金を遺つた。「黄白二圓御惠投難有拜受仕候。無據申上候處、御聞捨も不被下、毎々感謝仕候義に候。夫に家政も何歟と御逼窮に乍憚可有御座候。實に不本意之至、萬々恐入愧入候事に候。右御相談申上候義も、先書今頃取計可申と奉存候處、今少し見合候義も有之、先々暫時延引仕候。兎角にせひては事を誤ると申候得ば、萬端相考申候。夫故御惠投之金子も當分入用に無之候故、直樣新兵衞殿へ預け置申候。御返上可仕と奉存候得共、樣子未分明に候故、差控申候。猶又御了簡之程被仰聞可被下候。誠にわづか計之事に候得共、盆前近き候而は、門人等之謝義等もさつはりとれ不申候。しかし是は各別にとんぢやくに及不申候得共、今暫思案仕候事有之候故さしひかへ候。當地熟交之人新兵衞殿抔へも少しも口外いたし不申候。金子被下候義少々不審に思ひ候やうすに候。」
新兵衞は鈴木芙蓉で、霞亭が京都に於て交を結んだ小蓮の父である。霞亭は江戸に來てより、最も親しく此人に交つたと見える。前に母に寄せた書の末にも、「尚又御めんどうながら、鈴木新兵衞殿御内室へ、をくれには候へども、御禮旁御文一通、どのやうにてもよろしく候間、御遣可被下候、それにてわたくし義理相濟候、まい/\ちそうになり申候、これも始終不快にをられ候、かしこ」と云つてある。又父に寄せた此書の首にも、「先月廿三日御状當五日相達、幸と其日芙蓉宅へ參合、直樣拜見仕候」と云つてある。霞亭は屡芙蓉を訪うて其病妻の欵待を受け、剩へ芙蓉の家を以て郷書の屆先となしてゐたのである。
霞亭は癸亥の歳に、既に徒に授け謝を受けてゐた。「門人等之謝義等もさつはりとれ不申候」の文はこれを證して餘ある。然れば霞亭は龜田鵬齋の門人ではなかつたであらう。
或は想ふに、霞亭は當時既に北遊せむと欲し、盤纏足らざるがために、金を父に請うたのではなからうか。學問は既に成つた。的矢へは歸りたくない。仕宦は必ずしも嫌はない。しかし聘を待つて直に就きたくはない。仕ふるには君を擇んで仕へたい。遊歴は緩にこれが謀をなす所以である。北遊は避聘の遊である。此心事は「熟交之人」たる芙蓉と雖、與り聞くことを得なかつた。此推想は中らずと雖遠からざるものではなからうか。
霞亭の癸亥に父に寄せた書には、猶名士數人の名が見えてゐる。先づ昌平黌儒員より抄出する。「薩摩赤崎源助も當年死去いたし候。志村藤藏も死去。聖堂御頼之人物、最早頼彌太郎一人に相成候。彌太郎拙者詩作ほめ申候。先書之中に寫し入御覽候。」
わたくしは下に赤崎、志村、頼の三人のために數語を註して置かうとおもふ。
その十一
享和癸亥に霞亭が父適齋に寄せた書には、赤崎源助の名が見えてゐる。源助は薩摩の儒臣にして幕府に徴された海門楨幹である。其詳傳は不日刊行せらるべき加藤雄吉さんの薩州名家傳に見えてゐる。海門は享和壬戌八月九日六十四歳にして歿した。
青柳東里の續諸家人物誌に「文化中に六十餘にして歿す」と云つてあつて、人名辭書はこれに從つてゐるが、誤である。
次に霞亭は志村藤藏の死を報じてゐる。わたくしは此人の事に關して疑を懷いてゐる。わたくしの藏する初板人名辭書には志村藤藏、志村東藏の二人を載せてゐて、藤藏の下には名字道號並同胞の名が無い。これに反して東藏は陸奧國羽黒堂の人志村五城の弟、志村石溪の兄で、名は時恭、號は東嶼となつてゐる。藤藏も東藏も皆仙臺の儒員である。
又藤藏の下には幕府に徴されたこと、失明して死んだことがある。東藏の下には此等の事を記さない。そして彼は樺島石梁の文に據り、此は仙臺史傳に據つたのである。
わたくしは藤藏と東藏とは同人ではなからうかとおもふ。果して然らば五城士轍の歿した時、石溪弘強が順養子となつて家を繼いだのは、東嶼時恭が失明して先ち歿した故であらう。五城の名士轍、石溪の名弘強は仙臺風藻に從ふ。
霞亭の書に云ふ如く、藤藏も亦享和中に歿した。仙臺風藻には「二年壬戌五月廿四日歿、年五十一、葬仙臺新坂永昌寺」と云つてある。若し五城の弟ならば、兄に先つこと二十九年であつた。五城は天保三年五月十八日に歿した。
霞亭癸亥の書には、赤崎志村が死して頼彌太郎が獨存じてゐると云つてある。春水彌太郎は時に年五十八であつた。
春水は霞亭の詩を稱讚した。書牘の云ふ所に從へば、霞亭は曾て春水の評した詩稿を父に寄示したことがある。
次に霞亭は古賀氏の事を言つてゐる。書牘中適齋の若布を鈴木芙蓉に贈つたことを記して、其下にかう云つてある。「殘りは如仰古賀先生へも差上可申候。當春は古賀へも彼是と大に無沙汰に打過候。何樣近日に參手土産に相成候而至極よろしく候。」
古賀先生は精里樸であらう。是歳精里年五十四、始て經を昌平黌に講じてより十三年、幕府の儒員となつてより九年である。霞亭は後に其長子穀堂と親善になつた。
次に霞亭は鈴木芙蓉父子の事を言つてゐる。「芙蓉も畫事大分行はれ候。文藏も隨分壯健に候。妻にても迎へ候やうに申候。」
文藏は恐くは小蓮の俗稱であらう。時に父芙蓉雍五十五、子小蓮恭二十五であつた。小蓮は霞亭の此書を作つた四月十五日の後四十六日にして麻疹のために早世した。其歿日は六月二日である。此年は四月小、五月大、六月小であつた。
その十二
霞亭が享和癸亥に父適齋に寄せた書には、次に山口凹巷の名が見えてゐる。「山口徴二郎よりも早春便有之候而より來書も無之候。如何に候哉。もし山田へでも御赴之義も候はゞ、御尋可被下候。」是は霞亭が京都に於て交を訂した凹巷玨であらう。通稱の徴二郎は始て此に見えてゐる。凹巷は伊勢の郷里にゐたと見える。
人名の書中に見えたるものは概ね此の如きに過ぎない。的矢の親戚故舊中猶「中西御母君」は歿し、「道快樣」は血屬なる「彌八悴」を養つて子とし、「喜代助」は此に由つて幸を得、「彌八妻」は歿し、「兵吉」の女は痘に娶つて治した。皆大關係なきものゆゑ省略に從ふ。
最後に一事の録存して他日の參照に資すべきものがある。即博愛心鑑序の事である。「博愛心鑑序乍御勞煩御吟味可被下奉頼候。美濃紙半枚許に認有之候。」按ずるに是は霞亭の曾て艸する所の文歟。遺稿には見えない。
癸亥父に寄する書の事は此に終る。
六月二日に鈴木小蓮が痲疹に罹つて歿した。年僅に廿五であつた。霞亭の「題小蓮殘香集尾」にも、「鳴乎遠恥不幸短命、享年纔廿有五」と云つてある。小蓮、名は恭、字は遠恥、通稱は文藏であつた。又同じ人の「祭木遠恥文」にも「年紀差一、登策同科」と云ひ、「君長予一歳」と註してある。安永九年生の霞亭は廿四歳になつてゐたのである。
霞亭が小蓮と京都に相識つたのは、その初て京都に入つた寛政九年である。癸亥に殘香集に跋して、「六年前、余遊學在京師、會木遠恥自江戸來、一見稱知己、三冬同硯席」と云つてゐる。
霞亭は寛政九年十二月に志摩に歸省した時、小蓮を伴つて京都を出た。殘香集の跋には、「余歸省父母乎志州、遠恥偕與行、其往還所經歴、攝和江勢諸州名山勝區、古蹟遺蹤、靡處不到」と云ひ、祭文には、「我覲父母、君謀同征、躡蹻擔簦、山驛水程、登於叡岳、觀乎琶湖、踰乎仙坂、遊於神都」と云つてある。
先づ京都を去つたのは小蓮である。次で霞亭も亦郷に歸つた。跋に「無幾遠恥東歸、余亦相踵歸家郷」と云つてある。霞亭が京都を去つて江戸に來た時、一たび的矢の家を過つたことは推知するに難くないが、霞亭は此に自ら語つてゐるのである。其下に「別來踰年、余亦遂來于江戸」と云ふを見れば、享和辛酉に小蓮は京都より江戸に歸り、又霞亭は同じ年に京都より的矢に歸り、尋で壬戌に江戸に來たのではなからうか。若し殘香集を撿したら、或は年月を徴すべき語があるかも知れない。
霞亭は江戸に來て小蓮に再會し、其父芙蓉と親むに至つた。その鈴木氏の家に往來することの頻であつたことは、上に引いた數通の簡牘に由つて知るべきである。文化甲戌諸家人名録(扇面亭編、龜田鵬齋序)を撿するに、「畫家、鈴木芙蓉、名雍、字文凞、又號老蓮、信濃人、深川三角油堀」と云つてある。霞亭の往來したのは此深川の家歟。然らずんば芙蓉は壬戌癸亥の頃より甲戌に至る間に其居を移したこととなるであらう。
その十三
霞亭の鈴木父子に於ける、親昵上記の如くであつたから、小蓮の遽に疾んで忽ち死した時、霞亭の痛惜は尋常でなかつただらう。二月の前には老蓮が其子のために婦を迎へむとしてゐた。是も此年少の才子に徒に屬せられた幾多の望の一つになつたのである。殘香集跋の「方行萬里、出門車軸折」は、用ゐ來つて切實である。祭文の「入君之室、不見君顏、卷帙堆几、君胡不繙、毫管滿架、君胡不援」も、決して虚構ではなからう。
此よりわたくしの叙事は霞亭の避聘北游の事に入らなくてはならない。初めわたくしは北游を以て次年甲子の年となした。しかし今はその癸亥なることを知つてゐる。
わたくしは甞て山口凹巷の嵯峨樵歌に題して五古中より「下毛路向東、十月朔風吹」の句を引いて、霞亭凹巷二人が十月に下野より東行したことを證した。同じ詩に就いて旅程を考ふるに、二人は多賀城、鹽釜、富山、石卷、高館、中尊寺、泉城、一關を經歴し、歸途常陸の潮來に小留した。わたくしの詩中より求め得た所は此の如きに過ぎなかつた。
頃日濱野知三郎さんは備後に往來し、途次神宮文庫を訪うて凹巷の東奧紀行を閲した。此より紀行がわたくし等に何事を教ふるかを一顧しよう。
凹巷の北游の途に上つたのは、癸亥八月二十九日であつた。紀行に「癸亥八月廿九日故人餞余於南岳樓」と云つてある。
此より下紀行の云ふ所は、濱野氏が考へて月日を誤つてゐるものとなした。紀行の十月は實は九月なるが如くである。
十月(九月)の條に下の文がある。「十三日館于江戸。故人北子讓來訪。本志州人。與余有舊。余將遊奧。要與倶。子讓方被磐城辟。難之。余謂曰。昔者孟襄陽。與故人飮。違韓朝宗期。終身不達而不悔。子何以此辭。爲遂定約。」凹巷の引く所の故事は新唐書の文藝列傳に見えてゐる。「孟浩然、字浩然。襄州襄陽人。少好節義。喜振人患難。隱鹿門山。年四十。乃游京師。嘗於大學賦詩。一座嗟伏。無敢抗。張九齡、王維雅稱道之。維私邀入内署。俄而玄宗至。浩然匿牀下。維以實對。帝喜曰。朕聞其人。而未見也。何懼而匿。詔浩然出。帝問其詩。浩然再拜。自誦所爲。至不才明主棄之句。帝曰卿不求仕。而朕未嘗棄卿。奈何誣我。因放還。採訪使韓朝宗約浩然。偕至京師。欲薦諸朝。會故人至。劇飮歡甚。或曰。君與韓公有期。浩然叱曰。業已飮。遑恤他。卒不赴。朝宗怒辭行。浩然不悔也。」舊唐書の傳は僅に四十四字である。孟は後荊州の從事となり、開元の末に疽背を病んで卒した。凹巷は北條を以て孟に比したのである。
霞亭の北游が避聘の爲だと云ふことは、山陽が已に云つてゐる。「一藩侯欲聘致之。會聯玉來。偕遊奧。以避之。」しかし霞亭を聘せむと欲したものゝ誰なるかを詳にしない。そのこれを記するものは獨凹巷の紀行あるのみである。「子讓方被磐城辟」と云ふものが即是である。
是に由つて觀れば、霞亭を聘せむと欲したものは磐城侯である。陸奧國磐城郡岩城平の城主は、寶暦五年より文化七年に至るまで、安藤對馬守信成であつた。信成は五萬石を食んで、江戸の上屋敷は大名小路にあつた。
その十四
霞亭と山口凹巷とが享和癸亥九月に將に江戸を發せむとした時、偶河崎敬軒が江戸に來てゐた。敬軒は二人を柳橋に餞した。東奧紀行に「十四日(九月)夜、以良佐留江戸、酌別于柳橋酒樓」と云つてある。凹巷の詩がある。「癸亥十月(九月)十四日。河良佐、北子讓、田仲雄及余、飮柳橋酒樓、子讓與余別三年、相見喜甚、約同遊松島、以良佐當竣事先還、是夜叙別、分柳橋酌別四字爲韻、余得酌字。松島風烟懸遠想。柳橋雨月對離酌。千里雖從別在今。三年復見情如昨。故人東去路漫々。斷雁南歸雲漠々。岐蘇棧道誰囘首。微雪滿蓑迷隕蘀。」角田仲雄も亦與に倶に北遊することとなつてゐるのである。仲雄、名は敬之である。
九月十七日に霞亭等は江戸を發して北行した。一行の一の關を經たのは十月七日である。そして二十五日には皆歸つて江戸にゐた。
十月三十日に霞亭は凹巷と品川の酒樓に別を叙した。紀行に曰く。「卅日。雨中別子讓于品川酒店。乘晴更酌。子讓赴磐城。官期在近。磐城前日所道。距江戸五十里。明日復勞各天夢想。不得不泣下也。良佐以十月初旬。歸自木曾道。余(凹巷)歸家。實仲冬十一日也。」凹巷に「品川留別子讓」の詩がある。「南州久客宦遊人。東奧行程共數旬。千里相隨疑是夢。一宵將別恐非眞。海郷疲馬嘶憐夕。山驛寒燈語到晨。膓斷從今顏色遠。離亭坐雨品川濱。」
十二月二十九日に霞亭は舟を隅田川に泛べて遊んだ。事は渉筆に見えてゐる。遺稿を閲するに、當時同遊者は河崎敬軒、池上隣哉の二人で、香を懷にして來て舟中に爇いたのは隣哉である。詩引にかう云つてある。「余昔在都下。社友河良佐、池隣哉祗役自勢南至。一日快雪。余與二子泛舟墨水遊賞。酒酣、隣哉出所齎香爇爐。縷烟裊裊。如坐畫圖中。實享和癸亥十二月除日也。」上に引いた東奧紀行に據るに、敬軒は十月初旬に江戸を發して伊勢に歸つた。その十二月に江戸にあるは怪むべきが如くである。しかし此人の來往の頻であつたことは、茶山集等にも見えてゐる。又霞亭は磐城に赴かむとすと云つてあるが、遂に往かなかつたと見える。
是年癸亥には霞亭は二十四歳であつた。
文化元年には霞亭が五月に武藏國羽生にゐた。行道山行記に「文化紀元夏五月、余再來客武州羽生里」と云つてある。江戸を距ること僅に十六里の地で、門下生の家があつたのだから、是より先にも一遊したと見える。七月十七日に霞亭は下野の行道山に登らむがために、羽生を發した。同行者は二人、「井説、字仲健、井常、字子明、皆羽生人」と云つてある。利根川を濟り、梅原、中谷、茶釜森、大嶋を經て堀工に至つた。茂林寺のある村である。館林、岡野、高根、日向、高松、久保田、梁田を經、渡瀬川を渉り、除川を渡つて足利に宿した。十八日に足利學校を訪ひ、月谷を經て行道山に上り、淨因寺に宿した。十九日に大岩山に上り、毘沙門堂に憩ひ、大岩、吾妻坂を經て、再び除川を渡り、和泉、中里、澁垂、縣、羽刈、小曾根、鶉、日向、冢塲口、館林を過ぎて羽生に歸つた。行道山行記は遺稿に附載してある。末に鵬齋、淇園の評がある。鵬齋は「子讓、名讓、號霞亭、五瀬人、少遊京師、受學於漠園先生、東來荏土、以儒爲業、余山水友也」と云つてゐる。その霞亭を友として遇したことは明である。此羽生の游を除く外、わたくしは事の此年に繋くべきものを見ない。霞亭は甲子二十五歳であつた。
二年は霞亭が相模上總に遊んだ年である。渉筆に據るに、十二月には上總國湯江にゐた。今の君津郡貞元村である。此年にも亦新資料の採るべきものが無い。霞亭は乙丑二十六歳であつた。
その十五
文化三年は霞亭が前年に相模上總に遊び、又將に信濃越後に遊ばむとする時であつた。
霞亭は此年四月五日に書を父適齋に寄せた。書の此年に作られた證は、三月の江戸大火を記してゐると、古屋昔陽の死を記してゐるとの二つを見て足るのである。江戸大火は三月四日に芝車町より出た火事である。昔陽の事は下に註する。書は的矢書牘の一である。
此丙寅の歳には霞亭が龜田鵬齋の塾にゐたことが確である。是が此書のわたくしに教へた最要緊事件である。
此年には三月四日の大火の後、四月三日に「ぼや」があつた。「一昨日も私罷在候近邊上野下山崎町出火に而三町四方ほどやけ申候。とかく火災のはなしのみにてうるさき事に御坐候。乍併最早四月にも相成候故、各別の事も有まじく候。」山崎町は今の萬年町である。霞亭はこれを近邊と稱してゐる。
霞亭は北遊の計畫を語つて、さてかう云つてゐる。「御便はやはり龜田鵬齋先生迄被遊可被下候。」又書中に別に小切が卷き籠めてあつて、それに「江戸下谷金杉中村龜田文左衞門内北條讓四郎」と書してある。是は霞亭が念のために父に示した宛名である。
龜田塾の遺址は今のいづれの地に當るか、わたくしは精しくは知らない。下谷金杉中村は恐くは當時の公の稱呼であつただらう。そして世俗は單に根岸の龜田と云つてゐたであらう。文化の諸家人名録には「學者詩書畫、鵬齋、龜田文左衞門、名長興、字穉龍、又號善身堂、下谷根岸」と記してある。霞亭が龜田の許にゐて、山崎町を近邊と稱したのも、げにもと頷かれる。且霞亭が既に龜田の許にゐて日を經たことも、文中の「やはり」に由つて證することが出來る。
霞亭は後に神邊より鵬齋に詩を寄せて、鵬齋の居を時雨岡と云つてゐる。「夕陽村居寄鵬齋先生。曾期歳晩社爲隣。何事離居寂寞濱。海内論交常自許。尊前吐氣與誰親。夕陽村裏三秋日。時雨岡頭十月春。千里相思難命駕。恨吾長作負心人。」しぐれが岡はしぐれの松のある處で、金杉中村の方位も略想ふべきである。「十月春」の三字も亦等閑看過すべきではないが、わたくしは事の餘りに臆測に亘るを避けて敢て言はない。
次にわたくしは書中より第二北游即丁卯北游の旅程を見出す。「私も去年御噂申上候通、先當分此表は騷々敷も有之候故、暫時越後へ參り可申歎と奉存候。もつとも芙蓉子の參り候處とは方角違に御坐候。同道も一兩人可有之候。先最初參り候處は越後新潟と申處に御坐候。夫より高田邊迄參り候積りに御坐候。(中略。)越後には鵬齋の門人多く候故、甚たよりいたしよく候。」他日北游摘稿を見ることを得たなら、計畫と實施との同異を辨ずることが出來るであらう。
その十六
わたくしは次に霞亭が文化丙寅に父適齋に寄せた書の中より、諸名流の動靜を窺ふべき文を抄出しようとおもふ。
其一は龜田父子である。「龜田氏火災に免かれ候而甚相悦申候。これも此間子息三藏子相應之女子有之、新婚相濟候。」
鵬齋が金杉の家は丙寅の火を免れた。三藏は鵬齋の養子綾瀬長梓である。綾瀬の婦を迎へたのは此頃の事であつたと見える。鵬齋の繼嗣は世に謂ふ取子取婦であつた。此年鵬齋五十五歳、綾瀬二十九歳であつた、「これも」の語は上に何人かの婚姻の事を言つたものゝ如くに讀まれる。しかしこれに應ずる文を闕いてゐる。此書は首が斷れて亡はれてゐるから、或は此の如き文が亡はれた中にあつたかも知れない。
其二は古屋昔陽である。「細川儒臣古屋十次郎此間死去いたし候。」熊本の蔚山町に古屋七左衞門安親と云ふものが住んでゐて、それに鼎助、重次郎兄弟の子があつた。鼎助は愛日齋鼎で、熊本に住んで江戸に往來し、天明十年に六十八歳で歿した。重次郎は昔陽鬲で、江戸に住んで熊本に往來し、文化三年四月朔に七十三歳で歿した。鬲は鼎の順養子である。鬲の家は文化諸家人名録に「日本橋十九文横町」と云つてある。霞亭の書は昔陽歿後四日に作られた。
其三は鈴木芙蓉である。「鈴木芙蓉子、これはやけ不申候得共、此節弟子兩人相つれ候而越後へ參られ候よし。」芙蓉の火を免れたことを想へば、或は既に深川に住んでゐたのではなからうか。丙寅に二弟子を率て越後に遊んだことが知られる。
其四は恐くは益田勤齋であらう。「勤齋も越後に參り申候。」名は濤、字は萬頃、通稱は重藏、下谷和泉橋通に住んだ篆刻家で、亦文化諸家人名録に見えてゐる。是は延燒を免れなかつたことゝ想はれる。
丙寅江戸の大火は諸書に記載せられてはゐるが、わたくしは猶霞亭の書中より數行を抄することの全く無用なるにあらざるべきを思ふ。「此度の大火に而ます/\江戸の大そうなる事相しれ候。三里餘に横七八丁より一里許もやけ候得共、畢竟十分之三分許に御坐候。越後屋白木などは直に翌日六日商賣はじめ候よし。淺草門跡のやけ灰三百兩に相成よし、尤金物釘の類に直段有之候而の事に御坐候。木挽町芝居やけ、堺町ふきや町は殘り候。しかしいづれも此節は皆休み居申候。」「災後は世間一統騷敷、于今一同相片付不申候。(中略。)乍併(中略)町家も五分通はかり(假)宅出來居候。乍去今にやけ原同然に御坐候。困窮の者共御たすけのため公儀より上野山下、本庄、芝赤羽根、護持院原、神田橋外、處々に小屋がけ出來候而、夫にをき候而食物は町々たきだし下され候。是も當四日迄に段々引拂ひ申候。尤此度之大火に付大工日雇之類はかへつて仕合のよしに候。江戸近國並に上方筋等一統のうるをひには相成候事に御坐候。御老中方へは公儀より一萬兩宛之拜借被仰付候。薩州侯は當秋琉球人參り候に付、別而普請相いそぎ候よし、大體二十萬兩位之入用に相聞え候。江戸に相限らず、尾州、津島もやけ、勢州桑名、阿波の徳島等皆々餘程之火災に相聞え候。」琉球の使は十一月に至つて纔に來た。
その十七
霞亭が文化丙寅に父適齋に寄せた書には、尚次弟立敬を教育する方鍼が示してある。「大助素讀等いたし候と奉存候。何卒乍御面倒傷寒論を最初より少々宛御教授可被下候。大體空によみ候位には被成置被下度候。大方今年は十二歳に相成候と覺え申候。定而成長可仕とおもひやられ候。」此語は霞亭が廣岡文臺の舊門人であつたことを思はしめる。
此年丙寅は上に云つた如く、霞亭が將に信濃越後に遊ばむとする時であつた。此遊の詩は恐くは霞亭摘稿に載せてあるであらう。摘稿は世に刊本があるのに、わたくしは未だ寓目しない。北游の日次道程を審にすることを得ぬ所以である。
わたくしは霞亭渉筆を讀んで摘稿を讀まない。しかし鵬齋が凹巷の北陸游稿に序して、霞亭の北游を以て次年丁卯の事となしてゐる。今歳寒堂遺稿を閲すれば、霞亭は早く丙寅八月に越後にあつた。遊は丙寅より丁卯に亘つたのであらう。そしてその江戸を發したのは恐くは丙寅夏秋の交でもあつただらうか。
北游は關根仲彝の邀招に應じたものである。仲彝名は聖民、通稱は司馬助、越後國蒲原郡茨曾根村の人である。初めわたくしは霞亭が京都にある時仲彝と交を結んだことゝ謂つた。山口凹巷の嵯峨樵歌に題する詩に、「憶曾長孺宅、邀君奏塤箎、豪爽人倶逝、長孺及仲彝」と云ひ、下に直に「飄忽君東去、去舟汎不維」を以て接してある故である。今にして思へば此豪爽の十字は插叙に過ぎずして、長孺の死を説くに當つて、併せて仲彝に及んだものではなからうか。
遺稿に載する「關根仲彝墓誌」にはかう云つてある。「仲彝爲人。温柔愛人。性解風流。暇則品茶評香。逍遙乎泉石花竹之間。又好丹青之技。揮寫自娯。毎謂人生不可不讀書講學。而僻郷乏師。莫所就問。常以爲憾。嘗聞予之客江戸。千里馳書。使人介請其北下。予諾之。久而不果。仲彝掃榻。日候予或不至。至神籤卜之。其篤志亦如此云。」是に由つて觀れば、仲彝は未だ嘗て閭門を出でなかつた如くである。
霞亭は越後に入つて、仲彝が茨曾根村の家に舍つた。「予始踵其家。仲彝大喜。揖予執弟子之禮。自此與其弟錫。並案對牀。朝誦夕讀。日進受業。兼以誘後進爲務。適逢中秋。把酒玩月。分韻賦詩。仲彝作七絶。」霞亭は八月十五日には既に關根氏の家にあつた。
既にして仲彝は遽に病に嬰つて死んだ。「居數日。偶感微疾。猶在我側。予戒以宜愼調護。其翌予出寢。碑僕驚慌告急。予就臥内視之。僵然偃伏乎被褥。扶起之。口噤不能言。但微笑而已。家人馳驟。百方祈治。然神益虚。氣益耗。竟不可救。屬絋之際。予親臨之。父母坐於首。妻兒坐於足側。愴然無聊。攀慕罔極。視之簌簌泣下不可禁。是爲文化三年丙寅八月晦日。距生安永八年己亥九月某日。享年二十有八歳。」霞亭と仲彝とは八月に初て相見て、未だ其月を終へずして死別したらしい。鈴木小蓮と云ひ、關根仲彝と云ひ、霞亭の友人弟子には不幸の人が多かつた。
その十八
文化四年三月に霞亭が越後國茨曾根村の關根氏にゐたことは、渉筆に見えてゐる。是は其友仲彝の既に歿した後である。
仲彝の父關根五左衞門榮都は、初妻建部氏が仲彝を遺して去つた後、繼妻吉川氏をしてこれを鞠育せしめ、長ずるに及んで「分産別居」せしめてゐたと云ふ。按ずるに前年丙寅に霞亭の舍つてゐた家は仲彝の家であつた。然るに丙寅八月晦に仲彝が急に病んで歿した時、跡に婦阿部氏と子女五人とが遺つた。「男女五人。長曰達太郎。甫六歳。末産雙男。尚在襁褓。」霞亭は此家に留まつて歳を越すべきではない。
初め仲彝は霞亭を家に迎へた時、弟錫と倶に霞亭の教を受けた。錫は榮都の家より來て講席に列したことであらう。既にして仲彝は歿した。其父榮都は必ずや霞亭を宗家に請じて、錫をして業を受けしめたであらう。此故に丁卯三月に霞亭の寓してゐた家は榮都の家であらう。渉筆の關根氏と書して、仲彝の名を載せぬのも、恐くはこれがためであらう。
此にわたくしは一事を附記して置きたい。上に云つた如く、山口凹巷は嵯峨樵歌の題詩に長孺の死を説いて、併せて仲彝の死に及んだ。長孺はわたくしは初めその何人なるを詳にせなかつた。その雷首清水平八なるべきことを聞いたのは、堀見克禮さんの賜である。頃日濱野氏所藏の河崎誠宇受業録を閲するに、文化十一年甲戌の卷中に「故眉山先生、名公彧、字長孺」の文がある。惜むらくは其氏を載せない。眉山は清水氏の一號歟。猶考ふべきである。
第二北游の時の霞亭の年齡は丙寅二十七歳、丁卯廿八歳であつた。
文化五年は霞亭の故郷的矢に歸つた年である。事は渉筆の「經八年南歸」の文に聯繋してゐて、わたくしの嘗て最も決することを難んじた所である。經八年と云ふ如き計算には二樣の法を用ゐることが出來る。今享和紀元辛酉を以て霞亭が京都を去つた年とする。そして此辛酉の歳を連ねて算するときは經八年は文化五年戊辰となり、此辛酉の歳を離して算するときは六年己巳となる。わたくしは反復思慮した後、霞亭が偶連算法に從つたものとなして看るに至つた。
霞亭は四年丁卯に越後にあつた。わたくしの最初に索め得た其後の消息は、霞亭が七年庚午に伊勢林崎にあつて渉筆を刻せしめたことであつた。其中間には實に戊辰己巳の二年が介在してゐる。
既にしてわたくしは霞亭が林崎にあつて山口凹巷を餞したことを知つた。そして是は必ず凹巷己巳の游の祖筵でなくてはならない。霞亭は六年己巳に既に林崎にゐなくてはならない。
わたくしは後更に己巳よりして戊辰に泝ることの或は實に近かるべきを思つた。下に略わたくしの思索の經過を言はう。
その十九
わたくしは初め霞亭南歸の年を以て、その渉筆を林崎に刻した文化庚午となし、次でその山口凹巷の北游を餞した己巳となし、後には更に泝つて戊辰に至つた。わたくしは下の如くに思量した。霞亭は林崎に寓して凹巷と往來し(咫尺寓林崎)、尋で相挈へて京都に遊んだ。(中間又何樂。伴我游洛師。)その大坂を經て林崎に歸つたのは春盡くる候であつた。(上舟航浪華。雨濕篷不推。勢南春盡歸。花謝緑陰滋。)此春は渉筆を刻した七年庚午の春ではない。庚午は三月初に霞亭が伊賀に往き、林崎に還つた後、春盡くるまで出遊しなかつた年である。又六年己巳の春でもない。己巳三月には凹巷は北游の途に上つてゐた。降つて八年辛未の春となると、霞亭は既に嵯峨に入つてゐる。剩す所は只五年戊辰あるのみである。是がわたくしの霞亭南歸の年を求めて戊辰に溯つた最初の論證である。
次でわたくしは凹巷己巳游稿中細嵐山の條を讀んで、その或は間接に霞亭の戊辰に京都に赴いたことを證するものなるべきを思つた。游稿の文に曰く。「春盡日發松本。三里到岡田。此間有細嵐山。花木盛開。下臨幽㵎。坐巖久憩。因憶去歳三月。與不騫輩游洛。徘徊嵐山之址。今又北遊遇玆勝。細嵐之名與彼有符。」凹巷の戊辰三月に京都に遊んだことは明である。此游は即嵯峨樵歌題詞の「伴我游京師」を謂ふものではなからうか。果して然らば霞亭凹巷不騫皆一行中の人であつたかも知れない。
しかし此等の證據は皆未だわたくしの心を厭飫せしむるに足らなかつた。わたくしの想像は霞亭の南歸を思ふ毎に戊辰己巳の間に彷徨してゐた。
以上わたくしは此問題の時間方面を語つた。しかし問題は啻に時間方面にのみ存するのではない。わたくしは丁卯に霞亭の足跡を追うて越後に至つた。上に記した其後の消息は皆霞亭に伊勢に遭遇してゐる。林崎と云はむも、凹巷不騫等の山田詩社と云はむも、皆伊勢に外ならない。京都の游の如きも亦伊勢よりして游んだものである。
そして此越後と伊勢との間に問題の空間方面があつて存する。霞亭南歸の道は越後、江戸、的矢、伊勢であつただらうか。又は旅程が江戸を經なかつたであらうか。又は霞亭は先づ伊勢に往つて、然る後に的矢に歸省したであらうか。
年月が既に數へ難く、旅程も又尋ね難い。わたくしはとつおいつして輒ち筆を下すことを得なかつた。
此時に方つて濱野氏はわたくしに河崎敬軒の子誠宇松の雜記十一册を借した。受業録と題するもの八册、見聞詩録と題するもの二册、聞見詩文と題するもの一册である。皆濱野氏の新に獲た所である。わたくしはこれを讀みもて行くうちに、聞見詩文中に霞亭の「祭菊池孺人詩並引」を得た。そして此一篇が料らずも上の問題の時間空間兩方面を併せて、一齊に解決の緒に就かしめた。
霞亭が戊辰の歳に的矢に歸つたことは、此に由つて略推窮することが出來る。
霞亭が越後より江戸を經ずして的矢に歸り、然る後に伊勢に往つたことは、此に由つて明確に證することが出來る。
その二十
河崎誠宇の聞見詩文に載する所の霞亭が菊池孺人を祭る詩並に引は、啻にわたくしをして霞亭南歸の年の文化戊辰なるべきを推知せしめ、又その歸程の越後より江戸を經ずして志摩に至つたことを確認せしめたのみではない。わたくしは此に由つて霞亭が入府當初の生計を知つた。其貧窶困阨の状を知つた。是より先、わたくしは既に霞亭が父に二兩金を乞ふを以て一大事となすを見た。しかし未だ其貧困のいかばかりなりしかを悉さなかつたのである。わたくしは又これに由つて霞亭の龜田塾に於ける境遇を知つた。當時龜田一家のこれを器遇することの例に異なるものがあつたのを知つた。わたくしは既に鵬齋が女の妻すべきなきを憾んだことを聞いてゐた。しかし未だ一家の傾倒此の如くなりしことを想はなかつたのである。最後にわたくしは所謂菊池孺人に於て一の客を好む女子を識ることを得て頗るこれを奇とする。ホスピタリテエは尋常女性の具へざる所の徳なるが故である。
聞見詩文中の一篇は詩並に引と題してあるが、實は引が有つて詩が無い。わたくしは深く其詩の佚亡を惜む。
「祭菊池孺人詩並引。(詩闕。)菊池氏龜田士龍先生内人也。君爲人貞潔周致。善愛人。又意氣慷慨。有丈夫氣象。出入其家者。無大小莫不服其徳。凡世間婦女。見他盛服炫燿者。目逆送之。無不艷羨者。君自爲幼稚時。雖見道路衆人中。有縞羅奪目者。不少顧眄。是其大異于尋常者。其行率類此。予在江府日。與先生結忘年交。因屡得接儀範。予時落魄甚。先生及君憐遠客無歸處。館予其家半年餘。相愛之厚。猶親子昆弟。君恐予之窮困或墜志。百方慰籍。勉嚮學。予不事事。典衣沽酒。數至於不能禦寒暑。君輒親針裁以與予。不辭其勞。予嘗游上毛。盤纏甚乏。君憂之。脱所御服。以資其費。毎謂人曰。吾恨無一女子以配子讓。當予之落魄無歸處之日。雖平生親友。不捐背輕侮者殆希矣。而君之信而不疑者。終始如此。豈不亦異乎。後予游越。不復出府下。直歸郷。居無幾。先生書至云。孺人以三月廿六日病歿。其平居。語屡及子。予讀之。驚愕失措。痛哭慟絶。實若喪父母。初予謂。不出數年。再游府下。拜孺人於堂。以謝昔年之恩。不意忽爾遭凶變。鳴呼此恨何時已。追憶往昔。百感交至。殆難爲情矣。今玆三月廿六日當其小祥之辰。道路相隔。不得親掃其墓。因邀社友諸君于某精舍。謹獻時羞之奠。聊寓祭墓之儀云。文化己巳三月廿六日。北條讓拜撰。」
詩は鵬齋の妻菊池氏の小祥日に成つたものである。此日霞亭は社友を某寺に會して菊池氏の靈を祭つた。社友の山田詩社、所謂恒心社の同人なることは言を須たない。
此より逆推すれば菊池氏の死は戊辰三月二十六日である。そして霞亭は自ら郷にあつて訃を得たと云ふ。霞亭が戊辰に的矢に歸つてゐたことは明かである。さて次年己巳に菊池氏を祭つた時には、霞亭は既に林崎書院の長となつてゐたであらう。
因に云ふ。わたくしの濱野氏に聞く所に據れば、鵬齋の菊池氏の死を報じた書は現に高橋洗藏さんの藏儲中にあるさうである。又云ふ。霞亭を見て女の配すべきなきを恨んだのは、行状に云ふ如く鵬齋ではなくて、其妻菊池氏である。しかし鵬齋の見る所も蓋菊池氏と同じかつたであらう。
霞亭は此年戊辰には二十九歳であつた。
その二十一
文化六年には霞亭が既に林崎にゐた。わたくしは上に此年己巳三月二十六日にその龜田鵬齋の亡妻を祭つて、社友を寺院に會したことを擧げた。社友は伊勢山田詩社の同人でなくてはならない。
しかし霞亭が伊勢に來たのは前年戊辰であらうか、將己巳の歳に入つた後であらうか。是も亦新に生ずる問題である。
此に林崎に於ける霞亭の一門人竹田定琮が「辛未仲春」霞亭の嵯峨に徙るを送つた詩がある。其引を讀むに、「霞亭先生教授於林崎學三年、幸不棄菲材如昭者親炙」云云と云つてある。昭は定琮の名である。辛未より泝つて三年と云ふを見れば、霞亭の林崎書院に教授した期間は己巳、庚午、辛未の三年であつて、上戊辰には及ばなかつたであらう。わたくしは竹田の五古を全録するに遑がないから、篇中霞亭の林崎にあつた年數を言ふ二句を抄する。「自君林崎寓。歳序已三移。」即小引の云ふ所と同じである。
以上記し畢つた後、濱野氏はわたくしに山口凹巷の詩題を寄示した。「秋晩從錦江書院、經野逕、訪盟兄子讓于林碕講堂、席上同賦、戊辰晩秋十七日、山口玨」と云ふのである。是に由つて觀れば、霞亭は早く戊辰九月に林崎に來てゐた。定琮の詩は辛未に作つたものではあるが、其三年は辛未を離して算したものであらう歟。
叙して此に至れば、久しく用をなさなかつた的矢書牘が再び用をなすのである。わたくしは先づ其中より「北條御氏御臺所」と云ふ異樣なる宛名のある霞亭の書を擧げる。日附は單に「五日」としてあつて、年もなく月もない。しかし此書は己巳三月五日林崎に於て作られたものゝ如くである。「上方酒參り合有之候はば、毎々御面倒恐入候得共、八升許御調被遊可被下奉願候。これは五升を聯玉君餞別として宴集の節差出し申候。一升は岩淵の易家箕曲半太夫老人へをくりたく、いつぞやより以人ねんごろに招かれ候故、近日參り候約束に候。其節の土産に仕度候間、何卒隨分よき處御世話奉希候。代物これにて不足に候はば、跡より御勘定可申上候。もし良助此方へ御遣被下候とても、母樣御一處に被參候には及申さず候。跡より別段に御越候やう御取計可被下候。」わたくしが此書を以て己巳三月五日の作とするのは凹巷が北游の日程より推すのである。
龜田鵬齋は凹巷の北陸游稿に序して、霞亭と凹巷と自己との北游の前後を説いてゐる。先づ丁卯に霞亭が信越に遊び、次で己巳に凹巷が往き、最後に庚午に自己が往つたと云ふのである。「聯玉之北游、則己巳歳也、先余者僅一年、而後子讓者既三年矣。」霞亭が是より先丙寅に早く越後にあつたことは、關根氏墓誌に見えてゐる。然らば丁卯はその國内を遊覽した年であらうか。凹巷の游稿は首に年月日が註してないが、郷を發して桑津を過ぎたのが己巳三月であつたことは明である。わたくしが霞亭の所謂「宴集」を以て凹巷の所謂「清渚餞宴」となすのは、恐くは牽強ではなからう。三月五日は霞亭の鵬齋の妻菊池氏を祭つた日に先つこと二十一日で、是が霞亭の林崎に於ける最古の消息である。
次に霞亭が父適齋に寄せた七月四日の書がある。「此節虫干最中に而そう/″\敷罷在候」と云つてある。庚午七月には霞亭が既に書院を辭してゐるから、此書は己巳でなくてはならない。
適齋は霞亭に海松を贈り、霞亭はこれを西村及時に分つた。「先日乍序ミルの義申上候處、態と御さし遣被下、其上八藏御遣被下候。御勞煩之義甚恐入候。西村君に遣し候處、悦び申候由に御坐候。私共も賞翫仕候。」私共とは自己と弟碧山とを謂ふ。碧山の伊勢に來てゐたことは下に引く所の書に徴して知るべきである。
霞亭は父に香魚を贈つた。「香魚差上たくあつらへ置候得共、今年は殊之外拂底に候。やう/\少もとめ候。餘り小さく候而味も如何に哉、氣の毒に奉存候。今年は一統すくなきよしに而、私共も一度山田にてたべ候のみに御坐候。又々其内よき便も候はゞ差上申たく心掛可仕候。」氣の毒の義が稍今と異なるを覺える。魚小なるが故に慙ぢて陳謝する意である。書中に「土佐屋の叔母」の厚情を謝する語がある。「叔母」の二字が學者の下す所なるを思へば、或は適齋の弟の妻か。其人を詳にしない。
次にわたくしは霞亭が七月十四日に母に寄せた書を擧げようとおもふ。是も亦庚午のものでないことが明なるが故に、わたくしはこれを己巳の下に繋ける。
その二十二
霞亭が文化己巳七月十四日に母に寄せた書も、亦林崎文庫にあつて作つたものである。「文庫にてはもはや朝夕は餘程すゞしく相成をり候。御手すきにも相成候はゞちとちと御越被遊候樣ねがひ上爲參候。當盆にはわたくし義はさん上不仕候間其段御免被遊下さるべく候。」
霞亭の弟碧山大助が林崎に來てゐたことは上にも云つて置いた。「大助文之助兩人共はきものそんじ候間、此方にては箇やうの類かへつて高くも有之候間、二足御もとめ被遣下さるべく候。料は跡よりさし上可申候。」霞亭は弟の學資を辨じてゐた。文之助は親戚の子か。碧山と共に書院に來り寓してゐたことと見える。
次に九月六日に父に寄せた書がある。「衣物類慥に接手仕候。大助きる物類御序に御便候節御投被下候樣奉頼候。乍併各別入用も無之候間、母樣御肩背痛之節と奉存候故、いつにてもよろしく候。風邪流行之由、御勞煩奉察候。尊體隨分御自玉奉祈候。御閑暇にも相成候はゞ、少し御枉駕奉希候。」
霞亭は父の酒と黒菜とを贈つたのを謝してゐる。「八藏態と御遣被下辱奉存候。佳酒澤山御惠投萬々難有仕合、早速外へも配當仕、尚又一酌大に發散鬱陶仕候。(中略)あらめ調法之品難有奉存候。」
八日には霞亭が書院を出でて還らず、重陽に前田光明寺の詩會に莅んだ。留守の碧山に與へた書がある。「此方色々用事有之、序に相勤歸申候。夜前は風宮御遷宮物見故又々滯留いたし候。今日重陽故社友集會前田光明寺に罷在候間、もし用事出來候はゞ前田迄多吉遣可被成候。尤晩方には歸院可仕候。」
十七日に霞亭の父に寄せた書も、その己巳九月の作なることが稍確である。「當月下旬は春木氏菊圃宴集有之、來月初旬は私共方鳩口紅葉宴有之、何れも詩文出來候事に御坐候。」次年に適齋が春木氏の菊苗を乞ふのは、恐くは此に胚胎してゐるであらう。
適齋は將に道可夫妻の法要を修せむとしてゐた。「霜月には御祖父母樣御遠忌被遊候御噂、其節は拙者も參上進香可仕候。先達而御咄被遊候通、恭敬之意は儉素の方が却而可然奉存候。御子はもとより孫にあたり候までの人まで計を御招被遊可然候。他族は御略し被遊候て可然と存候。」道可は安永五年十一月二十八日に、其妻は明和七年十二月十八日に歿したのである。
霞亭は例に依つて父母に來遊を勸めてゐる。「林碕鳩口邊紅葉もはや大分そめかゝり候。鹿聲も毎夜うけたまわり候。私共ばかりおもしろき幸を得候も餘り勿體なく奉存候。何卒御小閑も候はゞ二三日御遊行奉希候。山中の盃獻上可仕候。又は何方にても御供可仕候。偏に/\奉希候。大人御入相成不申候はゞ、母樣へ御ねがひ申上候。」
霞亭は母に薄荷油を贈つた。恐くは京坂より獲たものであらう。書籍を買つた料金の弔錢が薄荷油となつて來たのである。「薄荷油又々參り候間、母樣へ差上候。先達而書物もとめ候代銀の殘りだけ參り候にて候。費なるものゝやうに奉存候得共、母君御用ひ候てよろしく候はゞ、一段之事に奉存候。」
その二十三
文化己巳九月十七日の書には、霞亭が尚自己と弟碧山と文之助との勤學の状を告げてゐる。「文之助大助共に近頃は甚出精仕候。夜半迄はいつも勤學仕候。詩作等も餘程上り候やうに候。御悦被遊可被下候。却而私義は讀書はかどり不申、是耳苦心仕候。來月よりは一段出精も可仕と心懸罷在候。短日たわいも無之、教授に暇を費し候義かへす/\も可惜と奉存候。又々了簡も仕可申候。」
又父に良助敬助の二弟を教へむことを請うてゐる。「良助慶助素讀不怠候やうに乍御苦勞御教授奉願候。良助論語等そらによみ候やうに仕度候。此間やすき五經素讀本有之候ゆへ求め置候。何卒皆々相應の人物に仕立たきものに候。貧しき等は各別憂ふるにもたり不申候。學業等の出來不申候事、誠に可悲事と奉存候。私此節の心だのしみは我業は勿論大助など成業にも相成可申やうと是耳相たのしみ候事に候。」
次に十一月二十一日に霞亭の父に寄せた書がある。わたくしはその己巳の作なること殆ど疑なきものかと思ふ。果して然らば遠忌の事の畢つた後の書か。「池上氏歸郷被致、先達而之荷物皆々爲御持被下候。餘程之荷物之處、態々堀の御屋敷へ被參御受取被參候由、夫に此節之使者は獻上等無之候故荷つゐで無之、別段人足等かかり候やうすに相見え申候。いづれ懇意中故心配にも及不申候得共、兼々折節先き方よりは賜物等有之候義故、此度は何ぞ謝し申度候。何も思付無之込(困)り入候。毎々申上兼候へども名酒二升許所望仕度奉願候。餘り度々に候故甚御氣之毒奉存候。酒料御算用仕度候。」池上氏は池上鄰哉である。山口凹巷は鄰哉が己巳の春江戸より歸るを期待してゐた。「池上鄰哉。前赴東府。計其歸期。與余北游。倶在三月之初。」想ふに歸期が春より遲れて冬に至つたのではなからうか。鄰哉は江戸より歸り、大坂に於て貨物を受け取つたものか。獻上は幕府に獻ずる謂であらう。堀の屋敷は大坂藏屋敷であらう。
霞亭は此書中に渉筆上梓の計畫を語つてゐる。渉筆は庚午の秋刻成せられた書である。計畫の前年己巳の冬に於てせられたのは、さもあるべき事である。是も亦わたくしをして此書牘の己巳の作なることを想はしめる。
わたくしは此に一の插記したい事がある。それは霞亭摘稿上梓の事である。わたくしは其刊本を見ぬので、何れの年に刻成せられたかを知らない。しかし摘稿は渉筆に先だつて刻せられたものの如くである。的矢書牘中に和氣柳齋の霞亭に與へた書がある。霞亭は東國より的矢に還つて、某年十一月七日に摘稿一部を江戸なる柳齋に贈つた。柳齋は次年正月七日に書を寄せて謝したのである。「僕亦未死候。過三日木芙蓉へ年賀に立寄候處、不圖老兄去霜月七日從志州的屋と云へる一封を得たり。即開封候へば霞亭摘稿也。去十月鵬齋海晏寺行之次手立寄、老兄一先江戸御歸、其後御歸省のよし。(中略。)何卒御書面之通二三年中是非々々御再遊之事奉祈候。(中略。)久々に而御歸省御渾家樣御歡喜不料候由被仰聞、定而之御儀と奉察候。」鵬齋が十月に柳齋を訪ひ、霞亭が十一月に摘稿を柳齋に贈つたのは何年か。霞亭の的矢にあるを見れば、戊辰でなくてはならない。そして柳齋のこれを謝したのは、此年己巳の初であらう。只怪むべきは霞亭が越後より江戸に歸り(一先江戸御歸)、次で南歸した(其後御歸省)と云ふ鵬齋の語である。霞亭の「游越、不復出府下、直歸郷」と云つたのと相反してゐる。或は柳齋が錯り聽いたのか。わたくしは姑く疑を存して置く。
その二十四
文化己巳十一月二十一日に霞亭の父に寄せた書に、渉筆上梓の計畫が見えてゐること上に云つた如くである。「霞亭渉筆不遠取かかり候積りに御坐候。越後關根氏四兩加銀承知被致候。すり立候までは餘程入用も可有之候。(中略)御加銀可被下奉願候。成就之上は追々集り可申候。何卒其御心當て可被下候。」是に由つて觀れば渉筆は林崎書院の板と稱してはあるが、霞亭が貲を捐てて自ら刻し、親戚故舊がこれに助力したのである。
書院にゐる弟碧山は舊に依つて勤學してゐた。「大助此節傷寒論會讀はじめ候。卯之助甚柔和なる者にてよろしく候。何にても俗用之手本類有之候はゞ御かし可被下候。板物にてもよろしく候。」卯之助は何人なるを知らない。新に的矢より來院したものか。
的矢の商賈才がやと云ふものが僧妙超の書を裝潢することを霞亭に託した。「才がやより頼みの表具、たより急に相成、とゞき候時延引いたし候故、間に合申間敷とぞんじ、其儘にてかへり候。如何いたし可申哉。山田にても爲致可申や。御聞可被下候。金百疋私方へ預り置候。かの大燈と申は此間一書にて見當り候。京都紫野大徳寺開基にて、餘程の高僧に候。一休などより前の人に候。右序に御咄可被下候。」才がやは雜賀屋である。裝潢は京都の匠人にあつらへようとしたものであらう。
適齋は二十五日に霞亭の此書に答へた。是も亦的矢書牘にある。霞亭は書を卯之助に託したが、卯之助は的矢に至る途上足を痛めて復命することを得なかつた。「大助と同年扨々氣性弱者」と云つてある。適齋は僕八藏を林崎へ遣り、復書と共に池上氏に贈るべき「伊丹高砂」三升を送致した。
適齋は渉筆の事をも、妙超書幅の事をも言つてゐる。「渉筆不遠取かかり候積り之由、且越後關根氏よりも加銀等有之候由、實に(此間四字不明)至而厚情之趣是又感心仕候。雜賀屋より頼之表具間違に相成候由、右之譯合才がやに咄候處、急に無之候而も宜敷京都へ遣扱被下樣被申候。」刻費の事は末に「正月に至り候得ば出來可申候」と云つてある。
己巳の歳暮は林崎が大雪であつた。霞亭は的矢より母を迎へてゐた。其間霞亭は詩社の友に抑留せられて歸院せざること二三日であつた。留守の碧山に與へた書がある。「十八日」と書してあるから、恐くは十二月十八日であらう。「御母樣御機嫌能可被遊御入奉存候。一昨日より社中諸君強而被留、今日かへり可申候處、此雪に而又々興趣有之、暫時吟酌仕居候。いづれ午後迄には歸り可申候。母樣御參宮にても被遊候はゞ、足下御供にても、又は多吉御供いたし候てなりとも御參宮可被遊候。しかし明日の事に可被成方よろしからむか。」此年霞亭年三十であつた。
文化七年には霞亭が春伊賀に舊師廣岡文臺を訪うた。わたくしは初め此年を以て霞亭南歸の年となした。それは渉筆に戊辰己巳の記事を闕いてゐる故である。
正月二日霞亭は書を的矢の家に遣つて、三日に歸省すべきを報じた。例の「北條樣御臺所」と云ふ宛名である。卯之助が「痰症」を患へて久しく治せぬので、己巳十二月二十七日に人を雇つて送り歸さうとした。しかし雪に阻げられて果さなかつた。是日同行者を得て、書を携へて歸らしめたのである。「兎角病身者故心配に存候。何れ明日參上委曲御咄可申上候。」
その二十五
的矢書牘中に北條適齋が子霞亭に與へた書がある。末に「二月廿八日、北條道有、内宮林崎書院北條讓四郎丈」と書してあり、文中に「伊州行も來月え御延し候由承知仕候」と云つてある。庚午三月に霞亭が舊師廣岡文臺を伊賀に訪うたことは渉筆に見えてゐて、此書の庚午のものたることは明である。
霞亭は文臺を訪ふに先つて、これに書を寄せ、著す所の摘稿を贈つた。高橋洗藏さんは現に文臺のこれに酬いた書を藏してゐる。わたくしは濱野氏を介して其謄本を借ることを得た。しかし古人の國字牘は讀み易からざるものである。故に謄寫に誤謬なきことを保し難い。わたくしの例を破つて此に全文を録するものは、その希有の筆蹟なるを以ての故である。若し人あつて高橋氏の家に就き、その愛護する所の原本を目睹して傳寫の誤を正したなら幸であらう。
文臺の書は三月廿五日に作られた。わたくしはその前年己巳三月なるべきを思ふ。「本月(己巳三月)十日發之芳書、自林宗相達拜見、如來示厥后御疎濶、如何被成御坐候哉と時々存居候へ共、一齋物故、元常も下之關とやらむへ參居候由、何をたつきに御尋申上候樣も無之罷在候所、浮世に存生候得ば、又々御手簡拜見仕候仕合、扨々不存寄御事、未來世に而得貴意候心地、扨東國彼是御遊學之條、刮目候而御著述等拜見、驚入候御事多々忝存候。小子も無據故國へ引取罷在、大凡十箇年を經、何事も心外之事共、犬馬相加、伏櫪千里之志(此四字、謄本は不可讀として闕きたるが故に、假に填む)于今難相止、又々近日出京仕度、種々計畫罷在候得共、所謂足手まとひにて消日仕候心事御推恕可被下候。乍然當年中には出京可仕相樂罷在候。扨摘稿熟讀仕候、句々金玉、龜田子(鵬齋)へも御逢之趣、先達江州中山之一生望月左近と申者江戸へ參候而、鵬齋へ御目にかかり候由申候而、彼是承及申候所、面白き人物之由に候。何卒小子も一度は關東へ罷出度、諸君子へも御尋申上度奉存候得共、最早知命過候而殘念而已に御坐候。萬縷期後音候。御地よりは便不宜候。洞津迄御出被下候はゞ相達可申候。三月廿五。在所伊賀國上野萬町、廣岡文臺。北條讓四郎殿。」
書中文化間に歿したらしい一齋、都會より下の關に往つたらしい元常、並に遽に考ふることが出來ない。霞亭摘稿に應酬の龜田鵬齋に及ぶもののあるべきは言を須たない。鵬齋の平生は、夙く近江國中山の諸生望月左近に由つて文臺に傳へられてゐた。霞亭の書を文臺に致した林宗は商賈の略稱歟。
霞亭は此年庚午三月六日に文臺を伊賀の上野萬町に訪うた。然るに文臺は其月朔に五十六歳にして歿したのであつた。高橋氏に存する一書は死する前一年に作られたものである。
霞亭が文臺の家を訪うた時の事は渉筆に見えてゐる。前に霞亭が自ら遭逢の蹤を叙し、後に凹巷がその霞亭に聞く所のものを記し、係くるに詩一篇を以てしてゐる。「山城客到會君終。悲惋唯疑與夢同。幽火夜燃丹竈雨。落花春送素車風。張元伯墓今誰哭。阮歩兵途昔獨窮。遺卷濟人新副墨。一生心血在斯中。」
その二十六
文化庚午三月朔に廣岡文臺が伊賀の上野に歿し、六日に霞亭が其家に至つたことは既に云つた。霞亭は伊賀より還つて書を父適齋に寄せた。書は的矢書牘中に存してゐるが、惜むらくは末幅が斷ち去られて、日附署名宛名等が闕けてゐる。
書中云ふ所に據れば、霞亭は六日七日の夜を廣岡氏にあつて過し、文臺の墓に詣でて後林崎に還つた。
伊賀の旅は強烈なる感動を霞亭に與へたらしい。そして霞亭はこれを筆に上せて父に報じ、又山口凹巷を訪うてこれを語つた。父に寄する書中事の文臺に關するものは下の如くである。
「先頃申上候通、伊州上野へ尋參、久々に而開積思可申と相樂しみ罷越候處、彼文臺先生當月朔日病死被致候。私參り候處六日待夜の處へ參り候。誠に驚入候次第に御座候。病中は纔に七八日の事に候よし、其中も私事申出され候よし不堪落涙候。醫術學業におゐては無雙之人に候得共、段々不幸相續、貧困に而被終候義實に感慨之至奉存候。無定人世はかなき事共に御坐候。家刻傷寒論當年京大坂の披露相濟、其後東行被致候積りに御坐候處、右之仕合可惜可悲此事に御坐候。小子義も右に付二夜滯留墓參等いたし、直樣罷歸申候。先達而者順により、大坂へ一寸出可申奉存候得共、文臺君歿去に付甚力落心持あしく候故、先々歸院仕候。小弟義當月中者留主にいたし度、外へは歸院之樣子不申候。其故は春時に候故、閑人參り妨げいたしこまり入候。夫に家刻傷寒論挍合並に碑銘序文等之義、伊州に而無據被頼候故、當分者先々閉居可仕候。」
是に由つて觀れば霞亭は三月上旬に伊賀の廣岡氏より歸り、戸を閉ぢ客を謝すること二旬許であつたらしい。
文臺の學術は霞亭の推重すること此の如くであるが、其事蹟は渉筆を除く外、只宇津木益夫の醫譜に見えてゐるのみである。富士川游さんの云ふを聞くに、醫譜は未見の書を引かぬさうである。然らば家刻傷寒論は世に行はれたことであらう。其本には霞亭の序がありや否や。又後藤掃雲さんは伊賀上野の富山專一さんに問ふに、文臺後裔の事を以てしたが、今は住んでをらぬさうである。しかし墓石は或は猶存してゐるであらう。其石には霞亭の誌銘が刻まれたりや否や。
頃日恒軒先生遺詩を閲するに、「弔廣岡文臺先生」の一篇がある。霞亭に由つて文臺を識つたものは、獨凹巷のみではなかつた。「山澤隱醫有癯仙。一朝跨鶴入蒼烟。瀛洲閬苑渺何處。青松白石竟茫然。人間遊戲音容邈。神理獨將遺編傳。早悟仙凡路終隔。何至歳月少周旋。」恒軒は東氏、名は吉尹である。
霞亭は例の如く的矢の父母を迎へて春のなごりを惜ませようとした。「當地花も最早十二三分に相成申候。二三日中には散亂仕候間、何卒明日か明後日あたり、御閑暇に候はゞ一寸御來駕奉希候。(追書。)もし大人樣御出出來兼候はゞ、母樣にても御越可被下奉希候。兩三日過候はゞ、花も空しく相成候間、緩々御越可被下候。右御迎ひ申上度、今日大助わざ/\差上候。」書を的矢に齎したのは碧山大助であつた。
次に的矢書牘中霞亭の三月廿三日に郷里に寄せた書がある。宛名は闕けてゐるが、其語氣と云ひ、その假名文字多き書樣と云ひ、母に寄せたものではなからうか。
此書に據れば、前に立敬が林崎に來り寓した如く、今は弟澹人が踵いで至つた。「敬助義此頃は大になれ候而きげんよくいたし居申候。御安意可被下候。昨日は宮川を見せに參り、大塚君へ立寄候處、種々御馳走かつ御同道に而宮川一覽いたし候。歸路山口へ留主見舞により候。翁に懸御目贅談仕候。御菓子等被下候。其外所々にて菓子等もらひ、夕暮には中の地藏に而うなぎをたべさしくたびれ候樣子御坐候故、駕籠にのせかへり候。おもしろがり候間、おかしき事に候得共、御はなし申上候。彌西村樣ヘ二日にさし遣可申候。西村には同じやうなる子供有之候而、其上河崎氏御子息など往來、却而文庫よりはよろしく可有之とぞんじられ候。とかく私を甚をそれ候やうす有之候。西村君は子供などに甚愛相よき御方に御坐候ゆへ、けつくなれやすく可有御坐、被仰下候通、一兩日は滯留可仕候。(追書。)晦日には八藏早天に御遣可被下候。山口迂齋翁被見候約束に御坐候間、少々用事申付たく候。」
その二十七
わたくしは霞亭が文化庚午三月二十三日に母に寄せた書と覺しきものを上に引いた。書は季弟惟寧(沖)澹人を林崎に招致した時の事を報じたものである。是より先次弟碧山惟長は已に林崎に來てゐた。此年惟長は十六、惟寧は九歳であつた。
霞亭は四月二日を期して澹人を西村氏の家に寄寓せしめようとしてゐる。西村氏は西村及時である。名は維祺、字も維祺、孤笻、看雲、看松、宜堂、鷄肋道人、甘露堂主人、濫巾居士、友石の諸號がある。素封家に生れて禪を修し、詩文手跡を善くした。幼き澹人は霞亭を畏れてゐるが、「愛想よき」及時には或は馴れ易からうと云つてある。
及時には齠齓の兒があつて、そこへ河崎氏の子などが往來するから、澹人がゐなじむに宜しからうと云つてある。河崎氏とは敬軒良佐を謂ふ。
霞亭は澹人を率て宮川を見せに出て、「大塚君へ立寄」つたと云ふ。大塚氏、名は壽、字は士瞻、不騫と號し、東平と稱した。
霞亭は又宮川に遊んだ歸途に、澹人を率て「山ロヘ留主見舞に」立ち寄り、「翁」に逢つたと云ふ。又同じ書に晦日に「山口迂齋翁被見候約束」があると云つてゐる。凹巷の留守は北遊の留守である。翁と云ひ、山口迂齋翁と云ふは凹巷の養父である。凹巷玨は本と遠山白堂の次男長二郎と云つたもので、十四歳にして山口氏に養はれた。玉田耕次郎さんの寫して贈つた東夢亭撰の墓誌には凹巷の養父を迂叟と書してある。迂齋の即迂叟なることは疑を容れない。
霞亭は晦日に來べき迂齋を欵待せむがために、僕八藏を的矢より呼び寄せて準備しようとした。父適齋は二十五日に八藏を林崎へ遣つた。此時八藏の齎した適齋の書が的矢書牘中に存してゐる。
適齋は霞亭が幼弟澹人の世話をしたのを謝してゐる。「實に敬助義も此度は大に相馴居申候由承知仕、大慶仕候。何かと御心遣被成下候段遠察仕、千萬忝存候。」澹人は安んじて及時の許に居るらしく見えたのである。
適齋は八藏を林崎に留むること四日なることを許した。「八藏事廿五日に遣樣被爲申越、則今日差出し申候。定而何かと御用事等可有之候。廿八日頃歸し可被成候。」迂齋の霞亭を訪うた事は傳はつてゐない。適齋は又河崎敬軒に縁つて春木某の菊苗を求めようとした。「菊苗河崎氏に、如何樣之品に而も不苦候、春木氏之作手に二十株許も御無心申くれられ候樣御頼可被下候。」春木某は前年霞亭を招いて菊を賞せしめたことがある。河崎誠宇の受業録に春木南山がある。未だ其同異を詳にしない。京都圖書館に伊勢の神職春木氏の寄附に係る書籍が多く存してゐるさうである。或は其家か。
三十日には霞亭が父母に書を寄せた。二書皆的矢書牘中に存してゐる。例の如く父若くは母を四月十日前に林崎に招請しようとしたのである。
その二十八
霞亭は文化庚午三月盡に書を二親に寄せて、例の如くこれに的矢より林崎に來むことを勸めた。伊賀より歸つて後、身體違和であつたのが、此二三日稍本に復し、陪遊の興が動いたのである。「私義此節は間暇に御座候故、御伺可申上奉存候へども、伊州より歸後、兎角不快に而萬事疎略仕候。御海容奉希候。此兩三日は隨分快き方に御坐候。先日も申上候通御手透も御座候はば、御參宮旁乍御苦勞三四日御來臨可被下樣奉願候。朝熊又は二見の邊にでも御供可仕候。(中略。)可成は十日前に御越可被下候。」是が父適齋に謂つた語である。「此せつはわたくし方殊の外ひまにおはし候あひだ、何とぞ御見合せ被遊御參宮かた/″\たけ山開帳御さんけい御かけ被遊、四五日御とうりう御入被遊候やうねがひ上爲參候。私義もとかく氣分あしくこまり入候。さりながら此兩三日はよほどよろしく候。(中略。)もし御こし被遊候はゞ、三四五日のころよろしく候。十日過には何歟と事しげく候而よろしからず候。おつう迹をしたひ候はゞ、やはり御つれ可被下候。去年の通りに留主御たのみ被遊候やう可然ぞんじ上候。(中略。)立入候事に候へども、御小遣等は此方にてまかなひ可申上候、御用意には及び不申候。御こし被遊候はゞ、はりといとなど御持下さるべく候。ほころび候もの大分有之候。」是が母に謂つた語である。
後者中「たけ山」は朝熊山である。霞亭の書牘に妹通の名の見えたのは此を始とする。霞亭が同胞の女子には、流産の女一人を除く外、縫英通の三女があつた。縫はわたくしの頃日撿し得た所に據れば、十一年前に死んだらしい。英はこれに先つて十六年前に死んだ。推するに庚午に生存してゐたものは此通のみであつただらう。年紀は不詳である。
前二書を裁した次日、四月朔に霞亭は又書を父に寄せた。その報ずる所を數へむに、先づ三月廿六日に詩會があつた。「廿六日持法寺集會も無滯相濟候。諸君御作寫し入御覽候。此内東佐藤二君は御出無之候。」寺號の二字は草體不明である。東は夢亭褧か、若くは恒軒吉尹か、佐藤は子文であらう。次に海老屋の招飮があつた。「廿八日は海老屋隱居へ參り申候。畫などかき、いと/\面しろき老人に御坐候。山口櫻葉館詩會へも相赴申候。」櫻葉館は凹巷の居處である。同じ日に又澹人が西村及時の家に寄寓した。此寄寓は初め四月二日を以てすべきであつたのを繰り上げたものと見える。「敬助入門廿八日首尾能相濟大慶仕候。御安意可被下候。私義昨日(晦)迄彼家に罷在候。追々なじみ可申候。西村君御夫婦並御老母君あつく御憐愛被成下候段不堪感佩候。尚又明後日あたり參り可申候。」此書の末に碧山を的矢に遣ると云つてある。書を齎して往つたのであらう。「大助遣申候。明後日御かへし可被下候。」
越えて三日には碧山が適齋の書を持つて林崎に還つた。九歳の澹人は西村方に居附かぬので、四日に的矢へ還された。事は霞亭が四日に父に遣つた書に見えてゐる。「敬助儀とかくなじみがたく、一昨日長大夫君御携被下候處、何分文庫へ參りたり山田へ行たり、かれこれいたし、其上大助にても良助にても一處に當分西村へ參り居申候はゞなれもいたすべきやとの事に候。色々御家内一統の御深切に被仰聞、わたくしも色々とたらし見候得共、何を申も子供の義、一向聞譯無之、何分二三日的矢へかへりたきよし申候間、ながき事強候も無益の事故、無是非今日かへし申候。扨々いたし方も無之、先頃よりだん/\こん氣をつくし候へども、うまれ付うすく相見え、つよき事もいたしがたく候。最早御遣被下候義御やめ可被下奉希候。」長大夫は及時の通稱歟。
その二十九
わたくしは上に霞亭が文化庚午四月四日に父適齋に寄せた書を引いて、弟澹人が西村及時の家より的矢の親許へ還されたことを言つた。此書には猶春木氏の菊苗の事が見えてゐる。菊苗は適齋が河崎敬軒の手に籍つて請ひ得むと欲したものである。
「菊苗之義は先頃より被仰聞候へども、春木氏は近付には候得共心やすく無之、久良助君などはあの樣なる事には別の人に而申出しにくく候。とかく菊を作候人などには得ては俗氣有之、苗などををしみ候きみ有之物に候。申出し候而くれ不申候へば恥に相成、かつ於私心あしく候。此義は氣之毒に候得共御斷申上候。松坂邊のつてなどに御もとめ被遊候處は無之候哉、其方が可然奉存候。」栽培家の心を忖度し得て妙である。霞亭には愛菊説がある。その言ふ所は或は適齋と語るべくして、春木氏と語るべからざるものであつただらう。久良助は敬軒の通稱歟。
四月二十四日に山口凹巷の父迂叟が霞亭に與へた書と、二十七日に及時が霞亭に與へた書とは、並に的矢書牘中にあつて、わたくしの姑く此に插入せむと欲する所のものである。
迂叟の書は霞亭所藏の鐵函心史を借りて、孫福公裕が謄寫したことを言つてゐる。「鐵凾心史二卷直に孟綽へ遣し申候。然る所一卷は孟綽寫し可申やうに申候。」
鐵函心史は宋末の人鄭思肖の著す所で、明末に至つて發見せられたと云ふことである。思肖、字は億翁、所南と號した。宋史藝文志補に「鄭思肖錦箋集、一百二十圖詩文集一卷」を載せ、知不足齋叢書第二十一集に「一百二十圖詩集、錦箋餘笑附後、鄭所南先生文集」が收めてある。心史は此鄭氏の著だとせられてゐるのである。
霞亭は此書に叙してかう云つてゐる。「鳴呼所南先生於行事。可謂悲矣。宋鼎既移。國破家喪。茫々疆土。四顧無人。猶且欲奮一臂伸大義。至事不可爲。窮餓以死。布衣之節。何其至於此也。夫患難之際。身赴水火。僅償臣子之責。議者且有所憾焉。何况以帝室之冑閥閲之子。委身寇庭。靦面目。榮其爵甘其祿者。視先生何如哉。余更愛先生一心於宋。視異方。不啻犬彘。然似特注意我神皇傳統之國。其泣秋賦曰。東望蓬萊兮。峰烟昏於日本。其指胡元寇我時歟。又曰。天地之大兮。既無所容身。所思不可往兮。今將安之。其欲望援於我耶。彼元兵之暴。絶海來襲也。神明赫怒。起大風。覆沒全軍。十萬衆得還者僅三人。足以寒外人之膽。而長絶覬覦之心。當其時。先生作歌快之。大意謂。醜虜狂悖。敢犯禮義之國。其敗固理也。識亦遠矣。若其遺史。天地鬼神。照臨加護。歴三百年。一旦出人間。一片血誠。貫三光。不可磨滅。其言明白。扶持千古綱常。可以爲天下臣子之法。豈可徒詞章視也哉。」
その三十
宋末鄭所南の著と稱せられてゐる鐵函心史は、我國に於て昔日より稀覯の書であつた。此書が霞亭の手に入つたには來歴がある。
心史は初野間柳谷が藏してゐた。白雲書庫の典籍が散じた時、龜田鵬齋がこれを獲た。霞亭は江戸にあつてこれを鵬齋に借り、携へて郷に還つた。そして霞亭が林崎に寓するに及んで、山口凹巷はこれを霞亭に借りたのである。
霞亭の借りた龜田氏の心史には所々に朱書の評語があつた。霞亭はその或は鵬齋の手に出でたるを疑つて鵬齋に問うた。しかし朱書は白雲書庫藏儲の日に既に有つたのであつた。
濱野氏は高橋氏藏鵬齋手簡の一節を抄してわたくしに示した。鵬齋の霞亭に答へたものである。「鐵凾心史之事被仰下、いつまでも被差置候而不苦候。硃字の評は僕に而無御坐候。是本は百年以前東都に野間安節と申官醫御坐候。是人は都下の藏書家に而、白雲文庫と稱候。珍書奇籍夥敷持居候との事に候。是人の本に而僕二百卷餘り手に入れ插架いたし居候所、窮窘之節轉賣いたし、漸七八部殘り居候までなり。是一部に御坐候。評も其節より有之趣に候。」
凹巷は心史を借りて閲讀し、評の足らざるを補つてこれを校刻せむことを謀つた。霞亭の序は此時に成つたのである。序に曰く。「余昔遊關東。獲之龜田穉龍氏。喜猶得寶簶。携而南歸。示吾友韓聯玉。聯玉慨然謀梓以廣傳。原本有朱書評語。而不完。不知出何人手。聯玉校讀之次。間書所感。續成之。併存入刻。刻成。屬余序之。(下略)。皇文化十三年歳次丙子秋八月。志州後進北條讓謹撰。」
山口板の心史は果して霞亭の序に云ふ如く、此より後六年丙子の歳に至つて刊行せられたであらうか。
市村器堂さんの云ふを聞くに、内閣には現に明槧の完本がある。「内閣文庫圖書目録漢書門類別二、詩文部テ」の下に「鐵函心史七卷、宋鄭思肖撰、明版二」と云ふものが是である。それから本邦活字本が東京帝國大學の圖書館にあり、又市村氏の文庫にある。彼此皆三卷本で、市村氏藏本は三卷を合して一本としてある。三卷本は「咸淳集、大義集、中興集等に止まり、久々書、雜文、大義略序等を闕」いてゐる。そして「卷尾奧附に出板年月及出板者の姓名を記さ」ない。按ずるに此等の本邦活字本は山口板にはあらざるものゝ如くである。
彼本邦活字本は果して何人が何處に於て刻したものであらうか。又山口板にして果して世に行はれたとするなら、これを刻した書肆は京都か大坂か。其書は今存せりや否や。若し存するならば、其刻本は木彫か、活字か、其卷首には霞亭の序が載せられたりや否や。凡此等の事は皆わたくしの未だ審にすること能はざる所である。
その三十一
わたくしは文化庚午四月二十四日に山口凹巷の父迂叟が霞亭に與へた書を引いて、その鄭所南の鐵函心史の事を言ふ一段を抄し、附するに心史略考を以てした。その淺陋觀るに足るものなきは固よりである。わたくしは惟霞亭と心史との關係を明にせむと欲して、料らずも多言の誚を免れざるに至つたのである。
迂叟は彼書中に於て啻に鐵函心史の事を言つたのみでなく、又傷寒論の事を言つた。是より先凹巷は傷寒論に關して、何事をか西村及時に托したものゝ如くである。或は想ふに霞亭は凹巷をして及時に託せしむるに、廣岡文臺の挍本を覆撿することを以てしたのではなからうか。是は稍揣摩に亘る嫌があるが、思ひ寄つたまゝに、姑く此に録して置く。迂叟はかう云つてゐる。「傷寒論は維祺へ向頼置申候由に候。」
要するに鐵函心史と云ひ、傷寒論と云ひ、皆凹巷が霞亭に借りてゐて、これを還さずに北游の途に上つたので、霞亭は留守の迂叟に其書のなりゆきを問うたものであらう。
最後に迂叟は佐藤子文のために畫讚を霞亭に請うてゐる。「竹畫之詩、上に御認被下、佐藤へ御遣し可被下候。」
わたくしは迂叟の四月二十四日の書と共に、及時が同月二十七日に霞亭に與へた書を擧げようとおもふ。此及時の書は霞亭の曾祖道益の同胞であつた僧了普の事を言つてゐる。「了普尊者事跡(中略)如仰建碑等之事は大そうに可有之、御文集中御記録先々被成置候て、尚追て御取計も出來可申奉存候。」
霞亭渉筆に僧眞榮と僧了普との事を記する一文があつて、それを作つたものは及時である。
眞榮は大世古町酒谷氏の家に生れた。得度の後、菊潭の顯證に從ひ、密教を舊御室に受け、諸流儀軌一千百九十本を手寫して、一はこれを御室に藏し、一はこれを伊勢の無量寺に藏した。次で大僧都に任ぜられ、高野大師將來三杵の一と、桂昌院寄施大筆二枝、古硯一枚とを賜はつた。眞榮は又書を善くし、筆法を嶋澤氏に受けた。嶋澤氏は徑山の哲長老の教を傳へたのである。晩年に至り、眞榮は喜見菴を無量寺の境内に營んで棲息した。酒谷氏の宅後に古井があつて、眞榮洗研水の稱がある。眞榮は後越坂に移り、享保七年九月七日、八十八歳にして寂した。是が世に傳ふる所の眞榮の事蹟である。
然るに北條氏と的矢故老との口碑に傳ふる所に據れば、北條道益の同胞了普も亦榮公と稱し、無量寺と稱した。北條氏の家に昔より元旦に懸くる所の掛軸がある。其「一天膏雨、千里仁風」の八字は眞榮の筆である。北條氏の塋域に石經塔があつて、其書も亦眞榮である。了普の建つる所に青峰山旁の天女祠があつて、青峰山には眞榮の匾額がある。
是に於て及時は眞榮と了普との或は同一人物なるべきを思つた。しかし了普の歿年は寛保三年である。及時は遂にかう云つた。「或疑了普學書於眞榮。以其善書。世亦直稱無量寺也歟。」
按ずるに霞亭が及時をしてこれを記せしめたのは、及時が内典に精しかつた故であらう。及時の此柬に徴するに、霞亭は當時碑を了普の舊居棲雲菴の址に立てようとしてゐたと見える。
及時の書を霞亭に寄せた二十七日には、蓮臺寺に集會があつた。「今日蓮臺精舍御出席も無御座遺憾奉存候。」
その三十二
文化庚午四月四日より二十八日に至る間に、霞亭は的矢より母と叔母とを林崎に迎へた。事は二十八日に霞亭が父適齋に寄せた書に見えてゐる。書は的矢書牘中にある。「先日は母樣並に叔母被見候處、無何風情殘念奉存候。」
わたくしは先づ此書が庚午の作だと云ふ證を示さうとおもふ。「仙洞御所七十御賀(去十二月廿五日)御酒宴の御肴裏松家へ拜領、山田春木氏へすそわけ被下候をいたゞき候。ありがたき事に存候間、母樣並に子供へ御いたゞかせ可然候。」當時の仙洞御所は女帝後櫻町天皇でおはしました。降誕の日元文五年八月三日より推せば、七十の賀儀は文化六年に於てせられたであらう。その特に十二月二十五日を以てせられたは何故か未だ考へない。裏松家は裏松前中納言謙光卿であつた。賀筵の肴が裏松、春木の手を經て北條氏の家に至つたのは、中三月を隔てて、次年庚午四月である。所謂肴は恐くは鯣、昆布などの類であつただらう。
霞亭の此書を作つた庚午四月の末には、林崎書院は繁劇の最中であつた。それは幕府が書目を録進することを命じた故である。「此節御老中より當所御奉行へ被仰付、兩文庫書籍目録しらべ御坐候に付、何歟と兩宮共に多用、私方も日々會集御坐候。迷惑なる事に而、私は斷申度候得共夫なりに(相成)、さわがしく候而こまり入候。夫に付書籍皆々取寄せ御坐候。御宅へ參り候書籍等も何卒早便に皆々御返納可被下、乍御面働奉希候。又々追而はかり上可申候、參向人立合に而相しらべ候。乍去別段御遣被下候には及不申、朔日二日あたり迄に御便に御遣可被下候。」兩文庫とは内宮の林崎文庫、外宮の宮崎文庫である。幕府の命を受けた山田奉行は小林筑後守であつた。
霞亭は此忙中にあつて、尚例の如く父の來遊を請うてゐる。「もし御小閒も候はゞ其内兩三日御來駕奉希候。」しかし適齋は此請に應ぜなかつたらしい。
五月朔に霞亭は又折簡して母を招いた。「此節は芝居もはじまり候。しかし各別おもしろくなきよしに候。芝居はともあれ、からすか二見か、どこぞ御供仕たく候。私も久しく他出やめ居申候。二三日許旅行いたし度候。御參宮旁、それにほころび又は仕立物も御ねがひ申上たく候。三四日がけに御こし被遊たく候。あつうならぬ内がよろしく、節句過頃袷とひとへ物にて御こし被遊たく候。どこへも御噂なしに、つい忍びに御出可被下候。おつう御めしつれ候てもよろしく候。八藏におばし候而、御きがへは六左衞門へ御言傳、さきへ御遣被下候てよろしく候。どこへも御出に及不申候故、御衣類も入申まじく、手がるく御こしまち上候。御遷宮の時は又々かくべつ、かへつてそう/″\敷候てよろしからず候。其節は又々御こし可被下候。なんでも事ははやくいたし候方がかちに被存候。鴨の長明が無名抄と申書云々。」からすは辛洲であらう。霞亭の妹通の名が再び見えてゐる。「八藏におば」せは負はすることであらう。或は方言歟。無名抄云々は登蓮法師が薄の事を問はむがために雨中蓑笠を借りて出たと云ふ故事である。文長きが故に省く。
此書の初に「良助も大分おとなしくいたし居申候、御あんじ被下間敷候」の文がある。是に由つて觀れば、啻に立敬澹人の二弟のみならず、今一人の弟良助さへ林崎に來てゐたと見える。良助は立敬の弟、澹人の兄、此年十三歳であつた。
その三十三
文化庚午五月朔に霞亭は母に書を寄せて、切にその的矢より林崎に來遊せむことを請うたが、母のこれに應じたか否かは不明である。
二十四日には霞亭が書を某に與へて酒肴を贈られたことを謝した。某は誰なるを知らぬが、その的矢の二親でないことは、語氣より推すべく、又伊勢人でないことは、「此方より便無之、乍思御無音打過候、御免可被下候、何れ近内幸便委曲可申上候、此便待遠故、匇々」と云ふ文より推すべきである。此書は殆ど抄出するに足らざるが如きものではあるが、わたくしは其中より霞亭の友人二人の名を見出した。
「今日は、毎々被爲掛尊慮、色々重寶之品々御惠投、千萬難有仕合奉存候。先月五日に御遣被下候ものも無相違相達申候。其日高木、宇仁館など參合居、ひもの、ちまき別而賞翫仕候。此酒甚めづらしく別而奉謝候。社友を延候而鰹魚に而引杯可仕候。」
高木、名は舜民、字は厚之、通稱は勘助、呆翁と號した。蔬譜、竹譜の著がある。宇仁館、名は信富、字は清蔚、通稱は太郎大夫、雨航と號した。雨航の此人なることは、三村清三郎さんの教を受けて知つた。二人の姓氏は始て此に見えてゐる。
六月二十日には霞亭が書を弟碧山に與へて林崎を去る時の計畫を告げた。是より先碧山が的矢より林崎に來て、書院に寓してゐたことは上に見えてゐる。碧山が林崎にゐた間屡郷里的矢に往來したことも亦同じである。わたくしは今將に霞亭庚午六月二十日の書を抄せむとするに當つて、尚一事の插記すべきものがある。それは碧山が伊勢にゐた間、終始林崎にのみゐたのでなく、一時佐藤子文の許に寓してゐたかと云ふ問題である。
的矢書牘中に年月の無い霞亭の書がある。口上書の如きもので、紙を卷き畢つた端に、「宇治畑佐藤吉太夫樣にて北條大助樣、用事、同讓四郎」と書してある。「愈御安康珍重奉存候。然者拙者儀五日に御地方へ參り候積りに御坐候。少々用事有之候間、其方一寸御歸宅可被成候。明日六右衞門殿被歸候間、よりもらひ候間、六右衞門と同道に而御歸可被成候。吉太夫樣へ其譯被仰可被下候。今日は別紙、上不申、可然奉頼候。急便早々以上。」吉大夫は子文の通稱である。茶山の大和紀行にも亦通稱が書してある。此書を見れば碧山は既に久しく佐藤氏にあるものの如くである。霞亭は將に自ら宇治畑に徃かむとして、碧山に一たび歸らむことを命じてゐる。歸るとは何れの地に歸るのであらうか。林崎か、將的矢か。或は想ふに此書は霞亭が林崎を去り的矢に歸つた後のものではなからうか。若し然らば霞亭は弟碧山を佐藤氏に託して林崎を去つたものか。尚考ふべきである。
六月二十日に霞亭の碧山に與へた書は、林崎より的矢へ遣つたものである。霞亭はその撤去すべき林崎を斥して「此表」と云つてゐる。又的矢へ歸ることが、「御郷里へ參上」と云つてあり、二親への言傳が書してあるを見れば、碧山の的矢にゐたことも亦明である。書は的矢書牘の一で、その林崎撤退の事を言ふ文は下の如くである。
その三十四
文化庚午六月二十日に霞亭が弟碧山立敬に與へて林崎撤退の事を言つた文はかうである。「此表之義も廿五六日迄に相片付、河崎氏隱宅へ一先三四日引取居可申相談仕候。其譯は先當月中に此方の暇乞並に用事は一切相仕廻、そふいたし候而朔日二日の内に御郷里へ參上可仕候。荷物之義どういたし候而も、當分之品は各別、河崎迄出し置、貴郷よりの船便へ差出候やう可仕候。左樣思召可被下候。それに付一人に而もたれ候程の物當用之品は八藏にもたせ遣可申候。廿三四日五日あたり迄に是非御遣し可被下候。拙者歸り候節は獨行に而よろしく候。ふと存じ候には盆後備後行荷物等之順も有之、貴郷より大坂舟相頼乘船大坂迄參り可申やと存候。此節海上穩にも有之、勞煩をまぬかれ、且は大船にのり候事終に無之、一奇觀ならんと被存候。しかし如何可有之哉、是はいづれ參上之上相談可仕候。いづれとも山田表は當月限にいたし候而、郷里より直樣出裝之積りに御坐候。社中も凹巷色々心配之筋有之、とかく送行などの義かれこれとおつこうにならぬやういたしたき小生下心に候。」
霞亭は六月二十五六日の頃、林崎書院を辭して河崎敬軒の別業に寄寓せむと欲してゐる。しかし此寄寓は一時の事である。霞亭は此より一たび的矢に還つて告別し、「直樣出裝」しようと云ふ。是は何所へ往くのであるか。
霞亭は「大坂迄參り可申哉と存候」と云つた。しかし大坂は目的地ではなささうである。「盆後備後行荷物」とは何であらうか。霞亭が菅茶山の廉塾に往つたのは三年の後である。或は想ふに霞亭の備後行の端緒は早く此時に萌してゐて、事に阻げられて果さなかつたのであらうか。
霞亭は將に林崎を去らむとする時、校讐抄寫のために忙殺せられた。同じ書にかう云つてある。「此節色々立前の仕事、歐陽公本義等うつしかかり候。詩補傳書き入候。其外何歟と多事、暑中獨居殆困入候。鐵函心史先に差上候分、乍御苦勞匇々御うつし可被下候。」歐陽公本義は歐陽修の毛詩本義十六卷である。詩補傳は清代に至つて宋の范處義の撰とせられた書で、凡三十卷ある。並に通志堂經解中に收められてゐる。霞亭は文庫本に就いて、或はうつし、或は書入をしてゐたのである。その碧山に課して鐵函心史を寫さしめたのは、原本を龜田氏に還さむがためか。果して然らば、上に見えた孟綽の謄寫も、孟綽自己のためにしたのではなくて、諸友が分擔して挍本完成の業を成したのであらうか。
六月二十日の書には霞亭の友人の名を載すること僅に一人のみである。「瓦全よりも書通、これもすぐれ不申候よし、被案候ものに御坐候。」瓦全は柏原氏、名は員仍、字は子由、橘姓、京都の人である。
越て六月二十二日に霞亭は書を父適齋に寄せた。「八藏御遣被下候はゞ、廿六七日に御遣可被下候。其節良助も遣申たく候。」霞亭は林崎を去る時、弟良助をも的矢へ還さうとしてゐるのである。
書中には尚二三の雜事がある。半兵衞と云ふものが的矢より林崎に來た日に、霞亭は山田の詩會に赴いてゐて、欵待することを得なかつた。又霞亭は的矢の某に問ひ合せた事があつて、其報復を待つてゐる。それゆゑ父に彼半兵衞に謝せむことを請ひ、又彼報章の到れりや否やを問うてゐる。文は此に贅せない。
その三十五
文化庚午六月二十八日に、霞亭は既に河崎敬軒の別業にあつて書を的矢なる弟碧山立敬に與へた。是も亦的矢書牘の中にある。文中に「河崎良佐君隱居に暫時罷在候」と云ひ、末に「大世古川崎善五樣宅にて北條讓四郎」と署してある。大世古は町名で、既に僧眞榮の生家酒谷氏の事を記した條に見えてゐる。敬軒の通稱は上に引いた書に據れば久良助なるが如くである。或は別に善五の稱があつたか。米山宗臣さんの記には敬軒が「善弼」と稱したと云つてある。猶考ふべきである。
此書も亦主として旅行計畫を説いてゐる。「今日荷物片付居候。河崎行荷等仕たて申候。(中略。)いづれ小生は來月五日夜宇治佐藤氏迄參り、翌六日貴宅へ罷出候。扨舟之儀は如何可仕哉。盆後相應なる便船有之候はゞ、大坂迄のり見申たく候。しかし御雙親樣方並に足下思召は如何。小生は大船はじめてとも存、氣遣なき時節、それに荷物等直樣積入まゐり候義便理かとぞんじ候故に候。舟にいたし候て不苦思召候はゞ、早々御便一寸御しらせ可被下候。さすれば此方にのこし有之候兩がけ二つ直に大坂飛脚に差出し置參り候義やめにいたし、やはり郷里に持參、一所に舟積可仕候。いつも度々御煩勞に候得共、八藏ならでもよろしく候、五日に川崎氏迄御遣し可被下候。その節兩がけもたし、六日同道にていそべ迄參り可申候。もし不被遣候はゞ、荷物飛脚に差出すか、又は其儘預け置參り可申候。此度の川崎舟に積候而はこゝ五六日の間入用の物有之不自由に候故に候。かわご二、一つは備後行書物に候。御受取置可被下候。(中略。)陸にても海にても、先盆後十七八日頃出立と存候。船なれば直ゆへ、此表暇乞等は兩三日中濟し可申候。」要するに霞亭は七月五日夜宇治なる佐藤子文の家に往き、六日に的矢に歸らうとしてゐる。さて盂蘭盆後、七月十七八日に旅程に就かうとしてゐる。その志す方はいづこか、果して備後であつたか、是は上に云つた如く未決の問題である。
霞亭は旅行の準備のために、母を煩すことの甚だしからむを恐れた。書中にかう云つてある。「衣類夜具甚かび參り候。御母樣御ひとりに而何歟手ばり候而恐入候。外人御やとひ被遊可被下樣奉頼候。」
此書も亦文庫本抄寫の事を云々してゐる。「鐵函心史はやく御筆取被下御苦勞奉存候。此方にも色々抄録ものさしつかへ、いまだ片付兼、少々加勢いり候位に御坐候。詩補傳一册何卒三四日迄に是非々々御うつし取可被下候。これは至而祕し候而、向へ參らねばうつさせぬ位に祕重いたし候。其方へ差上候は極内々に而、やはり小生手前に而うつし候積りにいたし候間、小生此方出裝迄に是非に御遣し可被下候。(中略。)何分にも補傳は三日か四日の内御遣し可被下候。右五日に人御遣し被下候はゞ、其便にて隨分よろしく候。」鐵函心史は初より霞亭が碧山をして謄寫せしめむと欲した所である。然るに霞亭は後詩補傳を寫すことをさへ、碧山に併せ託したのである。當時詩補傳の希觀書であつた状况が、此書に由つて窺知せられる。
次は的矢書牘中なる西村及時の書で、七月六日に的矢にある霞亭に與へたものである。此書は菊花を畫いた半切に僅々十行の文字を留めたものであるが、わたくしがためには頗る有用のものとなつた。それは霞亭旅行の目的地を示してゐるが故である。霞亭は備後に往かむとしてゐたのではない。その荷物を備後に遣る所以は不明であるが、備後は霞亭の徃かむと欲する地ではなかつた。
その三十六
文化庚午七月六日は霞亭が宇治の佐藤子文の家より的矢に還るべき日であつた。此日に西村及時が霞亭に與へた小簡がある。及時は囑せられた霞亭の曾祖道益の同胞僧了普の事を記せむことを諾してゐる。霞亭がこれを及時に屬したことは渉筆に見えてゐるのである。「了普闍梨之義御疑惑相成候處、難文乍ら文案取かかり可申、決て御同人相違有間敷候。」所謂疑惑は了普と榮公とは同人なりや異人なりやと云ふに存する。及時は此時猶その同人なるべきを以て答へたのである。
此書には又上に云つた如く、霞亭の旅行の目的地を指示する語がある。「東行御思立被成、如何御用事有之候哉、又は去就かかり候哉覽、無覺束候。」是に由つて觀れば、霞亭は將に江戸に徃かむとしてゐたらしいのである。只及時の艸書は頗る讀み難きが故に、此に引く所にも亦誤讀なきことを保せない。書の末には「七夕前一日、維祺拜、霞亭兄梧右」と書してある。わたくしは因に此に及時の姓氏に就て一言して置きたい。わたくしが及時を西村氏となしたのは、霞亭が「友人西村及時、名維祺、字維祺、(中略)緇林莫不知有及時居士」と云つてゐる故である。然るに濱野氏は凹巷の書中より志毛井維祺を看出した。次で三村米山の二氏も亦維祺の志毛井氏なるを報じた。その同一人なることは明である。猶考ふべきである。
わたくしは的矢書牘中單に「九日」とのみ記してある霞亭の書を此次に列せようとおもふ。何故と云ふに、わたくしは此書を以て庚午七月九日に作られたものとなすからである。書は父適齋に寄せたもので、霞亭は再び林崎に歸つてゐる。
霞亭が既に親を的矢に省して、而る後に林崎に歸つたことは、書中に「誠に此間は寛々御拜顏大慶奉存候」と云つてあるより推せられる。そして江戸行の事が其下に明白に説き出されてゐる。
「關東行の義、山口、西村抔へも相談申候處、菟角いそぎ候方よろしかるべく被申候。九月と申候ても、却而邪魔等はゐり、又ははり合もぬけ可申被存候。何れ來月(八月と書して塗抹し、來月と改めてある)一ばいにかへり候やう急用申參り候故、無據出立と世間へ申置候がよろしからんと皆々被申候。私存候にも、九月迄居申候へば五十日餘の日數延引候故、物入も多く、かつは只今にては吉田舟參り候へば、八日めには江戸著仕候間、かれこれ順よろしく存候間、先盆後二十日頃出船之積りに相決し候間、其段偏に御免許奉希候。御一家中へは書物出來候に付急に用事有之參り、無程歸宅可仕と被仰可被下候。又其外相尋候人も有之候はば、無據内急用にて江戸表より申參り候故、暫時出府いたし候とばかり被仰度存候。左樣候へば、何れ霜月上旬迄には歸國仕可申候。必々御案じ被下間敷候。御遷宮に逢不申候義、少しも殘念には無之候。又々今度の遷宮にも存命はしれたる事に候。山口は西國游行ならば、直に同伴可仕と、たつてすゝめられ候へども、私東行は游覽にては無之、畢竟幾分の緊用に候故、其相談にはのられ不申候。いづれ左樣候へば、十七八日頃又々參上可仕、昨日世話人方へはすでに申出し候處、各別怪しみも不仕、猶又歸國後住院ねがひ候と申位の事に候。書生へは未申出し不申候。」
要するに霞亭は七月十七八日に重て歸省し、さて二十日頃吉田發の舟に上つて江戸に向はうとしてゐるのである。林崎書院を辭する状况は、其世話人が「猶又歸國後住院ねがひ候」と云ふを見て略推することが出來る。霞亭は啻に江戸行の事を及時に諮つたのみならず、又これを山口凹巷に諮つた。按ずるに凹巷は既に北游より歸つてゐたのである。北陸游稿最後の詩は五月十九日に長柄川の鵜飼を觀る七古である。凹巷は美濃より直に伊勢に歸つたのであらう。
その三十七
文化庚午七月九日に霞亭の父適齋に寄せた書には、獨り江戸行の計畫が細説してあるのみではなく、亦林崎を去る時いかに弟立敬、良助二人を處置すべきかの問題が顧慮してある。「文之助十日に御かへし可被下候。何歟と用事も有之、かつ近内朝熊へ參詣爲致可申候。右之順故、大助は先々出立迄書院にさし置可被下候。西村君被仰候は、私留主中良助にをしへ可申やうに被仰下候。夫にては甚よろしく候へ共、御存之良助物覺えわるく、もつとも鈍き分は構なしと被仰候。もしくは大助にても御頼可申上やとぞんじ候。箇樣なる義も何れ近日御相談可申上候。」大助立敬は霞亭の去るに至るまで書院に留め置く筈である。西村及時は霞亭去後に良助を教へようと云つてゐる。しかし良助は記性乏しきものゆゑ、これを及時に託せむも徒勞であらう。寧立敬を及時に託せようか。是が霞亭の意見である。文之助は霞亭の諸弟と共に林崎に來り寓してゐて、屡伊勢志摩の間を使として往來したものと見える。
同じ書に霞亭が歸省の日に文一篇を的矢に遺して置いたことが云つてある。「此間佐野右近序文わすれ參り候。文之助へ御遣可被下候。」佐野右近と云ふものが霞亭のために艸した送序などであらうか。此文は誤讀なきことを保し難い。
七月十七八日の頃に重て的矢に歸省し、二十日の頃に舟に上つて山田を發せようと云ふのが、霞亭の豫定であつた。霞亭の的矢に往つた日は不明であるが、十五日には猶林崎にゐた。高橋氏藏詩箋中、凹巷の七律があつて、「庚午七月既望、同敬軒訪霞亭于林崎書院」云々と題してある。さて的矢に往つた後霞亭は事に阻げられて稽淹したらしい。七月二十二日には霞亭が猶未だ途に上らなかつた。的矢書牘中の二書がこれを證する。其一は河崎敬軒が此日に霞亭に與へた書、其二は高木呆翁、山口凹巷、西村及時の三人が連署して霞亭を祖筵に招請した案内状である。
敬軒の書に據るに、霞亭は當時的矢にゐた。「二尊始御擧家御無事之よし、此方相揃無恙罷在候。乍憚御罣念被下間布候。」是が書牘の首の語である。「乍筆末二尊御始立敬君へ宜被仰可被下候。此度は書状も上げ不申候。」碧山立敬も亦既に的矢に歸つてゐた。
霞亭は前日使を遣して荷物二箇を河崎氏に送つた。敬軒は即日、二十一日に筆を把つて此書の前半を作り、次日又これを補足した。中間に「是より翌朝認」と註してあり、末に「七月二十二日、河崎良佐、北條讓四郎樣御下」と書してある。使人行李の事は二十一日、二十二日の兩日に書する所に係る。「小生御分袂以來俗事甚多、今以晝夜奔走仕候。先日(十二日出)御状被下、早速御返事も可申上處、何角差上候ものも一緒に人出し可申存候而、彼是延引仕候。御宥恕可被下候。今日は御飛脚被下忝奉存候。御荷物二箇御預り申上候。途中大雨に逢しゆへ、荷物大にぬれ申候ゆへ、如何敷候へ共、凹巷君へ持參、上計開封仕候。中は少しもぬれ不申候へ共、袱子などはしぼり候程ぬれ申候。何れ明日上を包直候而増川へ出し置可申候。隣哉より書状も相添可申候。京への荷は油紙包ゆへぬれ不申候。(以上二十一日)荷物入用南鐐一片御遣し被下落手仕候。今廿二日便に増川へ出し置可申候。(以上二十二日)」霞亭は夙く七月十二日に的矢にあつて、書を敬軒に遣したことがあるやうである。歸省は豫定より急にせられ、東行は却つて緩にせられたもの歟。荷物は二箇よりして外、尚京に遣るべきものがあつた。隣哉は池上氏、名は徳隣、字は希白、通稱は衞守、隣哉は其別號である。
その三十八
わたくしは文化庚午七月二十二日に河崎敬軒が霞亭に與へた書に由つて、又變易せられた霞亭上途の日の何日なるかを知り、その水路を棄てゝ陸路に就くべきを推することを得た。「廿三四日頃御出裝のよし。兼而此方にても皆々申候通船行は甚宜しからず、大に迂路、三十里に而ゆかれ申候處を、船にては百里餘にも成候由、其上此節は甚時節あしく、風波も無心元候ゆへ、是非陸路より御出立可然被存候。此節青山生之送詩に、陸程從此平於砥、莫上秋風港口船と申句も有之由承申候。いづれ廿四五日頃御こし被下候うへ御面談可申上候。御送之儀も凹巷君へ委細御談申上置候。社中へは一切噂いたし不申候而、凹巷兩人にて宮川むかひまで罷出可申候。いろ/\用事も御坐候間、先小生宅か凹巷かへ向御こし可被下候。御煩に相成不申樣に、人へもしらせ不申、宜取計可申候。」敬軒は霞亭をして七月二十三日より二十五日に至る間に伊勢に來らしめ、告別した上發軔せしめようとしてゐるのである。「青山生」は東夢亭である。名は褧、字は伯頎、通稱は文亮又一學である。「青山」は霞亭敬軒の記する所に據るに氏なるが如くである。その東と云ひ又「青山」と云ふは何故か、未だ考へない。
次にわたくしは同じ書に由つて、霞亭が備後に往かむと欲するのではないかと云ふ初の推測が、必ずしも誤らなかつたかと思ひかへした。敬軒の文はわたくしをして、霞亭の先づ備後に徃き、それより路を轉じて江戸に向はむとしてゐるかを思はしめる。「凹巷君よりも御噂申上られ候哉、備行路資之儀、社中にて差上可申筈に御坐候へ共、節季後皆々嚢中空虚、心外之至に御坐候。しかし社中取集二圓金許用意仕候。御出立之節獻呈可仕候間、其御積にて不足の處少々御用意可被下候。備までは多分も入不申候。大抵二圓に而可宜候へ共、資乏候而は心ぼそきものに御坐候。しかし空手にて御越に候はゞ、尚御越のうへ凹巷相談じ、可然取計可申候。」備行と云ひ、備までは云々と云ふを見れば、わたくしは上の如く解せざることを得ない。前に見えた備後行荷物の事は此に至つて渙釋したものと看做しても好からう。且霞亭の備後行は山田詩社の委託のために行くものなることが、敬軒の文に由つて推せられる。事の廉塾に聯繋せりや否は未だ考へない。
次に敬軒は同じ書に八景圖と其題詩との事を言つてゐる。「八景いまだ相揃不申候。皆々一圖に一人づつは大形片付申候。詩はいづれも出來、凹巷君に大に御苦勞相掛申候。いづれ明日あたり迄(に)は皆々相揃可申候へ共、今日の便にはえ上げ不申候。其内立敬君御認被下候舞子濱ばかり差上申候。」此八景圖並に題詩の事は未詳である。しかしわたくしに一説がある。わたくしは近ごろ「伊勢十勝詩」乾坤二卷を求め得た。「一櫻木里、二泉水杜、三巖波里、四打越濱、五三津湊、六藤波里、七河邊里、八岡本里、九關河、十大沼橋」を十景とし、毎景詩三十首を題したものである。作者は山田詩社の人々で、中に霞亭の詩が交つてゐる。或は想ふに此十勝は彼八景を補足して成つたのではなからうか。十勝詩二卷は寫本で、詩が指頭大の楷書を用ゐて書してある。そして毎卷「神邊驛閭塾記」の朱文篆印がある。或は想ふに閭塾は即ち廉塾ではなからうか。そして此書は霞亭の手を經て山田詩社が贈つたものではなからうか。
その三十九
文化庚午七月二十二日に河崎敬軒の霞亭に與へた書には尚數事が條記してある。概ね繁碎言ふに足らざるが如くであるが、或は他日此に由つて何事をか發明することがあるかも知れない。
其一。「卷軸漸今日(二十一日)出來仕候。隣哉も此節は私同樣西城の臨時御用にて甚取紛、始終夜中に細工いたされ候ゆへ、甚出來よろしからず、小生より宜御斷申上候樣との事に御坐候。」卷軸は何の書、何の畫であらう歟。池上隣哉が霞亭のために裝し成した所のものである。隣哉は裝潢の事を善くしたと見える。
其二。「諸子御頼申候扇子、其外御認もの、御苦勞之至、夫々相達し可申候。跡より御禮可申出候、」山田詩社の諸友は別に臨んで霞亭の書を乞ひ、霞亭はこれを作つて敬軒の許に送遣し、これをして諸友に交付せしめた。
其三。「先日御願申上候佐佐木照(原註、昭か)元への添書、近頃御苦勞之至恐入候へ共、是は私共の別而御願申上候儀に御坐候間、何卒御出立まで(に)御認被下候樣奉希候。何(れ)料紙さし上申候。何事にても宜候。唯貴兄御覽被下候儀を御認可被下候。十字許を御煩し申上候。」佐佐木氏、照元は書家志頭摩の女である。志頭摩は加賀侯前田綱紀の策名便覽に「一、二十人扶持、組外、書物役、五十三、佐々木志頭摩」と記してある。便覽は寛文十一年に成つたもので、名の上の「五十三」は年齡である。敬軒が特に料紙を遣つて、霞亭をして書せしめむとした十字許の「添書」とはいかなるものであらうか。「唯貴兄御覽被下候儀を御認可被下候」と云ふより推するに、敬軒は佐佐木氏藏儲品のために識語を霞亭に求めたものか。
其四。「龜卜傳、辱奉存候。謹而恩(此字不明)借、尤他見いたさせ申間敷候。丹桂籍いつ迄成共御覽被遊候樣御申入可被下候。書經解二册奉璧、御落手可被下候。漸卒業仕候。律呂通考奉返、是又御落手可被下候。」霞亭藏書にして敬軒の新に借り得たもの一種、曾て借りて今還すもの二種である。丹桂籍は敬軒の所藏で、霞亭は父のためにこれを借りたのではなからうか。丹桂籍を除く外の三書は恐くは國書であらう。龜卜某傳と稱する書は頗多い。書經解は淇園の繹解ではなからうか。律呂通考は、濱野氏に聞くに、太宰春臺の著す所だと云ふ。
其五。「雨航いまだ歸り不申候。」雨航は宇仁館氏である。
前に記した如く、的矢書牘中には七月二十二日に高木呆翁、山口凹巷、西村及時の三人が連署して霞亭を招いた書がある。是は敬軒が書を霞亭に與へたと同日のものである。「明後廿四日社中御餞別申上度候。草庵寺山に而開席候。四つ時御來臨可被下候。右草庵は山御不案内に御坐候はゞ、花月樓に而御聞合可被下候。三君も御同伴被下候へば大悦に候。七月廿二日、高木舜民、山口瑴、西村維旗拜。霞亭詞宗。」署名中山口の名が玨と書せずして瑴と書してある。しかし此二字は原同じであるから、凹巷はどちらをも用ゐてゐたと見える。呆翁等は霞亭を草庵寺山に餞せむと欲して、此書を的矢に遣つたのである。これを書したものは及時である。霞亭の同伴すべき「三君」とは、大助、良助、敬助の三弟ではなからうか。
その四十
文化庚午七月二十四日草庵寺山の祖筵は必ず開かれたことであらう。しかし的矢書牘を除く外何等の記載をも留めざる此間の消息は今十分に闡明することが出來ない。
霞亭は八月九日には江戸に著いてゐる。定て備後を經て來たことであらうが、是も亦詳悉することを得ない。入府の事は的矢書牘に、八月十一日霞亭が父適齋に寄せた書があつてこれを證する。惜むらくは此書は首數行が糊ばなれのために遺失してゐる。「無事當九日著府仕候。都而諸子皆々無事のよしに候。未だ一一尋訪も不仕候。鵬齋君此節北國に被參留主に而甚殘念(に)存候。夫故先々赤坂高林群右衞門方に罷在候。明後々日は觀月旁江の島鎌倉邊へ出懸可申候。舊友和氣行藏同遊仕候。いづれくわしき義は後便可申上候。御状並に御屆物は右申上候高林名當に御遣可被下候。(中略。)赤坂御門内堀織部樣御屋敷高林群右衞門に而。」
龜田鵬齋は山口凹巷の北陸游稿に叙して、「余庚午歳北游、窮覽信越二州之名勝焉」と云つてゐる。又善身堂詩鈔補遺に「庚午歳、余北游到越後三條、宿某宅」の七古がある。鵬齋の江戸を發したのは何日なるを知らぬが、八月九日には既に江戸を去つてゐた。詩鈔補遺に又「留別神保子讓」の七古があつて、其引に「余遊北越既三年」と云ひ、詩中又「今朝離筵別酒時、始覺三年身是客」と云つてゐる。然れば鵬齋は少くも三年北地に淹留してゐた。霞亭の江戸に入つたのは、鵬齋が途に上つてから多く月日を經ざる程の事であつただらう。霞亭が鵬齋をして東道主人たらしめむと欲したことは此書牘に徴して知るべきである。鵬齋が家にあらざる故、霞亭は已むことを得ずして高林群右衞門の家をたよつたのである。高林氏の住所堀織部の屋敷は文化の分限帳に「二千五百石、赤坂御門内、堀織部」と記してある。庚午の役人武鑑には見えない。
霞亭は十四日を以て江の島鎌倉に遊ばうとしてゐる。同行者は和氣柳齋である。聖學並に聖學講義大意を閲するに、彼に「文化七年、歳在庚午、冬十一月朔、江都柳齋主人和氣行藏古道題」とし、此に「文化七庚午歳、武藏鄙人和氣行藏述」と署してある。想ふに庚午は柳齋が町儒者として盛に門戸を張つてゐた時であらう。柳齋筆記は早く五年前(文化二年乙丑冬)に刻せられてゐた。
八月十一日の霞亭の書牘は猶弟碧山立敬の消息を齎す。「大助儀佐藤に罷在候間、御便も候はゞ、人御よせ可被下候。立前も西村君態々御出に而、一二月も立候はゞ、此方へ預り可申樣と被仰候。いづれ遷宮過一たん歸郷可仕候間、よきに御取計可被下候。」
碧山が宇治畑の佐藤子文の許に寓したのは、此文に據るに、霞亭東行の直前であつただらう。西村及時は碧山を佐藤の家より引き取らうとしてゐたのである。末に遷宮過一旦歸郷する筈だと云つてあるのは、霞亭にあらずして碧山である。何故と云ふに、直に此文に接して、霞亭が下の如く云つてゐるからである。「私義當暮迄には罷歸可申候。いづれ所々見のこし候處へ參り可申候。」是が霞亭南歸の豫定期日であつた。
その四十一
霞亭は文化庚午八月九日に江戸に來て、九月十四日に江戸を去つた。初め「當暮迄」と云つてゐた歸郷の期日は、縱令途上に暫留すべき地があつたとしても、著く縮められたのである。
霞亭は何事のために此遠路を往反したか。わたくしは未だこれに答ふる所以を知らない。惟此旅行が渉筆を刊行する事に關係してゐたかと推するのみである。
九月十四日に江戸を發する時、霞亭は書を裁して父適齋に報じた。此書も亦的矢書牘の中にある。「先月中書通申上候通、鵬齋北遊今に歸府無之、都下も一向おもしろからず候。夫に先達而よりの荷物一向著不仕、度々船問屋等吟味いたし候得共、著船無之、如何いたし候哉。段々寒冷におもむき、何歟(と)不都合にて迷惑いたし候。待合せもはてぬ事故、先々此表出立仕候。いまだ諏訪湖並に上州邊の鉢形城跡抔一覽不仕候故、此度は木曾街道をかへり申候。今日出立仕候。月末には歸家可仕候得共、事により候ては上州安中邊に滯留いたし候處も有之候間、おそくなり候とも、必々御案じ被下間敷候。荷物之儀は高林氏へくわしく頼置候。是も船の上へ(二字にて「うへ」)ははて不申候故、飛脚並に冬の春木氏便に頼み可被下候。何の役にもたゝざる荷物を出し申候事に候。」
龜田鵬齋の信越地方より歸らぬことは霞亭の歸期を急にした一因をなしてゐるらしい。霞亭は暫く的矢より來べき荷物を待つてゐたが、遂に荷物の事を高林群右衞門に托して置いて歸途に就いた。そして木曾街道を經て還らうとしてゐる。それは途上見むと欲するものが多い故である。霞亭は江戸に留まること僅に三十六日間であつた。因に云ふ。高橋氏藏詩箋に池上鄰哉、河崎敬軒の霞亭東行を送る詩歌があつて、己巳初秋と書してある。しかし前記の如く、霞亭が己巳七月十四日並に九月六日に林崎より郷親に寄せた書が存してゐて、其中間に東游のあつた形迹がない。猶考ふベきである。
霞亭が木曾路の旅はどうであつたか。その的矢に歸り著いたのはいつであつたか。わたくしは全くこれを知らない。的矢書牘には此より後次年辛未二月の嵯峨生活の時に至るまで、一の年月を知るべき書だに見えない。山陽の墓誌には林崎院長となつてより嵯峨に往くまでの間に何事も叙してない。
しかし此に奇異なる一紙片があつて的矢書牘中より出た。それは末に「讓拜乞政」と署した詩稿である。此詩稿は啻に庚午九月(發江戸)より辛未二月(將入嵯峨留別)に至るまでの唯一の文書として視るべきのみでなく、又前に疑問として遺して置いた霞亭凹巷二人の京游の上に一條の光明を投射するものである。
わたくしは此詩稿に由つて霞亭が庚午十月京都にあつたことを知る。そして此京遊は凹巷が嵯峨樵歌卷首の五古中に叙した京遊でなくてはならぬのである。「中間又何樂、伴我游洛師」は庚午の春ではなかつたが、意外にも庚午の冬であつた。
然らば辛未の二月には霞亭が既に嵯峨に入つてゐたのに、凹巷は何故に「勢南春盡歸、花謝緑陰滋」と云つたか。此間には幾分の矛盾がある。強て解して所謂春盡きて歸つたものは凹巷一人であつたとでも云はうか。下に此二句を承けて「依然舊書院、長謂君在玆、鸞鳳辭荊棘、烏鳶如有疑、卜居擇其勝、相送宮水湄」の數句を以てするはいかゞであらう。此間には幾分の矛盾がある。
庚午十一月の詩稿は下に録する如くである。
その四十二
わたくしの謂ふ所の詩稿は、文化庚午十月某日に霞亭が大原寂光院の比丘尼に欵待せられ、寂如軒に宿する七律一、比丘尼が波玉と銘する櫻材の香盒を贈つた時の七絶二を淡青色の卷紙に書したものである。
「庚午小春、奉訪洛北大原寂光院老尼、見許宿寂如軒、燈下作。孤庵占靜院之西。竹樹近遮流水谿。千秋感憶皇妃詠。一夜情疑仙侶棲。紅葉月埋人沒屐。青苔日厚鹿餘蹄。曉枕聽鐘吾未睡。殘燈影裏雨聲凄。寂光院尼公贈予以香盒一枚、云庭前櫻樹所彫、是樹枯已久矣、古時稱汀櫻者、香盒銘波玉。小盒玲瓏玉樣奇。遺香况與水沈宜。爐霞一片花何在。髣髴春山雲隔時。又。無復落花埋碧漣。上皇遺愛詠空傳。請看掌上盈寸盒。想起春風六百年。讓拜乞政。」
此等の詩は霞亭摘稿刊後の作であるのに、遺稿には見えない、又嵯峨樵歌も只「寄懷寂光院老尼」の七絶を載せて、前年の遭遇を註してゐない。それはとまれかくまれ、此游は山口凹巷の五古に叙する所のものと同じであらう、「中間又何樂。伴我游洛師。台嶽共登臨。淡雲湖色披。鐸聲禪院寂。杉月照罘罳。朝尋西塔路。山靄帶輕𩅰。下嶽過大原。奇縁遇淨尼。梅條横夜庵。櫻渚遶春池。采薇弔平后。題石悲侍姫。岩倉又訪花。林曙聽黄鸝。」大原の淨尼は即寂光院の尼公で、夜庵は即寂如軒であらう。そして梅條以下の叙事は大原に宿した時より後の事であらう。知るべし、寂如軒中の客は霞亭一人ではなくて、霞亭凹巷の二人であつたことを。
此の如く所謂中間の遊が少くも半ば庚午の冬であつたとすると、「勢南春盡歸」は次年辛未の三月盡でなくてはならない。然らば京坂の遊は庚午冬より辛未春に亘り、少くも凹巷一人は三月末に及んで、纔に伊勢に歸ることを得たのであらう。
要するに霞亭凹巷の二人若くは凹巷一人は庚午除夜の鐘を京師の客舍に聽いたことゝなるのである。是年霞亭は三十一歳、凹巷は三十九歳であつた。
序に記す。寂光院の尼は、名を松珠と云つた。紀伊國の産で、當時寂如軒に住し、後大和國宇陀郡宇賀志村天鷚山の紫雲庵に徙つた。霞亭凹巷の二人は三年後に吉野に遊んで松珠に再會する。天鷚山は「距芳野纔五里」である。事は凹巷の芳野游藁に見えてゐる。
以上草し畢つて高橋氏藏詩箋の謄本を閲するに、庚午の臘尾には霞亭は林崎に歸つてゐたことが明である。これを證するものは高木呆翁の詩引である。「霞亭今秋(二字可疑、霞亭詩引云、小春)遊大原寂光院。院主尼公贈以香盒一枚云。庭前櫻樹所彫。是樹枯已久矣。古時稱汀櫻者。霞亭携歸。一日會同社諸君於林崎。出示之。且索詩。分韻各成一絶。」詩は省く。末に「庚午冬日、濫巾呆翁」と署してある。
わたくしは辛未の記事に入るに先つて一事を插叙して置きたい。それは霞亭渉筆印行の顛末に關する事である。今刊本を撿するに、小引には「頃消暑之暇省覽一過、因抄若干條其中、裒爲册子」と云ひ、「文化庚午夏日、天放生北條讓題」と署してある。是は七月に林崎を去る前に書する所である。表紙の見返には「文化七年庚午秋新彫、林崎書院藏」と印し、卷末には「皇都書林梶川七郎兵衞、東都書林須原屋伊八」と印してある。梶川は京都西堀川通高辻上る芸香堂、屋號は錢屋、須原屋は江戸下谷池之端仲町青黎閣、氏は北澤、所謂二代目須伊である。刻成は霞亭東遊の頃であつたらしい。
的矢書牘中に此刻の事を言ふ書二通があつて、一は首尾共に闕け、一は首あつて尾がない。並に霞亭の筆迹なることは疑を容れぬが、その何人に與へしものなるかを詳にし難い。二書の斷簡には皆多少考據に資すべきものがあるから、下に引くことゝする。
その四十三
的矢書牘中渉筆上梓の事を言つた霞亭の書の一はかうである。「霞亭渉筆上木取かかり度候。先達而梶川へ申候處、十行二十字にては木とも二朱位にて彫刻いたし候やう申候。もし御もよりの書林御座候はゞ、尚又御掛引可被下候。大體中位のほりにてどれ位のわりにいたし候哉、乍御面働御聞合可被下候。十行二十字、あき處も間には有之、又ちよつと細書はいり候處も有之、點も有之候。其御心得に而御相談可被下候。種々御勞煩奉察候得共、無據御願申上候。」芸香堂梶川七郎兵衞は上に云ふが如く、京都の書肆で、渉筆を刻したものである。霞亭がこれに交渉したのは文化庚午秋以前であつた筈である。書は何人に與へたものなるか不明なるが故に、所謂最寄の書林の何の地の書林なるかを知らない。書には當時の木板刻費が見えてゐる。
今一通の書はかうである。「態と以大助一筆啓上仕候。寒冷に御座候處、愈御安泰被遊御座、奉欣抃候。先日來者毎々調法之品々御惠被下奉謝候。然者渉筆も最早皆々板刻出來候。菟角挍合點等之間違多く、書中掛合愈わかり兼候。夫に付往來とも十三四日相かかり候而上京仕度候。幸宇仁館太郎大夫殿出坂被致候故同道仕候。」以下は切れて無くなつてゐる。此書も亦その何人に與へたものかを知らぬが、これを齎し去つた伻が碧山であつたことを思へば、伊勢若くは志摩の人に與へたものと看做すべきである。さて此書の作られた時は何時歟。京都の梶川は既に渉筆を刻し畢つてゐる。霞亭は最後の一挍を其刻板に加へむがために京都へ徃かうとしてゐる。そして季節は既に寒冷である。わたくしはその庚午十月以後なるべきを想ふ。然らば寂光院に松珠を見たのは此旅ではなからうか。若し然らば此「往來とも十三四日」の旅と「勢南春盡歸」との間には矛盾があつて、強てこれを解せむとするときは、凹巷が獨り洛に留まつたとするより外ないのである。宇仁館太郎大夫は雨航信富である。大坂に往かむがために、霞亭と共に伊勢を立たうとしてゐたのである。
文化八年は霞亭が嵯峨生活に入るべき年である。わたくしは曩に嵯峨樵歌の詩引を引いて、霞亭入京の日を推さむことを試みた。今は頗るこれを詳にしてゐる。霞亭は二月六日に伊勢山田を發し、十一日に京都に入り、麩屋町六角下る東側伊勢屋喜助の家に宿つた。既にして天龍寺の役人加藤壽誾の所有なる下嵯峨藪之内の廢宅を借り、これに修繕を加ふる間、釋迦堂前鍵屋喜兵衞の家に寓した。藪之内の家は前年庚午の冬に物色した所の家である。此事實は二月十一日に霞亭が父適齋に寄せた書に見えてゐる。書は的矢書牘の一である。
「小子共種々用事出來候而漸う六日山田出立仕候而、立敬始而之義、所々舊迹等もあらかた見せ、夫に關邊より始終大雪に而、道中も殊之外日數相かかり、十一日入京仕候。尤私始宇仁館樣並に立敬皆々無事罷在候。去冬一見いたし候嵯峨居宅早速かりうけ候而夫々相悦申候。尤四五年來無住之家故、思之外造作相かかり、于今大工日傭等相いり居申候。しかし大方相片付候而、十九日廿日の間に移居いたし候。御安意可被下候。太郎大夫殿も右に付今に御滯留被成下御世話御苦勞被下候。其外色々取込候而、此便委曲不申上候。嵯峨は下嵯峨藪之内と申所に而、加藤壽銀殿と申天龍寺役人の家に候。天龍寺の裏手に御坐候。しかし御便等はやはり伊勢屋喜助宅迄御遣可被下候。いつにても便御坐候。(中略。)今日も嵯峨行仕候。尤此間より嵯峨釋迦堂前鍵屋喜兵衞と申方に居申候。此度の世話人家に候。」
その四十四
霞亭は文化辛未二月六日に伊勢山田を發し、十一日に京都に入つた時、途上雪に逢つた。弟碧山の同行者であつたことは勿論であるが、宇仁館雨航も亦これに伴つて入京したらしい。霞亭が此書を父適齋に寄せたのは、番匠廝役の嵯峨藪の内の家に集つてゐた間の事である。しかし霞亭は偶これに月日を註することを忘れた。
同じ書に霞亭の弟碧山立敬の從學の事が見えてゐる。「立敬吉益入門も先々卜居相濟候後と、今暫延引仕候。」吉益は東洞爲則の嗣子南涯猷である。庚午の歳に六十一歳になつてゐた。霞亭が何故に碧山を挈へて入京したかは、此を見て知るべきである。
わたくしは姑く霞亭が下嵯峨藪の内に移つた日を二月十九日として看た。是は書に「十九日廿日の間に移居いたし候」と云つてあるのと、嵯峨樵歌の詩引とを併せ考へたのである。「予卜居峨阜、宇清蔚偕來助事。適井達夫在都。亦來訪。留宿三日。二月念一日。修營粗了。夜焚香賦詩。」わたくしは詩を賦した廿一日の夜を以て留宿の第三日となしたのである。按ずるに竹里と云ひ、幽篁書屋と云ふ、皆藪の内より來た稱である。井達夫は淺井氏、名は毅、通稱は十助である。
二月三十日に霞亭は又書を父に寄せた。是も亦的矢書牘の中にある。
書は先づ幽篁書屋の事を叙してゐる。「扨先書申上候通、嵯峨の邊は借宅無之地に候故、臨川寺役人加藤壽誾殿家借用いたし候。四五年はあき候處故、殊之外造作相かかり、大工日傭四十五工も相かかり、漸う廿日に移居仕候。至極閑靜の地に而、うしろは臨川寺、つい出候へば天龍寺渡月橋に御坐候。家は六疊二間、四丈二間、臺所、玄關共に拾疊敷ほど、風呂場、菜園等も御坐候。井戸はかけひに而とり候。すべて一面竹林に而、竹をへだて候而桂川の水聲よくきこへ候。しかし花過候までは京都近付其外一切しらし不申候。心おもしろく讀書修業出來可申候。なじみ候程至極住よき處に被思候。右之順故太郎大夫殿も始終手つだひ、殊之外日數かさなり、漸う廿五日夜大阪へ被出候。淺井十助殿其外京都よりも伊勢喜、嵯峨八百喜等皆々出精手傳くれ候。」
卜居の顛末は概ね前書と異なることが無い。只家主加藤の名は初め壽銀に作つてあつたが、今壽誾と正してある。又匠人の事を言ふ條に「工」と云ふは恐くは工手間の略であらう。幽篁書屋の房數席數は始て此に見えてゐる。「井戸はかけひに而とり候。すべて一面竹林に而、竹をへだて候而桂川の水聲よくきこへ候。」此數句は特に人をしてその懷しさを想はしめる。宇仁館雨航の辭し去つた期は「漸う廿五日」であつた。樵歌にこれに贈る絶句がある。「可想今宵君去後。不堪孤寂守青燈。」霞亭は雨航を送つて京都に至つた。「客舍尋君送遠行。何時歸馬入京城。」
書に奠居の費用が載せてある。「此度卜居並に道中、何歟思之外入用有之、十兩餘も入用いたし候。」
既に移居した後も、郵書等は京都の伊勢屋喜助をして接受せしめた。「御状等はやはり伊勢喜迄御遣し可被下候。此方へ大方の日たより御坐候。御國産ひじき、あらめ、わかめの類折節御惠投奉希候。世話のいらぬやうに菜にいたしたく、大坂迄船つみ、淀川運賃さが拂に御かき付可被成下候。同家の壁へ名當等しるし置候。」
その四十五
霞亭が文化辛未二月三十日に父適齋に寄せた書には、猶弟碧山立敬の吉益を見るべき期日が記してある。「立敬も當五日(三月五日)吉益先生へ入門仕候つもりにいたし、御約束申候。入門式はかれこれ三百匹許も入用に候。外醫家よりは心やすき方に御坐候。やはり四五日め會業、嵯峨よりかよはせ可申、大抵太秦通京道一里半許御坐候。家つづきに御坐候。」霞亭は二月三十日に書を裁するに當つて、ふと「當五日」と書いた。しかしその來月五日なるべきことは疑を容れない。會業云々は初謁より第四五日に至つて、始て授業せらるる謂であらうか。
吉益南涯の家は、的矢書牘中に交つてゐた京都の宿所書に「三條東洞院北東角、吉益」と註してある。初め南涯の父東洞は、元文三年に京都に入つた時、萬里小路春日町南入るに住み、延享三年に東洞院に徙つて東洞と號した。明和七年に東洞は又皇城西門外に徙つて、安永二年に此に歿した。天明八年に嗣子南涯は火災に遭つて、大坂船塲伏見町に徙り、南涯と號した。京都の南に居り、その居る所が水涯であつた故である。寛政五年に南涯は伏見町の家を弟辰に讓つて、京都三條東洞院に歸り住した。是が碧山の通つて行つた吉益の家である。
同じ霞亭の書には又弟良助を宇仁館雨航に託せようとすることが言つてある。「良助義太郎大夫殿へうわさいたし候處、かの方へしばらく御預り申上、素讀等いたさせ可申樣申くれられ候。三四月中は道者に而いそがしく、五六月頃か盆あたりより夫に御頼可被遊候。宇仁館に被居候へば、山口河崎東などへも參り候而各別所益可有之候。宇君御宅にても近頃月六日許宛御講釋はじまり候。旁よろしく候。」良助を雨航の家に寓せしめ、又凹巷敬軒夢亭の家に往來せしめようと云ふのである。
次に同じ書に凹巷上京の期日が記してある。「四月朔日頃には山口樣出京被致候。左樣御心得可被下候。」
次に梅谷某上京の期日が記してある。「梅谷生は大方當月(二月)末頃上京と奉存候。梅谷に孟宗竹約束いたし置候。五月頃御とりよせ可被下候。」
三月の末に霞亭は又書を父に寄せた。的矢書牘中の此書は後半が斷ち去られてゐて、宛名もなく月日もない。しかしその父に寄する書なることは語氣に由つて知ることを得べく、その三月末に作られたことは首の數句に由つて知ることを得べきである。「當月廿日之尊簡今日相達、辱拜見仕候。時分柄春暖相催候處、愈御安泰被遊御入珍重奉存候。」此數句中「春暖相催」は人をして二月にはあらざるかと疑はしむるが、下に碧山が既に南涯の門に入つてゐるより見れば、三月でなくてはならない。
霞亭は漸く竹里の住ひに馴れて來た。「段々居馴染候が、ます/\清閑に而甚おもしろく罷在候。處がらと申、閑靜に候故、著述事等も甚だ埒明候やうに覺え候。(中略。)買物小遣等は近所出入の百姓の子供等始終まわりくれ候ゆへ殊の外自由に候。」
弟碧山は既に南涯の家に往來してゐる。「立敬も吉益へ隔日に參り候。朝五つの會故、少しくらき内に出候而、晝前に歸宅いたし候。凡二里に三四丁ぬけ候。太義にはぞんじられ候へども、その位あるき候はからだの補養にもよろしく候。甚出精、此節傷寒論會御坐候。會の所拙者相手になり、下見いたさせ、又々かへり候而も吟味いたし置候。至極何事もはやくのみ込め候やうすに御坐候。御悦可被下候。」
その四十六
霞亭が窓曙篇序を作り、又題任有亭の五古を作つたのも亦文化辛未の三月である。窓の曙は僧似雲の著す所である。霞亭は林崎書院にある時これを讀み、一本を抄寫して藏してゐた。さて嵯峨に來て三秀院の僧月江と交を結んだ。三秀院に任有亭がある。是は八十年前に似雲の住んだ處である。霞亭は窓の曙の寫本を出して月江に贈り、任有亭に藏せしめた。序は此時の作である。高橋氏藏箋に月江のこれに酬いた五古がある。其引に云く。「霞亭北條先生。近自勢南來。行李挾窓之曙一本。以余寺有似雲故居。遂見贈焉。且附以跋及詩。因次其韻謝呈。」末に署して云く。「月江宣草稿。」
窓曙篇序は歳寒堂遺稿に載せてある。題任有亭の五古は嵯峨樵歌に出でてゐる。しかし此文此詩の草稿は的矢書牘中に交つて存してゐる。そして文の末に「文化辛未春三月勢南北條讓題」と署してある。文中に「今玆辛未春辭林崎來嵯峨」の句はあるが、その三月であつたことは題署に由つて始て知らるるのである。
序文には的矢書牘中のものと遺稿中のものと、殆毎句に異同がある。按ずるに彼は初稿にして此は定稿であらう。何を以て謂ふか。的矢書牘中のものは助字が多いのに、遺稿中のものは半ばこれを刪り去つて簡淨に就かしめてあるからである。
題任有亭の詩には嵯峨樵歌の載する所に約二百言の小引がある。的矢書牘中のものは此小引を闕いてゐて、十六行の國文が窓曙篇序の後、此詩の前にある。按ずるに霞亭は此詩を樵歌中に收むるに當つて、これを漢譯したものであらう。わたくしは下に其國文を抄出する。
「五升葊瓦全子予にかたりし似雲法師の逸事、ちなみにこゝにしるす。似雲法師任有亭におはせし頃、入江若水翁渡月橋の南櫟谷に閑居をしめ、方外の交むつまじかりける。ある雪の朝、若水翁法師をむかへけるに來らざれば、待わびたるに。跡つけてとはぬもふかき心とは雪に人まつ人やしるらむ。といひおこせしとなむ。予この頃樵唱集をよみ侍るに、中に雪朝寄無心道人の詩をのす。おもふにその時の作なるべし。曰。前溪多折竹。夢斷促晨興。渡口殆盈尺。山頭更幾層。豈無乘艇客。應有立庭僧。宿得一星火。茶爐獨煮烹。この風流いとしたはしくおぼゆれば、此事を書つゞくる間に、つたなき一首を口ずさび侍りぬ。」
漢文の小引には瓦全の名を削つて、「一老人語予曰」と書してある。西山樵唱集の詩中末の二句は、小引に「留得一星火、茶爐獨煑氷」に作つてある。今樵唱集は手許に無い故に撿することを得ない。國文に所謂「つたなき一首」は即五古の長篇である。
五古にも亦的矢本と嵯峨本との異同がある。此に擧げて遺忘に備へる。的矢本。「圓窓代佛龕。念誦禮其中。」嵯峨本は「圓相」に作つてゐる。是は孰が是孰が非であらう。指月録の圓相は月である。的矢本。「晤賞定無窮。有時爲歌詠。」嵯峨本は「悟賞」に作つてゐる。是は刊本が是であらう。張雨對月詩に「悟賞在玆久」の句があるさうである。的矢本。「師亦因歌答。思君朝云終。欲出旋留屐。應解惜玲瓏。」嵯峨本は「朝云終」を「倚窓櫳」に作り、「留」を「停」に作つてゐる。是も亦刊本に從ふべきであらう。
わたくしの註する所は草率の考に過ぎない。若し誤謬があつたなら、讀者の教を請ひたい。元來文も詩も全篇を寫し出だして、二本の異同を説くべきであるが、わたくしは人を倦ましめむことを恐れて敢てしない。しかし上に擧げた詩句の是非の如きは、必ずしも全篇を讀まずして斷ずることを得べきものであらう。
霞亭は前に山口凹巷の四月朔に至るべきを郷親に報じた。しかし其期の或は短縮すべきを料り知つたものの如く、三月廿八日に粟田まで出迎へたことが樵歌に見えてゐる。此記事は樵歌中任有亭の詩の後にある。わたくしの窓の曙と任有亭との事を先づ記した所以である。
その四十七
文化辛未の春盡くる頃、霞亭は下嵯峨藪の内の幽篁書屋にあつて、四月朔に至るべき山口凹巷を待つてゐた。嵯峨樵歌に「聞凹巷來期在近」の七絶がある。是は或はその至る期が四月朔より早かるべきを聞知した時の作ではなからうか。「心中暗喜期將近。錯認人聲復倚門。」既にして三月二十八日に及び、霞亭は粟田まで出向いて凹巷の至るを候つてゐた。「粟田旗亭遲凹巷入京即事」の七絶がある。「眼穿青樹林陰路。杖響時疑君出來。」
凹巷は晦日に來た。同行者に幸田伯養、孫福孟綽があつた。加旃越後へ往く河崎敬軒、池上希白が路を枉げて共に來た。霞亭は一人を待つてゐて、五人の來るに會したのである。希白はわたくしは初め鄰哉の字なるべきを謂つた。しかし歸省詩嚢に「過池鄰哉家、敬軒凹巷希白勇進源一尋至」の語がある。希白が鄰哉の家に來たのである。その別人なること明である。
霞亭は五人を率て幽篁書屋に歸つた。「壯遊人五傑。快意酒千鍾。」五人は即日嵐山に花のなごりを尋ねた。「任他花落隨流水。愛此樽携共故人。」
四月三日に五人は西近江より越前敦賀へ出で、此にて河崎、池上は袂を分つて去り、三人は若狹小濱に往き、丹後の天の橋立に遊び、丹波を經て嵯峨に歸つた。時に十六日であつた。「歸舍終無事。曲肱燈影低。」
わたくしは蘭軒傳中に於て已に一たび當時の事を記した。しかし樵歌の一書を除く外、參照すべきものがなかつたので、月日も人名もおぼろけであつた。今わたくしは的矢書牘中の四月二十四日の書を見ることを得た。亦霞亭が弟碧山と連署して父適齋に寄せたものである。
「山口角大夫、並に幸田要人、孫福内藏介二君御同道、先晦日御著、河崎良佐、池上衞守二君も見えられ(これは越後行を極内々にてさがへ立よられ候也)、三日皆々御同道に而、いまだ見ず候故、西江州より越前敦賀へこえ、河崎池上とわかれ、夫より若狹小濱へ參り、丹後へ出、天の橋立を一覽いたし、丹波路をまいり、當十六日さがへ罷歸申候。所々名所古蹟巡覽いたし、大慶無此上奉存候。小濱に而若狹小だゐもとめ差上たく尋ね候處、冬ならではなきよし、殘念に奉存候。此度の紀行等は跡より出來次第入御覽候。」
凹巷の通稱は霞亭が前に徴次郎と書してゐた。是は墓碑に「小字長次郎」と云つてあるに符する。長又徴に作つたのであちう。然るに今角大夫と書してある。茶山集に「覺大夫」と云つてあるに符する。角又覺に作つたのであらう。
幸田要人は樵歌の田伯養である。孫福内藏介は樵歌の孫孟綽である。名を※[#「裕」の縦型]と云ひ、包蒙と號した。包蒙の孟綽なることは三村氏藏箋に據る。孟綽は北陸游稿に凹巷の内姪と自署してゐる。又米山氏記を參考するに、孫福内藏介セニヨオル、名は公彧、字は長孺、道號損齋又眉山は孟綽の父若くは兄なるが如くである。文化甲戌の誠宇受業録に「故眉山先生」と云ふは此人である。樵歌題詞の長孺は清水平八か、孫福内藏介セニヨオルか、猶考ふべきである。池上衞守は樵歌の池希白である。
四月二十四日の書には、上に抄する所を除きては、記すべきものが少い。西光寺住職某が霞亭を訪うて鐘銘を閲せむことを乞うた。「西光寺見え候處、私留守に而掛違ひ候。津とやらに鐘出來候而、其銘を直しくれとのこし置候。せわしくいまだ見不申候。」霞亭の親戚「せや叔母」が善光寺に詣でた。「せや叔母善光寺へ被參候よし、悦候。」霞亭は山田の喜助と云ふものゝ手より吸物椀十人前を價二十五匁にて買はむとして罷めた。此椀が錯つて的矢へ送られた。霞亭は父にこれを買ひ取るとも山田へ返すとも隨意に處置すべき由を言つてゐる。又父が金四兩二朱と裙帶菜とを遺つたことを謝してゐる。其文は略する。
その四十八
霞亭は文化辛未四月十六日に、山口凹巷、幸田伯養、孫福孟綽の三人と天の橋立より還り、下嵯峨藪の内の幽篁書屋に三人を留めてゐた。二十四日に書を父適齋に寄せた時には、客は未だ去らなかつたであらう。何故と云ふに、若し已に去つた後ならば、書中にその去つた日を言ふべきだからである。
三人の辭し去つたのは何れの日なるを詳にしない。しかし凹巷は二十六日に去つた。伯養孟綽も亦或は同じく去つたであらう。高橋氏藏箋に凹巷の石山杯の詩があつて、其引にかう云つてある。「霞亭有嵐山杯。爲西峨幽居中之一物。今又新製一小杯贈余。杯面描飛螢流水。題背曰。辛未四月廿六。石山水樓酌別凹巷韓君。(中略。)因效霞亭命名曰石山杯。追賦一絶。以謝厚貺。」酌別の事は嵯峨樵歌に見えてゐる。「長橋短橋多少恨。滿湖風雨送君歸。」尋で霞亭は詩を凹巷に寄せて別後の情を抒べた。「始知人意向來好。却戀相期未見時。」
六月に霞亭は藪の内の居を撤して、京都市中に留まること二十餘日であつた。樵歌に「晩夏冒夜到北野」の聯句があつて、次の七絶一首に小引がある。「予因事徙居都下二旬餘。不堪擾雜。復返西峨。寓任有亭。翌賦呈宜上人。」市中に移つたのが六月中であつたことは、下に引く八月十八日の書に由つて知られる。
七月前半に霞亭は任有亭に寄寓した。任有亭は僧月江の寺の中で、上の詩引に所謂宣上人は即月江である。月江、名は承宣である。霞亭の嵯峨生活は竹里の第一期より任有亭の第二期に入る。その七月前半であつたことは、樵歌が宣上人に呈する前詩の次に「七月既望」の作に載するを以て知られる。七月既望には霞亭碧山の兄弟が月江等僧侶と與に舟を大井川に泛べて月を賞した。
八月十五日の夕は樵歌中に「中秋獨坐待月」の七絶を遺してゐる。次の「月色佳甚、遂與惟長、拉承芸師佐野生、遊廣澤池亭」の七律も、亦恐くは同じ夜の作であらう。承芸は月江の侍者、佐野生、名は憲、字は元章、通稱は少進、山陰と號した。
十八日に霞亭は書を父に寄せた。的矢書牘中の此書は弟碧山と連署してある。且「北條霞亭拜、同立敬拜」と署した霞亭の名の右傍に、「此節直に號を通稱仕候」と細書してある。
書中に霞亭が居所の事を言つた條はかうである。「先々小生も當年中は任有亭に罷在可申、又々來年はいかやうとも可仕候。いづれ後々は京住にも相成可申や。山中殊之外心しづまり、萬事出精仕候。」
次に弟碧山の事が言つてある。霞亭は京都市中に移つた時、碧山を伴ひ行き、七月に任有亭に入るに及んで、碧山をば伊勢喜に殘して置いた。尋で三秀院の一室を借り受けて碧山を迎へ取つたのは八月八日であつた。「立敬義は六月より當八日迄いせきに差置候。吉益方講釋毎日出席此頃金匱等も一とまわり濟、又傷寒論は凡三度許に相成申候故、先づ當分此方へ呼寄せ置候。右兩書等追々吟味會讀仕候處、中々よく會領仕居候。今一度宛も參り候はゞ最早大抵よろしく、其上は自分の眼目次第に御坐候。此方にてはやはり三秀院の一と間かり受讀書いたし居申候。時々京都へ遣申候。隨分兩人共達者罷在候。(中略。)立敬殊之外靜なる性質、よく辛苦にたへ候人物故、於小生大悦仕、相樂しみ罷在候。」霞亭の京都市中に移つたのが六月であつたことは、此條より推すことが出來る。
その四十九
文化辛未八月十八日の霞亭碧山兄弟の書は次にわたくしに上に見えた梅谷と云ふものの事を教へた。「内宮梅谷生今に上京無之、尤脚氣のよし、此義も上るか上らぬかを得と相糺し遣し、もし上られ候はゞもとの通に藪の内三人住居可仕候。無左候はゞ、立敬計に候へば、任有亭にさしかけ二三丈の間をこしらへ候はゞ、朝夕飯等もそこにて出來候故、別而よろしく候。これは隨分頼み候へば出來も可仕候。少しの物入に候。材木等はもらはれ申候。いづれ梅谷生の上返事の上之事に候。」是に由つて觀れば竹里の家は霞亭碧山の兄弟のみが住んだのではなくて、梅谷某が共に住んだものである。又霞亭が京都市中より歸つて、竹里の家に入らずに任有亭に寓したのは、某が伊勢に歸つて再び來ぬが故である。霞亭は某が來るならば竹里の家に入らうかとさへ云つてゐる。某は内宮のものである。
同じ書は次に田卷と云ふものの事を言つてゐる。「越後田卷彦兵衞一旦常安寺にて僧となり候へども、僧は本望にも無之、やはり還俗修業仕たきよしにて、時々書物もち參り候。此節は三條通の借屋に居申候。此方は遠方にも有之、京都に而佐野か北小路などへ頼遣べき樣申候へども、何分私へ隨身仕たきよし申候。尤梅谷生など上り候て藪之内又々居住仕候はゞ、夫に同居願ひたきと申候。飯費等の義は用意もいたし候よし、これも未だ得とは引受不申候。常安寺などにてはいかやうに被思居候や。私申候はいづれ國元並常安寺などへ書通得といたし候上世話も可仕と申置候。如何仕べきや御伺申上候。」田卷彦兵衞は越後の人で、鳥羽筧山の常安寺に入つて僧となつてゐた。既にして還俗し、霞亭に從學せむとしてゐる。霞亭は田卷が京都市中に居るを以て、佐野山陰若くは北小路梅莊に紹介しようとしたが、田卷は聽かない。霞亭は越後の親元と常安寺とに問ひ合せた上で授業しようとしてゐるのである。佐野山陰の家は、文化の平安人物志に據るに、「衣棚竹屋町北」にあつた。上に引いた嵯峨樵歌の詩引に、三日前に霞亭と倶に月を廣澤の池に賞したと云ふのは此佐野生であらう、しかし山陰は長者なるを以て、霞亭が「佐野生」と稱するは少しく疑ふべきである。北小路梅莊は即ち源玫瑰で、其家は的矢書牘中の京都宿所留に「車屋町丸太町下る面側」と書してある。文化の平安人物志にも亦「車屋町丸太町南」と云つてある。松崎慊堂の慊堂日暦文政乙酉九月廿二日の條に「北小路大學介、六十以上老儒、質實可語、詩文亦粗可觀、檉宇云」と云つてある。林皝の評である、佐野と北小路とは皆姓を自署するを例とした。佐野は「藤原憲」と署し、北小路は「源寵」と署したのである。
同じ書に又友之進と云ふものが俳句の卷を霞亭に託して瓦全をして加點せしめようとした事が見えてゐる。「友之進樣御頼之發句の卷物、これは當春八藏跡より宇仁館へ持參いたし候處、其節は送別筵に而殊之外匇々敷、荷物之處う仁たち出入之人へ飛脚出し、こしらへもらひ候。其内いかゞいたし候哉、かの卷物封と江戸表より參り候大封書状紛失、其後吟味候てもしれ不申候。甚申譯も無之事に候。可然御斷可被下候。又々御遣し候はゞ、瓦全方へ遣し可申候。其譯左樣乍憚御言傳奉頼候。卷物等御贈候はゞ、何にても産物にても御添可被下候。瓦全にても其外京都などにては、私共扇面其外認もの、詩文の評點いたし候も、それ相應に進物參り候故、何もなく候てはかつこうあしく候。」
その五十
霞亭碧山が文化辛未八月十八日に父に寄せた書には猶伊勢の諸友の消息がある。「山田山口其外よりも此頃追々書状參り候。山口は殊に寄九月上京も有之べきやに候。西村は盆中江戸へ被參居候よし、光明寺行脚に奧州へ被赴候處、江戸に而大病のよし、見舞に被參候よしに候。」山口凹巷九月の京遊は遂に果されなかつたらしい。西村及時は江戸に往つてゐた。及時に病を訪はれた光明寺の僧、名は謙堂、下に見えてゐる。
同じ書に又僧丹崖の對馬より歸つたことが見えてゐる。丹崖は田邊玄玄の瓷印譜の「南山寺務丹崖乘如慧克」である。克は或は充でなからうか。猶考ふべきである。「當十四日對州碩學和尚歸山、夜前小生も招かれ候。色々おもしろき物一見いたし候。」樵歌に霞亭がこれに贈つた詩があつて、小引にかう云つてある。「賀丹崖長老終馬島任歸山。是歳五月韓使來聘竣禮事。長老與韓客唱和詩若干。余得寓觀。」丹崖は五月に對馬に往き、八月十四日に歸り、霞亭は十七日にこれを訪うたのである。
其他道悦、主税、半兵衞等不明の人名が同じ書に見えてゐる。「たしから道悦樣永々御病氣のよし御案じ申上候。先達而書通も仕候。主税義急に八月朔日此方出發仕候。」たしからは志摩の慥柄であらうか。しかし假名の「ら」文字が不明である。半兵衞は霞亭に託して吸物椀を買はうとした。然るに半兵衞はこれを不廉なりとした。文長きを以て、下に一部分を抄する。「しかし高直に被存候而は甚氣の毒に御坐候間、先々十人前の分はらひ候。十人前は御かへし候てもよろしく候。(中略。)それも氣に入不申候はゞ、皆々かへし候ても不苦候。只々餘り度々永く留置候間、上下駄賃小生方より拂遣可申候。」
八月十八日の書牘は此に終る。わたくしは今樵歌中に見えてゐる春日龜蘭洲の事を附記して置きたい。樵歌はこれを十五夜看月の詩と十七日丹崖に贈る詩との間に載せてゐるのである。
春日龜政美、字は子濟、蘭洲と號した。其通稱は坦齋であつた。平安人物志に據るに、蘭洲は「四條小橋西」に住んでゐた。
蘭洲は詩を霞亭に贈つた。此詩は的矢書牘中に交つて遺つてゐる。「渉筆元奇筆。那論陳腐編。締交羞我拙。接語憶君賢。雅量徐沈密。博覽楊太玄。守愚唯蝟縮。難到蛟龍淵。」霞亭はこれに和答した。樵歌の載する五律が是である。わたくしは此に詩を略して惟其自註を擧げる。「翁齡七十八。早歳善詩及書。平生所交。多一時聞人。就中淇園先生、六如上人其同庚。今皆下世。」文化辛未七十八歳だとすると蘭洲の生年は享保十九年でなくてはならない。近世儒林年表を撿するに、享保十九年生の儒者中に皆川淇園が載せてある。しかし僧六如の生年は此より三年の後、元文二年であつたらしい。他日を待つて細撿すべきである。
九月には霞亭が重陽の日に病んでゐた。「九日有登七老亭之期、臥病不果口占」の五絶が樵歌に見えてゐる。
十九日に霞亭は亡弟に詩を手向けた。寛政十一年九月十九日に歿した内藏太郎彦の十三囘忌辰である。三秀院の僧月江も亦同じく詩を賦して薦した。並に樵歌に載せてある。
樵歌に據るに、霞亭が相識る所の僧謙堂が江戸に歿したのも亦九月中の事であるらしい。謙堂は前に引いた書牘の光明寺である。西村及時は特に其病を訪はむがために東行したのであつた。樵歌に載する七律の引はかうである。「謙堂禪師游方在關東。近報其病。訃音忽至。(中略。)聞吾友看松居士與僧侶數輩故東下問疾。至則已遷化。盖不出兩日。幽明一隔不及相見云。」
その五十一
文化辛未十月八日に霞亭は任有亭より梅陽軒に移つた。樵歌の詩引に「予在任有亭宛百日、初冬八日將移梅陽軒、援筆題于壁間」と云つてある。時に藪の内の家は既に他人が徙り住んでゐた。「聞竹裏舊廬人已僦居、予曾不知、戲賦」の七絶が樵歌中にある。山口凹巷は此移徙の事を聞いて詩を賦して寄せた。中に「曾從竹下開三徑、更向梅邊借一庵」の聯がある。
的矢書牘中に當時の事を知るに便なる書一通がある。是は十一月二日に霞亭が父適齋に寄せたもので、最初に梅陽軒に移つたことが言つてある。「小子共も任有亭餘りせまく御坐候間、先月(十月)八日天龍門前に方丈の隱居有之、夫に引移居住仕候。左樣御承知可被下候。(中略。)只今居住の處は梅陽軒と申(處)に御座候。渡月橋の通、聽琴橋と申橋の近邊に候。天龍寺勅使門の前にあたり候。御状はやはり伊せき方へ御遣可被下候。大方の日たより有之候。」梅陽軒は天龍寺の隱居所であつた。
霞亭は同じ書に據るに、梅陽軒に入つた初に、已に他日京都市中に住むべきことを考慮してゐた。「先書申上候通、菟角私の身分は甚只今の通りに而よろしく候得共、立敬醫學修業今一息不便理、と申ても京都いづかたも御頼申候程の處も無之候。山田社中へも此頃及相談候處、先月末宇仁館君大坂の序態々峨山へ被參、また山口其外の口上等も承り候。いづれとも兩方よろしき樣取計可有之樣との事に候。夫故先々小生もいづれ京都に而靜かなる座敷體の處見つくろい住居可仕と奉存候。いづれ正月中頃移居可仕候。大體富小路か柳馬塲あたり、中京にいたし可申候。尚又御賢慮御指揮奉仰候。」是に由つて觀れば霞亭が後に京都市中に移つたのは、少くも半ば弟碧山の講學の便を謀らむがためであつたらしい。宇仁館の梅陽軒を訪うた時、霞亭の贈つた詩が樵歌中にある。「謝清蔚赴浪華、枉路過訪峨山」と題するものが是である。
此頃大冢不騫が龜井南溟を筑前に訪ふ途次に、梅陽軒を訪うた。上の十一月二日の書にかう云つてある。「山田大冢東平、筑前龜井道載先生へ來年一年も從學仕候つもりのよしに而、此間うがた尾間慶藏同道に而被見、私方にも兩夜止宿、最早此節大阪へ發足被致候。源作龜井の縁者に候故の事に候。尤龜井位の人も京都には無之候。一段壯遊と奉存候。京都も此頃は清田謙藏、中野三良、小栗文之進など申儒生皆々死去、ます/\人物もすくなく相成候やうすに御坐候。」大塚不騫の東平と稱したことが此に由つて知られる。尾間慶藏は志摩の鵜方のものであつた。樵歌には單に「尾間生」とのみ記してある。樵歌の詩は七律で、「冢不騫偕尾間生將游學筑紫、過訪峨山、賦餞、兼寄南冥先生」と題してある。
霞亭は龜井の事を父に報ずるに當つて、京洛諸儒の凋落に説き及んだ。清田元基は本播磨の人で伊藤氏を嗣ぎ、縉、綬、絢の三子をまうけた。縉が伊藤錦里、綬が江村北海、絢が清田儋叟、綬の子にして絢の家を嗣いだものが龍川勳である。勳が文化五年に歿した。謙藏とは或は勳であらうか。勳の通稱は大太郎として傳へられてゐる。或は後に謙藏と改めたか。中野煥、字は季文、龍田と號した。文化辛未四月に歿した。三郎とは或は煥であらうか。小栗文之進は未詳である。文化中に歿した十洲光胤は畫家である。文之進は恐くは別人であらう。
同じ書は早く樵歌の事を言つてゐる。「來春は嵯峨樵歌と申拙詩集板行に出候。此節追々とりあつめ仕候。しかし出來あがり候迄は御噂被下まじく奉願候。」
その五十二
文化辛未の冬には此より後多く記すべき事が無かつた。樵歌に據れば、山口凹巷は新に書齋を造つた。宇仁館雨航は大坂より伊勢に歸つた。凹巷の書齋の事は「聞凹巷處士近開小吟窩、日坐其中」と云つてある。本凹巷とは山田上の久保に住んだ故に號したと、墓誌に見えてゐる。書齋も必ずや同じ所に築かれたことであらう。雨航は前に伊勢より梅陽軒を過訪して大坂に往き、今又伊勢に歸つたのである。樵歌に「立春後一日送清蔚還郷」の詩がある。
又的矢書牘中、下に引くべき書に據るに、霞亭は歳晩に薄つて弟碧山を京都の伊勢喜より梅陽軒に迎へ取つた。
霞亭は辛未の歳を梅陽軒に送つた。「迎春身計知何事。先爲探梅買緑蓑。」是年霞亭は三十二歳であつた。
文化九年は霞亭が歳を梅陽軒に迎へた。「大堰川頭斂曉霏、小倉山外捧春輝」の句がある。
正月十一日に霞亭は書を父適齋に寄せた。書には京都市中に移り住む計畫が載せてある。「舊冬はけしからぬ寒氣に御坐候。春に相成候而は少々ゆるまり候樣覺え候。御地等は如何に哉。將又御宅よりの書状此方へ一向相屆不申、朝夕掛慮仕候。八月初旬御書簡在しより以來絶而相達し不申、もし途中浮沈等は不仕候哉。兼而十月頃御書簡被下候樣相待居候に、當月迄も相達し不申、もしや御故障にても無之哉と兩人申いで居候。私義も舊冬より寒氣あたりの氣味、四五十日も出京仕かね候。夫故萬事失禮仕候。去年申上候通、今年は又々京都へ出張可仕奉存候。靜かなる處京都へ聞合せ置候。いづれすこし暖氣に相成候はゞ、早々取計可申奉存候。當月末、來月上旬中には相定まり可申候。立敬も舊冬より此方へ罷越居候。當十二日師家會始のよしにて出席いたし候。先に立敬京都へ遣し置可申候。此邊も嵐山花さき候へば、殊之外騷々敷、何卒其前方に移居可仕奉存候。」碧山立敬の前年の暮に梅陽軒に移つたことは此に見えてゐる。
書は又凹巷と梅谷某との事を言つてゐる。「來月中旬には山口氏此方に御上京之よし相聞え候。梅谷御子息も當月末歟來月上旬には發足のよし申來候。」
霞亭は正月十一日に此書を父に寄せた後僅に一日にして、急に的矢に歸省することを思ひ立つた。事は十二日に重て父に寄せた書に見えてゐる。「小生も當年は京都へ罷出門戸丈張見可申奉存(此下に「候得共」の三字あれども文脈下に接せざる如きを以て省く)此頃段々相謀申候。然る處去々月より御宅より御書状一向到來不仕候故、不安心に奉存候。霜月末も差出候處、今以御消息相しれ不申候故、右萬端御相談も申上たく、且又御伺申上たく候而、京都へ移居いたし可申前に立かへりに一寸御宅へ參上可仕存立候。尤山田山口氏へも内々御相談に及び候儀も有之、旁參上仕候得共、此度は誠に立歸りの義に候て、且は立敬一人跡へのこし置候故不安心にも有之、御宅一兩日滯留、山田一宿、これもどれへも噂不仕樣にいたし候。山口氏、西村氏、東君、是は山口に而御目にかゝり候のみにいたし、外へはすこしもしれ不申候樣いたし可申候。無左候ては義理あしく候。御宅へも夜にいり、參り可申候間、何卒其前方に左樣御心得可被下候。外御親類とても御噂被下間敷、又々其内表むきに而參り候節、諸方へも逢可申候。色々物事勞煩に相成候而、又々よろしからざる事も有之候故に候。右一寸前方御しらせ可申爲、如斯御坐候。此表廿六七日の中に發足いたし候。(中略。)何卒暫時御座敷に罷居申たく奉存候。一兩日の事故、無據人にのみ逢可申候。」此書は奇怪なる書である。前書を發した後僅に一日にして歸省を思ひ立つたのが既に怪むべく、其文脈も亦例に似ず、しどろもどろなるが愈怪むべきである。啻に然るのみではない。霞亭は又十數日の後此歸省を思ひ止まつたのである。
その五十三
霞亭は文化壬申正月十一日に書を父適齋に寄せて、嵯峨の梅陽軒より京都市中に移るべきを告げ、十二日に又書を寄せて市中に移るに先だつて的矢に歸省すべきを報じた。既にして二十六日に至り、霞亭は書を門生梅谷某の父に與へ、これに託して的矢に歸寧せざることを言はしめた。
「當月廿二日山田迄急飛脚書状差出し、且郷里への書状等貴館迄差出し候。相達候哉。其書中山田並に郷里へも少々用事有之、立かへり(に)參り可申、申上候處、此節宇仁館氏浪華へ被罷出候處、態々西峨へ山田社友より使者に被相立候而御出被下、かね而申上候通、先に居宅京都に而かり受可申、去冬より心かけ候處、左まで思わしき事も無之、幸柳馬塲蛸藥師下る處にかつこうなる家有之、家賃等二分餘もかかり候而すこし高價にも被存候へども、甚靜かなる家居故、先にかり受申候。來三日移居いたし候積りにて急に相計申候。尤小生嵯峨本意之事故、やはり任有亭の(「の」は「を」の誤か)本居といたし置、京都は立敬並に御子息、外に山田より一人、當地に而一人、以上四人の居住と相定め、小生折ふしは嵯峨へも參り可申、畢竟京都は旅宿と相定め可申候。其方萬事、事すくなく候而よろしく候故、右相計可申候。左樣思召可被下候。然る處此間一寸立かへり(に)參り可申、郷里へ申遣候間、是は先々當分相やめ可申候間、かの書状的屋へ未御出し不被下候はゞ、其儘御返却奉希候。もし未御遣し不被下候はゞ、何卒此書状御一覽之上此儘的屋へ御遣し被下候樣被仰遣可被下候。別段書状相認可申候處、明朝發足の人急歸故不得其意候。いづれ跡より委曲可申遣候間、くるかとぞんじ候て相待候も心がかりに候間、右之段被仰聞可被下候。くれにかゝり書状相認、甚亂書御免可被下候。いづれくわしくは奉期後便候。乍去先に京都卜居いたし候義今暫御觸被下間じく御内々奉頼候。匇々以上。尚々郷里へは此書状直に御封じ被下御遣可被下候。跡より別書くわしく差出可申候。」宛名は「梅谷上羽樣文案」と記してある。「羽」字は不明ながら姑く形似を以て寫し出すこととする。
わたくしは先づこれを讀んで霞亭の歸郷を罷めたのを怪んだ。遽に思ひ立つた歸郷の何故に罷められたかを怪んだ。しかし前に歸郷を報じた書は、此文に據れば十二日にあらずして二十二日に發せられたるが如くである。わたくしは前書を誤讀せしかと疑つて再檢した。原字はすなほに讀めば明に「十」である。「廿」の艸體として視むことは頗難い。或は猶著意して強ひて此の如くに視るべきであらうか。わたくしは第く疑を存して置く。
それはとまれかくまれ、霞亭が初に入市を言ひ、中ごろ入市に先だつて歸郷すべきを言ひ、最後に歸郷せずして入市すべきを言つたことは明白である。そしてわたくしは今その遞次に意を飜した一々の動機を知ることを得ない。的矢書牘中壬申正月の三書は到底奇怪の書たることを免れない。
わたくしは尚此に書中に見えた入市の期を一顧して置きたい。霞亭は二月三日を期して京都市中に移らうとしてゐたのである。
その五十四
霞亭が文化壬申二月を期して京都市中に移らうとしたことは上に云つた。即ち嵯峨生活の第三期に入らうとしてゐるのである。しかし果して期の如く移つたか否かは未詳である。
嵯峨樵歌の卷末に歳寒堂の事が言つてある。「今玆壬申。因家君命。移居城中。予於嵯峨。已爲一年之寄客。山縁水契固不淺。將辭也。猶爾瞻戀故山不忍去。乃欲移松梅竹。吟榻相對。游焉息焉。聊慰其情。三種皆名于地産也。三秀宣上人聞而嘉之。特贈龜山松堰汀梅峨野竹。各附一絶。適院屏有賣茶翁松梅竹三字。併見惠寄。(中略。)昔元張伯淳呼松梅竹爲三友。明人又有歳寒之稱。予既栽三物於庭下。扁遺墨於堂上。遂命曰歳寒堂。」
假に霞亭が二月に市中に入つたとすると、わたくしは其市中の家を知らぬが、此の不知の家は歳寒堂ではなささうである。
的矢書牘中に四月廿四日に霞亭が父に寄せた書があつて、それが京都木屋町三條上る處の家に移る前日に裁せられたものである。木屋町の家は歸省詩嚢に所謂錯薪里の家である。霞亭は弟碧山と此書に連署してゐる。そして惜むらくは書の中間幾行かが斷れて亡はれてゐる。
「幸木屋町三條上る處相應の家有之、是は表にてもしづかなる處にて格好もよろしく、尤家賃は一月四十四匁宛、一年七兩内外に御坐候而、只今の處より高價に候故、太儀に被存候得共、直樣世話なしにはいられ候故、先々それに决し候、明廿五日轉居仕候。此段左樣思召可被下候。木屋町は御案内の通東よりにてすこし町とは違ひ候故如何とも存候へども、諸方の通行には甚勝手よろしく候。三條上ると申ても、先々二條三條の間にて、町にては御地あたりにあたり、高瀬川と鴨川の間に有之候に御坐候。家主は大坂鴻の池の持に候。座敷六丈敷、臺所五丈半板敷、次の間四丈半、玄關三丈じき、以上四間に御座候。ながしも内井戸、甚よろしくひろく候。座敷庭もすこし有之候。」
所謂「只今の處」は、事情より推しても語脈より推しても、梅陽軒ではなささうである。霞亭は恐くは二月に市中に入つて、所謂只今の處に住み、更に木屋町に移らうとしてゐるのであらう。
此書に云ふ移轉は期の如くにせられたことが明かである。それは後の書牘に由つて證せられてゐる。そしてわたくしは此木屋町の家を以て歳寒堂だとする。霞亭に松梅竹を贈つた三秀院の僧月江は、嵯峨樵歌の後に書して「賢父母在堂、君因其命、今教授於京師」と云つてゐる。此跋は七月に草したもので、文中の教授の所は歳寒堂であるらしく、當時の霞亭の家は木屋町にあつたのである。
霞亭は正月の書に、嵯峨を本居として市中の家に往來しようと云つてゐた。其家は歳寒堂でなく、後木屋町に移るに及んで、嵯峨の家を撤したことであらう。松梅竹は嵯峨の家を撤した後に、木屋町の家に藝ゑられたことであらう。
木屋町に移る前日に作られた此書には猶二三の記すべき事がある。それは次の如くである。
その五十五
文化壬申四月二十四日に霞亭碧山兄弟が父適齋に寄せた書は、獨り次日に移り住むべき京都市中の新居を報じてゐるのみでなく、又こんな事を載せてゐる。
其一は河崎敬軒が當時京都に淹留してゐたことである。「裏松殿御薨去に付、河崎良佐君此節御入京、大方當月中は滯留被致候。山田のやうすくわしく承り候。右之御供など參り居、明日轉宅はこびもの等人やとひなしに出來悦申候。」敬軒の淹京は裏松前中納言謙光の喪のためであつた。霞亭は次日木屋町に移らむがために物を搬送せしめ、敬軒の從者等がこれを手傳つた。
其二は梅谷某の手より本屋勘兵衞と云ふものに由つて霞亭に送致した物が濡滯したことである。原文は省く。本屋は飛脚屋である。
霞亭の木屋町に移ることは、期の如くに行はれたに違なからう。前日に什具等が舁送せられたことも亦これが證に充つべきである。
四月には猶菅茶山が霞亭の嵯峨樵歌に序した。茶山は霞亭の詩を以て「力寫實境、而不逐時尚」となし、望を前途に屬したのである。末に「文化壬申孟夏、備後菅晉帥撰」と署してある。霞亭が菅氏の通家を識れる某に托して閲を茶山に請ひ、茶山が僧道光に由つて此序を霞亭に致したことは後に記すであらう。
五月二十三日に霞亭は書を父に寄せた。此書には弟碧山は名を署してゐない。亦的矢書牘の一である。
わたくしは先づ木屋町新居に關する事どもを其中より抄出しようとおもふ。「先月末頃山田尼辻たばこや彌兵衞殿迄書状一通御頼申候。定而相達し可申奉存候。其節申上候通、四月末より木屋町三條上る二丁目に居住仕候。」烟草屋彌兵衞に託せられた書は即上の四月廿四日の書である。移居の事は既に果されてゐる。「木屋町三條上る」の下に今「二丁目」の三字が添へ出された。柬牘に何丁目何番地なることを報ずるは、今も多く移前に於てせられずして移後に於てせられる。「下地よりはひろく候故、凉敷候而よろしく候。」下地よりは方言で、前よりと云ふと同じである。
次に通信の中繼の事を抄する。「此後書状便荷物等は山田妙見町相可屋善右衞門殿方迄さし出し置申候間、其御地八百屋にても又は御家來にても御立寄らせ可被下候。是は小生方へ參り被居候門生彌六宅に御坐候間、萬事序有之候。相可屋は野間因播のむかひに候。」相可に「あふか」と傍訓してある。門生永井氏相可屋彌六の名が偶此に録せられた。
偶一門生の名が出でたから、わたくしは他の門生の事を次に抄する。「高階主計之允殿御子息もひるの閒塾中に參り讀書等いたし候。淺井周助子は此節無據暫く歸郷いたされ候。」主計之允は文化の平安人物志に據れば、名は經宣、字は子順、枳園と號し、家は「兩替町御池北」にあつた。高階經本さんに質すに、經宣は青蓮院の坊官鳥居小路經元の子で、始て高階氏と稱し、醫を業とした。家譜には字が子春に作つてある。一に東逸とも稱した。經本さんの曾祖父である。淺井周助は後の書信に徴するに、伊勢山田の人である。十助毅との同異は猶考ふべきである。
此書の中抄すべきものは未だ竭きない。尚下に續抄するであらう。
その五十六
文化壬申五月二十三日に霞亭が父適齋に寄せた書には次に弟碧山の近状が載せてある。「立敬も吉益へ毎朝かよひ候。夜分は小生友人百百内藏太子方へ先々月入門いたさせ、醫書會讀に遣し申候。時々療治代診等にもつれられ候。隨分堅固に相務居申候。」百々内藏太、名は俊徳、字は克明、漢陰と號した。文化の平安人物志に據るに、「西洞院竹屋町北」に住んでゐた。碧山は晝吉益南涯の講筵に列り、夜漢陰の許に往つて教を受けてゐた。その漢陰に從遊してゐたのは三月以後の事である。
次に書中に見えてゐるのは碧山の直次の弟良助の事である。「良助儀河崎良佐君へ先達而御相談申候處、先々此方へ被遣置可被成候、隨分と御世話申候而、素讀等いたさせ可申、山口東などへも始終往來、彼家御子息と一しよに讀書詩作等いたさせ申候而可然などゝ、御心切に被申聞候。如何思召候哉、御相談申上候。乍去いづれ小生も七月中には御見舞旁々歸國可仕候間、くわしく其節御面上御相談可申上候。尚又御思慮も候はゞ被仰聞可被下候。」河崎敬軒は良助を伊勢山田の家に迎へ取つて、山口凹巷、東夢亭の家に往來せしめ、子弟と同じく教へようと云つてゐたのである。
次に嵯峨樵歌の事が書に見えてゐる。「嵯峨樵歌も此節專ら板木にかかり居申候。六月中には出來上り可申候。」霞亭は刻成を六月に期してゐた。
次は霞亭が父に雙林寺物語を贈つた事である。「蝶夢和尚雙林寺物語、近頃上木に相成申候。甚おもしろき物にて評判ものに候。一部進上仕候。御慰に御覽可被下候。」蝶夢は又幻阿、泊庵、五升庵とも稱し、寺町今出川北阿彌陀寺の子院に住してゐた。人名辭書に俳林小傳を引いて「寛政四年十二月廿四日歿す、年六十四」と云つてある。平安名家墓所一覽には「寛政八年」に作つてあつて、月日と年齡とは同じである。墓は阿彌陀寺にあるさうである。雙林寺物語は國書解題に見えない。歿後二十年若くは十六年にして刊行せられたものと見える。按ずるに霞亭の友柏原瓦全が五升庵と稱するは蝶夢の庵號を襲いだもので、雙林寺物語は瓦全の挍を經たことであらう。
最後に伊勢の梅谷氏より來るべくして來らなかつた物件の始末が書中に見えてゐる。物件は金二兩と澁紙包一つとで、適齋が梅谷氏に託して送つたものであつたらしい。然るに梅谷氏はこれを本業の飛脚屋に交付せずして、所謂町飛脚に交付し、金品は町飛脚の所に濡滯してゐた。霞亭は河崎敬軒をして増川本屋の兩飛脚屋を搜索せしめ、兩飛脚屋は町飛脚を糾問し、金品を發見した。そして五月十七日に金品が京都の伊勢喜に達した。「乍去梅谷氏へはやはり何がなしに落手いたし候やうに可申遣候。無左候而は彼家の無世話に相なり風評も不可然候間、先々此方へ落手いたし候へば子細無之事に候間、ちよつとも左樣の御噂被遊被下間敷候。」わたくしは當時遞傳の實况を徴知すべきと、霞亭が寛弘の量を見るべきとのために、煩を厭はずしてこれを抄した。
六月十四日に霞亭が父に寄せた書は、恐くは直に前書に接するものであらう。「伯耆大山の香茸少々、土佐の畔鳥二羽、仙臺のほや二、長崎野母崎のからすみ一つ」に添へた書である。大山は所謂伯耆富士である。畔鳥は何鳥なるを知らない。石勃卒、鮞脯は註することを須ゐない。書は的矢書牘の一で、その言ふ所は下に抄するが如くである。
その五十七
霞亭が父適齋に寄せた文化壬申六月十四日の書には先づ祇園祭の事が言つてある。「當地此節は祇園祭に而騷々敷罷過候。」日次紀事に據るに、十四日は朝卯刻より山渡があり、晝午刻許より神輿が出るのである。山は即山車、江戸に謂ふ「だし」である。
次に弟良助を託すべき家の事が言つてある。「良助義河崎か宇仁館の方へ遣し可申やう先達而被申越候。此度も申來候。別段御状懸御目候。いづれ其方可然奉存候。御兩所樣御相談被遊置可被下候。いづれ私義盆後御見舞旁一寸參上仕度奉存候。其節萬事可得尊意候。しかし拙者一寸歸省いたし候事は先々他人へは御噂被下間敷候。」
次に門人淺井周助が歸塾した。「淺井周助先月むかひ參り、一寸歸郷いたし、二三日前歸京仕候。山田内宮邊噂承知仕候。」
次に山口凹巷が男子を擧げた。「山口君又々當月男子出生有之候よし承知仕候。」凹巷の子は墓誌に據るに、嫡出が觀平、群平の二人、庶出が興平、梅兒の二人で、梅兒は夭したさうである。月瀬梅花帖にも、「男觀、男群、男興」の三人が署名してゐる。壬申に生れたのは何れの子歟。「又々」と云ふより見れば、その觀平にあらざることは明である。恐くは群平であらう歟。以上記し畢つてわたくしは觀平の文化丙子七歳であつた證を得た。然れば此歳壬申には觀平三歳で、新に生れた子は群平なること疑を容れない。
次に菅茶山撰嵯峨樵歌の序が到著した。「嵯峨樵歌も近々出來上り申候。大方來月(七月)初旬迄には仕立候積りに御座候。此節雲州の道光上人御上京兼而頼遣置候備後福山神邊の老儒菅太仲先生の序文出來參り申候。御聞及も有之候哉、この太仲と被申候人は那波魯堂先生(原註、播州の人、寶暦の頃の大儒、京住)門人に而當時は三都にも肩をならべ候人なき程の詩人にて候。尤甚名高き人に御坐候。樵歌序文甚おもしろく出來參り辱奉存候。右の道光上人と申は法華の高徳に而、詩も餘程出來候人に候。これも菅太仲など懇意の人に候。世間に而甚人の信用いたし候僧に御坐候。」僧日謙が霞亭のために樵歌の序を霞亭に致したことは此に由つて知られる。日謙、俗姓は日野氏、大坂の人であるが、出雲平田の報恩寺の住職であつたので、「雲州の道光上人」と云はれてゐる。
次に紅葉詩藁が刊行せられたので父に報じた。「山口君御計に而青山文亮、大冢東平、孫福内藏介、立敬など林崎に罷在候節、紅葉詩藁、外之少年のはげみにもと被存一册小さき詩集此節板刻きれゐに出來申候。漸々此度一册參り候。追而入御覽可申候。いづれ若き人の懈怠の出來不申候やうとの思召、辱義と奉存候。一寸御風聽申上候。」東夢亭の通稱文亮なることが始て此に見えてゐる。山田橋村氏の報に據るに、夢亭は本青山泰亮の子である。東恒軒の歿した時、山口凹巷は門人青山文亮を以て己が猶子たらしめ、これをして恒軒の家を嗣がしめた。夢亭の舊宅は山田に儼存し、其裔は大正五年法學士となり、現に神戸市鈴木商店主管の一人となつてゐると云ふ。紅葉詩藁は碧山の詩を載せてゐるので、霞亭は父に報じて喜ばせようとした。しかし父の或は名を求むるに急なるを責めむことを恐れたものと見え、霞亭は反覆して此刻の獎勵のためなることを説いてゐる。
次に霞亭は室町邊住某の柬を雜賀屋へ介致した。雜賀屋は甞て大燈書幅の裝潢を京匠に託したことのある志摩の商賈である。原文は略する。
その五十八
文化壬申秋の間は霞亭の消息の徴すべきものが甚乏い。しかし霞亭は秋より初冬上旬に至る間に家を移した。木屋町より鍋屋町に徙つたのである。事は下に引くべき書牘に見えてゐる。又嵯峨樵歌は秋の初に刻成せられた。刻本の末に「文化壬申年七月、京都書林梶川七郎兵衞」と記してある。樵歌には曾て云つた如く、僧月江の跋があるが、是は刻成の期に迫つて草せられたものと見え、「文化壬申秋七月、嵯峨釋承宣撰」と署してある。
十月十日に至つて霞亭の父適齋に寄せた書がある。亦的矢書牘の一である。
此書中先づわたくしの目を惹いたのは移居の事である。「先日伊勢喜便に書上呈上仕候。相達候哉。其節申上候通、此節は鍋屋町(京都河原町三條上る鍋屋町南側中程)に罷在候。至極物靜かに候而、別而住居安穩に候。別段に三丈の居間有之候故、終日其中に間坐讀書仕候。何卒此冬も得といたし候成功有之たく願望仕候。」
霞亭は自ら三冬讀書の計を定めて、さて都下の學風を一顧した。「只今京都の儒生一統輕薄風流、さもなきは見せかけを重んじ候人計、甚悲しむべき可恥事と被存候。」
嵯峨樵歌刻費の事が此書にある。「山田社中並に宇治佐藤守屋有志中一般より金三兩嵯峨樵歌の祝賀に被下候。移居費用並に樵歌刻料それに而相濟申候。全體關東に金主御座候積りに申置候處、其人申分すこし小生心に叶不申候故相斷遣し、其後無何沙汰候。夫故右刻料仕立等四百目許小生物入に相成居申候處半分のこり有之候處、右に而相濟安心仕候。未越後其外關東邊へは便無之下し不申候。夫々相遣し候はゞ後々相應に取分可有之候。」守屋氏は未だ考へない。
樵歌は公卿の讀むことを求めたものがあつた。「此間日野殿より御所望有之一部遣申候。百々取次に而小生詩歌關白家へ上り候よし承り候。實は何も役に立たざる義に候へども、又しる人はしる事も可有之候。自愛仕候事に候。もとより詩文は小生の本志には無之、これは只慰仕業と存候。右等内情申上候得共、一切外人へ御噂被仰下間敷候。」日野は參議資愛である。關白は鷹司政凞である。樵歌を鷹司家に呈したのは百々漢陰であつた。霞亭が詩文は本領にあらずと云ふ意は、經術を以て自ら任じたのである。樵歌の卷末にも「天放子聖學管窺二卷」の預告が出してある。
碧山は舊に依つて兄霞亭の監督の下に勉學してゐた。「立敬も此節は甚出精いたし候。當年限に被遊候哉、又は來年半年も御差置被遊候哉、御囘音之節被仰聞可被下候。來春よりは眼科外科等も一通心懸いたし候樣入門爲致可申や、此段も奉伺候。費用の義は當暮より來七月歸郷可仕候まで、もはや四兩ばかりも御遣し被下候はゞ、夫にて一切相濟可申候。いづれ此義は母樣御相談之上得と被仰聞可被下奉願候。」
霞亭の此書には猶高階枳園の父、僧丹崖、柏原瓦全の事が見えてゐる。又小澤蘆庵が家集の事も書中に出でてゐる。わたくしは下にこれを抄せようとおもふ。
その五十九
文化壬申十月十日に霞亭の父適齋に寄せた書には洛醫高階枳園の家の消息が見えてゐる。「高階老人も夏以來病氣とくと無之、木屋町に而は介抱行屆かね候よしに而、先日本宅へ被歸申候。此頃は少々快き方の由、當主計允右老人の七十賀いたし候とて、富豪の事故、結構なる座敷など追々造作有之候。今二午の事に候。乍去無覺束候。」枳園の父經元、字は士春は壬申十一月六日に歿したさうである。即ち此書の作られた後二十六日の事である。家傳には享年六十三歳と云つてある。しかし此書に從へば六十八歳でなくてはならない。猶考ふべきである。
次に僧丹崖の事がある。「壽寧丹崖長老も當春天龍寺方丈に被命候處、これも八月中遷化、しかたも無之物に候。」
次に柏原瓦全の事が見えてゐる。「此六日(十月六日)通天の楓見にむり/\とさそわれ參り申候。酒などのみ候中、瓦全子の前齒落候を何歟といひはやし候内、ふと小生詩をつくり候。六十八年汝共齡。萬千吟酌飽曾經。可憐辭謝得其處。巧學秋林一葉零。と申候へば翁甚悦申候而、其齒をすぐに東福寺の紅葉の下に埋むとて翁も發句有之候。霜の紅葉老がおちばもけふこゝに。とやられ申候。元來瓦全前方の句に。鹿鳴てながめられけり夜の山。と申句一生の秀逸とて甚評判高く、世上にて夜の山の瓦全と呼候位の事のよし。學問は無之候得共、常の俳諧師と相違、甚物がたく正しき男に候。先日も寺町妙滿寺へ佛參いたし候處、さいふを拾ひ候てこれを其儘かき付いたし候て、當人に渡したきとて甚わび候。今に其人尋來り不申候由。其節も小生よばれ參り居合、席上詩をつくり候。拾金歸主不爲恩。此事於翁何足言。好是柏家無價寶。素行清白付兒孫。柏家はかの人柏原氏に候故に候。」以て瓦全の小傳に充つべきである。河崎誠宇の受業録に霞亭の「瓦全眞影讚」がある。「厖眉雪白聳吟肩。箇是夜山柏瓦全。三句社中遺一老。洛陽風月托清權。」平安人物志に據るに、瓦全、名は員仍、字は子由、橘姓である。
最後に小澤蘆庵家集の事を抄する。「小澤蘆庵の歌集默軒萍流などの世話に而六册出來申候。歌は近來の上手に候。先日借覽いたし候。その中に岡崎の庵にありし頃ある人の錢三文かしくれとてこひけるに、くまもなくもとめ侍りけれど露あらざりけるけしきをみて、外にてもかりてんとて出ぬ、いとほいなければと詞書ありて。津の國の難波のみつのあしをなみこと浦かけてからせつるかな。甚おもしろく巧なる手段に候。三津は難波の地名、三文にかけ、あしは蘆にて錢のあしにかけ、なみは波に而無といふにかけ、こと浦は外の所へゆきし也、からせは苅を借の義にかけ候ものと相見え申候。」默軒は前波氏、萍流は小川布淑である。
蘆庵の歌集六册は近代名家著述目録の「六帖詠藻六」である。古學小傳には「六帖詠草七卷」と云つてある。わたくしは其書を藏せぬ故、竹柏園主に乞うて其藏本を檢してもらつた。刻本の題簽は「六帖詠草」に作つてある。本古今六帖にならつて六卷としたものであるが、雜を上下に分つたため、七册となつてゐる。末に「文化八辛未歳晩春、二條通富小路東へ入町、京師書林吉田四郎右衞門梓行」と云つてある。蘆庵の歿年享和元年より算して十年の後纔に刻せられたのである。諸書の載する所に別に「蘆庵集」があるが卷數を記さない。獨り國書解題は「寫本十五卷、春一二三四五、夏上中下、秋一二三四五、冬上下」と記してゐる。猶考ふべきである。
的矢の漁の事は霞亭の書牘に數見えてゐるが、此書にはかう云つてある。「今年は鰶魚よくとれ候哉。あじなどの時節を憶ひ出し候。乍去必々御勞煩、飛脚賃費かかり候間、御上せは御無用に奉存候。」蓴鱸の情懷想ふべきである。又霞亭は此書と共に富士海苔を故郷に送つた。「富士海苔少々もらひ候まま懸御目候。此方にても甚すくなく、賣買には無之候。いづれ御吸物に被遊可然候。香氣よろしく候。」
十月十五日に霞亭は書を茶山に寄せた。書は漢文で、末に「十月之望、晩生北條讓頓首百拜、奉茶山菅先生文壇下」と云つてある。茶山の嵯峨樵歌に序したのを謝したものである。霞亭が庚午の歳に備後に往つたとしても、その茶山を見なかつたことは此に徴して知るべきである。此書は今高橋氏の藏する所で、他日濱野氏が歳寒堂遺稿を刊するに至らば、そのこれを補入すべきは疑を容れない。
その六十
文化壬申の歳暮に霞亭は小旅行をなしたらしい。的矢書牘中に「十二月六日、讓四郎、淺井周助樣、永井彌六、北條立敬樣各位」と署した一通がある。弟碧山と淺井永井の二生とに留守せしめて霞亭が家を出でたとすると、其家は鍋屋町の私塾にして其歳暮は壬申の歳ならざることを得ない。「飛脚便一筆啓上仕候。愈御安佳珍重に候。然者昨日乘興候而石山小樓一宿仕候。然る處道人相送申度義有之、夫に故郷に少々相含み候用事も有之候故、直樣同道南歸仕候。尤立歸りに候間、中旬頃迄に歸京可仕候。其内十三日舊津に而河敬軒東行餞送仕候やと奉存候。左候へば十六日には入京可仕候。此度は外人被尋候はゞ道人送行いたし、一寸故郷へ歸省いたし候と被申候而よろしく、暫時留主中折角御看護頼入候。永井子別而病後御互に御いたわり候樣奉存候。留主中讀書作詩不怠候やう第一御用心可被成候。几上に宇仁館へ遣し候書状、賃錢相添大阪飛脚へ御出し可被下候。玄安翁より御左右有之候はゞ急々飛脚被仰可被下候。書外拜顏可申上候。今晩石部宿に候。草津驛亭に而相認候。匇々頓首。」若し霞亭にして此旅程を改めなかつたとすると、其日次は凡下の如くであらう。
霞亭は十二月五日石山に、六日草津にゐて、其夜石部に舍らうとしてゐた。十三日に河崎敬軒と津に相會し、十六日に京都に還る筈であつた。又其間に一旦歸省しようとしてゐた。霞亭の弟、其二門生よりして外、書は宇仁館、玄安の事をも載せてゐる。宇仁館雨航は猶大阪にゐた。
是年霞亭は三十三歳であつた。
文化十年は霞亭が年を鍋屋町に迎へた。歳寒堂遺稿に「金咼巷僑居元日」の七絶がある。「朝市山林事自分。茅堂晏起看春雲。庭中手掃前宵雪。先賀平安向竹君。」是は木屋町より再び移し栽ゑた「峨野竹」ではなからうか。此年は霞亭が備後に遊ぶべき年である。山陽は單に「歳癸酉遊備後」と書してゐる。此一年間の霞亭の事蹟はわたくしをして頗筆を著くるに苦ましめる。それは的矢書牘に明確に癸酉に作られたと認むべき霞亭の柬牘が極て少い故である。
わたくしは霞亭の菅茶山を黄葉夕陽村舍に訪うた月日を知らない。唯福山諸友の手より得た行状一本に「文化十年三月菅茶山先生を訪ふ」の文を見るのみである。果して然らば往訪の月は三月であつたか。
是より先霞亭は庚午の歳に伊勢より江戸に往くに當つて、備後を過つたかとおもはれる。しかし菅氏をば訪はなかつた。次で壬申の歳に霞亭は人を介して、嵯峨樵歌の序を茶山に請ひ、これを得た。霞亭の茶山を見むことを欲したことは既に久しかつたであらう。そして此望が癸酉に遂げられたことは明である。その癸酉三月なりしや否は稍疑はしい。
癸酉の歳に霞亭は備後に往くに先つて、一たび故郷に歸り、尋で又吉野に遊んだらしい。高橋洗藏さんの所藏僧承芸の詩幅に「奉送霞亭先生還郷」の五古がある。「任有亭」「白梅陽」の二寓を叙した末にかう云つてゐる。「近來在城市。城市聲名揚。纔未經一歳。又將歸故郷。二月漸催暖。別離慳抱傷。從今無人問。空掩竹間房。行矣天放子。春風道路長。」承芸は月江承宣の徒弟である、所謂城市の居は木屋町、鍋屋町の家であらう。霞亭は二月に京都を去つて的矢に歸らうとしたのである。次にわたくしは嘗て山口凹巷の芳野游藁に據つて霞亭の吉野の遊を叙したことがある。今記憶を新にせむがために、其月日を此に抄出する。
二月二十日に霞亭は關宿に往つて凹巷の至るを俟つた。
二十四日に凹巷は河崎敬軒、佐藤子文と共に來り會し、次で山内子亨が至つた。山内の氏と字とは三村氏藏夢亭詩抄に據つて改めた。
三月三日に一行は吉野に至つた。
七日に霞亭は六田を發し、伊勢の諸友と別れて京都に還つた。
以上が芳野游稿の日程である。若し霞亭が三月中に備後に往つて茶山を見たとすると、是は必ず六日より後の事でなくてはならない。霞亭は吉野より京都鍋屋町の居に歸つて、未だ幾ならぬに備後へ立つたことであらう。
その六十一
霞亭は文化癸酉に初て菅茶山を見た。それが癸酉三月であつたと行状の一本に云つてある。しかしわたくしはその據る所を知らない。
霞亭が初て茶山を見た時の事は傳へられてゐない。惟行状の彼一本にかう云つてある。「文化十年先生西遊せむと欲し、神邊に至る。七日市北側今の油屋前原熊太郎の屋に當る大なる旅館あり。この旅館に投宿す。廉塾の諸生來り、經史詩書中の難義を質問し、先生を辱めむとす。先生答辨明確、循々然として説明す。諸生赤面して歸り、茶山先生に告ぐ。先生曰く。これ豫て待つ所の人なり。豈汝輩の類ならむや。直に往て先生を伴ひ歸りしと云ふ。」
若し此説を是なりとすると、霞亭は「西遊せむと欲し、神邊に至」つたのだと云ふ。西遊とは何處をさして往かうとしたもの歟、考ふることが出來ない。下に引く蘆舟の記には、茶山を訪ふ詩の前に「三月夜、舟發浪華、至兵庫」の詩がある。わたくしは此に據つて霞亭が三月某日大阪兵庫を經て西したことを推知するのみである。
霞亭が神邊に來て七日市に投宿したのは事實であらう。その宿つた所の家の故址が口碑に存じてゐて、此状に上つたことを、わたくしは喜ぶ。
しかしわたくしの忖度する所に從へば、霞亭は神邊に來て直に茶山を訪うた筈である。何故と云ふに、霞亭は人を介して嵯峨樵歌の序を茶山に請ひ、これを得て深く茶山を徳とした。今神邊に來た上は、縱ひ先づ行李を七日市の客舍に卸したのは已むことを得ぬとしても、又廉塾の諸生が遽に至つて其論戰に應ぜざることを得なかつたとしても、霞亭が茶山の親しく來り迎ふるを待つたのは怪むべきである。
霞亭の初て茶山を訪うたのが三月だと云ふことには確據が無いと、わたくしは云つた。しかし間接にその三月なるべきを想はしむる證が無いことも無い。それは霞亭が茶山の家に於て頼春水に再會した事である。春水霞亭の曾て江戸に於て相識つてゐたことは上に記した。
遺稿に「訪茶山先生于夕陽村舍、邂逅藝藩春水先生、賦呈二先生」の詩がある。「平生夢寐在豪雄。一世龍門見二公。元自大名垂宇宙。眞當談笑却羆熊。辛夷花白春園雨。黄鳥聲香晩塢風。安得佳隣移宅去。追隨吟杖此山中。」辛夷は春の末に花を開く。しかし遺稿は必ずしも嚴に編年の體例を守つてはをらぬ故、詩の何れの時に成つたかを徴するには足らない。
春水遺稿を閲するに、癸酉の部首に「告暇浴有馬温泉、經京阪而歸」と註してあり、妙正寺の詩の下に「以下十二首係東遊作」と註してあつて、其第十二首は「次韻菅茶山」の詩である。「出閭廿里送吾行。聯載籃輿伊軋聲。楊柳渡頭分袂去。白頭相顧若爲情。」知るべし、春水は癸酉に茶山を訪ひ、その去るに當つて、茶山は神邊より送つて二十里の遠きに至つたことを。茶山集後編癸酉の春には春水に訪はれた詩は見えない。
幸に春水の此訪問が癸酉四月前で、此訪問の際に霞亭が春水を見たことを徴すべき書牘がある。それは的矢書牘中にある柏原瓦全の霞亭に與へた書である。書は五月二十日に京都に於て裁し、的矢に歸省してゐる霞亭に寄せたものである。「備後菅氏に而頼老仙に御出會被成候よし、御本懷、此老仙四月六日頃京著、若槻氏へ入來、同十日再浪華へ下向、有馬へ入湯のよし噂承候。」若槻氏は聖護院村の若槻寛堂の家である。名は敬、字は子寅、通稱は幾齋である。春水は神邊を去つて、四月六日に京都に著いた。その神邊にあつたのは三月であつたらしい。
その六十二
わたくしは霞亭の初て菅茶山を見た時を推して、姑く文化癸酉三月であつたとする。その頼春水と茶山の家に相見たのは、必ず初對面の席に於てしたとは云ひ難いが、霞亭が始て神邊に往つた時に春水が有馬に浴する途次來合せたことは明である。
さて霞亭は茶山を見た後いかにしたか。わたくしはその神邊に淹留しなかつたことを知つてゐる。濱野氏は嘗てわたくしに書を與へて、茶山集に就いて霞亭の直に神邊を去つたことを證した。それは「子晦(藤井暮庵)宅同頼千秋北條景陽劉大基赤松需道光師賦」の詩中「斯時誰厭醉、明日各雲程」の句である。霞亭は去つた。そして四月十日には郷里的矢に歸つてゐた。
既に引いた癸酉五月二十日の柏原瓦全の書牘にかう云つてある。「先月(四月)十日之貴牘無滯相屆忝拜誦、先以御清寧御歸國之趣承知安堵仕候。此節ははや宮川邊に移居被成候か、委曲承度奉存候。」京都の瓦全が霞亭の四月十日に的矢にあつて裁した書牘を得たのである。
此文中「此節ははや宮川邊に移居被成候か」の句は、霞亭の的矢より何處に往かむとしてゐたかを示すものである。瓦全は霞亭の四月十日の書に云つた所より推して、その既に宮川邊に移つたことを想つた。
霞亭は實に的矢に歸つてより幾もあらぬに伊勢に居を卜した。其家は即歳寒堂遺稿に所謂夕霏亭である。「夕霏亭即事。手中書卷掩昏眸。一枕清風夢轉幽。伊軋時疑門有客。數聲柔櫓下前流。」前流の宮川なることは復疑を容れない。
霞亭が故郷より夕霏亭に徙つたのは、恐くは四月十日の直後であらう。何故と云ふに、霞亭は同じ日に書を廉塾の諸友に致して、本宅は的矢、居住は山田附近だと云つてゐる。濱野氏の寫して示した一書はかうである。「口上。先生家より御投毫被下置候はゞ、左之通名前にて御差下し可被下奉頼候。早速相達し被下度、尚又先生家へ差上候書状等、便宜いづかたへむけ差上候而よろしく候哉、何卒御序に御しるし被遣被下候やう、乍御面働奉頼候。以上。四月十日。北條讓四郎。黄葉夕陽村舍御塾中御取次。京都麩屋町六角下る、伊勢屋喜助。右之處書に被成下度候。山田へ直樣御遣し被下度候へば、勢州山田上之久保、山口角大夫方迄御名宛可被下候。小生本宅は的屋と申處に而、磯部の邊に御座候。小生居住は山田には候得共、山居に而市中より少々隔絶仕候故、不便理に御座候故に御座候。」
霞亭は同じ日に書を京都の五升庵と備後の廉塾とに遣り、彼には「宮川邊」と云ひ、此には「山田には候得共山居に而市中より少々隔絶仕候」と云つた。その斥す所は均しく是れ夕霏亭であらう。
書を廉塾に遣つたのは、茶山との通信の便を謀つたのである。茶山は書を京都の伊勢喜に送るか、又は山田上の久保町の山口凹巷に送つて、霞亭に傳致せしむるが好いと云つたのである。
霞亭は瓦全に將に移らむとするものの如くに言ひ遣り、茶山門人に既に移つたものの如くに言ひ遣つた。後者は文字の繁冗を避けたものである。それ故わたくしは霞亭の夕霏亭に徙つた期日を四月十日の直後とする。
その六十三
わたくしは的矢書牘中に分明に文化癸酉に裁せられた霞亭の書が少いと云つた。霞亭の書は少い。しかし上に引いた柏原瓦全の書の如く前後の事跡を徴すべきものは有る。又「癸酉仲夏六日、同陪霞亭先生、從夕霏亭、遊于宮水、分餘酣嗽晩汀句、得汀字、伏乞郢正、孫公裕拜藁」と署した詩箋がある。此詩に「高人棲息地、山水抱孤亭」の句がある。癸酉五月六日に霞亭が夕霏亭に住んでゐたことは明である。
此よりわたくしは五月二十日瓦全の書中より録存に値する數件を拾はうとおもふ。先づ瓦全自己の近況がある。「扨貴君(霞亭)御歸省後、彌生中比より老病差起り、于今聢と不致全快、鬱々と日を消し候。尤高階診察投劑、淺井にも御世話に相成候。老境無據事に候か。されど嵐山へは淺井と罷こし、月江和尚と對酌して佳興難申候。昨十九日北谷を訪ひ、御噂申出候。數々及閑談歸りがけ、銅駝新地の家毎より人走り出候故、何事ぞといふに、四條戲場歌右衞門が表木戸を火方のあらものらが一統して打こぼち、内へ入て舞臺の道具立も打やぶりしといひて走り行候。狂言は一の谷にて、熊谷を歌右衞門がして、けしからずはやるに付、勢ひ猛にのゝしりて無錢のものを入ざる意趣ばらしと相聞え候。大俗事申もいかゞに存候得共、都には箇程の大あためづらしき故申入候。(中略。)尚々老婆もよろしく申度申添候。豚兒が本宅へ歸れと申て頻にくどき候。今より歸る事口をしく、足立ぬまでは歸るまじと存候得共、言を盡してかさね/″\申に心惑して決し不申候。」北谷の隱者は何人なるを知らない。しかし瓦全が後に同じく北谷に住んだ證迹は的矢書牘に見えてゐる。瓦全には妻子があつて、子が老爺を本宅へ呼び戻さうとしてゐた。瓦全の病を療した高階は枳園である。瓦全と共に僧月江を訪うた淺井は周助であらう。中村歌右衞門は三代目、後の梅玉である。
瓦全の書には猶北小路梅莊と筑前の俳人魯白との消息がある。
「北小路は三月末より因幡へ入湯に下向有之候。因幡の温泉聞及ぬ事に候。」梅莊は是年の初に大學助に除せられたらしい。わたくしの獲た廉塾の一書生陸奧の僧蘆舟の雜記を閲するに、霞亭の「金咼巷僑居元日」の詩の後に梅莊に次韻した作がある。「予將歸故山(的矢)、故人北小路肥後守顧草蘆云、聞子隱故山、予家藏成齋翁(西依氏)所書陶弘景詩一軸、以子心跡與陶相似、特以爲餞、且贈詩曰、翻然歸臥故山雲、恰悦從來久所聞、海底珊瑚天外鶴、只應不許在人群、因和其韻以謝、君近除大學助。明時有路上青雲。滿世文名聖主聞。雙鬢我將如野鶴。低囘甘欲逐離群。」
「筑前魯白つくし貝の御返しに御作一章呈せられ可被下候。此叟今春古稀に候。」歳寒堂遺稿に「筑紫貝序」があつて、末に「文化辛未初秋、嵐山樵逸北條讓、書於任有亭楓窓」と署してある。霞亭のこれに序したのは二年前の七月で、任有亭にゐた時である。想ふに其後刊本が霞亭の手に到つたことであらう。瓦全は更に魯白のために詩を求めた。霞亭をして魯白の七秩を賀せしめむとしたのであらう。霞亭の作は遺稿に見えない。
魯白の筑紫貝は國書解題に見えない。霞亭の序に「其書彙纂彼土闔州名勝之來由典故、附以諸家所題諧歌、上自古哲下及當今作者」と云つてある。彼土とは筑紫である。
霞亭の夕霏亭にあつた時、茶山は書を霞亭と其友山口凹巷とに寄せて、霞亭を廉塾に聘せむとした。五月二十一日に霞亭の的矢にある碧山に與へた書がある。即癸酉の霞亭書牘として稀有なる一篇である。惜むらくは其前半は烏有に歸してしまつた。わたくしは下に稍細に此斷簡を檢せようとおもふ。
その六十四
前半を失はれた文化癸酉五月二十一日の霞亭の書は、霞亭を菅氏に繋ぎ、次で阿部家に維ぐ端緒を開くものにして、事出處進退に關し、頗重大なるが故に、わたくしは例を破つて斷簡の全形を此に寫し出す。
「小生並に山口君(凹巷)え御状被下候。(按ずるに書は茶山の備後より伊勢に寄せたものである。)其儀は何分にも兩三年助力いたしもらひたきとの事に候。御状別に懸御目申候。御覽可被下候。身事におゐてはさまでの事も有之間敷候得共、あの通當時天下に高名の先生、別而四方の人輻湊、歴々諸侯方の儒官の人にても入門在塾仕候程の人、實は二三日の會面に御心醉被致、この如く厚意に被仰聞候段、誠に學生之面目に存候。茶山の門人と申にても無之、先々學風等はすこし違ひも候拙者を、重く敬待被致候儀、山口君とも申出し、近世にまれなる事、益以茶山翁の高徳想ひやられ候。御存じの通、當時京江戸などの諸先生業におゐては茶山に及候者無之候得共、皆々傲然とかまへ候人多く候時節に候。この通り謙虚の思召、實に不堪感佩候。尤參り候はゞ後來の都下などへ發業いたし候基本にも可然と存候。夫に内々山口君とも御相談申候得共、山口君も美事可惜際會にも候得共、遠別もつらく被存、とかくいづれとも決斷いたし兼候。尤遠方とは申ながら江戸などとは大に相違に而、百里たらぬ所之上、通路も甚いたしやすき道、並に仕宦などとは違ひ候而、一歳一度か又は不時に勢南歸省は出來候事に御座候故、案じ候には及不申候得共、何分御兩親(適齋夫妻)の意にまかせ候より外は無之候間、足下より得と御雙親樣へ御相談可被下候。山口君も呉々被申候也。小生參上仕たく候得共、右講釋つい今日はじめ候儀故、留主にいたしがたく候。(按ずるに霞亭の夕霏亭に入つたのは、伊勢人に請はれて書を講ぜむがためであつたと見える。尺牘の前半を佚したために、これを審にすることを得ない。)御熟談之上近々足下一夜泊りにても私寓(夕霏亭)へ乍御苦勞御越可被下奉頼候。尤いそぎ不申候得共、歸後未だ彼方(神邊)へ呈書も不仕に罷在、却而彼方より寄書いたされ候。甚失敬に相成候間、近日山口並に小生より返書仕たく候間、急に御相談御出可被下候。萬端可然御勘考可被下候。乍末毫御雙親樣へ乍恐宜敷御致聲被仰上可被下候。頓首。五月廿一日。讓四郎。北條立敬樣。」
的矢に於ける適齋夫婦と碧山との議は、遂に霞亭をして神邊の聘に應ぜしむることに決し、次で碧山は此消息を齎して夕霏亭に來たであらう。此間の經過は文書の徴すべきものが無い。
霞亭は何時夕霏亭を去つたか不明である。遺稿に「將出夕霏亭即事」の詩がある。「世間無限好青山。人不爭邊我往還。蹤跡唯從風捲去。高情一片與雲閑。」霞亭が嵯峨を經て西したことは、遺稿に「嵯峨宿三秀院、呈月江長老」の五律を載するを見て知るべきである。此詩題が蘆舟の記には「仲秋遊三秀院、呈月江長老」に作つてある。然れば夕霏亭を去つたのは癸酉八月前半で、十五日に嵯峨に宿つたことであらう。
霞亭は此より再び茶山を神邊に訪ひ、遂に廉塾に留まつた。遺稿の「夕陽村舍寓居秋日」の二律は恐くは八月下旬若くは九月に成つたものであらう。
霞亭は早く八月二十三日に神邊にゐて、書を的矢へ遣つた證がある。それは的矢書牘の一なる九月二十七日の書に見えてゐる。「此方(神邊)より書状、先月(八月)廿三日笠岡便、京都五升庵(柏原氏)迄差出申候。」
わたくしは此九月二十七日碧山宛の書より、先づ霞亭の状況を抄する。「此方さして相替候儀も無之候。當時は塾中出入書生三十人許居申候。菅先生甚勉強いたされ候人に而、毎日講釋等無懈怠有之候。小生も先日より毎朝講釋手傳ひはじめ候。大學中庸大方終り候。詩經近日にはじめ候。」廉塾に來てより、九月二十七日に至る間に、幾多の日子があつたことは、學庸を講じ畢つたと云ふより推すことが出來る。「此方に參り候より、府中行の外は一切他出も不仕、門外もしらぬ位に候。短日に候故、何歟といそがしく覺え候。」
次に塾中諸友の事を抄する。「筑前竹田定之丞殿も一昨日出立歸國被致候。小生送序なども有之候得共副本無之候。追而懸御目可申候。先日菅翁並塾中兩三子と秋柳の詩作り候。別にうつし入御覽候。門田子作懸御目候。中々上達に御座候。十七歳のよし、才子に御座候。此節日向伊東侯の文學落合氏塾中に寄宿いたし被居候。出精家に而、よきはなし相手に御座候。外は皆々小兒輩多く候。」曰竹田器甫、曰門田朴齋、曰落合雙石、皆注目に値する人物である。
「送竹田器甫序」は歳寒堂遺稿に見えてゐる。「豈圖予之來無幾、而君之去爾遽」の語がある。朴齋當時の詩文は稿を存じてゐるものが甚少い。これに反して雙石の「鴻爪詩集卷二」には霞亭の名が累見してゐて、中に二人の茶山と同じく賦した「秋柳」の七律がある。「徒使寒潭寫月痕。何能病葉藏鴉叫。」
その六十五
霞亭が文化癸酉に再び神邊に來たのは、前に引いた書牘に據るに、八月二十三日より前であつた。歳寒堂遺稿に「呈茶山先生、先生時讀易」の詩がある。「樂天安命鬂毛斑。絶跡市朝高養閑。正是林中觀易罷。夕陽門外對秋山。」去つて茶山集を看れば、「次北條景陽見貽韻」の詩がある。「孤生踽々鬢斑斑。好把斯身附等閑。幸得招君爲隱侶。將分一半讀書山。」霞亭は秋山の字を下してゐるのに、茶山の次韻は冬の詩の間に厠つてゐる。茶山は或は稿を留むるに次第に拘らなかつたか、或は又日を經て賡酬したか。それはともあれ、茶山が霞亭をして二年前(辛未)に去つた頼山陽の替人たらしめむとする意は三四の句に露呈してゐる。霞亭はこれを評して「承眷不淺、抱愧實深」と云つた。
茶山より視れば、霞亭は山田詩社の一人であつただらう。そして山田詩社は皆茶山を景仰し、茶山も亦これを善遇してゐた。此年に入つてよりも、山口凹巷は父のために茶山の壽詩を贏ち得た。「寄祝伊勢山迂叟先生七十壽」の一絶が是である。又茶山の此年に詩を題した鸚鵡岩の持主「韓老人」も恐くは迂叟であらう。冬に至つては佐藤子文が來て、霞亭と共に茶山の客となつた。茶山に「與佐藤子文同往中條路上口號」の七律がある。「久留詞客臥田家。偶値晴和命鹿車。澗涸白沙全解凍。野暄黄菜誤生花。村聲有趣聽逾好。山路無程興也加。但恐荒凉使君厭。都人平日慣豪華。」
是年霞亭は三十四歳であつた。遺稿の「除夕廉塾集得郷字」の頷聯に「人生七十齡將半、客路三千思與長」と云つてある。此夜茶山が「馬齡垂七十」を以て起つた五古を作つて、霞亭はこれに和した。「千里從爲客。匇匇節物更。功名他日志。老大此時情。梅媚燈前影。燎明村外聲。多年丘隴隔。念至涙空傾。」
文化十一年の元旦は霞亭がこれを茶山の家に迎へた。茶山の「椒盤一日三元日、萍聚十人九處人」の所謂十人中に志摩の霞亭と伊勢の佐藤子文とがあつた。そしてわたくしの郷國石見をば市川忠藏と云ふものが代表してゐたさうである。忠藏の事は今詳にし難いが、佐伯幸麿さんは甞て津和野養老館に於て其子捨五郎の教を受けたと云つてゐる。
正月七日に霞亭は郊外に遊んで六言の詩を作つた。同遊者は「大卿、子文、孟昌、玄壽、堯佐」であつた。初めわたくしは大卿は鷦鷯春行、俗稱は錢屋總四郎、京の商人だと謂つた。しかし備後の人に聞けば、大卿、通稱は大二、備中國西阿智村の人ださうである。子文は佐藤である。孟昌は太田全齋の子昌太郎である。實は第二子であつたが、兄が夭したために孟昌と字した。福山の人である。玄壽は甲原秀義、漁莊又武陵と號した。豐後吉廣村(今國東郡武藏村)の人である。堯佐は門田朴齋である。霞亭の六言は絶無僅有の作である。「茅屋鷄鳴犬吠。柴門竹碧梅香。杯盤世外人日。醉臥山中夕陽。」
是月霞亭は梅を三原に觀た。「薇山三觀」は端を甲戌正月に開いたのである。わたくしは既に一たび三觀の事を記したから、今省略に從ふ。同遊者は佐藤子文、甲原玄壽であつた。
書して此に至つてわたくしは又的矢書牘を引く喜に遭遇する。それは霞亭の碧山に與へた月日の無い書で、それが此正月の作なることは佐藤子文の消息に由つて知ることが出來る。「子文も無事罷在候。二月中句頃迄は此表に被居候よし、金毘羅(讚岐)參詣等いたし歸國いたされ候よしに御座候。」
その六十六
わたくしは先づ文化甲戌正月の書牘中霞亭の自己の事を告ぐる文を抄する。「餘寒に候得共此表舊年より甚暖氣に御座候。(中略。)小生は甚壯健に御座候。平生素食、夫に酒も少し許宛喫し候事に御座候。」霞亭は此句の直後に茶山の己を遇することの厚きを説いてゐる。「茶山翁淡泊の高人に而、御厚意はけしからぬ事に御座候。貴所(碧山)の事なども折節被尋申候。」霞亭は身を此境界に置いて、自己のこれに處する所以を思つてゐたらしく、碧山をして父母の意嚮を問はしめようとしてゐる。「尚々大人樣にても母樣にても、小生身分の事に付思召寄せられ候儀も有之候はゞ、くわしく御書通可被下候。いづれも足下の取計にて萬事つゝまず御志の儀等被仰聞可被下候。」
次は弟碧山の事である。「御詩作(碧山の詩)毎篇拜見仕候。おもしろく存候。菅翁(茶山)へ入御覽置候。追而御返上可申上候。尚又御近作等御便之節御録示可被下候。聯玉兄(山口凹巷)よりも折角悦被越候。尚萬事御出精可然候。四書集註御熟覽可然候。山田へ被出候序も候はゞ、經書にても歴史類にても、いづ方にても御借受被成御熟讀可然候。書物は多く有之候ても無詮物に御座候。とかく熟復手に入候やう文章類御心懸可然候。御本業醫事は勿論研究可被成候。(中略。)學問家業の外、餘りに心つめ候事なきやう御心得可然候。すこしの御病氣にても手ばやく御療治可被成候。何分にも身體壯健に無之候ては何事も出來不申、大に損に御座候。詩文事其外學業の爲にも候はゞ、二月に一度位は二三日がけに山田へ出候而、山口兄(凹巷)など御訪申上候もよろしく被存候。いづれ御兩親樣御計次第に御座候。敬助、良助など御心懸素讀等御指南可被下候。」此文中碧山の詩を云云する處に一紙片が貼してある。細檢するに西村及時の筆蹟である。及時は書を霞亭に寄せた次に、其弟碧山の詩を稱した。霞亭は其一段を戴り取つて弟に與ふる書の上に貼し、弟を獎勵する料となしたものである。「尚々昨日來は御令弟(碧山)御出被下、昨夕は此方へ御止宿、唯今御歸り被成候。御作等翮々、且御上達被成候樣奉存候而甚悦申候。必御案じ被成間布候。」
次は頼春水の事である。「頼翁の御状京都に而浮沈、去暮(癸酉歳晩)漸く落手仕候。御丁寧被仰聞奉感候。今般入御覽候。御接手可被下候。」霞亭は癸酉三月に春水に再會し、其歳晩に手書に接したのである。春水の柬中には詩があつたので、霞亭はこれに復する時、贈詩一篇を添へた。「廣島頼春水翁書中見録示答人問京遊状詩、因賦此以寄呈。江頭分手恨匇匇。別後勝遊書信通。詩酒幾場傾渭洛。文名一代重華嵩。鶴歸湖岸疎梅外。人立門庭深雪中。琴劍何時尋講舍。重陪語笑坐春風。」所謂「答人問京遊状詩」は春水遺稿に「歸後答人問遊状」と題してある。「山陽百里信輕鑣」を以て起る七律が是である。想ふに春水の尺牘にして此詩あるものが猶存じてゐはすまいか。尺牘が碧山の許に留められたら志摩北條氏に、霞亭の許に還されたら備後高橋氏に。
その六十七
わたくしは霞亭の文化甲戌正月の書を續抄する。次は大窪詩佛の事である。「高田文之助より舊冬書状到來、隨分無事のよし、貴所(碧山)へ可然申上候樣申來候。菟角勢南へ參りたきやうに申居候よし、いらざる事と存候。詩佛方の家の圖とやらを足下(碧山)へ差上くれと申參候。江戸人はとかくこのやうの浮華なる事計多く候。玉池に此位の事出來候やうなし。」
高田文之助、名は淵、字は靜沖、越後の人である。霞亭の林崎時代の門人で、今は龜田鵬齋の塾に入つてゐるのである。高田は大窪天民のお玉が池の家の圖を獲て珍重がり、霞亭に託して碧山に贈らうとした。霞亭は圖の誇張に出づるを以爲ひ、(玉池に此位の事出來候やうなし)且江戸人の浮華を笑つた。
詩聖堂集十卷が文化己巳の冬より庚午の春にかけて校刻成を告げ、此歳甲戌の四月に市に上つたことは、集の序と奧附とに徴して知られる。詩聖堂の圖が先づ頒布せられたのは一種のレクラムである。集中玉池精舍二十詠があつて、圖の必ずしも誇張にあらざるを見ることが出來る。高田が此圖を獲て碧山に傳へ示さうとしたのは、今文藝雜誌の六號記事を嗜讀するものの情と同じである。
此より後幾ならずして所謂番附騷動が起つた。わたくしは甞て蘭軒傳中にこれに言ひ及んだが、後に至つて當時の記録一卷を購ひ得た。記録中最觀るべきものは、太田錦城の天民に與へた書である。その云ふ所に從へば、番附は詩聖堂末派の畫策に成り、主として此に從事したものは山本北山の子緑陰であつたさうである。江戸文壇のレクラム手段は玉池精舍の圖より進んで此番附となつたのである。
次は山口凹巷一家の事である。「山口氏御内人とかくこちのものにはなりかね候やに被存候。何卒本復いたさせ申たきものと存候。無左候而は凹巷の家事甚むづかしく氣之毒に存候。」凹巷の妻の病が重かつた。若し起たずんば「家事甚むづかし」からむと、霞亭は氣遣つてゐる。後の詩に「韓公(凹巷)愛客客成群、家政平生付細君」と云つた意である。
次は柏原瓦全の事である。「京都瓦全も本復いたし、本宅へ歸り被居候よし、此間書状參り候。京はけしからぬ水旱に而戸々込り入候由に御坐候。」瓦全は遂に子の請を拒むことを得なかつたのである。困るを「込」ると書するは霞亭慣用の假借である。
甲戌正月の書中より抄すべきものは略此に盡きた。其他雜事二三がある。其一。「嵯峨樵歌、渉筆此節數十部梶川より下し申候。御地邊に望候人有之候はゞ御世話可被下候。後便にいなや被仰聞可被下候。」其二。「御母樣御世話に而先達而下向之節外に而金子二兩借用仕候。此節差上可申之處、とかく便は皆々藏屋敷頼に候故金子相頼がたく、子文歸裝の節頼可申やと存候。其段被仰上置可被下候。」母を介して二兩を人に借りた。的矢宗家の窮乏想ふべきである。其三。霞亭は兵大夫と云ふものの訃を得た。霞亭、碧山の少時世話になつた人である。文長きが故に省略に從ふ。末にかう云つてある。「兵大夫殿と御約束仕候菅翁手迹跡に相成候へども差上候。其上しみものいたし候而氣之毒に存候。表具にいたし候はゞ見やすく相成可申哉。」茶山の書は延陵の劍にせられた。其四。「扨尊大人樣に此方産物何ぞ差上たくぞんじ含み罷在候得共、殊之外物事不自由の地何も無之、皆京大坂にありふれ候物計に候。鞆の芳命酒(保命酒)と申ても甘味すぎ候もの、索麪よろしく候得共、箇樣之食物類は船中の者ぬすみ候而、其上各別の物にも無之、夫故何も差上不申候間、貴所(碧山)より可然御斷置可被下候。子文も無僕故言傳ものも氣之毒に御座候。何分如在無之候得共、右之仕合愧入候。」
此頃より霞亭の郷親に寄する書が殆必ず弟碧山に宛てられてゐる。そして適齋に謂ふべき事も碧山をして言はしめられてゐる。碧山の家督は或は此頃に於てせられたのではなからうか。
その六十八
文化甲戌二月に入つて佐藤子文は茶山の許を辭し去つたであらう。茶山集中に「伊勢藤子文尋霞亭於余家、不憚脩途、余因得歡、臨別賦此」の一篇がある。「長路故來縁戀友、歸期無滯爲思親」は其頷聯である。
子文は神邊に淹留した間に、料らずも霞亭が身上に關繋すること重大なるロオルに任ずるに至つた。それは茶山が霞亭を廉塾に拘留せむと欲し、又これに妻すに井上氏敬を以てせむと欲して、先づこれを子文に諮つた故である。
的矢書牘中に二月二十日の霞亭の書がある。是は霞亭が子文の去後に弟碧山に與へたもので、頗此間の消息を悉すに足るものである。惜むらくは書の前半は斷裂して存じてゐない。
「將又此度極内々御相談申上候一件御坐候。足下(碧山)より御雙親樣へ御噂申上、御志之處御心腹とくと御聞可被下候。小生におゐては各別相すゝみ不申候義に有之候得共、無據時宜故内々申上候。其義と申は子文發前茶山翁別段に内々子文を招れ、小生身分並に故郷家事等相尋候上に被申候は、此方我々最早かくの如く老衰に及候而、見かけ候通學問所世話いたし候仁も無之、此方罷在候内はよろしく候得共、跡に而書生教授相續いたし候人無之候ては、折角取立て候閭塾空敷相成、氣之毒に存候。夫に付北條永く此方學問所世話いたし呉候事出來まじきや。かつはかの人もいつまでも獨身に而も叶申間敷、此方姪女(敬)配偶いたしもらゐたきとの思召のよしに候。此姪と申は先生のめいにて、二十四五歳の人、もと翁の甥(茶山仲弟汝楩の子)何某(萬年)の妻となり、菅氏の本宅酒造家の主人に有之候處、二三年以前其夫死去、其遺子五歳許の男子一人(菅三、後自牧齋惟繩)有之、これを成長の後菅氏の右酒家相たてさせ候積りのよしに候。只今は彼方の家あけ候而先生家に參り居候人也。この家田地も有之、酒造のかぶも有之候家也。元來菅氏は酒造家に而餘程の巨家に有之候處、先生は三十年前迄は醫を兼而被致候よし。然る處右本宅兩度迄燒失いたし、其内先生は醫をやめられ候而、專ら學問一道に相成候て、本宅へは弟(茶山季弟)圭二郎(晉寶)相續、先生同居し被居候處、右圭二郎京都へ出候而客死、先生は右今の廉塾の方營み候而、引込候而、書生教導いたされ候處、福山侯より二十人扶持金十五兩宛とやらむ相付られ、今の學問所取建、屋敷等除地除役に相成、永世學問所といたされ候事に候。其砌右先生甥(萬年)菅の酒家本宅相續いたし居申候也。先生無欲の人物なれば、右扶持方等年分入用の餘計に而、近々田地等をももとめ、學問所の方へつけられ、其方よりも年々三十俵ほども百姓より上り候よしに候。佐藤氏へ先生相談は、北條氏承知の樣子にも候はゞ、貴樣的屋へ罷越、大人(適齋)へ御相談被下候やう被申候處、佐藤子直に被申候は、かの人元來嫡子に而的屋本宅相續可仕の人に候處、學問好に而今の體に被成候義、且又かの人平生之志氣、北條氏をかへ候而はとても承知有之間敷事必然に候と被申候へば、翁被申候は其義は我々も覺え有之候義、何分學問所相續、右配偶等いたされ候はゞ、其義は意にまかし可申との事に候。右之段子文より小生へ相談候處、小生も甚當惑仕候。」
文は未だ盡きない。わたくしは事の重要なるを思ふが故に敢て擅に筆削することをなさない。
その六十九
わたくしは文化甲戌二月二十日の霞亭の書を續抄する。文は霞亭が佐藤子文をして茶山に謂はしめた辭令に入る。
「老人(茶山)の御頼無據候へども、此義は一身之進退なれば、とても一分にては參り申間敷候。人づてにて親共御相談申上候ても、内外分り兼、親共の思召もはかりがたく候へば、いづれ七月頃にも歸宅いたし、御面上相談仕候上、いなや返答可申上候。夫迄は佐藤君にも社中とても御噂被下間敷、先々夫迄御待被下候樣申置候。右之義足下(碧山)如何御思召候哉。御雙親樣之御心中如何あらむや。小生心中にも改姓の事に候はゞとても承引出來がたく候。夫に尋常仕宦のやうに勤仕等有之候事に候はゞいやにも候へども、學問事世話いたし、自分修業專一にいたし候而、外俗事とては少しも無之義故、學問のためには至極よろしかるべきと存候へども、先自分の事はともあれ、御互に氣遣仕候は御雙親樣(適齋夫妻)の義に候。御壯健被爲入候故、御長壽之義とは相樂罷在候得共、七十にちかく御入候大人樣を遠方隔居仕居候義、いかにも心苦敷義と被存候。さすればとて右之身分に相成候はゞ、御見舞申上候とても、二年めか三年めならでは出來申間敷、只今迄始終遠方へ參り居申候得共、今更後悔千萬奉存候。別而去年來兵大夫殿と申、武内叔父の變故等有之てよりこのかた、とかく歸郷の念出候而時々惆悵仕候。つら/\存候に當時のありさま仕宦仕候てはわけ而身分の自由なりがたく、一切學業等の妨にも相成、門戸をはり候而教導いたし候にも、はじめ餘程の骨折にも有之候よし、世の中の浮名微祿おもしろからざる事(に候へば、)とかく自分著述學業のすゝみ候やう相計、御雙親御存生のながきを相樂み、舊里にても或はいせにても又は京都にても、偶然と自由に往來いたし居可申やと段々思慮もいたし候事に候。茶山翁切角御相談に及候義故、一先申上候わぬも不可然候。御雙親樣の御心中次第により秋頃にても歸郷可仕や、又は此書中に而大略わかり候へば夫にも及不申候哉、御相談之處御雙親樣の御心落無之義に候はゞ不及申相斷候而歸郷可仕候。尤茶山翁被申候は、この事相談なり不申候とも、永く學問所の滯留いたされ候處は頼可申との事に候へども、夫に付候ては小生も今年明年の義は各別、別段存じ入れも有之候故、又々其節御相談可申上候。何分あらまし思召被仰越可被下候。佐藤氏へも小生夏秋の間歸郷までは親共方へも不申候やう申かため置候間、今暫之處一切御噂御無用に存候。いそぎ不申候間、とくと御返書奉煩候。書外期再信候。頓首。二月廿日。北條讓四郎。北條立敬樣文案。尚々御雙親樣始、時下御自愛專一奉祈候。今年は春色も甚はやく候。最早去年參り候節の園中の辛夷、昨日あたりより盛開に御坐候。なにかに付御床布奉存候。」
此書の斷簡ながらも猶存ずるは洵に喜ぶべきである。何故と云ふに此に由つて、直接には霞亭を廉塾に繋ぎ、間接には又これを福山藩に繋いだきづなの、いかにして結ばれしかが、始て窮尋せられたからである。
霞亭は前年癸酉三月に始て神邊に來て、黄葉夕陽村舍の園中に辛夷の花の盛に開いてゐるのを見た。暖氣の特に早く囘つた甲戌には、二月の未だ盡きぬに辛夷の花が再び開いた。そして霞亭の足は將に赤繩子の纏るを免れざらむとしてゐる。
その七十
茶山は閭塾に良師あらしめ、女姪に佳壻を得しめむと欲して其事未だ集らざるに、福山侯阿部正精は遠く茶山を江戸邸に召すこととなつた。福山の留守は早く甲戌三月中に其内議の江戸より至るに會した。事は的矢書牘中にある霞亭の一書に見えてゐる。此書は甲戌四月十三日に的矢なる弟碧山に與へたものであるが、惜むらくは偶中腹を佚亡して首尾のみが僅に存じてゐる。其末幅にかう云つてある。「去月(三月)より菅翁を江戸へ被召候儀有之、多病甚迷惑被致候由、先斷立候やうすに候。當御屋敷御老母樣御忌中に而今に中陰に御坐候。翁も久敷講談休すまれ居候。」茶山の母とは佐藤氏であらう。
佐藤子文は神邊を去つてより四月十三日に至るまでに、書を霞亭に寄すること既に兩度であつた。「子文より此頃兩度書状承知致候。山田にも社中無事の由に候。」
頼春水は一たび霞亭と相見てより漸く親善なるに至つた。「頼翁より時々書状參、足下(碧山)へも傳言有之候。則御一讀可被成候。度々かの方へも尋問いたし候やう被申越候。辱候得共、三十里も有之候處、夫に講業日々に而不得其意候。」春水は霞亭を廣島に迎へむと欲したが、霞亭は往訪の暇を得なかつた。
霞亭は此度も弟碧山を指導することを忘れなかつた。「近來御作は無之候哉。ちと御見せ可被下候。書籍不自由奉察候。何にても佐藤(子文)又は山口(凹巷)などへ御頼申て恩借可然候。御かり被成候物ははやく卒業御返戻又々御かり被成候樣可然候。さなくてはかし主倦候物に御坐候。御心得可然候。經書熟讀肝要之義に候。外色々意にまかせ可然候。佐藤にても山口にても漁洋山人詩集精華録御かり被成候て注まで一通御よみ被成候はゞ大分益可有之候。一度ならずとも兩三度に御かり被成候てもよろしく候歟と被存候。」霞亭が碧山をして王阮亭を讀ましめむとするを見れば、當時の山田詩社が清朝の詩風を追逐してゐたことが知られる。
中三日を隔てて四月十七日に霞亭は又書を碧山に與へた。是も亦的矢書牘中にある。「四五日前山田高木氏迄書状一通差出申候。定而相達し可申存候。以來此方何も別條無之候。」乃知る前の書は高木呆翁に由つて故郷に達したものであつたことを。
此書を見るに山口凹巷の妻は遂に歿した。「山口氏御内人御死去御互に惆悵仕候。甚事に幹たる人に而可惜事に御坐候。凹巷家政等迷惑可被致と恍々罷在候。」墓誌に據るに凹巷の初の妻は藤田氏、後の妻は山原氏である。山原氏歿して後妾加藤氏を納れた。甲戌に歿したのは山原氏であらう歟。歳寒堂遺稿に「寄慰韓聯玉悼亡」の四絶がある。其一に元白應酬の詩を摸してかう云つてある。「夢裏音容覺且疑。殘燈無焔悄閨帷。深更起坐聞雞唱。誰撫呱呱索乳兒。」藤田氏には子女なく、山原氏には二子三女があつた。
わたくしは山原氏の名を知らない。しかし孫福孟綽の所謂霅雨孺人の此人なることは明である。河崎誠宇の受業録は云はく。「甲戌之春、霅雨孺人逝、孺人吾叔氏韓先生之配也、是秋余過櫻葉館、側聽令愛象虎二女、讀藤黄門所撰百人一首、叔氏語余曰、二女近學書之暇、往松村氏、習讀倭歌、今請觀霅雨遺稿、予曰、汝未解歌意、叨請之不可、汝有所自試、若能成章、則如所請、因令象詠月虎詠菊、衝吻各成其辭、雖不屬、覺有思理、叔氏雌黄、便成佳篇、余歎賞竊謂、之女有志吟詠、叔氏悼内詩云、擁兒傍讀國風辭、盖孺人常訓兒輩以倭歌及漢詩、是知其養之所致也、而今孺人既逝、二女嗣前志之不終、冀叔氏事業之餘、朝夕導學、自倭及漢、何獨班氏之有大家而已哉、況使孺人欣然於地下、亦叔氏之賜也、因賦長句奉呈、時甲戌秋九月。叔氏本儒流。於詩復盛名。孟光爲之配。爲人淑且貞。夙夜不言勞。奴碑亦淳誠。内外人稱美。義重由利輕。二男及三女。羅生玉雪清。書燈中饋暇。孜々訓嬌嬰。百全長難保。天命有虚盈。一値不平事。肝膽甚於烹。罹疾秋風蓐。送魂春草塋。男啼聲呱々。女解語嚶々。戀母思手澤。拜告發中情。遺篇何所藏。暗塵筺中生。悲喜紛不説。爲之試其鳴。當此杪秋時。菊花又月明。纖手把彤管。黄口吐辭英。側讀歎胎教。慧思眉間横。大隧途云邈。欲酬恩海弘。幸汝侍嚴顏。自今遂長成。刀尺有餘閒。硯田時筆耕。豈問脂與粉。顯親足光榮。況有雙愛弟。一窓結文盟。吾亦父汝父。大恩仰崢嶗。樂哉螽斯化。與我幾弟兄。因玆報叔氏。庶共振家聲。」是に由つて觀れば凹巷の長女は象、二女は虎で、皆觀平より長じてゐたのである。
次に碧山以下三弟の事を抄する。霞亭は先づ碧山の善く親に事ふるを褒め、後にその善く二弟に誨ふるを稱へてゐる。「御兩親樣益御壯健被遊御坐候由くわしく被仰聞辱奉存候。御老成之御氣象有之、萬事御油斷無之事と奉存候。甚彊人意候。尚又無御怠御奉事奉願候。良助慶助(敬助)素讀詩作等もいたし候由大悦に存候。御苦勞奉察候。何歟と御心付奉頼候。」
その七十一
霞亭は文化甲戌四月十七日の書に三原觀梅詩の稿を脱した事を言つてゐる。「三原觀梅詩、副本なし、草稿のまゝ差上候。御一覽相濟候はゞ、兼而約束に候間、早速佐藤君へ御遣可被下候。(思召も御坐候はゞ、何卒御書き付御遣可被下候。)かの方より此方へ御返却被下候やう申上候事に候。聯玉君へ寄慰之拙詩も同前御遣可被下候。」上に引いた山口凹巷の喪内を慰むる詩も亦觀梅詩と倶に碧山の許に遣られた。
此書の載する所の雜事には猶下の如きものがある。其一。長井某の事。「長井子不相替出精のよし、社中よりも承知仕候。御互に悦申候。元來好生質に候。浮華の風にうつり候はぬ事尤も可貴被存候。」按ずるに長井は霞亭が京都にありし時の内塾生永井彌六であらう。其二。北谷翁の事。「北谷翁よりも此間書状參り候。隨分無事のよしに候。」上の柏原瓦全の書にも月江と「北谷を訪ひ噂申出候」と云つてあつた。未だ其人を考へない。其三。園部氏の事。大坂土佐堀一丁目福山藏屋敷に園部長之助と云ふものが勤めてゐた。其名は茶山の大和行日記に見えてをり、又茶山のこれに與へた書牘も存してゐる。園部氏は霞亭と京都、山田、的矢の諸人との間に往反する書信を取り次ぐ家であつた。霞亭は佐藤子文をして路を枉げて訪はしめ、遞傳の事を託した。文長きが故に省く。其四。茶山霞亭の食嗜の事。「此方(神邊)鼈、鰻鱺等澤山なる地に候。菅翁はすべて厚味の物養生に而絶口被申候。小生は近邊に里正などしたしき飮友有之、時々喫し候事に候。」其五。龜石の茶と印籠酒との事。「此茶當國神石郡龜石と申處の新茶、粗茶に候へども土物故差上候。とても上方の茶には似より候ものにてはなく、田舍むき茶づけにこく出し而よきかに候。なら(奈良)菊屋と申名高き酒屋の印籠酒少しばかり、これは道中にてもいたし、至極酒あしき所に而、この物をみゝかきばかりも盃にいれ候へば、酒よくなり候とて、旅人の用侍り、貴郷などの名酒有之候處にてはしかたもなき無用之品に候得共、博物之一つ故入御覽候。小生なども兼而きゝしものゝはじめてに候。高價なるものと申候へども、たわいもなきもの也。」印籠酒は今の味の素の類歟。霞亭は此物と龜石の茶とを郷里に送遣したのである。
五月に茶山は遂に江戸に赴くべき命を受けた。行状に「十一年甲戌五月又召赴東邸」と書してある。「梅天初霽石榴紅。何限離情一醉中。恨殺樽前長命縷。不牽君輩與倶東。」霞亭も亦此餞筵に列してゐたであらう。其送別の詩は歳寒堂遺稿に見えてゐる。「送茶山先生應藩命赴江都邸。文獻有徴思老成。佳招趣起就脩程。棲遲在野元優遇。趨舍隨時不近名。親炙二年恩日重。孤羈千里意新驚。聞知明主多仁澤。歸臥行當遂素情。」
茶山は神邊を發するに臨んで、廉塾を霞亭監督の下に置いた。後に自ら「志人條子讓(中略)留守余家」と書してゐる。
茶山は東行の途次櫻川を經て、凹巷の事を憶つて詩を作つた。昔年凹巷は京に上る時此に憩ひ、藤棚の下で赤小豆粥を食ひ、其幽趣を賞したのである。「藤架陰中豇豆粥。却將片事想仙姿。」關宿に至つて、佐藤子文と再會した。「薇西二月送君時。再會寧知今日期。」凹巷も亦二姪と共に來り見え、轎を連ねて四日市に至つた。「數兩輕輿斷續聲。暫時忘却客中情。」茶山と山田社友との談は屡霞亭に及んだことであらう。
六月七日に霞亭は神邊にあつて驟雨の詩を作つた。其詩箋が的矢書牘中に存してゐる。「甲戌六月七日大雨志喜。疾雷驅雨雨如麻。聞得歡聲滿野譁。一段快心難坐了。出門秧緑渺無涯。」
その七十二
霞亭は文化甲戌の秋に入つて、詩を江戸にある茶山に贈つた。歳寒堂遺稿の「寄懷茶山翁在江戸邸」の七律である。「滿溪秋色遶書寮。流水依然古石橋。楊柳西風疎翠落。芙蓉白露暗香消。夢思燈下人千里。睡起庭中月半宵。縱是朱門多寵遇。能無囘首憶漁樵。」次で霞亭は園中の菊を見て又詩を主人に寄せた。遺稿の「園中閑歩有懷茶山翁」の絶句である。
九月九日には鷦鷯大卿に訪はれた。遺稿の「九日鷦鷯大卿見過」の七絶が此年の重陽なることは、「況復主人天一方」の句に由つて知られる。
十九日に霞亭は弟子彦を祭つた。的矢書牘中に詩箋がある。「九月十九日亡弟彦忌辰感述以薦。世事浮雲皆可嗟。君歸冥漠我天涯。上心十五年前事。獨拭涙眸看菊花。又。筆硯依然未毀焚。廿年耽學作何勳。形躯七尺隨兒戲。却向幽冥慚陸雲。」
わたくしは此に霞亭と山陽との離合を一顧したい。二人は初て東山に相見た。是は霞亭が嵯峨若くは京の市中にゐた時であつただらう。嵯峨樵歌に一語のこれに及ぶなきを思へば、恐くは後者に於てしたと見るべきであらう。即壬申の春より癸酉の春に至る間でなくてはならない。既にして二人は神邊に再會した。わたくしは此を以て甲戌九月の事としたい。即山陽が父を廣島に省した歸途、茶山の留守を尋ね、期せずして市河寛齋の長崎より還るに逢つた時である。霞亭の此會合を紀する詩は遺稿にある。「頼子成見過。和其途上作韻。東山邂逅眼曾青。再會寧期忽此迎。對酌論文永今夕。燈花一榻落還生。」わたくしの固陋なる、山陽全集の存否をだに知らぬが、所謂途上の作は山陽詩鈔には見えない。原唱は知らず、和韻は邵青門に從つて庚青の通韻を用ゐてゐる。
これと相前後して江戸には龜田鵬齋と茶山との奇遇があつた。善身堂集に「陌上醉認骨相奇、云翁得非西備某」と云ひ、茶山集に「陌上憧々人馬間、瞥見知余定何縁」と云つて、街上の邂逅が叙してある。そして二人は暗中の媒介者たる霞亭を憶はずにはゐられなかつた。茶山。「吾郷有客(霞亭)與君(鵬齋)善。遙知思我復思君。余將一書報斯事。空凾乞君附瑤篇。」鵬齋。「條生(霞亭)落魄遙集西。在君(茶山)廡下荷恩厚。元是酒伴如弟兄。吹塤吹箎和相狃。一別十年隔參商。不知豪爽猶昔不。老夫老耄加疎懶。因假佳篇代瓊玖。」わたくしの引く所の善身堂集は明治四十四年の活字覆刻本で誤謬なきを保せない。瓊玖の句の如きは忽ち八言をなして讀み難きが故に、わたくしは敢て妄に一字を刪つた。善本を藏する人は幸に正されたい。
十一月には霞亭が神邊より的矢に歸り、伊勢を經て大阪に往き、兵庫より塾に還つた。三村清三郎さんの所藏の梱内記に、此月十七日に霞亭が河崎敬軒を訪うたと云つてある。十二月十七日には霞亭が大坂より的矢にある碧山に書を寄せた。書は的矢書牘中にある。「先日來は緩々滯留得物語大慶仕候。殊更遠方御送行被下御苦勞奉存候。小生儀十一日松坂宿、子文一人送り被申一宿、翌朝わかれ候。十二日椋本、十三日水口、十四日石山、十五日伏水舟、十六日浪華著仕候。雨航在坂、二三日會飮、今日屋敷へ參り候。園部氏甚供接に逢候。明十八日此表發足、大方兵庫宿りと被存候。此頃甚暖氣に而道中も無苦被存候。」滯留の的矢なることは論を須たない。日附は「極月十七日」である。その甲戌の歳なることは、末段に「菅翁はいづれ越年と被存候」の文あるより推することが出來る。霞亭の書信を遞傳する園部氏の阿部家大坂藏屋敷の吏なることは上に見えてゐる。雨航は宇仁館太郎大夫である。
佐藤子文は松坂の別を碧山に報じた。的矢書牘中に漢文の手柬がある。「某啓。別來沍寒。伏惟二尊及足下起居清勝。近者令兄霞亭先生南歸。庭闈之歡。塤箎之樂。非言説所能盡。吾郷舊社諸彦叙濶飮宴。如僕下走。亦陪末席。以慰三秋之思。葢先生之發備西也。往來有程。不得不再西。僕雖不能擔笈遠從。諸彦送者既散。僕獨從到松坂城。同投客舍。欲置酒。永斯一夕。獨奈客舍荒寂。接待甚疎。爲之悶々。遂早就寢。翌朝出送。酌于城西小店。到塚本遂別。僕瞻望之間。先生行色飄然。意輕千里。所謂天涯比隣。眞先生之謂也。今因便具告足下。報諸二尊人。遠道風霜。莫深爲念幸甚。歳云將除。明春定省之暇。惠然一來。諸容面晤不罄。十二月念五日。社末藤昭頓首再拜。呈北條君立敬賢兄足下。」印二顆がある。白文は「佐藤昭印」、朱文は「子文」。
その七十三
文化甲戌十二月に霞亭の大阪を發すべき期は一日を緩うせられた。霞亭は十九日に纔に發して、二十五日に廉塾に歸つた。その二十七日に弟碧山に與へた書がある。
「小生儀浪華四日程滯留、雨航在坂に而何歟と手間取候也。藏邸園部氏へも參候處大預馳走候。當十九日大坂を立出候而、雨航御送行大仁村に而別酌等いたし、其日は西宮宿、廿五日無恙歸塾仕候。菅氏家内無別條候。明日(二十八日)は一寸福山へ罷越申候。歸來未何方へも得參り不申候。(中略。)此節は書生も皆々歸宅、纔兩人許居申候。菅翁より霜月末之書状參り候。何樣來三月頃でなくては歸裝無之樣子に候。鵬齋先生よりも書状詩など參り候。善身堂一家言と申經義之著述近々出來候やうすに候。」是が志摩より備後に至る旅程の後半と歸塾後の状況とである。江戸よりは茶山が歸期の遲かるべきを報じた。鵬齋は一家言の刊行を告げた。その寄せた詩は下に引くべき書に見えてゐる。霞亭の「夕陽村居寄鵬齋先生」の詩は或は復書と倶に寄せられたもの歟。「曾期歳晩社爲隣。何事離居寂寞濱。海内論交常自許。尊前吐氣與誰親。夕陽村裡三秋日。時雨岡頭十月春。千里相思難命駕。恨吾長作負心人。」
次に霞亭が身上の事を言つたものと郷親に對して情を攄べたものとを抄する。「小生身上一決も先老先生歸宅後に可仕候。本宅普請等いたし候などと申内意有之候。御地頭より願書下り候はゞ早々御知らせ可被下候。」此等は霞亭が籍を志摩より備後に移す事に關するものではなからうか。「尊大人樣母樣(適齋夫妻)何れも御機嫌よう御年むかへ可被遊と奉遙賀候。先日數日滯留仕候へ共、今更又々御なつかしく相成候事一倍に候。今少し居ればよかりしと殘念奉存候。」霞亭の親を思ふこと切なりしを見るべきである。
次に例の如く弟を策勵する語がある。「貴君(碧山)前日も縷々申上候通、無御懈怠御業務御勤御孝養御心遣千萬依托仕候。御苦勞之儀は推察仕候。學業わけて御心懸所祈に候。」
霞亭は碧山と袴を更むことを謀つた。それは京匠をして裁せしめた袴が華美に過ぎた故である。「先日京都へ袴上下頼置候而、歸路大坂迄相達し、持歸候へども、いづれも餘りけつかう過、直段はり候而迷惑仕候。上下は隨分よろしく候へども、袴奧丹後とやらいふものに而木綿衣裳へ著用不似合、且はよき衣裳國がらかつこうよろしからず候。不苦候はゞ其許(碧山)御持之袴と御かへ可被下候。一兩二朱程もかかり候。屋敷便の節御遣可被下候。便次第此方よりも差出し可申候。いせき(伊勢喜)へは噂御無用。」
次に山田詩社の事がある。「山田社中へは出立後いまだ書通不仕候。いづれ來春の事と先延し候。佐藤子(子文)先日はひとり松坂迄被參一宿わかれ候。少し小生と用事も有之故に候。」
次に江原與兵衞の事がある。「當表第一心やすくいたし候江原與兵衞、借財のために家内引あげ、江戸へ出奔いたし候。氣之毒に候。よき人に候へども、貧困いたし方無之、小生少し力落に候。」驥蝱日記に云く。「茶山先生族人江原與平、客冬(甲戌冬)遊勢南。」是が江原東遊の動機であつた。江原は江戸に奔らむと欲して、途上伊勢に留まつたもの歟。
書には猶的矢より發送した革茸が神邊に至らなかつたことが見えてゐる。「船の人へ御頼被成候かうたけとやら今に達し不申候。外に大切の入用物はなく候哉。」
十二月二十七日の書の事は此に終る。
その七十四
文化甲戌十二月三十日には霞亭が友を廉塾に會して詩を賦した。的矢書牘中の一詩箋に甲戌除夜の作と乙亥元旦の作とが書してある。除夜の作は歳寒堂遺稿に補入すべきものである。「歳除與諸子同賦、余時自南州歸。到舍纔三日。明朝又一春。更驚抛學久。只喜拜親新。映雪移書帙。插梅清路塵。尊前何寂々。猶有未歸人。」
是年霞亭は三十五歳であつた。
文化十二年には霞亭が歳を廉塾に迎へた。元旦の詩は遺稿に見えてゐる。「乙亥元日有懷田孟昌、原玄壽、藤子文諸君、去年今日、余與諸君探梅於丁谷、故及。客稀門巷似平時。塵外佳辰獨自嬉。午雪霏々半爲雨。春泉決々忽流澌。故情相戀人千里。新恨空看梅一枝。丁谷風光已堪訪。雙柑斗酒好同誰。」遺稿には前年元旦に丁谷の詩が無くて、却つて人日に南溪の詩があつた。
正月六日に霞亭の弟碧山に與へた書が的矢書牘中にある。先づそのいかに自己を語つてゐるかを見よう。「今年は先生(茶山)留守、書生も寥々に候。併物事すくなく候而喜申候。十日は毎年開講に候。老先生歸家も一向しれ不申、いづれ二月下旬にも候哉。霜月下旬の書以來未便無之候。拙詩つくり棄御笑覽可被下候。(按ずるに上の除夜元日の作歟。)道中(甲戌十一月歸省)の詩も近々考可申候。(中略。)道中の癖つき候而、朝酒すこしのみたき位に候。しかしこれは不遠やめ候也。御地頭に差上候願書下次第御報可被下候。」
碧山に謂ふ語はかうである。「先日來の詩脱稿候はゞ御遣し可被下候。凹巷に請正もよろしく候へども、夫は待遠也。先出來候はゞ直に御見せ可被下候。三月頃にも相成候はゞ、一寸山田へも御越可被成候。しかし餘り御世話にならぬやう御心懸可被成候。先輩へよく/\虚心に請益可被成候。書籍子文方に有之候ものなどの内借覽可然候。御雙親樣へ御孝養第一奉祈候。醫業隨分御精研可然候。人命所關係不容易候。誠意を以人を待候事、學問工夫とも第一也。(中略。)蓬莱にきかばや伊勢の初便。はやく御状御遣し可被下候。」
書中霞亭は前年の暮に龜田鵬齋の寄せた詩を弟に録示した。「鵬齋の詩懸御目候。昔年河豚を小生にせまりくはせし事有之、此冬も喫し候而憶ひ出し候に付、小生に寄懷せられ候由。井春經業已紛綸。遠入西州還樂群。鹿洞曾期可人到。豹堂合啓好懷分。三年漫趁越山雪。千里空歸凾谷雲。一部河豚典一袴。尊前醉夢幾逢君。少しきこえがたき處有之候。」
次に高田靜沖の消息がある。「文之助事など被申遣候。(鵬齋の語靜沖に及ぶと云ふ意。)やはり彼塾(龜田塾)に居候。御存じ通の生質難化候而、やはり昔年之通也などと被申遣候。こまりもの也。」
次に出國數馬と云ふものの事がある。「かの出國數馬も小生罷在候節入候婦人離絶いたし候由、文之助よりくだらぬ書状遣し候。」是も亦或は龜田塾中の人歟。
書は世上の風聞に入つて、當時人の視聽を動すことの最大きかつた小笠原氏の内訌を説いてゐる。「豐前小倉小笠原侯内亂專ら噂に候。家老小笠原出雲と申佞人より起り候由、色々の風説に候。」小笠原氏の當主は大膳大夫忠固で、出雲の名は家老首席に見えてゐる。
その七十五
霞亭は其文化乙亥正月六日の書に世上の風聞として豐前小笠原氏の内訌を説き、言は一諸侯より他諸侯に及び、阿部氏の近事が筆に上るに至つた。「御當主も日光御かかりに付御物入多く、御領分へ御用金かかり可申之處、府中と申處信藤吉兵衞と申商家一人に而百五十貫目冥加の爲とやらに而上へ獻申候。河相周兵衞と申塾の世話人弟百貫目、右兩人に而御用金やめに成候由。吉兵衞と申ものは味噌屋と申ものの僕に候而、中年より貨殖、三千貫目程の身上に相成候よし。俗事ながら商家と申ものは奇なるものに候。」
阿部氏の當主は備中守正精である。前年甲戌九月二十一日に日光山東照宮修覆正遷宮祝の猿樂があつた。正精は恐くは此修覆の事に與つたのであらう。荒木義譽、石井英太郎二家の云ふを聞くに、獻金者は延藤吉兵衞百五十貫、河相周兵衞三十貫、石井武右衞門百二十貫であつた。武右衞門は周兵衞の弟で、出でて石井氏を冒した。英太郎さんの曾祖父である。
霞亭は次に渉獵の餘偶得たる所を碧山に報じた。其一。「尾張如來小語中におもしろき話。加納侯臣長沼國卿。劍師也。弟子三千餘人。嘗語曰。一士人形質羸弱。當初不勝兵。數日能大刀。數月伎大進。歳餘弟子皆曰。不易當。竊問。則跡父之讎者也。凡學劍者。誰不以爲死地之用。而不如眞有死地者。於是吾亦得進一歩。此心得學術醫術何によらず肝要なり。」長沼國卿は四郎左衞門と稱した。眞心影流の劍客である。
其二。「病人の死前に間ひがあり、暫くよくなり候を、醫書には見えず、清人朱鑑池と申に尋候處、囘光反照と申由答候由、周防三田尻の醫南部伯民が技癢録にあり。伯民は此邊九州にて相應之學醫なるよし、著述もあちこち有之、小生などの名もきゝつたへ居候よし、彼邊の人の參り噂申候。」南部伯民は次年に至つて霞亭と相見る人である。
其三。「去年(甲戌)御咄申候書は獨嘯庵黴瘡口訣と申小册に候。あら/\おもしろく覺候。」霞亭は前年碧山に永富朝陽の書中の事を語り、偶書名を忘れてゐたことがあると見える。
書中には猶二三の雜事がある。「をゝの屋(大野屋歟)伯母」と云ふものが的矢にあつて病んでゐた。「七十餘の人病氣とかくはかどり申間敷、親族段々凋零、別而大切に御坐候。」霞亭は的矢の家より石決明の味噌漬を遺られた。「此節迄たべ候。少しはからく候へども損じは不致候。五家程の進物にいたし候。粕漬よりは旨くなけれども、酒客には却而よし。」又佐藤子文より海老漬を遺られた。「佐藤被遣候海老づけ甚おもしろし。」
二月十五日に霞亭は又書を碧山に寄せた。未だ茶山の江戸を發すべき期日を知らざる時の書である。當時井上氏敬との縁談は頻に話題に上つてゐた。所謂地頭より下るべき願書は此事に連繋したるものの如くである。下に的矢書牘中の此書を抄する。
その七十六
文化乙亥二月十五日の書より、わたくしは先づ霞亭自己の身上の事を抄する。「送状願状御遣し被下安心仕候。先々小生方へ預り置候。送状には及申間敷由にきこえ候。何分追而可申上候。扨一決之義も段々外人よりは逼り參り候。老先生(茶山)歸後と小生より申候へども、先生歸期はまだ一向しれ不申候。夫故當月(二月)中に是非慶事相極め申たくとの事に候。如何相成申べきや、小生心中はまだ決著不仕候。それは少し主意も有之候故に候。扨塵累に繋れ候やとぞんじ候へば、今更つらく思ひ候。名教中之人不可奈何候。この頃ふと麤歌出候。御一笑可被下候。世をばまだそむきはてねどうたたねの夢にぞかよふ峰の松風。いづれもしも慶事相濟候はゞ、早速御報可申上候。」霞亭は既に久しく的矢の地頭より下るべき願書を待つてゐた。今其願書は下つた。そしてわたくしは、霞亭の忽ち點出したる「慶事」の二字に由つて、事の井上氏敬の于歸に關するを知つた。合卺の期は既に迫つてゐる。それに霞亭は猶とつおいつして輒決せず、夢に入る松風の音に耳を傾けてゐるのである。
書は此より貝原益軒の養性説に及び、郷親の健康を希ひ、友朋の安寧を望んでゐる。わたくしは行文の脈絡を斷つに忍びずして、略原構の次第を保存し、此に抄録の筆を下す。「近來養生の道に用心仕候而、貝原先生の頤生輯要、養生訓等の書、並に醫書類攝養に關係いたし候書よみ候。養生訓、甚諄々おもしろく候。今度の便に大坂書林へ申遣、一部差上可申候。御大人樣並に母樣へも懸御目可被下候。夜分にてもいくたびも母樣などへ御よみきかせ可被下候。勿論自分の心得とも相成候。篤實の大儒の作故、虚談は無之候。小生其中の導引術を先日來ひとり日々いたし候。大分しるし有之候やう覺え候。大人樣御痰症有之候。ちと御養生御服藥等も被成候はゞいかゞ。餘り厚味なるもの御寢しななどにはよろしかる間敷、痰は別而可畏候。母樣へ御すゝめ申候而、飯後にても又は御氣むすぼれ候節、よき酒二三杯宛めし上られ候やう可被成候。慶助(敬助沖)顏色始終あしく候。一月一度は是非灸治等いたさせ可然候。扨申に及ばぬ事に候へども、萬々一御雙親樣の中に御病氣等之事候はゞすこしの事にても早速御知らせ可被下候。少々の事遠方迄申遣し候にも及ばぬなどと申事の決而無之樣奉願候。夫にかぎらず何にても緩急の節は大坂屋敷迄三日限御状御差出し可被下候。遠方隔り候故、夫程たへがたく思ひも不仕候へども、とかく御雙親樣並足下、社中などの夢頻々と見申候。此頃山口君手書中にも小生を夢に見候而、其夢中に歌をよまれ候よし被申遣候。其歌は。君來ぬと見し夢さめてかたらはむ人なき宿の有明の月。小生かへし。あひみきと聞くもはかなき夢がたりうれしとやいはむかなしとやいはむ。きこえ可申や、御一笑可被下候。」
その七十七
わたくしは霞亭の文化乙亥二月十五日の書牘を抄して、その自己を説き、父母兄弟朋友を説く一段を終つたが、文中猶親戚の事に及ぶもの一二がある。其一。「新屋敷伯母春來如何候哉承度候。三日限御状御差出し可被下候。」是は前日の書に所謂「をゝの屋の伯母」であらう。其二。「土佐屋從母御儀御死去誠に驚歎仕候。(中略。)隨俗例七日酒肉相却候而居喪仕候。聞忌に候故、正月二十三日承知仕候、當二十二日迄服中に御坐候。」霞亭は金を餽つて茶若くは菓子を供へむことを請うた。
書中には又頼氏の近事を報ずる一段がある。「春水翁令嗣權次郎勞症に而此頃死去いたし候由、いまだ二十五六歳の人、才子に有之候由、可惜又氣の毒なるものに候。是は竹原本家春水弟の春風翁の獨り子の由、久太郎跡へ養子いたし候也。」權次郎は春風惟彊の子景讓元鼎で、春水惟完の養嗣子となつてゐたのである。山陽撰の墓表に依れば、元鼎は此年乙亥正月二十八日に死した。年二十六である。
最後に書籍に關する事二條、飮饌に關する事二條を抄する。「芭蕉發句集見あたりもとめ置候。大人樣へ御上可被下候。併これも大坂書林便に來月差出し可申候。」霞亭は既に貝原益軒の養生訓を的矢の家に遺り、又芭蕉の句集をも遺らうとしてゐる。「樵歌渉筆長井にまだ八部か六部のこり居候。御入用候はゞ、御とりよせ可被成候。」長井とは門人長井彌六の家歟。此二事は書籍の事である。
「おもしろくなきものながら、またさわら子一つ任有合差上候。」さわら子とは馬鮫魚の鮞歟。是は備後の産物である。「ついでに申上候。さくちといふこといつぞや御尋に御座候。これは小生覺え違に候。鰿子と申はぼらの子をいふなり。外の子はいひがたきにや。」是より先碧山は霞亭に鰿子の何物なるかを問うた。霞亭は答へて魚鮞だと云つた。今前言を改めて、菩良の子だと云ふのである。按ずるに鰿には數義がある。説文には鰿字は見えない。鰿を烏賊とするは、鰿鰂の相通に因る。正字通から出てゐる。是が一つ。鰿を鮒とするは鰿鯽の相通に因る。博雅、爾雅の註から出てゐる。是が二つ。此二つは鰂鯽の相通に由つて聯繋してゐる。鰿を小貝とするは鰿𧐐の相通に因る。爾雅より出てゐる。是が三つ。鰿を魚子とするは鰿𦟜の相通に因る。正字通から出てゐる。是が四つである。本問題は右の第四義に從つて解すべきものである。さて鰿子の語は新修餘姚縣志に見えてゐると云ふ。これを加良須美に當てたのは重修本草綱目啓蒙の説である。和名鈔には鰿字が無い。新撰字鏡には「子石反、去、鮪鮒」とのみ云つて、魚子の事に及ばない。しかし和名鈔箋註は加良須美を以て米奈太の子となし、「謂菩良子者誤」と云つてゐる。霞亭の斥す所は加良須美であらう。若し然らば霞亭は箋註に謂ふ誤に陷つてゐたのであらう。加良須美は今鰿子と書かれずに、鱲と書かれる。箋註に從へば鱲は※[#「魚+巣」]の譌で、※[#「魚+巣」]は奈與之である。前段馬鮫魚の鮞は加良須美の劣品である。此二事は飮饌の事である。
その七十八
次に文化乙亥三月五日に霞亭の碧山に與へた書が的矢書牘中にある。霞亭が神邊にあつて此書を裁したのは、茶山が江戸を發して歸途に就いた第十日である。茶山が藤川驛に宿した日である。
先づ霞亭の奈何に自己の上を語るかを看よう。「小生無事罷在候。乍慮外御安意可被下候。(中略。)婚事先月にもいたし候やう外人申候へども、少々主意も違ひ候筋に思ひ候人も有之候やと被存候故、其一段今一應菅翁へ申上候上の事と申延し候。いづれ菅翁歸後の事と申置候。御存之通、小生生來雲水杜多の境涯に罷在候處、俄に妻孥の體、且は官途に拘束せられ候事、我ながら不似合に被思候而おかしく候。人倫名教、儒者第一の事に候へども、山水閒憔悴風流難忘、今更心迷候。可成は一所不定の方快樂たるべく被存候。併是は一己之私の事、何分にも御雙親樣御安心の方に隨ひ可申候。何を申も學業の爲に候。」是は二月十五日の書に云ふ所と大差は無い。しかし「何分にも」以下の口吻より推すに、霞亭は彼此の間に郷書を得てゐるらしい。そして郷書は霞亭に勸むるに茶山の言に從ふべきを以てしたらしい。書の首に「二月八日御手簡、晦日相達し拜見仕候」と云つてある。碧山の二月八日の書が晦に霞亭の手に到つてゐるのである。
霞亭は上に迎妻の事を言つてゐるが、其他猶禁酒の事をも言つてゐる。「當春は例よりは花なども遲く覺え候。しかし此頃は二三分の開花も見え候。近來養生の爲、酒を止め見申候。各別身體健やかに、脾胃調ひ候やう覺え候。此序にやめにも被成候はゞともぞんじ候へども如何あらむや。」末段は一時の廢飮の功を奏したるを見て、永くこれを廢せむかと思惟し、又自らこれを能くせむや否やを疑つてゐるのである。
次は碧山の事である。「母樣(中村氏)御文足下(碧山)御出精の義に被存申候。大慶不過之奉存候。何分とも家業勤學別而御奉養之際に御精勤奉希候。(中略。)御作拜見仕候。少々加筆仕候。御取捨可被成候。又々御出來候はゞ御擲示可被下候。隨分熟錬被成候樣可然候。一句の上より全體のととのゐを第一御心掛可被成候。」
霞亭碧山の袴を更へむとする議は終に行はれた。「袴御遣被下辱存候。此方の袴今便差出し可申之處、大坂書林便荷はり候故差扣申候。跡より差上可申候。此方別段に又々一つこしらへ候。」碧山の神邊に送つたのは的矢じたての袴、霞亭の的矢に送らむとするのは京都じたての袴である。京都じたての華美を嫌つた霞亭も、的矢じたての粗野に過ぐるを見て、別に神邊じたての袴をあつらへたものと見える。
次は霞亭の郷里に遺り、又郷里より得た書籍の事である。「芭蕉翁句集大人樣(適齋)へ差上候。養生訓書林へ申遣候間、定而遣し可申候。御心得の爲に御熟讀可然候。大人樣母樣へも入覽可被下候。」是は郷里に遺つたものである。「大學纂釋掌手仕候。」大學纂釋とは古賀精里の章句纂釋であらう。是は郷里より得たものである。
わたくしは霞亭が人參と海苔とを郷里に遣つた事を此に附記する。「御種人參少々母樣へ差上候。御藥用の節二三分宛も御用被遊候樣。畢竟たわゐもなきものに候へども、先日小生服用にいたし候樣一袋もらゐ候まゝ少々御すそわけ申上候に候。(中略。)廣島のり乍序少々封入仕候。異郷の風味に候故也。御閑酌御試可被成候。」
その七十九
文化乙亥三月五日の霞亭の書には二三知人の消息がある。其一。「及時居士もやはり嵯峨に被居候由、いせき(伊勢喜)より噂申來候。」西村及時は霞亭の住み棄てた任有亭に居つたらしい。濱野氏藏河崎誠宇受業録に「嵯峨任有亭寄懷霞亭」の詩がある。「流憩憶君楓際寮。壁空無復舊詩瓢。高調任上樵童口。梅發山村不寂寥。宜堂先生。」宜堂は及時の一號である。
其二。「當春いせきへむけ藤浪翁へ書状差出し候處、極月(甲戌十二月)六日御死去のよし、いせきより申來候。折角心やすくいたし候よき御老人に有之候處殘念に候。弔書さし出し候方もいづかたやらむ、夫故先々差扣候。」藤浪は未だ考へない。且「浪」字の草體も不明である。
其三。「此無量寺への書状無據被頼候。河崎邊へ便の節御達し可被下候。山田をつ坂に御坐候。貴君(碧山)御出のせつ被遣候ても又は池上君(鄰哉)あたりに頼候てもよし。あの近邊也。此老僧今は伊賀とやらむへ隱居いたし候由、此里の出生の由、姪とやらが一人のこり有之候。」山田無量寺の老僧は名を詳にしない。
書中の抄すべきものは略此に盡きた。最後に天龍寺の事を附して置く。「此邊(神邊)に而噂には天龍寺燒失いたし候やう申候。實説に候哉、無覺束候。京都より何とも申參不申候。」
此月三月九日に大冢不騫が伊勢山田の南岡に葬られた。名は壽、字は士瞻、東平と稱した。信濃國伊奈郡駒場驛の人大冢子躍の子である。河崎誠宇の受業録に孫福孟綽の詩がある。「三月九日葬冢子瞻于南岡、是夜夢與伯頎訪子瞻、酒間言志、覺後悵然、賦此眎伯頎。雲飛水逝杏無蹤。玉骨空堆土一封。名是令君身後著。來猶與我夢中逢。弔花春事添新恨。背月宵遊耿舊容。推枕囘看燈影暗。耳邊如聽接談鋒。」想ふに霞亭の訃を得たのは數十日の後であらう。しかしわたくしは遺稿中の輓詩を此に録する。「悼冢不騫。崢嶗氣象使人思。同學行中獨數奇。十載交歡歸片夢。一生清苦見遺詩。峨山雨雪連牀夜。紫海春風囘棹期。藏得書筺圖酌別。忍看親自寫仙姿。」詩の後半は自註があつて始て解せられる。「辛未仲冬。君將遊筑紫。問予於嵯峨梅陽軒。一夜酒間作酌別圖。」
驥蝱日記を閲するに、茶山は此月三月七日に河崎敬軒と共に四日市驛に宿し、八日に敬軒と別れた。その神邊に歸つた日を詳にしない。行状に「三月歸國」と云つてあるのは江戸を發した時である。集に「歸後入城途上」の詩があつて、「官驛三十五日程」と云つてあるを見れば、二月二十六日に江戸を發した茶山の神邊に歸つたのは四月朔であつた筈である。乙亥は二月大、三月小であつた故である。しかし後に引く江原等の書に據るに、三月二十九日であつたらしい。
四月十九日に霞亭は井上氏敬を娶つた。霞亭は星期前に碧山に與ふる書を作り、未だ發送せずして妻を娶り、廿一日に追書して發送した。的矢書牘には惟其追書のみが存してゐる。「追啓。此書状相認置候處、便無之延引仕候。本書申上候慶事延引と申上候處、茶山翁急に思召被立候而、本月十九日婚事相調申候。普請中やはり廉塾に罷在候。右之段御雙親樣へ被仰上可被下候。披露之義は菅翁姪甥と申ものに而、小兒(菅三惟繩)之義はつれ子と仕候而、則私子分にいたし候。是又左樣思召可被下候。先は此兒に菅氏をたてさし候内意に御坐候。」
その八十
上に抄しかけた霞亭迎妻後の第一書には、三十行に滿たざる斷片ながら、猶二事の録存すべきものがある。大坂の書肆を弟碧山に紹介したのが其一である。「大坂に而書物もとめ候處、多少によらず、心齋橋筋北久太郎町河内屋儀助と申書林へ可被仰遣候。此方より其譯申遣置可申候。代拂は節季にても可宜候。才が屋(雜賀屋)迄とゞけさし候義可然候。」大坂の種玉堂河内屋儀助は京都の汲古堂河南儀兵衞と共に茶山の詩を刻した書估である。北條氏は新に茶山の親戚となつたために、此の如き便宜を得たのである。其二は霞亭が碧山に輓詩を作ることを勸めた事である。「大冢、守屋弔詩など御作り可然候。」大冢は不騫壽である。守屋は未だ考へない。以上は文化乙亥四月二十一日の書である。
的矢書牘中次に日附を「四月廿六日」とした霞亭の書がある。亦碧山に與ふるものである。此日附には些の疑がある。何故と云ふに、書の首に「三月念二日御手教(碧山手書)今日廿五相達拜見仕候」と云つてあるからである。然らば二十五日に書きはじめ、二十六日に書き畢つたものかと云ふに、其墨痕を撿すれば一氣に書いたものらしく見える。初の「廿五」は恐くは廿六の誤であらう。
此書には先づ霞亭夫妻の新居の事が見えてゐる。「此間(二十一日)書状相認候而京都迄頼遣し候。大抵此書状と前後に相達し可申候。爾來無何違状候。其書中にも申上候通、本月十九日小生婚事相濟候。御雙親樣へ被仰上可被下候。當分やはり廉塾に罷在候。新居、町にざつとしつらひ候。來月(五月)中には落成も可仕候。出來次第彼方へ引移り候積りに御坐候。此方先生(茶山)風、何事もざつとと申候事、無造作なる事がすきに候。先日婚事もいひ出し候而半日間に事を終へ候と申位の事に候。」茶山の坦率を見るに足る。
霞亭は碧山の來つて婚を賀することを辭した。「貴君御出之義被仰聞候へども、小生義いくへにも懸御目たく候へども、遠境御苦勞、且は費用等も入候事に候へば、必々態と御越には及不申候。夫よりも山田社中にてもよき友なども御坐候はゞ、御見合御越も候はゞ妙にて可有之候。小生非事永住に付、御越之義は決而夫に及び申まじく候。」霞亭の坦率も亦茶山に讓らない。
霞亭は廉塾に厭ふべき客と喜ぶべき客とのあることを語つた。「先生(茶山)歸後日々來客迷惑致候。筑前竹田定之允被見候而新塾に滯留いたし候。此人咄相手に成候而悦申候。」竹田定之允は茶山集、驥蝱日記等に見えてゐる器甫である。茶山と共に江戸を發して西したことが驥蝱日記に見えてゐる。茶山集を閲するに、竹田は二年前癸酉にも神邊にゐた。「又々被見」と云ふ所以である。
霞亭は自他のために養性に留意することを忘れない。「御病用之外御他出も無之御讀書はかどり候由、大慶不過之奉存候。何分御勉勵奉祈候。追々暑蒸、居處御ゑらび被成候而、暑熱の身に伏し不申樣御心付可然候。雙親樣はもとよりの義、足下(碧山)弟妹共時々御灸治等被成候樣祈候。小生日々獨按摩等心懸候。其効か、一段身體も壯健を覺え候。」わたくしは此に養生訓の事を附する。「貝原養生訓新本増補の方差上候樣申來候。相達し候哉。」此は大坂書估の報道である。
霞亭は一の拓本を佐藤子文に贈つた。「此墨本御序に佐藤へ御達し可被下奉頼候。」その何の拓本なるを知らない。四月二十六日の書の事は此に終る。
その八十一
文化乙亥五月には霞亭が書を的矢に遣つたが、今存してゐない。そのこれを遣つた證は六月十一日の書に見えてゐる。亦弟碧山に與へたもので、的矢書牘中にある。「三月四月五月共に書状差出し候。大坂屋敷並河儀(河内屋儀助)より一々勢州へ下し候樣申來候。定而浮沈は有之間敷候。才が屋方御聞可被下候。」
霞亭が新居の工事は漸く進捗してゐる。「先書段々申上候通、以來何の別條も無之候。新宅普請も已に五十日程日々かかり居候得共、とかく埒明不申候。ざつといたし候修屋にても日數かかり候ものに候。いづれ當月(六月)中には引移り候事出來可申候。至極凉敷家に有之、後は菜園など有之、黄葉山を正面に見候。」歳寒堂遺稿に「移居雜賦」と題する五律七首がある。其一に「朱葢峰當牖。紫薇墟隔墻」の十字がある。牖に當る峰は黄葉山であらうか。
霞亭の郷親に攝養を勸めたことは例の如くである。「當年は例年よりも暑氣未だうすく覺え候。御地邊は如何候哉。七八日以前より葛衣など著し候位に候。暑中御雙親樣始足下並に弟妹等隨分御用心專一奉祈候。御灸治等御心懸なされ候やう可然被存候。凉敷處へ御立まわり被成候方御用心第一に候。暑中は業務(醫業)等もさまであくせくと被成候わぬやう(被成候)が尤可宜候。」
山口凹巷、佐藤子文等は久しく消息を絶つてゐた。「勢州山口より書状三月參り候のみに而、佐藤其外よりも久敷便無之候。」
門人永井彌六の家は霞亭と郷親との間に立つて、書信を傳遞してゐたと見える。「永井氏相替候儀も無之候哉、當年は一度も書状參り不申候。書状毎々御世話之事篤く御禮可被下候。爾來相頼候處やはり永井氏よろしく候哉、御序に御きかせ可被下候。」
六月十一日の書の事は此に終る。
霞亭は六月には新居に移ることを得なかつた。そのこれに移つたのは七月五日である。事は菅氏の族人江原與兵衞菅波武十郎の二人が適齋碧山父子に與へた書に見えてゐる。「誠に先般者就吉辰讓四郎樣御婚儀首尾能御整被成、其後も無程御居馴染被成芽出度、皆樣御滿悦之段奉察、於此方一同喜仕候。先生舊宅も今般普請出來、當月五日讓四郎樣御夫婦共日柄能御移被成、重々芽出度奉存候。隨分御安養被成御坐候。乍憚御休意可被下候。老先生(茶山)も當三月末無恙歸宅被致候。是又御安心可被成下候。(下略。)七月十九日。江原與兵衞。菅波武十郎。北條道有樣。御同立敬樣御侍者中。」移居雜賦の詩に就いて新居の方位景物を考ふるに、茶山の家と相距ること遠くはなかつただらう。「移居仍一塢。衡宇近相望。(中略。)晨昏來往好。路入稻花香。」新居より茶山の家に往く道は水田の傍を經たものと見える。又新居には木槿の生籬があつて(木槿半籬秋)、東隣は酒店であつたらしい。(東隣是酒壚。)
是より先同じ月の十五日に霞亭は碧山に與ふる書を作つた。移居後十日の書であるから、必ずや移居を報じたものであらう。惜むらくは前半は佚亡して、的矢書牘中には其後半のみが存してゐる。此斷片には南部伯民の事が見えてゐる。「南部伯民と申周防三田尻の醫人隨分名高き人に候。學問もよし、療治もよろしく候よし。先日此邊へ被遊候而、塾へも被見候而一見いたし、今日西歸、詩をよせられ候。一寸和韻いたし候。原韻は前後忘却仕候。拙和懸御目候。歸興匇々任短篷。暫歡如夢忽西東。扇頭題寄清新句。揮起周洋萬里風。甚匇作に候。」其他には京都淺井周助の事、嵯峨樵歌の事がある。「京都淺井よりは此間書通有之候。」「嵯峨樵歌殘本有之候はゞ屋敷迄御遣し可被下候。段々人のもとめ多く有之候。」
同じ月の二十三日に霞亭は又碧山に與ふる書を作つた。茶山の的矢に遣る手書と物品とが此書と共に發送せられむとした。「京都便荷物等皆々仕立仕廻(しまひ)候處、太中翁(茶山)より書状包參り候故、一併に差遣候。足下へ書状なれば足下御返書、大人樣へ御状なれば大人より御返書可被下候。何やら此中に入居申候。」
その八十二
文化乙亥七月に霞亭夫婦が神邊の新居に移つた後十八日の事である。霞亭は書を弟碧山に與へた。上に云つた七月二十三日の書が是である。
わたくしは此書を見て、霞亭の新婚新居を併せ賀した菅氏親戚の一人江原與兵衞が霞亭の家に近く住んでゐたことを知る。「江原與兵衞も先達而歸郷、此節はもとの通役儀等被仰付候。つい隣家に御坐候。」歸郷は江戸より還つたのである。
又新居雜賦が少くも幾首か早く此時に成つてゐたことを知る。霞亭はこれを扇に書して碧山に贈つた。「扇子の詩は新居の作也。又々近々出來候はゞ可差上候。」
霞亭は茶山の贈る所の物を此書と共に發送したので、報瓊のために思を勞し、碧山に告ぐるに茶山の食嗜を以てしてゐる。「急に御報にも及申間敷やに候。もしも被遣候はゞ、于瓢などは隨分よろしく候へども、去年來山田より大分參り候而、まだ多く有之候。わかめ、ぼら等御無用に候。あわびも段々參り候。菅翁は何も好のなき人に候。油こき物は皆きらゐに候。しかし海鰌の白き皮付肉のよき(が)候はゞ、御序に御惠可被下候。山田の便にて可被遣候。是もいかやうにてもよろしく候。先は小生などたべ候料に充候。」
此書の末に「余(餘)は本文兩通に有之候」の句がある。わたくしは的矢書牘に就いて所謂本文の何であるかを探討して、遂にこれを知ることを得た。是より先七月十五日に霞亭は的矢に遣るべき書を作つたが、發遣の便を得ずに、留置した。次で前日二十二日に又一書を作り、父適齋に獻ずる索麪一篋、碧山に送る袴地と併せて梱包した。二十三日の書は更にこれに副へたものである。そして七月十五日の書は其前半を佚し、二十二日の書は全く存してゐる。わたくしは後者に由つて此顛末を明にしたのである。
二十二日の書は只「七月廿二日」の日附があるのみで、遽に見れば何の把捉すべき處もない短文である。「中元(乙亥七月十五日)書簡相認置候處便無之延引、此信と一併に相成申候。(中略。)甚麤末之品に候へども索麪一箱大人樣へ進呈仕候。不敗物、何も此方より差上候ものとては無之、御免可被下候。保命酒は途中に而間違出來やすく、かつは京よりの賃錢等あまり費に候間差控申候。」惟此の如きに過ぎない。此時袴地が同じく送られたことは、後の八月八日の書に由つて證せられる。
以上三書同發の事を言ふ一段は、わたくしと雖猥瑣の甚だしいのを知つてゐる。此篇を讀むことを厭はぬ少數の好事者も、定て鄙意の存する所を知るに苦むであらう。しかしわたくしは年次なき我國の古人の書牘を讀む法を講じてゐるのである。そして講究のメカニスムの一隅を暴露して人の觀るに任すのである。此講究の有用無用はわたくしは問ふことを欲せない。世に偶無用の人があつて好んで無用の事をなすも、亦必ずしも不可なることは無からう。
前年澁江抽齋を傳した頃、一文士は云つた。森は斷簡を補綴して史傳を作る。此の如きは刀筆の吏をして爲さしめて足ると云つた。是は容易く首肯し難い。且く廣瀬旭莊の語を借りて言はむに、史館は正史を修むる處である。閒史を修むる官廨は無い。縱ひこれを設けられたとせむも、吏胥の間、忍んで此の如き事をなすものの有りや否は疑はしい。わたくしの此言をなすのが、官廨に於て有用の事が等閒視せられてゐると云ふ意でないことは固よりである。
その八十三
文化乙亥八月には的矢書牘中霞亭が弟碧山に與へた八日の書が遺つてゐる。方五六寸の紙片に蠅頭の文字で書いたものである。「半切切れ候而甚細書御免可被下候」とことわつてある。その乙亥なるを知るは彼三書同發の事より推すのである。「七月京都舛屋便に索麪及袴地其外菅氏よりの品物等一併佐藤子文迄頼遣し候。此節大方相達し可申奉存候。」袴地の同じく往いたことは、此に由つて知られる。霞亭が京都で買ひ求め、その華美なるを嫌つて碧山の袴と更へたものである。舛屋の「舛」字は墨瀋に半ば掩れて不明である。
これを書する時霞亭は碧山の風邪に冒されたことを聞いてゐた。「風邪は當分之事に候哉、早速御愼みのよし、尚々御用意專一奉存候。」霞亭自家の生活は平穩無事である。「日々會業いそがしく候而、春來いづかたへも參り不申候。二月に二里許有之候處へ遊行候外、一切出門不仕候。寂寞御憐可被下候。」恒心詩社の音耗も斷えてゐた。「山田社中よりも一切音信たえ候。」的矢の親戚に病む人があつて瘥えた。「新屋敷伯母御快氣の由大悦仕候。」
此月八月の二十日に恒心社の一員東恒軒が歿した。誠宇の受業録に孫福孟綽撰の墓表がある。恒軒、名は吉尹、字は君孚である。父久田常瑛が京都丹羽某の女を娶つて二子三女を生ませた。兄を常隼と曰ひ、家を嗣いだ。恒軒は其弟である。女子は長鶴が夭し、次俊が森島氏に適き、季幸が八家氏に適いた。恒軒は寶暦十三年に生れ、安永九年十八歳にして東重邦に養はれた。初の妻は小田愛忠の女、後妻は洞津の藤川氏である。並に子がなかつた。此秋水腫を患へて歿した。年は五十三であつた。
恒軒の著す所は論語解、勢江集、恒軒稿がある。(墓表。)嵯峨樵歌に曰く。「君夙研覃魯論。別爲一註解。今漸已脱稿。嘗謂予曰。明春予齒五十。拙著亦適當完成。吾願會諸君訂議。且聊自賀成業。子其千里命駕。深所希望。」是は「明春予齒五十」と云ふより推すに文化辛未の事であつた。恒軒の論語解は上梓せられたか否を知らない。論語年譜は支那日本の撰述を併せて「論語解」と題するもの四十八種を臚列してゐるのに、恒軒の書は其中に見えない。
恒軒の人となりは墓表にかう云つてある。「先生爲人敦直。平生儉薄自安。與人言。必吐中情。行無虚飾。或遇非義。雖貴介豪富。輒面折其不可。無所囘避。以是人亦高其風。敬而慕之。性嗜酒。飮量過人。今玆(乙亥)自春渉夏。全廢飮。」霞亭の樵歌に云ふ所も略同じである。「其爲人。天眞横出。不修邊幅。而逢義不可。覿面罵斥。無所趨避。有酒量。飮則口吃。」口吃の事は霞亭の一聯にも見えてゐる。「得酒談奇奇或吃、辭錢守道道曾玄。」
霞亭は訃を得て「哭東恒軒」の五古を作つた。未刊の遺稿に載せてある。誠宇の受業録にも亦此詩があつて末に「乙亥九月、北條讓拜具」と署してある。篇長きを以て悉く録するに及ばぬが、わたくしは句を摘んで霞亭と恒軒との交を一顧したい。
その八十四
文化乙亥八月二十日に東恒軒が歿したので、霞亭は九月に五古を作つてこれを弔した。わたくしは詩の云ふ所より種々の事を知ることを得た。「憶昔初相見。忘年承盛眷。中間十五年。友誼曾無倦。」霞亭の恒軒に交つた初は、享和辛酉去洛の前後でなくてはならない。恒軒三十九歳、霞亭二十二歳の時であつた。
二人の交は霞亭が林崎書院長たるに及んで深きを加へた。「櫟街寄萍迹。來往無晨夕。疑義時質問。藏書互通借。」恒軒は既に四十七歳、霞亭は三十歳になつてゐた。「櫟街」は竹柏園主に乞うて伊勢人に問ひ、山田月讀宮の北なる一之木町なることを知つた。昔いちゐの木の大木ありしよりの名で、元文の頃に至るまで「櫟町」と書したさうである。
霞亭の嵯峨生活は二人の間を隔てたが、雁魚の往來の絶えなかつたことは樵歌に由つて徴せられる。前年甲戌の冬霞亭は神邊より歸省して、又恒軒と相會した。「去年歸省日。同人會一堂。故態嫌猜絶。劇談平昔償。」霞亭が神邊に歸る時、恒軒は送つて宮川に至つた。「宮水送我夜。洗愁累千觴。耿々天將曙。班馬嘶路傍。」
此年乙亥に霞亭は河崎敬軒の書を得て、恒軒の酒を廢めたことを知つた。「前月河子信。報君近状來。春來乏氣力。不復銜酒杯。聞之雖不安。意謂是偶然。不日應囘復。吾心爲自寛。」
未だ幾ならぬに恒軒の訃は神邊に至つた。「茫然疑夢寐。把訃再三視。視此良不妄。酸辛滿五臟。海内足交遊。知己斯人喪。」霞亭の哀悼は頗切であつた。「已矣終天地。何路接容光。容光恍在目。泣向白雲長。孤鴻叫天際。明月照屋梁。展轉不能寐。喞喞伴寒螿。」
東夢亭は恒軒の歿後、山口凹巷の世話に由つて青山氏より入家した恒軒の末期養子ださうである。
九月九日に霞亭は書を碧山に與へた。亦的矢書牘の一である。「小子無事、家内とも無恙候。」有妻の人の語である。
霞亭の近状を抄する。「此方諸般無別條候。新宅追々草木等うゑ候。仲秋の月見は居宅にていたし候。日日晝間は塾へつめ候而、少しも閑時なく候。講書は書經集傳、左傳等隔日にいたし候。(中略。)とかく今迄方外之人となり居申候處、少々宛檢束、節句じやの、親類吉凶などと役しられ候而、時々福山へも參申候。迷惑仕候。併世の中のさまと、無是非觀念仕候。」廉塾に於ける本業の一端が始て窺はれる。「書經集傳」は所謂蔡傳であらう。當時陳師凱の旁通、袁仁の砭蔡編、陳櫟の纂疏、董鼎の纂註が已に刻せられてゐて、就中後の二書は新に市に上つたのであつた。左傳の如きは秦滄浪の校した流布本が始て四年前に刻せられたのである。
文中「仲秋の月見は居宅にていたし候」の句は、歳寒堂遺稿の詩を以て註脚とすることが出來る。是より先霞亭は微恙があつた。「十四夜、余臥病、不能赴廉塾詩會」云々の詩がある。次で「十五夜、諸賢集草堂、得青」の詩がある。「待月黄昏坐小亭。跫然幸破徑苔青。先欣微白生遙嶺。已見清光可半庭。病况今宵渾似忘。歡情近歳未曾經。酒殘不忍空眠去。護得曉寒依紙屏。」
次に諸友の消息を抄する。山田詩社の人々は金を餽つて霞亭の婚姻を祝した。「恒心社十人名前より金五百疋昏儀祝儀に參り候。子文(佐藤)よりは中元祝儀百疋被遣候。この十人の名前の人へは御出會之節名々御禮被仰可被下候。」
その八十五
文化乙亥九月九日の霞亭の書より、今諸友一々の状况を抄出する。
其一。佐藤子文。「子文的矢紀行及詩册參り候。驚入候上進に御坐候。三十韻の的屋より歸途の詩最合作に候。」
其二其三。東夢亭、孫福孟綽。「文亮(夢亭)、孟綽駸々の由欽服仕候。」霞亭は以上三人の進益を説いてゐる。
其四。東恒軒。「恒軒久敷病氣の由、何卒囘復いのり候。」恒軒の訃は九日には未だ至らなかつたのである。
其五。山口凹巷。「凹巷兄は迂齋翁物故後はとかく多事之由に御坐候。」凹巷の父迂齋又迂叟の歿したのは此年乙亥四月十二日であらう。河崎誠宇の受業録に「丁丑孟夏十二日迂叟大祥忌」の文がある故である。
此書には最後に霞亭の同胞二人の年忌の事が言つてある。そして其一人の歿年は今北條氏に於ても湮滅して復知るべからざるに至つてゐたものである。「尚々今年はおぬゐ内藏太郎十七年と存候。定而感愴奉察候。已に當月正當に候。薦詩等跡より差出し可申候。」霞亭の弟子彦は寛政十一年己未九月十九日に歿した。此年乙亥九月が十七囘忌「正當」なることは霞亭の云ふ如くである。是は既知の事實である。これに反して霞亭の同胞女子、適齋の長女縫の生歿は今に至るまで全く知るべからざるものであつた。然るに此書の云ふ所に從へば、縫も亦寛政己未九月に歿したのである。惟其歿日のみが尚未詳である。
霞亭が「跡より差出し可申候」と云つた詩は歳寒堂遺稿に見えてゐる。「九月(乙亥)十九日亡弟子彦忌辰賦薦。姜被難忘當日情。尤憐逐我客京城。僑居逢盜無衣換。孤寺同僧有菜烹。暮雨渚邊鴻雁下。秋風原上鶺鴒鳴。天涯涕涙空盈把。不得家山一掃塋。」霞亭の所謂薦詩は辛未の作が嵯峨樵歌に見え(「露下黄英代瓣香」の七絶)、癸酉(「世事茫然眞可嗟」並に「筆硯依然猶未焚」の七絶二)甲戌(「遠向家山羞一巵」等の七絶六)の作が遺稿に見えてゐる。上の七律は其次である。
的矢書牘に九月十五日の霞亭の書があつて、又「索麪一箱及包物、外に袴差上候」と云つてある。是は前に裁して未だ發送せずにゐた書(上の九月九日の書歟)と同じく霞亭の手を離れたものである。「此頃書状差出し可申相認置候故、一併差上候。」宛名は又碧山である。
碧山が的矢の中秋を報じた故、霞亭は神邊の中秋を以て酬いた。「中秋頃時候大抵被仰越候趣に候。しかし十四夜小陰、十五十六は快晴に候。百里外少々の不同は有之候。拙詩にて略御領知可被下候。」詩は上に云つた十四夜病中と十五夜草堂集との二律である。
書中霞亭の自己を語ること下の如くである。「菟角此方も菅翁内人暫時病氣、此頃少々快氣と相見え候。塾長の儀故、いづかたへも出遊出來不申候。甚窮屈なる事に候。」内人は後妻門田氏である。病氣の事は茶山集に見えない。
霞亭は咳逆の志摩に行はれたことを聞知した。「八月風邪流行いたし候由、御閙敷奉察候。」
霞亭は碧山に託するに敬助惟寧を教ふることを以てした。「敬助へ詩作素讀出精いたし候やう、乍御苦勞御心付可被下候。四書五經文章軌範詩類熟讀いたさせ可被下候。」
その八十六
文化乙亥十月には先づ日附の無い霞亭の一書がある。「只今大坂へ幸便匇々相認候。亂筆御免可被下候。」是が日附を脱した所以であらう。わたくしが此を十月の作とするは、八月九月の書の後に發せられたこと、十月朔に郷書を得た後に發せられたこと等より推すのである。「九月五日御認之御状(碧山の書)十月朔相達申候。(中略。)此方より御書付(既に的矢に達した霞亭書牘の目録)之外八月九月書状差上候。」此十月の乙亥なることは下に抄する書中の事件に由つて知るべきである。此書も亦的矢書牘の一で、碧山に與へたものである。
例の如く先づ神邊の事を抄する。「當方無事罷在候。兩家(茶山の家、霞亭の家)依然に御座候。」「別居以來下地(別居前)よりは多事、いづかたへも出不申、日々講業に逐れ候計、おもしろくもなんともなく候。」日常生活に倦めるものの口吻である。山陽をして前に廉塾を去らしめたものは此倦憊であつた。「この節は御地鰶魚とれ候頃、嘸御風味可被成と奉察候。」人の性情には時代もなく國境もない。霞亭の張季鷹たることを得なかつたのは憫むべきである。
適齋と茶山との間には已にコルレスポンダンスが開かれた。「大人樣より菅翁へ御状辱御禮申上候樣被申付候。」
諸弟の講學は霞亭の頃刻も忘るること能はざる所であつた。然るに良助は啻に兄碧山に劣るのみでなく、弟澹人にだに及ばなかつた。「良助素讀如何はかどり候哉。」
東恒軒の死は大いに霞亭の心を傷ましめた。「恒軒下世之由御しらせ被下候。山田所々よりの便に春來病状相きこえ如何々々と日夜案じ申候處、右之仕合扨々殘念千萬成事に候。年來御存之通の懇意、實に親戚同前に存じ候。舊感不已、悲歎仕候。いまだ社中(恒心社中)よりは訃音不參候。弔詩此節案じ居申候。情盡き不申候而、何とも趣向出不申候。」訃は十月朔に纔に至つたものと見える。詩の成つた後、「乙亥九月北條讓拜具」と署して伊勢へ遣つたのは、歿日に後るること甚だ遠からざらむを欲した故であらう。文書の日附は盡く信ずべからざるものである。
柏原瓦全は尚健であつた。「京都北谷瓦全丈へは去年一別後書通も得いたし不申候。壯健のよし安堵仕候。」
淺井周助は猶京都にあつて問候を怠らなかつた。「淺井よりは時々便有之候。」
次に擧ぐべきは的矢書牘中の斷簡で、「九月十二日、北條讓四郎、御母樣人々御前へ」と書してあるものである。此書は前半が失はれてゐる。その乙亥の作なることは、神邊諸家の霞亭夫妻に贈つた祝物が列記してあるのを見て知るべきである。
「江原伊十郎(となりさかや、庄屋也)より郡内島、荒木市郎兵衞よりきむく小袖、荒木隱居(菅太中樣妹の家)よりふだんぎ一、井上源右衞門(おけう親、以上並に皆原註)より小袖料二百疋と餠酒肴もらひ候。其外は皆々酒肴の類ばかりに候。わけなき事に候へども、何も申上候事なき故かい付候。私も病後はかくべつ達者になり候やうに御座候。常よりもふとり居候。たべもの甚うまく候。來春は何卒御見舞申上たく、今よりたのしみ居申候。時節切角御いとひ被遊候やういのり上候。小松どのへも御序によろしく頼上候、其外御親類中へも同樣よろしく願上候。」
霞亭の中村氏に寄せた此書は字々母を慰めむと欲する子の情より出でたものである。八月中旬の霞亭の不豫が偶母の耳に入つたので、霞亭は極力其迹を滅却しようとしてゐる。移居雜賦の東隣の酒壚は江原伊十郎であつた。千田の荒木氏は茶山の季妹まつ、後の名みつの適いた家である。井上正信は原註の如く敬の父である。祝物の數目は其半を失つたもので、上に「小袖一」の三字が殘つてゐる。
十一月には「霜月十三日」の日附を以て碧山に與へた霞亭の書が的矢書牘中にある。霞亭の自ら語る所はかうである。「小生無事罷在候。乍憚御安意可被下候。(中略。)いづれ明年の中には見合歸省仕度存含み罷在候。」
碧山の詩と書との事が文中にある。「元日の詩御録し被下辱存候。近來書甚見事に被存候。楷書法帖時々御心懸御手習可被成候。詩稿は力をきわめてあしく申候。御改正且は御自得御精思可被成候。」元日の詩を録したと云ふは、次年丙子元日のために豫め作つた詩の稿であらうか。
霞亭は反復して東恒軒の死に説及んでゐる。「恒軒下世御報知被下慨歎不少候。社中索落察入候。」
河崎敬軒は北遊してゐる。「河敬軒越後へ祗役、越前府中より通書、縷々近状等くわしく被仰聞候。」
山口凹巷は新に書齋を營んだ。「河崎君御状に山口に書齋又々出來候由うらやましき事に候。かの洗愁處には文亮始少年多く寄寓いたし候由、彌六も被參居候。珍重之事に候。」洗愁處は舊書齋であらう。これに寓してゐる文亮は恒軒の嗣となるべき夢亭である。彌六は永井氏である。
霞亭は舊門生高田靜沖の文稿を碧山に寄示した。「文之助春來遣候文章懸御目候。あのきよろつき者にはよく出來候。」
霞亭が碧山の問に答へた雜事は何事であつたか不明である。「被仰越候件々は別紙にしるし申候。御接手可被下候。其内胎毒爛の事肝要也。」
その八十七
文化乙亥十二月朔に霞亭の家では二客に酒を供し、韻を分つて詩を賦した。歳寒堂遺稿に「鈴木今村二君見過、得尤」と云ふものが是である。「客從城府至。路問早梅不。示句清何甚。呼杯緑已浮。陰陽愁短景。歳月感東流。豫卜臘前雪。尋君續此遊。」鈴木は宜山圭である。今村は綽夫である。此小宴の月日は的矢書牘中の詩箋に由つて知られる。末に「極月朔也」と書してある。
九日に霞亭は書を弟碧山に寄せた。亦的矢書牘の一である。霞亭が蔡傳の講説は既に竟つてゐる。「此方何も不相替候。講業は書經此間卒業、近思録講釋いたし候。」
霞亭は碧山の山田に往つたことを聞いて、これに誨ふるに益を先輩に請ふべきを以てした。「山田へ御出被成候由、諸君子御無事被仰聞、辱奉存候。御出之節はなんぞ平生蓄疑いたされ候義等、山口兄など、其外河崎、文亮、孫福へ御質問被成候やう可然候。とかく何に付ても取益有之候樣御心懸專一奉存候。御作拜見仕候。隨分おもしろく候。又々御近作御示し可被下候。」山口兄は凹巷玨、河崎は敬軒、文亮は夢亭褧、孫福は公裕である。
霞亭は此書中に江原與兵衞の死を報じてゐる。「江原與兵衞勞瘵終に養生不叶、當五日死去いたし候。可憐事に候。」江原は乙亥十二月五日に歿したのである。茶山には輓詩が無い。霞亭の遺稿には「春日、酒徒江原與平亡」の一絶がある。「七十人生今半強。莫嗤花底醉顛狂。南隣愛酒伴何在。如此春光却斷腸。」凹巷にも亦「聞江原君與兵衞訃」の詩がある。「宿昔難披備海雲。三年訃至夢中聞。寧知一病成長逝。欲把前書復寄君。」三年は別後三年の謂であらう。
季冬は的矢に菩良を漁する時である。「此節は鯔魚漁如何候哉。」碧山は霞亭にたたきを貽り、佐藤子文はえひたたきと青海苔とを貽つた。「たたき遠方辱奉存候。しかし箇樣之物は不むきに有之候。佐藤よりゑひたたき青海苔菅江原小生等へ被遣候。ゑひたたきは去年のやうに參り不申候。青海苔は調法いたし候。すべてあの樣なるいたまぬ物はよく候。」たたきと云ひ、えひたたきと云ふは、いかなる製品歟。方言を知る人の教を乞ふ。
二十二日に霞亭は福山に往つた。的矢書牘中の詩箋に遺稿の載せざる所の詩がある。「晩冬念二、携僕定藏赴福山、偶憶去年今日播州路上事、因賦。携汝復爲去歳看。行々道舊互相歡。記不白鷺城頭店。一椀茅柴衝暮寒。」前年十二月には霞亭は十九日に大阪を發して、二十五日に神邊に歸つた。二十二日には姫路城下を過ぎたであらう。わたくしは此に北條氏の僕の名を見出だしたことを喜ぶ。
箋には此詩の次に茶山、田中辭卿に訪はれた作、槐寮除夜の作が列記せられてゐる。知るべし、茶山等の來たのは二十三日以後であつたことを。二詩は遺稿に讓つて録せない。辭卿は其人を詳にせぬが、霞亭は次年丙子歸省の途次これに京都に邂逅し、輻湊亭に會飮する。「一尊今夜鳧川月。匹馬明朝鹿嶺雲。」(歸省詩嚢。)
茶山の集を閲するに、「除夜草堂小酌」の客中霞亭の名を闕いでゐる。菅氏草堂の宴と槐寮の宴とは或は所を異にしてゐたもの歟。しかし茶山に「一堂蝋梅氣、環坐到天明」の句があり(分得明字)、霞亭に「華堂酒正薫、燈壁梅如畫」の句がある。(分得畫字。)又想ふに霞亭は已に菅氏の族人たるが故に名を客中に列せなかつた歟。霞亭は乙亥三十六歳であつた。
底本:「鴎外全集」第十八巻、岩波書店
昭和48年4月23日発行