北條霞亭 (上)

森鴎外

     その一

 わたくしは()(さは)(らん)(けん)(でん)するに(あた)つて、(ふで)()(あひだ)(はか)らずも(ほう)(でう)()(てい)(ほう)(ちやく)した。それは()(てい)(ふく)(やま)(こう)()()(まさ)(きよ)(つか)へて()()()された(とき)(くわん)(ちや)(ざん)(その)(ぢよ)(てつ)にして()(てい)(つま)なる(ゐの)(うへ)(うぢ)(きやう)(さと)すに、(らん)(けん)()ること(なほ)(ちゝ)のごとくせよと()ふを(もつ)てしたからである。

 ()(てい)()(せき)(らい)(さん)(やう)()(けつ)(めい)()つて()()られてゐる。(ぶん)(ちゆう)わたくしに(きよう)()(おぼ)えしめたのは、(しゆ)として()(てい)()()(せい)(くわつ)である。()(てい)(がく)()りて(いま)(つか)へざる三十二(さい)(とき)(おとうと)(へき)(ざん)(にん)(けつ)して()()()み、(その)(じやう)(いん)(いつ)(でん)(ちゆう)(ひと)()てゐた。わたくしは(かつ)(わか)うして(だい)(がく)()でた(ころ)(かく)(ごと)(ゆめ)(きよう)()(わう)(らい)したことがある。しかしわたくしは(その)(こと)()(さう)として(いだ)くべくして、(かう)(じつ)(あらは)すべからざるを(おも)つて、これを(いた)(みち)(かう)ずるにだに(およ)ばずして()んだ。(かの)()(てい)(なに)(もの)ぞ。(あへ)てこれを()した。()(てい)奈何(いか)にしてこれを()くしたのであらうか。(これ)がわたくしの(かつ)(てい)()した(とひ)である。

 (ぐわん)(らい)(この)(とひ)(はか)(めい)した(さん)(やう)(はや)(はつ)した(ところ)で、(さん)(やう)(また)あからさまに(かい)(しやく)するには(いた)らずして()んだ。(こゝろみ)()()んで(さん)(やう)()(りやう)(あと)(たづ)ねて()よう。

 「北條君子讓。慕唐陽城爲人。自命一字景陽。甞徴余書其説。時酒閒不遑詳其旨。諾而不果。」(あん)ずるに()(てい)()()(かう)(そう)(きふ)(だい)()(かく)れた(ちゆう)(でう)(さん)である。(へき)(ざん)()(ちやう)(かう)(そう)(おとうと)(かい)(ゐき)である。(ほう)(でう)()つて()()(うぢ)(ぶん)(がく)となつたのは(やう)()つて(とく)(そう)(かん)(くわん)となつたと(あひ)(るゐ)してゐる。しかし(さん)(やう)(つひ)()(てい)(くち)づから()くを()くことを(はた)さなかつた。

 「君葢欲自驗其所學者也。其慕陽城。豈非慕其雖求適己。亦能濟物哉。不然。烏能舍其所樂。而役役以沒也。」(これ)(さん)(やう)(そん)(たく)する(ところ)()(てい)(しん)()である。(さん)(やう)()(てい)(みづか)()くを()かなかつたので、()むことを()ずして(ほか)よりこれを(すゐ)(きう)した。()(てい)(さい)(ぶつ)(こゝろざし)()をして()()(せい)(くわつ)(てき)()()(せい)(くわつ)(たのしみ)()てしめたのであらうと()ふのである。

 ()ふことは(やす)い。しかし(こた)ふることは(かた)い。わたくしは(しよ)()むこと五十(ねん)である。そしてわたくしの()(しき)()(すう)(こた)へられざる(もん)(だい)(しふ)(だん)である。()(てい)(なに)(もの)ぞ。わたくしは(いま)(あへ)(にはか)にこれに(こた)へむと(ほつ)するのでは()い。わたくしは(たゞ)これに(こた)ふるに()すべき(ざい)(れう)(しう)(しふ)して、なるべく(くわん)(ぜん)ならむことを(ほつ)する。()(てい)(げん)(かう)()ること、なるべく(さい)(みつ)ならむことを(ほつ)する。(この)稿(かう)(この)()(きう)より(しやう)じた一(たい)反故(ほぐ)()ぎない。

 わたくしは(この)稿(かう)(こう)(しゆう)(まへ)(かい)()するに(のぞ)んで(ひと)(みづか)(かなし)む。(なに)(ゆゑ)()ふに、(けい)(やう)(じやう)はわたくしの(かつ)()(てい)(とも)(とも)にした(ところ)である。(しか)るに()(てい)は、(たと)(かつ)(ふく)(やま)()いてより(のち)、いかばかりの()(げふ)をも()すことを()なかつたとはいへ、(なほ)()(せう)(さう)にして()()より()つた。わたくしの(ちゆう)(でう)(さん)(ゆめ)(かつ)(いたづら)(きよう)()(わう)(らい)して、(たちま)(また)()()つた。わたくしの(おく)れて一(しん)(かん)()たのは、(すゐ)(ざん)(また)()つべからざるに(いた)つた(いま)である。

     その二

 ()(てい)()(せき)にして(すで)()(ひと)()られてゐるのは、(かみ)(しる)した(さん)(やう)()(けつ)(めい)()(ところ)である。(めい)(さん)(やう)()稿(かう)()せてある。

 わたくしは()(がも)(しん)(しやう)()()(てい)(はか)(とぶら)つた(とき)()(せき)(こく)する(ところ)(もつ)(たい)(かう)して()た。

 (てら)()(がも)(ゆき)(でん)(しや)(しゆう)(てん)より(ほく)(かう)すること(すう)()(ところ)にある。(まち)()(そく)(もん)があつて、()つて(ほん)(だう)(まへ)より(いう)(せつ)すれば()()になつてゐる。(とう)西(ざい)(なが)(なん)(ぼく)(せま)()(ゐき)(なか)(ほど)に「霞亭先生北條君墓」がある。(さん)(やう)(みづか)(えら)んで(みづか)(しよ)した()(けつ)(めい)()(いう)(はい)の三(めん)(こく)してある。(すゑ)には「友人頼襄撰并書、孤子退建」と(しよ)してある。(はま)()(とも)(さぶ)(らう)さんは(この)(めい)(おそら)くは(さん)(やう)(ぜつ)(ぴつ)であらうと()ふ。(はた)して(しか)らば(これ)(いま)(すこ)(ひろ)()()らるべき(はず)(きん)(せき)(もん)()ではなからうか。

 (いま)(せき)(こく)(ぶん)(もつ)(たい)(かう)するに、(かん)(ぽん)()稿(かう)には二三の()(どう)がある。「君病歿於江戸。」(いし)には「病」()()い。「給三十口。准大監察。」(いし)には「准」が「班」に(つく)つてある。「學主洛閩。而輔以博覽。」(いし)には(かみ)に「其」()がある。「有霞亭摘稿、渉筆、嵯峨樵歌、薇山三觀及杜詩插註等。」(いし)には(かみ)に「所著」の二()がある。(えう)するに(みな)(せう)()(どう)である。わたくしは(こゝ)(その)(とく)(しつ)(ろん)ずることを(ほつ)せない。

 (さん)(やう)(ぶん)()えてゐる()(てい)(ちよ)(じゆつ)(ちゆう)()()(ちゆう)(のぞ)(ほか)は、(みな)(ちよ)(しや)()(せき)()()(れう)たるに()るものである。わたくしは(らん)(けん)(でん)(さう)するに(あた)つて、(はや)()(てい)(せふ)(ひつ)()()(せう)()()(さん)(くわん)(しよ)(かん)(ぽん)(はま)()(うぢ)()りて(いん)(よう)することを()た。()(さん)(くわん)(のち)()(せい)()(なう)(がふ)(こく)せられたが、わたくしは(こう)(しや)(たん)(かう)(ぼん)(よこ)(やま)(れん)()(らう)さんに()りて()んだ。(あま)(ところ)()(けん)()(てい)(てき)稿(かう)があるのみである。

 (べつ)(さい)(かん)(だう)()稿(かう)(ぐわん)があつて、(はま)()(うぢ)(まさ)にこれを(かう)(こく)せむとしてゐる。(けん)()一、()()(こん)(たい)二百六十二(しゆ)(けん)()二、()()(こん)(たい)二百十五(しゆ)(けん)()三、(ぶん)三十二(しゆ)で、(すゑ)(ぎやう)(だう)(さん)(かう)()()したものである。わたくしは(いま)これを(はま)()(うぢ)()ることを()た。

 ()(てい)()(せき)()ること(つまびらか)ならむを(ほつ)するときは、()稿(かう)()まざるべからざる(しよ)である。わたくしが(この)(ぶん)(さう)するに(あた)つて()稿(かう)(いん)(よう)することを()るのは、(まへ)(かん)(ぽん)(しゆ)()むことを()たと(おな)じく、(ならび)(みな)(はま)()(うぢ)(たまもの)である。

 わたくしは(こゝ)()(まさ)(らん)(けん)(でん)(ちゆう)()くべくして()くに(およ)ばなかつた()(しゆ)()稿(かう)(ちゆう)より(せう)する。()(てい)(らん)(けん)との(くわん)(けい)(すで)(かみ)()えてゐるが(ゆゑ)である。「過蘭軒。孤旅天涯誰共親。官居幸是接芳隣。清風一榻聆君話。洗盡兩旬征路塵。」「從蘭軒處覔梧桐芭蕉。梅李三根對小寮。園庭十畝太蕭條。閒愁剩欲聽秋雨。爲乞青桐與緑蕉。」「雪日書況、寄伊澤澹父、澹父久臥病、予亦因疾廢酒。重裘圍繞護衰躬。坐看雪華飄急風。篁竹盡眠遮仄徑。樓臺如畫出遙空。獨醒長學幽憂客。高臥更憐同病翁。憶得他年乘興處。墨江晩霽掲寒篷。」(とも)()稿(かう)(だい)(くわん)(をさ)むる(ところ)である。

     その三

 (さん)(やう)(せん)()(けつ)(めい)と、()(てい)(あらは)(ところ)()(ぶん)(ざつ)(ろく)とよりして(ほか)()(てい)()(せき)(ちよう)すべきものは(たう)()(しよ)(どく)である。

 ()(てい)()(きやう)()(まの)(くに)(まと)()()つたので、(ちゝ)(てき)(さい)(だう)(いう)()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)()(ちやう)をして(いへ)()がしめた。(へき)(ざん)()が一()、一()()(しん)(みん)(しん)(みん)()(しん)(すけ)である。(この)(ほう)(でう)(しん)(すけ)さんが()(てい)(しよ)(どく)(はこ)(ざう)してゐる。わたくしは(しま)()(けん)(ぺい)さんに()つて(この)(しよ)(どく)()ることを()頃日(このごろ)これを()(つく)した。(しよ)(どく)は二百()(つう)あつて、(たい)(はん)()(てい)(てき)(さい)(へき)(ざん)とに(あた)へたものである。(まと)()(ほう)(でう)(うぢ)(れき)(せい)これを(あい)()して一も(さん)(いつ)することなからしめ、(いま)(しん)(すけ)さんに(いた)つたのは、(その)ピエテエの(しん)(こう)なること、(じつ)(けい)(ちよう)すべきである。(この)二百()(つう)(しよ)(どく)は、わたくしの(あらた)()()(れう)(ちゆう)(もつとも)(だい)にして(もつとも)(いう)(りよく)なるものである。

 ()(てい)(ふく)(やま)(はん)(ぶん)(がく)となつて()()(かく)()した(とき)(どう)(はん)(かは)(むら)(うぢ)()(くわい)(だう)退(たい)(きた)つて(その)()(きう)()いだ。(さん)(やう)()うて(やう)()(はか)(めい)せしめたのは(この)(くわい)(だう)である。(くわい)(だう)()(りつ)(ぽう)(ねん)()(りつ)(ぽう)()(とく)()(らう)である。(とく)()(らう)さんは(けい)(じつ)(いた)るまで近江(あふみの)(くに)(がま)()(ごほり)()(むら)(そん)(りつ)(かは)(もり)(じん)(じやう)(せう)(がく)(かう)(ちやう)であつた。(りつ)(ぽう)(おとうと)(せん)(ざう)があつて(たか)(はし)(うぢ)(おか)し、(げん)(かん)(なべ)にゐる。わたくしは(はま)()(とも)(さぶ)(らう)さんに()つて(たか)(はし)(せん)(ざう)さんの(しよ)(ざう)(しよ)(どく)()(つう)をも()ることを()た。(これ)(しよ)(いう)()(てい)(あた)へたものである。

 (ぜん)()(ほか)、わたくしは(ふく)()祿(ろく)()(らう)さんの()より(きよ)()(けい)()(ぎやう)(じやう)()(へう)(とう)(とう)(ほん)(おく)られた。()(てい)()(せき)(ちよう)すべき()(れう)(おほむね)(かく)(ごと)くである。就中(なかんづく)わたくしを(うなが)して(この)稿(かう)(おこ)さしめたのは、(まと)()(ほう)(でう)(うぢ)(しよ)(ざう)()(てい)(しよ)(どく)(はこ)である。

 さて()(てい)(でん)(つく)るには、いかなる(たい)(れい)(したが)ふべきであらうか。(いま)わたくしの()(ところ)のものを(ふで)(のぼ)せて(くわい)(ろう)なからしめむことを(ほつ)したなら、わたくしは()(てい)(じよ)すること(なほ)(しぶ)()(ちう)(さい)(じよ)()(さは)(たん)()(じよ)するがごとくなるを便(べん)とするであらう。しかし()(わう)はわたくしをして(ちよう)()せしめた、わたくしは(かん)(じやう)(つと)めなくてはならない。(さふ)(じよ)する(ところ)(しよ)(どく)(ごと)きは、いかに()()(おほい)(きよう)(しゆ)(おほ)しと以爲(おも)ふものと(いへども)、わたくしは(あへ)(その)(ぜん)(ぶん)(うつ)(いだ)すことをなさぬであらう。

 (さいはひ)なるは()(てい)(しやう)(がい)()(せう)()(らん)があつて、(たと)ひいかなる(せい)(ひつ)(もち)ゐて()(じゆつ)せむも、(かの)(ざう)(ちよ)()(かう)(しう)()として(ばく)()(いへ)(せい)(ぼつ)した()(じま)(はう)()()(せき)(ごと)(くわう)(りやう)(らく)(ばく)なる(おそれ)()(こと)である。

 わたくしは(これ)より(ぜん)()(ざい)(れう)()つて、()(てい)()(せん)より、()(てい)()()(しやう)(がい)()て、(その)(こう)(えい)(いた)るまで、(きはめ)(かん)(けつ)(じよ)(じゆつ)しようとおもふ。()(その)(もん)()(あひだ)に、(はう)彿(ふつ)として()(てい)(やう)(じやう)()(しゆく)した所以(ゆゑん)(かん)(しゆ)せられたなら、わたくしの(ねがひ)()るであらう。

     その四

 (さん)(やう)()(てい)()(せん)(じよ)した(ぶん)はかうである。「其先出於早雲氏。後仕内藤侯。侯國除。曾祖道益。祖道可。考道有。皆隱醫本邑。」(ほん)(いふ)とは()(まの)(くに)(まと)()である。

 ()(てい)(ゑん)()(ほう)(でう)(さう)(うん)である。()(てい)(せふ)(ひつ)(あらは)すに(あた)つて、()(そう)(いつ)()として(さう)(うん)(こと)(かた)つた。()(あまね)()(ところ)の、(さう)(うん)(ひと)の三(りやく)(かう)ずるを()いて、「夫主將之法、務攬英雄之心」に(いた)り、(また)()()かしめなかつたと()(でん)(せつ)である。

 わたくしはこれを()んで、()(てい)(めい)(しやう)(たね)()ふを(もつ)て一(しゆ)のフイエルテエを(かん)じてゐたものかと(おも)ふ。()(てい)(おそら)くはアリストクラチツクな(ひと)であつたゞらう。(これ)(のち)()()(せい)(くわつ)()つて(きた)(ところ)()るために、(とう)(かん)()すべからざる()(じつ)である。

 しかし(ぶん)(けん)(さう)(うん)より()(てい)(そう)()(だう)(えき)(いた)るまでの(れん)()(いく)(せつ)()いてゐる。(ふく)(やま)(はん)(つた)ふる(ところ)の「北條系圖」の(しゆ)にはかう()つてある。「天正十八年七月小田原落城せしかば、同年秋北條家の一門家老悉く高野山に登りしが、同年冬山を下り、麓の天野に居住す。其後家祖は志摩鳥羽の城主内藤志摩守忠重に仕へ、其子道益齋の時、内藤家斷絶して浪人となり、同國的屋に隱れ、醫を業とす。」(こゝ)に「家祖」と()ふものは、(その)()こそ(つまびらか)ならね、(すなはち)()(てい)(かう)()である。

 (ない)(とう)()(だん)(ぜつ)和泉(いづみの)(かみ)(たゞ)(かつ)(とき)であつた。(えん)(ぱう)(ねん)(ぐわつ)二十六(にち)に、(しば)(ぞう)(じやう)()(おい)(ぜん)(しやう)(ぐん)(とく)(がは)(いへ)(つな)の四十九(にち)(ほふ)(えう)(いとな)まれた。(この)()(たゞ)(かつ)宿(しゆく)(ゑん)あるを(もつ)て、(たん)(ごの)(くに)(みや)()(じやう)(しゆ)(なが)()(しな)(のの)(かみ)(ひさ)(なが)()(ちゆう)()つた。二十七(にち)(たゞ)(かつ)の三萬三千二百(こく)(ひさ)(なが)の七萬(ごく)(ならび)(くわん)(ぼつ)せられ、(たゞ)(かつ)(しば)(せい)(しよう)()(おい)(せつ)(ぷく)せしめられた。

 (この)(とき)(だう)(えき)(たゞ)(かつ)(つか)へてゐたので、(まと)()(うつ)つて()となつた。(だう)(えき)()ひ、(だう)(えき)(さい)()ふは、(もと)より()となつた(のち)(しよう)であらう。(これ)()(てい)(そう)()である。

 (だう)(えき)には(そう)(ぞく)(にん)(けい)(てい)があつた。(まと)()(ほう)(でう)(うぢ)(ざう)()(てい)(しよ)(どく)(ちゆう)(しゆ)()()けて(うしな)はれた一(しよ)がある。(これ)(せふ)(ひつ)()つて(かむが)ふるに、西(にし)(むら)(きふ)()(あた)へたものであらう。(いま)(その)(せつ)(せう)する。「曾祖以醫隱於志州的屋村。其節省北條爲北。或稱喜多。同胞三人。弟市之丞某東遊一諸侯へ仕宦いたし候處、不幸にして讒死いたし候。沒落のせつ道益齋兄薙髮出家いたし、則眞英師に候。」(これ)()つて()れば、(どう)(はう)(にん)(じゆん)()(そう)(しん)(えい)()()(だう)(えき)(さぶらひ)(いち)()(じよう)である。

 (しか)るに(せふ)(ひつ)には「曾祖父道益弟、有了普禪師」と()つてある。そして(いち)()(じよう)(こと)()えない。(れう)()(すなはち)(しん)(えい)であらう。(この)(そう)(しよ)(どく)(したが)へば(だう)(えき)(あに)となり、(せふ)(ひつ)(したが)へば(その)(おとうと)となる。(せふ)(ひつ)(こう)(ねん)(さん)(てい)()たものなるを(おも)へば、(これ)(てい)(せつ)とすべきであらうか。(はた)して(しか)らば(だう)(えき)(しん)(えい)(いち)()(じよう)の二(てい)があつたとすべきであらう。

 (せふ)(ひつ)()るに、()(てい)(きふ)()()うて(れう)()()(せき)()せしめた。(かみ)()つた(しよ)(どく)(だん)(かん)に、(なほ)(しん)(えい)(こと)(しよ)してある。わたくしは(これ)(もつ)(きふ)()()(こん)(ぽん)()(れう)となすが(ゆゑ)に、(こゝ)(ろく)(そん)する。「則眞英師に候。(此句重出。)書をもとめ候人多く、常に潤筆の資滿嚢有之候處、人に施し又は佛寺を創建いたし候よし。はじめ青の峰辨天の社を建立、又同州三箇所村棲雲庵建立。其外にも有之候へとも相しれ不申。弊家墳墓へ、手寫の千部經藏凾いたし、今に埋み有之候。其外に尺八をよくふかれ候事も申つたへ候。これ等は皆々ほんの兒女子口碑に御坐候。御取捨可被下候。村松に大般若經の書寫有之候よし承り及候。」

     その五

 ()(てい)(そう)()(だう)(えき)(きやう)()十一(ねん)(ぐわつ)二十八(にち)歿(ぼつ)した。(はふ)()(いう)(だう)(えき)(あん)(しゆ)である。(その)(どう)(はう)(そう)(れう)()(みづか)(さう)する(ところ)の三()(しよ)(むら)(せい)(うん)(あん)()んで、(おく)るること十七(ねん)(くわん)(ぱう)(ねん)(じやく)した。

 (だう)(えき)()いで()(げふ)(まと)()(おこな)つた(だう)()は、()(てい)()()である。()(しゆん)(りふ)(いう)(げん)(がう)した。(めい)()(ねん)十二(ぐわつ)十八(にち)(つま)(うしな)ひ、(あん)(えい)(ねん)十一(ぐわつ)二十八(にち)歿(ぼつ)した。(はふ)()()(ばう)()(だう)(あん)(しゆ)()ふ。(まご)()(てい)(うま)るるに(さき)だつこと四(ねん)である。

 (だう)(えき)(のち)(だう)(いう)()いだ。(これ)()(てい)(ちゝ)である。

 (だう)(いう)には(まご)(ふく)(こう)※[#「裕」の縦型()(せん)()(へう)があつて、(やゝ)(その)()(せき)(つまびらか)にすることが()()る。※[#「裕」の縦型()()()(へん)(たい)である。わたくしの()(おく)にして(あざむ)かずば、(せふ)(ひつ)には()(けつ)()(あやま)られてゐたかとおもふ。

 (だう)(いう)()(くわん)(あざな)()(しやく)(てき)(さい)(がう)した。(えん)(ぎやう)(ねん)(うま)れ、二十四(さい)にして(はゝ)(うしな)ひ、三十(さい)にして(ちゝ)(うしな)つた。その(ちやう)(なん)()(てい)をまうけたのは、()(てい)(せい)(じつ)(あん)(えい)(ねん)(ぐわつ)()なるより()すに、三十四(さい)(とき)である。()(てい)(はゝ)(なか)(むら)(うぢ)である。(おも)ふに(てき)(さい)(だう)(いう)(ちゝ)歿(ぼつ)した(のち)(はじめ)(めと)つたのではなからうか。(なか)(むら)(うぢ)は十六(さい)にして()(てい)()んだ。

 わたくしは()(てい)のいかなる()(てい)(きく)(いく)せられたかを()らむがために、(こゝ)()(へう)(ちゆう)より(てき)(さい)(ひと)となりを(せう)する。「先生爲人。氣宇爽朗。聞人一善。若享大賚。聞一不善。若有所失。或讀古人書傳。談前言往蹟。甘心於忠良。切齒於姦佞。宛如吾眼前事。慨然歎詑不措。性嗜酒。但不喜獨飮。日夕邀客對酌。率以爲常。其飮量過人。老而不衰。」()(てい)(ちゝ)(よう)(じん)ではなかつたらしい。

 わたくしは(また)()(へう)()つて、(てき)(さい)()にして(じゆ)であつたことを(しよう)することが()()る。「里中弟子。嘗問字學書者。凡七十餘人。」(てき)(さい)(りよ)()にあつて(ひと)()となつてゐたのである。(てき)(さい)(こう)(ねん)(その)()()(てい)をして()(そく)()べしめむがために(はい)(ちやく)した。わたくしは(この)()(じやう)(きよ)()つて(きた)(ところ)()して、(こう)※[#「裕」の縦型()()()(ぶん)(つく)らなかつたことを()る。

 (てん)(めい)(ねん)()(てい)(おとうと)内藏(くら)()(らう)(うま)れた。()(げん)(あざな)()(げん)である。(てき)(さい)三十八、(なか)(むら)(うぢ)二十の(とき)()である。(あに)()(てい)(すで)に五(さい)になつてゐた。

 (せふ)(ひつ)(ゆき)(つく)ねた()(てい)()(しやう)()けたのに()いた内藏(くら)()(らう)()(れん)姿(すがた)(うつ)されてゐる。(これ)(てん)(めい)(ねん)()(てい)(さい)(げん)(さい)(とき)(こと)である。

 (くわん)(せい)(ねん)(ぐわつ)()(てき)(さい)の三(なん)(てい)(ざう)(えう)(せつ)した。(その)(せい)(じつ)()らない。(おそら)くは(うま)れて(いま)(いくばく)ならぬに()したのであらう。(とき)(ちゝ)四十五、(はゝ)二十七、(りやう)(けい)は十二(さい)と八(さい)とであつた。

 五(ねん)には()(てい)が十四(さい)になつた。(ぎやう)(じやう)(ぽん)に、()(じん)(それがし)がこれを(さう)した(いつ)()()せてゐる。「先生幼にして重遲、戲嬉を好まず。惟演史を讀むを以て歡となす。年十四、里中の兒と出て遊ぶ。一士人あり、熟視久うして其同行に謂て曰く。此子擧止凡兒に異なり。他時必ず大名を成さむ。」

     その六

 わたくしは()(てい)(くわん)(せい)(ねん)十四(さい)にして一()(じん)(さう)せられたことを()した。()(ねん)(ねん)(じゆん)十一(ぐわつ)十四(にち)には(たま/\)()(てい)(どう)(はう)(ぢよ)()(えい)歿(ぼつ)したことが(つた)へられてゐる。(あん)ずるに()(てい)(どう)(はう)には四(ぢよ)があつた。(さん)(やう)は「考娶中村氏、生六男四女」と()つてゐる。(ちやう)(ぢよ)(ぬひ)()ひ、二(ぢよ)(えい)()ひ、三(ぢよ)()(さん)であつたために()()く、四(ぢよ)(つう)()つた。わたくしは(たゞ)(えい)()(てい)十五(さい)(とき)()んだことを()るのみで、(その)()(ぢよ)()(せい)歿(ぼつ)(あきらか)にしない。(つう)(ちやう)じて(うゑ)()(うぢ)()したさうである。

 七(ねん)には()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(うま)れた。(ちゝ)は四十九、母は三十一、(ちやう)(けい)()(てい)は十六、(ちゆう)(けい)()(げん)は十二であつた。(へき)(ざん)()()(ちやう)(あざな)(りつ)(けい)(つう)(しよう)(だい)(すけ)である。(へき)(ざん)()(てい)()(はく)()()つて(めい)じたものである、(あん)ずるに(のち)()(てい)(きやう)()るに(およ)んで、()(げん)(すで)歿(ぼつ)してゐたので、(この)(へき)(ざん)(りつ)(てき)せられたのである。

 九(ねん)()(てい)(きやう)()(いう)(がく)した。(せふ)(ひつ)の「予年十八、遊京師」の(ぶん)より()すことが()()るのである。(さん)(やう)(たん)に「幼喜讀書、考以次子立敬承家、聽君遊學、入京及江戸」と()つてゐる。しかしわたくしは(へき)(ざん)(りつ)(けい)(りつ)(てき)()(てい)(はじめ)(きやう)()(あそ)んだ(とし)(おい)てせられたのではあるまいとおもふ。(ちゝ)(てき)(さい)が十八(さい)()(げん)()いて、十四(さい)(へき)(ざん)()てたとは(しん)(がた)いからである。(いはん)()(げん)(いう)(ばう)()(よく)(ねん)(くびす)(あに)()(てい)(せつ)して(きやう)()()くのである。()(へき)(ざん)(りつ)(てき)(しん)(この)(とし)(おい)てせられたなら、それは(てき)(さい)()(てい)()(げん)の二(にん)をして(ひと)しく(きやう)()つて()()てしめようとおもひ、ことさらに(さい)(せう)なる(へき)(ざん)(もつ)()()としたと()()すより(ほか)()からう。(これ)(また)(かなら)ずしも(さう)(ざう)すべからざる(こと)ではない。

 ()(てい)(きやう)()にあつて(けい)(みな)(がは)()(ゑん)(まな)び、()(ひろ)(をか)(ぶん)(たい)(まな)んだ。(こと)()せて(せふ)(ひつ)(ちゆう)にある。()(ゑん)(たう)()六十四(さい)であつた。(ぶん)(たい)(こと)(おほ)()(あらは)れてをらぬが、(くれ)(しう)(ざう)さんの(けん)する(ところ)()るに、()()()(えき)()()(ほん)()()に、()(げん)(あざな)()(ちやう)()()(ひと)()()(はう)(もつ)(みづか)(にん)じ、()を四(はう)()す、(あらは)(ところ)()(こく)(しやう)(かん)(ろん)ありと()つてある。()(てい)(せふ)(ひつ)に「長予二十五歳、折輩行交予」と()ふより()せば、その()(てい)(いん)(けん)したのは四十三(さい)(とき)である。(あん)ずるに()(てい)(じゆ)(もつ)()たむと(ほつ)する(こゝろざし)は、(たう)()(なほ)(いま)(けつ)せなかつたであらう。

 ()(てい)(きやう)()にあつて(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(すゞ)()(せう)(れん)()(みづ)(らい)(しゆ)(しも)()(はう)(たく)(もと)(やま)(ちゆう)(しよ)()(あひ)()つた。就中(なかんづく)(あふ)(こう)(もつとも)(したし)く、(のち)()(てい)(おとうと)(むか)(ぢよ)(せい)とするに(いた)つた。(つぎ)(したし)かつたのは(せう)(れん)であつたらしい。

 (きやう)()(まと)()()ること(とほ)くもないので、()(てい)(しば/\)(せい)(しん)のために(かへ)つたらしい。(この)(てい)()(とし)には十二(ぐわつ)(かへ)つたことが(せふ)(ひつ)()えてゐる。

 十(ねん)()(てい)(きやう)()にあつた(だい)(ねん)である。()(ゑん)(したが)つて(ひがし)(やま)(あそ)んだことが(せふ)(ひつ)()えてゐる。(ぶん)(たい)(この)(とし)()()(かへ)つた。(せふ)(ひつ)(けみ)するに、()(てい)は「居無幾、先生歸伊州」と()ふのみであるが、(のち)(かう)()(ぶん)(たい)()()()(とき)、「以十三年睽離之久、期一見於二百里外」と()つてゐる。(あふ)(こう)(また)「蓋相別十有三年」と()つてゐる。(ぶん)(べい)()()にあつたことが()られる。

 ()(てい)(おとうと)()(げん)(この)(とし)(まと)()より()た。(せふ)(ひつ)に「彦、字子彦、通稱内藏太郎、予次弟、寛政戊午遊學京師、師事友人源玫瑰先生」と()つてある。()(げん)()(げん)(まい)(くわい)()(ちよう)(あざな)(てん)(しやく)、一(がう)(ばい)(さう)(きた)(こう)()(うぢ)()(ごの)(かみ)(のち)(だい)(がくの)(すけ)(しよう)した。

 (この)(とし)(まと)()(おい)()(てい)(おとうと)(りやう)(すけ)(うま)れた。(ちゝ)五十二、(はゝ)三十四、(あに)()(てい)十九、()(げん)十五、(りつ)(けい)(さい)(とき)であつた。

     その七

 (くわん)(せい)十一(ねん)()(てい)(きやう)()にあつた(だい)(ねん)である。(なつ)()つて(おとうと)()(げん)(あまが)(さき)()つて(ぼう)()(ぐう)してゐたのを、()(てい)(きやう)()から(たづ)ねに()つて、(ともな)つて(まと)()(かへ)つた。()(げん)は九(ぐわつ)十九(にち)(いへ)歿(ぼつ)した。(とし)(わづか)に十六であつた。(この)(とし)()(ぐち)(うぢ)(ぢよ)()()(うま)れた。(のち)(へき)(ざん)()(をんな)である。

 十二(ねん)()(てい)(えん)(けい)(だい)(ねん)で、(こと)()すべきものが()い。

 (きやう)()(ぐわん)(ねん)()(てい)(きやう)()()つたらしい。(のち)()(せい)した(とき)()(てい)は「經八年南歸」と()つてゐる。そして(その)()(せい)(とし)(ぶん)(くわ)(ねん)なるが(ごと)くである。(これ)(せふ)(ひつ)(ちゆう)(ぶん)である。(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(また)()()(せう)()(だい)()に「別來已八年」と()つてゐる。「嚴慈」に(わか)れてよりの()で、(あふ)(こう)()(てい)(わかれ)()つたものではない。二(いう)(ぶん)(くわ)()(げん)()()(わか)れたから、(なん)()()(はやし)(ざき)()(だい)(いた)(あひだ)に、いかにしても八(ねん)(けみ)する(はず)がない。(はじ)めわたくしは(おな)(ぶん)より()して、()(てい)(きやう)()()つた(とし)(きやう)()(ねん)としたが、(いま)はその(ぐわん)(ねん)なるべきを(おも)ふ。(これ)(のち)()すべき(しよう)(せき)がある(ゆゑ)である。

 (きやう)()(ねん)には()(てい)(すで)()()()てゐたことが(かく)(しよう)せられる。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(この)(とし)(しよ)(つう)がある。(この)(しよ)()(てい)(じん)(じゆつ)(ぐわつ)二十五(にち)()()にあつて(さい)したものである。

 わたくしは(この)(しよ)(ぜん)(ぶん)(うつ)すことのタンタシヨンを(かん)ずる。(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(さい)()のものなるを(おも)へば、(この)タンタシヨンは(いよ/\)(おほき)い。しかしわたくしは(この)(ねん)(こく)(かん)してこれを(りやく)(せう)するに(とゞ)める。

 (しよ)()(てい)(ほう)(でう)(だい)()(あた)へたものである。その()(ところ)より()すに(だい)()(べつ)(にん)ではない。(ちゝ)(てき)(さい)である。わたくしは(これ)()つて、(のち)(へき)(ざん)()(げん)(だい)()(しよう)したのは、()()(しよう)()いだものなることを()る。

 (しよ)は七(ぐわつ)二十五(にち)(つく)られてゐる。(なに)(もつ)てその(じん)(じゆつ)なることを()るか。「此節諸國出水之噂都下日々に御座候。別而上方邊京大坂江州大水之よしに承り候。御國邊は如何に候哉無心元奉存候。委細御樣子等御示し可被下候。九州にても有馬樣御領には山つなみ等も有之候よし。御當地は左程までも無之候へども先月廿一二日より晦日頃迄雨降つづき申候。下總邊笠井猿が股抔切れ候而、大川筋もあづま橋永代橋新大橋落申候。漸う兩國ばかりのこり申候。三圍土手抔は一面に水つき申候。近年未曾有之事に候。」(これ)(きやう)()(ねん)六七(ぐわつ)(かう)(りん)()(こう)(ずゐ)(じよ)したものである。()(こう)(ねん)(ぺう)の「大川は兩國橋のみ通行成る」と()(がふ)する。

 (しよ)は七(ぐわつ)二十五(にち)(つく)られた。しかしそれが()()より(はつ)せられた(さい)(しよ)(しよ)ではない。「小子無變勤學罷在候。乍慮外御安意奉希候。然者當二日頃書状差上申候。相達候哉。」()(てい)は七(ぐわつ)()(ごろ)にも(また)(すで)(しよ)(ちゝ)()せたのである。(これ)()()()ける()(てい)(さい)()(せう)(そく)で、(その)(ぜん)(ねん)(しん)(いう)()(てい)(きやう)()()つただらうと()ふは、(のち)(なん)()(とし)より(すゐ)(さん)するに()ぎない。

 (しよ)には(はじめ)()(てい)(おとうと)(けい)(すけ)()()えてゐる。(けい)(すけ)(じん)(じゆつ)(うま)れたのである。(ちゝ)五十六、(はゝ)三十八、(あに)()(てい)二十三、(へき)(ざん)八、(りやう)(すけ)(さい)(とき)(うま)れたのである。(けい)(すけ)(はじめ)()()(ねい)(のち)(ちゆう)(あざな)(たん)(じん)(あらた)めた。(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(むか)へて(ぢよ)(せい)とするのが(この)(けい)(すけ)である。「御小兒は名慶助と御呼被遊候由承知仕候。慶を敬の字に御かへ被遊候方可然奉存候。其わけは當時西丸大納言樣家慶公と被仰候得者此一字を俗稱に相用候儀憚多く候。下々にては構も無之儀に候へども、讀書生等は其心得も可有事に御坐候間、敬助之方可宜候。」(これ)()つて()れば(てき)(さい)(けい)(すけ)(めい)じ、()(てい)(けい)(すけ)(あらた)めさせたのである。

     その八

 わたくしは()(てい)(きやう)()(ねん)(ぐわつ)()(ごろ)に、(すで)()()にあつたことを(かく)(しよう)し、(また)(その)(きよ)(らく)(ぜん)(ねん)(しん)(いう)にあるべきことを()つた。()(てい)()()にあつて(たれ)(したが)つて(まな)んだか。(ぎやう)(じやう)の一(ぽん)にはかう()つてある。「後江戸に遊び、龜田鵬齋の塾に寓す。鵬齋深く先生を愛敬す。忘年忘義、視る朋友の如し。其妻に謂て曰。子讓年少と雖ども、志行端愨心なり。恨、一女子の之に配するなきを。」()(てい)(ぼう)(さい)(じゆく)(ぐう)したことは、(ぎやう)(じやう)()(ところ)(ごと)くであらう。しかし()(てい)(はた)して()()つて()()したかは(うたがひ)なきことを()ない。(なに)(ゆゑ)()ふに、これを(ぶん)(しよ)(ちよう)するに、(たゞ)(ぼう)(さい)(ほう)(いう)として()(てい)(ぐう)したのみでなく、()(てい)(こと)にも(また)(ぼう)(さい)()とした(あと)()いからである。()(てい)(ぼう)(さい)(じゆう)(いう)したのは(なん)(ねん)より(なん)(ねん)(いた)(あひだ)であつたか()(めい)である。しかし(のち)(ほく)(いう)()(のぼ)(まへ)(かめ)()(じゆく)にゐたことは(あきらか)である。(あるひ)(おも)ふに()()にある(はじめ)には(いま)(ぼう)(さい)()なかつたのではなからうか。()(てい)(しよ)(どく)(ぼう)(さい)(げん)(きふ)してゐることは(のち)()(ところ)()いて()るべきである。(せふ)(ひつ)は「先師淇園先生」を()いて(たえ)(ぼう)(さい)()かない。

 (きやう)()(ねん)()(てい)(ざい)()(ちよう)(しよう)せられてゐる(だい)(ねん)である。(この)(とし)()(がい)には(じゆん)(しやう)(ぐわつ)があつた。(まと)()(しよ)(どく)(たま/\)()(てい)(じゆん)(しやう)(ぐわつ)十六(にち)(はゝ)(なか)(むら)(うぢ)()せた(しよ)がある。そしてその()(ところ)()(てい)(こゝろざし)()らむがために(きはめ)(ぢゆう)(えう)なるものである。「私などは世上の事も左のみ何ともぞんじ申さず候。萬事氣づよく心をもち候やふにいたし候。そのわけは左樣に無之候ては、江戸おもてなどには住ひ不被申候。と申て人と爭ふと申樣なる事はすこしもいたし不申候。學問等に精力いだし候へども、これは元來このみ候事故、苦勞とはぞんじ不申、かゑつてたのしみ候事に候。たゞ/\運をひらき候て、少々の祿をももらひ候はゞ父母樣兄弟一所にくらし候はんと、それのみたのしみ申候。それとてもつかみ付樣にも出來候はねど、いづれ今暫三十ぢかくもなり候はゞ、ずいぶん出來候やうに相見え候。此頃友達の松崎太藏と申人二十人扶持に而太田備中樣へ御抱に相成候。無左とも學問成就いたし、藝さへよろしく候はゞ、人のすて置申物には無之候。たゞ/\つとめが第一に候。御在所へかへり候てもよろしく候へども、御在所などにては所せん業わ出來不申、かつ又無用之物になりしまひ候。其段いか計かなげかわしくぞんじ爲參候。何分こゝろざし候事故、金石をちかひ修業こゝろがけ申候。」

 ()(てい)(たい)()ある(じん)(ぶつ)であつた。(この)(しよ)()(ねん)()(へい)(ほく)(いう)(うへ)にも、八(ねん)()()()(いう)(せい)(うへ)にも、一(だう)(くわう)(みやう)(とう)(しや)する。祿(ろく)(もと)むるには「つかみ付樣」には()()ない。()づこれを()くるは、(のち)に一(そう)(だい)なるものを()むと(ほつ)するが(ゆゑ)である。()(かく)るゝは、(のち)(おほい)(あらは)れむと(ほつ)するが(ゆゑ)である。(ひと)(かう)()(どう)()()(めう)である。(たと)()(てい)(ほく)(いう)(いう)(せい)とに(ちと)のポオズに()たる(ところ)があつたとしても、(もと)よりこれが(るゐ)となすには()らない。

 ()(てい)(はゝ)(のぞみ)(つな)がむがために、一(いう)(じん)(はつ)(せき)(ためし)()いた。(まつ)(ざき)(たい)(ざう)(かう)(だう)(ふく)である。(かう)(じゆつ)に「退藏」に(つく)つてある。(おほ)()(びつ)(ちゆうの)(かみ)遠江(とほたふみの)(くに)()()(ごほり)(かけ)(がは)(じやう)(しゆ)(おほ)()(すけ)(ちか)である。(かう)(だう)(かい)(かつ)(ぜん)(ねん)(こと)であつた。(かう)(じゆつ)所謂(いはゆる)「享和二年、掛川城主大隆公辟爲藩教授、食俸廿人口」は(すなはち)(これ)である。

     その九

 わたくしの(かみ)()いた(きやう)()()(がい)(じゆん)(しやう)(ぐわつ)十六(にち)()(てい)(はゝ)()せた(しよ)は、わたくしに(しゆ)(/″\)(しん)()(じつ)(をし)へた。(その)一は(まつ)(ざき)(かう)(だう)()(てい)(いう)(じん)であつたと()ふことである。(その)二は()(てい)(はゝ)(なか)(むら)(うぢ)(けん)であつたことである。(なか)(むら)(うぢ)(けん)でなかつたなら、(その)()(しよ)(しん)(ちゆう)(かく)(ごと)()()(じやう)(つく)すには(いた)らなかつたであらう。

 ()(てい)(しよ)(さい)した(とき)二十四(さい)であつた。(がく)(すで)()つて()(いう)(すゐ)(しよう)せられながら、(かろ/″\)しく()(ゆだ)ぬることを(ほつ)せずして、「いづれ今暫三十ちかくもなり候はゞ、ずいぶん出來候やうに相見え候」と()つてゐる。()(へい)(ほく)(いう)(かう)(ちゆう)(きやく)である。(たゞ)(しか)るのみではない。()(てい)は三十を()えても(なほ)()(ちよう)して、(みづか)()ることを(ほつ)せなかつた。()()(せい)(くわつ)ある所以(ゆゑん)である。

 わたくしは(まへ)()(てい)(はい)(ちやく)(かなら)ずしも(はじめ)(きやう)()(あそ)んだ(とし)(おい)てせられなかつただらうと()つた。(この)(しよ)(ごと)きも、わたくしをして(この)(うたがひ)()さしむるものである。()(ところ)(ぶん)()るに、(まと)()(いへ)(けい)()(いま)(さだ)まつてをらぬ(ごと)くである。「少々の祿をももらひ候はゞ、父母樣兄弟一處にくらし候はん」と()ひ、「御在所へかへり候てもよろしく候へども、御在所などにては所せん業わ出來不申」と()ふを()るに、()(てい)(だい)(しよ)(こう)(つか)へ、(いへ)()げて(にん)(おもむ)かむと(ほつ)してゐたらしい。(これ)(はい)(ちやく)せられたものの(こと)()ない。

 (かつ)(おな)(しよ)(いま)()かぬ一(せつ)()るに、()(てい)(なに)(ごと)をか(ちゝ)(てき)(さい)(はか)つてゐる。「此節少々ぞんじよりもおわし候て親父樣迄御相談申上候義も候」と()つてある。所謂(いはゆる)(さう)(だん)(あるひ)(すなはち)(けい)()(もん)(だい)ではなかつただらうか。(のち)(しよ)()れば、()(てい)(かつ)(ちゝ)(はか)つた(こと)()(くだ)さず、(ちゝ)(あた)へた(かね)(ひと)()(たく)した。(これ)()つて()れば、(さう)(だん)(すなはち)(けい)()(もん)(だい)にはあらざりし(ごと)くである。しかしわたくしは(なほ)(その)(こと)(あるひ)(けい)()(もん)(だい)(くわん)(けい)するにはあらざるかを(おも)ふ。

 (つい)で三(ぐわつ)二十三(にち)(てき)(さい)(しよ)()(てい)(あた)へ、()(てい)は四(ぐわつ)十五(にち)にこれに(こた)へた。(こう)(しや)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。(この)(しよ)()(がい)(さく)(かゝ)ることは、()(てい)(おとうと)(りやう)(すけ)が六(さい)になつてゐるより()すことが()()る。「良助、敬助義は庖瘡無恙御濟被成候由、御同然に目出度奉存候。乍去良助危症等有之、其上怪我等も仕候由、驚入候事に御座候。庖瘡之義は天運に候得者、輕重共に是非もなき事に候得共、怪我抔いたし候は如何之事に候哉。此後は決而小供に負戴致させ候義乍憚御無用に奉存候。嘸々御心勞奉察候。最早日數も過候而常體之由、先々安心仕候。(中略。)良助義もはや六歳に相成候得者、をわれ候はずとも可宜候。もし足にてもかよはく候哉如何と奉存候。」(りやう)(すけ)(めい)()(ねん)に七十五(さい)にして歿(ぼつ)した(ゆゑ)(その)(さい)(きやう)()(ねん)(あた)る。

 ()(てい)(さき)(ぼう)(こと)(ちゝ)(はか)り、(ちゝ)(その)(げん)()れて(きん)(りやう)(あた)へた。しかし()(てい)(しばら)(その)(こと)()めて(きん)(ひと)()(たく)した。(こと)(くわん)(けい)する(ところ)(すこぶる)(ぢゆう)(だい)なるものの(ごと)くである。わたくしは(しも)(しよ)(どく)の一(せつ)()かうとおもふ。

     その十

 ()(てい)(きやう)()()(がい)(とし)()さむと(ほつ)して(はた)さなかつた(こと)は、その(なに)(ごと)なるを()らぬが、(ちゝ)(てき)(さい)はこれを(ゆる)して(きん)(おく)つた。「黄白二圓御惠投難有拜受仕候。無據申上候處、御聞捨も不被下、毎々感謝仕候義に候。夫に家政も何歟と御逼窮に乍憚可有御座候。實に不本意之至、萬々恐入愧入候事に候。右御相談申上候義も、先書今頃取計可申と奉存候處、今少し見合候義も有之、先々暫時延引仕候。兎角にせひては事を誤ると申候得ば、萬端相考申候。夫故御惠投之金子も當分入用に無之候故、直樣新兵衞殿へ預け置申候。御返上可仕と奉存候得共、樣子未分明に候故、差控申候。猶又御了簡之程被仰聞可被下候。誠にわづか計之事に候得共、盆前近き候而は、門人等之謝義等もさつはりとれ不申候。しかし是は各別にとんぢやくに及不申候得共、今暫思案仕候事有之候故さしひかへ候。當地熟交之人新兵衞殿抔へも少しも口外いたし不申候。金子被下候義少々不審に思ひ候やうすに候。」

 (しん)()()(すゞ)()()(よう)で、()(てい)(きやう)()(おい)(まじはり)(むす)んだ(せう)(れん)(ちゝ)である。()(てい)()()()てより、(もつと)(した)しく(この)(ひと)(まじは)つたと()える。(まへ)(はゝ)()せた(しよ)(すゑ)にも、「尚又御めんどうながら、鈴木新兵衞殿御内室へ、をくれには候へども、御禮旁御文一通、どのやうにてもよろしく候間、御遣可被下候、それにてわたくし義理相濟候、まい/\ちそうになり申候、これも始終不快にをられ候、かしこ」と()つてある。(また)(ちゝ)()せた(この)(しよ)(はじめ)にも、「先月廿三日御状當五日相達、幸と其日芙蓉宅へ參合、直樣拜見仕候」と()つてある。()(てい)(しば/\)()(よう)()うて(その)(びやう)(さい)(くわん)(たい)()け、(あまつさ)()(よう)(いへ)(もつ)(きやう)(しよ)(とゞけ)(さき)となしてゐたのである。

 ()(てい)()(がい)(とし)に、(すで)()(さづ)(しや)()けてゐた。「門人等之謝義等もさつはりとれ不申候」の(ぶん)はこれを(しよう)して(あまり)ある。(しか)れば()(てい)(かめ)()(ぼう)(さい)(もん)(じん)ではなかつたであらう。

 (あるひ)(おも)ふに、()(てい)(たう)()(すで)(ほく)(いう)せむと(ほつ)し、(はん)(てん)()らざるがために、(かね)(ちゝ)()うたのではなからうか。(がく)(もん)(すで)()つた。(まと)()へは(かへ)りたくない。()(くわん)(かなら)ずしも(きら)はない。しかし(へい)()つて(たゞち)()きたくはない。(つか)ふるには(きみ)(えら)んで(つか)へたい。(いう)(れき)(ゆるやか)にこれが(はかりごと)をなす所以(ゆゑん)である。(ほく)(いう)()(へい)(いう)である。(この)(しん)()は「熟交之人」たる()(よう)(いへども)(あづか)()くことを()なかつた。(この)(すゐ)(さう)(あた)らずと(いへども)(とほ)からざるものではなからうか。

 ()(てい)()(がい)(ちゝ)()せた(しよ)には、(なほ)(めい)()(すう)(にん)()()えてゐる。()(しやう)(へい)(くわう)(じゆ)(ゐん)より(せう)(しゆつ)する。「薩摩赤崎源助も當年死去いたし候。志村藤藏も死去。聖堂御頼之人物、最早頼彌太郎一人に相成候。彌太郎拙者詩作ほめ申候。先書之中に寫し入御覽候。」

 わたくしは(しも)(あか)(ざき)()(むら)(らい)の三(にん)のために(すう)()(ちゆう)して()かうとおもふ。

     その十一

 (きやう)()()(がい)()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)には、(あか)(ざき)(げん)(すけ)()()えてゐる。(げん)(すけ)(さつ)()(じゆ)(しん)にして(ばく)()()された(かい)(もん)(てい)(かん)である。(その)(しやう)(でん)()(じつ)(かん)(かう)せらるべき()(とう)(ゆう)(きち)さんの(さつ)(しう)(めい)()(でん)()えてゐる。(かい)(もん)(きやう)()(じん)(じゆつ)(ぐわつ)()六十四(さい)にして歿(ぼつ)した。

 (あを)(やぎ)(とう)()(ぞく)(しよ)()(じん)(ぶつ)()に「文化中に六十餘にして歿す」と()つてあつて、(じん)(めい)()(しよ)はこれに(したが)つてゐるが、(あやまり)である。

 (つぎ)()(てい)()(むら)(とう)(ざう)()(はう)じてゐる。わたくしは(この)(ひと)(こと)(くわん)して(うたがひ)(いだ)いてゐる。わたくしの(ざう)する(しよ)(はん)(じん)(めい)()(しよ)には()(むら)(とう)(ざう)()(むら)(とう)(ざう)の二(にん)()せてゐて、(とう)(ざう)(もと)には(めい)()(だう)(がう)(ならびに)(どう)(はう)()()い。これに(はん)して(とう)(ざう)()(つの)(くに)()(ぐろ)(だう)(ひと)()(むら)(じやう)(おとうと)()(むら)(せき)(けい)(あに)で、()()(きよう)(がう)(とう)(しよ)となつてゐる。(とう)(ざう)(とう)(ざう)(みな)(せん)(だい)(じゆ)(ゐん)である。

 (また)(とう)(ざう)(もと)には(ばく)()()されたこと、(しつ)(めい)して()んだことがある。(とう)(ざう)(もと)には(これ)()(こと)(しる)さない。そして(かれ)(かば)(しま)(せき)(りやう)(ぶん)()り、(これ)(せん)(だい)()(でん)()つたのである。

 わたくしは(とう)(ざう)(とう)(ざう)とは(どう)(にん)ではなからうかとおもふ。(はた)して(しか)らば五(じやう)()(てつ)歿(ぼつ)した(とき)(せき)(けい)(こう)(きやう)(じゆん)(やう)()となつて(いへ)()いだのは、(とう)(しよ)()(きよう)(しつ)(めい)して(さきだ)歿(ぼつ)した(ゆゑ)であらう。五(じやう)()()(てつ)(せき)(けい)()(こう)(きやう)(せん)(だい)(ふう)(さう)(したが)ふ。

 ()(てい)(しよ)()(ごと)く、(とう)(ざう)(また)(きやう)()(ちゆう)歿(ぼつ)した。(せん)(だい)(ふう)(さう)には「二年壬戌五月廿四日歿、年五十一、葬仙臺新坂永昌寺」と()つてある。()し五(じやう)(おとうと)ならば、(あに)(さきだ)つこと二十九(ねん)であつた。五(じやう)(てん)(ぱう)(ねん)(ぐわつ)十八(にち)歿(ぼつ)した。

 ()(てい)()(がい)(しよ)には、(あか)(ざき)()(むら)()して(らい)()()(らう)(ひとり)(そん)じてゐると()つてある。(しゆん)(すゐ)()()(らう)(とき)(とし)五十八であつた。

 (しゆん)(すゐ)()(てい)()(しよう)(さん)した。(しよ)(どく)()(ところ)(したが)へば、()(てい)(かつ)(しゆん)(すゐ)(ひやう)した()稿(かう)(ちゝ)()()したことがある。

 (つぎ)()(てい)()()(うぢ)(こと)()つてゐる。(しよ)(どく)(ちゆう)(てき)(さい)(わか)()(すゞ)()()(よう)(おく)つたことを()して、(その)(しも)にかう()つてある。「殘りは如仰古賀先生へも差上可申候。當春は古賀へも彼是と大に無沙汰に打過候。何樣近日に參手土産に相成候而至極よろしく候。」

 ()()(せん)(せい)(せい)()(ぼく)であらう。(この)(とし)(せい)()(とし)五十四、(はじめ)(けい)(しやう)(へい)(くわう)(かう)じてより十三(ねん)(ばく)()(じゆ)(ゐん)となつてより九(ねん)である。()(てい)(のち)(その)(ちやう)()(こく)(だう)(しん)(ぜん)になつた。

 (つぎ)()(てい)(すゞ)()()(よう)()()(こと)()つてゐる。「芙蓉も畫事大分行はれ候。文藏も隨分壯健に候。妻にても迎へ候やうに申候。」

 (ぶん)(ざう)(おそら)くは(せう)(れん)(ぞく)(しよう)であらう。(とき)(ちゝ)()(よう)(よう)五十五、()(せう)(れん)(きよう)二十五であつた。(せう)(れん)()(てい)(この)(しよ)(つく)つた四(ぐわつ)十五(にち)(のち)四十六(にち)にして()(しん)のために(さう)(せい)した。(その)歿(ぼつ)(じつ)は六(ぐわつ)()である。(この)(とし)は四(ぐわつ)(せう)、五(ぐわつ)(だい)、六(ぐわつ)(せう)であつた。

     その十二

 ()(てい)(きやう)()()(がい)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)には、(つぎ)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()()えてゐる。「山口徴二郎よりも早春便有之候而より來書も無之候。如何に候哉。もし山田へでも御赴之義も候はゞ、御尋可被下候。」(これ)()(てい)(きやう)()(おい)(まじはり)(てい)した(あふ)(こう)(かく)であらう。(つう)(しよう)(ちよう)()(らう)(はじめ)(こゝ)()えてゐる。(あふ)(こう)()()(きやう)()にゐたと()える。

 (じん)(めい)(しよ)(ちゆう)()えたるものは(おほむ)(かく)(ごと)きに()ぎない。(まと)()(しん)(せき)()(きう)(ちゆう)(なほ)「中西御母君」は歿(ぼつ)し、「道快樣」は(けつ)(ぞく)なる「彌八悴」を(やしな)つて()とし、「喜代助」は(これ)()つて(さいはひ)()、「彌八妻」は歿(ぼつ)し、「兵吉」の(ぢよ)(とう)(かゝ)つて()した。(みな)(だい)(くわん)(けい)なきものゆゑ(せい)(りやく)(したが)ふ。

 (さい)()に一()(ろく)(そん)して()(じつ)(さん)(せう)()すべきものがある。(すなはち)(はく)(あい)(しん)(かんの)(じよ)(こと)である。「博愛心鑑序乍御勞煩御吟味可被下奉頼候。美濃紙半枚許に認有之候。」(あん)ずるに(これ)()(てい)(かつ)(さう)する(ところ)(ぶん)()()稿(かう)には()えない。

 ()(がい)(ちゝ)()する(しよ)(こと)(こゝ)(をは)る。

 六(ぐわつ)()(すゞ)()(せう)(れん)()(しん)(かゝ)つて歿(ぼつ)した。(とし)(わづか)に廿五であつた。()(てい)の「題小蓮殘香集尾」にも、「鳴乎遠恥不幸短命、享年纔廿有五」と()つてある。(せう)(れん)()(きよう)(あざな)(ゑん)()(つう)(しよう)(ぶん)(ざう)であつた。(また)(おな)(ひと)の「祭木遠恥文」にも「年紀差一、登策同科」と()ひ、「君長予一歳」と(ちゆう)してある。(あん)(えい)(ねん)(うまれ)()(てい)は廿四(さい)になつてゐたのである。

 ()(てい)(せう)(れん)(きやう)()(あひ)()つたのは、その(はじめ)(きやう)()()つた(くわん)(せい)(ねん)である。()(がい)(ざん)(かう)(しふ)(ばつ)して、「六年前、余遊學在京師、會木遠恥自江戸來、一見稱知己、三冬同硯席」と()つてゐる。

 ()(てい)(くわん)(せい)(ねん)十二(ぐわつ)()()()(せい)した(とき)(せう)(れん)(ともな)つて(きやう)()()た。(ざん)(かう)(しふ)(ばつ)には、「余歸省父母乎志州、遠恥偕與行、其往還所經歴、攝和江勢諸州名山勝區、古蹟遺蹤、靡處不到」と()ひ、(さい)(ぶん)には、「我覲父母、君謀同征、躡蹻擔簦、山驛水程、登於叡岳、觀乎琶湖、踰乎仙坂、遊於神都」と()つてある。

 ()(きやう)()()つたのは(せう)(れん)である。(つい)()(てい)(また)(きやう)(かへ)つた。(ばつ)に「無幾遠恥東歸、余亦相踵歸家郷」と()つてある。()(てい)(きやう)()()つて()()()(とき)、一たび(まと)()(いへ)(よぎ)つたことは(すゐ)()するに(かた)くないが、()(てい)(こゝ)(みづか)(かた)つてゐるのである。(その)(しも)に「別來踰年、余亦遂來于江戸」と()ふを()れば、(きやう)()(しん)(いう)(せう)(れん)(きやう)()より()()(かへ)り、(また)()(てい)(おな)(とし)(きやう)()より(まと)()(かへ)り、(つい)(じん)(じゆつ)()()()たのではなからうか。()(ざん)(かう)(しふ)(けん)したら、(あるひ)(ねん)(げつ)(ちよう)すべき()があるかも()れない。

 ()(てい)()()()(せう)(れん)(さい)(くわい)し、(その)(ちゝ)()(よう)(したし)むに(いた)つた。その(すゞ)()(うぢ)(いへ)(わう)(らい)することの(しきり)であつたことは、(かみ)()いた()(つう)(かん)(どく)()つて()るべきである。(ぶん)(くわ)(かふ)(じゆつ)(しよ)()(じん)(めい)(ろく)(扇面亭編、龜田鵬齋序)を(けん)するに、「畫家、鈴木芙蓉、名雍、字文凞、又號老蓮、信濃人、深川三角油堀」と()つてある。()(てい)(わう)(らい)したのは(この)(ふか)(がは)(いへ)()(しか)らずんば()(よう)(じん)(じゆつ)()(がい)(ころ)より(かふ)(じゆつ)(いた)(あひだ)(その)(きよ)(うつ)したこととなるであらう。

     その十三

 ()(てい)(すゞ)()()()()ける、(しん)(ぢつ)(じやう)()(ごと)くであつたから、(せう)(れん)(にはか)()んで(たちま)()した(とき)()(てい)(つう)(せき)(じん)(じやう)でなかつただらう。二(げつ)(まへ)には(らう)(れん)(その)()のために(よめ)(むか)へむとしてゐた。(これ)(この)(ねん)(せう)(さい)()(いたづら)(ぞく)せられた(いく)()(のぞみ)の一つになつたのである。(ざん)(かう)(しふ)(ばつ)の「方行萬里、出門車軸折」は、(もち)(きた)つて(せつ)(じつ)である。(さい)(ぶん)の「入君之室、不見君顏、卷帙堆几、君胡不繙、毫管滿架、君胡不援」も、(けつ)して(きよ)(こう)ではなからう。

 (これ)よりわたくしの(じよ)()()(てい)()(へい)(ほく)(いう)(こと)()らなくてはならない。(はじ)めわたくしは(ほく)(いう)(もつ)()(ねん)(かふ)()(とし)となした。しかし(いま)はその()(がい)なることを()つてゐる。

 わたくしは(かつ)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()()(せう)()(だい)して五()(ちやう)より「下毛路向東、十月朔風吹」の()()いて、()(てい)(あふ)(こう)(にん)が十(ぐわつ)下野(しもつけ)より(とう)(かう)したことを(しよう)した。(おな)()()いて(りよ)(てい)(かむが)ふるに、二(にん)()()(じやう)(しほ)(がま)(とみ)(やま)(いしの)(まき)(たか)(だて)(ちゆう)(そん)()(いづみ)(じやう)( の)(せき)(けい)(れき)し、()()常陸(ひたち)潮來(いたこ)(せう)(りう)した。わたくしの()(ちゆう)より(もと)()(ところ)(かく)(ごと)きに()ぎなかつた。

 頃日(このごろ)(はま)()(とも)(さぶ)(らう)さんは(びん)()(わう)(らい)し、()()(じん)(ぐう)(ぶん)()()うて(あふ)(こう)(とう)(あう)()(かう)(けみ)した。(これ)より()(かう)がわたくし()(なに)(ごと)(をし)ふるかを一()しよう。

 (あふ)(こう)(ほく)(いう)()(のぼ)つたのは、()(がい)(ぐわつ)二十九(にち)であつた。()(かう)に「癸亥八月廿九日故人餞余於南岳樓」と()つてある。

 (これ)より(しも)()(かう)()(ところ)は、(はま)()(うぢ)(かむが)へて(つき)()(あやま)つてゐるものとなした。()(かう)の十(ぐわつ)(じつ)は九(ぐわつ)なるが(ごと)くである。

 十(ぐわつ)(九(ぐわつ))の(でう)(しも)(ぶん)がある。「十三日館于江戸。故人北子讓來訪。本志州人。與余有舊。余將遊奧。要與倶。子讓方被磐城辟。難之。余謂曰。昔者孟襄陽。與故人飮。違韓朝宗期。終身不達而不悔。子何以此辭。爲遂定約。」(あふ)(こう)()(ところ)()()(しん)(たう)(じよ)(ぶん)(げい)(れつ)(でん)()えてゐる。「孟浩然、字浩然。襄州襄陽人。少好節義。喜振人患難。隱鹿門山。年四十。乃游京師。嘗於大學賦詩。一座嗟伏。無敢抗。張九齡、王維雅稱道之。維私邀入内署。俄而玄宗至。浩然匿牀下。維以實對。帝喜曰。朕聞其人。而未見也。何懼而匿。詔浩然出。帝問其詩。浩然再拜。自誦所爲。至不才明主棄之句。帝曰卿不求仕。而朕未嘗棄卿。奈何誣我。因放還。採訪使韓朝宗約浩然。偕至京師。欲薦諸朝。會故人至。劇飮歡甚。或曰。君與韓公有期。浩然叱曰。業已飮。遑恤他。卒不赴。朝宗怒辭行。浩然不悔也。」(きう)(たう)(じよ)(でん)(わづか)に四十四()である。(まう)(のち)(けい)(しう)(じゆう)()となり、(かい)(げん)(すゑ)()(はい)()んで(そつ)した。(あふ)(こう)(ほう)(でう)(もつ)(まう)()したのである。

 ()(てい)(ほく)(いう)()(へい)(ため)だと()ふことは、(さん)(やう)(すで)()つてゐる。「一藩侯欲聘致之。會聯玉來。偕遊奧。以避之。」しかし()(てい)(へい)せむと(ほつ)したものゝ(たれ)なるかを(つまびらか)にしない。そのこれを()するものは(ひとり)(あふ)(こう)()(かう)あるのみである。「子讓方被磐城辟」と()ふものが(すなはち)(これ)である。

 (これ)()つて()れば、()(てい)(へい)せむと(ほつ)したものは(いは)()(こう)である。()(つの)(くに)(いは)()(ごほり)(いは)()(たひら)(じやう)(しゆ)は、(はう)(れき)(ねん)より(ぶん)(くわ)(ねん)(いた)るまで、(あん)(どう)(つし)(まの)(かみ)(のぶ)(しげ)であつた。(のぶ)(しげ)は五(まん)(ごく)()んで、()()(かみ)()(しき)(だい)(みやう)(こう)()にあつた。

     その十四

 ()(てい)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)とが(きやう)()()(がい)(ぐわつ)(まさ)()()(はつ)せむとした(とき)(たま/\)(かは)(さき)(けい)(けん)()()()てゐた。(けい)(けん)は二(にん)(やなぎ)(ばし)(せん)した。(とう)(あう)()(かう)に「十四日(九月)夜、以良佐留江戸、酌別于柳橋酒樓」と()つてある。(あふ)(こう)()がある。「癸亥十月(九月)十四日。河良佐、北子讓、田仲雄及余、飮柳橋酒樓、子讓與余別三年、相見喜甚、約同遊松島、以良佐當竣事先還、是夜叙別、分柳橋酌別四字爲韻、余得酌字。松島風烟懸遠想。柳橋雨月對離酌。千里雖從別在今。三年復見情如昨。故人東去路漫々。斷雁南歸雲漠々。岐蘇棧道誰囘首。微雪滿蓑迷隕蘀。」(つの)()(ちゆう)(ゆう)(また)(とも)(とも)(ほく)(いう)することとなつてゐるのである。(ちゆう)(ゆう)()(けい)()である。

 九(ぐわつ)十七(にち)()(てい)()()()(はつ)して(ほく)(かう)した。一(かう)の一の(せき)()たのは十(ぐわつ)()である。そして二十五(にち)には(みな)(かへ)つて()()にゐた。

 十(ぐわつ)三十(にち)()(てい)(あふ)(こう)(しな)(がは)(しゆ)(ろう)(わかれ)(じよ)した。()(かう)(いは)く。「卅日。雨中別子讓于品川酒店。乘晴更酌。子讓赴磐城。官期在近。磐城前日所道。距江戸五十里。明日復勞各天夢想。不得不泣下也。良佐以十月初旬。歸自木曾道。余(凹巷)歸家。實仲冬十一日也。」(あふ)(こう)に「品川留別子讓」の()がある。「南州久客宦遊人。東奧行程共數旬。千里相隨疑是夢。一宵將別恐非眞。海郷疲馬嘶憐夕。山驛寒燈語到晨。膓斷從今顏色遠。離亭坐雨品川濱。」

 十二(ぐわつ)二十九(にち)()(てい)(ふね)(すみ)()(がは)(うか)べて(あそ)んだ。(こと)(せふ)(ひつ)()えてゐる。()稿(かう)(けみ)するに、(たう)()(どう)(いう)(しや)(かは)(さき)(けい)(けん)(いけ)(がみ)(りん)(さい)の二(にん)で、(かう)(ふところ)にして()(しう)(ちゆう)()いたのは(りん)(さい)である。()(いん)にかう()つてある。「余昔在都下。社友河良佐、池隣哉祗役自勢南至。一日快雪。余與二子泛舟墨水遊賞。酒酣、隣哉出所齎香爇爐。縷烟裊裊。如坐畫圖中。實享和癸亥十二月除日也。」(かみ)()いた(とう)(あう)()(かう)()るに、(けい)(けん)は十(ぐわつ)(しよ)(じゆん)()()(はつ)して()()(かへ)つた。その十二(ぐわつ)()()にあるは(あやし)むべきが(ごと)くである。しかし(この)(ひと)(らい)(わう)(しきり)であつたことは、(ちや)(ざん)(しふ)(とう)にも()えてゐる。(また)()(てい)(いは)()(おもむ)かむとすと()つてあるが、(つひ)()かなかつたと()える。

 (この)(とし)()(がい)には()(てい)は二十四(さい)であつた。

 (ぶん)(くわ)(ぐわん)(ねん)には()(てい)が五(ぐわつ)()(さしの)(くに)羽生(はにふ)にゐた。(ぎやう)(だう)(さん)(かう)()に「文化紀元夏五月、余再來客武州羽生里」と()つてある。()()()ること(わづか)に十六()()で、(もん)()(せい)(いへ)があつたのだから、(これ)より(さき)にも一(いう)したと()える。七(ぐわつ)十七(にち)()(てい)下野(しもつけ)(ぎやう)(だう)(さん)(のぼ)らむがために、羽生(はにふ)(はつ)した。(どう)(かう)(しや)は二(にん)、「井説、字仲健、井常、字子明、皆羽生人」と()つてある。()()(がは)(わた)り、(うめ)(はら)(なか)(たに)(ちや)(がまの)(もり)(おほ)(しま)()(ほり)()(いた)つた。()(りん)()のある(むら)である。(たて)(ばやし)(をか)()(たか)()日向(ひなた)(たか)(まつ)()()()(やな)()()(わたら)()(がは)(わた)り、(よけ)(かは)(わた)つて(あし)(かゞ)宿(しゆく)した。十八(にち)(あし)(かゞ)(がく)(かう)()ひ、(つき)()()(ぎやう)(だう)(さん)(のぼ)り、(じやう)(いん)()宿(しゆく)した。十九(にち)(おほ)(いは)(やま)(のぼ)り、()(しや)(もん)(だう)(いこ)ひ、(おほ)(いは)()(づま)(ざか)()て、(ふたゝ)(よけ)(かは)(わた)り、和泉(いづみ)(なか)(ざと)(しぶ)(たれ)(あがた)(はね)(かり)()()()(うづら)日向(ひなた)(つか)()(くち)(たて)(ばやし)()ぎて羽生(はにふ)(かへ)つた。(ぎやう)(だう)(さん)(かう)()()稿(かう)()(さい)してある。(すゑ)(ぼう)(さい)()(ゑん)(ひやう)がある。(ぼう)(さい)は「子讓、名讓、號霞亭、五瀬人、少遊京師、受學於漠園先生、東來荏土、以儒爲業、余山水友也」と()つてゐる。その()(てい)(とも)として(ぐう)したことは(あきらか)である。(この)羽生(はにふ)(いう)(のぞ)(ほか)、わたくしは(こと)(この)(とし)()くべきものを()ない。()(てい)(かふ)()二十五(さい)であつた。

 二(ねん)()(てい)相模(さがみ)上總(かづさ)(あそ)んだ(とし)である。(せふ)(ひつ)()るに、十二(ぐわつ)には上總(かづさの)(くに)(ゆの)()にゐた。(いま)(きみ)()(ごほり)(さだ)(もと)(むら)である。(この)(とし)にも(また)(しん)()(れう)()るべきものが()い。()(てい)(おつ)(ちう)二十六(さい)であつた。

     その十五

 (ぶん)(くわ)(ねん)()(てい)(ぜん)(ねん)相模(さがみ)上總(かづさ)(あそ)び、(また)(まさ)(しな)()(ゑち)()(あそ)ばむとする(とき)であつた。

 ()(てい)(この)(とし)(ぐわつ)()(しよ)(ちゝ)(てき)(さい)()せた。(しよ)(この)(とし)(つく)られた(しよう)は、三(ぐわつ)()()(たい)(くわ)()してゐると、(ふる)()(せき)(やう)()()してゐるとの二つを()()るのである。()()(たい)(くわ)は三(ぐわつ)()(しば)(くるま)(ちやう)より()(くわ)()である。(せき)(やう)(こと)(しも)(ちゆう)する。(しよ)(まと)()(しよ)(どく)の一である。

 (この)(へい)(いん)(とし)には()(てい)(かめ)()(ぼう)(さい)(じゆく)にゐたことが(たしか)である。(これ)(この)(しよ)のわたくしに(をし)へた(さい)(えう)(きん)()(けん)である。

 (この)(とし)には三(ぐわつ)()(たい)(くわ)(のち)、四(ぐわつ)()に「ぼや」があつた。「一昨日も私罷在候近邊上野下山崎町出火に而三町四方ほどやけ申候。とかく火災のはなしのみにてうるさき事に御坐候。乍併最早四月にも相成候故、各別の事も有まじく候。」(やま)(さき)(ちやう)(いま)(まん)(ねん)(ちやう)である。()(てい)はこれを(きん)(ぺん)(しよう)してゐる。

 ()(てい)(ほく)(いう)(けい)(くわく)(かた)つて、さてかう()つてゐる。「御便はやはり龜田鵬齋先生迄被遊可被下候。」(また)(しよ)(ちゆう)(べつ)()(ぎれ)()()めてあつて、それに「江戸下谷金杉中村龜田文左衞門内北條讓四郎」と(しよ)してある。(これ)()(てい)(ねん)のために(ちゝ)(しめ)した(あて)()である。

 (かめ)()(じゆく)()()(いま)のいづれの()(あた)るか、わたくしは(くは)しくは()らない。(した)()(かな)(すぎ)(なか)(むら)(おそら)くは(たう)()(おほやけ)(しよう)()であつただらう。そして()(ぞく)(たん)()(ぎし)(かめ)()()つてゐたであらう。(ぶん)(くわ)(しよ)()(じん)(めい)(ろく)には「學者詩書畫、鵬齋、龜田文左衞門、名長興、字穉龍、又號善身堂、下谷根岸」と()してある。()(てい)(かめ)()(もと)にゐて、(やま)(さき)(ちやう)(きん)(ぺん)(しよう)したのも、げにもと(うなづ)かれる。(かつ)()(てい)(すで)(かめ)()(もと)にゐて()()たことも、(ぶん)(ちゆう)の「やはり」に()つて(しよう)することが()()る。

 ()(てい)(のち)(かん)(なべ)より(ぼう)(さい)()()せて、(ぼう)(さい)(きよ)()()(かう)()つてゐる。「夕陽村居寄鵬齋先生。曾期歳晩社爲隣。何事離居寂寞濱。海内論交常自許。尊前吐氣與誰親。夕陽村裏三秋日。時雨岡頭十月春。千里相思難命駕。恨吾長作負心人。」しぐれが(をか)はしぐれの(まつ)のある(ところ)で、(かな)(すぎ)(なか)(むら)(はう)()(ほゞ)(おも)ふべきである。「十月春」の三()(また)(とう)(かん)(かん)(くわ)すべきではないが、わたくしは(こと)(あま)りに(おく)(そく)(わた)るを()けて(あへ)()はない。

 (つぎ)にわたくしは(しよ)(ちゆう)より(だい)(ほく)(いう)(すなはち)(てい)(ばう)(ほく)(いう)(りよ)(てい)()(いだ)す。「私も去年御噂申上候通、先當分此表は騷々敷も有之候故、暫時越後へ參り可申歎と奉存候。もつとも芙蓉子の參り候處とは方角違に御坐候。同道も一兩人可有之候。先最初參り候處は越後新潟と申處に御坐候。夫より高田邊迄參り候積りに御坐候。(中略。)越後には鵬齋の門人多く候故、甚たよりいたしよく候。」()(じつ)(ほく)(いう)(てき)稿(かう)()ることを()たなら、(けい)(くわく)(じつ)()との(どう)()(べん)ずることが()()るであらう。

     その十六

 わたくしは(つぎ)()(てい)(ぶん)(くわ)(へい)(いん)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)(うち)より、(しよ)(めい)(りう)(どう)(せい)(うかゞ)ふべき(ぶん)(せう)(しゆつ)しようとおもふ。

 (その)一は(かめ)()()()である。「龜田氏火災に免かれ候而甚相悦申候。これも此間子息三藏子相應之女子有之、新婚相濟候。」

 (ぼう)(さい)(かな)(すぎ)(いへ)(へい)(いん)()(まぬか)れた。三(ざう)(ぼう)(さい)(やう)()(りよう)(らい)(ちやう)()である。(りよう)(らい)()(むか)へたのは(この)(ころ)(こと)であつたと()える。(ぼう)(さい)(けい)()()()(とり)()(とり)(よめ)であつた。(この)(とし)(ぼう)(さい)五十五(さい)(りよう)(らい)二十九(さい)であつた、「これも」の()(かみ)(なに)(びと)かの(こん)(いん)(こと)()つたものゝ(ごと)くに()まれる。しかしこれに(おう)ずる(ぶん)()いてゐる。(この)(しよ)(はじめ)()れて(うしな)はれてゐるから、(あるひ)(かく)(ごと)(ぶん)(うしな)はれた(なか)にあつたかも()れない。

 (その)二は(ふる)()(せき)(やう)である。「細川儒臣古屋十次郎此間死去いたし候。」(くま)(もと)(うる)(さん)(まち)(ふる)()()()(もん)(やす)(ちか)()ふものが()んでゐて、それに(てい)(すけ)(ぢゆう)()(らう)(きやう)(だい)()があつた。(てい)(すけ)(あい)(じつ)(さい)(てい)で、(くま)(もと)()んで()()(わう)(らい)し、(てん)(めい)(ねん)に六十八(さい)歿(ぼつ)した。(ぢゆう)()(らう)(せき)(やう)(れき)で、()()()んで(くま)(もと)(わう)(らい)し、(ぶん)(くわ)(ねん)(ぐわつ)(さく)に七十三(さい)歿(ぼつ)した。(れき)(てい)(じゆん)(やう)()である。(れき)(いへ)(ぶん)(くわ)(しよ)()(じん)(めい)録に「日本橋十九文横町」と()つてある。()(てい)(しよ)(せき)(やう)歿(ぼつ)()(じつ)(つく)られた。

 (その)三は(すゞ)()()(よう)である。「鈴木芙蓉子、これはやけ不申候得共、此節弟子兩人相つれ候而越後へ參られ候よし。」()(よう)()(まぬか)れたことを(おも)へば、(あるひ)(すで)(ふか)(がは)()んでゐたのではなからうか。(へい)(いん)に二(てい)()()(ゑち)()(あそ)んだことが()られる。

 (その)四は(おそら)くは(ます)()(きん)(さい)であらう。「勤齋も越後に參り申候。」()(たう)(あざな)(ばん)(けい)(つう)(しよう)(ぢゆう)(ざう)(した)()和泉(いづみ)(ばし)(どほり)()んだ(てん)(こく)()で、(また)(ぶん)(くわ)(しよ)()(じん)(めい)(ろく)()えてゐる。(これ)(えん)(せう)(まぬか)れなかつたことゝ(おも)はれる。

 (へい)(いん)()()(たい)(くわ)(しよ)(しよ)()(さい)せられてはゐるが、わたくしは(なほ)()(てい)(しよ)(ちゆう)より(すう)(かう)(せう)することの(まつた)()(よう)なるにあらざるべきを(おも)ふ。「此度の大火に而ます/\江戸の大そうなる事相しれ候。三里餘に横七八丁より一里許もやけ候得共、畢竟十分之三分許に御坐候。越後屋白木などは直に翌日六日商賣はじめ候よし。淺草門跡のやけ灰三百兩に相成よし、尤金物釘の類に直段有之候而の事に御坐候。木挽町芝居やけ、堺町ふきや町は殘り候。しかしいづれも此節は皆休み居申候。」「災後は世間一統騷敷、于今一同相片付不申候。(中略。)乍併(中略)町家も五分通はかり(假)宅出來居候。乍去今にやけ原同然に御坐候。困窮の者共御たすけのため公儀より上野山下、本庄、芝赤羽根、護持院原、神田橋外、處々に小屋がけ出來候而、夫にをき候而食物は町々たきだし下され候。是も當四日迄に段々引拂ひ申候。尤此度之大火に付大工日雇之類はかへつて仕合のよしに候。江戸近國並に上方筋等一統のうるをひには相成候事に御坐候。御老中方へは公儀より一萬兩宛之拜借被仰付候。薩州侯は當秋琉球人參り候に付、別而普請相いそぎ候よし、大體二十萬兩位之入用に相聞え候。江戸に相限らず、尾州、津島もやけ、勢州桑名、阿波の徳島等皆々餘程之火災に相聞え候。」(りう)(きう)使(つかひ)は十一(ぐわつ)(いた)つて(わづか)()た。

     その十七

 ()(てい)(ぶん)(くわ)(へい)(いん)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)には、(なほ)()(てい)(りつ)(けい)(けう)(いく)する(はう)(しん)(しめ)してある。「大助素讀等いたし候と奉存候。何卒乍御面倒傷寒論を最初より少々宛御教授可被下候。大體空によみ候位には被成置被下度候。大方今年は十二歳に相成候と覺え申候。定而成長可仕とおもひやられ候。」(この)()()(てい)(ひろ)(をか)(ぶん)(たい)(きう)(もん)(じん)であつたことを(おも)はしめる。

 (この)(とし)(へい)(いん)(かみ)()つた(ごと)く、()(てい)(まさ)(しな)()(ゑち)()(あそ)ばむとする(とき)であつた。(この)(いう)()(おそら)くは()(てい)(てき)稿(かう)()せてあるであらう。(てき)稿(かう)()(かん)(ぽん)があるのに、わたくしは(いま)(ぐう)(もく)しない。(ほく)(いう)(にち)()(だう)(てい)(つまびらか)にすることを()所以(ゆゑん)である。

 わたくしは()(てい)(せふ)(ひつ)()んで(てき)稿(かう)()まない。しかし(ぼう)(さい)(あふ)(こう)(ほく)(りく)(いう)稿(かう)(じよ)して、()(てい)(ほく)(いう)(もつ)()(ねん)(てい)(ばう)(こと)となしてゐる。(いま)(さい)(かん)(だう)()稿(かう)(けみ)すれば、()(てい)(はや)(へい)(いん)(ぐわつ)(ゑち)()にあつた。(いう)(へい)(いん)より(てい)(ばう)(わた)つたのであらう。そしてその()()(はつ)したのは(おそら)くは(へい)(いん)()(しう)(かう)でもあつただらうか。

 (ほく)(いう)(せき)()(ちゆう)()(えう)(せう)(おう)じたものである。(ちゆう)()()(せい)(みん)(つう)(しよう)()()(すけ)(ゑち)(ごの)(くに)(かん)(ばら)(ごほり)(いばら)()()(むら)(ひと)である。(はじ)めわたくしは()(てい)(きやう)()にある(とき)(ちゆう)()(まじはり)(むす)んだことゝ()つた。(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()()(せう)()(だい)する()に、「憶曾長孺宅、邀君奏塤箎、豪爽人倶逝、長孺及仲彝」と()ひ、(しも)(たゞち)に「飄忽君東去、去舟汎不維」を(もつ)(せつ)してある(ゆゑ)である。(いま)にして(おも)へば(この)(がう)(さう)の十()(さふ)(じよ)()ぎずして、(ちやう)(じゆ)()()くに(あた)つて、(あは)せて(ちゆう)()(およ)んだものではなからうか。

 ()稿(かう)()する「關根仲彝墓誌」にはかう()つてある。「仲彝爲人。温柔愛人。性解風流。暇則品茶評香。逍遙乎泉石花竹之間。又好丹青之技。揮寫自娯。毎謂人生不可不讀書講學。而僻郷乏師。莫所就問。常以爲憾。嘗聞予之客江戸。千里馳書。使人介請其北下。予諾之。久而不果。仲彝掃榻。日候予或不至。至神籤卜之。其篤志亦如此云。」(これ)()つて()れば、(ちゆう)()(いま)(かつ)(りよ)(もん)()でなかつた(ごと)くである。

 ()(てい)(ゑち)()()つて、(ちゆう)()(いばら)()()(むら)(いへ)(やど)つた。「予始踵其家。仲彝大喜。揖予執弟子之禮。自此與其弟錫。並案對牀。朝誦夕讀。日進受業。兼以誘後進爲務。適逢中秋。把酒玩月。分韻賦詩。仲彝作七絶。」()(てい)は八(ぐわつ)十五(にち)には(すで)(せき)()(うぢ)(いへ)にあつた。

 (すで)にして(ちゆう)()(にはか)(やまひ)(かゝ)つて()んだ。「居數日。偶感微疾。猶在我側。予戒以宜愼調護。其翌予出寢。碑僕驚慌告急。予就臥内視之。僵然偃伏乎被褥。扶起之。口噤不能言。但微笑而已。家人馳驟。百方祈治。然神益虚。氣益耗。竟不可救。屬絋之際。予親臨之。父母坐於首。妻兒坐於足側。愴然無聊。攀慕罔極。視之簌簌泣下不可禁。是爲文化三年丙寅八月晦日。距生安永八年己亥九月某日。享年二十有八歳。」()(てい)(ちゆう)()とは八(ぐわつ)(はじめ)(あひ)()て、(いま)(その)(つき)()へずして()(べつ)したらしい。(すゞ)()(せう)(れん)()ひ、(せき)()(ちゆう)()()ひ、()(てい)(いう)(じん)(てい)()には()(かう)(ひと)(おほ)かつた。

     その十八

 (ぶん)(くわ)(ねん)(ぐわつ)()(てい)(ゑち)(ごの)(くに)(いばら)()()(むら)(せき)()(うぢ)にゐたことは、(せふ)(ひつ)()えてゐる。(これ)(その)(とも)(ちゆう)()(すで)歿(ぼつ)した(のち)である。

 (ちゆう)()(ちゝ)(せき)()()()(もん)(えい)()は、(しよ)(ざい)(たけ)()(うぢ)(ちゆう)()(のこ)して()つた(のち)(けい)(さい)(よし)(かは)(うぢ)をしてこれを(きく)(いく)せしめ、(ちやう)ずるに(およ)んで「分産別居」せしめてゐたと()ふ。(あん)ずるに(ぜん)(ねん)(へい)(いん)()(てい)(やど)つてゐた(いへ)(ちゆう)()(いへ)であつた。(しか)るに(へい)(いん)(ぐわつ)(くわい)(ちゆう)()(きふ)()んで歿(ぼつ)した(とき)(あと)()()()(うぢ)()(ぢよ)(にん)とが(のこ)つた。「男女五人。長曰達太郎。甫六歳。末産雙男。尚在襁褓。」()(てい)(この)(いへ)(とゞ)まつて(とし)()すべきではない。

 (はじ)(ちゆう)()()(てい)(いへ)(むか)へた(とき)(おとうと)(せき)(とも)()(てい)(をしへ)()けた。(せき)(えい)()(いへ)より()(かう)(せき)(れつ)したことであらう。(すで)にして(ちゆう)()歿(ぼつ)した。(その)(ちゝ)(えい)()(かなら)ずや()(てい)(そう)()(しやう)じて、(せき)をして(げふ)()けしめたであらう。(この)(ゆゑ)(てい)(ばう)(ぐわつ)()(てい)(ぐう)してゐた(いへ)(えい)()(いへ)であらう。(せふ)(ひつ)(せき)()(うぢ)(しよ)して、(ちゆう)()()()せぬのも、(おそら)くはこれがためであらう。

 (こゝ)にわたくしは一()()()して()きたい。(かみ)()つた(ごと)く、(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()()(せう)()(だい)()(ちやう)(じゆ)()()いて、(あは)せて(ちゆう)()()(およ)んだ。(ちやう)(じゆ)はわたくしは(はじ)めその(なん)(ぴと)なるを(つまびらか)にせなかつた。その(らい)(しゆ)()(みづ)(へい)八なるべきことを()いたのは、(ほり)()(こく)(れい)さんの(たまもの)である。(けい)(じつ)(はま)()(うぢ)(しよ)(ざう)(かは)(さき)(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)(けみ)するに、(ぶん)(くわ)十一(ねん)(かふ)(じゆつ)(くわん)(ちゆう)に「故眉山先生、名公彧、字長孺」の(ぶん)がある。(をし)むらくは(その)(うぢ)()せない。()(さん)()(みづ)(うぢ)の一(がう)()(なほ)(かんが)ふべきである。

 (だい)(ほく)(いう)(とき)()(てい)(ねん)(れい)(へい)(いん)二十七(さい)(てい)(ばう)廿八(さい)であつた。

 (ぶん)(くわ)(ねん)()(てい)()(きやう)(まと)()(かへ)つた(とし)である。(こと)(せふ)(ひつ)の「經八年南歸」の(ぶん)(れん)(けい)してゐて、わたくしの(かつ)(もつと)(けつ)することを(かた)んじた(ところ)である。(けい)(ねん)()(ごと)(けい)(さん)には二(やう)(はふ)(もち)ゐることが()()る。(いま)(きやう)()()(げん)(しん)(いう)(もつ)()(てい)(きやう)()()つた(とし)とする。そして(この)(しん)(いう)(とし)(つら)ねて(さん)するときは(けい)(ねん)(ぶん)(くわ)(ねん)()(しん)となり、(この)(しん)(いう)(とし)(はな)して(さん)するときは六(ねん)()()となる。わたくしは(はん)(ぷく)()(りよ)した(のち)()(てい)(たま/\)(れん)(さん)(はふ)(したが)つたものとなして()るに(いた)つた。

 ()(てい)は四(ねん)(てい)(ばう)(ゑち)()にあつた。わたくしの(さい)(しよ)(もと)()(その)()(せう)(そく)は、()(てい)が七(ねん)(かう)()()()(はやし)(ざき)にあつて(せふ)(ひつ)(こく)せしめたことであつた。(その)(ちゆう)(かん)には(じつ)()(しん)()()の二(ねん)(かい)(ざい)してゐる。

 (すで)にしてわたくしは()(てい)(はやし)(ざき)にあつて(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(せん)したことを()つた。そして(これ)(かなら)(あふ)(こう)()()(いう)()(えん)でなくてはならない。()(てい)は六(ねん)()()(すで)(はやし)(ざき)にゐなくてはならない。

 わたくしは(のち)(さら)()()よりして()(しん)(さかのぼ)ることの(あるひ)(じつ)(ちか)かるべきを(おも)つた。(しも)(ほゞ)わたくしの()(さく)(けい)(くわ)()はう。

     その十九

 わたくしは(はじ)()(てい)(なん)()(とし)(もつ)て、その(せふ)(ひつ)(はやし)(ざき)(こく)した(ぶん)(くわ)(かう)()となし、(つい)でその(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(ほく)(いう)(せん)した()()となし、(のち)には(さら)(さかのぼ)つて()(しん)(いた)つた。わたくしは(しも)(ごと)くに()(りやう)した。()(てい)(はやし)(ざき)(ぐう)して(あふ)(こう)(わう)(らい)し(咫尺寓林崎)、(つい)(あひ)(たづさ)へて(きやう)()(あそ)んだ。(中間又何樂。伴我游洛師。)その(おほ)(さか)()(はやし)(ざき)(かへ)つたのは(はる)()くる(こう)であつた。(上舟航浪華。雨濕篷不推。勢南春盡歸。花謝緑陰滋。)(この)(はる)(せふ)(ひつ)(こく)した七(ねん)(かう)()(はる)ではない。(かう)()は三(ぐわつ)(はじめ)()(てい)()()()き、(はやし)(ざき)(かへ)つた(のち)(はる)()くるまで(しゆつ)(いう)しなかつた(とし)である。(また)(ねん)()()(はる)でもない。()()(ぐわつ)には(あふ)(こう)(ほく)(いう)()(のぼ)つてゐた。(くだ)つて八(ねん)(しん)()(はる)となると、()(てい)(すで)()()()つてゐる。(あま)(ところ)(たゞ)(ねん)()(しん)あるのみである。(これ)がわたくしの()(てい)(なん)()(とし)(もと)めて()(しん)(さかのぼ)つた(さい)(しよ)(ろん)(しよう)である。

 (つい)でわたくしは(あふ)(こう)()()(いう)稿(かう)(ちゆう)(さい)(らん)(ざん)(でう)()んで、その(あるひ)(かん)(せつ)()(てい)()(しん)(きやう)()(おもむ)いたことを(しよう)するものなるべきを(おも)つた。(いう)稿(かう)(ぶん)(いは)く。「春盡日發松本。三里到岡田。此間有細嵐山。花木盛開。下臨幽㵎。坐巖久憩。因憶去歳三月。與不騫輩游洛。徘徊嵐山之址。今又北遊遇玆勝。細嵐之名與彼有符。」(あふ)(こう)()(しん)(ぐわつ)(きやう)()(あそ)んだことは(あきらか)である。(この)(いう)(すなはち)()()(せう)()(だい)()の「伴我游京師」を()ふものではなからうか。(はた)して(しか)らば()(てい)(あふ)(こう)()(けん)(みな)(かう)(ちゆう)(ひと)であつたかも()れない。

 しかし(これ)()(しよう)()(みな)(いま)だわたくしの(こゝろ)(えん)()せしむるに()らなかつた。わたくしの(さう)(ざう)()(てい)(なん)()(おも)(ごと)()(しん)()()(あひだ)(はう)(くわう)してゐた。

 ()(じやう)わたくしは(この)(もん)(だい)()(かん)(はう)(めん)(かた)つた。しかし(もん)(だい)(たゞ)()(かん)(はう)(めん)にのみ(そん)するのではない。わたくしは(てい)(ばう)()(てい)(そく)(せき)()うて(ゑち)()(いた)つた。(かみ)()した(その)()(せう)(そく)(みな)()(てい)()()(さう)(ぐう)してゐる。(はやし)(ざき)()はむも、(あふ)(こう)()(けん)()(やま)()()(しや)()はむも、(みな)()()(ほか)ならない。(きやう)()(いう)(ごと)きも(また)()()よりして(あそ)んだものである。

 そして(この)(ゑち)()()()との(あひだ)(もん)(だい)(くう)(かん)(はう)(めん)があつて(そん)する。()(てい)(なん)()(みち)(ゑち)()()()(まと)()()()であつただらうか。(また)(りよ)(てい)()()()なかつたであらうか。(また)()(てい)()()()()つて、(しか)(のち)(まと)()()(せい)したであらうか。

 (ねん)(げつ)(すで)(かぞ)(がた)く、(りよ)(てい)(また)(たづ)(がた)い。わたくしはとつおいつして(すなは)(ふで)(くだ)すことを()なかつた。

 (この)(とき)(あた)つて(はま)()(うぢ)はわたくしに(かは)(さき)(けい)(けん)()(せい)()(しよう)(ざつ)()十一(さつ)()した。(じゆ)(げふ)(ろく)(だい)するもの八(さつ)(けん)(ぶん)()(ろく)(だい)するもの二(さつ)(ぶん)(けん)()(ぶん)(だい)するもの一(さつ)である。(みな)(はま)()(うぢ)(あらた)()(ところ)である。わたくしはこれを()みもて()くうちに、(ぶん)(けん)()(ぶん)(ちゆう)()(てい)の「祭菊池孺人詩並引」を()た。そして(この)(ぺん)(はか)らずも(かみ)(もん)(だい)()(かん)(くう)(かん)(りやう)(はう)(めん)(あは)せて、一(せい)(かい)(けつ)(しよ)()かしめた。

 ()(てい)()(しん)(とし)(まと)()(かへ)つたことは、(これ)()つて(ほゞ)(すゐ)(きう)することが()()る。

 ()(てい)(ゑち)()より()()()ずして(まと)()(かへ)り、(しか)(のち)()()()つたことは、(これ)()つて(めい)(かく)(しよう)することが()()る。

     その二十

 (かは)(さき)(せい)()(ぶん)(けん)()(ぶん)()する(ところ)()(てい)(きく)()(じゆ)(じん)(まつ)()(ならび)(いん)は、(たゞ)にわたくしをして()(てい)(なん)()(とし)(ぶん)(くわ)()(しん)なるべきを(すゐ)()せしめ、(また)その()(てい)(ゑち)()より()()()ずして()()(いた)つたことを(かく)(にん)せしめたのみではない。わたくしは(これ)()つて()(てい)(にふ)()(たう)(しよ)(せい)(けい)()つた。(その)(ひん)()(こん)(やく)(じやう)()つた。(これ)より(さき)、わたくしは(すで)()(てい)(ちゝ)に二(りやう)(きん)()ふを(もつ)て一(だい)()となすを()た。しかし(いま)(その)(ひん)(こん)のいかばかりなりしかを(つく)さなかつたのである。わたくしは(また)これに()つて()(てい)(かめ)()(じゆく)()ける(きやう)(ぐう)()つた。(たう)()(かめ)()()のこれを()(ぐう)することの(れい)(こと)なるものがあつたのを()つた。わたくしは(すで)(ぼう)(さい)(ぢよ)(めあは)すべきなきを(うら)んだことを()いてゐた。しかし(いま)だ一()(けい)(たう)(かく)(ごと)くなりしことを(おも)はなかつたのである。(さい)()にわたくしは所謂(いはゆる)(きく)()(じゆ)(じん)(おい)て一の(かく)(この)(ぢよ)()()ることを()(すこぶ)るこれを()とする。ホスピタリテエは(じん)(じやう)(ぢよ)(せい)(そな)へざる(ところ)(とく)なるが(ゆゑ)である。

 (ぶん)(けん)()(ぶん)(ちゆう)の一(ぺん)()(ならび)(いん)(だい)してあるが、(じつ)(いん)()つて()()い。わたくしは(ふか)(その)()(いつ)(ばう)(をし)む。

 「祭菊池孺人詩並引。(詩闕。)菊池氏龜田士龍先生内人也。君爲人貞潔周致。善愛人。又意氣慷慨。有丈夫氣象。出入其家者。無大小莫不服其徳。凡世間婦女。見他盛服炫燿者。目逆送之。無不艷羨者。君自爲幼稚時。雖見道路衆人中。有縞羅奪目者。不少顧眄。是其大異于尋常者。其行率類此。予在江府日。與先生結忘年交。因屡得接儀範。予時落魄甚。先生及君憐遠客無歸處。館予其家半年餘。相愛之厚。猶親子昆弟。君恐予之窮困或墜志。百方慰籍。勉嚮學。予不事事。典衣沽酒。數至於不能禦寒暑。君輒親針裁以與予。不辭其勞。予嘗游上毛。盤纏甚乏。君憂之。脱所御服。以資其費。毎謂人曰。吾恨無一女子以配子讓。當予之落魄無歸處之日。雖平生親友。不捐背輕侮者殆希矣。而君之信而不疑者。終始如此。豈不亦異乎。後予游越。不復出府下。直歸郷。居無幾。先生書至云。孺人以三月廿六日病歿。其平居。語屡及子。予讀之。驚愕失措。痛哭慟絶。實若喪父母。初予謂。不出數年。再游府下。拜孺人於堂。以謝昔年之恩。不意忽爾遭凶變。鳴呼此恨何時已。追憶往昔。百感交至。殆難爲情矣。今玆三月廿六日當其小祥之辰。道路相隔。不得親掃其墓。因邀社友諸君于某精舍。謹獻時羞之奠。聊寓祭墓之儀云。文化己巳三月廿六日。北條讓拜撰。」

 ()(ぼう)(さい)(つま)(きく)()(うぢ)(せう)(しやう)(じつ)()つたものである。(この)()()(てい)(しや)(いう)(ぼう)()(くわい)して(きく)()(うぢ)(れい)(まつ)つた。(しや)(いう)(やま)()()(しや)所謂(いはゆる)(こう)(しん)(しや)(どう)(じん)なることは(げん)()たない。

 (これ)より(げき)(すゐ)すれば(きく)()(うぢ)()()(しん)(ぐわつ)二十六(にち)である。そして()(てい)(みづか)(きやう)にあつて()()たと()ふ。()(てい)()(しん)(まと)()(かへ)つてゐたことは(あきら)かである。さて()(ねん)()()(きく)()(うぢ)(まつ)つた(とき)には、()(てい)(すで)(はやし)(ざき)(しよ)(ゐん)(ちやう)となつてゐたであらう。

 (ちなみ)()ふ。わたくしの(はま)()(うぢ)()(ところ)()れば、(ぼう)(さい)(きく)()(うぢ)()(はう)じた(しよ)(げん)(たか)(はし)(せん)(ざう)さんの(ざう)(ちよ)(ちゆう)にあるさうである。(また)()ふ。()(てい)()(ぢよ)(はい)すべきなきを(うら)んだのは、(ぎやう)(じやう)()(ごと)(ぼう)(さい)ではなくて、(その)(つま)(きく)()(うぢ)である。しかし(ぼう)(さい)()(ところ)(けだし)(きく)()(うぢ)(おな)じかつたであらう。

 ()(てい)(この)(とし)()(しん)には二十九(さい)であつた。

     その二十一

 (ぶん)(くわ)(ねん)には()(てい)(すで)(はやし)(ざき)にゐた。わたくしは(かみ)(この)(とし)()()(ぐわつ)二十六(にち)にその(かめ)()(ぼう)(さい)(ばう)(さい)(まつ)つて、(しや)(いう)()(ゐん)(くわい)したことを()げた。(しや)(いう)()()(やま)()()(しや)(どう)(じん)でなくてはならない。

 しかし()(てい)()()()たのは(ぜん)(ねん)()(しん)であらうか、(はた)()()(とし)()つた(のち)であらうか。(これ)(また)(あらた)(しやう)ずる(もん)(だい)である。

 (こゝ)(はやし)(ざき)()ける()(てい)の一(もん)(じん)(たけ)()(てい)(そう)が「辛未仲春」()(てい)()()(うつ)るを(おく)つた()がある。(その)(いん)()むに、「霞亭先生教授於林崎學三年、幸不棄菲材如昭者親炙」(うん)(ぬん)()つてある。(せう)(てい)(そう)()である。(しん)()より(さかのぼ)つて三(ねん)()ふを()れば、()(てい)(はやし)(ざき)(しよ)(ゐん)(けう)(じゆ)した()(かん)()()(かう)()(しん)()の三(ねん)であつて、(かみ)()(しん)には(およ)ばなかつたであらう。わたくしは(たけ)()の五()(ぜん)(ろく)するに(いとま)がないから、(へん)(ちゆう)()(てい)(はやし)(ざき)にあつた(ねん)(すう)()ふ二()(せう)する。「自君林崎寓。歳序已三移。」(すなはち)(せう)(いん)()(ところ)(おな)じである。

 ()(じやう)()(をは)つた(のち)(はま)()(うぢ)はわたくしに(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()(だい)()()した。「秋晩從錦江書院、經野逕、訪盟兄子讓于林碕講堂、席上同賦、戊辰晩秋十七日、山口玨」と()ふのである。(これ)()つて()れば、()(てい)(はや)()(しん)(ぐわつ)(はやし)(ざき)()てゐた。(てい)(そう)()(しん)()(つく)つたものではあるが、(その)(ねん)(しん)()(はな)して(さん)したものであらう()

 (じよ)して(こゝ)(いた)れば、(ひさ)しく(よう)をなさなかつた(まと)()(しよ)(どく)(ふたゝ)(よう)をなすのである。わたくしは()(その)(うち)より「北條御氏御臺所」と()()(やう)なる(あて)()のある()(てい)(しよ)()げる。()(づけ)(たん)に「五日」としてあつて、(とし)もなく(つき)もない。しかし(この)(しよ)()()(ぐわつ)()(はやし)(ざき)(おい)(つく)られたものゝ(ごと)くである。「上方酒參り合有之候はば、毎々御面倒恐入候得共、八升許御調被遊可被下奉願候。これは五升を聯玉君餞別として宴集の節差出し申候。一升は岩淵の易家箕曲半太夫老人へをくりたく、いつぞやより以人ねんごろに招かれ候故、近日參り候約束に候。其節の土産に仕度候間、何卒隨分よき處御世話奉希候。代物これにて不足に候はば、跡より御勘定可申上候。もし良助此方へ御遣被下候とても、母樣御一處に被參候には及申さず候。跡より別段に御越候やう御取計可被下候。」わたくしが(この)(しよ)(もつ)()()(ぐわつ)()(さく)とするのは(あふ)(こう)(ほく)(いう)(につ)(てい)より()すのである。

 (かめ)()(ぼう)(さい)(あふ)(こう)(ほく)(りく)(いう)稿(かう)(じよ)して、()(てい)(あふ)(こう)()()との(ほく)(いう)(ぜん)()()いてゐる。()(てい)(ばう)()(てい)(しん)(ゑつ)(あそ)び、(つい)()()(あふ)(こう)()き、(さい)()(かう)()()()()つたと()ふのである。「聯玉之北游、則己巳歳也、先余者僅一年、而後子讓者既三年矣。」()(てい)(これ)より(さき)(へい)(いん)(はや)(ゑち)()にあつたことは、(せき)()(うぢ)()()()えてゐる。(しか)らば(てい)(ばう)はその(こく)(ない)(いう)(らん)した(とし)であらうか。(あふ)(こう)(いう)稿(かう)(はじめ)(ねん)(げつ)(じつ)(ちゆう)してないが、(きやう)(はつ)して(くは)()()ぎたのが()()(ぐわつ)であつたことは(あきらか)である。わたくしが()(てい)所謂(いはゆる)「宴集」を(もつ)(あふ)(こう)所謂(いはゆる)「清渚餞宴」となすのは、(おそら)くは(けん)(きやう)ではなからう。三(ぐわつ)()()(てい)(ぼう)(さい)(つま)(きく)()(うぢ)(まつ)つた()(さきだ)つこと二十一日で、(これ)()(てい)(はやし)(ざき)()ける(さい)()(せう)(そく)である。

 (つぎ)()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)()せた七(ぐわつ)()(しよ)がある。「此節虫干最中に而そう/″\敷罷在候」と()つてある。(かう)()(ぐわつ)には()(てい)(すで)(しよ)(ゐん)()してゐるから、(この)(しよ)()()でなくてはならない。

 (てき)(さい)()(てい)海松(みる)(おく)り、()(てい)はこれを西(にし)(むら)(きふ)()(わか)つた。「先日乍序ミルの義申上候處、態と御さし遣被下、其上八藏御遣被下候。御勞煩之義甚恐入候。西村君に遣し候處、悦び申候由に御坐候。私共も賞翫仕候。」(わたくし)(ども)とは()()(おとうと)(へき)(ざん)とを()ふ。(へき)(ざん)()()()てゐたことは(しも)()(ところ)(しよ)(ちよう)して()るべきである。

 ()(てい)(ちゝ)香魚(あゆ)(おく)つた。「香魚差上たくあつらへ置候得共、今年は殊之外拂底に候。やう/\少もとめ候。餘り小さく候而味も如何に哉、氣の毒に奉存候。今年は一統すくなきよしに而、私共も一度山田にてたべ候のみに御坐候。又々其内よき便も候はゞ差上申たく心掛可仕候。」()(どく)()(やゝ)(いま)(こと)なるを(おぼ)える。(うを)(せう)なるが(ゆゑ)()ぢて(ちん)(しや)する()である。(しよ)(ちゆう)に「土佐屋の叔母」の(こう)(じやう)(しや)する()がある。「叔母」の二()(がく)(しや)(くだ)(ところ)なるを(おも)へば、(あるひ)(てき)(さい)(おとうと)(つま)か。(その)(ひと)(つまびらか)にしない。

 (つぎ)にわたくしは()(てい)が七(ぐわつ)十四(にち)(はゝ)()せた(しよ)()げようとおもふ。(これ)(また)(かう)()のものでないことが(あきらか)なるが(ゆゑ)に、わたくしはこれを()()(もと)()ける。

     その二十二

 ()(てい)(ぶん)(くわ)()()(ぐわつ)十四(にち)(はゝ)()せた(しよ)も、(また)(はやし)(ざき)(ぶん)()にあつて(つく)つたものである。「文庫にてはもはや朝夕は餘程すゞしく相成をり候。御手すきにも相成候はゞちとちと御越被遊候樣ねがひ上爲參候。當盆にはわたくし義はさん上不仕候間其段御免被遊下さるべく候。」

 ()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(だい)(すけ)(はやし)(ざき)()てゐたことは(かみ)にも()つて()いた。「大助文之助兩人共はきものそんじ候間、此方にては箇やうの類かへつて高くも有之候間、二足御もとめ被遣下さるべく候。料は跡よりさし上可申候。」()(てい)(おとうと)(がく)()(べん)じてゐた。(ぶん)()(すけ)(しん)(せき)()か。(へき)(ざん)(とも)(しよ)(ゐん)(きた)(ぐう)してゐたことと()える。

 (つぎ)に九(ぐわつ)()(ちゝ)()せた(しよ)がある。「衣物類慥に接手仕候。大助きる物類御序に御便候節御投被下候樣奉頼候。乍併各別入用も無之候間、母樣御肩背痛之節と奉存候故、いつにてもよろしく候。風邪流行之由、御勞煩奉察候。尊體隨分御自玉奉祈候。御閑暇にも相成候はゞ、少し御枉駕奉希候。」

 ()(てい)(ちゝ)(さけ)黒菜(あらめ)とを(おく)つたのを(しや)してゐる。「八藏態と御遣被下辱奉存候。佳酒澤山御惠投萬々難有仕合、早速外へも配當仕、尚又一酌大に發散鬱陶仕候。(中略)あらめ調法之品難有奉存候。」

 八()には()(てい)(しよ)(ゐん)()でて(かへ)らず、(ちよう)(やう)(まへ)()(くわう)(みやう)()()(くわい)(のぞ)んだ。()()(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)がある。「此方色々用事有之、序に相勤歸申候。夜前は風宮御遷宮物見故又々滯留いたし候。今日重陽故社友集會前田光明寺に罷在候間、もし用事出來候はゞ前田迄多吉遣可被成候。尤晩方には歸院可仕候。」

 十七(にち)()(てい)(ちゝ)()せた(しよ)も、その()()(ぐわつ)(さく)なることが(やゝ)(たしか)である。「當月下旬は春木氏菊圃宴集有之、來月初旬は私共方鳩口紅葉宴有之、何れも詩文出來候事に御坐候。」()(ねん)(てき)(さい)(はる)()(うぢ)(きく)(なへ)()ふのは、(おそら)くは(こゝ)(はい)(たい)してゐるであらう。

 (てき)(さい)(まさ)(だう)()()(さい)(ほふ)(えう)(しゆ)せむとしてゐた。「霜月には御祖父母樣御遠忌被遊候御噂、其節は拙者も參上進香可仕候。先達而御咄被遊候通、恭敬之意は儉素の方が却而可然奉存候。御子はもとより孫にあたり候までの人まで計を御招被遊可然候。他族は御略し被遊候て可然と存候。」(だう)()(あん)(えい)(ねん)十一(ぐわつ)二十八(にち)に、(その)(つま)(めい)()(ねん)十二(ぐわつ)十八(にち)歿(ぼつ)したのである。

 ()(てい)(れい)()つて()()(らい)(いう)(すゝ)めてゐる。「林碕鳩口邊紅葉もはや大分そめかゝり候。鹿聲も毎夜うけたまわり候。私共ばかりおもしろき幸を得候も餘り勿體なく奉存候。何卒御小閑も候はゞ二三日御遊行奉希候。山中の盃獻上可仕候。又は何方にても御供可仕候。偏に/\奉希候。大人御入相成不申候はゞ、母樣へ御ねがひ申上候。」

 ()(てい)(はゝ)(はく)()()(おく)つた。(おそら)くは(けい)(はん)より()たものであらう。(しよ)(じやく)()つた(れう)(きん)(つり)(せん)(はく)()()となつて()たのである。「薄荷油又々參り候間、母樣へ差上候。先達而書物もとめ候代銀の殘りだけ參り候にて候。費なるものゝやうに奉存候得共、母君御用ひ候てよろしく候はゞ、一段之事に奉存候。」

     その二十三

 (ぶん)(くわ)()()(ぐわつ)十七(にち)(しよ)には、()(てい)(なほ)()()(おとうと)(へき)(ざん)(ぶん)()(すけ)との(きん)(がく)(じやう)()げてゐる。「文之助大助共に近頃は甚出精仕候。夜半迄はいつも勤學仕候。詩作等も餘程上り候やうに候。御悦被遊可被下候。却而私義は讀書はかどり不申、是耳苦心仕候。來月よりは一段出精も可仕と心懸罷在候。短日たわいも無之、教授に暇を費し候義かへす/\も可惜と奉存候。又々了簡も仕可申候。」

 (また)(ちゝ)(りやう)(すけ)(けい)(すけ)の二(てい)(をし)へむことを()うてゐる。「良助慶助素讀不怠候やうに乍御苦勞御教授奉願候。良助論語等そらによみ候やうに仕度候。此間やすき五經素讀本有之候ゆへ求め置候。何卒皆々相應の人物に仕立たきものに候。貧しき等は各別憂ふるにもたり不申候。學業等の出來不申候事、誠に可悲事と奉存候。私此節の心だのしみは我業は勿論大助など成業にも相成可申やうと是耳相たのしみ候事に候。」

 (つぎ)に十一(ぐわつ)二十一(にち)()(てい)(ちゝ)()せた(しよ)がある。わたくしはその()()(さく)なること(ほとん)(うたがひ)なきものかと(おも)ふ。(はた)して(しか)らば(ゑん)()(こと)(をは)つた(のち)(しよ)か。「池上氏歸郷被致、先達而之荷物皆々爲御持被下候。餘程之荷物之處、態々堀の御屋敷へ被參御受取被參候由、夫に此節之使者は獻上等無之候故荷つゐで無之、別段人足等かかり候やうすに相見え申候。いづれ懇意中故心配にも及不申候得共、兼々折節先き方よりは賜物等有之候義故、此度は何ぞ謝し申度候。何も思付無之込(困)り入候。毎々申上兼候へども名酒二升許所望仕度奉願候。餘り度々に候故甚御氣之毒奉存候。酒料御算用仕度候。」(いけ)(がみ)(うぢ)(いけ)(がみ)(りん)(さい)である。(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(りん)(さい)()()(はる)()()より(かへ)るを()(たい)してゐた。「池上鄰哉。前赴東府。計其歸期。與余北游。倶在三月之初。」(おも)ふに()()(はる)より(おく)れて(ふゆ)(いた)つたのではなからうか。(りん)(さい)()()より(かへ)り、(おほ)(さか)(おい)(くわ)(ぶつ)()()つたものか。(けん)(じやう)(ばく)()(けん)ずる(いひ)であらう。(ほり)()(しき)(おほ)(さか)(くら)()(しき)であらう。

 ()(てい)(この)(しよ)(ちゆう)(せふ)(ひつ)(じやう)()(けい)(くわく)(かた)つてゐる。(せふ)(ひつ)(かう)()(あき)(こく)(せい)せられた(しよ)である。(けい)(くわく)(ぜん)(ねん)()()(ふゆ)(おい)てせられたのは、さもあるべき(こと)である。(これ)(また)わたくしをして(この)(しよ)(どく)()()(さく)なることを(おも)はしめる。

 わたくしは(こゝ)に一の(さふ)()したい(こと)がある。それは()(てい)(てき)稿(かう)(じやう)()(こと)である。わたくしは(その)(かん)(ぽん)()ぬので、(いづ)れの(とし)(こく)(せい)せられたかを()らない。しかし(てき)稿(かう)(せふ)(ひつ)(さき)だつて(こく)せられたものの(ごと)くである。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)()()(りう)(さい)()(てい)(あた)へた(しよ)がある。()(てい)(とう)(ごく)より(まと)()(かへ)つて、(ぼう)(ねん)十一(ぐわつ)()(てき)稿(かう)()()()なる(りう)(さい)(おく)つた。(りう)(さい)()(ねん)(しやう)(ぐわつ)()(しよ)()せて(しや)したのである。「僕亦未死候。過三日木芙蓉へ年賀に立寄候處、不圖老兄去霜月七日從志州的屋と云へる一封を得たり。即開封候へば霞亭摘稿也。去十月鵬齋海晏寺行之次手立寄、老兄一先江戸御歸、其後御歸省のよし。(中略。)何卒御書面之通二三年中是非々々御再遊之事奉祈候。(中略。)久々に而御歸省御渾家樣御歡喜不料候由被仰聞、定而之御儀と奉察候。」(ぼう)(さい)が十(ぐわつ)(りう)(さい)()ひ、()(てい)が十一(ぐわつ)(てき)稿(かう)(りう)(さい)(おく)つたのは(なん)(ねん)か。()(てい)(まと)()にあるを()れば、()(しん)でなくてはならない。そして(りう)(さい)のこれを(しや)したのは、(この)(とし)()()(はじめ)であらう。(たゞ)(あやし)むべきは()(てい)(ゑち)()より()()(かへ)り(一先江戸御歸)、(つい)(なん)()した(其後御歸省)と()(ぼう)(さい)()である。()(てい)の「游越、不復出府下、直歸郷」と()つたのと(あひ)(はん)してゐる。(あるひ)(りう)(さい)(あやま)()いたのか。わたくしは(しばら)(うたがひ)(そん)して()く。

     その二十四

 (ぶん)(くわ)()()十一(ぐわつ)二十一(にち)()(てい)(ちゝ)()せた(しよ)に、(せふ)(ひつ)(じやう)()(けい)(くわく)()えてゐること(かみ)()つた(ごと)くである。「霞亭渉筆不遠取かかり候積りに御坐候。越後關根氏四兩加銀承知被致候。すり立候までは餘程入用も可有之候。(中略)御加銀可被下奉願候。成就之上は追々集り可申候。何卒其御心當て可被下候。」(これ)()つて()れば(せふ)(ひつ)(はやし)(ざき)(しよ)(ゐん)(はん)(しよう)してはあるが、()(てい)()()てて(みづか)(こく)し、(しん)(せき)()(きう)がこれに(じよ)(りよく)したのである。

 (しよ)(ゐん)にゐる(おとうと)(へき)(ざん)(きう)()つて(きん)(がく)してゐた。「大助此節傷寒論會讀はじめ候。卯之助甚柔和なる者にてよろしく候。何にても俗用之手本類有之候はゞ御かし可被下候。板物にてもよろしく候。」()()(すけ)(なに)(ひと)なるを()らない。(あらた)(まと)()より(らい)(ゐん)したものか。

 (まと)()(しやう)()(さい)がやと()ふものが(そう)(めう)(てう)(しよ)(さう)(くわう)することを()(てい)(たく)した。「才がやより頼みの表具、たより急に相成、とゞき候時延引いたし候故、間に合申間敷とぞんじ、其儘にてかへり候。如何いたし可申哉。山田にても爲致可申や。御聞可被下候。金百疋私方へ預り置候。かの大燈と申は此間一書にて見當り候。京都紫野大徳寺開基にて、餘程の高僧に候。一休などより前の人に候。右序に御咄可被下候。」(さい)がやは(さい)()()である。(さう)(くわう)(きやう)()(しやう)(じん)にあつらへようとしたものであらう。

 (てき)(さい)は二十五(にち)()(てい)(この)(しよ)(こた)へた。(これ)(また)(まと)()(しよ)(どく)にある。()(てい)(しよ)()()(すけ)(たく)したが、()()(すけ)(まと)()(いた)()(じやう)(あし)(いた)めて(ふく)(めい)することを()なかつた。「大助と同年扨々氣性弱者」と()つてある。(てき)(さい)(ぼく)(ざう)(はやし)(ざき)()り、(ふく)(しよ)(とも)(いけ)(がみ)(うぢ)(おく)るべき「伊丹高砂」三(じよう)(そう)()した。

 (てき)(さい)(せふ)(ひつ)(こと)をも、(めう)(てう)(しよ)(ふく)(こと)をも()つてゐる。「渉筆不遠取かかり候積り之由、且越後關根氏よりも加銀等有之候由、實に(此間四字不明)至而厚情之趣是又感心仕候。雜賀屋より頼之表具間違に相成候由、右之譯合才がやに咄候處、急に無之候而も宜敷京都へ遣扱被下樣被申候。」(こく)()(こと)(すゑ)に「正月に至り候得ば出來可申候」と()つてある。

 ()()(さい)()(はやし)(ざき)(おほ)(ゆき)であつた。()(てい)(まと)()より(はゝ)(むか)へてゐた。(その)(あひだ)()(てい)()(しや)(とも)(よく)(りう)せられて()(ゐん)せざること二三(じつ)であつた。()()(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)がある。「十八日」と(しよ)してあるから、(おそら)くは十二(ぐわつ)十八(にち)であらう。「御母樣御機嫌能可被遊御入奉存候。一昨日より社中諸君強而被留、今日かへり可申候處、此雪に而又々興趣有之、暫時吟酌仕居候。いづれ午後迄には歸り可申候。母樣御參宮にても被遊候はゞ、足下御供にても、又は多吉御供いたし候てなりとも御參宮可被遊候。しかし明日の事に可被成方よろしからむか。」(この)(とし)()(てい)(とし)三十であつた。

 (ぶん)(くわ)(ねん)には()(てい)(はる)()()(きう)()(ひろ)(をか)(ぶん)(たい)()うた。わたくしは(はじ)(この)(とし)(もつ)()(てい)(なん)()(とし)となした。それは(せふ)(ひつ)()(しん)()()()()()いてゐる(ゆゑ)である。

 (しやう)(ぐわつ)()()(てい)(しよ)(まと)()(いへ)()つて、三()()(せい)すべきを(はう)じた。(れい)の「北條樣御臺所」と()(あて)()である。()()(すけ)が「痰症」を(うれ)へて(ひさ)しく()せぬので、()()十二(ぐわつ)二十七(にち)(ひと)(やと)つて(おく)(かへ)さうとした。しかし(ゆき)(さまた)げられて(はた)さなかつた。(この)()(どう)(かう)(しや)()て、(しよ)(たづさ)へて(かへ)らしめたのである。「兎角病身者故心配に存候。何れ明日參上委曲御咄可申上候。」

     その二十五

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(ほう)(でう)(てき)(さい)()()(てい)(あた)へた(しよ)がある。(すゑ)に「二月廿八日、北條道有、内宮林崎書院北條讓四郎丈」と(しよ)してあり、(ぶん)(ちゆう)に「伊州行も來月え御延し候由承知仕候」と()つてある。(かう)()(ぐわつ)()(てい)(きう)()(ひろ)(をか)(ぶん)(たい)()()()うたことは(せふ)(ひつ)()えてゐて、(この)(しよ)(かう)()のものたることは(あきらか)である。

 ()(てい)(ぶん)(たい)()ふに(さきだ)つて、これに(しよ)()せ、(あらは)(ところ)(てき)稿(かう)(おく)つた。(たか)(はし)(せん)(ざう)さんは(げん)(ぶん)(たい)のこれに(むく)いた(しよ)(ざう)してゐる。わたくしは(はま)()(うぢ)(かい)して(その)(とう)(ほん)()ることを()た。しかし()(じん)(こく)()(どく)()(やす)からざるものである。(ゆゑ)(とう)(しや)()(びう)なきことを(はう)(がた)い。わたくしの(れい)(やぶ)つて(こゝ)(ぜん)(ぶん)(ろく)するものは、その()()(ひつ)(せき)なるを(もつ)ての(ゆゑ)である。()(ひと)あつて(たか)(はし)(うぢ)(いへ)()き、その(あい)()する(ところ)(げん)(ぽん)(もく)()して(でん)(しや)(あやまり)(たゞ)したなら(さいはひ)であらう。

 (ぶん)(たい)(しよ)は三(ぐわつ)廿五(にち)(つく)られた。わたくしはその(ぜん)(ねん)()()(ぐわつ)なるべきを(おも)ふ。「本月(己巳三月)十日發之芳書、自林宗相達拜見、如來示厥后御疎濶、如何被成御坐候哉と時々存居候へ共、一齋物故、元常も下之關とやらむへ參居候由、何をたつきに御尋申上候樣も無之罷在候所、浮世に存生候得ば、又々御手簡拜見仕候仕合、扨々不存寄御事、未來世に而得貴意候心地、扨東國彼是御遊學之條、刮目候而御著述等拜見、驚入候御事多々忝存候。小子も無據故國へ引取罷在、大凡十箇年を經、何事も心外之事共、犬馬相加、伏櫪千里之志(此四字、謄本は不可讀として闕きたるが故に、假に填む)于今難相止、又々近日出京仕度、種々計畫罷在候得共、所謂足手まとひにて消日仕候心事御推恕可被下候。乍然當年中には出京可仕相樂罷在候。扨摘稿熟讀仕候、句々金玉、龜田子(鵬齋)へも御逢之趣、先達江州中山之一生望月左近と申者江戸へ參候而、鵬齋へ御目にかかり候由申候而、彼是承及申候所、面白き人物之由に候。何卒小子も一度は關東へ罷出度、諸君子へも御尋申上度奉存候得共、最早知命過候而殘念而已に御坐候。萬縷期後音候。御地よりは便不宜候。洞津迄御出被下候はゞ相達可申候。三月廿五。在所伊賀國上野萬町、廣岡文臺。北條讓四郎殿。」

 (しよ)(ちゆう)(ぶん)(くわ)(かん)歿(ぼつ)したらしい一(さい)()(くわい)より(しも)(せき)()つたらしい(げん)(じやう)(ならび)(にはか)(かんが)ふることが()()ない。()(てい)(てき)稿(かう)(おう)(しう)(かめ)()(ぼう)(さい)(およ)ぶもののあるべきは(げん)()たない。(ぼう)(さい)(へい)(ぜい)は、(はや)近江(あふみの)(くに)(なか)(やま)(しよ)(せい)(もち)(づき)()(こん)()つて(ぶん)(たい)(つた)へられてゐた。()(てい)(しよ)(ぶん)(たい)(いた)した(りん)(そう)(しやう)()(りやく)(しやう)()

 ()(てい)(この)(とし)(かう)()(ぐわつ)()(ぶん)(たい)()()(うへ)()(よろづ)(まち)()うた。(しか)るに(ぶん)(たい)(その)(つき)(さく)に五十六(さい)にして歿(ぼつ)したのであつた。(たか)(はし)(うぢ)(そん)する一(しよ)()する(まへ)(ねん)(つく)られたものである。

 ()(てい)(ぶん)(たい)(いへ)()うた(とき)(こと)(せふ)(ひつ)()えてゐる。(まへ)()(てい)(みづか)(さう)(ほう)(あと)(じよ)し、(のち)(あふ)(こう)がその()(てい)()(ところ)のものを()し、()くるに()(ぺん)(もつ)てしてゐる。「山城客到會君終。悲惋唯疑與夢同。幽火夜燃丹竈雨。落花春送素車風。張元伯墓今誰哭。阮歩兵途昔獨窮。遺卷濟人新副墨。一生心血在斯中。」

     その二十六

 (ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)(さく)(ひろ)(をか)(ぶん)(たい)()()(うへ)()歿(ぼつ)し、六()()(てい)(その)(いへ)(いた)つたことは(すで)()つた。()(てい)()()より(かへ)つて(しよ)(ちゝ)(てき)(さい)()せた。(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)してゐるが、(をし)むらくは(まつ)(ぷく)()()られて、()(づけ)(しよ)(めい)(あて)()(とう)()けてゐる。

 (しよ)(ちゆう)()(ところ)()れば、()(てい)は六()()()(ひろ)(をか)(うぢ)にあつて(すご)し、(ぶん)(たい)(はか)(まう)でて(のち)(はやし)(ざき)(かへ)つた。

 ()()(たび)(きやう)(れつ)なる(かん)(どう)()(てい)(あた)へたらしい。そして()(てい)はこれを(ふで)(のぼ)せて(ちゝ)(はう)じ、(また)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()うてこれを(かた)つた。(ちゝ)()する(しよ)(ちゆう)(こと)(ぶん)(たい)(くわん)するものは(しも)(ごと)くである。

 「先頃申上候通、伊州上野へ尋參、久々に而開積思可申と相樂しみ罷越候處、彼文臺先生當月朔日病死被致候。私參り候處六日待夜の處へ參り候。誠に驚入候次第に御座候。病中は纔に七八日の事に候よし、其中も私事申出され候よし不堪落涙候。醫術學業におゐては無雙之人に候得共、段々不幸相續、貧困に而被終候義實に感慨之至奉存候。無定人世はかなき事共に御坐候。家刻傷寒論當年京大坂の披露相濟、其後東行被致候積りに御坐候處、右之仕合可惜可悲此事に御坐候。小子義も右に付二夜滯留墓參等いたし、直樣罷歸申候。先達而者順により、大坂へ一寸出可申奉存候得共、文臺君歿去に付甚力落心持あしく候故、先々歸院仕候。小弟義當月中者留主にいたし度、外へは歸院之樣子不申候。其故は春時に候故、閑人參り妨げいたしこまり入候。夫に家刻傷寒論挍合並に碑銘序文等之義、伊州に而無據被頼候故、當分者先々閉居可仕候。」

 (これ)()つて()れば()(てい)は三(ぐわつ)(じやう)(じゆん)()()(ひろ)(をか)(うぢ)より(かへ)り、()()(かく)(しや)すること二(じゆん)(きよ)であつたらしい。

 (ぶん)(たい)(がく)(じゆつ)()(てい)(すゐ)(ちよう)すること(かく)(ごと)くであるが、(その)()(せき)(せふ)(ひつ)(のぞ)(ほか)(たゞ)()()()(えき)()()()()えてゐるのみである。()()(かは)(いう)さんの()ふを()くに、()()()(けん)(しよ)()かぬさうである。(しか)らば()(こく)(しやう)(かん)(ろん)()(おこな)はれたことであらう。(その)(ほん)には()(てい)(じよ)がありや(いな)や。(また)()(とう)(さう)(うん)さんは()()(うへ)()(とみ)(やま)(せん)一さんに()ふに、(ぶん)(たい)(こう)(えい)(こと)(もつ)てしたが、(いま)()んでをらぬさうである。しかし()(せき)(あるひ)(なほ)(そん)してゐるであらう。(その)(いし)には()(てい)()(めい)(きざ)まれたりや(いな)や。

 頃日(このごろ)(こう)(けん)(せん)(せい)()()(けみ)するに、「弔廣岡文臺先生」の一(ぺん)がある。()(てい)()つて(ぶん)(たい)()つたものは、(ひとり)(あふ)(こう)のみではなかつた。「山澤隱醫有癯仙。一朝跨鶴入蒼烟。瀛洲閬苑渺何處。青松白石竟茫然。人間遊戲音容邈。神理獨將遺編傳。早悟仙凡路終隔。何至歳月少周旋。」(こう)(けん)(ひがし)(うぢ)()(きつ)(いん)である。

 ()(てい)(れい)(ごと)(まと)()()()(むか)へて(はる)のなごりを(をし)ませようとした。「當地花も最早十二三分に相成申候。二三日中には散亂仕候間、何卒明日か明後日あたり、御閑暇に候はゞ一寸御來駕奉希候。(追書。)もし大人樣御出出來兼候はゞ、母樣にても御越可被下奉希候。兩三日過候はゞ、花も空しく相成候間、緩々御越可被下候。右御迎ひ申上度、今日大助わざ/\差上候。」(しよ)(まと)()(もたら)したのは(へき)(ざん)(だい)(すけ)であつた。

 (つぎ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)()(てい)の三(ぐわつ)廿三(にち)(きやう)()()せた(しよ)がある。(あて)()()けてゐるが、(その)()()()ひ、その()()()()(おほ)(かき)(ざま)()ひ、(はゝ)()せたものではなからうか。

 (この)(しよ)()れば、(さき)(りつ)(けい)(はやし)(ざき)(きた)(ぐう)した(ごと)く、(いま)(おとうと)(たん)(じん)()いで(いた)つた。「敬助義此頃は大になれ候而きげんよくいたし居申候。御安意可被下候。昨日は宮川を見せに參り、大塚君へ立寄候處、種々御馳走かつ御同道に而宮川一覽いたし候。歸路山口へ留主見舞により候。翁に懸御目贅談仕候。御菓子等被下候。其外所々にて菓子等もらひ、夕暮には中の地藏に而うなぎをたべさしくたびれ候樣子御坐候故、駕籠にのせかへり候。おもしろがり候間、おかしき事に候得共、御はなし申上候。彌西村樣ヘ二日にさし遣可申候。西村には同じやうなる子供有之候而、其上河崎氏御子息など往來、却而文庫よりはよろしく可有之とぞんじられ候。とかく私を甚をそれ候やうす有之候。西村君は子供などに甚愛相よき御方に御坐候ゆへ、けつくなれやすく可有御坐、被仰下候通、一兩日は滯留可仕候。(追書。)晦日には八藏早天に御遣可被下候。山口迂齋翁被見候約束に御坐候間、少々用事申付たく候。」

     その二十七

 わたくしは()(てい)(ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)二十三(にち)(はゝ)()せた(しよ)(おぼ)しきものを(かみ)()いた。(しよ)()(てい)()(ねい)(沖)(たん)(じん)(はやし)(ざき)(せう)()した(とき)(こと)(はう)じたものである。(これ)より(さき)()(てい)(へき)(ざん)()(ちやう)(すで)(はやし)(ざき)()てゐた。(この)(とし)()(ちやう)は十六、()(ねい)は九(さい)であつた。

 ()(てい)は四(ぐわつ)()()して(たん)(じん)西(にし)(むら)(うぢ)(いへ)()(ぐう)せしめようとしてゐる。西(にし)(むら)(うぢ)西(にし)(むら)(きふ)()である。()()()(あざな)()()()(こう)(かん)(うん)(かん)(しよう)()(だう)(けい)(ろく)(だう)(じん)(かん)()(だう)(しゆ)(じん)(らん)(きん)()()(いう)(せき)(しよ)(がう)がある。()(ほう)()(うま)れて(ぜん)(しう)し、()(ぶん)(しゆ)(せき)()くした。(をさな)(たん)(じん)()(てい)(おそ)れてゐるが、「愛想よき」(きふ)()には(あるひ)()(やす)からうと()つてある。

 (きふ)()には(てう)(しん)()があつて、そこへ(かは)(さき)(うぢ)()などが(わう)(らい)するから、(たん)(じん)がゐなじむに(よろ)しからうと()つてある。(かは)(さき)(うぢ)とは(けい)(けん)(りやう)()()ふ。

 ()(てい)(たん)(じん)()(みや)(かは)()せに()て、「大塚君へ立寄」つたと()ふ。(おほ)(つか)(うぢ)()(じゆ)(あざな)()(せん)()(けん)(がう)し、(とう)(へい)(しよう)した。

 ()(てい)(また)(みや)(かは)(あそ)んだ()()に、(たん)(じん)()て「山ロヘ留主見舞に」()()り、「翁」に()つたと()ふ。(また)(おな)(しよ)晦日(みそか)に「山口迂齋翁被見候約束」があると()つてゐる。(あふ)(こう)()()(ほく)(いう)()()である。(おう)()ひ、(やま)(ぐち)()(さい)(をう)()ふは(あふ)(こう)(やう)()である。(あふ)(こう)(かく)()(とほ)(やま)(はく)(だう)()(なん)(ちやう)()(らう)()つたもので、十四(さい)にして(やま)(ぐち)(うぢ)(やしな)はれた。(たま)()(かう)()(らう)さんの(うつ)して(おく)つた(とう)()(てい)(せん)()()には(あふ)(こう)(やう)()()(そう)(しよ)してある。()(さい)(すなはち)()(そう)なることは(うたがひ)()れない。

 ()(てい)晦日(みそか)()べき()(さい)(くわん)(たい)せむがために、(ぼく)(ざう)(まと)()より()()せて(じゆん)()しようとした。(ちゝ)(てき)(さい)は二十五(にち)に八(ざう)(はやし)(ざき)()つた。(この)(とき)(ざう)(もたら)した(てき)(さい)(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)してゐる。

 (てき)(さい)()(てい)(えう)(てい)(たん)(じん)()()をしたのを(しや)してゐる。「實に敬助義も此度は大に相馴居申候由承知仕、大慶仕候。何かと御心遣被成下候段遠察仕、千萬忝存候。」(たん)(じん)(やす)んじて(きふ)()(もと)()るらしく()えたのである。

 (てき)(さい)は八(ざう)(はやし)(ざき)(とゞ)むること四(じつ)なることを(ゆる)した。「八藏事廿五日に遣樣被爲申越、則今日差出し申候。定而何かと御用事等可有之候。廿八日頃歸し可被成候。」()(さい)()(てい)()うた(こと)(つた)はつてゐない。(てき)(さい)(また)(かは)(さき)(けい)(けん)()つて(はる)()(ぼう)(きく)(なへ)(もと)めようとした。「菊苗河崎氏に、如何樣之品に而も不苦候、春木氏之作手に二十株許も御無心申くれられ候樣御頼可被下候。」(はる)()(ぼう)(ぜん)(ねん)()(てい)(まね)いて(きく)(しやう)せしめたことがある。(かは)(さき)(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)(はる)()(なん)(ざん)がある。(いま)(その)(どう)()(つまびらか)にしない。(きやう)()()(しよ)(くわん)()()(しん)(しよく)(はる)()(うぢ)()()(かゝ)(しよ)(せき)(おほ)(そん)してゐるさうである。(あるひ)(その)(いへ)か。

 三十(みそ)()には()(てい)()()(しよ)()せた。二(しよ)(みな)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)してゐる。(れい)(ごと)(ちゝ)(もし)くは(はゝ)を四(ぐわつ)()(まへ)(はやし)(ざき)(せう)(せい)しようとしたのである。

     その二十八

 ()(てい)(ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)(じん)(しよ)を二(しん)()せて、(れい)(ごと)くこれに(まと)()より(はやし)(ざき)()むことを(すゝ)めた。()()より(かへ)つて(のち)(しん)(たい)()()であつたのが、(この)二三(じつ)(やゝ)(もと)(ふく)し、(ばい)(いう)(きよう)(うご)いたのである。「私義此節は間暇に御座候故、御伺可申上奉存候へども、伊州より歸後、兎角不快に而萬事疎略仕候。御海容奉希候。此兩三日は隨分快き方に御坐候。先日も申上候通御手透も御座候はば、御參宮旁乍御苦勞三四日御來臨可被下樣奉願候。朝熊又は二見の邊にでも御供可仕候。(中略。)可成は十日前に御越可被下候。」(これ)(ちゝ)(てき)(さい)()つた()である。「此せつはわたくし方殊の外ひまにおはし候あひだ、何とぞ御見合せ被遊御參宮かた/″\たけ山開帳御さんけい御かけ被遊、四五日御とうりう御入被遊候やうねがひ上爲參候。私義もとかく氣分あしくこまり入候。さりながら此兩三日はよほどよろしく候。(中略。)もし御こし被遊候はゞ、三四五日のころよろしく候。十日過には何歟と事しげく候而よろしからず候。おつう迹をしたひ候はゞ、やはり御つれ可被下候。去年の通りに留主御たのみ被遊候やう可然ぞんじ上候。(中略。)立入候事に候へども、御小遣等は此方にてまかなひ可申上候、御用意には及び不申候。御こし被遊候はゞ、はりといとなど御持下さるべく候。ほころび候もの大分有之候。」(これ)(はゝ)()つた()である。

 (こう)(しや)(ちゆう)「たけ山」は(あさ)()(やま)である。()(てい)(しよ)(どく)(いもうと)(つう)()()えたのは(これ)(はじめ)とする。()(てい)(どう)(はう)(ぢよ)()には、(りう)(ざん)(ぢよ)一人(ひとり)(のぞ)(ほか)(ぬひ)(えい)(つう)の三(ぢよ)があつた。(ぬひ)はわたくしの頃日(このごろ)(けん)()(ところ)()れば、十一(ねん)(ぜん)()んだらしい。(えい)はこれに(さきだ)つて十六(ねん)(ぜん)()んだ。(すゐ)するに(かう)()(せい)(ぞん)してゐたものは(この)(つう)のみであつただらう。(ねん)()()(しやう)である。

 (ぜん)(しよ)(さい)した()(じつ)、四(ぐわつ)(さく)()(てい)(また)(しよ)(ちゝ)()せた。その(はう)ずる(ところ)(かぞ)へむに、()づ三(ぐわつ)廿六(にち)()(くわい)があつた。「廿六日持法寺集會も無滯相濟候。諸君御作寫し入御覽候。此内東佐藤二君は御出無之候。」()(がう)の二()(さう)(たい)()(めい)である。(ひがし)()(てい)(けい)か、(もし)くは(こう)(けん)(きつ)(いん)か、()(とう)()(ぶん)であらう。(つぎ)()()()(せう)(いん)があつた。「廿八日は海老屋隱居へ參り申候。畫などかき、いと/\面しろき老人に御坐候。山口櫻葉館詩會へも相赴申候。」(あう)(えふ)(くわん)(あふ)(こう)(きよ)(しよ)である。(おな)()(また)(たん)(じん)西(にし)(むら)(きふ)()(いへ)()(ぐう)した。(この)()(ぐう)(はじ)め四(ぐわつ)()(もつ)てすべきであつたのを()()げたものと()える。「敬助入門廿八日首尾能相濟大慶仕候。御安意可被下候。私義昨日(晦)迄彼家に罷在候。追々なじみ可申候。西村君御夫婦並御老母君あつく御憐愛被成下候段不堪感佩候。尚又明後日あたり參り可申候。」(この)(しよ)(すゑ)(へき)(ざん)(まと)()()ると()つてある。(しよ)(もたら)して()つたのであらう。「大助遣申候。明後日御かへし可被下候。」

 ()えて三()には(へき)(ざん)(てき)(さい)(しよ)()つて(はやし)(ざき)(かへ)つた。九(さい)(たん)(じん)西(にし)(むら)(かた)()()かぬので、四()(まと)()(かへ)された。(こと)()(てい)が四()(ちゝ)()つた(しよ)()えてゐる。「敬助儀とかくなじみがたく、一昨日長大夫君御携被下候處、何分文庫へ參りたり山田へ行たり、かれこれいたし、其上大助にても良助にても一處に當分西村へ參り居申候はゞなれもいたすべきやとの事に候。色々御家内一統の御深切に被仰聞、わたくしも色々とたらし見候得共、何を申も子供の義、一向聞譯無之、何分二三日的矢へかへりたきよし申候間、ながき事強候も無益の事故、無是非今日かへし申候。扨々いたし方も無之、先頃よりだん/\こん氣をつくし候へども、うまれ付うすく相見え、つよき事もいたしがたく候。最早御遣被下候義御やめ可被下奉希候。」(ちやう)(だい)()(きふ)()(つう)(しよう)()

     その二十九

 わたくしは(かみ)()(てい)(ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)()(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)()いて、(おとうと)(たん)(じん)西(にし)(むら)(きふ)()(いへ)より(まと)()(おや)(もと)(かへ)されたことを()つた。(この)(しよ)には(なほ)(はる)()(うぢ)(きく)(なへ)(こと)()えてゐる。(きく)(なへ)(てき)(さい)(かは)(さき)(けい)(けん)()()つて()()むと(ほつ)したものである。

 「菊苗之義は先頃より被仰聞候へども、春木氏は近付には候得共心やすく無之、久良助君などはあの樣なる事には別の人に而申出しにくく候。とかく菊を作候人などには得ては俗氣有之、苗などををしみ候きみ有之物に候。申出し候而くれ不申候へば恥に相成、かつ於私心あしく候。此義は氣之毒に候得共御斷申上候。松坂邊のつてなどに御もとめ被遊候處は無之候哉、其方が可然奉存候。」(さい)(ばい)()(こゝろ)(そん)(たく)()(めう)である。()(てい)には(あい)(きく)(せつ)がある。その()(ところ)(あるひ)(てき)(さい)(かた)るべくして、(はる)()(うぢ)(かた)るべからざるものであつただらう。()()(すけ)(けい)(けん)(つう)(しよう)()

 四(ぐわつ)二十四(にち)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(ちゝ)()(そう)()(てい)(あた)へた(しよ)と、二十七(にち)(きふ)()()(てい)(あた)へた(しよ)とは、(ならび)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にあつて、わたくしの(しばら)(こゝ)(さふ)(にふ)せむと(ほつ)する(ところ)のものである。

 ()(そう)(しよ)()(てい)(しよ)(ざう)(てつ)(かん)(しん)()()りて、(まご)(ふく)(こう)()(とう)(しや)したことを()つてゐる。「鐵凾心史二卷直に孟綽へ遣し申候。然る所一卷は孟綽寫し可申やうに申候。」

 (てつ)(かん)(しん)()(そう)(まつ)(ひと)(てい)()(せう)(あらは)(ところ)で、(みん)(まつ)(いた)つて(はつ)(けん)せられたと()ふことである。()(せう)(あざな)(おく)(をう)(しよ)(なん)(がう)した。(そう)()(ぶん)(げい)()()に「鄭思肖錦箋集、一百二十圖詩文集一卷」を()せ、()()(そく)(さい)(そう)(しよ)(だい)二十一(しふ)に「一百二十圖詩集、錦箋餘笑附後、鄭所南先生文集」が(をさ)めてある。(しん)()(この)(てい)()(ちよ)だとせられてゐるのである。

 ()(てい)(この)(しよ)(じよ)してかう()つてゐる。「鳴呼所南先生於行事。可謂悲矣。宋鼎既移。國破家喪。茫々疆土。四顧無人。猶且欲奮一臂伸大義。至事不可爲。窮餓以死。布衣之節。何其至於此也。夫患難之際。身赴水火。僅償臣子之責。議者且有所憾焉。何况以帝室之冑閥閲之子。委身寇庭。靦面目。榮其爵甘其祿者。視先生何如哉。余更愛先生一心於宋。視異方。不啻犬彘。然似特注意我神皇傳統之國。其泣秋賦曰。東望蓬萊兮。峰烟昏於日本。其指胡元寇我時歟。又曰。天地之大兮。既無所容身。所思不可往兮。今將安之。其欲望援於我耶。彼元兵之暴。絶海來襲也。神明赫怒。起大風。覆沒全軍。十萬衆得還者僅三人。足以寒外人之膽。而長絶覬覦之心。當其時。先生作歌快之。大意謂。醜虜狂悖。敢犯禮義之國。其敗固理也。識亦遠矣。若其遺史。天地鬼神。照臨加護。歴三百年。一旦出人間。一片血誠。貫三光。不可磨滅。其言明白。扶持千古綱常。可以爲天下臣子之法。豈可徒詞章視也哉。」

     その三十

 (そう)(まつ)(てい)(しよ)(なん)(ちよ)(しよう)せられてゐる(てつ)(かん)(しん)()は、(わが)(くに)(おい)(せき)(じつ)より()(こう)(しよ)であつた。(この)(しよ)()(てい)()()つたには(らい)(れき)がある。

 (しん)()(はじめ)()()(りう)(こく)(ざう)してゐた。(はく)(うん)(しよ)()(てん)(せき)(さん)じた(とき)(かめ)()(ぼう)(さい)がこれを()た。()(てい)()()にあつてこれを(ぼう)(さい)()り、(たづさ)へて(きやう)(かへ)つた。そして()(てい)(はやし)(ざき)(ぐう)するに(およ)んで、(やま)(ぐち)(あふ)(こう)はこれを()(てい)()りたのである。

 ()(てい)()りた(かめ)()(うぢ)(しん)()には(しよ)(/\)(しゆ)(しよ)(ひやう)()があつた。()(てい)はその(あるひ)(ぼう)(さい)()()でたるを(うたが)つて(ぼう)(さい)()うた。しかし(しゆ)(しよ)(はく)(うん)(しよ)()(ざう)(ちよ)()(すで)()つたのであつた。

 (はま)()(うぢ)(たか)(はし)(うぢ)(ざう)(ぼう)(さい)(しゆ)(かん)の一(せつ)(せう)してわたくしに(しめ)した。(ぼう)(さい)()(てい)(こた)へたものである。「鐵凾心史之事被仰下、いつまでも被差置候而不苦候。硃字の評は僕に而無御坐候。是本は百年以前東都に野間安節と申官醫御坐候。是人は都下の藏書家に而、白雲文庫と稱候。珍書奇籍夥敷持居候との事に候。是人の本に而僕二百卷餘り手に入れ插架いたし居候所、窮窘之節轉賣いたし、漸七八部殘り居候までなり。是一部に御坐候。評も其節より有之趣に候。」

 (あふ)(こう)(しん)()()りて(えつ)(どく)し、(ひやう)()らざるを(おぎな)つてこれを(かう)(こく)せむことを(はか)つた。()(てい)(じよ)(この)(とき)()つたのである。(じよ)(いは)く。「余昔遊關東。獲之龜田穉龍氏。喜猶得寶簶。携而南歸。示吾友韓聯玉。聯玉慨然謀梓以廣傳。原本有朱書評語。而不完。不知出何人手。聯玉校讀之次。間書所感。續成之。併存入刻。刻成。屬余序之。(下略)。皇文化十三年歳次丙子秋八月。志州後進北條讓謹撰。」

 (やま)(ぐち)(ばん)(しん)()(はた)して()(てい)(じよ)()(ごと)く、(これ)より(のち)(ねん)(へい)()(とし)(いた)つて(かん)(かう)せられたであらうか。

 (いち)(むら)()(だう)さんの()ふを()くに、(ない)(かく)には(げん)(みん)(ざん)(くわん)(ぽん)がある。「内閣文庫圖書目録漢書門類別二、詩文部テ」の(もと)に「鐵函心史七卷、宋鄭思肖撰、明版二」と()ふものが(これ)である。それから(ほん)(ぱう)(くわつ)()(ぼん)(とう)(きやう)(てい)(こく)(だい)(がく)()(しよ)(くわん)にあり、(また)(いち)(むら)(うぢ)(ぶん)()にある。()()(みな)(ぐわん)(ぽん)で、(いち)(むら)(うぢ)(ざう)(ほん)は三(ぐわん)(がつ)して一(ぽん)としてある。三(ぐわん)(ぼん)は「咸淳集、大義集、中興集等に止まり、久々書、雜文、大義略序等を闕」いてゐる。そして「卷尾奧附に出板年月及出板者の姓名を記さ」ない。(あん)ずるに(これ)()(ほん)(ぱう)(くわつ)()(ぼん)(やま)(ぐち)(ばん)にはあらざるものゝ(ごと)くである。

 (かの)(ほん)(ぱう)(くわつ)()(ぼん)(はた)して(なに)(ひと)何處(いづこ)(おい)(こく)したものであらうか。(また)(やま)(ぐち)(ばん)にして(はた)して()(おこな)はれたとするなら、これを(こく)した(しよ)()(きやう)()(おほ)(さか)か。(その)(しよ)(いま)(そん)せりや(いな)や。()(そん)するならば、(その)(こく)(ほん)(もく)(てう)か、(くわつ)()か、(その)(くわん)(しゆ)には()(てい)(じよ)()せられたりや(いな)や。(おほよそ)(これ)()(こと)(みな)わたくしの(いま)(つまびらか)にすること(あた)はざる(ところ)である。

     その三十一

 わたくしは(ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)二十四(にち)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(ちゝ)()(そう)()(てい)(あた)へた(しよ)()いて、その(てい)(しよ)(なん)(てつ)(かん)(しん)()(こと)()ふ一(だん)(せう)し、()するに(しん)()(りやく)(かう)(もつ)てした。その(せん)(ろう)()るに()るものなきは(もと)よりである。わたくしは(たゞ)()(てい)(しん)()との(くわん)(けい)(あきらか)にせむと(ほつ)して、(はか)らずも()(げん)(せめ)(まぬか)れざるに(いた)つたのである。

 ()(そう)(かの)(しよ)(ちゆう)(おい)(たゞ)(てつ)(かん)(しん)()(こと)()つたのみでなく、(また)(しやう)(かん)(ろん)(こと)()つた。(これ)より(さき)(あふ)(こう)(しやう)(かん)(ろん)(くわん)して、(なに)(ごと)をか西(にし)(むら)(きふ)()(たく)したものゝ(ごと)くである。(あるひ)(おも)ふに()(てい)(あふ)(こう)をして(きふ)()(たく)せしむるに、(ひろ)(をか)(ぶん)(たい)(かう)(ほん)(ふく)(けん)することを(もつ)てしたのではなからうか。(これ)(やゝ)()()(わた)(きらひ)があるが、(おも)()つたまゝに、(しばら)(こゝ)(ろく)して()く。()(そう)はかう()つてゐる。「傷寒論は維祺へ向頼置申候由に候。」

 (えう)するに(てつ)(かん)(しん)()()ひ、(しやう)(かん)(ろん)()ひ、(みな)(あふ)(こう)()(てい)()りてゐて、これを(かへ)さずに(ほく)(いう)()(のぼ)つたので、()(てい)()()()(そう)(その)(しよ)のなりゆきを()うたものであらう。

 (さい)()()(そう)()(とう)()(ぶん)のために(ぐわ)(さん)()(てい)()うてゐる。「竹畫之詩、上に御認被下、佐藤へ御遣し可被下候。」

 わたくしは()(そう)の四(ぐわつ)二十四(にち)(しよ)(とも)に、(きふ)()(どう)(げつ)二十七(にち)()(てい)(あた)へた(しよ)()げようとおもふ。(この)(きふ)()(しよ)()(てい)(そう)()(だう)(えき)(どう)(はう)であつた(そう)(れう)()(こと)()つてゐる。「了普尊者事跡(中略)如仰建碑等之事は大そうに可有之、御文集中御記録先々被成置候て、尚追て御取計も出來可申奉存候。」

 ()(てい)(せふ)(ひつ)(そう)(しん)(えい)(そう)(れう)()との(こと)()する一(ぶん)があつて、それを(つく)つたものは(きふ)()である。

 (しん)(えい)(おほ)()()(ちやう)(さか)(たに)(うぢ)(いへ)(うま)れた。(とく)()(のち)(きく)(たん)(けん)(しよう)(したが)ひ、(みつ)(けう)(きう)()(むろ)()け、(しよ)(りう)()()一千百九十(ぽん)(しゆ)(しや)して、一はこれを()(むろ)(ざう)し、一はこれを()()()(りやう)()(ざう)した。(つい)(だい)(そう)()(にん)ぜられ、(かう)()(だい)()(しやう)(らい)(しよ)の一と、(けい)(しやう)(ゐん)()()(たい)(ひつ)()()(けん)(まい)とを(たま)はつた。(しん)(えい)(また)(しよ)()くし、(ひつ)(ぱふ)(しま)(さは)(うぢ)()けた。(しま)(さは)(うぢ)(けい)(さん)(てつ)(ちやう)(らう)(をしへ)(つた)へたのである。(ばん)(ねん)(いた)り、(しん)(えい)()(けん)(あん)()(りやう)()(けい)(だい)(いとな)んで(せい)(そく)した。(さか)(たに)(うぢ)(たく)()()(せい)があつて、(しん)(えい)(せん)(けん)(すゐ)(しよう)がある。(しん)(えい)(のち)(をつ)(さか)(うつ)り、(きやう)(はう)(ねん)(ぐわつ)()、八十八(さい)にして(じやく)した。(これ)()(つた)ふる(ところ)(しん)(えい)()(せき)である。

 (しか)るに(ほう)(でう)(うぢ)(まと)()()(らう)との(こう)()(つた)ふる(ところ)()れば、(ほう)(でう)(だう)(えき)(どう)(はう)(れう)()(また)(えい)(こう)(しよう)し、()(りやう)()(しよう)した。(ほう)(でう)(うぢ)(いへ)(むかし)より(ぐわん)(たん)()くる(ところ)(くわい)(じく)がある。(その)「一天膏雨、千里仁風」の八()(しん)(えい)(ひつ)である。(ほう)(でう)(うぢ)(えい)(ゐき)(せき)(けい)(たふ)があつて、(その)(しよ)(また)(しん)(えい)である。(れう)()()つる(ところ)(せい)(ほう)(さん)(ばう)(てん)(によ)()があつて、(せい)(はう)(さん)には(しん)(えい)(へん)(がく)がある。

 (こゝ)(おい)(きふ)()(しん)(えい)(れう)()との(あるひ)(どう)(じん)(ぶつ)なるべきを(おも)つた。しかし(れう)()歿(ぼつ)(ねん)(くわん)(ぱう)(ねん)である。(きふ)()(つひ)にかう()つた。「或疑了普學書於眞榮。以其善書。世亦直稱無量寺也歟。」

 (あん)ずるに()(てい)(きふ)()をしてこれを()せしめたのは、(きふ)()(ない)(てん)(くは)しかつた(ゆゑ)であらう。(きふ)()(この)(かん)(ちよう)するに、()(てい)(たう)()()(れう)()(きう)(きよ)(せい)(うん)(あん)()()てようとしてゐたと()える。

 (きふ)()(しよ)()(てい)()せた二十七(にち)には、(れん)(たい)()(しふ)(くわい)があつた。「今日蓮臺精舍御出席も無御座遺憾奉存候。」

     その三十二

 (ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)()より二十八(にち)(いた)(あひだ)に、()(てい)(まと)()より(はゝ)(しゆく)()とを(はやし)(ざき)(むか)へた。(こと)は二十八(にち)()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)()えてゐる。(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。「先日は母樣並に叔母被見候處、無何風情殘念奉存候。」

 わたくしは()(この)(しよ)(かう)()(さく)だと()(しよう)(しめ)さうとおもふ。「仙洞御所七十御賀(去十二月廿五日)御酒宴の御肴裏松家へ拜領、山田春木氏へすそわけ被下候をいたゞき候。ありがたき事に存候間、母樣並に子供へ御いたゞかせ可然候。」(たう)()(せん)(とう)()(しよ)(によ)(てい)()(さくら)(まち)(てん)(のう)でおはしました。(かう)(たん)()(げん)(ぶん)(ねん)(ぐわつ)()より()せば、七十の()()(ぶん)(くわ)(ねん)(おい)てせられたであらう。その(とく)に十二(ぐわつ)二十五(にち)(もつ)てせられたは(なに)(ゆゑ)(いま)(かんが)へない。(うら)(まつ)()(うら)(まつ)(ぜん)(ちゆう)()(ごん)(かた)(みつ)(きやう)であつた。()(えん)(さかな)(うら)(まつ)(はる)()()()(ほう)(でう)(うぢ)(いへ)(いた)つたのは、(なか)(げつ)(へだ)てて、()(ねん)(かう)()(ぐわつ)である。所謂(いはゆる)(さかな)(おそら)くは(するめ)(こん)()などの(たぐひ)であつただらう。

 ()(てい)(この)(しよ)(つく)つた(かう)()(ぐわつ)(すゑ)には、(はやし)(ざき)(しよ)(ゐん)(はん)(げき)()(なか)であつた。それは(ばく)()(しよ)(もく)(ろく)(しん)することを(めい)じた(ゆゑ)である。「此節御老中より當所御奉行へ被仰付、兩文庫書籍目録しらべ御坐候に付、何歟と兩宮共に多用、私方も日々會集御坐候。迷惑なる事に而、私は斷申度候得共夫なりに(相成)、さわがしく候而こまり入候。夫に付書籍皆々取寄せ御坐候。御宅へ參り候書籍等も何卒早便に皆々御返納可被下、乍御面働奉希候。又々追而はかり上可申候、參向人立合に而相しらべ候。乍去別段御遣被下候には及不申、朔日二日あたり迄に御便に御遣可被下候。」(りやう)(ぶん)()とは(ない)(ぐう)(はやし)(ざき)(ぶん)()()(ぐう)(みや)(ざき)(ぶん)()である。(ばく)()(めい)()けた(やま)()()(ぎやう)()(ばやし)(ちく)(ごの)(かみ)であつた。

 ()(てい)(この)(ばう)(ちゆう)にあつて、(なほ)(れい)(ごと)(ちゝ)(らい)(いう)()うてゐる。「もし御小閒も候はゞ其内兩三日御來駕奉希候。」しかし(てき)(さい)(この)(こひ)(おう)ぜなかつたらしい。

 五(ぐわつ)(さく)()(てい)(また)(せつ)(かん)して(はゝ)(まね)いた。「此節は芝居もはじまり候。しかし各別おもしろくなきよしに候。芝居はともあれ、からすか二見か、どこぞ御供仕たく候。私も久しく他出やめ居申候。二三日許旅行いたし度候。御參宮旁、それにほころび又は仕立物も御ねがひ申上たく候。三四日がけに御こし被遊たく候。あつうならぬ内がよろしく、節句過頃袷とひとへ物にて御こし被遊たく候。どこへも御噂なしに、つい忍びに御出可被下候。おつう御めしつれ候てもよろしく候。八藏におばし候而、御きがへは六左衞門へ御言傳、さきへ御遣被下候てよろしく候。どこへも御出に及不申候故、御衣類も入申まじく、手がるく御こしまち上候。御遷宮の時は又々かくべつ、かへつてそう/″\敷候てよろしからず候。其節は又々御こし可被下候。なんでも事ははやくいたし候方がかちに被存候。鴨の長明が無名抄と申書云々。」からすは(から)()であらう。()(てい)(いもうと)(つう)()(ふたゝ)()えてゐる。「八藏におば」せは()はすることであらう。(あるひ)(はう)(げん)()()(みやう)(せう)(うん)(/\)(とう)(れん)(ほふ)()(すゝき)(こと)()はむがために()(ちゆう)(みの)(かさ)()りて()たと()()()である。(ぶん)(なが)きが(ゆゑ)(はぶ)く。

 (この)(しよ)(はじめ)に「良助も大分おとなしくいたし居申候、御あんじ被下間敷候」の(ぶん)がある。(これ)()つて()れば、(たゞ)(りつ)(けい)(たん)(じん)の二(てい)のみならず、(いま)一人(ひとり)(おとうと)(りやう)(すけ)さへ(はやし)(ざき)()てゐたと()える。(りやう)(すけ)(りつ)(けい)(おとうと)(たん)(じん)(あに)(この)(とし)十三(さい)であつた。

     その三十三

 (ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)(さく)()(てい)(はゝ)(しよ)()せて、(せつ)にその(まと)()より(はやし)(ざき)(らい)(いう)せむことを()うたが、(はゝ)のこれに(おう)じたか(いな)かは()(めい)である。

 二十四(にち)には()(てい)(しよ)(ぼう)(あた)へて(しゆ)(かう)(おく)られたことを(しや)した。(ぼう)(だれ)なるを()らぬが、その(まと)()(ふた)(おや)でないことは、()()より(すゐ)すべく、(また)()()(びと)でないことは、「此方より便無之、乍思御無音打過候、御免可被下候、何れ近内幸便委曲可申上候、此便待遠故、匇々」と()(ぶん)より(すゐ)すべきである。(この)(しよ)(ほとん)(せう)(しゆつ)するに()らざるが(ごと)きものではあるが、わたくしは(その)(うち)より()(てい)(いう)(じん)(にん)()()(いだ)した。

 「今日は、毎々被爲掛尊慮、色々重寶之品々御惠投、千萬難有仕合奉存候。先月五日に御遣被下候ものも無相違相達申候。其日高木、宇仁館など參合居、ひもの、ちまき別而賞翫仕候。此酒甚めづらしく別而奉謝候。社友を延候而鰹魚に而引杯可仕候。」

 (たか)()()(しゆん)(みん)(あざな)(こう)()(つう)(しよう)(かん)(すけ)(ばい)(をう)(がう)した。()()(ちく)()(ちよ)がある。()()(だち)()(のぶ)(とみ)(あざな)(せい)(うつ)(つう)(しよう)()()(だい)()()(かう)(がう)した。()(かう)(この)(ひと)なることは、()(むら)(せい)(ざぶ)(らう)さんの(をしへ)()けて()つた。二(にん)(せい)()(はじめ)(こゝ)()えてゐる。

 六(ぐわつ)二十(にち)には()(てい)(しよ)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へて(はやし)(ざき)()(とき)(けい)(くわく)()げた。(これ)より(さき)(へき)(ざん)(まと)()より(はやし)(ざき)()て、(しよ)(ゐん)(ぐう)してゐたことは(かみ)()えてゐる。(へき)(ざん)(はやし)(ざき)にゐた(あひだ)(しば/\)(きやう)()(まと)()(わう)(らい)したことも(また)(おな)じである。わたくしは(いま)(まさ)()(てい)(かう)()(ぐわつ)二十(にち)(しよ)(せう)せむとするに(あた)つて、(なほ)()(さふ)()すべきものがある。それは(へき)(ざん)()()にゐた(あひだ)(しゆう)()(はやし)(ざき)にのみゐたのでなく、一()()(とう)()(ぶん)(もと)(ぐう)してゐたかと()(もん)(だい)である。

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(ねん)(げつ)()()(てい)(しよ)がある。(こう)(じやう)(がき)(ごと)きもので、(かみ)()(をは)つた(はし)に、「宇治畑佐藤吉太夫樣にて北條大助樣、用事、同讓四郎」と(しよ)してある。「愈御安康珍重奉存候。然者拙者儀五日に御地方へ參り候積りに御坐候。少々用事有之候間、其方一寸御歸宅可被成候。明日六右衞門殿被歸候間、よりもらひ候間、六右衞門と同道に而御歸可被成候。吉太夫樣へ其譯被仰可被下候。今日は別紙、上不申、可然奉頼候。急便早々以上。」(きち)(だい)()()(ぶん)(つう)(しよう)である。(ちや)(ざん)大和(やまと)()(かう)にも(また)(つう)(しよう)(しよ)してある。(この)(しよ)()れば(へき)(ざん)(すで)(ひさ)しく()(とう)(うぢ)にあるものの(ごと)くである。()(てい)(まさ)(みづか)()()(ばた)()かむとして、(へき)(ざん)に一たび(かへ)らむことを(めい)じてゐる。(かへ)るとは(いづ)れの()(かへ)るのであらうか。(はやし)(ざき)か、(はた)(まと)()か。(あるひ)(おも)ふに(この)(しよ)()(てい)(はやし)(ざき)()(まと)()(かへ)つた(のち)のものではなからうか。()(しか)らば()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)()(とう)(うぢ)(たく)して(はやし)(ざき)()つたものか。(なほ)(かむが)ふべきである。

 六(ぐわつ)二十(にち)()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)は、(はやし)(ざき)より(まと)()()つたものである。()(てい)はその(てつ)(きよ)すべき(はやし)(ざき)()して「此表」と()つてゐる。(また)(まと)()(かへ)ることが、「御郷里へ參上」と()つてあり、(ふた)(おや)への(こと)(づて)(しよ)してあるを()れば、(へき)(ざん)(まと)()にゐたことも(また)(あきらか)である。(しよ)(まと)()(しよ)(どく)の一で、その(はやし)(ざき)(てつ)退(たい)(こと)()(ぶん)(しも)(ごと)くである。

     その三十四

 (ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)二十(にち)()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(りつ)(けい)(あた)へて(はやし)(ざき)(てつ)退(たい)(こと)()つた(ぶん)はかうである。「此表之義も廿五六日迄に相片付、河崎氏隱宅へ一先三四日引取居可申相談仕候。其譯は先當月中に此方の暇乞並に用事は一切相仕廻、そふいたし候而朔日二日の内に御郷里へ參上可仕候。荷物之義どういたし候而も、當分之品は各別、河崎迄出し置、貴郷よりの船便へ差出候やう可仕候。左樣思召可被下候。それに付一人に而もたれ候程の物當用之品は八藏にもたせ遣可申候。廿三四日五日あたり迄に是非御遣し可被下候。拙者歸り候節は獨行に而よろしく候。ふと存じ候には盆後備後行荷物等之順も有之、貴郷より大坂舟相頼乘船大坂迄參り可申やと存候。此節海上穩にも有之、勞煩をまぬかれ、且は大船にのり候事終に無之、一奇觀ならんと被存候。しかし如何可有之哉、是はいづれ參上之上相談可仕候。いづれとも山田表は當月限にいたし候而、郷里より直樣出裝之積りに御坐候。社中も凹巷色々心配之筋有之、とかく送行などの義かれこれとおつこうにならぬやういたしたき小生下心に候。」

 ()(てい)は六(ぐわつ)二十五六(にち)(ころ)(はやし)(ざき)(しよ)(ゐん)()して(かは)(さき)(けい)(けん)(べつ)(げふ)()(ぐう)せむと(ほつ)してゐる。しかし(この)()(ぐう)は一()(こと)である。()(てい)(これ)より一たび(まと)()(かへ)つて(こく)(べつ)し、「直樣出裝」しようと()ふ。(これ)何所(いづく)()くのであるか。

 ()(てい)は「大坂迄參り可申哉と存候」と()つた。しかし(おほ)(さか)(もく)(てき)()ではなささうである。「盆後備後行荷物」とは(なん)であらうか。()(てい)(くわん)(ちや)(ざん)(れん)(じゆく)()つたのは三(ねん)(のち)である。(あるひ)(おも)ふに()(てい)(びん)()(ゆき)(たん)(しよ)(はや)(この)(とき)(きざ)してゐて、(こと)(さまた)げられて(はた)さなかつたのであらうか。

 ()(てい)(まさ)(はやし)(ざき)()らむとする(とき)(かう)(しう)(せう)(しや)のために(ばう)(さつ)せられた。(おな)(しよ)にかう()つてある。「此節色々立前の仕事、歐陽公本義等うつしかかり候。詩補傳書き入候。其外何歟と多事、暑中獨居殆困入候。鐵函心史先に差上候分、乍御苦勞匇々御うつし可被下候。」(おう)(やう)(こう)(ほん)()(おう)(やう)(しう)(まう)()(ほん)()十六(くわん)である。()()(でん)(しん)(だい)(いた)つて(そう)(はん)(しよ)()(せん)とせられた(しよ)で、(おほよそ)三十(くわん)ある。(ならび)(つう)()(だう)(けい)(かい)(ちゆう)(をさ)められてゐる。()(てい)(ぶん)()(ぼん)()いて、(あるひ)はうつし、(あるひ)(かき)(いれ)をしてゐたのである。その(へき)(ざん)(くわ)して(てつ)(かん)(しん)()(うつ)さしめたのは、(げん)(ぽん)(かめ)()(うぢ)(かへ)さむがためか。(はた)して(しか)らば、(かみ)()えた(まう)(しやく)(とう)(しや)も、(まう)(しやく)()()のためにしたのではなくて、(しよ)(いう)(ぶん)(たん)して(かう)(ほん)(くわん)(せい)(げふ)()したのであらうか。

 六(ぐわつ)二十(にち)(しよ)には()(てい)(いう)(じん)()()すること(わづか)に一(にん)のみである。「瓦全よりも書通、これもすぐれ不申候よし、被案候ものに御坐候。」(ぐわ)(ぜん)(かしは)(ばら)(うぢ)()(かず)(より)(あざな)()(いう)(たちばな)(せい)(きやう)()(ひと)である。

 (こえ)て六(ぐわつ)二十二(にち)()(てい)(しよ)(ちゝ)(てき)(さい)()せた。「八藏御遣被下候はゞ、廿六七日に御遣可被下候。其節良助も遣申たく候。」()(てい)(はやし)(ざき)()(とき)(おとうと)(りやう)(すけ)をも(まと)()(かへ)さうとしてゐるのである。

 (しよ)(ちゆう)には(なほ)二三の(ざつ)()がある。(はん)()()()ふものが(まと)()より(はやし)(ざき)()()に、()(てい)(やま)()()(くわい)(おもむ)いてゐて、欵(くわん)(たい)することを()なかつた。(また)()(てい)(まと)()(ぼう)()(あは)せた(こと)があつて、(その)(はう)(ふく)()つてゐる。それゆゑ(ちゝ)(かの)(はん)()()(しや)せむことを()ひ、(また)(かの)(はう)(しやう)(いた)れりや(いな)やを()うてゐる。(ぶん)(こゝ)(ぜい)せない。

     その三十五

 (ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)二十八(にち)に、()(てい)(すで)(かは)(さき)(けい)(けん)(べつ)(げふ)にあつて(しよ)(まと)()なる(おとうと)(へき)(ざん)(りつ)(けい)(あた)へた。(これ)(また)(まと)()(しよ)(どく)(うち)にある。(ぶん)(ちゆう)に「河崎良佐君隱居に暫時罷在候」と()ひ、(すゑ)に「大世古川崎善五樣宅にて北條讓四郎」と(しよ)してある。(おほ)()()(ちやう)(めい)で、(すで)(そう)(しん)(えい)(せい)()(さか)(たに)(うぢ)(こと)()した(でう)()えてゐる。(けい)(けん)(つう)(しよう)(かみ)()いた(しよ)()れば()()(すけ)なるが(ごと)くである。(あるひ)(べつ)(ぜん)五の(しよう)があつたか。(よね)(やま)(そう)(しん)さんの()には(けい)(けん)が「善弼」と(しよう)したと()つてある。(なほ)(かんが)ふべきである。

 (この)(しよ)(また)(しゆ)として(りよ)(かう)(けい)(くわく)()いてゐる。「今日荷物片付居候。河崎行荷等仕たて申候。(中略。)いづれ小生は來月五日夜宇治佐藤氏迄參り、翌六日貴宅へ罷出候。扨舟之儀は如何可仕哉。盆後相應なる便船有之候はゞ、大坂迄のり見申たく候。しかし御雙親樣方並に足下思召は如何。小生は大船はじめてとも存、氣遣なき時節、それに荷物等直樣積入まゐり候義便理かとぞんじ候故に候。舟にいたし候て不苦思召候はゞ、早々御便一寸御しらせ可被下候。さすれば此方にのこし有之候兩がけ二つ直に大坂飛脚に差出し置參り候義やめにいたし、やはり郷里に持參、一所に舟積可仕候。いつも度々御煩勞に候得共、八藏ならでもよろしく候、五日に川崎氏迄御遣し可被下候。その節兩がけもたし、六日同道にていそべ迄參り可申候。もし不被遣候はゞ、荷物飛脚に差出すか、又は其儘預け置參り可申候。此度の川崎舟に積候而はこゝ五六日の間入用の物有之不自由に候故に候。かわご二、一つは備後行書物に候。御受取置可被下候。(中略。)陸にても海にても、先盆後十七八日頃出立と存候。船なれば直ゆへ、此表暇乞等は兩三日中濟し可申候。」(えう)するに()(てい)は七(ぐわつ)()()()()なる()(とう)()(ぶん)(いへ)()き、六()(まと)()(かへ)らうとしてゐる。さて()()(ぼん)()、七(ぐわつ)十七八(にち)(りよ)(てい)()かうとしてゐる。その(こゝろざ)(かた)はいづこか、(はた)して(びん)()であつたか、(これ)(かみ)()つた(ごと)()(けつ)(もん)(だい)である。

 ()(てい)(りよ)(かう)(じゆん)()のために、(はゝ)(わづらは)すことの(はなは)だしからむを(おそ)れた。(しよ)(ちゆう)にかう()つてある。「衣類夜具甚かび參り候。御母樣御ひとりに而何歟手ばり候而恐入候。外人御やとひ被遊可被下樣奉頼候。」

 (この)(しよ)(また)(ぶん)()(ぼん)(せう)(しや)(こと)(うん)(ぬん)してゐる。「鐵函心史はやく御筆取被下御苦勞奉存候。此方にも色々抄録ものさしつかへ、いまだ片付兼、少々加勢いり候位に御坐候。詩補傳一册何卒三四日迄に是非々々御うつし取可被下候。これは至而祕し候而、向へ參らねばうつさせぬ位に祕重いたし候。其方へ差上候は極内々に而、やはり小生手前に而うつし候積りにいたし候間、小生此方出裝迄に是非に御遣し可被下候。(中略。)何分にも補傳は三日か四日の内御遣し可被下候。右五日に人御遣し被下候はゞ、其便にて隨分よろしく候。」(てつ)(かん)(しん)()(はじめ)より()(てい)(へき)(ざん)をして(とう)(しや)せしめむと(ほつ)した(ところ)である。(しか)るに()(てい)(のち)()()(でん)(うつ)すことをさへ、(へき)(ざん)(あは)(たく)したのである。(たう)()()()(でん)()(くわん)(しよ)であつた(じやう)(きやう)が、(この)(しよ)()つて()()せられる。

 (つぎ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)なる西(にし)(むら)(きふ)()(しよ)で、七(ぐわつ)()(まと)()にある()(てい)(あた)へたものである。(この)(しよ)(きく)(くわ)(ゑが)いた(はん)(きれ)(きん)(/\)(ぎやう)(もん)()(とゞ)めたものであるが、わたくしがためには(すこぶ)(いう)(よう)のものとなつた。それは()(てい)(りよ)(かう)(もく)(てき)()(しめ)してゐるが(ゆゑ)である。()(てい)(びん)()()かむとしてゐたのではない。その()(もつ)(びん)()()所以(ゆゑん)()(めい)であるが、(びん)()()(てい)()かむと(ほつ)する()ではなかつた。

     その三十六

 (ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)()()(てい)()()()(とう)()(ぶん)(いへ)より(まと)()(かへ)るべき()であつた。(この)()西(にし)(むら)(きふ)()()(てい)(あた)へた(せう)(かん)がある。(きふ)()(しよく)せられた()(てい)(そう)()(だう)(えき)(どう)(はう)(そう)(れう)()(こと)()せむことを(だく)してゐる。()(てい)がこれを(きふ)()(しよく)したことは(せふ)(ひつ)()えてゐるのである。「了普闍梨之義御疑惑相成候處、難文乍ら文案取かかり可申、決て御同人相違有間敷候。」所謂(いはゆる)()(わく)(れう)()(えい)(こう)とは(どう)(にん)なりや()(じん)なりやと()ふに(そん)する。(きふ)()(この)(とき)(なほ)その(どう)(にん)なるべきを(もつ)(こた)へたのである。

 (この)(しよ)には(また)(かみ)()つた(ごと)く、()(てい)(りよ)(かう)(もく)(てき)()()()する()がある。「東行御思立被成、如何御用事有之候哉、又は去就かかり候哉覽、無覺束候。」(これ)()つて()れば、()(てい)(まさ)()()()かむとしてゐたらしいのである。(たゞ)(きふ)()(さう)(しよ)(すこぶ)()(がた)きが(ゆゑ)に、(こゝ)()(ところ)にも(また)()(どく)なきことを(はう)せない。(しよ)(すゑ)には「七夕前一日、維祺拜、霞亭兄梧右」と(しよ)してある。わたくしは(ちなみ)(こゝ)(きふ)()(せい)()(つい)て一(げん)して()きたい。わたくしが(きふ)()西(にし)(むら)(うぢ)となしたのは、()(てい)が「友人西村及時、名維祺、字維祺、(中略)緇林莫不知有及時居士」と()つてゐる(ゆゑ)である。(しか)るに(はま)()(うぢ)(あふ)(こう)(しよ)(ちゆう)より()()()()()()(いだ)した。(つい)()(むら)(よね)(やま)の二()(また)()()()()()(うぢ)なるを(はう)じた。その(どう)(じん)なることは(あきらか)である。(なほ)(かむが)ふべきである。

 わたくしは(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(たん)に「九()」とのみ(しる)してある()(てい)(しよ)(この)(つぎ)(れつ)せようとおもふ。(なに)(ゆゑ)()ふに、わたくしは(この)(しよ)(もつ)(かう)()(ぐわつ)()(つく)られたものとなすからである。(しよ)(ちゝ)(てき)(さい)()せたもので、()(てい)(ふたゝ)(はやし)(ざき)(かへ)つてゐる。

 ()(てい)(すで)(おや)(まと)()(せい)して、(しか)(のち)(はやし)(ざき)(かへ)つたことは、(しよ)(ちゆう)に「誠に此間は寛々御拜顏大慶奉存候」と()つてあるより(すゐ)せられる。そして()()(ゆき)(こと)(その)(しも)(めい)(はく)()(いだ)されてゐる。

 「關東行の義、山口、西村抔へも相談申候處、菟角いそぎ候方よろしかるべく被申候。九月と申候ても、却而邪魔等はゐり、又ははり合もぬけ可申被存候。何れ來月(八月と書して塗抹し、來月と改めてある)一ばいにかへり候やう急用申參り候故、無據出立と世間へ申置候がよろしからんと皆々被申候。私存候にも、九月迄居申候へば五十日餘の日數延引候故、物入も多く、かつは只今にては吉田舟參り候へば、八日めには江戸著仕候間、かれこれ順よろしく存候間、先盆後二十日頃出船之積りに相決し候間、其段偏に御免許奉希候。御一家中へは書物出來候に付急に用事有之參り、無程歸宅可仕と被仰可被下候。又其外相尋候人も有之候はば、無據内急用にて江戸表より申參り候故、暫時出府いたし候とばかり被仰度存候。左樣候へば、何れ霜月上旬迄には歸國仕可申候。必々御案じ被下間敷候。御遷宮に逢不申候義、少しも殘念には無之候。又々今度の遷宮にも存命はしれたる事に候。山口は西國游行ならば、直に同伴可仕と、たつてすゝめられ候へども、私東行は游覽にては無之、畢竟幾分の緊用に候故、其相談にはのられ不申候。いづれ左樣候へば、十七八日頃又々參上可仕、昨日世話人方へはすでに申出し候處、各別怪しみも不仕、猶又歸國後住院ねがひ候と申位の事に候。書生へは未申出し不申候。」

 (えう)するに()(てい)は七(ぐわつ)十七八(にち)(かさね)()(せい)し、さて二十(にち)(ごろ)(よし)()(はつ)(ふね)(のぼ)つて()()(むか)はうとしてゐるのである。(はやし)(ざき)(しよ)(ゐん)()する(じやう)(きやう)は、(その)()()(にん)が「猶又歸國後住院ねがひ候」と()ふを()(ほゞ)(すゐ)することが()()る。()(てい)(たゞ)()()(ゆき)(こと)(きふ)()(はか)つたのみならず、(また)これを(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(はか)つた。(あん)ずるに(あふ)(こう)(すで)(ほく)(いう)より(かへ)つてゐたのである。(ほく)(りく)(いう)稿(かう)(さい)()()は五(ぐわつ)十九(にち)(なが)()(がは)()(かひ)()る七()である。(あふ)(こう)()()より(たゞち)()()(かへ)つたのであらう。

     その三十七

 (ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)()()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)には、(ひと)()()(ゆき)(けい)(くわく)(さい)(せつ)してあるのみではなく、(また)(はやし)(ざき)()(とき)いかに(おとうと)(りつ)(けい)(りやう)(すけ)(にん)(しよ)()すべきかの(もん)(だい)()(りよ)してある。「文之助十日に御かへし可被下候。何歟と用事も有之、かつ近内朝熊へ參詣爲致可申候。右之順故、大助は先々出立迄書院にさし置可被下候。西村君被仰候は、私留主中良助にをしへ可申やうに被仰下候。夫にては甚よろしく候へ共、御存之良助物覺えわるく、もつとも鈍き分は構なしと被仰候。もしくは大助にても御頼可申上やとぞんじ候。箇樣なる義も何れ近日御相談可申上候。」(だい)(すけ)(りつ)(けい)()(てい)()るに(いた)るまで(しよ)(ゐん)(とゞ)()(はず)である。西(にし)(むら)(きふ)()()(てい)(きよ)()(りやう)(すけ)(をし)へようと()つてゐる。しかし(りやう)(すけ)()(せい)(とぼ)しきものゆゑ、これを(きふ)()(たく)せむも()(らう)であらう。(むしろ)(りつ)(けい)(きふ)()(たく)せようか。(これ)()(てい)()(けん)である。(ぶん)()(すけ)()(てい)(しよ)(てい)(とも)(はやし)(ざき)(きた)(ぐう)してゐて、(しば/\)()()()()(あひだ)使(つかひ)として(わう)(らい)したものと()える。

 (おな)(しよ)()(てい)()(せい)()(ぶん)(ぺん)(まと)()(のこ)して()いたことが()つてある。「此間佐野右近序文わすれ參り候。文之助へ御遣可被下候。」()()()(こん)()ふものが()(てい)のために(さう)した(そう)(じよ)などであらうか。(この)(ぶん)()(どく)なきことを(はう)(がた)い。

 七(ぐわつ)十七八(にち)(ころ)(かさね)(まと)()()(せい)し、二十(にち)(ころ)(ふね)(のぼ)つて(やま)()(はつ)せようと()ふのが、()(てい)()(てい)であつた。()(てい)(まと)()()つた()()(めい)であるが、十五(にち)には(なほ)(はやし)(ざき)にゐた。(たか)(はし)(うぢ)(ざう)()(せん)(ちゆう)(あふ)(こう)の七(りつ)があつて、「庚午七月既望、同敬軒訪霞亭于林崎書院」(うん)(ぬん)(だい)してある。さて(まと)()()つた(のち)()(てい)(こと)(さまた)げられて(けい)(えん)したらしい。七(ぐわつ)二十二(にち)には()(てい)(なほ)(いま)()(のぼ)らなかつた。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)の二(しよ)がこれを(しよう)する。(その)一は(かは)(さき)(けい)(けん)(この)()()(てい)(あた)へた(しよ)(その)二は(たか)()(ばい)(をう)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)西(にし)(むら)(きふ)()の三(にん)(れん)(しよ)して()(てい)()(えん)(せう)(せい)した(あん)(ない)(じやう)である。

 (けい)(けん)(しよ)()るに、()(てい)(たう)()(まと)()にゐた。「二尊始御擧家御無事之よし、此方相揃無恙罷在候。乍憚御罣念被下間布候。」(これ)(しよ)(どく)(はじめ)()である。「乍筆末二尊御始立敬君へ宜被仰可被下候。此度は書状も上げ不申候。」(へき)(ざん)(りつ)(けい)(また)(すで)(まと)()(かへ)つてゐた。

 ()(てい)(ぜん)(じつ)使(つかひ)(つかは)して()(もつ)()(かは)(さき)(うぢ)(おく)つた。(けい)(けん)(そく)(じつ)、二十一(にち)(ふで)()つて(この)(しよ)(ぜん)(はん)(つく)り、()(じつ)(また)これを()(そく)した。(ちゆう)(かん)に「是より翌朝認」と(ちゆう)してあり、(すゑ)に「七月二十二日、河崎良佐、北條讓四郎樣御下」と(しよ)してある。使()(じん)(かう)()(こと)は二十一(にち)、二十二(にち)(りやう)(じつ)(しよ)する(ところ)(かゝ)る。「小生御分袂以來俗事甚多、今以晝夜奔走仕候。先日(十二日出)御状被下、早速御返事も可申上處、何角差上候ものも一緒に人出し可申存候而、彼是延引仕候。御宥恕可被下候。今日は御飛脚被下忝奉存候。御荷物二箇御預り申上候。途中大雨に逢しゆへ、荷物大にぬれ申候ゆへ、如何敷候へ共、凹巷君へ持參、上計開封仕候。中は少しもぬれ不申候へ共、袱子などはしぼり候程ぬれ申候。何れ明日上を包直候而増川へ出し置可申候。隣哉より書状も相添可申候。京への荷は油紙包ゆへぬれ不申候。(以上二十一日)荷物入用南鐐一片御遣し被下落手仕候。今廿二日便に増川へ出し置可申候。(以上二十二日)」()(てい)(はや)く七(ぐわつ)十二(にち)(まと)()にあつて、(しよ)(けい)(けん)(つかは)したことがあるやうである。()(せい)()(てい)より(きふ)にせられ、(とう)(かう)(かへ)つて(くわん)にせられたもの()()(もつ)は二()よりして(ほか)(なほ)(きやう)()るべきものがあつた。(りん)(さい)(いけ)(がみ)(うぢ)()(とく)(りん)(あざな)()(はく)(つう)(しよう)()(もり)(りん)(さい)(その)(べつ)(がう)である。

     その三十八

 わたくしは(ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)二十二(にち)(かは)(さき)(けい)(けん)()(てい)(あた)へた(しよ)()つて、(また)(へん)(えき)せられた()(てい)(しやう)()()(なん)(にち)なるかを()り、その(すゐ)()()てゝ(りく)()()くべきを(すゐ)することを()た。「廿三四日頃御出裝のよし。兼而此方にても皆々申候通船行は甚宜しからず、大に迂路、三十里に而ゆかれ申候處を、船にては百里餘にも成候由、其上此節は甚時節あしく、風波も無心元候ゆへ、是非陸路より御出立可然被存候。此節青山生之送詩に、陸程從此平於砥、莫上秋風港口船と申句も有之由承申候。いづれ廿四五日頃御こし被下候うへ御面談可申上候。御送之儀も凹巷君へ委細御談申上置候。社中へは一切噂いたし不申候而、凹巷兩人にて宮川むかひまで罷出可申候。いろ/\用事も御坐候間、先小生宅か凹巷かへ向御こし可被下候。御煩に相成不申樣に、人へもしらせ不申、宜取計可申候。」(けい)(けん)()(てい)をして七(ぐわつ)二十三(にち)より二十五(にち)(いた)(あひだ)()()(きた)らしめ、(こく)(べつ)した(うへ)(はつ)(じん)せしめようとしてゐるのである。「青山生」は(ひがし)()(てい)である。()(けい)(あざな)(はく)()(つう)(しよう)(ぶん)(すけ)(また)(がく)である。「青山」は()(てい)(けい)(けん)()する(ところ)()るに(うぢ)なるが(ごと)くである。その(ひがし)()(また)「青山」と()ふは(なに)(ゆゑ)か、(いま)(かんが)へない。

 (つぎ)にわたくしは(おな)(しよ)()つて、()(てい)(びん)()()かむと(ほつ)するのではないかと()(はじめ)(すゐ)(そく)が、(かなら)ずしも(あやま)らなかつたかと(おも)ひかへした。(けい)(けん)(ぶん)はわたくしをして、()(てい)()(びん)()()き、それより(みち)(てん)じて()()(むか)はむとしてゐるかを(おも)はしめる。「凹巷君よりも御噂申上られ候哉、備行路資之儀、社中にて差上可申筈に御坐候へ共、節季後皆々嚢中空虚、心外之至に御坐候。しかし社中取集二圓金許用意仕候。御出立之節獻呈可仕候間、其御積にて不足の處少々御用意可被下候。備までは多分も入不申候。大抵二圓に而可宜候へ共、資乏候而は心ぼそきものに御坐候。しかし空手にて御越に候はゞ、尚御越のうへ凹巷相談じ、可然取計可申候。」()(かう)()ひ、()までは(うん)(ぬん)()ふを()れば、わたくしは(かみ)(ごと)(かい)せざることを()ない。(さき)()えた(びん)()(ゆき)()(もつ)(こと)(こゝ)(いた)つて(くわん)(しやく)したものと()()しても()からう。(かつ)()(てい)(びん)()(ゆき)(やま)()()(しや)()(たく)のために()くものなることが、(けい)(けん)(ぶん)()つて(すゐ)せられる。(こと)(れん)(じゆく)(れん)(けい)せりや(いな)(いま)(かんが)へない。

 (つぎ)(けい)(けん)(おな)(しよ)に八(けい)()(その)(だい)()との(こと)()つてゐる。「八景いまだ相揃不申候。皆々一圖に一人づつは大形片付申候。詩はいづれも出來、凹巷君に大に御苦勞相掛申候。いづれ明日あたり迄(に)は皆々相揃可申候へ共、今日の便にはえ上げ不申候。其内立敬君御認被下候舞子濱ばかり差上申候。」(この)(けい)()(ならび)(だい)()(こと)()(しやう)である。しかしわたくしに一(せつ)がある。わたくしは(ちか)ごろ「伊勢十勝詩」(けん)(こん)(くわん)(もと)()た。「一櫻木里、二泉水杜、三巖波里、四打越濱、五三津湊、六藤波里、七河邊里、八岡本里、九關河、十大沼橋」を十(けい)とし、(まい)(けい)()三十(しゆ)(だい)したものである。(さく)(しや)(やま)()()(しや)(ひと)(/″\)で、(うち)()(てい)()(まじ)つてゐる。(あるひ)(おも)ふに(この)(しよう)(かの)(けい)()(そく)して()つたのではなからうか。十(しよう)()(くわん)(しや)(ほん)で、()()(とう)(だい)(かい)(しよ)(もち)ゐて(しよ)してある。そして(まい)(くわん)「神邊驛閭塾記」の(しゆ)(ぶん)(てん)(いん)がある。(あるひ)(おも)ふに(りよ)(じゆく)(すなは)(れん)(じゆく)ではなからうか。そして(この)(しよ)()(てい)()()(やま)()()(しや)(おく)つたものではなからうか。

     その三十九

 (ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)二十二(にち)(かは)(さき)(けい)(けん)()(てい)(あた)へた(しよ)には(なほ)(すう)()(でう)()してある。(おほむ)(はん)(さい)()ふに()らざるが(ごと)くであるが、(あるひ)()(じつ)(これ)()つて(なに)(ごと)をか(はつ)(めい)することがあるかも()れない。

 (その)一。「卷軸漸今日(二十一日)出來仕候。隣哉も此節は私同樣西城の臨時御用にて甚取紛、始終夜中に細工いたされ候ゆへ、甚出來よろしからず、小生より宜御斷申上候樣との事に御坐候。」(くわん)(ぢく)(なに)(しよ)(なに)(ぐわ)であらう()(いけ)(がみ)(りん)(さい)()(てい)のために(さう)()した(ところ)のものである。(りん)(さい)(さう)(くわう)(こと)()くしたと()える。

 (その)二。「諸子御頼申候扇子、其外御認もの、御苦勞之至、夫々相達し可申候。跡より御禮可申出候、」(やま)()()(しや)(しよ)(いう)(わかれ)(のぞ)んで()(てい)(しよ)()ひ、()(てい)はこれを(つく)つて(けい)(けん)(もと)(そう)(けん)し、これをして(しよ)(いう)(かう)()せしめた。

 (その)三。「先日御願申上候佐佐木照(原註、昭か)元への添書、近頃御苦勞之至恐入候へ共、是は私共の別而御願申上候儀に御坐候間、何卒御出立まで(に)御認被下候樣奉希候。何(れ)料紙さし上申候。何事にても宜候。唯貴兄御覽被下候儀を御認可被下候。十字許を御煩し申上候。」()()()(うぢ)(せう)(げん)(しよ)()()()()(ぢよ)である。()()()()()(こう)(まへ)()(つな)(のり)(さく)(めい)便(べん)(らん)に「一、二十人扶持、組外、書物役、五十三、佐々木志頭摩」と()してある。便(べん)(らん)(くわん)(ぶん)十一(ねん)()つたもので、()(うへ)の「五十三」は(ねん)(れい)である。(けい)(けん)(とく)(れう)()()つて、()(てい)をして(しよ)せしめむとした十()(ばかり)の「添書」とはいかなるものであらうか。「唯貴兄御覽被下候儀を御認可被下候」と()ふより(すゐ)するに、(けい)(けん)()()()(うぢ)(ざう)(ちよ)(ひん)のために(しき)()()(てい)(もと)めたものか。

 (その)四。「龜卜傳、辱奉存候。謹而恩(此字不明)借、尤他見いたさせ申間敷候。丹桂籍いつ迄成共御覽被遊候樣御申入可被下候。書經解二册奉璧、御落手可被下候。漸卒業仕候。律呂通考奉返、是又御落手可被下候。」()(てい)(ざう)(しよ)にして(けい)(けん)(あらた)()()たもの一(しゆ)(かつ)()りて(いま)(かへ)すもの二(しゆ)である。(たん)(けい)(せき)(けい)(けん)(しよ)(ざう)で、()(てい)(ちゝ)のためにこれを()りたのではなからうか。(たん)(けい)(せき)(のぞ)(ほか)の三(しよ)(おそら)くは(こく)(しよ)であらう。()(ぼく)(ぼう)(でん)(しよう)する(しよ)(すこぶる)(おほ)い。(しよ)(きやう)(かい)()(ゑん)(えき)(かい)ではなからうか。(りつ)(りよ)(つう)(かう)は、(はま)()(うぢ)()くに、()(ざい)(しゆん)(だい)(あらは)(ところ)だと()ふ。

 (その)五。「雨航いまだ歸り不申候。」()(かう)()()(だち)(うぢ)である。

 (まへ)(しる)した(ごと)く、(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)には七(ぐわつ)二十二(にち)(たか)()(ばい)(をう)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)西(にし)(むら)(きふ)()の三(にん)(れん)(しよ)して()(てい)(まね)いた(しよ)がある。(これ)(けい)(けん)(しよ)()(てい)(あた)へたと(どう)(じつ)のものである。「明後廿四日社中御餞別申上度候。草庵寺山に而開席候。四つ時御來臨可被下候。右草庵は山御不案内に御坐候はゞ、花月樓に而御聞合可被下候。三君も御同伴被下候へば大悦に候。七月廿二日、高木舜民、山口瑴、西村維旗拜。霞亭詞宗。」(しよ)(めい)(ちゆう)(やま)(ぐち)()(かく)(しよ)せずして(かく)(しよ)してある。しかし(この)()(もと)(おな)じであるから、(あふ)(こう)はどちらをも(もち)ゐてゐたと()える。(ばい)(をう)()()(てい)(さう)(あん)()(やま)(せん)せむと(ほつ)して、(この)(しよ)(まと)()()つたのである。これを(しよ)したものは(きふ)()である。()(てい)(どう)(はん)すべき「三君」とは、(だい)(すけ)(りやう)(すけ)(けい)(すけ)の三(てい)ではなからうか。

     その四十

 (ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)二十四(にち)(さう)(あん)()(やま)()(えん)(かなら)(ひら)かれたことであらう。しかし(まと)()(しよ)(どく)(のぞ)(ほか)(なに)()()(さい)をも(とゞ)めざる(この)(あひだ)(せう)(そく)(いま)(ぶん)(せん)(めい)することが()()ない。

 ()(てい)は八(ぐわつ)()には()()()いてゐる。(さだめ)(びん)()()()たことであらうが、(これ)(また)(しやう)(しつ)することを()ない。(にふ)()(こと)(まと)()(しよ)(どく)に、八(ぐわつ)十一(にち)()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)があつてこれを(しよう)する。(をし)むらくは(この)(しよ)(はじめ)(すう)(かう)(のり)ばなれのために()(しつ)してゐる。「無事當九日著府仕候。都而諸子皆々無事のよしに候。未だ一一尋訪も不仕候。鵬齋君此節北國に被參留主に而甚殘念(に)存候。夫故先々赤坂高林群右衞門方に罷在候。明後々日は觀月旁江の島鎌倉邊へ出懸可申候。舊友和氣行藏同遊仕候。いづれくわしき義は後便可申上候。御状並に御屆物は右申上候高林名當に御遣可被下候。(中略。)赤坂御門内堀織部樣御屋敷高林群右衞門に而。」

 (かめ)()(ぼう)(さい)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(ほく)(りく)(いう)稿(かう)(じよ)して、「余庚午歳北游、窮覽信越二州之名勝焉」と()つてゐる。(また)(ぜん)(しん)(だう)()(せう)()()に「庚午歳、余北游到越後三條、宿某宅」の七()がある。(ぼう)(さい)()()(はつ)したのは(なん)(にち)なるを()らぬが、八(ぐわつ)()には(すで)()()()つてゐた。()(せう)()()(また)「留別神保子讓」の七()があつて、(その)(いん)に「余遊北越既三年」と()ひ、()(ちゆう)(また)「今朝離筵別酒時、始覺三年身是客」と()つてゐる。(しか)れば(ぼう)(さい)(すくな)くも三(ねん)(ほく)()(えん)(りう)してゐた。()(てい)()()()つたのは、(ぼう)(さい)()(のぼ)つてから(おほ)(つき)()()ざる(ほど)(こと)であつただらう。()(てい)(ぼう)(さい)をして(とう)(だう)(しゆ)(じん)たらしめむと(ほつ)したことは(この)(しよ)(どく)(ちよう)して()るべきである。(ぼう)(さい)(いへ)にあらざる(ゆゑ)()(てい)()むことを()ずして(たか)(ばやし)(ぐん)右衞()(もん)(いへ)をたよつたのである。(たか)(ばやし)(うぢ)(ぢゆう)(しよ)(ほり)(おり)()()(しき)(ぶん)(くわ)(ぶん)(げん)(ちやう)に「二千五百石、赤坂御門内、堀織部」と()してある。(かう)()(やく)(にん)()(かん)には()えない。

 ()(てい)は十四(にち)(もつ)()(しま)(かま)(くら)(あそ)ばうとしてゐる。(どう)(かう)(しや)()()(りう)(さい)である。(せい)(がく)(ならび)(せい)(がく)(かう)()(たい)()(けみ)するに、(かれ)に「文化七年、歳在庚午、冬十一月朔、江都柳齋主人和氣行藏古道題」とし、(これ)に「文化七庚午歳、武藏鄙人和氣行藏述」と(しよ)してある。(おも)ふに(かう)()(りう)(さい)(まち)(じゆ)(しや)として(さかん)(もん)()()つてゐた(とき)であらう。(りう)(さい)(ひつ)()(はや)く五(ねん)前(文化二年乙丑冬)に(こく)せられてゐた。

 八(ぐわつ)十一(にち)()(てい)(しよ)(どく)(なほ)(おとうと)(へき)(ざん)(りつ)(けい)(せう)(そく)(もたら)す。「大助儀佐藤に罷在候間、御便も候はゞ、人御よせ可被下候。立前も西村君態々御出に而、一二月も立候はゞ、此方へ預り可申樣と被仰候。いづれ遷宮過一たん歸郷可仕候間、よきに御取計可被下候。」

 (へき)(ざん)()()(ばた)()(とう)()(ぶん)(もと)(ぐう)したのは、(この)(ぶん)()るに、()(てい)(とう)(かう)(ちよく)(ぜん)であつただらう。西(にし)(むら)(きふ)()(へき)(ざん)()(とう)(いへ)より()()らうとしてゐたのである。(すゑ)(せん)(ぐう)(すぎ)(たん)()(きやう)する(はず)だと()つてあるのは、()(てい)にあらずして(へき)(ざん)である。(なに)(ゆゑ)()ふに、(たゞち)(この)(ぶん)(せつ)して、()(てい)(しも)(ごと)()つてゐるからである。「私義當暮迄には罷歸可申候。いづれ所々見のこし候處へ參り可申候。」(これ)()(てい)(なん)()()(てい)()(じつ)であつた。

     その四十一

 ()(てい)(ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)()()()()て、九(ぐわつ)十四(にち)()()()つた。(はじ)め「當暮迄」と()つてゐた()(きやう)()(じつ)は、縱令(たとひ)()(じやう)(ざん)(りう)すべき()があつたとしても、(いちじる)(ちゞ)められたのである。

 ()(てい)(なに)(ごと)のために(この)(ゑん)()(わう)(へん)したか。わたくしは(いま)だこれに(こた)ふる所以(ゆゑん)()らない。(たゞ)(この)(りよ)(かう)(せふ)(ひつ)(かん)(かう)する(こと)(くわん)(けい)してゐたかと(すゐ)するのみである。

 九(ぐわつ)十四(にち)()()(はつ)する(とき)()(てい)(しよ)(さい)して(ちゝ)(てき)(さい)(はう)じた。(この)(しよ)(また)(まと)()(しよ)(どく)(うち)にある。「先月中書通申上候通、鵬齋北遊今に歸府無之、都下も一向おもしろからず候。夫に先達而よりの荷物一向著不仕、度々船問屋等吟味いたし候得共、著船無之、如何いたし候哉。段々寒冷におもむき、何歟(と)不都合にて迷惑いたし候。待合せもはてぬ事故、先々此表出立仕候。いまだ諏訪湖並に上州邊の鉢形城跡抔一覽不仕候故、此度は木曾街道をかへり申候。今日出立仕候。月末には歸家可仕候得共、事により候ては上州安中邊に滯留いたし候處も有之候間、おそくなり候とも、必々御案じ被下間敷候。荷物之儀は高林氏へくわしく頼置候。是も船の上へ(二字にて「うへ」)ははて不申候故、飛脚並に冬の春木氏便に頼み可被下候。何の役にもたゝざる荷物を出し申候事に候。」

 (かめ)()(ぼう)(さい)(しん)(ゑつ)()(はう)より(かへ)らぬことは()(てい)()()(きふ)にした一(いん)をなしてゐるらしい。()(てい)(しばら)(まと)()より()べき()(もつ)()つてゐたが、(つひ)()(もつ)(こと)(たか)(ばやし)(ぐん)右衞()(もん)(たく)して()いて()()()いた。そして()()(かい)(だう)()(かへ)らうとしてゐる。それは()(じやう)()むと(ほつ)するものが(おほ)(ゆゑ)である。()(てい)()()(とゞ)まること(わづか)に三十六(にち)(かん)であつた。(ちなみ)()ふ。(たか)(はし)(うぢ)(ざう)()(せん)(いけ)(がみ)(りん)(さい)(かは)(さき)(けい)(けん)()(てい)(とう)(かう)(おく)(しい)()があつて、()()(しよ)(しう)(しよ)してある。しかし(ぜん)()(ごと)く、()(てい)()()(ぐわつ)十四(にち)(ならび)に九(ぐわつ)()(はやし)(ざき)より(きやう)(しん)()せた(しよ)(そん)してゐて、(その)(ちゆう)(かん)(とう)(いう)のあつた(けい)(せき)がない。(なほ)(かんが)ふベきである。

 ()(てい)()()()(たび)はどうであつたか。その(まと)()(かへ)()いたのはいつであつたか。わたくしは(まつた)くこれを()らない。(まと)()(しよ)(どく)には(これ)より(のち)()(ねん)(しん)()(ぐわつ)()()(せい)(くわつ)(とき)(いた)るまで、一の(ねん)(げつ)()るべき(しよ)だに()えない。(さん)(やう)()()には(はやし)(ざき)(ゐん)(ちやう)となつてより()()()くまでの(あひだ)(なに)(ごと)(じよ)してない。

 しかし(こゝ)()()なる一()(へん)があつて(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)より()た。それは(すゑ)に「讓拜乞政」と(しよ)した()稿(かう)である。(この)()稿(かう)(たゞ)(かう)()(ぐわつ)(發江戸)より(しん)()(ぐわつ)(將入嵯峨留別)に(いた)るまでの(ゆゐ)一の(ぶん)(しよ)として()るべきのみでなく、(また)(さき)()(もん)として(のこ)して()いた()(てい)(あふ)(こう)(にん)(けい)(いう)(うへ)に一(でう)(くわう)(みやう)(とう)(しや)するものである。

 わたくしは(この)()稿(かう)()つて()(てい)(かう)()(ぐわつ)(きやう)()にあつたことを()る。そして(この)(けい)(いう)(あふ)(こう)()()(せう)()(くわん)(しゆ)の五()(ちゆう)(じよ)した(けい)(いう)でなくてはならぬのである。「中間又何樂、伴我游洛師」は(かう)()(はる)ではなかつたが、()(ぐわい)にも(かう)()(ふゆ)であつた。

 (しか)らば(しん)()の二(ぐわつ)には()(てい)(すで)()()()つてゐたのに、(あふ)(こう)(なに)(ゆゑ)に「勢南春盡歸、花謝緑陰滋」と()つたか。(この)(あひだ)には(いく)(ぶん)()(じゆん)がある。(しひ)(かい)して所謂(いはゆる)(はる)()きて(かへ)つたものは(あふ)(こう)(にん)であつたとでも()はうか。(しも)(この)()()けて「依然舊書院、長謂君在玆、鸞鳳辭荊棘、烏鳶如有疑、卜居擇其勝、相送宮水湄」の(すう)()(もつ)てするはいかゞであらう。(この)(あひだ)には(いく)(ぶん)()(じゆん)がある。

 (かう)()十一(ぐわつ)()稿(かう)(しも)(ろく)する(ごと)くである。

     その四十二

 わたくしの()(ところ)()稿(かう)は、(ぶん)(くわ)(かう)()(ぐわつ)(ぼう)(じつ)()(てい)(おほ)(はら)(じやく)(くわう)(ゐん)()()()(くわん)(たい)せられ、(じやく)(によ)(けん)宿(しゆく)する七(りつ)一、()()()()(ぎよく)(めい)する(あう)(ざい)(かう)(がふ)(おく)つた(とき)の七(ぜつ)二を(たん)(せい)(しよく)(まき)(がみ)(しよ)したものである。

 「庚午小春、奉訪洛北大原寂光院老尼、見許宿寂如軒、燈下作。孤庵占靜院之西。竹樹近遮流水谿。千秋感憶皇妃詠。一夜情疑仙侶棲。紅葉月埋人沒屐。青苔日厚鹿餘蹄。曉枕聽鐘吾未睡。殘燈影裏雨聲凄。寂光院尼公贈予以香盒一枚、云庭前櫻樹所彫、是樹枯已久矣、古時稱汀櫻者、香盒銘波玉。小盒玲瓏玉樣奇。遺香况與水沈宜。爐霞一片花何在。髣髴春山雲隔時。又。無復落花埋碧漣。上皇遺愛詠空傳。請看掌上盈寸盒。想起春風六百年。讓拜乞政。」

 (これ)()()()(てい)(てき)稿(かう)(かん)()(さく)であるのに、()稿(かう)には()えない、(また)()()(せう)()(たゞ)「寄懷寂光院老尼」の七(ぜつ)()せて、(ぜん)(ねん)(さう)(ぐう)(ちゆう)してゐない。それはとまれかくまれ、(この)(いう)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)の五()(じよ)する(ところ)のものと(おな)じであらう、「中間又何樂。伴我游洛師。台嶽共登臨。淡雲湖色披。鐸聲禪院寂。杉月照罘罳。朝尋西塔路。山靄帶輕𩅰。下嶽過大原。奇縁遇淨尼。梅條横夜庵。櫻渚遶春池。采薇弔平后。題石悲侍姫。岩倉又訪花。林曙聽黄鸝。」(おほ)(はら)(じやう)()(すなはち)(じやく)(くわう)(ゐん)()(こう)で、()(あん)(すなはち)(じやく)(によ)(けん)であらう。そして(ばい)(でう)()()(じよ)()(おほ)(はら)宿(しゆく)した(とき)より(のち)(こと)であらう。()るべし、(じやく)(によ)(けん)(ちゆう)(かく)()(てい)(にん)ではなくて、()(てい)(あふ)(こう)の二(にん)であつたことを。

 (かく)(ごと)所謂(いはゆる)(ちゆう)(かん)(いう)(すくな)くも(なか)(かう)()(ふゆ)であつたとすると、「勢南春盡歸」は()(ねん)(しん)()の三(ぐわつ)(じん)でなくてはならない。(しか)らば(けい)(はん)(いう)(かう)()(ふゆ)より(しん)(びの)(はる)(わた)り、(すくな)くも(あふ)(こう)(にん)は三(ぐわつ)(すゑ)(およ)んで、(わづか)()()(かへ)ることを()たのであらう。

 (えう)するに()(てい)(あふ)(こう)の二(にん)(もし)くは(あふ)(こう)(にん)(かう)()(ぢよ)()(かね)(けい)()(かく)(しや)()いたことゝなるのである。(この)(とし)()(てい)は三十一(さい)(あふ)(こう)は三十九(さい)であつた。

 (ついで)(しる)す。(じやく)(くわう)(ゐん)(あま)は、()(しよう)(じゆ)()つた。()(いの)(くに)(うまれ)で、(たう)()(じやく)(によ)(けん)(ぢゆう)し、(のち)大和(やまとの)(くに)()()(ごほり)()()()(むら)(ひばり)(やま)()(うん)(あん)(うつ)つた。()(てい)(あふ)(こう)の二(にん)は三(ねん)()(よし)()(あそ)んで(しよう)(じゆ)(さい)(くわい)する。天(ひばり)(やま)は「距芳野纔五里」である。(こと)(あふ)(こう)(はう)()(いう)(かう)()えてゐる。

 ()(じやう)(さう)(をは)つて(たか)(はし)(うぢ)(ざう)()(せん)(とう)(ほん)(けみ)するに、(かう)()(らふ)()には()(てい)(はやし)(ざき)(かへ)つてゐたことが(あきらか)である。これを(しよう)するものは(たか)()(ばい)(をう)()(いん)である。「霞亭今秋(二字可疑、霞亭詩引云、小春)遊大原寂光院。院主尼公贈以香盒一枚云。庭前櫻樹所彫。是樹枯已久矣。古時稱汀櫻者。霞亭携歸。一日會同社諸君於林崎。出示之。且索詩。分韻各成一絶。」()(はぶ)く。(すゑ)に「庚午冬日、濫巾呆翁」と(しよ)してある。

 わたくしは(しん)()()()()るに(さきだ)つて一()(さふ)(じよ)して()きたい。それは()(てい)(せふ)(ひつ)(いん)(かう)(てん)(まつ)(くわん)する(こと)である。(いま)(かん)(ぽん)(けん)するに、(せう)(いん)には「頃消暑之暇省覽一過、因抄若干條其中、裒爲册子」と()ひ、「文化庚午夏日、天放生北條讓題」と(しよ)してある。(これ)は七(ぐわつ)(はやし)(ざき)()(まへ)(しよ)する(ところ)である。(へう)()()(かへし)には「文化七年庚午秋新彫、林崎書院藏」と(いん)し、(くわん)(まつ)には「皇都書林梶川七郎兵衞、東都書林須原屋伊八」と(いん)してある。(かぢ)(かは)(きやう)()西(にし)(ほり)(かは)(どほり)(たか)(つじ)(あが)(うん)(かう)(だう)()(がう)(ぜに)()()(はら)()()()(した)()(いけ)()(はた)(なか)(ちやう)(せい)(れい)(かく)(うぢ)(きた)(ざは)所謂(いはゆる)(だい)()()()である。(こく)(せい)()(てい)(とう)(いう)(ころ)であつたらしい。

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(この)(こく)(こと)()(しよ)(つう)があつて、一は(しゆ)()(とも)()け、一は(しゆ)あつて()がない。(ならび)()(てい)(ひつ)(せき)なることは(うたがひ)()れぬが、その(なに)(ひと)(あた)へしものなるかを(つまびらか)にし(がた)い。二(しよ)(だん)(かん)には(みな)()(せう)(かう)(きよ)()すべきものがあるから、(しも)()くことゝする。

     その四十三

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(せふ)(ひつ)(じやう)()(こと)()つた()(てい)(しよ)の一はかうである。「霞亭渉筆上木取かかり度候。先達而梶川へ申候處、十行二十字にては木とも二朱位にて彫刻いたし候やう申候。もし御もよりの書林御座候はゞ、尚又御掛引可被下候。大體中位のほりにてどれ位のわりにいたし候哉、乍御面働御聞合可被下候。十行二十字、あき處も間には有之、又ちよつと細書はいり候處も有之、點も有之候。其御心得に而御相談可被下候。種々御勞煩奉察候得共、無據御願申上候。」(うん)(かう)(だう)(かぢ)(かは)()()()(かみ)()ふが(ごと)く、(きやう)()(しよ)()で、(せふ)(ひつ)(こく)したものである。()(てい)がこれに(かう)(せふ)したのは(ぶん)(くわ)(かう)()(あき)()(ぜん)であつた(はず)である。(しよ)(なに)(ひと)(あた)へたものなるか()(めい)なるが(ゆゑ)に、所謂(いはゆる)()(より)(しよ)(りん)(いづれ)()(しよ)(りん)なるかを()らない。(しよ)には(たう)()(もく)(はん)(こく)()()えてゐる。

 (いま)(つう)(しよ)はかうである。「態と以大助一筆啓上仕候。寒冷に御座候處、愈御安泰被遊御座、奉欣抃候。先日來者毎々調法之品々御惠被下奉謝候。然者渉筆も最早皆々板刻出來候。菟角挍合點等之間違多く、書中掛合愈わかり兼候。夫に付往來とも十三四日相かかり候而上京仕度候。幸宇仁館太郎大夫殿出坂被致候故同道仕候。」()()()れて()くなつてゐる。(この)(しよ)(また)その(なに)(ひと)(あた)へたものかを()らぬが、これを(もたら)()つた(つかひ)(へき)(ざん)であつたことを(おも)へば、()()(もし)くは()()(ひと)(あた)へたものと()()すべきである。さて(この)(しよ)(つく)られた(とき)何時(いつ)()(きやう)()(かぢ)(かは)(すで)(せふ)(ひつ)(こく)(をは)つてゐる。()(てい)(さい)()の一(かう)(その)(こく)(はん)(くは)へむがために(きやう)()()かうとしてゐる。そして()(せつ)(すで)(かん)(れい)である。わたくしはその(かう)()(ぐわつ)()()なるべきを(おも)ふ。(しか)らば(じやく)(くわう)(ゐん)(しよう)(じゆ)()たのは(この)(たび)ではなからうか。()(しか)らば(この)「往來とも十三四日」の(たび)と「勢南春盡歸」との(あひだ)には()(じゆん)があつて、(しひ)てこれを(かい)せむとするときは、(あふ)(こう)(ひと)(らく)(とゞ)まつたとするより(ほか)ないのである。()()(だち)()()(だい)()()(かう)(のぶ)(とみ)である。(おほ)(さか)()かむがために、()(てい)(とも)()()()たうとしてゐたのである。

 (ぶん)(くわ)(ねん)()(てい)()()(せい)(くわつ)()るべき(とし)である。わたくしは(さき)()()(せう)()()(いん)()いて、()(てい)(にふ)(きやう)()()さむことを(こゝろ)みた。(いま)(すこぶ)るこれを(つまびらか)にしてゐる。()(てい)は二(ぐわつ)()()(せの)(やま)()(はつ)し、十一(にち)(きやう)()()り、()()(ちやう)(かく)(さが)(ひがし)(がは)()()()()(すけ)(いへ)宿(やど)つた。(すで)にして(てん)(りう)()(やく)(にん)()(とう)(じゆ)(ぎん)(しよ)(いう)なる(しも)()()(やぶ)()(うち)(はい)(たく)()り、これに(しう)(ぜん)(くは)ふる(あひだ)(しや)()(だう)(まへ)(かぎ)()()()()(いへ)(ぐう)した。(やぶ)()(うち)(いへ)(ぜん)(ねん)(かう)()(ふゆ)(ぶつ)(しよく)した(ところ)(いへ)である。(この)()(じつ)は二(ぐわつ)十一(にち)()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)()えてゐる。(しよ)(まと)()(しよ)(どく)の一である。

 「小子共種々用事出來候而漸う六日山田出立仕候而、立敬始而之義、所々舊迹等もあらかた見せ、夫に關邊より始終大雪に而、道中も殊之外日數相かかり、十一日入京仕候。尤私始宇仁館樣並に立敬皆々無事罷在候。去冬一見いたし候嵯峨居宅早速かりうけ候而夫々相悦申候。尤四五年來無住之家故、思之外造作相かかり、于今大工日傭等相いり居申候。しかし大方相片付候而、十九日廿日の間に移居いたし候。御安意可被下候。太郎大夫殿も右に付今に御滯留被成下御世話御苦勞被下候。其外色々取込候而、此便委曲不申上候。嵯峨は下嵯峨藪之内と申所に而、加藤壽銀殿と申天龍寺役人の家に候。天龍寺の裏手に御坐候。しかし御便等はやはり伊勢屋喜助宅迄御遣可被下候。いつにても便御坐候。(中略。)今日も嵯峨行仕候。尤此間より嵯峨釋迦堂前鍵屋喜兵衞と申方に居申候。此度の世話人家に候。」

     その四十四

 ()(てい)(ぶん)(くわ)(しん)()(ぐわつ)()()()(やま)()(はつ)し、十一(にち)(きやう)()()つた(とき)()(じやう)(ゆき)()つた。(おとうと)(へき)(ざん)(どう)(かう)(しや)であつたことは(もち)(ろん)であるが、()()(だち)()(かう)(また)これに(ともな)つて(にふ)(きやう)したらしい。()(てい)(この)(しよ)(ちゝ)(てき)(さい)()せたのは、(ばん)(しやう)()(えき)()()(やぶ)(うち)(いへ)(つど)つてゐた(あひだ)(こと)である。しかし()(てい)(たま/\)これに(つき)()(ちゆう)することを(わす)れた。

 (おな)(しよ)()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(りつ)(けい)(じゆう)(がく)(こと)()えてゐる。「立敬吉益入門も先々卜居相濟候後と、今暫延引仕候。」(よし)(ます)(とう)(どう)()(そく)()()(なん)(がい)(いう)である。(かう)()(とし)に六十一(さい)になつてゐた。()(てい)(なに)(ゆゑ)(へき)(ざん)(たづさ)へて(にふ)(きやう)したかは、(これ)()()るべきである。

 わたくしは(しばら)()(てい)(しも)()()(やぶ)(うち)(うつ)つた()を二(ぐわつ)十九(にち)として()た。(これ)(しよ)に「十九日廿日の間に移居いたし候」と()つてあるのと、()()(せう)()()(いん)とを(あは)(かむが)へたのである。「予卜居峨阜、宇清蔚偕來助事。適井達夫在都。亦來訪。留宿三日。二月念一日。修營粗了。夜焚香賦詩。」わたくしは()()した廿一(にち)()(もつ)(りう)宿(しゆく)(だい)(じつ)となしたのである。(あん)ずるに(ちく)()()ひ、(いう)(くわう)(しよ)(おく)()ふ、(みな)(やぶ)(うち)より()(となへ)である。(せい)(たつ)()(あさ)()(うぢ)()()(つう)(しよう)は十(すけ)である。

 二(ぐわつ)三十(にち)()(てい)(また)(しよ)(ちゝ)()せた。(これ)(また)(まと)()(しよ)(どく)(うち)にある。

 (しよ)()(いう)(くわう)(しよ)(おく)(こと)(じよ)してゐる。「扨先書申上候通、嵯峨の邊は借宅無之地に候故、臨川寺役人加藤壽誾殿家借用いたし候。四五年はあき候處故、殊之外造作相かかり、大工日傭四十五工も相かかり、漸う廿日に移居仕候。至極閑靜の地に而、うしろは臨川寺、つい出候へば天龍寺渡月橋に御坐候。家は六疊二間、四丈二間、臺所、玄關共に拾疊敷ほど、風呂場、菜園等も御坐候。井戸はかけひに而とり候。すべて一面竹林に而、竹をへだて候而桂川の水聲よくきこへ候。しかし花過候までは京都近付其外一切しらし不申候。心おもしろく讀書修業出來可申候。なじみ候程至極住よき處に被思候。右之順故太郎大夫殿も始終手つだひ、殊之外日數かさなり、漸う廿五日夜大阪へ被出候。淺井十助殿其外京都よりも伊勢喜、嵯峨八百喜等皆々出精手傳くれ候。」

 (ぼく)(きよ)(てん)(まつ)(おほむ)(ぜん)(しよ)(こと)なることが()い。(たゞ)(いへ)(ぬし)()(とう)()(はじ)(じゆ)(ぎん)(つく)つてあつたが、(いま)(じゆ)(ぎん)(たゞ)してある。(また)(しやう)(じん)(こと)()(でう)に「工」と()ふは(おそら)くは()()()(りやく)であらう。(いう)(くわう)(しよ)(おく)(へや)(かず)(たゝみ)(かず)(はじめ)(こゝ)()えてゐる。「井戸はかけひに而とり候。すべて一面竹林に而、竹をへだて候而桂川の水聲よくきこへ候。」(この)(すう)()(とく)(ひと)をしてその(なつか)しさを(おも)はしめる。()()(だち)()(かう)()()つた()は「漸う廿五日」であつた。(せう)()にこれに(おく)(ぜつ)()がある。「可想今宵君去後。不堪孤寂守青燈。」()(てい)()(かう)(おく)つて(きやう)()(いた)つた。「客舍尋君送遠行。何時歸馬入京城。」

 (しよ)(てん)(きよ)()(よう)()せてある。「此度卜居並に道中、何歟思之外入用有之、十兩餘も入用いたし候。」

 (すで)()(きよ)した(のち)も、(いう)(しよ)(とう)(きやう)()()()()()(すけ)をして(せつ)(じゆ)せしめた。「御状等はやはり伊勢喜迄御遣し可被下候。此方へ大方の日たより御坐候。御國産ひじき、あらめ、わかめの類折節御惠投奉希候。世話のいらぬやうに菜にいたしたく、大坂迄船つみ、淀川運賃さが拂に御かき付可被成下候。同家の壁へ名當等しるし置候。」

     その四十五

 ()(てい)(ぶん)(くわ)(しん)()(ぐわつ)三十()(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)には、(なほ)(おとうと)(へき)(ざん)(りつ)(けい)(よし)(ます)()るべき()(じつ)()してある。「立敬も當五日(三月五日)吉益先生へ入門仕候つもりにいたし、御約束申候。入門式はかれこれ三百匹許も入用に候。外醫家よりは心やすき方に御坐候。やはり四五日め會業、嵯峨よりかよはせ可申、大抵太秦通京道一里半許御坐候。家つづきに御坐候。」()(てい)は二(ぐわつ)三十()(しよ)(さい)するに(あた)つて、ふと「當五日」と()いた。しかしその(らい)(げつ)()なるべきことは(うたがひ)()れない。(くわい)(げふ)(うん)(ぬん)(しよ)(えつ)より(だい)四五(にち)(いた)つて、(はじめ)(じゆ)(げふ)せらるる(いひ)であらうか。

 (よし)(ます)(なん)(がい)(いへ)は、(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(まじ)つてゐた(きやう)()宿(しゆく)(しよ)(がき)に「三條東洞院北東角、吉益」と(ちゆう)してある。(はじ)(なん)(がい)(ちゝ)(とう)(どう)は、(げん)(ぶん)(ねん)(きやう)()()つた(とき)(まん)()(こう)()春日(かすが)(まち)(みなみ)()るに()み、(えん)(ぎやう)(ねん)(ひがしの)(とう)(ゐん)(うつ)つて(とう)(どう)(がう)した。(めい)()(ねん)(とう)(どう)(また)(くわう)(じやう)西(せい)(もん)(ぐわい)(うつ)つて、(あん)(えい)(ねん)(こゝ)歿(ぼつ)した。(てん)(めい)(ねん)()()(なん)(がい)(くわ)(さい)()つて、(おほ)(さか)(せん)()(ふし)()(まち)(うつ)り、(なん)(がい)(がう)した。(きやう)()(みなみ)()り、その()(ところ)(すゐ)(がい)であつた(ゆゑ)である。(くわん)(せい)(ねん)(なん)(がい)(ふし)()(まち)(いへ)(おとうと)(しん)(ゆづ)つて、(きやう)()(でう)(ひがしの)(とう)(ゐん)(かへ)(ぢゆう)した。(これ)(へき)(ざん)(かよ)つて()つた(よし)(ます)(いへ)である。

 (おな)()(てい)(しよ)には(また)(おとうと)(りやう)(すけ)()()(だち)()(かう)(たく)せようとすることが()つてある。「良助義太郎大夫殿へうわさいたし候處、かの方へしばらく御預り申上、素讀等いたさせ可申樣申くれられ候。三四月中は道者に而いそがしく、五六月頃か盆あたりより夫に御頼可被遊候。宇仁館に被居候へば、山口河崎東などへも參り候而各別所益可有之候。宇君御宅にても近頃月六日許宛御講釋はじまり候。旁よろしく候。」(りやう)(すけ)()(かう)(いへ)(ぐう)せしめ、(また)(あふ)(こう)(けい)(けん)()(てい)(いへ)(わう)(らい)せしめようと()ふのである。

 (つぎ)(おな)(しよ)(あふ)(こう)(じやう)(きやう)()(じつ)()してある。「四月朔日頃には山口樣出京被致候。左樣御心得可被下候。」

 (つぎ)(うめ)(たに)(ぼう)(じやう)(きやう)()(じつ)()してある。「梅谷生は大方當月(二月)末頃上京と奉存候。梅谷に孟宗竹約束いたし置候。五月頃御とりよせ可被下候。」

 三(ぐわつ)(すゑ)()(てい)(また)(しよ)(ちゝ)()せた。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(この)(しよ)(こう)(はん)()()られてゐて、(あて)()もなく(つき)()もない。しかしその(ちゝ)()する(しよ)なることは()()()つて()ることを()べく、その三(ぐわつ)(すゑ)(つく)られたことは(はじめ)(すう)()()つて()ることを()べきである。「當月廿日之尊簡今日相達、辱拜見仕候。時分柄春暖相催候處、愈御安泰被遊御入珍重奉存候。」(この)(すう)()(ちゆう)「春暖相催」は(ひと)をして二(ぐわつ)にはあらざるかと(うたが)はしむるが、(しも)(へき)(ざん)(すで)(なん)(がい)(もん)()つてゐるより()れば、三(ぐわつ)でなくてはならない。

 ()(てい)(やうや)(ちく)()(すま)ひに()れて()た。「段々居馴染候が、ます/\清閑に而甚おもしろく罷在候。處がらと申、閑靜に候故、著述事等も甚だ埒明候やうに覺え候。(中略。)買物小遣等は近所出入の百姓の子供等始終まわりくれ候ゆへ殊の外自由に候。」

 (おとうと)(へき)(ざん)(すで)(なん)(がい)(いへ)(わう)(らい)してゐる。「立敬も吉益へ隔日に參り候。朝五つの會故、少しくらき内に出候而、晝前に歸宅いたし候。凡二里に三四丁ぬけ候。太義にはぞんじられ候へども、その位あるき候はからだの補養にもよろしく候。甚出精、此節傷寒論會御坐候。會の所拙者相手になり、下見いたさせ、又々かへり候而も吟味いたし置候。至極何事もはやくのみ込め候やうすに御坐候。御悦可被下候。」

     その四十六

 ()(てい)(さう)(しよ)(へんの)(じよ)(つく)り、(また)題任有亭(にんいうていにだいす)の五()(つく)つたのも(また)(ぶん)(くわ)(しん)()の三(ぐわつ)である。(まど)(あけぼの)(そう)()(うん)(あらは)(ところ)である。()(てい)(はやし)(ざき)(しよ)(ゐん)にある(とき)これを()み、一(ぽん)(せう)(しや)して(ざう)してゐた。さて()()()て三(しう)(ゐん)(そう)(げつ)(こう)(まじはり)(むす)んだ。三(しう)(ゐん)(にん)(いう)(てい)がある。(これ)は八十(ねん)(ぜん)()(うん)()んだ(ところ)である。()(てい)(まど)(あけぼの)(しや)(ほん)(いだ)して(げつ)(こう)(おく)り、(にん)(いう)(てい)(ざう)せしめた。(じよ)(この)(とき)(さく)である。(たか)(はし)(うぢ)(ざう)(せん)(げつ)(こう)のこれに(むく)いた五()がある。(その)(いん)(いは)く。「霞亭北條先生。近自勢南來。行李挾窓之曙一本。以余寺有似雲故居。遂見贈焉。且附以跋及詩。因次其韻謝呈。」(すゑ)(しよ)して(いは)く。「月江宣草稿。」

 (さう)(しよ)(へんの)(じよ)(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()せてある。題任有亭(にんいうていにだいす)の五()()()(せう)()()でてゐる。しかし(この)(ぶん)(この)()(さう)稿(かう)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(まじ)つて(そん)してゐる。そして(ぶん)(すゑ)に「文化辛未春三月勢南北條讓題」と(しよ)してある。(ぶん)(ちゆう)に「今玆辛未春辭林崎來嵯峨」の()はあるが、その三(ぐわつ)であつたことは(だい)(しよ)()つて(はじめ)()らるるのである。

 (じよ)(ぶん)には(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)のものと()稿(かう)(ちゆう)のものと、(ほとんど)(まい)()()(どう)がある。(あん)ずるに(かれ)(しよ)稿(かう)にして(これ)(てい)稿(かう)であらう。(なに)(もつ)()ふか。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)のものは(じよ)()(おほ)いのに、()稿(かう)(ちゆう)のものは(なか)ばこれを(けづ)()つて(かん)(じやう)()かしめてあるからである。

 題任有亭(にんいうていにだいす)()には()()(せう)()()する(ところ)(やく)二百(げん)(せう)(いん)がある。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)のものは(この)(せう)(いん)()いてゐて、十六(ぎやう)(こく)(ぶん)(さう)(しよ)(へんの)(じよ)(のち)(この)()(まへ)にある。(あん)ずるに()(てい)(この)()(せう)()(ちゆう)(をさ)むるに(あた)つて、これを(かん)(やく)したものであらう。わたくしは(しも)(その)(こく)(ぶん)(せう)(しゆつ)する。

 「五升葊瓦全子予にかたりし似雲法師の逸事、ちなみにこゝにしるす。似雲法師任有亭におはせし頃、入江若水翁渡月橋の南櫟谷に閑居をしめ、方外の交むつまじかりける。ある雪の朝、若水翁法師をむかへけるに來らざれば、待わびたるに。跡つけてとはぬもふかき心とは雪に人まつ人やしるらむ。といひおこせしとなむ。予この頃樵唱集をよみ侍るに、中に雪朝寄無心道人の詩をのす。おもふにその時の作なるべし。曰。前溪多折竹。夢斷促晨興。渡口殆盈尺。山頭更幾層。豈無乘艇客。應有立庭僧。宿得一星火。茶爐獨煮烹。この風流いとしたはしくおぼゆれば、此事を書つゞくる間に、つたなき一首を口ずさび侍りぬ。」

 (かん)(ぶん)(せう)(いん)には(ぐわ)(ぜん)()(けづ)つて、「一老人語予曰」と(しよ)してある。西(せい)(ざん)(せう)(しやう)(しふ)()(ちゆう)(すゑ)の二()は、(せう)(いん)に「留得一星火、茶爐獨煑氷」に(つく)つてある。(いま)(せう)(しやう)(しふ)()(もと)()(ゆゑ)(けん)することを()ない。(こく)(ぶん)所謂(いはゆる)「つたなき一首」は(すなはち)()(ちやう)(へん)である。

 五()にも(また)(まと)()(ぼん)()()(ぼん)との()(どう)がある。(こゝ)()げて()(ばう)(そな)へる。(まと)()(ぼん)。「圓窓代佛龕。念誦禮其中。」()()(ぼん)は「圓相」に(つく)つてゐる。(これ)(いづれ)()(いづれ)()であらう。()(げつ)(ろく)(ゑん)(さう)(つき)である。(まと)()(ぼん)。「晤賞定無窮。有時爲歌詠。」()()(ぼん)は「悟賞」に(つく)つてゐる。(これ)(かん)(ぽん)()であらう。(ちやう)()對月(つきにたいする)()に「悟賞在玆久」の()があるさうである。(まと)()(ぼん)。「師亦因歌答。思君朝云終。欲出旋留屐。應解惜玲瓏。」()()(ぼん)は「朝云終」を「倚窓櫳」に(つく)り、「留」を「停」に(つく)つてゐる。(これ)(また)(かん)(ぽん)(したが)ふべきであらう。

 わたくしの(ちゆう)する(ところ)(さう)(そつ)(かむがへ)()ぎない。()()(びう)があつたなら、(どく)(しや)(をしへ)()ひたい。(ぐわん)(らい)(ぶん)()(ぜん)(ぺん)(うつ)()だして、二(ほん)()(どう)()くべきであるが、わたくしは(ひと)()ましめむことを(おそ)れて(あへ)てしない。しかし(かみ)()げた()()()()(ごと)きは、(かなら)ずしも(ぜん)(ぺん)()まずして(だん)ずることを()べきものであらう。

 ()(てい)(さき)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)の四(ぐわつ)(さく)(いた)るべきを(きやう)(しん)(はう)じた。しかし(その)()(あるひ)(たん)(しゆく)すべきを(はか)()つたものの(ごと)く、三(ぐわつ)廿八(にち)(あは)()まで()(むか)へたことが(せう)()()えてゐる。(この)()()(せう)()(ちゆう)(にん)(いう)(てい)()(のち)にある。わたくしの(まど)(あけぼの)(にん)(いう)(てい)との(こと)()()した所以(ゆゑん)である。

     その四十七

 (ぶん)(くわ)(しん)()(はる)()くる(ころ)()(てい)(しも)()()(やぶ)(うち)(いう)(くわう)(しよ)(おく)にあつて、四(ぐわつ)(さく)(いた)るべき(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()つてゐた。()()(せう)()に「聞凹巷來期在近」の七(ぜつ)がある。(これ)(あるひ)はその(いた)()が四(ぐわつ)(さく)より(はや)かるべきを(ぶん)()した(とき)(さく)ではなからうか。「心中暗喜期將近。錯認人聲復倚門。」(すで)にして三(ぐわつ)二十八(にち)(およ)び、()(てい)(あは)()まで()()いて(あふ)(こう)(いた)るを(うかゞ)つてゐた。「粟田旗亭遲凹巷入京即事」の七(ぜつ)がある。「眼穿青樹林陰路。杖響時疑君出來。」

 (あふ)(こう)晦日(つごもり)()た。(どう)(かう)(しや)(かう)()(はく)(やう)(まご)(ふく)(まう)(しやく)があつた。加旃(しかのみならず)(ゑち)()()(かは)(さき)(けい)(けん)(いけ)(がみ)()(はく)(みち)()げて(とも)()た。()(てい)は一(にん)()つてゐて、五(にん)(きた)るに(くわい)したのである。()(はく)はわたくしは(はじ)(りん)(さい)(あざな)なるべきを(おも)つた。しかし()(せい)()(なう)に「過池鄰哉家、敬軒凹巷希白勇進源一尋至」の()がある。()(はく)(りん)(さい)(いへ)()たのである。その(べつ)(にん)なること(あきらか)である。

 ()(てい)は五(にん)()(いう)(くわう)(しよ)(おく)(かへ)つた。「壯遊人五傑。快意酒千鍾。」五(にん)(そく)(じつ)(あらし)(やま)(はな)のなごりを(たづ)ねた。「任他花落隨流水。愛此樽携共故人。」

 四(ぐわつ)()に五(にん)西(にし)近江(あふみ)より(ゑち)(ぜん)(つる)()()で、(こゝ)にて(かは)(さき)(いけ)(がみ)(たもと)(わか)つて()り、三(にん)(わか)()()(ばま)()き、(たん)()(あま)(はし)(だて)(あそ)び、(たん)()()()()(かへ)つた。(とき)に十六(にち)であつた。「歸舍終無事。曲肱燈影低。」

 わたくしは(らん)(けん)(でん)(ちゆう)(おい)(すで)に一たび(たう)()(こと)()した。しかし(せう)()の一(しよ)(のぞ)(ほか)(さん)(せう)すべきものがなかつたので、(つき)()(じん)(めい)もおぼろけであつた。(いま)わたくしは(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)の四(ぐわつ)二十四(にち)(しよ)()ることを()た。(また)()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(れん)(しよ)して(ちゝ)(てき)(さい)()せたものである。

 「山口角大夫、並に幸田要人、孫福内藏介二君御同道、先晦日御著、河崎良佐、池上衞守二君も見えられ(これは越後行を極内々にてさがへ立よられ候也)、三日皆々御同道に而、いまだ見ず候故、西江州より越前敦賀へこえ、河崎池上とわかれ、夫より若狹小濱へ參り、丹後へ出、天の橋立を一覽いたし、丹波路をまいり、當十六日さがへ罷歸申候。所々名所古蹟巡覽いたし、大慶無此上奉存候。小濱に而若狹小だゐもとめ差上たく尋ね候處、冬ならではなきよし、殘念に奉存候。此度の紀行等は跡より出來次第入御覽候。」

 (あふ)(こう)(つう)(しよう)()(てい)(まへ)(ちよう)()(らう)(しよ)してゐた。(これ)()()に「小字長次郎」と()つてあるに()する。(ちやう)(また)(ちよう)(つく)つたのであちう。(しか)るに(いま)(かく)(だい)()(しよ)してある。(ちや)(ざん)(しふ)に「覺大夫」と()つてあるに()する。(かく)(また)(かく)(つく)つたのであらう。

 (かう)()要人(かなめ)(せう)()(でん)(はく)(やう)である。(まご)(ふく)()(らの)(すけ)(せう)()(そん)(まう)(しやく)である。()を※[#「裕」の縦型()()ひ、(はう)(もう)(がう)した。(はう)(もう)(まう)(しやく)なることは三(むら)(うぢ)(ざう)(せん)()る。(まう)(しやく)(ほく)(りく)(いう)稿(かう)(あふ)(こう)(ない)(てつ)()(しよ)してゐる。(また)(よね)(やま)(うぢ)()(さん)(かう)するに、(まご)(ふく)()(らの)(すけ)セニヨオル、()(こう)(ゐく)(あざな)(ちやう)(じゆ)(だう)(がう)(そん)(さい)(また)()(さん)(まう)(しやく)(ちゝ)(もし)くは(あに)なるが(ごと)くである。(ぶん)(くわ)(かふ)(じゆつ)(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)に「故眉山先生」と()ふは(この)(ひと)である。(せう)()(だい)()(ちやう)(じゆ)()(みづ)(へい)八か、(まご)(ふく)()(らの)(すけ)セニヨオルか、(なほ)(かむが)ふべきである。(いけ)(がみ)()(もり)(せう)()()()(はく)である。

 四(ぐわつ)二十四(にち)(しよ)には、(かみ)(せう)する(ところ)(のぞ)きては、()すべきものが(すくな)い。西(さい)(くわう)()(ぢゆう)(しよく)(ぼう)()(てい)()うて(しよう)(めい)(けみ)せむことを()うた。「西光寺見え候處、私留守に而掛違ひ候。津とやらに鐘出來候而、其銘を直しくれとのこし置候。せわしくいまだ見不申候。」()(てい)(しん)(せき)「せや叔母」が(ぜん)(くわう)()(まう)でた。「せや叔母善光寺へ被參候よし、悦候。」()(てい)(やま)()()(すけ)()ふものゝ()より(すひ)(もの)(わん)(にん)(まへ)(あたひ)二十五(もんめ)にて()はむとして()めた。(この)(わん)(あやま)つて(まと)()(おく)られた。()(てい)(ちゝ)にこれを()()るとも(やま)()(かへ)すとも(ずゐ)()(しよ)()すべき(よし)()つてゐる。(また)(ちゝ)(きん)(りやう)(しゆ)()()()とを(おく)つたことを(しや)してゐる。(その)(ぶん)(りやく)する。

     その四十八

 ()(てい)(ぶん)(くわ)(しん)()(ぐわつ)十六(にち)に、(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(かう)()(はく)(やう)(まご)(ふく)(まう)(しやく)の三(にん)(あま)(はし)(だて)より(かへ)り、(しも)()()(やぶ)(うち)(いう)(くわう)(しよ)(おく)に三(にん)(とゞ)めてゐた。二十四(にち)(しよ)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(とき)には、(かく)(いま)()らなかつたであらう。(なに)(ゆゑ)()ふに、()(すで)()つた(のち)ならば、(しよ)(ちゆう)にその()つた()()ふべきだからである。

 三(にん)()()つたのは(いづ)れの()なるを(つまびらか)にしない。しかし(あふ)(こう)は二十六(にち)()つた。(はく)(やう)(まう)(しやく)(また)(あるひ)(おな)じく()つたであらう。(たか)(はし)(うぢ)(ざう)(せん)(あふ)(こう)(せき)(ざん)(はい)()があつて、(その)(いん)にかう()つてある。「霞亭有嵐山杯。爲西峨幽居中之一物。今又新製一小杯贈余。杯面描飛螢流水。題背曰。辛未四月廿六。石山水樓酌別凹巷韓君。(中略。)因效霞亭命名曰石山杯。追賦一絶。以謝厚貺。」(しやく)(べつ)(こと)()()(せう)()()えてゐる。「長橋短橋多少恨。滿湖風雨送君歸。」(つい)()(てい)()(あふ)(こう)()せて(べつ)()(じやう)()べた。「始知人意向來好。却戀相期未見時。」

 六(ぐわつ)()(てい)(やぶ)(うち)(きよ)(てつ)して、(きやう)()()(ちゆう)(とゞ)まること二十()(にち)であつた。(せう)()に「晩夏冒夜到北野」の(れん)()があつて、(つぎ)の七(ぜつ)(しゆ)(せう)(いん)がある。「予因事徙居都下二旬餘。不堪擾雜。復返西峨。寓任有亭。翌賦呈宜上人。」()(ちゆう)(うつ)つたのが六(ぐわつ)(ちゆう)であつたことは、(しも)()く八(ぐわつ)十八(にち)(しよ)()つて()られる。

 七(ぐわつ)(ぜん)(はん)()(てい)(にん)(いう)(てい)()(ぐう)した。(にん)(いう)(てい)(そう)(げつ)(こう)(てら)(うち)で、(かみ)()(いん)所謂(いはゆる)(せん)(しやう)(にん)(すなはち)(げつ)(こう)である。(げつ)(こう)()(しよう)(せん)である。()(てい)()()(せい)(くわつ)(ちく)()(だい)()より(にん)(いう)(てい)(だい)()()る。その七(ぐわつ)(ぜん)(はん)であつたことは、(せう)()(せん)(しやう)(にん)(てい)する(ぜん)()(つぎ)に「七月既望」の(さく)()するを(もつ)()られる。七(ぐわつ)()(ばう)には()(てい)(へき)(ざん)(けい)(てい)(げつ)(こう)()(そう)(りよ)(とも)(ふね)(おほ)()(がは)(うか)べて(つき)(しやう)した。

 八(ぐわつ)十五(にち)(ゆふべ)(せう)()(ちゆう)に「中秋獨坐待月」の七(ぜつ)(のこ)してゐる。(つぎ)の「月色佳甚、遂與惟長、拉承芸師佐野生、遊廣澤池亭」の七(りつ)も、(また)(おそら)くは(おな)()(さく)であらう。(しよう)(うん)(げつ)(こう)()(しや)()()(せい)()(けん)(あざな)(げん)(しやう)(つう)(しよう)(せう)(しん)(さん)(いん)(がう)した。

 十八(にち)()(てい)(しよ)(ちゝ)()せた。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(この)(しよ)(おとうと)(へき)(ざん)(れん)(しよ)してある。(かつ)「北條霞亭拜、同立敬拜」と(しよ)した()(てい)()(いう)(ばう)に、「此節直に號を通稱仕候」と(さい)(しよ)してある。

 (しよ)(ちゆう)()(てい)(きよ)(しよ)(こと)()つた(でう)はかうである。「先々小生も當年中は任有亭に罷在可申、又々來年はいかやうとも可仕候。いづれ後々は京住にも相成可申や。山中殊之外心しづまり、萬事出精仕候。」

 (つぎ)(おとうと)(へき)(ざん)(こと)()つてある。()(てい)(きやう)()()(ちゆう)(うつ)つた(とき)(へき)(ざん)(ともな)()き、七(ぐわつ)(にん)(いう)(てい)()るに(およ)んで、(へき)(ざん)をば()()()(のこ)して()いた。(つい)で三(しう)(ゐん)の一(しつ)()()けて(へき)(ざん)(むか)()つたのは八(ぐわつ)()であつた。「立敬義は六月より當八日迄いせきに差置候。吉益方講釋毎日出席此頃金匱等も一とまわり濟、又傷寒論は凡三度許に相成申候故、先づ當分此方へ呼寄せ置候。右兩書等追々吟味會讀仕候處、中々よく會領仕居候。今一度宛も參り候はゞ最早大抵よろしく、其上は自分の眼目次第に御坐候。此方にてはやはり三秀院の一と間かり受讀書いたし居申候。時々京都へ遣申候。隨分兩人共達者罷在候。(中略。)立敬殊之外靜なる性質、よく辛苦にたへ候人物故、於小生大悦仕、相樂しみ罷在候。」()(てい)(きやう)()()(ちゆう)(うつ)つたのが六(ぐわつ)であつたことは、(この)(でう)より()すことが()()る。

     その四十九

 (ぶん)(くわ)(しん)()(ぐわつ)十八(にち)()(てい)(へき)(ざん)(けい)(てい)(しよ)(つぎ)にわたくしに(かみ)()えた(うめ)(たに)()ふものの(こと)(をし)へた。「内宮梅谷生今に上京無之、尤脚氣のよし、此義も上るか上らぬかを得と相糺し遣し、もし上られ候はゞもとの通に藪の内三人住居可仕候。無左候はゞ、立敬計に候へば、任有亭にさしかけ二三丈の間をこしらへ候はゞ、朝夕飯等もそこにて出來候故、別而よろしく候。これは隨分頼み候へば出來も可仕候。少しの物入に候。材木等はもらはれ申候。いづれ梅谷生の上返事の上之事に候。」(これ)()つて()れば(ちく)()(いへ)()(てい)(へき)(ざん)(けい)(てい)のみが()んだのではなくて、(うめ)(たに)(ぼう)(とも)()んだものである。(また)()(てい)(きやう)()()(ちゆう)より(かへ)つて、(ちく)()(いへ)()らずに(にん)(いう)(てい)(ぐう)したのは、(ぼう)()()(かへ)つて(ふたゝ)()ぬが(ゆゑ)である。()(てい)(ぼう)()るならば(ちく)()(いへ)()らうかとさへ()つてゐる。(ぼう)(ない)(ぐう)のものである。

 (おな)(しよ)(つぎ)()(まき)()ふものの(こと)()つてゐる。「越後田卷彦兵衞一旦常安寺にて僧となり候へども、僧は本望にも無之、やはり還俗修業仕たきよしにて、時々書物もち參り候。此節は三條通の借屋に居申候。此方は遠方にも有之、京都に而佐野か北小路などへ頼遣べき樣申候へども、何分私へ隨身仕たきよし申候。尤梅谷生など上り候て藪之内又々居住仕候はゞ、夫に同居願ひたきと申候。飯費等の義は用意もいたし候よし、これも未だ得とは引受不申候。常安寺などにてはいかやうに被思居候や。私申候はいづれ國元並常安寺などへ書通得といたし候上世話も可仕と申置候。如何仕べきや御伺申上候。」()(まき)(ひこ)()()(ゑち)()(ひと)で、()()(かけひ)(やま)(じやう)(あん)()()つて(そう)となつてゐた。(すで)にして(げん)(ぞく)し、()(てい)(じゆう)(がく)せむとしてゐる。()(てい)()(まき)(きやう)()()(ちゆう)()るを(もつ)て、()()(さん)(いん)(もし)くは(きた)(こう)()(ばい)(さう)(せう)(かい)しようとしたが、()(まき)()かない。()(てい)(ゑち)()(おや)(もと)(じやう)(あん)()とに()(あは)せた(うへ)(じゆ)(げふ)しようとしてゐるのである。()()(さん)(いん)(いへ)は、(ぶん)(くわ)(へい)(あん)(じつ)(ぶつ)()()るに、「衣棚竹屋町北」にあつた。(かみ)()いた()()(せう)()()(いん)に、三(じつ)(ぜん)()(てい)(とも)(つき)(ひろ)(さは)(いけ)(しやう)したと()ふのは(この)()()(せい)であらう、しかし(さん)(いん)(ちやう)(しや)なるを(もつ)て、()(てい)が「佐野生」と(しよう)するは(すこ)しく(うたが)ふべきである。(きた)(こう)()(ばい)(さう)(すなは)(げん)(まい)(くわい)で、(その)(いへ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(きやう)()宿(しゆく)(しよ)(どめ)に「車屋町丸太町下る面側」と(しよ)してある。(ぶん)(くわ)(へい)(あん)(じつ)(ぶつ)()にも(また)「車屋町丸太町南」と()つてある。(まつ)(ざき)(かう)(だう)(かう)(だう)(にち)(れき)(ぶん)(せい)(おつ)(いう)(ぐわつ)廿二(にち)(でう)に「北小路大學介、六十以上老儒、質實可語、詩文亦粗可觀、檉宇云」と()つてある。(りん)(くわう)(ひやう)である、()()(きた)(こう)()とは(みな)(せい)()(しよ)するを(れい)とした。()()は「藤原憲」と(しよ)し、(きた)(こう)()は「源寵」と(しよ)したのである。

 (おな)(しよ)(また)(とも)()(しん)()ふものが(はい)()(まき)()(てい)(たく)して(ぐわ)(ぜん)をして()(てん)せしめようとした(こと)()えてゐる。「友之進樣御頼之發句の卷物、これは當春八藏跡より宇仁館へ持參いたし候處、其節は送別筵に而殊之外匇々敷、荷物之處う仁たち出入之人へ飛脚出し、こしらへもらひ候。其内いかゞいたし候哉、かの卷物封と江戸表より參り候大封書状紛失、其後吟味候てもしれ不申候。甚申譯も無之事に候。可然御斷可被下候。又々御遣し候はゞ、瓦全方へ遣し可申候。其譯左樣乍憚御言傳奉頼候。卷物等御贈候はゞ、何にても産物にても御添可被下候。瓦全にても其外京都などにては、私共扇面其外認もの、詩文の評點いたし候も、それ相應に進物參り候故、何もなく候てはかつこうあしく候。」

     その五十

 ()(てい)(へき)(ざん)(ぶん)(くわ)(しん)()(ぐわつ)十八(にち)(ちゝ)()せた(しよ)には(なほ)()()(しよ)(いう)(せう)(そく)がある。「山田山口其外よりも此頃追々書状參り候。山口は殊に寄九月上京も有之べきやに候。西村は盆中江戸へ被參居候よし、光明寺行脚に奧州へ被赴候處、江戸に而大病のよし、見舞に被參候よしに候。」(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(ぐわつ)(けい)(いう)(つひ)(はた)されなかつたらしい。西(にし)(むら)(きふ)()()()()つてゐた。(きふ)()(やまひ)()はれた(くわう)(みやう)()(そう)()(けん)(だう)(しも)()えてゐる。

 (おな)(しよ)(また)(そう)(たん)(がい)對馬(つしま)より(かへ)つたことが()えてゐる。(たん)(がい)()(なべ)(げん)(/\)()(いん)()の「南山寺務丹崖乘如慧克」である。(こく)(あるひ)(じゆう)でなからうか。(なほ)(かむが)ふべきである。「當十四日對州碩學和尚歸山、夜前小生も招かれ候。色々おもしろき物一見いたし候。」(せう)()()(てい)がこれに(おく)つた()があつて、(せう)(いん)にかう()つてある。「賀丹崖長老終馬島任歸山。是歳五月韓使來聘竣禮事。長老與韓客唱和詩若干。余得寓觀。」(たん)(がい)は五(ぐわつ)對馬(つしま)()き、八(ぐわつ)十四(にち)(かへ)り、()(てい)は十七(にち)にこれを()うたのである。

 (その)()(だう)(えつ)主税(ちから)(はん)()()(とう)()(めい)(じん)(めい)(おな)(しよ)()えてゐる。「たしから道悦樣永々御病氣のよし御案じ申上候。先達而書通も仕候。主税義急に八月朔日此方出發仕候。」たしからは()()(たしか)()であらうか。しかし()()の「ら」()()()(めい)である。(はん)()()()(てい)(たく)して(すひ)(もの)(わん)()はうとした。(しか)るに(はん)()()はこれを()(れん)なりとした。(ぶん)(なが)きを(もつ)て、(しも)に一()(ぶん)(せう)する。「しかし高直に被存候而は甚氣の毒に御坐候間、先々十人前の分はらひ候。十人前は御かへし候てもよろしく候。(中略。)それも氣に入不申候はゞ、皆々かへし候ても不苦候。只々餘り度々永く留置候間、上下駄賃小生方より拂遣可申候。」

 八(ぐわつ)十八(にち)(しよ)(どく)(こゝ)(をは)る。わたくしは(いま)(せう)()(ちゆう)()えてゐる春日(かすが)(がめ)(らん)(しう)(こと)()()して()きたい。(せう)()はこれを十五()(かん)(げつ)()と十七(にち)(たん)(がい)(おく)()との(あひだ)()せてゐるのである。

 春日(かすが)(がめ)(せい)()(あざな)()(さい)(らん)(しう)(がう)した。(その)(つう)(しよう)(たん)(さい)であつた。(へい)(あん)(じつ)(ぶつ)()()るに、(らん)(しう)は「四條小橋西」に()んでゐた。

 (らん)(しう)()()(てい)(おく)つた。(この)()(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(まじ)つて(のこ)つてゐる。「渉筆元奇筆。那論陳腐編。締交羞我拙。接語憶君賢。雅量徐沈密。博覽楊太玄。守愚唯蝟縮。難到蛟龍淵。」()(てい)はこれに()(たふ)した。(せう)()()する五(りつ)(これ)である。わたくしは(こゝ)()(りやく)して(たゞ)(その)()(ちゆう)()げる。「翁齡七十八。早歳善詩及書。平生所交。多一時聞人。就中淇園先生、六如上人其同庚。今皆下世。」(ぶん)(くわ)(しん)()七十八(さい)だとすると(らん)(しう)(せい)(ねん)(きやう)(はう)十九(ねん)でなくてはならない。(きん)(せい)(じゆ)(りん)(ねん)(ぺう)(けん)するに、(きやう)(はう)十九(ねん)(うまれ)(じゆ)(しや)(ちゆう)(みな)(がは)()(ゑん)()せてある。しかし(そう)(によ)(せい)(ねん)(これ)より三(ねん)(のち)(げん)(ぶん)(ねん)であつたらしい。()(じつ)()つて(さい)(けん)すべきである。

 九(ぐわつ)には()(てい)(ちよう)(やう)()()んでゐた。「九日有登七老亭之期、臥病不果口占」の五(ぜつ)(せう)()()えてゐる。

 十九(にち)()(てい)(ばう)(てい)()()()けた。(くわん)(せい)十一(ねん)(ぐわつ)十九(にち)歿(ぼつ)した内藏(くら)()(らう)(げん)の十三(くわい)()(しん)である。三(しう)(ゐん)(そう)(げつ)(こう)(また)(おな)じく()()して(せん)した。(ならび)(せう)()()せてある。

 (せう)()()るに、()(てい)(あひ)()(ところ)(そう)(けん)(だう)()()歿(ぼつ)したのも(また)(ぐわつ)(ちゆう)(こと)であるらしい。(けん)(だう)(まへ)()いた(しよ)(どく)(くわう)(みやう)()である。西(にし)(むら)(きふ)()(とく)(その)(やまひ)()はむがために(とう)(かう)したのであつた。(せう)()()する七(りつ)(いん)はかうである。「謙堂禪師游方在關東。近報其病。訃音忽至。(中略。)聞吾友看松居士與僧侶數輩故東下問疾。至則已遷化。盖不出兩日。幽明一隔不及相見云。」

     その五十一

 (ぶん)(くわ)(しん)()(ぐわつ)()()(てい)(にん)(いう)(てい)より(ばい)(やう)(けん)(うつ)つた。(せう)()()(いん)に「予在任有亭宛百日、初冬八日將移梅陽軒、援筆題于壁間」と()つてある。(とき)(やぶ)(うち)(いへ)(すで)()(にん)(うつ)()んでゐた。「聞竹裏舊廬人已僦居、予曾不知、戲賦」の七(ぜつ)(せう)()(ちゆう)にある。(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(この)()()(こと)()いて()()して()せた。(うち)に「曾從竹下開三徑、更向梅邊借一庵」の(れん)がある。

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(たう)()(こと)()るに便(べん)なる(しよ)(つう)がある。(これ)は十一(ぐわつ)()()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)()せたもので、(さい)(しよ)(ばい)(やう)(けん)(うつ)つたことが()つてある。「小子共も任有亭餘りせまく御坐候間、先月(十月)八日天龍門前に方丈の隱居有之、夫に引移居住仕候。左樣御承知可被下候。(中略。)只今居住の處は梅陽軒と申(處)に御座候。渡月橋の通、聽琴(こときゝ)橋と申橋の近邊に候。天龍寺勅使門の前にあたり候。御状はやはり伊せき方へ御遣可被下候。大方の日たより有之候。」(ばい)(やう)(けん)(てん)(りう)()(いん)(きよ)(じよ)であつた。

 ()(てい)(おな)(しよ)()るに、(ばい)(やう)(けん)()つた(はじめ)に、(すで)()(じつ)(きやう)()()(ちゆう)()むべきことを(かう)(りよ)してゐた。「先書申上候通、菟角私の身分は甚只今の通りに而よろしく候得共、立敬醫學修業今一息不便理、と申ても京都いづかたも御頼申候程の處も無之候。山田社中へも此頃及相談候處、先月末宇仁館君大坂の序態々峨山へ被參、また山口其外の口上等も承り候。いづれとも兩方よろしき樣取計可有之樣との事に候。夫故先々小生もいづれ京都に而靜かなる座敷體の處見つくろい住居可仕と奉存候。いづれ正月中頃移居可仕候。大體富小路か柳馬塲あたり、中京にいたし可申候。尚又御賢慮御指揮奉仰候。」(これ)()つて()れば()(てい)(のち)(きやう)()()(ちゆう)(うつ)つたのは、(すくな)くも(なか)(おとうと)(へき)(ざん)(かう)(がく)便(べん)(はか)らむがためであつたらしい。()()(だち)(ばい)(やう)(けん)()うた(とき)()(てい)(おく)つた()(せう)()(ちゆう)にある。「謝清蔚赴浪華、枉路過訪峨山」と(だい)するものが(これ)である。

 (この)(ころ)(おほ)(つか)()(けん)(かめ)()(なん)(めい)(ちく)(ぜん)()()()に、(ばい)(やう)(けん)()うた。(かみ)の十一(ぐわつ)()(しよ)にかう()つてある。「山田大冢東平、筑前龜井道載先生へ來年一年も從學仕候つもりのよしに而、此間うがた尾間慶藏同道に而被見、私方にも兩夜止宿、最早此節大阪へ發足被致候。源作龜井の縁者に候故の事に候。尤龜井位の人も京都には無之候。一段壯遊と奉存候。京都も此頃は清田謙藏、中野三良、小栗文之進など申儒生皆々死去、ます/\人物もすくなく相成候やうすに御坐候。」(おほ)(つか)()(けん)(とう)(へい)(しよう)したことが(これ)()つて()られる。()()(けい)(ざう)()()()(がた)のものであつた。(せう)()には(たん)に「尾間生」とのみ()してある。(せう)()()は七(りつ)で、「冢不騫偕尾間生將游學筑紫、過訪峨山、賦餞、兼寄南冥先生」と(だい)してある。

 ()(てい)(かめ)()(こと)(ちゝ)(はう)ずるに(あた)つて、(けい)(らく)(しよ)(じゆ)(てう)(らく)()(およ)んだ。(きよ)()(げん)()(もと)(はり)()(ひと)()(とう)(うぢ)()ぎ、(しん)(じゆ)(けん)の三()をまうけた。(しん)()(とう)(きん)()(じゆ)()(むら)(ほく)(かい)(けん)(きよ)()(たん)(そう)(じゆ)()にして(けん)(いへ)()いだものが(りう)(せん)(くん)である。(くん)(ぶん)(くわ)(ねん)歿(ぼつ)した。(けん)(ざう)とは(あるひ)(くん)であらうか。(くん)(つう)(しよう)(だい)()(らう)として(つた)へられてゐる。(あるひ)(のち)(けん)(ざう)(あらた)めたか。(なか)()(くわん)(あざな)()(ぶん)(りう)(でん)(がう)した。(ぶん)(くわ)(しん)()(ぐわつ)歿(ぼつ)した。(さぶ)(らう)とは(あるひ)(くわん)であらうか。()(ぐり)(ぶん)()(しん)()(しやう)である。(ぶん)(くわ)(ちゆう)歿(ぼつ)した十(しう)(くわう)(いん)(ぐわ)()である。(ぶん)()(しん)(おそら)くは(べつ)(にん)であらう。

 (おな)(しよ)(はや)(せう)()(こと)()つてゐる。「來春は嵯峨樵歌と申拙詩集板行に出候。此節追々とりあつめ仕候。しかし出來あがり候迄は御噂被下まじく奉願候。」

     その五十二

 (ぶん)(くわ)(しん)()(ふゆ)には(これ)より(のち)(おほ)()すべき(こと)()かつた。(せう)()()れば、(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(あらた)(しよ)(さい)(つく)つた。()()(だち)()(かう)(おほ)(さか)より()()(かへ)つた。(あふ)(こう)(しよ)(さい)(こと)は「聞凹巷處士近開小吟窩、日坐其中」と()つてある。(もと)(あふ)(こう)とは(やま)()(かみ)()()()んだ(ゆゑ)(がう)したと、()()()えてゐる。(しよ)(さい)(かなら)ずや(おな)(ところ)(きづ)かれたことであらう。()(かう)(さき)()()より(ばい)(やう)(けん)(くわ)(ばう)して(おほ)(さか)()き、(いま)(また)()()(かへ)つたのである。(せう)()に「立春後一日送清蔚還郷」の()がある。

 (また)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(しも)()くべき(しよ)()るに、()(てい)(さい)(ばん)(せま)つて(おとうと)(へき)(ざん)(きやう)()()()()より(ばい)(やう)(けん)(むか)()つた。

 ()(てい)(しん)()(とし)(ばい)(やう)(けん)(おく)つた。「迎春身計知何事。先爲探梅買緑蓑。」(この)(とし)()(てい)は三十二(さい)であつた。

 (ぶん)(くわ)(ねん)()(てい)(とし)(ばい)(やう)(けん)(むか)へた。「大堰川頭斂曉霏、小倉山外捧春輝」の()がある。

 (しやう)(ぐわつ)十一(にち)()(てい)(しよ)(ちゝ)(てき)(さい)()せた。(しよ)には(きやう)()()(ちゆう)(うつ)()(けい)(くわく)()せてある。「舊冬はけしからぬ寒氣に御坐候。春に相成候而は少々ゆるまり候樣覺え候。御地等は如何に哉。將又御宅よりの書状此方へ一向相屆不申、朝夕掛慮仕候。八月初旬御書簡在しより以來絶而相達し不申、もし途中浮沈等は不仕候哉。兼而十月頃御書簡被下候樣相待居候に、當月迄も相達し不申、もしや御故障にても無之哉と兩人申いで居候。私義も舊冬より寒氣あたりの氣味、四五十日も出京仕かね候。夫故萬事失禮仕候。去年申上候通、今年は又々京都へ出張可仕奉存候。靜かなる處京都へ聞合せ置候。いづれすこし暖氣に相成候はゞ、早々取計可申奉存候。當月末、來月上旬中には相定まり可申候。立敬も舊冬より此方へ罷越居候。當十二日師家會始のよしにて出席いたし候。先に立敬京都へ遣し置可申候。此邊も嵐山花さき候へば、殊之外騷々敷、何卒其前方に移居可仕奉存候。」(へき)(ざん)(りつ)(けい)(ぜん)(ねん)(くれ)(ばい)(やう)(けん)(うつ)つたことは(こゝ)()えてゐる。

 (しよ)(また)(あふ)(こう)(うめ)(たに)(ぼう)との(こと)()つてゐる。「來月中旬には山口氏此方に御上京之よし相聞え候。梅谷御子息も當月末歟來月上旬には發足のよし申來候。」

 ()(てい)(しやう)(ぐわつ)十一(にち)(この)(しよ)(ちゝ)()せた(のち)(わづか)に一(じつ)にして、(きふ)(まと)()()(せい)することを(おも)()つた。(こと)は十二(にち)(かさね)(ちゝ)()せた(しよ)()えてゐる。「小生も當年は京都へ罷出門戸丈張見可申奉存((この)(しも)に「候得共」の三()あれども(ぶん)(みやく)(しも)(せつ)せざる(ごと)きを(もつ)(はぶ)く)此頃段々相謀申候。然る處去々月より御宅より御書状一向到來不仕候故、不安心に奉存候。霜月末も差出候處、今以御消息相しれ不申候故、右萬端御相談も申上たく、且又御伺申上たく候而、京都へ移居いたし可申前に立かへりに一寸御宅へ參上可仕存立候。尤山田山口氏へも内々御相談に及び候儀も有之、旁參上仕候得共、此度は誠に立歸りの義に候て、且は立敬一人跡へのこし置候故不安心にも有之、御宅一兩日滯留、山田一宿、これもどれへも噂不仕樣にいたし候。山口氏、西村氏、東君、是は山口に而御目にかゝり候のみにいたし、外へはすこしもしれ不申候樣いたし可申候。無左候ては義理あしく候。御宅へも夜にいり、參り可申候間、何卒其前方に左樣御心得可被下候。外御親類とても御噂被下間敷、又々其内表むきに而參り候節、諸方へも逢可申候。色々物事勞煩に相成候而、又々よろしからざる事も有之候故に候。右一寸前方御しらせ可申爲、如斯御坐候。此表廿六七日の中に發足いたし候。(中略。)何卒暫時御座敷に罷居申たく奉存候。一兩日の事故、無據人にのみ逢可申候。」(この)(しよ)()(くわい)なる(しよ)である。(ぜん)(しよ)(はつ)した(のち)(わづか)に一(じつ)にして()(せい)(おも)()つたのが(すで)(あやし)むべく、(その)(ぶん)(みやく)(また)(れい)()ず、しどろもどろなるが(いよ/\)(あやし)むべきである。(たゞ)(しか)るのみではない。()(てい)(また)(じふ)(すう)(じつ)(のち)(この)()(せい)(おも)(とゞ)まつたのである。

     その五十三

 ()(てい)(ぶん)(くわ)(じん)(しん)(しやう)(ぐわつ)十一(にち)(しよ)(ちゝ)(てき)(さい)()せて、()()(ばい)(やう)(けん)より(きやう)()()(ちゆう)(うつ)るべきを()げ、十二(にち)(また)(しよ)()せて()(ちゆう)(うつ)るに(さき)だつて(まと)()()(せい)すべきを(はう)じた。(すで)にして二十六(にち)(いた)り、()(てい)(しよ)(もん)(せい)(うめ)(たに)(ぼう)(ちゝ)(あた)へ、これに(たく)して(まと)()()(ねい)せざることを()はしめた。

 「當月廿二日山田迄急飛脚書状差出し、且郷里への書状等貴館迄差出し候。相達候哉。其書中山田並に郷里へも少々用事有之、立かへり(に)參り可申、申上候處、此節宇仁館氏浪華へ被罷出候處、態々西峨へ山田社友より使者に被相立候而御出被下、かね而申上候通、先に居宅京都に而かり受可申、去冬より心かけ候處、左まで思わしき事も無之、幸柳馬塲蛸藥師下る處にかつこうなる家有之、家賃等二分餘もかかり候而すこし高價にも被存候へども、甚靜かなる家居故、先にかり受申候。來三日移居いたし候積りにて急に相計申候。尤小生嵯峨本意之事故、やはり任有亭の(「の」は「を」の誤か)本居といたし置、京都は立敬並に御子息、外に山田より一人、當地に而一人、以上四人の居住と相定め、小生折ふしは嵯峨へも參り可申、畢竟京都は旅宿と相定め可申候。其方萬事、事すくなく候而よろしく候故、右相計可申候。左樣思召可被下候。然る處此間一寸立かへり(に)參り可申、郷里へ申遣候間、是は先々當分相やめ可申候間、かの書状的屋へ未御出し不被下候はゞ、其儘御返却奉希候。もし未御遣し不被下候はゞ、何卒此書状御一覽之上此儘的屋へ御遣し被下候樣被仰遣可被下候。別段書状相認可申候處、明朝發足の人急歸故不得其意候。いづれ跡より委曲可申遣候間、くるかとぞんじ候て相待候も心がかりに候間、右之段被仰聞可被下候。くれにかゝり書状相認、甚亂書御免可被下候。いづれくわしくは奉期後便候。乍去先に京都卜居いたし候義今暫御觸被下間じく御内々奉頼候。匇々以上。尚々郷里へは此書状直に御封じ被下御遣可被下候。跡より別書くわしく差出可申候。」(あて)()は「梅谷上羽樣文案」と()してある。「羽」()()(めい)ながら(しばら)(けい)()(もつ)(うつ)(いだ)すこととする。

 わたくしは()づこれを()んで()(てい)()(きやう)()めたのを(あやし)んだ。(にはか)(おも)()つた()(きやう)(なに)(ゆゑ)()められたかを(あやし)んだ。しかし(さき)()(きやう)(はう)じた(しよ)は、(この)(ぶん)()れば十二(にち)にあらずして二十二(にち)(はつ)せられたるが(ごと)くである。わたくしは(ぜん)(しよ)()(どく)せしかと(うたが)つて(さい)(けん)した。(げん)()はすなほに()めば(あきらか)に「十」である。「廿」の(さう)(たい)として()むことは(すこぶる)(かた)い。(あるひ)(なほ)(ちやく)()して()ひて(かく)(ごと)くに()るべきであらうか。わたくしは(しばら)(うたがひ)(そん)して()く。

 それはとまれかくまれ、()(てい)(はじめ)(にふ)()()ひ、(なか)ごろ(にふ)()(さき)だつて()(きやう)すべきを()ひ、(さい)()()(きやう)せずして(にふ)()すべきを()つたことは(めい)(はく)である。そしてわたくしは(いま)その(てい)()()(ひるがへ)した一々の(どう)()()ることを()ない。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(じん)(しん)(しやう)(ぐわつ)の三(しよ)(たう)(てい)()(くわい)(しよ)たることを(まぬか)れない。

 わたくしは(なほ)(こゝ)(しよ)(ちゆう)()えた(にふ)()()を一()して()きたい。()(てい)は二(ぐわつ)()()して(きやう)()()(ちゆう)(うつ)らうとしてゐたのである。

     その五十四

 ()(てい)(ぶん)(くわ)(じん)(しん)(ぐわつ)()して(きやう)()()(ちゆう)(うつ)らうとしたことは(かみ)()つた。(すなは)()()(せい)(くわつ)(だい)()()らうとしてゐるのである。しかし(はた)して()(ごと)(うつ)つたか(いな)かは()(しやう)である。

 ()()(せう)()(くわん)(まつ)(さい)(かん)(だう)(こと)()つてある。「今玆壬申。因家君命。移居城中。予於嵯峨。已爲一年之寄客。山縁水契固不淺。將辭也。猶爾瞻戀故山不忍去。乃欲移松梅竹。吟榻相對。游焉息焉。聊慰其情。三種皆名于地産也。三秀宣上人聞而嘉之。特贈龜山松堰汀梅峨野竹。各附一絶。適院屏有賣茶翁松梅竹三字。併見惠寄。(中略。)昔元張伯淳呼松梅竹爲三友。明人又有歳寒之稱。予既栽三物於庭下。扁遺墨於堂上。遂命曰歳寒堂。」

 (かり)()(てい)が二(ぐわつ)()(ちゆう)()つたとすると、わたくしは(その)()(ちゆう)(いへ)()らぬが、()()()(いへ)(さい)(かん)(だう)ではなささうである。

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)に四(ぐわつ)廿四(にち)()(てい)(ちゝ)()せた(しよ)があつて、それが(きやう)()()()(まち)(でう)(あが)(ところ)(いへ)(うつ)(ぜん)(じつ)(さい)せられたものである。()()(まち)(いへ)()(せい)()(なう)所謂(いはゆる)(さく)(しん)()(いへ)である。()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(この)(しよ)(れん)(しよ)してゐる。そして(をし)むらくは(しよ)(ちゆう)(かん)(いく)(ぎやう)かが()れて(うしな)はれてゐる。

 「幸木屋町三條上る處相應の家有之、是は表にてもしづかなる處にて格好もよろしく、尤家賃は一月四十四匁宛、一年七兩内外に御坐候而、只今の處より高價に候故、太儀に被存候得共、直樣世話なしにはいられ候故、先々それに决し候、明廿五日轉居仕候。此段左樣思召可被下候。木屋町は御案内の通東よりにてすこし町とは違ひ候故如何とも存候へども、諸方の通行には甚勝手よろしく候。三條上ると申ても、先々二條三條の間にて、町にては御地あたりにあたり、高瀬川と鴨川の間に有之候に御坐候。家主は大坂鴻の池の持に候。座敷六丈敷、臺所五丈半板敷、次の間四丈半、玄關三丈じき、以上四間に御座候。ながしも内井戸、甚よろしくひろく候。座敷庭もすこし有之候。」

 所謂(いはゆる)「只今の處」は、()(じやう)より()しても()(みやく)より()しても、(ばい)(やう)(けん)ではなささうである。()(てい)(おそら)くは二(ぐわつ)()(ちゆう)()つて、所謂(いはゆる)(たゞ)(いま)(ところ)()み、(さら)()()(まち)(うつ)らうとしてゐるのであらう。

 (この)(しよ)()()(てん)()(ごと)くにせられたことが(あきら)かである。それは(のち)(しよ)(どく)()つて(しよう)せられてゐる。そしてわたくしは(この)()()(まち)(いへ)(もつ)(さい)(かん)(だう)だとする。()(てい)(しよう)(ばい)(ちく)(おく)つた三(しう)(ゐん)(そう)(げつ)(こう)は、()()(せう)()(のち)(しよ)して「賢父母在堂、君因其命、今教授於京師」と()つてゐる。(この)(ばつ)は七(ぐわつ)(さう)したもので、(ぶん)(ちゆう)(けう)(じゆ)(ところ)(さい)(かん)(だう)であるらしく、(たう)()()(てい)(いへ)()()(まち)にあつたのである。

 ()(てい)(しやう)(ぐわつ)(しよ)に、()()(ほん)(きよ)として()(ちゆう)(いへ)(わう)(らい)しようと()つてゐた。(その)(いへ)(さい)(かん)(だう)でなく、(のち)()()(まち)(うつ)るに(およ)んで、()()(いへ)(てつ)したことであらう。(しよう)(ばい)(ちく)()()(いへ)(てつ)した(のち)に、()()(まち)(いへ)()ゑられたことであらう。

 ()()(まち)(うつ)(ぜん)(じつ)(つく)られた(この)(しよ)には(なほ)二三の()すべき(こと)がある。それは(つぎ)(ごと)くである。

     その五十五

 (ぶん)(くわ)(じん)(しん)(ぐわつ)二十四(にち)()(てい)(へき)(ざん)(けい)(てい)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)は、(ひと)()(じつ)(うつ)()むべき(きやう)()()(ちゆう)(しん)(きよ)(はう)じてゐるのみでなく、(また)こんな(こと)()せてゐる。

 (その)一は(かは)(さき)(けい)(けん)(たう)()(きやう)()(えん)(りう)してゐたことである。「裏松殿御薨去に付、河崎良佐君此節御入京、大方當月中は滯留被致候。山田のやうすくわしく承り候。右之御供など參り居、明日轉宅はこびもの等人やとひなしに出來悦申候。」(けい)(けん)(えん)(けい)(うら)(まつ)(さきの)(ちゆう)()(ごん)(かた)(みつ)()のためであつた。()(てい)()(じつ)()()(まち)(うつ)らむがために(もの)(はん)(そう)せしめ、(けい)(けん)(じゆう)(しや)()がこれを()(つだ)つた。

 (その)二は(うめ)(たに)(ぼう)()より(もと)()(かん)()()()ふものに()つて()(てい)(そう)()した(もの)(じゆ)(たい)したことである。(げん)(ぶん)(はぶ)く。(もと)()()(きやく)()である。

 ()(てい)()()(まち)(うつ)ることは、()(ごと)くに(おこな)はれたに(ちがひ)なからう。(ぜん)(じつ)(じふ)()(とう)()(そう)せられたことも(また)これが(しよう)()つべきである。

 四(ぐわつ)には(なほ)(くわん)(ちや)(ざん)()(てい)()()(せう)()(じよ)した。(ちや)(ざん)()(てい)()(もつ)て「力寫實境、而不逐時尚」となし、(のぞみ)(ぜん)()(ぞく)したのである。(すゑ)に「文化壬申孟夏、備後菅晉帥撰」と(しよ)してある。()(てい)(くわん)(うぢ)(つう)()()れる(ぼう)(たく)して(えつ)(ちや)(ざん)()ひ、(ちや)(ざん)(そう)(だう)(くわう)()つて(この)(じよ)()(てい)(いた)したことは(のち)(しる)すであらう。

 五(ぐわつ)二十三(にち)()(てい)(しよ)(ちゝ)()せた。(この)(しよ)には(おとうと)(へき)(ざん)()(しよ)してゐない。(また)(まと)()(しよ)(どく)の一である。

 わたくしは()()()(まち)(しん)(きよ)(くわん)する(こと)どもを(その)(うち)より(せう)(しゆつ)しようとおもふ。「先月末頃山田尼辻たばこや彌兵衞殿迄書状一通御頼申候。定而相達し可申奉存候。其節申上候通、四月末より木屋町三條上る二丁目に居住仕候。」烟草(たばこ)()()()()(たく)せられた(しよ)(すなはち)(かみ)の四(ぐわつ)廿四(にち)(しよ)である。()(きよ)(こと)(すで)(はた)されてゐる。「木屋町三條上る」の(しも)(いま)「二丁目」の三()()(いだ)された。(かん)(どく)(なに)(ちやう)()(なん)(ばん)()なることを(はう)ずるは、(いま)(おほ)()(ぜん)(おい)てせられずして()()(おい)てせられる。「下地よりはひろく候故、凉敷候而よろしく候。」(した)()よりは(はう)(げん)で、(まへ)よりと()ふと(おな)じである。

 (つぎ)(つう)(しん)(なか)(つぎ)(こと)(せう)する。「此後書状便荷物等は山田妙見町相可屋善右衞門殿方迄さし出し置申候間、其御地八百屋にても又は御家來にても御立寄らせ可被下候。是は小生方へ參り被居候門生彌六宅に御坐候間、萬事序有之候。相可屋は野間因播のむかひに候。」(あう)()に「あふか」と(ばう)(くん)してある。(もん)(せい)(なが)()(うぢ)(あう)()()()六の()(たま/\)(こゝ)(ろく)せられた。

 (たま/\)(もん)(せい)()()でたから、わたくしは()(もん)(せい)(こと)(つぎ)(せう)する。「高階主計之允殿御子息もひるの閒塾中に參り讀書等いたし候。淺井周助子は此節無據暫く歸郷いたされ候。」主計(かぞへ)()(すけ)(ぶん)(くわ)(へい)(あん)(じつ)(ぶつ)()()れば、()(つね)(のぶ)(あざな)()(じゆん)()(ゑん)(がう)し、(いへ)は「兩替町御池北」にあつた。(たか)(しな)(つね)(もと)さんに(たゞ)すに、(つね)(のぶ)(しやう)(れん)(ゐん)(ばう)(くわん)(とり)()(こう)()(つね)(もと)()で、(はじめ)(たか)(しな)(うぢ)(しよう)し、()(げふ)とした。()()には(あざな)()(しゆん)(つく)つてある。一に(とう)(いつ)とも(しよう)した。(つね)(もと)さんの(そう)()()である。(あさ)()(しう)(すけ)(のち)(しよ)(しん)(ちよう)するに、()()(やま)()(ひと)である。十(すけ)()との(どう)()(なほ)(かむが)ふべきである。

 (この)(しよ)(うち)(せう)すべきものは(いま)()きない。(なほ)(しも)(ぞく)(せう)するであらう。

     その五十六

 (ぶん)(くわ)(じん)(しん)(ぐわつ)二十三(にち)()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)には(つぎ)(おとうと)(へき)(ざん)(きん)(じやう)()せてある。「立敬も吉益へ毎朝かよひ候。夜分は小生友人百百内藏太子方へ先々月入門いたさせ、醫書會讀に遣し申候。時々療治代診等にもつれられ候。隨分堅固に相務居申候。」()()内藏(くら)()()(しゆん)(とく)(あざな)(こく)(めい)(かん)(いん)(がう)した。(ぶん)(くわ)(へい)(あん)(じつ)(ぶつ)()()るに、「西洞院竹屋町北」に()んでゐた。(へき)(ざん)(ひる)(よし)(ます)(なん)(がい)(かう)(えん)(つなら)り、(よる)(かん)(いん)(もと)()つて(をしへ)()けてゐた。その(かん)(いん)(じゆう)(いう)してゐたのは三(ぐわつ)()()(こと)である。

 (つぎ)(しよ)(ちゆう)()えてゐるのは(へき)(ざん)(すぐ)(つぎ)(おとうと)(りやう)(すけ)(こと)である。「良助儀河崎良佐君へ先達而御相談申候處、先々此方へ被遣置可被成候、隨分と御世話申候而、素讀等いたさせ可申、山口東などへも始終往來、彼家御子息と一しよに讀書詩作等いたさせ申候而可然などゝ、御心切に被申聞候。如何思召候哉、御相談申上候。乍去いづれ小生も七月中には御見舞旁々歸國可仕候間、くわしく其節御面上御相談可申上候。尚又御思慮も候はゞ被仰聞可被下候。」(かは)(さき)(けい)(けん)(りやう)(すけ)()()(やま)()(いへ)(むか)()つて、(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(ひがし)()(てい)(いへ)(わう)(らい)せしめ、()(てい)(おな)じく(をし)へようと()つてゐたのである。

 (つぎ)()()(せう)()(こと)(しよ)()えてゐる。「嵯峨樵歌も此節專ら板木にかかり居申候。六月中には出來上り可申候。」()(てい)(こく)(せい)を六(ぐわつ)()してゐた。

 (つぎ)()(てい)(ちゝ)(さう)(りん)()(もの)(がたり)(おく)つた(こと)である。「蝶夢和尚雙林寺物語、近頃上木に相成申候。甚おもしろき物にて評判ものに候。一部進上仕候。御慰に御覽可被下候。」(てふ)()(また)(げん)()(はく)(あん)、五(しよう)(あん)とも(しよう)し、(てら)(まち)(いま)()(がは)(きた)()()()()()(ゐん)(ぢゆう)してゐた。(じん)(めい)()(しよ)(はい)(りん)(せう)(でん)()いて「寛政四年十二月廿四日歿す、年六十四」と()つてある。(へい)(あん)(めい)()()(しよ)(らん)には「寛政八年」に(つく)つてあつて、(つき)()(ねん)(れい)とは(おな)じである。(はか)()()()()にあるさうである。(さう)(りん)()(もの)(がたり)(こく)(しよ)(かい)(だい)()えない。歿(ぼつ)()二十(ねん)(もし)くは十六(ねん)にして(かん)(かう)せられたものと()える。(あん)ずるに()(てい)(とも)(かしは)(ばら)(ぐわ)(ぜん)が五(しよう)(あん)(しよう)するは(てふ)()(あん)(がう)()いだもので、(さう)(りん)()(もの)(がたり)(ぐわ)(ぜん)(かう)()たことであらう。

 (さい)()()()(うめ)(たに)(うぢ)より(きた)るべくして(きた)らなかつた(ぶつ)(けん)()(まつ)(しよ)(ちゆう)()えてゐる。(ぶつ)(けん)(きん)(りやう)(しぶ)(かみ)(づゝみ)一つとで、(てき)(さい)(うめ)(たに)(うぢ)(たく)して(おく)つたものであつたらしい。(しか)るに(うめ)(たに)(うぢ)はこれを(ほん)(げふ)()(きやく)()(かう)()せずして、所謂(いはゆる)(まち)()(きやく)(かう)()し、(きん)(ぴん)(まち)()(きやく)(ところ)(じゆ)(たい)してゐた。()(てい)(かは)(さき)(けい)(けん)をして(ます)(かは)(もと)()(りやう)()(きやく)()(そう)(さく)せしめ、(りやう)()(きやく)()(まち)()(きやく)(きう)(もん)し、(きん)(ぴん)(はつ)(けん)した。そして五(ぐわつ)十七(にち)(きん)(ぴん)(きやう)()()()()(たつ)した。「乍去梅谷氏へはやはり何がなしに落手いたし候やうに可申遣候。無左候而は彼家の無世話に相なり風評も不可然候間、先々此方へ落手いたし候へば子細無之事に候間、ちよつとも左樣の御噂被遊被下間敷候。」わたくしは(たう)()(てい)(でん)(じつ)(きやう)(ちよう)()すべきと、()(てい)(くわん)(こう)(りやう)()るべきとのために、(はん)(いと)はずしてこれを(せう)した。

 六(ぐわつ)十四(にち)()(てい)(ちゝ)()せた(しよ)は、(おそら)くは(たゞち)(ぜん)(しよ)(せつ)するものであらう。「伯耆大山の香茸少々、土佐の畔鳥二羽、仙臺のほや二、長崎野母崎のからすみ一つ」に()へた(しよ)である。(だい)(せん)所謂(いはゆる)(はう)()()()である。(くろ)(とり)(なに)(とり)なるを()らない。石勃卒(ほや)、鮞(から)(すみ)(ちゆう)することを(もち)ゐない。(しよ)(まと)()(しよ)(どく)の一で、その()(ところ)(しも)(せう)するが(ごと)くである。

     その五十七

 ()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(ぶん)(くわ)(じん)(しん)(ぐわつ)十四(にち)(しよ)には()()(をん)(まつり)(こと)()つてある。「當地此節は祇園祭に而騷々敷罷過候。」()(なみ)()()()るに、十四(にち)(あさ)(うの)(こく)より(やま)(わたし)があり、(ひる)(うまの)(こく)(ばかり)より()輿(こし)()るのである。(やま)(すなはち)(さん)(しや)()()()ふ「だし」である。

 (つぎ)(おとうと)(りやう)(すけ)(たく)すべき(いへ)(こと)()つてある。「良助義河崎か宇仁館の方へ遣し可申やう先達而被申越候。此度も申來候。別段御状懸御目候。いづれ其方可然奉存候。御兩所樣御相談被遊置可被下候。いづれ私義盆後御見舞旁一寸參上仕度奉存候。其節萬事可得尊意候。しかし拙者一寸歸省いたし候事は先々他人へは御噂被下間敷候。」

 (つぎ)(もん)(じん)(あさ)()(しう)(すけ)()(じゆく)した。「淺井周助先月むかひ參り、一寸歸郷いたし、二三日前歸京仕候。山田内宮邊噂承知仕候。」

 (つぎ)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(だん)()()げた。「山口君又々當月男子出生有之候よし承知仕候。」(あふ)(こう)()()()()るに、(てき)(しゆつ)(くわん)(ぺい)(ぐん)(ぺい)の二(にん)(しよ)(しゆつ)(こう)(へい)(ばい)()の二(にん)で、(ばい)()(えう)したさうである。(つきの)()(ばい)(くわ)(てふ)にも、「男觀、男群、男興」の三(にん)(しよ)(めい)してゐる。(じん)(しん)(うま)れたのは(いづ)れの()()。「又々」と()ふより()れば、その(くわん)(ぺい)にあらざることは(あきらか)である。(おそら)くは(ぐん)(ぺい)であらう()()(じやう)()(をは)つてわたくしは(くわん)(ぺい)(ぶん)(くわ)(へい)()(さい)であつた(しよう)()た。(しか)れば(この)(とし)(じん)(しん)には(くわん)(ぺい)(さい)で、(あらた)(うま)れた()(ぐん)(ぺい)なること(うたがひ)()れない。

 (つぎ)(くわん)(ちや)(ざん)(せん)()()(せう)()(じよ)(たう)(ちやく)した。「嵯峨樵歌も近々出來上り申候。大方來月(七月)初旬迄には仕立候積りに御座候。此節雲州の道光上人御上京兼而頼遣置候備後福山神邊の老儒菅太仲先生の序文出來參り申候。御聞及も有之候哉、この太仲と被申候人は那波魯堂先生(原註、播州の人、寶暦の頃の大儒、京住)門人に而當時は三都にも肩をならべ候人なき程の詩人にて候。尤甚名高き人に御坐候。樵歌序文甚おもしろく出來參り辱奉存候。右の道光上人と申は法華の高徳に而、詩も餘程出來候人に候。これも菅太仲など懇意の人に候。世間に而甚人の信用いたし候僧に御坐候。」(そう)(につ)(けん)()(てい)のために(せう)()(じよ)()(てい)(いた)したことは(これ)()つて()られる。(につ)(けん)(ぞく)(せい)()()(うぢ)(おほ)(さか)(ひと)であるが、出雲(いづも)(ひら)()(はう)(おん)()(ぢゆう)(しよく)であつたので、「雲州の道光上人」と()はれてゐる。

 (つぎ)(こう)(えふ)()(かう)(かん)(かう)せられたので(ちゝ)(はう)じた。「山口君御計に而青山文亮、大冢東平、孫福内藏介、立敬など林崎に罷在候節、紅葉詩藁、外之少年のはげみにもと被存一册小さき詩集此節板刻きれゐに出來申候。漸々此度一册參り候。追而入御覽可申候。いづれ若き人の懈怠の出來不申候やうとの思召、辱義と奉存候。一寸御風聽申上候。」(ひがし)()(てい)(つう)(しよう)(ぶん)(すけ)なることが(はじめ)(こゝ)()えてゐる。(やま)()(はし)(むら)(うぢ)(はう)()るに、()(てい)(もと)(あを)(やま)(やす)(すけ)()である。(ひがし)(こう)(けん)歿(ぼつ)した(とき)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(もん)(じん)(あを)(やま)(ぶん)(すけ)(もつ)(おのれ)(いう)()たらしめ、これをして(こう)(けん)(いへ)()がしめた。()(てい)(きう)(たく)(やま)()(げん)(そん)し、(その)(えい)(たい)(しやう)(ねん)(はふ)(がく)()となり、(げん)(かう)()()(すゞ)()(しやう)(てん)(しゆ)(くわん)の一(にん)となつてゐると()ふ。(こう)(えふ)()(かう)(へき)(ざん)()()せてゐるので、()(てい)(ちゝ)(はう)じて(よろこ)ばせようとした。しかし(ちゝ)(あるひ)()(もと)むるに(きふ)なるを()めむことを(おそ)れたものと()え、()(てい)(はん)(ぷく)して(この)(こく)(しやう)(れい)のためなることを()いてゐる。

 (つぎ)()(てい)(むろ)(まち)(へん)(ぢゆう)(ぼう)(かん)(さい)()()(かい)()した。(さい)()()(かつ)(だい)(とう)(しよ)(ふく)(さう)(くわう)(けい)(しやう)(たく)したことのある()()(しやう)()である。(げん)(ぶん)(りやく)する。

     その五十八

 (ぶん)(くわ)(じん)(しん)(あき)(あひだ)()(てい)(せう)(そく)(ちよう)すべきものが(はなはだ)(とぼし)い。しかし()(てい)(あき)より(しよ)(とう)(じやう)(じゆん)(いた)(あひだ)(いへ)(うつ)した。()()(まち)より(なべ)()(まち)(うつ)つたのである。(こと)(しも)()くべき(しよ)(どく)()えてゐる。(また)()()(せう)()(あき)(はじめ)(こく)(せい)せられた。(こく)(ほん)(すゑ)に「文化壬申年七月、京都書林梶川七郎兵衞」と()してある。(せう)()には(かつ)()つた(ごと)く、(そう)(げつ)(こう)(ばつ)があるが、(これ)(こく)(せい)()(せま)つて(さう)せられたものと()え、「文化壬申秋七月、嵯峨釋承宣撰」と(しよ)してある。

 十(ぐわつ)()(いた)つて()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)がある。(また)(まと)()(しよ)(どく)の一である。

 (この)(しよ)(ちゆう)()づわたくしの()()いたのは()(きよ)(こと)である。「先日伊勢喜便に書上呈上仕候。相達候哉。其節申上候通、此節は鍋屋町(京都河原町三條上る鍋屋町南側中程)に罷在候。至極物靜かに候而、別而住居安穩に候。別段に三丈の居間有之候故、終日其中に間坐讀書仕候。何卒此冬も得といたし候成功有之たく願望仕候。」

 ()(てい)(みづか)ら三(とう)(どく)(しよ)(けい)(さだ)めて、さて()()(がく)(ふう)を一()した。「只今京都の儒生一統輕薄風流、さもなきは見せかけを重んじ候人計、甚悲しむべき可恥事と被存候。」

 ()()(せう)()(こく)()(こと)(この)(しよ)にある。「山田社中並に宇治佐藤守屋有志中一般より金三兩嵯峨樵歌の祝賀に被下候。移居費用並に樵歌刻料それに而相濟申候。全體關東に金主御座候積りに申置候處、其人申分すこし小生心に叶不申候故相斷遣し、其後無何沙汰候。夫故右刻料仕立等四百目許小生物入に相成居申候處半分のこり有之候處、右に而相濟安心仕候。未越後其外關東邊へは便無之下し不申候。夫々相遣し候はゞ後々相應に取分可有之候。」(もり)()(うぢ)(いま)(かむが)へない。

 (せう)()(こう)(けい)()むことを(もと)めたものがあつた。「此間日野殿より御所望有之一部遣申候。百々取次に而小生詩歌關白家へ上り候よし承り候。實は何も役に立たざる義に候へども、又しる人はしる事も可有之候。自愛仕候事に候。もとより詩文は小生の本志には無之、これは只慰仕業と存候。右等内情申上候得共、一切外人へ御噂被仰下間敷候。」()()(さん)()(すけ)(なる)である。(くわん)(ぱく)(たか)(つかさ)(まさ)(ひろ)である。(せう)()(たか)(つかさ)()(てい)したのは()()(かん)(いん)であつた。()(てい)()(ぶん)(ほん)(りやう)にあらずと()()は、(けい)(じゆつ)(もつ)(みづか)(にん)じたのである。(せう)()(くわん)(まつ)にも「天放子聖學管窺二卷」の()(こく)()してある。

 (へき)(ざん)(きう)()つて(あに)()(てい)(かん)(とく)(もと)(べん)(がく)してゐた。「立敬も此節は甚出精いたし候。當年限に被遊候哉、又は來年半年も御差置被遊候哉、御囘音之節被仰聞可被下候。來春よりは眼科外科等も一通心懸いたし候樣入門爲致可申や、此段も奉伺候。費用の義は當暮より來七月歸郷可仕候まで、もはや四兩ばかりも御遣し被下候はゞ、夫にて一切相濟可申候。いづれ此義は母樣御相談之上得と被仰聞可被下奉願候。」

 ()(てい)(この)(しよ)には(なほ)(たか)(しな)()(ゑん)(ちゝ)(そう)(たん)(がい)(かしは)(ばら)(ぐわ)(ぜん)(こと)()えてゐる。(また)()(ざは)()(あん)()(しふ)(こと)(しよ)(ちゆう)()でてゐる。わたくしは(しも)にこれを(せう)せようとおもふ。

     その五十九

 (ぶん)(くわ)(じん)(しん)(ぐわつ)()()(てい)(ちゝ)(てき)(さい)()せた(しよ)には(らく)()(たか)(しな)()(ゑん)(いへ)(せう)(そく)()えてゐる。「高階老人も夏以來病氣とくと無之、木屋町に而は介抱行屆かね候よしに而、先日本宅へ被歸申候。此頃は少々快き方の由、當主計允右老人の七十賀いたし候とて、富豪の事故、結構なる座敷など追々造作有之候。今二午の事に候。乍去無覺束候。」()(ゑん)(ちゝ)(つね)(もと)(あざな)()(しゆん)(じん)(しん)十一(ぐわつ)()歿(ぼつ)したさうである。(すなは)(この)(しよ)(つく)られた(のち)二十六(にち)(こと)である。()(でん)には(きやう)(ねん)六十三(さい)()つてある。しかし(この)(しよ)(したが)へば六十八(さい)でなくてはならない。(なほ)(かむが)ふべきである。

 (つぎ)(そう)(たん)(がい)(こと)がある。「壽寧丹崖長老も當春天龍寺方丈に被命候處、これも八月中遷化、しかたも無之物に候。」

 (つぎ)(かしは)(ばら)(ぐわ)(ぜん)(こと)()えてゐる。「此六日(十月六日)通天の楓見にむり/\とさそわれ參り申候。酒などのみ候中、瓦全子の前齒落候を何歟といひはやし候内、ふと小生詩をつくり候。六十八年汝共齡。萬千吟酌飽曾經。可憐辭謝得其處。巧學秋林一葉零。と申候へば翁甚悦申候而、其齒をすぐに東福寺の紅葉の下に埋むとて翁も發句有之候。霜の紅葉老がおちばもけふこゝに。とやられ申候。元來瓦全前方の句に。鹿鳴てながめられけり夜の山。と申句一生の秀逸とて甚評判高く、世上にて夜の山の瓦全と呼候位の事のよし。學問は無之候得共、常の俳諧師と相違、甚物がたく正しき男に候。先日も寺町妙滿寺へ佛參いたし候處、さいふを拾ひ候てこれを其儘かき付いたし候て、當人に渡したきとて甚わび候。今に其人尋來り不申候由。其節も小生よばれ參り居合、席上詩をつくり候。拾金歸主不爲恩。此事於翁何足言。好是柏家無價寶。素行清白付兒孫。柏家はかの人柏原氏に候故に候。」(もつ)(ぐわ)(ぜん)(せう)(でん)()つべきである。(かは)(さき)(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)()(てい)の「瓦全眞影讚」がある。「厖眉雪白聳吟肩。箇是夜山柏瓦全。三句社中遺一老。洛陽風月托清權。」(へい)(あん)(じつ)(ぶつ)()()るに、(ぐわ)(ぜん)()(ゐん)(じよう)(あざな)()(いう)(たちばな)(せい)である。

 (さい)()()(ざは)()(あん)()(しふ)(こと)(せう)する。「小澤蘆庵の歌集默軒萍流などの世話に而六册出來申候。歌は近來の上手に候。先日借覽いたし候。その中に岡崎の庵にありし頃ある人の錢三文かしくれとてこひけるに、くまもなくもとめ侍りけれど露あらざりけるけしきをみて、外にてもかりてんとて出ぬ、いとほいなければと詞書ありて。津の國の難波のみつのあしをなみこと浦かけてからせつるかな。甚おもしろく巧なる手段に候。三津は難波の地名、三文にかけ、あしは蘆にて錢のあしにかけ、なみは波に而無といふにかけ、こと浦は外の所へゆきし也、からせは苅を借の義にかけ候ものと相見え申候。」(もく)(けん)(まへ)()(うぢ)(ひやう)(りう)()(がは)()(しゆく)である。

 ()(あん)()(しふ)(さつ)(きん)(だい)(めい)()(ちよ)(じゆつ)(もく)(ろく)の「六帖詠藻六」である。()(がく)(せう)(でん)には「六帖詠草七卷」と()つてある。わたくしは(その)(しよ)(ざう)せぬ(ゆゑ)(ちく)(はく)(ゑん)(しゆ)()うて(その)(ざう)(ほん)(けん)してもらつた。(こく)(ほん)(だい)(せん)は「六帖詠草」に(つく)つてある。(もと)()(きん)(でふ)にならつて六(まき)としたものであるが、(ざふ)(しやう)()(わか)つたため、七(さつ)となつてゐる。(すゑ)に「文化八辛未歳晩春、二條通富小路東へ入町、京師書林吉田四郎右衞門梓行」と()つてある。()(あん)歿(ぼつ)(ねん)(きやう)()(ぐわん)(ねん)より(さん)して十(ねん)(のち)(わづか)(こく)せられたのである。(しよ)(しよ)()する(ところ)(べつ)に「蘆庵集」があるが(くわん)(すう)(しる)さない。(ひと)(こく)(しよ)(かい)(だい)は「寫本十五卷、春一二三四五、夏上中下、秋一二三四五、冬上下」と(しる)してゐる。(なほ)(かむが)ふべきである。

 (まと)()(すなどり)(こと)()(てい)(しよ)(どく)(しば/\)()えてゐるが、(この)(しよ)にはかう()つてある。「今年は鰶魚よくとれ候哉。あじなどの時節を憶ひ出し候。乍去必々御勞煩、飛脚賃費かかり候間、御上せは御無用に奉存候。」(しゆん)()(じやう)(くわい)(おも)ふべきである。(また)()(てい)(この)(しよ)(とも)()()()()()(きやう)(おく)つた。「富士海苔少々もらひ候まま懸御目候。此方にても甚すくなく、賣買には無之候。いづれ御吸物に被遊可然候。香氣よろしく候。」

 十(ぐわつ)十五(にち)()(てい)(しよ)(ちや)(ざん)()せた。(しよ)(かん)(ぶん)で、(すゑ)に「十月之望、晩生北條讓頓首百拜、奉茶山菅先生文壇下」と()つてある。(ちや)(ざん)()()(せう)()(じよ)したのを(しや)したものである。()(てい)(かう)()(とし)(びん)()()つたとしても、その(ちや)(ざん)()なかつたことは(こゝ)(ちよう)して()るべきである。(この)(しよ)(いま)(たか)(はし)(うぢ)(ざう)する(ところ)で、()(じつ)(はま)()(うぢ)(さい)(かん)(だう)()稿(かう)(かん)するに(いた)らば、そのこれを()(にふ)すべきは(うたがひ)()れない。

     その六十

 (ぶん)(くわ)(じん)(しん)(さい)()()(てい)(せう)(りよ)(かう)をなしたらしい。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)に「十二月六日、讓四郎、淺井周助樣、永井彌六、北條立敬樣各位」と(しよ)した一(つう)がある。(おとうと)(へき)(ざん)(あさ)()(なが)()の二(せい)とに(りう)(しゆ)せしめて()(てい)(いへ)()でたとすると、(その)(いへ)(なべ)()(まち)()(じゆく)にして(その)(さい)()(じん)(しん)(とし)ならざることを()ない。「飛脚便一筆啓上仕候。愈御安佳珍重に候。然者昨日乘興候而石山小樓一宿仕候。然る處道人相送申度義有之、夫に故郷に少々相含み候用事も有之候故、直樣同道南歸仕候。尤立歸りに候間、中旬頃迄に歸京可仕候。其内十三日舊津に而河敬軒東行餞送仕候やと奉存候。左候へば十六日には入京可仕候。此度は外人被尋候はゞ道人送行いたし、一寸故郷へ歸省いたし候と被申候而よろしく、暫時留主中折角御看護頼入候。永井子別而病後御互に御いたわり候樣奉存候。留主中讀書作詩不怠候やう第一御用心可被成候。几上に宇仁館へ遣し候書状、賃錢相添大阪飛脚へ御出し可被下候。玄安翁より御左右有之候はゞ急々飛脚被仰可被下候。書外拜顏可申上候。今晩石部宿に候。草津驛亭に而相認候。匇々頓首。」()()(てい)にして(この)(りよ)(てい)(あらた)めなかつたとすると、(その)(にち)()(おほよそ)(しも)(ごと)くであらう。

 ()(てい)は十二(ぐわつ)()(いし)(やま)に、六()(くさ)()にゐて、(その)()(いし)()(やど)らうとしてゐた。十三(にち)(かは)(さき)(けい)(けん)()(あひ)(くわい)し、十六(にち)(きやう)()(かへ)(はず)であつた。(また)(その)(あひだ)に一(たん)()(せい)しようとしてゐた。()(てい)(おとうと)(その)(もん)(せい)よりして(ほか)(しよ)()()(だち)(げん)(あん)(こと)をも()せてゐる。()()(だち)()(かう)(なほ)(おほ)(さか)にゐた。

 (この)(とし)()(てい)は三十三(さい)であつた。

 (ぶん)(くわ)(ねん)()(てい)(とし)(なべ)()(まち)(むか)へた。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)に「金咼巷僑居元日」の七(ぜつ)がある。「朝市山林事自分。茅堂晏起看春雲。庭中手掃前宵雪。先賀平安向竹君。」(これ)()()(まち)より(ふたゝ)(うつ)()ゑた「峨野竹」ではなからうか。(この)(とし)()(てい)(びん)()(あそ)ぶべき(とし)である。(さん)(やう)(たん)に「歳癸酉遊備後」と(しよ)してゐる。(この)(ねん)(かん)()(てい)()(せき)はわたくしをして(すこぶる)(ふで)()くるに(くるし)ましめる。それは(まと)()(しよ)(どく)(めい)(かく)()(いう)(つく)られたと(みと)むべき()(てい)(かん)(どく)(きはめ)(すくな)(ゆゑ)である。

 わたくしは()(てい)(くわん)(ちや)(ざん)(くわう)(えふ)(せき)(やう)(そん)(しや)()うた(つき)()()らない。(たゞ)(ふく)(やま)(しよ)(いう)()より()(ぎやう)(じやう)(ぽん)に「文化十年三月菅茶山先生を訪ふ」の(ぶん)()るのみである。(はた)して(しか)らば(わう)(ばう)(つき)は三(ぐわつ)であつたか。

 (これ)より(さき)()(てい)(かう)()(とし)()()より()()()くに(あた)つて、(びん)()(よぎ)つたかとおもはれる。しかし(くわん)(うぢ)をば()はなかつた。(つい)(じん)(しん)(とし)()(てい)(ひと)(かい)して、()()(せう)()(じよ)(ちや)(ざん)()ひ、これを()た。()(てい)(ちや)(ざん)()むことを(ほつ)したことは(すで)(ひさ)しかつたであらう。そして(この)(のぞみ)()(いう)()げられたことは(あきらか)である。その()(いう)(ぐわつ)なりしや(いな)(やゝ)(うたが)はしい。

 ()(いう)(とし)()(てい)(びん)()()くに(さきだ)つて、一たび()(きやう)(かへ)り、(つい)(また)(よし)()(あそ)んだらしい。(たか)(はし)(せん)(ざう)さんの(しよ)(ざう)(そう)(しよう)(うん)()(ふく)に「奉送霞亭先生還郷」の五()がある。「任有亭」「白梅陽」の二(ぐう)(じよ)した(すゑ)にかう()つてゐる。「近來在城市。城市聲名揚。纔未經一歳。又將歸故郷。二月漸催暖。別離慳抱傷。從今無人問。空掩竹間房。行矣天放子。春風道路長。」(しよう)(うん)(げつ)(こう)(しよう)(せん)()(てい)である、所謂(いはゆる)(じやう)()(きよ)()()(まち)(なべ)()(まち)(いへ)であらう。()(てい)は二(ぐわつ)(きやう)()()つて(まと)()(かへ)らうとしたのである。(つぎ)にわたくしは(かつ)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(よし)()(いう)(かう)()つて()(てい)(よし)()(いう)(じよ)したことがある。(いま)()(おく)(あらた)にせむがために、(その)(つき)()(こゝ)(せう)(しゆつ)する。

 二(ぐわつ)二十(にち)()(てい)(せき)宿(じゆく)()つて(あふ)(こう)(いた)るを()つた。

 二十四(にち)(あふ)(こう)(かは)(さき)(けい)(けん)()(とう)()(ぶん)(とも)(きた)(くわい)し、(つい)(やまの)(うち)()(かう)(いた)つた。(やまの)(うち)(うぢ)(あざな)とは()(むら)(うぢ)(ざう)()(てい)()(せう)()つて(あらた)めた。

 三(ぐわつ)()に一(かう)(よし)()(いた)つた。

 七日に()(てい)は六()(はつ)し、()()(しよ)(いう)(わか)れて(きやう)()(かへ)つた。

 ()(じやう)(よし)()(いう)稿(かう)(につ)(てい)である。()()(てい)が三(ぐわつ)(ちゆう)(びん)()()つて(ちや)(ざん)()たとすると、(これ)(かなら)ず六()より(のち)(こと)でなくてはならない。()(てい)(よし)()より(きやう)()(なべ)()(まち)(きよ)(かへ)つて、(いま)(いくばく)ならぬに(びん)()()つたことであらう。

     その六十一

 ()(てい)(ぶん)(くわ)()(いう)(はじめ)(くわん)(ちや)(ざん)()た。それが()(いう)(ぐわつ)であつたと(ぎやう)(じやう)の一(ぽん)()つてある。しかしわたくしはその()(ところ)()らない。

 ()(てい)(はじめ)(ちや)(ざん)()(とき)(こと)(つた)へられてゐない。(たゞ)(ぎやう)(じやう)(かの)(ぽん)にかう()つてある。「文化十年先生西遊せむと欲し、神邊に至る。七日市北側今の油屋前原熊太郎の屋に當る大なる旅館あり。この旅館に投宿す。廉塾の諸生來り、經史詩書中の難義を質問し、先生を辱めむとす。先生答辨明確、循々然として説明す。諸生赤面して歸り、茶山先生に告ぐ。先生曰く。これ豫て待つ所の人なり。豈汝輩の類ならむや。直に往て先生を伴ひ歸りしと云ふ。」

 ()(この)(せつ)()なりとすると、()(てい)は「西遊せむと欲し、神邊に至」つたのだと()ふ。西(せい)(いう)とは何處(いづこ)をさして()かうとしたもの()(かむが)ふることが()()ない。(しも)()()(しう)()には、(ちや)(ざん)()()(まへ)に「三月夜、舟發浪華、至兵庫」の()がある。わたくしは(これ)()つて()(てい)が三(ぐわつ)(ぼう)(じつ)(おほ)(さか)(ひやう)()()西(にし)したことを(すゐ)()するのみである。

 ()(てい)(かん)(なべ)()(なぬ)()(いち)(とう)宿(しゆく)したのは()(じつ)であらう。その宿(やど)つた(ところ)(いへ)()()(こう)()(そん)じてゐて、(この)(じやう)(のぼ)つたことを、わたくしは(よろこ)ぶ。

 しかしわたくしの(そん)(たく)する(ところ)(したが)へば、()(てい)(かん)(なべ)()(たゞち)(ちや)(ざん)()うた(はず)である。(なに)(ゆゑ)()ふに、()(てい)(ひと)(かい)して()()(せう)()(じよ)(ちや)(ざん)()ひ、これを()(ふか)(ちや)(ざん)(とく)とした。(いま)(かん)(なべ)()(うへ)は、(たと)()(かう)()(なぬ)()(いち)(かく)(しや)(おろ)したのは()むことを()ぬとしても、(また)(れん)(じゆく)(しよ)(せい)(にはか)(いた)つて(その)(ろん)(せん)(おう)ぜざることを()なかつたとしても、()(てい)(ちや)(ざん)(した)しく(きた)(むか)ふるを()つたのは(あやし)むべきである。

 ()(てい)(はじめ)(ちや)(ざん)()うたのが三(ぐわつ)だと()ふことには(かく)(きよ)()いと、わたくしは()つた。しかし(かん)(せつ)にその三(ぐわつ)なるべきを(おも)はしむる(しよう)()いことも()い。それは()(てい)(ちや)(ざん)(いへ)(おい)(らい)(しゆん)(すゐ)(さい)(くわい)した(こと)である。(しゆん)(すゐ)()(てい)(かつ)()()(おい)(あひ)()つてゐたことは(かみ)(しる)した。

 ()稿(かう)に「訪茶山先生于夕陽村舍、邂逅藝藩春水先生、賦呈二先生」の()がある。「平生夢寐在豪雄。一世龍門見二公。元自大名垂宇宙。眞當談笑却羆熊。辛夷花白春園雨。黄鳥聲香晩塢風。安得佳隣移宅去。追隨吟杖此山中。」辛夷(こぶし)(はる)(すゑ)(はな)(ひら)く。しかし()稿(かう)(かなら)ずしも(げん)(へん)(ねん)(たい)(れい)(まも)つてはをらぬ(ゆゑ)()(いづ)れの(とき)()つたかを(ちよう)するには()らない。

 (しゆん)(すゐ)()稿(かう)(けみ)するに、()(いう)()(しゆ)に「告暇浴有馬温泉、經京阪而歸」と(ちゆう)してあり、(めい)(しやう)()()(もと)に「以下十二首係東遊作」と(ちゆう)してあつて、(その)(だい)十二(しゆ)は「次韻菅茶山」の()である。「出閭廿里送吾行。聯載籃輿伊軋聲。楊柳渡頭分袂去。白頭相顧若爲情。」()るべし、(しゆん)(すゐ)()(いう)(ちや)(ざん)()ひ、その()るに(あた)つて、(ちや)(ざん)(かん)(なべ)より(おく)つて二十()(とほ)きに(いた)つたことを。(ちや)(ざん)(しふ)(こう)(へん)()(いう)(はる)には(しゆん)(すゐ)()はれた()()えない。

 (さいはひ)(しゆん)(すゐ)(この)(ばう)(もん)()(いう)(ぐわつ)(ぜん)で、(この)(ばう)(もん)(さい)()(てい)(しゆん)(すゐ)()たことを(ちよう)すべき(しよ)(どく)がある。それは(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある(かしは)(ばら)(ぐわ)(ぜん)()(てい)(あた)へた(しよ)である。(しよ)は五(ぐわつ)二十()(きやう)()(おい)(さい)し、(まと)()()(せい)してゐる()(てい)()せたものである。「備後菅氏に而頼老仙に御出會被成候よし、御本懷、此老仙四月六日頃京著、若槻氏へ入來、同十日再浪華へ下向、有馬へ入湯のよし噂承候。」(わか)(つき)(うぢ)(しやう)()(ゐん)(むら)(わか)(つき)(くわん)(だう)(いへ)である。()(けい)(あざな)()(いん)(つう)(しよう)()(さい)である。(しゆん)(すゐ)(かん)(なべ)()つて、四(ぐわつ)()(きやう)()()いた。その(かん)(なべ)にあつたのは三(ぐわつ)であつたらしい。

     その六十二

 わたくしは()(てい)(はじめ)(くわん)(ちや)(ざん)()(とき)()して、(しばら)(ぶん)(くわ)()(いう)(ぐわつ)であつたとする。その(らい)(しゆん)(すゐ)(ちや)(ざん)(いへ)(あひ)()たのは、(かなら)(しよ)(たい)(めん)(せき)(おい)てしたとは()(がた)いが、()(てい)(はじめ)(かん)(なべ)()つた(とき)(しゆん)(すゐ)(あり)()(よく)する()()()(あは)せたことは(あきらか)である。

 さて()(てい)(ちや)(ざん)()(のち)いかにしたか。わたくしはその(かん)(なべ)(えん)(りう)しなかつたことを()つてゐる。(はま)()(うぢ)(かつ)てわたくしに(しよ)(あた)へて、(ちや)(ざん)(しふ)()いて()(てい)(たゞち)(かん)(なべ)()つたことを(しよう)した。それは「子晦(藤井暮庵)宅同頼千秋北條景陽劉大基赤松需道光師賦」の()(ちゆう)「斯時誰厭醉、明日各雲程」の()である。()(てい)()つた。そして四(ぐわつ)()には(きやう)()(まと)()(かへ)つてゐた。

 (すで)()いた()(いう)(ぐわつ)二十(にち)(かしは)(ばら)(ぐわ)(ぜん)(しよ)(どく)にかう()つてある。「先月(四月)十日之貴牘無滯相屆忝拜誦、先以御清寧御歸國之趣承知安堵仕候。此節ははや宮川邊に移居被成候か、委曲承度奉存候。」(きやう)()(ぐわ)(ぜん)()(てい)の四(ぐわつ)()(まと)()にあつて(さい)した(しよ)(どく)()たのである。

 (この)(ぶん)(ちゆう)「此節ははや宮川邊に移居被成候か」の()は、()(てい)(まと)()より何處(いづく)()かむとしてゐたかを(しめ)すものである。(ぐわ)(ぜん)()(てい)の四(ぐわつ)()(しよ)()つた(ところ)より()して、その(すで)(みや)(かは)(へん)(うつ)つたことを(おも)つた。

 ()(てい)(じつ)(まと)()(かへ)つてより(いくばく)もあらぬに()()(きよ)(ぼく)した。(その)(いへ)(すなはち)(さい)(かん)(だう)()稿(かう)所謂(いはゆる)(せき)()(てい)である。「夕霏亭即事。手中書卷掩昏眸。一枕清風夢轉幽。伊軋時疑門有客。數聲柔櫓下前流。」(ぜん)(りう)(みや)(かは)なることは(また)(うたがひ)()れない。

 ()(てい)()(きやう)より(せき)()(てい)(うつ)つたのは、(おそら)くは四(ぐわつ)()(ちよく)()であらう。(なに)(ゆゑ)()ふに、()(てい)(おな)()(しよ)(れん)(じゆく)(しよ)(いう)(いた)して、(ほん)(たく)(まと)()(きよ)(ぢゆう)(やま)()()(きん)だと()つてゐる。(はま)()(うぢ)(うつ)して(しめ)した一(しよ)はかうである。「口上。先生家より御投毫被下置候はゞ、左之通名前にて御差下し可被下奉頼候。早速相達し被下度、尚又先生家へ差上候書状等、便宜いづかたへむけ差上候而よろしく候哉、何卒御序に御しるし被遣被下候やう、乍御面働奉頼候。以上。四月十日。北條讓四郎。黄葉夕陽村舍御塾中御取次。京都麩屋町六角下る、伊勢屋喜助。右之處書に被成下度候。山田へ直樣御遣し被下度候へば、勢州山田上之久保、山口角大夫方迄御名宛可被下候。小生本宅は的屋と申處に而、磯部の邊に御座候。小生居住は山田には候得共、山居に而市中より少々隔絶仕候故、不便理に御座候故に御座候。」

 ()(てい)(おな)()(しよ)(きやう)()の五(しよう)(あん)(びん)()(れん)(じゆく)とに()り、(かれ)には「宮川邊」と()ひ、(こゝ)には「山田には候得共山居に而市中より少々隔絶仕候」と()つた。その()(ところ)(ひと)しく()(せき)()(てい)であらう。

 (しよ)(れん)(じゆく)()つたのは、(ちや)(ざん)との(つう)(しん)便(べん)(はか)つたのである。(ちや)(ざん)(しよ)(きやう)()()()()(おく)るか、(また)(やま)()(かみ)()()(まち)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(おく)つて、()(てい)(でん)()せしむるが()いと()つたのである。

 ()(てい)(ぐわ)(ぜん)(まさ)(うつ)らむとするものの(ごと)くに()()り、(ちや)(ざん)(もん)(じん)(すで)(うつ)つたものの(ごと)くに()()つた。(こう)(しや)(もん)()(はん)(じよう)()けたものである。それ(ゆゑ)わたくしは()(てい)(せき)()(てい)(うつ)つた()(じつ)を四(ぐわつ)()(ちよく)()とする。

     その六十三

 わたくしは(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(ぶん)(めい)(ぶん)(くわ)()(いう)(さい)せられた()(てい)(しよ)(すくな)いと()つた。()(てい)(しよ)(すくな)い。しかし(かみ)()いた(かしは)(ばら)(ぐわ)(ぜん)(しよ)(ごと)(ぜん)()()(せき)(ちよう)すべきものは()る。(また)「癸酉仲夏六日、同陪霞亭先生、從夕霏亭、遊于宮水、分餘酣嗽晩汀句、得汀字、伏乞郢正、孫公裕拜藁」と(しよ)した()(せん)がある。(この)()に「高人棲息地、山水抱孤亭」の()がある。()(いう)(ぐわつ)()()(てい)(せき)()(てい)()んでゐたことは(あきらか)である。

 (これ)よりわたくしは五(ぐわつ)二十()(ぐわ)(ぜん)(しよ)(ちゆう)より(ろく)(そん)(あたひ)する(すう)(けん)(ひろ)はうとおもふ。()(ぐわ)(ぜん)()()(きん)(きやう)がある。「扨貴君(霞亭)御歸省後、彌生中比より老病差起り、于今聢と不致全快、鬱々と日を消し候。尤高階診察投劑、淺井にも御世話に相成候。老境無據事に候か。されど嵐山へは淺井と罷こし、月江和尚と對酌して佳興難申候。昨十九日北谷を訪ひ、御噂申出候。數々及閑談歸りがけ、銅駝新地の家毎より人走り出候故、何事ぞといふに、四條戲場歌右衞門が表木戸を火方のあらものらが一統して打こぼち、内へ入て舞臺の道具立も打やぶりしといひて走り行候。狂言は一の谷にて、熊谷を歌右衞門がして、けしからずはやるに付、勢ひ猛にのゝしりて無錢のものを入ざる意趣ばらしと相聞え候。大俗事申もいかゞに存候得共、都には箇程の大あためづらしき故申入候。(中略。)尚々老婆もよろしく申度申添候。豚兒が本宅へ歸れと申て頻にくどき候。今より歸る事口をしく、足立ぬまでは歸るまじと存候得共、言を盡してかさね/″\申に心惑して決し不申候。」(きた)(だに)(いん)(しや)(なに)(びと)なるを()らない。しかし(ぐわ)(ぜん)(のち)(おな)じく(きた)(だに)()んだ(しよう)(せき)(まと)()(しよ)(どく)()えてゐる。(ぐわ)(ぜん)には(さい)()があつて、()(らう)()(ほん)(たく)()(もど)さうとしてゐた。(ぐわ)(ぜん)(やまひ)(れう)した(たか)(しな)()(ゑん)である。(ぐわ)(ぜん)(とも)(そう)(げつ)(こう)()うた(あさ)()(しう)(すけ)であらう。(なか)(むら)(うた)右衞()(もん)は三(だい)()(のち)(ばい)(ぎよく)である。

 (ぐわ)(ぜん)(しよ)には(なほ)(きた)(こう)()(ばい)(さう)(ちく)(ぜん)(はい)(じん)()(はく)との(せう)(そく)がある。

 「北小路は三月末より因幡へ入湯に下向有之候。因幡の温泉聞及ぬ事に候。」(ばい)(さう)(この)(とし)(はじめ)(だい)(がくの)(すけ)(ぢよ)せられたらしい。わたくしの()(れん)(じゆく)の一(しよ)(せい)()()(そう)()(しう)(ざつ)()(けみ)するに、()(てい)の「金咼巷僑居元日」の()(のち)(ばい)(さう)()(ゐん)した(さく)がある。「予將歸故山(的矢)、故人北小路肥後守顧草蘆云、聞子隱故山、予家藏成齋翁(西依氏)所書陶弘景詩一軸、以子心跡與陶相似、特以爲餞、且贈詩曰、翻然歸臥故山雲、恰悦從來久所聞、海底珊瑚天外鶴、只應不許在人群、因和其韻以謝、君近除大學助。明時有路上青雲。滿世文名聖主聞。雙鬢我將如野鶴。低囘甘欲逐離群。」

 「筑前魯白つくし貝の御返しに御作一章呈せられ可被下候。此叟今春古稀に候。」(さい)(かん)(だう)()稿(かう)に「筑紫貝序」があつて、(すゑ)に「文化辛未初秋、嵐山樵逸北條讓、書於任有亭楓窓」と(しよ)してある。()(てい)のこれに(じよ)したのは二(ねん)(ぜん)の七(ぐわつ)で、(にん)(いう)(てい)にゐた(とき)である。(おも)ふに(その)()(かん)(ぽん)()(てい)()(いた)つたことであらう。(ぐわ)(ぜん)(さら)()(はく)のために()(もと)めた。()(てい)をして()(はく)の七(ちつ)()せしめむとしたのであらう。()(てい)(さく)()稿(かう)()えない。

 ()(はく)(つく)()(がひ)(こく)(しよ)(かい)(だい)()えない。()(てい)(じよ)に「其書彙纂彼土闔州名勝之來由典故、附以諸家所題諧歌、上自古哲下及當今作者」と()つてある。(かの)()とは(つく)()である。

 ()(てい)(せき)()(てい)にあつた(とき)(ちや)(ざん)(しよ)()(てい)(その)(とも)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)とに()せて、()(てい)(れん)(じゆく)(へい)せむとした。五(ぐわつ)二十一(にち)()(てい)(まと)()にある(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)がある。(すなはち)()(いう)()(てい)(しよ)(どく)として()()なる一(ぺん)である。(をし)むらくは(その)(ぜん)(はん)()(いう)()してしまつた。わたくしは(しも)(やゝ)(こまか)(この)(だん)(かん)(けん)せようとおもふ。

     その六十四

 (ぜん)(はん)(うしな)はれた(ぶん)(くわ)()(いう)(ぐわつ)二十一(にち)()(てい)(しよ)は、()(てい)(くわん)(うぢ)(つな)ぎ、(つい)()()()(つな)(たん)(しよ)(ひら)くものにして、(こと)(しゆつ)(しよ)(しん)退(たい)(くわん)し、(すこぶる)(ぢゆう)(だい)なるが(ゆゑ)に、わたくしは(れい)(やぶ)つて(だん)(かん)(ぜん)(けい)(こゝ)(うつ)(いだ)す。

 「小生並に山口君(凹巷)え御状被下候。(按ずるに書は茶山の備後より伊勢に寄せたものである。)其儀は何分にも兩三年助力いたしもらひたきとの事に候。御状別に懸御目申候。御覽可被下候。身事におゐてはさまでの事も有之間敷候得共、あの通當時天下に高名の先生、別而四方の人輻湊、歴々諸侯方の儒官の人にても入門在塾仕候程の人、實は二三日の會面に御心醉被致、この如く厚意に被仰聞候段、誠に學生之面目に存候。茶山の門人と申にても無之、先々學風等はすこし違ひも候拙者を、重く敬待被致候儀、山口君とも申出し、近世にまれなる事、益以茶山翁の高徳想ひやられ候。御存じの通、當時京江戸などの諸先生業におゐては茶山に及候者無之候得共、皆々傲然とかまへ候人多く候時節に候。この通り謙虚の思召、實に不堪感佩候。尤參り候はゞ後來の都下などへ發業いたし候基本にも可然と存候。夫に内々山口君とも御相談申候得共、山口君も美事可惜際會にも候得共、遠別もつらく被存、とかくいづれとも決斷いたし兼候。尤遠方とは申ながら江戸などとは大に相違に而、百里たらぬ所之上、通路も甚いたしやすき道、並に仕宦などとは違ひ候而、一歳一度か又は不時に勢南歸省は出來候事に御座候故、案じ候には及不申候得共、何分御兩親(適齋夫妻)の意にまかせ候より外は無之候間、足下より得と御雙親樣へ御相談可被下候。山口君も呉々被申候也。小生參上仕たく候得共、右講釋つい今日はじめ候儀故、留主にいたしがたく候。(按ずるに霞亭の夕霏亭に入つたのは、伊勢人に請はれて書を講ぜむがためであつたと見える。尺牘の前半を佚したために、これを審にすることを得ない。)御熟談之上近々足下一夜泊りにても私寓(夕霏亭)へ乍御苦勞御越可被下奉頼候。尤いそぎ不申候得共、歸後未だ彼方(神邊)へ呈書も不仕に罷在、却而彼方より寄書いたされ候。甚失敬に相成候間、近日山口並に小生より返書仕たく候間、急に御相談御出可被下候。萬端可然御勘考可被下候。乍末毫御雙親樣へ乍恐宜敷御致聲被仰上可被下候。頓首。五月廿一日。讓四郎。北條立敬樣。」

 (まと)()()ける(てき)(さい)(ふう)()(へき)(ざん)との()は、(つひ)()(てい)をして(かん)(なべ)(へい)(おう)ぜしむることに(けつ)し、(つい)(へき)(ざん)(この)(せう)(そく)(もたら)して(せき)()(てい)()たであらう。(この)(あひだ)(けい)(くわ)(もん)(じよ)(ちよう)すべきものが()い。

 ()(てい)何時(いつ)(せき)()(てい)()つたか()(めい)である。()稿(かう)に「將出夕霏亭即事」の()がある。「世間無限好青山。人不爭邊我往還。蹤跡唯從風捲去。高情一片與雲閑。」()(てい)()()()西(にし)したことは、()稿(かう)に「嵯峨宿三秀院、呈月江長老」の五(りつ)()するを()()るべきである。(この)()(だい)()(しう)()には「仲秋遊三秀院、呈月江長老」に(つく)つてある。(しか)れば(せき)()(てい)()つたのは()(いう)(ぐわつ)(ぜん)(はん)で、十五(にち)()()宿(やど)つたことであらう。

 ()(てい)(これ)より(ふたゝ)(ちや)(ざん)(かん)(なべ)()ひ、(つひ)(れん)(じゆく)(とゞ)まつた。()稿(かう)の「夕陽村舍寓居秋日」の二(りつ)(おそら)くは八(ぐわつ)()(じゆん)(もし)くは九(ぐわつ)()つたものであらう。

 ()(てい)(はや)く八(ぐわつ)二十三(にち)(かん)(なべ)にゐて、(しよ)(まと)()()つた(しよう)がある。それは(まと)()(しよ)(どく)の一なる九(ぐわつ)二十七(にち)(しよ)()えてゐる。「此方(神邊)より書状、先月(八月)廿三日笠岡便、京都五升庵(柏原氏)迄差出申候。」

 わたくしは(この)(ぐわつ)二十七(にち)(へき)(ざん)(あて)(しよ)より、()()(てい)(じやう)(きやう)(せう)する。「此方さして相替候儀も無之候。當時は塾中出入書生三十人許居申候。菅先生甚勉強いたされ候人に而、毎日講釋等無懈怠有之候。小生も先日より毎朝講釋手傳ひはじめ候。大學中庸大方終り候。詩經近日にはじめ候。」(れん)(じゆく)()てより、九(ぐわつ)二十七(にち)(いた)(あひだ)に、(いく)()(につ)()があつたことは、(がく)(よう)(かう)(をは)つたと()ふより()すことが()()る。「此方に參り候より、府中行の外は一切他出も不仕、門外もしらぬ位に候。短日に候故、何歟といそがしく(おぼ)え候。」

 (つぎ)(じゆく)(ちゆう)(しよ)(いう)(こと)(せう)する。「筑前竹田定之丞殿も一昨日出立歸國被致候。小生送序なども有之候得共副本無之候。追而懸御目可申候。先日菅翁並塾中兩三子と秋柳の詩作り候。別にうつし入御覽候。門田子作懸御目候。中々上達に御座候。十七歳のよし、才子に御座候。此節日向伊東侯の文學落合氏塾中に寄宿いたし被居候。出精家に而、よきはなし相手に御座候。外は皆々小兒輩多く候。」(いはく)(たけ)()()()(いはく)(もん)(でん)(ぼく)(さい)(いはく)(おち)(あひ)(さう)(せき)(みな)(ちゆう)(もく)(あたひ)する(じん)(ぶつ)である。

 「送竹田器甫序」は(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()えてゐる。「豈圖予之來無幾、而君之去爾遽」の()がある。(ぼく)(さい)(たう)()()(ぶん)稿(かう)(そん)じてゐるものが(はなはだ)(すくな)い。これに(はん)して(さう)(せき)の「鴻爪詩集卷二」には()(てい)()(るゐ)(けん)してゐて、(なか)に二(にん)(ちや)(ざん)(おな)じく()した「秋柳」の七(りつ)がある。「徒使寒潭寫月痕。何能病葉藏鴉叫。」

     その六十五

 ()(てい)(ぶん)(くわ)()(いう)(ふたゝ)(かん)(なべ)()たのは、(まへ)()いた(しよ)(どく)()るに、八(ぐわつ)二十三(にち)より(まへ)であつた。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)に「呈茶山先生、先生時讀易」の()がある。「樂天安命鬂毛斑。絶跡市朝高養閑。正是林中觀易罷。夕陽門外對秋山。」()つて(ちや)(ざん)(しふ)()れば、「次北條景陽見貽韻」の()がある。「孤生踽々鬢斑斑。好把斯身附等閑。幸得招君爲隱侶。將分一半讀書山。」()(てい)(しう)(ざん)()(くだ)してゐるのに、(ちや)(ざん)()(ゐん)(ふゆ)()(あひだ)(まじ)つてゐる。(ちや)(ざん)(あるひ)稿(かう)(とゞ)むるに()(だい)(かゝは)らなかつたか、(あるひ)(また)()()(かう)(しう)したか。それはともあれ、(ちや)(ざん)()(てい)をして二(ねん)(ぜん)(辛未)に()つた(らい)(さん)(やう)(たい)(じん)たらしめむとする()は三四の()()(てい)してゐる。()(てい)はこれを(ひやう)して「承眷不淺、抱愧實深」と()つた。

 (ちや)(ざん)より()れば、()(てい)(やま)()()(しや)の一(にん)であつただらう。そして(やま)()()(しや)(みな)(ちや)(ざん)(けい)(かう)し、(ちや)(ざん)(また)これを(ぜん)(ぐう)してゐた。(この)(とし)()つてよりも、(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(ちゝ)のために(ちや)(ざん)(じゆ)()()()た。「寄祝伊勢山迂叟先生七十壽」の一(ぜつ)(これ)である。(また)(ちや)(ざん)(この)(とし)()(だい)した(あう)()(がん)(もち)(ぬし)「韓老人」も(おそら)くは()(そう)であらう。(ふゆ)(いた)つては()(とう)()(ぶん)()て、()(てい)(とも)(ちや)(ざん)(かく)となつた。(ちや)(ざん)に「與佐藤子文同往中條路上口號」の七(りつ)がある。「久留詞客臥田家。偶値晴和命鹿車。澗涸白沙全解凍。野暄黄菜誤生花。村聲有趣聽逾好。山路無程興也加。但恐荒凉使君厭。都人平日慣豪華。」

 (この)(とし)()(てい)は三十四(さい)であつた。()稿(かう)の「除夕廉塾集得郷字」の(がん)(れん)に「人生七十齡將半、客路三千思與長」と()つてある。(この)()(ちや)(ざん)が「馬齡垂七十」を(もつ)(おこ)つた五()(つく)つて、()(てい)はこれに()した。「千里從爲客。匇匇節物更。功名他日志。老大此時情。梅媚燈前影。燎明村外聲。多年丘隴隔。念至涙空傾。」

 (ぶん)(くわ)十一(ねん)(ぐわん)(たん)()(てい)がこれを(ちや)(ざん)(いへ)(むか)へた。(ちや)(ざん)の「椒盤一日三元日、萍聚十人九處人」の所謂(いはゆる)(にん)(ちゆう)()()()(てい)()()()(とう)()(ぶん)とがあつた。そしてわたくしの(きやう)(こく)(いは)()をば(いち)(かは)(ちゆう)(ざう)()ふものが(だい)(へう)してゐたさうである。(ちゆう)(ざう)(こと)(いま)(つまびらか)にし(がた)いが、佐伯(さへき)(さき)麿(まろ)さんは(かつ)()()()(やう)(らう)(くわん)(おい)(その)()(すて)(らう)(をしへ)()けたと()つてゐる。

 (しやう)(ぐわつ)(なぬ)()()(てい)(かう)(ぐわい)(あそ)んで六(ごん)()(つく)つた。(どう)(いう)(しや)は「大卿、子文、孟昌、玄壽、堯佐」であつた。(はじ)めわたくしは(たい)(けい)鷦鷯(ささき)(はる)(ゆき)(ぞく)(しよう)(ぜに)()(そう)(らう)(きやう)(しやう)(にん)だと(おも)つた。しかし(びん)()(ひと)()けば、(たい)(けい)(つう)(しよう)(だい)()(びつ)(ちゆうの)(くに)西(にし)()()(むら)(ひと)ださうである。()(ぶん)()(とう)である。(まう)(しやう)(おほ)()(ぜん)(さい)()(しやう)()(らう)である。(じつ)(だい)()であつたが、(あに)(えう)したために(まう)(しやう)(あざな)した。(ふく)(やま)(ひと)である。(げん)(じゆ)(かふ)(はら)(ひで)(よし)(ぎよ)(さう)(また)()(りやう)(がう)した。(ぶん)()(よし)(ひろ)(むら)(今國東郡武藏村)の(ひと)である。(げう)(すけ)(もん)(でん)(ぼく)(さい)である。()(てい)の六(ごん)(ぜつ)()(きん)(いう)(さく)である。「茅屋鷄鳴犬吠。柴門竹碧梅香。杯盤世外人日。醉臥山中夕陽。」

 (この)(つき)()(てい)(うめ)()(はら)()た。「薇山三觀」は(はし)(かふ)(じゆつ)(しやう)(ぐわつ)(ひら)いたのである。わたくしは(すで)に一たび三(くわん)(こと)()したから、(いま)(せい)(りやく)(したが)ふ。(どう)(いう)(しや)()(とう)()(ぶん)(かふ)(はら)(げん)(じゆ)であつた。

 (しよ)して(こゝ)(いた)つてわたくしは(また)(まと)()(しよ)(どく)()(よろこび)(さう)(ぐう)する。それは()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた(つき)()()(しよ)で、それが(この)(しやう)(ぐわつ)(さく)なることは()(とう)()(ぶん)(せう)(そく)()つて()ることが()()る。「子文も無事罷在候。二月中句頃迄は此表に被居候よし、金毘羅(讚岐)參詣等いたし歸國いたされ候よしに御座候。」

     その六十六

 わたくしは()(ぶん)(くわ)(かふ)(じゆつ)(しやう)(ぐわつ)(しよ)(どく)(ちゆう)()(てい)()()(こと)()ぐる(ぶん)(せう)する。「餘寒に候得共此表舊年より甚暖氣に御座候。(中略。)小生は甚壯健に御座候。平生素食、夫に酒も少し許宛喫し候事に御座候。」()(てい)(この)()(ちよく)()(ちや)(ざん)(おのれ)(ぐう)することの(あつ)きを()いてゐる。「茶山翁淡泊の高人に而、御厚意はけしからぬ事に御座候。貴所(碧山)の事なども折節被尋申候。」()(てい)()(この)(きやう)(がい)()いて、()()のこれに(しよ)する所以(ゆゑん)(おも)つてゐたらしく、(へき)(ざん)をして()()()(かう)()はしめようとしてゐる。「尚々大人樣にても母樣にても、小生身分の事に付思召寄せられ候儀も有之候はゞ、くわしく御書通可被下候。いづれも足下の取計にて萬事つゝまず御志の儀等被仰聞可被下候。」

 (つぎ)(おとうと)(へき)(ざん)(こと)である。「御詩作(碧山の詩)毎篇拜見仕候。おもしろく存候。菅翁(茶山)へ入御覽置候。追而御返上可申上候。尚又御近作等御便之節御録示可被下候。聯玉兄(山口凹巷)よりも折角悦被越候。尚萬事御出精可然候。四書集註御熟覽可然候。山田へ被出候序も候はゞ、經書にても歴史類にても、いづ方にても御借受被成御熟讀可然候。書物は多く有之候ても無詮物に御座候。とかく熟復手に入候やう文章類御心懸可然候。御本業醫事は勿論研究可被成候。(中略。)學問家業の外、餘りに心つめ候事なきやう御心得可然候。すこしの御病氣にても手ばやく御療治可被成候。何分にも身體壯健に無之候ては何事も出來不申、大に損に御座候。詩文事其外學業の爲にも候はゞ、二月に一度位は二三日がけに山田へ出候而、山口兄(凹巷)など御訪申上候もよろしく被存候。いづれ御兩親樣御計次第に御座候。敬助、良助など御心懸素讀等御指南可被下候。」(この)(ぶん)(ちゆう)(へき)(ざん)()(うん)(ぬん)する(ところ)に一()(へん)(てふ)してある。(さい)(けん)するに西(にし)(むら)(きふ)()(ひつ)(せき)である。(きふ)()(しよ)()(てい)()せた(つぎ)に、(その)(おとうと)(へき)(ざん)()(しよう)した。()(てい)(その)(だん)()()つて(おとうと)(あた)ふる(しよ)(うへ)(てふ)し、(おとうと)(しやう)(れい)する(れい)となしたものである。「尚々昨日來は御令弟(碧山)御出被下、昨夕は此方へ御止宿、唯今御歸り被成候。御作等翮々、且御上達被成候樣奉存候而甚悦申候。必御案じ被成間布候。」

 (つぎ)(らい)(しゆん)(すゐ)(こと)である。「頼翁の御状京都に而浮沈、去暮(癸酉歳晩)漸く落手仕候。御丁寧被仰聞奉感候。今般入御覽候。御接手可被下候。」()(てい)()(いう)(ぐわつ)(しゆん)(すゐ)(さい)(くわい)し、(その)(さい)(ばん)(しゆ)(しよ)(せつ)したのである。(しゆん)(すゐ)(かん)(ちゆう)には()があつたので、()(てい)はこれに(ふく)する(とき)(ぞう)()(ぺん)()へた。「廣島頼春水翁書中見録示答人問京遊状詩、因賦此以寄呈。江頭分手恨匇匇。別後勝遊書信通。詩酒幾場傾渭洛。文名一代重華嵩。鶴歸湖岸疎梅外。人立門庭深雪中。琴劍何時尋講舍。重陪語笑坐春風。」所謂(いはゆる)「答人問京遊状詩」は(しゆん)(すゐ)()稿(かう)に「歸後答人問遊状」と(だい)してある。「山陽百里信輕鑣」を(もつ)(おこ)る七(りつ)(これ)である。(おも)ふに(しゆん)(すゐ)(せき)(どく)にして(この)()あるものが(なほ)(そん)じてゐはすまいか。(せき)(どく)(へき)(ざん)(もと)(とゞ)められたら()()(ほう)(でう)(うぢ)に、()(てい)(もと)(かへ)されたら(びん)()(たか)(はし)(うぢ)に。

     その六十七

 わたくしは()(てい)(ぶん)(くわ)(かふ)(じゆつ)(しやう)(ぐわつ)(しよ)(ぞく)(せう)する。(つぎ)(おほ)(くぼ)()(ぶつ)(こと)である。「高田文之助より舊冬書状到來、隨分無事のよし、貴所(碧山)へ可然申上候樣申來候。菟角勢南へ參りたきやうに申居候よし、いらざる事と存候。詩佛方の家の圖とやらを足下(碧山)へ差上くれと申參候。江戸人はとかくこのやうの浮華なる事計多く候。玉池に此位の事出來候やうなし。」

 (たか)()(ぶん)()(すけ)()(えん)(あざな)(せい)(ちゆう)(ゑち)()(ひと)である。()(てい)(はやし)(ざき)()(だい)(もん)(じん)で、(いま)(かめ)()(ぼう)(さい)(じゆく)()つてゐるのである。(たか)()(おほ)(くぼ)(てん)(みん)のお(たま)(いけ)(いへ)()()(ちん)(ちよう)がり、()(てい)(たく)して(へき)(ざん)(おく)らうとした。()(てい)()(くわ)(ちやう)()づるを以爲(おも)ひ、(玉池に此位の事出來候やうなし)(かつ)()()(びと)()(くわ)(わら)つた。

 ()(せい)(だう)(しふ)(くわん)(ぶん)(くわ)()()(ふゆ)より(かう)()(はる)にかけて(かう)(こく)(せい)()げ、(この)(とし)(かふ)(じゆつ)の四(ぐわつ)(いち)(のぼ)つたことは、(しふ)(じよ)(おく)(づけ)とに(ちよう)して()られる。()(せい)(だう)()()(はん)()せられたのは一(しゆ)のレクラムである。(しふ)(ちゆう)(ぎよく)()(じやう)(しや)二十(えい)があつて、()(かなら)ずしも(くわ)(ちやう)にあらざるを()ることが()()る。(たか)()(この)()()(へき)(ざん)(つた)(しめ)さうとしたのは、(いま)(ぶん)(げい)(ざつ)()の六(がう)()()()(どく)するものの(じやう)(おな)じである。

 (これ)より(のち)(いくばく)ならずして所謂(いはゆる)(ばん)(づけ)(さう)(どう)(おこ)つた。わたくしは(かつ)(らん)(けん)(でん)(ちゆう)にこれに()(およ)んだが、(のち)(いた)つて(たう)()()(ろく)(くわん)(あがな)()た。()(ろく)(ちゆう)(もつとも)()るべきものは、(おほ)()(きん)(じやう)(てん)(みん)(あた)へた(しよ)である。その()(ところ)(したが)へば、(ばん)(づけ)()(せい)(だう)(まつ)()(くわく)(さく)(なり)り、(しゆ)として(こゝ)(じゆう)()したものは(やま)(もと)(ほく)(ざん)()(りよく)(いん)であつたさうである。()()(ぶん)(だん)のレクラム(しゆ)(だん)(ぎよく)()(じやう)(しや)()より(すゞ)んで(この)(ばん)(づけ)となつたのである。

 (つぎ)(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()(こと)である。「山口氏御内人とかくこちのものにはなりかね候やに被存候。何卒本復いたさせ申たきものと存候。無左候而は凹巷の家事甚むづかしく氣之毒に存候。」(あふ)(こう)(つま)(やまひ)(おも)かつた。()()たずんば「家事甚むづかし」からむと、()(てい)()(づか)つてゐる。(のち)()に「韓公(凹巷)愛客客成群、家政平生付細君」と()つた()である。

 (つぎ)(かしは)(ばら)(ぐわ)(ぜん)(こと)である。「京都瓦全も本復いたし、本宅へ歸り被居候よし、此間書状參り候。京はけしからぬ水旱に而戸々込り入候由に御坐候。」(ぐわ)(ぜん)(つひ)()(こひ)(こば)むことを()なかつたのである。(こま)るを「込」ると(しよ)するは()(てい)(くわん)(よう)()(しやく)である。

 (かふ)(じゆつ)(しやう)(ぐわつ)(しよ)(ちゆう)より(せう)すべきものは(ほゞ)(こゝ)()きた。(その)()(ざつ)()二三がある。(その)一。「嵯峨樵歌、渉筆此節數十部梶川より下し申候。御地邊に望候人有之候はゞ御世話可被下候。後便にいなや被仰聞可被下候。」(その)二。「御母樣御世話に而先達而下向之節外に而金子二兩借用仕候。此節差上可申之處、とかく便は皆々藏屋敷頼に候故金子相頼がたく、子文歸裝の節頼可申やと存候。其段被仰上置可被下候。」(はゝ)(かい)して二(りやう)(ひと)()りた。(まと)()(そう)()(きう)(ばふ)(おも)ふべきである。(その)三。()(てい)(ひやう)(だい)()()ふものの()()た。()(てい)(へき)(ざん)(せう)()()()になつた(ひと)である。(ぶん)(なが)きが(ゆゑ)(せい)(りやく)(したが)ふ。(すゑ)にかう()つてある。「兵大夫殿と御約束仕候菅翁手迹跡に相成候へども差上候。其上しみものいたし候而氣之毒に存候。表具にいたし候はゞ見やすく相成可申哉。」(ちや)(ざん)(しよ)(えん)(りよう)(けん)にせられた。(その)四。「扨尊大人樣に此方産物何ぞ差上たくぞんじ含み罷在候得共、殊之外物事不自由の地何も無之、皆京大坂にありふれ候物計に候。鞆の芳命酒(保命酒)と申ても甘味すぎ候もの、索麪よろしく候得共、箇樣之食物類は船中の者ぬすみ候而、其上各別の物にも無之、夫故何も差上不申候間、貴所(碧山)より可然御斷置可被下候。子文も無僕故言傳ものも氣之毒に御座候。何分如在無之候得共、右之仕合愧入候。」

 (この)(ころ)より()(てい)(きやう)(しん)()する(しよ)(ほとんど)(かなら)(おとうと)(へき)(ざん)()てられてゐる。そして(てき)(さい)()ふべき(こと)(へき)(ざん)をして()はしめられてゐる。(へき)(ざん)()(とく)(あるひ)(この)(ころ)(おい)てせられたのではなからうか。

     その六十八

 (ぶん)(くわ)(かふ)(じゆつ)(ぐわつ)()つて()(とう)()(ぶん)(ちや)(ざん)(もと)()()つたであらう。(ちや)(ざん)(しふ)(ちゆう)に「伊勢藤子文尋霞亭於余家、不憚脩途、余因得歡、臨別賦此」の一(ぺん)がある。「長路故來縁戀友、歸期無滯爲思親」は(その)(がん)(れん)である。

 ()(ぶん)(かん)(なべ)(えん)(りう)した(あひだ)に、(はか)らずも()(てい)(しん)(じやう)(くわん)(けい)すること(ぢゆう)(だい)なるロオルに(にん)ずるに(いた)つた。それは(ちや)(ざん)()(てい)(れん)(じゆく)(こう)(りう)せむと(ほつ)し、(また)これに(めあは)すに(ゐの)(うへ)(うぢ)(きやう)(もつ)てせむと(ほつ)して、()づこれを()(ぶん)(はか)つた(ゆゑ)である。

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)に二(ぐわつ)二十(にち)()(てい)(しよ)がある。(これ)()(てい)()(ぶん)(きよ)()(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へたもので、(すこぶる)(この)(あひだ)(せう)(そく)(つく)すに()るものである。(をし)むらくは(しよ)(ぜん)(はん)(だん)(れつ)して(そん)じてゐない。

 「將又此度極内々御相談申上候一件御坐候。足下(碧山)より御雙親樣へ御噂申上、御志之處御心腹とくと御聞可被下候。小生におゐては各別相すゝみ不申候義に有之候得共、無據時宜故内々申上候。其義と申は子文發前茶山翁別段に内々子文を招れ、小生身分並に故郷家事等相尋候上に被申候は、此方我々最早かくの如く老衰に及候而、見かけ候通學問所世話いたし候仁も無之、此方罷在候内はよろしく候得共、跡に而書生教授相續いたし候人無之候ては、折角取立て候閭塾空敷相成、氣之毒に存候。夫に付北條永く此方學問所世話いたし呉候事出來まじきや。かつはかの人もいつまでも獨身に而も叶申間敷、此方姪女(敬)配偶いたしもらゐたきとの思召のよしに候。此姪と申は先生のめいにて、二十四五歳の人、もと翁の甥(茶山仲弟汝楩の子)何某(萬年)の妻となり、菅氏の本宅酒造家の主人に有之候處、二三年以前其夫死去、其遺子五歳許の男子一人(菅三、後自牧齋惟繩)有之、これを成長の後菅氏の右酒家相たてさせ候積りのよしに候。只今は彼方の家あけ候而先生家に參り居候人也。この家田地も有之、酒造のかぶも有之候家也。元來菅氏は酒造家に而餘程の巨家に有之候處、先生は三十年前迄は醫を兼而被致候よし。然る處右本宅兩度迄燒失いたし、其内先生は醫をやめられ候而、專ら學問一道に相成候て、本宅へは弟(茶山季弟)圭二郎(晉寶)相續、先生同居し被居候處、右圭二郎京都へ出候而客死、先生は右今の廉塾の方營み候而、引込候而、書生教導いたされ候處、福山侯より二十人扶持金十五兩宛とやらむ相付られ、今の學問所取建、屋敷等除地除役に相成、永世學問所といたされ候事に候。其砌右先生甥(萬年)菅の酒家本宅相續いたし居申候也。先生無欲の人物なれば、右扶持方等年分入用の餘計に而、近々田地等をももとめ、學問所の方へつけられ、其方よりも年々三十俵ほども百姓より上り候よしに候。佐藤氏へ先生相談は、北條氏承知の樣子にも候はゞ、貴樣的屋へ罷越、大人(適齋)へ御相談被下候やう被申候處、佐藤子直に被申候は、かの人元來嫡子に而的屋本宅相續可仕の人に候處、學問好に而今の體に被成候義、且又かの人平生之志氣、北條氏をかへ候而はとても承知有之間敷事必然に候と被申候へば、翁被申候は其義は我々も覺え有之候義、何分學問所相續、右配偶等いたされ候はゞ、其義は意にまかし可申との事に候。右之段子文より小生へ相談候處、小生も甚當惑仕候。」

 (ぶん)(いま)()きない。わたくしは(こと)(ぢゆう)(えう)なるを(おも)ふが(ゆゑ)(あへ)(ほしいまゝ)(ひつ)(さく)することをなさない。

     その六十九

 わたくしは(ぶん)(くわ)(かふ)(じゆつ)(ぐわつ)二十(にち)()(てい)(しよ)(ぞく)(せう)する。(ぶん)()(てい)()(とう)()(ぶん)をして(ちや)(ざん)()はしめた()(れい)()る。

 「老人(茶山)の御頼無據候へども、此義は一身之進退なれば、とても一分にては參り申間敷候。人づてにて親共御相談申上候ても、内外分り兼、親共の思召もはかりがたく候へば、いづれ七月頃にも歸宅いたし、御面上相談仕候上、いなや返答可申上候。夫迄は佐藤君にも社中とても御噂被下間敷、先々夫迄御待被下候樣申置候。右之義足下(碧山)如何御思召候哉。御雙親樣之御心中如何あらむや。小生心中にも改姓の事に候はゞとても承引出來がたく候。夫に尋常仕宦のやうに勤仕等有之候事に候はゞいやにも候へども、學問事世話いたし、自分修業專一にいたし候而、外俗事とては少しも無之義故、學問のためには至極よろしかるべきと存候へども、先自分の事はともあれ、御互に氣遣仕候は御雙親樣(適齋夫妻)の義に候。御壯健被爲入候故、御長壽之義とは相樂罷在候得共、七十にちかく御入候大人樣を遠方隔居仕居候義、いかにも心苦敷義と被存候。さすればとて右之身分に相成候はゞ、御見舞申上候とても、二年めか三年めならでは出來申間敷、只今迄始終遠方へ參り居申候得共、今更後悔千萬奉存候。別而去年來兵大夫殿と申、武内叔父の變故等有之てよりこのかた、とかく歸郷の念出候而時々惆悵仕候。つら/\存候に當時のありさま仕宦仕候てはわけ而身分の自由なりがたく、一切學業等の妨にも相成、門戸をはり候而教導いたし候にも、はじめ餘程の骨折にも有之候よし、世の中の浮名微祿おもしろからざる事(に候へば、)とかく自分著述學業のすゝみ候やう相計、御雙親御存生のながきを相樂み、舊里にても或はいせにても又は京都にても、偶然と自由に往來いたし居可申やと段々思慮もいたし候事に候。茶山翁切角御相談に及候義故、一先申上候わぬも不可然候。御雙親樣の御心中次第により秋頃にても歸郷可仕や、又は此書中に而大略わかり候へば夫にも及不申候哉、御相談之處御雙親樣の御心落無之義に候はゞ不及申相斷候而歸郷可仕候。尤茶山翁被申候は、この事相談なり不申候とも、永く學問所の滯留いたされ候處は頼可申との事に候へども、夫に付候ては小生も今年明年の義は各別、別段存じ入れも有之候故、又々其節御相談可申上候。何分あらまし思召被仰越可被下候。佐藤氏へも小生夏秋の間歸郷までは親共方へも不申候やう申かため置候間、今暫之處一切御噂御無用に存候。いそぎ不申候間、とくと御返書奉煩候。書外期再信候。頓首。二月廿日。北條讓四郎。北條立敬樣文案。尚々御雙親樣始、時下御自愛專一奉祈候。今年は春色も甚はやく候。最早去年參り候節の園中の辛夷、昨日あたりより盛開に御坐候。なにかに付御床布奉存候。」

 (この)(しよ)(だん)(かん)ながらも(なほ)(そん)ずるは(まこと)(よろこ)ぶべきである。(なに)(ゆゑ)()ふに(これ)()つて、(ちよく)(せつ)には()(てい)(れん)(じゆく)(つな)ぎ、(かん)(せつ)には(また)これを(ふく)(やま)(はん)(つな)いだきづなの、いかにして(むす)ばれしかが、(はじめ)(きう)(じん)せられたからである。

 ()(てい)(ぜん)(ねん)()(いう)(ぐわつ)(はじめ)(かん)(なべ)()て、(くわう)(えふ)(せき)(やう)(そん)(しや)(ゑん)(ちゆう)辛夷(こぶし)(はな)(さかん)(ひら)いてゐるのを()た。(だん)()(とく)(はや)(かへ)つた(かふ)(じゆつ)には、二(ぐわつ)(いま)()きぬに辛夷(こぶし)(はな)(ふたゝ)(ひら)いた。そして()(てい)(あし)(まさ)(せき)(じよう)()(まつは)るを(まぬか)れざらむとしてゐる。

     その七十

 (ちや)(ざん)(りよ)(じゆく)(りやう)()あらしめ、(ぢよ)(てつ)()(せい)()しめむと(ほつ)して(その)(こと)(いま)()らざるに、(ふく)(やま)(こう)()()(まさ)(きよ)(とほ)(ちや)(ざん)()()(てい)()すこととなつた。(ふく)(やま)(りう)(しゆ)(はや)(かふ)(じゆつ)(ぐわつ)(ちゆう)(その)(ない)()()()より(いた)るに(くわい)した。(こと)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある()(てい)の一(しよ)()えてゐる。(この)(しよ)(かふ)(じゆつ)(ぐわつ)十三(にち)(まと)()なる(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へたものであるが、(をし)むらくは(たま/\)(ちゆう)(ふく)(いつ)(ばう)して(しゆ)()のみが(わづか)(そん)じてゐる。(その)(まつ)(ぷく)にかう()つてある。「去月(三月)より菅翁を江戸へ被召候儀有之、多病甚迷惑被致候由、先斷立候やうすに候。當御屋敷御老母樣御忌中に而今に中陰に御坐候。翁も久敷講談休すまれ居候。」(ちや)(ざん)(はゝ)とは()(とう)(うぢ)であらう。

 ()(とう)()(ぶん)(かん)(なべ)()つてより四(ぐわつ)十三(にち)(いた)るまでに、(しよ)()(てい)()すること(すで)(りやう)()であつた。「子文より此頃兩度書状承知致候。山田にも社中無事の由に候。」

 (らい)(しゆん)(すゐ)は一たび()(てい)(あひ)()てより(やうや)(しん)(ぜん)なるに(いた)つた。「頼翁より時々書状參、足下(碧山)へも傳言有之候。則御一讀可被成候。度々かの方へも尋問いたし候やう被申越候。辱候得共、三十里も有之候處、夫に講業日々に而不得其意候。」(しゆん)(すゐ)()(てい)(ひろ)(しま)(むか)へむと(ほつ)したが、()(てい)(わう)(ばう)(いとま)()なかつた。

 ()(てい)(この)(たび)(おとうと)(へき)(ざん)()(たう)することを(わす)れなかつた。「近來御作は無之候哉。ちと御見せ可被下候。書籍不自由奉察候。何にても佐藤(子文)又は山口(凹巷)などへ御頼申て恩借可然候。御かり被成候物ははやく卒業御返戻又々御かり被成候樣可然候。さなくてはかし主倦候物に御坐候。御心得可然候。經書熟讀肝要之義に候。外色々意にまかせ可然候。佐藤にても山口にても漁洋山人詩集精華録御かり被成候て注まで一通御よみ被成候はゞ大分益可有之候。一度ならずとも兩三度に御かり被成候てもよろしく候歟と被存候。」()(てい)(へき)(ざん)をして(わう)(げん)(てい)()ましめむとするを()れば、(たう)()(やま)()()(しや)(しん)(てう)()(ふう)(つゐ)(ちく)してゐたことが()られる。

 (なか)()(へだ)てて四(ぐわつ)十七(にち)()(てい)(また)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(これ)(また)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。「四五日前山田高木氏迄書状一通差出申候。定而相達し可申存候。以來此方何も別條無之候。」(すなはち)()(まへ)(しよ)(たか)()(ばい)(をう)()つて()(きやう)(たつ)したものであつたことを。

 (この)(しよ)()るに(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(つま)(つひ)歿(ぼつ)した。「山口氏御内人御死去御互に惆悵仕候。甚事に幹たる人に而可惜事に御坐候。凹巷家政等迷惑可被致と恍々罷在候。」()()()るに(あふ)(こう)(はじめ)(つま)(ふぢ)()(うぢ)(のち)(つま)(やま)(はら)(うぢ)である。(やま)(はら)(うぢ)歿(ぼつ)して(のち)(せふ)()(とう)(うぢ)()れた。(かふ)(じゆつ)歿(ぼつ)したのは(やま)(はら)(うぢ)であらう()(さい)(かん)(だう)()稿(かう)に「寄慰韓聯玉悼亡」の四(ぜつ)がある。(その)一に(げん)(はく)(おう)(しう)()()してかう()つてある。「夢裏音容覺且疑。殘燈無焔悄閨帷。深更起坐聞雞唱。誰撫呱呱索乳兒。」(ふぢ)()(うぢ)には()(ぢよ)なく、(やま)(はら)(うぢ)には二()(ぢよ)があつた。

 わたくしは(やま)(はら)(うぢ)()()らない。しかし(まご)(ふく)(まう)(しやく)所謂(いはゆる)(さふ)()(じゆ)(じん)(この)(ひと)なることは(あきらか)である。(かは)(さき)(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)()はく。「甲戌之春、霅雨孺人逝、孺人吾叔氏韓先生之配也、是秋余過櫻葉館、側聽令愛象虎二女、讀藤黄門所撰百人一首、叔氏語余曰、二女近學書之暇、往松村氏、習讀倭歌、今請觀霅雨遺稿、予曰、汝未解歌意、叨請之不可、汝有所自試、若能成章、則如所請、因令象詠月虎詠菊、衝吻各成其辭、雖不屬、覺有思理、叔氏雌黄、便成佳篇、余歎賞竊謂、之女有志吟詠、叔氏悼内詩云、擁兒傍讀國風辭、盖孺人常訓兒輩以倭歌及漢詩、是知其養之所致也、而今孺人既逝、二女嗣前志之不終、冀叔氏事業之餘、朝夕導學、自倭及漢、何獨班氏之有大家而已哉、況使孺人欣然於地下、亦叔氏之賜也、因賦長句奉呈、時甲戌秋九月。叔氏本儒流。於詩復盛名。孟光爲之配。爲人淑且貞。夙夜不言勞。奴碑亦淳誠。内外人稱美。義重由利輕。二男及三女。羅生玉雪清。書燈中饋暇。孜々訓嬌嬰。百全長難保。天命有虚盈。一値不平事。肝膽甚於烹。罹疾秋風蓐。送魂春草塋。男啼聲呱々。女解語嚶々。戀母思手澤。拜告發中情。遺篇何所藏。暗塵筺中生。悲喜紛不説。爲之試其鳴。當此杪秋時。菊花又月明。纖手把彤管。黄口吐辭英。側讀歎胎教。慧思眉間横。大隧途云邈。欲酬恩海弘。幸汝侍嚴顏。自今遂長成。刀尺有餘閒。硯田時筆耕。豈問脂與粉。顯親足光榮。況有雙愛弟。一窓結文盟。吾亦父汝父。大恩仰崢嶗。樂哉螽斯化。與我幾弟兄。因玆報叔氏。庶共振家聲。」(これ)()つて()れば(あふ)(こう)(ちやう)(ぢよ)(きさ)、二(ぢよ)(とら)で、(みな)(くわん)(ぺい)より(ちやう)じてゐたのである。

 (つぎ)(へき)(ざん)()()(てい)(こと)(せう)する。()(てい)()(へき)(ざん)()(おや)(つか)ふるを()め、(のち)にその()く二(てい)(をし)ふるを(たゝ)へてゐる。「御兩親樣益御壯健被遊御坐候由くわしく被仰聞辱奉存候。御老成之御氣象有之、萬事御油斷無之事と奉存候。甚彊人意候。尚又無御怠御奉事奉願候。良助慶助(敬助)素讀詩作等もいたし候由大悦に存候。御苦勞奉察候。何歟と御心付奉頼候。」

     その七十一

 ()(てい)(ぶん)(くわ)(かふ)(じゆつ)(ぐわつ)十七(にち)(しよ)()(はら)(くわん)(ばい)()稿(かう)(だつ)した(こと)()つてゐる。「三原觀梅詩、副本なし、草稿のまゝ差上候。御一覽相濟候はゞ、兼而約束に候間、早速佐藤君へ御遣可被下候。(思召も御坐候はゞ、何卒御書き付御遣可被下候。)かの方より此方へ御返却被下候やう申上候事に候。聯玉君へ寄慰之拙詩も同前御遣可被下候。」(かみ)()いた(やま)(ぐち)(あふ)(こう)(さう)(だい)(なぐさ)むる()(また)(くわん)(ばい)()(とも)(へき)(ざん)(もと)()られた。

 (この)(しよ)()する(ところ)(ざつ)()には(なほ)(しも)(ごと)きものがある。(その)一。(なが)()(ぼう)(こと)。「長井子不相替出精のよし、社中よりも承知仕候。御互に悦申候。元來好生質に候。浮華の風にうつり候はぬ事尤も可貴被存候。」(あん)ずるに(なが)()()(てい)(きやう)()にありし(とき)(ない)(じゆく)(せい)(なが)()()六であらう。(その)二。(ほく)(こく)(をう)(こと)。「北谷翁よりも此間書状參り候。隨分無事のよしに候。」(かみ)(かしは)(ばら)(ぐわ)(ぜん)(しよ)にも(げつ)(こう)と「北谷を訪ひ噂申出候」と()つてあつた。(いま)(その)(ひと)(かむが)へない。(その)三。(その)()(うぢ)(こと)(おほ)(さか)()()(ぼり)(ちやう)()(ふく)(やま)(くら)()(しき)(その)()(ちやう)()(すけ)()ふものが(つと)めてゐた。(その)()(ちや)(ざん)大和(やまと)(ゆき)(につ)()()えてをり、(また)(ちや)(ざん)のこれに(あた)へた(しよ)(どく)(そん)してゐる。(その)()(うぢ)()(てい)(きやう)()(やま)()(まと)()(しよ)(にん)との(あひだ)(わう)(へん)する(しよ)(しん)()()(いへ)であつた。()(てい)()(とう)()(ぶん)をして(みち)()げて()はしめ、(てい)(でん)(こと)(たく)した。(ぶん)(なが)きが(ゆゑ)(はぶ)く。(その)四。(ちや)(ざん)()(てい)(しよく)()(こと)。「此方(神邊)鼈、鰻鱺等澤山なる地に候。菅翁はすべて厚味の物養生に而絶口被申候。小生は近邊に里正などしたしき飮友有之、時々喫し候事に候。」(その)五。(かめ)()(ちや)(いん)(ろう)(しゆ)との(こと)。「此茶當國神石郡龜石と申處の新茶、粗茶に候へども土物故差上候。とても上方の茶には似より候ものにてはなく、田舍むき茶づけにこく出し而よきかに候。なら(奈良)菊屋と申名高き酒屋の印籠酒少しばかり、これは道中にてもいたし、至極酒あしき所に而、この物をみゝかきばかりも盃にいれ候へば、酒よくなり候とて、旅人の用侍り、貴郷などの名酒有之候處にてはしかたもなき無用之品に候得共、博物之一つ故入御覽候。小生なども兼而きゝしものゝはじめてに候。高價なるものと申候へども、たわいもなきもの也。」(いん)(ろう)(しゆ)(いま)(あぢ)(もと)(たぐひ)()()(てい)(この)(もの)(かめ)()(ちや)とを(きやう)()(そう)(けん)したのである。

 五(ぐわつ)(ちや)(ざん)(つひ)()()(おもむ)くべき(めい)()けた。(ぎやう)(じやう)に「十一年甲戌五月又召赴東邸」と(しよ)してある。「梅天初霽石榴紅。何限離情一醉中。恨殺樽前長命縷。不牽君輩與倶東。」()(てい)(また)(この)(せん)(えん)(れつ)してゐたであらう。(その)(そう)(べつ)()(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()えてゐる。「送茶山先生應藩命赴江都邸。文獻有徴思老成。佳招趣起就脩程。棲遲在野元優遇。趨舍隨時不近名。親炙二年恩日重。孤羈千里意新驚。聞知明主多仁澤。歸臥行當遂素情。」

 (ちや)(ざん)(かん)(なべ)(はつ)するに(のぞ)んで、(れん)(じゆく)()(てい)(かん)(とく)(もと)()いた。(のち)(みづか)ら「志人條子讓(中略)留守余家」と(しよ)してゐる。

 (ちや)(ざん)(とう)(かう)()()(さくら)(がは)()て、(あふ)(こう)(こと)(おも)つて()(つく)つた。(せき)(ねん)(あふ)(こう)(きやう)(のぼ)(とき)(こゝ)(いこ)ひ、(ふぢ)(だな)(もと)赤小豆(あづき)(がゆ)()ひ、(その)(いう)(しゆ)(しやう)したのである。「藤架陰中豇豆粥。却將片事想仙姿。」(せき)宿(じゆく)(いた)つて、()(とう)()(ぶん)(さい)(くわい)した。「薇西二月送君時。再會寧知今日期。」(あふ)(こう)(また)(てつ)(とも)(きた)(まみ)え、(かご)(つら)ねて(よつ)()(いち)(いた)つた。「數兩輕輿斷續聲。暫時忘却客中情。」(ちや)(ざん)(やま)()(しや)(いう)との(だん)(しば/\)()(てい)(およ)んだことであらう。

 六(ぐわつ)()()(てい)(かん)(なべ)にあつて(しう)()()(つく)つた。(その)()(せん)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(そん)してゐる。「甲戌六月七日大雨志喜。疾雷驅雨雨如麻。聞得歡聲滿野譁。一段快心難坐了。出門秧緑渺無涯。」

     その七十二

 ()(てい)(ぶん)(くわ)(かふ)(じゆつ)(あき)()つて、()()()にある(ちや)(ざん)(おく)つた。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)の「寄懷茶山翁在江戸邸」の七(りつ)である。「滿溪秋色遶書寮。流水依然古石橋。楊柳西風疎翠落。芙蓉白露暗香消。夢思燈下人千里。睡起庭中月半宵。縱是朱門多寵遇。能無囘首憶漁樵。」(つい)()(てい)(ゑん)(ちゆう)(きく)()(また)()(しゆ)(じん)()せた。()稿(かう)の「園中閑歩有懷茶山翁」の(ぜつ)()である。

 九(ぐわつ)()には鷦鷯(ささき)(たい)(けい)()はれた。()稿(かう)の「九日鷦鷯大卿見過」の七(ぜつ)(この)(とし)(ちよう)(やう)なることは、「況復主人天一方」の()()つて()られる。

 十九(にち)()(てい)(おとうと)()(げん)(まつ)つた。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)()(せん)がある。「九月十九日亡弟彦忌辰感述以薦。世事浮雲皆可嗟。君歸冥漠我天涯。上心十五年前事。獨拭涙眸看菊花。又。筆硯依然未毀焚。廿年耽學作何勳。形躯七尺隨兒戲。却向幽冥慚陸雲。」

 わたくしは(こゝ)()(てい)(さん)(やう)との()(がふ)を一()したい。二(にん)(はじめ)(ひがし)(やま)(あひ)()た。(これ)()(てい)()()(もし)くは(きやう)()(ちゆう)にゐた(とき)であつただらう。()()(せう)()に一()のこれに(およ)ぶなきを(おも)へば、(おそら)くは(こう)(しや)(おい)てしたと()るべきであらう。(すなはち)(じん)(しん)(はる)より()(いう)(はる)(いた)(あひだ)でなくてはならない。(すで)にして二(にん)(かん)(なべ)(さい)(くわい)した。わたくしは(これ)(もつ)(かふ)(じゆつ)(ぐわつ)(こと)としたい。(すなはち)(さん)(やう)(ちゝ)(ひろ)(しま)(せい)した()()(ちや)(ざん)()()(たづ)ね、()せずして(いち)(かは)(くわん)(さい)(なが)(さき)より(かへ)るに()つた(とき)である。()(てい)(この)(くわい)(がふ)()する()()稿(かう)にある。「頼子成見過。和其途上作韻。東山邂逅眼曾青。再會寧期忽此迎。對酌論文永今夕。燈花一榻落還生。」わたくしの()(ろう)なる、(さん)(やう)(ぜん)(しふ)(そん)()をだに()らぬが、所謂(いはゆる)()(じやう)(さく)(さん)(やう)()(せう)には()えない。(げん)(しやう)()らず、()(ゐん)(せう)(せい)(もん)(したが)つて(かう)(せい)(つう)(ゐん)(もち)ゐてゐる。

 これと(あひ)(ぜん)()して()()には(かめ)()(ぼう)(さい)(ちや)(ざん)との()(ぐう)があつた。(ぜん)(しん)(だう)(しふ)に「陌上醉認骨相奇、云翁得非西備某」と()ひ、(ちや)(ざん)(しふ)に「陌上憧々人馬間、瞥見知余定何縁」と()つて、(かい)(じやう)(かい)(こう)(じよ)してある。そして二(にん)(あん)(ちゆう)(ばい)(かい)(しや)たる()(てい)(おも)はずにはゐられなかつた。(ちや)(ざん)。「吾郷有客(霞亭)與君(鵬齋)善。遙知思我復思君。余將一書報斯事。空凾乞君附瑤篇。」(ぼう)(さい)。「條生(霞亭)落魄遙集西。在君(茶山)廡下荷恩厚。元是酒伴如弟兄。吹塤吹箎和相狃。一別十年隔參商。不知豪爽猶昔不。老夫老耄加疎懶。因假佳篇代瓊玖。」わたくしの()(ところ)(ぜん)(しん)(だう)(しふ)(めい)()四十四(ねん)(くわつ)()(ふく)(こく)(ぼん)()(びう)なきを(はう)せない。(けい)(きう)()(ごと)きは(たちま)ち八(ごん)をなして()(がた)きが(ゆゑ)に、わたくしは(あへ)(みだり)に一()(けづ)つた。(ぜん)(ほん)(ざう)する(ひと)(さいはひ)(たゞ)されたい。

 十一(ぐわつ)には()(てい)(かん)(なべ)より(まと)()(かへ)り、()()()(おほ)(さか)()き、(ひやう)()より(じゆく)(かへ)つた。()(むら)(せい)(ざぶ)(らう)さんの(しよ)(ざう)(こん)(ない)()に、(この)(つき)十七(にち)()(てい)(かは)(さき)(けい)(けん)()うたと()つてある。十二(ぐわつ)十七(にち)には()(てい)(おほ)(さか)より(まと)()にある(へき)(ざん)(しよ)()せた。(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。「先日來は緩々滯留得物語大慶仕候。殊更遠方御送行被下御苦勞奉存候。小生儀十一日松坂宿、子文一人送り被申一宿、翌朝わかれ候。十二日椋本、十三日水口、十四日石山、十五日伏水舟、十六日浪華著仕候。雨航在坂、二三日會飮、今日屋敷へ參り候。園部氏甚供接に逢候。明十八日此表發足、大方兵庫宿りと被存候。此頃甚暖氣に而道中も無苦被存候。」(たい)(りう)(まと)()なることは(ろん)()たない。()(づけ)は「極月十七日」である。その(かふ)(じゆつ)(とし)なることは、(まつ)(だん)に「菅翁はいづれ越年と被存候」の(ぶん)あるより(すゐ)することが()()る。()(てい)(しよ)(しん)(てい)(でん)する(その)()(うぢ)()()()(おほ)(さか)(くら)()(しき)()なることは(かみ)()えてゐる。()(かう)()()(だち)()()(だい)()である。

 ()(とう)()(ぶん)(まつ)(ざか)(わかれ)(へき)(ざん)(はう)じた。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(かん)(ぶん)(しゆ)(かん)がある。「某啓。別來沍寒。伏惟二尊及足下起居清勝。近者令兄霞亭先生南歸。庭闈之歡。塤箎之樂。非言説所能盡。吾郷舊社諸彦叙濶飮宴。如僕下走。亦陪末席。以慰三秋之思。葢先生之發備西也。往來有程。不得不再西。僕雖不能擔笈遠從。諸彦送者既散。僕獨從到松坂城。同投客舍。欲置酒。永斯一夕。獨奈客舍荒寂。接待甚疎。爲之悶々。遂早就寢。翌朝出送。酌于城西小店。到塚本遂別。僕瞻望之間。先生行色飄然。意輕千里。所謂天涯比隣。眞先生之謂也。今因便具告足下。報諸二尊人。遠道風霜。莫深爲念幸甚。歳云將除。明春定省之暇。惠然一來。諸容面晤不罄。十二月念五日。社末藤昭頓首再拜。呈北條君立敬賢兄足下。」(いん)(くわ)がある。(はく)(ぶん)は「佐藤昭印」、(しゆ)(ぶん)は「子文」。

     その七十三

 (ぶん)(くわ)(かふ)(じゆつ)十二(ぐわつ)()(てい)(おほ)(さか)(はつ)すべき()は一(じつ)(ゆる)うせられた。()(てい)は十九(にち)(わづか)(はつ)して、二十五(にち)(れん)(じゆく)(かへ)つた。その二十七(にち)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)がある。

 「小生儀浪華四日程滯留、雨航在坂に而何歟と手間取候也。藏邸園部氏へも參候處大預馳走候。當十九日大坂を立出候而、雨航御送行大仁村に而別酌等いたし、其日は西宮宿、廿五日無恙歸塾仕候。菅氏家内無別條候。明日(二十八日)は一寸福山へ罷越申候。歸來未何方へも得參り不申候。(中略。)此節は書生も皆々歸宅、纔兩人許居申候。菅翁より霜月末之書状參り候。何樣來三月頃でなくては歸裝無之樣子に候。鵬齋先生よりも書状詩など參り候。善身堂一家言と申經義之著述近々出來候やうすに候。」(これ)()()より(びん)()(いた)(りよ)(てい)(こう)(はん)()(じゆく)()(じやう)(きやう)とである。()()よりは(ちや)(ざん)()()(おそ)かるべきを(はう)じた。(ぼう)(さい)は一()(げん)(かん)(かう)()げた。その()せた()(しも)()くべき(しよ)()えてゐる。()(てい)の「夕陽村居寄鵬齋先生」の()(あるひ)(ふく)(しよ)(とも)()せられたもの()。「曾期歳晩社爲隣。何事離居寂寞濱。海内論交常自許。尊前吐氣與誰親。夕陽村裡三秋日。時雨岡頭十月春。千里相思難命駕。恨吾長作負心人。」

 (つぎ)()(てい)(しん)(じやう)(こと)()つたものと(きやう)(しん)(たい)して(じやう)()べたものとを(せう)する。「小生身上一決も先老先生歸宅後に可仕候。本宅普請等いたし候などと申内意有之候。御地頭より願書下り候はゞ早々御知らせ可被下候。」(これ)()()(てい)(せき)()()より(びん)()(うつ)(こと)(くわん)するものではなからうか。「尊大人樣母樣(適齋夫妻)何れも御機嫌よう御年むかへ可被遊と奉遙賀候。先日數日滯留仕候へ共、今更又々御なつかしく相成候事一倍に候。今少し居ればよかりしと殘念奉存候。」()(てい)(おや)(おも)ふこと(せつ)なりしを()るべきである。

 (つぎ)(れい)(ごと)(おとうと)(さく)(れい)する()がある。「貴君(碧山)前日も縷々申上候通、無御懈怠御業務御勤御孝養御心遣千萬依托仕候。御苦勞之儀は推察仕候。學業わけて御心懸所祈に候。」

 ()(てい)(へき)(ざん)(はかま)(かへ)むことを(はか)つた。それは(けい)(しやう)をして(さい)せしめた(はかま)(くわ)()()ぎた(ゆゑ)である。「先日京都へ袴上下頼置候而、歸路大坂迄相達し、持歸候へども、いづれも餘りけつかう過、直段はり候而迷惑仕候。上下は隨分よろしく候へども、袴奧丹後とやらいふものに而木綿衣裳へ著用不似合、且はよき衣裳國がらかつこうよろしからず候。不苦候はゞ其許(碧山)御持之袴と御かへ可被下候。一兩二朱程もかかり候。屋敷便の節御遣可被下候。便次第此方よりも差出し可申候。いせき(伊勢喜)へは噂御無用。」

 (つぎ)(やま)()()(しや)(こと)がある。「山田社中へは出立後いまだ書通不仕候。いづれ來春の事と先延し候。佐藤子(子文)先日はひとり松坂迄被參一宿わかれ候。少し小生と用事も有之故に候。」

 (つぎ)()(ばら)()()()(こと)がある。「當表第一心やすくいたし候江原與兵衞、借財のために家内引あげ、江戸へ出奔いたし候。氣之毒に候。よき人に候へども、貧困いたし方無之、小生少し力落に候。」()(ばう)(につ)()(いは)く。「茶山先生族人江原與平、客冬(甲戌冬)遊勢南。」(これ)()(ばら)(とう)(いう)(どう)()であつた。()(ばら)()()(はし)らむと(ほつ)して、()(じやう)()()(とゞ)まつたもの()

 (しよ)には(なほ)(まと)()より(はつ)(そう)した(かう)(たけ)(かん)(なべ)(いた)らなかつたことが()えてゐる。「船の人へ御頼被成候かうたけとやら今に達し不申候。外に大切の入用物はなく候哉。」

 十二(ぐわつ)二十七(にち)(しよ)(こと)(こゝ)(をは)る。

     その七十四

 (ぶん)(くわ)(かふ)(じゆつ)十二(ぐわつ)三十(にち)には()(てい)(とも)(れん)(じゆく)(くわい)して()()した。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)の一()(せん)(かふ)(じゆつ)(ぢよ)()(さく)(おつ)(がい)(ぐわん)(たん)(さく)とが(しよ)してある。(ぢよ)()(さく)(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()(にふ)すべきものである。「歳除與諸子同賦、余時自南州歸。到舍纔三日。明朝又一春。更驚抛學久。只喜拜親新。映雪移書帙。插梅清路塵。尊前何寂々。猶有未歸人。」

 (この)(とし)()(てい)は三十五(さい)であつた。

 (ぶん)(くわ)十二(ねん)には()(てい)(とし)(れん)(じゆく)(むか)へた。(ぐわん)(たん)()()稿(かう)()えてゐる。「乙亥元日有懷田孟昌、原玄壽、藤子文諸君、去年今日、余與諸君探梅於丁谷、故及。客稀門巷似平時。塵外佳辰獨自嬉。午雪霏々半爲雨。春泉決々忽流澌。故情相戀人千里。新恨空看梅一枝。丁谷風光已堪訪。雙柑斗酒好同誰。」()稿(かう)には(ぜん)(ねん)(ぐわん)(たん)(よぼろ)(だに)()()くて、(かへ)つて(じん)(じつ)(なん)(けい)()があつた。

 (しやう)(ぐわつ)()()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。()づそのいかに()()(かた)つてゐるかを()よう。「今年は先生(茶山)留守、書生も寥々に候。併物事すくなく候而喜申候。十日は毎年開講に候。老先生歸家も一向しれ不申、いづれ二月下旬にも候哉。霜月下旬の書以來未便無之候。拙詩つくり棄御笑覽可被下候。(按ずるに上の除夜元日の作歟。)道中(甲戌十一月歸省)の詩も近々考可申候。(中略。)道中の癖つき候而、朝酒すこしのみたき位に候。しかしこれは不遠やめ候也。御地頭に差上候願書下次第御報可被下候。」

 (へき)(ざん)()()はかうである。「先日來の詩脱稿候はゞ御遣し可被下候。凹巷に請正もよろしく候へども、夫は待遠也。先出來候はゞ直に御見せ可被下候。三月頃にも相成候はゞ、一寸山田へも御越可被成候。しかし餘り御世話にならぬやう御心懸可被成候。先輩へよく/\虚心に請益可被成候。書籍子文方に有之候ものなどの内借覽可然候。御雙親樣へ御孝養第一奉祈候。醫業隨分御精研可然候。人命所關係不容易候。誠意を以人を待候事、學問工夫とも第一也。(中略。)蓬莱にきかばや伊勢の初便。はやく御状御遣し可被下候。」

 (しよ)(ちゆう)()(てい)(ぜん)(ねん)(くれ)(かめ)()(ぼう)(さい)()せた()(おとうと)(ろく)()した。「鵬齋の詩懸御目候。昔年河豚を小生にせまりくはせし事有之、此冬も喫し候而憶ひ出し候に付、小生に寄懷せられ候由。井春經業已紛綸。遠入西州還樂群。鹿洞曾期可人到。豹堂合啓好懷分。三年漫趁越山雪。千里空歸凾谷雲。一部河豚典一袴。尊前醉夢幾逢君。少しきこえがたき處有之候。」

 (つぎ)(たか)()(せい)(ちゆう)(せう)(そく)がある。「文之助事など被申遣候。(鵬齋の語靜沖に及ぶと云ふ意。)やはり彼塾(龜田塾)に居候。御存じ通の生質難化候而、やはり昔年之通也などと被申遣候。こまりもの也。」

 (つぎ)(いで)(くに)(かず)()()ふものの(こと)がある。「かの出國數馬も小生罷在候節入候婦人離絶いたし候由、文之助よりくだらぬ書状遣し候。」(これ)(また)(あるひ)(かめ)()(じゆく)(ちゆう)(ひと)()

 (しよ)()(じやう)(ふう)(ぶん)()つて、(たう)()(ひと)()(ちやう)(うごか)すことの(もつとも)(おほ)きかつた()(がさ)(はら)(うぢ)(ない)(こう)()いてゐる。「豐前小倉小笠原侯内亂專ら噂に候。家老小笠原出雲と申佞人より起り候由、色々の風説に候。」()(がさ)(はら)(うぢ)(たう)(しゆ)(だい)(ぜんの)(たい)()(たゞ)(かた)で、出雲(いづも)()()(らう)(しゆ)(せき)()えてゐる。

     その七十五

 ()(てい)(その)(ぶん)(くわ)(おつ)(がい)(しやう)(ぐわつ)()(しよ)()(じやう)(ふう)(ぶん)として()(ぜん)()(がさ)(はら)(うぢ)(ない)(こう)()き、(こと)は一(しよ)(こう)より()(しよ)(こう)(およ)び、()()(うぢ)(きん)()(ふで)(のぼ)るに(いた)つた。「御當主も日光御かかりに付御物入多く、御領分へ御用金かかり可申之處、府中と申處信藤吉兵衞と申商家一人に而百五十貫目冥加の爲とやらに而上へ獻申候。河相周兵衞と申塾の世話人弟百貫目、右兩人に而御用金やめに成候由。吉兵衞と申ものは味噌屋と申ものの僕に候而、中年より貨殖、三千貫目程の身上に相成候よし。俗事ながら商家と申ものは奇なるものに候。」

 ()()(うぢ)(たう)(しゆ)(びつ)(ちゆうの)(かみ)(まさ)(きよ)である。(ぜん)(ねん)(かふ)(じゆつ)(ぐわつ)二十一(にち)(につ)(くわう)(ざん)(とう)(せう)(ぐう)(しう)(ふく)(しやう)(せん)(ぐう)(いはひ)(さる)(がく)があつた。(まさ)(きよ)(おそら)くは(この)(しう)(ふく)(こと)(あづか)つたのであらう。(あら)()(よし)(やす)(いし)()(えい)()(らう)()()ふを()くに、(けん)(きん)(しや)(のぶ)(とう)(きち)()()百五十(くわん)河相(かはひ)(しう)()()三十(くわん)(いし)()()右衞()(もん)百二十(くわん)であつた。()右衞()(もん)(しう)()()(おとうと)で、()でて(いし)()(うぢ)(おか)した。(えい)()(らう)さんの(そう)()()である。

 ()(てい)(つぎ)(せふ)(れふ)()(たま/\)()たる(ところ)(へき)(ざん)(はう)じた。(その)一。「尾張如來小語中におもしろき話。加納侯臣長沼國卿。劍師也。弟子三千餘人。嘗語曰。一士人形質羸弱。當初不勝兵。數日能大刀。數月伎大進。歳餘弟子皆曰。不易當。竊問。則跡父之讎者也。凡學劍者。誰不以爲死地之用。而不如眞有死地者。於是吾亦得進一歩。此心得學術醫術何によらず肝要なり。」(なが)(ぬま)(こく)(けい)は四()()()(もん)(しよう)した。(しん)(しん)(かげ)(りう)(けん)(かく)である。

 (その)二。「病人の死前に間ひがあり、暫くよくなり候を、醫書には見えず、清人朱鑑池と申に尋候處、囘光反照と申由答候由、周防三田尻の醫南部伯民が技癢録にあり。伯民は此邊九州にて相應之學醫なるよし、著述もあちこち有之、小生などの名もきゝつたへ居候よし、彼邊の人の參り噂申候。」(なん)()(はく)(みん)()(ねん)(いた)つて()(てい)(あひ)()(ひと)である。

 (その)三。「去年(甲戌)御咄申候書は獨嘯庵黴瘡口訣と申小册に候。あら/\おもしろく覺候。」()(てい)(ぜん)(ねん)(へき)(ざん)(なが)(とみ)(てう)(やう)(しよ)(ちゆう)(こと)(かた)り、(たま/\)(しよ)(めい)(わす)れてゐたことがあると()える。

 (しよ)(ちゆう)には(なほ)二三の(ざつ)()がある。「をゝの屋(大野屋歟)伯母」と()ふものが(まと)()にあつて()んでゐた。「七十餘の人病氣とかくはかどり申間敷、親族段々凋零、別而大切に御坐候。」()(てい)(まと)()(いへ)より石決明(あはび)()()(づけ)(おく)られた。「此節迄たべ候。少しはからく候へども損じは不致候。五家程の進物にいたし候。粕漬よりは旨くなけれども、酒客には却而よし。」(また)()(とう)()(ぶん)より()()(づけ)(おく)られた。「佐藤被遣候海老づけ甚おもしろし。」

 二(ぐわつ)十五(にち)()(てい)(また)(しよ)(へき)(ざん)()せた。(いま)(ちや)(ざん)()()(はつ)すべき()(じつ)()らざる(とき)(しよ)である。(たう)()(ゐの)(うへ)(うぢ)(きやう)との(えん)(だん)(しきり)()(だい)(のぼ)つてゐた。所謂(いはゆる)()(とう)より(くだ)るべき(ぐわん)(しよ)(この)(こと)(れん)(けい)したるものの(ごと)くである。(しも)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(この)(しよ)(せう)する。

     その七十六

 (ぶん)(くわ)(おつ)(がい)(ぐわつ)十五(にち)(しよ)より、わたくしは()()(てい)()()(しん)(じやう)(こと)(せう)する。「送状願状御遣し被下安心仕候。先々小生方へ預り置候。送状には及申間敷由にきこえ候。何分追而可申上候。扨一決之義も段々外人よりは逼り參り候。老先生(茶山)歸後と小生より申候へども、先生歸期はまだ一向しれ不申候。夫故當月(二月)中に是非慶事相極め申たくとの事に候。如何相成申べきや、小生心中はまだ決著不仕候。それは少し主意も有之候故に候。扨塵累に繋れ候やとぞんじ候へば、今更つらく思ひ候。名教中之人不可奈何候。この頃ふと麤歌出候。御一笑可被下候。世をばまだそむきはてねどうたたねの夢にぞかよふ峰の松風。いづれもしも慶事相濟候はゞ、早速御報可申上候。」()(てい)(すで)(ひさ)しく(まと)()()(とう)より(くだ)るべき(ぐわん)(しよ)()つてゐた。(いま)(その)(ぐわん)(しよ)(くだ)つた。そしてわたくしは、()(てい)(たちま)(てん)(しゆつ)したる「慶事」の二()()つて、(こと)(ゐの)(うへ)(うぢ)(きやう)()()(くわん)するを()つた。(がふ)(きん)()(すで)(せま)つてゐる。それに()(てい)(なほ)とつおいつして(すなはち)(けつ)せず、(ゆめ)()(まつ)(かぜ)(おと)(みゝ)(かたぶ)けてゐるのである。

 (しよ)(これ)より(かひ)(ばら)(えき)(けん)(やう)(じやう)(せつ)(およ)び、(きやう)(しん)(けん)(かう)(ねが)ひ、(いう)(ほう)(あん)(ねい)(のぞ)んでゐる。わたくしは(かう)(ぶん)(みやく)(らく)()つに(しの)びずして、(ほゞ)(げん)(こう)()(だい)()(ぞん)し、(こゝ)(せう)(ろく)(ふで)(くだ)す。「近來養生の道に用心仕候而、貝原先生の頤生輯要、養生訓等の書、並に醫書類攝養に關係いたし候書よみ候。養生訓、甚諄々おもしろく候。今度の便に大坂書林へ申遣、一部差上可申候。御大人樣並に母樣へも懸御目可被下候。夜分にてもいくたびも母樣などへ御よみきかせ可被下候。勿論自分の心得とも相成候。篤實の大儒の作故、虚談は無之候。小生其中の導引術を先日來ひとり日々いたし候。大分しるし有之候やう覺え候。大人樣御痰症有之候。ちと御養生御服藥等も被成候はゞいかゞ。餘り厚味なるもの御寢しななどにはよろしかる間敷、痰は別而可畏候。母樣へ御すゝめ申候而、飯後にても又は御氣むすぼれ候節、よき酒二三杯宛めし上られ候やう可被成候。慶助(敬助沖)顏色始終あしく候。一月一度は是非灸治等いたさせ可然候。扨申に及ばぬ事に候へども、萬々一御雙親樣の中に御病氣等之事候はゞすこしの事にても早速御知らせ可被下候。少々の事遠方迄申遣し候にも及ばぬなどと申事の決而無之樣奉願候。夫にかぎらず何にても緩急の節は大坂屋敷迄三日限御状御差出し可被下候。遠方隔り候故、夫程たへがたく思ひも不仕候へども、とかく御雙親樣並足下、社中などの夢頻々と見申候。此頃山口君手書中にも小生を夢に見候而、其夢中に歌をよまれ候よし被申遣候。其歌は。君來ぬと見し夢さめてかたらはむ人なき宿の有明の月。小生かへし。あひみきと聞くもはかなき夢がたりうれしとやいはむかなしとやいはむ。きこえ可申や、御一笑可被下候。」

     その七十七

 わたくしは()(てい)(ぶん)(くわ)(おつ)(がい)(ぐわつ)十五(にち)(しよ)(どく)(せう)して、その()()()き、()()(けい)(てい)(ほう)(いう)()く一(だん)(をは)つたが、(ぶん)(ちゆう)(なほ)(しん)(せき)(こと)(およ)ぶもの一二がある。(その)一。「新屋敷伯母春來如何候哉承度候。三日限御状御差出し可被下候。」(これ)(ぜん)(じつ)(しよ)所謂(いはゆる)「をゝの屋の伯母」であらう。(その)二。「土佐屋從母御儀御死去誠に驚歎仕候。(中略。)隨俗例七日酒肉相却候而居喪仕候。聞忌に候故、正月二十三日承知仕候、當二十二日迄服中に御坐候。」()(てい)(かね)(おく)つて(ちや)(もし)くは(くわ)()(そな)へむことを()うた。

 (しよ)(ちゆう)には(また)(らい)(うぢ)(きん)()(はう)ずる一(だん)がある。「春水翁令嗣權次郎勞症に而此頃死去いたし候由、いまだ二十五六歳の人、才子に有之候由、可惜又氣の毒なるものに候。是は竹原本家春水弟の春風翁の獨り子の由、久太郎跡へ養子いたし候也。」(ごん)()(らう)(しゆん)(ぷう)()(きやう)()(けい)(じやう)(げん)(てい)で、(しゆん)(すゐ)()(くわん)(やう)()()となつてゐたのである。(さん)(やう)(せん)()(へう)()れば、(げん)(てい)(この)(とし)(おつ)(がい)(しやう)(ぐわつ)二十八(にち)()した。(とし)二十六である。

 (さい)()(しよ)(じやく)(くわん)する(こと)(でう)(いん)(ぜん)(くわん)する(こと)(でう)(せう)する。「芭蕉發句集見あたりもとめ置候。大人樣へ御上可被下候。併これも大坂書林便に來月差出し可申候。」()(てい)(すで)(かひ)(ばら)(えき)(けん)(やう)(じやう)(くん)(まと)()(いへ)(おく)り、(また)()(せを)()(しふ)をも(おく)らうとしてゐる。「樵歌渉筆長井にまだ八部か六部のこり居候。御入用候はゞ、御とりよせ可被成候。」(なが)()とは(もん)(じん)(なが)()()六の(いへ)()(この)()(しよ)(じやく)(こと)である。

 「おもしろくなきものながら、またさわら子一つ任有合差上候。」さわら()とは馬鮫魚(さはら)()()(これ)(びん)()(さん)(ぶつ)である。「ついでに申上候。さくちといふこといつぞや御尋に御座候。これは小生覺え違に候。鰿子と申はぼらの子をいふなり。外の子はいひがたきにや。」(これ)より(さき)(へき)(ざん)()(てい)鰿(さく)()(なに)(もの)なるかを()うた。()(てい)(こた)へて(うをの)()だと()つた。(いま)(ぜん)(げん)(あらた)めて、()()()だと()ふのである。(あん)ずるに鰿(さく)には(すう)()がある。(せつ)(もん)には鰿(さく)()()えない。鰿(さく)烏賊(いか)とするは、鰿(さく)(そく)(さう)(つう)()る。(せい)()(つう)から()てゐる。(これ)が一つ。鰿(さく)(ふな)とするは鰿(さく)(そく)(さう)(つう)()る。(はく)()()()(ちゆう)から()てゐる。(これ)が二つ。(この)二つは(そく)(そく)(さう)(つう)()つて(れん)(けい)してゐる。鰿(さく)()(がひ)とするは鰿(さく)𧐐(さく)(さう)(つう)()る。()()より()てゐる。(これ)が三つ。鰿(さく)(うをの)()とするは鰿(さく)𦟜(さく)(さう)(つう)()る。(せい)()(つう)から()てゐる。(これ)が四つである。(ほん)(もん)(だい)(みぎ)(だい)()(したが)つて(かい)すべきものである。さて鰿(さく)()()(しん)(しう)()(てう)(けん)()()えてゐると()ふ。これを()()()()()てたのは(ちよう)(しう)(ほん)(ざう)(かう)(もく)(けい)(もう)(せつ)である。()(みやう)(せう)には鰿(さく)()()い。(しん)(せん)()(きやう)には「子石反、去、鮪鮒」とのみ()つて、(ぎよ)()(こと)(およ)ばない。しかし()(みやう)(せう)(せん)(ちゆう)()()()()(もつ)()()()()となし、「謂菩良子者誤」と()つてゐる。()(てい)()(ところ)()()()()であらう。()(しか)らば()(てい)(せん)(ちゆう)()(あやまり)(おちい)つてゐたのであらう。()()()()(いま)鰿(さく)()()かれずに、鱲(れふ)()かれる。(せん)(ちゆう)(したが)へば(れふ)は※[#「魚+巣」](さう)()で、※[#「魚+巣」](さう)()()()である。(ぜん)(だん)馬鮫魚(さはら)()()()()()(れつ)(ぴん)である。(この)()(いん)(ぜん)(こと)である。

     その七十八

 (つぎ)(ぶん)(くわ)(おつ)(がい)(ぐわつ)()()(てい)(へき)(ざん)(あた)へた(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。()(てい)(かん)(なべ)にあつて(この)(しよ)(さい)したのは、(ちや)(ざん)()()(はつ)して()()()いた(だい)(じつ)である。(ちや)(ざん)(ふぢ)(かは)(えき)宿(しゆく)した()である。

 ()()(てい)奈何(いか)()()(うへ)(かた)るかを()よう。「小生無事罷在候。乍慮外御安意可被下候。(中略。)婚事先月にもいたし候やう外人申候へども、少々主意も違ひ候筋に思ひ候人も有之候やと被存候故、其一段今一應菅翁へ申上候上の事と申延し候。いづれ菅翁歸後の事と申置候。御存之通、小生生來雲水杜多の境涯に罷在候處、俄に妻孥の體、且は官途に拘束せられ候事、我ながら不似合に被思候而おかしく候。人倫名教、儒者第一の事に候へども、山水閒憔悴風流難忘、今更心迷候。可成は一所不定の方快樂たるべく被存候。併是は一己之私の事、何分にも御雙親樣御安心の方に隨ひ可申候。何を申も學業の爲に候。」(これ)は二(ぐわつ)十五(にち)(しよ)()(ところ)(たい)()()い。しかし「何分にも」()()(こう)(ふん)より()すに、()(てい)()()(あひだ)(きやう)(しよ)()てゐるらしい。そして(きやう)(しよ)()(てい)(すゝ)むるに(ちや)(ざん)(こと)(したが)ふべきを(もつ)てしたらしい。(しよ)(はじめ)に「二月八日御手簡、晦日相達し拜見仕候」と()つてある。(へき)(ざん)の二(ぐわつ)()(しよ)(つごもり)()(てい)()(いた)つてゐるのである。

 ()(てい)(かみ)(げい)(さい)(こと)()つてゐるが、(その)()(なほ)(きん)(しゆ)(こと)をも()つてゐる。「當春は例よりは花なども遲く覺え候。しかし此頃は二三分の開花も見え候。近來養生の爲、酒を止め見申候。各別身體健やかに、脾胃調ひ候やう覺え候。此序にやめにも被成候はゞともぞんじ候へども如何あらむや。」(まつ)(だん)は一()(はい)(いん)(こう)(そう)したるを()て、(なが)くこれを(はい)せむかと()()し、(また)(みづか)らこれを()くせむや(いな)やを(うたが)つてゐるのである。

 (つぎ)(へき)(ざん)(こと)である。「母樣(中村氏)御文足下(碧山)御出精の義に被存申候。大慶不過之奉存候。何分とも家業勤學別而御奉養之際に御精勤奉希候。(中略。)御作拜見仕候。少々加筆仕候。御取捨可被成候。又々御出來候はゞ御擲示可被下候。隨分熟錬被成候樣可然候。一句の上より全體のととのゐを第一御心掛可被成候。」

 ()(てい)(へき)(ざん)(はかま)()へむとする()(つひ)(おこな)はれた。「袴御遣被下辱存候。此方の袴今便差出し可申之處、大坂書林便荷はり候故差扣申候。跡より差上可申候。此方別段に又々一つこしらへ候。」(へき)(ざん)(かん)(なべ)(おく)つたのは(まと)()じたての(はかま)()(てい)(まと)()(おく)らむとするのは(きやう)()じたての(はかま)である。(きやう)()じたての(くわ)()(きら)つた()(てい)も、(まと)()じたての()()()ぐるを()て、(べつ)(かん)(なべ)じたての(はかま)をあつらへたものと()える。

 (つぎ)()(てい)(きやう)()(おく)り、(また)(きやう)()より()(しよ)(じやく)(こと)である。「芭蕉翁句集大人樣(適齋)へ差上候。養生訓書林へ申遣候間、定而遣し可申候。御心得の爲に御熟讀可然候。大人樣母樣へも入覽可被下候。」(これ)(きやう)()(おく)つたものである。「大學纂釋掌手仕候。」(だい)(がく)(さん)(しやく)とは()()(せい)()(しやう)()(さん)(しやく)であらう。(これ)(きやう)()より()たものである。

 わたくしは()(てい)(にん)(じん)海苔(のり)とを(きやう)()()つた(こと)(こゝ)()()する。「御種人參少々母樣へ差上候。御藥用の節二三分宛も御用被遊候樣。畢竟たわゐもなきものに候へども、先日小生服用にいたし候樣一袋もらゐ候まゝ少々御すそわけ申上候に候。(中略。)廣島のり乍序少々封入仕候。異郷の風味に候故也。御閑酌御試可被成候。」

     その七十九

 (ぶん)(くわ)(おつ)(がい)(ぐわつ)()()(てい)(しよ)には二三()(じん)(せう)(そく)がある。(その)一。「及時居士もやはり嵯峨に被居候由、いせき(伊勢喜)より噂申來候。」西(にし)(むら)(きふ)()()(てい)()()てた(にん)(いう)(てい)()つたらしい。(はま)()(うぢ)(ざう)(かは)(さき)(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)に「嵯峨任有亭寄懷霞亭」の()がある。「流憩憶君楓際寮。壁空無復舊詩瓢。高調任上樵童口。梅發山村不寂寥。宜堂先生。」()(だう)(きふ)()の一(がう)である。

 (その)二。「當春いせきへむけ藤浪翁へ書状差出し候處、極月(甲戌十二月)六日御死去のよし、いせきより申來候。折角心やすくいたし候よき御老人に有之候處殘念に候。弔書さし出し候方もいづかたやらむ、夫故先々差扣候。」(ふぢ)(なみ)(いま)(かむが)へない。(かつ)「浪」()(さう)(たい)()(めい)である。

 (その)三。「此無量寺への書状無據被頼候。河崎邊へ便の節御達し可被下候。山田をつ坂に御坐候。貴君(碧山)御出のせつ被遣候ても又は池上君(鄰哉)あたりに頼候てもよし。あの近邊也。此老僧今は伊賀とやらむへ隱居いたし候由、此里の出生の由、姪とやらが一人のこり有之候。」(やま)()()(りやう)()(らう)(そう)()(つまびらか)にしない。

 (しよ)(ちゆう)(せう)すべきものは(ほゞ)(こゝ)()きた。(さい)()(てん)(りう)()(こと)()して()く。「此邊(神邊)に而噂には天龍寺燒失いたし候やう申候。實説に候哉、無覺束候。京都より何とも申參不申候。」

 (この)(つき)(ぐわつ)()(おほ)(つか)()(けん)()()(やま)()(なん)(かう)(はうむ)られた。()(じゆ)(あざな)()(せん)(とう)(へい)(しよう)した。(しな)(のゝ)(くに)()()(ごほり)(こまん)()(えき)(ひと)(おほ)(つか)()(やく)()である。(かは)(さき)(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)(まご)(ふく)(まう)(しやく)()がある。「三月九日葬冢子瞻于南岡、是夜夢與伯頎訪子瞻、酒間言志、覺後悵然、賦此眎伯頎。雲飛水逝杏無蹤。玉骨空堆土一封。名是令君身後著。來猶與我夢中逢。弔花春事添新恨。背月宵遊耿舊容。推枕囘看燈影暗。耳邊如聽接談鋒。」(おも)ふに()(てい)()()たのは(すう)(にち)(のち)であらう。しかしわたくしは()稿(かう)(ちゆう)(ばん)()(こゝ)(ろく)する。「悼冢不騫。崢嶗氣象使人思。同學行中獨數奇。十載交歡歸片夢。一生清苦見遺詩。峨山雨雪連牀夜。紫海春風囘棹期。藏得書筺圖酌別。忍看親自寫仙姿。」()(こう)(はん)()(ちゆう)があつて(はじめ)(かい)せられる。「辛未仲冬。君將遊筑紫。問予於嵯峨梅陽軒。一夜酒間作酌別圖。」

 ()(ばう)(につ)()(けみ)するに、(ちや)(ざん)(この)(つき)(ぐわつ)()(かは)(さき)(けい)(けん)(とも)(よつ)()(いち)(えき)宿(しゆく)し、八()(けい)(けん)(わか)れた。その(かん)(なべ)(かへ)つた()(つまびらか)にしない。(ぎやう)(じやう)に「三月歸國」と()つてあるのは()()(はつ)した(とき)である。(しふ)に「歸後入城途上」の()があつて、「官驛三十五日程」と()つてあるを()れば、二(ぐわつ)二十六(にち)()()(はつ)した(ちや)(ざん)(かん)(なべ)(かへ)つたのは四(ぐわつ)(さく)であつた(はず)である。(おつ)(がい)は二(ぐわつ)(だい)、三(ぐわつ)(せう)であつた(ゆゑ)である。しかし(のち)()()(ばら)()(しよ)()るに、三(ぐわつ)二十九(にち)であつたらしい。

 四(ぐわつ)十九(にち)()(てい)(ゐの)(うへ)(うぢ)(きやう)(めと)つた。()(てい)(せい)()(ぜん)(へき)(ざん)(あた)ふる(しよ)(つく)り、(いま)(はつ)(そう)せずして(つま)(めと)り、廿一(にち)(つゐ)(しよ)して(はつ)(そう)した。(まと)()(しよ)(どく)には(たゞ)(その)(つゐ)(しよ)のみが(そん)してゐる。「追啓。此書状相認置候處、便無之延引仕候。本書申上候慶事延引と申上候處、茶山翁急に思召被立候而、本月十九日婚事相調申候。普請中やはり廉塾に罷在候。右之段御雙親樣へ被仰上可被下候。披露之義は菅翁姪甥と申ものに而、小兒(菅三惟繩)之義はつれ子と仕候而、則私子分にいたし候。是又左樣思召可被下候。先は此兒に菅氏をたてさし候内意に御坐候。」

     その八十

 (かみ)(せう)しかけた()(てい)(げい)(さい)()(だい)(しよ)には、三十(ぎやう)滿()たざる(だん)(ぺん)ながら、(なほ)()(ろく)(そん)すべきものがある。(おほ)(さか)(しよ)()(おとうと)(へき)(ざん)(せう)(かい)したのが(その)一である。「大坂に而書物もとめ候處、多少によらず、心齋橋筋北久太郎町河内屋儀助と申書林へ可被仰遣候。此方より其譯申遣置可申候。代拂は節季にても可宜候。才が屋(雜賀屋)迄とゞけさし候義可然候。」(おほ)(さか)(しゆ)(ぎよく)(だう)河内(かはち)()()(すけ)(きやう)()(きふ)()(だう)(かは)(なみ)()()()(とも)(ちや)(ざん)()(こく)した(しよ)()である。(ほう)(でう)(うぢ)(あらた)(ちや)(ざん)(しん)(せき)となつたために、(かく)(ごと)便(べん)()()たのである。(その)二は()(てい)(へき)(ざん)(ばん)()(つく)ることを(すゝ)めた(こと)である。「大冢、守屋弔詩など御作り可然候。」(おほ)(つか)()(けん)(じゆ)である。(もり)()(いま)(かむが)へない。()(じやう)(ぶん)(くわ)(おつ)(がい)(ぐわつ)二十一(にち)(しよ)である。

 (まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(つぎ)()(づけ)を「四月廿六日」とした()(てい)(しよ)がある。(また)(へき)(ざん)(あた)ふるものである。(この)()(づけ)には(ちと)(うたがひ)がある。(なに)(ゆゑ)()ふに、(しよ)(はじめ)に「三月念二日御手教(碧山手書)今日廿五相達拜見仕候」と()つてあるからである。(しか)らば二十五(にち)()きはじめ、二十六(にち)()(をは)つたものかと()ふに、(その)(ぼく)(こん)(けん)すれば一()()いたものらしく()える。(はじめ)の「廿五」は(おそら)くは廿六の(あやまり)であらう。

 (この)(しよ)には()()(てい)()(さい)(しん)(きよ)(こと)()えてゐる。「此間(二十一日)書状相認候而京都迄頼遣し候。大抵此書状と前後に相達し可申候。爾來無何違状候。其書中にも申上候通、本月十九日小生婚事相濟候。御雙親樣へ被仰上可被下候。當分やはり廉塾に罷在候。新居、町にざつとしつらひ候。來月(五月)中には落成も可仕候。出來次第彼方へ引移り候積りに御坐候。此方先生(茶山)風、何事もざつとと申候事、無造作なる事がすきに候。先日婚事もいひ出し候而半日間に事を終へ候と申位の事に候。」(ちや)(ざん)(たん)(そつ)()るに()る。

 ()(てい)(へき)(ざん)(きた)つて(こん)()することを()した。「貴君御出之義被仰聞候へども、小生義いくへにも懸御目たく候へども、遠境御苦勞、且は費用等も入候事に候へば、必々態と御越には及不申候。夫よりも山田社中にてもよき友なども御坐候はゞ、御見合御越も候はゞ妙にて可有之候。小生非事永住に付、御越之義は決而夫に及び申まじく候。」()(てい)(たん)(そつ)(また)(ちや)(ざん)(ゆづ)らない。

 ()(てい)(れん)(じゆく)(いと)ふべき(かく)(よろこ)ぶべき(かく)とのあることを(かた)つた。「先生(茶山)歸後日々來客迷惑致候。筑前竹田定之允被見候而新塾に滯留いたし候。此人咄相手に成候而悦申候。」(たけ)()(さだ)()(じよう)(ちや)(ざん)(しふ)()(ばう)(につ)()(とう)()えてゐる()()である。(ちや)(ざん)(とも)()()(はつ)して西(にし)したことが()(ばう)(につ)()()えてゐる。(ちや)(ざん)(しふ)(けみ)するに、(たけ)()は二(ねん)(ぜん)()(いう)にも(かん)(なべ)にゐた。「又々被見」と()所以(ゆゑん)である。

 ()(てい)()()のために(やう)(じやう)(りう)()することを(わす)れない。「御病用之外御他出も無之御讀書はかどり候由、大慶不過之奉存候。何分御勉勵奉祈候。追々暑蒸、居處御ゑらび被成候而、暑熱の身に伏し不申樣御心付可然候。雙親樣はもとよりの義、足下(碧山)弟妹共時々御灸治等被成候樣祈候。小生日々獨按摩等心懸候。其効か、一段身體も壯健を覺え候。」わたくしは(こゝ)(やう)(じやう)(くん)(こと)()する。「貝原養生訓新本増補の方差上候樣申來候。相達し候哉。」(これ)(おほ)(さか)(しよ)()(はう)(だう)である。

 ()(てい)は一の(たく)(ほん)()(とう)()(ぶん)(おく)つた。「此墨本御序に佐藤へ御達し可被下奉頼候。」その(なに)(たく)(ほん)なるを()らない。四(ぐわつ)二十六(にち)(しよ)(こと)(こゝ)(をは)る。

     その八十一

 (ぶん)(くわ)(おつ)(がい)(ぐわつ)には()(てい)(しよ)(まと)()()つたが、(いま)(そん)してゐない。そのこれを()つた(しよう)は六(ぐわつ)十一(にち)(しよ)()えてゐる。(また)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へたもので、(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。「三月四月五月共に書状差出し候。大坂屋敷並河儀(河内屋儀助)より一々勢州へ下し候樣申來候。定而浮沈は有之間敷候。才が屋方御聞可被下候。」

 ()(てい)(しん)(きよ)(こう)()(やうや)(しん)(ちよく)してゐる。「先書段々申上候通、以來何の別條も無之候。新宅普請も已に五十日程日々かかり居候得共、とかく埒明不申候。ざつといたし候修屋にても日數かかり候ものに候。いづれ當月(六月)中には引移り候事出來可申候。至極凉敷家に有之、後は菜園など有之、黄葉山を正面に見候。」(さい)(かん)(だう)()稿(かう)に「移居雜賦」と(だい)する五(りつ)(しゆ)がある。(その)一に「朱葢峰當牖。紫薇墟隔墻」の十()がある。牖(まど)(あた)(みね)(くわう)(えふ)(ざん)であらうか。

 ()(てい)(きやう)(しん)(せつ)(やう)(すゝ)めたことは(れい)(ごと)くである。「當年は例年よりも暑氣未だうすく覺え候。御地邊は如何候哉。七八日以前より葛衣など著し候位に候。暑中御雙親樣始足下並に弟妹等隨分御用心專一奉祈候。御灸治等御心懸なされ候やう可然被存候。凉敷處へ御立まわり被成候方御用心第一に候。暑中は業務(醫業)等もさまであくせくと被成候わぬやう(被成候)が尤可宜候。」

 (やま)(ぐち)(あふ)(こう)()(とう)()(ぶん)()(ひさ)しく(せう)(そく)()つてゐた。「勢州山口より書状三月參り候のみに而、佐藤其外よりも久敷便無之候。」

 (もん)(じん)(なが)()()六の(いへ)()(てい)(きやう)(しん)との(あひだ)()つて、(しよ)(しん)(でん)(てい)してゐたと()える。「永井氏相替候儀も無之候哉、當年は一度も書状參り不申候。書状毎々御世話之事篤く御禮可被下候。爾來相頼候處やはり永井氏よろしく候哉、御序に御きかせ可被下候。」

 六(ぐわつ)十一(にち)(しよ)(こと)(こゝ)(をは)る。

 ()(てい)は六(ぐわつ)には(しん)(きよ)(うつ)ることを()なかつた。そのこれに(うつ)つたのは七(ぐわつ)()である。(こと)(くわん)(うぢ)(ぞく)(じん)()(ばら)()()()(すが)(なみ)()(らう)の二(にん)(てき)(さい)(へき)(ざん)()()(あた)へた(しよ)()えてゐる。「誠に先般者就吉辰讓四郎樣御婚儀首尾能御整被成、其後も無程御居馴染被成芽出度、皆樣御滿悦之段奉察、於此方一同喜仕候。先生舊宅も今般普請出來、當月五日讓四郎樣御夫婦共日柄能御移被成、重々芽出度奉存候。隨分御安養被成御坐候。乍憚御休意可被下候。老先生(茶山)も當三月末無恙歸宅被致候。是又御安心可被成下候。(下略。)七月十九日。江原與兵衞。菅波武十郎。北條道有樣。御同立敬樣御侍者中。」()(きよ)(ざつ)()()()いて(しん)(きよ)(はう)()(けい)(ぶつ)(かむが)ふるに、(ちや)(ざん)(いへ)(あひ)()ること(とほ)くはなかつただらう。「移居仍一塢。衡宇近相望。(中略。)晨昏來往好。路入稻花香。」(しん)(きよ)より(ちや)(ざん)(いへ)()(みち)(すゐ)(でん)(かたはら)()たものと()える。(また)(しん)(きよ)には(もく)槿()(いけ)(がき)があつて(木槿半籬秋)、(ひがし)(どなり)(さか)(みせ)であつたらしい。(東隣是酒壚。)

 (これ)より(さき)(おな)(つき)の十五(にち)()(てい)(へき)(ざん)(あた)ふる(しよ)(つく)つた。()(きよ)()(じつ)(しよ)であるから、(かなら)ずや()(きよ)(はう)じたものであらう。(をし)むらくは(ぜん)(はん)(いつ)(ばう)して、(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)には(その)(こう)(はん)のみが(そん)してゐる。(この)(だん)(ぺん)には(なん)()(はく)(みん)(こと)()えてゐる。「南部伯民と申周防三田尻の醫人隨分名高き人に候。學問もよし、療治もよろしく候よし。先日此邊へ被遊候而、塾へも被見候而一見いたし、今日西歸、詩をよせられ候。一寸和韻いたし候。原韻は前後忘却仕候。拙和懸御目候。歸興匇々任短篷。暫歡如夢忽西東。扇頭題寄清新句。揮起周洋萬里風。甚匇作に候。」(その)()には(きやう)()(あさ)()(しう)(すけ)(こと)()()(せう)()(こと)がある。「京都淺井よりは此間書通有之候。」「嵯峨樵歌殘本有之候はゞ屋敷迄御遣し可被下候。段々人のもとめ多く有之候。」

 (おな)(つき)の二十三(にち)()(てい)(また)(へき)(ざん)(あた)ふる(しよ)(つく)つた。(ちや)(ざん)(まと)()()(しゆ)(しよ)(ぶつ)(ぴん)とが(この)(しよ)(とも)(はつ)(そう)せられむとした。「京都便荷物等皆々仕立仕廻(しまひ)候處、太中翁(茶山)より書状包參り候故、一併に差遣候。足下へ書状なれば足下御返書、大人樣へ御状なれば大人より御返書可被下候。何やら此中に入居申候。」

     その八十二

 (ぶん)(くわ)(おつ)(がい)(ぐわつ)()(てい)(ふう)()(かん)(なべ)(しん)(きよ)(うつ)つた(のち)十八(じつ)(こと)である。()(てい)(しよ)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた。(かみ)()つた七(ぐわつ)二十三(にち)(しよ)(これ)である。

 わたくしは(この)(しよ)()て、()(てい)(しん)(こん)(しん)(きよ)(あは)()した(くわん)(うぢ)(しん)(せき)の一(にん)()(ばら)()()()()(てい)(いへ)(ちか)()んでゐたことを()る。「江原與兵衞も先達而歸郷、此節はもとの通役儀等被仰付候。つい隣家に御坐候。」()(きやう)()()より(かへ)つたのである。

 (また)(しん)(きよ)(ざつ)()(すくな)くも(いく)(しゆ)(はや)(この)(とき)()つてゐたことを()る。()(てい)はこれを(あふぎ)(しよ)して(へき)(ざん)(おく)つた。「扇子の詩は新居の作也。又々近々出來候はゞ可差上候。」

 ()(てい)(ちや)(ざん)(おく)(ところ)(もの)(この)(しよ)(とも)(はつ)(そう)したので、(はう)(けい)のために(おもひ)(らう)し、(へき)(ざん)()ぐるに(ちや)(ざん)(しよく)()(もつ)てしてゐる。「急に御報にも及申間敷やに候。もしも被遣候はゞ、于瓢などは隨分よろしく候へども、去年來山田より大分參り候而、まだ多く有之候。わかめ、ぼら等御無用に候。あわびも段々參り候。菅翁は何も好のなき人に候。油こき物は皆きらゐに候。しかし海鰌の白き皮付肉のよき(が)候はゞ、御序に御惠可被下候。山田の便にて可被遣候。是もいかやうにてもよろしく候。先は小生などたべ候料に充候。」

 (この)(しよ)(すゑ)に「余(餘)は本文兩通に有之候」の()がある。わたくしは(まと)()(しよ)(どく)()いて所謂(いはゆる)(ほん)(ぶん)(なに)であるかを(たん)(たう)して、(つひ)にこれを()ることを()た。(これ)より(さき)(ぐわつ)十五(にち)()(てい)(まと)()()るべき(しよ)(つく)つたが、(はつ)(けん)便(べん)()ずに、(りう)()した。(つい)(ぜん)(じつ)二十二(にち)(また)(しよ)(つく)り、(ちゝ)(てき)(さい)(けん)ずる(さう)(めん)(はこ)(へき)(ざん)(おく)(はかま)()(あは)せて(こん)(ぱう)した。二十三(にち)(しよ)(さら)にこれに()へたものである。そして七(ぐわつ)十五(にち)(しよ)(その)(ぜん)(はん)(いつ)し、二十二(にち)(しよ)(まつた)(そん)してゐる。わたくしは(こう)(しや)()つて(この)(てん)(まつ)(あきらか)にしたのである。

 二十二(にち)(しよ)(たゞ)「七月廿二日」の()(づけ)があるのみで、(にはか)()れば(なに)()(そく)すべき(ところ)もない(たん)(ぶん)である。「中元(乙亥七月十五日)書簡相認置候處便無之延引、此信と一併に相成申候。(中略。)甚麤末之品に候へども索麪一箱大人樣へ進呈仕候。不敗物、何も此方より差上候ものとては無之、御免可被下候。保命酒は途中に而間違出來やすく、かつは京よりの賃錢等あまり費に候間差控申候。」(たゞ)(かく)(ごと)きに()ぎない。(この)(とき)(はかま)()(おな)じく(おく)られたことは、(のち)の八(ぐわつ)()(しよ)()つて(しよう)せられる。

 ()(じやう)(しよ)(どう)(はつ)(こと)()ふ一(だん)は、わたくしと(いへども)(わい)()(はなは)だしいのを()つてゐる。(この)(へん)()むことを(いと)はぬ(せう)(すう)(かう)()(しや)も、(さだめ)()()(そん)する(ところ)()るに(くるし)むであらう。しかしわたくしは(ねん)()なき(わが)(くに)()(じん)(しよ)(どく)()(はふ)(かう)じてゐるのである。そして(かう)(きう)のメカニスムの一(ぐう)(ばく)()して(ひと)()るに(まか)すのである。(この)(かう)(きう)(いう)(よう)()(よう)はわたくしは()ふことを(ほつ)せない。()(たま/\)()(よう)(ひと)があつて(この)んで()(よう)(こと)をなすも、(また)(かなら)ずしも()()なることは()からう。

 (ぜん)(ねん)(しぶ)()(ちう)(さい)(でん)した(ころ)、一(ぶん)()()つた。(もり)(だん)(かん)()(てつ)して()(でん)(つく)る。(かく)(ごと)きは(たう)(ひつ)()をして()さしめて()ると()つた。(これ)容易(たやす)(しゆ)(こう)(がた)い。(しばら)(ひろ)()(きよく)(さう)()()りて()はむに、()(くわん)(せい)()(をさ)むる(ところ)である。閒(かん)()(をさ)むる(くわん)(かい)()い。(たと)ひこれを(まう)けられたとせむも、()(しよ)(あひだ)(しの)んで(かく)(ごと)(こと)をなすものの()りや(いな)(うたが)はしい。わたくしの(この)(こと)をなすのが、(くわん)(かい)(おい)(いう)(よう)(こと)(とう)(かん)()せられてゐると()()でないことは(もと)よりである。

     その八十三

 (ぶん)(くわ)(おつ)(がい)(ぐわつ)には(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)()(てい)(おとうと)(へき)(ざん)(あた)へた八()(しよ)(のこ)つてゐる。(はう)五六(すん)()(へん)(よう)(とう)(もん)()()いたものである。「半切切れ候而甚細書御免可被下候」とことわつてある。その(おつ)(がい)なるを()るは(かの)(しよ)(どう)(はつ)(こと)より()すのである。「七月京都舛屋便に索麪及袴地其外菅氏よりの品物等一併佐藤子文迄頼遣し候。此節大方相達し可申奉存候。」(はかま)()(おな)じく()いたことは、(これ)()つて()られる。()(てい)(きやう)()()(もと)め、その(くわ)()なるを(きら)つて(へき)(ざん)(はかま)()へたものである。(ます)()の「舛」()(ぼく)(しん)(なか)(おほは)れて()(めい)である。

 これを(しよ)する(とき)()(てい)(へき)(ざん)(ふう)(じや)(おか)されたことを()いてゐた。「風邪は當分之事に候哉、早速御愼みのよし、尚々御用意專一奉存候。」()(てい)()()(せい)(くわつ)(へい)(をん)()()である。「日々會業いそがしく候而、春來いづかたへも參り不申候。二月に二里許有之候處へ遊行候外、一切出門不仕候。寂寞御憐可被下候。」(こう)(しん)()(しや)(いん)(ばう)()えてゐた。「山田社中よりも一切音信たえ候。」(まと)()(しん)(せき)()(ひと)があつて()えた。「新屋敷伯母御快氣の由大悦仕候。」

 (この)(つき)(ぐわつ)の二十(にち)(こう)(しん)(しや)の一(ゐん)(ひがし)(こう)(けん)歿(ぼつ)した。(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)(まご)(ふく)(まう)(しやく)(せん)()(へう)がある。(こう)(けん)()(きつ)(いん)(あざな)(くん)()である。(ちゝ)(ひさ)()(じやう)(えい)(きやう)()()()(ぼう)(ぢよ)(めと)つて二()(ぢよ)()ませた。(あに)(じやう)(じゆん)()ひ、(いへ)()いだ。(こう)(けん)(その)(おとうと)である。(ぢよ)()(ちやう)(つる)(えう)し、(つぎ)(しゆん)(もり)(しま)(うぢ)()き、()(かう)()()(うぢ)()いた。(こう)(けん)(はう)(れき)十三(ねん)(うま)れ、(あん)(えい)(ねん)十八(さい)にして(ひがし)(しげ)(くに)(やしな)はれた。(はじめ)(さい)()()(さね)(たゞ)(ぢよ)()(さい)(あな)()(ふぢ)(かは)(うぢ)である。(ならび)()がなかつた。(この)(あき)(すゐ)(しゆ)(うれ)へて歿(ぼつ)した。(とし)は五十三であつた。

 (こう)(けん)(あらは)(ところ)(ろん)()(かい)(せい)(こう)(しふ)(こう)(けん)稿(かう)がある。(墓表。)()()(せう)()(いは)く。「君夙研覃魯論。別爲一註解。今漸已脱稿。嘗謂予曰。明春予齒五十。拙著亦適當完成。吾願會諸君訂議。且聊自賀成業。子其千里命駕。深所希望。」(これ)は「明春予齒五十」と()ふより()すに(ぶん)(くわ)(しん)()(こと)であつた。(こう)(けん)(ろん)()(かい)(じやう)()せられたか(いな)()らない。(ろん)()(ねん)()()()()(ほん)(せん)(じゆつ)(あは)せて「論語解」と(だい)するもの四十八(しゆ)()(れつ)してゐるのに、(こう)(けん)(しよ)(その)(うち)()えない。

 (こう)(けん)(ひと)となりは()(へう)にかう()つてある。「先生爲人敦直。平生儉薄自安。與人言。必吐中情。行無虚飾。或遇非義。雖貴介豪富。輒面折其不可。無所囘避。以是人亦高其風。敬而慕之。性嗜酒。飮量過人。今玆(乙亥)自春渉夏。全廢飮。」()(てい)(せう)()()(ところ)(ほゞ)(おな)じである。「其爲人。天眞横出。不修邊幅。而逢義不可。覿面罵斥。無所趨避。有酒量。飮則口吃。」(こう)(きつ)(こと)()(てい)の一(れん)にも()えてゐる。「得酒談奇奇或吃、辭錢守道道曾玄。」

 ()(てい)()()て「哭東恒軒」の五()(つく)つた。()(かん)()稿(かう)()せてある。(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)にも(また)(この)()があつて(すゑ)に「乙亥九月、北條讓拜具」と(しよ)してある。(へん)(なが)きを(もつ)(こと/″\)(ろく)するに(およ)ばぬが、わたくしは()()んで()(てい)(こう)(けん)との(まじはり)を一()したい。

     その八十四

 (ぶん)(くわ)(おつ)(がい)(ぐわつ)二十(にち)(ひがし)(こう)(けん)歿(ぼつ)したので、()(てい)は九(ぐわつ)に五()(つく)つてこれを(てう)した。わたくしは()()(ところ)より(しゆ)(/″\)(こと)()ることを()た。「憶昔初相見。忘年承盛眷。中間十五年。友誼曾無倦。」()(てい)(こう)(けん)(まじは)つた(はじめ)は、(きやう)()(しん)(いう)(きよ)(らく)(ぜん)()でなくてはならない。(こう)(けん)三十九(さい)()(てい)二十二(さい)(とき)であつた。

 二(にん)(まじはり)()(てい)(はやし)(ざき)(しよ)(ゐん)(ちやう)たるに(およ)んで(ふか)きを(くは)へた。「櫟街寄萍迹。來往無晨夕。疑義時質問。藏書互通借。」(こう)(けん)(すで)に四十七(さい)()(てい)は三十(さい)になつてゐた。「櫟街」は(ちく)(はく)(ゑん)(しゆ)()うて()()(びと)()ひ、(やま)()(つき)(よみの)(みや)(きた)なる一()()(まち)なることを()つた。(むかし)いちゐの()(たい)(ぼく)ありしよりの()で、(げん)(ぶん)(ころ)(いた)るまで「櫟町」と(しよ)したさうである。

 ()(てい)()()(せい)(くわつ)は二(にん)(あひだ)(へだ)てたが、(がん)(ぎよ)(わう)(らい)()えなかつたことは(せう)()()つて(ちよう)せられる。(ぜん)(ねん)(かふ)(じゆつ)(ふゆ)()(てい)(かん)(なべ)より()(せい)して、(また)(こう)(けん)(あひ)(くわい)した。「去年歸省日。同人會一堂。故態嫌猜絶。劇談平昔償。」()(てい)(かん)(なべ)(かへ)(とき)(こう)(けん)(おく)つて(みや)(かは)(いた)つた。「宮水送我夜。洗愁累千觴。耿々天將曙。班馬嘶路傍。」

 (この)(とし)(おつ)(がい)()(てい)(かは)(さき)(けい)(けん)(しよ)()て、(こう)(けん)(さけ)()めたことを()つた。「前月河子信。報君近状來。春來乏氣力。不復銜酒杯。聞之雖不安。意謂是偶然。不日應囘復。吾心爲自寛。」

 (いま)(いくばく)ならぬに(こう)(けん)()(かん)(なべ)(いた)つた。「茫然疑夢寐。把訃再三視。視此良不妄。酸辛滿五臟。海内足交遊。知己斯人喪。」()(てい)(あい)(たう)(すこぶる)(せつ)であつた。「已矣終天地。何路接容光。容光恍在目。泣向白雲長。孤鴻叫天際。明月照屋梁。展轉不能寐。喞喞伴寒螿。」

 (ひがし)()(てい)(こう)(けん)歿(ぼつ)()(やま)(ぐち)(あふ)(こう)()()()つて(あを)(やま)(うぢ)より(にふ)()した(こう)(けん)(まつ)()(やう)()ださうである。

 九(ぐわつ)()()(てい)(しよ)(へき)(ざん)(あた)へた。(また)(まと)()(しよ)(どく)の一である。「小子無事、家内とも無恙候。」(いう)(さい)(ひと)()である。

 ()(てい)(きん)(じやう)(せう)する。「此方諸般無別條候。新宅追々草木等うゑ候。仲秋の月見は居宅にていたし候。日日晝間は塾へつめ候而、少しも閑時なく候。講書は書經集傳、左傳等隔日にいたし候。(中略。)とかく今迄方外之人となり居申候處、少々宛檢束、節句じやの、親類吉凶などと役しられ候而、時々福山へも參申候。迷惑仕候。併世の中のさまと、無是非觀念仕候。」(れん)(じゆく)()ける(ほん)(げふ)の一(たん)(はじめ)(うかゞ)はれる。「書經集傳」は所謂(いはゆる)(さい)(でん)であらう。(たう)()(ちん)()(がい)(ばう)(つう)(ゑん)(じん)(へん)(さい)(へん)(ちん)(れき)(さん)()(とう)(てい)(さん)(ちゆう)(すで)(こく)せられてゐて、就中(なかんづく)(のち)の二(しよ)(あらた)(いち)(のぼ)つたのであつた。()(でん)(ごと)きは(はた)(さう)(らう)(かう)した()()(ぼん)(はじめ)て四(ねん)(ぜん)(こく)せられたのである。

 (ぶん)(ちゆう)「仲秋の月見は居宅にていたし候」の()は、(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()(もつ)(ちゆう)(きやく)とすることが()()る。(これ)より(さき)()(てい)()(やう)があつた。「十四夜、余臥病、不能赴廉塾詩會」(うん)(ぬん)()がある。(つい)で「十五夜、諸賢集草堂、得青」の()がある。「待月黄昏坐小亭。跫然幸破徑苔青。先欣微白生遙嶺。已見清光可半庭。病况今宵渾似忘。歡情近歳未曾經。酒殘不忍空眠去。護得曉寒依紙屏。」

 (つぎ)(しよ)(いう)(せう)(そく)(せう)する。(やま)()()(しや)(ひと)(/″\)(かね)(おく)つて()(てい)(こん)(いん)(しゆく)した。「恒心社十人名前より金五百疋昏儀祝儀に參り候。子文(佐藤)よりは中元祝儀百疋被遣候。この十人の名前の人へは御出會之節名々御禮被仰可被下候。」

     その八十五

 (ぶん)(くわ)(おつ)(がい)(ぐわつ)()()(てい)(しよ)より、(いま)(しよ)(いう)一々の(じやう)(きやう)(せう)(しゆつ)する。

 (その)一。()(とう)()(ぶん)。「子文的矢紀行及詩册參り候。驚入候上進に御坐候。三十韻の的屋より歸途の詩最合作に候。」

 (その)(その)三。(ひがし)()(てい)(まご)(ふく)(まう)(しやく)。「文亮(夢亭)、孟綽駸々の由欽服仕候。」()(てい)()(じやう)(にん)(しん)(えき)()いてゐる。

 (その)四。(ひがし)(こう)(けん)。「恒軒久敷病氣の由、何卒囘復いのり候。」(こう)(けん)()は九()には(いま)(いた)らなかつたのである。

 (その)五。(やま)(ぐち)(あふ)(こう)。「凹巷兄は迂齋翁物故後はとかく多事之由に御坐候。」(あふ)(こう)(ちゝ)()(さい)(また)()(そう)歿(ぼつ)したのは(この)(とし)(おつ)(がい)(ぐわつ)十二(にち)であらう。(かは)(さき)(せい)()(じゆ)(げふ)(ろく)に「丁丑孟夏十二日迂叟大祥忌」の(ぶん)がある(ゆゑ)である。

 (この)(しよ)には(さい)()()(てい)(どう)(はう)(にん)(ねん)()(こと)()つてある。そして(その)(にん)歿(ぼつ)(ねん)(いま)(ほう)(でう)(うぢ)(おい)ても(いん)(めつ)して(また)()るべからざるに(いた)つてゐたものである。「尚々今年はおぬゐ内藏太郎十七年と存候。定而感愴奉察候。已に當月正當に候。薦詩等跡より差出し可申候。」()(てい)(おとうと)()(げん)(くわん)(せい)十一(ねん)()()(ぐわつ)十九(にち)歿(ぼつ)した。(この)(とし)(おつ)(がい)(ぐわつ)が十七(くわい)()「正當」なることは()(てい)()(ごと)くである。(これ)()()()(じつ)である。これに(はん)して()(てい)(どう)(はう)(ぢよ)()(てき)(さい)(ちやう)(ぢよ)(ぬひ)(せい)歿(ぼつ)(いま)(いた)るまで(まつた)()るべからざるものであつた。(しか)るに(この)(しよ)()(ところ)(したが)へば、(ぬひ)(また)(くわん)(せい)()()(ぐわつ)歿(ぼつ)したのである。(たゞ)(その)歿(ぼつ)(じつ)のみが(なほ)()(しやう)である。

 ()(てい)が「跡より差出し可申候」と()つた()(さい)(かん)(だう)()稿(かう)()えてゐる。「九月(乙亥)十九日亡弟子彦忌辰賦薦。姜被難忘當日情。尤憐逐我客京城。僑居逢盜無衣換。孤寺同僧有菜烹。暮雨渚邊鴻雁下。秋風原上鶺鴒鳴。天涯涕涙空盈把。不得家山一掃塋。」()(てい)所謂(いはゆる)(せん)()(しん)()(さく)()()(せう)()()え(「露下黄英代瓣香」の七絶)、()(いう)(「世事茫然眞可嗟」並に「筆硯依然猶未焚」の七絶二)(かふ)(じゆつ)(「遠向家山羞一巵」等の七絶六)の(さく)()稿(かう)()えてゐる。(かみ)の七(りつ)(その)(つぎ)である。

 (まと)()(しよ)(どく)に九(ぐわつ)十五(にち)()(てい)(しよ)があつて、(また)「索麪一箱及包物、外に袴差上候」と()つてある。(これ)(まへ)(さい)して(いま)(はつ)(そう)せずにゐた(しよ)(上の九月九日の書歟)と(おな)じく()(てい)()(はな)れたものである。「此頃書状差出し可申相認置候故、一併差上候。」(あて)()(また)(へき)(ざん)である。

 (へき)(ざん)(まと)()(ちゆう)(しう)(はう)じた(ゆゑ)()(てい)(かん)(なべ)(ちゆう)(しう)(もつ)(むく)いた。「中秋頃時候大抵被仰越候趣に候。しかし十四夜小陰、十五十六は快晴に候。百里外少々の不同は有之候。拙詩にて略御領知可被下候。」()(かみ)()つた十四()(びやう)(ちゆう)と十五()(さう)(だう)(しふ)との二(りつ)である。

 (しよ)(ちゆう)()(てい)()()(かた)ること(しも)(ごと)くである。「菟角此方も菅翁内人暫時病氣、此頃少々快氣と相見え候。塾長の儀故、いづかたへも出遊出來不申候。甚窮屈なる事に候。」(ない)(じん)(こう)(さい)(もん)(でん)(うぢ)である。(びやう)()(こと)(ちや)(ざん)(しふ)()えない。

 ()(てい)(がい)(ぎやく)()()(おこな)はれたことを(ぶん)()した。「八月風邪流行いたし候由、御閙敷奉察候。」

 ()(てい)(へき)(ざん)(たく)するに(けい)(すけ)()(ねい)(をし)ふることを(もつ)てした。「敬助へ詩作素讀出精いたし候やう、乍御苦勞御心付可被下候。四書五經文章軌範詩類熟讀いたさせ可被下候。」

     その八十六

 (ぶん)(くわ)(おつ)(がい)(ぐわつ)には()()(づけ)()()(てい)(いつ)(しよ)がある。「只今大坂へ幸便匇々相認候。亂筆御免可被下候。」(これ)()(づけ)(だつ)した所以(ゆゑん)であらう。わたくしが(これ)を十(ぐわつ)(さく)とするは、八(ぐわつ)(ぐわつ)(しよ)(のち)(はつ)せられたこと、十(ぐわつ)(さく)(きやう)(しよ)()(のち)(はつ)せられたこと(とう)より()すのである。「九月五日御認之御状(碧山の書)十月朔相達申候。(中略。)此方より御書付(既に的矢に達した霞亭書牘の目録)之外八月九月書状差上候。」(この)(ぐわつ)(おつ)(がい)なることは(しも)(せう)する(しよ)(ちゆう)()(けん)()つて()るべきである。(この)(しよ)(また)(まと)()(しよ)(どく)の一で、(へき)(ざん)(あた)へたものである。

 (れい)(ごと)()(かん)(なべ)(こと)(せう)する。「當方無事罷在候。兩家(茶山の家、霞亭の家)依然に御座候。」「別居以來下地(別居前)よりは多事、いづかたへも出不申、日々講業に逐れ候計、おもしろくもなんともなく候。」(にち)(じやう)(せい)(くわつ)()めるものの(こう)(ふん)である。(さん)(やう)をして(さき)(れん)(じゆく)()らしめたものは(この)(けん)(ぱい)であつた。「この節は御地鰶魚とれ候頃、嘸御風味可被成と奉察候。」(ひと)(せい)(じやう)には()(だい)もなく(こく)(きやう)もない。()(てい)(ちやう)()(よう)たることを()なかつたのは(あはれ)むべきである。

 (てき)(さい)(ちや)(ざん)との(あひだ)には(すで)にコルレスポンダンスが(ひら)かれた。「大人樣より菅翁へ御状辱御禮申上候樣被申付候。」

 (しよ)(てい)(かう)(がく)()(てい)(けい)(こく)(わす)るること(あた)はざる(ところ)であつた。(しか)るに(りやう)(すけ)(たゞ)(あに)(へき)(ざん)(おと)るのみでなく、(おとうと)(たん)(じん)にだに(およ)ばなかつた。「良助素讀如何はかどり候哉。」

 (ひがし)(こう)(けん)()(おほ)いに()(てい)(こゝろ)(いた)ましめた。「恒軒下世之由御しらせ被下候。山田所々よりの便に春來病状相きこえ如何々々と日夜案じ申候處、右之仕合扨々殘念千萬成事に候。年來御存之通の懇意、實に親戚同前に存じ候。舊感不已、悲歎仕候。いまだ社中(恒心社中)よりは訃音不參候。弔詩此節案じ居申候。情盡き不申候而、何とも趣向出不申候。」()は十(ぐわつ)(さく)(わづか)(いた)つたものと()える。()()つた(のち)、「乙亥九月北條讓拜具」と(しよ)して()()()つたのは、歿(ぼつ)(じつ)(おく)るること(はなは)(とほ)からざらむを(ほつ)した(ゆゑ)であらう。(もん)(じよ)()(づけ)(こと/″\)(しん)ずべからざるものである。

 (かしは)(ばら)(ぐわ)(ぜん)(なほ)(すこやか)であつた。「京都北谷瓦全丈へは去年一別後書通も得いたし不申候。壯健のよし安堵仕候。」

 (あさ)()(しう)(すけ)(なほ)(きやう)()にあつて(もん)(こう)(おこた)らなかつた。「淺井よりは時々便有之候。」

 (つぎ)()ぐべきは(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)(だん)(かん)で、「九月十二日、北條讓四郎、御母樣人々御前へ」と(しよ)してあるものである。(この)(しよ)(ぜん)(はん)(うしな)はれてゐる。その(おつ)(がい)(さく)なることは、(かん)(なべ)(しよ)()()(てい)()(さい)(おく)つた(いはひ)(もの)(れつ)()してあるのを()()るべきである。

 「江原伊十郎(となりさかや、庄屋也)より郡内島、荒木市郎兵衞よりきむく小袖、荒木隱居(菅太中樣妹の家)よりふだんぎ一、井上源右衞門(おけう親、以上並に皆原註)より小袖料二百疋と餠酒肴もらひ候。其外は皆々酒肴の類ばかりに候。わけなき事に候へども、何も申上候事なき故かい付候。私も病後はかくべつ達者になり候やうに御座候。常よりもふとり居候。たべもの甚うまく候。來春は何卒御見舞申上たく、今よりたのしみ居申候。時節切角御いとひ被遊候やういのり上候。小松どのへも御序によろしく頼上候、其外御親類中へも同樣よろしく願上候。」

 ()(てい)(なか)(むら)(うぢ)()せた(この)(しよ)()()(はゝ)(なぐさ)めむと(ほつ)する()(じやう)より()でたものである。八(ぐわつ)(ちゆう)(じゆん)()(てい)()()(たま/\)(はゝ)(みゝ)()つたので、()(てい)(きよく)(りよく)(その)(あと)(めつ)(きやく)しようとしてゐる。()(きよ)(ざつ)()(とう)(りん)(しゆ)()()(ばら)()(らう)であつた。千()(あら)()(うぢ)(ちや)(ざん)()(まい)まつ、(のち)()みつの()いた(いへ)である。(ゐの)(うへ)(まさ)(のぶ)(げん)(ちゆう)(ごと)(きやう)(ちゝ)である。(いはひ)(もの)(すう)(もく)(その)(なかば)(うしな)つたもので、(かみ)に「小袖一」の三()(のこ)つてゐる。

 十一(ぐわつ)には「霜月十三日」の()(づけ)(もつ)(へき)(ざん)(あた)へた()(てい)(しよ)(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)にある。()(てい)(みづか)(かた)(ところ)はかうである。「小生無事罷在候。乍憚御安意可被下候。(中略。)いづれ明年の中には見合歸省仕度存含み罷在候。」

 (へき)(ざん)()(しよ)との(こと)(ぶん)(ちゆう)にある。「元日の詩御録し被下辱存候。近來書甚見事に被存候。楷書法帖時々御心懸御手習可被成候。詩稿は力をきわめてあしく申候。御改正且は御自得御精思可被成候。」(ぐわん)(じつ)()(ろく)したと()ふは、()(ねん)(へい)()(ぐわん)(じつ)のために(あらかじ)(つく)つた()稿(かう)であらうか。

 ()(てい)(はん)(ぷく)して(ひがし)(こう)(けん)()(とき)(およ)んでゐる。「恒軒下世御報知被下慨歎不少候。社中索落察入候。」

 (かは)(さき)(けい)(けん)(ほく)(いう)してゐる。「河敬軒越後へ祗役、越前府中より通書、縷々近状等くわしく被仰聞候。」

 (やま)(ぐち)(あふ)(こう)(あらた)(しよ)(さい)(いとな)んだ。「河崎君御状に山口に書齋又々出來候由うらやましき事に候。かの洗愁處には文亮始少年多く寄寓いたし候由、彌六も被參居候。珍重之事に候。」(せん)(しう)(しよ)(きう)(しよ)(さい)であらう。これに(ぐう)してゐる(ぶん)(すけ)(こう)(けん)()となるべき()(てい)である。()六は(なが)()(うぢ)である。

 ()(てい)(きう)(もん)(せい)(たか)()(せい)(ちゆう)(ぶん)稿(かう)(へき)(ざん)()()した。「文之助春來遣候文章懸御目候。あのきよろつき者にはよく出來候。」

 ()(てい)(へき)(ざん)(とひ)(こた)へた(ざつ)()(なに)(ごと)であつたか()(めい)である。「被仰越候件々は別紙にしるし申候。御接手可被下候。其内胎毒爛の事肝要也。」

     その八十七

 (ぶん)(くわ)(おつ)(がい)十二(ぐわつ)(さく)()(てい)(いへ)では二(かく)(さけ)(きよう)し、(ゐん)(わか)つて()()した。(さい)(かん)(だう)()稿(かう)に「鈴木今村二君見過、得尤」と()ふものが(これ)である。「客從城府至。路問早梅不。示句清何甚。呼杯緑已浮。陰陽愁短景。歳月感東流。豫卜臘前雪。尋君續此遊。」(すゞ)()()(ざん)(けい)である。(いま)(むら)(しやく)()である。(この)(せう)(えん)(つき)()(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)()(せん)()つて()られる。(すゑ)に「極月朔也」と(しよ)してある。

 九()()(てい)(しよ)(おとうと)(へき)(ざん)()せた。(また)(まと)()(しよ)(どく)の一である。()(てい)(さい)(でん)(かう)(せつ)(すで)(をは)つてゐる。「此方何も不相替候。講業は書經此間卒業、近思録講釋いたし候。」

 ()(てい)(へき)(ざん)(やま)()()つたことを()いて、これに(をし)ふるに(えき)(せん)(ぱい)()ふべきを(もつ)てした。「山田へ御出被成候由、諸君子御無事被仰聞、辱奉存候。御出之節はなんぞ平生蓄疑いたされ候義等、山口兄など、其外河崎、文亮、孫福へ御質問被成候やう可然候。とかく何に付ても取益有之候樣御心懸專一奉存候。御作拜見仕候。隨分おもしろく候。又々御近作御示し可被下候。」(やま)(ぐち)(けい)(あふ)(こう)(かく)(かは)(さき)(けい)(けん)(ぶん)(すけ)()(てい)(けい)(まご)(ふく)(こう)()である。

 ()(てい)(この)(しよ)(ちゆう)()(ばら)()()()()(はう)じてゐる。「江原與兵衞勞瘵終に養生不叶、當五日死去いたし候。可憐事に候。」()(ばら)(おつ)(がい)十二(ぐわつ)()歿(ぼつ)したのである。(ちや)(ざん)には(ばん)()()い。()(てい)()稿(かう)には「春日、酒徒江原與平亡」の一(ぜつ)がある。「七十人生今半強。莫嗤花底醉顛狂。南隣愛酒伴何在。如此春光却斷腸。」(あふ)(こう)にも(また)「聞江原君與兵衞訃」の()がある。「宿昔難披備海雲。三年訃至夢中聞。寧知一病成長逝。欲把前書復寄君。」三(ねん)(べつ)()(ねん)(いひ)であらう。

 ()(とう)(まと)()()()(ぎよ)する(とき)である。「此節は鯔魚漁如何候哉。」(へき)(ざん)()(てい)にたたきを(おく)り、()(とう)()(ぶん)はえひたたきと(あを)海苔(のり)とを(おく)つた。「たたき遠方辱奉存候。しかし箇樣之物は不むきに有之候。佐藤よりゑひたたき青海苔菅江原小生等へ被遣候。ゑひたたきは去年のやうに參り不申候。青海苔は調法いたし候。すべてあの樣なるいたまぬ物はよく候。」たたきと()ひ、えひたたきと()ふは、いかなる(せい)(ひん)()(はう)(げん)()(ひと)(をしへ)()ふ。

 二十二(にち)()(てい)(ふく)(やま)()つた。(まと)()(しよ)(どく)(ちゆう)()(せん)()稿(かう)()せざる(ところ)()がある。「晩冬念二、携僕定藏赴福山、偶憶去年今日播州路上事、因賦。携汝復爲去歳看。行々道舊互相歡。記不白鷺城頭店。一椀茅柴衝暮寒。」(ぜん)(ねん)十二(ぐわつ)には()(てい)は十九(にち)(おほ)(さか)(はつ)して、二十五(にち)(かん)(なべ)(かへ)つた。二十二(にち)には(ひめ)()(じやう)()()ぎたであらう。わたくしは(こゝ)(ほう)(でう)(うぢ)(ぼく)()()()だしたことを(よろこ)ぶ。

 (せん)には(この)()(つぎ)(ちや)(ざん)()(なか)()(けい)()はれた(さく)(くわい)(れう)(ぢよ)()(さく)(れつ)()せられてゐる。()るべし、(ちや)(ざん)()()たのは二十三(にち)()()であつたことを。二()()稿(かう)(ゆづ)つて(ろく)せない。()(けい)(その)(ひと)(つまびらか)にせぬが、()(てい)()(ねん)(へい)()()(せい)()()これに(きやう)()(かい)(こう)し、(ふく)(そう)(てい)(くわい)(いん)する。「一尊今夜鳧川月。匹馬明朝鹿嶺雲。」(歸省詩嚢。)

 (ちや)(ざん)(しふ)(けみ)するに、「除夜草堂小酌」の(かく)(ちゆう)()(てい)()()いでゐる。(くわん)(うぢ)(さう)(だう)(えん)(くわい)(れう)(えん)とは(あるひ)(ところ)(こと)にしてゐたもの()。しかし(ちや)(ざん)に「一堂蝋梅氣、環坐到天明」の()があり(分得明字)、()(てい)に「華堂酒正薫、燈壁梅如畫」の()がある。(分得畫字。)(また)(おも)ふに()(てい)(すで)(くわん)(うぢ)(ぞく)(じん)たるが(ゆゑ)()(かく)(ちゆう)(れつ)せなかつた()()(てい)(おつ)(がい)三十六(さい)であつた。

底本:「鴎外全集」第十八巻、岩波書店
   昭和48年4月23日発行