本家分家

森鴎外

 吉川博士が弟の財産を横領したとか、又受寄保管の名義の下に取つて置いて、寄託者に渡さぬとかと云ふ噂は、博士の弟俊次郎が瞑目した直後に、誰彼の間に傳へられて、博士の耳にも入つた。しかし博士は、世間に跡形もない事を傳へると云ふことは、幾らも例があつて、ことさらに辯解するにも及ばぬと思つて、棄て置いた。それがとう/\活字にせられて、しかも其日限り反故になる新聞紙ではなく、讀者の頗る多い雜誌に載せられて、それを書いた人も名高い著述家であるとなつては、恬然としてゐることが出來なくなつた。勿論雜誌も、縱ひ命が新聞紙よりは長くても、矢張一時限のものである。そればかりなら顧みずに置いても好いかも知れぬが、著述家が立派な人であつて見れば、いづれ其人の文章は集められて書籍になつて出るであらう。さうなると永久に世に傳へられて殘ることになるのである。博士はそれを不愉快に思つた。

 雜誌で公にせられた事はかうである。吉川家には三人の男子があつた。長男が博士で、次が俊次郎、其次が參治である。俊次郎が四十二歳になつた年の初に、喉頭の病氣で亡くなつて、跡に未亡人美津子が殘つた。博士の母と博士とが、美津子の人柄やら年齡やらを考へて、後家を立て通すことの出來ぬものと見て、參治に再縁させようと謀つた。美津子は參治を嫌つて拒んだ。それを理由として、吉川家では一萬圓ばかりの俊次郎の遺産を、保管の名義の下に押へて、美津子に渡さずにゐる。美津子は只吉川氏を名告ることを許されて、俊次郎の生命保險金三千圓と、衣類小道具と、俊次郎夫婦の愛してゐた盆栽庭木とを貰つただけであつたと云ふのである。

 これを讀んだ博士の心には、遠い昔から、まだきのふのやうに思はれる近い過去までの、種々の事が、きれ/″\に浮かんでは又消えた。

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 吉川家は代々中國の或る藩の侍醫であつた。然るに博士の曾祖父に子がなかつたので、世に謂ふ取子取よめで家を繼いだ。そこで祖父は格の低い奧勤になつた。此人には儒者として門戸を張つて行かれるだけの學力があつたが、生涯微祿を食んでゐた。よめに來たのは長門國の豪農で、帶刀御免の家に生れた娘で、其腹に博士の母は出來た。

 そこへ壻入をした博士の父は、周防國の豪家の息子である。こんな風に他國のものが來て、吉川家を繼ぐのは、當時髮を剃つて十徳を着る醫者の家へは、藩中のものが養子やよめに來ることを嫌つてゐたからである。此人は醫術を教へられて、藩中で肩を並べる人のない程の技倆にはなつたが、世故に疎い、名利の念の薄い人であつた。それを家つきの娘たる、博士の母は傍から助けて、柔に勸めもし、強く諫めもして、夫に過失のないやうにしてゐた。此夫婦の間を察するに足る一つの話がある。それは所謂長州征伐のあつた直前の事である。博士の父は茶が好きで、或る日茶會を催さうとした。其時博士の母は、夫の機嫌を損ずるのを憚らずに、強ひて罷めさせた。かう云ふ世の中の騷がしい時、氣樂さうに茶の湯をしては、藩中の思はくが氣遣はしいと云ふのであつた。父はつひ二三日前に友達の何がしが茶會を催して、自分も呼ばれたのを例に引いて爭つたが、母は固く執つて聽かなかつた。すると數日の後に、その茶會を催した何がしが、時節柄を辨へず、遊戲に耽るのは心得違だと云ふので、閉門を命ぜられた。これには博士の父もひどく驚いたさうである。

 かう云ふわけで、吉川博士の家には、博士の祖父から博士の母を通じて、一種の氣位の高い、冷眼に世間を視る風と、平素實力を養つて置いて、折もあつたら立身出世をしようと云ふ志とが傳はつてゐた。

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 吉川家の舊藩主で、今から二代前の三位殿と呼ばれてゐた人が、侍醫の病免した時、舊藩士の中で技倆の優れた醫者を求めた。其選拔に當つたのが博士の父である。

 當時十一歳になる博士を連れて、父は東京に上つた。舊藩邸は向嶋小梅村にあつたので、父は其近所に借家をして住んだ。博士を連れて出たのは、兼ねて博士の藩校での成績の好いのを見て、世話をしてくれようと約束した陸軍大丞何がしの家に託するためであつた。博士は藩校で漢學をする旁、蘭學をしてゐたので、大丞の家から獨逸語を教へる學校に通ひ始めて間もなく、餘り骨を折らずに獨逸文を讀むやうになつた。

 其翌年中國から博士の祖母と、母と、七歳になる俊次郎と、四歳になる其妹とが向嶋へ移住した。

 其頃の吉川家の暮しがどんな物であつたかと云ふことは、博士の記憶してゐる二三の事實から推することが出來る。博士の家は曾祖父の代に無財産になつた。そこへ博士の祖母が來て、學者肌の夫を助けて、數年の後に借財を返してしまつた。それから儉約して少しづつ貯金をした。それに故郷の家藏から諸道具までを賣り拂つた金を併せて、博士の母が持つて來た。「これが責めて千圓あると氣が安からうが」と父が云つたのを、博士は記憶してゐる。今一つは父の舊藩主から受ける月給が十五圓であつたと云ふことで、それで六人の家族を養つて、子供に教育をして行くのは、どの位苦しかつたか知れない。博士の(かよ)つてゐる本郷壹岐坂の進文學舍で、Weberの萬國史を教科書にした時、博士は始て書物らしい書物を讀むことになつたのを喜んで、父にそれを買つて貰ひたいと云つた。其時父が五圓の札を出して、「これは己の月給の三分一ぢやがな」と云つて、意味ありげに顏を見たのを、博士は記憶してゐる。さう云はれるまで博士は、教科書が父の資力不相應に高い書物だとは曉つてゐなかつたのである。

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 博士は學校でいつも首席を占めてゐる癖に、しんねりむつつりした性の子であつた。これに反して弟の俊次郎は人並はづれて敏捷であつた。學校の成績は此子も好い。二人が小さい時、父が二つある菓子を一つ宛二人に遣ると、弟は先きに自分のを食つてしまつて、博士のをくれと云ふ。博士は「それは無理だ」と云つて遣らない。弟は泣く。そこへ父が出て、「弟を泣かせると云ふことがあるか」と云つて、博士の菓子を弟に遣らせようとする。すると母が來て、賞罰を明にしなくては行かぬと云つて、泣く弟を連れて逃げる。かう云ふ事が度々あつた。此家庭では父が情を代表し、母が理を代表し、父が子供をあまやかし、母がそれを戒めると云ふ工合であつた。

 どうも博士のむつつりしたのは父の遺傳らしく、弟の敏捷なのは母の遺傳らしい。それに父は自分に似ぬ俊次郎を愛し、母は其兄の博士を庇護してゐた。

 少し大きくなると、俊次郎は兄の學問には服しながら、その世慣れぬのを侮つた。侮ると云ふのは妥當でないかも知れぬが、「兄はおめでたい」とは確に思つてゐた。或る時「兄はえらいが、あれはどうかすると人にかつがれて謀叛をするかも知れない」と云つたのを、博士が人に聞いたことがある。

 こんな風に性癖の相違があつても、博士と弟とは喧嘩と云ふ程の喧嘩をしたことがない。それは弟が兄を凌ぐことがあつても、兄は笑つてをり、後には弟が後悔したからである。二人の次に生れた妹は、嫡男の博士そつくりの女で、博士とは何事につけても諧和し、「小さい兄いさん」の俊次郎を抑制するやうにしてゐた。

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 博士が十六歳の時、父が千住に出來た區醫出張所管理と云ふ役を、東京府廳から言ひ附けられた。これは父が舊藩主の診療をする旁、向嶋で開業してゐて、醫師集會の世話などをしたからである。さうなつたのは、これも博士の母の内助に依つたのである。父は茶を立ててゐる時、病家から呼びに來るとことわらうとする。母が其時無理に手に持つた柄杓を置かせ、衣類を改めさせて出して遣る。そんな風で、父は勤勉家の名を得て、府廳の拔擢を蒙つた。この千住の勤が、吉川家の内證を善くした根元である。なぜと云ふに、翌年になつて、父は「南足立郡郡醫を命ず」と云ふ辞令を受けて、年給二百四十圓を貰ふことになつた。これは當時から見ても、非常な薄給で、舊藩主から受ける報酬を併せても、月に三十五圓にしかならない。しかし十五圓から三十五圓になつたのは大きい差である。それのみではない。郡醫に施療と云ふことがある。これは府廳が貧民に施療劵と云ふものを分配する、それを持つて郡醫の所に來ると、郡醫が診察をして藥を遣る、郡醫は其藥代を府廳から受け取るのである。博士の父の醫術は間もなく大評判になつて、病人が非常に多く集まつた。父は書生を三人置いても手廻らぬ程で、後に遠方の病人のために、金町に出張所を設けた。かうなると父も勢、茶なんぞを立ててはゐられない。背後には母がゐて獎めたり勵ましたりして、巧に柁を取つてゐるのである。府廳で受け取つた金から、書生や抱車夫の給料、藥店の拂を差し引いた殘は、勿論大した金高ではないが、それが塵の積るやうに殖えて、吉川家の貯金は見る/\二倍になり、三倍になつた。

 博士の父が千住の診療に手を着け始めた時、博士は大學の豫科に入つて四年目になつてゐた。博士は豫科に入るには年齡が足らなかつたが、當時は戸籍法が今程嚴重でなかつたので、年を増すことが出來たのである。俊次郎と妹とはまだ小學校にゐた。

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 博士は二十歳で大學を卒業した。其翌年には俊次郎が十六歳で大學の豫科に入つた。中一年置いて、博士は官費で洋行した。

 博士の卒業する一年前に、父は家を擧げて千住に移つて、舊藩邸へは日を極めて通ふことにした。それから博士の洋行した翌年に、父は舊藩主の臨終を見屆けた上、暇を貰つて、千住の方へ全力を盡すことにした。千住では間もなく郡醫を辭して、並の開業醫になつたが、病人の來ることも減ぜず、收入も格別耗らなかつた。

 博士は二十七歳で西洋から歸つて、其年に十九歳になる妹が大學教授何がしの所へよめに往つた。中一年置いて、俊次郎が二十四歳で大學を卒業して、蠣殼町に開業した。又一年置いて博士は三十一歳で、今住んでゐる千駄木町の家に父と同居した。

 此頃吉川家の經濟は博士の母が一人で取りまかなつてゐて、貯金が四千圓あつた。これは博士が十六歳から三十一歳になるまで、十六年間父が千住で稼いだ金で、千駄木町の家屋敷も其中で買つたのである。博士は大學を卒業して直に官吏にはなつたが、此頃までなか/\貯金をするなどと云ふ餘裕はなく、反對に時々補助を千住に仰いでゐた。

 博士は或る日父がかう云つたのを記憶してゐる。「千駄木の家屋敷は長男に遣るが、跡の子供にも一人に千圓づつは遣られるやうになつた」と云つたのである。博士の外の子供と云ふのは、俊次郎、其妹、參治の三人である。參治は父が千住に家を移した年に生れて、千駄木の家に家族の纏まつた時十四歳になつてゐた。

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 博士の父は博士が三十五歳の時動脉硬結症から起つた病氣で亡くなつた。俊次郎が開業の目途が立つたので、二十九歳で美津子を妻にした翌年である。

 父の亡くなつた三年後に、俊次郎は南鞘町の家を買つて移つた。博士は父の遺言に依つて、千圓の保助をした。俊次郎は買ふ家を抵當にして借りた金を、それに足して家を買つた。俊次郎の妹には、父が生きてゐる中に千圓遣つたのである。

 俊次郎は南鞘町に移つてから九年の後に四十二歳で亡くなつた。喉頭出血で窒息したのである。俊次郎夫婦は此間に借財を返して、一萬圓ばかりの金を貯へてゐたと云ふことである。

 博士の家では、父の歿後に母が經濟を取りまかなつて、不動産の外に分家に劣らぬ貯金をしてゐた。其時が博士の勅任官になつた後、これも丁度九年目で、母は博士の俸給の中からそれだけの貯蓄をしたのである。

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 俊次郎が小川町の病院で亡くなつたのは、一月十日の夜である。前年の暮から職務のために旅行してゐた博士は、弟の身の上にさう云ふ異變があるとも知らずに、大阪から東京へ歸る夜汽車の中にゐた。

 十一目の朝新橋に着くと、參治が出迎へてゐて、俊次郎の前夜亡くなつた事と、今日午前に大學で局所解剖をする事とを告げて、博士の立會を求めた。

 博士は末の弟と一しよに大學の病理解剖室に往つた。解剖臺の上に横はつた俊次郎の赤裸の遺骸を見た時、博士は種々の感情が簇がり起つて、注視してゐるに堪へぬやうな心持がした。しかし白い上被を着て刀を執つてゐる助手や、臺を圍んで立つてゐる教授の手前があるので、我慢して見てゐた。そのうち頸の中央に刀が下る。介輔の助手が(こう)で創口を左右に擴げる。白い喉頭の軟骨が縱に割かれる。其創口が又左右に擴げられる。其間執刀者は始終單調な聲で、諳んじてゐる文を誦するやうに、所見を筆記者に口授する。暫くして執刀者が、これまでの口授の調子と變つた中音で、「これです」と云ひつつ、喉頭の内面の淡紅色をした粘膜を撮み上げた。教授等は皆頸を延べて、それを諦視しようとした。博士は此時意識が朦朧としてゐて、それを見たいとは思はぬながら、教授等と同じやうにしなくてはならぬやうな氣がしたので、同じく頸を延べた。僅に示指の頭程の大さの缺損部が、撮み上げられた粘膜の襞の眞中に、凹くなつて見えた。此時何を思ふ隙もなく、博士は解剖臺や裸體の死骸が波に搖られる舟のやうに浮いたり沈んだりするのを感じた。續いてその奇怪な器具や肉塊が灰色の紗のやうな霧に包まれて隱れた。博士は自ら體を支へることが出來なくなつてよろめいた。若し教授の一人が手早く傍から抱いてくれなかつたら、博士は床の上に倒れただらう。

 博士は別室に扶け入れられて、ベンチの上に横になつて、暫く立つてから、やう/\常の氣分に戻つた。

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 解剖を見た日の晩に、博士は南鞘町の家へ通夜に往つた。

 いつも病人の控所にしてあつた部屋に柩は置かれて、其前に燭を點し、綫香を焚いてあつた。博士の家族で來てゐたのは母である。教授の妻になつてゐる妹もゐた。種々の追憶談などが出る。葬儀の相談に呼ばれて、誰彼が席を立つこともある。沈着の假面に覆はれた慌ただしさが、人々の手を翳してゐる火桶から騰る、むつとするやうな氣の立ち籠めた一室を支配してゐて、冬の夜の緩い歩みが一足づつ運ばれた。

 翌朝博士と母とは、人力車で團子坂の下まで歸つた。そこで車を下りた時、博士が母に言つた。

 「跡始末はどう云ふ事になつてゐますか。」

 「それはわたしには格別相談もない事でわからないがね、なんでも美津子は此近所へ越して來ようかと云つてゐますよ。」

 「さうですか。そして暮しは立ちさうですが。」

 「それは好くわからないが、足りない所は兄いさんにすけて貰ふと云ひましたよ。」

 「わからないと云ふのは、遺産の事ですか。」

 「さうなのだよ。鍵や實印は美津子がすぐにしまつて置いたから大丈夫だと云ふだけで、財産が幾らあるとも、それをどうして暮しを立てるとも、わたしには言ひません。わたしの方から聞いたら言ふだらうが、どうせ聞かなくてはなるまいね。」

 博士はちよつと考へて云つた。「いや。そんな風になつてゐるなら、聞くのは不躾なやうに思はれるかも知れません。美津子も自分の方の親類には打ち明けてゐるでせうから、こつちへ話す積なら、美津子なり、親類なりから話すでせう。わたくしも猶考へて見ますから、あなたは默つて聞かずにゐて下さいまし。」

 こんな對話をしつつ二人は坂上の家に歸つた。これ切り、けふが日まで博士も母も、俊次郎が果してどれ丈の金を殘して亡くなつたか、確かには知らぬのである。しかし母は俊次郎の存命中、折々醫業の摸樣を尋ねた。其度毎に俊次郎は母に安心させ、母を喜ばせようとして、家業の盛になることを話した。そして「もう借金は一文もありません」とか、「もう貯金が千圓になりました」とか、「又千圓出來ましたよ」とか云つた。最後にかう云ふ話のあつた時、母が「ではもう一萬圓になつただらうね」と云ふと、俊次郎は「まあ、そこいらです」と云つて、持前の高笑をした。吉川の本家では、博士の母の聞いた、こんな話に據つて、俊次郎の遺産に對する推測をしてゐるに過ぎない。

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 博士は本家の戸主として、分家に對する處置を愼重に考へた。そして民事に明るい友の何がしにも相談して見た。

 しかしここに博士のためには、頗る難澁な事がある。それは分家には、俊次郎に子がなかつたため、只一人の家族しか殘つてゐないで、それが女の美津子だと云ふ事である。世故に通じてゐぬ博士は、民事に暗いよりも、一層女の心理に暗い。博士は美津子を親しくもし、敬ひもしてゐる。しかし美津子も女だから、博士には其心理が全くわからない。女がどう思慮して、どう云爲するかと云ふことは、これまでの經驗上、博士には不可解の謎である。博士は論理を以て女の思議行動を律せようと云ふ意志を、遠い昔抛棄してゐる。それだから若し一人の女があつて、博士に「わたくし明朝北海道へ立ちますの」と云つて置いて、翌朝東京驛から下の關直行の汽車に乘つても、博士は少しも怪まぬであらう。

 博士はさう云ふ自己の缺點があるために、本家の戸主として分家の女主人と、條理の立つた話をしなくてはならぬ地位に立つのを、ひどく恐れた。博士はそれを避けようと決心した。

 さうするには分家の家督相續人と遺産相續人とを別にする外ないのである。美津子を遺産相續人とすることは無論である。只家督相續人にはしたくない。これは美津子だからしたくないのではない。美津子の賢いよりもつと賢い、美津子の素直なよりもつと素直な、美津子の貞實なよりもつと貞實な女をでも、さうはしたくないのである。

 そんなら誰に家督させようと云ふ段になると、順位の眞先にあるものは、未の弟の參治である。參治は小さい時から體が弱くて、劇しい勉學をすることが出來なかつた。そこで中學を卒つた時に、強ひてむづかしい高等學校の入學試驗を受けようとはせずに、早稻田の學校の試驗を受けた。それに合格して入校したのが、二十三歳の時で、二十六歳の時に卒業した。俊次郎の亡くなる四年前の事である。博士はこれを分家の戸主にしようと思つた。

 丁度博士がかう思つてゐる時、俊次郎の親友であつた何がしが、參治と美津子とを夫婦にしたら好からうと、親切に言つてゐると云ふことが、人傳に博士の耳に入つた。しかし博士はそれには丸で耳を借さなかつた。なぜと云ふに、博士は自由戀愛は排斥するが、自由結婚は必ずしも排斥しない。それゆゑ、人に誰を娶れとか、誰に嫁げとか説き勸めようとは思はない。ましてや美津子は三十一歳、參治は三十歳で、年齡も適當でない。それに參治のやうな、内氣な男が、今まで「姊えさん」として敬つてゐた、年上の美津子を妻にしようと云ふ筈もないからである。

 さていよ/\參治に家督させるとすると、ここに一つの難澁な問題がある。それは遺留分問題である。博士は父の遺言に依つて、參治が家を持つ時に千圓遣ることに極めてゐる。しかし參治にそれを遣るからと云つて、遺留分に對して棄權をせいとは云ひ兼ねる。しかし美津子の受ける財産の三分の一を參治に取らせては、美津子に氣の毒である。そこを參治に相談した所で、おとなしい參治は「どうでも兄いさんの好いやうにして下さい」と云ふに極まつてゐる。博士は種々に思ひ運らした末、南鞘町の家を參治に遣るやうにしようと思つた。時價二千圓内外の家であるから、推測してゐる俊次郎の遺産の三分一としては、話にならぬ程の小額だと思つたのである。

 これだけの事を實行するには、兼て死を期してゐなかつた俊次郎が遺言をして置かなかつたので、大した故障はなささうであつた。博士は母に相談して見たが、母も同意であつた。只手續上親族會に掛けて議決して貰へば好いのである。

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 親族會は二月三日に千駄木の家で開かれた。美津子と、美津子の父と、俊次郎の妹の夫と、博士が六年前に娶つた妻の父と、博士との五人が寄つたのである。決議は博士が豫期した通りであつた。

 決議の履行は、博士の知つた民事に明るい何がしと、美津子の父の知つた辯護士との手に委ねられた。美津子は俊次郎の遺した不動産全部と庭の木石とを受け取つた。藏書などは、博士の書庫へ自由に出入して、入用の本を默つて持つて行く習になつてゐた俊次郎であるから、博士の所有に屬するものもあつて、博士の家には大部の書籍の零本が出來たが、博士はそれを取り戻さなかつた。そして家督相續人たる參治は、跡に殘つた明家だけを受け取つたのである。

 しかし其明家だけでも、それが美津子の手を離れたのを、博士は今でも氣の毒に思つてゐる。どうも勢、己むことを得なかつたのである。

底本:「鴎外全集」第十六巻、岩波書店
   昭和48年2月22日発行