羽鳥千尋
森鴎外
羽鳥千尋は實在の人物である。惜しい事には、今では實在の人物であつたと云はなくてはならない。明治四十三年の夏であつた。己の所に一封の手紙が屆いた。それは己の所へ多く屆く種類の手紙の一つに過ぎない。己の内に書生に置いてくれと云ふ手紙である。併しそれを書いた羽鳥千尋と云ふ、當時二十二歳の青年は一つの注意すべき履歴を持つてゐる。羽鳥は明治四十一年の夏貧と病との爲めに、兼ねて大學へ這入らうと思つてゐた志を飜して、醫術開業試驗を受けようと思ひ立つた。そして半年許り獨學をして、翌四十二年の春前期試驗に及第した。それから又一年許り獨學をして、己に手紙をよこした四十三年の春、後期學説試驗に及第してゐる。醫學と云ふものがどんなものだか、夢にも知らなかつた青年が、僅か一年半で政府が醫師に向つて要求する丈の知識を攫得してゐる。そこで後期實地試驗を受ける準備がしたい。それは田舍の家の机の上では出來ない。羽鳥は當時上野國群馬郡瀧川村大字板井と云ふ所の家にゐた。その準備として診察や治療の實地を見る爲めに、東京に出てゐたいと云ふのである。同じ種類の手紙が己の所へは多く屆くが、羽鳥のやうな履歴を持つた手紙の主は少い。
丁度或る役所に雇員の位置があつたので、己は頼んで羽鳥をそこへ入れて貰つた。羽鳥は上京して己の所へ尋ねて來た。背の高い、只見たばかりでは病身らしくもない男である。細面で鼻が高く、目が大きい。二十二歳にしては、言語も擧動も不思議な程無邪氣である。一晩内に泊らせて、翌朝電車に乘る世話までして役所へ遣つた。
羽鳥は牛込に借家をして、雇員仲間の何某と一しよに自炊をしてゐた。職務には勉勵する。その職務と云ふのは細菌學を應用した製造で、豫備知識なしには出來にくいのである。それを羽鳥は造做もなく覺えて、殆んどその主腦になつて働いてゐる。併し體には容易ならぬ病氣があるらしい。役所は醫者ばかりの勤めてゐる所なので、診察を受けさせた。病は脊椎にある。結核性のものだらうと云ふことである。
さう云ふ體でありながら、羽鳥は折々己の所へ訪ねて來ても、病氣の事は話さない。今の職務をしてゐては、細菌學の技巧を覺える丈で、病人を視ることが出來ないから、同じ役所の診療部の方へ入れ替へて貰ひたいなどと云ふ。始終試驗を受ける準備の事を考へてゐたのである。
羽鳥は丸二年勤めた。診療部へ入れ替へることも、役所の人に話しては置いたが、どうなつたか己は知らずにゐた。すると突然羽鳥が危篤だと云ふことを、一しよに住んでゐる雇員が電話で知らせた。同僚の醫學士に頼んで往診して貰つた時は、羽鳥はもう注射藥で僅かに心臟の機能を維持して貰つてゐたのである。
羽鳥は病氣を自覺してから五年目、速成の目的を以つて醫術開業試驗に志ざしてから四年目に、後期實地試驗丈を殘して、二十四歳で死んだ。
羽鳥と同じやうな手紙を己によこして、同じ役所の雇員になつて、去年肺結核で死んだ大塚壽助と云ふ男がある。甲山と云ふ名で俳句を作つて、多少人にも知られてゐた。世間にはなんと云ふ不幸な人の多いことだらう。
下に寫すのは一昨年の夏羽鳥が己によこした手紙である。
× × × ×
私は一介の書生である。失禮ではなからうか、あつかましい事ではあるまいかと、幾度か躊躇しても思ひ切られないので、とうとう此手紙を書く。手紙はどれ丈長くなるか知らぬが、その中に一言の僞もないと云ふこと丈は誓つて置く。どうぞ先生の見卸してお出になる遠い麓の群集の中で、小さい聲のするのに、暫らくの間耳を借して下さい。そして「お前は誰だ」と問うて下さい。
私は上野國利根川の畔の沃野に生まれた青年である。羽鳥氏。名は千尋。年は慌ただしく重ねて二十二歳になつてゐる。
父文策は陸軍の軍醫を勤めてゐたが、明治三十二年に十一歳の私を殘して亡くなつた。私は烏許がましいが、小學の八年を首席で經過した。三十六年に十五歳で中學二年の試驗を受けて首席で入選した。それから皇軍がロシアと戰つて捷つた三十八年の春、五十餘人中の首席で中學の業を卒へた。橡栗の殼は裂けて、纔かに緑の芽を吹いたのである。私は卒業式の日に縣知事の前で答辭を讀み、母校の庭に卒業記念樹を植ゑて、未來を薔薇色に見てゐた。
然るに間もなく近親が財産差押の處分を受けて、一旦東京に上つてゐた私は呼び戻された。混雜の最中、四十年の春、私は端なく病を得た。既に乏しくなつてゐた私の家の財産は、此時消耗し盡された。病褥から起つた私は、猫の額程の田地に運命を繋いでゐなくてはならぬ人間になつてゐた。是非大學に這入らうと期待してゐた私が、小作人となつて草木と同じく朽ちなくてはならぬのであらうか。
併し私はそれに甘んずることが出來ない。それでは祖先に對し、亡き父に對し、十年の苦衷を盡した母に對して面目が無い。疲れた馬も笞うてば奔る。財産も健康も亡くしてはゐるが、なるべく平坦な近道のある目的地を選んで進んだら、行き着かれぬことはあるまい。それには開業試驗を受けて醫師になるに若くはない。それも驅足で遣つて、糊口の資丈が得られるやうになつたら、其上で幾らも學問は出來ようと、私は考へた。
そこで醫書を東京から取り寄せて、田舍で讀んだ。昨年の春前橋で前期試驗に及第した。今年の春後期學説試驗に及第した。さあ、これから實地試驗だと云ふ時になつて、私には東京に出て試驗を受ける準備をする丈の金がない。兼ねて種々計畫した事もあつたが、それは畫餠に歸した。
併し私はここに立往生をすることは出來ない。道は窮まれば通ずる。どこかに一條の活路があらうと、醍めて思ひ寐て思ひ、深夜の囈語に屡家人を驚かした末、とうとう先生に此手紙を上げることになつた。
先生。どうぞ踏みにじられた橡栗の芽ばえを、お庭の隅に植ゑて下さい。私はそこで育つことが出來なかつたら、先生の足で踏みにじつて戴きたい。
× × × ×
私に今少し父母の事を話させて下さい。
昔天領と云つた利根川の畔の地に、毎年江戸淺草のお藏へ米何千俵かを納める名主があつた。その名主の親類に、水利の相談なぞの時、飽くまで自己の意見を主張して毫も讓らない、強情な爺いさんがゐた。土地の人は爺いさんを天狗樣と呼んでゐた。私の父はこの天狗樣の子である。
私の生れる少し前に、名主の一族は財産を合併して製絲事業を興した。後に幾軒かの親類が破産したのは、此事業に失敗した結果である。父は同じ親類仲間の醫師羽鳥小右衞門の養子になつて、東京に上つて醫學を修行してゐた。此養家も初め富有で、「小右衞門は福島まで往くに人の地面は踏まぬ」と云はれてゐたのに、矢張一族破産の影響を受けた。福島と云ふのは、私のゐた村から三つ先きの村である。
明治二十七八年の役に父は軍醫に出身して、二十九年に臺灣に渡つた。度々土匪討伐隊に附いて行くうちに病氣に罹つて、三十二年の春、三十五歳で臺灣の土になつた。私の十一歳の時である。
父は歌を詠んだり文章を書いたりした。日本新聞の寄書家になつてゐたので、陸羯南、内藤湖南等に知られてゐた。又千家尊福、岸田吟香の二人とも交つた。「類題上野歌集」、「姨捨日記」、「宮嵐塔雨」等の著述がある。宮嵐塔雨は近畿に旅行した時の紀行文である。臺灣に渡つてからも、「竹風蘭雨」、「觀風察潮」、「臺北の周圍」、「劍潭の記」、「南山北山報告二則」等を書いた。竹風蘭雨は新竹、宜蘭の風土記である。此中には日本新聞に載せてあるものもある。
私の母の里は高崎の肝煎名主と云つて、高崎藩主の御用達をしてゐた家である。高崎市の風俗が厚く、富の程度も高いのは母の祖父の感化に依ると言ひ傳へられてゐる。この爺いさんは毎朝長刀を帶びて、懷には城中で穿く麻裏草履を入れ、足には藁草履を引つ掛けて登城した。出掛けには村中を一巡して、まだ起きてゐないものがあると、起して遣る。夏は高崎まで一里程の間の田の水準を見て、過不足があると思ふと、歸途に教へて遣る。近い驛場へ女郎買に往つた若者が、鼻歌を歌ひながら歸る途で、この爺いさんのちよん髷を見附けると、慌てて足に穿いてゐる麻裏草履を脱いで懷に入れ、着物の裾を端折つて辭儀をしたさうである。この爺いさんは水利の爲めに度々資産を擲つたこともある。
今白髮を振り亂して農家の女と同じやうになつてゐる私の母は、當時上品に育てられ、器量も好かつたので、近郷の評判娘になつてゐたと、縣會議員などの中に、酒の上で話す人がある。
私の母は四十餘年の間まだ人と爭つたことがなく、人に小言を言つたことがない。誰も使ふことの出來ぬと云ふ奉公人を、母は使ふ。現に使つてゐる下男は早く兩親を失つて叔母に育てられ、十四五歳の時、その叔母と爭つて家を出たものである。我儘で、酒が好きで、どの家にも半年より長くゐたことがない。それが母の許にはもう七年勤めてゐる。私の親類は數十軒あるが、どの家でも事があると、母の意見を問ひに來る。それでゐて母は非常に謙遜してゐる。三十を越してすぐに寡婦になつて、それからは貧苦の中で私と妹とを育てて來た。その爲めに母は思遣りが深いので、人が困窮を訴へて來ると、返さぬに極まつた金をも貸して遣る。かう云ふ母が一族に連累せられて、今のやうな身の上になつたのが、私には氣の毒でならない。
私は學資のないのと、自分が病身なのとから發心して、醫師になることにしたと云つたが、それではまだ十分に動機を言ひ盡してゐない。私の醫師にならうとしたには、まだ自分が病身にならなかつた前の或る記憶に促された所がある。それは母の病氣の記憶である。
明治四十年の春、私がまだ病氣になつてゐなかつた時、或る日母が頭痛がすると言ひ出した。併し只の頭痛ではなくて、母は失神したやうになつてしまつた。妹は留守であつた。私は慌てて「おつ母さん、おつ母さん」と呼んだ。下男がその聲を聞いて驅け附けた。それから薄荷を飮ませる。氷嚢を頭に載せる。醫者を呼びに遣る。その隙に母は恢復した。併し私はその夜大切な母を保護する爲めに、是非共醫術を學んで置かなくてはならぬと思つたのである。私は自分の學校の成績の好かつたことを話したが、成績の好いのは私ばかりではない。妹は私より一層好い。さうして見れば、母の躾のお蔭が餘程ある。私は母をどうしても保護しなくてはならない。
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これから私がどんな人間だと云ふことを話さなくてはならない。それには私の人と違つてゐるやうな性質を一つ一つ數へて、それを先生の天秤の皿に載せる外あるまい。
最初に申したいのは、私が憧憬の子だと云ふことである。憧憬とは獨逸語Sehnsuchtの翻譯で、あくがれと訓ませるのださうだ。無理な詞かも知れぬが、私は高崎中學にゐた時、高山樗牛の書を愛讀して、今の天才を欽仰し英雄を崇拜する心も樗牛のお蔭で萌したのだから、此詞を用ゐる。高崎の寄宿舍では、生徒共が私の事を本屋だの雜誌屋だのと云つて冷やかしながら、又その本や雜誌を見に私の部屋に集まることになつてゐた。
樗牛の書で眠を呼び醒まされたやうな心持になつた私は、天人論を讀む。病間録を讀む。進化論講話や種之起原を讀む。
さて周圍を顧みれば、單に若干の年を閲したと云ふ丈を笠に着て、宇宙の事を疾くに分かり切つたやうに言つて、無造作に私共に物を教へようとする人の多きに堪へない。
私はさう云ふ人達の言ふ事を聞くと胸が惡くなる。
一頃は聖書を懷にして、野卑なる裝飾と煩瑣なる儀式とのみちみちてゐる所謂神の祭壇の前に跪かうとしたが、人の子を牧すると云ふ人達の愚なのに呆れて逃げ出した。そして「どうしても天才でなくては駄目だ」と叫んで、獨力で或る物を求めようとしては、自分の心の餘りに空虚なのに氣が附いて、目を睜り拳を握る。
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次に申したいのは、私が驚異癖とでも云ふやうな性質を持つてゐる事である。
私は五歳の時父に連れられて、田舍道を當時の住家であつた玉村へ歸る途中、ふと道端に紫のげんげと黄いろいたんぽぽと一面に咲いてゐるのを見て、「此花は誰が植ゑたのです」、「誰も植ゑないなら、なぜこんなに美しく並んで咲くのです」、「なぜ春になつて一時に花が咲くのです」などと父を問ひ詰めた。父は異樣に感じて、歸つてから母に話した。母は私が生れた時臍の緒を首に卷いてゐたので、珠數掛の子は僧になると云ふ迷信から、私の前途を氣遣つてゐたのだから、父よりも一層異樣に感じたさうである。
後に私は病間録を讀んで、「幼時小石の道に徧きを見て不思議に堪へざりしことあり」と云ふ所に來て、はつと驚いた。
私は書を讀んで宇宙の大を説いてある所や、萬物の微を説いてある所になると、息をはずませて讀み續ける。併しさう云ふ記事が或る獨斷的論説の前置に使はれてゐるのに氣が附くと、私は齒をむいて怒らずにはゐられない。何ぞ言の容易なるやと叫びたくなる。「首を擧げ角振り立ててわれ穀を出でたりと云ふ蝸牛を見る。」私はそんな議論をする人よりは、愚な迷の中に彷徨してゐる人の方が好きだ。
私は頬に止まつた蚊をぱたりと打つて、手の平に黒い塵のやうな物の殘つたのを見ると、これがぶんと羽を鳴らして來て、ちくりと私を螫したのだと云ふことが如何にも不思議に感ぜられる。毛のちぢれを見る。指の渦紋を見る。大腿骨頭の海綿質を見る。網膜のSehsubstanzを見る。人の歌を歌ふのを聞く。猫の足下で鳴くのを聞く。同じやうに插したGeraniumに種々の葉を生じ花を開くのを見る。土を見る。石を見る。空に輝く星を見る。叢に集く蟲を聞く。何事によらず、私は殆ど恐怖に近い驚異を感ずる。
細菌學や心理學や精神病學は私の爲めには驚異の寶庫である。
私は手を自分の胸に當てて、心臟の跳るのを觸れて見て、身うちのをののくやうな驚異を感ずる。人と相抱いて歡を極めようとする刹那、自分の身體の中に働いてゐる怪しい力を思ひ、相手になつてゐる人の身體の中に同じやうに働いてゐる怪しい力を思つて、忽然或る自然學的試驗をしてゐるやうな氣になる。
私は此驚異癖が哲學に往く道ではないかと、竊に思つてゐる。
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次に私は敏感である。併し衰耗に陷ることがないから神經衰弱ではない。
私はあらゆる節奏、旋律、諧調を聽く毎に、口に言はれない感應をする。夏草の緑の上に、灰色の砂煙を彗星の尾のやうに引いて進む軍隊の大きい子供等の吭から、單調な、無邪氣な軍歌が潮の涌くやうに起る時、私は背に水を灑がれたやうに感ずる。
私は自分では草笛も吹くことを知らない。それに三味線は耳を掩うて走りたくなる程厭で、ピアノやヰオリンは食を忘れる程好きである。
郷校の宿直部屋から夕暮に洩れるオルガンの音にも、私は臭橘の垣根に足を駐める。
會堂に坐して心が冷灰の如くになつてゐた時、讚美歌の肉聲が空氣をゆすると、私の胸は器械的に共鳴した。神田の會堂であつた。或る夕明るい燭の下で、色の白い細面に、漆黒な髯を長く垂れて、白い服を着た酒井勝軍さんが、赫く銀の鞭を揮つて、「ああ主は讚むべきかな」と歌つた瞬間に、私は確に切實にクリストを懷つた。
明治二十年の夏用事があつて東京に上つて、歸途浦和驛に着くと、教員らしい色の白い青年に引率せられて、小學生徒がプラツトフオオムの柵の外に整列してゐた。生徒等の目はもう車に乘つてゐる誰やらの上に注がれてゐた。旗に「送學事視察員一行」と書いてある。忽ち青年が相圖をすると、生徒等は足踏をして、「莟の花に附く蟲の」と歌ひ出した。
私は肩から背へ掛けて戰慄を感ずると共に、目には涙が浮かんだ。そして周圍の人の恬然たる顏を見て、却つてそれを怪んだ。
私は自分で詩を朗讀しても同じやうな感じを起す。
私は書棚に書を並べるにも、床に花瓶を置くにも、庭に朝顏の鉢を据ゑるにも、かうでなくてはならぬと云ふ、動かすべからざる位置や排列がある。書籍の裝釘の意匠なんぞに強列な好惡がある。
私は好きな詞がある。廢墟、暮春、春鳥、挨及、壁畫、藝術、故郷、刀、革、甕、踏青、種を蒔く、その外イタリア、スパニアの地名、梵語、僧の名などである。私の妹は詞の好惡が一層強烈で、檞と云ふ一語に並ぶ好きな語はないと云つてゐる。
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私は思想も行状も積極的である。
小學校にゐた時は餓鬼大將であつた。一日も何もせずに暮らすことが出來ない。平凡と云ふことを罪過のやうに思ふ。何事にも旗幟を鮮明にせずにはゐられない。敵として恐るべき人物でなくては、身方として用に立たぬと信じてゐる。八方美人主義は死んでも學ばれない。
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私は饜くことを知らぬ知識欲を有してゐる。それも器械的に博く識りたいのではない。身の程を知らぬやうではあるが、「天才を與へよ、然らずば死を與へよ」と叫びたい。
幸に私のPsycheは健全なやうである。小さい時から今年まで頭痛のしたことがない。五日五夜の間通計十二三時間眠つた丈で讀書したことが度々あるが、頭はなんともなかつた。半年程殆ど書齋から出ずにゐて、足も腰も立たぬ程疲れて、頭丈はつきりしてゐたことがある。
烏許がましいが、私は少くも既往に於いて學校で儕輩に負けたことがない。
小學校には五歳で這入つた。當時はまだ年齡の事を細かに詮議するやうな事はなかつた。私は一年級の學科が餘り容易なので、二年級にゐる從妹の所へ拔けて往つて、二年級の讀本を一しよに讀みたがつた。玉村の小學校で、私は始終首席を張り通してゐた。
私は八歳の時始て漢文の素讀を授けられた。當時玉村に父の義弟で縣會議長をしてゐた人が中心になつて組織した晩翠吟社と云ふ詩社があつた。後には玉振學舍と云ふ塾も出來た。そこへ埼玉縣久喜の人で、中島蠔山さんと云ふ人が聘せられて來てゐた。長い髮を麻の紐で結んでゐた。木食道人と云ふ渾名があつた。私は學校から歸ると、すぐに本の包を抱いて中島さんの所へ走つた。私は十五歳までに、孝經、四書五經、文章軌範、十八史略、唐宋八家文と云ふ順序に讀んだ。中學に這入つてから人の困る漢文が、私にはやさし過ぎた。
私が高等二年を濟ました時、父は「幼年學校か中學校かに這入れ」と言ひ置いて旅に立つて、それ切り歸らなかつた。十五になつた時、母が人と相談して中學二年に這入らせてくれた。一年前の春から英語も少し學んでゐた。丁度前橋の中學で同盟休校があつて、一二年生の落第者が多かつたので、高崎の中學では二三年の編入試驗がひどく賑つたが、私は四人の優等者の中に算せられた。
それと同時に郡教育會展覽會と小學校選書畫其他成績品展覽會とに出品して置いたのが、どちらでも一等賞を得たので、私は縣と學校とから旌表せられた。その式場から歸つた時は、母が父の位牌の前に燈を點して、私を連れて往つて拜ませて泣いた。これが私の小學生活の終である。
今高崎の中學に往つて見れば、當時の教師は殆ど皆去つてしまつてゐる。何か事のある度に私が級を代表して式辭を讀んだ庭には、只一株の柳のみが舊に依つて戰いでゐる。
二年級の學科は少しも骨が折れなかつた。そこで高崎の町の雜誌屋に通つて、日本派の俳句や新詩社の歌に耽つた。飛入りで末席に置かれた私は、先づ文章家だ、歌よみだと云ふ名を級中に馳せて、次に級の首席に上つた。
五年級は私の最得意の秋であつた。これまで教員の手に經營せられて、不體裁を極めてゐた校友會雜誌を、私は獨力で引き受けた。原稿を募集する。廣告を掲示場に張る。原稿用紙を印刷する。印刷所變更の折衝に當る。表紙を改める。口繪の製板、カツトの彫刻を指揮する。組入、字詰から挾み込む色紙まで世話をする。刷新の辭から、運動記事、編輯便まで自分で書く。校正に前橋まで何度でも走る。其年の學期試驗の準備中にも私はこれを廢せなかつた。文藝部委員と云ふものが十人餘りゐたが、小心な上に筆も立たなかつたので、何もかも私一人でした。そして雜誌は縣内總ての小中學で評判せられる讀物になつた。
卒業試驗の時も、試驗の四五日前に、私は原稿用紙を机の上に山のやうに積んで書いてゐた。周圍では得點順序の當てつこをして、誰が一番、誰が二番などと云つてゐた。私も内心こんな事をしてゐて試驗をしくじつたら、亡き父に濟まず、母に顏も合せられまいと、流石に膽を冷やした。併し成績が發表せられて見れば、第一の不勉強家たる私が矢張首席であつた。
その時私は高等學校も此通りだ、大學も此通りだ、と心中に豫測してゐた。丁度連戰連捷した皇軍が滿洲で最後の勝利を贏ち得た明治三十八年の春の事である。
併しそれははかない夢であつた。私の病氣は此時芽ざしてゐたかも知れない。
× × × ×
知識欲の話の序に、私はどんな學問に嗜好を有してゐたかと云ふことを申したい。
私は歴史が一番好きであつた。小さい時義經や辨慶の話を好んで聞いたのを始として、歴史上の事柄が何かの端に覗はれる度に、私は戀人の姿をちらと見るやうに感じた。
新聞を見ても古い地名や古い人名や年號が何かの記事の中にあると、それからそれへと思索して、歴史上の連絡を求めて、私はいつも知識の範圍の狹いのを歎いた。
中學の歴史の教員は疲癃の病ある尫弱の人であつた。その人が缺勤する度に私は悲しかつた。その人は瀬川さんの西洋通史を種子にして教授してゐた。私はすでに西洋通史を讀んだ。浮田さんの上古史を讀んだ。姉崎さんの印度古代史を讀んだ。ランケ、モムゼン、オルデンブルヒなんと云ふ人の書いたものを、原文で讀んで見たい。サンスクリツトを讀んで自分で研究したい。こんな空想を馳せて、私はいつも望洋の歎を發してゐた。
次に好きなのは博言學であつた。サンスクリツトが讀みたいと思つたことは前にも云つた。それからインドゲルマン語系の大體が知りたいと思つた。私の中學にゐた時代には英語の雜誌が二種位しかなかつたが、それを讀むにも人の目を附けぬ所に目を附けて、分に過ぎた望を懷いてゐた。
次に好きな物を強ひて擧げれば、理學であつた。併し數學が厭だから、これには望を繋がなかつた。
最後に私と文藝との關係を一言したい。
私は文藝に對しても敏感を持つてゐると信ずる。併し私は最初から鑑賞の一面に甘んじて、製作の一面には指を染めようとしなかつた。負けじ魂はあつても、どうも詩を作ること丈は自分の領分でないと思つてゐた。
新しい俳句、短詩、長詩いづれも試みたことはある。併し私は、一度も製作力の迸り出るやうな感じに遭遇しない。只海潮音や春鳥集を讀んで、酒に醉つたやうな心持になつた丈である。
× × × ×
私は彫塑と繪畫とを音樂に次いで愛する。併し今の日本繪、就中人物畫は毛蟲のやうに嫌つてゐる。書も面白い。篆刻は少し遣つて見た。
碁と將棋とは人のするのを見るも厭である。
私は酒も煙草も口にしたことが無い。
× × × ×
私を蹉跌させた病氣の或時期に、私が擔架に載せられて高崎の病院へ往つた記事がある。病氣は明治四十年の春、十九歳の時に發して、それと同時に私は俳句を始めた。それから四十一年に開業試驗を受けようと思ひ立つ迄、一年餘り俳句を弄んでゐた。それで當時の記事がほととぎすに載せられてゐる。それをここに寫してお目に掛ける。
「十月二十四日の事である。新しい病兆が現はれた爲めに、急に外科手術を受けることになつて、高崎市綿貫病院へ往く。行程三里。
人々に抱かれて擔架に乘る。柔かい布團を厚く積んだのがソフアのやうで工合が好い。仰臥した上にアアチのやうな物を拵へて、その上に白布を掛け、布の端を垂れて體の兩側を覆ふ。日が好く照つてゐて、白布の下の小天地が非常に明るいのが嬉しい。七時半に發する。大勢で送つて來てくれる樣子である。枕頭にあつた秋海棠と小豆色の魚子菊との鉢植二つ丈を下男に持たせる。
好い天氣だ。蓑蟲が明月でも覗くやうに、首を延べて野を見る。
見渡す限の田の面に熟してゐる稻の色に驚く。まだ刈る人は見えぬが、天氣が定まり次第一齊に刈り始めるだらう。收穫と云ふ大戰爭の前の少時の平和だなと思ふ。弓弦を引き絞つた處だなと思ふ。好い感じである。
秋 天 に 劃 す 俳 句 の 新 領 土
玉村の町に入る。ここで人々に別れる。跡は一行十一人になつたさうである。「大學病院行見合せ」と云ふ電報を打たせる。一行がぞろぞろと長い驛をねつて行くのだから、人の視線を惹くこと夥しい。首を擡げて裾の方を見れば、後から歩いて來る伯父や叔母の袖の隙、肩の間から、口を開いたり指さしをしたりして、戸口に立つてこつちの方を見てゐる町の人の姿が幾つともなく見える。物好きに往來に飛び出して執念く見てゐる奴もある。「あれあれ、ああ云ふ物が通らあ」などと云ふ頓狂な子供の聲も聞える。死んだものと思はれはすまいかと思ふと、餘り好い心地もせぬ。
生 き て ゐ る ぞ 擔 架 の 上 の 秋 の 我
町を拔けてしまふと、樂々する。又廣野に出る。赤城榛名の山々から右の頬へ吹き附ける風が、もう冬が近いので、うすら寒い。蓑蟲は首を出して見ては引つ込めてゐる。
が た 馬 車 に 道 を 讓 る や 稻 の 中
陰 の 山 日 向 の 山 や 稻 の 果
九時半倉賀野に着く。町はづれの茶屋に休む。小綺麗な店で、コスモスや菊が一ぱい咲いてゐる。擔架の上に腹這つて、赤酒、鷄卵、ミルクなどを飮む。
菊 の よ め 茶 を 出 し て す ぐ 機 を 織 る
此 菓 子 は あ の 菊 に 似 て 赤 き か な
十時二十分發す。今度は少し身を起して前を見ながら行く。
わ が 先 き を て く て く 歩 く 人 の 秋
少し風が出て來た。蓑蟲が又身を縮める。高崎まで松並木が一里程續いてゐるのである。段々行くうちに大きな町、白い、長い停車場の建物などが見えて來る。佐野村の小學校で鐘が鳴つてゐる。
稻 の 中 に 學 校 の 櫻 紅 葉 か な
十一時四十分に着く。受診。入院。非常に疲れたが
菊 も 無 事 秋 海 棠 も 無 事 で 來 し」
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開業試驗を受けて醫師にならうと云ふのは窮策で、しぶしぶそれに極めたのだが、苦心して人骨を拾ひ取つて、まだ土臭いのを燈の下で弄んで、本の中にある記述と較べて見て、私は本を一枚飜す毎に、目の前が明るくなるやうな氣のするのを愉快に思つた。かう云ふ本に多く插んである拉甸語にも興味を覺えた。私の癖で、すぐに拉甸文法にも手を伸ばしたが、名詞の變化より先きに進む餘裕が無かつた。
二度の試驗に答案を書くにも、範圍の曖昧な問題があると、先づ問題の研究と云ふものを一二枚書く。答案中の術語には悉く拉甸語、獨逸語を添へる。受驗者が一人でも殘つてゐる間は私は、筆を擱かない。兎に角本縣人の受驗者中では第一であつた。
併し此次の只一つの試驗を受けるには、田舍住まひの机の上では準備することが出來ない。私は早くその準備をして、早く試驗を濟ましたい。そして母の許に歸つて來たい。なぜと云ふに、私が旅行してゐる間は、度々病氣をした母が、家に歸つてゐた四年間一度も病氣をしないのを見て、私は母の心理状態を察すると、どうも長く遠く離れてゐたくないのである。それに私の爲めには此試驗は一段落で、それから先きに眞の期待があるのだから、急がずにはゐられない。
私の家の財政は東京に滯留することを許さないばかりではない。よしや入費なしにゐられるとしても、少しの小使を郷里から取り寄せることもむづかしい。
東京にはしるべが一人も無い。父が世話をして醫師にした人が二人あるが、それをたよるには忍びない。
私は種々の計畫をして見たと云つた。その一つを擧げて言へば、岩鼻の火藥製造所の診療部にゐる軍醫の下働にならうとしたことがある。併し此運動は私が頼んで置いた人の油斷で成功しなかつた。
先生。とうとう私は此手紙を書くことになつたのである。此手紙を先生はなんと思つて見るだらうか。私の方では知らぬ人に遣ると云ふ氣はしない。私は先生の家世を知つてゐる。先生の祖父の名、父母の名、夫人の名、子供衆三人の名を記憶してゐる。先生の長い長い頭銜をすらすらと誦することが出來る。先生の書いた物は皆讀んでゐる。先生に逢つたこともある。それは神田の電車の中であつた。私の向ひに來て、先生が腰を掛けた時、私は電氣に撃たれたやうであつた。亡くなつた父に再會したと同じやうな感じがした。これが僞らない事實だと云ふことが、先生に分かりはすまいか。どうも分からなくてはならぬやうに思はれてならない。
先生。どうぞ私を書生にして置いて下さい。私は廢滅に垂としてゐる一家の運命、亡き父の名譽、頼りなき母と薄命なる妹との性命を、一しよに束ねて先生に托する。私は紹介状は持つてゐない。背後に保證人をも有してゐない。併し私を紹介するには私が最も適してゐると思ふ。私を保證するには私が最も適してゐると思ふ。
先生。私は此手紙を心血で書いた。此手紙は私の半生の思量が隄を決して溢流したのである。此手紙は私の青春の情火の焔である。せめて此手紙の中から私の穉氣丈をでも味つて下さい。
先生。私はとうとう泣いた。そして傍に寢てゐる母に目を醒まさせた。
昔風の大きな家のがらんとした天井の下に蚊屋を吊つて親子三人がゐるのである。私は床の上に燈を置いて、細い燈の下に筆を走らせてゐる。もう二番鷄が鳴く。
「體を惡くすると行けないから、もうお寐よ」と云つて、母は厠に往つて、歸つて又横になる。森のある東の方で頬白が鳴き出した。すがすがしい、希望のみちみちてゐるやうな聲である。頭を擧げて聽く時、前の欄間の明るくなつてゐるのが目に附く。
恍惚として書いてしまつてあたりを見廻す。向うには本箱を積んだ床の間がある。北の床には千家男爵が亡父に書いてくれた書の軸物が掛かつてゐる。その下の置床には何も插さぬ、赤い九谷の花瓶がある。その傍には蟲の食つた萬葉集が一山ある。二つの床の界の柱には小さい洋畫が一枚吊るしてある。その下に臺灣で父の買つた拂子が下がつてゐる。右の方は奧の間との隔ての襖で、松と鴉と牡丹との繪がある。印には五日一山十日一水と刻してある。その間から多賀城の碑や其外の石摺を張つた奧の間の襖が見える。東の間との界で、背後になつてゐる鴨居には、「正二位陸奧出羽按察使前權大納言源有長」といふ長い名の人が昔泊つて書いたと云ふ「徳不孤」の三字の大額がある。左の方の障子の外は庭で、四月に孵えた鷄の雛が鳴いてゐる。
筆を棄てて縁側に出る。見渡す限青田である。半里の先きに、白壁や草屋が帶のやうに横はつてゐるのが玉村で、其上に薄紫に匀つてゐるのが秩父の山々である。村の背後を東へ流れる利根川の水の音がごうつと響いてゐる。
明治四十三年七月二十一日 羽鳥千尋
鴎外先生侍史
底本:「鴎外全集」第十巻、岩波書店
昭和47年8月22日発行