吃逆

森鴎外

 「(きみ)(さか)さにして()ても(おな)(こと)だと()つたあの()()れた。あの(とき)(ぼく)はタアナアの()(じつ)(さい)(さか)さに()けられた(れい)があると()つて、()()(べん)()するために(れき)()(ひき)(あひ)()すと()ふ、(もつと)もいく()のない(きう)(さく)()たのを、(きみ)はまだ()(おく)してゐるだらう。(この)(はう)(だう)()たら、(きみ)(たれ)があれを()つたかと()ふに(ちがひ)ない。その(かひ)()(じつ)(ふる)つてゐるよ。(はう)(/″\)(でん)(しん)(ばしら)にペンキで()(まへ)(くわう)(こく)してある(なり)(きん)だ。(ぼく)(げい)(じゆつ)のお(とく)()parvenu(パルヴニユウ)だとは(おも)(しろ)いぢやないか。かうなると、(ぼく)(また)(きう)(さく)()(かへ)したくなる。バイロイトの(げき)(ぢやう)(はじめ)(ひら)かれた(とき)(あたら)しい(おん)(がく)()きに()つて()(きやく)は、()()せられた、(あたま)(あたら)しい、(もの)()かつた(にん)(げん)ではなくて、(しよ)(こく)(もの)()(だか)(かね)(もち)(ども)だつたと()(はなし)がそれだ。(ぼく)はあの()(たゞ)ちにsujet(シユジエエ)()かる(だい)()けて()いたことを(こう)(くわい)する。あの(だい)がなかつたら、ストリントベルクの(かう)(げん)()(しき)酒代(さかて)(かは)りに(もら)つて(かべ)()けてゐて、()れてゐる(うみ)だと(きやく)(せつ)(めい)した(さけ)(みせ)(しゆ)(じん)のやうな(こつ)(けい)(しやう)じたかも()れない。(たゞし)これは()(だか)(ひと)(れい)()いたやうでも、(じやう)()()でない(だけ)(つみ)(かる)いかも()れない。(ぜう)(だん)(たい)(がい)にして()く。(じつ)(この)()(がみ)(しやう)(だい)(ぢやう)なのだ。(ひさ)(ぶり)()()れた(いはひ)をするのだ。お(あひ)(きやく)はエナから(かへ)つた(しで)(はら)だ。()()()てくれ(たま)へ。」

 五(でう)(ひで)麿(まろ)(あや)(こう)()(この)()(がみ)(テエブル)(うへ)(ひろ)げて、ぼんやり(なが)めてゐる。(すゑ)(はう)()(しよ)()(かん)とが(きやく)(ほん)(はじめ)のやうに二(だん)(ちゆう)してある。()(しよ)(つき)()()(まち)(あひ)で、()(かん)はもうそろ/\()()けなくてはならない(ころ)である。

 (ひで)麿(まろ)()(がみ)(テエブル)(うへ)()いて、()()から()()がつて、ヱランダ()しに(ひは)(めん)(うす)(みどり)(わか)()(かさ)ねてゐる(やま)もみぢと、その(むか)うに(あつ)(うす)(べに)(かも)()いたやうに、(りん)(まゝ)(はな)()ちてゐる椿(つばき)とを(なが)めながら、(しつ)(ない)を二三()(ある)いた。わざ/\()(ぶん)()んでくれた(とも)(だち)(かう)()(おも)へば、()かなくてはなるまい。ベルリンで(わう)(らい)したことのある(しで)(はら)が、(あらた)にオイケンの(ところ)から(かへ)つたのにも、()ひたくないことはない。けふの()()(てん)()(あつ)くなく(さむ)くなく、(ほこり)()てる(ほど)(かぜ)もないから、(そと)()ても()い。(しか)し、(しか)(まち)(あひ)()くのは()まらないな。(げい)(しや)(れう)()()()(しき)()(かい)のやうに(うご)いてゐる(あひだ)(なほ)(しの)ぶべしである。それが(まち)(あひ)()()(しき)で、(きやく)(ゑん)(りよ)をしない(ところ)乃至(ないし)(いは)(ゆる)(あそ)ばせて(いたゞ)く」と()(ふう)(よそほ)(ところ)となると、それを()(おも)(しろ)がるには、(おれ)なんぞより(いま)(すこ)()(どん)(しん)(けい)()つた(にん)(げん)か、(また)(しん)(けい)(うへ)(にく)(よく)sourdine(スウルヂイヌ)のやうに(はたら)いて、(いく)()()(かい)(おん)()してゐる(にん)(げん)でなくてはならない。(おれ)のかう(かん)ずることを、(あや)(こう)()()(せう)(さつ)してゐる。それに(おれ)(まち)(あひ)()ぶには、(しん)(けい)()(れう)(くは)へてくれようとする(かう)()(まじ)つてゐるかも()れない。()しさうなら、(ずゐ)(ぶん)難有(ありがた)(めい)(わく)なわけだと(おも)ふのである。

 (ひで)麿(まろ)はもう四五(にち)()(とも)()めた()()(だん)()(うへ)(おき)()(けい)(まへ)(あし)()めた。もう五()(まへ)である。たゆたひながら(でん)(れい)控釦(ぼたん)()して、()()使(づかひ)(ゆき)()んだ。

 「(あや)(こう)()(ばん)(さん)()ばれて(まゐ)りますと、(おく)(まをし)()げて()いてくれ。」

 「はい」と()つて、(ゆき)()()つた。その(とき)(ひで)麿(まろ)(はじめ)()(ぶん)(えん)(くわい)(まねき)(おう)ずるのだと()ふことを、はつきり()(しき)した。そしてまだヨオロツパにゐた(ころ)(しふ)(くわん)()けないので、()(だけ)(あら)つて()(たく)をした。

 「あの、お(くるま)(まゐ)つてをります」と、(ゆき)()らせに()た。

 (ひで)麿(まろ)(ばう)(ふと)(とう)(つゑ)とを(つか)んで、(いそ)いで()()()た。

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 (かう)()()(まへ)(くるま)()りて、(ひで)麿(まろ)花崗(みかげ)(いし)()めてある(たゝ)きの(うへ)()つた。

 「()らつしやいまし」と、(ぢよ)(ちゆう)(えん)(がは)(ひざ)()いた。

 「(あや)(こう)()からさう()つてある(はず)だが。」

 「(たゞ)(いま)(ひと)()(さま)()になつてゐます。」

 ()(たふ)(ぢやう)のパルケツトのやうに(すべ)(らう)()を、八(でふ)()(みちび)かれた。

 (ぢよ)(ちゆう)(しやう)()()けた(とき)()れば、(さき)()てゐるのは(あや)(こう)()ではなくて(しで)(はら)である。のん()(しゆ)(じん)はまだ()ないのに、ヨオロツパで()(かん)(やく)(そく)(きび)しく(まも)(くせ)()いてゐる(しで)(はら)()て、しつぽく(だい)とか()(テエブル)(むか)うに()わつてゐるのであつた。

 「や。(しばら)く。(きみ)(かへ)つて()たさうだね。オイケン(せん)(せい)はどうしてゐるね。」(ひで)麿(まろ)(うれ)しさうに(こゑ)()けた。

 「なか/\(げん)()ですよ。あの(しら)()(さか)さに()つた、(はゞ)(ひろ)(あたま)は、(もの)(かんが)()めると()ふことがなくつて、あの(すき)(くは)でも()ちさうな、(ふと)()は、()()めると()ふことがないのです。(われ)()(なほ)クリスト(けう)()たることを()べきかと()ふのをつひこなひだ()しました。」(しで)(はら)は、(ひで)麿(まろ)がどんなに(たい)(とう)(はなし)をしようとしても、(すこ)しづつ(けい)()使(つか)ふことを()めない。そんならと()つて、(ひで)麿(まろ)(はう)(おな)じやうに(けい)()使(つか)つては、(したし)みの(かん)(じやう)()がれるやうになる。(ひで)麿(まろ)(こゝろ)(くる)しくは(おも)ひながら、()(はり)(あや)(こう)()(もの)()ふと(おな)調(てう)()(はな)す。これはヨオロツパにゐた(とき)からの(こと)である。

 「さう/\。(くわう)(こく)()たつけ。クリスト(けう)とは()つても、()まり(しう)(けう)(はい)すべからずと()ふやうな(ろん)になつてゐるのだらうね。」(ひで)麿(まろ)(しで)(はら)(とこ)()(まへ)()けて()わつてゐるのを()て、()(ぶん)()けて、(しで)(はら)(むか)ひに()()めた。(ぢよ)(ちゆう)(ちや)(はこ)んだ。

 「()(ろん)さうです。(かみ)(れき)()()()()(にん)(げん)(かたち)(あらは)したと()ふことは、(がく)(もん)(じやう)ばかりでなく、(げん)(だい)(じん)()(さう)には一(ぱん)()れられないと()つてゐます。それから(げん)(ざい)とか(しよく)(ざい)とか()()(さう)もさうです。(にん)(げん)(つみ)(かみ)(いか)つて、()(ぶん)()()(あがな)はせると()ふことは、(げん)(だい)(じん)には(さう)(ざう)せられない。それからクリストが(かみ)(にん)(げん)との(あひだ)に、(せう)(かい)(しや)のやうになつて()つてゐると()ふことも、(げん)(だい)(じん)(かへ)つて(めい)(わく)(おも)ふと()つてゐます。その(くらゐ)ですから、(れき)()(じやう)(こん)(きよ)のない、カトリツク(けう)のペトルスの(かぎ)なんぞに、(かみ)(にん)(げん)との(あひだ)(へだ)てて(もら)はうと、(げん)(だい)(じん)(おも)(はず)もない。プロテスタント(けう)のやうに(やま)のあなたの()()(やき)(しりぞ)けたところで、(えい)(ゑん)(うご)かない(しん)()として(せい)(しよ)()てて()くことに(どう)()する(はず)もないと()つてゐます。それですから、クリスト(けう)()()()()つてはゐるやうなものの、()まり(しう)(けう)()()(ひろ)()つても()いことになるでせう。」

 「さうだらうね。そこで(しう)(けう)()てられないと()ふのは、あの(ひと)のこれまでの(ちよ)(じゆつ)にもあるやうに、(ちゆう)(せい)(じん)(せい)()(しゆ)()いた(しう)(けう)、ルネツサンス()()(じん)(せい)()(しゆ)()いた(ない)(ざい)(てき)()(さう)(しゆ)()(あと)()いで、(あたら)しい(じん)(せい)()(しゆ)(つく)らうと()ふのだらう。」

 「さうです」と()つて、(しで)(はら)(テエブル)(うへ)にある、(ふた)()けた()(まき)(はこ)(ひで)麿(まろ)(まへ)()()つた。「これは(あや)(こう)()さんが(とゞ)けて()いたのださうです。その(じん)(せい)()(しゆ)()ふやうな(こと)を、オイケン(せん)(せい)(あたら)しい(れん)(けつ)()つてゐます。Zusammenhang(ツウザンメンハング)()(ことば)使(つか)つてゐます。」

 「なる(ほど)(あたら)しい(れん)(けつ)。」(ひで)麿(まろ)はかう()(かへ)して、()(まき)を一(ぽん)()つて、()()けた。「さうだねえ。(いは)(ゆる)(じん)()(かい)(ほつ)()(だい)から、ヨオロツパの(ひと)がスピノザの(はん)(しん)(ろん)なんぞに()つて、(たれ)でも(かみ)()()(うち)()つてゐると(おも)つて()(せい)(たの)んで(はたら)()したのは()いが、さう()(ひと)(ゆゐ)一の(かみ)との(れん)(けつ)()(だい)(ゆる)んで()くばかりだ。(がく)(もん)(おこ)る。(げい)(じゆつ)(おこ)る。(けい)(ざい)(おこ)る。それがどれもはつきり(だう)()との(えん)()つて(はつ)(てん)する。(がく)(もん)(げい)(じゆつ)(はう)(めん)では、()(ぜん)(くわ)(がく)(いう)(しよう)()()()める。(けい)(ざい)(はう)(めん)では、(しや)(くわい)(もん)(だい)(おこ)つて()る。(ひつ)(きやう)どちらも(にん)(げん)(にん)(げん)として()()(べつ)(/\)(はつ)(てん)をするに()ぎない。その(けつ)(くわ)は、()(びろ)()(げふ)にも(ふか)みがなくなる。(にぎ)はしい(くわつ)(どう)にも(あん)(しん)(ともな)はない。そこでどうにかしなくてはならなくなる。それをどうにかしようと()ふことを、(せん)(せい)(あたら)しい(れん)(けつ)(もと)めると()ふのだらう。(いま)こつちで(いは)(ゆる)()(ぜん)(しゆ)()(いは)(ゆる)()(じん)(しゆ)()()けないから、どうにかしようと()ふのと、(おな)(こと)だね。」

 「さうです。さうです。Comme(コム) chez(シエエ) nous(ヌウ)ですよ。」(しで)(はら)(みじか)(わら)つた。

 (この)(とき)(らう)()(そば)(しやう)()()いて、(あや)(こう)()()()けたやうな(かほ)をして、のそりと()()つて()た。(あと)から三十を(ふた)(みつ)()したらしい(げい)(しや)(ひと)()()いて()て、(みな)()(しやく)をした。(ほね)(しん)(けい)(かは)とから()()つてゐるやうな(をんな)である。(たゞ)しその(かは)(いく)()(せい)(さう)(けみ)して()るうちに、(をし)むらくは(やゝ)(あん)(しよく)()びて(どう)()(いく)(ぶん)(だん)(りよく)(うしな)つてゐる。

 「(おそ)くなつて(しつ)(けい)した」と()(ざう)()()つて、(あや)(こう)()(ゆる)いジヤケツにも(きう)(くつ)(かん)ずるらしく、(たく)(いり)(くち)(ちか)い一(ぺん)に、べたりと胡坐(あぐら)()いた。

 「まあ、ひどい(けむり)ですこと。(すこ)()けときませうか。」(げい)(しや)()つて、(しで)(はら)背後(うしろ)にある(まる)(まど)()けた。()()(もの)(ほし)(だい)とに(かぎ)られた、(うす)(くもり)(そら)trapèze(トラペエズ)のやうな()(せい)(かたち)になつて()える。()(しき)(たま)まつてゐた(あを)(けむり)が、(かも)()(した)(くゞ)つて(なび)いて()て、(のき)()()える。

 「()(つくゑ)(そば)(はな)れられたね」と、(あや)(こう)()(ひで)麿(まろ)()つた。

 「いや。(じつ)(あま)(きふ)(おどろ)いたよ。」

 「それはさう()(けい)(くわく)なのだ。()(けん)(なみ)(きたる)(なん)(にち)なんと()つて()らうものなら、(きみ)(かんが)へて()ておつくうがつてことわるかも()れない。(でん)()()ふと、そんな(もん)(だい)()いて(かんが)へるのを(めん)(だう)がつて、(かんが)へずにことわるかも()れない。そこで()(ぎは)になつて、使(つかひ)()(がみ)()たせて()つたのだ。」

 「それはどうも(おそ)()つたなあ。」

 (しで)(はら)(ことば)(はさ)んだ。「なか/\五(でう)さんをさそひ()すのはむづかしいと()えますね。」(ことさ)らに(へい)(みん)(てき)にしてゐる(あや)(こう)()にも、()(はり)(けい)()使(つか)ふのである。

 「なんでもこんな(ふう)(けい)(くわく)どほりに()くと()いのだが。」(あや)(こう)()はかう()()けて、(げい)(しや)(なに)(さゝや)くのに(みゝ)()した。「(いま)(べつ)(ぴん)()るさうだ。」

 「()てゐるぢやありませんか」と、(しで)(はら)()つた。

 「まあ、お()()がおありなさること」と、(あや)(こう)()(ひで)麿(まろ)との(あひだ)()わつた(げい)(しや)()つた。

 (ぢよ)(ちゆう)(はい)(ばん)(たく)(うへ)(はこ)びはじめた。

 (しで)(はら)が「ちと(がら)になかつたかな」と(ひとり)(ごと)のやうに()つて、ふと(おも)()したらしく、(はな)()した。「お()()()ふものも、うつかり()へないものですね。(ぼく)(いう)(じん)(げい)(しや)にあなたと()(ひと)があるのです。ところが、それを(げい)(しや)(いや)()だと()つてゐるさうです。その(ひと)(こゝろ)(もち)(さつ)して()るのに、(げい)(しや)でもなんでも(にん)(げん)(あつか)ひに(だけ)はしたいと(おも)つてゐるので、(べつ)(げい)(しや)()()らうとか、()()にならうとか(おも)つてゐるわけではないのですが、その(こゝろ)(もち)(せん)(ぱう)には()からないのです。」

 (あや)(こう)()(わら)つた。「それは()かるまい。(げい)(しや)(にん)(げん)(あつかひ)にすると()ふことがあるものか。」

 「(ずゐ)(ぶん)だわね」と(げい)(しや)()つた。

 (あや)(こう)()(ひで)麿(まろ)()つた。「さつきは(だい)(はなし)がはずんでゐたやうだつたが、(なに)(おも)(しろ)(こと)があつたかね。」かう()つて()いて、(まへ)にあつた(さかづき)(ひと)(いき)()()して、(げい)(しや)()つた。(しか)(ちやう)()(ぢよ)(ちゆう)(なに)()りに()つてゐないのに、()(ぶん)(しやく)をして()らうともせず、(さい)()のやうに()つた(まぐろ)(さし)()(ふた)(きれ)一しよに(くち)()れた。

 「あら、お(しやく)はして(くだ)さらないの」とは()つたが、(しで)(はら)()りさうにする(てう)()を、(げい)(しや)(うば)ふやうに()つて、()(しやく)をした。

 (あや)(こう)()に、「(あひ)(かは)らず()(くつ)つぽい(こと)()つてゐたよ」と()つて()いて、(ひで)麿(まろ)(しで)(はら)との(たい)()(つゞ)けた。

 「一(たい)オイケン(せん)(せい)(なに)(しやく)(きよく)(てき)(けん)(せつ)してゐるのかね。」

 「さうですね。(にん)(げん)(げん)(ざい)()()(やす)んじてゐて、(ない)(ざい)(てき)(しう)(けう)()つてゐると()ふやうな(こと)は、(せん)(せい)()るに()らないとしてゐます。(しう)(けう)()()(じやう)()る、より(たか)(もの)(むか)うに(のぞ)んで、(もく)(ぜん)(よく)(せい)()()つて()かなくてはならない。(もち)(ろん)(がく)(げい)でも、それ()(ぐわい)(もの)でも、(その)(もの)のために()つてゐるうちに、いつかそれが(あたら)しい(せい)(めい)(もと)める(しゆ)(だん)になる。それで(ぶん)(くわ)()(だい)()つて(こん)(りふ)して()かれる。(この)(なか)には(すで)(かく)れた(しう)(けう)がある。それを()(へん)(てき)(しう)(けう)()つても()い。(しか)しこれにも滿(まん)(ぞく)することは()()ない。(しん)(しう)(けう)()()(じやう)は、(にん)(げん)(ぶん)(くわ)(こん)(りふ)()(れい)になつてゐないで、(にん)(げん)(れい)(げん)(ざい)()(じゆん)(うち)から(すく)()されなくてはならない。それには(てう)()(けん)(せい)(めい)がいる。それが()つて、(こん)(りふ)せられる(ぶん)(くわ)(はじ)めて(いう)()()になる。(しか)しさう()(きやう)()(たゞ)(がい)(ねん)(てき)(かい)しにくいばかりではない、(かん)(じやう)(てき)にも()れにくい。()(じん)()つては、その(かん)(じやう)(いな)(づま)のやうに、(ひらめ)()ぎてしまふだらう。それを()()して()くには()()(とも)(しう)(けう)(てき)(きよう)(どう)(せい)(くわつ)がいる。()(ゐん)がいる。さうなれば、(とく)(しつ)(てき)(しう)(けう)だと()つてゐるのです。」

 「むづかしいな」と(あや)(こう)()(くちばし)()れた。

 (うつ)しい、二十(ぜん)()(げい)(しや)(ふた)()()()つて()てお()()をした。(しばら)(きやく)(ほん)(しき)(だい)二、(だい)三の(げい)(しや)()づけよう。

 (だい)二の(げい)(しや)()るし(ねこ)()(あだ)()()いてゐる。その(かほ)()(はく)(いろ)(あか)みを()びた()()(した)には、(あつ)()(ばう)がある。(あだ)()()ふまでもなく、(まゆ)()(じり)(とも)()()がつてゐるから()いたのである。(だい)三の(げい)(しや)は、(あゐ)(いろ)(じやう)(みやく)()(とほ)つた、(うす)(かほ)()()(あを)()かつた(いろ)をしてゐる。(かみ)(いろ)もさう()(をんな)(つね)として(やゝ)(あか)るい。

 (ふた)()(とも)どこに()わらうかとためらつてゐるのを、(あや)(こう)()(かま)はないので、(ひで)麿(まろ)が「あつちだよ」と(とこ)()(まへ)(ゆび)さした。

 ()るし(ねこ)()(なほ)(さき)()つて、(しで)(はら)(ちか)(はう)(じやう)()()いた。(かみ)(はだへ)との()(かく)(てき)(めい)(しよく)(をんな)()るし(ねこ)(ひで)麿(まろ)との(あひだ)(はさ)まつて()わつた。

 ()るし(ねこ)はつんとしたやうな姿()(せい)をしてゐるが、(かう)(まん)()つてゐるわけでもない。(ゑん)(りよ)もないが、餞舌(しやべ)りもしない(たち)らしい。

 (めい)(しよく)(をんな)()()わつてゐるのに、(ひで)麿(まろ)()()くと(どう)()に、(だい)一の(げい)(しや)が、「(すこ)()()がつてゐるが、まだ(はん)()だと()ふやうね」と()つて、(だれ)()まずにゐる麥酒(ビイル)(びん)(そば)にあるコツプを()して、(かん)(ざけ)(なみ)(/\)()いで()つた。

 (ひで)麿(まろ)(やゝ)(おどろ)いて(だい)一の(げい)(しや)(かほ)()ると、(だい)一の(げい)(しや)が「()けますの」と(せつ)(めい)するやうに()つた。

 (はた)して(めい)(しよく)(をんな)はぐびぐびと(おと)をさせて、(いき)()かずに()()して、「あゝ、せつなや(まち)」と、なんだか()()()からない()()()けて()つたが、(がん)(しよく)はせつなさうではなかつた。

 (だい)一の(げい)(しや)(また)一ぱい()いだ。

 「こん()()けて(もら)ひや(まち)」と()つて、(めい)(しよく)(をんな)()るし(ねこ)(かへり)みたが、()るし(ねこ)()らぬ(かほ)をしてゐる。

 「そんなら(たの)まないや(まち)」と()つて、(めい)(しよく)(をんな)(また)それを()()した。そして(とく)(ぜん)吃逆(しやくり)(ひと)つした。

 (ひで)麿(まろ)(きやう)()()(みは)つて(めい)(しよく)(をんな)(しばら)()てゐたが、(たちま)(しん)()(てん)したと()(ふう)で、(また)(しで)(はら)()いて()つた。「それでは()(ゐん)はいるが、ロオマの()(ゐん)でも、ルテルの()(ゐん)でも()けないと()(ずゐ)(ぶん)むづかしい(ちゆう)(もん)だねえ。」

 「()()(のう)でないと(しん)じてゐると(どう)()に、むづかしい(こと)(せん)(せい)(みと)めてゐるのです。()(かく)()(ゐん)(しん)()(せん)(ばい)(じよ)にして、(かみ)よりも(ふく)(いん)よりも()(ゐん)(しん)ぜさせようとしてゐるカトリツク(けう)は、どんなに(げん)(だい)(しゆ)()(しや)(はい)(せき)して、()()(せい)(りよく)()()しようと(つと)めたつて、()(らい)(いう)してはゐない。(きよ)められた(ふく)(いん)()(えき)(しん)()としてゐるプロテスタント(けう)も、どんなに(ぶん)(くわ)を一()(りう)(かう)(もの)()(おと)して、(しん)()(だい)(えい)(きやう)()けまいとしたつて、()(らい)(いう)してはゐない。プロイセンでは()づプロテスタント(けう)(こく)(けう)だとしてゐるのを()めるが()い。(こく)(みん)(しう)(けう)()(さう)()()になつてゐるのに、(こく)()(しう)(けう)との(ぶん)()(おこな)はれないと、(いきほひ)(こく)()()()贔屓(ひいき)をするやうになる。そんならと()つて、(こう)(へい)()つて(せつ)(ちゆう)しようとすると、()(はり)どの(しう)(けう)滿(まん)(ぞく)しないから()()だと()つてゐるのです。」

 かう()つてゐる(あひだ)(めい)(しよく)(をんな)(たゞ)しい(かん)(かく)()いて吃逆(しやくり)をしてゐる。

 「()からないわ」と、()るし(ねこ)()つた。

 (あや)(こう)()(だい)一の(げい)(しや)(なに)(はな)しながら、(ひで)麿(まろ)(しで)(はら)との(たい)()にも(みゝ)()してゐる。そして(テエブル)(うへ)()(だけ)(れう)()(かた)(はし)から()(れい)()つてしまふ。

 (ひで)麿(まろ)(しばら)(かんが)へて()つた。「それでは(ざい)(らい)(しう)(けう)()べて(よう)()たないとしてゐるのだから、百(ねん)(ぜん)にギヨオテが(くう)(さう)で、Montserrat(モンセルラア)(いたゞき)(もよほ)すことにした(しよ)(しう)(けう)(がふ)(どう)(くわい)()のやうな(もの)は、()()()になるわけだね。それからこれもギヨオテが(そつ)(げふ)(ろん)(ぶん)()いて(いん)(さつ)させずにしまつた(こく)()(たい)(しよ)(しう)(けう)(ろん)のやうに、(せい)(さく)(がふ)一する(かぎり)、どの(しう)(けう)をも()れて、その(はん)()(ぐわい)(こと)(はい)(せき)すると()ふことも、ヨオロツパでは(せい)(ねん)(くう)(ろん)だつたが、そんな(こと)()()(くに)ではしても(さし)(つかへ)ないかも()れない。(しか)しそんな(こと)では(しう)(けう)(ぜん)()をどうすることも()()ない。(いま)()(じゆん)(なか)から(にん)(げん)(すく)()す、(あたら)しい(れん)(けつ)として、(しう)(けう)(もと)めると()()(じやう)は、どうしても()(もく)(ぜん)(しやう)(がい)(はい)し、()(もく)(ぜん)(よく)(せい)()()つて、(むか)うに(あたら)しい(せい)(くわつ)(のぞ)むものでなくてはならない。(くわ)()(こう)(でい)しては()()だ。(げん)(ぢやう)()()では()()だ。(ぶつ)(けう)(じやう)()のやうな、クリスト(けう)(らく)(ゑん)のやうなものがなくてはならない。()(ろん)それは()(がん)には(かぎ)らない。()(がん)でも()い。いや。()(がん)でなくてはならない。さう()(もの)()()いる。(しや)(くわい)(しゆ)()(しや)でさへutopia(ユトピア)()つてゐるのだからね。一(たい)オイケン(せん)(せい)はクリスト(けう)(くに)にゐるから、()(らい)のクリスト(けう)だと()つてゐるのだらうが、どうもそれでは、(かんがへ)(せま)いやうだ。(せん)(せい)はその(てん)をどう(おも)つてゐるのだらう。」

 「それは(せん)(せい)だつて()()いてゐます。ヲルテエルでしたか、(なに)(にん)(げん)がロオマに(うま)れたので(てん)(ごく)()かれる、メツカに(うま)れては()かれないと()(はず)はないと()つたのを()いて、()()(じやう)(かぎ)ることを()()()だとしてゐるのです。」

 「なる(ほど)」と()つて、(ひで)麿(まろ)(また)(かんが)へてゐる。

 (めい)(しよく)(をんな)吃逆(しやくり)(ひと)つして、(だれ)()ふともなく、「わたし(きやう)(だい)になつて(もら)ひたい(ひと)があるのですがねえ」と()つて、(ふところ)から(めい)()(がた)(しや)(しん)()してぢつと(なが)めた。

 (たれ)(あひ)()にならない。

 (めい)(しよく)(をんな)(しや)(しん)(ひで)麿(まろ)(まへ)()した。「ねえ、あなた、()(をとこ)でせう。(かん)(たま)()よ。」

 「うん。(にが)(ばし)つた()(をとこ)だ。」(ひで)麿(まろ)()(はり)(げい)(しや)(にん)(げん)として(だけ)(あつか)ひたいと()えて、()()()(へん)()をした。(たゞ)しあなたとは()はなかつた。

 「さうでせう」と()つて、(をんな)(しや)(しん)をしまつて、つと()つた。そして()(しき)()(ぐち)()つて、べたりと()わつた。「わたしもう(かへ)つて()ますわ、さやうなら」とゆつくり()つて、(りやう)()(たゝみ)()いて(ひとみ)()ゑて、(かげ)(うす)いやうな(からだ)(しばら)(うご)かさずにゐた。

 (だい)一の(げい)(しや)が「あゝ、お(かへ)り」と()つた。

 (めい)(しよく)(をんな)(さい)()吃逆(しやくり)(ひと)つして(せき)()つた。

底本:「鴎外全集」第十巻、岩波書店
   昭和47年8月22日発行