不思議な鏡
森鴎外
一
「おい。己の羽織はどこにある。」
「今綻びを縫つてゐる所です。」
「少しは穴が小さくなつたかい。」
「もう半分位小さくなりました。」
「そんならちよつとよこせ。己は急ぐ用があるから、着て出なくちやならない。跡は又歸つてから縫ひ潰して貰はう。今までの大きさの穴があつても着て出たのだから、それが半分になつてゐて見れば息張つて着て出ても好いわけだ。」
かう云ふ問答が夫婦の間に交換せられるのは、奇とするに足りない。ここにそれに似た事がある。それは己の睡眠問題だ。
人間の體はアルカリ性で、その中をアルカリ性の血が巡つて養つてゐる。そこで働けば、體に酸が出來る。草臥れた體が休んでゐるうちに、血が巡つて來て、その酸を中和してくれる。アルカリ性に戻る。又働く。酸つぱくなる。是の如く循環してad
infinitumに遣つて行く。どつこい、待てよ。さう旨くは行かない。さう旨く行けば、mobile
perpetuumが成功して、人間は不老不死になるわけだが、追々使つてゐるうちに、器械はがたぴしして來て、とうとう油をさしても動かなくなる。なんだ。縁起の惡い。鶴龜々々だ。
己は睡眠の話をする筈であつた。腦髓も働けば酸つぱくなる。それをアルカリ性に戻す間休ませて置くのが睡眠である。丁度羽織を着てゐれば綻びる。それを縫ひ潰す間、寒くてもお上さんの手に渡して置くやうなものである。モルフオイスの神の手に渡してある間は、考へたくても考へられない。それでも是非何か考へなくてはならないとなると、少し酸みの耗つた所で、ちよいと腦髓を取り戻して使ふ。綻びを半分潰した羽織を引つ掛けて、用を足しに出るやうなものである。
己は晝は物なんぞ書いてはゐられない身の上なので、夜なかに起きて書く。穴の半分潰れた羽織を着るやうなものである。
それをどうかすると、冷かし半分に、精力絶倫と褒める批評家がある。穴を半分潰した羽織を着て歩くのを見て、あれは勤勉無比の人だと云ふやうなものである。そんな事をするのは、羽織のためにも好くはあるまい。着てゐる人の信用も害せられずにはゐまい。
二
そのせいでもあるか、己の書くものは隨分惡く言はれる。穴の半分あいてゐるのが人に見えるのかも知れない。書くものに「情」がないさうだ。情が半分の穴から拔けて出たのかと思へば、さうではないさうだ。元から無いのださうだ。
ゆうべも新年早々起きて書いた。
御用始に出勤し掛けてゐると、算盤を彈いてゐるお上さんが隣の間から聲を掛ける。「あなた、年末もとうとう足りなかつたのね。」
「さうかなあ。もつと旨く遣り繰つて行かれないかい。」
「そんな事を仰やつたつて、わたくしのせいばかりぢやないわ。本の代も隨分大變あつてよ。續藏經なんぞ、あれはいつまで出るのでせう。もう置場所にも困るのですが、際限がないのね。大日本史料に古文書に古事類苑、まああんなのは知れたものですの。矢つ張一番多いのは西洋の本よ。」
「さうだらう。併しそれは爲方がない。あれは己の智慧が足りないから、西洋から借りて來るのだ。どうせ借物をしてゐては、自分で考へ出す人には愜はないが、どうもあれがなくては、己の頭の中の遣繰が旨く附かないからなあ。」
「そんなに西洋から借りてゐて、いつか返せて。」
「それは己の代にはむづかしい。子や孫の代にもどうだか。何代も何代も立つうちには、返す時もあるだらう。」
「まあ、のん氣な話ね。」襖の向うに笑ふ聲がする。それから又算盤をこちこち彈く音がする。「お遣物がなかなかあるのよ。御婚禮が三つ。三越の眞綿が十一圓宛で三十三圓。お葬の花が五つ。七圓宛の花だから五七三十五圓。年賀は一つしかなかつたわ。これも眞綿が十一圓。もう七十九圓になつたわ。それに方々へお歳暮を遣つたでせう。大變だわ。」
己は默つてゐる。
「なんとも仰やらないのね。」
「うん。」
「在職二十五年のお祝と云ふのが十二月にはありませんでしたわね。」
「うん。」
「あなた、うんうんとばかり仰やつて、厭な方ね。」
「うん。」
こんな風に、それからは何を言つても「うん」としか云はない。お上さんは呆れて搆はずにゐた。
己は器械的に、いつものやうに支度をしてしまつて、役所に出たが、御用始の日は鑄型に入れたやうな雜務しかなかつたので、好く人の惡口に言ふ盲判を大ぶ衝いた。多士濟々のお役所には、下にも上にも、鵜の目、鷹の目、lynxの目が揃つてゐるから、途中にぼんやりした己が一人挾まつてゐても大いに會計檢査院を累はすやうな失錯もしなかつたらしい。アメリカ人の書いたものに、ロシアの役人が賭をして、なんにも見ずに印を衝く大臣の所へ出す書類の間に、Paternosterの祈祷文を書いて挾んで置いた。そしたら大臣が果してそれにも印を衝いたと云ふことが、事實談として出してある。ロシアは知らず、さう云ふ事はこつちの役所では不可能である。
三
一體どうして己はその日に限つて、そんなにぼんやりしてゐたかと云ふに、何も前夜起きて物を書いたからと云ふわけではない。夜物を書いた翌日きつと氣拔がしてゐるなら、己は毎日のやうに氣拔がしてゐなくてはならない。己だつてまさかそれ程ではない。
丁度朝内にゐて、隣の間でお上さんが遣物の勘定をしてゐるのを聞いてゐた時であつた。譬へば磁石に鐵が吸ひ寄せられるやうに、己の魂は體を拔けて外に出た。皮の外へは出られないと、好く西洋人が云ふが、皮の外へ出られたのである。
日本畫にかいてある人魂は、青い火の玉だが、己の魂はそんな物にはならなかつた。體その儘の影になつたのである。今出掛けようとして支度をした、その支度の儘の影である。只體の方は机の前に据わつて、學生の持つやうな毛繻子の嚢に、物を入れてゐる。影の方はその前に立つて、ふらふらしながら、氣の利かない體のする事を見てゐる丈の相違である。
跡から思つて見れば、例の磁石の力が、皮から外へ魂を引き出す時強く働いて、魂がひよつこり拔け出すと、一時反動的にそれが弛んだものらしい。その間魂が體の近所にうろついてゐたのだらう。
體がお上さんに何か言はれて、只「うんうん」とばかり云つてゐるのを見て、影は面白がつてゐる。併し氣の毒だとは少しも思はない。なぜかと思つたら、己の魂は「あそび」の心持で萬事を扱ふと云ふので、何を見てもむやみに面白がるのださうだ。いつから世間でそれを知つたかと云ふと、或る時己がみじめな生活に安住してゐる腰辨當の身の上を書いて、その男に諦念の態度を自白させる時、あそびと云ふ事を言つた。それを誰やらが親切に、己の自白だと認めてくれるや否や、善言でさへあれば、誰の口から出ても、それを容るるに吝ならざる一同が、あそびあそびと云つて己に指さしをして教へ合つた。隱れたるより顯るるはなしである。天に口なし、人をして言はしむである。此時から己の魂に立派な符牒が附いた。そのあそびのessenceが拔け出したのだから、何を見ようが面白がる丈である。おや又「うん」と云やあがる。ざまあ見ろ。面白いなと云ふやうな心持である。だから蝉脱の殼の體が、どんなとんちんかんの返事をして、まごまごしてゐようと氣の毒だと思ふ筈がない。同情はしない。情がないのだ。それも世間では疾つくに認めてくれてゐる。あそびが肯定的評價で、情なしが否定的評價である。あちらが積極的言明で、こちらが消極的言明である。これが札なら、和氣清麿や、武内宿禰の顏の附いてゐる表と、横文字の書いてある裏とのやうなものである。裏表ちやんと分かつて見れば、面倒なしに世間で通用する。市に定價ありと云ふわけだ。それを又、己が何か書く度に何遍でも繰り返して、あそびだ、情なしだと、極まつてしまつてゐるものを、今更新發明らしく吹聽して、それを渡世にしてゐる人のあるのも、妙なものだ。己の贋物なんか出來ないから、鑑定に骨は折れない。まだ若いが、小山内君なんぞも、もう立派な符牒を附けられてゐる。「才の筆だ。只それ丈の事だ。ふうん」と云つたやうな調子で、鑑定は濟んでしまふ。餘り氣樂らしいから、己も目利の方に商賣換をしようかしら。
四
己の魂は暫くの間、體の側にふらついてゐたが、そのうち又すうと吸はれるやうな心持になつた。磁石が再び力を逞うするらしい。
西洋の古い傳説にこんなのがある。北の海に、磁石ばかりで出來てゐる、大きな山がある。船が漂流してその近所へ行くと、船にある丈の鐵が皆吸ひ寄せられて、空を飛んでその山にひつ付いてしまふ。船の細工に使つてある釘も、皆拔けて飛んで行く。船はばらばらにこはれて、沈沒してしまふと云ふのである。
さう云ふ磁石が吸ふのだと、己の魂と一しよに、外の人の魂も吸はれて飛んで行く筈だ。少くも東京にゐる丈の人間の魂が皆拔けて飛んで行く筈だ。併しさうではないらしい。己は空中を只一人で飛んでゐる。右を見ても左を見ても、魂仲間が一向見えない。盥に乘つたり、箒に跨がつたりして、ブロツケン山へ飛んで行く魔女の行列なんぞとは、わけが違ふやうである。
どうしたわけだと云ふことが、跡で考へて見たら分かつた。北の海の磁石の山なんぞは野蠻な山だ。だから鐵でさへあれば吸ふ。寶劍でも折れ釘でも同じ事である。選擇の自由がない。あの飛行船なんぞも、只空に上がつてゐる丈では役に立たない。方向を選んで、どこへでも勝手に飛んで行かれるやうになるまでは、野蠻の器械たるを免れなかつた。それが今は舵が取られるやうになつた。それと同じ道理で、己の魂を吸つてゐる磁石力は、改良して現代的にしてあるから、自分の勝手な物を吸ひ寄せる。去年の暮には、己を大そう嫌つてゐる水野君の魂が吸ひ寄せられたさうだ。ぞつとするやうな、凄い、情の有り餘る魂である。
さて明治四十五年となつて、新年のお慰みに吸ひ寄せられると云ふ光榮を、己が擔つたわけだ。屋の棟に白羽の矢が立つと云ふのは古いから、おもちやの飛行機かなんかが飛んで來て、引つ掛かつた事だらう。そんな事とは知らずに、己は床の中で物を書いてゐたと見える。
己の魂は山の手から下町の方へ飛んで行く。最初は勳章を胸に一ぱい下げた人を乘せてゐる馬や、シルクハツトを被つた人を載せてゐる自動車が下に見えてゐたのが、段々羽織袴や、印絆纏や、褄を取つた藝者が見えるやうになる。醉つぱらひが大通りの眞ん中で、馳せ違ふ人力車の間をよろよろして歩きながら、往來の人に片つ端から惡態を衝いてゐる。ふと見ると、ごたごたした狹い横町に、平假名で名を書いた軒燈がどの家にも出してあつて、綺麗に化粧をしたお酌が三四人追羽子をして、きやつきやと云つてゐる。友禪の袂や裾が翻る。おやと思ふ隙に、旗を上げた電車や、三越の自動車や新年の賀状を梱包にして、山のやうに積んだ郵便局の赤馬車が、隙間もなく通つてゐる上へ來る。
そのうち水平に働いてゐた磁石力が、忽ち斜に下へ吸ふのを感じた。飛行機なら、降りてから地の上を摩るのだが、魂は輕々と、或る石造の立派な家の門口をすうつと這入つた。
五
番頭や小僧の大勢ゐる廣間を拔ける。電話が十位並べて掛けてある。それに一人一人小僧が附いてゐて、あらゆる學問技術の智識を供給して貰はうとしてゐる客馬鹿に、けんつくを食はせてゐる。「へえ。なんですと。そんな本はありません。あなたが間違つてゐるのです。さやうなら。」「そんな人の本なんか内からは出しません。調べて下さいですつて。調べるまでもありません。さやうなら。」
製本の出來て來たのを受け取る所がある。新版の本を荷造して送り出す所がある。どの位文運の盛んな國にゐると云ふことは、ここに來て見なくては、想像が付かない。南は沖繩のはづれから、北は樺太、朝鮮、滿洲の租借地まで、汽船、汽車、馬車、自動車を始として、大八車、三泣車、傳馬、はしけに至るまで、あらゆる交通機關を利用して、此店の出版物が配られる。本郷區、神田區以外では售れない本なんぞとは、わけが違ふ。
數々の間を通り拔けて、「文藝唯一之機關」と金文字で題してある大座敷の入口に來た。そこから中へ、ふらふらと吸ひ込まれると、正面が舞臺のやうになつてゐて、眞ん中に大鏡が据ゑてある。己の魂はその鏡へすうと吸ひ込まれた。それと同時に、己の影が大きな腕付の椅子に掛けさせられて、鏡面に現れた。丁度理髮店に行つて据わつたやうな工合だが、體はもう役所に出てゐるのだから、影丈が眞向になつて現れてゐる。そしてその影に魂が這入つてゐるのだから、目も見えれば、耳も聞える。
己は生きながら淨破璃の鏡に掛けられたやうなものである。
己は一座をずつと見渡した。かう云ふと、ひどく落ち着いてゐて、えらいやうだが、さうではない。磁石のやうな強い力のある鏡に、吸ひ寄せられてゐるのだから、動くことが出來ない。そこで目をぱちくりさせて、お座敷を拜見してゐるのだ。
廣い、廣い一間である。それが上段下段に分かれてゐる。上段の間に、此座敷の王樣のやうにして控へてゐる人を見れば、昔馴染の田山君が、あのgigantesqueな頭をして、腕のやうに太い、白い羽織の紐を締めてゐるのであつた。その周圍にはちよいちよい方々で見掛ける顏がある。島崎君だの、島村君だの、徳田君だのが見える。その邊に若い人で知らない顏がある。その中には評判の正宗君なんぞがゐるのだらう。女のお客もをられる。「あら、水野さん」なんと云ふ挨拶が聞える。下段の間は、男女交つて、若い人ばかりがうようよしてゐる。書生さんが大多數を占めてゐて、中には綿ネルのシヤツを着た、田舍の書生さんもある。書生さんでないのは、店員やら、給仕やら、電話の交換手やら、色々の人がゐるらしい。稀には小學校の教員でもあらうかと思はれる、少し年を取つた人も見える。
上段の間は靜かだが、下段の間はさうざうしい。「ああ」と大きな欠をする人がある。「しつ」と云ふ。束髮が咡き合つて、くすくす笑ふ。
「なる程眞劍でなささうな顏をしてゐるなあ。」
「なんだつてこんな魂を引つ張つて來たのだらう。」
「あそびか。へん。」
「情と云ふものがなくつて、感じと云ふものを丸で知らないのだとさ。」
「妙だねえ。」
「ここへ引つ張つて來られて、内心苦んでゐるだらうなあ。」
「なに感じがないから、苦みはしないさ。」
「あれで翻譯は旨いのだと云ふぢやありませんか。」
「さうですつてねえ。だけれどわたし翻譯物は詰まらないから、讀まないわ。」
「なに。古株だと云ふ丈ですよ。脚本なんぞは下手長くて、間があくのです。」
「一字も殘さないやうに譯するので、長くなるのだと云ふことだ。」
「では忠實なのね。」
「ところが臆病なのです。誤譯だと云つて、指擿されないやうにするから、長くなります。」
「夜寢ないさうですよ。」
「まあ、變人ね。」
「細君の小説も書いて遣るのだと云ふぢやないか。」
「あら、嘘よ。奧さんの方が餘つ程旨いわ。」
田山君が席を起つて、鏡の前へ來た。それを見て、下段の間でがやがや云つてゐた連中が、皆默つてしまつた。己は田山君の影で、自分の影が消されるかと思つたが、田山君の影は映らない。
田山君は柄にもない優しい聲をして、己に言ふのである。「けふは君に近作を一つ朗讀して貰ひたいのだがね。」
己はちよつと、どぎまぎした。どうも影なんぞになつて、こんな所へ來てゐて、物が言はれるか、どうだかが疑問である。併し目が見えたり、耳が聞えたりする所を見れば、物も言はれるかも知れないと思つた。そこでこはごは、金魚が池の上に浮いてぱくぱく遣るやうな工合に、口を開いて、驗に云つて見た。「近作だつて。」案じるよりは産むが易い。旨く聲が出た。
「さうさ。創作でなくては行けない。」
己は物が腑に落ちないと云ふ顏をして田山君を見た。多分目まで金魚のやうになつただらう。こつちの方では、己の創作はひどく評判が惡い。現に田山君自身も可否が言ひたくないと云つて逃げてゐる位である。それにどうやら、かうやら通用してゐる翻譯を遣れと云はずに、創作を遣れと云ふのは、合點が行かない。世間では隨分人に出來ない事をさせて慰みにすることもあるが、ここではまさかそんないたづらもすまい。田山君に聞いて見ようかとも思つたが、そんな愚癡つぼい、面倒な事も言ひにくい。それよりは言を左右に托してことわつてしまはうと、己は横着な思案をした。「原稿も何も持つて來ないがね。」
田山君は都會の人が椋鳥のまごつくのを氣の毒がる時のやうな顏をした。「それは君、心配しなくても好いよ。君の讀まうと思ふ本なり、原稿なりが、その鏡に映るのだ。」
かう云つたかと思ふと、腕附の椅子に腰を掛けてゐる、己の影の前へ、あの洋室で灰皿なんぞが載せてあるやうな小さい机が持つて來られた。その机の上には白紙が置いてある。なる程椅子も影丈映つてゐるのだから、机や紙も影丈映らないわけはないと悟つて、己は茶を知らずに圍ひの中へ連れ込まれた人のやうに、事毎に驚いて默つてゐた。
「なんでも君の讀まうと思ふ物が、その紙に映るのだよ。なかなか鮮明だよ。」本屋に關係してゐる丈に、田山君は印刷を褒めるやうな事を言つてゐる。
己はいよいよ窮した。「演説や朗讀は、僕は下手だがね。」
「上手なお饒舌が聞きたいのなら、君に御苦勞は掛けないよ。」
田山君が理窟つぽく出たので、こつちも理窟つぽく出た。「僕だつて下手な事はしたくない。」
田山君はちよいと己の顏を見た。己はぎくりとした。そんならなぜ小説を書くのだと云はれたやうに思つたのである。
下段の間がそろそろ辛抱してゐなくなつて來た。最初は咳拂をする。鼻をかむ。それから色々な聲が聞えだ出す。
「どうしたのだ。」
「人を馬鹿にしてゐるなあ。」
「田山先生。しつかり願ひます。」
「あんなに先生が氣を揉んで入らつしやるのにねえ。」
「さうですよ。早く遣つて早く引き下がれば好いのだ。」
「遣れ遣れえ。」
次第に騷がしくなつて來る。
田山君は決心したらしく、己に宣告した。「そんならけふは顏を見せて貰つた丈で好いから、こん度にしてくれ給へ。」かう云つて、己にくるりと背中を向けて、一座を見渡した。「諸君。」
大座敷がしんとした。
「諸君。十五分間休憩します。」
上段の間でも、下段の間でも、話聲が盛んに起る。あちこちで席を起つ人がある。束髮がさそひ合せて起つて行く。
己はそれを見てゐるうちに、眠つてゐる人が急に起されて床を離れるやうに、ひよいと鏡の面を離れた。離れたかと思ふと、耳ががあんと云つて、目にはなんにも見えない。己の魂は銃口を離れた彈丸のやうに飛んで行く。馬なんぞも歸りは急ぐものだが、魂の急ぎやうは特別だと云ふことを、己は經驗した。
己は體の節々に痛みを覺えた。ふと氣が附いて見れば、もう魂は體に戻つてゐる。己は机に倚り掛かつて、手に印形を持つて、仕拂命令に印を衝いてゐる。机の向うには屬官が立つて待つてゐる。
己は今印を衝き掛けてゐる紙を見た。「玄米八斗五升、糠三升、鷄六羽、蚯蚓」と讀み掛けて、屬官の顏を見た。
屬官は體を屈めて紙を覗いた。「それは鷄の餌になりますのださうで。」
「さうかね」と云つて、己は印をぺたりと衝いた。
底本:「鴎外全集」第十巻、岩波書店
昭和47年8月22日発行