小嶋寶素
森鴎外
その一
我國の考證家に小島寶素と云ふものがあつた。人が其名を知つてゐるのは、經籍訪古志の一書がある故である。書中には多く寶素堂藏儲の古本を載せ、其海保漁村の序、澁江抽齋、森枳園の自序、多紀茝庭の跋、枳園の書後等にも亦藏儲家、校讐家として寶素を説いてゐる。
然るに寶素の何人たるか、又同じ序跋に見えてゐる小島抱沖の寶素に於ける、其親族關係の如何なるかは、これを審にするものが少い。
昔年陸羯南が埋沒せる儒者の一人として抽齋を傳した時、經籍訪古志の序跋に據つて考證家の系統を記し、漁村に從つて吉田篁墩以下の諸家を數へ、誤つて寶素に代ふるに成齋小島知足を以てした。是は成齋と寶素との間に顯晦の差大なるものがあつた故である。
わたくしは二年前より寶素の事蹟を訪尋して、今略これを悉すことを得た。其一端は既に澁江抽齋、伊澤蘭軒二傳の中に見えてゐる。しかし言ふべくして未だ言はざる所のものも亦少くない。
初めわたくしは寶素の家世を詳叙して現存の裔孫に迨ること、蘭軒に於けるが如く、又抽齋に於けるが如きを欲した。今わたくしはその不可なるを知つてゐる。讀者倦憊の情はわたくしをして言を終へしめざるべきが故である。
已むことなくば極力其辭を約にして人の未だ倦まざるに局を結ばしめようか。しかし學者の傳記は王侯將相の直に國の興亡に繋るものとは別である。又奇傑の士、游侠の徒の事跡が心を驚し魄を動すとは別である。學者の物たる、縱ひ其生涯に得喪窮達の小波瀾があつても、細に日常生活を叙するにあらざるよりは、其趣を領略することが出來ぬであらう。是故に叙事の簡潔を努めたなら、愈文字をして索然無味ならしむるであらう。長きはその長きがために倦ましめ、短きはその短きがために趣なからしめる。ハリブヂスを避けむとすればスキルラに陷いる。わたくしに舟を此間に行つて溺沒を免れることが出來ようか。
わたくしは敢て寶素を傳して墨を惜むこと金の如くにする。人に嚼蝋の文を笑はれても好い。わたくしの犧牲となるは前賢のためである。
小島寶素の家系は清和源氏より出でてゐる。六孫王經基の子鎭守府將軍滿政、滿政六世の孫河邊冠者重直、重直の第五子五郎重平が始て小島氏を稱した。重平の子二郎重俊、重俊の子三郎重通、重通數世の後に圓齋と云ふものがあつて、京都に住んで醫を業としたのだと云ふ。
圓齋は家方妙功丸、萬應丸が小兒の病を治すると云ふを以て世に知られた。此人は通稱を以て行はれて、其諱を詳にしない。
圓齋は京都の町醫師より身を立てて、徳川頼宣に仕へ、尋で引退して紀伊の邊邑に住んだ。寛永三年生れの一子祐昌が當時の擧ぐる所であつたことは、寛文七年館林分限帳に由つて證せられる。會若狹國小濱の城主酒井讚岐守忠勝の幼兒が江戸邸にあつて病み、忠勝は圓齋を江戸に招請し、幼兒の篤疾を救治することを得た。將軍家光がこれを聞いて召見し、奧醫師を命じた。事は正保の末若くは慶安紀元の初にあつたらしい。慶安元年三月五日以後圓齋が屡物を賜はつたことが、人見記、二田録等に見えてゐるさうである。わたくしは今一々原文を撿することは出來ぬが、徳川實記の如きも吉田策庵宗以等と共に圓齋の名を載せてゐる。圓齋が當時の祿は切米百五十俵、扶持方三十人扶持であつた。
その二
小島圓齋は明暦三年十二月十日に歿した。年齡は不詳である。寶素七世の祖で、始て芝三田の貞林寺中小島氏塋域に葬られたさうである。法諡を雪峰院實譽源心と云つた。貞林寺は現に一の橋電車停留所の北方小丘陵の上にある。雪峰院の墓石は、わたくしの探討した所によれば、復存せざるものの如くである。
圓齋の妻は何氏なるを知らない。子女各一人があつた。子祐昌は寛永三年生であつたから、三十二歳にして怙を失つたのである。女は小島貞庵と云ふものに適いた。其生歿年を詳にしない。
圓齋の歿した次の年、明暦四年二月に子祐昌が家督相續をした。時に年三十三。是が二世圓齋である。わたくしは識別し易きがために、猶祐昌の名を用ゐる。
祐昌は寛文八年四十三歳にして子春庵を擧げた。母は下總國佐倉の城主松平和泉守乘久の臣杉戸次郎右衞門重方の女である。一説に春庵は早く寛文五年に生れたと云つてある。寶素の幕府に呈した先祖書には兩説が並存してある。
延寶八年五月五日に祐昌は奧醫師にせられた。時に年五十五であつた。新に職を襲いだ將軍網吉が擧げ用ゐたのである。尋で八月十八日に法眼に叙せられた。又十一月二十五日に奧醫師を以て徳松附にせられた。
天和三年五月二十八日に徳松早世し、祐昌は若年寄支配寄合に徙された。時に年五十八。後貞享二年二月十八日に六十歳にして表番醫師に復せられ、四年十二月十五日に六十二歳にして奧醫師に復せられた。
祐昌は元祿四年七月九日に六十六歳にして歿した。法諡を祐泉院玄譽光岳道圓と云ふ。初め祐昌院と云つたのが享保元年に泉字に改められた。祐昌も亦貞林寺に葬られたが、今墓石の存ずるものが無い。是が寶素六世の祖である。
祐昌の妻杉戸氏は夫に先つて歿した。後妻は何氏であつたかを知らない。子女各一人があつた。子は上に見えた春庵で、祐昌の歿した時、二十四歳になつてゐた。女は土屋能登守政直家來安並次右衞門に適いた。
祐昌の歿した年九月十一日に一子春庵が家督相續をした。身分は彦坂壹岐守組小普請である。此家督の日は一説に同年十二月五日としてある。寶素は兩説を並擧してゐる。是が三世圓齋である。
元祿五年十一月二十三日に春庵は奧醫師にせられた。年二十五である。
元祿十六年に春庵は三十六歳にして嫡男豐克を擧げた。母は書院番岡野備中守與力鵜殿甚五兵衞重儀の女である。一説に從へば豐克の生年は寶永二年となる。寶素は二説を並存してゐる。
寶永六年正月十日に將軍網吉が薨じ、春庵は二月二十一日に若年寄支配寄合を命ぜられた。四十二歳の時である。
享保元年に春庵は四十九歳にして第三子春章を擧げた。是より先第二子清春が生れたが、其年を詳にしない。清春は後に出でて坂氏を冒した。寶素の先祖書に「坂春見清春」と書してある。春見は通稱であらう。春章の生年は一説に從へば享保二年となる。寶素は二説を並存してゐる。
享保八年二月九日に嫡男豐克が二十一歳にして部屋住を以て將軍吉宗に謁見した。
元文三年に豐克の子國親が生れた。母は安並次右衞門の養女である。豐克がためには姉妹婿の養女である。
その三
元文三年正月十一日に小嶋春庵、後三世圓齋が七十一歳にして歿した。一に七十五歳に作つてある。寶素の先祖書には二説が並存してある。法諡して深廣院頓譽本空無涯と云ふ。貞林寺に葬られた。初代圓齋より此春庵に至る三人の墓石は今貞林寺中に存せざるものの如くである。少くもわたくしは遍く墓地を搜尋して見出すことを得なかつた。
わたくしは發端より此に至るまで、文の乾燥無味を嫌はずして、忍んで抄録の稿を累ねた。是は事實の全く湮滅に歸せむことを恐れたからである。わたくしは寶素の先祖書を以て唯一の資料としてこれを記した。先祖書の春庵が死を録した下に、注意すべき數語がある。「但元祖より是迄、敷度之類燒に而舊譜燒失仕、委細之儀難相分、且三代目圓齋譜書之内、寛政之度申上相漏候箇條、此度享保八年御目付え答書、並に醫官進退を以補正仕候。」此先祖書は寶素が弘化二年九月に幕府に呈したものゝ原本で、わたくしは寶素三世の裔杲一さんの手から借り得て閲讀した。若し舊幕府の文書中に弘化の書上が遺存してをらぬ限は、此先祖書には恐くは副本がなからう。わたくしの抄寫の煩を厭はなかつた所以である。
春庵、後三世圓齋は寶素が五世の祖である。
上に引いた寶素の語に、「數度之類燒」と云つてある。わたくしは此に小嶋氏が江戸の何れの街に住んでゐたかと云ふ問題を插みたい。
此問題を解決するには唯古武鑑の據るべきあるのみである。わたくしは家藏の武鑑類に就て一わたりの檢索を試みた。元祿元年以前の江戸鑑其他の武鑑類は幕醫小島氏を知らざるものの如くである。わたくしは始て元祿二年の武鑑に「總御醫師、七百石、小島圓齋」あるを見た。是が二世圓齋祐昌である。しかし住所を註せない。元祿九年に至つて、「總御醫師、七百石、するがだい、小島圓齋」の文を見る。是が春庵三世圓齋である。小島氏住所の最も古き記載は駿河臺である。
わたくしは偶元祿九年の武鑑二種を藏してゐる。其先出のものには前記の如く「七百石、するがだい」と註し、後出のものに至つて「百五十表、かきがら丁」と註してある。小島氏は元祿九年に駿河臺より蠣殼町に移つたのではなからうか。此より元祿十五年に至るまで、武鑑の記註には「かきがら丁」の文を見る。十六年には武鑑が圓齋の名を逸してゐる。寶永元年には圓齋の名の上に、單に「本道」と註し、これを「近習御醫師」の間に厠へてゐる。住所は無い。二年に至つて始て「奧御醫師、百五十表三十人ふち、濱町」の記註を見る。三世圓齋は寶永の初に蠣殼町より濱町に移つたものと見える。
濱町の記註は此より下數年の間反復せられてゐる。既にして正徳五年に至つて、始て「三十人ふち、ふか川、小嶋圓齋」の文を見る。三十人扶持は寄合に黜けられた後の俸祿であらう。將軍網吉の死のために寄合に黜けられて、三世圓齋は深川に移り住んだ。
三世圓齋深川の住居は享保十三年に至るまで追尋することが出來る。享保十四年より元文三年に至る間の武鑑は或は圓齋の名を佚し、或は偶これを載せてゐても、「三十人ふち」の祿を註して住所を註せない。
以上檢討し得たる所に據れば、三世圓齋の家は初め駿河臺にあつて、一遷して蠣殼町、再遷して濱町、三遷して深川となつた。貶黜の時の移居は知らず、其他は恐くは「類燒」のために遷つたのであらう。
その四
元文三年正月十一日小嶋春庵三世圓齋が七十一歳にして歿したことは既に記す如くである。わたくしは特に此人を稱するに春庵を以てした。是は小嶋氏にして春庵と稱することは此人に始まる故である。わたくしは諱の傳はらざる三世圓齋を此の如くに呼んで、以て識別に便したのである。按ずるに春庵の稱は家督後暫く襲用せられたものであらう。武鑑の一本に圓齋と書せずして春庵と書してある。春庵易簀の家は恐くは深川であつただらう。
春庵の妻鵜殿氏は三子一女を生んだ。長豐克は父の死んだ時三十六歳であつた。仲清春は其生年を知らない。季春章は二十一歳であつた。そして豐克には是年既に當歳の子國親があつた。女子は早世した。
四月三日に豐克は亡父の跡式を賜はつて、留守居小普請内藤越前守組に入つた。
八月二十七日に清春は留守居小普請内藤越前守組坂壽庵元歡の養子となつた。此縁談は長兄が小普請入の縁故より生じたものであらう。
延享四年に奧醫師村田長庵昌和の三男常次郎が生れた。是が後に春章の養子となつた春庵根一で、寶素の生父である。
寛延元年正月三日に豐克は始て獻藥登城を允された。時に年四十六であつた。
寶暦七年七月二十七日に豐克は五十五歳にして歿した。一に五十三歳に作つてあつて、寶素は二説を並存してゐる。豐克は身を終ふるまで春庵と稱し、圓齋の稱を襲ぐに及ばなかつた。是が二世春庵で、寶素がためには世系上の高祖父である。
豐克の法諡を光學院深譽春庵凉心と曰ふ。貞林寺に葬られた。墓は現存してゐる。歿日は刻文に從つてわたくしが正した。寶素の先祖書に八月朔に作つてあるのは發喪の日である。
豐克の妻安並氏に子女名一人があつた。子は上に記した國親で、父の歿した時十九歳であつた。女は生歿日を知らない。先手長田甚左衞門組與力杉浦與十郎勝胤に適いた。
十一月十二日に國親が家督相續をした。初稱は春策、今圓齋の號を襲いだ。即ち四世圓齋である。身分は島田莊五郎支配小普請である。
越えて寶暦九年五月四日に國親は二十一歳にして歿した。法諡は眞立院一譽春榮義空である。先祖書は義を儀に作り、歿日を五月二十五日に作つてゐる。今墓の刻文に從つて正したのである。國親には妻子が無かつた。是が寶素の世系上の曾祖父である。
五月二十九日に國親の養子春章が跡式を賜はつた。實は初代春庵の第三子で、豐克の末弟、國親の叔父である。春章、通稱は春察である。身分は島田莊五郎組小普請に入れられてゐた。時に年三十九。
寶暦十一年正月三日に春章は獻藥登城を允された。將軍家治が新に職を襲いだ年で、當時春章は高力式部支配の下にあつた。
寶暦十二年八月五日春章は奧醫師村田長庵昌和の三男春庵根一を養つて子とした。根一は時に年十六であつた。
その五
安永二年三月二十九日小島春章が歿した。年五十三である。一に五十二に作つてあつて、寶素がこれを併存してゐる。法諡して大梁院義譽春察是空と云ふ。先祖書には義を儀に作つてある。又歿日の如きも、先祖書には閏三月五日に作つてある。皆墓石の刻文に從つて正した。是が寶素の世系上の祖父である。
春章には妻が無かつた。上に云つた如く、奧醫師村田長庵の三男常次郎を養つて嗣とした。春章の歿後、安永二年六月六日此常次郎が跡式を賜はつた。即ち三世春庵、名は根一である。根一は例に隨つて小普請組に入り、長谷川久三郎の支配を受けた。時に年二十七であつた。
安永三年正月三日根一は獻藥登城を允された。
天明六年十一月四日將軍家齊に謁見した。代替のためである。
七年九月二十九日番醫師を拜し、番料百俵を給せられた。わたくしは此に小嶋氏に關する武鑑の記事を插入したい。武鑑は上に云つた如く、享保中深川に住んでゐた初代春庵を載せてゐる。然るに其後元文、寛保、延享、寛延、寶暦、明和、安永の間、武鑑は絶て寶素の一家を載せない。此間小嶋氏と稱するものは、唯小川町住の幕醫があるのみである。是は全く世系を殊にしてゐて、昌悦、昌恰、昌流等が相承けてゐる。既にして寶素の父根一が番醫師を拜するに及んで、武鑑は纔にこれを登載した。天明八年の武鑑に「表御番醫師、百五十表三十人ふち、本所わり下水、小嶋春庵」と書するものが是根一である。根一は前年四十一歳にして表番醫師に列せられた。
寛政二年七月二十八日に根一は杉浦氏河瀬を養つて女とした。河瀬は「初名みや又民野」と註してある。生父は先手水野筑前守組與力杉浦十郎左衞門勝洗である。恐くは仕宦のために養はれたものであらう。
八年七月二日根一の養女河瀬が淑姫附祐筆となつた。淑姫は將軍家齊の第一女で一橋家の聘を受けてゐた。
九年に根一は三男喜之助を擧げた。是が寶素である。母は奧平大膳大夫醫師前野良澤熹の女である。故に寶素は所謂蘭化先生の外孫に當る。寶素の生れた家は下谷和泉橋通である。何故と云ふに、天明八年より寛政三年に至る武鑑には前の住所が註せられてゐて、寛政四年以下文化二年に至るまで和泉橋道と註してあるからである。按ずるに根一は寛政三四年の交に本所より下谷へ徙つたのであらう。
享和三年五月三日に根一は五十七歳にして歿した。先祖書に六月二十九日に作つてあるのは發喪の日である。法諡して樂邦院安譽馨嶽泰山と云ふ。貞林寺に葬られた。以上豐克より根一に至る四世の墓石は、貞林寺の門を入つて左折し、本堂に至る渡廊下の下を潛つて行く墓地に散在してゐる。
根一の妻前野氏は三子四女を生んだ。嫡子常太郎、第二子は共に早世して、第三子寶素が立嫡した。長女は早世した。第二女は下に婚嫁の事を記する。第三女は早世した。第四女、名は與佐、下に仕宦の事を記する。
根一歿後、九月三日に立嫡第三子喜之助が跡式を賜はつた。名は尚質、字は學古、通稱は春庵、號は寶素である。先祖書に徴するに、初め名を和戚と云ひ、又一たび喜庵と稱した。寶素は小島氏四世春庵である。
寶素は家を繼いだ初に、溝口相模守支配小普請組に入つた。時に年甫て七歳であつた。
その六
わたくしは既に寶素の父祖を叙して、今享和癸亥の歳に至つた。是は父根一の歿して寶素の家を繼いだ年である。
人は或は謂ふであらう。祖先を記する文は縱ひ枯澹ならむも、本傳に入つた上は多少生動の趣あることを得る筈だと謂ふだらう。しかしわたくしは讀者に謝せなくてはならない。何故と云ふに、寶素の事蹟は一も傳へられてをらぬのである。わたくしは唯寶素が市野迷庵、伊澤蘭軒と共に、狩谷棭齋の友として、藏書校書を以て聞えてゐたことを知るのみである。そして此に其官歴家事の斷片を收拾して、率直にこれを筆に上するに過ぎない。
寶素が僅に七歳にして主人となつた時、小島氏の家が下谷和泉橋通にあつたことは上に云つた如くである。さて寶素の最初に遭遇した事は、寄寓してゐた外祖父前野蘭化の死である。
蘭化の傳を閲するに、癸亥十月十七日に女壻小島春庵の家に歿したと云つてある。按ずるに癸亥の歳には先づ五月三日に三世春庵根一が歿し、六月二十九日に喪が發せられ、九月三日に寶素四世春庵が家を嗣いだ。蘭化の死は寶素嗣家の次月である。故に「女壻春庵の家に歿す」は當に「外孫春庵の家に歿す」に作るべきである。わたくしは蘭化が根岸貝塚の隱居所より和泉橋通の小島氏に移居した月日を知らない。此移居は或は女壻三世春庵の生存の日に於てせられたかも知れない。只其歿日は女壻が先で、外舅が後であつた。
蘭化の歿した時、女壻は既に死んでゐた。しかし女は尚健在してゐた。根一の妻にして尚質の母たる前野氏は幼兒を鞠育しつつ、生父の病牀に侍してゐたのである。前野氏は十六年の後、寶素二十三歳の時に歿した。
文化六年十二月二十八日に根一の第二女、寶素の姉が番外科曾谷伯安の嫡子仙丈祐清に嫁した。寶素が十三歳の時である。曾谷は武鑑に「表番外科、二百石、かわらけ町、曾谷伯安」と書してある。
八年十二月に寶素は十五歳にして獻藥登城を允された。是年姉が離縁になつて曾谷氏より歸つて來た。
十年十月三日に寶素は十七歳にして醫學館藥調合役を命ぜられた。是年根一の第四女、寶素の妹與佐が清水式部卿齊明附にせられた。
十三年十一月二十九日に寶素は二十歳にして奧醫師山本宗英惟瑞の女を娶つた。武鑑に「奧醫師、父永春院、小川町、山本宗英法眼」と書してある。十二月二十二日に醫學館挍刻聖濟總録の事に與かつた故を以て銀を賜はつた。聖濟總録は宋徽宗の勅撰の書である。北宋の季年に成つて未だ世に頒布せられず、金の世宗の文定中に始て重刊せられた。それゆゑ南宋諸家にはこれを引用したものが無い。醫籍備考に「文化癸酉歳、元胤與衆醫官議、於活字配印本、閲四歳竣工」と云つてある。此文には誤脱あるものゝ如くであるが、今攷ふることを得ない。元胤は多紀柳沜である。聖濟總録は二百卷、目録一卷、百册になつてゐる。
その七
文化十四年二月十三日に寶素は醫學館藥調合役取締を命ぜられた。時に年二十一であつた。五月十九日に淑姫の死の故を以て、根一の養女にして寶素の義姉なる杉浦氏河瀬が職を免ぜられた。淑姫は將軍家齊の第一女、尾張大納言齊朝の館に入輿してゐたのである。十二月十七日に寶素は調合役取締たる故を以て銀三枚を賜はつた。此より後隔年に賜銀の事があつた。
文政元年十一月に河瀬が淺姫附奉使を命ぜられた。淺姫は家齊の第十一女、將に松平宮内大輔頼胤に嫁せむとしてゐたのである。
二年六月十九日に寶素の妻山本氏が歿した。山本氏の墓は定て貞林寺にあるだらうが、わたくしは見出さなかつた。他日再探すべきである。故に歿日は寶素の先祖書に據る。或は發喪の日であるかも知れない。
山本氏は二子三女を生んだ。嫡子喜之助、第二子金太郎、並に早世した。三女中能く長育したものは獨り第二女あるのみである。此女は大淵玄常道範に適いた。武鑑を按ずるに玄道は「表番醫師、二百表、小川町雉子橋通、大淵祐玄」の子であらう。後玄道は父の職を襲ぐに及んで、「小日向中のはし」に住んだ。
山本氏の歿後、寶素は更に一色氏を娶つた。小姓組松平内匠頭組一色仁左衞門昭墨の女である。其婚嫁の日は未詳である。
七月二十九日に根一の未亡人前野氏が歿したらしい。わたくしは貞林寺の墓に刻してある「諦眞院殿聽譽容顏榮壽大姉」を以て此人となすのである。寶素は怙を失つて後十六年にして恃を失つたこととなる。
文政四年四月二日に寶素は番醫師を拜し、番料百俵を賜はつた。時に年二十五であつた。此年の武鑑に「表御番醫師、百五十表三人ふち、神田土手下、小嶋喜庵」と書してある。是に由つて觀るに、寶素は當時喜庵と稱してゐたと見える。先祖書に「幼名喜之助、後名喜庵」と云ふを見れば、喜之助の後に喜庵と稱したのである。喜庵の稱は春庵の稱に先つてゐるのである。
上に云つた如く、寶素の生れた時(寛政九年)も父根一と外祖父蘭化との歿した時(享和三年)も、小島氏の家は下谷和泉橋通にあつた。既にして文化三年より文政三年に至る十五年間、武鑑は小島氏を載せない。文政四年に至つて、始て小島氏の「神田土手下」の家が記載せられてゐる。
五年八月十七日に根一の末女、寶素の妹與佐が歿した。清水家の奧女中である。九月二十九日に寶素に「屋敷被下、所者見立可相願」の命があつた。
七年五月二十七日に寶素に「於四谷箪笥町、二百一坪餘町屋敷塲所被下置」の命があつた。然るに武鑑には寶素が此賜第に居つたことを記さない。武鑑は文政六年に至るまで小島氏の住所を「神田土手下」と註し、七年に始て「淺草中代地」と註してゐる。四谷賜第の事は惟先祖書に見えてゐるのみである。
その八
文政十二年九月二十九日に寶素は卅三歳にして第三子簏三郎を擧げた。後に春沂と稱した。經籍訪古志の序に所謂抱沖である。母は寶素の後妻一色氏である。當時寶素の家は本所にあつた。春沂の親類書に「私儀文政十一丑年(十二丑年に作るべきである)九月廿九日於本所屋敷出生」と云つてある。按ずるに寶素が淺草より本所に徙つたのは、文政九年の末若くは十年の初であらう。九年の武鑑には舊に依つて「淺草仲代地」と註し、十年の武鑑に始て「本所石はら」と註してあるが故に言ふのである。
十一月十九日に寶素は「仲間取締手傳」を命ぜられた。所謂仲間は恐くは番醫師仲間であらう。
天保元年二月二十五日に寶素の義姉杉浦氏河瀬が歿した。淺姫附奉使の職に居つた女である。寶素の先祖書に「文政二己卯年十一月廿九日靈岸島御住居え御引移之節御供仕相勤罷在候所、同十三庚寅年二月廿五日病死仕候」と云つてある。此文は註釋を待つて始て解せらるべきである。淺姫は將軍家齊の第十一女で、享和三年十二月十日に生れ、文化四年六月十一日に松平政千代周宗に嫁し、周宗の死後、文化十四年九月二十七日に松平越前守治好の嫡子伊豫守齊承に再嫁した。上文の「御引移」は其入輿を謂ふ。
河瀬は初め家齊の長女淑姫に仕へ、淑姫の死後更に其妹淺姫に仕ふることとなつた。時に淺姫は再嫁の約が新に結ばれてゐた。それ故淺姫が入輿の時これに扈隨し、職に居つて終つたのである。
わたくしは此に小島氏の住所の事に關して疑を存して置かなくてはならない。寶素は文政七年に神田に住んでゐて、邸地を四谷箪笥町に賜はつた。其年寶素は淺草に移り、九年若くは十年に又本所に移つた。四谷邸地の發落は終にこれを審にすることが出來ぬのである。
天保三年八月二十五日に寶素は日光准后宮に陪して日光山に登ることを命ぜられ、九月七日に江戸を發し、二十四日に還つた。日光准后宮は輪王寺舜仁親王である。有栖川家より出でて光格天皇の御養子になられた。當時四十四歳であつた。
四年五月三日に寶素は「仲間取締」を命ぜられた。前に仲間取締手傳を命ぜられてより後四年である。時に年三十七であつた。是年寶素は下谷に住んでゐた。前年天保三年の武鑑には舊に依つて「本所石はら」と註してあるのに、此年に至つて「下谷生駒脇」と改め註してある。所謂「生駒」は恐くは交代寄合生駒大藏助親愛であらう。親愛の邸は下谷徒士町にあつた。
六年七月二十五日に寶素は三十九歳にして永姫附を命ぜられ、番料百俵を賜はつた。永姫は將軍家齊の第二十六女で、早く一橋家に嫁してゐた。當時十七歳であつた。
二十六日に寶素は春庵と改稱することを允された。此に至るまで喜庵と稱してゐたのである。
八月十六日に奧詰を拜した。永姫附は故の如くである。
二十二日に毎月一次將軍家齊を診することを命ぜられ、二十五日に初度の診脈をした。
十一月二十日に至つて家齊の家族は殆皆寶素を延いて診せしむることとなつた。「峰壽院樣、松榮院樣、文姫樣、盛姫樣、溶姫樣、末姫樣、喜代姫樣御診被仰付」と云つてある。峰壽院は家齊の第七女峰姫、松榮院は第十一女淺姫、文姫は第十六女、盛姫は第十八女、溶姫は第二十一女、末姫は第二十四女、喜代姫は第二十五女である。
その九
天保七年は將軍代替の前年である。徳川家齊は旨を傳へて寶素に解組後の事を託せしめた。「九月四日、來酉年御移替後是迄之通御診被仰付候旨被仰渡」と云つてある。十月二十一日には誠順院を診する命を受けた。誠順院は永姫落飾後の稱である。十一月十七日には「大御臺」を治したと云ふ故を以て銀三枚を賜はつた。大御臺は家齊の室茂姫である。十二月四日には「大御所」の病のために詰切を命ぜられた。大御所は家齊である。十六日に法眼に叙せられた。是は勅宣の日に遲るるを例とする。二十二日に詰切の勞のために金十兩を賜はつた。二十八日に時服二領を賜はつた。此より毎年七月十二日に時服を賜ふを例とせられた。
八年中寶素は留守居番大久保彌右衞門組與力杉浦彌兵衞勝孔の女とりを養女として松榮院附の女中に薦めた。松榮院は淺姫落飾後の稱である。
十年中寶素は第四子簏四郎を擧げた。名は瞻淇、後春澳と稱した。春澳の親類書に記する年齡より推せば生年天保六年となる。しかし是は官年である。富士川氏藏の自筆日記、其他家に傳ふる所の文書に徴するに、此人の天保十年生であつたことは復疑を容れない。按ずるに簏四郎は兄簏三郎抱沖十一歳の時に生れた。父寶素が二兒を稱するに同一の簏字を以てしたのは奇とすべきである。或は寶素は單に三郎四郎と呼んだかも知れない。
瞻淇の生れた家は下谷二長町であつた。武鑑は天保六年に至るまで寶素の住所を註して生駒脇と云つてゐる。七年八年は住所を註せず、九年に至つて始て「奧詰御醫師、百五十表、下谷二長町、小島春庵」と記してある。要するに抱沖は本所石原に生れ、瞻淇は下谷二長町に生れたのである。
十二年正月元日に太刀目録銀馬代を獻じて賀することを允された。以下毎歳此例に遵ふ。閏正月二十九日に前將軍家齊が館を捐て、三月十日に寶素は「御召御殘品別段御召御紋附御羽織」を賜はり、十九日に「白銀十五枚」を賜はり、二十日に「金五十兩」を賜はつた。銀は前將軍を療した故の賚、金は前將軍の遺物である。三月二十二日に法眼宣旨を領した。二十三日に「右大將樣奧御醫師」を拜し、十一月十一日に隨つて西丸に遷つた。右大將は政之助家祥、後の將軍家定である。寶素は時に年四十五であつた。
十三年六月十日に寶素は日光准后宮に陪して京都に往くことを命ぜられた。准后宮は上にも註した如く、舜仁親王である。八月二十六日に登城辭別し、金二枚、時服二領を賜はつた。九月三日に駕に陪して江戸を發した。十二月十七日に還つた。時に年四十六。此行の逸事は伊澤蘭軒傳に見えてゐる。
十四年九月二十二日に寶素の養女杉浦氏とりが歿した。
弘化元年十月「廣大院樣御病中」詰切を命ぜられた。廣大院は前將軍家齊の室茂姫である。次月十日に逝いた。
二年七月「御簾中樣」の病を療して白銀七枚を賜はつた。簾中は家祥の室である。十月十三日に嫡子抱沖が醫學館素讀教授を命ぜられた。抱沖は十七歳であつた。
その十
弘化三年四月二十四日に寶素は西丸の奧醫師より奧詰に貶せられた。寶素の先祖書は此年九月に作られたもので、「奧詰醫師小島春庵法眼」と自署してあるのに、此貶黜の事を載せない。故に此貶黜以下の記載は主として瞻淇の親類書に據る。抱沖の書上は塙忠韶さんの許にある故、若し誤脱があつたら、他日就て質すことゝしよう。
寶素が奧醫師より奧詰醫師に貶せられたのは、「病氣に付」と云ふことである。按ずるに奧醫師は願に依つて免ぜられたのであらう。寶素は奧詰を拜する時、「香料百俵」を賜はつた。
五月十二日に寶素は醫學館世話役を命ぜられ、扶持方十五人扶持を賜はつた。按ずるに寶素が奧醫師を免ぜられむことを願つたのは、力を學校に用ゐむがためであつたかも知れない。
十一月九日に「御廣敷女中病用可相勤旨」を命ぜられた。是年寶素年五十であつた。
嘉永元年四月十五日に抱沖は二十歳にして醫學館寄宿寮頭取を命ぜられた。是に於て寶素抱沖父子は並び立つて學校の事に任ずるに至つた。
十二月七日に寶素は歿した。貞林寺の墓は下に記する抱沖夫妻の墓の隣にある。墓石に「顯光院滿譽圓明春庵法眼、嘉永元年戊申十二月七日」と刻してある。享年五十二である。
寶素は少時痩小輕捷のために猿坊の稱があつた。然るに漸く長ずるに及んで肥胖し、階を昇るに横歩し、寢に入れば侍女をして身を撫摩せしめて纔に能く眠つた。轎夫の如きも寶素を舁いて二月を踰ゆるものは少かつた。
寶素は再び娶つた。初の妻山本氏の子女は喜之助早世、金太郎早世、女某早世、女某大淵氏妻、女某早世、以上二子三女である。後妻一色氏の出は抱沖、女某一色氏養女、女某、女某早世、瞻淇、以上二子三女である。
寶素には別に養女二人がある。其一は番外科關本伯英長良の女で、寶素に養はれ、奈須玄竹信徳に適いた。武鑑を撿するに關本氏は「神田松永町」住、奈須氏は「本所石はら」住で、奈須氏も亦官醫の家である。其二は上に記した杉浦氏とりである。
二年閏四月に寶素の「病氣差重」と云ふを以て、「跡式願」が進達せられた。歿後第五月である。此月二十九日に「病死」の屆がせられた。是が發喪である。七月八日に春沂抱沖が跡式を賜はり、小普請組津田鐵太郎支配にせられた。十月二十八日に抱沖は番醫師を拜し、番料百俵を賜はつた。時に年二十一であつた。其名は始て次年の武鑑に見えてゐる。「表御番醫師、百表三十二人ふち、下谷二長町、小島春沂。」
六年十一月十九日に抱沖は醫學館世話役手傳を命ぜられた。二十五歳の時である。此年の武鑑には「百五十表三人ふち」と註してある。俸祿の變更は書上に見えない。
安政元年正月二十四日に抱沖は寄合にせられた。「療治出精に付御番御免、寄合被仰付、取來候御番料其儘被下置」の文がある。是に由つて觀れば、此身分變更は一種の特典に出でた如くである。時に年二十六であつた。此年の武鑑には「寄合御醫師、百表三十二人ふち、二長町、小島春沂」と記してある。前年の「百五十表三人ふち」は或は誤ではなからうか。
その十一
安政二年九月十八日に寶素の後妻、未亡人一色氏が歿した。是は日新録に據つて記する。日新録は安政二年より四年に至る「瞻淇手記」の日記である。「十八日、戊寅晴、蚤起。家兄到矢倉多紀氏。辰磐歸家。辰後慈君遠逝。哀歎痛切。擧家愡忙。巳磐伊澤磐安、一色主馬、塙忠寶、保忠、大淵玄道、小森西清、田村元雄、向山温甫、一色鉤、錦諸君來弔。芳賀穆、上子晦廂、北條謙輔來。午後淇到横網。亥磐收尊骸。」家兄は抱沖である。矢倉の多紀氏には茝庭雲從父子がゐた。茝庭は六十一歳、雲從は三十二歳であつた。抱沖は母が前日より病革になつてゐるので、(十七日、慈君病重)往いて病状を報じたのであらう。伊澤磐安は柏軒である。時に年四十六、來弔者の首に載せてある。死者の生家一色氏よりは主馬、鉤、錦の三人が來た。塙氏は抱沖の妻猶の生家である。忠寶、保忠の二人が來た。次郎忠寶は保己一の第四子で家を繼いだ。時に四十九歳。抱沖の妻は忠寶の長女で二十六歳になつてゐた。保忠は今の忠韶さんである。即忠寶の嫡男で、猶の直の弟である。大淵玄道は上にも云つた如く、抱沖の姉壻である。其他の人名は一々註せない。但小森、向山は瞻淇の親類書に見えてゐる名である。最後に「淇到横網」と云ふは、瞻淇が自ら澁江抽齋を本所に訪うて母の死を報じたのである。抽齋は時に年五十一。
越て二十日に一色氏は貞林寺に葬られた。わたくしは特に十九日、二十日の文を抄する。「十九日、己卯晴。蚤朝諸君辭去。午後粉屋筆、一色染婦來。晩塙和三君來。此夜自鐫妣君墓板。家兄記文。有摹本。二十日、庚辰晴。辰磐芳穆到御用番邸。晩葬送。家族、諸君及家兄、淇扈從。」十九日の朝歸つたのは伊澤柏軒等である。十八日の記に、柏軒、忠寶等の名の下に「一泊」と註してある。塙和三郎は保己一の第三子、忠寶の兄、初の名熊太郎である。一色氏の墓版は抱沖が文を撰んで瞻淇が鐫つた。
三年十二月朔に瞻淇が醫學館の寮に入つた。日新録に云はく。「十二月一日、甲申晴。夜風。巳後剃頭。午後移于醫庠學舍。舍長六員。高島祐庵、宮崎立元、岡田昌春、小森西清、井上齡庵、山田宗徳、學生五人、小野苓庵、島田宗篤、鹽谷友仙、古田瑞春、木村三圭、與余六人、是日舍長小森西清。」末に是日舍長某と記してあるのは日直である。瞻淇時に年十八。
四年正月二十二日に寶素の外舅一色仁左衞門が二丸留守居兼講武所頭取にせられた。日新録には「廿二日、乙亥陰、晩雨、巳後訪市谷一色氏、仁君拜二丸御留守居、兼講武所頭取、未後辭去、歸途訪温故堂、晩歸家、酉鼓歸寮、舍長高島祐庵」と云つてある。温故堂は塙氏である。表六番町和學講談所を斥して言つたものである。
二月八日に寶素の第二女、抱沖の姉、大淵玄道の妻が歿した。日新録に云はく。「八日、庚寅晴風。舍長小森西清。酉鼓大淵範寄書告大姉君之死。此夜私家得凶報。兄及藤姉到大淵氏。」抱沖と共に大淵氏を弔問した藤女は寶素の第五女か。
四月十九日に抱沖は家を擧げて塙氏に寄寓した。日新録に云はく。「十九日、庚子陰晴、時雨。午後擧家移于塙氏。淇及祐季、長輔泊榑正町。」欄外に「榑正町より番町塙へ同居」と書してある。武鑑は安政三年に至るまで下谷二長町の住所を註し、四年に至つて始て日本橋榑正町と記してゐる。按ずるに小島氏の榑正町に住んだ間は甚短かつたと見える。忠韶さんの云ふを聞くに、當時抱沖は痔漏を患へて、人の看護に待つことが多かつたさうである。
その十二
安政四年閏五月八日に抱沖は歿した。年を饗くること僅に二十九であつた。是より先抱沖の病に羅つたのは三月の半であつたらしい。聞く所に據れば、病は痔漏を以て起つた肺勞であつた。前年丙辰冬「十一月十一日甲午、兄肛睾間腫起痛楚、加保攝、將爲痔漏状」と瞻淇の記に見えてゐる。此年丁巳二月十三日に多紀茝庭の歿した時には、抱沖は猶前日より徹宵して看護し、翌十四日にも矢の倉の存誠堂に通夜した。三月に入つてよりも醫學館に往來した。例之ば「四日、丙辰晴、風寒冷、巳後歸寮、家兄來」と瞻淇が書してゐる。抱沖の病の事は再び十四日の條に見えてゐる。「十四日、丙寅陰、未後雨、及夜酉皷雪、地震。未後嶋梅溪及淇省家。訪兄之病。」此より下病の事が屡見えてゐる。(「廿五日、丁丑、陰晴。多紀安良、大淵玄道來訪家兄之病。」「廿六日、戊寅、陰雨霏々。喜多村安正、伊澤磐安訪兄之病。」四月。「五日、丙戌陰、午晴。家兄病重。」五月。「十二日、壬戌晴。較催夏氣。晩疎雲送雨。村田長庵書信訪兄之病。」「廿二日、壬申晴、午後驟雨、又霽。劉柳堂書信訪家兄之病。」「三十日、庚辰晴。晩兄病重。大淵玄道、田村元雄來診。」「閏五月朔日、辛巳陰。巳後雨風。送書於劉佶、琰、及頼庸、告兄之病重。」「七日、丁亥陰晴。此夜家兄病重。」)抱沖の病は四月の初に至つて重きを加へ、閏五月初に至つて革になつたのである。瞻淇は兄の死を記すること下の如くである。「八日、戊子陰晴。曉家兄遠逝。擧家悲歎。弔者名姓有別記。以下倣之。」「九日、己丑陰雨或霽。」「十日、庚寅陰、時雨。是日淇及順君。鐫先兄墓版。岳丈記文。有摹本。」抱沖の墓版は塙忠寶が文を撰んで、塙順次郎忠直と瞻淇とが鐫つた。忠直は忠寶の第二子、猶と忠韶との弟で、後に堀田氏を冒した。「十一日、辛卯、曉微雨、巳後晴。曉先兄弔送。送者有別記。巳後歸家。」
抱沖の喪は久しく祕して發せられなかつた。八月七日に至つて醫學館世話役手傳を免ぜられ、十一月二十七日に弟春澳を以て養子となすことを允され、十二月八日に春沂の喪が發せられた。死後六月の事である。春澳瞻淇の日新録に云はく。八月。「七日、乙卯陰晴、晩雨。晩助教免書自大淵氏來。」「十日、戊午晴。兄喪闋。拜神前。」十一月。「廿七日、甲辰雨。依大淵玄道君名代、蒙嗣子之命。」十二月。「八日、乙卯晴。此日發家兄之喪。」
貞林寺の寶素、抱沖の墓は父祖のものと所在を異にし、又石の形をも異にしてゐる。上に云つた如く、豐克より根一に至るまでの四代の墓は、寺門を入つて左折し、本堂に至る渡廊下の下を潛つて達すべき墓地に散布してゐる。且石が小く、刻む所の文字が樸拙である。これに反して寶素、抱沖の墓は寺門を入つて直に右してこれを見ることが出來る。寶素、抱沖、抱沖室の三墓は門右の生籬に背して立つてゐる。聞く所に從へば、抱沖未亡人塙氏が有馬家に仕へて維新後に至り、職に居つて歿した時、有馬家は塙氏の功勞に酬いむと欲し、夫妻の石を其父寶素の墓の側に立てたのだと云ふ。此三墓は其石が高く大きく、就中抱沖夫妻の二墓は刻む所の文字が妍巧である。
抱沖の墓には「登香院最譽義天春沂居士、安政四年丁巳閏五月八日」と刻し、妻の墓には「榮壽院香譽誠室明鏡大姉、明治三十一年戊戌二月五日」と刻してある。
抱沖は上に記した如く小字を簏三郎と云つた。名は尚眞、後春沂と稱した。抱沖は恐くは其字であらう。
抱沖の妻、塙氏、名は猶である。保己一が家女に生ませた第四子が次郎忠寶、忠寶が平尾武大夫の女を娶つて生ませた長女が猶である。猶は天保元年正月に生れて、夫抱沖より少きこと僅に一歳であつた。それゆゑ抱沖が二十九歳にして死した時、猶は二十八歳の未亡人となつた。
猶は抱沖に嫁する時、一色全翁の養女となつて嫁した。全翁は一色仁左衞門の子徒頭一色半左衞門が剃髮後の名である。猶は小嶋氏に適いて二女を擧げた。明治元年瞻淇の書上に「私手前罷在候」と云つてある。
猶は未亡人となつた後、久留米侯有馬家に仕へ、初め若年寄花野と稱し、後老女嶋浦と稱した。明治三十一年二月五日に六十九歳にして橋塲の有馬邸に歿したのである。
その十三
安政五年三月四日に瞻淇は抱沖の跡式を賜はつた。身分は小普請組阿部兵庫支配である。時に年二十であつた。
文久二年二月七日に瞻淇は醫學館寄宿寮頭取出役を命ぜられた。四月九日に小普請役金を免じ、八朔五節句月次の登城を允された。時に年二十四。
慶應元年十一月十四日學術優等と云ふを以て「卷物五卷」を賜はつた。時に年二十七。
二年八月五日に海軍奉行支配に屬せられた。時に年二十八。
三年二月二十八日に「醫學館世話役手傳介、試業頭取之二掛り」を命ぜられた。十月二十四日に留守居支配に屬せられた。時に年二十九。瞻淇の親類書は翌年戊辰改元前四月の屬稿に係るもので、その記する所は此に止まる。
明治十三年十二月五日に瞻淇は歿した。享年四十二である。小島氏の先塋は貞林寺にあるに、獨り瞻淇は麻布重秀寺に葬られた。重秀寺は四の橋より田島町を南へ衝き當りて東に折れたる街の右側にある。氷川神社東隣の大寺である。石級數十を登つて、本堂の裏、東南隅に至れば、貞林寺の借地がある。高さ二尺許の方柱形の石が南面して立つてゐる。其表には惟「小島尚絅之墓」の六字が刻してある。趺石は無い。
小島氏の諸墓中抱沖夫妻の二墓は現に有馬氏の保護の下にある。其他は瞻淇の嗣子杲一さんの久しく遠遊してゐるために荒草の中に埋もれてゐる。
瞻淇は小字を簏四郎と云ひ、長じて春澳と稱した。名は尚絅である。瞻淇は恐くは其字であらう。
瞻淇は善書であつた。わたくしは日新録の細楷と親類書の行書とを見てこれを知つた。
日新録は安政二年正月朔日より四年十一月三十日に至る日記である。紙數六十八頁。通篇漢文體を用ゐ、簡淨を極めてゐる。一日の記、少きは僅に一行、多きも三四行に過ぎない。但三年二月六日より九日に至る銚子紀行は文が稍長く一日の記十四行に至るものがある。
日新録は偶廣瀬旭莊の九桂草堂隨筆とその成つた時を同じくしてゐる。旭莊が大阪伏見町の僑居にあつて、長三洲をして筆受せしめたのも亦安政二年で、稿を續いで四年に至つた。わたくしは曾て蘭軒を傳して伊澤氏と頼氏との顯晦を言つたことがある。小島氏の廣瀬氏に於けるも亦これに似たるものがある。
瞻淇は塙忠寶の第四女定を娶つた。忠寶に猶、幸、鋹、定、細矩の五女があつて、抱沖は猶を娶り、瞻淇は定を娶つたのである。定は天保十四年生であつたから、明治十三年に瞻淇の歿した時、三十八歳であつた。後二十年、明治三十三年に定は五十八歳にして歿した。
小嶋氏の祖先末裔の事にしてわたくしの知り得た所は此に盡きた。引く所の文書の外、わたくしは瞻淇の嗣子小嶋杲一さんに質し、又塙忠雄さんを介して其父忠韶さんに質して、纔に此世傳を補綴することを得たのである。
寶素は前野蘭化の外孫である。抱沖瞻淇は塙忠寶の女壻である。然るに世には前野氏と塙氏とを知つて小島父子を知らぬものが多い。
前野氏の洋學を首唱し、塙氏の叢書を刊行したのは、固より世を稗益すること大いなるものである。しかし寶素と其二子との古書を挍讎した功も亦決して歿すべからざるものである。
底本:「鴎外全集」第十八巻、岩波書店
昭和48年4月23日発行