鈴木藤吉郎

森鴎外

      一

 鈴木藤吉郎とはいかなる人か。世人の偶其名を知るは、松林伯圓に講談安政三組盃あるがためであらう。然るに憾むらくは彼講談は事實に據つて潤色を加へたものではなくて、殆全く空に憑つて結撰したものである。

 わたくしは講談の實にあらざるを知つてゐる。しかし藤吉郎がために傳を立つるには信憑すべき資料に乏しい。若しわたくしを促して筆を把らしむるものがなかつたら、わたくしは敢て此に手を著けなかつたであらう。

 一日未見の人がわたくしを訪うて一卷の書を留めて去つた。其客の名は越川文夫さんである。わたくしは會家にゐなかつたために、越川氏を見なかつた。次で越川氏の季子野澤嘉哉さんと相識ることを得て、わたくしは越川氏のわたくしに求むる所の何事なるかを知つた。

 越川氏の留むる所の書は題して「安政三組杯辨妄」と云ふ。これをわたくしに示すのは、世に公にして鈴木藤吉郎がために冤を雪がむと欲するのである。

 わたくしは辨妄を通讀した。辨妄は全篇十回より成り、別に補遺三篇がある。わたくしは反復して讀んだ後、略その叙する所の要領を知ることを得た。

 辨妄には「市川醒癡」と署してある。「市川」は越川であつて、「醒癡」は文夫さんの號である。そして書中に云ふ所より推せば、此越川氏は鈴木藤吉郎の妻の從父弟の子で、曾て一たび齋藤氏を冒したものである。

 わたくしは野澤氏に思ふ所を告げて云つた。「君の嚴君の書は伯圓の妄を辨ずることを主としてゐて、鈴木藤吉郎の何人なるかを傳ふるに於ては遺憾が少く無い。其立意が消極であつて、積極で無い。然るに伯圓の妄は具眼の人の容易に看破し得る所で、必ずしも辨ぜずして可なるものである。今鈴木がために冤を雪がむと欲するには、新に確據ある鈴木の傳記を草するに若くは無い。これを草するには猶進んで、文獻遺蹟を渉歴し、故老の説を敲いて采擇すべきである」と云つた。

 越川氏はわたくしの言を納れて、野澤氏をして採訪の事に任ぜしめた。しかし既刊の書中鈴木の事を載するものは甚少いらしい。わたくし共は僅に關根只誠の名人忌辰録、櫻木章の幕末史側面觀、並に篠田鑛造の幕末百話に於て各數行の記事を獲たに過ぎない。

 これに反してわたくし共は目のあたり鈴木の面を觀た人の猶存することを知つた。それは川越にある佐久間長敬さんである。わたくしは姻戚荒木三雄さんに由つて佐久間氏の名を識り、同じく川越に住せる安部大藏さんを介してこれに好を通ずることを得た。野澤氏は自ら川越に赴いて佐久間氏を訪うたのである。

 又下總國香取郡豐和村字大寺に丁巳八十五歳の桑田五右衞門と云ふ人があつて、藤吉郎の妻越川氏勢喜が婚嫁の頃の事を記憶してゐる。文夫さんは野澤氏を遣つて其談話を聞き取らせ、同時に越川氏の菩提所長福寺の墓石、過去帳、越川貫一さんの家にある位牌等を撿せしめた。

      二

 わたくしは關根、櫻木、篠田三家の既刊書、越川氏の稿本、佐久間桑田二氏の談話、以上六人の傳ふる所を併せ考へて、就中據るべきものの尤多いのは越川氏の文であることを知つた。

 人は或はわたくしに忠告して、わたくしの言の俗耳に入り難く、隨て新聞紙に載するに適せざるは考證あるがためだと云ふ。わたくしも必ず否とは云ひ難い。しかしわたくしは今こそ寄席劇場に遠ざかつてゐるが、少壯時代には殆毎夕寄席に往き、殆毎月劇場に入つた。そして講釋師が既往の事蹟を討ねむがために、わざわざ其境を踏破し、席に上つて旅次の見聞を叙するを聽いた。又俳優の故實を問うて技藝の上に應用するを觀た。明治初年の聽衆看客は啻に之を厭はざるのみならず、却てこれを懌んだ。今の新聞紙を讀むものが、果して言の考證に渉る毎にうるさがり、もどかしがり、絮語聞くに堪へずとなすならば、是は時運の變遷である。わたくしは多大なる興味を以て此變遷に留目する。わたくしは復自家の文章の世に容れられざるを憂ふるに遑が無い。或は想ふに此の如きは聰明なる操觚者の夙く知る所で常識なきわたくしが獨遲れて醒めぬのであらうか。果して然らばわたくしは愈その妙なるを覺える。わたくしは復自家の檮眛を欺くに遑が無い。

 わたくしは越川氏に催されて鈴木藤吉郎を傳するに當り、期せずして又考證の窠臼裏に墜ちようとした。わたくしは忠言を納れて、五種の資料中より事實の核心を捉へ來り、努て言の考證に渉るを避けて下に約説する。

 鈴木藤吉郎は何許の人なるを知らない。その出自を言ふこと最精きものは關根氏で、下野國都賀郡某村の農藤吉の子だと云ふ。櫻木氏は上總生だと云ふ。越川氏は水戸領内の人であらうと云ひ、且上總説の由つて來る所は、上總東金に藤吉郎の妻勢喜の小母の生家三浦權右衞門の家があつたために謬り傳へたものかと云ふ。要するに藤吉郎は江戸を距ること東北數十里の外に出でぬ地に生れたらしい。伯圓が出羽國紫村穢多頭紫權太夫三男藤之助となしてゐるのは架空の言である。しかし生地の明確ならざるは越川氏辨妄の唯一の弱點である。

 藤吉郎の小名は知れない。藤之助の取るに足らざるは勿論である。關根氏は長じて政之進と云つたと云ふ。是は恐くは郷を離れて身を立てようと志した後の稱であらう。

 生年は享和元年であらう。是は關根氏の傳ふる歿年安政六年五十九歳より逆算したものである。

 藤吉郎が生れてより天保五年三十四歳に至る間の事は全く暗黒の裏にある。伯圓は藤吉郎の藤之助は父に棄てられ、文政元年八月に秋田住佐竹藩士渡邊源兵衞久に拾はれ、源二郎と名づけられたと云ふ。しかし文政元年には藤吉郎は夙く十八歳になつてゐる。棄兒にはふさはしからぬ齡である。

      三

 わたくしは享和元年に鈴木藤吉郎が生れてより、天保五年三十四歳に至るまでの間、事蹟の徴すべきものが無いと云つた。此甲午の歳と雖、藤吉郎が某の事をなしたと傳へられてゐるのではない。しかし爰に此年を以て限るべき二事があつて、それが藤吉郎の身上に關してゐる。一は藤吉郎が一橋家の書院番頭鈴木總右衞門の養子となつて藤吉郎と稱したのが天保中の事であつたと云ふ關根氏の言である。二は藤吉郎が干與したと云ふ印旛沼開發の事が老中水野越前守忠邦の用ゐた策であつたと云ふ越川氏の言である。然るに水野忠邦は此甲午の年に老中に列せられた。故に印旛沼開發工事の發端は甲午以後に於てせられたと看るべきである。そして藤吉郎は此工事の發端に先つて鈴木氏を冒したらしく思はれる。伯圓は藤吉郎の渡邊源二郎が人を殺して佐竹藩を脱し、上野宮用達鈴木五郎右衞門の養子となつて藤吉郎と稱したと云つてゐるが、信ずるに足らない。

 要するに藤吉郎が鈴木氏を冒したのは、其立身の本である。當時諸家小吏の世祿は所謂株として賣買せられた。藤吉郎は天保の中頃(甲午前後)に鈴木氏の株を買つたのではなからうか。

 藤吉郎は既に一橋家の臣籍に厠することを得て、尋で幕府の直參たらむことを求めた。しかしその幕府の直參たらむことを求むるに當つて、自ら浪人と稱したことを思へば、未だ幾くならずして一橋家の臣籍を去つたものとおもはれる。此間に於ける藤吉郎の動靜を考ふるには、天保五年以後弘化元年に至る十一年間の幕僚更迭に注目しなくてはならない。何故と云ふに越川氏は藤吉郎が主に阿部伊勢守正弘、久世大和守廣周、跡部能登守良弼に知られ、水戸老侯を後楯として業を起したと傳聞してゐる。そして幕府に此コンステルラシヨンを生じたのは此間の事だからである。

 阿部正弘は天保十四年閏九月に老中に列せられ、弘化元年七月に勝手掛を拜した。跡部良弼が江戸南町奉行を勤めたのは、弘化元年九月より翌年三月に至る足掛七箇月間である。是より先天保十四年の町奉行は南鳥居甲斐守忠耀、北鍋島内匠頭直孝であつたが、弘化二年の三月以後には南遠山左衞門尉景元、北鍋島直孝となつた。遠山景元は跡部良弼に代つたのである。良弼が後に再び町奉行となつたのは、安政三年十一月である。久世大和守廣周の老中に列せられたのは、弘化紀元より七年の後、嘉永四年十二月である。

 水戸宰相齊昭は文政十二年以來藩主となつてゐて、其退隱は弘化紀元五月に於てせられた。是が藤吉郎の「後楯」たる老侯である。

 天保十四年癸卯には藤吉郎四十三歳、弘化元年甲辰には四十四歳であつた。その幕府直參となつたのは必ずや弘化甲辰の後であつたらしい。四十四歳後であつたらしい。或は更に遲れて、跡部良弼再任の町奉行時代であつたかも知れない。

      四

 鈴木藤吉郎は一橋家の臣籍を去つて、幕府の直參となつた。其職は初め町奉行所用聞、其格式は三十人扶持與力上席である。

 此任命の年は未詳である。關根氏の記を瞥見すれば、任命は安政三年なるを確認すべきものの如くである。しかし此記には誤脱があるらしい。わたくしの誤脱ありとなすは、固より十分の思索を費した後に始て言ふのである。しかし玆に其説を盡すことはわたくしの敢てせざる所である。わたくしは考證のために多く辭を費さざることを誓つたからである。

 越川氏の記に據れば、是より先藤吉郎が一橋家の臣籍を脱したのは頗る早い。そして事は桑田氏の語つた藤吉郎迎妻の事に連つてゐる。

 下總國大寺村(今の豐和村字大寺)に旗本知行八百石中島某の采邑があつた。按ずるに此中島は表四番町住中島伊豫守の家である。當時の主人は三左衞門であつた。

 此旗本中島の采邑に農家にして醤油を釀造する越川氏があつた。主人を世嘉左衞門といふ。越川氏の田地は五十餘箇村に跨り、其收穫は殆三千石であつた。

 越川氏の記に據れば、天保八年頃の越川嘉左衞門は五十五六歳の老人である。嘉左衞門の弟嘉重郎は別家して文政九年二月二十七日に死し、それに女勢喜と子政五郎とがあつた。此子女は皆伯父嘉左衞門の世話になつてゐたが、慧敏にして太柔順ならざる勢喜は伯父との折合好からず、遂に奉公に出さるることとなつた。天保七年に勢喜は嘉左衞門の取引先なる江戸小網町の醤油問屋の隱居所に來た。行儀見習の小間使となつたのである。時に勢喜は二十一歳であつた。

 勢喜の江戸に出た翌年、天保八年であらう、夏の夕に行裝の立派な武士があつて、團扇を手にして門邊に納凉してゐる嘉左衞門の前に來た。武士は即鈴木藤吉郎であつた。

 藤吉郎は嘉左衞門に謂つた。「自分は江戸傳馬町に住んでゐる浪人である。追ては幕府に召し出される筈になつてゐるので、妻を娶りたい。其妻は別人では無い。小網町に奉公してゐる貴殿の女姪である。適當な媒灼人を得て申し込ませることは難くもないが、かくては事情を詳悉する上に於て憾がある。自分は料らずお勢喜殿と相識になつて心中を打明け、本人の承諾を得た。野合では無いから、其邊の御心配は御無用である。此上は後見をなさる貴殿の御承認を願ひたい」と云つた。嘉左衞門は其相貌と辯説とに動されて直に諾した。時に藤吉郎三十七歳、勢喜二十二歳であつた。是に由つて觀れば藤吉郎は天保八年に既に一橋家の臣籍を脱して、自ら浪人と稱してゐたのである。

 次年、天保九年に嘉左衞門は取引があつて江戸に出た。小網町の問屋で取引を濟ませ、新夫婦を傳馬町に訪うた。路次に面した門構の家である。大なる飛石七つ八つを踏んで玄關に至る。家は四間許の廣さである。鈴木夫婦は待ち受けてゐた。使役は下女一人であつた。欵語數刻の後、夫婦は嘉左衞門を料理屋へ連れ出して晩餐を共にし、轎を倩つて旅宿に送り屆けた。旅宿は嘉左衞門の定宿小網町三丁目大坂屋であつた。翌日は郷に歸るべき前日であつた。嘉左衞門は鈴木へ暇乞に往つた。さて辭し去るに臨んで、嘉左衞門は傍に置いた風爐舖包を取り上げた。

 「大そう重いやうですね。輕いのに兩替して上げませうか」と主人が云つた。

 嘉左衞門は少し驚いて主人の面を視た。「二分銀で四百兩あるのだがね。」嘉左衞門は浪人の主人が即座に兩替することを得むや否を危んだ。

 主人は「お易い御用です」と云つて、徑に起つて、二分金四百兩を出して來た。「此頃は二分金には性の惡いのもありますが、わたくしの所のは確な積です。若し間違がありましたら、御遠慮なくお申越下さいまし。早速お引替申します。」

 嘉左衞門は驚き謝して別を告げた。

      五

 鈴木藤吉郎の幕府に召し出だされたのが、天保末年以後であつたことは勿論で、早くて弘化嘉永の交か、又は遲れて安政三年後であつただらう。

 下總の越川嘉左衞門が女姪の夫藤吉郎を江戸傳馬町の家に訪うたのは天保九年である。藤吉郎が幕臣となつたのは、わたくしの推定によれば、少くも約十年後即弘化嘉永の交か、更に降つて約十八九年後即安政三年以降の事でなくてはならぬ。

 藤吉郎は江戸町奉行の下に屬する與力上席に召し出だされて、初は用聞と稱し後所謂潤澤掛の職に就いたのである。

 潤澤掛とは異樣な職名である。孟子より出でたか、淮南子より出でたか知らぬが、漢語を以て職に名くる例は當時絶て無くして僅に有つたのである。潤澤掛は江戸町物價の調節を謀つたものらしい。後に藤吉郎は米油取引所を創設せむと欲して果さなかつたと云ふより見れば、潤澤掛の職責も亦推知し難くは無い。米油取引所は藤吉郎が自己の管掌する所の職務のために設けむとした機關でなくてはならぬからである。

 佐久間氏の言に據れば、米油取引所の設立は藤吉郎が始て著手したのではない。是より先これが剏立を謀つたものが數人あつて、皆失敗した。文政中の杉本某の如きは其一例だと云ふことである。

 潤澤掛の設置はその何れの年なるを知らない。しかし藤吉郎の庇護者の關係より觀て、其時を嘉永紀元の頃であつたとすると、其町奉行は誰であつた歟。當時南町奉行は遠山景元、北は鍋島直孝で、十一月に至つて牧野駿河守成鋼が鍋島に代つた。又安政三年後であつたとすると、北跡部良弼で、南池田播磨守頼方である。藤吉郎の所屬が南北いづれであつたかは記載を闕いてゐるが、わたくしは恐くは南であつたかとおもふ。若し然らば其上役は遠山か池田であつただらう。遠山は中根香亭の傳を立てた歸雲子で、少時森田座囃方を勤め吉村金四郎と稱したと云ふ非凡の才子である。

 藤吉郎は町奉行所に就職する前後に一たび傳馬町より八丁堀に徙り、再び八丁堀より花川戸に徙つた。川柳に「藤吉ははしば(橋場、羽柴)でなくて花川戸」と云ふ句があつた。家には用人小川主馬が居り、重立つた家來には上總東金在の生で、長助と云ふものが居つたさうである。

 藤吉郎は就職前から在職中に掛けて何事をなしたか。此間の記は、資料に乏しきがために、編年の體を成すに堪へない。わたくしは只類に從つてこれを列記しようとおもふ。

      六

 鈴木藤吉郎就職の年は不明であるが、その安政五年六月に潤澤掛を免ぜられ、尋で獄に下つたことは、關根氏の記に徴して明である。

 此より藤吉郎が就職前より在職間に掛けてどんな生活をなしたかを抄記する。

 藤吉郎は先づ花川戸の第宅に三階を造つた。是は仕宦前の事であつたらしい。當時三階建は官の禁ずる所であつた。藤吉郎がこれを犯して能く咎を免れたのは、市民がその標榜する所に懾れて敢て告發せなかつた故であらう。

 藤吉郎は妻勢喜に子が無かつたために、是より先天保九年の頃勢喜の從父弟越川卯三郎を養つて子とせむと欲し、これを家に迎へた。卯三郎は勢喜の伯父嘉左衞門の三男である。嘉左衞門には三子一女があつた。長子某は夭し、仲子直二郎は嫡嗣となり、三子卯三郎が出でて鈴木氏に倚ることとなつたのである。卯三郎は養父藤吉郎の奧州に旅行した留守中に江戸に來り、客分として花川戸の家に留まつた。

 勢喜は弟政五郎と其子松之助とを江戸に呼び迎へて本所に住はせた。是は彼卯三郎が花川戸の鈴木方へ來たと略同時で、天保九年の事であつたらしい。

 勢喜は天保十年十二月二十八日に伯父嘉左衞門の喪に遭つた。墓に「誠諦院章解日昌信士、天保亥十二月廿八日、越川嘉文墓」と題してある。嘉文は嘉左衞門の諱である。年は五十八九歳であつた筈である。勢喜は文政九年十一歳にして怙を失ひ、今又二十四歳にして養育の恩ある伯父を喪つた。故郷の神社佛閣に此女の寄附に係る物件があるのは、此遭遇が神佛に依頼する念を起さしめたのであらう。

 勢喜は天保十一年に大寺村の某祠に幕一張を獻納した。幕には「天保十一年庚子歳三月吉祥日、施主鈴木勢喜」と題してある。

 勢喜は生家の菩提所長福寺の門を造立した。恐くは同じ頃の事であらう。

 嘉永元年四月五日に勢喜の伯父亡嘉左衞門の繼嗣直二郎が歿した。藤吉郎は卯三郎を遣り歸して兄の後を襲がしめた。直二郎の墓には「常在院靈鷲日山信士、嘉永元戊申年四月五日、嘉光墓、通稱直二郎」と刻してある。

 卯三郎の下總に歸る時、藤吉郎は關孫六作の短刀を贈つた。傳ふる所に據れば、初め水戸齊昭は關孫六作の二刀を愛藏してゐた。そして其一はこれを水木求馬に授け、其二はこれを藤吉郎に授けた。藤吉郎の卯三郎に贈る所は即此刀であつたと云ふ。

 藤吉郎の妻勢喜は安政四年八月二十四日に歿した。越川氏の族磯部香夢さんの家廟にある位牌は、上に下藤の紋を蒔繪し、下中央に「慈仁院殿觀月妙珠大姉」と書し左右に「安政四丁巳年八月廿四日」と分註してある。年を享くること四十二歳であらう。是は江戸に來た時の二十一歳より順算したものである。

 勢喜は遺言して江戸某寺所藏の日の曼荼羅を摹して長福寺に納めしめようとした。曼荼羅の事は下に再記するであらう。

      七

 わたくしは鈴木藤吉郎の家事を叙して、其妻勢喜の行状を書いた。越川氏の所謂辨妄は主に藤吉郎の配偶の事に關してゐる。松林伯圓は藤吉郎の妻を以て越後國村上布屋吉兵衞の女あさとなしてゐる。伯圓が此あさを出したのは全く虚構である。勢喜の族人たる越川氏は、これを不問に置いて勢喜の名を湮滅せしむるに忍びず、又勢喜の夫をして何の據もなしに穢多の汚名を負はしむるに忍びぬが故に、辨妄の筆を把つたのである。只憾むらくは藤吉郎の出自は、既に云つた如くに、頗明確を缺いてゐる。

 次にわたくしは藤吉郎が在職間いかなる事業を作したかを問ひたい。

 潤澤掛は江戸市中に於ける物價の調節を謀つたものらしく、藤吉郎は此職に居つて、これが機關たる米油取引所を創設せむと欲して果さなかつた。しかし藤吉郎は獨此にのみ從事したのではない。町奉行所の業務には行政あり、司法あり、又警察がある。藤吉郎は初め用聞に任ぜられてより、町奉行の下、與力の上に居つて、直接又間接に此職域に屬する事件に干與せざることを得なかつた。今越川氏の記に據つて諸事件を列擧すれば、概ね下の如くである。

 一、藤吉郎は品川臺場の工事に與つた。しかしそのこれに與つた範圍の大小を詳にしない。聞く所に據れば、品川臺場の工事は、嘉永六年六月に米使の來航した後二月即八月に起り、次年安政元年四月に至つて其過半が竣功したさうである。若し藤吉郎の就職が安政に於てせられたとすると、此事業は裏面に於て干與したに過ぎまい。

 二、藍染川埋立。

 三、今川橋川筋埋立。此等の埋立は河幅を狹めたのであらう。後者は火除土手を崩して其土を用ゐ、本銀町一丁目より大傳馬町鹽町北に至る間を埋めたさうである。當時川柳に「藤吉が出でて今川滅びけり」と云ふ句がある。

 四、柳原籾藏火除地開拓。

 五、筋違門火除地開拓。

 右藍染川埋立以下の工事は要するに皆無用の地を變じて有用の地となさむとしたもので、同種の興利事業である。推するに藤吉郎は川筋の濶きに過ぎ、火除地の大なるに過ぐるを見て手を下したことであらう。

      八

 わたくしは鈴木藤吉郎が干與した土木の事業五件を列擧した。次にわたくしは藤吉郎が

 六、訟を聽いた一例を抄出する。是は幕末百話の載する所である。兩國吉川町に遊人三吉と云ふものがあつた。賭博の場で南町奉行所の與力に捕へられた。さて奉行所に引き出されて見れば、掛りの役人は藤吉郎であつた。

 「其方は何を致した」と鈴木が問うた。

 「へい、つひ手なぐさみを致しまして、お上に御厄介を掛けまして相濟みません。」

 「宜しい。」

 三吉は手錠を卸されて町内預にせられた。手錠は同心に金を餽れば鬆くしてくれる。所謂袖の下である。三吉は金を使つて鬆い手錠を卸された。自由に兩手を拔差することが出來るのである。平生は手錠を拔いて置いて、但所謂手先の衆に問はれた時手錠を出して示し、又番所即奉行所に呼び出された時手錠を嵌めて往く。吉川町の名主五人組も固より大目に見てゐるのである。

 偶吉川町に火事があつて、三吉の家が燒けた。其日三吉は手錠を家に遺して置いて遊びに出てゐたので、手錠は灰燼に委せられた。これがために周章すること甚しかつたのは、三吉ではなくて名主五人組である。何故と云ふに、若し此事が表沙汰になると、吉川町は所謂閉町を命ぜられて商賣を休まなくてはならぬからである。

 名主以下は數度寄合をして、これに處する手段を議したが、遂に策の出すべきものが無かつた。後に三吉は糊紙製の手錠を持つて寄合の席に來た。外觀は眞に逼つてゐた。三吉はこれで差當りお手先に見せる物はありますと云つた。

 一日忽ち番所の呼出があつた。すは一大事と町内は鼎沸した。中に意外に落ち著いてゐたのは三吉で、例の糊紙製の手錠を嵌めて番所に出た。

 「三吉、其方の手錠は大そう綺麗だな」と鈴木が云つた。

 名主五人組は手に汗を握つた。

 「へい、お大事に致して居りますから汚れません」と三吉は答へた。

 鈴木は意味ありげに笑つた。そして同心等を顧て云つた。「あの手錠は出來が惡いから、丈夫なのを卸して遣せ。」

 名主五人組は蘇生の念をして、三吉をつれて退出し、心に深く鈴木を徳としたさうである。

 わたくしは前に藤吉郎は南町奉行所に屬してゐたらしいと云つたが、此話は其證の一とすべきである。

      九

 鈴木藤吉郎が事業の江戸市政に關するものは上の六件に盡きてゐる。此よりして外藤吉郎は諸藩のために經營する所があつた。越川氏の記に、藤吉郎が

 七、某藩のために財政を釐革したと云つてある。越川氏は費用を節約せむと欲すれば、冗吏を澄汰せざることを得ず、藤吉郎はこれがために細人の怨を買つたらしいと云つてゐる。按ずるに某藩は水戸藩ではなからうか。關根氏の記に據れば、藤吉郎は嘉永二年に水戸藩の藏方となつて十人扶持を受け、安政二年に暇になつたと云ふことである。然らば藤吉郎が四十九歳より五十五歳に至る七年間で、潤澤掛たる初か其前の事であつたゞらう。藤吉郎が水戸齊昭に接近した初の事は、其迹が頗晦昧である。唯越川氏の記に齊昭の狩獵の供をしたと云つてあるのみである。狩獵は所謂追取狩である。次に

 八、下總國印旛沼の開墾も亦藤吉郎の手を下した事業ださうである。是も潤澤掛になるより前の事であらう。此工事は天保中水野越前守忠邦の企畫に本づいてゐると云ふ。忠邦は天保五年より十四年に至る間老中に列してゐて、領主堀田備中守正睦は天保十二年以來これと並立し、これと同じく罷められた。越川氏の記に據れば、越川嘉左衞門が藤吉郎を江戸花川戸の家に訪うた時、藤吉郎は此工事の事を嘉左衞門に語り、嘉左衞門は藤吉郎を千葉の醤油釀造家近江屋柴田仁兵衞に紹介した。藤吉郎は尋で仁兵衞を千葉に訪ひ、其力を藉りて經營上多少の便宜を得たさうである。堀田正睦は安政二年再び老中たるに及んで開墾を中止せしめた。次に藤吉郎は

 九、陸奧國玉造郡鬼首の山林を開拓したと云ふ。亦潤澤掛時代よりは古い話らしい。事業は天保八年に始まり、尋で九年九月には藤吉郎自ら往いて董督したと云ふ。當時の領主は松平陸奧守慶邦であつた。

 藤吉郎の鬼首行には妻越川氏の郷里の一農夫が從者として往返した。それゆゑ下總には此旅行の事を聞き知つたものがある。一行は六人であつた。鬼首に往き著いて見れば、開拓地には小屋を建て並べて、數百人の人夫が役に服してゐた。藤吉郎は藩吏、里正、故老を請待し、人夫を廣場に集へて演説し、酒食を振舞つた。此豪壯なる一擧は吏民を心折せしめ、遽に功程の倍蓰するを見た。藤吉郎は又淹留一週日の間に一日狩に出て、大熊の睡つてゐるを見、銃を手にして數歩の前に進み、地を蹋んで驚き覺めしめ、その起つを候つて咽を射た。此より藤吉郎が膽勇の名は玉造一郷に噪いだ。

 藤吉郎が事業として後に傳はつてゐるものは概ね上記の如くである。

      十

 鈴木藤吉郎の運命はいかにして衰替したか。わたくしは其否運には別に未だ闡明せられざる原因の存すべきを思ふ。佐久間氏の話を聞くに、藤吉郎が米油取引所を設けむとした時、主としてこれに反抗したのは南町奉行所四番組與力東條八太夫であつた。藤吉郎は謀つて東條を長崎へ轉任せしめた。佐久間氏の就職は東條去後の事であつたと云ふ。當時藤吉郎は横暴の非難を免れなかつたであらう。

 末運に近づいた藤吉郎の公事には特に記すべき事が無い。

 藤吉郎の就職が弘化嘉永の交に於てせられたとすると、其上役たる南町奉行は初池田頼方であつた。同時の北町奉行は井戸覺弘であつた。此より後安政三年十一月に井戸が罷めて、跡部良弼がこれに代り、四年十二月に池田が罷めて、彼挍勘家伊澤蘭軒の總本家伊澤美作守政義がこれに代つた。是に由つて觀れば藤吉郎が最後の上役は伊澤であつた。後に藤吉郎が罪人として召喚せられた時は、跡部去後の北町奉行所に石谷因幡守穆清がゐたのである。

 藤吉郎は就職前若くは在職間に安政二年十月二日の地震に遭つた。當時藤吉郎は即時に花川戸の邸より諸家へ見舞に出た。僕長助は堤燈を持つて先に立ち道を開いた。

 此夜藤吉郎の留守には一場の喜劇があつた。花川戸には偶越川卯三郎が下總より來て泊り合せてゐた。地震が起つて主人が出た後に、用人主馬は火災を惧れて、卯三郎と倶に家財を土藏に運んだ。

 藤吉郎が邸に還つた時には、主馬が土藏の戸口に立ち、卯三郎が土藏の内に立つて、長櫃より眞綿の束を取り出し、一つ一つ授受してゐる最中であつた。藤吉郎は土藏の前に立ち瞪目して言ふ所を知らざること良久しかつた。既にして叱してこれを止めた。そして二人を率て馳せ出で、此鄰の火虞を戒め、又火の既に起るを見ては消防を助けた。

 傳記はいよ/\藤吉郎の末路に入る。藤吉郎は南町奉行伊澤政義の屬吏として職を褫はれ、北町奉行石谷穆清の下に審問を受くることゝなるのである。

      十一

 鈴木藤吉郎は安政五年六月「潤澤掛り與力上席共被差免旨、伊澤美作守申渡、猶亦内寄合之節罷出候儀に不及候旨をも被仰渡」たのである。是は關根氏の記に據る。文中「伊澤美作守申渡」と云ふは藤吉郎が南町奉行所に屬してゐた證の第二である。

 七月二十五日に藤吉郎は北町奉行所に召喚せられた。北町奉行は五月中跡部良弼が罷めて、石谷因幡守穆清が代つてゐた。

 翌二十六日藤吉郎は吟味中揚屋入を命ぜられた。同時に連累者直平外四人が入牢した。直平等の事は不詳である。

 越て二十九日に藤吉郎が入牢した。以上の日取は皆關根氏の記に見えてゐる。

 藤吉郎は何の罪名を以て獄に繋がれた歟。佐久間氏は當時二十歳で南町奉行所に勤めてゐたが、鈴木の吟味は北町奉行所の掛りであつたので、其詳なるを聞かなかつた。しかし主なる箇條は鈴木が商人等と料理茶屋に會見したと云ふにあつたらしいと云ふ。潤澤掛は商人に諮るべき事があるとき、番所に呼び出だす筈である。藤吉郎は商人等と私を營んだと云ふ嫌疑を被つたのである。

 藤吉郎の庇護者中阿部正弘は前年六月に歿し、老中には唯久世廣周が殘つてゐたのみである。獄の起つたのは跡部の再び町奉行を罷めた翌月である。當時の狂歌に「藤吉は大和を掛けて伊勢參り使ひ果して跡部どうなる」と云ふのがあつた。和州廣周、勢州正弘、甲州(初能州)良弼の三庇護者の名が一首の中に出てゐる。又落首に「思の外當時めいつた三幅對、鈴木藤吉郎、片岡仁左衞門、夏目左近」と云ふのがあつた。片岡は八代目である。夏目左近將監信明は嘉永六年以來側衆に列せられてゐた。並に戊午の頃失意に傾いたものと見える。

 藤吉郎の拘留せられた時、亡妻勢喜の弟越川政五郎が來て家事を視た。越川卯三郎も亦下總より驅け著けた。要するに鈴木一家の憂を分つたものは唯外戚のみであるらしい。

 藤吉郎は安政六年五月五日五十九歳にして牢死した。罪案には「存命ならば遠島」の文があつたと、關根氏の記に見えてゐる。松林伯圓は藤吉郎は獄中に毒殺せられたと云ふ。しかし佐久間氏の言ふ所を聞くに、此の如き俗説は取るに足らない。「鈴木は所謂百姓牢に入れられ、牢熱に侵されて死んだ。幕府時代に獄中にあつて死んだものは、世間で動もすれば、一服盛られたのだと云ふ。しかし試に想つて見るが好い。此に役人某があつて囚人某に藥を飮ませようとするには、其藥がどれだけの人の手を經なくてはならぬか。先づ藥を調合する醫者がゐなくてはならない。藥が既に出來たところで、獄舍の上下の役人の手を經なくては囚人の許には達せない。最後には非人までも與り知ることゝなる。是は實際に於て容易に行はるべき事では無い。」

 藤吉郎の家は闕所にはならなかつた。亡妻勢喜の弟政五郎の子松之助が後を襲いだ。しかし政五郎等は當時猶沒收を懼れたと見え、竊に金三千兩を下總の卯三郎に預けた。

 わたくしは此より下に藤吉郎歿後の事二三を追記しようとおもふ。其一は日の曼荼羅の摹本の事である。藤吉郎の妻勢喜が臨終に遺言して、日の曼荼羅を摹寫せしめたことは前に云つた。此摹本が成つた時、政五郎はこれを吉原の街頭に曝して賽錢を取つたので、頗人に指彈せられた。松之助はこれを諫めたが聽かれなかつたのだと云ふ。曼荼羅は後下總某所の寺院に納められたが、其寺院は廢絶した。

      十二

 わたくしは藤吉郎歿後の事を叙して、其一は日の曼荼羅摹本の話だと云つた。其二は關孫六作短刀の話である。

 越川の宗家を繼いだ卯三郎は四十二歳の時、藤吉郎遺物の短刀を兄直二郎の季子に與へて死んだ。直二郎の子は長栗園國太郎が宗家の後を承け、仲徳三郎が出でて平山氏を冒し、勘兵衞と改稱し、季文之助が山武郡四天木村の漁家滄海齋藤四郎右衞門の養子となつて文夫と稱した。滄海は畫家拳石齋藤義字は公知の兄の子である。栗園の子は米太郎、米太郎の子は現主人貫一さんである。卯三郎の手より短刀を讓り受けたのは直二郎の季子文之助で、即辨妄の著者醒癡文夫さんである。

 明治元年五月彰義隊が東叡山に立て籠つて官軍に應戰した時、文之助は同志と倶に馬に乘つて家を脱し、江戸に潛行した。しかし戒嚴のために留まることを得ず、下總へ引き返した。宮(ざく)縣知事柴山文平は文之助の養父齋藤滄海の家宅を搜索し、兵器若干を押收した。此時關孫六作の短刀は沒官せられた。原來齋藤氏は網主の家で、網主の家には昔より兵器を儲ふることが許されてゐた。滄海は此由緒を縣廳に告げて兵器を還付せられむことを請うたが、聽されなかつた。

 藤吉郎の繼嗣松之助は文久中京都にあつて叙位せられ、其父政五郎は慶應元年に花川戸の家に歿し、法諡を「莊嚴院直政日觀居士」と云つた。維新の頃松之助は卯三郎の繼嗣栗園に三千兩を償還せむことを求め、栗園は其半を償つたさうである。松之助の一家は今安に在るかを知らない。

 以上記する所は越川氏の辨妄に本づき、二三の既刊書と佐久間桑田二氏の談話とを參酌して成つたのである。其他下總大寺の石井熊太郎さんの如く、古帳簿を撿してくれた人等がある。わたくしは此傳記の猶脱漏多きを憾とする。しかしこれを既刊の書に此すれば、全く其撰を異にしたものと云ふことを憚からない。そしてその能く此の如きを致したのは皆越川氏の功である。

 想ふに江戸町奉行たりし諸家を始として、其部下にあつた與力南北各二十五騎、同心各百二十二人の家は猶多く存續してゐるであらう。若し此等の諸家及彼鈴木氏の繼續者の傳ふる所を聞くことを得て、此稿を補正することを得たなら、それは獨りわたくし一人の喜ではなからう。頃日實録叢書を刊するものがあつて、其目次を公にするを見るに、中に「鈴木藤吉郎」の一編があつた。惜むらくはわたくしは未だ其書を見るに及ばない。

 鈴木藤吉郎はその僅に知られてゐる限の零碎の事迹より推すに、有爲の人材である。山林河沼の地は其開墾を待つて官民の用をなし、餘澤は後世に及んでゐる。その市廳に立つて獄を斷ずるに當つては、恩威兼ね行はれて市人が悦服した。啻に然るのみでは無い。江戸市のために物價を調節する機關を設けむと欲して成らず、これがために禍を買ひ身を滅した。我市のブウルスの沿革を窮めむと欲するものは、此等の人物に泝り及ばなくてはならない。

 松林伯圓は安政三組杯を作つて藤吉郎の屍に鞭つた。越川氏が起つて其冤の幾分を雪いだのは、實に多とすべきである。三組杯は藤吉郎を以て穢多の裔となした。穢多の裔たるは固より辱とするに足らぬが、其説には何の根據もない。三組杯は藤吉郎を以て酒色の奴となした。酒色の嗜は材能の士のために必ずしも病とするに足らぬが、是も亦無根の言である。三組杯には情婦小染の名があるが、佐久間氏の云ふを聞くに小染は同時代兩國の名妓であつたので、伯圓は只其名を藉り來つたに過ぎぬらしい。

底本:「鴎外全集」第十八巻、岩波書店
   昭和48年4月23日発行