夏木立
山田美妙
まへおき
夏木立といふ中には
栴檀もあり、また荊棘もあらうとい
ふのはやはり
手前勝手で、世間の評がさうで無ければ仕方の
無いことです。第一の
「籠のとりこ
」といふのは
はじめ演劇正本に作つて見たの
で、それが思ふやうで無かつたため其儘散文にし
たのですから、な
ほ其痕跡も殘つて居ます。それも直せばいゝの
ですが、もと/\是は「し
えィくすぴィあ」翁の「れいぷ、おゔ、は
うくれーあす」といふ詩がうらやましかつた
あまりその眞似をし
て見たのですから、せめて、似ると
似ぬとは格別に
して、その他日の
思出ばかりに
其儘殘して置いたの
です。其外ある雜誌や新聞紙へ出たこと
のあるのも一所になつてこ
の中に集まつて居ますが、要するに
ちと時世後れの物もあつて、實に
その作は(文章で見ても)今日の物では
ありません。
文章ははじめ下流に對する語法の方が以上のものより
簡單ゆゑ、言文一致体の基礎とな
るだらうと思つたまゝ、此中の文の
とほり殘らずそれが地を占めて居ましたが、また
此頃になつて考へて見れば
些し違つた注意も出て來ましたゆ
ゑ、今は大抵仝等に
對する語法をして地を占めさせて居ます。此中の文の性質の仔細は此點に
あるのです。どうぞ看客がたもその御心得に
願ひます。
此中の文を書く頃には先文章の改良の
第一着として彼動詞を多く用ゐ、また
主客の格を明亮にすること
に心を傾けて居ました
ので、自然その邊の痕跡もありますが、此頃にな
つて見ると、いさゝかの不審の件が出來て來まし
たので、しば
らくその得失をば研究するこ
ととし、今日の文に
は止むを得ぬ外は敢て豹變の
手段を用ゐません。不圖見慣れぬため、いぶかし
く思召す方もあらうと考へて、それでかう諄々し
く述べました。
明治二十一、五月のはじめ 美妙齋主人
目録
- 第一 籠の俘囚。
- 第二 玉屋の廛。
- 第三 花の茨、茨の花。
- 第四 柿山伏。
- 第五 仇を恩。
- 第六 武藏野。
籠の俘囚
其上。
一室の裡で會話をして居るのは二人の貴人だ。
主人と見える一人は
痩ぎすで身長が高く、從ツて手足や顏も骨々しくて、一般の有樣がまるで枯木の樣に見えたが、しかし、泥水の中にも蓮花、その償贖には艷やかな眼の星がきらめいてゐるので枯木にも流石化粧が有る。構造が是だけでさへ有るなら、此外に否な景物さへ附いて居ないなら、「貴人らしい、」「高尚な」の形容詞を此人に與へるのを惜む者はあるまいが、不運にも左樣行かない。それは外でも無く此人が笑ふと上下の齒根が顏を出すことで、其癖唇は薄過ぎても居ないのに……是は全く齒が短いのが、否さ、齒根が深いのが、實に其色が赤過ぎて居るのが、それをして目立たせる第一の原因だ。痩ぎすな顏に出る紅い齒根、其上に顏の色は蒼白くて……そこで何やら意地がわる相に、そして薄情なやうに見える。
客と見える一人は全く主人と反對で、下重の顏を持つて居るが、眼が其割に細く、そして耳が小さく、猶其上に聲が些し皺枯れて居るので天晴下卑た人と見える。之に「廉潔」と言ふ語を加へて考へると、どうも其語が人品と交情をよく爲ぬやうに思はれ、更に「強欲」といふ藥味を添へて見ると、實に味が調ふやうだ。洵にそれに違無い。この人の座方と應答の仕方、そればかりでも知れて居る。椅子に凭つても酷く背を曲げ、脚を縮め、そして只先方の氣に入るやうな挨拶と擧動ばかり爲て居る。是は阿諛の固有の形で、阿諛は強欲の入口だ。
客は頻りに
主人の容體を視て居たが、やがて身を低くして一寸其顏を仰ぎ、
「太甚差出がましい言葉では
御座いますが、どうも先刻から御見受申しまするに
御容貌が何やら……」
言掛けたまヽ霎時は
氣色を窺つて居ると、主人も些し笑掛ける例の齒根を露して。
「菓物も中が熟せば皮が黄ば
むのさ。容貌の皮が平常の通りでないのは
心の中が
平常の儘で無いからさ」。
「如何にも皮が黄ばみますのは
中が熟しました故、
さて中を熟させますにはいづれ風か
雨でもありまして……」
「それは最う勿論さ。その風や雨は
……どうだ、これ、黒_お_ぢ_あ_す、御前に
は當たるかの」。
「左樣で厶います。えゝ、あの何で厶いましやう」。
「何だ」。
「もし違ひましたら御赦しあそばせ。あの、多分は
戀風と……」
「ふゝ、それから」。
「涙の雨との此二で……もし是は
間違ひましたか」。
主人の顏には、ソレデモ、些しは
慚かしさうな體が見えます。
「黒……黒_お_ぢ_あ_す」。
「はい」。
「流石は
其路の黒_お_ぢ_あ_すだ。どうしてそれが分解ツたか
」。
「まことに痛入りますが、この黒_お_ぢ_あ_すとて花を矯め、花を折る、園藝の業には……其故に皮の黄ばむ原因はすぐ知れます」。
「是は中々おもしろい。實は
今日御前を己が呼んだのは全く其事に着いた次第で……それでも流石に言出しにくゝ、つひ今まで默ツて居たのだが、左樣知れゝば、毒を食ツた跡の皿で、もはや打明かす程の勇氣も出た」。
「それも中々通常の者に出來ることでは
厶いません、左樣斷然と御勇氣を御出しあそばすことは」。
「これ、否に油を掛けるな。その油の力を藉りて、それなら舌を辷らさう。實は此間不圖己は……」
「如何にも美人で厶いましやう」。
「左樣さ。美人を見初めたわ」。
「嗚呼、其美人は
幸福だ、今羅馬で一二を
爭ふ貴族の壓_ぴ_あ_す樣の御目に注まツて」。
「御前の口が輕いので己の話が重くなる。其美人のうつくしさ、あ、己の口では言盡くせない。が、それが駭いたよ、手を回はしてよく聞正して見ると、あの御前も知ツて居るだらうが、それ平民の馬_あ_じ_に_あ_す、那の一人娘で馬_あ_じ_に_あと、言ふ者なのさ。まア此廣い羅馬の中でも己の妻となるべきものは多分あの外に有るまいが、それにしても己は貴族だらう、貴族だから平民とは、法律上婚禮することが出來ないでは無いか」。
「それは生憎な事で厶います。何か
其處で御思案は」。
「さア、それだ、て、
その思案さ。どうしても公然と、それだから、渠を娶る事が出來ないのだ」。
「それでは御斷念遊ばしまして」。
「情無い事を
言ふな。何うして斷念が出來るものか
。斷念が出來なければこそ其思が外へあらは
れて……これ、黒_お_ぢ_あ_す、御前も經驗は、有るだらうが、それから以後は己は全で一切夢中で、その癖夢には面影が……」
「御察し申上げます。さぞ御心苦しう厶いましやう」。
「うゝ本當に心苦しいわ
。なんと、御前、御前には
好い手段は無いか
。御前は
裁判所の役人だから、世事にも慣れて居るだらう。この壓_ぴ_あ_すが頼むぞ。褒美は幾許でも遣らう」。
「へゝ褒美……御褒美……御褒美などをば
决して、殿さま、それでは
何です、あの馬_あ_じ_に_あ_すが軍に
出て居る隙を狙ひまして卑官が「馬_あ_じ_に_あ」を……酷う厶いましやうか」。
「「馬_あ_じ_に_あ」を何うするのだ」。
「召捕ツて連れてまゐれば最早其跡は
殿さまの御自由で厶いましやう」。
「黒_お_ぢ_あ_す」は誇貌、
「壓_ぴ_あ_す」は苦笑。
「まア左樣だ。けれど些し聞が變だな」。
「なんの殿さま。殿さまの御權勢で殿さまが爲さる事ですものを
」。
「はゝ、左樣言へば
左樣だけれど……何しろあの可愛らしい人が吃驚するのが可哀相だ。が、宜いわ、黒_お_ぢ_あ_す、左樣してくれ」。
お
ゝ此羅馬の師直、無殘、つひに私慾の奴隸となツた。羅馬史を讀んだ人は知ツて居るが、羅馬の貴族の亂暴は凡先此程で人權も何も全で無茶苦茶にして居る。實に制定の法律に背いた。實に平民をば奴隸と思ツた。實に犯した、徳義上の大罪を。實に振舞ツた、勝手の所業を。實に壓_ぴ_あ_すは貴族の中でも、一二を爭ふ者でした。實にまた其代り貴族の中では一二をあらそふ獸だ。實に黒_お_ぢ_あ_すは世事に慣れた裁判官だ。實に、また其代り、欲に慣れた裁判官だ。實に壓_ぴ_あ_すは好色の妖怪。實に黒_お_ぢ_あ_すは金錢の幽靈。
好色の妖怪に金錢の幽靈、
實に是が羅馬の貴族だ。
其中。
「まだ御近付にはなりませんでしたから貴娘は
此私を御存じもあります
まいが、私は
壓_ぴ_あ_すと言ふ者です。不意に
貴娘は
此樣な室へ室の梅となツて仕舞ツて嘸御心配をなさいましたらう。最早私がまゐツたからには御氣遣はありません。ま、ちと此方へ御寄りなさいと」。言ふのは例の壓_ぴ_あ_すで、今は最う馬_あ_じ_に_あを奪ツて、此處、裁判所の内の一室へ押籠めたのだ。
馬_あ_じ_に_あは
成程壓_ぴ_あ_すが鑑定したとほり美しい。唇の薄色は腮や鼻の下の白いので、愈目に立ち、眼の中の潤澤は球の動くまゝます/\人を惱ませる。身の擧動は蕭灑とした内に些し粘氣が有る樣で、何處とて點を打たれるやうな處も無く、花の精とか月の魂とか評したいほどだ。
貴族に似合は
ず丁寧な、壓_ぴ_あ_すの言葉に馬_あ_じ_に_あは
薄氣味わるく、暫時は
壓_ぴ_あ_すの顏を
瞻詰めたまゝ身を縮めて居る體に壓_ぴ_あ_すは
又言葉を繼ぎ
(たゞし貴族の癖として最早今度の言葉の樣は丁寧でなくなツた)、
「これは何も其樣に
恐れるにも及ぶまい。如何に私が醜男でもまさか鬼にも見えまいが……是でも一人の人間さ。是でも目をば持ツて居る。是でも鼻をば持ツて居る。鼻の形は引臼でも美人の香をば齅分けるよ。眼の形は下目でも美人をば毎でも見付けるよ。美_う_ずの樣な美人の像をば何時見ても美_う_ずと認める。だが、どういふ所以だか、馬_あ_じ_に_あと云ふ美人をば美_う_ずと見分ける事が出來ない、否さ、美_う_ずよりは猶美しく思ふのさ」。
述切ツた最後の句が實に此塲の眼目ゆゑ壓_ぴ_あ_すは心を籠め、少女の顏を熟視て居ると、少女は只下を向いて耻かしさうに笑ツたが、倐忽其笑を引込ませて一寸壓_ぴ_あ_すの顏を見上げた、
「それでは
貴下があの名高い壓_ぴ_あ_す樣で……あの一寸うかがひますが、何の罪で賤妾を此處へ入れられましたのです。すこしも身には暗い覺が……」
「覺が無いとは言は
せない。御前は大層な罪造だ。其罪が有る故に此處へ閉込められたのさ」。
「それでは何樣な罪科で」。
「人殺の罪科さ」。
「えゝ人殺、何のまアそれは滅相もない事を……」
「否、否、十分に
人殺の罪人だ。それ、其美しい容色が
己の命を奪るでは無いか」。
少女も此處で扨はと悟り、何うしたら宜からうか
と思へば赫と氣も逆上せてはや兩眼に
は涙の上潮、
「まア貴下……」
「はい貴下がどう爲たね。何だ。跡は
何も言はずに
……はゝ無言の所作事だな。實に
その鹽梅は、涙を含んだ仕こなしは
、いよ、妙だ、千金の値ひが
有るて。それを見れば見るほ
ど猶ほ煩惱の犬が
吼えて來て、思切りたいが
思切れない、
たとひ死んでも思切れない、
可哀相だが
思切れない。ね、これ、不便と思ツてお
くれ。日外の事であツた、御前を一寸見初めてから
はどうした此身の因果やら薩張思切れないで、今更耻かしい事だが、微に耳の底に殘ツて居る御前の聲を想像の樂器で呼出して強ひて御前の側に居る氣になツたり、また時には御前の顏を此つひに畫などをば描いたことの無い手で、この不器用な手で、色々に描いて、それへ向ツて談話を爲たり、御前と仝じ年齡ほどな婦人を見れば『あゝ己の思ふ人と那とは顏形しか違はないのだが』とそゞろに妄想が湧いて來たり、今それを諄々しく御前に言ふのも可笑いが、實に心の切なさは一通の事ではないよ」。
「しかし貴下、貴下は
御貴族で妾は
平民では厶いませんか。それをまだ御存じ遊ばさずに
……」
「船頭は舟に
就いて知らぬ處は無い。自分が
思ふ人の身分を誰が知らずに
居るものか。素より御前が
平民なのは
己とても知ツて居る」。
「それならば又何故に」。
「おゝさ、法律といふ惡い奴が
貴族と平民との婚禮に
邪魔を入れて居るが
、さア、それだ、それであツても煩惱は决して鎭まる氣色が
無い」。
少女の顏を覗込んで愈聲を優しくし、
「爲て惡いことを爲たくなる、人間の心の執拗なのは我なが
ら譯がわ
からない。御前は平民の子だと聞いたときには氣が遠くなる程に失望して、さ、經驗の無い御前は知るまいが、不思議さ、咽喉が乾いて來たよ。是は己も其時はじめて知ツたので湯などを飮んで見たが容易に直らなかツた。思出せば己が貴族であるのが眞底否になツて仕舞ツて、たとひ位は下がツても平民になりたくなツた。御前が平民の子だと言ふことを知らなかツた内は己も實は平民をば心から憎んで居たがその憎んだ者の中に愛らしい人が居るのを見たら今更却ツて平民が殘らず憎くなくなツた」。
「有難う厶います。此樣な不束物をそれほ
どまでに思召して下さりますのは
决して仇には
存上げません」。
「あ、おとなしい言葉を
言ツて呉れた。己も心から有難い。それでは
己を不便と思ツてくれたね」。
「否、貴下、御待ちあそばせ。も、御願で厶います」。
「何……何が」。
突と馬_あ_じ_に_あは身を起こして屈みなが
ら後へ退き、
「御慈悲深い壓_ぴ_あ_す樣……」
「はゝゝ御慈悲深い馬_あ_じ_に
_あ樣、何もそんなに
段々と後退するにも及ぶまい。さ、そんな汚穢い床の上へ坐ツてしまはないで椅子へ腰を掛けたら宜からう。幾度も言ふやうだが、これ御聞きよ馬_あ_じ_に_あ己が御前を慕ふ心はたやすく口では言盡くせない。御前を最初見た時に御前の方から一吹の風が吹いて來た。處が其風が此上も無く己には嬉しくて……それは別の仔細でも無いが、ね、たゞ其風の中には幾分か御前が吐出した炭酸氣が交ツて居て、それを己も吸ふのだと思ふから。其時に又御前は、己はよく覺えて居るが、何やら後面を振返ツた。それを後面から見て居た己の心……此處だけは言惡いからこれ察しておくれ。兎に角自惚が頭を擡げたり、良心が無益に力を振ツたり、この一念の火には金も爍けずには居まい、この一念の水には火山も消えずには居まい、この一念の雨には世界も濡れずには居まい、この一念の矢先には鐵も拔けずには居まい。さア、夫程に思籠んだ事だから後には身も世も要らなくなツて遂に此通り歹い事とは知りながら御前を奪取らせたので、どうしても此上は思込んだ一念を徹さないでは置かぬ所存だ。え、何も其樣な顏をして駭く譯にも方るまい。ま、無理な所望ではあらうが聞いておくれ。切ない思ひだ。くるしい胸だ」。
意地のわるい夜は
益闇を深くして、玉の樣に清い燈火もほ
と/\光を消されて仕舞ひ、妬ましい蟋蟀は
親子揃ツて歌を唱ひなが
ら露の寢酒を飮んで居る。四邊の壁は
哀をも知らない、堅く固めて逃路を貸してもやらず。怨めしいのは腕の筋、たゞ戰へに戰へて居て。獅子は爪を匿して羊を賺した。羊の胸は、けれど、裂けた、その匿された爪で。獅子は牙を見せずに羊をなだめた。羊の腦は、けれど、噛まれた、その見せられぬ牙で。獅子はざらめいた舌で羊を舐ツた。羊の心は、けれど、皮が切れた、そのざらめいた舌で。
悲しさうな馬_あ_じ_に_あの目は
じツと壓_ぴ_あ_すの顏に向ツた、
「御志のほどは洵に最う……ですが
是ばかりは人の道に
も背くこと、また國の掟にも悖る事で厶いますから。否何も决して、决して、决して貴下を御怨申しはいたしません。貴族方の御目から御覽なされば平民は虫の樣な物。虫の樣な物の中の此馬_あ_じ_に_あ、虫の樣なものゝ中の此孱弱い婦人、虫の樣な物の中の此愚な身でございます。貴族方の御目には止まらぬ程の者で厶います」。
「あら、また其樣な事を言ツて居るよ。買入れたばか
りの馬は役惡いとは
世の比喩で、なる程御前も一面識さへ無い己を嫌ふのはそれは道理だ、無理では無い。が、其處だ、この壓_ぴ_あ_すが下から出て願ふのだ。それではあんまり情無い」。
「情無いとは、壓_ぴ_あ_す樣、それは
妾が
申すことで厶います。何も妾は
貴下を取ツたばかりの御主人とは
存上げません。貴族方の内でも一番すぐれた方は壓_ぴ_あ_す樣で……」
「おだてゝはいけない。お
だてられると猶己の煩惱は募るばか
りで……」
「あゝ申し、壓_ぴ_あ_す樣、貴下は御存じで厶いますか
」。
「何をまた御前の身分か」。
「否わたくしの身上を」。
「身上か。そして夫がどう爲たのだ。お
や、御前泣出すのか。身上が
どう爲たのだ」。
最早少女の聲は涙に
うるんだ、
「親父は
堅い氣象で厶いますものを、もし妾が貴下の御志に……御志に從ひますれば、申し、御慈悲深い壓_ぴ_あ_す樣、妾は生長らへては……」
跡の言葉は
芽を出さなくなツて仕舞ツて、この歎の枝に
は
悲が澤山生ツた。孱弱い人は快何も言はず唯口惜しさうに、罪も無い衣服の端を噛占めて跡は只管頭を低げて「赦してくれ」と希ふ其有さまのいぢらしさ、大抵の人は見て居られない程だが、心、色には綿のやうな心、しかし哀には鐵の樣な心は更に動かされない。その癖に……(シツ口説上手)、
「嗚呼實に困ツたなア。御前も悲しからうけれど、己も胸は
裂けるやうで……寧この胸の壁も切れて中の煩惱を押出して仕舞ツたなら、なまなか苦勞は有るまいに……御前を些しでも怖がらせるのが否さに刄物をも持ツて來なかツたから此處を劈くことも出來ず……」
霎時の間この好色の妖怪は
腥相な太息を吐き故意と身を戰は
せて巧に
、兩眼から流出る邪淫の涕を
拭ツて居たが不圖また心に
决した體で、
「どうぞ、これ、馬_あ_じ_に_あ、どうも己は
、どうしても、己は、どう考へても己は
どう思ツてもこの馬鹿な己は
思切ることが出來ないよ」。
「ちえゝ、貴下……あら、貴下……一寸まア御聞遊ばせ」。
「應といふ返辭をか」。
「否、ま、かよわ
い身を御助けなさるも御功徳の一つです」。
「左樣さ、戀慕ふ身を御助けなさるも御功徳の一つです」。
「貴下の御心次第で妾の生命は
厶いません」。
「貴娘の御心次第で私の生命も厶いません」。
執念くまつはる常春籘の無慈悲。からまれて枝も痩せる桂の若木。今迄は忍びに忍んだ無念さも今は堪忍袋の隱家から突出して少女の顏の上へ行亘ツた。先刻までは薔薇を羞かしめた頬も、今は冷めて青瓜を供に連れさうになり、息は寸斷で多く鼻から出入する。そして心は大抵憤怒の棲處となツたので恐さ怖ろしさは全く追出され、たゞ「憎らしい」の炎が燃立ツて、我知らず齒をくひしばらせ、一旦は身まで震はせて磤と壓_ぴ_あ_すを睨付けさせたが、また其處へ堪忍の心が喙を容れたので幸く其炎も鎭められた。やりたかツた、飛附いても。やりたかツた、掻毟ツても。けれど強ひてそれを隱した。其くるしさ喩樣も無い。最早腹立の火に涙の水も乾かされて眼から流は出なくなツたが、そのかはり内に湛へられた量は酌盡くせない程であツて、纔に一秒ほどの間にも數限無い感情が心の田地を走ツて通る。
「折角の芳志を無にする我儘は
實に勿體な
いことで、嘸御腹も立ちましやう、憎い奴だ
とも思召しましやう。心では
妾も……壓_ぴ_あ_すさま……御詫を申して居りまする。御腹も立ちますなら何のやうにも御折檻あそばして、憎い奴だと思召すならどのやうにも御打擲あそばして、それで、どうぞ貴下、御勘辨を爲すツて……」
積る口惜しさをじツと堪へて詫入ること故、言葉が訖ると直樣に堪へずわツと泣臥した、けれど情慾の奴隸は猶聞入れない。
「御前も中々の手取者だ
よ。其愁歎の姿は
まだ世の浪に揉まれぬ婦人の腕前とは見えないよ。それで居ながら物の哀を知らぬ顏をして居るのはそれは強面いでは無いか。ね、幾度も口を叩くやうだが、御前を一目見てからは……」
「何も妾ばかりが婦人でもありません。貴族方の中でも貴下な
どは
昇る旭日、上げる潮の勢で御出でな
さいますものを、貴族方の其中か
ら花や月を御擇びなさツても。御勝手では
厶いませんか
。塵塚の蒲公英に御目を御注めな
さるのは勿體ないでは
厶いませんか
。裏店の窓の月に御心を御掛けな
さるのは御醉興では
厶いませんか」。
「ところが、これ、よく御聞き。その塵塚の蒲公英は
、よく見れば
美人草さ。その裏店の窓の月は
……」
「御冗談も大概に……」
「おや、美人草怒ツたね。何も怒る程の事では
あるまい。婦人は
縹到を褒められて一體喜ぶ譯のものだ
」。
最早馬_あ_じ_に_あは
逆上て來たので思慮も分別もなく自棄に
なつた。
「貴下、壓_ぴ_あ_すさま、人を馬鹿に
するのも大概に
爲さいまし。下から出て居ますれば
何處まで御増長あそば
すのです。さ、國の掟を破ツて自分の情慾を遂げるのだから自由になれと言はれましたとて三歳子でもそれを承知いたしますか。それが貴族の御言葉ですか。それが貴族の御品行ですか。それでえらい貴族ですか。それで俊れた御身分ですか」。
「そんなに怒らないでも宜いわね。否だ
と言ふなら腕づくでも……」
少女はぎよツと身を退いた。獸は
言葉の調子を低げた。
「だがそれをば好まない。それゆゑに
下から出るのだそれでも猶聞入れなければ
仕方が無いは
、往生づくめだ。ね、分解ツたかえ。これ、どうだえ。さ、否かえ、不承知かえ。これ、さ、なぜ返辭を爲ないのか。御前を己が慕ふのは……」
「もう、それは
承りました。何ぼ妾が馬鹿だとて何ぼ妾が平民だとて……犬の樣な貴族には……」
「これさ、犬とは何の言だ。それは
あんまり言過ぎたろう」。
「犬だから犬ですは」。
「なるほど左樣だ。己は
煩惱の犬だな
ア。煩惱の犬と知ツたな
ら憐んでも宜からうが。一寸御前手を御見せ」。
「何ですね、御止しなさい」。
「おや、己を打ツたな」。
「打ちました、惡う厶いますか」。
「貴族の己を打ツたな」。
「犬の貴族を打ちました」。
「衒妻め平氣で居るな」。
「妾の身は
妾一人の物です。指一本でも理不盡に犬の自由には」。
「なに……犬……」
「犬の貴族の自由には
……殺せ、もう覺悟したぞ」。
壓_ぴ_あ_すも今は流石にこらへられなくな
ツて仕舞ツた、
「この畜生め、大膽な。下から出れば
跟上がるか。望通り殺してやらう。けれど只は
殺さな
い。乃公も男子だ。乃公も貴族だ。言出した
からには腕づくでも本意を遂げるか
ら覺悟をしろ」。
少女も今は
一生懸命大きな聲で
「ひとごろしイー」。
まだ清い光輝を失はぬ燈火の影も今は
貞操の油が盡きて横吹の戀風に瞬いた。空には無情の月もあるだらうが壁に隔てられて光輝を貸してもくれない。たゞ聞えるのは牡犬に逐はれて凄さうに嘯く牝犬の聲。
其下。
夜は明けたが馬_あ_じ_に_あは
猶裁判所、慾には
眼の無い裁判所、色には
迷ふ裁判所、不義には
得手な裁判所、そして徳義は
住んで居ぬ裁判所の一室に
猶押込められて居る。罪も無い眼蓋は
脹上がツて罪も無い眉は顰み
、瑕ついた玉の顏は
蒼ざめて瑕ついた玉の腮は
痩せた。之が昨日の樣と比合は
せられたなら心あるものは
思はず涕をもよほしたらう。今朝の容貌には温和の色彩が跡を拂ツて無念が其代に移轉ツて居る。昨日までは愛々しかツた顏、今日は凄味を含む顏。昨日までは人を惱ませた愛嬌毛、今日は人を威す蓬の髮。昨日までは人を蕩した雙の眼、今日は人を睨付ける目光。昨日までは笑を帶びた口、今日は噛破られた唇。昨日までは薄色の絹の頬、今日は蚯蚓脹の頬。そればかりでも凄いのに、噛破られた唇からは血がだら/\と垂れるまゝ更に拭はれても居ず、たゞ齒がきり/\と鳴ツて居る、
「あの聲は雀、うれしさうな雀、うれしさうに
鳴く雀、けれど怨のある身に
は
却ツてそれが妬ましくて……畜生め壓_ぴ_あ_すめ無殘にも程が有る。畜生め、人の身を……ちえゝ婦人の身の悲しさには、かよわい身の悲しさには腕盡では叶はないで……ま、どうしたら好からうなア。利器でも有ツたなら切めては一刀なりと斫付けてやツたものを、たゞ引掻いて喰付いたばかりで……あゝかよわい身が口惜しい」。
髮の毛を毟りながら身をもだえ、
「このやうな
耻辱を受けて此世に生きて居られやうか。どうか早く死にたいが、えゝ、死にたいが、死にたいが、ま…ま…また死んだ其跡ではさぞ御爺さまが……ひいイ」。
口惜しさうに手と手とを揉合ツて、
「御爺さまがおいとしい。お
いとしう厶いますが
御爺さまウ、えゝ此樣な
災難をば夢の夢にも現にも……御存じはありますまい。貴父の甲斐ない、この娘が斯うなツたとは露ほども……ちえゝ思へば、な……なみだが……裂けて胸が、御爺さまウ……手……手を合はせてたゞ今爰で餘處ながら御告別いたしますウ。も、生きて居られぬ身上です。御懷かしう厶いますが、一目御目にかゝりたう厶いますが、此部屋を出ることが出來ませんから此儘で……あゝ口惜しう厶います」。霎刻は無言で齒を噛占め、
「ちツ…ちツ…畜生め、畜生め……壓_ぴ_あ_すの畜生め……えゝ此弱いこの齒め、……えゝ、この弱いこの爪め、……えゝ、この弱い、この手…手め……何故もツと深く疵をこしらへてやらなかツたらう。おい、齒、おい、爪、おい、これ、手……なぜ御前の持主の危難を救ツてくれなかツたよウ。えゝ殘念ぢやないかなア。それにしても御爺さまが……此間門出の時にも……あゝ身がふるへるわ……あれほど呉々も仰ツて下すツたに……さぞ馬鹿な娘だと……あゝ馬鹿でもよう厶いますウ……本當に馬鹿でした。我ながら此身には愛想が盡きましたウ」。
前後正體も泣倒れ一人で床を轉げて居る。處へ部屋の戸を開けて慌たゞしく馳込んだ一人の男は思掛ない、ま、なつかしい親だ、親の馬_あ_じ_に_あ_すだ。
親は
直さま娘の傍へづか/\と馳寄ツて抱上げて見て肝をつぶすと、娘はわツと泣出した。
「むすめ何うした其顏は。やは
り那奴に左樣されたか」。
「是から自害いたします」。
「それでは那奴の……左樣か、まア、どう爲やうな」。
「御免なすツて……御爺さま……貴父の御耻に
もなりました」。
「しえい、お
のれ、壓_ぴ_あ_すめ……どうして、どうして打遣ツては
……こ…こ…これ、娘たしかに
自害と覺悟を爲たか、
御前は自害する氣に
なツたか」。
「自害する氣に……御免下さい……な
りました」。
「ありがたい、感心だ
。どうぞ、これ死んでくれ。頼むぞよ。己が
殺してやるからよ」。
「あツ…あツ…ありが…ありが
たう厶います。さア何ぞ今直に
」。
「だが、ま、待ツてくれ。此世の名殘に
父子の別に
、これ顏を見せてくれ。うゝん、こんなに
蚯蚓脹が……唇もやぶれて……左樣か、くやしかツた
らう。屹度仇を討ツてやる。御前が
壓_ぴ_あ_すに奪は
れたと聞いて吃驚して陣を驅出して來て、な、娘、己は此處へ來た。それも御前を一刻も快く助けたいからのこと。來る途でも心の裡で御前の無難を祈ツて居たのに、ま、一足遲かツた。遲かツたのが口惜しいわイ。己の足のぼんくらが、この足の大馬鹿が憎らしいわイ。え、何だと……どうしたと」。
「妾が死に
ました後でもどうぞ御爺さま、御氣を確に
……そればかりが心殘りで……」
「言ふて、よく呉れた……よく言ふてくれた。口惜しいなアウ。悲しいなアウ。可愛い娘をむざむざと親が手づから、えゝイ、殺すとはウ、ま、何の因果だらう。どれ、娘、もう一度顏を見せてくれ。うゝ此蚯蚓脹を……うゝ左樣か……さ殺すから覺悟しろ」。
「どうぞ御顏をもう一目」。
「さア、己の顏な
らこんな顏だ。どれ御前の顏をも最う一度……なる程この蚯蚓脹を……」
少焉の間は
父子二人が互に顏を眺合ツて名殘を惜んで居たが、うか/\としては居られぬので漸にして馬_あ_じ_に_あ_すは心を决めて涙をはらひ、刀を拔いて頭上に振上げ、「それでは、娘、覺悟を爲ろ」と聲を蒐ければ娘は騷がず「あい」と一言やさしい聲で言ふに刀を有つ手も弛み、流石の親も總身が縮んだ、
「……むすめ未練な
やうではあるが、是も世の親心どうぞ今一目御前の顏を……」
又もわツと泣出せば娘もいとゞ胸が迫ツて、
「あゝ申し、御爺さま、妾の仇をかへさうとて御危いこ
とを爲さいますな
。いツそ妾は狗死しても御爺さまの……御爺さま……御無難なのが何よりか……」
「お
ゝ孝行だ、孝行だ。剛の者と言はれた己だが今日といふ今日ばかりは珍らしいこの涙が……」
「妾とても御年齡寄ツた貴父を捨てゝ冥途へ行きますのは、えゝ、も、かなしう厶います。どうぞ妾の墓塲へは時々御出でくだすツて……」
「も…もう言ツてくれるな
。胸が裂るやうだ。どうしたら痛い思をさせずに
御前を殺せやうかな
ア。刀で斫るのは痛々しい。己で事が間に
あふなら己が此處で死ぬものを」。
「御爺さま、それ
では御未練で厶います。どうぞ御氣を取直して……妾は覺悟を决めました」。
「そんなら己も覺悟した。むすめ、堪忍してくれろ」。
斬られる娘も斬る親も胸の中は涙の水量で張裂けるばかりにナル海潟、潮路に燃える不知火の晃めく光に魂消る一聲、娘の首は、あら無殘、たちまちに胴とはハナレ駒、血筋の手綱も今は切れた、息の緒もまた切れた。
玉屋の廛
(贋金剛石)えへん。貴いなア、己は。えらいな
ア、己は
。己の身體の美しいことは……一點の翳も無く透徹ツてさ、金の指環の中に篏まツてさ。見ろ、己の姿を對向の張玻璃に映ツて居る己の姿を。己の身は日をあのとほり手強く返射して……誰でも眼を眩ますだろう。我ながら惚々するわイ。どんな好い日の下で己はこんな麗質に生まれたらう。麗質……實に「天の生せる麗質」だ。だから「おのづから棄難し」だ。今に見ろ貴婦人が來て己を身請して行くわ。身請して行ツて白魚の指に己を挾んで、さ、挾んでからは、それ、一件だ、己が秘藏されるといふ一件だ、多情才子に情人の賜と尊ばれるといふ一件だ。旨いなア。左樣なればもうシメ子のウ卦、有卦に入るのだ。對向の架に居る奴は本當に憎い奴で……御聽きなさい、御隣の明石珊瑚郎さん。
(珊瑚)はてどう爲ました。
(贋金)何、ね、この、私を掴まへて「貴樣は贋物」だと言ひましたぜ。な
んと餘りではありませんか。其處で私も腹を据叵ねて、
「贋物も無いものだ。己こそは正眞正銘の金剛石だ。見ろ、貴樣の身體は直徑一分にも足りないだらう。憚りながら己などは直徑三分ほども有るわ。他の身體の大きいのを羨んで、他に非難を打たうと思ツたとて誰が承知するものか。斯う遣込めてやツたのです」。
(珊)それは宜い氣味でしたね。それからどう爲ました。
(贋金)左樣すると如此言ひましたぜ、
「馬鹿。不愍な奴だ
。よく聞け貴樣はな
、土臺は玻璃だ。佛蘭西な
どでは盛に貴樣の樣な
贋物を製造して居るわ。眞物で貴樣ぐらゐの大きさなら誰が三圓で售るものか」。
(珊)口の減らない奴ですねエ。何でしやう、まア。
(贋金)だが、珊瑚郎さん、馬鹿に
は叶ひませんよ。貴君だ
とて、ねエ、色艷はほんのりして、櫻と言はうか
、薔薇と言はうか
、譬樣も無い樣な紅顏でお
いでなさるのに
、仲間の者がべちやくさと…ねエ。
(珊)左樣です。やれ練物だの贋物だのと惡口をば
かり言ツて意地めるのですよ。
(贋金)何あんな
奴は只人を惡く言ツて喜んで居る馬鹿者ですからそれと取合ふのは無駄な事です。
(珊)本當に
、ねエ、現在美しいのが何よりの證據です。見受される時にこそはじめて仇をとツてやれます。あゝ早く見受をされたいなア。
(贋金)おや此處の主人は變な
奴を持ツて來るぞ。おや珊瑚郎さんを、あら、持ツて往ツて、その代りに那奴を己の隣りに置くのか。何だ。うゝ何か、紅玉石か。那奴は一體氣高な奴だ。一度飛燕にたとへられたとて喜んで居たツけ。なアにあんな奴、斗筲の輩さ。先から言葉をかけないければ挨拶をしてやるものか。えイ座りやアがツた。わはゝ轉げやがるわ。樣ア見ろ。
おや店へ誰か立ツたぞ。はゝア學校歸の女の兒だな。たツた二人か。二人とも御面は好いぞ。何歳ぐらゐだらう。十五六かな。一對の洋服とは感心だ。有難いあのうるはしい眼で己を瞻詰めて居るは。一人の奴は馬鹿だなア、この己に氣が注かないで何か外の物を見て居て。おほん。御娘さま。如何です、私が御氣にイル間の川施餓鬼ですか。功徳になります、見受して下さい。なアるほど爭はれない、二人が二人見てくれるわ。それ玻璃が曇ツてはよく見えまい。左樣さ左樣拭いて。何……「あれが一番好い」……感心々々。流石は紳士の娘御だ。え、「乃母さんに左樣言ツて明日買つてもらはう」と……左樣さ、左樣でなくてはならない。何だ、是奴、己ではないと。
何……「紅玉石が所望だ」と……そんなら貴樣たちも馬鹿だ。行け、行け。早く行ツてしまへ。
いや來た、今度のは何だ。うん此町内の小供たちか。鬱陶しい、是奴達は見倒すばかりだから益には立たない。寄ツて居るな。那邊へ行け。だが、それでも感心だ。ふゝ、己を褒めて居て……感心に眼が有るな。今に立身するだらう、それほど怜悧だから。坊ちやん、好い御子だこと。
ふゝ……ふゝ……大層いゝ香がする。貴婦人の來臨だな。いづれも御面は賣殘だ。その代には衣服が善い。衣服美人といふ奴さ。ほい歹く言ツて聞えると大變。へい金剛石の指環が御所望なら……否さ、そんな小さな奴は……それは贋です、贋物です。贋ですと言ツたら贋ですよウ。眞物は私です、ちよ…ちよ…直徑三分です。私を御買ひなさいよウ。何……四十圓をそんな砂のやうな物に、あゝ四十圓馬鹿氣て居ますよ。もし貴婦人わたくしは單の三圓、あなた損徳を御存じないのですか、あ、わたくしに御眼が注まらないのですか。わかツた、己が先刻惡口を言ツたので腹を立たのだな、是は、それでなくて己を捨てゝあんな物を買ふ譯は無い。これは己が惡かツた。それでは貴婦人わたくしは失禮いたしました。どうぞ御免くだすツて……えゝ遂々歸ツてしまツた。
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(板玻璃)どうも仕樣の無い代物だな
ア。自惚にも程が有る。自分ば
かり金剛石の氣で居ても他に
は眼といふ裁判官があるは。田舍者か何かでな
くて誰が欺むかれるものか。
(贋金)おや。どこかで、
誰か己を歹く言ふよ。だ……だれだ。此一枚板の、貴樣だな。張玻璃の分際で生意氣な。さア己も金環付の金剛石さまだ。聞捨てゝはおかれぬぞ。なぜ己が自惚だ。否さ、なぜ己が仕樣のない代物だ。さア其譯を白状しろなぜ己が贋物だよ。
(張玻)靜に
しろ。外聞がわるい。素性を言はなくては分解るまいが實に貴樣と己とは兄弟で……
(贋金)なに、兄弟、大概に
しろ。憚りながら此己はみすぼらしい玻璃に
などは……へん、途方も……
(張玻)……まア默ツて聞くがいゝ。これさ、左樣怒らずと……否さ、それだから惡いのだ。實に貴樣は玻璃だよ。玻璃だが、ま…また怒るさ上等の玻璃だ。好いか、下等では无いのだ。本當に佛蘭西などには色々の寶石を製造する所が……
(贋金)こいつが/\、言はせて置けば法外な事ば
かり……もし己が本當に玻璃な
ら人が皆己をば
玻璃といふ筈だ。處が、决して左樣でない。
(板玻)そして人が何と言ふ。
(贋金)贋金剛石と。
(板玻)あツ。それだから贋だ。
(贋金)贋に
しろ金剛石だ。玻璃ではあるまい。さア何うだ。
この板玻璃め、覺悟しろ。
(板玻)わ
はゝゝゝ、見ろ、何だ。本當の金剛石で貴樣が有るならば、見事己を切れる譯だ。贋の證據には貴樣が玻璃の證據には己に疵をつけられまい。それ、それでも考がへて見ろ。貴樣は知るまいが、正眞の金剛石は炭素だ、貴樣と己とは亞爾加里鹽や石灰の抱合物だ。是からはちと鼻を折るがいゝ。正眞の金剛石は世に罕だからとて貴樣が蝙蝠になつた日には終には實物と較べられて赤耻を掻くに究ツて居るわ。土臺から違ツて居る上、また正銘の金剛石は切磋琢磨の苦を經て居る。貴樣や己は琢方も丁寧なものではない。ね、考へて見るが好いよ。
骨は獨逸肉は美妙 花の茨、茨の花
日は
やゝ水平線の領地を離れた身祝とて六尺ばかりの立木にも四五間の影を貸し、嫩草は春雨に喚出されたのを忘れぬためか、緑の袖に白玉の粧飾を澤山着けて居る、原は廣くてところどころの木立の外、人の目を遮る物を持たず、木立の蔭には鳥の聲が長閑に、清く聞えて居る。原の片側は絶壁で淵の深さはどのくらゐあるか、水色が青く、凄く見える工合ではどうしても淺くは無いやうだ。對岸には苛めしい城が扣へて居て、その城の横顏をば日の光が睨めて居るので白壁の高加索色も此朝は薄い亞米利加印度色で、そして又窓の眼の玉も眩しさうに晃めいて居る。天はよく晴亘り、春の癖とて根方が葡萄の濃縹に、末が瓶覗の胡粉藍……すなはち縹の曙染。それを此城は着物として居る。それに此城は包まれて居る。薄紅と薄縹……どうも反映が好い。自然に城も際立ツて見える。
四方には色々な花も咲いて居て、たゞ「これは
これはとばか
り」うつくしい。花は
些しも吝嗇でなく、芳香の分子を絶えず散らして居ると、散らされた分子は、吹くでもなく吹かぬでも無い風の汽車に乘ツて人の鼻の穴の隧道の中、鼻毛の木立の間を續々と旅行して居る。城の後面にあるのは山の屏風、それに懸かツて居るのは瀧の白布。すべての景色の好さ、實物とは思はれぬほど位置が整ひ、また畫とは見えねほど眞に迫ツて居る。もし實物ならよほど造化が機嫌の好い時、それを作ツたのでもあらう。もし繪なら、金岡か良_ふ_あ_え_るが腕に麻痹を切らしてそれを描いたのでもあらう。あア美しい、繪の樣で。あア眞に迫ツて居る、實物の樣で。
此原へ毎朝欠かさず五六疋の羊と一疋の犬とを連れて來る少年が有る。その平常の食物は酷く佳くも無からうが、顏色ははなはだ艷々しい。笑ふ顏には手で掬へる程な愛敬の露がこぼれて、實に、その人柄は牧羊兒に似合はず愛らしい。此牧羊兒が毎日原へ羊と犬とを連れて來る時には毎でも笛を吹くのを常習として居るので、一日もやはり例のとほり餘念なくそれと吹いて居る。笛の音は十分に澄亘ツて澁滯も無く舵枕で月を眺めた人の俤までも目に浮かぶほどで、それを聞く人の胸には釘でも打たれるやうに哀が浸亘ツた。朝開の風は熱くなく寒くなく、引回らされた霞の幕も有るやうで無いやうで、物の光景が何となく優にやさしく見えた其中で此音が玲朧と響くのだから、それを聞く者の心に起る感情は丁度温い衾の中で針の療治が施されるやうだ。羊は欣んで遠近を跳回り、犬は放心れて尾を振る。牧羊兒はます/\興に入ツて絶壁の角に腰を掛け、なほ/\笛を吹澄ますその風情の麗しいこと畫にも畫盡くせるものではない。
笛の音が響始めるや否や、毎でも對岸の城の窓が開いて其處から美しい、小さな顏が出る。是も年齡は牧羊兒とおなじほどだらうけれど其顏形は猶麗しくて、姫君と見違へられるばかり。多分是は此城の若君ででもあらうが、たゞ顏色は浮立ツて居ず、さながら心に深い愁が有る樣で、その有さまは這方の岸から現然と見える。それで笛の音が響亘ツて段々佳境が出て來るときばかり微笑の痕が其眼口の邊に顯れるのは實に一日ばかりの事では無く、毎日毎日かならず左樣であツたから自然牧羊兒も我知らず笛に骨を折るやうになると、城の人はまたいよ/\耳を澄まして聞くやうになり、終に此二人の間に早晩親愛の情が出て、はるかに二人が顏を見合はせる時には二人とも必笑を含み終にまた其量が多くなツて互に默禮をするやうになツた。
今は牧羊兒の心には
不審が出て來た。
「どういふ身分の人だらう、あの人は
。何でも人質か俘虜だらう。それでなければ
此處へ出て來る筈だ、あのくらゐ樂しさうに
聞いて居るのだものを」。是だけの考が起るや否や、牧羊兒はまた何と無く城の人を慕はしく思初めて來たが、何故左樣思初めたか、其邊は分解らない、自分ながら。けれど此分解らないのは即小兒らしい、あどけない潔白な、可愛らしい處で、實は此牧羊兒も「美を好む」の天性には十分に縛られて居るのだ。牧羊兒はまだ小兒、まだ經驗にも乏しいから從ツて判斷の力も薄い、何が「美」やらよく知らない、それで居ながら「美」を見れば自然に愛する心を起す、すなはち「美」をば知らないで而して「美」に眩むのだ。此例は世に多くある。仝じ裁縫學校に居る女生徒たちの間にも「美」と「美」との引力は必起ツて皮膚細の花子は先色白の雪子と交情をよく爲始める、先方も側へ寄りたく思へば這方も隣へ行きたくなる。それも二人が二人ながら「美」といふ判斷を付けた後、斯う思出すものでは無い。小町だらうが誰だらうが、總角の頃から定まツて是がたしかに美貌だと知ツて居るものはない、だから自身の容色が玉を欺き、花を負かすといふ事を最初から知ツて居るものではないが、段々年が長けるに從ひ、幾分か判斷も出來て來る上に他人の評をも聞込むので、其處で始めて「扨は己は」の自惚神が宿ツて來るのだ。是は殊に世間の美しい貴婦人たちに經驗が有ることだ。
牧羊兒の胸には不審の子が殖えるば
かり、終に
こらへかねて、それから、自分の跡を追ふ羊や犬を叱付けて原へそれを殘して置き、自分ひとり迂路して程無く對岸に行き、さて城の前へ來て見ると、さア、凄い物具で身を固めた番卒が嚴しく其處を守ツて居る。其等が這方を見て居る樣は何に比へられたら十分だらうか、百鬼夜行の繪卷物が燐素の光に映ツて居る樣……それでもまだ悉くして居ない。地質學者が言ふ豸類時代に亡者が群集して居る樣……それもまだ旨くない。失樂園の魔王たちが天宮を襲ふ會議を開いて居る樣……どうもまだ面白くない。兎に角實に凄い。牧羊兒は夢にもまだ此樣な凄い繪卷物、こんな否な豸類時代、こんな怖い會議をばまだ一度も見なかツたので最酷しく駭いた。胸の動悸はあわてゝ跳出す。身體は後へ引返る。が、もはや遲かツた。番卒は追蒐けて來た。獅子は直さま羊を掴んだ。
「大膽者め、何に來た。大方敵の間諜者で貴樣は此處から若君を盜出しに來たのだらうが……何の其樣なに虚啼しても……」
言はれた言葉は
是ばかり。牧羊兒の身體は
はや引込まれた、門の中へ。其時の牧羊兒の心、それは書かれる迄でも無い。涙の海を泳ぐ眼の玉。酸漿から利足を取る顏色。構はなかツた、それにも、番卒は。實に哀を知らね奴だ。直に此罪も無い牧羊兒を入れやうとした、城の牢へ。牧羊兒は一生懸命、泣きながら、踠きながら、食付きながら、引掻きながら……けれど舌は塞ツて仕舞ツて……
石も水には
摧かれる。牧羊兒の涙の水では番卒の心の石も脆くなり、踠爭ふ牧羊兒の有樣を見ては番卒たちの眼と眼とは互に思はず向對ツた。處へ城の若君から思掛ない、その牧羊兒を赦してくれろと云ふ命が來たので番卒の心の石も十分に摧かれた。直に牧羊兒は若君の便室へ導かれたが、あまりの嬉しさに身も戰へて、便室へ入ツてもよくは口が利けない。若君もそれを見て笑掛けた、
「さぞ恐かツたらう。けれど、もウ安心を御爲よ、もウ何の事も無いから。毎でも御前は原へ來て大層面白く笛を吹いて、ね、吾はそれを此處で聞いて、どんなに嬉しかツたらう。今日はまあ遊んでおいでよ」。
無量の愛嬌を笑靨から滴らせて、愛らしいのさ、牧羊兒の顏を横から覗込みながら輕くその肩を拍ツて細い聲で挨拶する人品の秀れて居ることは何とも角とも譬樣が無い。室の粧飾は無論うつくしく、殊に其處は城の三階なので窓からは方々の景色がよく見え。瓶に活かツて居る迷迭香の薫香、壁に掛かツて居る畫額の奇麗さ、主人の若君の麗しさ、愛らしさ、右も美、左も美、牧羊兒の眼には何も辷來まなかツた美の外は。
「本當に一度は
余も肝をつぶして……危く暗い處へ入れられる處を……ありがたう」。
「吾は、ね、淋しくて淋しくてならないか
ら、今日は
御前も此處で遊んで居てお
くれ、種々な事をして遊ぶから」。
「なぜ、こんな奇麗な家に
居て、而して玩弄物やあの額のやうな好い羊の繪な
どを持ツて居て、そしてな
ぜ御前さみしいの」。
「でも吾は
……あの、ね……御聞きよ、惡い家來が吾の國を取ツて、それから今でも、此通り、此樣な、吾がまだ見たこともない國の城へ吾を閉籠めてしまツて……嗚呼故郷……故郷は何の邊だか。毎でも、ねえ、遠くに雲が見える時には『あゝ吾の故郷はあの邊に在るのか知らん。あの雲をも故郷の人が見て居るか知れない。嗚呼故郷は實に何の方だらうなア』。とばかり吾は思ふのだよ。それだものを、吾の心が浮立たないのは當前さ。あゝ詰らない話をして……さア是から御前と一途に遊ばう」。
あどけないのは小兒の常、
牧羊兒は
先刻の恐ろしさを最早忘果てゝ、たゞ珍らしい遊戯に鎔けさうな顏をして居ると、城の若君も其とほり、心の中の愁憂を立追にしてしまツた。時の過ぎるのは飛ぶやうで、はや正午が來る四時が來る、倐忽の間に夕暮の黒幕。「おや日は暮れるのか」。「なあに雲が出たのだらう」。愉快のあまりは天氣の辯護人をもこしらへる。けれど星も目瞬を爲始めれば烏も塒歸の歌を歌ツて、證凴不十分とはならない。若君は牧羊兒の歸途が淋しくなるだらうと思ツて、色々に牧羊兒を急立て、「ね、吾も御前に別れたくはないが、御前の阿母さんや阿父さんが心配するといけないから……だから、また明日屹度御出でよ」と百遍も繰返した、暗誦する程に幾度も繰返した。愛情の濃さは是ほどで、牧羊兒も其忠告を至當とは思ツたが、中々思切れない。終に併しながら一先情慾の炎を鎭めて、否、賺して若君に別れ、門を立出でやうとすると、駭いた、番卒にまた差止められた。「これから御前が死ねまでは决して外ヘは出さないぞ」。
突返されて牧羊兒も一度は駭いて途胸をついたが、まだ此處で遊んで居たい心をば山々持ツて居るので、終にその心の刄が容易く「おどろき」の根や葉を刈盡くして仕舞ツた。小兒だけに心と心との戰爭の勝負は早い。「城の外へ出られないなら其れこそ願ツても無いことだ。まあ今日は何ういふ好い日だらう。立派な城の中に居て……是から夕飯には、それ、あのな、甘い物も付くだらう。あゝ津液が出るわ」。
元より若君とて牧羊兒と別かれたくは無いのだから、是も平氣で遊んで居る。「それなら今夜は遊べるねえ」。「あゝ嬉しい、うれしいな」。やれ骨牌、それ唱歌、さア腕押、おい來た雙六、笛をも吹かう、琴をも彈かう、踏舞をもおどらう、謎をも掛けやう。「夜は更けた」。「跡は明日の御慰」。「さあ寢やう」。「おゝさ、寢るのも一途にねエ」。
此儘で一日二日過ぎた。其内に
何やら名の知れぬ病が牧羊兒の心を蠶食して來て、眼の中には父母の姿が見えるやうに耳の底には父母の聲が聞えるやうになり、または自分の衣物を見ればそれを縫ツてくれた母の事も胸に浮かみ、母の事が胸に浮かめば、思想の聯絡、父の事も跡から直に浮かんで來てそれで顏色も浮々しなくなツた。絹布の衾は襤褸の臥床を思出す種、銀のらんぷは松明を思出す種、そして番卒に言はれた言葉はいとゞ身をくるしめる種。
「夢ならば覺めてくれ、現ならば
破れてくれ、己の今の有樣が。此處は
阿母さんが日外話してくれた魔物の住處ででもあるか知らん。どうして己は此樣な否な處ヘは來たのだらう。是限り家へは歸られないか。大變だなア。逃出す手段は有るまいか。ても阿母さん……今頃は嘸心配をしてゐて……御父さんも……早く探しに來て呉れゝば宜いが。何だ、この玩弄物のたとひ銀で出來て居やうが、鼈甲で出來て居やうが、貴樣までも憎いわ、此城の物の一片だから。此窓から見ればなア那んな方までも見える。あの邊が己の家だらう……飛んで行けるなら直に此處から飛んで行くが。おゝ犬……犬……犬はまだ對岸に居て、可哀相に、あら、此方を見て尾を振ツて居るわ。えゝ、吼えてくれるのか。それでも己を見付けて呼ぶのか。己も其處へは行きたいが……けれど、どうも。えゝ。それ、そんなに吼えて騷ぐと堀へ陷るぞ。悲しい。涙がこぼれる。えゝ、ま、身が千切れるやうだ。何うぞ神さま……ど…ど…どうぞ神さま……御願で厶います、どうぞ御助けなさツて、この一疋の牧羊兒を…御…御願で厶います。あの通り犬……犬も泣いて居ります。是ぎり私が家へ歸られませんければ、此間阿母さんが拵らへてくれると言ツた、あの旨アい天麩羅をも私は食べられません。神さま、どうぞ神さま、えゝ、も、神さま。まあ兎に角逃路を探して見やう」。
それから牧羊兒も此三階を密と下りやうと爲たが、折角馴染んだ若君に其儘別かれるのも遺憾と思ツて、若君が今寢て居る部屋ヘ一寸行ツて、見ると、さア、大變、若君は死んで居る。死んで居る、あの息は絶えて……さア、身體も冷えて……然うさ、脉も無くなツて……可哀相に莟の花が開かぬ内、三五の月が昇らぬ前……嵐……雲……無殘、此世の人ではない。牧羊兒は腰を拔かすほど駭いて、それと仝時に、嫌疑が自分にかゝるかも知れぬと思へばいよ/\恐くて、怖ろしくて……片手に回向、片手に涙……えゝ、も、胸は一層どき/\、大變、足は猶更ぶる/″\、悲しいやら、無殘やら、最惜しいやら、怖いやら。「うまく逃路が見付かツてくれゝば宜いが……逃損ツたら命は無くなるぞ。どうぞ神さま、私を番卒が見付けませんやうに御護りななさツて下さいませ。あの音は何だ。風か。番卒かと思ツた。どうぞ神さま、私を御守りななさツて下さいませ。どうぞ私、神さまを御守りななさツて下さいませ」。
牧羊兒の胸に
は「恐い」、「悲しい」、「神さま」、「番卒」な
どの專門語が走馬燈をやツて居る。門を閉ぢて色を蒼くする顏の毛細管。腋下と背とに押寄せる冷汗の津浪。切れる、息が。乾く、咽喉が。時はまだ晝中、番卒も寢ては居ず、城は堅固、逃路も容易に見付からず、それこそ馬琴がよく言ツた「魯般の雲の梯」でも無くては誰が此處から逃出されやうか。それだのにまア牧羊兒は……
* * * * *
* * * * *
「御父さんも御母さんも嘸心配して居たらうね。漸後門の木立の隙を潛ツて、さ、私は此處まで逃げて來たのさ。もう/\私は那には懲々したよ。忘れても以來决してあんな怖い處へ行くまい。左樣天麩羅、こしらへてくれたの。おツと是か。あゝ旨い。毒のある料理よりは此方が遙に旨いわ。あい椅子、あゝ剛氣だぞ。針が生えて居る金銀の腰掛よりは此方が一層剛氣だ。庭の内には牝羊牡羊、是が天然の畫額だわ。野原の果には紅の空色、是が錦の帳だわ。此處は素より陋屋さ。には金も無い、銀も無い、その代には劍も無い、また錠も無い、牢も無い。玳瑁の籠よりは楢の小枝を鳥は好く。あゝ花の中の茨。あゝ茨の中の花」。
柿山伏
其一。
「『For neither were ye playing on the steep,
When your old Bards, the famous Druids lie,
Nor on the shaggy top of Mona high,
Nor yet where Deva spreads her wisard stream:
Ay me! I fondly dream!』
あゝ旨い。實に妙だ
。單綴でもない言葉を役ふ手際が實に
自由だ。殊に
古詩の里_し_だ_すを應用して巧に
取扱ツた意匠は非常な物だ。そればかりか情思の濃さ、どうして沙_く_す_ぴ_い_あや須_ぺ_ん_さ_あに負けるものか。是でこそ實に美_る_と_んたる處が現れるのだ。天_に_ず_んの五月少女も此里_し_だ_すに比べられゝば何でも無くなるわ。えらい凄い。實に感心」。
此處は箱根の温泉宿、某甲屋の二階で、
此大言を吐く先生は
湯治に
來て居る一人の才子だ。年はまだ
三十に
ナラ漬の香物。號をば意外とナヅケの重石、押の強いのが生れつき。月夜に釜をヌカ味噌の那須月五郎かと言ツて、親が相性名盡と首引で付けて呉れた緊要の名は葉山葵の氣が利かぬとて顧ず、ひとりで梅干の粹がツて、辛子漬の辛味は無論、糀漬の甘味から辣薑の臭味まで、凡人生の味は噛占めて飮込んで、只今胃へ申付けて消化させて居るといふ面色。其他にまた學問は敷嶋の道傍の櫻の鹽漬、唐辛の唐土の學問、乃至紫蘇卷舌の歐州語まで實に能く通じの丸藥、是も丸嚥にして居るとの趣で、是は他人の浮評で無く、本人自身が鉢卷を爲て鼻卷を暴くし、海苔卷のノリ地に楢薪で味噌を揚卷の管卷ゆゑ、左樣か白糸とやたら漬には信けられない。京菜の葉の糸より細かく聞いて見ると此人、學問の貯蓄は頗細根の鹽漬で、洵は生讀の甲斐ない小説の會得から終に何時と無く和文の書方をば些ばかり覺えた。其報果として此人の作ツた文には屹度文章上の誤謬が坐禪豆をこぼした樣に限無く踈切の梅が枝でんぶ、その濃乎とした「郎君よ、妾」は口調に迷はされ、それでも賞翫してくれる慈善會の會員が無いでも無いとは……
けれど此先生の文學通なことは
實に
凄いほどで、大概の文學は大概讀んだ。讀まないのは矢張り讀まない。笠_と_んの著作をば第一に讀んだ、文が大きに易いゆゑ。沙_く_す_ぴ_い_あをも讀んだ、茶_あ_れ_す、良_む_で。源氏物語をも讀んだ、忍草と田舍源氏で。水滸傳をも讀んだ、國字解で。好毬傳をも讀んだ、三日月阿專で。なんと凄いほどでは無いか。それで居てまた「一方を欠く」といふ易の箴に從ツて、黄表紙といふものを知らない、西鶴といふ名を知らない。蘇_こ_ツ_とは世話物の作者で近松は質屋の丁稚、良_し_ん_ぬは魯西亞の滑稽小説家で陳壽は稻荷と思ツて居る。是は實は先生知らなくはないのだが、餘り多く知過ぎたやうに見えるといけないとの謙遜から故意と斯うして居るので、其證據には人が是等の事を言出せば毎でも「えゝ左樣」と挨拶するのだもの……知らないで此挨拶は出ぬ筈だ。
此先生が最初に作ツたのは
「戀の辻占」とか「鮎の煮侵」とかいふ立派な政治小説で、時事に感じて作ツたと自序も有るだけに、憂憤の有樣が紙上に溢れて語法も纏まらず、一人の貴婦人が前に「わらは」と言ツて後に「あたし」と言ふなど、變幻無雙、中々の傑作、而して貴顯の方々や學者たちもそれを賞贊したと見えて其小説には題字やら、序やら、跋やら、石版摺がこて/\と入ツて居て其上にまた佳境には、不具眼の者にも分解るやうに、圈點や比點が澤山着いて、鼇頭には評も載ツて居るなど實に其趣向の深切なこと涙が出る程であツた。それだから能く賣れた。金を出して其傑作を買込み、そして中を見た人にそれを讀まないものは無い。それを讀んだ人に意外の名を知らないものは無い。だから先生も嬉しく思ツたのだらう、往來を歩行く時には毎でも本屋の前で立駐まり、其店前に傑作が一冊か二冊か並んで居るのを見ては莞爾とし、人が其傑作を買ツて居るのを見ては莞爾とし、通運會社の店前仝樣、荷梱で埋まツて居た。さてその傑作の潤筆料には耳を揃へた口無が出たので作者は雙の眼を無くさずに嬉しがり、鼻を高めずにホコリと塵とに塗れては居ない髮へ油を塗付け、其夜北里へ飛込んで、かねて買馴染の阿何とか言ふ自稱晝三を受出しの温飩、紐川温飩、延過ぎない鼻毛の馬に跨らず、終に相携へて此通り箱根遊浴と洒落たのだ。
此人の身體は
巨大うて半鐘泥棒どころか避雷柱泥棒と言ひたい。顏の形は長方形で重箱では無い、長火鉢だ。眼は倒に付いて居るのか知らん、下ツて居て。だから野蠻人では無い。顏色は戀の遺恨で硝酸を注掛けられたか知らん、家根裏の煤竹のやうで。だから大した好男子だ(晝三を受出した)。
妻君は今年廿一二で、根が教育の無い婦人だから其人品に大した處は無い。たゞ正直なのが身の徳で、泥水の中には居たが手練の圈套や手管の械、カセの呉れろの強情言は母の胎内へ全く忘れてキ娘のあどけなさが意外の氣に熬豆、花の咲く新夫婦とナル海絞の浴衣地一疋も半分づゝにして着るなどの中よしとはなツた。顏の色は鉛毒に觸れたのでは無からうが蒼白く、額は拔上がツて瓜の核も何の糸瓜、ちと長めいて茫然とした面色で、それを○○面だと言ツた被嫌客も有ツたけれど、意外に言はせればまた其處へ理窟が付いて、「阿何は一寸比へて見れば、玉山製の十軒店物に魂が入ツたやうな物だ。龜八製とは違ふわ。奇麗で高尚で人品で、實に、だから華族の姫君と崇められても無理ではない。妻君がもしも華族と見えるからには隨ツて相對の道理で乃公も華族と見える譯だ。うふゝ華族の文學者……はて後世への聞が好いぞ。渠の可愛らしいことは此間だツけ、うゝ左樣左樣、乃公と話をして居た時だ、不圖涎を垂らしたので左も耻かしさうに笑ツて居た。あの處などは何うしても言ふに言はれぬ價値が有る」。
涎までに
欲目の贔負が有る。もし此涎が老人の口から出たならば「えゝぢゞむさい」と言はれたに違ないに……あゝおなじ涎でも驥尾に跟けば善く言はれ、驥尾に跟かなければわろく言はれるとは……なるほど名家の序跋に題辭。先生原理を知ツて居るわ。
其二。
襖越の無鹽の聲は時に
西施を欺くこともある。岩に
付いて居る銅は俗人に
金と見られる事もある。蔭でほのめかした意外の學者假粧は終に盲をだまかした。丁度今浴衣の儘で風呂から上ツて來た一人の髯大臣が意外の部屋の前を通ると何やら批評の聲が聞える。立駐まツてよく聞ばそれは美_る_と_んの詩の評論。聞けば聞くほど俗人には言へぬ議論と思はれるので髯は思はず感に入り霎時は鶴立んで聞いて居たが、やがて何か思付いた體で聲を掛けながら意外の部屋へ入ツて來た。
この髯大臣はある省の長官で役目の上では可なり一方の役に立つと言はれた。顏の出來は好くないが、愛妾の容色が秀れて居るので、其處で權力の平均が出來て無偏平等の主義が立ツて居る。齒は土左衞門の拘留所、口は辨慶蟹の雛型、そして鼻の穴は爆裂藥を用過ぐされた隧道で、たゞ髯ばかりが、實に髯と鼻毛ばかりが長い、否さ、うつくしい。けれど時には其髯の藪蔭に、晩餐の時口の中へ入り損ツた玉子焼の殘黨が伏勢を張ツて居ることもあるなど、治に居て亂を忘れぬ證據で、天晴國民のよい龜鑑さ。そして舞蹈にもせよ、夜會にもせよ、芝居にもせよ、競馬にもせよ、會社にもせよ、銀行にもせよ「君子は器ならず」、此髯大盡が手を出さぬ物はなく、殊に豪奢な事に此人が練れて居ることは鹿鳴舘の二階の天井の隅に一インチの千分の一の煤が掛かツたことまでも知ツて居るのでも分解る。
一度この大盡も世の流行に
つれて一の小説を書き、自腹を切ツてそれを出版した處が、それが其小説が、その東洋の彌_い_こ_ん_す_ふ_ひ_い_る_どの傑作がどうしたことやら些しも賣れ……御氣の毒だが……賣れなかツた。大盡も流石に人に面目が無かツたが、左樣かとて其儘盛返すことを爲ないでは猶々耻の掻上と頻に苦辛をば爲たけれど一向に好い趣向も出なかツたので餘程困却したところ、料らず聞けば仝宿屋に美_る_と_んの詩を評するほどな文學者が居るのでそれからその部屋へおとづれた。其下心は小説の代作を頼みたいばかりで……
それから髯は禮をして
「はじめて御目に掛イます。私は
野馬勇でやすが、只今ちよと承ウと、先生は、も、はア、有名な……とも存ぜんで今日に至ウまで酷う失禮いたイちよりまヒた。何とぞ是からは御入魂にねぎやあます」。
改まツた口上に
意外は轟く胸を鎭め、
「是は是は
……貴君が野馬さんで……是は
不思議な處で芝眉に
接しました。私は
那須意外と申して……お
ゝ、かねて御著述をも拜見して御才量を窺ツて居りましたに、つひ存じませんで失敬いたしました」。
「おゝ貴君が意外いふ先生ですか
。扨こそ。これは
また宜い處で……先日の御著述ウ私も拜讀して蔭ながら欣慕しちよりまヒた」。
意外は故意と平氣な氣色で
「何でございます」。
「『戀の辻占』いふ御著述」。
「えゝ、何の……彼……あんな物が……あれは
私がまだ書生で居ました頃、慰に
作りましたのを、運歹く此頃書肆に
齅付けられて取られたのです」。
「はア左樣でやすか。それに
しても俊れた御作ぢやすな。時に
只今御讀みになさツたのは
何で厶いますか」。
「はい美_る_と_んで厶います」。
「なアる……御飜譯なさツては如何です
」。
「左樣。私も美_る_と_んをば
好みまして常々讀んで居りますからそれを譯すのを難いとも思ひませんが、只一の困難は之を譯して出版しても具眼者が有りますまい」。
巧く逃げた。髯も烟に捲かれた。
「なるほどなア」。
直に一轉して楔子が打込まれる、
「實に小説も言は
ゞ草創の際ですから具眼者が無いのも無理ではありませんが、また考へれば洵に只今は慨かはしい程な有樣ですな」。
「如何にもな」。
「今の看客を評すれば凡先二種ありまして、一は守舊黨で、天保時代の塵芥に涎を流す輩と、一は急進黨で、西洋の思想で書かれたものばかりを有難がツて居る者です。前の守舊黨は多く極美を好んで後の急進黨は概して極實を喜びます。極美と極實との割合が程よく備はツて居る物を尊ぶものはありません。斯うも世の事は極端に走るものでしやうか」。
「しかし守舊黨の方は
段々と社會が進歩するに
つれて衰へてしまひましやう」。
「もし左樣ならば極實派がつまり勢力を得ましやう。極實派が勢力を得ますれば美術は寫眞になツてしまひます」。
「それでは極美が勝てば……」
「とても此世にないやうな
物を取扱ふ美術が出來ます」。
「はア、實に妙ですな
」。
「否、妙では厶いません當前です。眞正の美術は何です。この兩方が程宜い加減に用ゐられた物ですわ」。
「その程宜い加減と仰ウのは些曖昧では
厶いませんか。何を基礎とすウ所も無くて……」
「けれど貴君美術ですから。美術は完全な規則を以て束縛することが出來ません」。
實に
遁げるのゝ上手なこと遁逃博士とも言ふべきほどだ。髯も益々感心して
「勿論、なる程、左樣でやすな。色々の御名説、伺ふて實に益を得ました。時に一、はなはだ申兼ねた事でやすが、御願や申したや儀が厶いますが……」
「ははア、どの樣な……」
「それは別儀でも厶いませんが、な
、御存じの私の小説です、な
、あれも幾分かつまらぬ作を排斥しやうとて作ツたのです、實は。處が仰のとほり具眼者が少いので……否、决して賣れんとて何も酷う悲しみは爲ませんが、此儘今一度花々しいことを爲て見たいとも思ふのですから、な……もし如何でしやうか」。耻かしいやうな面色で「一部の代作を御頼ン申したう存じますウが。失禮ながら御名譽を埋沒すウのには必相應の報酬を差上げやうと存じちよイます」。
開いた口の牡丹餠に
意外は胸へ脉を搏たせて思はずも膝を進めた、
「御尤の御情實……折角の御依頼ですから、それでは……」
「御承知なすツて下さいましたか」。
「はい一先試みましやう。才子佳人が主人公で政治の藥味が一寸加はり、而して「諸君よ」の一箇處ぐらゐありますれば屹度俗人の眼は眩みます。いくら骨を折ツて人情を穿ツてもそれを見別ける者が無いのですものを、穿つだけ骨折損です。今しばらく看客の見識が高くなるまでは節を屈してその氣に入るやうにして居るのが一番の上策です」。
あゝ酷い。流石は
希世の文學通だ。大概の人な
ら此一言で直に
陋しめて仕舞ふのだが、髯は例の慈善會の會員ゆゑ、其樣な冷淡な事をば爲なかツた、
「如何に
も是は一段面白い御考でやす。早速の御許諾で私も安堵いたイまヒた」。
「ま、一寸御待ちなさい。それから决鬪の話を持込みましやう」。
「妙でやす、な」。
「それからまた其上には文章に
『的』の字を澤山用ゐましやう」。
「ははあ、『的』……『的』は至極宜い字でやす」。
「猶其上には未來の事を……」
「ほゝ愈面白い」。
一二ケ月の後、諸處の新聞紙に
「○○之○○」といふ廣告が出た。作者は
誰で。野馬勇で。其内に
、あゝ氣の毒、ある新聞紙の批評で其小説が、意外先生が大自慢の傑作がしたゝかに惡く言はれた。髯は其新聞紙を意外の前へ突付けた。
「酷ウ評されまヒた、な。是でも幾許か
御報酬を差上げて書いていたゞいた物でやすのに
……御答辯でも御書きなすツて下さワんでは
實に私が迷惑いたヒます
」。
「左樣です」。
「左樣ですでは、こわ
、先生、いけんではあイませんか。御答辯をねぎヤます。私が世間に對して……」
「でも能く賣れましやう、あの本は」。
「賣エませんわ。賣エんのは
全く其本が惡いからでしやう」。
「へエ」。
「へエとは何です
。確とした御返辭をねぎヤます」。
「確とした返辭ですか。左樣さ、確とした返辭な
ら……あの……」
「なに」。
「へエ、大塚の蟇六が濱路を宮六に
やる事について……」。
「貴君何をおつしやる」。
「いや、もう眞平御免下さいませ」。
「どうなさつた」。
「え、失策いたしました」。
あゝ意外は遣損つて大増に
耻を柿山伏、
法螺の貝の音も止まつた。髯大盡も仕損じて是も耻を柿山伏、時雨にあつてカヒカブツタ。
仇を恩
九歳十歳ばかりの女の子が眼に
涕を溜めながら一人の老女に
向ひ、
「叔母さんよウ、叔母さんよウ、かへして御呉れよ、妾の雛兒をさア。さア活かして返して御呉れよウ」。
「うるさいな、雛兒はもう死んで居るわ」。
「さア何故左樣死なせたのだよ。よウ叔母さん。渠は
妾が小使錢の殘餘を溜めて買ツたのだからさア」。
「仕方が無いわ
。惡いから殺されたのだ。垣根の下から潛ツては家の畠へ來て人參をあらすから殺されたのだ。自業自得だ。樣ア見ろ。しぶとい阿魔め」。
言捨てゝ老女は我家へ這入ツて仕舞ツたので女の子も仕方泣々家へ歸ツて來て姉の顏を見るより力限りの聲をあげて泣出した。
「あら、花坊はどう爲たの。また横町の峯ちやんに
いぢめらてたのかえ」。
「うゝン、峯ちやんでは無アい」。
「そんなら留吉さんのところの犬に
また追蒐られたのだらう。なに
左樣でも無いと……好いよ、まア涙を拭いて御話しよ、靜に。あの、ね、矢鱈に涙を流すものは宣い御新造とはなれないとさ」。
「本當か
え。あら笑ツて居るから……う…う…嘘だア」。
「嘘ではないよ、本當だよ。そして誰に
どう爲れたの」。
「あの……あの……御隣の叔母さんが……雛兒を……こら、姉さん……叔母さんが」。
「おや/\まア可哀相にあんまりな」。
「ねエ、姉さん可哀相にあんまりな」。
「ほゝゝゝ、御前もをかしな
子だよ、よく他の口眞似をして。だが、御聞きよ、あの叔母さんは本當は歹るい人では無いのだよ。御前の鳥が歹かツたから殺されたのさ、叔母さんだとて腹も立つだらう畠をあらされては。花坊の姉樣函を猫が掻回はしたら花坊はどう御爲だ」。
「妾は猫を抱いて外へ連れて行くわ」。
姉の眼には情の露が一滴。
「あゝ花坊、それでこそ好い花坊だ。だ
から雛兒をころした叔母さんをも猫のやうに
ねエ」。
「抱くのかえ」。
「否さ、やさしく御爲といふことさ」。
一二ケ月の後、老女は人參を拔いて洗ツて居ると此の罪の無い女の子は莞爾として其處へ來た。
「叔母さん、手傳ツて上げましやうねエ。妾は
姉さんに吩附けられたのでは無いよ、え
、叔母さん、誰に
も吩附けられたのではないの」。
あどけなさ、あゝ姉の教育のほども思遣られて愛らしい。
其日は年の終で、翌る日は新年だ
。朝起きて門口を開けて見ると美しい籠の中に奇麗な雛兒が入れて、其處にあるので……吃驚した。
「姉さん、御覽よ、この雛兒を」。
姉は來て見て、思は
ず又も情の水を
「あゝ叔母さんが呉れたのか」。
武藏野
上
此武藏野は時代物語ゆゑ、まだ例は
無いが、その中の人物の言葉をば
一種の體で書いた。此風の言葉は慶長頃の俗語に足利頃の俗語とを交ぜたものゆゑ大概其時代には相應して居るだらう。
あゝ今の東京、昔の武藏野。今は
錐も立てられぬ程の賑は
しさ、昔は關も立てられぬほ
どの廣さ。今仲の町で遊客に睨付けられる烏も昔は海邊四五丁の漁師町でわづかに活計を立てゝ居た。今柳橋で美人に拜まれる月も昔は「入るべき山もなし」、極の素寒貧であツた。實に今は住む百萬の蒼生草、實に昔は生えて居た億萬の生草。北は荒川から南は玉川まで、嘘も無い一面の青舞臺で、草の樂屋に虫の下方、尾花の招引につれられて寄來る客は狐か、鹿か、又は兎か、野馬ばかり。比樣な處にも世の亂とて是非もなく、此頃軍があツたと見え、其處此處には腐れた、見るも情無い死骸が數多く散ツて居るが、戰國の常習、それを葬ツてやる和尚もなく、たゞ處々にばかり、退陣の時にでも積まれたかと見える死骸の塚が出來て居て、それには僅に草や土や又は敝れて血だらけになツて居る陣幕などが掛かツて居る。其外はすべて雨ざらしで鳥や獸に食はれるのだらう、手や足が千切れて居たり、また記標に取られたか、首さへも無いのが多い。本當に是等の人々にもなつかしい親もあらう、可愛らしい妻子もあらう、親しい交りの友もあらう、身を任せた主君もあらう、それであツて此ありさま、刄の串につんざかれ、矢玉の雨に碎かれて異域の鬼となツてしまツた口惜しさはどれ程だらうか。死んでも誰にも祭られず……故郷では影膳をすゑて待ツて居る人もあらうに……「ふる郷に今宵ばかりの命とも知らでや人の我をまつらむ」……露の底の松虫もろとも空しく怨に咽んで居る。それならそれが生きて居た内は榮華をして居たか。なか/\左樣ばかりでも無い世が戰國だものを。武士は例外だが。只の百姓や商人など鋤鍬や帳面の外はあまり手に取ツた事も無いものが「さア軍だ」と驅集められては親兄弟には涙の水杯で暇乞。「しかたが無い。これ、悴。死人の首でも取ツて胡麻化して功名しろ」と腰に弓を張る親父が水鼻を垂らして軍略を皆傳すれば、「あぶなかツたら人の後に隱れてなるたけ早く逃るがいゝよ」と兜の緒を緊めてくれる母親が涙を噛交ぜて忠告する。ても耳の底に殘るやうに懷かしい聲、目の奧に止まるほどに昵しい顏をば「左樣ならば」の一言で聞捨て、見捨て、さて陣鉦や太鼓に急立てられて修羅の街へ出掛ければ、山奧の青苔が褥となツたり、河岸の小砂利が襖となツたり、その内に……敵が……そら、太鼓が……右左に大將の下知が……そこで命が無くなツて、跡は野原でこの有さまだ。死ぬ時にはさぞ
踠いたらう、さぞ死ぬまいと齒をくひしばツたらう。血は流れて草の色を變へて居る。魂も亦身體から居處を變へて居る。切裂かれた疵口からは怨めしさうに臟腑が這出して、其上には敵の餘類か、金づくり、薄金の鎧をつけた蠅將軍が陣取ツて居る。はや乾いた眼の玉の池の中には蛆大將が勢揃。勢よく吹くのは野分の横風……變則の匂嚢……血腥い。
はや下甫だらう、日は
函根の山端に近寄ツて儀式どほ
り茜色の光線を吐始めると末野は
些しづゝ薄樺の隈を加へて、遠山も、毒でも飮だか段々と紫になり、原の果には夕暮の蒸發氣が切りに逃水をこしらへて居る。頃は秋。其處此處我儘に生えて居た木も既に緑の上衣を剥がれて、寒いか、風に慄へて居ると、旅歸の椋鳥は慰顏にも澄まし切ツて囀ツて居る。處へ大層急足で西の方から歩行て來るのはわづか二人の武者で、いづれも旅行の體だ。
一人は
五十前後だらう、鬼髯が徒黨を組んで左右へ立別かれ、眼の玉が金壺の内ぐるわに楯籠り、眉が八文字に陣を取り、唇が大土堤を厚く築いた體、それに身長が櫓の眞似して、筋骨が暴馬から利足を取ツて居る鹽梅、どうしても時世に恰好の人物、自然淘汰の網の目をば第一に脱けて生殘る逸物と見えた。その打扮はどんなだか。身に着いたのは淺紺に濃茶の入ツた具足で威もよほど古びて見えるが、ところどころに殘ツて居る血痕が持主の軍馴れたのを證據立てゝ居る。兜は無くて亂髮が藁で括られ、大刀疵が幾許もある臘色の業物が腰へ反返ツて居る。手甲は見馴れぬ手甲だが、實は濃菊が剥がれて居るのだ。此體で考へればどうしても此男は軍事に馴れた人に違無い。
今一人は十八九の若武者と見えたけれど、鋼鐵の厚兜が大概顏を匿して居るので十分にはわからない。しかし色の淺黒いのと口に力身のある處でざツと推して見れば是も屹とした面體の者と思はれる。身長は酷く大きくも無いのに、具足が非常な太胴ゆゑ、何となく身の横幅が釣合わるく太く見える。具足の威は濃藍で、魚目は如何にも堅さうだし、そして胴の上縁は離山路で簡單圍まれ、その中には根笹のくづしが打たれてある。腰の物は大小ともに中々見事な製作で、鍔には、誰の作か、活々とした蜂が二疋ほど毛彫になツて居る。古いながら具足も大刀もこのとほり上等な處で見ると此人も雜兵では無いだらう。
此頃のならひとて此二人が歩行く内に
も四邊へ心を配る樣子は
中々泰平の世に
生まれた人に
想像されない程であツて、茅萱の音や狐の聲に耳を側てるのは愚なこと、すこしでも人が踏んだやうな痕の見える草の間などをば輕々しく歩行かない。生きた兎が飛出せば伏勢でも有るかと刀に手が掛かり、死んだ兎が途にあれば敵の謀計でもあるかと腕がとりしばられる。其頃はまだ純粹の武藏野で、奧州街道は僅に隅田川の邊を沿ふてあツたので、中々通常の者で只今の九段あたりの内地へ足を踏込んだ人は無かツたが、その些し前の戰爭の時には此高處へも陣が張られたと見えて、今此二人が其邊へ來掛かツて見回すと千切れた幕や兵粮の包が死骸と共に遠近に飛散ツて居る。この體に旅人も首を傾けて見て居たが、やがて年を取ツた方が徐に幕を取上げて紋處をよく見ると是は實に間違無く足利の物なので思はずも雀躍した、
「見なされ。是は
足利の定紋ぢや。はて心地よいわ」。と言は
れて若いのも點頭て、
「左樣ぢや。酷い有樣でおじやるわ。あの先年の大合戰の跡でおじやらうが、跡を取收める人も無くて……」。
「女々しいこと。何でおじやる。思出しても二方(新田義宗と義興)の御手並、さぞな高氏づらも身戰をしたらうぞ。あの石濱で追詰められた時いたう見苦しくあツてぢや」。
「ほゝ御主、其時の軍に出な
されたか。耳よりな……語りなされよ。」
「かたり申さうぞ。たゞし物語に紛れて遲れては
面目なからう。翌日頃は
何も决めて鎌倉へいでましなさらうに
……後れては……」。
「それも左樣ぢや、左樣でおじやる。さらば物語は
後に爲されよ。兎に
角この敗軍の體を見ればいとゞ心も引立つわ。」
「引立つわ、引立つわ、糸の樣に
引立つわ。和主も是から見參して毎度手柄をあらはしなされよ」。
「是からは
亦新田の力で宮方も勢を増すでお
じやろ。楠や北畠が絶えたは惜しいが、また二方が世に秀れておじやるから……」。
「嬉しいぞや。早う高氏づらの首を斬りかけて世を元弘の昔に復したや」。
「それは言はんでもの事。如何ば
かりぞ其時の嬉しさは」。
是でわかツたこの二人は
新田方だと。そして先年尊氏が石濱へ追詰められたとも言ひ、また今日は早く鎌倉へ是等二人が向ツて行くと言ふので見ると、二人とも間違無く新田義興の隊の者だらう。應答の内にはいづれも武者氣質の凜々しい處が見えて居たが、比合はせて見るとどうしても若いのは年を取ツたのよりまだ軍にも馴れないので血腥氣が薄いやうだ。
それから二人は
今の牛ケ淵あたりから半藏の壕あたりを南に
向ツて歩いて行ツたが、其頃は
まだ、此邊は
一面の高臺で、はるかに
野原を見通せる處から二人の話も大抵四方の景色から起ツて居る。年を取ツた武者は北東に見えるかたそぎを指さして若いのに向ひ、
「誠に廣いでは
おじやらぬか。何處を見ても原ばかりぢや。和主などは
まだ知りなさるまいが、それ那處のかた
そぎ、喃あれが名に
聞ゆる明神ぢや。その、また、北東に
は濱成た
ちの觀世音があるが、此處からは
草で見えぬわ」。
「浮評に聞える御社はあの事でお
じやるか。見れば太う小さなものぢや」。
「あの傍ぢや、己が、誰やらん逞ましき、敵の大將の手に
衝入ツて騎馬を三人打取ツたのは
。その大將め、はるか
對方に栗毛の逸物に
騎ツて扣へてあつた
が、己の働を心にくゝ思ひつらう、『あの武士、打取れと金切聲立てゝをツた」。
「はゝゝゝ、嘸御感に入りなされた
らう、軍が終ツて。身に
疵をば負ひなされたか
」。
「四ケ所負ひたがいづれも薄手であツた
。迚もあの樣な亂軍の中では
無疵であらう者はお
じやらぬ。勿論原で戰ふのぢやから、敵も味方も其時は大抵騎馬であツた。が味方の手綱には大殿(義貞)が仰せられたまゝ金鏈が縫込まれてあツたので手綱を敵に切離される掛念は無かツた。其時の二の大將(義興)の打扮は目覺ましい物でおじやツたぞ」。
「一の大將(義宗)もおじやツたらう」。
「おじやツた。この方もおな
じ樣な打扮ではお
じやツたが、具足の威が些濃かツたゆゑ、二の大將ほど目立なさらなかツた」。
折から草木を烈しく搖ツて野分の風が吹いて來た。野原の急な風……それは中々想像の外で、見る間に草の莖や木の小枝が砂と一途にさながら鳥の飛ぶやうに幾萬となく飛立ツた。そこで話もたちまち途切れた。途切れたか、途切れなかツたか、風の音に呑まれて、わからないが、先は確に途切れたらしい。此間の應答の有樣に就いてまたつら/\考へれば年を取ツた方は中々經驗に誇る體が有ツて、若いのはすこし謹深い樣に見えた。左樣でしやう、讀者諸君。
其内に日は
名殘無くほとんど暮掛かツて來て雲の色も薄暗く、野末も段々と霞んで仕舞ふ頃、變な雲が富士の裾へ腰を掛けて來た。原の廣さ、天の大きさ、風の強さ、草の高さ、いづれも恐ろしい程に苛めしくて、人家は何處か些しも見えず、時々ははるか對方の方を馳せて行く馬の影がちらつくばかり、夕暮の淋しさは段々と腦を噛んで來る。「宿るところもおじやらぬ喃」。「今宵は野宿するばかりぢや」。「急がうぞ」。「急ぎやれ」。是だけの應答が幾度も試驗を受けた。
「馬が走るわ。捕へて騎らうわ。和主は
好みなさらぬか」。
「それ面白や。騎らうぞや。すはや這方へ近づくよ」。
二人は
馬に騎らうと思ツて、近づく群をよく視れば是は
野馬の簇では
無くて、大變だ、敵、足利の騎馬武者だ。
「は
ツし、ぬかツた、氣が注かなかツた。馬ぢや……敵ぢや……敵の馬ぢや」。「敵は多勢ぢや、世良田どの」。「味方は無勢ぢや、秩父どの」。「さても……」「思はぬ……」敵はまぢかく近寄ツた。
「動くな、落武者。知らぬか、新田義興は
昨日矢口で殺されてぢや」。
「なに、二の君が」。
「今更知ツたか、覺悟せよ」。
跡は降ツた、劔の雨が。草は
貰ツた、赤繪具を。淋しさうに生出る新月の影。くやしさうに吹く野の夕風。
中。
「山里は
冬ぞさみしさまさりける、人目も草もかれぬと思へば」。秋の山里とてその通り、宵ながら凄いほどに淋しい。衣服を剥がれたので痩肱に瘤を立てゝ居る柿の梢には冷笑顏の月が掛かり、青白く冴亘ツた地面には小枝の影が破隙を作る。はるかに狼が凄味の遠吠を打込むと谷間の山彦がすかさずそれを送返し、望むかぎりは狹霧が朦朧と立込めてほんの特許に木下闇から照射の影を惜しさうに泄らし、そして山氣は山颪の合方となツて意地わるく人の肌を噛んで居る。さみしさ凄さは是ばかりでも無くて、曲りくねツたさも惡徒らしい古木の洞穴には梟があの怖らしい兩眼で月を睨みながら宿鳥を引裂いて生血をぽた/\……
崖下にある一構の第宅は
郷士の住處と見え、よほど古びては
居るが、骨太く粧飾少く、夕顏の干物を衣服とした小柴垣がその周圍を取卷いて居る。西向きの一室、その前は植込で、色々な木がきまりなく、勝手に茂ツて居るが、その一室は此處の家族が常に居る室だらう、今も其處には二人の婦人が……
けれど先第一に人の眼に
注まるのは夜目に
も鮮明に
若やいて見える一人で、言はずと知れた妙齡の處女。燈火は下等の密蝋で作られた一里一寸の松明の小さいのだから四邊どころか、燈火を中心として半徑が二尺ほどへだゝツた處には一切闇が行亘ツて居るが、しかし容貌は水際だツて居るだけに十分若い人と見える。年頃はたしかに知れないが眼鼻や口の權衡がまだよくしまツて居ない處で考へれば酷く長けても居ないだらう。その癖に坐丈は中々あツて、そして(少女の手弱に似ず)腕首が大層太く、その上に人を見る眼光が……眼は脹目縁を持ツて居ながら……、難を言ば、凄い……でもない……やさしくない。たゞ肉が肥えて腮にやはらかい段を立たせ、眉が美事で自然に顏を引立たせたのでやゝ見處が有るやうに見える。その些し前までは白菊を摺箔にした上衣を着て居たが、今はそれを脱いでたゞ蒲の薄綿が透いて見える葛の衣服ばかりで居る。
之と對合ツて居るのは
四十前後の老女で、是も着物は
葛だが柿染の古ぼけたので、何うしたのか
砥粉に塗れて居る。顏形、それは
老若の違こそは
あるが、ほと/\前の婦人と瓜二つで……ちと輕卒な判斷だが、だから此二人は多分母子だらう。
二人とも何やら浮か
ぬ顏色で今迄の談話が途切れたやうな體であツたが、少焉して老女は屹と思付いた體で傍の匕首を手に取上げ、
「忍藻、和女の物思も道理ぢやが……此母とていたう心に
は掛かるが……さりとて、こや其樣に
、忍藻太息吐くやうでは、太息のみ吐いて居るやうでは武士……實よ、世良田三郎の刀禰の内君には……聞けよ、此母の言葉を、見よ、この母の衣を。和女はよも忘れは爲まい、和女には實の親、己には實の夫のあの民部の刀禰が這回二の君の軍に加はツて、天晴世を元弘の昔に復す忠義の中に入らうとて、世良田の刀禰もろとも門出した時、己は、こや忍藻、己は何して何言ふたぞ。己が手づから本磨に磨上げた南部鐵の矢根を五十筋、各自へ廿五筋、喃門出の祝と差出して、忍藻聞けよ——『二方の中の誰方でも前櫓で敵を引受けなさるならこの矢根に鼻油引いて、兜の金具の目欲しいを附居るを打止めなされよ。また殿で敵に向ひなさるなら、鹿毛か、葦毛か、月毛か、栗毛か、馬の太く逞しきに騎つた大將を打取りなされよ。婦人の甲斐なさ、それよ忠義の志ばかりでおじやるわ」。と此眼から張切れうづる涙を押へて……おゝ己は今泣いては居ぬぞ、忍藻……己も武士の妻あだに夫を勵まし、聟を急いたぞ。そを和女、忍藻も見ておじやツたらうぞ喃。武士の妻のこゝろばえは斯程無うてはならぬわ。さればこそ今日までも休まず、夫と聟とは家には居らぬが、己が矢根を日々磨澄まして、おなじ忠義の刀禰たちに與ふるのぢや。かう衣は砥粉に塗れても中々にうれしいぞイ、然すれば」。
「まことよ。仰は道理にお
じやる。妾とてなど……」。
「心から左なら此母もうれしいわ
。見よ、喃、この匕首を。門出の時、世良田の刀禰が和女に此を殘して再會の記念と爲されたらうよ。それを見たらよしない、女々しい心は、刀禰に對して出されまい。和女とて一亘は武藝をも習ふたのに、近くは伊賀局なんどを龜鑑となされよ。人の噂には色々の詐僞もまじはるものぢや。輕々しく信ければ後に悔ゆることもあらうぞ」。
言切つて母は返辭を待皃に
忍藻の顏を見詰めるので忍藻も仕方なささうに
、挨拶したが、それも僅に
一言だ。
「さも然うず」。
母も覺束ない挨拶だと思ふやうな顏付をして居たが流石に猶強ひてとも言難ね、やがてやゝ傾いた月を見て、
「夜も更けた。さらば己は
是から看經せうぞ。和女は
思ひのまに/\寐よ」。
忍藻がうな
づいて禮を爲たので母もそれから座を立つて縁側傳に奧の一間へやう/\行ツた。跡に忍藻はたゞ一人起ツて行く母の後影を眺めて居たが、しばらくして、こらへこらへた溜息の堰が一度に切れた。
話の間だが一寸玆で忍藻の性質や身上が稍詳細に述べられなくてはならない。實に忍藻はこの老女の實子で、父親は秩父民部とて前回武藏野を旅行して居た旅人の中の年を取つた方だ。そして旅人の若い方はすなはち世良田三郎で、母親の話でも大抵わかるが、忍藻にはすなはち夫だ。
此三郎の父親は
新田義貞の馬の口取で藤島の合戰の時主君とともに戰死をして仕舞ひ、跡には其時二歳になる孤子の三郎が殘つて居たので民部もそれを見て不愍に思ひ、引取つて育てる内に二年の後忍藻が生まれた。處が三郎は成長するに從つて武術にも長けて來て、中々見處のある若者となつたので養父母も大きに悦び、そこでそれを終に娘の聟にした。
其時三郎は
十九で忍藻は十七であつた。今から見ればあまりな
早婚だけれど、昔は其樣なことに
は些しも構なかつた。
それで若夫婦は中よく暮して居たところが
、不圖聞ば新田義興が
足利から呼ばれて鎌倉へ入るとの噂が
あるので血氣盛の三郎は
家へ引籠もつて軍の話を素聞に
して居られず、舅の民部も南朝へは
心を傾けて居ることゆゑ、難な
く相談が整つてそれから二人は
一途に義興の手に
加はらうとて出立し、竟に
武藏野で不思議な危難に
遇つたのだ。その危難にあつた事が
精密ではな
いが、薄々は
忍藻にも聞えたので、さアそれが忍藻の心配の種になり、母親をつかまへて鬱出すので、其處で前のとほり母親もそれを諭して勵まして居た。
「門前の小僧は習は
ぬ經を誦む」。鍛冶屋の嫁は
次第に
鐵の産地を知る。三郎が武術に
骨を折るありさまを朝夕見て居るのみか、亂世の常とて大抵の者が武藝を收める常習になつて居るので忍藻も自然太刀や薙刀の事に手を出して來ると、從つて擧動も幾分か雄々しくなつた。手首の太いのや眼光のするどいのは全くそのためだらう。けれど今あからさまに其性質を言はうなら、なる程忍藻は可なり武藝に達して、一度などは死掛かつて居る熊を生捕にしたとて毎度自慢が出たから、心も十分猛々しいかと言ふに全く左樣でもない。その雄々しく見えるところは只時々の身の擧動と言葉の有樣にあつたばかりで、その婦人に固有の性質は(殊に心の教育のない婦人に固有の性質は)跡を絶つては居ない、たしかに無くなつては居ない。
母が立去つた跡で忍藻は
例の匕首を手に
取上げて拔離し、しばらくは
氷の光を瞻詰めて屹とした風情であつたが、また其下から直に溜息が出た、
「匕首、この匕首……さきに
も母上が仰せられた如くあの刀禰の記念ぢやが……さても是を見ればいとゞ猶……そも刀禰たちは鎌倉まで行着かれたか、無難に。太う武藝に長けておじやるから思遣るも女々しけれど……心に掛かるは先程の人々の浮評よ。狹い胸には持兼ねて母上に言出づれば、あれほどに心強うおじやるよ。看經も時に因るわ、この分難い最中に、何事ぞ、心のどけく。そも此身の夫のみの御身の上では無くて現在母上の夫さへもおなじ樣でおじやるのに……扨も扨も。武士の妻は箇程無うてはと仰せられても此身にはいかでか/\。新田の君は足利に計られて矢口とやらんで殺されてその手の者は一人も殘らず……あゝ胸ぐるしい浮評ぢやわ。三郎の刀禰は、然うよ、父上も其處を逃れなされたか。門出の時この匕首を此身に下されて『喃、忍藻、おことゝ己とは一方ならぬ縁で……やがて己が功名して歸らう日は何時ぞとはよう知れぬが、和女も並々の婦人に立超えて心ざまも女々しうおじやらぬから由ない物思をばなさるまい。その時までの記章には己が秘藏のこの匕首(これには己の精神もこもるわ)匕首を殘せば和女も是で煩惱の羈をば喃……なみだは無益ぞ』、と日頃から此身は我ながら雄々しくして居るに、今日ばかりは如何にして斯う胸が立騷ぐか。別離の時の御言葉は耳にとまつて……拔離せばこの凄い業もの……發矢、なみだの顏が映るわ。この涙、あゝら此身の心はまだ左程弱うはなるまいに……涙ばかりが弱うて……昨夜見た怖い夢は……あゝ思入ればいとゞ猶胸は……胸は湧起つわ。矢口とや、矢口は何處ぞ。翼さへあらば箇程には……」。
思入つてはこらへかねて坐に
涙をもよほした。無論荒誕の事を信ずる世の人だから夢を氣に掛けるのも無理では無い。思へば思ふほど考は遠くへ走つて、それでなくても中々強い想像力が一入跋扈を極めて判斷力をも殺いた。早くこゝでその熱度さへ低くされるなら別に何のこともないが、中々通常の人には其樣に自由なことはたやすく出來ない。不思議さ、忍藻の眼の中には三郎の俤が第一にあらはれて次に父親の姿があらはれて來る。青ざめた姿があらはれて來る。血、血に染みた姿があらはれて來る。垣根に吹込む山おろし、それも三郎たちの聲に聞える。ボーン惱と鳴る遠寺の鐘、それも無常の兆かと思はれる。
人に見られて、物思に
沈んで居ることを悟られまいと思つて、それから忍藻は
手近に
ある古今集を取つて宜加減な
處を開き、それへ向つて字をば讀まずに、いよ/\胸の中に物思の虫をやしなつた。
「『題知らず……躬恒……貫之……つかはしける……女のもとへ……天津かりがね……』。おゝ我知らず讀んだか。それにつけても未練らしいかは知らぬが、門出なされた時から今日までは快七日ぢやに、七日目にかう胸がさわぐとは……打出せば愚痴めいたと言はれ……おゝ雁よ。雁を見てなげいたといふ話は眞に……雁、雁は翼あつて……喃。」
だが身贔負で、猶幾分か
、内心の内心には(このやうな獨語の中でも)まさか
殺されは爲まいの推察が虫の息で活きて居る。それだのに涙腺は無理に門を開けさせられて熱い水の堰をかよはせた。
この儘でやゝ少焉の間忍藻は
全く無言に
支配されて居たが、其内に
破裂した、次の一聲が。
「武藝はそのため」。
その途端に
燈火は弗と消えて跡へは闇が行亘り、燃さした跡の火皿が暫時は一人で晃々。
下。
夜は根城を明渡した。竹藪に
伏勢を張ツて居る村雀は
あらたに
軍議を開初め、閨の隙間から斫込んで來る曉の光は次第に四方の闇を追退け、遠山の角には茜の幕がわたり、遠近の溪間からは朝雲の狼烟が立昇る。「夜ははやあけたよ。忍藻はとくに起きつらうに、まだ聲をも出ださぬは」。訝りながら床をはなれて忍藻の母は身繕し、手早く口を漱いて顏をあらひ、黄楊の小櫛でしばらく髮をくしけづり、それから部屋の隅にかゝツて居る竹筒の中から生蝋を取出して火に焙り、切りにそれを髮毛に塗りながら。
「忍藻いざ早う來よ。蝋鎔けたぞや。和女も塗らずか」。
けれど一言の返辭も無い。
「忍藻よ、お
しもよ、いぎたなや。秋の夜長に……こや忍藻」。莞爾わらツて口の裡、「昨夜は太う軍のことに胸なやませて居た體ぢやに、さても此處ぞまだ兒女ぢや。今はかほど迄に熟睡して、さばれ、いざ呼起さう」。
忍藻の部屋の襖を明けて母は
はツとおどろいた。承塵に
あツた薙刀も、床にあツた鎖帷子も、無論三郎が呉れた匕首も四邊には影も無い。「すはや己がぬかツたよ。常より物に凝るならひ……如何にも怪しい體であツたが、さても己は心注きながら心せなんだ愚さよ。慰言を聞かせたが猶も猶おもひわびて脱出でたよ。あゝら由々しや、由々しいことぢや。」
心の水は沸立ツた。それ朝餉の竈を跡に
見て跡を追ひに
出る庖廚の炊婢。さア鋤を手に
取ツたまゝ尋ねに飛出す畑の僕。家の中は
大騷動。見る間に
不動明王の前に
燈明が點き、たちまち祈祷の聲が起る。をゝしく見たが流石は婦人、母は今更途方にくれた。「なまじひに心せぬ體でなぐさめたのが己の脱落よ。さてもあの儘鎌倉まで若しは追ふて出行いたか。いかに武藝をひとわたりは心得たとて……この血腥い世の中に……たゞの女の一人身で……たゞの少女の一人身で……夜をもいとはず一人身で……」。
思へば
憎いやうで、可哀さうなやうで、また悲しいやうで、くやしいやうで、今日はまた母が昨夜の忍藻になり、鳥の聲も忍藻の聲で誰の顏も忍藻の顏だ。忍藻の部屋へ入ツて見れば忍藻の身の香がするやうだし、忍藻の手匣へ眼をとめれば忍藻が側に居るやうだ。「胸は騷ぐに何事ぞ。早く大聖威怒王の御手にたよりて祈らうに……發矢、祈らうと心をば賺かしても猶すかし甲斐もなく、心はいとゞ荒れに荒れて忍藻の事を思ひ出すよ」。心は人の物でない。母の心は母のもの。それで制することが出來ない。目をねむツて氣を落付け、一心に陀羅尼經を讀まうとしても(口の上にばかり聲は出るが)、腦の中には感じが無い。「有に非ず。無に非ず、動に非ず、靜に非ず、赤に非ず、白に非ず……」其句も忍藻の身に似て居る。
人の顏さへ傍に見えれば
母はそれと相談したくなる。それと相談したとて先方が神でもなければ陰陽師でも無く、つまり何もわからぬとは知ツて居ながら猶それでも其人と膝を合はせて我子の身上を判斷したくなる。それでまた例の身贔負、内心の内心の内心に「多分は無難であらうぞ」と思ひながら變なもので、またそれを口には出さない。たゞ其處で先方の答が自身の考に似て居れば「實に左樣」とは信じぬながら不完全にもそれで僅に妄想をすかして居る。
世にいぢらしい物は
幾許もあるが、愁歎の玉子ほどいぢらしい物は無い。既に愁歎と事がきまればいくらか愁歎に區域が出來るが、まだ正眞の愁歎が立起らぬ其前に、今にそれが起るだらうと想像するほど否に胸ぐるしいものはない。此樣な時には涙などもあながち出るとも决ツて居ず、時には自身の想像でわざと涙をもよほしながら(决して心でそれを好むのではないが)なほ涙が出ることを愁歎の種として色々に心をくるしめることが有る。
だから母は
不動明王と睨めくらで、經文が一句、妄想が一段、經文と妄想とがミドローシアンを爭ツて居る。處へ外からおとづれたのは居殘ツて居た(此母の言葉を借りて言へば)懶惰者、不忠者の下男だ。
「誰やらん見知ら
ぬ武士が、たゞ一人從者をもつれず、此家に
申すことあるとて來ておじやる。いかに呼入れ候ふか」。
「武士とや。打揃は」。
「道服に
一腰ざし。むくつけい暴男で……戰爭を經つらう疵を負ふて……」。
「聞くも忌まはしい。この最中に何とて人に
逢ふ暇が……」。
一度は言放して見たが、思直せば
夫や聟の身上も氣にかゝるのでふたゝび言葉を更めて、
「さばれ、否、呼入れよ。すこしく問はうこともあれば」。
畏まつて下男は
起つて行くと、入代つて入つて來たのは三十前後の武士だ、
「御目にかゝるは
今がはじめて。是は大内平太とて元は
北畠の手の者ぢや。秩父刀禰とは
かねてより陣中でし
たしうした甲斐に、申殘されたことがあつて……」。
「申殘された」の一言が母の胸には釘であつた、
「おゝ如何に新田の君は愛でたう鎌倉に入りなされたか」。
「まだ、扨は傳聞きなさらぬか。堯寛にあざむかれな
されて、あへなくも底の藻屑と……矢口で」。
「それ、さらば實でおじやるか。それ詐僞ではおじやらぬか」。
「何を……など詐僞でおじやらうぞ」。
よもやと思固めた事が全く違ツてしまつたことゆゑ、今更母も仰天したが、流石にもはや新田の事よりは夫や聟の身上が心配の種になツて來た。
「さて其時に民部たちは」。
「そのこと、まこと其事におじやるは
。己が是から鎌倉へ行かうぞ
と馳行いた途、武藏野の中ほどで見れば秩父の刀禰たち二方は……」。
「さて秩父たち二人は」。
「はしなくも……」。
「もどかはしや。いざ、いざ、いざ」。
「はしなくも敵に
探られて、左樣ぢや、其儘斫斃されて……」。
「こは
そゞろ、……斫斃されて……發矢そのまゝ斫斃されて……」。
「その驚は道理でお
じやる。己も最初は
左樣とも知らず『何やらん草中に呻いて居る者のあるは熊に噛まれた鹿ぢやらうか』と行いて見たら、おどろいたわ、それが那の二方でおじやツたわ」。
母ははや其跡を聞いて居られなくな
ツた。今まではし
ばらく堪へて居たが、もはや包むに包切れずたちまち其處へ泣臥して、平太がいふ物語を聞入れる體も無い。如何にも昨夜忍藻に教訓して居た處などは天晴豪氣なやうに見えたが、是とて其身は木でも無ければ石でも無い。今朝忍藻が居なくなツた心配の矢先へこの凶音が傳はツたのには流石心を亂されてしまツた。今は其口から愚痴ばかりが出立する。
「ちえイ主を……主たちを……あゝ忍藻が心苦しめたも、虫…虫が知らせたか。大聖威怒王も、ちえイ日頃の信心を……おのれ……こは/\平太の刀禰、など其時に馳付いて助…助太刀してはたもらんだぞ」。
怨がましく言ひながら、猶直に其言葉の下から、いぢらしい、手でさしまねいで涙を啜り、
「聞きなされ。あゝ何の不運ぞ
や。夫や聟は死果てたに
……こや平太の刀禰、聞なされ、むす…むすめの忍藻もまた……忍藻もまた平太の刀禰……忍藻はまた出たばかり……昨夜……察しなされよ、平太の刀禰」。
「昨夜、そも如何に爲された」。
母は十分に口が利けなくな
ツたので仕方なく手眞似で仔細を告知らせた。告知らせると平太の顏はたちまちに色が變ツた。
「さらばあの鎖帷子の……」。
云掛けたがはツと思ツて言葉を止めた。けれ
ど這方は聞咎めた。
「和主はそも如何に
して忍藻の鎖帷子を……」。
「鎖帷子とは何でおじやる」。
「何でおじやるとは
平太の刀禰、むすめ、忍藻の打扮ぢや。今も其口から仰せられた」。
平太も今は包兼ね、
「あゝ術無い。いたは
しいけれど、さらば仔細を申さうぞ。歎に
枝を添ふるがいたはしさに包まうとは力めたれど……何を匿さう、姫御前は鎖帷子を着なされたまゝ、手に薙刀を持ちなされたまゝ……母御前かならず強く歎きなされな……獸に追はれて殺されつらう、脛の邊を噛切られて北の山間に斃れておじやツた」。
母は眼を
見張ツたまゝであツた。平太は
ふたゝび言葉を繼いだ。
「己が此處へ來る途ぢや、は
からず今のを見留めたのは。思へば
不思議な縁でおじやるが、其時に
は姫御前とはつゆ知らず……いたは
しい事には
爲ツたぞや、僅少の間に
三人まで」。
母はなほ
眼を睜ツたまゝだ。唇は物言ひたげに動いて居たが、それから言葉は一ツも出ない。
折から門にはどや/\と人の音、
「忍藻御は熊に食はれてよ。」
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序ながら此頃神田明神は芝崎村といツた村にあツて其村は今の駿河臺の東の降口の邊であツた。それゆゑ二人の武士が九段から眺めても直に其社の頭が見えた。もし此時其位置が只今の樣であツたなら决して見える譯は無い。
底本:「夏木立」、金港堂、明治21年8月20日