大キュロスとカッサンダネとの息子、
波斯軍がアラビヤを過ぎ、愈〻埃及の地に入つた頃から、このパリスカスの樣子の異常さが朋輩や部下の注意を惹きはじめた。パリスカスは見慣れぬ周圍の風物を特別不思議さうな眼付で眺めては、何か落著かぬ不安げな表情で考へ込んでゐる。何か思出さうとしながら、どうしても思出せないらしく、いら/\してゐる樣子がはつきり見える。埃及軍の捕虜共が陣中に引張られて來た時、その中の或る者の話してゐる言葉が彼の耳に入つた。暫く妙な顏をして、それに聞入つてゐた後、彼は、何だか彼等の言葉の意味が分るやうな氣がする、と、傍の者に言つた。自分で其の言葉を話すことは出來ないが、彼等の話す言葉だけは、どうやら理解できるやうだ、といふのである。パリスカスは部下をやつて、その捕虜が埃及人か、どうか(といふのは、埃及軍の大部分は
敗れた埃及軍を追うて、古の白壁の都メムフィスに入城した時、パリスカスの沈鬱な興奮は更に著しくなつた。癲癇病者の發作直前の樣子を思はせることも屡〻である。以前は
其の頃から、パリスカスの主人、カンビュセス王も次第に狂暴な瘋癲の氣に犯され始めたやうである。彼は埃及王プサメニトスに牛の血を飮ませて、之を殺した。それだけでは
かねて斯かる事のあるべきを期してゐたものと見え、アメシス王の墓所の所在は巧みに
さて、パリスカスも、此の墓所搜索隊の中に加はつてゐた。他の連中は、埃及貴族の
搜索を始めてから何日目かの或る午後、パリスカスは、たつた一人で、或る非常に古さうな地下の墓室の中に立つてゐた。何時、同僚や部下と、はぐれて了つたものか、この墓は
眼が暗さに慣れるにつれ、中に散亂した彫像、器具の類や、周圍の浮彫、壁畫などが、ぼうつと眼前に浮上つて來た。棺は蓋を取られたまゝ投出され、
パリスカスは殆ど無意識に足を運ばせて奧へ進んだ。五六歩行くと、彼は躓いた。見ると、足許に木乃伊がころがつてゐる。彼は、又殆ど何の考もなしに其の木乃伊を抱起して、神像の臺に立掛けた。數日來見飽きる程見て來た平凡な木乃伊である。彼は、その儘、行過ぎようとして、ふと其の木乃伊の顏を見た。途端に、冷熟いづれともつかぬものが、彼の脊筋を走つた。木乃伊の顏に注いだ視線を、最早
どれ程の長い間、彼は其處に、さうしてゐたらう。
その間に、彼の中に非常な變化が起つたやうな氣がした。彼の身體を作上げてゐる、あらゆる元素どもが、彼の皮膚の下で、物凄く(丁度、後世の化學者が、試驗管の中で試みる實驗のやうに)泡立ち、煮えかへり、其の沸騰が暫くして靜まつた後は、すつかり
彼は大變やすらかな氣持になつた。氣がつくと、埃及入國以來、氣になつて仕方のなかつたこと——朝になつて思出さうとする昨夜の夢のやうに、解りさうでゐて、どうしても思出せなかつたことが、今は實に、はつきり判るのである。なんだ。こんな事だつたのか。彼は思はず聲に出して言つた。「俺は、もと、此の木乃伊だつたんだよ。たしかに。」
パリスカスが此の言葉を口にした時、木乃伊が、心持、唇の
今や、闇を劈く電光の一閃の中に、遠い過去の世の記憶が、
その頃、彼はプターの神殿の祭司ででもあつたのだらうか。だらうか、と云ふのは、彼の曾て見、觸れ、經驗した事物が今彼の眼前に蘇つて來るだけで、その頃の彼自身の姿は一向に浮かんでこないからである。
ふと、自分が神前に捧げた犧牲の牡牛の、もの悲しい眼が、浮かんで來た。誰か、自分のよく知つてゐる人間の眼に似てゐるなと思ふ。さうだ。確かに、あの女だ。忽ち、一人の女の眼が、孔雀石の粉を薄くつけた顏が、ほつそりした身體つきが、彼に
不思議なことに、名前は、何一つ、人の名も所の名も物の名も、全然憶出せない。名の無い形と色と匂と動作とが、距離や時間の觀念の奇妙に倒錯した異常な靜けさの中で、彼の前に忽ち現れ、忽ち消えて行く。
彼は最早木乃伊を見ない。魂が彼の身體を拔出して、木乃伊に入つて了つたのであらうか。
又、一つの情景が現れる。自分は
其處で彼の過去の世の記憶はぷつつり切れてゐる。さて、それから幾百年間の意識の闇が續いたものか、再び氣が付いた時は、(即ち、それは今のことだが)一人の波斯の軍人として、(波斯人としての生活を數十年送つた後)
奇怪な神祕の顯現に慄然としながら、今、彼の魂は、北國の冬の湖の氷のやうに極度に澄明に、極度に張りつめてゐる。それは尚も、埋沒した前世の記憶の底を凝視し續ける。其處には、深海の闇に自ら光を放つ盲魚共のやうに、彼の過去の世の經驗の數々が音もなく眠つてゐるのである。
其の時、闇の底から、彼の魂の眼は、一つの奇怪な前世の己の姿を見付け出した。
前世の自分が、或る薄暗い小室の中で、一つの木乃伊と向ひ合つて立つてゐる。をののきつつ、前世の自分は、其の木乃伊が前々世の
彼はぞつとした。一體どうしたことだ。この恐ろしい一致は。
パリスカスは、全身の膚に粟を生じて、逃出さうとする。しかし、彼の足は、すくんで了ふ。彼は、まだ木乃伊の顏から眼を離すことが出來ない。凍つたやうな姿勢で、琥珀色の
翌日、他の部隊の波斯兵がパリスカスを發見した時、彼は固く木乃伊を抱いたまま、古墳の地下室に倒れてゐた。介抱されて漸く息をふき返しはしたが、最早、明らかな狂氣の徴侯を見せて、あらぬ