一法學者の嘆息

栗生武夫

 法律を學びながら法律のなかに安住することがどうもできない。法律のなかに社會的正義の現はれてゐることを認めはするが、現代の社會的正義にしてなほ法的表現を得てゐないものも少くないとおもふからである。法を『正義公平の術』と定義し、法のみを楯として事件を裁判し、現象を批判することのできた前代の學者は粗朴な幸福のなかにあつたといはねばならない。

 政治に對しても危惧と不安は禁ずることができない。けだし政治は今日民衆の意思を離れて、一部勢力者の力により動かされてゐる。もとより吾等は勢力者の誠意ある努力を多としてゐるものではあるが、しかし社會の變化にはおのづから一定の法則があつて、それからは離れえぬものだと聞く。この法則に從つて政治を行るならば可、もしこれに逆つて行るならば、一時はたとへ『人多くして天に勝つ』ことができるとしても、遂には結局『天定つて人に勝つ』に至ることを免れえぬものだと聞く。ではこの國の勢力者のいま行つてゐる所は何か、それは社會法則に從つてそれを現實させつつある運動か、社會法則に逆つてそれと戰つてゐる反抗か、吾等は疑惑のなかにある。

 それに吾等は何といつても平和の愛好者である。平和はそれとして價値があるばかりでなく、この國の利益でもある。平和裡においてこの國はもっとも安全に、最も確實に、その發展を遂げうるのだと信じてゐる。しかし風雲に期はない。いつ何が起きるか、不安はここにもある。

 

 本書は法律を學んで法律に安住すること能はず、政治を憂へて政治を動かすこと能はず、病んで又死すること能はざる一個の學徒が、折にふれ時に應じて洩らし來つた感慨の小録である。收むるところ短章五十篇、法律論あり、政治論あり、論壇時評あり、時としては身邊の雜記、女給論、戀愛論などもないではない。けだし時事に對して率直な發言を禁じられてゐる苦惱の兒が、時として風流世に背き、自狂人と離れたい氣持になるのも、これまた一つの心理的必然ではあるからである。

 

 本書の組版裝釘等は、著者病中にあるのゆゑを以て、恒藤恭・末川博の二君、專らその事に當つてくれた。ここに久しきに亘つて變るなき二君の友愛を感謝する。

 

昭和十一年初秋

 

或る病院のベットに横りつつ

著者

目次

一 いい法律家

 小供が風船玉をふくらましてゐるのを見ると、偉大な法律家が聯想される。小供は風船玉のハチ切れんとするまで充分に空氣を吹込むが、風船玉の外皮は破らない。外皮は條文であり、空氣は理念である。巧妙な解釋家はまさに條文のハチ切れんとするまで、これに清新な理念を盛るが、しかし條文の破壞は愼む。

 外皮があつてこそふくらますことができ、條文があつてこそ解釋もできよう。解釋家の手際はまさに條文の破れんとするまで、それに妥當な清新な法理を吹込む所にあるのではあるまいか。

 古來の大法律家はPapinianusでもUlpianusでもSavignyでもJheringでも、みなその社會に最も剴切に妥當する所の社會規範の何であるかをハツキリと具體的に直觀してゐた。がしかし彼等はその直觀でとらへた所の規範をすぐに事件の上におしつけるやうな横暴は敢てしなかつた。彼等は直觀でとらへた所のものを一應まづ條文の内面に忍ばせ、條文を通してこれを事件に妥當せしめたのである。條文の中に嶄新な意義・妥當な理念を盛り、條文といふ風船玉を驚くべき大きさにまで膨張させて見せてくれたのである。

 へたな解釋家は條文といふ風船玉の外皮をよく破壞するので困る。陳腐な空氣をこれに吹込むので困る。全體を圓滿に調和的にふくらまさずに、不平均に局部々々をふくらますのでなほ困る。

二 肖像權の侵害

 一八九八年の夏ドイツのある海水浴場で、若い婦人の裸體になつた一刹那をパチリと寫眞に取り、「裸體美人繪はがき」として市場に賣り出した者があつたが、當時はまだ肖像權法の制定のなかつた頃とて、裁判所はこれを「侮辱の罪」に問ひ、附加刑として原版を沒收する外に執るべき策がなかつた。又同年、ビスマーク公の死去があり、好箇の新聞題材となつたが、その際、死室の窓から或新聞社の寫眞師二名忍び入り、マグネシユームの光りで公の死顏を寫眞にうつした。よつて遺族はその寫眞原版を取上げようとしたが、やはり肖像權の規定がなかつたために、窮した裁判所は寫眞師の行爲を「家宅侵入の罪」に問ひ、主刑と共に沒收の刑を附加し、辛じて寫眞原版を取上げることができた。その頃はちやうど又、婦人の自轉車乘りの流行した時代であつたが、ある妻惚氏、別嬪妻君の自轉車姿をわざわざ寫眞にとつて所持してゐたところ、どうしたわけか後に至つてその女と離婚してしまつたので、妻惚氏大いに平らかならず、いささか(つら)(あて)の氣味もあつて、件の寫眞を自分の自轉車營業の廣告に使用してしまつた。女からは早速かかる肖像の濫用を禁止されたき旨の訴が起つたが、今度は裁判所はそれに該當するいい罪名を發見することをえず、遂にこの場合には男に女の肖像を複製頒布するの權あり、そして肖像の本人たる女は男のかかる權利の行使を制限できぬのだと、今から思へばかなり不合理な判決をしてしまつた。

 かうした事件の續生に惱み惱んだ上句、とうとう肖像權法の制定となつたが、さてこれをどんな方針で制定すべきかにつき、二種の意見が對立的に現はれた。一はなるべく肖像本人の羞恥心を擁護し、本人の同意をえざれば肖像を複製・頒布・陳列できぬことにしなければならぬといふ個人本位の意見。二はなるべく社會の好奇心を保護し、少くとも公的性質を有する人の寫眞は、本人の同意なしに複製・頒布・陳列しうることにしなければならぬといふ社會本位の意見。

 とうとう法律は、第二の社會本位説を採用した。そうして本人の同意をうることなくしてその人の肖像を複製し頒布しうる場合を非常に廣く認めた。例へばそれに依ると、(一)公人には肖像權がない。元首・政治家・議員・學者・發明家・著作家・藝術家・成功せる實業家等は、その肖像を無斷掲載されても文句がいへぬといふことになつてゐる。(二)刑事被告人その他新聞的興味の對象となる人も、肖像權を主張して肖像の無斷掲載を禁止するわけに行かぬといふことになつてゐる。(三)公衆の興味をそゝる集會・行列・儀式に參列してゐる人々も同樣である。(四)風景が主で人物が點景に過ぎないやうな場合にも、點景となつた人物は肖像權をもたぬ。(五)繪畫のモデルにも肖像權はない。畫面に強くモデルになつた人の特徴が出てをり、一見その何某なるやの明白な場合においても、本人は肖像權を主張して繪畫の陳列を禁止するわけに行かないと、いふことにきめてしまつたのである。

 なぜモデルの肖像權主張を禁じたのかといふに、もちろんそれは藝術觀賞の機會を廣く公衆に與へんがためである。藝術の題材となつた以上、個人は公衆の觀覽を忍容せねばならぬといふ理由からである。公人の肖像權主張を禁じたのも、公に生活する者は公に知られねばならないといふ理由からである。新聞的出來事の中心人物から肖像權を奪つたのも、一旦公衆の好奇心の對象となつた以上は、甘じて世の見世物にならなければならぬといふ理由からである。區々なる個人の羞恥心を犧牲にして公衆の好奇心を滿たし、社會を朗らかに、人生を豊富に、人の心を浮き立たせやうとの趣旨からである。

 漫畫については、漫畫は人の特徴を不自然に誇張するもので、一種の侮辱だといふ野暮な憤慨もないではなかつたが、さすがに今時、こんな説を唱へる人はゐなくなつた。今日の通説では、『ユウモアこそ社交の油、人生の花である。ユウモアのためにどれだけ社會が朗らかに、人生が幸福になるかも知れない。ゆゑにユウモアの目的に出づるかぎりは無制限に漫畫の自由を認めやうではないか。公人はもちろん、その他の者といへども、漫畫の複製・頒布・陳列を禁止する權利がないといふことにしようではないか』と、いはゆる無制限なる漫畫の自由(unbedingte Kalikaturfreiheit)を説くのである。

 右のやうな現象を私は『人格權の社會化』とよぶ。

 ちやうど所有權の内容が大いに社會化しつゝあるやうに、人格權の内容も近時大いに社會化しつゝあるのではあるまいか。

 そもそも十九世紀に入つて人格權なる私權の新種類の發見されたのは、私法の發達史における一大事實であつたが、今から考へて見ると、當時における人格權の主張はあまりといへば強烈、あまりといへば鋭利に過ぎたのである。人間同志の間の些々たる摩擦、區々たる接觸を業々しくも人格侵害とよび、不法行爲とよび、一々これを損害賠償の問題ともし、慰籍料請求の問題ともしてきたのである。しかし個人は單なる個人でなくして社會の個人である。社會のためには名譽の侵害も人格の侵害も肖像の侵害も或程度までは忍ばねばならない。ちやうど所有權の内容やその行使やが社會から大に制限されてゐるやうに、人格權の主張も同じ制約の下におかれねばならぬと考へられるやうになりつゝあるのである。

 肖像權のごとき、人格權の中でもその誕生の最も若い權利であるだけに、一段と社會化の傾向が眼につく。

三 醫業國營

 ドイツにゐた頃少し健康をそこねて、ベルリン近郊のとあるサナトリウムへ入院した。松林の中を切り開いて設けられた廣い一區廓内に、ドツシリと建物が立ち、清潔な部屋部屋が日あたりよく並び、サナトリウム專屬の牧場からは新鮮な牛乳が運ばれ、五時の茶には舞踏室が開くといつた調子で、まことに愉快な朗らかな六ケ月を送ることができた。患者は輕度の肺尖カタルに限られ、みな血色のいゝ元氣な連中ばかりだつたから、病院としても手數がかゝらず、床數百二十に對して醫者わづかに二人、看護婦もたつた二人、院長も婦長も實に氣輕に立ち働いてゐた。規則がひどく嚴重で、時計通りに起き、時計通りに寢ね、時計通りに食ひ、少しも違反を許されない。夕食後の散歩の時でも、合圖の鐘が鳴れば忽ち踵をめぐらして戸内に歸入せねばならない。萬一鐘に遲れて庭にでも立つてをれば、善くつて大目玉、惡くすると退院を強制された。現に僕の入院中、禁斷の煙草を森の木影で吹かしてゐたといふカドで、放逐を食つた患者が一人あつた。

 もとより僕は、一日十五マークの入院料を支拂つて入院してゐたのだが、他の患者は殆ど全部若い娘達——それも大抵は商店の賣子やタイピスト等であつたから、よくまアこんなに高い入院料が拂へたものと、一日彼女たちと散歩の折、恐る恐る財源の點を質して見ると、「イヽエわたしたちはもう入院料を前拂してあります」といふ。「前拂とは?」と不思議がると、月給の何パーセントかを毎月保險局へ掛金し、病氣になるとかうしてロハで靜養ができる組織になつてゐるのだと説明してくれた。「入院中の御小遣はどこから出ます」と追及したら、「一日一マーク半の割で保險局から出ます。實は達者で働いてゐる頃は月給が不足がちで、室代や食費を支拂つてしまふとガマ口はカラになつたが、かうして病氣をしてゐると、毎日御馳走はたべられる、お小遣いは頂戴する、それに入院中の事とて支出は洗濯賃位のものですから、結局退院の際は體の健康も回復し、ガマ口の健康も回復する。それで私達はなるべく長くサナトリウムにゐたいのですが、よくなるとすぐ退院を強制されてしまふのです」との説明であつた。あんなに療養規則のやかましいのも、早く患者を丈夫にさせて再び生産社會へ追ひ戻さうとの魂膽からだといふことも自然に分つた。

 いつたいドイツの健康保險法といへば世界的に有名な社會法制の一つではあるが、世界戰爭の直前まではさう大した發達もしてゐなかつたやうである。加入者の數も少く、保險醫の數も少かつた。保險加入者といへば概して下層階級の人々に限られ、保險醫といへば下手で不親切な藪醫者と相場が一定してゐたのである。ところが戰時及戰後の經濟變動は、ドイツの中産階級を沒落させてしまつた。彼等はもう體裁や外聞などを問題にしてはゐられなくなつてしまつた。よつて保險加入者の數はどしどし増し、保險醫の數もどしどし増して行つた。純然たる私醫師では立ち行かぬといふ所から、大抵の私醫師が保險醫に轉ずるか又は少くとも保險醫を兼業するやうにもなつた。さういふ兼業醫は概して午前中は保險患者を診察し、午後は私患者を取扱ふことにしてゐる。正直なもので午前中に醫者の玄關をのぞいてみると押すな押すなの繁昌だが、午後は門前雀羅を張る。午前の客即ち保險患者(Kassenpatienten)には不愛想、午後の客即ち私患者(Privatpatienten)には愛想がいいが、そんな事はどうでもいゝ。社會は彼等から無用の愛想をきいて、高價な診察料を絞られる事の愚劣さを知得してしまつたのである。醫は仁術の美名の下に、ひどい暴利を貪つてゐた彼等を完全にノツクアウトしてしまつたのである。

 私醫師から保險醫兼業へ、次いで純然たる保險醫へ——ドイツの醫事行政は着々と國營主義を實現して行く。

 いつになつたら日本の健康保險がドイツのやうな徹底さにおいて完成することやら。

四 司法制度の刷新

 今から廿六年前の一九〇八年に出たキツシユの『裁判所と其改革』と題する小冊子を開いて見ると、訴訟に法外な費用と時間とを要すること・手續が過剩的に煩雜なこと・些細な不服に對しても控訴上告を爲す弊の多いことなどを述べてゐるが、私はキツシユのこの非難が、四半世紀後の今日の訴訟制度へもそのまゝ當てはまると平素から考へてゐるものなのである。

 九月號の中央公論(昭和九年)を見ると、末川博士が『司法制度刷新一面觀』を書いてをられる。そうして博士もまたキツシユと同樣、裁判の遲延・費用の高額・手續の煩瑣等を指摘してをられるが、鋭敏なこの法律家は、いひ古された非難を型通りに繰返してゐるだけではない。進んで司法制度將來の動向へも、ハツキリとした展望を投げかけてゐるのである。それは調停制度が今後益々發達して「裁判」を驅逐して行くだらうとの觀測である。氏は考へられる——近來、裁判による爭議の法規的解決を撰ぶ代りに、調停による爭議の實情的解決を採らうとする趨勢が顯著になり、この勢ひで進むときは遂には裁判がなくなり、すべてが調停で片づけられるやうになりはせぬかと思はれるばかりであるが、これは單に今日の訴訟手續の煩雜性に對する民衆の不滿の現れとばかり解釋されてはならない。同時にそれは今日の裁判の内容に對する民衆の不滿の一つの現れとも見らるべきものである。けだし今日の裁判はいはゆる適法主義をとり、法規のみを楯にして是非屈直を斷じてゐるのであるが、民衆は裁判官が法規と同時に法規以外の實情をも十分に斟酌して圓滿なる裁斷を與へてくれることを望んでゐるのである。然るに調停の方法は、法規と同時に當事者の生活・資力・地位・職業その他一切の實情をも考慮に入れるところに恰もその特性をもつてゐるので、當事者はこの點を悦び、心から調停法を歡迎してゐるのであらうと。たしかに調停法の發達は現代法律界の一大趨勢である。古びた訴訟制度などは、調停法今後の發達によつて漸次法の世界の片隅の方へ押除けられて行くのではないかとおもはれてならぬのである。

 しかし裁判による爭議の法規的解決が現行司法制度の根幹をなしてゐる以上は、我等は裁判主義の改善にも努力するところがなければならない。末川博士は此點に關して、裁判所がその執務方法を改善し、もつと現代式な事務の執り方をするやうになるならば、少からず事務の進捗に貢献するだらうといはれ、事實その通りではあるのであるが、しかし又、現行訴訟制度の缺陷は執務方法の改善位でなかなか救治しえられぬ重篤のものだと見られぬこともない。根本的にはどうしても裁判所の構成や訴訟の方法へ思ひ切つてラヂカルな變革を加へる必要があるかとおもふのであるが、この點につきいゝ範例を示してくれたのが、最近ドイツのナチ政府が計畫しつゝある司法制度の改革案である。私はそれをこゝに詳述する暇をもたないが、とにかくナチの改革の中に生新な新機運の活溌に動きつつあることは事實である。例へば裁判所の構成について合議制を廢して單獨制を採り、單獨判事をして大抵の事件を裁判させようとしてゐるごとき、審級に關して三審制を廢して二審制を採り、控訴審の廢止を斷行しようとしてゐるごとき、當事者に關して當事者平等の原則をすてゝ檢事の地位を被告人の地位以上に優越させ、その活動を思切り自由活溌にさせようと企ててゐるごとき、みな當來の改革への好指針でなければならない。

 日本においてはいま政治の全面に亘つて徹底改造の必要が呼ばれてゐるが、司法制度改革の聲は意外に上らない。たまたま上ると、それは司法官の減員・司法制度の簡易化を目的とするのでなくて、却つて司法官の増員・司法制度の複雜化を企圖するもののごとくである。庶政一新の必要ある今日、われわれは司法制度についても創意ある改革意見の續々と現はれんことを期待したい。

五 ゼツケル教授

 エミイル・ゼツケル教授が六十一歳の誕生日を迎へるといふ記事がべルリンの諸新聞に出たのは、今年一月半の事であつたが、當時教授は既にシワルツ・ワルドの病院にあり、國の内外から來る澤山の祝電を病床で受けてをられたのであつた。病は初めは結核だらうといふことであつたが、後に肺部の癌腫であることが判明した。「死後解剖して見ましたら癌腫が小兒の頭ほどの大さになつて出ました」と、夫人は泣きながら私に話した。

 死は四月二十六日(一九二四年)の出來事であつた。死の一週間前から、彼は餘りの疼痛にすつかり平素の冷靜を失ひ、殆ど半狂亂の態であつた。べルリン近郊のスターンスドルフといふ・白樺の林の品よく茂つた靜かな村で、葬俵は執り行はれたが、さすが三十年の間大學の教職にあり、總長としても令名の高かつた人だけに盛大且つ嚴肅な儀式であつた。キツプ教授が友人を代表して棺前演説を試みた。新聞はいづれも要領のいい筆つきで、この法律史家の重要な學的地位を説明し、その研究成果の充分なる發表を見るに至らずして逝かれたことを衷惜した。

 その遺文庫を東北帝大の法文學部が購入することとなつたので、私は數日の間故教授の書齋に通ひ、故人が勞作したその机に椅り、數人のタイピストを指揮して目録の調製を急いだ。約六千卷の典籍が大きな二部屋に溢れてズラリと背中を光らしてゐた。何だかドイツ名物の松の林の森々然と立ち茂つた中にでも這入つたやうな嚴肅な感に打たれた。ローマ法の中世的發展が彼の研究の中心課題であつただけに、ローマ法・教會法・ドイツ法に關するものが多くを占めてゐたが、現行法に關するものも少くはなかつた。故人も折々はわが文庫の實に立派なことを自慢し、死後はこれをドイツの國立圖書館に賣れ、ドイツ政府窮乏の爲めに買上の榮をえられぬ節は、英國ならばケンブリツヂ、米國ならばハーバート級の大大學に賣れ、と夫人に遺囑したさうである。いまこれを日本の大學に收め得るに至つたのは一に遺言執行人たるキツプ教授の好意あるお口添への結果である。

 いつたいゼツケルの特色は多く讀んで少く書き、急いで組織を立てずに丹念によく穿鑿した點にあつた。疑ひ深い彼の研究精紳は通説といへども容易に採らず、一々これを史料に糺し、充分にその眞實性を突きとめなければ承知することができなかつた。試みに彼のBeiträge zur Geschichte beider Rechte im Mittelalter 1898を見ると、ドイツ・フランス・イタリーの古文書を縱横に引用し、極めて確實なる古文書的基礎の上にその細心なる史的叙述を行つてゐるのを見るのである。かの輕信速斷、ろくろく事實も究めずに大きな理論を立てたり、大膽な臆測を恣まにしたりする學風のごときを、彼は身震ひして嫌つてゐた。彼は又ローマ法の淵源の隅の隅までを知拔いてをり、自由自在恰も嚢中から物を取出すごとくにローマ法を取出すことができた。Heumannの辭典に對する彼の改訂ぶりと、Küblerと二人で出したガーユスの版本とを見る人は、ローマ法源に關する彼の知識の全く横溢的なのに驚嘆してしまふのである。現行法に關する業蹟の中では、形成權の性質を論じたDie Gestaltungsrechte des bürgerlichen Rechtsが最も世間に知られてゐる。教會法に關するものの中では、もちろんStudien zu Benedictus Levitaが最も不朽的であるであらう。

 惜しみてもなほ餘りあることは、彼が書店と出版の契約までしてあつた中世ローマ法史を遂に出さずに逝つてしまつた一事である。いつたい中世のローマ法史は、ローマ法がゲルマン人の間に外延的にその效力を擴げて行つた歴史であると同時に、ローマ法が内的にその性質を變化させつつ中世の社會事情に順應して行つた歴史でもある。そこには異法系の間の強い衝突があり、巧妙な妥協もある。ひよつとすると、そこには實に法の繼受に關する貴重な理論と、法の生成發達の原因に關する面白い秘密とが、潜み隱れてゐるかも知れないのである。だからSavignyの鋭敏な嗅覺は夙にここを嗅ぎつけて、かの不朽の大作中世ローマ法史(Geschichte des römischen Rechts im Mittelalter)の七卷を書いたのである。その後といへどもこの歴史部面への研究は絶えてゐない。Fittingのもの、Conratのもの、Halbanのもの、Kantorowiczのもの、いづれもみな光彩に溢れたものではあるが、中んづくゼツケルの業蹟の出現こそは學界の最も待望せる所ではあつた。なぜかならゼツケルは、教授Heimannが批評して『Savigny以來ゼツケルほど中世の法律學を征服した人はなかつた。いな、中世の古記録に通曉してゐたことは、Savignyを凌駕すといふも過言ではあるまい。彼は恰も中世のボローニヤ大學かパリー大學にでも學んだかのごとくに中世の大學の研究ぶりを知つてゐたのである(Deutsche Juristen-Zeitung, 29. Jahrgang. Heft 11-12 S. 451-3)』といつた程、この方面の代表的知識者であつたから。借すにもし時日を以てせば、必ずや彼一流の堅實無比な手法を以て書上げられた劃紀的な中世ローマ法史が現はれたらうにと、その點が實に惜まれてならぬのである。

 最近ドイツにおいてはローマ法學の耆宿續々と世を去り、今又俄かにゼツケルを失つて轉た斯學の凋落を感じてゐる。

六 法律史の形態

 ワイマールの國民會議は憲法問題についてばかりでなく、政治・經濟・外交・教育その他萬般の政務についても、非常に活溌な討議を行つたのであつたが、その際端なくも一問題となつたのは、大學における法律史講義の形態に關してであつた。法律史の知識などは、實際家に對してはあまりに少い實益しかないので、法律史の講義を大學の教科目から削るか、少くとも講義の方法をもつと實用的に改めて貰はねばならぬといふやうな意見が議員の間から強く出たのであつた。議員ジンツハイマー氏のごときは、法律史の講義は學生に對して『死的負擔』(tote Last)である。このやうな非實用的な學科を偏重してきたのはまさにドイツ大學の『大患』(grosse Krankheit)であるとまでいひ放つた。時の司法大臣シツフアー氏も全く同感の意を表し、追つて大學における法律史過重の風・過去偏愛の傾向を改めさせることに可能的努力を拂ふべき旨を誓つたのであつた。一九一九年十二月になるとプロシヤ政府が各大學に對して、『法律史の講義に必要にして可能なる制限』を加へ、『學生の精力をより實際的なる學科に向けしめよ』と訓令した。その後有名な法律哲學者のラードブルフが司法大臣の要職に上つたが、元來この人は大の歴史嫌ひであり、法律史などは『人の住みえぬ古城』(altes Schloss)だなどと、かねがね冷罵してゐた位だつたから、大學の講義表上における法律史の地位を引下げるために、少くとも法律史講義の方法を實用的に改めさせるために、あらゆる機會を利用して主張し勸説し強制したかの觀があつた。一九二四年十月になるとバーデン政府が司法官受驗規則の改正を行つたが、改正法はローマ法・ドイツ法・ドイツ法律史等に關しては、ただそれが現行法の發達の基礎となつてゐる限りにおいて試驗されるに過ぎない旨を規則に明記した。二九年にはハインリツヒ・ミツタイス氏が『ドイツ法曹時報』に意見を發表し、もし大學において中世の法律書や古代の法典類を説明する必要があるならば、法律學の教授ではなく、文獻學の教授をしてこれに當らしめよと叫んだのである。氏によると法律學生をして古文書の讀方などに沒頭させるのは、彼等の法的判斷の力の冴えを却つて鈍らせてしまふ虞さへあるといふのであつた。今までのやうな法律史の講義方法は殆んど殺法學的(rechtswissenschafttötlich)だとまで罵つたのであつた。

 さすがの法律史家も、このやうな手きびしい輿論の攻撃を受けては、彼等の講義の方法を反省せずにはゐられなくなつた。そして『實用的價値』のために、講義の方法や著述の樣式を改裝しようと試圖するやうにもなつた。そうでもしなければ法律史は立場を失ひ、その存在を脅かされる形勢さへ見えたからである。かくして『新しい法律史』として生れ出でたのが、いはゆる法規史的叙述の形態であつたのである。

 では法規史とはどんな形態のものかといふと、現行法典の中に含まれてゐる各條規を對象にとり、何時それが何處で出來たか、どう變化して以て現在の形態に到達したか、將來いかにそれが變化していくだらうかを一々逐條的に吟味していかうとするものである。例へば民法でいふと、民法條規の或るものは十九世紀に入つて生れた。或るものは十七・八世紀の頃に出來、或るものは十五・六世紀の頃に生れた。或るものはゲルマンの法律思想を基礎として成長し、或るものはローマ法的基礎の上に作られ、或るものは教會法を背景として出來た。少數ではあるがユダヤ法の流れを汲んだ規定もある。又同じゲルマン法には屬しながらザクセン系のもの、シユワーべン系のもの、フランスで出來たもの、ドイツで出來たもの、實にその系譜學は多端多樣であるのである。で、いま法規史は各〻の條規につき、それが十六世紀に出來たか、十九世紀に出來たか、フランスで出來たか、ドイツで出來たか、ローマ法の影響の下に成育したか、ゲルマン法の基礎の上に成長したか、一々その史的背景を調べ上げようとするのである。個々條文の生ひ立ちの記・各法規の系圖調べ——それが法規史の課題である。いなそれは各法規の現在及び將來をも見ようとする。即ち當該の法規は今日いかなる變化過程の中に立つてゐるか、いかなる方面へ向つて動きつつあるかといふやうな法規將來の運命へも豫想を投げようと企てるのである。

 一時このやうな法律史的叙述の新形態はドイツの法律史界を風靡したかに見受けられた。人もし一九二〇年代に現はれたドイツ私法史に關する諸書を繙いて見られるならば、いかに著者達が現行法本位の歴史を書いてゐるか、いかに比較法學的方法を併用し、法規の未來史を豫告しようとしてゐるか、實に想ひ半に過ぎるものがあるであらう。

 しかし法規史的叙述の形態は一九三〇年代に入つてから下火になり、昨今ナチの天下となつてからは、一層の衰微を示して來たやうである。この頃現はれてくるドイツの法律史的著書および論文の中には、法規史的行き方とは凡そ逆なもの、即ち全く非實用的な・現行法規の理解にはちつとも役立たざる底のものが、著しく増加して來たやうに感じられるのである。

 けだしナチは、ドイツ在來の法制に對して全般的に不滿足を感じ、ナチ的新精神を以てこれを根本から更新しようと計劃してゐるのであるが、彼等の改正目的の一つは、いふまでもなくゲルマン法の再生であり、民族法の復活である。『法律の中から外國法的要素を驅除せよ』といふのが、彼等のモツトーであるのである。よつてナチは勢ひどうしても固有法の研究を獎勵し、歴史教育を尊重せざるをえなくなる。イタリーにおいても、フアツシヨ時代に入つてからは、法律史的研究の盛行を見たが、ドイツにおいても、ナチ時代に入つてから、歴史教育の再燃を見んとしつつあるのである。

 おもふにワイマールの國民議會が大いに法學教育の實用化を唱へ、歴史偏重の主義を棄てさせようと努めたのは、大戰直後におけるドイツ人の思想傾向を反映した一つの例とも見らるべきものなのであつた。けだし大戰直後のドイツは資本家の世の中であり、商人の世紀であつた。官吏や軍人は見るかげもなく落ちぶれ果て、商人ばかりが時を得顏に跳梁してゐた時代であつた。自然そこでは物の考へ方一般も商人的になり、何かにつけて『金』が叫ばれ、『實益』が尊ばれた。批評の最高の標準は『實用』であり、『效果』であり、『能率』であり、要するに商人的合理主義そのものを出でなかつた。法律史のやうな實用に縁の遠い學科がその頃輕蔑の的になつてゐたのも、當時としては全く無理ないことではあつたのである。

 商人的合理主義の時代には法規史的形態の法律史が流行し、フアツシヨの時代には再び國民主義の法律史となる。かう見てくると教育制度や教授科目が時勢と共に變化するばかりではない。學問の内容や論述の樣式までも、時代的影響の下にあるのである。

七 近代立法の精神

 カール・シユミツトはナチ法學者中の最も華麗な存在として、初めは政治學の分野において鋭利果敢な多くの新説を連發し、後には法理學の方面へも手を延ばして示唆に溢れた種々の提唱を投げつつある人であるが、その著『法律學における思惟の三型』(Über die Dreiarten des rechtswissenschaftlichen Denkens, 1934)の中に、現代立法の精神を鋭く指摘した一節があるから、ここにそれを紹介しておきたい。この書はシユミツトが政治學から法理學への轉向の門出において公にした記念的著作であり、政治と法律との關係に關するナチ法學者の見解を知る上においても見逃すことのできない文獻ではあるのである。

 さてシユミツトによると、現代立法の精神は決して深遠な所にあるのではなくて、むしろ極めて手近な、殆ど卑俗な地點に存してゐるといふのである。即ちそれは『豫知』(expectation)を好むといふ精神の中に存してゐるといふのである。

 豫知とはいかなる行爲が國家から命じられるか、いかなる行爲が許されるか、いかなる行爲にはいかなる法律上の效果が附與されるかを豫め精密に、精確に、知悉しておきたいとおもふ心である。いひ換へれば自己の行爲が意外にも無效とされたり、取消されたり、罰せられたりするやうなことがあつては、到底堪ええられぬとおもふ精神なのであるが、シユミツトにいはせると、かかる精神こそが、現代の法を産み、法組織を産み、法律學をも産む母胎だといふのである。

 けだし近代人の忌み恐れるものは『意外』である。彼等はなるべく見透しがつき、豫算が立つ安全な生活を送つて行きたいとおもつてゐる。自己の地位・權利・利益・自由等々が國家の恣意的權力によつて犯されることのないやうにと願つてゐる。いかに行動すればどれだけの法益を獲得できるか、いかに用心し用意しておけば損害を他人に轉嫁してみづからは損失を免れることができるか、等々の諸點を豫め國家から豫示しておかれたいとおもつてゐる。換言すれば國家行動の豫知と個人生活の安固とを欲してゐるのであるが、この心が遂に外に發して大規模な法典の編纂となり、嚴格な法治主義の確立となり、精密な法律學の發達ともなるのだ、とシユミツトはすべてを『豫知』の觀念から説明しようとするのである。

 試みにまづ法典編纂の運動をとつて見ると、十九世紀初頭の諸國民は考へた——もし國民の法を整然たる法典に結成しておくならば、國民はこれによつていかなる行爲は命じられ、いかなる行爲は許されてゐるかを豫め的確に豫知しておくことができるであらう。そして不測の損害を虞れたり、專檀的な處罰にビクビクしたりする必要もなくなるであらう。それはちやうど市民へ市民生活の地圖を與へておくやうなものである。旅行者に地圖の必要があるやうに市民にも社會生活上の地圖の必要があると。かくして彼等は法典編纂の運動を起し、又それに見事に成功した。十九世紀の諸國を席捲した法典編纂の大運動は、實に法律生活における『豫知』を尚ぶ近代人の心理から發したのであると、シユミツトはかう看破するのである。

 次に法治主義はどうかといふと、シユミツトはアンシユツツの有名な『法治國』の定義(Anschütz, Deutsches Staatsrecht in der Enzyklopädie von Holzendorff-Kohler Bd. 2, S. 593)を引用しつついふ——アンシユツツは現代の國家は法を以て人民相互の關係を規定してゐるばかりでなく、やはり法を以て國家と人民との間の關係をも規定してゐる。即ち現代の國家においては被治者だけが法の下にあるのでなくて、治者自身もまた法の下にあるのである。現代の統治は人の統治でなくて、法の統治である。國家最高の意志は王(Rex)ではなくて、法律(Lex)であるといつたが、かかる意味内容をもつところの法治主義が確立されるに至つたのも、やはり『豫知』を尚び、『安固』を欲する心からである。なぜかなら法によつて統治されることを望むといふのは、豫告された手段によつて統治されることを望むといふことであり、王の恣意によつて統治されることを望まないといふのは、もしもかかるものによつて統治されるならば、個人生活の安全性が害される、と見たがために他ならなかつたからと。

 法實證主義については次のやうにいふ——現代においては法とは實定法のことである。即ち人間の制作品たる制定法及び慣習法のことである。神法とか自然法とか理性法とかいふものは現代の法學から『法』としての取扱を受けてをらぬのであるが、これらが現代の法學から『法』としての取扱を拒まれるゆゑんは、これらがその價値内容において劣るといふ理由からではない。價値内容においては自然法・神法・理性法は恐らく人定法の上に出るであらう。しかし何分にもこれらの理想法はその内容において不明確であり、不精密である。ゆゑにそれは現代生活の法的規準となることはできぬのである。現代生活は豫知を尚ぶ。それは、それを規律する法的規範がその價値において勝るよりも、その規定の精確と明晰とにおいて勝ることを欲してゐるのであると。

 次は近代法學の特徴に關してであるが、シユミツトは近代法學の特徴の一つをその條文主義において發見する。條文主義とは法律の文言を極端に尚び、これを唯一の又は最終の根據として、法律上のあらゆる問題に應答しようとするものであるが、シユミツトにいはせると、かやうな主義もまた『豫知』を重んじ、『安固』を尚ぶ思想からである。けだし法律の文言は明白にして不動である。それは最も信頼するに足る裁判の基準である。それは動搖常なき『立法者の意思』などよりも、曖昧不分明なる『法律の意思』などよりも、遙かに安全・遙かに明晰な基準であると、かう考へるがゆゑに近代の法律學は『法の文言』を最も強力なる據り所とするのである。

 そうしてシユミツトはこの際條文主義の偉大なる代表者として英のべンタムを拉して來る。べンタムは法的安全の極端なる狂信者として次のやうにいつた——『もしも裁判官に法律解釋の權があるならば、法律が裁判官の恣意の下に置かれてしまふであらう。そこにはもう法的安全はなくなる。法の安全・確固・不可侵を保證しようとおもふならば、裁判官に法の解釋を委してはならない。むしろ裁判官を單なる法律適用の機械にしてしまふ必要がある。恰も時間表通りに汽車を動かしてゐる運轉手と同性質の者にしてしまふ必要がある』と。これこそ實に豫知と安固を無上に尚ぶ近代精神の最も端的な表現に他ならなかつたとシユミツトは評してゐるのである。

 次にシユミツトが近代法學の第二の特徴として數へるものはその純粹法學性である。純粹法學とは政治的考慮・社會的考慮・道徳的考慮・經濟的考慮等々を排斥し、純粹に法律のみを資料とし根據として法的判斷を下さうとするところにその特色をもつ學派なのであるが、近代の法學はみな大なり小なり純粹法學的である。たとへケルゼン一派のごとくに極端ではないとしても、各學者がみな或る程度まで政治的考慮・經濟的考慮等々を排斥してゐるのである。彼等はかかる實質的考慮を加へることを法的判斷の純一味を害するゆゑんだと考へる。實質的考慮は非法律的(ウンユリスチツシユ)な判斷である。又は法而上的(メタユリスチツシユ)な判斷である。純粹に法律的(ユリスチツシユ)たらんとする法律學は、かかる實質的考慮を極力排斥しなければならないと考へてゐるのである。しかし焉んぞ知らん、かかる主張も『豫知』を欲し、『安固』を尚ぶ近代の精神の現れに他ならないといふことを。けだしもし政治的・經濟的・社會的等々の考慮を混入するならば、それだけ法的判斷は實質的・具體的に妥當となり穩當ともなるわけであるが、近代の精神は法的判斷の妥當性よりも、その明晰性・確實性を尚ぶのである。ゆゑに妥當ではあるがしかし明晰ではないところの實質的諸考慮を排斥するやうにもなるのだとシユミツトは見解する。

 なほシユミツトに從へば現代法學の純粹法學性は今日なほ決して失はれてはゐない。十九世紀の末葉以來法律學の形式的概念性を打ち破らうとする鬪爭は、さまざまの形態の下に行はれて來たが、どの挑戰も今なほ完全たる成功を納めずにゐる。法律と裁判又は裁判官との關係に關する種々の論議・自由法の運動・利益法學の提唱・社會法學の主張——これらがみな無效果に終つてしまつたといふのでは決してないが、しかし條文尊重の思想が最高の格率として今なほ堅く守られつつあるのは事實だといふのである。

 次にシユミツトは近代法學の第三の特徴を判例主義の上に見る。彼いはく——現代の法律學はあらゆる法律問題を訴訟の觀點の下に見る。いかなる事件は訴訟において勝つか敗れるかを的確に豫見し豫示することが法律學の使命だとおもつてゐる。それは決して法律意識の學ではない。社會規範の學でもない。それはたかだか裁判において、いづれが勝ちいづれが敗れるかを豫示する案内書に過ぎぬのである。現代において有力な學説といふのは裁判官のために訴訟裁決のための知的準備として役立つ學説といふ意味である。直接にも間接にも全然訴訟の裁決に役立たないやうなものは、學説としても學問としても、無價値だと見られてゐるとシユミツトは浩嘆する。

 けだし實利的な現代人にとつて重要この上もないことは、いかなる利益は法律の保護の下に安全に獲得できるか、いかなる損失は法律の保證の下に安全にこれを他人に轉嫁しうるかを明瞭的確に豫知できるといふことなのであるが、法律の保證の有無を終局的に決定するものは、條文でもなければ學説でもない。實にそれは裁判所の裁判である。ゆゑに現金な現代人は條文よりも、學説よりも、裁判所の判決そのものを最も重んじることになるのだといふのである。

 かう見て來たとき、われわれは近代の法律組織がいかに個人の自由及び利益を擁護することを以てその窮極の任務と考へてゐたかを知ることができる。個人の自由・利益・地位・權利——さういふものこそが最大の法律價値であつた。立法の任務はかかる法律價値を擁護し、これを不測の侵害から救ふことに存し、又それに盡きたのであつた!

八 金錢債權者の優位

 現代法上賣主殊に隔地賣買の賣主は、買主よりも大なり小なり有利な地位に立つてゐるやうにおもはれる。例へば進歩的な外國の立法例などを見ると、賣主は賣つた物を買主の住所まで持參する必要がない、自己の住所又は營業所で買主に提供すれば足りる、買主の方で買つた物を自己の費用と自己の危險とにおいて運び去らねばならぬと規定してゐるのが通例である。即ち荷造費も買主の負擔、運賃も買主の負擔、途中の危險も買主の負擔としてゐるのが通例である。ところが他方、買主の方はと見るに、元來雙務契約公平の原則からいふならば、賣主の方が發送債務である以上、買主の方も發送債務であつていい筈、賣主が運賃向ふ持ちで物を送る以上、買主も爲替料向ふ持ちで金を送つていい筈、賣主が物品紛失の際二重渡しせぬ以上、買主も送金紛失の際二重拂ひをしなくてもいい筈であるが、進歩的な外國立法などはこのやうな平等主義を採らず、賣主の物品引渡が發送債務であるのに買主の金錢支拂は持參債務、賣主が運賃向ふ持ちで送るのに、買主は爲替料こちら持ちで送金せねばならず、賣主が二重渡しの義務を負はないのに、買主は二重拂ひの義務を負ふと、新らしい立法ほど買主の義務をより嚴重に、賣主の義務をより寛大に、規定してゐるのを見るのである。

 買主はもちろん物品債權者であり、賣主は即ち金錢債權者である。法律が買主の權利を弱くし、賣主の權利を強くしてゐるのは、法律が物品債權者よりも金錢債權者を優遇してゐることを示すものである。これを現代法の『金錢債權者びいき』(Bevorzugung des Geldgläubigers)といふ。

 これを歴史的に見ると、金錢債權者優位の原則は十九世紀も半ばを過ぎてから確立した。それ以前の立法例は大抵當事者平等の原則に立ち、賣主の債務が發送的なら買主のそれも發送的、一方が運貸向ふ持なら他方も爲替料向ふ持ちといふ風に規定したのであつた。ところがドイツ舊商法の起草委員會が初めて金錢債權者の優位を認めて以來、立法の趨向ここに一變し、ドイツ舊新兩商法・ドイツ民法が金錢債權者びいきとなり、スヰス債務法・ハンガリー商法等も金錢債權者びいきとなり、次第に廣く行はれんとしつつある。英米法に至つては古くから金錢債權者びいきである。

 ではわが國はと見るに、履行地に關するわが民商法の規定は、十八世紀の末端に出來上つた彼のプロシヤ州法の規定と同樣の古風さを保持してゐるのを見る。兩者共に金錢債務の履行地を爾餘の種類債務の履行地から區別せず、一律にこれを規定し、凡そ債務は原則として持參的であり、債權者の住所又は營業所が履行地だと定めてゐるからである[#ここから割り注]-->民四八四、商二七八[#ここで割り注終わり]-->。

 しかし取引の實際は法を乘越えて進みつつある。わが國においても賣主の債務は慣習上發送的になりつつあるのではなからうか。今日の取引界を見てゐると、商人はなるほど賣つた商品を買主の住所地へ送付してはくれるが、しかしその運賃は買主の負擔においてである。荷造賃も運賃も買主の負擔となりつつある。現に拙著『一法學者の嘆息』も『定價何圓送料何錢』と定め、送料をば讀者持ちにしてゐるのである。また送金の危險も買主の負擔となりつつある。賣主たる書店が送本紛失の際、本を二重渡しせぬのに、讀者は送金紛失の際、金を二重拂ひせねばならぬことになつてゐるのである。重ねていふ、取引は法を乘り越えて進む。日本でも金錢債權者優位の原則は、習慣上すでに確立に達しつつあるのではあるまいか。

九 相姦婚姻の禁

 新教の主唱者ルーターは舊教會がその頃相姦者との婚姻を禁じてゐたのを難じて、『これこそ實に暴君的な不寛容だ』といつたが、爾後の法律の發展はこの『暴君的不寛容』を撤廢しようとしつつある。

 即ちイタリー民法は一八六五年の制定に係るが、原則として相姦者との婚姻を許し、ただ姦通者が無責配偶者を殺した場合に限り、相姦者との婚姻が禁じられるに止ると定めた。フランスでは一八八四年相姦婚姻禁止の法律を出して見たが、一九〇四年に至つて廢止してしまつた。一九一〇年にはポルトガルが、一九一五年にはスエーデンが、一九一八年にはノールウエーが、一九二二年にはデンマークが、いづれもこの禁を解いてしまつた。舊教會自身もこの禁を寛和する必要を感じ、一九一七年教會法典(codex juris canonici)制定の際、相姦者との婚姻の禁は、姦通者が無責配偶者を殺害した場合に限るといふことにしてしまつた。即ち單なる姦通を以て離婚され處刑されたに過ぎない者は、相姦者と婚姻するに何等差支なしといふことにしてしまつたのである。英米法に至つては初めから相姦婚姻の禁を知らない。

 ドイツは今なほこの禁をおいてゐるが、しかし同時に特別許可の道を開き、官廳の許可さへうれば相姦者とも婚姻できることにしてゐる。

 なぜドイツ民法は、かういふ妙な定め方をしてしまつたのかといふと、ドイツ民法制定の當時ドイツの政界に勢力のあつたのは、同國舊教徒の機關政黨たる中央黨であつたが、この政黨が民法の規定の中に相姦婚姻の禁を插入すべきことを頑固に主張した結果であつた。しかし政府は同黨の要求を容れて相姦婚の禁をおくと同時に、特別特許の道を開き、官廳の許可さへうれば相姦者とも結婚できるとしてしまつたから、相姦婚の禁は事實上骨拔きも同然になつてしまつたわけであつた。

 だから結局、『姦通ニ因リテ離婚又ハ刑ノ宣告ヲ受ケタル者ハ相姦者ト婚姻ヲ爲スコトヲ得ス』(民法七六八條)といふやうな風に規定してゐる國は今日では極めて稀、まづベルギー・オランダ・ポーランド及び日本位のものである。

 元來人間の婚姻能力は刑罰の目的となつてはならない。刑として婚姻能力を制限するのは不合理も甚しいことである。それに實際の結果から見ても、婚姻が禁じられれば内縁を結ぶから、禁は徒法に終る。

一〇 モダン婚姻法

 モダン處女十戒の一つは『なんぢの男性を獲得せよ』だと菊池寛氏がいつてゐる。なるほどこの頃の世の中を見ると、男も女もかなり放縱に戀愛漁りをしてゐるし、未婚の男女ばかりがさうなのかと見ると、既婚の男女も狂ひ出し、日々の新聞紙上にも『戀に狂ふ人妻』とか、『子をすてて愛人へ走る夫人』とかいふ桃色記事の絶間もない。日本ばかりがかうなのかと見ると、西洋は一層はげしく、中には『戀愛の權利は婚姻の義務より重し』などと物騷な主張をしてゐる手合もある。こんな調子だと、『戀愛事件は文明の程度に正比例して増加す』とでもいふ社會法則が行はれてゐるのかと疑ひたくなる位である。たしかに現代は、菊池寛氏の認めてをられるやうに、性的自由の時代である。性の自由競爭・自由放任の時代である。

 さてこんなに戀愛事件が頻發し、時代の思潮もある程度まで性の自由を承認するやうになつてくると、法律も自然調子を下ろして、社會通俗の觀念へ接近し、ある程度までは男女間の性的自由を認めざるをえないやうになつてくる。いひ換へれば古い嚴めしい法律原則をすてて、性的自由の思想の上に生新な性秩序を再建しなければならないやうになつてくる。なぜかといふと法律とても元來は一種の社會意識そのものに外ならぬのだから、社會が一般に善と認めてゐるやうな事柄はやはり適法として許さざるをえないし、社會が一般に惡と見てゐるやうな事柄はやはり違法として禁止せざるをえないし、從つて社會が一度びその價値觀念を顛倒し、今までは惡と見て來たものをけふからは善と見るやうにでもなれば、法律もやはり咋日までは禁じて來たものをけふからは許さざるをえなくなるし、反對に善一變して惡とでもなれば、法律もやはり今まで許して來たものをけふからは禁ぜざるをえなくなるからである。もし法律が社會における規範意識の變遷と沒交渉に自己固定の觀念に執着し、どこまでもひとりよがりを押通してゐようものなら、ちやうど『頑固親父の小言』と一般、實生活牽引の力を失ふに至るべきこと必定である。みづから固定してゐては、流動するものを指導することができない。流動する生活を指導しようとおもへば、法律みづからも流動してゆく必要があるのである。即ち絶えず自己を實生活へ接近させ、實生活上の規範意識と手に手を取合つて進むことを要するのである。

 かやうにしていま各國の立法は婚姻法の徹底改造の必要に見舞はれつつある。性的自由の思想の上に性秩序の建直しを行はざるをえぬ羽目に際會しつつある。大戰前すでにモダン婚姻法の建設に成功してゐた國もあり、大戰後それを成遂げた國もあり、現にこれを試圖しつつある國もある。改正意見に至つては毎月涯限なしに現はれ、論文として單行本として、吾人の机上を賑はしてゐる。よつていま私は婚姻に關するヨーロツパ最近の立法および立法論を基礎にして、いかに性的自由の思想が彼地の婚姻法則を根本的に變化させつつあるかの概况を紹介してみよう。

 婚姻法の卷頭第一章は、『婚姻の禁』へ捧げられるのが通例である。少くとも從來の婚姻立法例はその開卷第一において、婚姻の禁を規定し、どんな場合には結婚を見合はせねばならないとか、どんな範圍内からは配偶者を選出してならないとか、いろいろと干渉し取締つて來たのである。

 しかも概言すると、婚姻の禁は昔に遡るほど嚴重であり煩瑣である。ずつと古くは政治的理由に基く禁さへもおかれてゐた。例へば貴族たる者は庶民と結婚すべからず・武士たる者は町人と結婚すべからずといふの類がこれである。明かにそれは貴族階級の血液的純潔を保持させ、その支配的地位を永久に固定させてしまはうとの動機から出た・一種の政治的なる婚姻干渉に外ならぬのであつた。當時は又宗教的理由から出た干渉などもあつた。『なんぢ異教徒と婚する勿れ』の類がそれである。今日でもこの種の思想は絶無ではない。ドイツのナチ政府がドイツ人とユダヤ人との婚姻を禁じたなどはその例である。

 しかし政治的又は宗教的理由に基く婚姻の禁は今日では例外である。今日婚姻の禁の規定の根幹をなしてゐるのは、むしろ倫理的理由に基く近親婚の禁である。けだし人間は近親間の性的交通を不潔視する一種の原本的倫理感情をもつてゐるのであつて、この感情に基いて近親婚の禁が置かれることになるのである。

 しかし最近における自由思想の氾濫は次第に近親婚の禁止の範圍を狹ばめつつある。例へば(一)在來の法律は叔姪間の婚姻を禁止し、今でも佛伊はこれを禁じてゐるのであるが、ドイツ・ノールウエー・デンマーク・チエツク・ソ聯等は、單に兄妹婚を禁ずるだけで叔姪婚は許してゐる。即ち叔父と姪とが正々堂々法律的に婚姻しうるものとしてゐる。吾等日本人の法律感情としては頗る異樣な感に打たれるのであるが、ドイツあたりでは叔姪婚は適法婚である。

 又(二)從來の婚姻法には直系姻族婚姻の禁といふのがあつた。これはつまり先妻の連子とは結婚できぬといふ意味の禁止なのであつたが、ソ聯婚姻法は姻族婚は血族婚と異なり、生れる子供に害を及ぼす虞なしとの理由から、直系姻族婚姻の禁を撤廢してしまつた。又從來の婚姻法には縁族婚の禁といふのがあつた。これは自分の養子とは結婚できぬといふ意味の禁止なのであるが、ソ聯婚姻法はやはり前同斷の科學的理由から、この禁令をも撤去してしまつた。子孫に害さへ及ぼさなければ何人とでも結婚させようとしてゐるらしい。もちろん吾等の法律感情とは相容れない。

 かやうに醫學上の見地のみから婚姻の禁止方針を決定する主義を科學主義といふが、科學主義は從來の倫理主義、すなはち倫理感情の觀點から婚姻故障の範圍を劃してゐた主義にやうやく取つて代らんとしつつある形勢を示して來たのである。

 又(三)いはゆる相姦婚の禁、すなはち姦通によつて離婚又は刑の宣告を受けた者は相姦者と婚姻をなすことをえないといふ禁止規定も孤城落月の状况にある。今日ヨーロツパにおいてこの禁止を置いてゐる國は極めて少い。大抵はとうの昔にこれを廢止してしまつたのである。

 即ちフランスは一九〇四年に、ルーマニアは一九〇六年に、これを廢止してしまつた。一〇年にはポルトガルが、一五年にはスエーデンが、一八年にはノールウエーが、一九年にはチエツクが、二二年にデンマークが、これを廢止してしまつた。その理由は姦婦姦夫へ何等かの制裁を加へることはいいとしても、その方法として、彼等の婚姻能力を制限するのは宜しくないといふに在る。

 元來婚姻の禁なるものは配遇選擇の方針に對する國家の干渉である。だから國家が一般に干渉好きだつた時代、即ちいはゆる警察國だつた時代には、婿姻の故障は種類も多く、その範圍も廣かつたが、國家が民主國となり自由國となり、市民生活への直接干渉を極力愼むやうになつ來た現代においては、婚姻故障はすつかりその種類及び範圍を縮小してしまつたのである。そうしてなるべく廣い範圍の中から、なるべく自由に配偶者を選擇させるやうになつて來たのである。

 婚姻の禁と共に崩落の道を急ぎつつあるのは婚姻同意の制度である。婚姻の禁が婚姻に對する國家の干渉ならば、婚姻同意はの干渉である。だから近代ヨーロツパにおける性的自由の思潮は前者を排斥するやうに、後者をも排撃し、子をしてなるべく專斷的にその配偶者を選定せしめんとしてゐるのである。もちろん未成年の子の場合ならば、彼は財産に關する法律行爲についても親の同意を得なければならぬのであるから、婚姻の締結についても親の同意を要すとされても仕方がないが、成年の子の場合ならば、彼は財産上の行爲についても婚姻についても、何も親の同意に掣肘されてゐる必要はない、とかうヨーロツパの自由主義者たちは論じてゐるのである。そうしてこの自由主義的主張があちらでは着々法文化されつつあるのを見るのである。例へばスヰス・スエーデン・ノールウエー・デンマーク等では成年期の定めを婚姻にも適用し、成年者は一般の法律行爲を獨斷的になしうると同樣、婚姻をも獨斷的になしうる、即ち成年後は親の同意を得ることなしに結婚しうるとしてゐるのである。日本では男三十、女二十五までは婚姻につき親の同意をうることを要すとしてゐるが、これは家族制度の上に立つこの國の特殊的事情がさうさせてゐるのである。

 性的自由の思想の大津浪に押流されつつあるもう一つは、婚姻の締結方法に關する規定である。從來の主義では婚姻成立のためには、當事者二人がみづから身分官廳の面前へ出頭して婚姻締結の意思を表示し合ふか、又は身分官廳へ婚姻屆を提出するかしなければならないとされてゐたのであつたが、かやうに官廳々々といつてゐたのは、婚姻を一種の公事と見てゐたからである。婚姻は私的結合でなくて公認の結合だと考へたればこそ、官廳の協力を婚姻成立の必須要件としてゐたのである。しかし今では本家本元のヨーロツパでもこんな考へ方は消えて來た。即ち官廳の關與などは過剩物だといふ考へ方が若き男女を捉へるやうになつて來た。けだしブルジヨアは女から女への放縱な生活を追うてゐるがゆゑに公力の干渉を煩さがるし、プロレタリアはすべてにおいて實踐的・行動的であるやうに戀愛においても實踐的・行動的であり、直ちに同棲へ突入してしまふから、これまた公力の無視となる。かくして年々歳々、公力の承認を經ざる事實上の同棲がどこの國でも急激に増加しつつあるのである。これを内縁といふ。

 法律は初め内縁を單なる事實上の關係と見、全然これを法外へ放置してゐたのであつたが、今日の内縁は法律から無視さるべくあまりにも支配的な社會現象である。これを法的規整から取逃すのは、生活の全方面を充足的に規整することを以て任とすべき法の使命に背くものである。よつて今日の法律は内縁をも法的規整の對象となし、婚姻と同樣これを一種の合法結合と見、内縁夫婦をも一種の法律關係に立たしめることになつた。例へば内縁の妻といへども貞操の義務を負ふとか、夫に對して扶養請求の權利をもつとか、日常の家事につき夫を代理しうる權利をもつとかいふの類。ソ聯婚姻法のごときに至つてはさらに一層徹底的である。即ちそれは内縁を全然婚姻と同等視し、苟も同棲・家計共同・相互扶助・子の共同養育等の事實あれば、たとへ屆出はなくとも二人は法律上の夫婦となり、夫婦としてのあらゆる權利義務を帶有するに至ると、定めてゐるのである。

 たしかに内縁は兩性結合の新型である。而してかかる新型の發生及び發達も自由奔放なる現代性生活の直接の反映に外ならぬのである。

 しかし自由主義者のわがままな氣分を最も端的に表現してゐるのは、むしろ錯誤婚取消の規定であるであらう。錯誤結婚といふのは、相手方の地位・財産・家系・人物・性質等を誤認して結婚した場合をいふ。かかる例は世間に決して稀でない。財産があると思つて結婚したら借金ばかりだつたとか、健康な人だと思つて結婚したら肺病やみだつたとか、親切な人かと思つたらとんだ癇癪持ちだつたとか、犯罪癖などあるとは夢にも思はなかつたのに意外!彼女は萬引常習者であつたとか、處女だと思つたらなかなかさうでもなかつたとか、數へ來れば結婚とは意外な事實の發見そのものの謂ひなのであつた。がしかしこのやうな場合に一々婚姻の取消を許してゐた日には切りはない。天下の婚姻殆どみな取消されることになつてしまふであらう。元來人生に豫期以上幸福な婚姻なんかありはしない、大抵は豫期以下に不幸なものに決つてゐると、永井荷風氏が書いてゐたのを見たことがあるが、それほど錯誤は結婚に附ものであり、從つて錯誤による不幸も人生の附ものとして或る程度までは辛抱してもらふの外はないのである。それにその性質論からいつたつて、錯誤といふやつは欺僞や強迫と根本的に異つてゐる。欺僞や強迫は人が他人からの不正干渉(欺僞行爲・強迫行爲)によつてその判斷を誤らしめられた場合だが、錯誤は自分自身の輕率によつてその判斷を誤つた場合である。自分自身の輕率によつて誤斷しておきながら、同情してくれ・救濟してくれ・取消さしてくれとは、ずいぶん虫のよ過ぎる要求だともいへるのである。從つてそんなわがまま勝手な要求は斷然はねつけ、錯誤者をば錯誤婚へそのまましばりつけておけといふ議論も出て來ていいわけなのであるが、しかし顏面皮膚の厚化してゐる當今のモガ・モボは、自己誤斷の結果についても同情救濟を求めて止まない。自分の誤り選んだ相手方から早く自分を解放してくれといつてきかぬのである。虫のいいことこの上もない話だが、そこはモダン化しつゝある現代婚姻法のこととて、かかる連中へも救濟の手を延ばし、一定の限度内で、錯誤者へも婚姻取消權を與へるのである。例へば結婚後相手方が意外にも重い性病・重い結核の持主であることを知つたとか、意外にも不治の精神病者であることを知つたとか、意外にも犯罪癖・亂酒癖の持主であることを知つたとか、凡そこのやうな重大な人的性質の錯誤のあつた場合には、婚姻取消が許されるとしてゐるのである。

 錯誤婚取消の制度は現代婚姻法の一大特色である。現代の婚姻法は益々廣汎に錯誤婚の取消權を認めようとする傾向を示しつつあるのである。

 次に夫婦關係法の發達を見ると、昔は『夫婦は一體、二にして一』の原則が行はれてゐた。これは倫理の教訓であるばかりか法律の規定でもあつた。二人は姓を一にし、住所を一にし、貞操を一にし、榮譽を一にし、財産をも一にすべきものとされてゐたのである。けだし當時の經濟生活は商業にせよ工業にせよ農業にせよみな家庭的であり、夫婦は終日仲よく一所に暮らしてゐたのであるから、法律がこの事實をそのまま法條化し、夫婦は姓・居住・財産を共同にせよと命じたところで、少しも無理はなかつたからである。しかし今はどうであるか、家庭工業はすでに滅び、家庭商業も殆ど滅び、農業さへも家庭的ではなくなりつつある。今の夫婦は毎朝別々に働きに出る。夫は工場へ、妻も工場へ、そして兒は託兒所へ——夕方戻つて晩餐でも共に出來ればまだいい方である。中には別々に下宿して別々の工場で働き、一週一回、日曜日にだけ遇ふなどといふ人もある。かうなつて來ると法律が夫婦に對し居所共同の義務を命じて見たところで何になるか。徒らにそれは守られもしない空文の例を一つ殖して見るだけのこととなる。かくして現代の夫婦關係法は現代家庭生活の變化に伴うて根本的に變化しつつあるのである。即ち、

 まづ(一)姓共同の規定を見るに、各國現在の婚姻法は妻は結婚後は夫の姓を稱すべきものとしてゐるが、これは妻の獨立人としての活動の弱かつた時代の規定である。當時は妻は『奧樣』として家庭の奧に深く隱れ、夫を通じて僅かに世間と交渉してゐただけだつたから、獨立の姓をもたなくてもよかつたが、今日の婦人は娘時代から自己の名において財産を有し、自己の名において取引をもなしてゐる。だからもし彼女がその結婚によつて俄然その姓を變へなければならぬとなると、彼女自身のためにも不便であり、第三者のためにも不便であらう。姓は人格の旗印である。獨立の活動をしてゐる者は獨立の姓をもたねばならぬ。殊にかの職業婦人、なかんづく女優のごとき人氣商賣は、姓變更のために人氣および收入の上に不利益を受ける虞さへあるのである。だから改革論者はいふ——『當來の婚姻法は妻をして娘時代の姓を續用せしめよ』と。

 次に(二)居所共同の規定を見ると、夫婦は居所を一にすべきものとなつてはゐるが、無産階級の夫婦にとり、居所を共同にするといふことがいかに容易でないかは前述した通りである。夫も工場に、妻も工場に、終日別々に立働き、家庭生活の味さへ知らぬのであるから、このやうな人々に法律を以て居所を共同にせよと命じたところで仕方がない。むしろこのやうなお節介から潔く手を引き、夫婦をして同居か別居か、自由にこれを選擇させる方がいいのである。

 (三)貞操義務の規定を見ると、大抵の國の民法は妻に對してばかりでなく、夫に對しても貞操の義務、すなはち性慾上の忠實義務を課し、これこそ實に夫婦間の中樞義務だとしてゐるのであるが、今日少しくヨーロツパにおける判例の趨向を注意して見てゐると、裁判所が夫の貞操義務の輕減を意圖してゐる判例を續發してゐるのに驚かされるのである。たしかに裁判所は夫貞操の義務に對して多くの例外を開かうと試みつつある。例へば妻の永年の病臥中夫が他の婦人と性交に入つたのは夫貞操義務の違反でないとか、旅行中一時的に他の婦人と關係したのも夫貞操義務の違反でないとか、夫婦關係の繼續を不可能ならしめざる程度において遊蕩したのも夫貞操義務の違反ではないとかいふの類——今日夫貞換の義務を高調するのは、ヨーロツパにおいては、進歩的な傾向でなくて、むしろ守舊的な行方となつてゐるのである。

 (四)財産に關しても從來の法律は夫婦をして財産の全部又は一部を合有させるとか(夫婦共産主義)、又は夫をして妻の財産をも管理させるとか(管理制)、大なり小なり夫婦一體の精神を財産關係法の中に浸透させようと努めてゐたのであつたが、このやうな主義に對して滿々の不平を抱くものは現代の婦人である。なぜかなら夫婦共産とか管理共同とかいへば、名だけはいかにも立派だが、事實は管理の權利を夫だけに與へ、夫をして妻の財産を自由に動かし、勝手に處分させるものに外ならないと見るからである。婦人に財産管理の能力のなかつた時代ならばいざ知らず、女子教育の大いに進み、婦人の智能の全く開發された今日、妻自身に自分の物を管理するだけの權利を認めぬといふ法はない。『妻の物は妻に返へせ』とばかり、妻の財産に對する妻自身の獨立管理權を主張して來たのである。而してこのやうな新要求に最もよく適合するものはといへば、それはいふまでもなく夫婦別産主義である。けだしこの主義は夫婦をして各々の財産を別々に所有させ、別々に管理させる。生活費は原則として夫の負擔だが、妻もまた相當額の補助出費はするといふことになつてゐる。何のことはない、兵隊勘定で世帶を切り盛りしようといふ行方であるから、これはたしかに、口には家庭圓滿を高調しつつ内心はなかなか利己的となつてゐる・今の若夫婦の心理によく投合してゐるのである。すでに英・伊・墺・チエツク及び米國多數の州はこの主義を採用してをり、獨・佛・瑞等も漸次この新主義へ移らうとしてゐる。わが國も行々はこの主義へ進まうとしてゐるのである民法親族編中改正ノ要綱第十四ノ三

 (五)日常家事代理權の規定も動搖の中にある。日常家事の代理權とは、妻は夫の負擔において第三者から買物をなしうるといふ・妻にとり頗る好都合な權利なのである。だからもし妻が充分に愼しみ深くあつてくれるなら、即ち夫の實收入を顧慮しつつ買つてくれるなら、この規定にも難はない。しかし今日の婦人、殊にかの有閑階級のマダムと來ては、夫の實收入などにあまり頓着なさらぬから困るのである。或るオランダの婦人は十六ケ月間に一一〇〇〇グルデンの衣服を買ひ、その代金を夫に負擔させようとしたので、夫から呉服屋相手の訴訟を提起してゐる。又或るフランスの婦人は二ケ月間に九五〇〇フランの衣服を買ひ、その代金を夫に負擔させようとしたので、これまた法律問題となつてしまつた。同じフランスの話だが、ある夫は妻と轉地保養中妻の浪費に因り果て、今後妻の買物に對しては支拂の責に任ぜざるべき旨、その地方の新聞に廣告した。妻は柳眉を倚ててプイとひとりパリへ歸り、今度はパリの商人からウント又買込んだ。よつてパリの商人はその代金の支拂を夫に求めたところ、夫は兼ねての新聞廣告を楯にして支拂を拒んだが、商人は地方新聞紙上の廣告はパリの商人に對して效力なしと主張し、訴訟においては遂に商人の勝となつた——かうなつてくると日常家事の代理權は夫にとりまさに悲鳴物であるのである。

 さてかやうに妻の浪費癖が高まつてくると、夫も自衛上防禦方法を講ぜざるをえなくなる。よつてオランダの新婚姻法のごときは、家事上の支拂については、妻も亦夫と共にその固有の財産を以て連帶して支拂の責に任じなければならぬときめてしまつたのである。即ちここでも夫婦一體の主義は破れて夫婦分立の個人主義が頭を擡げつつあるのである。

 要するに個人主義が夫婦の關係までを支配し初めたのである。兄弟親子の關係が個人主義的原理で律しられ始めたのは久しい以前のことであつたが、今では夫婦間の關係までがこの原理に依つて來たのである。元來一般の社會經濟生活が個人主義的原理の上に營まれつつある以上は、いつかは同じ精神が家庭の中へまでも入り來る日のあるべきこと、それは初めから約束づけられてゐた運命ではあつたが、とうとうそれが事實となつて來たのである。いかなる政策もいかなる施設もこの必然的歴史過程の自己貫徹を停止させることはできない。それらは僅かにこの歴史法則の進行を鈍らせ、緩和させるに止まるであらう。一般の社會生活を個人主義で營み、家庭生活だけを全體主義で營むといふことは、なかなか因難な事であるからである。だから吾等は徒らに滅びゆく制度へ追慕の情を寄せてゐるよりも、新しい關係に適合する新しい秩序を早く建設する方が賢明である。

 性の自由と自己の幸福とばかりを追及してゐる現代人は、離婚に關しても、自由放縱な考へ方をしてゐる。なるべく自由になるべく簡單に離婚を許してもらひたいといふのが現代夫婦の本音らしいのである。だから法律も大いに氣を利かし、可能的廣汎さにおいて離婚を許さうとしてゐるのであつて、その大體をお話すると——、

 (一)從來の法律は、いはゆる離婚の原因として姦通とか虐待とか侮辱とかを列擧して來たのであつたが、近頃の法律はかかる列擧主義をすてて原則主義をとり、一般に重大な直接侵害行爲はみな離婚の原因となるとする。重大な直接侵害行爲とは、配偶者をして婚姻繼續の意思を喪失させる程度において、配偶者を侵害することをいふ。だからたとへ姦通・遺棄等々の型には入らずとも、その侵害の程度が相手方をして婚姻繼續の意思を喪失させるやうな場合、換言すれば侵害が婚姻破壞的である場合には、被害配偶者は加害配偶者に對して離婚の訴を起すことができるのである。例へば夫が扶養してくれぬといふやうな場合にも離婚の訴を起すこともでき、妻の家政の執り方がふしだら過ぎるといふやうな場合にも離婚の訴を起すことができる。ずいぶん自由な事といはねばならない。

 (二)重大な間接侵害行爲も亦一般的に離婚の原因となる。間接侵害行爲とは、間接に配偶者を苦しめることをいふ。例へば夫が妻の親族を侮辱したとすると、直接の被害者は妻の親族だけだが、間接には妻自身もまた苦痛を感じる。又夫が酒に溺れたり賭博に耽つたりしたとすると、直接には夫自身の品位を落すだけだが、聞接にはやはり妻をも苦しめる。だからこれらを間接侵害といふのである。そしてこの種の侵害も、その程度が婚姻破壞的であるならば、やはり離婚の原因となるとしてゐるのである。

 かやうに婚姻破壞的間接侵害一般が離婚原因となるに至つた結果、離婚は非常に容易となつた。例へば夫が暴酒癖・浪費癖・賭博癖を有したり、下賤な職業を營んだりする場合には、妻は間接侵害を理由として離婚をなすことができるし、妻が繼子いぢめなどしたりした場合にも、夫は間接侵害を理由として離婚をなすことができるからである。

 (三)或る種の偶發的事情さへも、今では離婚原因のなかへ算入されるようになつて來た。病氣がそれである。即ち配偶者が結婚後に至つて精神病を發したとか、癩病を發したといふ場合には、病配偶者を相手取つて離婚の訴を起すことができるといふやうになりつつあるのである。實はこれは病配偶者に對してはまことに氣の毒な次第だといはねばならない。なぜなら病氣は彼の責任ではない。彼は自然の作用によりさういふ惡疾を發したまでのことであるからである。從つて彼は同情さるべき理由こそあれ、非難されたり離婚されたりする理由はないのであるが、いかんせん現代の男女は自分自身の幸福に忙がしい。『私は自分の幸福のために、このやうな婚姻の繼續に堪へられない。あなたには氣の毒ですが私は去ります』と來るのである。よつて止むをえず、法律もこれに調子を合せて結婚後における惡性の發病を離婚原因の中に算へ、病配偶者からは離れ去ることができるとしてしまつたのである。だから現代の離婚法は必ずしも加害配偶者制裁のためではない。直接侵害者や間接侵害者を離婚する場合は、制裁としてだといへぬこともないが、病配偶者を離婚する場合はさうはいへぬ。これはむしろ被害者救出のためである。即ち被害配偶者を婚姻繼續の苦痛から解放してやることが、現代離婚法の目的だと見るべきである。

 人もしヨーロツパ人の性生活史を繙くならば、中世紀における彼等の性生活の意外にも甚だ嚴格だつたことに驚くであらう。中世のヨーロツパ人は、未だ自己本位・戀愛本位の結婚を知らず、むしろ家本位・因襲本位の結婚をなしてゐたのであつた。親が子のために家の利益を基準として配偶を選定し、子も従順にそれに從つてゐたのであつた。二人は完全に一體となつた。身分を一にし財産を一にし、否生涯を一にしてゐた。彼等はその頃は未だ離婚なるものを知らなかつた。『神の結びたまへるものは人これを離すべからず』と信じてゐたのである。

 では、どうしてかうも嚴格だつた禁欲家が今日のやうな性の自由主義者となつたのであらうか?エンゲルスによると、ヨーロツパの性生活史は十五・六世紀の頃を轉回點として著しい變化を示したといふのである。彼いはく『十五・六世紀における地理的諸發見、殊にかのアメリカ發見とインド海航路の發見とは、當時の經濟界及び思想界へ一大震動を與へずにはおかなかつた。舊富者の倒潰・新富者の進出が驚異的に行はれ出した。人間の企業心が頓に高まり、新事業の花々しい試企が始つた。性的方面においては自由戀愛の選手が澤山飛出し、ローマンスの花を咲かせた。人々はもう家本位の婚姻形態に我慢できなくなり、當事者本位の婚姻形態、即ち當事者間の相互愛を唯一絶對の基礎とするところの個人主義的婚姻形態へ移るやうになつて來たのである』と。即ちエンゲルスは十五・六世紀を以て家族主義的婚姻形態から個人主義的婚姻形態への轉換期と見、そしてその轉換の究極原因を十五・六世紀における急激なる經濟状態の變化に求めてゐるのである。

 マルクスも十五・六世紀を以て『資本制生産方法の基礎を造り出した革命の序曲時代であつた』といつてゐる。たしかにこの時代はヨーロツパ經濟史の轉形期であつたのである。そしてこの時代は又個人主義的婚姻形態の發生期でもあつたのである。だから吾々は性の自由と資本主義との間には切つても切れぬ關聯のあることを見逃してはならない。實に性的自由の思想は資本主義と共に發生し、資本主義と共に發展し、資本主義と共に爛熟したのである。そうして現代は資本主義の爛熟期であると共に、また性的自由思想の爛熟期でもある。だから法律も或る程度まではこの思想を承認して、自由主義の上に性の秩序を再建するの外はないのである。

一一 中川教授に答へる

 身分法學の權威中川善之助教授から懇篤な批評(法律時報二卷十一月號)を受けえたのは『婚姻法の近代化』の著者の大いに光榮とする所ではあるが、氏の批評の語中には著者として到底承服しかねる點があるので、簡單に答辯の筆を執る。

 第一は法律史研究の方法に關してであるが、氏は私に向つて『イギリスの法制史に對してもう少し觀慮を拂つて貰ひたい』といふ注文を附せられた。しかし氏は、私の著書が元來西洋法律史講義の臺本であるといふことを承知してをられる筈であるが(婚姻法の近代化の序參照)、氏は西洋法律史といふ學科の任務がいつたいどこにあると考へてをられるのであらうか?

 私見によれば日本で西洋法律史といつてゐる學科はアメリカで歐洲法律史(European legal history)又は大陸法律史(Continental legal history)といつてゐる・あの學科に相當し、ローマ滅亡の後における歐洲大陸諸國の法律上の變遷を叙述することを以てその任務とする。だからそれは第一にローマ法史を除外せねばならぬごとく、第二には英法史をもその取扱から除外せねばならぬのである。けだし英法の内容とその組立て方とは大陸法から著しく異るものあり、その發達の道程も大陸法のそれとは決して平行的ではないので、英法史はこれを獨立の一科として別個に取扱ふことを適當とするからである。ドイツにおいても歐洲全體の法律史を一般的に講述するの要を説く學者はないでもないが、この人達の學的プランも、ローマ滅亡後における大陸諸國の法律史を一般的に取扱はうといふに止る。英法史をも併せ含ましめよとまでは主張してをらぬやうである。で私もまた西洋法律史講義の中からはローマ法史と英法史とはこれを除外することにしてゐるが、この處置がそんなに不合理なものなのであらうか。

 なほ氏は英法史併述の必要を説かれた際、一例として『例へば傍系姻族との婚姻故障の記述などにも是非ともDeceased Wife's Mariage Actの一瞥ぐらゐはして貰ひたかつた』といはれたが、私はこの法律は佛獨等の大陸立法に對して何等影響的には作用しなかつたと見たので、實は私も舊著『婚姻立法における二主義の抗爭』のなかにおいては、氏の御注文通り、これにつき『一瞥』を投げてゐたのを(二主義の抗爭八五頁)、新著『婚姻法の近代化』のなかからはわざわざ削除し去つたのである。

 第二は日本法律史との關係に關してであるが、氏は『日本婚姻法の因素の複雜性』といふことを説かれ、日本現行の婚姻法の史的背景は西洋法律史的素材のみを以てしては説明し盡くすことをえず、同時に日本固有法上の素材にも依ることを要すといはれたが、余は疑ふ、日本現行の婚姻法のなかにどれだけ多くの固有法的エレメントがあるであらうかと。そこには實にローマ法に淵源する規定あり、ゲルマン法殊にザクセン法に淵源する規定あり、教會法殊に舊教會法に淵源する規定に至つては最も多々あるが、日本固有法に基く規定と認むべきものは、家に關するもの・入夫に關するもの・繼母に關するもの等二三を除けば、殆ど空無に近いではなからうか。だとすると日本現行の婚姻法に對して史的説明を加へんと欲せば、是非とも西洋法律史的材料に依ることを要する。日本法律史的材料を以てしては全くどうすることもできないが、西洋法律史的材料を以てすると、全條規の九〇パーセント以上を説明し能ふと余はひそかに考へてゐるものなのである。

 なほ序だから余の史的叙述の形式について一言を添へるならば、余が『婚姻法の近代化』において執つたのは、いはゆる法規史(Gesetzesgeschichte)の形式であつた。法規史とは條文史のことである。即ち民法に關していふならば現行民法法典の中から一々の條規をとらへて、いつそれがどこで出來たか、ドイツで出來たかフランスで出來たか、ローマ法に淵源するかゲルマン法に由來するか、成立後それはいかなる轉化の線を縫うて現在の形態にまで進化したかを逐條的に吟味して行かうとするものである。かかる方法の是非については論議の餘地もあることながら、大なり小なりそれが法律史叙述の最新型として認められつつあることは事實である。だから余はいまこの嶄新の方法を日本婚姻法の領域内において試用してみたのである。即ち日本婚姻法を構成してゐる全條規の中から、西洋傳承の條規のみを抽出して、いつそれがどこで出來、どう變化して以て現前の形態に到達したかを一々跡づけ、一々系統づけてみようとしたのである。けだし法規史的叙述の是非を云爲する人は多々あるが、この叙述形式を具體的に示してくれた作品は、西洋においてもあまり多くは見受けない。だから余が敢へてみづから揣らず、この新方法を日本婚姻法の説明に試用するのも決して意味なきことにあらずと考へたからである。

 評者がもし右のやうな拙著の方法論上の特色に對して充分な認識をもたれたならば、著者に對して日本法律史に考慮を拂へなどといふ注文は發せられずに濟んだであらう。なぜかなら『婚姻法の近代化』は法規史である。從つてそれは一々の條規についてその系圖調べをなすことを以てその任とするものである。がしかしそれは同時に西洋法律史學の一科としての制約を受けてゐる。從つて日本婚姻法の規定中その淵源の日本國有法上にあるものは、しばらくこれを除外するの外はないからである。そしてこれを除外しても全條規の九〇%以上の説明に成功しうるからである。

 第三の注意として、氏は私に『内史外史の隔壁をあまりに嚴格に立てぬやうに』、『もう少しでよいから外史の參酌を加へるやうに』と望まれた。しかし内史外史の語下に何を氏が意味してをられるのか、どうもその邊が私に明かでない。普通ならば外史(äussere Rechtsgeschichte)とは立法形式の變遷即ち法源史のことであり、内史(innere Rechtsgeschichte)とは立法内容の變遷即ち狹義の法律史のことなのであるが、氏の場合はかかる專門的意味においての語の使用ではないらしい。行文の前後から推すと、氏の外史とは、『法の社會史』(Sozialgeschichte des Rechts)の意味であるらしい。即ち氏が私にもつと外史に注意を拂へといはれるのは、法の變遷そのものだけを分離して取扱はず、これを社會の變遷や經濟の變化と結びつけて考究せよといふ意味であるらしい。だとすると私においても異説のあらう筈はない。私は氏のごとき法律社會學の研究家のよき指導の下に、『法の社會史』の研究に努力してみたいと平素から考へてゐるものなのだからである。

 第四はロシヤの離婚法に關してであるが、氏は私がロシヤの離婚法を論じた際、一九二一年九月二十七日の法律を引用しておいたのを非常に非難せられ、『引用條文は二一年の法典になつて居るが、一九二六年に婚姻法は大改革を受け、離婚法は不定原因主義どころか全く無方式な自由離婚制に變つて居る。行文の調子ややもすれば讀者をして現行法を説けるものとの誤解に陷らしむる虞なしとしない。改版の折の附記を希望する』といはれた。しかしかういふ批評は著者にとり少しく迷惑であるのである。

 なぜかといふと、かやうな批評は『婚姻法の近代化』の著者が迂闊にも一九二六年におけるロシヤ婚姻法の大改革を知らずにゐたとの印象を人に與へずにはおかぬとおもふからである。著者不敏といへども一九二六年の改革を知らずにゐようか。現に『婚姻法の近代化』の六一頁『無登録婚』の節下においては、一九二六年十一月十九日の法律を引用してゐるではないか。

 だから問題は無登録婚の場合には一九二六年の新法を引用しておきながら、なぜ離婚法の場合には一九二一年の舊法を引用したかといふことになるのだが、これへの答は簡單に濟む。他なし、一九二六年の新法は一九二一年の舊法に多大の改正を加へはしたが、裁判離婚と協議離婚とに關する限りは、別段の改正もなくして濟んだからである。われらはいま新法の十八條において『婚姻は當事者双方の合意によりても、また當事者一方の意思のみによりても、解消されうる』といふ規定を見出すが、同じ規定は舊法の八十七條においても發見しうるのである。だから私がこの場合に舊法を引用しておいたのは誤りでも何でもない。新舊二法の間に變化のない場合には、舊法を引用しておくのが史的叙述として通常の行方であるのだから。

 なほ氏は今のロシヤでは『全く無方式な自由離婚制が行はれてゐる』といはれたが、かういふ言ひ方こそ『讀者をして誤解に陷らしむる虞』があるのである。なぜかといふと二一年の舊法および二六年の新法は、共に離婚に(一)當事者双方の合意に基く離婚と(二)當事者一方の希望のみに基く離婚とを認めてゐるが、兩者とも『全く無方式な自由離婚制』ではないからである。

 まづ當事者双方の合意に基く離婚即ち協議離婚の手續を見ると、當事者双方が文書又は口頭を以て身分吏(いはゆるS.A.G.S.)又は裁判所(Volksgericht)へ離婚を申述する。身分吏がこの申述を受けた場合には、當事者双方を出頭させ、離婚につき當事者間に眞に完全なる意思の一致ありしや否やを審査し、眞に完全なる意思の一致ありたりとの確信をえたるときにかぎり離婚を登録する。而してこの登録に因り離婚は行はれたと看做されることになつてゐるのであるから、それは『全く無方式な自由離婚制』どころではない。わが日本の協議離婚などよりははるかに面倒な方式を要求してゐるのである。

 次に當事者一方の希望に基く離婚の方はと見ると、この場合には希望者は自己又は相手方の住所地を管轄する人民裁判所(Volksgericht)へ、やはり文書又は口頭を以て離婚の希望を申述する。さうすると裁判所は期日を指定して兩當事者又はその代理人を呼出し、公開の口頭辯論を開いてから決定を以て離婚を言渡し、その決定謄本を身分吏に送付するといふ順序をとるのである。だからやはりこの場合だつて、『全く無方式な自由離婚制』ではありはしない。

 たゞ一つ『全く無方式な自由離婚制』といつてもいいのは私的離婚(Privatscheidung)の方法だけである。この方法はおもに無登録婚(nichtregistrierte Ehe)の場合に利用せらるべく、二十六年の改正法が新たに設けたところのものであつた。けだし二十六年の改正法は婚姻の一種類として無登録婚なるものを認めはしたが、この婚姻には登録がないのだから、登録の抹消を目的とするやうな離婚手續はこの婚姻には利用すべくもない。よつて改正法は上述二通りの離婚方法の外に、もう一本新しい離婚方法を置く必要を感じ、私的離婚なるものを設けたのである。そしてこの離婚の場合には當事者は身分吏や裁判所の協力をうることを要せず、單に離婚の意思(Scheidungswille)を以て同棲の廢止を實行すれば足るとしたのである。だからこれこそは正に『全く無方式な自由離婚制』の名に値ひするが、しかしこれはおもに無登録婚において利用される手續に過ぎない。

 而してこの無登録婚については、私自身が二十六年の改正法を引用しつつ『婚姻法の近代化』の六十頁以下において詳しく説明してゐるといふことを附記したい。

 第五は婚約の歴史に關してであるが、私が現代の婚約法はローマ法を基礎とすると書いたのに對して、氏はローマの婚約が近代婚約法の基礎となつたのではなくて、教會のSponsalia de futuroが模範となつたのだといはれた。しかもその際、氏は何らの論據も示されない、何らの典據も擧げられない。ただ天下り的に教會のSponsalia de futuroが現代婚約法の模範なのだと教へられるだけである。

 しかし私にはどうもさうは考へられない。なぜかといふとSponsalia de futuroの特色は、これを約した男女が本契約たる婚姻締結行爲を省略して、直ちに正式の夫婦生活に入りうる點にある。即ち普通の男女ならば、もし彼等が方式に從ふ婚姻締結の行爲をなさずして直ちに同棲に入るならば、不法の野合者と見られてしまふであらうのに、Sponsalia de futuroを前以て約しておいた男女ならばさうは見られず、却つて正式の結婚者と見られるといふ點に、Sponsalia de futuroの特色はあるのである。だからそれは近代の婚約とは全く性質を異にする。近代の婚約は「婚姻締結行爲の省略」を效果せず、婚約者が直ちに同棲に入つた場合にも決してこれを結婚とは見ぬからである。二者斯くのごとくにその性質を異にする以上、一が他の模倣となり、先型となつたとはどうしても考へられえぬ筈ではないか。

 事實上の連路からいつてもSponsalia de futuroは近代法との間に連路を缺く。けだし舊教會はTrientの宗教會議においてこの制度を廢止してしまつたし、新教會もJust Henning Bömherの時代にこの制度を棄ててしまつたからである。だから教會法上のSponsalia de futuroが、近代婚的法の先型であるなどといふ説は私には異説としてしか響かない。氏はそもそもどのやうな根據から、かかる説をとられたのであらうか、その根據を教へられんことを望む。

 なほ氏は婚約の問題に關連してローマ法にまで論及せられ、ローマには婚約に基く引渡の訴がactio et sponsuとして許されてゐたといはれた。しかし私が『婚姻法の近代化』において問題としたローマ法は、クラシツク期におけるローマ法である(婚姻法の近代化九頁)。けだしローマ法のやうな上下數千載に亘る長歴史を「時代」を限定せずに云爲するといふことは意味がない。必ずや一定の時期を劃し、その時期における法律状態だけを問題とする必要があるからである。從つて今の場合、問題はクラシツク期のローマ法においてもactio et sponsuが存在してゐたかといふことになるのであるが、この訴がクラシツク期よりも遙か以前においてその姿を沒し去つてゐたといふことは、ローマ法學者の間の通説ではないだらうか。氏はしかしクラシツク期においてもなほactio et sponsuが存在してゐたと見られるのであらうか。

 かやうに折角評者から送られた御注意にも從ひえず、そのまま自己を守りつづけねばならぬといふのは著者の遺憾でなければならない。

一二 大學の本質

 近世國家の特色の一つは國民に國法を批議することを許してゐる點にある。即ち近世の國家は一方においては既存の諸制度・諸規範を國民に押しつけ、嚴重にこれを遵奉させてゐると同時に、他方においては國民をして國家の諸制度・諸施設を自由に研究させ、批評させてゐるのである。これは文化の進展・社會の發達のためには、國民をして既存の諸制度へ服從させる必要があるばかりでなく、他方またそれらに對して批判と改革とを加へんとする精神をも有せしめねばならないとの見地からである。けだし批判と服從とは矛盾しない。人は克く批判しながら克く服從することができ、克く遵奉しながら克く改革することができるのである。近世國家のごとき進歩の急激な社會においては、一切の事物に對して不斷の改正を加へる必要があり、國家の諸制度に對してもやはりその必要があるのであるが、そのためには一般國民に對して批判の自由を許しておかなければならない。實に反抗的な批判者は盲目的な遵守者よりも、時として國家の進運へ、より積極的に寄與しうるのである。

 そこで近世の國家は廣く人民一般へ言論の自由を保證し、自由に國政を批判させてゐるのであるが、しかしこれを人民一般の自由討究のみへ委ねておくのは批判の充全をかちうるゆゑんでない。批判の充全と研究の周到とをかちえようとおもへば、その上に別に批判と研究とを以て職責となすものを、國家自身の機關として裝置し、これに眞理の探求を命じておく必要があるのである。すなはちその職責として眞理の探求に當る者を國家自身の機關として裝置しておく必要があるのである——大學はすなはちさういふ眞理探求の機關である。

 實に大學の使命・大學教授の職責は眞理の探究にある。一般人にとつては眞理の探究は『天然の自由』に過ぎないが、大學教授に對してはそれは『職責』であるのである。彼は一方國家の忠良な臣民として國家の定立せる諸制度・諸規範を敬虔に遵守すると同時に、他面その職責として、國家の定立せる諸制度・諸秩序に對して批判と解剖の刄を向けるのである。むかし支那に『諫官』といふ制度があつた。彼はその職責として君主の過失の諫正に當つてゐたのであるが、今日の大學教授も諫官と相似た任務を負はされてゐるのである。彼等はその研究を以て、その批判を以て、即ちある意味ではその反抗を以て、國運の伸展を扶翼すべき職責を擔つてゐるのである。

 大學とちやうど對蹠的立場に立つものとして『神學校』なるものがある。神學校は教會の批判者でなくて辯護者である。反抗者でなくて阿諛者である。彼等は教會の制度・教説・傳承を初めから正當なもの・完全なもの・善美なものとして獨斷的に前定し、信仰的に豫斷する。そうして教會制度の中において事實上見出される善美なものを一層誇大に宣揚し、事實上その中に潜んでゐる善美ならざるものを故意に隱蔽し、かくして教會の全秩序を金色燦爛たるものに塗上げてしまふのである。大學の學問が批判的・科學的である間に、神學校の學問は信仰的・獨斷的である。大學の學問が『自由の學』であり、時としては『反抗の學』である間に、神學校の學問は常に『拘束の學』であり、『服從の學』である。だから大學から自由を奪はうとする企ては、大學を變じて神學校たらしめんとするものに外ならぬともいへるのである。

 ヨーロツパにおいて大學の發達を見たのは十五・六世紀以後であつた。大學は實に『近世の兒』であつたのである。議會が近世の兒であり、裁判所が近世の兒であるやうに、大學もまた近世の兒であつたのである。封建時代には議會らしい議會なく、裁判所らしい裁判所もなかつたやうに、大學らしい大學もなかつたのである。

 實に議會・裁判所・大學の三者は、近世の批判的精神・自由精神を共通の母胎として生れ出た。そして三者ともに批判を以て、時としては『反抗』を以て、國家の進運に貢献して來たのである。

 ゆゑに議會を擁護し、裁判所を擁護し、言論の自由を擁護しようとする者は、大學の自由をも擁護しなければならない。大學の自由を否定しようとする思想のなかには、議會否認・裁判所否認の思想と同一のものが潜んでゐるのである。

一三 大學閉鎖の前提

       ——瀧川教授の問題——

 瀧川教授の『刑法講義』及び『刑法讀本』が發禁になつたと聞いたときには、私はまづ自分の耳を疑はざるをえなかつた。なぜかならば甞て右の二書を一讀したときの記憶をたどるに、その用語の少しく鋭利に過ぐるものなきやを感じた思出はあるが、その内容の『反社會性』を感じた覺えは遂になかつたからである。しかし内務省といふ所は著書の内容そのものよりも、著書が一般の讀者に及ぼす影響を考慮して發禁を命ずる所なのであるから、瀧川教授の右の二書も、或はそんな見地から見られて、發禁處分を受けたのかも知れないと考へ直して見た。同じ内容の思想でも平凡な文章で綴られると問題にならず、生氣横溢する文章で書かれると、得て問題となり易いものであるが、瀧川教授は少壯法律學者中の文章家として聞える人であるから、文勢の迸る所、遂に問題を起してしまつたのではないかとも考へて見たのである。

 さうかうするうちに今度は、文部省が同教授の進退を問題にしてゐるといふ記事が現はれ出したが、私はそのときにもその眞實性を疑はざるをえなかつた。なぜかなら著書の發禁と教授の進退とは全然別個の問題でなければならない。教授の進退は、一に彼が官制上その職責とされてゐるところのものに——即ち學問の研究に——忠實なりや否やを見て處斷せらるべきである。内務省が出版行政の見地から或る教授の著書を發禁にしたからといつて、文部省がその教授を罷免せねばならぬといふ道理はない。現にその著書を發禁にされた人にして、帝大教授の職に留つてゐるもの、一二にして止まらないではないか。

 新聞によると京大總長小西博士は文部省からの或る要求を婉曲に拒絶されたといふ。小西博士は我國教育學の大家であり、教育行政の經驗家でもある。何人から見たつて、穩健中正の意見の持主に相違ない。この人の判斷はこの國の教育界の代表的意見の現れと見てもいい位であるのである。もちろん總長は瀧川教授の著書を熟讀され、その爲人をも考へられた末、何等瀧川教授に危險性なしと斷じて、文部當局の右の要求を却けられたものであらう。だから私は、新聞が一時小西總長の『無事歸洛』を報じたときには、心からそれを文部當局のためにも喜んだのである。文部當局も總長の説明を聽いて瀧川氏につき意を安ずるに至つたものと心ひそかに想像したからである。

 然るにその後の新聞紙は、『文相の態度強硬』を傳へ出した。『拔打的に瀧川教授を休職さすだらう』などとも報じ出した。私には何が何だか分らなくなつた。

 しかし消息通は私に教へてくれる——『實は文部當局も腹の中では瀧川氏をそんなにまで危險な人物だと考へてゐるわけでもないが、少々そこに政治的な行掛りがある。即ち先達の議會で議員某々等が赤い教授を大學から一掃しろと文相へつめ寄つた。その際文相もつい釣込れて國家のため大いにやるとか何とかいつてしまつた。だから文相は今では勢ひ「國士」にならざるをえなくなり、大いにやるべく、まづ指を瀧川氏に染めたわけである』と。つまりこの説は文相今回の行動は著しく行掛り的であり、政治的であり、人氣取り的でもあるといふのである。

 しかし何がそもそも文部大臣の職責なのであらうか。事を大學だけに限つていへば、大學教授たちの官制上の職責たる『研究』を便宜にし、自由にし、外部からのそれに對する迫害を排除してやることこそが、文相たるものの職責の、しかも重なる一つではないだらうか。ちやうど司法大臣の職責が、外部からの干渉に對して司法權の獨立を擁護することに在るやうに、文部大臣の職責も、大學のために研究の自由を確保してやることに存しなければならぬであらう。種々の急進的思想團體の横行する現時において殊に然りである。彼等急進家の強要に聽從して學者征伐を企てるよりも、大學の學問のために彼等の強要を排撃してやる方が、どれだけ文部大臣的行動であるかも知れぬのである。

 尤も私は鳩山文相を以て、みだりに人の教唆に動かされて日本刀をふり廻す國士氣取りの危險な人物だなどとは考へてゐない。鳩山氏はその家系からいつたつて、教養からいつたつて、歴代文相中、大學に對して理解の最も深かるべき筈の人に相違ないからである。又私は現下の文部首腦部を以て、權柄づくで學者や學生を抑へようとばかりする舊式な官僚どもの集りだともおもつてはゐない。私は全く彼等の行政手腕に信頼したい氣持でゐるのである。タクトの秀でた行政技術者として彼等はきつと、將さに危く捲起らんとしつつある・學界未曾有の波瀾を、未發に防止してくれるだけの手腕を示してくれることだと大いに期待してゐるのである。

 血に狂ひ出すと一人だけでは鎭まらない。二人も三人も斬りたくなる。あんまり斬つてばかりゐると、教授達も遂には怒り出し、自衛上、共同戰線を布くやうになる。さうなると政府は益々血迷つて、遂には一大學の閉鎖を斷行し、進んでは全國的の大學閉鎖をも斷行するやうになる。先年スペインにその例があつた。スペインの獨裁官は、彼に反抗した諸大學に對して閉鎖を斷行したのである。しかし閉鎖斷行後間もなく、獨裁政府は顛覆してしまつた。そうして時の文相の政治的運命もその時限り閉鎖されてしまつた。

附言 右の一文は昭和八年五月十四日、即ち京大事件が未だほんの序幕の間にあつた間において、東京及び大阪朝日紙上に公にされた。京大事件に對する多數の論評のうち、恐らくは最初のものであつたであらう。

一四 鳩山さんの態度

 鳩山文相は五月十九日(昭和八年)、西下途上の車中談において、『瀧川教授の刑法讀本の發禁は僕がさせたのだ。僕が内務當局を動かして處分を斷行させたのだ』と語つてゐる(五月二十一日東朝)。これで見ると鳩山さんは瀧川氏を赤化教授として處分する前に、まづその著書の領布を禁止しておくといふ作戰をとられたことが明かである。まことに巧妙な戰術であつたといふの外はない。なぜならば最初に著書を發禁にしてしまへば、著者とその辯護者とは著者が『赤』でないといふ反證を、著書そのものの中から引用する自由を失つてしまふわけだし、從つて世間も問題の人が内心から本當に赤いのか、口唇だけが赤いのかを判定できなくなつてしまふわけだし(口唇だけならカフエーの女だつて赤い)、その間に『瀧川は赤いぞ赤いぞ』と官廳的宣傳を重ねてゐれば、世間も遂には眞にうけ、本當に瀧川は赤いのだと思ふやうにもならうといふものだからである。『臭い物に蓋』といふことは昔からあるが、臭いかどうか分らぬものに素早く蓋をして、この中に臭いものがあるぞあるぞと宣傳する戰法もあるものだといふことを、今度初めてわれわれは文政當局のやり口から學んだのである。

 とにかくかやうにして瀧川氏の背中には『赤』のマークが有權的に貼付けられてしまつた。氏及び氏の辯護人は全く反駁の手を封じられてしまつた。鳩山さんとしては開戰以前に戰略上の重要地點をいち早く占據しておいたといふ機敏さであつた。

 が、それにしても不可解だつたのは、發禁處分が著書刊行の日から數へてあまりにも遲れ過ぎてゐたことであつた。刑法讀本の發行は昭和七年六月であるから、その發禁は十ケ月後の處分であり、改訂版刑法講義の發行は昭和五年六月であるから、その發禁は二年十ケ月後の處分である。原版刑法講義の發行(昭和四年五月)から起算すると約四年後の處分である。どうしてかうも長い間危險なしと認められ來つたところの出版物が本年二・三月の頃——即ち議會で某々代議士等が赤化教授を大學から追へと大見得を切つた頃から——俄かに危險物に一變してしまつたのであらうか、その邊が私等にはとんと納得でき兼ねるのである。

 文部次官粟屋氏はさすがに正直である。氏は新聞記者にかう話してゐる——『瀧川教授の學説は過般の議會で問題となり、閣議でも同教授を退職させることに方針の一定を見てをるのである』と(五月十二日河北)。これから推すと瀧川氏退職の方針だけは、政治的に早くから決定したものとおもはれるのである。未だ京大への交渉の開始されざる以前において、すでに決定してゐたものと見られるのである。だから京大側が文部當局に向つて、瀧川教授退職の理由なきことを繰りかへし卷きかへし主張し説明したことなどは、今にして想へば全く一つの無駄事ではあつたのであつた。瀧川氏を退職させるといふ肚は、本省として初めから政治的に一定してゐたのであつたから。當時の文部當局に向つて理窟をいふのは自然現象に向つて理窟をいふのと一般であつたであらう。

 がそれにしてもあまりにも勇敢だつたのは鳩山さんの態度であつた。氏は五月六日、新聞記者に對して、『連袂辭職結構、大學閉鎖も辭しない』といつてゐる。五月六日といへば小西總長の公式回答に先つこと十六日、そのときすでに京大教授團は毅然として職責に倒れるの覺悟は決めてゐたといふものの、なほ表面上は靜かなること林のごとき姿勢を保つてゐた・まことにデリケートな瞬間であつたのであるから、責任ある當局者としては力めてその言動を愼重にすべき所であつたらうに、鳩山さんと來ては、いたづらに京大側の感情を昂ぶらせるやうな言辭ばかり弄されたのである。その後も『斷じて讓らぬ』とか(五月二十一日東日)『どこまでも處分する』とか(五月二十一日河北)、大見得の張り通しであつた。外部から見てゐるわれわれには、抑もこの大臣の目的は起きた事件を鎭めようとするところにあるのか、乃至は一つ大見得でも切つて大向ふをアツといはせ、この頃流行のフアツシヨ的風雲にでも乘じようとするところにあるのか、ちよつとわかりかねる程亂暴であつた。さうしてとうとう總長具状權の蹂躪・大學官制の破壞といふ前代未聞の荒仕事までしでかしてしまつたのである。

 最近に至つてもなほ鳩山さんは、『大學令の改正も辭しない』(五月三十一日東朝)などと、相變らず元氣である。しかしこれなどはたしかに一つの失言であらう。なぜかなら大學令は省令ではなくて勅令である。勅令は文相の勝手に改正できる性質のものではない。文相は天皇の下にあることを忘れてはならぬのである。もちろんわれわれは、他人のちよつとした言葉尻などをとらへて赤いの、危險だのと騷ぎ立てるやうなことは決してせぬからいいやうなものの、世間には大學教授の著書まで探偵的に調べ上げ、やれ『某は赤いから馘にしろ』の、やれ『某は危險だから處分しろ』のと、當局へ嗷訴してくる山法師みたいな連中もあるといふことを、誰よりも鳩山文相は承知してをられる筈だ。もし文相の失言がこんな山法師連の耳にでも入り、『文相は天皇の下にあることを忘れたか』などとつめ寄せられたらどうなさる?

 結局今度の事件で徹頭徹尾われわれに不可解だつたのは鳩山氏の行動々機であつた。氏はそもそもどんな動機からあのやうな破壞作用を京大法學部の上へ加へてしまつたのであらうか。京大法學部がこの國の法律學の花園の最も美しきものの一つであるといふこと位は氏といへども心得てをられたところであらう。過去においてこの大學はこの國の法律學を學問的に深遠化さす上において類ひ稀なる貢献を重ねて來た。この大學を根據として研究し講義し來つた學者たちの業蹟を無視しては、この國の法律學の發達史はどうしても書くことができぬのである。現在においてもこの大學はこの國の理論法學の本營となつてゐる。佐々木惣一・竹田省・宮本英雄・瀧川幸辰・森口繁治・田村徳治・恒藤恭・末川博等々の固有名詞を除外しては、この國の理論法學は全く語ることができぬのである。だから鳩山氏今回の行動は決して輕視することができない。それは京大法學部の恰も『精神』を構成してゐる部分を破壞したものであり、又この國の理論法學の中樞を攪亂したものでもあるから。吾等は一個の政治家の輕率な行動がいかに一國文運の消長に影響するに足るかといふ生きた一例を鳩山氏今回の行動から知つたのである。

一五 一つの愚痴

 大正六年四月京大法學部内に『法律研究會』といふ年若い研究生ばかりを會員にした一つの學會が誕生した。會員は宮本英雄・瀧川幸辰・森口繁治・田村徳治・小粟栖國道・恒藤恭・末川博・井上直三郎及び筆者の九名だつた。月二回會合してまづ當番の者の研究報告を聽き、それから大いに議論し合ふといふ例であつたが、會員たちはみづから大いに恃む所があつたと同時に他人の學問的長所をも充分に認め合つてゐた仲だつたから、議論の白熱化にも拘らず氣分はいつも和やかであつた。それは殆ど理想的な學會氣分であつたと、今でも私は思つてゐるのである。會員各自の研究方針はその頃からもう後年の學風の相異を豫示するかのやうに相異はしてゐたが、さすがそこに共通の傾向も流れてゐた。思索に徹底しようとする態度・理論的に確實に構成しようとする傾向・傳統を打破つて新學問を建設しようとする意氣込みなど。

 筆者を除いた會員の全部はその後みな母校の教授となり、實に又、そこでの花形教授となられた。そして世に『京都學派』と呼ばれ、『理論法學派』とも謳はれた精嚴無比な法律學の建設に成功しえたのであつた。それはたしかにこの國における法律學の進歩に一エポツクを劃した・いい意味での一學派の建設ではあつたのである。

 みちのくの東北大學に在職してゐる私は、生家の繁榮を鼻にかける嫁女のやうに、母校における舊友たちの活動ぶりをいつも自慢にすることができた。

 しかし昨年の事件は舊法律研究會々員の全部を京大から洗ひ流してしまつた。小栗栖國道君だけは早く歿してこの世になかつたが、純な性情の君だつたから、生きてゐたらきつと舊友たちとその行動を共にしてくれたであらう。

 京大はあまりにも俄かに寂しくなつた。『ちやうど出羽海部屋の出てゐない國技館のやうだ』とは當時よく耳にした評語であつた。幸に殘留當局の大なる努力は各地方から村相撲の尤なるものをかき集めることに成功はしたらしいが、再建された京大の内容は、以前のものとは異つてゐる。これがたつた一年間の變化かと驚かれるばかりである。

 なつかしい吉田の町を通ると、人手に渡つた故郷の生家の門前を過ぎるやうな氣がする。寂しいといふよりも怨めしいといつた感じである。

 この感じは僕一人のものなのであらうか。

一六 論壇時報(一)

 七月十五日(昭和八年)の東朝を見ると三木清氏がいつてゐる——『フアツシヨに對する自由な批評は許されてゐない。軍部に對する・戰爭に對する・滿洲事件に對する等々の忌憚なき批評は決して許されてゐない』と。フアツシヨといひ、軍部といひ、戰爭といひ、滿洲事件といひ、いづれも現代の最大關心事であり、現代はこれらの問題に對して忌憚なき自由批評・精確なる科學的判斷の爲されることを待望してゐる次第であるのに、生憎とそれらが禁じられてゐるといふのだから失望である。ジヤーナリズムとしては顧みて他をいふといふ手もあるであらうが、讀者としては注文した料理の代りに好みもせぬ食物を喰はされてゐるといつた感が先立つのである。必然の結果として此頃の新聞雜誌はどれを見てもあまり面白くないが、面白いものは書けぬのだとあれば、これもまた止むことをえぬのである。

 八月號(昭和八年)の諸雜誌にだつて活溌な記事などは見られない。誌面は有意的な沈默を以て滿たされてゐる。だから評者としても無理に興味をそそり立てて、少數のものにつき短評を試みるの外はないのである。

 末弘嚴太郎氏・『著作權は差押へ得るか』(中央公論)

 末弘博士はこの數年來、本格的な法律論文は出されてゐない。時々專門雜誌に發表される論文も、大抵は才氣と頭と思付とで書飛ばされたもので、刻苦研究の成果ではない。だから學界においては博士を以てすでに學界から隱退された人と見てゐるが、斷じて私はさうは考へない。博士の作品を學術的でないと見る人は、ドイツ語の文獻を多數引用してありさへすれば學術的論文だと考へる連中である。由來法律學は判斷の學である。いくら博識家でも多讀家でも、生きた社會事象に對して正確な法的判噺を下す才がなければ、いい法律家とはいへぬのである。末弘博士のごときは明斷敏決、稀に見る法律學才の人といつていいであらう。

 この論文は著作權の差押性に關するもの。適切妥當の見解を平易簡明に述べてをられる。博士のこの種の文章の中でも傑作の一に數へらるべきものであらう。

 牧野英一・『法律における轉回現象』(經濟往來)

 牧野博士はわが國法律學の總帥である。少くとも御自身はさう信じてをられるであらう。博士の視野は廣く大きい。刑法學はその專門領域だが、博士は屡々刑法をお留守にして民法學・法理學等の分野へも突進される。博士からすれば刑法の領域は乃公の大を容るべくあまり狹隘なのであらう。しかし博士がしばし刑法をお留守にしてゐる間に、博士の領地は瀧川・小野・木村の新進學徒によつてすつかり荒されてしまつた。敗け嫌ひな先生がどうしてこれを坐視してゐられやう。忽ち馬首を回らして本城を敵の重圍から救出し、ともかくも牧野刑法の威容を回復する。しかし戰况やや有利と見ると、再び城を出でて民法論や法理論の方面に進出し、いい氣持で氣焔を擧げてゐるといつた式である。

 ともかくも華麗な存在である。大袈裟な・そして多分先生を喜ばすやうな言ひ方をして見ると——『日本新進の法律學者は全部先生の指揮棒の下に演奏してゐるのである』。

 この論文は最近における民刑法上の立法及び判例の趨向を論じられたもの。例ののびのびした・あまりに間伸びして要旨の一寸つかみにくい名文章で暢達に説明してをられる。

 末弘・牧野二博士の論文を批判しようとして書いてゐる間に、ペンは思はず滑つて二博士の人物論となつてしまつた。二博士に謝す。

 美濃部達吉・『京大法學部の壞滅の危機』(中央公論)

 京大問題に關する美濃部博士の意見發表はさすがに千金の重みがあつた。博士は政府が無謀にも京大總長の意見に反して瀧川教授の處分を決行せんとした際、いかに政府の處置の大學破壞であり、官制蹂躪であるかを明瞭に指摘されたのであつたが、いま又政府が辭表提出中の十六教授の中から強硬派と目される六教授だけを分離して懲戒的意味の罷免を斷行したのに對し痛憤措く能はず、大いに當局の非を鳴らし、『われわれは唯天を仰いで嘆ずるのみ』といつてをられる。自由主義者美濃部の面目躍如としてここに躍つてゐるのを見るのである。

 横田喜三郎・『京大問題を眞に解決するの道』(中央公論)

 東大の精鋭横田喜三郎氏は京大問題解決の道を論じてをられる。曰く『罷免は單なる彈壓であつて解決でもなんでもない。文部當局以外何人も罷免を解決だとは考へてゐないであらう。いな文部當局みづからもそれを解決だとは思つてゐないだらう』と。又曰く『眞の解決の道は一つしかありえない。それは大學に當然認めらるべきものを認めることだ。學問の自由と大學の自治を認めることだ。その具體的の方法として大學官制を尊重し總長の具状を承認することだ』と。所論痛烈骨に徹る。京大問題につき意見多く出た中で壓卷は横田氏の本論文であつた。

 恒藤恭・『總長と教授と學生大衆』(文藝春秋)

 同氏・『或る京大學生に送る書信』(改造)

 法理學者としての恒藤恭はその學殖の豊富・知識の深遠・考察の鋭利において實にナンバーワンである。假りに彼の全作物が歐洲語で發表されてゐたとしたら、とうに彼は世界的法理學者の榮名を獲得してゐたでもあらうと思はれる・ことほど左樣に、彼は日本の學者的地平線を抽んでてゐるのである。他面彼は又非凡なジヤーナリストでもある。文品あまりに高きに過ぎて一般大衆の喝采を博しうる可能性には乏しいが、高級な讀者層は彼において好箇の哲學的評論家を見出しうるであらう。今度の京大事件に原因して彼は京大を去ることになつたが、將來の彼はジヤーナリズム檀上において華々しい活動を示すやうになるかも知れない。

 八月號の文藝春秋には彼は『總長と教授と學生大衆』を書き、改造へは『ある京大學生に送る書信』を寄せてゐる。前者は京大學生が今度の事件に當つていかに理あり熱あり華もある大活動をなしたかを述べたもの。後者は暑休に入つてからの問題の進行ぶりを學生への書信の形式で述べたもの。人一倍正義感の強い彼の性格が美しい文章の間に流れ出てゐる。

 佐野學『コミンターンとの袂別』(改造)

 佐野氏轉向の聲明『コミンターンとの袂別』を讀まうとしてページを開いたとき、私は冒頭に掲げられた彼の寫眞を見た。數分間私はそれに見入つた。思出は忽ち飛んで彼と私との學窓時代の交情に及んだ。彼の肖像には廿年前の彼の面ざしがそのまま殘つてゐるではないか。七高の獨法科において三年間私は彼と机を並べた。二人は友人中の友人であつた。私は彼を信じ私も彼に許した。二人は相互に善友であるよりも惡友であつたであらう。その頃の私の放埓ぶりを思ひ出すと、大抵はワキ師として佐野がゐる。二人は旅蕩費を共産してゐた。彼になければ私が調達し、私になければ彼が無理算段してくれた。よく二人は喧嘩もした。しかしすぐに又仲直りしてしまふのであつた。私は單なる怠け者に過ぎなかったが、彼は同時に新刊書の熱心なる耽讀者でもあつた。そのころの彼は若竹のやうなのびのびした柔かい未來性を示してゐたのであつた。その後私は學問において彼と專攻を異にし、思想において彼と信ずるところを異にするやうになり、往來も絶えてしまつたが、しかし私の胸には『人間佐野學』がいつまでも生きてゐた。あの純な眞直ぐな若竹のやうないい性格がその後變化したらうとは考へられない。今度彼は『その理論及び信念上重大な轉換を行つた。コミンテルンの原則及び組織そのものが來たりつつある日本社會の變革に決定的に不適合であることを知つた』として、永年住み慣れたコミンテルンの陣營から離れてしまつた。世上往々彼の轉換のあまりにもラヂカルなのを見て、その動機の純粹性を疑ひ、彼の轉向は『無期懲役の重刑を輕減してもらうための戰術的擬裝』だなどといふやうであるが、しかし彼はいつてゐる、『私は斷じて日本勞働者階級の背教者ではない』と。私は彼の爲人を知るがゆゑに彼の言をも信じたいのである。

一七 論壇時報(二)

 毎月十九日の東京諸新聞は、改造・中央公論・日本評論等の新號廣告で飾られる。廣告を通して新號雜誌の内容を窺ふと、その題目は非常に多岐に分れ、多方面に觸れてゐるやうであるが、少しくそれに整序を加へ分類を施してみると、だいたい、四五乃至七八の主要テーマに類別されてしまふやうである。ところでその四五乃至七八の主要テーマといふのが、恰もその月の社會意識の渦卷の渦點を示してゐるのだから馬鹿には出來ない。雜誌編輯者の鋭敏な社會センスが、その月における社會的關心の所在點を素早くキヤツチして、それを誌面へ活躍させてくれるのであるから、われら一般人は誌面を通して社會がいま何に關心し、何を考へ、何を欲してゐるかを學び取りうるわけであるが、その際、誌面に現はれたテーマ相互の間に一定の聯絡の發見できることもあり、さうでないこともある。後者はすなはち社會が數個のテーマの間に輕重の別を立てず、平等にそれを見てゐる場合であり、前者は社會が數個のテーマの中の一つを特に重んじ、それへの下屬關係において他のテーマへも興味を寄せてゐる場合である。ちやうど個人の意識内において數個の動機が同じ重さにおいて競在してゐる場合があり、一が主位に立つて他を支配し引率してゐる場合もあるのと同樣の關係だ。

 では十二月號(昭和十年)の諸雜誌の内容はどんな主要テーマに分類されうるであらうか。

 先づ(一)中央公論は『動搖渦中の支那』の題下に數氏の論文を盛り、日本評論も『燃えあがる支那問題』の題下に同じ企てを試み、文藝春秋も『動く支那』を特輯し、改造も『北支經略』を特輯してゐる。吾等はこれによつていかに北支那の空を襲つた黒雲の脅威がこの國現下の主要關心事となつてゐるかを知ることができるのである。

 次に(二)改造では佐々弘雄氏が『後繼内閣論』を書き、日本評論では蝋山政道氏が『國策機構の系統化』を説き、文藝春秋では久原房之助氏が『重臣政治の沒落』を論じてゐるが、これらはみなこの國最近の帝國主義的飛躍に伴つて生じた國内政治機構改革の問題に絡みをもつ論文だと斷じても大過はないであらう。又(三)中央公論においては森戸辰男氏が例によつて大學の顛落を嘆き、日本評論においては土方成美氏が日本精神と經濟生活との間にも密接不離な關係があるといふ少しく珍な論文を書かれ、その他日本哲學の成立を取扱つた論文なども二三見られるが、これらがフアツシヨ政治の進展に伴ふ教學刷新の問題を主題とし、若くはそれを契機として現はれたものであることはいふを俟たない。

 むろんそこにはまた(四)この國の帝國主義的政策の遂行に對する危惧の念・憂慮の情も一つの聲となつて聞えては來る。例へば軍事豫算の性質を鋭く論じた鈴木茂三郎氏の論文(中央公論)、ムツソリーニを他山の石としてフアツシヨの前途を豫言した山川均氏の論文(改造)などがそれである。横田喜三郎氏も『侵略の防止・平和の確保』といふ聯盟精神の上に立つて、對伊制裁につき語つてをられる。

 しかし日本帝國主義の進展に伴ふ最重要の問題は、何といつても(五)農民問題でなければならない。けだし日本の農民は『日本帝國主義論』の著者サフアロフもいつてゐるやうに、日本帝國主義の支柱であり、保證であり、又その『裏庭』でもあるのであるから、日本帝國主義の進展に伴ひ、この『裏庭』が益々荒廢するか、又は荒廢から救はれるに至るかは、正に絶大の關心事とならざるをえないからである。よつて平野義太郎氏は改造において『半封建地代論』を書き、向坂逸郎氏は中央公論において『資本主義における構造的變化の問題』を書き、共にこの問題に對して洞見に滿ちた省察の跡を示された。

 最後にそこには又(六)日本帝國主義の進展を以てしても容易に解決を見るに至らざる一聯の社會問題、殊に就職問題が諸家の關心を惹いてゐる。土方成美氏『大學事務室から見た就職』(文藝春秋)、大森義太郎氏『映畫と學生』(改造)などがそれである。

 要するに十二月の論壇はこの國最近の帝國主義的邁進を中心的興味となし、これに伴ふ政治機構の改革や教學刷新の問題を論じ、さらに最も深刻には、日本帝國主義の封建的支柱たる農民の將來について想ひ惱んでゐるといつた形ちである。

 私は次に主要な主題についての主要な論文を批評することとしよう。

 平野義太郎・『半封建地代論』(改造)

 農村地代の性質に關する論爭はなかなか輕視されてはならない。それは決して單なる學理上の爭ひではなくて、實踐運動の方向へも係りをもつ論爭なのだからである。もし一派の論者のいはれるやうに、この國の農村地代がすでに資本制地代の性質を取つてゐるのだとするならば、農民解放の運動は、單に農民を資本制の重壓から解放すれば足ることとなるであらうが、他派の人々の考へられるやうに、この國の農村地代が今なほ封建地代の性質を脱却してをらぬのだとするならば、農民解放の運動は、資本制からの農民の解放だけでは足らず、同時にまた封建的土地所有の形態からの解放をも必要とするといふことになるであらう。單なる反資本主義運動で足らず同時に農奴制廢止の運動をも必要とするかどうか、實に地代の性質の論は農民解放運動の形態いかんの問題に直ちに接續してゐるのである。

 さて平野義太郎氏は周知のごとくいはゆる『封建派』の鬪將として、この國の土地所有が今日なほ封建的形態を脱せざること、地代もまた封建地代の範疇内に止つてゐることを久しい以前から主張されて來たのであつたが、今度の『半封建地代論』(改造)においては、封建地代と資本制地代とを分つ根本基準を論究しようとされるのである。

 その要旨を摘むと——資本制土地所有の下においては、農業勞働者と土地所有者との中間に農業企業者が介入して、利潤追求の目的のために自由なる農業賃勞働者を使用するのであるが、封建制土地所有の下においては、かかる農業企業者の介入なく、農業勞働者が直接的に土地所有者に對立するのである。ところが封建制下の農業勞働者即ち農奴は、資本制下の賃勞働者と異り、みづから土地を有し、農具を有し、みづからの利益のために經營を行ふ農業經營者であるのであるから、その經濟的地歩は賃銀勞働者のそれよりもはるかに安固である。從つて農奴からその剩餘勞働を吸取しようと欲する土地所有者は、吸取の目的のために何等かの強制手段、殊に政治的權力を用ゐざるをえなくなる。實に封建制度が農奴から自由を奪ひ、これを土地所有者に隷屬させてしまつたのは、本來的にはその經濟的地位の安固なる農奴から剩餘勞働を吸取するためには、かかる『經濟外の強制』を用ゐざるをえざる必要があるからである。即ち資本制下の賃勞働者は獨立の經營者でないがために經濟的に搾取されるに止るが、封建制下の農奴はたまたま獨立の經營者であるがために却つて經濟外の強制を受けるのであると。さうして氏は暗にこの國の農村地代が今なほ封建地代の範疇に屬すること、この國の政治が今なほ封建的權力組織の性質を脱せざることを示唆しようとしてをられるらしいのである。

 向坂逸郎・『構造變化論』(中央公論)

 平野氏を品隲すれば勢ひ向坂氏にも觸れたくなる。なぜならば向坂氏の『構造變化論』(中央公論)はこの國に今なほ殘存してゐる半農奴的農民が資本主義の發展と共にいかにその階級的性質を變化させて行くだらうかの點を論じたものであつて、平野氏等の論に對し、恰も對幅の一たるごとき關係に立つてゐるからである。

 向坂氏によれば、資本家階級と賃勞働者階級とはいふまでもなく資本制社會における二つの基本的階級を成してゐるが、現實の各社會は、その外に大なり小なり封建的遺制をも含んでゐるのであつて、日本社會のごときは殊に多量の半農奴的農民を殘存させてゐるのである。しかし資本主義の發展は、かかる封建的殘存物の階級的性質を變化させてしまはずにはおかない。なぜかなら資本主義はすべての中間階級をブルジヨアジーとプロレタリアートとの兩極へ分解させてしまふ作用を押し進めて行くものなのだからである。よつていま或る國の農民がいかなる度合までその階級的性質を變化させてゐるか、いかなる度合までプロレタリアート化してゐるかを正確に見究めることは、その國の社會轉化の形態を卜する上に絶對の必要事だといはねばならない。けだし農民のプロレタリアート化の度合は直ちにブルジヨアジーとプロレタリアートとの間の力の關係に變化を與へ、從つてプロレタリアートによつて行はれる社會變化の形態へも影響を及ぼすことになるからである。ゆゑに平野氏等がこの國における半農奴的農民の殘存を指摘するのみにて、その後における農民の性質の變化へ殆ど注意する所のなかつたのは、社會分析の方法として決して正しいものではなかつたのであると、かう向坂氏はいはれるのである。

 吾等素人としては、二家の論爭の更らに一層なる展開によつて、この國の農民の階級的性質が、從つてまた農民解放の運動の方向が、なほ一段の明瞭さに達するやうになることを待望してゐるの外はないのである。

 山崎靖純・『北支問題論』(日本評論)

 北支自治運動の眞相はなかなか掴むことができない。新聞の報ずる事件の經過が、事物の合理的經過の過程をあまりにも逸脱してゐる感があるからである。例へば新聞は、西南派と北支自治派との提携を報じてゐるが、西南派は由來對日抗爭を主張して來たのであるから、今俄に北支派に左袒するに至つたとは考へられない。また新聞は、北京大學の自治運動に對する支持を報じてゐるが、このことも同大學平素の思想傾向から見て俄には信じ難い。又新聞は、五全大會の意義を安價に見積つてゐる傾きがあるが、支那諸新聞は反對に今度の大會が『國難來・一致對外』の旗印の下に開かれた異常の決心のものであることを報じてゐる。

 だから吾等は新聞によつて滿されえなかつた事實の眞相への認識慾を雜誌によつて癒されんことを期待してゐたのであつたが、この望も空に終つた。なぜならば諸雜誌が特輯してくれた北支事件關係の論述は概ね新聞のそれと一般、かなり立場的・傾向的のものでしかなかつたからである。

 だから私は支那問題に關聯していつも抱く感想を今度もまた新にせざるをえなかつた。それは日本においては支那の政治現象・社會現象を社會理論の完全なる把握の上に説明してくれる支那社會科學者が甚だ少いといふ憾みである。もちろんそこにはたくさんの『支那學者』がをり『支那通』もゐる。しかし支那學者は過去の支那を知るだけで、現在の支那は知らない。支那通は支那の政治界・經濟界の表面の現象を知るだけで、その現象の社會科學的説明には立入らない。

 實際支那通といふものの弊は、事件の性質を一向科學的には判斷してゐないといふ點にあるやうだ。彼等は支那に起きた事件と人名と地名とは實によく知つてゐる。それらの事件を物語風に羅列する力ももつてゐる。しかしそれらの事件の社會的性質を考へ、社會的根據を見究める力はないのである。何よりも大切な・現象を科學的基礎の上に分析するといふ力を缺いてゐるのである。要するに單なる物識りだ。

 今度の事件を取汲つた雜誌論文も、日本には支那に關する物識りの多い割合に、科學的判斷者は少いといふ弊習をよく現はしてゐるのである。

 しかし中にはもちろん示唆のタツプリした論文もないではなかつた。山崎靖純氏のもの(日本評論)などはそれであつた。

 山崎氏はかう考へられる——『支那が支那自身の資本を以てして資本主義的に立上るといふ望みは殆どない。だから支那がもし資本主義的開發を望むならば、外資輸入の方法によるの外はないが、この方法も支那のために利益ではない。なぜならばその昔イギリスが印度を開發した頃は、世界が印度の生産物を無限に購入しえた時代であつたから、對印投資は外國資本家のためばかりでなく、印度における勤勞大衆のためにも利益であつたが、今は各國がそれぞれ自國の生産過剩に苦んでゐる時代であるから、各國が支那の生産物を購入するだらうとは考へられない。從つて外資の輸入はただ單に支那の財政經濟に、從つてまた支那の勤勞大衆に、一段の桎梏を加へるだけの結果に終るであらう。要するに支那は資本主義的に立遲れてしまつたのである。若くは世界資本主義が支那をして資本主義的に立上らしむべくあまりにも老境に入り過ぎてしまつたのである』と。

 山崎氏は又かうもいはれる——『支那としては遮二無二外資を吸收して當座の苦しみを忘れるか、若くは赤化への途を辿る外に採るべき手段もないのであるが、日本は支那のロシア化にも反對し、又支那がイギリスの資本を吸收することにも反對する。では日本みづから支那へ資本を與へるかといふと、與へもしない。目下の日本は支那に對してただゲンコツあるのみである』と。

 山崎氏の論文は、支那の將來と日本の對支政策の今後の運命とに關して深い暗示を投げたものではないだらうか?

 大森義太郎・『映畫と學生』(改造)

 今日の大學生の生活から勉學は拔いて考へられるが、映畫は除くことができない。それは彼等にとつて水と空氣であると大森氏はいふ。そして大學生がこんなにも映畫へ映畫へと走るのは、一つは今の大學の講義が無類につまらないからである。よくあんなつまらない講義を聽いてゐられるものだと感心される位である、と皮肉られる。

 なるほど今日の大學の講義はつまらないであらう。若い學生達から見ると今日の大學の講座目などは古いアカデミーの學問の拔け殼の陳列のやうに見えるのかも知れない。それほどそれは進歩性を失ひ、社會性を喪失しつつあるのかも知れない。だとすると、結局いつかはこの國においても大學の講座目へ一大整理の加へられる日が來なければならないであらう。

 森戸辰男・『教學刷新と大學の自由』(中央公論)

 學問的精神の敵は暴力と迷信である。だから大學の構成員たる者は狂熱に對して冷靜を、狂信に對して科學を、強力に對して道理を高揚しなければならない、と森戸氏は説く。又、大學の自由を侵害・脅威する力は、同時に民衆の平和とパンと自由とを侵害・脅威する力である。大學と民衆解放の運動とはその抗爭すべき反對勢力を共同にもつてゐるのである、と氏は教へる。

 それにつけても今日往々大學の中から、氏のいはゆる『暴力と狂信』とへ輕々しく味方する學者の出るのは何としたことであらうか。大學の自由を賣る學者は民衆の自由を賣る政黨員と同罪であるのかも知れない。否、學者の方は眞理の名の下にそれを爲すだけに、一層罪が深いのかも知れない。

 石濱知行・『新聞社説論』(日本評論)

 氏は新聞の今日の傾向を論じていはれる——昔の新聞は社の主張をもち、そのために隨分戰ひもしたが、今の新聞は主張よりも解説に重きをおく。ニユースの速報とニユースの解説とが新しい使命である。從つて社の主張を示す社説のごときは漸次重きを失ひつつある。今日では社員の筆になる社説よりも、社外の自由人の筆になる感想の方が一般の興味を惹きつつあると。

 たしかにこれは事實である。數ならぬ私なども社説はあまり讀まないが、社外の人の感想文は大抵讀む。その顏觸れがもつと多方面に開放されると、一層面白くなるだらうにとおもふ位である。

 下村海南・『植民地再分配論』(日本評論)

 海南博士は年來日本人口の過剩を説かれて來た。博士にいはせると、日本の人口は社會的・相對的に過剩なのではなくて、マルサス的・絶對的に過剩なのである。しかし戰爭と侵略は博士の好まれる所ではない。博士は移民及び植民の方法によつて問題が解決出來るやうにと望まれるのである。よつて自然そこに植民地再分配論も生れるといふわけ。まづ日本のハウス大佐といつたところである。

 しかし再分配の可能性については、博士みづから『實際問題となると何れの國も慾にはきりが無いから、殘肴一片たりとも容易に手放すやうな事はあるまい』といはれる。これでは心細いといはざるをえない。

 大森義太郎・『河合教授の辨明を反駁する』(日本評論)

 大森氏の惡口もすでに一個の藝術である。そこには少しも下品なもの・毒々しいものは感じられない。むしろ朗らかなもの・輕快なものが感じられる。惡口の對象者——この場合は河合教授——にとつては、さぞご迷惑なことでもあらうが、大森藝術の引立役となつてゐるのだととおもへば堪忍もできようではないか。ちやうど漫才に頭を叩かれてゐる才藏といつた格だ。

一八 新人のナチ法論

 中央公論は『新人號』(昭和九年五月)を出した。新鮮の作、花の如くに盛られた中から、峰村光郎氏『民族主義と法律』を取上げて見る。

 氏はまづナチの法律理論と十九世紀の一大學派であつた歴史派の法律理論とを對比させつつかういはれる——歴史派は『法は民族の確信なり』とか『法は民族の慣習なり』とか、しきりに『民族々々』と呼んだが、かう彼等が民族をかつぎ廻つた動機は、この神聖な言葉の使用によりて專制君主の恣意を抑へ、彼の立法行動を民族的限度内に閉ぢこめておかうとの魂膽からであつた。けだし當時のドイツ人民は恰も資本主義の發展期にあり、經濟上の自由放任を欲すること、まことに切なるものがあつたので、彼等は立法者の立法の自由に或る程度の制限を加へんとし、その目的から『慣習』とか『民族』とかいふものをもちだしたのであると。

 しかしと、なほ峰村氏はつづけられる——今日のナチ政府が『民族』をいふのは全く異れる動機からである。今日のナチ政府も歴史派と同樣『法は民族意志の表現なり』とか、『法は民族意志を基礎となす』とかいひはしてゐるが、かくいふ彼等の動機は人民に自由をへんがためではなくして、人民から自由をはんがためである。民族の名で人民の自由を抑へ、獨裁專制の政治を敢行せんがためである。同じく民族の名を使用はしても、歴史派においては人民の自由のために、ナチにおいては人民から自由を奪ふために、その志向は根本的に相反すると見られるのである。

 然らばなぜナチは、人民から自由を奪ふために民族といふやうな神聖語をかつぎ出すのかといふと、ナチは元來資本主義の危機を救ふことを以つてその根本目的としてゐる運動であるが、資本主義の危機を左翼重圍の中から救出するためには、資本主義の發展につれて沒落し窮乏化してしまつた・中小企業家・中小地主・自作農・インテリゲンチヤ等々を右翼の陣營内に抱込んでおかなければならないが、そのためにはどうしても、これらの者を全體的に結合させ、共同させるに足る・何らかの指導原理をもつ必要がある。ナチの『民族主義』はさうした全體主義的指導原理である。試みにおもへ、何人も『民族』へは敵對できないではないか。『資本』へ敵對しうる人も『民族』の前では膝を折らねばならぬではないか。ナチは實は資本主義の危機を救はうとして、名を民族に藉りてゐるのだ、と峰村氏は鋭利にもかう看破されるもののごとくである。

 ではこのやうな小所有者階級の擁護に動機づけられてゐるところのナチの民族主義は、法律上いかに自己を表現してゐるかといふに、峰村氏は、立法および學問の兩面においてナチ主義の表現を見出される。即ち立法の方面においては大規模なるヒツトラーの法律更新の大事業となり、學問の方面においては華やかなるナチ御用學者の迎合的法律哲學となつて現れてゐるとなされるのである。がしかし峰村氏はこの際重要なもう一つを見逃がしてをられはせぬか、司法の方面に現れたナチの勢力がそれである。

 實際現下のドイツでは『司法の政治化』が著るしく目を打つ。ナチは『法は細目的であつてはならない。裁判官には充分な自由裁量の餘地を與へる』といつてゐる。しかし彼等が裁判官に與へた充分なる自由裁量は何のために使用されつつあるか。少しくドイツ最近の判例傾向に注意する者は、檢事たちがナチの急進的思想に迎合して、すいぶん政治的な論告を下してゐることに氣づくであらう。そして又裁判官たちが檢事の意見に引づられてとかく政治的・傾向的なる判決を下してゐることにも氣づくであらう。元來法が裁判官に自由裁量の餘地を與へたのは、事案に具體的に妥當する判決を下さしめんためなのであるが、ドイツでは今、この自由裁量の地帶が恰も司法官の政治的意見の跳梁地帶と化しつつあるのである。御用學者の一人カール・シユミツトのごときはこの頃一書を出して、『法の解釋適用は大いに政治的でなければならない』と臆面もなくいつてゐる。ナチが歴史派の故説を再起させて『慣習法の優越性』を説いてゐることなども、考へて見ると眉唾物である。實はこれは裁判官をして慣習法に藉口して人民の制定法上の權利を蹂躪せしめんがためであるのだ。精嚴を誇つたドイツの法律組織は、いまヒツトラーのピストルの前で震へてゐる!

 峰村氏が『司法』におけるナチ勢力の現れをも併せ説かれたら、この秀れた論文は一層の新鮮さに輝くことをえたであらうに。

一九 如是閑氏のうわさ論

 長谷川如是閑・『噂の心理と理論』

 八月號(昭和九年)の改造を見ると、如是閑氏がうはさの發生原因と統制方法とを論じてをられる。曰く——社會集團はその成員の生活過程につき公知の要求をもつてゐる。集團中のだれがどんなことをしてゐるかにつき、一般が知得の必要を感じてゐる。お互がお互の行動を知つてゐると、お互の協同生活を圓滿に營む上に、便宜が多いからである。しかし發達した社會においては一方、生活の協同があり、他方、生活の對立がある。同一社會内にありながら人々互に獨立の生活圈をもち、他に對して自己の行動を祕密にせねばならぬこと、恰も異種の生物に對するがごとくである。しかし一面かかる對立はあるにもせよ、他面にはやはり緊密なる生活の協同もあるのであるから、社會は依然個人の行動に對して公知の要求を棄てない。うはさはかやうな社會公知の要求に基因する。それは個人の祕密を集團へ公知させる手段の一つであると。

 この説明に別段吾等は異議もない。しかし集團がかかる公知の要求を起すのは抑も何故か。如是閑氏は『協同生活の圓滿のために』といはれるが、他人の祕事を噂するには、何かもつと切迫した必要がここになければなるまい。ハイデツカーはこれを畏怖(フルフト)に求めた。即ち他人の祕事を噂するのは、かかる祕事をもつ人を怖れ、集團をしてこれに對し警戒するところあらしめんがためだと見た。如是閑氏の説明よりも適切のやうな氣がする。

 今井登志喜『國民主義と國粹主義』(昭和九年八月號中央公論)

 豊富な材料を輕く驅使して國民意識發達の過程を論じられたもの。曰く——國民主義は或る單位の民族の自己主張である。歐洲ではイギリスが最初に國民意識に眼ざめ、フランスは百年戰爭の時、イギリス軍の侵入を受けてゐる間にこれに眼ざめ、餘他の諸國は、ナポレオンの壓迫に刺戟されて國民主義を知つた。即ち國民主義は國民の對外的敵愾心と深い關係があると。確に正しい。しかしこの斷定はあらゆる場合に對して正しいだけに、それだけ抽象的であり、それだけ特殊の場合の説明としては不十分である。

 同じ愛國心でも百年戰爭當時のそれと、ナポレオン戰爭當時のそれと、世界戰爭當時のそれとは全くその質を異にする。第一の場合は或る特定の王樣を有難がる王朝的・忠君的愛國心であり、第二の場合は他民族の壓迫から自己を自由にしようとする民主的・自由主義的愛國心であり、第三の場合は他民族の犧牲において自己を擴大しようとする侵略的・帝國主義的愛國心である。これほど質の異るものをただ一個の概念に纏め上げて『國民主義』と銘打ち、『國民主義は對外的敵愾心と深い關係がある』などと斷定して見ても何にもならぬではないか。

 吾等は問題をもつと具體的に捉へ、もつと具體的にその原因とその結果とを究明しなければならない。今井氏の考へ方は表面滑行的である。

 室伏高信・『ナチ内訌論』(經濟往來)

 ナチ黨内の内訌については、室伏高信氏が『經濟往來』(昭和九年八月號)に『ナチス・クウデタア』を書き、益田豊彦氏が『中央公論』に『ナチスの陰謀事件は何を表徴するか』を書いてゐる。吾等はこれによつてナチ黨内の對立抗爭・嫉視反目の状况を學び知ることができるのである。しかし吾等にとつて重要なのはナチ黨内の内訌状况そのものではない。何のためにナチが數派に割れて内訌してゐるかの理由である。爭ふのは權力獲得のためであり、權力獲得は何人かの利益のために何等かの政策を斷行したいためであらうが、各派は抑も何人の利益を代表し、どんな政策を行はうとしてゐるのか、この邊の消息を吾等は二氏から聽きたいのである。

 おもふにナチスの社會的支盤は雜多である。中小企業家・インテリゲンチヤがあるかとおもへば、大資本家・大地主もある。當然そこに利害の對立・意見の相異・感情の衝突を免れない。形式的には『全民主義』『祖國主義』で内的矛盾を隱蔽しえても、いぎ實際の政策となると、忽ちそこに分裂を生じる。

 ナチ黨内の内訌はその社會的支盤の雜多性・その政策の矛盾性から説明されなければならない。室伏氏や益田氏はなぜかうした理論的解明の方法を採らぬのか。

二〇 大森氏の意志自由論

 八月號(昭和八年)の改造を見ると、大森義太郎氏が『マルクシズムと意志自由の問題』を書いてをられる。これは小泉信三教授の論文『マルクス死後五十年』に對して論難を浴びせたもの。例の大森式毒舌を揮つて小泉教授を冷やかしたり、からかつたり、打つたり抓ねつたり、七擒八縱といつた概がある。しかし注意して讀んで行くと、この論文は意志自由の問題に對して二三貴重な示唆を投げてゐる。即ち著者は第一に意志自由の問題を社會科學そのものとの關係において考察し、第二に社會運動との關係において考察してゐる。そして(一)社會科學そのものとの關係については著者はいふ——『社會科學は法則發見的科學である。法則發見と意志自由とは矛盾する。ゆゑに社會科學は意志自由を否定しなければならない』と。

 これは正しい。實際、社會科學は社會進行の法則を尋ねる科學である。だから社會科學の考察對象となりうる人間の行爲は法則に服してゐる限りの行爲、原因に支配されてゐる限りの行爲でなければならない。全然法則に乘らない・無原因で動き出すやうな行爲は(さういふものがあるとしても)、社會科學の考察圈内へは這入りこんでこぬのである。社會科學はその學としての成立のために自然的・社會的・歴史的諸原因に制約されてゐる限りの人間行爲だけを取扱ふ。自由無原因の行爲はこれをその取扱から度外視しなければならぬのであると。

 しかし第二に社會運動との關係からいふと、マルクシズムといへども意志の自由を否定し去るわけには行くまい。なぜかなら社會運動の企行は社會科學の應用である。即ちそれは社會科學の研究の成果として發見された社會進行の法則を社會變革の目的のために有意的に應用しようとするものであるが、凡そ應用行爲に有意的ならざるものはない。社會運動の企行といへども應用行爲たるかぎりは自由意志の所産と見られねばならぬからである。

 そこで大森氏もいつてをられる——『マルクシズムはただひとつの場合意志自由の成立することを認める。それは社會の進行の方向を正しく認識し、この方向と合致すべく意志行動するときである』と。

 かやうに問題を(一)社會科學そのものとの關係において、(二)社會科學の應用たる社會運動との關係において、分別的に考察することは問題の解決を容易ならしめる道である。大森氏のこの論文は何といつても意志自由論への貴重な寄與でなければならない。

二一 『有閑法學』

 よくイギリスの判事などに、教養の廣い趣味の豊かな紳士的法律家を見出すものであるが、穗積重遠博士もさういつた型の一人である。その高貴な教養は氏の學問を優雅なもの・圓滿なものにさせてゐる。氏はほとんど鋭利な論理を使用されない。嚴めしい組織も建てられない。それでゐて各種の法律問題に對する氏の判斷は概ね節に當り、的を射てゐるといふ評判である。氏の理論のいささか安易に過ぎるのを慊らず思ふ人々も、氏の論結の妥當さには脱帽してゐるのである。

 その近業『有閑法學』の中で氏はいはれる。『法律家は秋霜烈日の裡、おのづから春風の催し來るものがなくてはならぬ』。『人生が泣くべく笑ふべきものである以上、人生の規範たる法律も、且つ笑ひ且つ泣きつつ、立法し運用し研究すべきものと思ふ』と——ここらに穗積法學の心髓は存するのである。

 本書は氏の法律徒然草である。氏がその研究に從事中に感得されたくさぐさの感興——例へばまア、圖書萬卷の裡に埋もれつつあれやこれやと獵つてゐる間に、ヒヨツコリと御自身平素の所懷に合致する學説を發見されてひとりニツコリほほ笑まれたとか、あまりにも突飛な學説・あまりにも非常識な論理に出會つて、「チエツ」とひと言不服を洩らされたとか、時には又非常に珍奇な史實などを發見されてひとりクスクス可笑しがられたとか、さうした研究室裡における獨居の感興を筆に止めて、みづからも樂しみ人にも示されるものである。そこには議論はもちろん、『纏つた話』さへもない。ただ淡い感興の輕く過ぎ行くのを見るだけである。けだし教養廣き著者の心は現行法の研究中に、ふと舊約聖書の一節を思ひ出されたり、謠曲の一文句を思ひ出されたりするのでもあらうか。又著者の鋭敏な法的嗅覺は歴史や文學書の渉獵中に、法律に關するいろいろの面白いお話の種子を發見されるのでもあらうか。著者のお話の中には、いつも文藝と法律とが十字に結びついて出てくるのを常とする。

 一例をあげると、舊約聖書の創世記を繙いてゐる間に民法第一條を思出し、川柳集『柳多留』を繙いてゐる間に雇傭契約の法理を考へ、忠臣藏を見物してゐる間に、勘平の狩獵法違反を發見するといつた式だ。吾等は先づ著者の思付の巧妙、聯想の輕快さに參入つてしまふのである。

 その話法は謙抑である。著者は何事も全部までは言ひ盡されない。語るところ僅かに五六分、時として單に三四分。あとはこれを嫋々の餘音のうちに消されてしまふ。しかもそのために却つて高い氣品の香るのを見るのである。料理ならば興津庵の酸物、瓢亭の口取といつた所。

 強ひてこれを内容的に分類して見ると、非常識な法律論に對する輕い不平が一番多さうだ。けだし著者は日本の法律をもつと朗らかなもの・平易なもの・親しみ易いものにしたいと平素から切に願つてをられるので、あまりに非常識な判例・難解な法文・窮屈な論理の出るのを見ては、不平の一つも漏らされたくなられるせゐでもあらうか。御專攻との關係から、親族法關係のお話も少くない。日本民法の制定過程に關する珍らしい史話も二三出てゐる——要するに諸種の題材を法律學者的感興の湧くがままに、味つたり棄てたり拾つたり弄んだりしてゐるといつた形。

 しかし考へてみると、この種の閑文章が現代にとり何程の意味をもつであらうか。現代の社會にとり法律にとつては、あまりにもそれは縁遠い遊戯文字ではあるまいか。例へば著者は民法の内容をなるべく平明に解説するとか、口語體で判決を書くとかいふことに熱心をもつてをられるやうだが、民法に對して現代人がもつてゐる不安はもつと底深い所にある。即ち現代は民法上の基本的諸原則、その上に民法の諸規定が立つてゐるところの根柢そのものに對して疑ひをもつてゐるのである。又著者は民法の制定史料を神話か何ぞのやうに難有がられ、大切にこれを保存しようとしてをられるが、現代にとつては民法の保存よりも民法の批判の方が大切である。今日の民法は果して社會の發達に對して寄與的に作用してゐるのか、阻止的に働いてゐるのか、その科學的分析こそがわれらの關心事でなければならぬのである。同じく民法の制定史にしても、われらはその制定過程よりも、その制定の社會的基礎に對して關心をもつ。なぜ當時の日本資本主義が外國民法の手早い繼受を必要としたか、その唯物的根據こそがわれらの關心でなければならぬのである。現代は民法法典を藝術的完成品か何ぞのやうに取扱ひ、これを味つたり、弄んだりしてをられる時代では決してない。學者は然かく『有閑的』であつてはならぬのである。

二二 法律社會學の課題

 社會學に令名ある岩崎卯一教授は『法律社會學特殊研究』と副題した・二個の貴重な業績を矢繼早に公にされた。『日本憲法の社會學的理解』と『日本憲法學論の現實科學的把握』とがそれである。

 しかしここで私は岩崎教授のこの創見に溢れた二業績の内容を紹介しようとするのではない。私はむしろ法律社會學といふ・この新興の科學の任務又は課題について、教授の二著から何ものかを學び受けたいとおもふのである。けだし新興の科學の常として、法律社會學なる學問の任務又は課題は、今日なほ薄明の中に漂つてゐるのであるから、われらが『法律社會學特殊研究』の著者より、斯學の任務につき教へられる所あるべきことを期待するのも當然といはねばならぬからである。

 教授はしかし右の二著においては、法律社會學の任務についての論述を省略されてゐる。よつてわれらは先づ教授の研究成果を見、これから逆に遡つて、教授の研究課題そのものの何邊に存するかを推斷するといふ間接の方法によるの外はなくなるが、この方法を以てしても、法律社會學の課題に關する教授の見解を明かに掴むことはできない。なぜかなら、教授は憲法發布の際の告文・勅語・前文及び憲法の第一條等を資料として、これらの法文は結局日本社會が血緑・地緑・運命縁によつて情緒的に結ばれてゐる共同社會であることを示すと論斷されてゐる所を以てすると、恰も法文を通して、法により規制されてゐる社會關係そのものの性質を知ること、殊にそれが共同社會關係であるか利益社會關係であるかを知ることを以て法律社會學の中心課題であると考へられるもののごとくでもあるが、しかし又教授は他方において、やはり上述の法文を資料としつつ、これらの法文は畢竟日本社會の統制原理が全體愛を基調としてゐることを示すとか、共同社會の推持を以てその目的としてゐることを示すとかいつてをられる所を以て見ると、恰も教授は、法律社會學の課題を以て社會關係そのものの性質を知ることではなくて、むしろ社會關係を統制してゐる規範の性質を知ること、殊にそれが愛に基く指導であるか、權力に依る支配であるかを知ることに存すと考へらるもののごとくでもあるからである。その研究の核心が規制される社會關係の側にあるのか、規制する法的規範の側にあるのか、それを明にしえないのはわれらにとり甚だ遺憾なことといはねばならない。

 しかし私見によれば法律社會學が獨立の一學科であるがためには、それは規制される社會關係の研究ではなくて、むしろ規制する法的規範の研究を以てその任務としなければならない。法的規範によつて規制されてゐる社會關係の方を研究するのならば、それは普通の社會學たるに止まる。いかに研究の資料を多く法律に求めたからといつて、研究の對象が社會關係そのものである間は、それは普通の社會學そのものたるに止まるのである。法を研究の資料(Material)とせず、法を研究の對象(Gegenstand)としたときに、初めてそこに『法の社會學』が生れる。法律社會學の課題は法そのものでなければならない。

 しかし法を對象とする學問には、他に別に法律解釋學がある。法律社會學はいかに自己を法律解釋學から區別するか?

 簡單にいへば法律解釋學は法の意味内容を解明しようとする。法が何を適法とし何を違法としてゐるか、何を命じ何を禁じ何を許容してゐるか、それを明かにしようとする。しかしそれは單にそれだけに止まる。進んでさらにそのやうな規範内容をもつ法律規定なり法律制度なりがいかにして社會に成立するに至つたかの原因を尋ねるのでもなければ、又そのやうな内容の規定又は制度がいかなる效果又は影響を社會生活の展開の上に及ぼすかを尋ねるのでもないのである。法の規範内容の解明——それだけに法律解釋學の仕事は限られてゐるのである。

 しかしいかなる現象だつて無原因で社會に發生し來るものはない。法律制度のごときものも、またもとより何らかの原因に動かされて發生するのである。だからここに或る特定の内容をもつた法律規定なり法律制度なり乃至また法律思想・法律原則・法律學説なりがあつたとすると、われらはそれに對して、それがいかなる社會的原因から發生したか、いかなる社會的・經濟的・政治的事情に制約されてそれがそのやうな形態をとり、そのやうな内容をとるに至つたかを尋ねうるわけであるが、このやうな學的疑問に答へんと試圖するものが即ち法律社會學であるのである。直言すれば法律社會學は法の成立原因、その社會的根據を究明することを以てその任務とするのである。

 しかし法律社會學の任務は單に法の社會的根據論だけには盡きない。さらにそれは法の社會的機能論に及ばねばならない。

 けだし法は社會經濟生活の展開に對して顯著な影響を及ぼす。法が社會を統制するとか、生活を規制するとかいひうるのは、法が現實に人間の行爲に影響し、人間の行爲を開始させたり停止させたりする強大な力をもつてゐるからである。例へば法が或る種の社會行爲の發生を禁壓することを目的として或る禁令を發したとすると、その效果は顯著である。即ちもし自然のままに放任しておかれたならば、發生したであらうところのその種の社會行爲が、その禁令のためにその發生を阻止されるといふことになる。又もし法が或る種の社會行爲の發生を誘發し又は促進することを目的として或る命令を發したとすると、その效果も顯著である。即ちもし自然のままに放任しておかれたならば容易には發生しなかつたらうところのその種の社會行爲が、その命令のためにその發生を誘發され又は促進されるといふことになる。法は決して社會生活の自然の展開を靜觀的に見送つてゐるのではない。むしろ積極的に社會生活の展開へ向つて働きかけ、法の欲する方向へ社會生活を牽引して行かうとする支配的・指導的態度を示すのである。われらの行爲は或る程度までは法的影響の下に開始したり、停止したりしてゐるのである。

 ゆゑにわれらは或る法律規定なり法律制度なりが、その成立後、社會生活の展開に對していかなる效果を及ぼしたか、われらの行爲の方向をどう左右したかを問ふことができる。それは正しく發せられた學問上の問であるのである。そしてこれに答へることも、法律社會學の任務の一つである。だから法律社會學は法の成立原因を問ふ部門法の作用效果を問ふ部門との二つから成立するといふことになるのである。

 今から六十年の昔Lorenz von Steinは既成法律學の學的價値を疑ひ、將來の法律學は、『法の發生及び發達の原因を説明する學問』(eine Wissenschaft der Kräfte, welche das Recht erzeugen)でなければならぬといつた。今からおもへばこれは法律社會學の一部門としての法の成立論を唱導したものであつたのである(Stein, Gegenwart und Zukunft der Rechts= u. Staatsw. 1876)。最近に至つて法律社會學の任務はやうやく明かとなり、Kraftのごときも法律社會學は『法律制度の存在を支配する法則の學でなければならぬ』といつてゐる(Kraft, in d. Handwörterb. d. Soziologie, herausg. v. Vierkandt S. 468)。Mannheimに至つてはもつと明瞭に『法律社會學は二重の課題をもつ。一は法的規範が社會的現實態のなかからいかにして成立するかを論ずる成立論、二は一旦成立した法的規範が社會生活の爾後の展開に對していかなる逆作用を及ぼすかを論ずる逆作用論である』といつてゐる(Mannheim, Die Gegenwartsaufgaben d. Soziologie S.~16)。Horvathの法律社會學はその組立て方と言廻し方にかなりの特異性をもつた書物ではあるが、やはり法の生成轉化の社會的原因を問ふことと、法が社會生活の展開に對して及ぼす影響を論ずることとを以て、その主題目とはしてゐるのである(Horvath, Rechtssoziologie)。

 岩崎教授は『日本憲法の社會學的理解』の序において『元來余は社會統制の本質及び形態の研究に從事し來れるも、漸次法規範を契機とする統制組織の研究に興味を抱き、‥‥憲法の社會學的究明に着手』するに至つたと述べてをられるが、日本憲法の社會學的究明がその目的であつたのならば、教授はよろしく、日本憲法がいかにしてあのやうな特殊の内容を取つて成立したかの社會的・政治的根據を究明さるべきであつたし、又、あのやうな特殊の内容の憲法が、その成立後、日本における政治生活の展開へいかなる影響を及ぼしたかの效果論をも試みらるべき筈であつた、と私は考へるものなのである。

二三 ローマ沒落の原因

       ——コヴアレフの『古代社會論』——

 ローマ大帝國沒落の原因については見解の分岐がある。軍事能力衰頽の結果だつたと見るコルネマンの説。蠻族侵入の結果だつたと見るゼークの説。文化の自然的死滅によるとするスペングラーの説。その他さまざまあるが、近ごろ私はコヴアレフ著・西村雄三譯『古代社會論』を讀んで斬新鋭利な一説に接した。それはローマ衰滅の原因を、奴隷と奴隷所有者との間の階級鬪爭に歸するものである。

 コヴアレフはかう考へる——ローマは奴隷所有者の國家であつた。奴隷所有者は奴隷勞働を大農地の經營・鑛山の開發・手工業・家内經濟等において大量的に使用してゐたが、かくのごとき壯大なる奴隷への需要は、戰爭による捕虜を大群的に奴隷に轉化するといふ方法によつて充すよりほかに途はなかつた。そこでローマ國家は數百年の久しきに亘つて大小何百回の戰爭を繰返し、戰利品としての捕虜を大量的に奴隷へ轉化させつつあつたが、かくのごとき破壞的行爲の連續の結果は、外地においては都市の衰退・土地の荒廢・男子の減少・女子及び兒童の奴隷化となり、内地においては自由手工業者・自由小農民の失業・零落化となつて現はれて來た。けだし自由手工業者や自由小農民は、安價な奴隷勞働を使用する奴隷所有者との競爭に到底堪へ得ず、將棋倒しに倒産してルンペン・プロレタリアートと化し去つてしまつたからである。國家はこれらのルンペン大衆を扶養し懷柔するためにあらゆる術策を弄したが、飢ゑた・絶望的な・そして怠惰な・失業者の大群の無政府的氣分を醫し去ることは到底できなかつた。彼等は奴隷大衆と緊密に融合してローマ社會における革命的な敵對階級となりつつあつたのである。よつて國家は彼等を抑壓するために國家權力を強大化し絶對化する必要を感得し、漸次、統治の形式を改め、共和政治から制限的帝政へ、さらに獨裁的帝政へと移して行つた。ローマ獨裁者の基本的任務は實に奴隷・小農・小工業者の層の間に醞釀されつつあつた革命氣分を鎭壓することにあつたのである。そしてこの鎭壓には或る程度まで成功することができた。ローマ帝國の滅亡が二百年ほど遲れたのは帝權による強い抑壓の賜であつたと解釋さるべきである。しかしその間にローマ人の生命の力は、ゲルマン人の一撃によつて一たまりもなく崩れねばならぬほど全く摩りつぶされてしまつてゐたのであつた——とコヴアレフはかう考へるのである。

 古代社會の經濟的構造について年來の疑問に惱まされて來た私は、コヴアレフから強い感激を受けた。そして久しく中絶し來つたローマ法史の研究をコヴアレフ的基礎の上に再開始しようとおもふやうになつた。

二四 法律學と神學

 たくさんの法律大學がこの國に存在してゐる。そしてそれからが又たくさんの法律學生を收容してゐる。もしこの國において法律を學び又は學ばうとしてゐる者の數をかぞへたら、大した數に上るであらう。だから彼等に對して彼等の學問即ち法律解釋學のほんとうの性質を示しておくといふことは、無駄事どころの話ではないのである。

 普通法律の解釋は一種の學問だといはれてゐる。教へる者も學問だとして教へ、學ぶ者も學問のつもりで學んでゐる。しかし法律の解釋はほんとうに學問なのであらうか。

 それが一つの學問であるがためには、何よりもまづ事實を事實として認識するのでなければならない。即ちその研究の對象として取上げたところのものを、飾らず蔽はずありのままに把捉するのでなければならない。『眞』を寫すといふことが、學問の要諦であるからである。ところでいはゆる法律解釋學はどうであらうか。

 いはゆる法律解釋學の對象は一定の時・一定の社會に現に行はれてゐる實定法であり、解釋學はかかる實定法の含みもつ意味内容を組織的に解明することを以てその目的とするといはれてゐるが、實は困つたことに法律といふものに對しては、吾等は冷靜な科學的な態度即ち如實の相において對象をとらへるといふ態度に出でえない先天的約束をもつてゐるのである。といふわけは法律は吾等の支配者である。吾等は法律に服從してゐるのであって、法律を冷やかに見物してゐるのではない。從つて吾等は法律に對しては、なるべくその意味内容を妥當なものにし完全なものにし深遠なものにして受取らうとする傾向をもつ。いひかへれば法律に對しては、その意味内容を本來の姿のままに受取らず、ある程度までそれを美化し、完全化し、深遠化して受取らうとする傾向をもつ。同じく服從するのなら、なるべく妥當なもの・完全なもの・深遠なものに服從したいといふのが人情の自然であるがためである。その結果、法律に關しては法律の現實態をありのままに描寫する學問よりも、法律が現實にもつてゐる不明を明かにし、不備を補ひ、不當を除かうとする技術の方が發達を致す。法律の解釋はさうした一種の技術なのではなからうか。

 かうした事態は、かのクリスト教の信者が聖書に對してとる態度と比較してみると、一層明瞭になる。けだし聖書は信者の宗教生活に對して、恰も法律が國民の社會生活に對してもつてゐると同じやうな關係をもつてゐる。國民が法律に對して絶對服從の態度をとるやうに、信者も聖書に對して絶對服從の態度をとる。國民が社會生活上何等かの紛爭なり問題なりに逢着すると、すぐに法律を繙いてその中に解決を求めるやうに、信者も宗教生活上何等かの煩悶懊惱に出會すると、聖書をめくつてその中に解答を探す。法律が社會生活上の字引であるやうに、聖書は宗教生活上の字引である。だから信者もまた聖書の内客に對してはリアリスチツクな態度に出ることができず、むしろロマンチツクな態度、即ち聖書の内容をできるだけ美化し深遠化し莊嚴化しようとする態度に出る。それが即ち聖書の解釋である。聖書の解釋若くは神學は現實の認識ではなくて、むしろ現實の隱蔽であり、現實の粉飾であるのである。そうして法律の解釋も亦これと同じやうな牲質を擔つてゐるのである。

 全國數十の法律大學において法律を學びつつある學生諸君よ、諸君が學びつつあるものは科學ではない、それは一種の神學である。

二五 法律の政治的解釋

 法律と政治との關係が近頃しきりに問題にされてゐる。法律を政治に從立させ、政治上の要求に從つて法律を意味づけ、法律理論を構成することが許されるかどうかの問題である。

 或る人はこれに反對していふ——もし政治上の要求に迎合して法律を意味づけることをなすならば、法律の意味内容はそれだけゆがめられ、解釋の科學性もそれだけ失はれてしまふであらう。法律の解釋が科學であるがためには、それは法律みづからの含みもつ意味を如實に把捉するものでなければならない。從つて法律の解釋に當つて政治的考慮を混入してはならないのであると。しかしこの論は當らない。なぜなら法律の解釋は法律本來の内容をそのままに把捉する仕事でなくて、むしろ社會における諸情勢に適合するやうな妥當な意味を法文へ附與する仕事であるといふこと、私が別の機會に述べた通りであるからである。最近或る哲學者は『理解』と『解釋』とを峻別し、理解は『客觀的な意味の忠實なる享受』であるが、解釋は『主觀的な意味の任意なる附與である』と規定した。いまこの規定に從ふと、法律の解釋は理解に對立するものとしての解釋へ屬することとなる。だから法律解釋の『科學性』のために、法律の政治的解釋に反對するといふことは凡そ意味ないことなのである。

 又或る人は政治的勢力の複數性といふことからして法律の政治的解釋へ反對する。いはく、政治的勢力は複數に存在する。だからもし政治的勢力の要求を考慮に入れることとなると複數の法律意味や法律理論が相互低觸的に競在する結果となるであらうと。かやうな反對論をきくと、私は論者が果して『法律の政治的解釋』といふ提唱の意味を、正解されてゐるのかどうかを疑ひたくなる。第一に法律の政治的解釋とは個々の政治的勢力の要求に從つて既存の法律を意味づけよといふ主張ではない。一國に一個の獨裁的勢力が確立された場合に、その一個の勢力が法律として要求するものに從立して既存の法律を意味づけ、法律理論を構成せよといふ意味である。だから法律の政治的解釋の結果、多數の相異る法律意味や法律理論やが相互低觸的に競在するといふことにはならぬのである。第二に法律の政治的解釋とは、獨裁的勢力が行ふ個々臨時の政策に迎合して既存の法律を意味づけよといふ主張でもない。その獨裁的勢力が立てた基本的テーゼ、即ち固定不動の政治方針と調和させて既存の法律を意味づけよといふ主張である。だから法律の政治的解釋の結果、法律の意味内容が安定を失ひ、動搖から動搖を追つて行くだらうといふ觀測も當らぬのである。

 すでに法の社會的解釋とか法の經濟的解釋とかは久しい前から許されてゐる。然らばすなはち法の政治的解釋といふものもまた許されていい筈ではなからうか。けだしこの三者は法律の解釋に當つて、法律以外のものからの要求(社會生活上の要求・經濟生活上の要求・政治生活上の要求)を考慮に入れるといふ點で、みな一致してゐるのだからである。

 だからといつて私はこの國において現下直ちに法の政治的解釋の必要が迫つてゐると唱へる者では決してない。この國においては未だ獨裁的勢力の確立されたものもないし、獨裁的勢力がもつべきテーゼなども未だハツキリとはしてゐないのであるから、法の政治的解釋なども今のところでは正しい意味では行はれ難いと考へざるをえぬからである。もし今それが行はれたら、それこそ論者の憂へられるやうに、非常に主觀的・黨派的・立場的な解釋の横行を見ることとなるであらう。

二六 醫師と政治家

 政治家は非常にしばしば醫者にたとへられる。彼は社會の醫者であり、社會の病をなほすのだといはれてゐる。小醫は人を治し、大醫は國を治すといふ語さへある。

 しかし疾病に對する醫者の態度と社會問題に對する政治家の態度との間には、實はかなりの隔りがあるやうである。第一に醫者の方は基礎醫學の知識をもつてゐる。生體の生理・病理を心得てゐる。解剖學などは醫學教育の基礎中の基礎となつてゐるかに見受けられる。ところが政治家の方は一向に社會の解剖といふことをやらない。實は社會の現象も一種の必然現象であり、堅牢な或る因果律の埒内において起きたり動いたりしてゐるものなのであらうが、世の政治家はなぜかさうした社會變動の必然法則を捕促しようとはせぬのである。彼等はむしろ偶然論の信者である。社會は魔術と偶然とによつて動き、英堆の號令のかけ方一つでどうにでも變りうるかのやうにおもつてゐる。もちろん彼等といへども社會の現象に對して絶えざる觀察を試みてはをるが、現象の奧にひそむ深い法則を讀破ることをせぬから、遂に社會必至の趨勢を認識するに至らぬのである。だからもし世の政治家が醫者だとすると、それは社會の生理も病理も知らないで、いきなり思付きに投藥するお藪さんに類し、危險もまた甚だしいと申さねばならない。

 第二に醫者の方は診斷にあたり僅か一個か二個かの徴候を標準に取るやうなことはしない。なるべく多數の徴候を蒐集綜合して然るのち病名を下す。例へば私が食慾不振を訴へたからといつて直ちに胃病だとはいはない。睡眠不良を訴へたからといつて、直ちに神經衰弱だとも斷じない。さらに私のために檢痰・檢尿その他の繰作を行ひ、レントゲン寫眞まで取つてくれた上で、實は私の病氣は私の肺組織の中に潜在してゐる結核菌の作用である。食慾不振や睡眠不良やは結核菌の排出する毒素の表面的作用に過ぎないといふふうに説明してくれる。どこまでも現象を一つの根本的な原因へ結びつけて理解する概があるのである。

 ところが政治家の方はさうでない。僅か一個か二個かの徴候に囚はれて、すぐに社會に云々の疾患ありとか、云々の問題ありとかいふふうに速斷してしまふのである。例へばいま社會の諸方面からさまざまの運動や陳情やが群がり起きたとする。勞働者も叫び、農民も叫び、中小商工業者も訴へ、知識階級も惑ひ、資本家も主張したとする。そうすると政治家はこれらの運動に現れたやうな諸問題、即ち勞働問題・中小商工業者問題・知識階級問題・資本家救濟問題等々が、相互離在的にこの社會に存在するといふふうに考へる。實はこれらは社會の表面へ浮出した吹出物に過ぎず、何か或る根本的な變化が社會組織の内奧に發生したがために、さうした吹出物も出て來たといつたわけなのであらうが、政治家といふものは、さうした社會組織内の變化を正確に認識せず、正確に認識することをむしろ恐れてゐるのである。ちやうど私が私自身の肺患をレントゲン寫眞上に見ることを恐れてゐるのと一般だ。

 第三に醫者の方は疾病に對して投ぜられる藥物の化學的性質を心得てゐる。藥物の成分や機能を知らずに投藥するやうな醫者は當今はまづ稀だと聞及ぶのである。ところが政治家の方は疾病に對して投ぜられる社會的藥物即ち政策の、社會的機能をハツキリとは見究めてゐない。どんな政策を施せば社會生活の展開の上にどんな效果を生じ、どんな變化を呼起すかの見當を立ててゐない。立ててゐても多くは獨斷的な豫想で、科學的客觀的な判斷ではないやうである。だからもし世の政治家が醫者だとすると、それは藥物學も醫化學もろくろく知らずに投藥する人に類し、意外の奇功を奏することもある代りに、飛んだ失敗をも演ずるといつた次第。

 かう考へてみると、政治家は醫者に似てゐるよりも、むしろかの療術師といふものに似てゐる。療術師は打診もせず聽診もせず、卒然として患者の訴を聽き、すぐに病名を下してしまふ。そして家傳の名藥を與へたり、蝮酒をのませたり、荒板の上へねかせたり、冷水をブツカケたりする。自然法則をも知らずして自然へ挑戰するのが彼等の特色だ。それから彼等はきつと精神療法といふものを重んじる。やれ字宙の靈氣を吸へとか、やれ天地一切の物と和合せよとか、きつとさういふ精神的なものをもち出すのである。政治家もまた何かといふと『精神』をもち出す。ドイツのナチが『民族精神』をかつぎ廻るなどはその一例だ。

 療法が科學の上に立たねばならぬやうに、政治もまた科學の上に立たねばならぬのである。

二七 國策

 國策々々といふ聲が方々に聞える。軍部が唱へ、官僚も主張してゐる。それはまアいいとして、政黨までが國策々々といふのはどうしたものであらうか。私には少々それが奇異に感じられてならぬのである。

 なぜかといふと、各政黨にはそれぞれ政綱といふものがある。政綱は、政黨が國民のために正に採るべき政策なりとして定立したところのものである。現に政黨は高々とそれを掲げて選擧に臨み、後日それを實行すべき公約の下に投票を集め、議員を獲得してゐる。だから政黨たるものはどこまでも黨の政綱、即ち黨が國民のために採るべしとしたところの政策に忠なるべき筈だ。他の政治的勢力の立てた政策に對して容易に迎合的態度に出てはならぬ筈だ。

 政治の本質は敵味方間の爭鬪そのものだ、と最近の政治學説は教へてゐる。即ち政治とは立場を異にする二以上の勢力が互に自己を主張し、自己を勝利者として確立するために展開する鬪爭過程そのものだと定義してゐる。政黨の本質なども一の鬪爭團體(カンプ・ゲマインシヤフト)たる點に見出されるとされてゐる。もし然らば政網などは取敢へず一黨の旗印といふところだ。これが閑却されていい筈はない。

 一體全體、國策とは何のことであらうか。その意味を考へる際まづ思出されるのは、ドイツ語の國策(スターツ・ポリチイク)といふ言葉である。この語は有名な戰前ドイツの宰相ビユーロー公の造つたものであつた。公は政黨が國民のために定立した政策を黨策(パルタイ・ポリチイク)とよび、王・王の官僚・王の軍部がやはり國民のために定立した政策を國策(スターツ・ポリチイク)とよんだ。當時ドイツにおいては、政黨の勢力のすでに欝然たるものがあつたと同時に、官僚・軍部の勢力の牢として拔くべからざるものをも殘してゐた。だから自然そこでは政黨も國民のために政策を立て、軍部及び官僚もやはり國民のために種々の政策を考へてゐた。で、ビユーロー公は前者即ち政黨の立てた政策を黨策とよび、後者即ち軍部・官僚の考へたものを國策とよんだ。さうして黨策の方は黨利黨略に偏向するが、國策の方はあくまで國民本位である。又、黨策の方は一時的經過的の性質をもつが、國策の方は恒久不變のものであると吹聽したのであつた。

 政黨政治が發達すると、黨の幹部だけが國家の大臣となる。即ち政黨國の大臣は、黨の機關たる地位と國家の機關たる地位とをその身上に連合させてゐる。しかもこの二つの地位のうち、先行的・基礎的なものは黨の機關たる地位である。彼は黨の機關なるがゆゑに、黨の代表者なるがゆゑに、内閣に送られて大臣の椅子を占めるのだからである。又政黨國においては黨の政策のみが國家の政策となる。黨は政爭において勝利を得てその政見を實現しうる可能性をもつが、他の政治的勢力へはさうしたチヤンスが決して廻つて來ぬからである。

 日本では軍部や官僚が今でもそれぞれ獨歩の政治的勢力を形成してゐる。ゆゑに日本では政黨が國民のためにいろいろの政策を定立するばかりでなく、文武官僚もさうした政策を定立するのである。前者を黨策といひ、後者を國策といふ。だから政黨たるものは、みだりに『國策々々』といつてはならない。それは自己の對立勢力たる官僚に屈服し、それに迎合するゆゑんである。政黨たるものはむしろ『黨策々々』といふべきである。さうして自黨が國民のために定立し且つ國民に對して公約した政策を、一日も早く實現しうるために、まつ直ぐに政爭へむかつて邁進すべきである。さういふ戰鬪性を示したときに、政黨の鬪爭團體としての本質が初めて發揮される順序である。

二八 國體明徴

 政府はせつかく國體明徴のために善處してゐる。善處の仕方が不徹底だといつてゐる人もあるやうだが、とにかく善處はしてゐるらしい。

 日本國民の一人として私も國體明徴のための善處を大いに多とするものではあるが、しかし同時に政體明徴のための運動も起きていい筈だとおもふのである。

 けだし日本は君主專制の國ではなくて、立憲法治の國である。統治權は天皇の總攬したまふ所であるが、天皇は無規律にそれを行使したまふのではない。憲法その他の法的秩序に依據してそれを行使したまふのであつて、現に憲法發布の勅語においても『朕及朕カ子孫ハ將來此ノ憲法ノ條章ニ循ヒ』國家統治の大權を『行フコトヲ愆ラサルベシ』とまで仰せられてをるのである。

 よつていま憲法その他の法的秩序を一瞥すると、(一)或る事項は天皇の御親裁となつてをり、(二)或る事項は一定の機關の參與の下に天皇これを裁決したまふものとなつてをり、(三)又或る事項は全然一定の機關の專決に委ねられてゐる。天皇御親裁の事項についても、多數の官府の配置を見る。そして各官府に、それぞれ他を侵さず他よりも侵されざる獨自の權限の分配されてゐるのを見る。まことに立憲法治の體制、整然として立ち、端然として備つてゐると申さねばならない。だからもし一の官府が、その事實上の勢力の最近非常に高まれるを頼んで、官制以上に、その權限を延ばさうとしたり、他の官府の行動に容啄し、これをして自己が希望するやうな方向へむかつて行動せしめようとしたりする事態が、假りにもあつたとしたならば、それは實にゆゆしい問題だといはねばならない。一の勢力なき官府が、その權限の行使に當つて、他の勢力ある官府の鼻息を窺ふやうな事態すら、決して正しいとは申しかねるのである。なぜならば各官制は各官府に向つて、その意思のみに從つてその權限を行使すべきことを要求してゐるのだからである。

 五・一五事件によつて『白晝斬取大臣頭』が演じられて以來、この國における各官府相互の關係は、昔日のごとき整然たる系統の美を失ひつつあるといはれてゐる。だとすると今にして大いに立憲法治の政體の大義を明徴にしておく必要があらうではないか。

 政友會が國體の明徴に關する決議案を提出したのは大いによろしい。しかしそれと同時に、政體の明徴に關する決議案をも提出してくれたなら、憲政の擁護者としての同黨の面目は一層明徴になつたらうに、と私はおもふものなのである。

二九 フアツシヨ運動の擔ひ手

 イタリイのフアツシヨは議會政治に對する民衆の絶望に發端したといはれてゐる。實際またイタリイの議會は、さうした類例の各國に多い中においても、すぐれて腐敗したものの一つであつた。『イタリイの議會はイタリイ國民の血液へ毒素をそそぐ腫瘍である。あのやうに多辯多慾な政治家共の指導に服してゐては、イタリイはいつまでたつても貧乏と不名譽の泥濘から浮上る日が來ないだらう』とまでいはれてゐた。フアツシヨ運動はかうまで墮落し果てた議會政治に對する民衆自身の果敢なる反抗に外ならなかつた。

 民衆自身の反抗に外ならなかつたといふ意味は、それが決して軍部や官僚の運動ではなかつたといふ意味である。軍部や官僚はイタリイにおいては、さう大きな勢力を成してゐなかつた。兩者共、斷乎たる改革運動の擔ひ手たるには不向きな存在であるに過ぎなかつた。殊に官僚の方は、議會政治家にも劣らず無氣力に墮落してゐるといふ非難さへ受けてゐた。民衆は議會に見切をつけてゐたやうに、官僚にも愛想をつかしてゐたのである。

 では結局誰れがフアツシヨ運動の擔ひ手となつたのかといふと、民衆自身がそれに當つたまでのことであつた。民衆はまづ各地方に愛國主義者の小團體を澤山にこしらへて行つた。全然自發的に、即ち少しも軍部や官僚の使嗾を受けずに、さうした小政黨を形成して行つた。その黨員の數は必ずしも多いとはいへなかつたが、民衆の意嚮を端的に把捉し實感してゐた點において、彼等は民衆の眞の代表者であつた。ムツソリーニは、かうした小政黨の、各地に無關係的に散在してゐたのを連絡糾合して、これを一つの組織的な團體に結成してしまつたのである。さうしてそれを踏臺にして遂に議會を乘取り、議會を自己のものにしてしまつたのである。だからフアツシヨはやはり一種の政黨の運動なのであつた。既成政黨の打倒を標榜して立上つた一の特殊なる政黨の運動なのであつた。決してそれは軍部や官僚の運動ではなかつたのである。

 ドイツにおけるフアツシヨ運動もやはり一つの政黨の運動であつた。ヒツトラーはまづ國民社會黨を作つてそれの指導者となつた。そして合法的にどしどし黨員の數をふやして行き、選擧毎に政權へ近接して行つた。そしてたうとう『民族の指導者』『議會の占領者』となつてしまつた。だからそれはたしかに議會の否認ではあつたが、軍部による議會の否認ではなく、官僚による議會の否認でもなく、むしろ政黨自身による・即ち民衆自身による・議會の否認なのであつた。民衆自身による議會の否認でなければ、いくら議會の否認であつても、フアツシヨとはいへぬのである。官僚による議會の否認はフアツシヨではなくて、フアツシヨで扮飾された官僚の擡頭現象そのものである。

 吾等は一の歴史運動を性質づける際、運動の形態を見ると共に運動の擔ひ手をも見なければならない。同じ形態の運動であつても、それが民衆自身によつて擔當されるか、官僚によつて擔當されるかによつて、その運動の性質は根本的に相異るのである。

三〇 政治とは何か

 政治とは何であらうか?日夕われらの口端に上る單語であるに拘らず、その意味はあまりハツキリしない。筆者にも實は明かでないのである。しかし最近のドイツ政治學界が驚異の限を見張つてゐるのは、一九三二年に發表されたカール・シユミツトの『敵味方説』(Freund-Feind-Theorie)である。これはシユミツトの論敵コルナイすらが『深刻にして生氣に滿てる學説』と評した位であつて、非常に斬新鋭利な學説ではあるのである(Carl Schmidt, Der Begriff des Politischen, 1932. Erweiterte Auflage des gleichnamigen Aufsatzes. Archiv für Sozialwissenschaften, 1927)。

 この説によると、政治とは一社會内の人々が何等かの問題につき敵味方の二群に分れて相論じ相爭ふことである。爭はれる問題の種類は問はない。ただそれに關しての爭が、社會を二つに割り、二つの陣營に對立させるほど熾烈でさへあるならば、それはもう政治だといふのである。例へばここに或る地位を何人に與ふべきやの點に關して爭を生じ、敵味方の對立を見るに至つたとすると、そのときは地位の問題が政治化したのである。或る政策の施行に關して爭を生じ、敵味方の別を生じたとすると、そのときは政策問題が政治化したのである。又宗教的問題や學理問題が政治化することもある。例へばローマ舊教かルーテル新教かの問題に關して敵味方の二社會群を生じたとすると、そのときはもう宗教問題でなくて政治であり、又、君主は統治權の主體かどうかの問題に關して敵味方の二社會群を生じたとすると、そのときはもう法理問題でなくて政治である。純然たる私的問題でさへもが政治化することがある。破綻した或る商店の救濟の方法について社會に敵味方的意見の對立を生じた場合のごときそれである。『ちやうど洗禮によつて人間がクリスト教徒となるやうに、敵味方的對立によつて問題が政治となる』とシユミツトはいふのである。だから政治問題の大小輕重は、爭鬪の強度によつて測定される。本來は些々たる問題であつても、大いに爭はれてゐるならば政治的には大問題だし、本來は大なる問題であつても、あまり爭はれてゐないならば政治的には小問題である。又政治問題解決の方法も結局は力である。元來が當否の問題ではなくして勝敗の問題だから、討議や説服の方法では片のつく筈もない。事實上の力の作用で敵を沈默させてしまふの外はない。戰爭は政治の本質を最も露骨に現はしてゐるのだ、とカール・シユミツトは見るのである。

 齒に衣を着せず、露骨に政治は爭鬪だ、敵味方だ、力で片づけられる問題だと喝破したところに、ナチ法學の總帥たるカール・シユミツトの面目が躍如として現はれてゐるではないか。

三一 ヒツトラーとルーズベルト

 九月號(昭和九年)の中央公論をみると、大山郁夫氏がルーズベルトの獨裁を論じてをられる。氏によると——凡そ政治形態を決めるには、政治の形式と實質とを區別して考察しなければならない。形式上はデモクラシーでも、實質上は全部的又は一部的に獨裁になつてゐる場合があり、形式上は獨裁でも、實質上は全部的又は部分的にデモクラシーになつてゐる場合もある。アメリカの現政局を見ると、未だ議會がその機能を失墜してをらず、その他の自由諸制度も保存されてゐるので、形式上は今以てデモクラシーだが、實質上はとうに獨裁へ傾いてゐると。

 大山氏の論述を見てつい私は米のルーズベルトと獨のヒツトラーとを對比してみたくなつた。けだしこの二人の大指導者は、いづれも彼等の國民へ甘美な將來を豫約してゐる。彼等を信じ、彼等の爲す所に任せておきさへすれば、景氣も好轉し、失業も一掃され、萬事萬端よくなる一方だといふふうに吹聽してゐる。しかしその約束の内容は、いづれかといふとヒツトラーの方が大げさである。ルーズベルトの方はせいぜいのところ、勞働者のために最低賃銀制を定むべきこと、最長勞働時間制を定むべきこと、工業・銀行・投機等に對しては『嚴重な監督』を加ふべきことを豫約してゐる位のものだが、ヒツトラーの方は、土地の沒收・地代の廢止・大工場の公有・大百貸商の公有・不勞所得の廢止・利子制の絶滅などといふ本格的な社會主義までも豫約してゐるからである。これは多分ドイツにおいては社會主義的思想がかなり廣汎な社會層をとらへてゐるので、ヒツトラーとしては、大衆の支援を得るがために、かうした社會主義的美辭麗句を使用せざるをえぬ必要があるのであらう。しかしとにかく口頭禪だけでも大きなことをいつてゐるので、ヒツトラーの方がルーズべルトよりも賑やかである。

 次に二人の執政ぶりを見ると、この點においてもヒツトラーの方が斷乎としてゐる。ルーズベルトの方は、選擧民や議會の意向を終始氣に病み、彼等を説服しながら政治を進めようとしてゐるのに、ヒツトラーの方はテロで反對者を恐怖させ、自己の所信をドシドシ實行に移さうとしてゐるからである。いはば前者は『説服による獨裁』であるが、後者は『テロによる獨裁』である。

 けだしドイツにおいては憲法もすでに廢止同然となり、議會も全く沈默してしまつてゐるので、選擧民の意向など毫も氣に病む必要がないのであるが、アメリカでは古びた憲法が未だに物をいつてをり、議會もその機能を保持してゐるので、ルーズベルトとしてはどうしても選擧民の鼻息を窺はざるをえぬのであらう。つまりドイツでは獨裁が憲法から解放されてをり、アメリカではまだ憲法から解放されずにゐるといふわけ。

 かうして外國の政治家の活動などを眺めてゐると、自然日本の政治家の面影なども思出される。日本にもむろん立派な政治家はゐるが、西洋に比較すると、日本の政治家はどうも地味であり、どうも見榮がしない。ヒツトラーやルーズベルトに對照すると、どれもこれも寂しい存在だといふ感がする。早い話がヒツトラーやルーズベルトは毎日のやうに街頭へ出て大衆へ呼びかけ、お祭騷ぎ的に國民を鼓舞し、みづから引率者となつて國家の非常時を乘り切らうとしてゐるのに、日本の總理大臣は大抵官邸の奧深くにとぢ籠つてばかりゐるではないか。一方は力めて國民に接觸しようとし、他方は却つて國民から遊離しようとしてゐる。實は日本も米獨に劣らぬ非常時にあるのだから、政治家たる者は進んで民衆に接近し、あらゆる機會を利用して彼の所信を披瀝してくれるといいのだが、どうもさういふ開放的態度を示してくれぬのである。せめてヒツトラーが百回叫び、ルーズベルトが十回叫ぶ間に、日本の總理大臣も一回位は叫んでもらひたいものである。空約束でも景氣のいいことをいつてもらへば、國民は當座なりとも元氣づく。

三二 重臣會議

 西園寺公は岡田啓介大將を後任首相に奏薦した際、前例のない重臣會議なるものを開いた。即ち内大臣・樞府議長・現首相・首相禮遇者等を一堂に集め、これに諮つた上で、岡田大將を後任に奏薦したのであつたが、これは今後後任首相奏薦上の定式となつて、永く守られることになるのではあるまいか。即ち今後は政變の際、元老あれば元老より、元老なければ内大臣より、上記範圍内の重臣等に諮つた上で、奏請するといふ例になるのではあるまいか。内大臣は官制上、常時輔弼の任にあるので、元老百年の後は後繼首相奏薦の大任にも當らねばならぬであらう。

 かやうな新例の開かれたことは我國憲政の運用上意義のまことに大いなるものがあるが、これにつき美濃部博士は八月號(昭和九年)の經濟往來でいつてをられる——『私はかういふ例の開かれたことを國家のために喜ぶものである。元老なき後は官制上、内大臣に御下問があり、内大臣より奉答するのが當然であるが、内大臣一人では事餘りに重大に過ぎるので、今回の例の如く、現總理大臣・樞密院議長・總理大臣たる前官の禮遇を受くる者と協議するのが適當であらう』と。

 森口繁治博士も同月の『中央公論』で、『責任ある奏薦者は制度的には内大臣であるが、政情を明かにするために、内大臣が中正の地位に立つ小勢の人々から意見を徴するも宜しからう云々』といつてをられる。

 なるほど日本には政黨・貴族院政治家・宮廷政治家・兩軍部・司法部等々、頗る多數の政治的勢力團が並存してゐて、それらがいつも微妙な駈引を弄しつつあるのであるから、政變の都度、『中正の地位に立つ重臣』を集めて、『政惰を明かにする』必要もあるであらう。重臣會議はかくして日本政界の特殊性を反映した面白い制度ではあるのである。

三三 寄合世帶内閣

 たしか岡田内閣成立の際だつたとおもふが、首相がその組閣に當つて政黨を輕視したとか、無視したとかいつて政友會方面が苦情をもち出したことがあつた。

 しかし政黨輕視の傾向を示したのは、決して岡田大將ばかりではない。日本の組閣者は一般にさうした傾向をもつてゐるのである。そしてそれは日本の組閣者としてはむしろ當然の行き方なのである。

 なぜかならこの國には政黨の外に四つ五つの政治的團體が割據して互に勢力を張り合つてゐる。その第一は貴族院政治家の一團である。貴族院はこの國では制度上巨大な權限をもつてゐるので、組閣者たるものは組閣にあたり、どうしても貴族院を實質的に動かしつつある勢力、即ち世にいはゆる官僚系政治家の勢力を尊重せぬわけには行かぬのである。第二は宮廷政治家の一味である。樞府内府等もこの國では制度上大きな權限を與へられてゐるので、組閣者は組閣上、官廷の重臣の御意向にも敬意を拂はざるをえぬわけである。第三及び第四は兩軍部である。軍部大臣はこの國では陸海軍大中將の中から選ばねばならぬ規則になつてゐるので、組閣者は兩軍部の意向へも極度に神經を使はねばならぬのである。もし誤つて軍部の逆鱗に觸れでもしようものなら、軍部大臣を出してもらふことができず、折角生れかけた内閣もために流産に終るの外はない。日本の組閣者が軍部の意向に虎の尾を踏む思ひをするのも、決して無理ではないのである。第五は司法部である。司法部はこの頃頓にその勢力を上昇させてきた。御職掌柄、政治家や資本家の暗所急所を握つてゐるので、司法部の政局破壞力ほど空恐ろしいものはない。現にいくつかの内閣がこのために潰され、何人かの大官がこのために失脚させられて來たではないか。だから組閣者が司法部の閻魔帳をそつと見せて貰つて、閣僚の顏觸を決めようとするのも、これまた無理からぬことである。

 以上四五の勢力、いづれもみな國民との間に選擧的連絡を缺いてゐる。國民は假りに彼等をその地位から追はうとしても、追ふべき法的手段を缺いてゐるのである。この意味において彼等はいづれも國民から絶緑してゐるのである。しかし彼等は現實の政治的勢力ではある。獨力以て日本の政權を乘取るだけの積極的力はないにもせよ、内閣の一つ位はいつにても打つ潰しうる破壞力は備へてゐるのである。日本で『政局』といひ、『政界』といつてゐるのは、以上のごとき諸勢力團が互に結んだり難れたり、合從したり連衡したりしてゐる状態そのものをいふに外ならない。だから日本ではどんな人が内閣總理大臣に選ばれるかといふと、右政治的勢力團のいづれか一つの代表者にして、しかも他の勢力團から差しあたり反撃を受ける心配もないといふ妥協人が選ばれる傾向をもつてゐる。何にしろ五つも六つも並存してゐる政治的勢力團相互の均衡關係によつて、政局が保たれるのであるから、内閣總理大臣としては、巧みに諸勢力間の均衡を圖つて行く人、即ち理想家よりも現實家が、革新家よりも現状維持屋が、鬪爭家よりも妥協屋が適當となるわけである。

 人はよく政黨内閣が憲政の常道だといふ。しかしそれは常道であるべきだといふ意味で、常道になつてゐるといふ意味ではない。日本では寄合世帶内閣こそが、寄木細工式内閣こそが、むしろ常道となつてゐるのである。純政黨内閣は、純軍部内閣・純官僚内閣が變態であるやうに、變態である。

三四 相澤中佐の信念

 相澤中佐は公判廷において敢然としてその所信を披瀝された模樣であるが、新聞を通して中佐の供述を讀むと、『天』とか『至誠』とか『神明』とかいふ語を澤山に使用されてゐることに氣が付く。『大日本帝國の天業を成就させるために』とか、『天誅として永田中將を弑し』とか、『至誠天に通じ』とか、『これを神明に誓ひ』とかいふの類がそれである。

 他方、永田中將の方を見ると、こちらも亦『至誠』とか『誠心誠意』とかいふ語を使用された跡がある。現に相澤中佐が永田中將に向つてその大臣補佐の業の宜しきを得ないのを責め、速かなる辭職を勸告された際、永田中將は、『自分は誠心誠意大臣を補佐しつつあり』と答へられたとは、相澤中佐自身、その供述中に言明されてゐるところである。

 かう見て來ると兩者共に誠心誠意、弑す者も弑される者も忠肝日月を貫き、至誠天に通じてゐたわけである。

 もちろんわれわれはこの二人の將校がいかにその政治的意見を對立させてゐたか、その邊の消息は少しも知らない。しかし新聞に載つた所から想察すると、永田中將の意見の頗る漸進的であつたのに對して、相澤中佐の主張はかなり急進的であつたもののごとく、その結果例へば既成の政治的勢力との關係に關しても、中將の方は或る程度までの提携を認容されたのに對して、中佐の方はあくまでもかかる妥協を排撃するといつた調子であり、到底そこに相容れぬ對立があつたもののごとくであるが、それにも拘らず二人はひとしく至誠であり、ひとしく至純であつたのである。

 かやうに主張の内容を異にさせてゐる數人が、ひとしく天を呼び至誠を叫ぶのは奇異なやうにも見えるが、實はめづらしい現象ではない。世間到る處いくらでも見出されうる事實なのである。例へば政黨政治家のごときは一部の人達からは腐敗の、墮落の、無責任のと罵られてゐはするものの、當人自身の主觀においては、やはり天下國家のために立働いてゐるつもりなのであらう。又學者・思想家・記者なども世間からは危險の、過激のと罵られてゐはするものの、當人自身の主觀においては、やはり國家民人のために憂へてゐるつもりなのであらう。社會主義者などは、『天』とか『神』とかいふ語は用ゐぬやうだが、それでも『社會的正義の實現』とか、『無産大衆の解放』とかいふ理想は標榜してゐるのを見る。

 けだし今日は多神教の時代であつて、一神教の時代ではない。今日では各人が各々神をもつことを許されてゐるのである。そうしてその神に純粹に忠實である場合には、各人が『至誠天に耻ぢす』といひうることになつてゐるのである。だから異る立場の人々が異る意見をひとしく『天』の名の下に主張したつて不思議はない。『天』は軍部のものでもあり、政黨のものでもあり、學者のものでもあるのである。

 それゆゑに吾々は『われひとり澄み、他は全く濁れり』などと獨斷してはならない。わが主張がわが主觀において至誠であるやうに、他人の主張も彼の主觀においては至誠であらうと容認すべきである。お互がお互の立場を認め合ひ、尊敬し合つたときに、初めてそこに平等が生じ、調和も生じ、平和もまた來るといふ次第である。

 今日の憂は、一部の人々が『天』を獨占し、吾ひとり至誠、他はみな濁れりとおもつてゐる所にありはせぬだらうか。

三五 小個人主義者としての日本人

 今から三十年も前に二葉亭四迷氏が、ロシヤ人と日本人とを性格的に對照して、こんな事をいつたことがある——ロシヤ人は社會の絶對的行詰りに遭着すると危險な革命家になるか、極端な耽溺家になる。性格の弱い奴は酒色へ走るが、強い奴は革命へ走る。しかし日本人はさうはならない。日本人は生活に行詰れば行詰るほど益々利己主義者になり、ますます我利我利亡者になる。極端に公事に冷淡になり、政治に無關心になつてしまふと。

 二葉亭が日本人の特質を小個人主義者たる點に見出したのは、さすがに氏の發見だつたといつてよからう。實際日本人は外國人殊にイギリス人などに比べると、非常に政治に恬淡であるやうである。中にはなかなか政治好きな人もあるやうだが、その好きといふのは、政界に野心をもつとか、政界の人物評・噂話などに興味をもつとかいふ程度のものであつて、國家の政策の研究や批判に興味を感じてゐるといふのではないのである。元來政治といふものは、自分みづから社會の問題を考へ、それへの對策を考へ、それを實現へ齎すためにみづから同志を糾合し、實際運動を起すことの謂ひに外ならぬのであるから、政治好きといふためには何よりも實際運動好きでなければならぬ筈だが、さういつた傾向をどうも日本人民層の間には發見しかねるのである。彼等は社會の改革は自分みづからがやるものではなくて、爲政者がやつてくれるものだとおもつてゐる。政治に對する態度は甚だ消極的であるのである。

 今日日本の社會では生活が年々苦しくなり、年々行詰りつつあるといはれてゐる位だから、人民層の間にも、政治の方針についての思索がもつと深刻な形で生じてもよささうなものだが、さういふ徴候はなかなか見出すことができない。フアツシヨ的傾向は顯著だが、これとても人民自身の中から自發的に發生したといふよりは、上層から天下り的に下つて來て、それへ人民が唱和隨行してゐるといつた形である。

 どうやら二葉亭が三十年の昔にいつた・日本人は生活が行詰れば行詰るほど公事に冷淡になり、極端な我利我利亡者になるといふあの觀察が、的中してをりはせぬかと疑はれるのである。

 なぜ日本人はかうも政治に對して冷淡なのか、私はいまその原因を尋ねてはゐられない。しかし封建時代には政治は人民のやるものではなくて、支配者のやつてくれるものであつた。人民としては支配者の政治を最も賢明な政治だとして有難く受取り、從順にそれに服從してゐさへすればよかつたのであつた。日本人が今日なほ政治に對して受動的であるのも、恐らくは日本がつい最近まで封建的・警察國的政治形態を持ち續けて來たためではなからうか。

 しかし問題はその原因の探究よりもむしろその結果の豫見にある。日本人民層の非政治的性格が、將來の日本の改造運動へどんな影響を及ぼすだらうかの豫見にある。將來どんな改造運動がこの國に起きるか、神ならぬ身の知る由もないが、それが何んであるにせよ、それは人民層自身によつて擔當される運動ではないであらう。政治に對してかうまで恬淡な日本の人民層が、大きな歴史運動の擔當者となつて行動しようとは、ちよつと想像が出來ぬからである。

 將來もし日本に何等かの改革運勤が起きるとしたら、その運動は、例へば『少壯官僚』『青年將校』といつたやうな支配者層中の進歩的分子によつて擔はれるのではないだらうか。

三六 總選擧とお祭騷ぎ

 ローマのシーザーは市民の人氣を博するために表裏さまざまの術策を弄したが、時どき盛大なお祭騷ぎを催して市民を陽氣に躍らせてしまふのもその手の一つであつたといふ。何にしろ南國の、陽氣な興奮的なローマ人のことだつたから、祝酒の一杯も飮まされてゐる間には大抵、浮か浮かとシーザー謳歌の氣分になつてしまふ傾きがあつたのであつた。シーザー自身は祭禮の當日には特別に華美な伊達衣裳を身に着けて街の廣場に現れることにしてゐたが、群衆は彼の姿を見つけると、長い花のやうな行列の歩みを止めて喝來の嵐を送るのであつた。あの美男のシーザーが赤い衣服を身に着けて天の一方を青眼に睨みつつ群衆から歡呼の聲を浴びてゐる光景などは、映畫の場面としても結構であらう。

 政治は元來派手であり、陽氣である。お祭騷ぎと人氣取りとは政治に附纏ふ必要な附屬物であるのである。なぜかといふと政治は公共の事務の處理である。公衆の意思を代表して公共の事務を公々然と處理することが即ち政治に外ならぬのであるが、そのためには是非とも公衆の人氣を背後に背負つてゐなければならない。政治家の行はうと欲してゐる改革が斷乎たる性質のものであればあるほど、大きな勇氣・大きな力を要するわけであるが、さうした勇氣と力とは、彼が公衆の負托を受けてゐるなと感じてゐる・その自信の中からのみ湧いて來るのである。だから公衆の後援は政治家にとつては絶對に必要だ。機械に動力の必要なるがごとくに必要だ。ゆゑに政治家へは人氣取やお祭騷ぎもある程度までは許してやらねばならない。派手な陽氣な行動をも認容してやらねばならない。それをやらせなければ政治家が民衆の心をとらへることが出來ず、民衆の心をとらへることが出來なければ政治家そのものが『動かざる時計』となつてしまふからである。

 總選擧は立憲治下における政治的お祭騷ぎである。政治家の心と民衆の心とはこの機會において相觸れ、相結ぶ。政治家がその政見を民衆に徹底させるのもこの機會であり、民衆の要求を生々と實感するのもこの機會である。だから總選擧は許されるだけ派手であり、陽氣である方がいい。派手であればあるほど民衆の政治的關心は湧き、その政治的要求も鮮明に浮上つて來るからである。

 假りにここに男子にも女子にもひとしく選擧權の與へられてゐる徹底的普通選擧の國があつたとする。そして言論の自由・集會の自由もそこでは充分に保證されてゐたとする。その上になほ政爭の主題・論爭の題目などもハツキリとした特定を示してゐたとする。さうするとそこでの總選擧は實に華々しい樣相において展開されることとなるであらう。即ち平素は政治を論じなかつた人達も大いに論じ、大いに主張するやうになる。平素は政治運動などやらなかつた人達も大いに運動し、大いに爭ふやうになる。投票日がいよいよ近づくと政爭は一段の熱と華やかさを加へ、各黨各派が自派の候補者を行列の先頭に押立てて街々を練り歩くやうになる。兩側の家々は好みの黨派旗を翻へして自黨への好意を示す。旗の海・吹流しの海・音響の海・ネオンサインの海、街は全くお祭のやうになる。そして各黨各派が爭ひに爭ひ揉みに揉んだその揚句、遂に投票箱の蓋を開き、政戰の勝敗をこの一擧に決してしまふ。それはまことに一つの社會的壯觀ではないか。いな人間社會における最大の壯觀ではないか。

 選擧公營もいい。肅正選擧もいい。しかしそのために民衆の政治的關心を萎縮させてしまつてはならない。民衆の立憲精神を後退させてしまつてはならない。私は肅正選擧の影にどうやら黴臭い警察國的臭氣のプンと漂つてゐるのを甚だ遺憾におもふ者なのである。

三七 英書時代

 日本の大學の法學部は、日本の法律の外に英法・獨法・佛法のうち、どれか一つを學習させてゐる。經濟學部の方でも英・獨・佛のうち、どれか一つを讀ませてゐる。教授のなかにも英書に親しみをもつ人、佛書に詳しい人、獨書に堪能な人の區別がある。

 明治以後の變遷を見ると、初めは英佛の學が隆盛だつたが、後にドイツ學の擡頭となり、遂にはドイツ學の絶對的盛勢となつてしまつた。學問といへばドイツ書を讀み、ドイツ風に考へ、ドイツ文獻を引用しつつ書くことだと考へられるやうにさへなつてしまつた。法律學においてはこの弊が殊に甚だしく、英書などは學術書でないかのやうな取扱を受けて來た。

 社會の實情を見ると、この國で一ばん普及してゐる外國語は英語であり、この國と外交的交渉の多いのも英米であり、殊に經濟取引においては英米が斷然リードしてゐるのであるから、法律なども英米式であつてくれた方がどれほど便利だつたか分らぬのであるが、明治政府はドイツ風に法律を作り上げ、學者もドイツ風に考へたり、書いたりして來たのである。

 その理由はたしかにドイツの學問の世界的優越のためであつたが、一つは明治中期の官僚的權力組織がドイツの制度文物を悦び迎へたからでもあつた。『英學は町人の學問であり、ドイツ學は官吏の學問である』と、明治の官僚はひそかにきめてゐたのである。そして官吏や軍人や裁判官をドイツ學を以て育て上げることにしてゐたのである。

 世界大戰があのやうな結果をドイツの國運の上へもたらしてしまつたので、ドイツの學問の前途も一時はかなり氣遣はれたが、事物を徹底的に考へ拔かねば止まないドイツ人の學的精神は戰敗によつて毫も崩れを見せなかつた。自然科學の方面は知らず社會的諸科學の方面においては、大戰後もドイツはやはり最高の學問の國としての光榮を保ちつづけた。日本におけるドイツ學尊重の風も毫も衰へを示さなかつた。

 ところが最近におけるナチの横暴は、ドイツの學問をナチ綱領の框の中へ幽閉してしまつた。そこにはもう研究の自由などは存しない。存するのは、強ひられた信仰と煽られた情熱だけである。澤山の著書論文は出るには出るがいづれも千篇一律、ナチ思想の埒内のものでしかない。甚だしいのは著書を讀んでゐるといふ感じよりも、ナチの宣傳書を讀んでゐるといつた感じを與へる。それはたしかにドイツ社會的諸科學の轉落を物語る現象でしかないであらう。

 ところがその間に英佛殊にイギリスの社會科學界は俄に括溌な樣相を呈し初めたが、これはイギリスが言論自由の國であり、近時はさすが取締も嚴になつたとはいはれつつも、他國に比すればなほ大いに寛大であるがためではなからうか。今日イギリスにおいてはイギリス人の著書の外にドイツ人・ロシヤ人・イタリー人・ユダヤ人等の英語による出版物が盛んに現れつつある由に聞くが、これは自分の國において自由に物を言ふことを禁じられた外國人の鬱さばらしとしか解釋できない。即ちドイツ人やロシヤ人やイタリー人がロンドンへ來て英語で氣焔をあげてゐるといつた形ちである。この文化の後退期・思想の窒息期において、ロンドンだけが『窓のある部屋』となつて生新な外氣を呼吸しつつあるわけである。

 だから今では英書は決して輕視されてはならない。最も進歩的な社會思想が往々英語で發表されてゐるのを見るのである。

三八 モルガン

 曝書の日、書棚の隅をかきまわしてゐると、俗惡な色文字で『世界の號令者モルガン』と題してゐるドイツ語の小冊子を發見した。これは私がべルリンの靜かな郊外に住み、日々鐵道でべルリン大學へ通つてゐた頃、停車場の賣店で買つた通俗本で、その頃はちやうどドイツ政府がその財政上の窮乏を切拔けるために、モルガン商會から借金するとか、せぬとかいふ噂の高かつた時節だつたから、相當に讀まれた書物なのであつた。いまこれをめくつてゐると、その頃の生活のなつかしい思出も湧き、つい釣りこまれて虫干の手を休め、全部を再讀してしまつたのであつた——

 この書によるとモルガン商會の大建設者は當主の父J・Pモルガンといつた人で、彼もまた富有な銀行家を父として生れたのではあつたが、少年の頃はまことに内氣な沈んだ性質で、友達と遊んだりするよりも、獨り室内にゐて靜かに考へてゐるといつた風があつた。やや長じて歐洲へ遊んだが、『その時の親しい侶伴も、トランク一杯に詰めこまれた書籍の外ではなかつた』とこの書物はかいてゐる。初めスヰスに入り、ジユネーヴに滯在してゐたが、虚弱な身體はアルプスの登攀に堪へず、わづかに清澄なジユネーヴ湖の水の面にアルプスの氣高い姿の逆まに映つてゐるのを見入つてゐるばかりであつた。やがてドイツに入つてからは、今も昔も數學の研究を以て名高いゲツチンゲン大學に入學した。そして數學の研究に沒頭した。數と數との間の微妙な關係、靜かな調和、美しい系列——それへ若きモルガンの魂は限りもなく吸込まれて行くかに見えた。

 冬の休暇にはきつとフランス又はイタリーへの旅。そこに殘つてゐる過去のヨーロツパの面影や、古い藝術の香りにモルガンの心は醉はされ、恍として歸るを忘れるといつた樣子であつた。

 一人息子を銀行家に仕立てようと考へてゐたその父は、息子が一向經濟へ心を向けず學問の方へばかり引寄せられてゆくのを見て心配し出した。幾度か忠告の手紙を送り、後には戚赫もし、歎願さへもした。しかしどうしてもモルガンの好學は止まなかつた。遂に止むなく親の威力でアメリカへ呼び戻し、父の銀行で働かせて見たが、やつぱり貨殖の道へは心を移さず、學問のことばかり考込んでゐた。或る大きな會社の重役にも取立てても見たが、戀しがるのは歐洲の空ばかりであつた。

 ところが或る年の冬、暇をぬすんで憧れのパリへ旅立つたのが機縁となつて、急角度の廻轉がモルガンの上へ襲つて來た。それは或る夜オペラの見物中、容姿楚々として花も恥ぢろふ一個の美少女を發見し、全くこれに惱殺されてしまつてからのことである。生來その衷に詩人的な熱血を藏してゐたモルガンは、その美少女を見てから父を忘れ、アメリカを忘れ、學問をも忘れて狂暴的に戀愛の中へと落込んで行つた。そうしてとうとうこの少女と結婚の式を擧げるまでに漕ぎつけはしたが、何たる不幸ぞ、式後わづかに五日にして新婦は歸らぬ旅へと上つてしまつた。豫ねてから胸の病をもつてゐた彼女は式後病勢俄かに募り、大咯血と共に倒れたのだといふ。モルガンは天地一時に崩壞するの思ひをなし、四邊が一時に暗黒になつたやうな衝動を受けた。實際、當時の彼の物凄いばかりの痩せ方は、殆ど目撃に堪へなかつたといふ。

 かかる人生の大不幸に際會してこの詩人肌の青年がどんな心的轉換を經驗したか?小説家ならぬ私は洞察することができないが、しかしこの不幸を轉機として突發的な變化の生じたことだけは事實であつた。なぜかなら今までどんな意味においても貸殖家でなかつたモルガンが、この時以來恐ろしい金色の夜叉となつて現はれたからである。あの物凄いやうな金融上の大天才を發揮し初めたのは、彼が戀に痩せ病に衰へた體を再びアメリカに運び、ニユーヨークなる父の事務所に入つてから後のことであつた。

 私はここにモルガンの貨殖傳を書かうとはおもはない。私はただ彼の致富術の一風變つてゐたことについて一言したいだけである。彼はあの通り、神のごとき迅速さを以て世界大の巨富を築き上げてしまつたが、その成功は決して『努力奮鬪』の賜ではなかつた。彼は『汗と膏』で成功したのではない。彼はその『頭腦』によつて、その『科學的判斷』によつて、成功したのである。

 即ち銀行家となつてからの彼は、相も變らず靜かな一室の中にばかり閉ぢこもつてゐた。忙しさうに世間を飛歩くといふやうな風は少しも示さなかつた。外部から見てゐると、その生活は冷靜そのものであり、ゲツチンゲン留學當時と少しも異ならなかつたといふ。

 ただゲツチンゲン時代には彼の机の上には澤山の數學書類が並べられてゐたが、ニユーヨーク時代には、諸會社の營業状態に關する調査書が山のやうに積まれてあつた。彼の室は宛然として各會社の業績の調査室たる觀があつた。彼はその中に獨坐して靜かに各會社の營業状態を調査し、經濟界の趨勢・相場界の動向に熱心な注意をそそいでゐた。彼は時代がちやうど自由競爭の段階を過ぎて獨占の段階へ移りつつあること・産業資本の時代を去つて金融資本の時代へ進みつつあることを知つてゐた。そしてどの事業が勝つてどの事業が倒れるか、どの會社が殘つてどの會社が陶汰されるかを、科學的正確さにおいて判斷した。そして獨占者となりさうな會社の株式は隼のやうな迅速さで買占め、劣敗者となりさうな會社の株式は無慈悲な仕方で賣崩して行つた。相場變動の方向を見拔くその眼力は、電火の暗室を射るやうに凄かつたといふし、經濟界のあらゆる變化を自己の利益のために利用してゆく駈引の巧妙は名將の操軍を思はせるものがあつたといふ。彼は實に經濟戰場における一個の科學者であり、一個の戰術家であつたのであつた。

 『世界の號令者モルガン』と題する俗惡本を散讀して上記のやうな感想を浮べてゐる間に、初秋の陽は傾き初めた。あわてて一面に散ばつてゐる書物を片づけ出すと、そこには『キング』『實業の日本』といつたやうな日本の通俗雜誌の一山もあつた。つい手を出してその一つ二つをめくつて見ると、成功者の『成功談』・『青年訓』などが載せられてある。どんな教訓かと覗いて見ると、或る人は『粉骨碎心、大いに努力せよ』といひ、或る人は『堅忍不拔、どこまでも頑張れ』といつてゐる。『節約こそ資本蓄積の基礎だ』と説いてゐる人もあり、『巧妙に上長に取入らねば成功は覺束ないぞ』と諭してゐる人もある。しかし粉骨碎心・堅忍不拔で成功しうるならば、日本人の全部が成功してゐる筈ではあるまいか。世界中に日本人ほど勤勉な民族は又とない。彼等は全く一年無休、夜となく晝となく、働きづめに働いてゐるのだからである。しかもなほ貧乏、一生浮き上ることもできずにゐるのはどうした事だといふのであらうか。私は成功者の成功談や青年訓のあまりにも甚しい空疎性にあきれてしまつた。そしてこのやうな道徳教に發奮して、努力奮勵、あたら一生を塵勞の影に沈めてゆく無數のあはれな犧牲者の上を想ひやつた。

三九 アメリカからの新鮮な風

 ——編輯部の諸兄

 僕はいま東海道を「つばめ」で走つてゐます。「名だけはつばめだが、アチラの急行に比べると、のろいナ」などと考へてゐる際、ふと思ひ出されたのが、諸兄への文債です。今度こそキツト書くと安請合に請合つておきながら、すつかり失念して出發して來たこととて、今頃はきつと諸兄をあわてさせてゐることでしよう。さうおもふと、さすがズボラ屋の僕も恐縮に堪へません。よつて緊急行爲として、只今車中のつれづれに読んでゐるHans Fehrの小冊子『法と現實』(Recht und Wirklichkeit)の中の一節を要譯紹介して、代物辨濟に充當しようとおもひついたのです。どうか受領を拒絶しないで下さい。

 Fehrはご存じの通りドイツ法律史の大家で、なかなか豊麗な文體と自由な思想との持主でもあります。この小冊子のなかにも自由な思想が輝やかしく出てゐるのを見ます。『アメリカからの新鮮な風』と題する一節をご紹介申しませう。

 Fehrはかういひます——ドイツやフランスでは、いくら學者が生産手段の社會的機能を説いたつて、いくら企業の公共的性質を教へたつて、實際界はなかなか受容れようともしないのであるが、これはドイツやフランスでは傳統の束縛と歴史の重壓とが強く殘つてゐて、新倫理・新法律の發生を阻止してゐるからである。しかしアメリカは事情が違ふ。そこには超克せらるべき過去がない。無限の未來と縱横の建設とがあるだけである。又アメリカには貴族と庶民との差別もない。アメリカの資本家は貴族的倨傲をもたず、アメリカの勞働者は被傭者的卑屈を知らない。双方が同一の平面に立ち、互に各自の力を問題にしてゐるだけである。『汝は何であるか、どこから來たか』を問題にせずに、『汝は何をなし能ふか、どこへ行くか』を問題にするのみである。實にアメリカ人は政治的にばかりでなく、經濟的にも亦民主主義者である。アメリカ人は一般的に政府の指揮を喜ばない。あへて公權の干渉を俟たず、人民みづからの發意で改良して行くといつた概がある。所有權の社會化の問題だつて、アメリカでは國權の發動を要しない。人民みづからが、企業者みづからが、企業の經營を自分で社會化させ、公共化させつつあるのである。

 でまづアメリカにおける企業の法的地位を見ると、そこには企業を普通の私的使用財一般から強く區別しようとしてゐる傾向が見える。普通の私的使用財は所有主の利己的處置に一任しておいても差支ないが、企業の方は社會的福利増進の見地から積極消極種々の義務を課せられなければならないと見てゐる。けだし企業の大なるものにおいては、數千の、いな數萬の、勞働者及び使用人が參加してゐるのであるから、企業は企業者一人の利益のためにではなくて、數千數萬の勞働者及び使用人の利益のために、延いてはそこから生産される商品を消費してゐる消費者一般の利益のために、經營されなければならない。その所有主はたとへ私人であらうとも、法は企業へは或る程度の干渉を加へざるをえない。元來物が何人の所有に屬するか、國家の有に屬するか、私人の有に屬するかは重要なる問題ではない。重要なのはむしろ物の使用方法上の區別である。即ちそれが私的の利益に供せられてゐるか、公共の利益に奉仕してゐるかが區別の重要點である。そして公共の利益に奉仕してゐる場合には、法はこれを一般の私的使用財から區別し、これに對して強い社會的拘束を加へねばならぬと見るのがアメリカ的考へ方であると、かうFehrはいつてゐるのであります。

 又Fehrによると、アメリカでは金融資本家が企業の經營に容喙するのを法律の力で禁止し、あくまでも企業の經營者に不羈獨立なる地位を保障しようとしてゐる。けだし企業の經營者又は指揮者は、企業といふ社會的大機械を運轉しつつある技師であるから、彼の機關の廻し方そのものへは何人も干渉してはならない。みだりにこれに干渉すると、機械の轉廻が圓滑に行かなくなり、企業に關與してゐる數千數萬の生命を、又一般消費者の利益を、害することにもなると、かう考へてアメリカでは企業の經營者を金融業者の掣肘から解放しようとしてゐるのだといふのであります。

 次にFehrは、アメリカの會社が勞働者や使用人へ株式を取得させてゐるのを、口を極めてほめ上げてゐます。一九二六年には三十一萬五千四百九十九人の勞働者及び使用人が、一人あたり平均十三株半の割合で、株式の取得者となつた。その總株の時價七億ドルを越えたと報じてゐます。又Fehrは、フランスの勞働者參加株式會社は單に勞働者の仕事熱を刺戟するために過ぎぬから、勞働者がその取得せる株式を他へ護渡するのを禁じてゐるが、アメリカでは普通の株式を勞働者及び使用人に與へ、彼等をして普通の株主と全く同じ地位を取得させるといつて、アメリカをほめてゐます。『企業に共働する者をして企業上の持分を取得せしめよ』といふヨーロツパの學者が永い間唱道して來つた理想が、アメリカでは今や實現されんとしつつあるのだといつて、Fehrは大いに羨望してゐるのです。

 以上はFehrのアメリカ論ですが、彼はすぐその次節においてロシヤの法律のことも論じてゐます。ここにも新鮮な風が吹いてゐるからです。しかし私はロシヤの事には觸れますまい。兄等の思想の善導のために、又、僕の首の安全のために。

 汽車はやがて京都です。

四〇 家族制度と資本主義

 親子兄弟が一つ屋根の下に暮らしてゐるのは、世間普通の現象であるが、よく見るとそこにはいろいろの型がある。いはゆる家族制度はその一つであつて、親子ばかりか、孫までも含んでゐるところがその特色であるのである。即ちこの型の共同生活においては、老夫婦・若夫婦・未婚の子女・孫などが家族員としてその構成に參與してゐるのである。

 かういふ家族的共同生活にあつては、通常、その中の一人が家長として上に立ち、全部の者の統制に當る。その權力の強弱は時により處によつて大いに異なるが、とにかく家族員の行動をある程度まで掣肘しうる力を家長はもつのである。またかういふ制度にあつては家は獨立の主體であつて獨自の名をもち、獨自の名譽をもち、獨自の財産をもつ。家名・家産・家督などいふものがそれである。さらにこの制度にあつては、家は永遠の存在であり、家長の交替・家族員の代謝に拘らず、家自身は永くその同一性を保つ。家名の推持・家系の存續といふやうなことが、實に輕からぬ問題だとされてゐるのである。

 しかし家の維持のために最も重要なものは、何といつても家附の財産即ち家産である。家産は法律的形式的にはたとへ家長一人の所有といふことになつてゐるにもせよ、實質的經濟的には家の有であり、全家族員の總有である。ゆゑに法律が形式上、それを家長の個人有としてゐる場合には、法律は大抵家長の處分能力に制限を加へ、家長は獨斷で家産を賣買質入することをえず、賣買質入せんと欲せば必ずや家族員の同意をえざるべからずといふ風に定めるのが普通である。けだし家産は家族生活の物質的基礎であり、それがなければ一家一族一つ竈を圍むといふ折角の淳風も、底の拔けた器同然、名のみあつて實なきものと化してしまふからである。

 だから結局、家族制度は二つの要素をもつ——一は人的要素としての戸主及び家族。二は物的要素としての家産。

 いまこれを日本民法に見ると、民法が上述のやうな家族主義を日本における親族的共同生活の典型的なものだとなし、これを基準にして『家』の觀念を立てたことは明白である。なぜなら日本民法の『家』は、夫婦と未成年の子ばかりでなくて、成年の子・子の妻・孫・孫の妻等々をも含みうるものとなつてゐるからである。しかし日本民法においては、財産は家のものでなくて、父のもの・母のもの・子のもの・孫のもの、即ち個々人のものである。そして中んづく父がそれを有する場合には、彼はこれを處分するにつき何等特別の制限に服しない、彼は獨斷でこれを賣買質入しうることになつてゐるのである。

 かやうに家長たる者が、實は家族全員の生活の基礎となつてゐる所のその財産を處分することについて、何等特別の掣肘を受けないといふのは、家族制度として、まことに變態的なものでなければならない。

 なぜ日本民法は折角の家族制度をこんな變態的なものにしてしまつたのであらうか。なぜ家族制度の人的要素ばかりを留めて、その物的要素を削つてしまつたのであらうか。私はなかなかそれに答へることができない。しかしかうはいひうる——もし家族制度の物的方面をも殘存せしめておいたなら、戸主による土地家屋の賣買質入がそれだけ困難となり、大地主・銀行家による土地の兼併がそれだけ又困難となり、彼等における資本の原始蓄積がそれだけ又阻害せられ、延いて又日本資本主義の發達がそれだけ阻害されたであらうと。實に家族制度の物的要素を抹殺することは、日本においては大地主・資本家の原始蓄積を容易ならしめるために、又日本資本主義の華やかな發展を促進するために、どうしても必要な事なのではあつた。

四一 小作關係

 日本資本主義の特質を研究した勞作として、山田盛太郎『日本資本主義分析』、平野義太郎『日本資本主義社會の機構』の二書が有名なものとなつてゐるのに對して、鋭い質問の矢を放つたのが岡田宗司『日本資本主義の基礎問題』(昭和九年八月號改造)である。

 即ち山田、平野兩氏は——日本の地主は、今なほ封建地主的である。けだし資本主義の特徴は、賃銀形態の中から餘剩勞働を搾取するといふ點にあるのに、日本の地主は、このやうな方法をとらず、むしろ直接に小作人の餘剩生産物そのものを物納させつつあるからである。その吸取の方法の現物的なるの點において、又吸取の額の高率なるの點において、日本の地主は今なほ半封建的である。そしてかかる半封建的小作關係を基礎として維持され、發展し來つた點に恰も日本資本主義の特質があるのであると、かう山田氏等は見られたのであるが、これに對して岡田氏は——資本主義は賃銀勞働の搾取を基礎とする經濟組織であつて、それ以外の勞働の搾取を基礎とするものではない。農奴勞働のやうなものを基礎としてゐては、いつまでたつても資本主義の發展を見ることができない。もし小作制度が日本資本主義の基礎であるならば、それは山田氏等のいふやうな半封建的性質のものでなくて、もつと資本主義に適合せしめられてゐる性質のものであらう、と反駁されるのである。事は實に日本における小作關係の本質に關係してをり、又資本主義的經營の方法がどの程度までこの國の農村へ侵入してゐるかといふ問題にも係はりをもつてゐるのである。

 吾等素人にはわかりさうもない問題であるが、顧みるに外國では資本主義發生の開初において、地主が農奴を土地外に追逐して新たに自由勞働者を雇入れ、地主みづから農場の經營に當るといふ風が盛行したのに、日本では農奴の追逐も資本制農場の經營も遂に見ることを得なかつた。明治政府は百般の改革を斷行して日本をモダンなもの・明るいものにはしてくれたが、小作關係の改革へは手を染めず、地主をして舊幕時代とほぼ同程度の、高率小作料を現物的に吸取することを可能ならしめて來た。維新以後に出現した大地主も、半封建的現物吸取の方法を踏襲するのみで、資本制農場經營の方法は採らなかつた。つまり日本では資本主義的經營の方法が農村へ殆ど侵入せずに來たのである。

 だから日本の農村では地主だけが貸幣獲得の手段をもち、小作人はかかる手段を缺く。けだし地主には、小作人から收取した農産物を商品として販賣する可能があるが、小作人の手には、商品として賣出しうるやうな農産物が餘されてゐないからである。地主に對して半封建的小作料を納付してしまへば、餘すところはただ自家消費用の農産物だけとなるのが、日本小作人の常態ではあるのである。

 しかし商品購入の必要は、彼等小作人の上へも不可避的にのしかかつた。だから彼等としては貸幣獲得のために、副業・出稼等をなしたり、止むなくんば消費用農産物の窮迫賣却さへしなければならなかつた。小作人煉獄苦の原因は、どうもこの邊に潜むやうである。彼等は一方半封建的小作料の重壓を受け、他方貨幣經濟の侵撃を受け、まさに挾撃の中に立つ。

 かう考へてくると、小作關係の本質論が、いかに重要な問題であるかがわかる。農村救濟も時局匡救も根本的には小作關係の本質論へまで觸面して來なくては嘘である。私には岡田氏の批判の當否はわからない。しかし問題の重要性はわかる。私はこの國の農業理論家たちが、この重要な論戰へ華々しく參加して、投げられた問題の根本的解明に協力してくれるやうに望んで止まない。

四二 農村危機

 『改造』の七・八・九月號(昭和九年)に亘つて連載された猪俣津南雄氏の農村踏査報告書は面白かつた。吾等は氏の筆に手を引かれて全國の農村を行脚して歩く思ひがしたのである。しかしその中から教へられる小作人の生活状態は、泣くに泣かれぬ悲慘さであつた。氏は教へられる——昨今の小作人は必死に小作地にしがみついてゐる。地主から小作地を取上げられるのを何よりも恐れてゐる。小作したとて採算のとれやう筈もないが、小作を失つてしまへば死ぬより外はない。問題はもう損得ではなくて生死であると。

 氏は又いはれる——小作爭議は都市工業の發展が農村人口を吸收しえた時代の現象に過ぎなかつた。當時は小作人はいつでも都會へ出られえたので、敢へて土地の返還をおそれず、強硬な態度で地主へ當ることもできたが、今では都會へ出ても職がないので、小作條件の過酷を忍びつつ、村に止つて耕作してゐる次第であると。

 かういはれてみると、農民が自由に工業勞働者へ轉化しえた一昔以前は、むしろ『農村華やかなりし時代』なのであつた。今では彼等はプロレタリアートとなることすらも容易でないのである。ここに我等は農民現下の全く追ひつめられた姿を見る。

 では彼等をどうしたら救濟できるであらうか、同月號(昭和九年九月)の『經濟往來』を開いてみると、阿部眞之助氏が農村救濟の困難性についていつてをられる。曰く——『農村救濟の聲を聞くこと、既に久しい。だが農村は嘗て救はれない。救へども救へども救はれない農村なのである』と。又いはれる、『政治家の一人一人を叩いて見るがいい。上大臣より下は陣笠議員に至るまで、實は——聲を潜めて、根本的の救濟策は見出せないと、兜を脱いでゐるのである』と。

 果して農民救濟がかうまで望み薄なものなのであらうか。もしさうだとすると、吾等はもう姑息の手段などに終始してはゐられない。退いてその原因に遡り、なぜ農民はかうまで疲弊してしまつたか、なぜ救つても救つても救ひえぬほど疲弊してしまつたかの原因を究極的に突き止めなければならない。そうしてその究極の原因の認識から再出發して農村救濟の根本手段を講じ直さなければならない。眞の救濟手段は眞の原因の科學的究明の中からのみ生れ出るのである。

四三 過剰人口

 人口問題の研究者として知られる上田貞次郎博士は、九月號(昭和九年)の『改造』に『我國の人口構成と職業問題』を發表された。吾等素人も權威者の研究報告書へは一應眼を通す義務を感ずるのである。

 氏は考へられる——凡て人口問題を論ずるには、人口の總數ばかり見ずに、人口の年齡構成へも注意を向けなければならない。殊に壯年人口即ち十五乃至五十九歳の人口へ注意を向けなければならない。壯年人口は職業を求め、配偶を求める活動力の最も旺盛な人口であるから、この人口の増加する時期は歴史上の重大時期であると。

 かうした見地から氏は一九二〇年と三〇年とを對比され、その間に有業者の數は一四%しか増加しなかつたのに、壯年人口の方は一八%の大増加を示した。即ち我國ではこの數字通り、職業の増加が人口の激増に伴はなかつたのだとされるのである。最近この國において壯年者の就職状態が著しく惡化するに至つた原因も、氏によると、壯年人口が職業の増加に比して、不釣合に増加したことに原因するといふのである。

 又氏は人口の職業分布についても貴重な報告を投げられる。曰く——一九二〇乃至三〇年間に農業人口即ち農業によつて養はれる人口は全く増加を示さず、工業人口即ち工業によつて養はれる人口もあまり大きな増加は示さなかつたのに、ひとり商業人口即ち商業によつて養はれる人口のみは三九%の大増加を示してゐる。これは我國における増加人口の主要部分が、農業方面へ吸收されず、工業方面へも吸收されず、むしろ商業方面即ち物品販賣業・接客業・公務自由業等へ吸收されて來た事實を物語るものであると。そして氏はこの國における商業者殊に小賣業者の窮乏の原因を、商業人口の不釣合なる増加・同業者の過甚なる競爭に求めてをられるのである。

 私は氏が日本人口の職業分布を明かにしてくれたことを多としたい。しかし人口の職業分布は、ヴアルガなどもいつてゐるやうに、人口の階級分布を示すものではない。同じ農業者にも地主もあり、小作人もある。同じ商業者にもブルもあり、プロもある。而して一國歴史の運行に大關係をもち、政治の動向に大影響をもつもつものは、人口の職業分布ではなくして、その階級分布であるであらう。私は日本人口の職業分布を明にしてくれた上田氏が、さらに日本人口の階級分布をも明にしてくれるやうに期待する。

 又氏は十五歳乃至三〇歳の農民の驚くべき多數が都會へ流れ込み、大小商店の店員・旅館飮食店の職業婦人・劇場映畫館の使用人等となりつつある事實を統計的に立證されてゐるが、かやうに農村の過剩人口が多數都會へ流れ出で、物品販賣業・接客業等へ吸收されてゆく現象は、そもそも何を意味する現象なのであらうか?もし日本資本主義の發展のテンポが充分に速やかであり華やかであるならば、過剩人口は生産行程へ吸收されて、工業勞働者に轉化して行くであらうに、それがむしろ流通行程へ流れこみ、商業使用人・接客業者等になつてしまふのは、取りも直さず、日本資本主義發展のテンポが、人口激増の勢に比して餘りに遲々たるがためではなからうか?即ち農民が商業方面へ向つて流れて行くといふことそれ自體が、すでに資本主義的發展の停頓を物語つてゐるのであるまいか?

 上田氏も日本の商業人口は不釣合に多過ぎるといはれ、『他日機をえて何らかの方策によりこの状勢を打開しなければならない』といはれるが、氏の考へられる打開案といふのは、畢竟、日本資本主義の華々しき發展に俟つといふことにつきるらしい。しかし日本資本主義發展の前途が氏の考へられるほど洋々たるものならば、商業人口の過剩といふやうな現象が初めから起きてゐなかつた筈だと、素人の我等には考へられるが如何?

四四 産兒調節

 こんどのオリンピツクで有名になつたグリユーネ・ワルドは秋は落葉を踏んで散歩するによろしく、夏は男女の密會地になるので有名な場所なのであるが、僕はドイツ留學中、この廣大な林園内のとある別莊に二ケ年近くも住んでゐたので、勉強に疲れると杖を曳いて園内を縱横に截斷してゐる林道の上を散歩する例にしてゐたが、ある日のこと散歩の杖の先きに妙なものが附着した。見るとそれはゴム製のまことにへンなものだつたので、僕は全く苦笑を禁じ得なかつたが、驚くべし、その後の散歩の際に注意して見て行くと、同種の品物がしばしば發見されるではないか。點々として散在してゐるといつては大げさになるが、とにかく相當なものではあるのである。

 またこんな話がある——ある日曜の午後、僕がある婦人のお伴をして街路を散歩してゐると、はるか向ふから勞働者風の男が妻子と子供二人を伴れて歩いて來たが、やがて近距離に近づいたとき、僕の伴れの婦人といふのが、アツとばかりに驚きの聲を立てようとするのである。何がそんなにこわいのか見當がつきかねたので、勞働者夫妻をやり過ごしてからそのわけを質してみると、御婦人曰く——お前はあの勞働者の妻君を見なかつたのか?彼女は姙娠してゐる。少さい子供二人をもちながら今また姙娠中なのである。あああの人たちの收入で三人の子供を持つとは!といつてもう一度、驚きの聲を發しさうにするのである。

 この事があつてから私は、西洋人といふものの人口過剩に對する恐怖心を十分に認識することができるやうになつた。どんなに彼らが産兒制限・姙娠調節に腐心してゐるか、どんなにその目的のために細心の注意を拂ひ、周到の工夫をめぐらしてゐるか、到底われら日本人の想像を絶してゐる程度のものだといふことを深く深く感じ知るやうになつた。

 しかし人口を調節し産兒を制限しようとする傾向は、何も今日にはじまるのではない。ギリシア・ローマの昔から西洋ではさうした方面への注意がなかなか行屆いたものであつたのである。

 まづギリシアを見ると、プラトーは不具に生れついた者を祕密の間に處分してしまふのは、國民の素質の低下を防ぐ正當な處置であるといつてゐるし、アリストテレスも人口の無制限な増加を抑止するために、國家は法律をもつて産兒の數を規定する方がいい。そして規定以上の出産となるべき場合には母をしてなるべく早期に墮胎させてしまふ方がいいといつてゐるのである。何にしろギリシアはあの通り國は狹く地味も痩せ、到底多數の人口を養ひきれぬ事情の下にあつたから、一般に人民の間に生兒遺棄の風があり、學者もこれを是認するやうな學説を立ててゐたものと考へられるのである。歴史家の教へるところによると、ギリシア人の間には一般に二兒主義が行はれ、三番日の子は棄てる例であつたといふ。スパルタの町などでは、子が生れると町役人が檢分し、體も虚弱・形も整はないと見ると、すぐに父に命じて河へ投じさせてしまつたといふことである。紀元前二世紀の歴史家ポリビウスは、ギリシアの諸都市がよく人口過剩の困境に陷らずに濟んだのは生兒遺棄の風の賜だつたといつてゐるのである。

 ローマにおいても生兒遺棄の風はなかなか盛んであつた。十二表の法律は畸形兒は直にこれを滅却することができる旨を明規してゐる。畸形ならざる通常の兒が、不運の星の輝いてゐる夜に生れたとか、親が不吉の夢を見た時に宿つたとか理由にもならない理由のもとに處分されてしまふ場合も少くなかつた。ローマの哲學者セネカが、病弱兒や畸形兒を暗から暗へ葬るのは、有用な人間と無用な人間とを區別するゆゑんであつて、まことに合理的な處置だとほめてゐるところを以て見ると、事實ローマ人の間には生兒遺棄の風が非常に廣汎に行はれてゐたものと想像されるのである。皇帝コンスタンチンといへば、クリスト教の信奉を公許したといふ廉で、『大帝』の名を冠せられてゐる名君であるが、この名君でさへ、親は極貧の場合には生兒の養育を拒否することができる旨の法律を發してゐるのである。ローマの末葉しばしば襲來した大飢饉の際などには、どれほど多くの初生兒が飢と寒さに殺されたことであらうか!

 ゲルマン人の間にも生兒遺棄の風は盛んであつた。古い彼等の法律を見ると、父たる者に棄兒の權利を認めてゐる。父は生兒を育上げねばならぬといふ責任はない、育てることも棄てることもその任意だとしてゐるのである。

 すなはち當時の慣習では、子が生れると父の前へ持出される。父は椅子に倚つて脚下に置かれた子を見下ろしてゐる。そのときもし父が子を抱上げてくれるか、またはミルクか蜂蜜の一たらしを子に含ませてくれるならば、子は救はれる。抱上げや榮養の授與は父の棄兒權の放棄を意味したから。しかし父が抱上げてもくれず、榮養を與へてもくれぬならば、子は死んで行かねばならなかつた。なぜかなら抱上げ及び榮養の拒否は、父が棄兒權を行使し、子を死の神の手に委ねるといふ意味にほかならなかつたから。

 何にしろゲルマン人の經濟生活といふのが村落的な封鎖經濟であり、物資の供給を自村以外に仰ぐことの不可能な事情にあつたのであるから、ゲルマン人としては、人口の増殖を自村内の經濟力の限度に喰止めておかねばならなかつたのであらう。生兒遺棄の風はかうした經濟事情の中から生れた必然的な現象に外ならなかつたのである。

 十五・六世紀以後の法律を見ると、さすがにもう生兒遺棄の權などといふものは認めてゐない。子は生きて産れればすぐに法律上の人となり、法律から人としての保護を受くべきものとしてゐるのであるが、實はそれは法の表面上のことであつて、裏面においては生兒の遺棄を可能にするやうなカラクリを藏してゐたのであつた。實に法律は近く十九世紀の初頭に至るまで、わざわざ生兒遺棄の間道を作つて來たといつてもいいのである。

 間道の第一は、畸形兒はこれを遺棄しても差支へないといふ規定であつた。一見甚だ尤もらしく見える規定ではあつたが、畸形兒といふものは事實上さう澤山は現はれない。一ツ目小僧・三ツ目小僧なンてものが、さうさうザラに生れるものではないのである。だから法律が畸形兒につきわざわざ規定を設けたのは少し臭い。そこには何かある別の意味が隱されてゐたらうと邪推されても仕方がないのである。すなはち畸形兒はこれを滅却することを得といふ規定は、畸形兒といふことにするならば普通兒でもこれを滅却することを得といふ規定だつたとも解しうるのである。少くともさう惡用される危險率の甚だ多い規定だつたのであつた。

 第二は生活能力なき兒はこれを滅却することを得といふ規定であつた。生活能力なき兒とは生育の見込みのない兒といふ意味であるが、生育の見込みのあるなしは客易には判定できない。だから生活能力なき兒を滅却し得るといふ規定の下に、生活能力ある兒までが滅却されてしまふといふ危險も多分に存してゐたのである。

 第三は生存の證據に關する規定であつた。例へばある立法は生存證明のためには生兒が發啼したこと、しかもその聲が四壁に響く程度まで高かつたことを證明することを要すと規定したが、かういふ立法の下においては、事實上生きて産れた兒が死産兒として取扱はれてしまふ危險が多分にあつた。なぜかなら發啼以外の生徴候、例へば獨立呼吸・開目・微動等々は、生存の證據たる價値を缺いたので、かういふ生徴候しか示さなかつた兒は、死産だといはれても何とも仕樣がなかつたからである。これこそ實に事實生きてゐたものを死んでゐるとして遺棄してしまふ堂々たる拔け道に相違なかつた!

 現代の法制は生兒遺棄のあらゆる間道を塞いでゐる。畸形だからといつて生兒を棄てたり、啼き聲が低いからといつてこれを死産と看做したりすることは出來ないことになつてゐるのである。しかし生兒遺棄の間道の全く塞がれた時は、避姙法の立派に發達してゐる時であつた。見方によると現代の法律が生兒遺棄を禁じてゐるのは、生兒遺棄といふ野蠻な方法よりも、もつと文明的な方法としての避姙法が立派に發達して來たためだつたともいへるのである。

 無制限な人間の繁殖を恐れるの情は、今も昔も變りないのではあるまいか。

四五 シエストフ的不安

 この頃よく聞く『シエストフ的不安』なるものの特性はどこにあるのでらうか?九月號(昭和九年)の『改造』を開くと、三木清氏が『シエストフ的不安について』を書いてをられる。この秀れた哲學者が、彼の得意とする現象學的還元の方法を用ゐて、この不安の本質を取出して見せてくれてゐるのである。

 三木氏の考へられるには——シエストフ的不安は厭世と異る。厭世は生から逃れようとするが、シエストフ的不安はいかに生が重からうと、生から逃れようとはせぬ。又これは懷疑とも異る。懷疑は眞理の探求を斷念するが、シエストフ的不安はむしろ執拗に眞理を追及するのである。どんな哲學だつて、文學だつて、リアリテイを阻はないものはない。シエストフ的不安は一見したところではリアリテイの破壞を目的としてゐるが、實はそれは、他のより新らしい・より深いリアリテイのために、在來の表面的なリアリテイを破壞してゐるだけのことであると。

 ではシエストフ的不安の本體はどこにあるかといへば、三木氏によると、それはあらゆる普遍的なもの・日常的なもの・合理的なものに對して憤怒し、これと爭ひ、これを克服し、これから解放されようとする。それは一切の常識・コンヴエンシヨン・科學・理性に對して抗議する。健全な普通の人間に對して反撃する。そして自分自身だけを唯一の現實と考へ、自己自身だけを萬物の尺度とおもふといふのである。

 これによつてみると、シエストフ的不安といふのは、つまるところ突詰めた主觀主義・絶望的な個人思想といふことになるらしい。この種の人間は、いはば自己の穀の中にとぢ籠つて堅く蓋をし、周圍の世界に對して皮肉と冷笑ばかり送つてゐるのである。彼は『無』の上に生きてゐる。眞理に對して信頼を失つてゐる。彼は健全な常識人と妥協しないどころか、健全な常識人のもつ信條や體系を殺して歩るいてゐる。健全なすべてのものへ妖氣を吹きかけて枯らしてしまふのが彼の仕事ででもありさうだ。だから普通人にとつては、この種の人間と一所に生きて行くことがこの上なく不氣味でもあり、凄くもある。シエストフ的人間は、畢竟、無政府的な個人主義者であるのである。

 ではなぜこのやうな絶望的思想が社會に發生するやうになるのであらうか?三木氏は思想の社會的制約性・階級的拘束性を信じてをられる學者である。現にこの論文の中でも『不安が社會的に規定される方面のあることは明かである』といはれ、『この不安も社會的情勢から説明されねばならぬ』ともいはれてゐるのであるが、事實上氏はこの論文の中では、シエストフ的不安の社會的發生原因を擧示してをられないのはもの足りないといはねばならない。

 私自身はこんど始めてシエストフ的不安なるものの本質を三木氏から學んだ位のものであるから、この不安の社會的原因について云爲する資格はないが、ロシヤの歴史を讀むと、一九〇五年の革命後、深刻な失望がインテリゲンチヤをとらへてゐる。彼等は革命の成果があまりにも小さく、あまりにも見すぼらしいのにあきれる。新社會の到來がなかなか望み難いものであることを知る。保守と反動の氣勢が意外に強いものであることを覺る。要言すれば彼等は政治的に絶望してしまひ、積極的な氣分を失つてしまふのである。その結果は遂に彼等を驅つて無計畫なるダダイストたらしめ又は虚無的なる個人主義者たらしめてしまつた。彼等はその生活の圓を極度に狹ばめてその中にとぢ籠り、周圍へ對して冷酷な皮肉ばかり送つてゐる人間となつてしまつた。それは實に個人主義的思想の時代といふよりも、浮浪人的思想の時代であつたのである。

 シエフトフの年齡を繰つてみると、一九〇五年の當時、彼は二十八歳になつてゐる。彼も亦ああした政治的絶望の雰圍氣の中にその不安の哲學・虚無の思想を培成してしまつたのではなからうか?

 それにしてもシエストフの思想が、現代日本のインテリゲンチヤに迎へられてゐるといふのは何んとしたことであらうか?又どういふ原因によるのであらうか?私にとつてはシエストフ的不安が日本を見舞つたといふことそのことが、一つの不安でなければならない。

四六 初冬の日記

 ×月×日。

 懷手して縁側に立つてゐる。庭木の間から初冬の空のどんよりと垂れ下つてゐるのを眺めてゐる。いつまでも眺めてゐる。ふと氣が付くと、塀の向ふの電柱に電燈がかがやき出した。あたりも大分暗くなつた。

 僕は障子をあけて座敷へ入る。そこにも人はゐない。またその隣座敷へ入る。そこにも人はゐない。二階へ上る。そこにも人はゐない。カタコトと臺所の方で音のするのは、雇ひの婆さんが僕のために夕飯の仕度をしてくれてゐるのだ。

 僕は佛間へ入る。そこには亡き妻の寫眞が黒布に包まれて懸つてゐる。ヂーツと僕を見下ろしてゐる。僕は燈明を點じ、香を焚く。

 ご飯が出來ましたと婆さんが迎へに來る。けふもスキ燒だ。これで三日つづけてスキ燒を食ふ。

 ×月×日。

 A子が來る。A子はもと僕等の家に女中をしてゐた優しい娘である。

 僕等の家を去つてからは故郷の町の郵便局に勤めて七圓五十錢取り、うち七圓は父母に捧げ、殘りの五十錢は小遣にしてゐると聞いてゐた。容姿もよし氣立も優しいのに、どうも縁の遠いのは、生活上の事情からでせうと、死んだ女房がいつも同情してゐたが、いま聞くと、滿洲にゐる未知の人と緑談が調ひ、不日出立するのだといふ。生れて一度も故郷を出たことがないのに、今度は送る人もなし、迎へる人もなし、たつた一人で滿洲の奧まで行くのだといふ。僕は少し可哀想になつて來た。生活のために結婚し、結婚のために遠く旅立つこの娘が氣の毒になつて來た。そうして今の日本では、若い女性も決して幸福ではないのだナと感ぜざるを得なかつた。

 自然、僕の聯想はA子と相前後して宅にゐたことのある女中たちの運命の上へ飛んで行つた——

 A子のあとへ來たのがB子であつた。これは大きな顏に白粉を一杯ぬり、べらべらした衣物ばかり着てゐる女であつた。大そう軍人が好きで軍人を亭主に持ちたいとばかりいつてゐた。宅から暇を取り、暫らくは父母の許にゐたが、間もなく家出をしてしまつた。家出後母親の許へ便りがあり、もし自分の留守中縁談があつたら、どこでもいいから纏めてくれとあつたさうだ。『どこでもいいから纏めてくれ』は笑つて笑へぬ眞實の聲だと私は想つた。いかに彼女達が生活と結婚とに焦慮してゐることよ。

 A子の前にはC子といふ少し頭の惡い耳の遠い女がゐた。その女からは便りもないが、人傳に聞くと、どことかでお女郎さんをしてゐるといふ。

 三人のうち一人はお女郎さんになり、一人は家出し、一人は滿洲へ行く。これが東北娘のこのごろの風景ではある。

 ×月×日。

 同僚のY君と當今の大學生氣質について話す。どうもこのごろの大學生は不熱心でいけない、折角の名講義を聞かせてもぼんやりと無表情に聞流してゐるとY君がこぼす。

 それは事實であらう。しかしそれには何らかの原因がなければなるまい。この原因は何であらうか。

 原因の一つは、われわれの講義の内容が今の學生たちの學的興味からあまりに遠距離のものとなつてゐるためではなからうか。今の學生たちが抱く深刻な社會的懷疑や社會的憂憤やが、われわれの講義から滿足な解決を享けるやうな性質のものだとはどうも考へられない。學生たちからすれば、われわれの講義などはパンを求めて石を與へられる類なのではなからうか。彼等が聽講を怠り、研究を怠り、遂には最も大切な研究精神そのものまでも失つてしまふのは、憂ふべき現象には相違ないが、これにはきつと深い原因があるのであらう。

 ×月×日。

 某誌を開くと某教授が『日本精神論』といふのを書いてをられる。演題はまことに結構、文章も華々しいが、論調が少し狂信的に過ぎはせぬか。

 學者が宗教家を兼ねてはならないといふ規則はないが、信仰と科學とはどうも兩立し難いやうだ。信仰は既成の制度なり體系なりを初めから正しいものとして獨斷的に豫定してかかるが、科學の方はあくまでもその根據を疑つてかかるからである。懷疑こそ科學の生命である。だから社會制度に對して信仰的態度をとるといふのは、實は科學的態度を棄ててゐるといふことに外ならない。

 日本ではどうも『信仰家』が多過ぎて『科學者』が少な過ぎるやうだ。社會科學者たるものは彼の宗教を通してよりも、彼の本務たる科學を通して、國家の進運に貢献すべきではないだらうか。

 ×月×日。

 よく晴れた暖かい日。天が艶布巾で拭はれたやうに光つてゐる。綺麗な光線が空一杯に踊つてゐる。かういふ光線の中を歩いてゐると、光線が自分の身體の内部にまで浸透して來て、自分の思想や感情を清澄なもの・平和なもの・幸福なものにしてくれるやうな氣がされて來る。法律の理窟も、社會への批評も、妻を喪つた悲しみも、何もかも忘れて、自分は美しい光線の中をただ歩いて行く。

四七 あゝ橋本文雄君

 九月二日(昭年九年)の朝、橋本夫人から電話があり、病人があひたがつてゐるから來てくれとのことだつたので、すぐに出かけた。

 實はこの一ケ月、私は君にあはずにゐたのである。折ふし見舞には行つたが、玄關で夫人から容態をきくだけで歸ることにしてゐたのである。會へば君も何にかと話すし、私もつい釣りこまれて長坐してしまふのを危惧したからであつた。

 しかし今日はわざわざの呼出しだつたので、まつすぐに私は病室へ通つた。

 『しばらくだつたネ』

 事もなげにかうはいつたものの、實は私は驚いたのである。何とまア君の衰弱されたことよ!

 君は私の姿を見ると露のやうに光るものを眼の中にためてしまつた。そして沈默ややしばらくの後低い聲でいふ——

 『一と月も三十八度台が續いたので、疲れてしまつた。解熱劑の強いのを呑んで胃を惡くし、食事がいけなくなつた。此頃は何にも食へない。新聞を讀む力もない。それで入院しようとおもふがどうだらう』と。

 何といつて慰めたらいいのか、私にはわからなくなつた。しかし過敏になつてゐるらしいその神經を取鎭めるやうに、落とした元氣を取戻すやうに、思立つた入院をこの際すぐにも實行するやうに、と極力元氣づけてみたのであつた。

 暗い心を抱いてとぼとぼと私は家へ歸つた。歸るとすぐに筆をとつて京都なる恒藤恭君へ、充分詳細に君が病状を書き知らせた。恒藤君は君の學問の師であり、心の友である。私としてはまづこの人に知らせねばならぬとおもつたからである。

 四日の午後、熱のある君の體は靜かに大學病院の一室へ運ばれた。わづか二日前に比べると、君の體力は一段の衰へを示したかのやうに見受けられた。

 君の體がそつとベツトの上に横へられたのを見て、私はすぐに立去らうとしたが、このとき君は手眞似で私を呼ぶのである。耳を君の口にあてると、聞きとれぬやうな低聲でいふ——『學校の連中へは輕いやうにいつておいてくれ。見舞に來られると困るから』と。

 君ほど見舞を嫌がつた病人も少なかつたであらう。君はどこまでも孤獨でゐたかつたのである。孤獨で病と戰つてゐたかつたのである。

 入院當時は醫師も未だ多少の希望をつないでゐた。氣分がおちつき、食慾が出てくれば或は見直すやも知れぬといはれるのであつた。ただ思切り食へ——これが醫師の命令であり、最後の一つの頼みでもあつた。食ひさへすればどうにかなるだらうと、君も考へたもののごとくであつた。死の直前一時間に、君が卵黄二個を嚥下したなどは、いかに君が意志的に食はうと努めてをられたかを示すもので、その心状や傷々しい。

 もとより小量ではあつたが、しかしわれわれを嬉しがらせてくれる程度において、卵黄・粥などを取つてくれた。氣分もよほど落着いて來た。『やはり入院してよかつたです』とニコニコ笑ひながら喜ばれた日さへあつたいふ。この分では見直すなと私共も樂觀に傾き出した。

 しかし十三日の早朝俄かに容態の變化が來た。折柄見舞に行つてゐた小町谷教授からの電話に、驚いて駈けつけると、醫師は温度表の赤線・青線の急激な亂れを指示して、もう全く時間の問題ですといはれるのであつた。

 學内は俄かにどよめいた。教授・助教授・助手・副手の諸君が階下の一室に陣取つて徹宵樣子を見守つた。夜も白々と明けそめる頃、君は夫人を呼んで卵黄をと命じたさうである。卵黄二個を嚥下すると、今度は粥をと命じたさうである。夫人が粥の支度にかかると、その時であつた、急變の來たのは。夫人が室内に飛込まれたときには、もう意識を喪失されてゐたといふ。時に昭和九年九月十三日午前六時四十五分。

 この稿を綴つてゐる十六日の午後には、君が遺骸は未だ君が邸内に安置されてゐる。年若き夫人・いたいけなる三人の幼兒・親族の方々が君のしづ深かき眼を見守つてゐる。枕頭には君が生前何物にもまして愛せられた白バラの花が馥郁と薫つてゐる。

 三十三年の短き生涯をふりかへると、君は明治三十五年兵庫縣出石郡資母村に生れ、大正五年同志社中學に入學された。中學では終始首席で通された。生徒に質問して誰れも答へないと、教師は最後に『橋本』と指名する例だつたといふ。おかげで僕はあらゆる質問に對して、いつも答を用意しておかなければならなかつたと、君は後年笑つて語られるのであつた。

 大正十年中學卒業と共に、山口高等商業學校に入學した。高等學校へ赴かれなかつた理由は、君一日、三高の寮紀念祭を見物して生徒の寮生活のあまりなる不潔さにあきれはて、高等學校への入學志望を頓に喪失させてしまつたためであつたといふ。癇の強い君の潔癖症がその頃からもう現れてゐたのかとおもふとおもしろい。

 山口高商においては、君は教授中に作田莊一博士を發見し、學友中に現大阪商大助教授豊崎稔君を發見した。作田博士は君の學問研究の態度や方法上に不滅の影響を與へた人であり、豊崎君は君の無二の親友として生涯を貫かれた人であつた。

 大正十二年京都帝大經濟學部に人り、昭和二年卒業して經濟學士となつた。しかしこの稱號は君の學究生活の展開と共に漸次君に對して不釣合なものとなつて行つた。君は決して經濟學を見捨てはしなかつたが、しかしあまりにも深く法律の方へ進んで行つてしまはれたのである。『經濟學士橋本文雄と呼ばれると、僕は輕い揶揄を感じる』と自身でもいはれるやうになつた。

 卒業後大學院に入るや直ちに特選給費生を命じられた。四年には經濟學部講師を囑託され、英經濟書の講讀に當られたが、その頃は法律學への君の愛着心のいよいよ高まりつつある時代だつたから、君は自然、經濟學部においてよりも法學部において、より多くの師友を見出した。佐々木惣一・恒藤恭・田村徳治・宮本英雄・末川博の諸教授が君の尊敬の對象であつた。

 君とわが法文學部との關係は君が大學卒業の翌年即ち昭和五年に公にされた『經濟法の概念』なる一論文を、たまたま余が發見したのを以て機縁とする。當時余は法文學部學生のために『戰時及び戰後の經濟立法』なる特別講義を試みてゐた關係上、經濟法に關する文獻へは不斷の注意を拂つてゐたが、右の論文によつて『橋本文雄』なる名を初めて知り、この人の思考の力の異常なる鋭さに打たれた。この論文の内面には何か或る堅い透明の結晶見たいなものが藏されてゐて、それがこんなにも鋭い冷たい光を投げてゐるのではないかといふふうに感じられてならなかつた。よつて私は右の論文を、當時わが學部において社會法の講座を擔當されつつあつた鈴木義男君に示すと、鈴木君も一讀忽ちその鬼才を認められた。ところで當時は未だわが法文學部が創業の活氣に溢れ、廣く人材を天下に求めて生新の學問を打開せんと意氣込みつつあつた時代であつたこととて、相談は忽ち一決、直ちに交渉を京都に向つて開くこととなつた。

 しかし京都側の眼識も我等に劣らず高かつた。京都側はなかなか君を手放さうとはしなかつた。交渉の任に當つた鈴木君及び余は、一時望を失ひ、殆ど斷念せんとした位であつたが、我方に幸だつたことは當人自身の法律好きであつた。君は京都大學に止つて經濟學の教授たらんよりも、東北大學に赴いて法律學の教授たらんことを欲したのである。それに『社會法』といふ新學問が、この青年學徒の學的野心を大いにそそつた。かくして昭年五年の春、遂に君は來つて、わが學部の人となられたのである。

 爾後の君が學的活動については、何ぞ贅言の必要があらう。君やすでにわが學界の至寶であり、わが學部の誇りであつた。學界は妖しい星の出現を望むやうにして、君の活動を跳めた。君の一作一作に凝視を向けた。その考察の深刻・論構の明截・組織の嶄新・表現の嚴密に驚異の眼を見張るばかりであつた。

 就中本年一月法文學創立十周年記念法學論集に收められた長篇『慣習法の法源性』と、本年三月岳父毛戸勝元博士の還暦を祝賀して出版された著書『社會法と市民法』とは、君が二大傑作として永く學界を照すであらう。

 しかし學問におけるこのやうな決戰的奮鬪はさなきだに堅牢ならざる君が體躯を逐次に破壞して行つた。昭和八年六月初めて病を獲、爾來どうも晴々とはしなかつた。晴々とはしなかつたに拘らず君はその學的活動をどうしても中止してくれなかつた。從つて君が健康はさらに益〻惡化して行つた。そして遂に昭和九年六月就床、九月十三日絶命となつたのである。君や實にその好學のためにその身を滅ぼされたといはねばならない。

 しかし私として忘れえぬのは學問の人としての君ばかりではない。友としての君・人間としての君がどうしてもまた忘れえぬのである。

 君は實に純情といはうか、純眞といはうか、優にやさしい心の持主であつた。友人に對する氣遣ひなどにもなかなかデリケートな點があつた。毎年春秋二回、私が京都大學へ出張講義に出かけてゐた頃は、君はきつと私をステーシヨンへ送つてくれ、京都の舊友達へ『よろしく』と傳言されるのであつたが、その『よろしく』のいひ方が、いかにも山河千里を隔てた友人達を慕ひなつかしむ至情より發するもののごとく、君が心の美しさについ私もホロリとした氣持にさせられてしまふのであつた。

 同僚との交際ぶりを見てゐると君は非常に互讓的であり、謙抑的であつた。なるべく自己を抑へて人を立て、圓滿に全體を纏めてゆかうと努められるもののごとくに見えた。大學のやうな個性の強い人間の集團においては、お互がお互の長所を認識し合ひ尊敬し合つて交つて行くの外はないと、みづからもさういひいひしてゐた。あまりに自己を殺し過ぎるので、人との交渉が君には却つて苦痛となりはせぬかと、そんなことの案じられる場合さへもないではなかつた。

 しかし最近の學界風景は君にとり愉快なものばかりでは決してなかつた。君は京大事件において最も尊敬してゐた學者と學問とが大學より追出されて行くのを見た。その他の大學においても逐年研究の自由が奪はれ、研究の精神が失はれて行くのを見た。こんなことでは大學は遂に單なる『學校』となり、教授は遂に單なる『教師』となる。そうして研究力も研究精神もない人間がノサバルやうになるといつて悲しんでをられた。それに惡いことには、ちやうどその頃から君の病がつのり出した。そして病と共に癇も高ぶり、神經も尖り出した。折々は自己を孤獨なものとして見出される日もあるやうになつて來た。人に對しても多少は好惡の差別を立てるやうになつて來た。もちろんこれがために舊友から難れるといふやうなことは斷じてされなかつたが、新しい友人を發見しようとされ、又は發見してよろこんでをられたことは事實である。新しい友の一人として私がここに兒島喜久雄君の名を擧げても差支はないであらう。兩人の交遊がどれほどの濃度まで進んだか、得て私の知る所ではないが、橋本君が兒島君へ向つて熱い戀ごころを寄せてゐたことは事實である。そうして私はこれをおもしろい現象だとおもつて眺めてゐた。なぜかなら兒島君と橋本君——この二つの魂の間には何かしら共通のものが感じられるので。少くともその正義感の人並以上に鋭敏なるの點において。

 法科關係の教官のうちでは伊澤孝平君との交情が殊の外に深つた。故人晩年のとかく苛立ちがちだつた神經が、伊澤君の優さしい友情によつていかに慰められ、いかに鎭められたか、知る人ぞ知るである。

 趣味の人としての橋本君はゴルフに凝り、書道に凝り、油繪に凝り、洋服の縞柄・ネクタイの模樣へまでなかなか纖細な神經を働かせたものであつた。『モダンだね』と私が冷やかすと、君はその純眞な子供ぽい性情を嬉しさうに露はして、ニコニコとほほゑまれるのであつた。宴會の席で無藝だと困るからといつて、どこで習つたか、流行の歌謠曲を覺えて來たが、これだけはどうもモノになつてゐなかつた。

 こんな事を書綴つてゐると思出は涙と共に無限に湧く。私はもう書き進めることができない。

 しかしそれにしても最近打つづくわが學部の不幸は何としたことであらうか。われらは先きに鈴木義男・河村又介・堀經夫・三君のごとき超弩級の教授に去られ、近くは石田文次郎・久禮田益喜君のごとき有力な教授に見捨てられた。そしていま又新進氣鋭の人・橋本文雄君を失つた。われらはいかにしてこの寂莫から脱することができるであらうか。

四八 女給の社會學

 西洋の街の面白さは、ストリート・ガールにある。いい晩めしを料理屋で取つたのち、ブラリと外へ出て見ると、何處からかうも集つて來るのか、繪のやうに美しい街の女たちが、上潮時の魚群のやうに、列をなして上つて來る。そうしてこちらへイミシンな秋波を投げつつ花のやうに過ぎて行く。別に買はうの遊ばうのといふ野心はなく、漫然ただかうして散歩し、かうして別嬪連の秋波の雨を浴びてゐるだけで、心は自然と柔らぎ、何だか人生の春を謳歌したいやうな氣持になる。街の女は實に街の花である。

 兩側に美しく立並んだカフエーの中へと彼女たちの姿は吸ひ込まれてゆく。そこは彼女の職場である。彼女はそこで一羽づついい鴨を喰へて、再び戸外に現はれる。そしてアベツクでタクシーを呼び、どこかのホテル目ざして消えてゆくといつた寸法だ。

 カフエーで彼女たちが客を釣る樣子を見てゐると(僕はただ見てゐただけだ)、まづ彼女は立派な一個のお客樣として鷹揚にカフエーの中へ這入つて來る。そして巧妙に配置されたテーブルの一つに着席し、ビールの一杯かモツカの一杯かを註文する。ボーイはもちろん彼女がただ物でないことは百も承知、二百も合點してゐるのだが、そんな素振はさらに見せず、どこまでも彼女を一個の貴婦人として待遇する。野心ある男客も、貴婦人に對すると同一の慇懃さ、同一の鄭重さを以て彼女に應待する。『オイ姐さん、一寸こツちのテーブルへ來い』などとはいはない。『オイ、ボーイ、あの姐さんをここへ呼べ』などともいはない。男の方から彼女のテーブルへ出向き、鞠躬如として彼女の前なる空椅子の一つを指し、ここへ着席してもよろしいかどうかを御伺ひする。よささうな客だと見れば、女は『どうぞお掛け』と許してくれるが、イヤな奴だと見れば遠慮もなく『否』といふ。『否』といはれればスゴスゴと引退らなければならない。あまり見ツともよい圖ではないが、婦人側に選擇權が屬してゐる以上、これまた止むことをえぬ仕儀である。

 もしそれ貴婦人樣から『どうぞお掛け』とでもいはれようものなら、光榮全く身に餘るがごとく、謹んで彼女の前に坐し、華奢な指先に挾まれた細卷きの煙草へ火を點じ、赤い酒か青い酒の一杯もおすすめしてゐる間に、商談締結のチヤンスをとらへるといふ順序であるが、僕はここに淫賣買ひの案内記をものする意志は毛頭もたぬのであるから、これ以上の説明は平に御免蒙りたい。

 要するに西洋のカフエーの特色は女給といふものをもたぬ點にある。日本のカフエーには專屬の女給さんなるものがゐて、客に飮食上の給仕をしたり、それ以上のいろエロなサービスもしたりしてゐるのであるが、西洋では飮食上の給仕をするのは男の給仕人であり、エロサービスをするのは、外部からやはり一個の客人として入り來る賣笑婦である。カフエーは賣笑婦と浮かれ男たちとのために會見の場所を提供し、商談成立のチヤンスを作るだけである。カフエーみづから女給を雇つて置き、客に侍らせるといふ制度は西洋にはない。それはどうも日本の國産品であるらしい。

 ではこのやうな特殊の制度がこの國にばかり發達したのはなぜだらうかと問ひたくなるが、これに對して、それはこの國の警察がストリート・ガールの發生をいとも嚴重に取締つてゐるからだといへば、せいぜい七十點位の答案にしかならないだらう。なぜならば警察とか法律とかにはそんな大それた力はない。警察や法律の力によつて或る社會現象の發生が喰止められてゐるといふ例もないではないが、それはその社會現象の發生が初めから力弱かつた場合のことである。強勢な發生力をもつ現象に對しては法律や警察は自己の無力を實證してしまふ外はないのである。だから日本の警察がよくストリート・ガールの發生を阻止してゐるとすると、それは日本女性の間にストリート・ガールたらんとする志望が未だそんなに強勢になつてゐない結果だといはねばならない。西洋におけるやうにこの種の志望が澎湃として勢をなして來れば、警察も法律もまた何をか爲さんやである。結局はこの制度を默認し、若くは進んで明認するの外なきに至つてしまふであらう。

 だからよりよい答案としては、日本で女給制といふ特殊なものが發達したのは、ストリート・ガール制よりも女給制の方が日本娘の生活樣式によりよく適合するものがあるからだと答へるの外はない。

 いつたい女給制とストリート・ガール制とを對比してみると、ストリート・ガールは獨立獨歩の經營主體である。彼女は自己の家に任み、若くは他人の家に下宿し、自由にそこから街頭に出でて客を釣る。釣れれば對價の全額が自己の所得となるが、釣れなければゼロ敗である。下宿料はおろか、翌日の朝食代にも事缺くに至る。ゆゑに彼女は獨立の利益と共に獨立の危險をも擔つてゐるわけであるが、女給の方は獨立の經營主體ではない。彼女は雇主といふものをもつてゐる。雇主は金を貸したり、部屋を與へたり、いろいろの便宜を圖つてくれる。まさか女給がひもじい思ひをしてゐるのを見逃してゐるやうな雇主はないだらうとおもふのである。だから生活の安全といふ點からいふと、女給の方がはるかに上だが、その代りに雇主からいろいろな形ちでさんざんに搾られることを免れえないし、雇主の店舖以外の場所で働くといふ自由ももたない。籠の鳥といつてはいひ過ぎるが、放たれた鳥でないことも事實である。

 ところで現代日本の娘たちに對してはどうかといふと、放たれた鳥式のストリート・ガールよりも籠の鳥式の女給の方がより適合してゐるとおもはれるがどうであらうか。といふわけは現代日本の娘たちの生活は意外にも封建的である、といつてはこれ亦言葉が強過ぎるが、とにかく新らしいものではない。口先ではアメリカ娘のやうな活溌なことをいつてゐるが、生活の實際は意外に古い。現に彼女たちは家族制度の中に生きてゐるではないか。親兄弟に頼り、頼られて生きてゐるではないか。西洋ならば年すでに成年に達すれば親の許を離れて獨立し、自己の財産なり勞銀なりで自己を支へねばならぬのであるが、日本の娘たちは成年後もなほ親の保護の下に立つ。まことに幸福なことではあるが、しかし一度生活の變化に遭ひ、波風高い世の中へ一人で漕ぎ出し行かねばならぬ日が來ると、日本の女は忽ち自己の孤獨に堪へられなくなる。彼女達は頼るべき何人かをほしくなる。何人か親に代つて自分を保護監督してくれる人がほしくなる。旦那とかパトロンとか親方とか樓主とか雇主とかいふものは、さうした一種の後見人なのではあるまいか。

 かうして日本の娘さんたちは獨立の商人としてのストリート・ガールにはならずに、雇人としての女給とはなるのである。

 この國では女給制度はモダンな制度だといはれてゐる。いかにもそれは舊來の藝娼妓制度などに比べると斷然新しいものではあるが、なほそれには多分の封建性・中世性が附着してゐるのを看逃すわけにゆかぬのである。

四九 情熱戀愛と趣味戀愛

 有名なスタンダルの戀愛論は、戀愛を情熱戀愛と趣味戀愛とにわけてゐる。情熱戀愛とは突進的な冒險的な凄いほど眞劍な戀である。眼中父母なく慣習なく社會なく、ただ戀あるのみといつた式の危險極まるものである。趣味戀愛いふのは、これに反して輕快な冷靜なスマートな享樂的な戀である。スタンダルの言葉をかりていへば畫面全體其影までも薔薇色に晴れてゐる戀である。これは戀愛をかなり輕く取扱ふ。戀愛は有閑的なサロンの遊戯さと高を括つてしまふ。だから戀のために身を亡ぼすやうなことはない。スタンダルは、情熱戀愛は利害を越えて人を引きづつて行くが、趣味戀愛は利害の線に添うて動いて行くといつてゐる。

 二つの戀愛型のうち、どちらを取るかはけだし各人の性格にもよることだらう。しかし社會的客觀的に見てゐると、或る時代は情熱型に走り、或る時代は趣味型に傾く。そこに打消し難い時代色・社會色の横たはつてゐるのを發見するのである。

 現代の日本についていへば、明治大正の戀愛にはどうも情熱型のものが多かつたやうに思ふ。あの頃の有名な戀愛事件を回顧してみると、大抵は眼中父母なく社會なしといつた概のものである。たとへば島村抱月氏。氏は一世の非難雨のごとくに降りそそぐなかを押切つて、女優松井須磨子との同棲を決行してしまつた。又石原純氏。氏もまた世間の攻撃を物ともせず、敢然として歌人原阿佐緒氏の許へ走つてしまつた。その他有島武郎氏の事件にせよ、柳原曄子氏の事件にせよ、明治大正期の戀愛事件にはどこか悲壯な趣きがある。眞面目で眞劍で、其上どこかに戰鬪的反抗的な精神が現はれてゐる。傳統の家族制度と因襲の道徳感情とに逆つて、敢然として自己を貫き通して行かうとする逞しい精神が現れてゐる。あの人達の戀愛行動は、同時に古臭い傳統に對する社會的な一つの戰であつたのかとも思はれるのである。

 昭和最近の戀愛動向を觀察してゐると、そこにはサツパリ悲壯的のものは見出せない。寧ろそこには享樂的な傾向・遊戯的な氣分の多分に漂つてゐるのを見る。今日のサラリーマン階級の人々の戀愛行動のごとき、傍からながめてゐると、いかにも明朗であり活溌であり輕快でありスマートである。それだけ又無責任でもあり無軌道でもありデタラメでもある。評していへば流線型の戀愛とでもいつたらよいであらう。彼等は決して戀愛を第一義的には考へない。戀愛至上主義などは一時代前の思想さと輕くあしらつてゐる。或る人の言葉に『戀愛は美味・美酒・ダンス・スポーツ等と同列におかるべき享樂の一種だ』とあつたが、これなどが現代の戀愛觀の最も端的な表現であるのかも知れない。又或る人の言葉に『今日のサラリーマンは餘りに事務に忙しい。又餘りに近代的感覺に取卷かれてゐる。彼等は映畫・スポーツ等の間に孤獨の寂しさを忘れることができる。戀人はウイーク・エンドにスキイかハイキングにでも行かうとする際、ふと思ひ出される位のものだ』とあつたが、ここらが却つて正直な告白であるのかも知れない。とにかく戀愛至上主義は今日の若き男女からやうやく見捨てられんとしつつあるのである。

 或る婦人は『戀愛はアスパラガスを食べるやうなものです。尖端の味のいいところだけを口にして、あとは捨てねばなりません。終りまで食べるのは農民的です』といつたさうだが、かういふのがモダン戀愛觀といふものであらう。

 又或る婦人は『戀愛は酢牡蠣と同樣オレンヂの紋り汁をかけて食べねばなりません。旅行とか別莊とかドライブとかいふ藥味を加へなければ、サツパリ味の出ないものです』といつたさうだが、ここにも近代の戀愛思想の一片を見る。

 かう見て來ると、明治大正の戀愛はスタンダルのいはゆる情熱戀愛に入り、昭和最近の戀愛は彼のいはゆる趣味戀愛に入る。

五〇 現代の戀愛

 『戀愛に時代なし』といふ言葉がある。その意味は、戀愛は人間自然の性情の發露だから、時代的變化を受くべき筈なしといふにあるであらうが、戀愛現象の實際をよく眺めると、封建時代のそれにはいかにも封建的な特色があり、資本制社會のそれにはいかにも資本制社會のものらしい特色がある。同じ資本制社會内部のものにしても、資本主義が早期から高度へ、さらに末期へと遷るにつれて、戀愛の形態もそれ相應の變化を示してゆくやうである。元來戀愛といつたところで人間相互の間の、即ち男女相互の間の、社會關係には相違ないのであるから、やはり時代的變化は受けざるをえぬのである。各時代の戀愛が、その時代の特色を反映しつつ、特殊の形態をとつて現はれるといふのは、極めて當然のことといはねばならない。

 ところで現代の日本は過渡期として性質づけられてゐる。過渡期には統一された思想がない。新舊とりどり、色さまざまの思想感情が一時に押し合ひ、へし合つてゐるのが過渡期の過渡期たる特色である。現代の日本にだつて統一した思想などはありはしない。或る人は日本傳統の主義精神を、或る人は西洋傳來の理論理説を、互に離ればなれに主張し合つてゐるではないか。同じ西洋の流統を汲む者にしても、文藝復興當時のやうな人間解放の理想を描いてゐる人もあり、フランス革命當時のやうな自由平等の思想を抱いてゐる人もあり、産業革命當時のやうな自然放任の主義を奉じてゐる人もあり、ロシヤ革命の思想にかぶれてゐる者があるかと見れば、フアシズムを奉じる者もあるといつた式で、古い詩句を用ひていへば、『春風春水一時到』といつた華やかさである。戀愛思潮にしたつて、決して單色ではありはしない。いな非常に複雜、ちよつと他國には類のない多角多彩の光景である。

 しかし私はこの國現下の支配的な戀愛思潮として三つを數へる——封建時代の遺物としての家族主義的戀愛思潮、早期資本主義時代の産物としての家庭主義的戀愛思潮、それにもう一つが現下の經濟段階に相應するものとしてのサラリーマン的戀愛思潮である。

 でまづ封建社會における男女兩性の關係を回願してみることにすると、この時代の人々は、いはゆる家族主義的親族生活を營んでゐた。親子はもちろん、成年の子も、子の妻も、孫も、孫の妻も、一族全部、一つ屋根の下に住むことにしてゐた。けだし子がもし成長と共に親の家から離れ去るならば、親の家は親の一代限りで斷絶してしまふことになるので、子は成長後も親の家に止らねばならないとし、少くとも長子だけは止つて親の家を繼がねばならないとしてゐたのであつた。それほど彼等は家名の維持・家系の保存といふことを考へてゐたのである。又彼等は長男を次男以下から區別し、特にこれを大切に扱ふと共に、特に又嚴重に教育もしたが、これなどもやはり長子を立派な相續人に仕立てて、家名の維持・家産の保全に萬遺憾なからしめんとの考慮からであつた。他家から嫁ぎ來つた新妻のごときは、もし婚家の家風に合はないならば、それが理由で離婚されてしまふ危險をさへ擔つたのであつた。妻の最大責務は婚家のために相續人を産むことだとされてゐたのも、むろん家系尊重の思想からであつた。

 かやうに封建時代には何もかも家本位に規定されてゐたのだから、戀愛のごときも家族主義的制約を受けねばならなかつた。例へば配偶者の選擇についても、封建人は、自己本位・戀愛本位に考へたのではなくて、家本位・親本位に決めたのである。門地とか家格とか財産とかいふ家族的利害を基準にして決めたのである。しかもその選擇の範圍たる、極めて狹隘なるを免れなかつた。封建社會の常として男女の交際自由ならず、人々は戀の對象を僅かに親族・故舊・同地方人の間に物色する外はなかつたからである。

 必然の結果としてそこには多く愛なき婚姻の締結が見られたが、因襲の久しき、人々はそれを不思議とも何とも感じなかつた。エンゲルスもその著『家族の起源』の中でこのことに論及し、『中世人は愛なき結婚に慣れてゐた。稀には豫め二人の間に愛の端くれのきざしてゐた場合もないではなかつたが、それは結婚の前提とならず、たかだか結婚のお添物となつたに過ぎなかつた』といつてゐるのである。だから中世人は逆コースを取つて戀の道を歩んだといつていい。近代人の場合は戀愛が前提、結婚は結論であるが、中世人の場合は結婚が前提、戀愛は結論であつたからである。いきなり先づ愛なき結婚に入り、同棲幾星霜、共に働き、共に泣き、共に笑つてゐる間に、互に理解を深め愛を加へ、遂に質實にして深厚なる夫婦愛の極致に到達するといつた順序であつた。

 貞操の義務も家族主義的見地から規定された。從つてそれは今日のモラルから見ると、たいさう酷なものではあつた。まづ大いに強調されたのが『處女の貞操』であり、處女は將來の夫のために貞操を保全してゐなければならない、結婚前に處女性を失へばそれつきり結婚の資格を失つてしまふと見たのであつた。次は『妻の貞操』である。妻は制度上夫と定められた者のために貞操の義務、即ち性慾上の忠實義務を守らなければならない、何等夫に對して愛を感ぜず、嫌厭さへ感じてゐる場合にも、なほ彼に對して貞節でなければならないとされてゐた。それは愛人に對する貞操といふよりは、制度上の夫に對する貞操ともいふべきものであつたのである。第三は『未亡人の貞操』である。夫に先立たれた妻は、あの世の夫に義理立てして後半生を貞心堅固に送らねばならないとされ、彼女の再結婚・再戀愛に對しては嚴かな非難を、でなければ冷たい笑を、投げかけてゐたのであつた。彼女は生ける屍となるべく強制されてゐたのである。

 夫はこれに反して貞操の義務を負はなかつた。家の爲に適當な繼嗣をうる必要のあるやうな場合には、妻以外の女子に接することも許されてゐた。つまり昔の男は二通りの道徳を作つたのである。一つは彼自身のために、一つは女のために。そしてその一つはあらゆる女との戀愛を彼に許したが、他の一つは、只一人の男との戀愛を彼女に許しただけであつたのである。

 西洋においては家族制度は十五・六世紀の頃から傾き出し、十八・九世紀において殆ど滅びた。だから家族主義的な戀愛形態・貞操觀念も今では殆ど見られなくなつたが、この國では家族制度が今なほつづき、非常に萎微したとはいはれつつも、なほかなりの權威を揮つてゐる。だからこの國では上述したやうな家族主義的戀愛形態や貞操觀念やが、未だに本當の『昔話』にはなりきつてをらぬのである。

 試みに現代の日本に殘つてゐる家族主義的なものの二三を指摘して見るならば、第一は男女の交際の一向に開かれてをらぬことである。交際は元來結婚の市場である。商品の賣手買手が市場に現はれて商談を成立させるやうに、結婚を欲する男女は交際場裡に現はれて相手を見つけるのであるが、日本においては未だこの結婚取引所の發達が見られない。止むなく男女はその小數の知人の中から、若くは間接に知人の知人の中から、自己の配偶を探がし出してゐるのであつて、その状は恰も封鎖經濟時代の人々が、自家の生産品をみづから持廻つて他家に賣附けてゐたのに似てゐる。試みに統計を見れば日本における未婚の男女は三千二百萬、このうち三分の一が婚期にあるとして、ザツト一千一百萬の男女が互に求め合つてゐるわけであるが、現實的には各人のもつ候補者は僅か數人か十數人、その中から、ちやうど順に廻はされる皿の中の果物の一つを取るやうにして、自己の配偶者を取つてゐるのである。だから日本では商品の配給の方は近代的市場取引の方法によつてゐるが、人間の配給の方は、今なほ家から家への古代的方法によつてゐるといひたいのである。

 第二は『處女の貞操』を重ずる風潮の今なほ非常に強く殘つてゐることである。守舊的な人などは、處女性の喪失は直ちに結婚資格の喪失を意味するかのごとくに考へてゐる。だから日本の少女は、一旦處女性を失ふと、相手の男に無理矢理に自己を賣附けようとする傾向を示す。その極遂にカルモチンとなり、三原山ともなるのである。中には萬事ヒタ隱しに隱くして、何知らぬ男の許へ嫁入りするチヤツカリしたのもあるが、そんなのは生涯人知らぬ不安に惱まねばならない。萬一祕密の發覺となるや、夫から婚姻の取消を食ふ危險があるのだから。

 夫も妻の過去に對してあまりに猜疑心を働かせ過ぎる風がある。よく新聞の女性相談欄にも『あんまり夫が聽くものだから、つい話してしまつたら、爾來夫はすつかり憂鬱になつてしまつた』といふやうな記事が繰返へしくりかへし見えるではないか。

 その他貞操の義務を妻だけに課し、夫の不貞操を殆ど不問に附してゐる點においても、又いはゆる『未亡人の貞操』を尚び、未亡人の再婚に對して冷笑を投げる風の多少は今なほ殘つてゐる點においても、現代日本は、決して封建的・家族主義的貞操觀念から脱却し切つてはゐないのである。

 上述のやうにこの國においては家族主義的な戀愛思想や貞操觀念が今なほ相當に殘つてゐるのであるが、これはこの國において家族的な生活關係そのものが現實に殘存してゐるがために外ならない。けだしある生活關係が、ある社會における基本的な生活關係として現實に存在してゐる以上は、その生活關係を肯定し是認し保證するところの思想や觀念が必然的に發生すべき道理であつて、家族主義的諸思想も、かうした社會的根據から今なほ殘存してゐるのである。しかしこの國においては、他方また、家族的生活樣式に對立するものとしての個人的又は家庭的生活樣式がすでに始まり、日に月に發達しつつある。ゆゑにそこには又個人的又は家庭的生活樣式を是認し肯定し保證するものとしての戀愛思想や貞操觀念が必然的に發生すべき順序であり、事實また發生しつつあるのであるが、そのことを指摘する前に、一應ザツト家庭制度の何たるかを説いておかう。

 一口にいつてみれば家庭制度は家族制度の反對物である。即ちそれは家族制度が親・子・子の妻・孫・孫の妻等々を含む大組織であるのに對して、單に親子のみから成る小組織であり、子といへども成長し又は結婚してしまへば、親から分離獨立するに至るとするものである。又それは家族制度が一家の命脈を子々孫々永遠に傳へようと欲してゐるのに對して、一代限りのものであり、家庭の建設者たる夫婦が死ねば、それつきり家庭も消滅してしまふと見るのである。けだしこの制度の下にあつては、子といへども止つて親の家を繼ぐことをしないから、親たる夫婦の死亡と共に一代限りで亡滅せざるをえぬわけなのである。又家族制度は戸主權を基礎とするが、家庭制度は親權を基礎とする。そしてこの二權は大いにその性質を異にするのである。即ち戸主權は支配權であるが、親權は保護權である。從つて前者は主もに權利の主體たる戸主の利益のために行使されるが、後者は全く權利の客體たる子の利益のために行使される。そして又前者は支配權たる性質上、子ばかりでなく、自己の妻・子の妻・孫・孫の妻の上にも及ぶが、後者は保護權たる性質上、子にしか及ばず、子も成長して保護の必要なきに至れば當然に親權を離脱してしまふのである。

 家族制度と家庭制度とは、かやうに方圓相容れぬ關係にあるので、家族制度の衰退・家庭制度の發生は、實に人間の歴史に一新紀元を劃する大なる事實なのであつた。西洋についてこれを見ると、家庭制度が初めてそこに出現したのは、十五・六世紀の頃であつたが、當時の情勢についてエンゲルスは精彩多き筆で書いてゐる——『十五・六世紀はヨーロツパにおいて資本主義經濟の序幕の切つて落された時代であつた。人々はアメリカ發見の報・インド海航路發見の報に目を見張つた。世界が一時に擴大され、無限の活動舞臺が眼前に開かれたやうな想ひをした。自然そこには古びた封建的特權と名譽とに對する輕侮の念もきざして來た。如かず、インドの富・メキシコの銀に野心を向け、乘るかそるかの冒險でも試みんにはと。又自然そこには古びた家族主義的道徳に對する反撥の念も湧いて來た。如かず、生家を飛び出して新たに仕事を見付け、愛する人と樂しい家庭でも作らんにはと。かくして十五・六世紀は經濟組織の變革期となつたと同時に、又、戀愛思想の變革期ともなつた。そこにもここにも自由戀愛の戰士が飛出し、しきりにローマンスの花を咲かせた。姦通・駈落・自由結婚等々がしきりに人の噂に上つた。實にあの頃は近世資本主義の發芽期であつたと同時に、家族制度から家庭制度への轉換期・家本位の戀愛形態から個人本位のそれへの飛躍期でもあつた』と、かうエンゲルスは見てゐるのである。

 同樣のことは日本についてもいへるのである。資本主義經濟の勃興した明治大正期は同時に家族制度から家庭制度への轉換期、而して又、家本位の戀愛形態から個人本位のそれへの飛躍期でもあつたのであつた。

 論より證據、もし諸君が明治大正時代に現はれた有名な戀愛事件の數々、戀愛理論のさまざまを回想されるならば、諸君は、日本人の戀愛思想が明治大正期においてかなりラヂカルな變化を描いたことに氣づかれるであらう。いま試みにその例の一つ二つをあげてみるならば——

 第一は性愛に對立するものとしての戀愛が初めて日本人の間に出現し出したことである。戀愛が單なる性愛と同じでないといふことは、エンゲルスの夙に氣づいた點であつて、彼によると——『戀愛は對等を欲し、對者にもわが愛情に應ずる愛情のあるべきことを望むが、性愛は對者の愛情を問題にしない。戀愛は永續を欲し、永久に對者を所有しようと望むが、性愛は一時的を以て滿足する。さらに戀愛は眞劍な性質を有し、社會的非難を押切つて突進するが、性愛はかかる冒險性を示さない』と。そしてエンゲルスは、性愛は中世人も知つてゐたが、戀愛といふ強烈にして深刻なる内的經驗は、自我の意識の非常に高まつた近代人の初めて味ひえた所であると結んでゐるのである。

 日本においてもエンゲルス的戀愛、即ち社會的非難を乘越えて突進する強烈な戀愛は比較的近時の出現にかかるのではないだらうか。古い日本の文學例へば萬葉や源氏に出てくる戀愛は、戀愛といふよりも單なる情事である。近松の中に出てくる戀愛は、社會的非難を押切つて突進する強烈な性質をもつてゐる點において、たしかに近代的ではあるが、これでも西洋近世の文學例へばゲーテの『ウエルテルの患ひ』や、ダヌンチオの『死の勝利』に出てくる戀愛とは大いに内容を異にしてゐるやうである。西洋のやうな意味での戀愛は、どうも明治以後の出現にかかるとしか思はれない。よつて私はこれを『明治における戀愛の出現』とよぶことにする。

 第二は婚姻に個人的意義を認める思想が初めて出現したことである。過去の日本においては婚姻に家族的意義を認める思想、即ち婚姻は家系を後代に傳へるためであると見る思想はあつたが、婚姻に個人的意義を認める思想、即ち婚姻は男女二個の人格の完成及び充實のためであるといふ思想は、どこにもこれを見出すことができなかつた。この思想の出現は全く明治以後のことだつたのである。ゆゑに私はこれを『明治以後における戀愛の個人化』とよぶ。

 第三は配偶の選擇に當つて家族的利害よりも個人的好惡を基準とする傾向の強くなつたことである。詳言すれば門地とか家格とか財産とかいふ非人格的要素よりも、容貌の美醜とか趣味性格の一致とかいふ人格的要素を基礎にして互に結びつき合ふ傾向の顯著になつて來たことである。或は結婚の道徳的基礎は二人の愛である、二人は絶對に愛だけを基礎にして互に結び付かなければならないといふやうな主張さへ現はれるに至つた。むろんこれも明治以後の現象である。だから私はこれを『明治以後における戀愛の自由化』とよぶ。

 では貞操觀念の方はどうであらうか、この方面においても何かの變化はあつたかと見ると、私はここにもやはり家族主義的貞操觀念の後退・家庭主義的貞操觀念の進出といふ現象を見出すのである。

 けだし明治大正の間に出現した數多くの戀愛論・貞操論のために最も有力な典據となり、論據ともなつたところのものは、エレン・ケイ女史の戀愛論であつたとおもふのであるが、女史は家族主義的貞節觀念に反對して家庭主義的貞操觀念を唱導した人であつた。即ち女史はかう考へた——『昔日の貞操はその基礎を制度又は法律の上においてゐた。例へば妻が夫に對して貞節でなければならなかつたのは、彼を愛すること深きがゆゑではなくて、制度上彼が夫となつてゐるからである。婚約者に對する貞操も愛からではなくて、婚約といふ約束からである。しかし當來の貞操はかやうなものであつてはならない。それはその基礎を戀愛の上におかなければならない。妻が夫に對して貞操を守るのは、彼を專心的に愛し、彼以外の男子を忌むがためでなくてはならない。甘き泉のあるに人誰れか淡き水を飮んやと古人はいつた。貞操もさういふ自然の事實であることを要し、若くはさういふ自然の事實に立脚した自然の規範感情であることを要する。それは斷じて外からの強制や他律的なる義務であつてはならない』と——女史のかうした思想は、明治大正の間に數多く出た日本のフエミニスト達、例へば厨川白村・石原純・帆足理一郎といつた連中の、ひとしく採つて以て彼等の貞操論の論據としたところのものであつたと想像されるのである。

 ところでここに一個の難問は生せざるをえない。それは貞操の基礎だとされるところの戀愛なるものが、本來動搖的な性質を有し、一風一波、高くもなれば低くもなるといふ性質のものなることから當然に生起し來る所の質問である。曰く、『戀愛は貞操の基礎だといふ。しかし戀愛が動搖的な性質を有することは否定できない。ゆゑに戀愛を基礎とするところの貞操はそれ自身また動搖的なものとなり、薄氷上の殿堂となつてしまふであらうが、それでもなほ差支なきや』と。この質問に對して明治大正期の日本のフエミニスト達がどう答へたか、私はそれを知らない。しかしエレン・ケイ女史は大膽にも答へた——『然り、戀愛は動搖的・去來的である。そして愛情が去れば貞操の義務もまた去つて何等差支なきものである』と。

 即ち女史はまづかう考へる——『愛の發生と消滅とは神祕である。ちやうど生命の發生と消滅とが不可解であるやうに不可解である。いつ來るか何人も知らず、いつ去るか何人も知らない。ゆゑに人が貞操を約束するのは實は甚だ大膽なことである。それはちやうど長命を約束し、健康を約束するものだから』と。

 さらにいふ——『なるほど戀愛に直面してゐた二人が互に戀愛の永遠を望み、互にそれを誓ひ合ふのは自然の成行といつてよからう。しかし法律が戀人達の誓ひを楯にとつて戀人達に永遠の貞操を命令するならば、それこそ惡魔的な仕打だと評さねばならない。なぜかなら、人は結婚後に至つて眞の戀人を發見することがあり、最後の戀において最上の戀を味ふこともある。今日は甲に向けられてゐる愛の、明日は乙に移ることを誰がよく阻止しうるであらうか』と。

 又女史はいふ——『貞操は約束さるべきではなくて獲得さるべきである。日々に新たに獲得さるべきである。もし夫が嘗て一度婚約時代において示したやうな新鮮な情緒・微妙な感觸を以て妻に對してくれるならば、どうして妻が夫を裏切ることなどをするであらうか。完全に一體となつてゐる夫婦の間へは第三者の侵入し來る餘地がない。自然は空虚を嫌ふ。夫婦が一體となつてをらないと、恰もそこの空地へ、第三者が侵入して來るのである』と。

 かくして最後に女史は斷案を下していふ——『貞操は戀愛のために守らるべく、又戀愛のために破らるべし。夫婦の一方が他にその愛を移した場合には、彼等は婚姻を解消し、貞操の義務から退却しうる權利があるのである』と。

 元來貞操と戀愛とは本來的に兩立し難い關係にある。貞操の義務を重んずれば戀愛の自由は失はれ、戀愛の自由を認めれば貞操の義務は弛緩するといふ相反的な關係にある。そして封建時代の家族制度は、重きを貞操の義務におき、殆ど戀愛の自由を認めなかつたが、資本主義時代の家庭制度は、むしろ重きを戀愛の自由におき、貞操の義務を輕く見るのである。いはゆる『戀愛の權利は貞操の義務より重し』たるフエミニスト達の常用句は、よく資本主義時代の戀愛思想のポイントを突いてゐるのである。日本においても明治大正期、資本主義經濟の發展と共に、貞操の義務よりも戀愛の權利を重く見る思想が興らんとする形勢を示した。

 いふまでなく明治大正期は日本資本主義の發展期であり、又日本自由主義の飛躍期でもあつた。自由主義の鬪士は、各方面に起ち上つて傳統の破壞に邁進した。政治においても經濟においても思想においても、舊日本的なるものへの反抗・封建的なるものへの挑戰が、華々しく演じられたのであつたが、實は同じ性質の運動は、吾人の私的生活・親族的生活の方面においても、同一程度の眞面目さを以て進められてゐたのである。例へば大家族制よりも小家庭制を好む傾向・親よりも子を重んじ、老夫婦よりも若夫婦を重んずる傾向・個人愛を基礎として配偶者を選び又は選ばしめる傾向・貞操を輕んじ戀愛を重んじる傾向、つゞめていへば家族主義よりも家庭主義をよろこぶ傾向は、實に吾人の親族的生活の方面における自由主義の運動そのものに外ならなかつたのである。

 だから試みに明治大正期において花咲いた有名なローマンス・有名な戀愛事件の性質をふりかへつて見られるがいい。諸君はきつとそれらにおいて非常に眞面目で眞劍なもの・非常に反抗的で戰鬪的なもの・少し大げさにいへば、殆ど悲壯な決戰的なものを見出されるに相違ない。例へば島村抱月氏の事件。氏は『あるときは四十の心、あるときは二十の心云々』と迷ひつつも、遂に子をすて妻をすてて女優松井須磨子氏の許へ走つてしまつた。そこには傳統の制度と因襲の道徳とに對する強烈な反抗心の現れが見られるのである。又石原純氏の事件。氏もまた『愛人とのより良き生活の創造へ』と稱して、歌人原阿佐緒氏の許へ走つてしまつた。ここにもまた傳統への反抗の心が見える。又野村隈畔氏の事件。氏は『自由の國に行く』と宣言して、己の愛人(その名は忘れてしまつた)と、たうとう投身自殺までしてしまつたではないか。有島武郎氏はその死に臨んでその愛人の夫、波多野氏へ一書を送り、『誰がいいのでも惡いのでもない。善につれ惡につれ、それは運命が負ふべきもののやうです。私達は運命に素直であつただけです。私達は遂に自然の大きな手で易々とここまでさらはれてしまひました』といつてゐるが、これはそのままに因襲的な貞操觀念に對する呪の聲として聞かるべきである。柳原婦子氏に至つては最も勇敢、離婚に先立つて夫君伊藤傳右衛門氏へ公開の絶縁状を送り、『金力を以て婦人の貞操を蹂躪した貴君』とか、『妾娼的生活に堪へざるに至つた私』とか、ちやうど今日進歩的な支那婦人の演説の中からでも聞かされさうな名文句を並べ立てて見せてくれたではないか。

 かう考へてくると、明治大正の戀愛事件は決して單なる情事ではない。それは同時に社會的な戰ひでもあつたのである。傳統の制度と因襲の觀念とに對するかなり激烈な戰ひであつたのである。

 明治新文學の先驅者・國木田獨歩は、その著『病牀録』の中の『戀愛篇』においていつてゐる——『眼中父母なく、慣習なく、社會なく、只戀あるのみ』と。明治時代の戀愛の情熱的・突進的・破壞的性質をよくいひ現はしてゐるとおもふのである。

 しかしその間に日本資本主義の駸々乎たる發展は、日本を新たなる經濟發達の段階へまで引づり上げてしまつた。資本の集中・産業の獨占・生産の大機械化・經營の大規模化等々が、巨大な現象として吾人の限前に横はるやうになつた。中産階級の沒落・農村の危機・失業者の増加・就職難・結婚難といふやうな厄介な現象も見られるやうになつた。しかし私のいま當面してゐる問題に直接の係はりをもつのは、サラリーマンの行詰りといふ現象であつたよ!

 サラリーマンはいふまでもなくその發達を、國家機構の複雜化・企業經營の大規模化に負うてゐる。國家機構の著しき複雜化は尨大なる官吏群を必要にし、企業經營の驚くべき大規模化は、資本家と勞働者との中間に立つて勞働の指揮・經營の實際に當るべき事務員の大群を必要にした。今日の大學以下の教育施設は、大體において公私俸給生活者の養成を以てその目的としてゐるのである。では彼等サラリーマン達の社會的地位はといへば、資本主義が順風滿帆の勢を以て前進してゐた時代には、それはそれは惠まれたものであつたのであつて、私的俸給者についてこれをいへば、彼等は累進してその經營における指導者の地位へ昇ることもでき、又巧みに轉身して獨立の企業家となることも可能だつたが、資本主義の行詰は彼の進路を塞いてしまつた。今ではどこをさがしても資本主義の『順調な發展』などは見られず、俸給生活者の『成功』も昔の夢と化してしまつた。第一今日は俸給生活者となること、即ち職に就くこと自體がすでに容易でない。第二に職には就きえても昇給の機會がなかなか來ない。いつになつたら妻を娶り家庭を建設しうるのか、それすら『明晩の夢』である。幸に順調に昇給しえたといつたところで、それは俸給令の小梯子を限りある高さまで小刻に登るといふまでのことに過ぎない。龍變して重役樣に成り變るといふ望があるでなし、轉身して獨立の企業家となるといふ可能性があるでなし、惡くするとあたら一生を下級社員として整理の嵐に戰きつつ、塵勞の間に葬つてしまはねばならないのである。

 しかもこのやうな就職難・昇給難は彼等の性生活の上に大きな影響を及ぼさずにはおかない。それは彼等の家庭建設難である。由來彼等の生活理想は比較的に高い。比較的にとは彼等の收入に比較してといふ意味である。むろん彼等はブルジヨアのやうな善盡し美盡くす生活の望んでも得られぬこと位は承知してゐるが、せめて流行の洋服を着、映畫を見、レビユーを見、レコードの一つ位はかけて見たいのである。それは彼等にとつて一種の生活必需品でさへあるのであるが、家庭をもち妻子を抱へると、この程度の文化生活さへ不可能となつてしまふので、彼等は例の昇給令の小梯子をもう一・二段高く昇るまで家庭の建設を見合せようとする。從つてそこには結婚を望んで結婚をなしえざる結婚失業者の大群が生じることとなるわけであるが、これにつき有名な『婦人と社會主義』の著者べーべルはいつてゐる——『男子は、妻と多分それにつづくであらう子とを、重い勞苦に追はるることなしに扶養しうるかどうかをまづ自分自身に問うてみる。ところが今日の職業及び財産の状態では、この問を肯定することが困難である。從つて男子はかかる義務の履行に堪へうる地位に到達するまで獨身で止らうとするのである』と。又いふ——『男子は、女子が夫を獲得するがために飾つてゐる費え多き生活が習ひすでに性をなし、結婚後までも續くであらうこと、從つて彼の力では彼女の要求を到底滿しえないであらうことを、初めからよく心得てゐる。だから彼は危險を冒して斷崖の花を手折らうとせず、遠くこれを眺めて行き過ぎてしまふのである』と。

 日本においても男子の就職難・女子の結婚難は一聯の社會現象として、アベツクで登場しつつあるのではないか。

 社會學者はよくいふ——家族制度の次には家庭制度が來り、家庭制度の次には『家庭制度の崩壞』が來ると。それは家庭の建設が、就職難のために妨害される日の來るべきことを豫想しての言なのであるが、日本の場合には、この不吉な豫言があまりにも早く的中した。一方において家族制度の崩壞が未だ終らず、家庭制度の建設が未だ完からざる間に、早くも家庭の崩壞といふ最後の來客が見えたのである。よつてここに日本人の戀愛思想は俄かに一個の新しい潮流を加へた。家族主義的戀愛思潮並びに家庭主義的戀愛思潮に對するものとしての、僕のいはゆるサラリーマン的戀愛思潮の初登場がそれである。

 ではサラリーマン的戀愛思潮の特色はどこにあるか——

 おもふに現代のサラリーマンほど冷靜な打算家は少いであらう。金錢の遣ひ方などを見てゐても彼等は非常に合理的である。彼等はその小さな財嚢を以て、各種の快樂の表面を淺く廣く滑つて行く術を心得てゐる。異性に對しても馬鹿錢などは遣はない。もとより餘裕のないからでもあらうが、非常に僅か遣つて不足の部分は空世辭やお愛嬌でごまかしてゐるのである。それに彼等の心内には彼等の雇主の精神即ち資本家的精神なるものが形ちを替へて宿つてゐる。資本家的精神は無限に利潤を漁つて行く精神であるが、サラリーマンはこの精神を戀愛に適用し、なるべく多數の異性を漁らうとする。彼等はこれを『征服』と稱してゐる。征服によつて彼等は自己の優越性を味はうとするのである。又彼等の心内には虚無的な精神さへも宿つてゐる。虚無的な精神は現代の財産秩序に反抗するが、彼等の場合はむしろ現代の性秩序に對する反抗である。『若き社員と重役夫人との戀』は、現代小説の好題目をなしてゐるが、道ならぬこの種の戀において、若き社員は現代の社會秩序をあざ笑ふ危險な精神をひそかに滿足させてゐるかのごとくである。それに現代においてはかかる誘惑の手に乘り易い『ブルジヨア婦人』なるものが亦少くない。ベーべルもいつてゐるやうに、現代のブルジヨア婦人は興奮的な食物と刺戟的な劇・音樂・讀物の中にその肥え太つた肉體をもてあましてゐるのであつて、彼女達が墮落の淵に落ちるのは、熟した果實の地に落ちるがごとくに容易である。蒼白きインテリ社員と肥え太つたブルジヨア婦人との爛れた戀——それこそは實に爛熟せる資本主義社會における時代色最も豊かなる戀愛情景でなければならない。

 だからいまサラリーマン的戀愛を一時代前の家庭主義的戀愛と比較するならば、そこには次のやうな特色が見出されるのである——

 第一は戀愛至上主義の抛棄である。サラリーマン達は前時代の人々のやうに戀愛を人生至上の價値だなどとは考へない。彼等にとつては生活の方が第一主義的である。生活のために戀を捨てるのはいいが、戀のために生活を捨ててはならない。前時代の人々が戀のために身まで滅ぼしてしまつたのは、現代の複雜なる社會的障害に對する認識において缺くる所があつたためである。社會の力がいかに強いか、個人の力がいかに弱いかを知れば、戀愛行動においても人々はもつと消極的となるべき筈だ、と新人たちは考へるのである。

 第二は人格主義の抛棄である。先輩達は配偶の選擇に當つて重きを相手の人格においた。地位とか財産とかいふ非人格的要素を標準にして結婚することを不道徳なことだとした。しかし今のサラリーマンは享樂のためには金、金、金が必要であることを知つてゐる。そして自分自身が金の獲得にいかに不得手であるかといふことも併せ知つてゐる。だから彼は勢ひ他力本願宗とならざるをえない。彼は何とかして地位あり財産ある婦人を獲得しようとする。ベーベルの言葉をかりていふと、『現代の男子は結婚の港に入つて、長い間の遊蕩生活に疲れ果てた身體を休息させようとする。あわよくば女と財産とを一擧に獲得しようとするのである』。

 第三は遊戯的享樂氣分の濃厚なことである。新人たちは深刻な熱烈な悲劇的な顏付をした戀愛などは好まない。淡い輕い晴々とした戀を好むのである。彼は對者を永遠にわがものにしようとは思はない。輕く愛して輕く別れようとするのである。明朗といへば明朗である。スマートといへばスマートである。評してこれを流線型の戀愛とでもいはうか。

 しかし流線型の戀愛は同時に無責任の戀愛である。彼等は要領よく樂んで要領よく捨て、戀から戀、女から女へと小鳥の如くに移つて行くのだからである。その無責任さ・デタラメさ・氣まぐれさの裏には、現在の性秩序をあざ笑ふやうな絶望的な・ニヒル的な・無政府的な氣分が流れてをりはせぬかと疑はれるばかりである。

 しかしかういふデタラメ氣分も彼等の社會的地位がさうさせるのだとおもへば強ちに非難もできない。實際今のサラリーマンは重役となれるのでもなければ、獨立の企業家となれるのでもない。一生を使用人として簿書の間に埋めてしまふ運命にある人々なのである。使用人は敏捷に事務は執るが、企業そのものに對しては積極的な情熱をもつてゐない。要領よく處理して要領よくサボリ、利巧に立廻つて利巧に逃げようとする風があるのである。現代のサラリーマンが戀愛において輕快でありスマートであり又無責任であるのも、かうした彼等の社會的地位から來た彼等の社會的性情が必然的にさうさせてゐるのだとむしろ同情的に解すべきものなのであらう。

 ところでここにもう一つ、サラリーマンの姉妹軍としてサラリーマン的戀愛思潮の形成に貢献しつゝある一團のあることが忘れられてはならない。職業婦人の大軍がそれである。コロン・タイ女史の華麗な用語法にならつていへば、『事務室で事務をとつてゐる・商店でカウンターを廻してゐる・ビルヂングでエレベーターを操つてゐる・病院で試驗管を握つてゐる・大都會の舖道を靴音高く群れ歩いてゐる職業婦人の大進軍』がそれである。

 彼女等の生活に關してコロンタイはいふ——『彼女等は經濟的にも獨立してをり、人格的にも獨立してゐる。夫にも愛人にも依存せず、全く獨歩の生活を營んでゐる。しかもその意志は、理性は、鍛へられて男のやうになつてゐる。事務の複雜さは彼女に理性的なれと教へ、勞働の苦痛は彼女に意志的なれと教へる。彼女は第二の男性である。全く新しい思想・新しい觀念の擔ひ手である』と。

 では彼女等の戀愛觀はといふと、コロンタイは答へる——『彼女等も戀愛の價値は知つてゐる。戀がなければ人間は創造的活動の力を失つてしまふものだといふことを知つてはゐる。しかし彼女等は男子と同じく社會的理想のために社會的仕事を遂行しつゝある積極的な分子である。社會的活動は男子にとつてばかりでなく、彼女等にとつても生命である。戀愛は生活のほんの一部分に過ぎない。彼女等は社會的活動のために戀愛を犧牲にすることはあつても、戀愛のために社會的活動を見合はせることはないであらう』と。

 しかしコロンタイのこの言はソヴエート・ロシヤの職業婦人に關するものだといふことが忘れられてはならない。資本主義國家の職業婦人は、決してこのやうな性質のものではない。むしろこれと反對の性質のものである。即ち資本主義國家の職業婦人は理性的でもなければ意志的でもない。經濟上の獨立者でもなく、人格上の獨立者でもない。むしろ他人の支持を受け保護を必要とするやうな『弱き者よ汝の名は女なり』といはれるやうな果敢ない存在であるのである。

 元來資本主義國家の職業婦人は沒落せる中産階級の出身である。中産階級の家庭は、その沒落の前夜、きつとその子女を道徳的廢頽の危險ある職業戰線へと送り出す風があるのであつて、女給・賣子・女事務員・看護婦等々はみなかうして滅び行く中産階級の中から現れ出ては來るのである。ところがさて賣子なり女事務員なりになつて見ると、その收入は意外に少い。それはいはゆる『生きるには少く、死ぬには多し』の程度であるが、支出の方はなかなか多い。昨日まで中産階級に所屬してゐた彼女達のこととて、收入はすでにプロレタリア化してしまつてゐても、體面だけはブルジヨア的に維持してゐたいとおもふからである。その結果、流行の衣裝や最新の化粧のために無理算段までするやうにもなるのであつて、その状は恰も彼女の兄弟たるサラリーマン諸君が俸給の大半を割いて高價な洋服を身に着けるのと一般である。虚僞と虚飾は市民社會の交際の常弊であるが、サラリーマン及びサラリーウーマンの服裝に至つてこの弊は實に極まるのである。しかしかういふ虚飾多き生活の永續しうる道理もないから、彼女等は速やかにチヤンスを掴んで何人かと結婚し、主婦としての安定した生活へ入らうと欲する。細君業ほど女子にとり有利な職業はないといふ平凡な眞理を彼女等も知るやうになるのであるが、さてそれではその際、彼女等はその夫の獲得のためにどのやうな行動を起すか?

 ここに至つて私は端なくも私のベルリン留學の日を想起せずにはゐられない。彼處で私の發見した驚きはいろいろあつたが、その一つは女事務員の數の夥しいことであつた。毎朝街頭に出て見ると事務所へ通ふ若い女の大群が流れて行く。大概の家の娘さんはかうしてみな事務所通ひをするのかと怪しまれるばかりであつたが、夜ともなればこれらの娘さんたちが化粧を濃くして再び街頭に現れ、カフエーなどへ集るのであるから、私としては二度のビツクリを味はねばならなかつた。しかも彼女達自身の意圖は意外にも眞面目であつた。彼女達は街頭やカフエーにおける男性との假りそめの交際のなかから、出來うべくんば生涯の伴侶を發見せんと努めるもののごとくであつた。

 かかる男性との假りそめの戀愛遊戯のなかから、どんな結果が發生するか、得てわれらの知る限りではないが、底深い危險の淵が口を開けてそこに待つてゐることだけは確かである。なぜかなら女は結婚の目的を以て立向つて行くが、男は歡樂の對象としてこれを受取らうとするのだから。

 實に職業婦人の自由な活溌な戀愛行動のなかからは多くの墮落と頽廢・喜劇と悲劇との數々が生れ出て來るのであつて、ベーベルの『婦人と社會主義』を見ると、或る警察署の署長が世の父母たちに向つて重大な警告を發してゐる。曰く——『諸君は諸君の令孃が品位あるいい娘だとばかり思つてをられる。世上屡〻女事務員墮落の噂は聞くが、わが娘に限つてそんな事實はないとばかり信じてをられる。しかし警察官の調査を以てすると、女店員・女事務員の實に半を超える數が、何等賣笑婦と撰ぶなき行爲をなしつつあるのを發見するのである』と。

 或るドイツ人は私に話した——『ああしてドイツの娘たちは夫の獲得に浮き身をやつしてゐるが、彼女等はその終生の侶伴を見つける前に幾度も幾度も失敗するのである。結婚は恐らく平均三度の失敗の後であらう』と。

 かうした若い女の哀れ深い墮落の相——それもまた市民社會の爛熟化に伴つて現はれる必然的な一つの社會現象ではあるのである。

 要するにサラリーマンとサラリーウーマンの大群——これこそ實に現代の無責任な絶望的な無政府的な戀愛思潮を擔つてゐる社會的地盤であるのではあるが、ここに注意すべき一事は、サラリーマン及びサラリーウーマンの戀愛思想が單に彼等相互の間の戀愛思想たるに止まらず、延いて社會全般の戀愛思想となり、若くはならんとする傾向を示してゐるといふことである。けだし一の思想がその發生地盤を越えて他の地盤へまで燃え擴がつて行くといふ現象は、屡〻見られるところであつて、サラリーマン的思想についても、同じ現象を見んとしつつあるのである。

 試みにいま現代の日本においていかに放縱無責任なるサラリーマン的戀愛思潮が瀰漫しつつあるかを證示するために、二三の例を最近の戀愛ゴシツプの中から拔いてみるならば、第一は福田蘭童氏。氏は訪問の或る雜誌記者に過去の懺悔話の末、『もともとほんの浮氣心から、さして責任も感ぜずしたことで』とか、『女とは結局あてにならぬもので』とか、何と御挨拶のしやうもない感想を洩らしてをられたが、よくその語中に現代の戀愛のデタラメ性・無責任性が曝露されてゐるやうに感じたのである。次は淡谷のり子氏と和田肇氏。二人は人も羨む好コンビであつたところ、某誌の報ずるところによると、一方は『あなた見たいな浮氣者とは別れる』といひ、他方は『どうぞ御自由に』と應酬し、すつかりキレイになつたといふ話。その次は字野千代氏と東郷青兒氏。この二人も『白堊のアトリエに納つてゐることとばかりおもつてゐたら、最近『お互の藝術のために』とか何とかいつて別れてしまつたといふ話。そして宇野氏の去つたあとには東郷氏の前愛人西崎盈子氏が舞戻つて、『五月の太陽のやうな熱い戀』を味つてゐるといふ羨やましい話。かう見てくると、どれもこれも氣輕であり活溌である。容易に合して容易に離れる。そして離別にも何等悲劇的な趣を留めない。『別れも亦愉し』といつた式である。

 これを明治大正期の有名な戀愛事件、例へば島村抱月氏の事件・有島武郎氏の事件などにくらべたら、眞に雲泥の相異ではないか。

底本:「一法学の嘆息」、弘文堂書房