ブルヂョアは幸福であるか

生田長江

 現代の社會組織經濟組織の下に、貧乏人の境遇が如何にみじめなものであるかは、改めて説くを(もち)ひない。けれども、金持の生活も亦、それほど幸福なものでないといふこと、否非常に不幸なものであるといふことに就いては、今迄人があまり論じない。歐羅巴に於ても、トルストイや、ラスキンや、モリスなぞ極めて少數の人々を例外として、一般には殆んど問題にしてゐない。日本では更に一層問題にしてゐない。

 私の知つてゐる限りでは、ブルヂョアも亦資本主義經濟組織の殘虐汚毒をまぬかれてゐないことを、私以外の殆んど一人の人もが言つてゐないやうである。

 一九一七年三月堺利彦氏立候補後援演説(これはあとで雜誌にものせ、論文集の中にも入れました)に於て既に私は此問題に觸れ、次ぎのやうに言つてゐる——

 「今日の社會に於て、あまりに貧しすぎる者が寒さに震へながら、空腹をかゝへながら、いら/\と興奮してゐるとき、あまりに富みすぎてゐる者は、飽食し、暖衣して、倦怠の中に生あくびと戰つて居ります。あまりに富みすぎてゐる者も、あまりに貧しすぎる者と同樣に、肉體的に、また精神的に、虚弱になり、低劣になつて行きます、頽敗し、滅亡して行きます」と。

 更に次ぎのやうにも言つてゐる——

 「さて私共はかくの如く、あまりに富みすぎたる者を、あまりに貧しすぎる者と同樣に不幸であると考へて居ります故、現在の社會制度、經濟組織の革新改善は、(たゞ)に所謂勞働者階級をより幸福にする爲めばかりでなく、また所謂資本家階級をより幸福にする爲めにもなされねばならないものだと思つて居ります。所謂資本家階級に對する所謂勞働者階級の羨望や嫉妬や復讐心や、それらのものに同情同感する心に、根本の動機をもつたのであつてはならないと思つて居ります。一言にして云へば、私共は、私は憫むべき勞働者階級の味方であると共に、また憫むべき資本家階級の味方でありたいと願つてゐるのであります。そして此根本の見解及び態度に於て、社會主義者諸君と、別して日本の現在に於ける社會主義者諸君と、幾分の距りをもつてゐるのであります。少くとも、私自身が社會主義者と名乘つたり、他から社會主義者と命名されたりすることの資格を有しない位には距りをもつてゐるのであります」と。

 その後、「社會批評家としての予の立脚地」(一九一七年十二月)、「何人の爲めの改造なりや」(一九一九年八月)、「問題の全體的意義を論ず」(一九一九年九月)、「人道主義改造論者の不徹底」(一九一九年十二月)、「階級鬪爭の倫理的批判」(一九一九年十二月)等に於て、これでもか、これでもかといふほど、隨分執拗に反復して、私は右の問題を取扱つてゐる。

 それにも係はらず、それに對してこれまで全然反響らしい何物もない。

 所謂人道主義的立脚地にゐる人達が、それに對して何等の共鳴をしないといふことも不思議であるが、更に不思議なのは、恐らく正反對な見方をしてゐるであらうところの、所謂社會主義者諸君からして、何等の(ばく)(げき)をも御叱りをも受けないでゐることである。

 勿論、私の頭がいゝとか惡いとか、私の文章が巧いとか(まづ)いとか、いふやうな事柄であれば其儘にして置いていゝ。反響のあるとか無いとかは、それほど氣にしないで置いていゝ。けれどもこれは今少し眞面目な問題である。

 梢や久し振りに、またもや「ブルヂョアは幸福であるか」を論じて見ることにした。今後も尚ほ機會のある限り、愈〻しつこく論じつゞけて行くつもりである。

 ブルヂョアの生活が決して幸福なものでなく、寧ろ大に不幸なものであるといふことは、便宜上ブルヂョア對勞働の關係からと、ブルヂョア對生活資料の關係からと、兩面からして論じて行かう。

 先づ、ブルヂョアと勞働との關係について云ふのだが、資本主義社會に於ける總ての生産が專らたゞ資本家等の營利衝動を滿足させる爲めにのみなされてゐることは、誰でもが承認するところの事實であらう。

 營利衝動とは所詮、貨幣をもつて計量することの出來るやうな富——それと異れる富もあり得る——を獲得蓄積したいといふ慾望にほかならぬ。

 どんなに便利なる器械が發明されようとも、器械で以てミケランゼロの美術を、ベエトオフェンの音樂を生産することは出來ない。貨幣で以て其價値を計量することの出來ないやうな物を生産するわけには行かぬ。

 けれども、貨幣で以て其價値を計量することの出來るやうな、單なる商品を生産する上には器械ほど便利なるものはない。器械は多量の商品を生産して、資本家にまで多量の富を獲得蓄積させる。

 器械の利用が盛になるにつれて、人間と器械との地位が顛倒して來た。即ち、はじめは器械が人間の手足の延長として勞働力を補足するものであつたけれど、のちには人間が器械の一部分として、器械力の活動を手傳はされるものになつてしまつた。

 出來るだけ多くの貨幣價値を生産して、出來るだけ資本家の營利衝動を滿足させる爲めには、出來るだけ器械を利用するのみならず、出來るだけ人間をも器械の一部分となし、器械化してしまふことが必要になつて來たのである。

 今尚ほ世間多數の人々に氣附かれない事實ながら、勞働その物は本來必ずしも人間にとつて厭はしく不愉快なものではない。むしろ、それが各人の天分素質に適應したものである限りに於て、願はしく愉快なものなのである。そして、勞働をしないでゐることが、却つて苦しく且つ有害なのである。

 資本主義社會の生産は、一切の勞働を器械化し、個性のないものにし、各人の天分素質を蹂躙するところのものにした。即ち、厭はしく不愉快な、苦しく且つ有害なものにした。

 その結果、今日の殆んど總ての人々は、願はしく愉快な勞働といふやうなものを考へることが出來ない。僅かに例外とすべきは、所謂製作の悦びを知つてゐる、少數の本當の藝術家の場合だけである。

 少數の本當の藝術家は、嚴密な言葉遣ひに於て選ばれたる者として、眞に時代錯誤社會錯誤として、プロレタリアからもブルヂョアからも出てゐる。ブルヂョアから出易くして、プロレタリアから出にくいといふ事實も見えない。

 兎もあれ、極度に惡くされたる勞働をばかり見慣れて來た現代人は、なるべく總ての勞働から遠ざかつてゐたいとねがふ。さうねがひ乍らもプロレタリアは、脊に腹はかへられないで、その日その日を生きる爲めに、厭はしく不愉快な勞働をつゞけて行く。これに對して、さうした切迫した必要を有たないブルヂョアは、厭はしく不愉快な勞働から、出來るだけ遠ざかつて行かうとする。プロレタリアが勞働を憎惡するのを見れば見るほど、ブルヂョア自身も愈〻勞働を憎惡し恐怖して來る。

 事實としてプロレタリアが、稼ぐに追ひ付く貧乏神に(むちう)たれながら、つねに勞働しすぎることの不幸に陷つてゐる時、寢てゐて喰へる、結構すぎる御身分のブルヂョア達は、あまりにも勞働をしないといふことの、不幸なる結果を收めてはゐないだらうか。

 外氣から、日光から、水から、土から、そのほかのあらゆる自然らしい自然から、今日のブルヂョア達ほど遠ざかつてゐるのが、どうして善い事と云はれようぞ。所謂筋肉的には無論のこと、所謂腦力的にさへ、彼等の如く無爲にしてゐるのが、どうして彼等を、弱くしないで置かうぞ。惡くしないで置かうぞ。

 勞働が、一般に、各人の天分素質を蹂躙し、その個性に逆行したものになつてゐる今日なればこそ、所謂藝術家の仕事を一種特別の物として扱はなければならないのである。本來は總ての勞働が藝術家の仕事と同樣でなければならないのである。即ち、願はしく愉快なものでなければならないのである。

 そしてさうした願はしく愉快な勞働から遠ざけられてゐるのは、プロレタリアばかりではないのである。その不幸がどんなに大きなものであるかは、一般のプロレタリアにも、ブルヂョアにも知られてゐない。またそれ故にこそ、其不幸は愈〻大きくなつて行きつゝあるのである。

 勞働に對する關係からブルヂョアの不幸なる地位を論ずるのは、一まづこれ位にして置いて、次ぎには生活資料に對する關係から、ブルヂョアが幸福であるどころか、むしろ大に不幸な境遇に立つてゐるといふことを明らかにして見よう。

 世間一般に信じられてゐるところに依れば、必要なる生活資料を十分に與へられないのはプロレタリアである。ブルヂョアは一切の必要なるものを與へられてゐる。その點に於て彼等は幸福すぎるほどにも幸福である。

 しかし乍ら、ブルヂョアは實際に一切の必要なる物を與へられてゐるであらうか。この問題に對して正しき解答をなす爲めには、今日の資本主義生産に於て生産せられるところの物が、そも/\如何なる性質の物であるかを、より徹底的に吟味して見る必要がある。

 資本主義生産が專らたゞ、資本家の營利衝動を滿足させる爲めにのみ爲されることは前に既に述べた。

 ()てさうした目的の下になされる生産は、出來るだけ多量を生産することを必要とする故に、自然の需要に應じて供給するといふが如き、控目な生産に甘んじてゐない。しかも、結局に於て生産過多を持てあますに至らないことの爲めに、供給を以て逆しまに需要を促すといふ辛辣な方策に出る。

 供給によつて需要を促すべく、そも/\如何なる性質の商品を生産することが最も便利であるか。曰く、人間の慾望を刺戟するに最も容易なるものを生産することこれである。

 ところで、人間の慾望なるものは、その生活を維持し向上させる上に實際必要なものに對して動くこともあり、單に必要と思はれるだけのものに對して動くこともある。そして實際に必要なるものは、例へば或る種類の食料品なぞの如く、一定の限度を越えて慾望されることのないものであり、單に必要と思はれるだけのものは、例へば或る種類の裝飾品化粧品なぞの如く、際限なく慾望しつゞけられ得るものである。加之、人間は動もすれば實際に必要なものを後廻しにしてまでも、單に必要と思はれるだけのものを慾望するやうな、淺間しき傾向をすら有つてゐる。さうした慾望を横合から、色々に挑發された——ブカブカドンドンや、新聞雜誌の廣告や、そのほかのあらゆる意識的無意識的手段によつて——場合に於て尚更さうである。

 かくの如く、一方には慾望される限度があり、他方にはその限度がないとしたならば、また一方が往々他方の爲めに後廻しにさへされるとしたならば、また特に一方の慾望に挑發の餘地がなく、他方の慾望に挑發すればしただけの效能があるとしたならば、資本主義生産が主力を傾倒して所謂贅澤品の生産に從ふといふのは、極めて自然の勢であると云はねばならぬ。

 加ふるに、プロレタリアは多くの場合、實際に必要なる生活資料をさへ、單に慾望するに止まつて需要するに至らない。それに必要なる購買力を有しないからである。これに反してブルヂョアの慾望は、それが挑發されただけそれだけ、悉く皆需要となつて現れる。從つて、さなきだに贅澤品の生産に主力を傾倒しがちなる資本主義生産は、愈〻絶對的必要品に遠いものゝ生産にばかり走つて行くのである。又、その結果として往々、消費者としてのブルヂョア自身も狼狽するほどに、必要品の一般的拂底をさへ訴ふるに至るのである。

 私はこゝで、そも/\必要品とは何であるか、贅澤品とは何であるかについて、一言して置くことを便利であると思ふ。

 私の見るところを以てすれば、必要品とは兎に角、人が人として本當に生きる爲めに、(くは)しくは肉體的にも精神的にもより善く生きる爲めになくてはならぬものである。贅澤品とは、さうした目的の爲めに必要でないのみならず、むしろ肉體的にも精神的にも、人の本當の生活を壞敗させなければ置かないやうな物の()ひである。

 勿論嚴密には、人を異にするにつれて、その生活に必要なる物をも異にする。同一人であつても、その場合場合によつて、必ずしも必要とするところを一にするものでない。けれども一面亦、多くの場合に於て、多くの人々の上に必要であるものと、必要でないものとを標準にして、凡そ何が必要品であるか、何が贅澤品であるかを決定するのは、必ずしも不可能事ではないのである。

 そして今、資本主義的生産が贅澤品の生産にその主力を傾倒しがちであると云ひ、その結果、往々にして必要品の一般的拂底をさへ訴へると云ふのは、右の如き言葉遣ひと意味合とに於てであること勿論である。

 今日のプロレタリアが、その購買力の不十分なる爲めに、必要品を十分に與へられないのみならず、殘忍極まる誘惑の(とりこ)となつて、折々手に入れることの出來る必要品をさへ後廻しにして、なまなかなる贅澤品を少しばかり買はされてゐるといふ、プロレタリアの悲慘については精しく説くまい。此場合ブルヂョアは勿論購買力のない爲めにでなく、寧ろ贅澤品が必要品よりも以上にその慾望を刺戟することの爲めに、必要品よりも以上に贅澤品を買はされ、結局十分なる必要品を與へられないでしまひ、あまりに多過ぎるところの贅澤品を與へられてしまふことになるのである。

 しかも、(かく)の如きブルヂョアにとつて最も不幸な事は、寧ろ不十分に與へられ勝ちな必要品その物すらもが、よくよく吟味して見れば、純粹に必要品といふべき物でなく、一面にかなり多くの贅澤品的性質をもつた物であるといふ事實である。換言すれば、彼等の與へられてゐる所謂必要品も、大抵の場合必要品の假面をつけてゐるに過ぎないといふ事である。

 さらば、今日の所謂必要品は何故に假面をつけた贅澤品にすぎないのであるか。何故に今日の人々は、とり分けブルヂョアは、必要品の外觀をとつた贅澤品を買ふほどに、それほど贅澤品を買ひたがるのであるか。

 それは他でもない。彼等が高價な物ほど善い物であると迷信してゐるからである。貨幣的價値の多いものほど、我々の生活に役立つもの、我々を幸福にするものであると思ひ込んでゐるからである。

 例へば、パンを常食とすることが飯を常食とするより高價であるとすれば、資本主義社會の人々はそれが何となくより善き食物であるかのやうに考へてしまふ。

 牛肉が豚肉よりも高價である時、彼等は直に牛肉の方をよりすぐれた食料であるときめてしまふ。うまいまづいといふやうな判斷さへもそれに支配されてしまふ。

 毛の肌襦袢が木綿のそれよりずつと高價である故に、彼等は直に前者の方をずつとすぐれた物であるときめてしまふ。

 醤油が鹽よりもずつと高價である故に、彼等はつねに前者が後者よりもずつとすぐれた物であるときめてしまふ。

 高價であることが直に、つねに善美なものである彼等にとつては、コーヒー・シロップでさへも番茶の出花より有難い物であり、素性の分らない石鹸や洗粉でさへもが、たゞの米糠なぞよりも有難いのであり、矢鱈にうめ木細工をしたり、用もない溝を掘つたりして、わざわざへなへなにした家具類なぞが、そんな餘計な手數をかけない、簡素で丈夫一方な物よりも何となく有難いのである。

 以上は、特に所謂必要品に近い物について云つたのであるが、所謂贅澤品の領分にはいつて行けば、貨幣價値の多いものが直に、つねに立派なものであると思ふ現代的迷信は、殆んど正氣の沙汰とも見えないほどの程度にまで甚だしくなつてゐる。

 昨日まで千五百圓の札をはられてゐた指環が、或は腕環が、今日三千圓の札をはりかへられると共に、直ぐに買手を見出すといふやうな事實は、そも/\何を語つてゐるか。

 今日の貴婦人なぞと稱せられる人々の大部分が、何故いつその事、紙幣をその儘に着て歩かないかがむしろ疑問である。

 かくの如き黄金崇拜は、貨幣價値に對する笑ふべき迷信は、資本主義經濟組織の發達と共に生じて來たものであり、それが崩壞しない限りは決して跡を絶たないであらう。

 ともあれ、かくの如き迷信の囚となつてゐる現代人は、特に購買力のあるブルヂョアは、所謂必要品を買はうとする場合にも、出來るだけ高價な物を買はうとする結果、いつも必然に何等かの贅澤品的性質をもつた物を與へられる。否、非常に多くの場合、單に必要品としての假面をつけたばかりの、殆んど純然たる贅澤品を買はされてゐるのである。

 そして其結果はどうであるか。一體に所謂贅澤品をあまりに多く與へられ、所謂必要品をむしろ不十分に與へられてゐるのみならず、必要品のつもりで買つたものさへもが、殆んど皆贅澤品的實質をのみもつてゐたとしたならば、ブルヂョアはその事からしてどんな結果を收めねばならないか。

 私は、不快にして有害なる勞働を、あまりにも多く強ひられてゐるプロレタリアの不幸が、さうした勞働をしないと共に愉快にして有用なる勞働からも、即ち一切の勞働から遠ざけられてゐるブルヂョアの不幸に此し、より大きなものであるか、より小さなものであるかについては暫く言ふまい。

 同樣に、贅澤品は勿論のこと、必要品をさへあまりにも少く與へられてゐるプロレタリアの不幸が、必要品の外觀をとつた物に於てさへ贅澤品を與へられながら、殆んど贅澤品ばかりを、あまりにも多く與へられてゐるブルヂョアの不幸に比し、より大きなものであるか、より小さなものであるかについても、暫く言はないことにしよう。

 けれども、ブルヂョアが對勞働の關係から見ても、對生活資料の關係から見ても、ブルヂョア自身の氣附いてゐるより以上に不幸なものであるといふこと、プロレタリア側の大抵の人々からは殆んど想像もつかないほどに不幸なものであるといふことだけは、どうしても強調力説して置かなければならぬ。

 日本人である私の口より聞かされるより、同一の事をでも歐米人の口から聞かして貰ひたいやうな多數の人々にまで、私はここにヰリアム・モリスの言葉を取次いで置く。

 モリスは言つてゐる——病氣といふものゝ種子は、最初に祖先の貧乏から、でなければ其贅澤から播かれたのであると。

 かうした歐羅巴人の言葉に、手短かな敷衍をなすことを許されるならば、人間は貧乏といふ不自然な生活によつて、或は贅澤といふ不自然な生活によつて、肉體的にも精神的にも病弱になり、頽敗的になつて來たのである。

 そしてこの不自然な生活と資本主義經濟組織との關係を明らかにした上に於て、モリスほど徹底的でなかつたとは云へ、不自然さその物の如何に人間を不幸にしてゐるかを慨歎して、それからの脱却を勸説することには、モリス以上の熱心と努力とをさへ見せた人としては、ジョン・ラスキンや、レオ・トルストイを擧げることが出來る。

 私は讀者諸君が此等の偉人の述作をよんで、その中に私の所見と甚だ相近きものゝあることを發見され、從つて私の所見の決して獨創的なものでも何でもないことを知られるとともに、どうか私達の所見の眞實であるといふことを、少しも早く承認されるやうになつて頂きたいのである。

 今日プロレタリアが如何なる意味に不幸であるかについては、プロレタリア自身も十分に理解してゐるとは云へないであらう。しかし乍ら、彼等がどれほど不幸であるかの程度について云へば、彼等自身も亦十二分に知つて、知つて、知りぬいてゐる。

 これに對して、今日ブルヂョアが如何なる意味に不幸であるかについて、ブルヂョア自身が十分に理解してゐないのは言ふまでもない。彼等は、彼等自身がどれほど不幸であるかの程度についてさへ、プロレタリア自身の場合の十分の一百分の一ほども知らないでゐるのである。

 一言にして云へば、今日のブルヂョアは彼等自身が資本主義經濟組織の爲めに、どれほど不幸にされてゐるかを、殆んど全く氣附かないでゐる。そして此組織の解體が彼等を現在の不幸から救ひ出すものであることを思はないで、むしろ、それの此儘なる存續が、彼等の爲めに願はしきものであることを迷信してゐるのである。

 だがブルヂョアの諸君にして若しも、私共の云ふやうな意味に彼等自身の不幸であることを知り、それから脱却する爲めには、資本主義經濟組織とちがつた社會組織にはいらねばならぬといふことを理解して來たならばどうであらうか。さう云ふことを理解する人がだんだんと増加して來たらばどうであらうか。

 私は勿論、現在までの事情に照らして見て、階級鬪爭を一應止むを得ざるものとして、倫理的に是認してゐる。私を世上一般の人道主義者と同一視して頂いては困る。(拙著「徹底人道主義」に收められたる「階級鬪爭の倫理的批判」その他を參照して頂きたい。)

 しかし乍ら、階級鬪爭の犧牲をなるべく少くして、その收獲をなるべく多くしたいと希望する心持を制へることは出來ない。そして資本主義制度の沒分曉なる株守者が、一人でも數少くなるといふことは、さうした犧牲をそれだけ少くし、さうした收穫をそれだけ多くするものでなくて何であらうか。

 加之、資本主義制度を頑強に存續させようとして、無用の努力をしないだけでなく、むしろ積極的により善き新社會を、自分自身の爲めにも建設しようと志すところのブルヂョアが、もし續々として現れるとしたならば、資本主義社會を葬るものとして階級鬪爭のほかに、更により人間的な今一の方策を我々はもつことになるであらう。或は、さうした方策によつて、階級鬪爭その物さへもが現在とつてゐるのとは、非常に異つた方向を取るやうになるかも知れない。

 更により都合よく行つた場合を想像するならば、所謂革命的な殆んど如何なる手段にもよらないで、しかも尚ほ所謂革命以上の大きな、めざましい仕事が實現され得るかも分らない。

 イマヌエル・カントは革命を不正であると言つた。私共もその命題を正面から否定するものでない。たゞ、さうした不正を餘儀なくし、もしくは挑發するところの社會的事情を、より大なる不正となし、此の點に於てカントの絶對的革命非認と袂を分つだけである。

 然り、革命は不正であるけれども、革命を餘儀なくし、若しくは挑發するところの社會的事情ほどに不正でない。と同時に、所謂革命的手段の避け得られる限りに於て避けよと命ずるのが、私共の最高道徳である。

 私共は革命を堪へ忍ぶかも知れない。けれどもそれが最も悲むべき、最も厭はしき事柄であることは、如何なる場合にも忘れ得ないであらう。

 我々は革命その事を享樂するやうな革命家と、非常に異つた趣味をもつてゐる。我々は彼等の病的趣味の前に(りつ)(ぜん)として恐怖する。

 鳴呼、かくまでも革命を、革命的手段を恐怖するところの我々すらもが、つひに革命の止むなきことを容認するやうになるとしたら——それはけだし、トルストイやラスキンや、この私共までがこれほど執拗に警醒して見たにも係はらず、かのブルヂョアの諸君が諸君自らの不幸なる地位を、どうしても自覺しなかつたからである。諸君が如何に不幸であるか、その不幸が何に原因してゐるかを、明らかになし得なかつたからである。

      (一九二三年二月)

底本:「日本現代文学全集46」講談社
   昭和42年9月19日発行