新貞操論
生田長江
本誌(『婦人公論』)前月號には、男女各の姦通及びそれに對する刑法上制裁の問題について、多數の思想家藝術家等の答へが載つてゐた。それに目を通して見た私は先づ、彼等の大多數が揃ひもそろつて、姦通なぞを法律問題にしたくないやうに言つてゐるのを見て、一寸意外に感じた。さうした進んだ考へ方が、餘りにも早く輿論となつてゐたことを意外に感じたのである。
しかし、私の一層意外に感じたのは、貞操なんぞ無意味な、どうでもいいものであるといふやうな見地に立つてゐる人が、彼等の中に殆んど唯だ一人もなかつたといふ事である。そして餘程久しい以前から、人々をして貞操なんぞどうでもよいやうに思はしめる議論こそ、聞きあきるほど聞いてゐたけれど、反對に、貞操の重んずべきを知らしめるやうな言説を、餘りにも讀まないでゐた私が、右の事實を非常に意外に感ぜざるを得なかつたといふのも、當然の事であらうと思ふ。
近頃新聞の社會記事には、知識階級の婦人達の所謂不貞の事件が頻々として報道されてゐる。それらの總てが實際に不貞の事件でないにもせよ、とにかく一體に貞操道徳の弛廢を想はしめるものがないとは云へないやうである。
斯うした現象の根本的な、乃至主要の原因が何であるかは暫く措き、私のつねに排撃につとめてゐるところの所謂婦人解放論、及びそれに近いさまざまな似而非新思想の流布が、何程かその勢を煽り立ててゐなかつたと云へるであらうか?
ごくごく最近に至つて所謂婦人解放論の意氣頓にあがらなかつた觀があるのは、さうした點について——貞操道徳の一般的弛廢を助けたといふ點について——何人からともなしに其責任を問はれ出してゐる爲めでないと、決してないと云へるであらうか?
ともあれ、一方に於ては舊時代的な一切の事物と共に舊時代的な貞操觀が根底から覆されて居り、他方に於てはそれに代るべき新時代的な貞操觀が、未だ殆んど何人からも説かれてゐない今日、特に中年以下の男女等が實際の性的生活の上に何等の標準とすべきものも有ち得ないで、或は途方にくれたり、或はいい加減な、出鱈目な始末をつけたり、或は放逸の限りを盡したりしてゐるといふのは、堪へないところの事柄である。
思想界藝術界の新人諸氏の中に、貞操を無意味なもの、どうでもよいものに思はない人々が、私の意外に感じたほどにも多數にあるのであれば、そして彼等が、何等の理由もなしに貞操を認めてゐるのではないならば、彼等はこの際、それぞれに彼等自身の新時代的な貞操觀を提示して、世間多數の男女等をその昏迷裡から救ひ出すことの義務を感ずべきではあるまいか?
私は『結婚及び離婚の條件』(一九一七年十月號『新小説』所載)、『戀愛と結婚との關係を論ず』(一九一七年十一月號『婦人公論』所載)以來、貞操の問題についての私の意見を、ほんの斷片的にではあるが、折々述べたことがないではない——それが世間から如何なる注意と反響とをよんだかは知らないけれど。
ここには、それらの意見を最近に考察したところの物に依りて修正し、補足しながら、多少まとまりのある貞操觀に書き上げたいと思ふのであるが、しかし私自身から見てさへまだまだ非常に不滿足な、とり分け體系化の足りないものであること勿論である。
所謂舊時代的の貞操觀に於てでなく、私達の新しい貞操觀に於ては、貞操の問題は一夫一婦の結婚生活に關してのみ考へられるところのものである。即ち、私達の所謂貞操は少くとも、一夫一婦の結婚生活に於て、そのいづれかの一方が專ら他方をのみ愛して、それ以外の如何なる異性をも愛しないことを意味してゐる。
しからば、その私達の所謂一夫一婦の結婚とは如何なるものであるか? 曰く、性的に愛し合つてゐる、一人の男子と一人の婦人との共同生活である。そしてそのほかの何者でもない。
乃ち、共同生活を營んでゐるところの一夫一婦が、苟しくも相互の戀愛によつて結合されてゐる限り、教會や國家へ登録されてゐるにもせよ、ゐないにもせよ、彼等は立派に結婚してゐるのである。(從つて、私達の所謂貞操なぞが問題になつてゐる場合、私達は所謂正式結婚とか、野合とか、内縁とか云ふものの間に何等の差別をも認めないのである。)
同時に、他方では、何等の戀愛なくして、しかも戀愛以外の必要や便宜なぞから取り結ばれたところの、そして其儘つひに何等の戀愛らしいものをも生ずるに至らないでゐるところの結婚は、それが如何ほど教會や國家から承認されたる、如何ほど正式なものであるにもせよ、この場合本當の結婚として取られるに足りないものである。
從つて右の如き似而非結婚に於て、聊かもその配偶者を愛してゐないところの一方が、或は雙方が、その配偶者以外の異性を愛するに至つたとしても、それは如何なる不貞の事件でもあり得ないし、それが大抵の場合その配偶者及び配偶者の周圍を、甚だしく不幸にするものであり、又それ故にさうした不幸をなるべく少くすることの義務が、決して輕視されてはならぬものであるけれど。
(結婚及び離婚の條件として、戀愛が如何に重要なものであるかについては、前掲の拙稿二篇に評論して置いたので、ここにはただ其結論の一部をのみかかげて置く次第である。)
處で、性的に互に愛し合つてゐる男女の共同生活をのみ本當の結婚として認めるやうな、從つて舊時代的な貞操觀を全然超越してしまつてゐるやうな新時代的な見地に立ちながら、尚ほ且つ眞劒に貞操の問題を問題にしてゐない多數の人々は、貞操の根據を隨分いい加減な、お粗末な、淺薄なとこへ置いて、濟まし込んでゐるやうに思はれる。即ち彼等に云はせれば、結婚した男女がその配偶者のほかなる異性を愛しないやうに心掛けるのは、心掛けねばならないのは——
或は、不貞が自らにして其配偶者の嫉妬心を挑發するものであり、その結果が甚だ煩はしく不愉快なものであるからである。
或は、不貞が離婚を餘儀なくした場合、二人の人間に出來た子供等を不幸にすることを恐れるからである。
或は、自分からも他人の愛人を偸奪しない代りには、他人からも自分の愛人を偸奪されないやうに誓約して置くことが、自他の便宜でもあり、社會的秩序を維持する所以でもあるからである。
——かくの如き、いい加減な、お粗末な、淺薄な根據と理由とからでも、普通の人々の、普通の場合、普通の程度にまで、貞操の徳が守られないことはないかも知れない。しかし乍ら、一切の問題について、出來るだけ徹底的に思想し、出來るだけ徹底的に生活しようとする人々は、貞操の意義が何であるかといふことについても、今少し考察と内省とを深めて、今少ししつかりした物を掴んで置かなければなるまいと思ふ。
偖て私達は、貞操の意義が何であるかといふことを論ずる前に、必要なる順序として、結婚または戀愛といふものが本來何を意味してゐるか、特に倫理的道徳的に見て、そもそも何を意味してゐるかを考へて見なければならぬ。
今日、心理學者及び心理學的見地に立つてゐる大多數の思想家等に云はせれば、單に戀愛のみならず、親子同胞間に於ける如き近親愛も、民族愛や人類愛なぞも、皆悉く性欲からの派生であり、もしくは性欲の醇化され、昇華されたものにほかならないのである。
私も從來、大體に於てこれに近い考へ方をしてゐたのであるが、最近に至つては、稍や別種の解釋を下したいと思ふやうになつて來た。即ち、民族愛や、人類愛や、骨肉近親愛は無論のこと、戀愛すらも、性欲からの派生物であるとか、醇化され、昇華された性欲であるとか見るより、むしろ未だ性欲と云ふところまで來てゐない、より原始的な、より根本的な性的要素からの直接の派生物、醇化物、昇華物等であると見る方がより合理的で、より妥當であるかも知れないと、斯う云ふのである。
しかし、私はこの場合、まだ『かも知れない』の程度に止まつてゐる私の假定説を以て、世間の通説となつてゐる意見と、執拗に爭ふつもりは聊かもない。そこで戀愛はじめ種々なる愛着愛情が、悉く皆性欲から出て來てゐると云ふことにして置くのであるが、ただそれと共に、一の重要なる但書として述べて置きたいのは、戀愛はじめ種々なる愛着愛情が性欲から出て來たのであるにもせよ、既に一たび性欲と別個のものにまで發達してしまつた以上、性欲と親密に相伴ふ場合もあれば、性欲と相退け相戰ふ場合もあり得るといふことの事實である。
人々の知れる如く、生物學上生殖とは、成長の一種である。精しく云へば、個體を越えての成長である。一の個體がそれ自身だけで成長しつづけて行くことが出來なくなつた時、他の一の個體と補足的に結合して、一の新しい個體を創造し、その中に新しく成長しつづけて行くことの謂ひである。
そして、一般生物の場合、單に物的のものであるところの生殖が、我々文化人の場合、物的並びに心的のものであるといふことも、また大抵の人々から理解され得るであらうと思ふ。
即ち、我々文化人は物的にのみならず心的にも、異性との補足的結合によつて、それ自らだけでは創造することの出來なかつたところの物を創造し、その中に新しく成長し續けて行くのである。これを物的方面から見れば、生物的生殖への行爲であり、これを心的方面から見れば、人格的完成への努力である。
一般生物の性的結合に於ては、單に雌雄の性欲、もしくは性欲以下の原始的な力がそれを促してゐるにすぎない。けれども我々文化人の性的結合に於ては、それの動因となつてゐるものが、一面性欲であり、他面戀愛であるといふことを忘れてはならぬ。そして性欲がその生物的生殖の方面に必要である如く、戀愛がその人格的完成の方面に必要であるといふことの事實もまた、看過されてはならないところのものである。
前にも述べたる如く、戀愛が性欲の派生物、醇化物、乃至昇華物であるにもせよ、或は性欲なぞよりもつと原始的な、もつと根本的な物から出たのであるにもせよ、兎に角戀愛といふものにまで發達してしまつてゐる限り、性欲とは別個の物であり、從つて性欲と親密に相伴ふ場合もあれば、頑なに相斥ける場合もあり得る。
乃ち、我々文化人の性的結合にあつては、一方には、全然性欲をはなれた戀愛があるのみならず、性欲とは全然兩立することの出來ないやうな戀愛もあるのである。他方には、非常に精やかな、美しい戀愛であり乍ら、思ひ切り野性的な性欲と相伴つてゐるところのものもあるのである。
戀愛その物は我々文化人にのみ特有のものであり、それと相伴つたり相斥けたりするところの性欲は、我々が他の生物や未開人類等と共通に有つてゐるところのものである。換言すれば、戀愛その物は我々文化人に十分につはしいものであり、性欲は幾分我々文化人に不似合なものである。
しかも、我々文化人に十分につかはしい戀愛が、どんなに美しいものでもあり得ると共に、我々文化人に幾分不似合な性欲が、どんなに醜いものでもあり得ることを思ふ時、戀をしてゐる男女が、一面その事を誇らはしく感ずると共に、他面その事をきまり惡く感ずるといふのも、極めて自然なる事柄ではないか?——とり分け、恥づべきことを恥ぢなくなるほど、厚顏に、惡ずれのしてゐない年少者達の場合に於て!
戀愛その物は少くとも人間的なものである。そして醇化され、昇華され、淨化されればされるほど、愈々崇高なものになつて行き、つひには神聖と云はれることを値するものにさへなつて行く。けれども、その事の故に、苟くも戀愛と呼ばれるほどの總ての戀愛を、漫然神聖扱ひにすべきではない。戀愛その物に伴つてゐる性欲をも一括して、普通に戀愛と呼んでゐる限りに於て、特別に此事が注意されなければならないのである。
總ての戀愛を神聖扱ひにすることが許されないのみならず、一體に戀愛を近親愛、人類愛等一切の愛着愛情の中、最高位を占むべきもの、最も高貴なるものとして見ることも理不盡である。少くとも根據のない事である。
なぜと云つて、戀愛を最高愛として見るところの人々は、大抵皆その唯一の理由として、戀愛以外の愛情が戀愛から生れ出たものであると云ふことを擧げてゐるけれど、それは『性欲又は性的なものから』を『戀愛から』とはき違へてゐる爲めであるのみならず、かりに一切の愛情が戀愛から出たものであるにもせよ、系譜學的に先立つてゐるとおくれてゐるとは、必ずしも直に價値の高下を別つ所以になり得ないかである。
(系譜學的に見てより根原的であることが、直により高貴であることを意味するものならば、性欲もしくは性欲以上にさへ根原的であるところの雌雄性は、戀愛より高貴なものになつて來るではないか? 讀者諸君よ、希くは『戀愛至上主義』なぞの如き、餘りにも當世向きな出鱈目的俗論に迷はされざれ!)
總ての戀愛を神聖扱ひにしたり、一體に戀愛を最高の愛情と言ひなしたりする人々は、どんなに美しい、立派な戀愛すらもが、尚ほ且つ非常に冒險的な、危險な生活であることの事實を、多くの場合知らないでゐる。或は、ともすれば忘れ勝ちである。更に或は、他の人々へ説き聞かせることを忘れ勝ちである。
然り、戀愛は或る場合、人々の好んで言ふ如く、人格を高めてくれるところの學校であり、道場であると共に、他の場合、人間性を墮落頽敗させるところの娯樂の場所である。
何故であるか?
曰く、戀愛はそれ自らが登上しつつある時、殆んど他の何物にもまさつて人間性の總てを引き上げる代りには、それ自らが下降しつつある時、また殆んど他の何物にもまさつて人間性の總てを引きずり下ろすところの、殆んど神祕的に恐るべき力を有つてゐるからである。
今特に、性欲の調御もしくは超克に關して、戀愛による人格的向上と墮落とを云ふならば、人はその戀愛をより美しいものになしつつある時、性欲のより完全なる支配者であり、反對にその戀愛をより醜いものになしつつある時、性欲のより完全なる被支配者になつてゐるのである。
かくの如く、戀愛をより美しいものにすることによつて、單に性欲を調御克服するのみならず、一般に人間性を高めて行くといふこと、そこに戀愛の、從つて結婚の倫理的道徳的意義を認むべきであるが、偖てその戀愛をより美しいものにしようと努める場合、特に重要視されねばならないのは、その純粹性と持續性といふことではないだらうか? 換言すれば、當面の對象に一切を打ち込んでしまつて、また他を顧みないといふ意味での純一な氣持、並びに一たび執着したる對象へいつまでも執着しつづけて行つて、つひに變るところがないといふ意味での眞實な態度を、愈々濃厚に、痛切にしないで置いて、その戀愛をより美しいものにするといふことが出來るであらうか? 更に換言すれば、少くとも貞操の徳を有たないでゐて、如何にして其戀愛をより美しいものにして行くことが出來ようぞ。
乃ち、貞操は戀愛その物を向上させる上の絶對的必要條件であり、從つて戀愛を、結婚を、本當に有意義なものにする爲めに、どうしても守られねばならないところの道徳律である。
だが、戀愛を戀愛以外の何物かに役立たせるといふ風な考へ方に對して、あながち抗議を申出さないまでも、何となく興味がもてないやうに、氣乘りがしないやうに感ずる人々には、私は戀愛その物の享樂といふことに專ら視點を置きながら、戀愛を出來るだけより樂しく悦ばしいものにする爲めに、如何に貞操が嚴守されねばならないかと云ふことを説いて見たいと思ふ。
そもそも、何等かの悦樂を與へるといふ點に於ては、性欲も戀愛も同樣ではあるが、しかし、性欲はより粗惡な自我主義の一形態であり、謂はば相手を不幸にしてでも自分を幸福にしようとするものであり、戀愛はより精錬された自我主義の一形態であり、謂はば相手を幸福にすることによつて自分を幸福にするといふことを知つてゐるものである。
性欲の事は暫く措く。戀愛が相手を幸福にすることによつて自分を幸福にするといふこと、換言すれば、戀愛が自分を幸福にする爲め、先づ相手を幸福にしようとすること、それを便宜上、消極的方面からと、積極的方面からと、別々に考察して見よう。
先づ、消極的方面から考察すると、愛してゐる人は、その愛人の既に有つてゐるところの幸福から、何物をも取りさるまいとする。そしてさう心掛けるのが、一應彼自身をより幸福にすることの邪魔になるやうに見えるのをも意に介しないのである。
乃ち其一の場合として、ただ其愛人をのみ愛しつづけてゐなくなるのが、愛人を何等か不幸にするものである限り、必要なる自制的努力を以てすらも、愛人のほかに愛人をつくるまいとする。そしてこれが、自らにして貞操の徳を生ずるといふのは、想見するに難くない事ではないか?
次ぎに、積極的方面から考察して見ると、愛してゐる人に、その愛人の既に有つてゐるところの幸福へ、更に出來るだけ多くの物を加へてやらうとする。そして其心掛けの爲めに、彼のより外部的な幸福を犧牲にすることが、大きければ大きいほど、彼自らのより内部的な幸福に於て、ただ益々幸福に感ずるばかりなのである。
乃ち、其一の場合として、その愛人を出來るだけより純粹に、より持續的に愛するといふことが、結局自分自身、より外的な幸福をすてて、より内的な幸福を取るものである限り、實際の效果に於て愛人をより幸福になし得なかつたかも知れないやうな時にすら、尚ほ且つ、その獻身的奉仕の十分に酬いられてゐることを感じる。そしてこれがまた、自らにして貞操の徳を生ずるといふのも、たやすく想見し得られるであらうと思ふ。
私は曾て前掲『戀愛と結婚との關係を論ず』(一九一七年十一月本誌所載)中に述べて置きました——
トルストイの『アンナ・カレニナ』といふ小説の女主人公アンナの兄某といふ、さんざ女道樂をして、道樂をしぬいて來た中年者が、大變に面白い事を言つて居りました。私は始終其言葉を忘れることが出來ません。曰く、『幾人もの婦人を愛した男子よりも、ただ一人の婦人しきや愛したことのない男子の方が、結局餘計に婦人といふものを知つてゐるのだ』と。私はそれを意譯して、『幾人もの異性を愛した人間よりも、ただ一人の異性のみを愛した人間の方が、結局餘計に戀愛の享樂を經驗してゐるのだ』と云ふやうな言葉に直し、私の頭の中に入れてゐるのであります。實際、幾人もの異性を愛することになると云ふのは、それだけ多く異性を愛しないで濟む人間の場合に比して、たしかにより不幸な事でなければなりません。私がより不幸なと云つてゐるものを、より不都合な事と云ひたい人々に對しては、私はさうした不都合な事をする人間が、その不都合な事その物の中に、既に十分刑罰されてゐるとだけ答へて置けば、それでよからうと思ひます。男女の間に於て、棄てる者と棄てられる者とのある場合、世間の常識は勿論棄てられた者の側に同情して氣の毒がります。棄てられた者自身も、さうして氣の毒がられるのを當り前の事だと思つて居ます。けれども、其際本當に憫察されなければならないのは、棄てた者の身の上です。そして、棄てられた者が、それにも係らず依然として其愛を棄てないでゐられたならば、それこそ寧ろ羨望すべき幸福事であります。此逆説的眞實は、今日のところ未だ、あまり逆説的に見えすぎるかも知れない。けれども此叡智は、個人的にも社會的にも、戀愛の上の或は甘く、或は苦い經驗が、その甘さと苦さとを加へて行けば行くほど、愈々よく會得されて來るに相違ありません。一言にして云へば、人間が賢くなればなるほど、戀愛の相手を變へる事の愚さを、いよいよ覺つて參ります。そして其覺りの中から、自らなる貞操論が芽生えて來るのであります。
と。
思ふに、『女房と疊は新しいほどいい』は、女房なるものを性欲的結合の相手として見たのであつて、戀愛的結合の相手として見たのではない。そして所謂女房が、性欲的結合の相手であるよりも、寧ろ戀愛的結合の相手である場合には、當然次ぎのやうに云はるべきである。曰く、『女房と酒とは古いほどいい』と。
幾人もの異性を並べて置いて、或は取り換へ引きかへ相手にするのが、より少き異性と交渉するよりも、より多くの享樂をもたらすかも知れないといふのは、性欲的結合に於ての事であつて、戀愛的結合に於ての事ではない。
戀愛的結合の場合にも、往々にしてより多くの異性を相手にするのが、より多くの享樂をもたらし得るかのやうに思ひなしてゐる人々は、戀愛その物からの、戀愛の本質的部分からの享樂と、單に戀愛の本質を包んでゐるにすぎない外被からの享樂とを取りちがへてゐるのである、混同してゐるのである。
即ち、さまざまに浪漫的な戀愛劇を、現實の舞臺に演じて見たい芝居氣や、多くの異性から愛着されてゐる、甚だ『もてる』男(もしくは女)として自分自身を感じたい功名心や、さうした男(もしくは女)として世間から見られたい虚榮心なぞは、成程より多くの異性を相手にすることによつて、より多く滿足させられるかも分らない。けれども、さうした種類の滿足と、愛人を本當に愛したり愛せられたりすること其物からの、戀愛の本質その物からの悦びとは、全然別個の享樂に屬してゐるのである。
若し夫れ、戀愛その物をより善く享樂する爲めに、乃至戀愛その物をより美しく、より崇高なものにする爲めに、貞操の徳が有用であり、のみならず必要であるとしたならば、貞操は戀愛その物からの本質的要求であり、愛する者自身が彼自身の爲めに樹立したところの道徳律であり得るではないか?
そして若し、かくの如き自律的道徳からさへ自由にされようとねがふのが、所謂『自由戀愛』の主張であるならば、それは自由の代りに不規律と放恣とを、又戀愛の代りに性欲とそれに近い物とを追ひ求めてゐる故に、寧ろ『放恣性欲』の主張と呼ばるべきものではなからうか?
そもそも貞操が何を意味してゐるか、何故に貞操が守られねばならぬかについてなぞの問題についての私の根本的考察は、以上の所説に大體を盡くされてゐるとは思ふのであるが、尚ほその愛人に死別した人々の場合、或は一たび、二たび、乃至幾たびも不貞の過を犯した人々の場合、或はいつまでも戀愛の相手にぶつからないでゐる人々の場合なぞに於て、貞操もしくはひろく性的道徳に關して、如何なる生活態度を取らねばならないかといふやうなことをも、少しばかり論じて置きたいと思ふ。
一體に人が死ぬといふのは、本當にどうなつてしまふことであるか分らないけれど、とにかく、單に性欲的にでなく、戀愛的にも(もしくは戀愛的にのみ)結合されてゐた男女の間にあつては、その愛人は一應の意味に於てこそ死ぬけれど、本當は決して死なないで、いつまでも生きてゐるのである。
本當に愛してゐる者から云へば、その愛人は墓の下に眠つてから後も、引きつづき、より幸福にされたりより不幸にされたりすることも出來、生き殘つてゐる者を、より幸福にしたりより不幸にすることも出來るのである。
今は世になき愛人が、生き殘つてゐる者によつて、如何にその榮譽を加へられたり傷つけられたりすることか! 如何に其意志及び事業を繼承されたり蹂躙されたりすることか! 特に宗教的に云へば、如何に菩提と冥福とを助けられたり妨げられたりすることか!
又生き殘つてゐる者が、今は世になき愛人によつて、少くとも心の内に永久に生きつづけてゐる其愛人によつて、如何に慰められ、如何に勵まされ、如何に強くされ、如何に賢くされ得ることぞ!(この事は、本當に愛してゐた愛人の死後に於て、なほ生きつづけてゐるところの人々だけが知つてゐる。恐らくは知り過ぎるほど知つてゐるだらう。)
依然としてより幸福にされたり、より幸福にしたりしながら生きてゐる墓の下なる愛人を、引きつづき愛することが出來ないと云へるであらうか? その生前と異るところなく、愛しつづけないでゐられると云へようか?
そして愛人の死後にも、引きつづき愛することが出來るとしたら、また其愛をより美しくより崇高なものにすればするほど、性欲の調御克服をはじめとして一般に人格向上に愈々役立つて行くとしたら、或は其愛をより純粹な、より持續的なものにすればするほど戀愛的享樂そのものを益々加へて行くとしたら、愛人の死後にも、ただその愛人をのみ心の内に愛しつづけて行くといふ意味での貞操がまた、當然一の美しい、十二分にも人間的な道徳律となつて來るではないか?
勿論、愛人がまだ生きてゐる間の、普通の場合の貞操をすらも、當事者達自身から願はしい事と思はれてゐない限り、他律的に強要することを欲しない私達は、死別した愛人に操を立てるといふやうな徳を、一般人にまで強ひようとは決して思つてゐないのである。
けれども、さうした貞操のゆかしさ、尊さと、特にその樂しさを説いて、一人でも餘計にその徳を有たせるやうにするといふのが、どうして間違つた事であらうか?
生活上のさまざまな便宜や必要から再婚するといふこと、それは現前の社會制度や組織の下に免れにくい氣の毒な事情として、私共からも勿論寛恕されるであらう。と同時に、さうした種類の再婚が、さうした種類の初婚と共に、既にあまりにも非文化的なものとして、一日も早く跡を絶ち得るやうに、社會の制度と組織とは改められて行かねばならないのである。
外部的事情の拘束から、もしくは單なる形式道徳的體面から、止むを得ず再婚を斷念してゐることの愚劣さ、及びその不自然な生活から思ひ切つた間違ひを突發して來ることの危險さなどについてはわざわざ説かない。
それとは異つて、自分自身の内部要求から、極めて自然に、極めて樂しげに、悦ばしげに操を立てて行かうとする未亡人(男女いづれの場合にも)の場合にさへ、さうした生活態度を下らないもの、もしくは間違つたもののやうに言ひなす人々を、自稱新人達の間に折々見受けるのは奇怪千萬な事である。
それらの人々よ、試みに思へ。死別したる愛人へ操を立てるといふことが、それほど馬鹿馬鹿しいものと考へられてしまつた時、一般に貞操といふものの道徳的根柢がまた何等かぐらついては來ないであらうか? 平たく云へば、妻が良人へ、『貴方が亡くなつたら、こんどは私は、どんな人と結婚したらいいでせうね?』といふやうな話を、眞面目に持ち出すやうになつてゐて、尚ほ且つ身をも魂をも打ち込んだ本當の戀愛といふものがあり得るだらうか?
序ながら、今日ほどに未亡人の貞操の輕視されてゐない時代と社會に於て、今日ほどにその貞操を守りにくいものであるや否やは、少くとも疑問でなければならぬ。
又、亡くなつた愛人への愛着から、再婚を斷念してゐたところの男女が、他日その志を改めて再婚することになつた時、世人の多數は『それならもつと早くさうすればよかつたのに』と言ふのであるが、しかし貞操の徳その物に關してならば、さうした言葉は無意味以上のものである——『どうせ片輪になる位なら、もつと早く片輪になればよかつたのに』といふやうな言葉と同樣に!
或は、長年月に亙つて操を立てて來たところの未亡人が、ふとした機會に魔がさして、戀愛ならぬ、謂はば性欲上の過ちを犯した場合なぞに於て、如何なれば世上の多數の人々は、その未亡人の不慮の過失をのみ過酷に責めながら、その未亡人のそれまでの多年の操持を聊かも嘆美することをしないのか?
(あまり長くなつた故、以下は大いにはしよつて書きます。)
片戀は、死別した愛人に愛着してゐるのと大體に於て相近い。そして動もすれば、より苦しく、またより甘い體驗であり得る。少くとも、性欲の調御克服をはじめ一般に人格の向上完成に役立つ點に於て、貞實なる片戀がいかにすばらしい力をもつてゐるかは、古來の天才者偉人などの傳記が甚だ屡々證據立ててゐる。
一たび貞操の上に過ちを犯した者が、重ねて其過ちを犯すまいとするのは、所謂前科ある人々が重ねて罪を犯すまいとするのと同じく、甚だ困難な事であるだけそれだけ殊勝な事である。周圍の者は、與へ得られる限りの激勵と助力とを與へることの義務を負うてゐる。
現在、幾人もの異性を愛してゐる人々が、眞面目な生き方に引き返さうと思ひ立つた時、そもそも如何なる處置をつけるべきであるか? この問題ほどむづかしい問題はない。
けれども結局は、それらのいく人もの異性の中、本當に愛してゐるのは唯だ一人だけしかないであらう。少くとも浮ついた心をすてて眞劒に考へて見た場合、ゆくゆく本當に愛して行けさうな相手が、その中のどの一人であるかは、決して決定され得ないものではあるまい。
それがどうしても決定され得ないとしたら、私はその迷つてゐる人達に、敢て衷心から進言する——貴下は現在相手にしてゐるところの、いづれの異性からも、今日限り左樣ならをしてお仕舞ひなさい。なぜと云つて、貴下はそれらの異性のいづれをも實際愛してはゐなかつたしこれからも本當に愛することは到底出來ないのだから。そしてそれらの異性から悉く離れてしまつて、貴下は一切を新規まき直しにやるのですと。
運命の神がいつまでも戀愛の相手にめぐり合はしてくれない人々、もはやその望みをさへなくされてしまつた人々、それらの人々が學問とか、藝術とかいふやうな仕事に沒頭してゐるのであつたら、大變に善い事である。寄邊のない孤兒とか、慰めのない病人とか、すべて身と心とに病み傷ついてゐる人々に奉仕して、それらの人々と地上の悲しみを分ち、天上の悦びを共にするやうな生活をして行くのは、更に一層善い事である。
又、はじめから學問とか藝術とかに沒頭してゐた爲めに、或は隣人及び神への愛に全存在をささげてゐた爲めに、戀愛といふやうなものへわき目をふるひまもなかつた——例へばナザレのイエスの如き——人々の生活は、希有のものでこそあれ、何等の不自然なものではない。のみならずそれらの、性欲をも戀愛をも超越した天才者のお蔭で、如何に人類がその人間性を高められて來てゐるか、如何に新しい生命を與へられ、永久に生きる道を教へられて來てゐるかは、改めて説くまでもないことであらう。
『やは肌のあつき血潮にふれも見で寂しからずや道を説く君』——この名歌に於て、あつき血潮にふれて見ることの、大なる人生的意義を強調してゐるのは有難い。けれども、あつき血潮に觸れるといふのは、戀愛の體驗を透してのほか、到底望まれないところのものであらうか? 否、貧しき者、傷つける者、病める者なぞに奉仕して、つねに其嘆きをなげき、其哀しみをかなしみ、其煩ひをわづらつてゐる人々こそ、人間の『あつき血潮』は愚か、その骨髓にも、その魂の魂にも觸れてふれて、ふれぬいてゐるではなからうか?
それにしても、イエス等の如く戀愛を超越して、ただ隣人及び神への愛に生きるといふ生活は、少くとも現在のところ希有の場合のみ可能であり、從つて漫りに推獎さるべきものではない。乃ち、馬太傳第十九章に於てイエス自らも言つてゐる——
『この言葉は人みな受け容るること能はじ。ただ天賦ある者のみこれを爲し得べし。それ母の胎よりして生れつきたる寺人あり。また人にせられたる寺人あり。これを受け容るることを得る者は受け容るべし』
と。 (一九二五年十一月)