(しん)(てい)(さう)(ろん)

生田長江

 (ほん)()(『婦人公論』)(ぜん)(げつ)(がう)には、(だん)(ぢよ)(おの/\)(かん)(つう)(およ)びそれに(たい)する(けい)(はふ)(じやう)(せい)(さい)(もん)(だい)について、()(すう)()(さう)()(げい)(じゆつ)()()(こた)へが()つてゐた。それに()(とほ)して()(わたし)()づ、(かれ)()(だい)()(すう)(そろ)ひもそろつて、(かん)(つう)なぞを(はふ)(りつ)(もん)(だい)にしたくないやうに()つてゐるのを()て、(ちよつ)()()(ぐわい)(かん)じた。さうした(すゝ)んだ(かんが)(かた)が、(あま)りにも(はや)輿()(ろん)となつてゐたことを()(ぐわい)(かん)じたのである。

 しかし、(わたくし)の一(そう)()(ぐわい)(かん)じたのは、(てい)(さう)なんぞ()()()な、どうでもいいものであるといふやうな(けん)()()つてゐる(ひと)が、(かれ)()(うち)(ほと)んど()(ひと)()もなかつたといふ(こと)である。そして()(ほど)(ひさ)しい()(ぜん)から、(ひと)(/″\)をして(てい)(さう)なんぞどうでもよいやうに(おも)はしめる()(ろん)こそ、()きあきるほど()いてゐたけれど、(はん)(たい)に、(てい)(さう)(おも)んずべきを()らしめるやうな(げん)(せつ)を、(あま)りにも()まないでゐた(わたし)が、(みぎ)()(じつ)()(じやう)()(ぐわい)(かん)ぜざるを()なかつたといふのも、(たう)(ぜん)(こと)であらうと(おも)ふ。

 (ちか)(ごろ)(しん)(ぶん)(しや)(くわい)()()には、()(しき)(かい)(きふ)()(じん)(たち)所謂(いはゆる)()(てい)()(けん)(ひん)(ぴん)として(はう)(だう)されてゐる。それらの(すべ)てが(じつ)(さい)()(てい)()(けん)でないにもせよ、とにかく一(たい)(てい)(さう)(だう)(とく)()(はい)(おも)はしめるものがないとは()へないやうである。

 ()うした(げん)(しやう)(こん)(ぽん)(てき)な、(ない)()(しゆ)(えう)(げん)(いん)(なん)であるかは(しばら)()き、(わたくし)のつねに(はい)(げき)につとめてゐるところの所謂(いはゆる)()(じん)(かい)(はう)(ろん)(およ)びそれに(ちか)いさまざまな似而非(えせ)(しん)()(さう)()()が、(なに)(ほど)かその(いきほひ)(あふ)()ててゐなかつたと()へるであらうか?

 ごくごく(さい)(きん)(いた)つて所謂(いはゆる)()(じん)(かい)(はう)(ろん)()()(とみ)にあがらなかつた(くわん)があるのは、さうした(てん)について——(てい)(さう)(だう)(とく)の一(ぱん)(てき)()(はい)(たす)けたといふ(てん)について——(なん)(びと)からともなしに(その)(せき)(にん)()はれ()してゐる()めでないと、(けつ)してないと()へるであらうか?

 ともあれ、一(ぱう)(おい)ては(きう)()(だい)(てき)な一(さい)()(ぶつ)(とも)(きう)()(だい)(てき)(てい)(さう)(くわん)(こん)(てい)から(くつがへ)されて()り、()(はう)(おい)てはそれに(かは)るべき(しん)()(だい)(てき)(てい)(さう)(くわん)が、(いま)(ほと)んど(なん)(びと)からも()かれてゐない(こん)(にち)(とく)(ちう)(ねん)()()(だん)(ぢよ)()(じつ)(さい)(せい)(てき)(せい)(くわつ)(うへ)(なん)()(へう)(じゆん)とすべきものも()()ないで、(あるひ)()(はう)にくれたり、(あるひ)はいい()(げん)な、()(たら)()()(まつ)をつけたり、(あるひ)(はう)(いつ)(かぎ)りを(つく)したりしてゐるといふのは、()へないところの(こと)(がら)である。

 ()(さう)(かい)(げい)(じゆつ)(かい)(しん)(じん)(しよ)()(うち)に、(てい)(さう)()()()なもの、どうでもよいものに(おも)はない(ひと)(/″\)が、(わたくし)()(ぐわい)(かん)じたほどにも()(すう)にあるのであれば、そして(かれ)()が、(なん)()()(いう)もなしに(てい)(さう)(みと)めてゐるのではないならば、(かれ)()はこの(さい)、それぞれに(かれ)()()(しん)(しん)()(だい)(てき)(てい)(さう)(くわん)(てい)()して、()(けん)()(すう)(だん)(ぢよ)()をその(こん)(めい)()から(すく)()すことの()()(かん)ずべきではあるまいか?

 (わたし)は『(けつ)(こん)(およ)()(こん)(でう)(けん)』(一九一七年十月號『新小説』所載)、『(れん)(あい)(けつ)(こん)との(くわん)(けい)(ろん)ず』(一九一七年十一月號『婦人公論』所載)()(らい)(てい)(さう)(もん)(だい)についての(わたくし)()(けん)を、ほん(だん)(ぺん)(てき)にではあるが、(をり)(/\)()べたことがないではない——それが()(けん)から()()なる(ちう)()(はん)(きやう)とをよんだかは()らないけれど。

 ここには、それらの()(けん)(さい)(きん)(かう)(さつ)したところの(もの)()りて(しう)(せい)し、()(そく)しながら、()(せう)まとまりのある(てい)(さう)(くわん)()()げたいと(おも)ふのであるが、しかし(わたし)()(しん)から()てさへまだまだ()(じやう)()滿(まん)(ぞく)な、とり()(たい)(けい)(くわ)()りないものであること(もち)(ろん)である。

 所謂(いはゆる)(きう)()(だい)(てき)(てい)(さう)(くわん)(おい)てでなく、(わたし)(たち)(あたら)しい(てい)(さう)(くわん)(おい)ては、(てい)(さう)(もん)(だい)は一()()(けつ)(こん)(せい)(くわつ)(くわん)してのみ(かんが)へられるところのものである。(すなは)ち、(わたし)(たち)所謂(いはゆる)(てい)(さう)(すくな)くとも、一()()(けつ)(こん)(せい)(くわつ)(おい)て、そのいづれかの一(ぱう)(もつぱ)()(はう)をのみ(あい)して、それ()(ぐわい)()()なる()(せい)をも(あい)しないことを()()してゐる。

 しからば、その(わたし)(たち)所謂(いはゆる)()()(けつ)(こん)とは()()なるものであるか? (いは)く、(せい)(てき)(あい)()つてゐる、(ひと)()(だん)()(ひと)()()(じん)との(きよう)(どう)(せい)(くわつ)である。そしてそのほかの(なに)(もの)でもない。

 (すなは)ち、(きよう)(どう)(せい)(くわつ)(いとな)んでゐるところの一()()が、(いや)しくも(さう)()(れん)(あい)によつて(けつ)(がふ)されてゐる(かぎ)り、(けう)(くわい)(こく)()(とう)(ろく)されてゐるにもせよ、ゐないにもせよ、(かれ)()(りつ)()(けつ)(こん)してゐるのである。((したが)つて、(わたし)(たち)所謂(いはゆる)(てい)(さう)なぞが(もん)(だい)になつてゐる()(あひ)(わたし)(たち)所謂(いはゆる)(せい)(しき)(けつ)(こん)とか、()(がふ)とか、(ない)(えん)とか()ふものの(あひだ)(なん)()()(べつ)をも(みと)めないのである。)

 (どう)()に、()(はう)では、(なん)()(れん)(あい)なくして、しかも(れん)(あい)()(ぐわい)(ひつ)(えう)便(べん)()なぞから()(むす)ばれたところの、そして(その)(まゝ)つひに(なん)()(れん)(あい)らしいものをも(しやう)ずるに(いた)らないでゐるところの(けつ)(こん)は、それが()()ほど(けう)(くわい)(こく)()から(しよう)(にん)されたる、()()ほど(せい)(しき)なものであるにもせよ、この()(あひ)(ほん)(たう)(けつ)(こん)として()られるに()りないものである。

 (したが)つて(みぎ)(ごと)似而非(えせ)(けつ)(こん)(おい)て、(いさゝ)かもその(はい)(ぐう)(しや)(あい)してゐないところの一(ぱう)が、(あるひ)(さう)(はう)が、その(はい)(ぐう)(しや)()(ぐわい)()(せい)(あい)するに(いた)つたとしても、それは()()なる()(てい)()(けん)でもあり()ないし、それが(たい)(てい)()(あひ)その(はい)(ぐう)(しや)(およ)(はい)(ぐう)(しや)(しう)()を、(はなは)だしく()(かう)にするものであり、(また)それ(ゆゑ)にさうした()(かう)をなるべく(すくな)くすることの()()が、(けつ)して(けい)()されてはならぬものであるけれど。

(けつ)(こん)(およ)()(こん)(でう)(けん)として、(れん)(あい)()()(ぢう)(えう)なものであるかについては、(ぜん)(けい)(せつ)稿(かう)(へん)(ひやう)(ろん)して()いたので、ここにはただ(その)(けつ)(ろん)の一()をのみかかげて()()(だい)である。)

 (ところ)で、(せい)(てき)(たがひ)(あい)()つてゐる(だん)(ぢよ)(きよう)(どう)(せい)(くわつ)をのみ(ほん)(たう)(けつ)(こん)として(みと)めるやうな、(したが)つて(きう)()(だい)(てき)(てい)(さう)(くわん)(ぜん)(ぜん)(てう)(ゑつ)してしまつてゐるやうな(しん)()(だい)(てき)(けん)()()ちながら、()()(しん)(けん)(てい)(さう)(もん)(だい)(もん)(だい)にしてゐない()(すう)(ひと)(/″\)は、(てい)(さう)(こん)(きよ)(ずゐ)(ぶん)いい()(げん)な、お()(まつ)な、(せん)(ぱく)なとこへ()いて、()まし()んでゐるやうに(おも)はれる。(すなは)(かれ)()()はせれば、(けつ)(こん)した(だん)(ぢよ)がその(はい)(ぐう)(しや)のほかなる()(せい)(あい)しないやうに(こゝろ)()けるのは、(こゝろ)()けねばならないのは——

 (あるひ)は、()(てい)(おのづか)らにして(その)(はい)(ぐう)(しや)(しつ)()(しん)(てう)(はつ)するものであり、その(けつ)(くわ)(はなは)(わづら)はしく()()(くわい)なものであるからである。

 (あるひ)は、()(てい)()(こん)()()なくした()(あひ)(ふた)()(にん)(げん)()()()(ども)()()(かう)にすることを(おそ)れるからである。

 (あるひ)は、()(ぶん)からも()(にん)(あい)(じん)(とう)(だつ)しない(かは)りには、()(にん)からも()(ぶん)(あい)(じん)(とう)(だつ)されないやうに(せい)(やく)して()くことが、()()便(べん)()でもあり、(しや)(くわい)(てき)(ちつ)(じよ)()()する()(ゑん)でもあるからである。

 ——かくの(ごと)き、いい()(げん)な、お()(まつ)な、(せん)(ぱく)(こん)(きよ)()(いう)とからでも、()(つう)(ひと)(/″\)の、()(つう)()(あひ)()(つう)(てい)()にまで、(てい)(さう)(とく)(まも)られないことはないかも()れない。しかし(なが)ら、一(さい)(もん)(だい)について、()()るだけ(てつ)(てい)(てき)()(さう)し、()()るだけ(てつ)(てい)(てき)(せい)(くわつ)しようとする(ひと)(/″\)は、(てい)(さう)()()(なん)であるかといふことについても、(いま)(すこ)(かう)(さつ)(ない)(せい)とを(ふか)めて、(いま)(すこ)しつかりした(もの)(つか)んで()かなければなるまいと(おも)ふ。

 ()(わたし)(たち)は、(てい)(さう)()()(なん)であるかといふことを(ろん)ずる(まへ)に、(ひつ)(えう)なる(じゆん)(じよ)として、(けつ)(こん)または(れん)(あい)といふものが(ほん)(らい)(なに)()()してゐるか、(とく)(りん)()(てき)(だう)(とく)(てき)()て、そもそも(なに)()()してゐるかを(かんが)へて()なければならぬ。

 (こん)(にち)(しん)()(がく)(しや)(およ)(しん)()(がく)(てき)(けん)()()つてゐる(だい)()(すう)()(さう)()()()はせれば、(たん)(れん)(あい)のみならず、(おや)()(どう)(はう)(かん)()ける(ごと)(きん)(しん)(あい)も、(みん)(ぞく)(あい)(じん)(るい)(あい)なぞも、(みな)(こと/″\)(せい)(よく)からの()(せい)であり、もしくは(せい)(よく)(じゆん)(くわ)され、(しよう)(くわ)されたものにほかならないのである。

 (わたし)(じう)(らい)(だい)(たい)(おい)てこれに(ちか)(かんが)(かた)をしてゐたのであるが、(さい)(きん)(いた)つては、()(べつ)(しゆ)(かい)(しやく)(くだ)したいと(おも)ふやうになつて()た。(すなは)ち、(みん)(ぞく)(あい)や、(じん)(るい)(あい)や、(こつ)(にく)(きん)(しん)(あい)()(ろん)のこと、(れん)(あい)すらも、(せい)(よく)からの()(せい)(ぶつ)であるとか、(じゆん)(くわ)され、(しよう)(くわ)された(せい)(よく)であるとか()るより、むしろ(いま)(せい)(よく)()ふところまで()てゐない、より(げん)()(てき)な、より(こん)(ぽん)(てき)(せい)(てき)(えう)()からの(ちよく)(せつ)()(せい)(ぶつ)(じゆん)(くわ)(ぶつ)(しよう)(くわ)(ぶつ)(とう)であると()る方がより(がふ)()(てき)で、より()(たう)であるかも()れないと、()()ふのである。

 しかし、(わたし)はこの()(あひ)、まだ『かも()れない』の(てい)()(とゞ)まつてゐる(わたし)()(てい)(せつ)(もつ)て、()(けん)(つう)(せつ)となつてゐる()(けん)と、(しつ)(えう)(あらそ)ふつもりは(いさゝ)かもない。そこで(れん)(あい)はじめ(しゆ)(/″\)なる(あい)(ぢやく)(あい)(じやう)が、(こと/″\)(みな)(せい)(よく)から()()てゐると()ふことにして()くのであるが、ただそれと(とも)に、一の(ぢう)(えう)なる(たゞし)(がき)として()べて()きたいのは、(れん)(あい)はじめ(しゆ)(/″\)なる(あい)(ぢやく)(あい)(じやう)(せい)(よく)から()()たのであるにもせよ、(すで)(ひと)たび(せい)(よく)(べつ)()のものにまで(はつ)(たつ)してしまつた()(じやう)(せい)(よく)(しん)(みつ)(あひ)(ともな)()(あひ)もあれば、(せい)(よく)(あひ)退(しりぞ)(あひ)(たゝか)()(あひ)もあり()るといふことの()(じつ)である。

 (ひと)(/″\)()れる(ごと)く、(せい)(ぶつ)(がく)(じやう)(せい)(しよく)とは、(せい)(ちやう)の一(しゆ)である。(くは)しく()へば、()(たい)()えての(せい)(ちやう)である。一の()(たい)がそれ()(しん)だけで(せい)(ちやう)しつづけて()くことが()()なくなつた(とき)()の一の()(たい)()(そく)(てき)(けつ)(がふ)して、一の(あたら)しい()(たい)(さう)(ざう)し、その(なか)(あたら)しく(せい)(ちやう)しつづけて()くことの()ひである。

 そして、一(ぱん)(せい)(ぶつ)()(あひ)(たん)(ぶつ)(てき)のものであるところの(せい)(しよく)が、(われ)(/\)(ぶん)(くわ)(じん)()(あひ)(ぶつ)(てき)(なら)びに(しん)(てき)のものであるといふことも、また(たい)(てい)(ひと)(/″\)から()(かい)され()るであらうと(おも)ふ。

 (すなは)ち、(われ)(/\)(ぶん)(くわ)(じん)(ぶつ)(てき)にのみならず(しん)(てき)にも、()(せい)との()(そく)(てき)(けつ)(がふ)によつて、それ(みづか)らだけでは(さう)(ざう)することの()()なかつたところの(もの)(さう)(ざう)し、その(なか)(あたら)しく(せい)(ちやう)(つゞ)けて()くのである。これを(ぶつ)(てき)(はう)(めん)から()れば、(せい)(ぶつ)(てき)(せい)(しよく)への(かう)()であり、これを(しん)(てき)(はう)(めん)から()れば、(じん)(かく)(てき)(くわん)(せい)への()(りよく)である。

 一(ぱん)(せい)(ぶつ)(せい)(てき)(けつ)(がふ)(おい)ては、(たん)()(ゆう)(せい)(よく)、もしくは(せい)(よく)()()(げん)()(てき)(ちから)がそれを(うなが)してゐるにすぎない。けれども(われ)(/\)(ぶん)(くわ)(じん)(せい)(てき)(けつ)(がふ)(おい)ては、それの(どう)(いん)となつてゐるものが、一(めん)(せい)(よく)であり、()(めん)(れん)(あい)であるといふことを(わす)れてはならぬ。そして(せい)(よく)がその(せい)(ぶつ)(てき)(せい)(しよく)(はう)(めん)(ひつ)(えう)である(ごと)く、(れん)(あい)がその(じん)(かく)(てき)(くわん)(せい)(はう)(めん)(ひつ)(えう)であるといふことの()(じつ)もまた、(かん)(くわ)されてはならないところのものである。

 (まへ)にも()べたる(ごと)く、(れん)(あい)(せい)(よく)()(せい)(ぶつ)(じゆん)(くわ)(ぶつ)(ない)()(しよう)(くわ)(ぶつ)であるにもせよ、(あるひ)(せい)(よく)なぞよりもつと(げん)()(てき)な、もつと(こん)(ぽん)(てき)(もの)から()たのであるにもせよ、()(かく)(れん)(あい)といふものにまで(はつ)(たつ)してしまつてゐる(かぎ)り、(せい)(よく)とは(べつ)()(もの)であり、(したが)つて(せい)(よく)(しん)(みつ)(あひ)(ともな)()(あひ)もあれば、(かたく)なに(あひ)(しりぞ)ける()(あひ)もあり()る。

 (すなは)ち、(われ)(/\)(ぶん)(くわ)(じん)(せい)(てき)(けつ)(がふ)にあつては、一(ぱう)には、(ぜん)(ぜん)(せい)(よく)をはなれた(れん)(あい)があるのみならず、(せい)(よく)とは(ぜん)(ぜん)(りやう)(りつ)することの()()ないやうな(れん)(あい)もあるのである。()(はう)には、()(じやう)(こま)やかな、(うつく)しい(れん)(あい)であり(なが)ら、(おも)()()(せい)(てき)(せい)(よく)(あひ)(ともな)つてゐるところのものもあるのである。

 (れん)(あい)その(もの)(われ)(/\)(ぶん)(くわ)(じん)にのみ(とく)(いう)のものであり、それと(あひ)(ともな)つたり(あひ)(しりぞ)けたりするところの(せい)(よく)は、(われ)(/\)()(せい)(ぶつ)()(かい)(じん)(るゐ)(など)(きよう)(つう)()つてゐるところのものである。(くわん)(げん)すれば、(れん)(あい)その(もの)(われ)(/\)(ぶん)(くわ)(じん)に十(ぶん)につはしいものであり、(せい)(よく)(いく)(ぶん)(われ)(/\)(ぶん)(くわ)(じん)()()(あひ)なものである。

 しかも、(われ)(/\)(ぶん)(くわ)(じん)に十(ぶん)につかはしい(れん)(あい)が、どんなに(うつく)しいものでもあり()ると(とも)に、(われ)(/\)(ぶん)(くわ)(じん)(いく)(ぶん)()()(あひ)(せい)(よく)が、どんなに(みにく)いものでもあり()ることを(おも)(とき)(こひ)をしてゐる(だん)(ぢよ)が、一(めん)その(こと)(ほこ)らはしく(かん)ずると(とも)に、()(めん)その(こと)きまり(わる)(かん)ずるといふのも、(きは)めて()(ぜん)なる(こと)(がら)ではないか?——とり()け、()づべきことを()ぢなくなるほど、(こう)(がん)に、(わる)ずれのしてゐない(ねん)(せう)(しや)(たち)()(あひ)(おい)て!

 (れん)(あい)その(もの)(すくな)くとも(にん)(げん)(てき)なものである。そして(じゆん)(くわ)され、(しよう)(くわ)され、(じやう)(くわ)されればされるほど、(いよ)(/\)(すう)(かう)なものになつて()き、つひには(しん)(せい)()はれることを(あたひ)するものにさへなつて()く。けれども、その(こと)(ゆゑ)に、(いやし)くも(れん)(あい)()ばれるほどの(すべ)ての(れん)(あい)を、(まん)(ぜん)(しん)(せい)(あつか)ひにすべきではない。(れん)(あい)その(もの)(ともな)つてゐる(せい)(よく)をも一(くわつ)して、()(つう)(れん)(あい)()んでゐる(かぎ)りに(おい)て、(とく)(べつ)(この)(こと)(ちう)()されなければならないのである。

 (すべ)ての(れん)(あい)(しん)(せい)(あつか)ひにすることが(ゆる)されないのみならず、一(たい)(れん)(あい)(きん)(しん)(あい)(じん)(るい)(あい)(とう)(さい)(あい)(ぢやく)(あい)(じやう)(うち)(さい)(かう)()()むべきもの、(もつと)(かう)()なるものとして()ることも()()(じん)である。(すくな)くとも(こん)(きよ)のない(こと)である。

 なぜと()つて、(れん)(あい)(さい)(かう)(あい)として()るところの(ひと)(/″\)は、(たい)(てい)(みな)その(ゆゐ)一の()(いう)として、(れん)(あい)()(ぐわい)(あい)(じやう)(れん)(あい)から(うま)()たものであると()ふことを()げてゐるけれど、それは『(せい)(よく)(また)(せい)(てき)なものから』を『(れん)(あい)から』とはき(ちが)へてゐる()めであるのみならず、かりに一(さい)(あい)(じやう)(れん)(あい)から()たものであるにもせよ、(けい)()(がく)(てき)(さき)()つてゐるとおくれてゐるとは、(かなら)ずしも(たゞち)()()(かう)()(わか)()(ゑん)になり()ないかである。

(けい)()(がく)(てき)()より(こん)(げん)(てき)であることが、(たゞち)より(かう)()であることを()()するものならば、(せい)(よく)もしくは(せい)(よく)()(じやう)にさへ(こん)(げん)(てき)であるところの()(ゆう)(せい)は、(れん)(あい)より(かう)()なものになつて()るではないか? (どく)(しや)(しよ)(くん)よ、(ねがは)くは『(れん)(あい)()(じやう)(しゆ)()』なぞの(ごと)き、(あま)りにも(たう)(せい)()きな()(たら)()(てき)(ぞく)(ろん)(まよ)はされざれ!)

 (すべ)ての(れん)(あい)(しん)(せい)(あつか)ひにしたり、一(たい)(れん)(あい)(さい)(かう)(あい)(じやう)()ひなしたりする(ひと)(/″\)は、どんなに(うつく)しい、(りつ)()(れん)(あい)すらもが、()()()(じやう)(ばう)(けん)(てき)な、()(けん)(せい)(くわつ)であることの()(じつ)を、(おほ)くの()(あひ)()らないでゐる。(あるひ)は、ともすれば(わす)()ちである。(さら)(あるひ)は、()(ひと)(/″\)()()かせることを(わす)()ちである。

 (しか)り、(れん)(あい)()()(あひ)(ひと)(/″\)(この)んで()(ごと)く、(じん)(かく)(たか)めてくれるところの(がく)(かう)であり、(だう)(ぢやう)であると(とも)に、()()(あひ)(にん)(げん)(せい)()(らく)(たい)(はい)させるところの()(らく)()(しよ)である。

 (なに)(ゆえ)であるか?

 (いは)く、(れん)(あい)はそれ(みづか)らが(とう)(じやう)しつつある(とき)(ほと)んど()(なに)(もの)にもまさつて(にん)(げん)(せい)(すべ)てを()()げる(かは)りには、それ(みづか)らが()(かう)しつつある(とき)、また(ほと)んど()(なに)(もの)にもまさつて(にん)(げん)(せい)(すべ)てを()きずり()ろすところの、(ほと)んど(しん)()(てき)(おそ)るべき(ちから)()つてゐるからである。

 (いま)(とく)に、(せい)(よく)調(てう)(ぎよ)もしくは(てう)(こく)(くわん)して、(れん)(あい)による(じん)(かく)(てき)(かう)(じやう)()(らく)とを()ふならば、(ひと)はその(れん)(あい)より(うつく)しいものになしつつある(とき)(せい)(よく)より(くわん)(ぜん)なる()(はい)(しや)であり、(はん)(たい)にその(れん)(あい)より(みにく)いものになしつつある(とき)(せい)(よく)より(くわん)(ぜん)なる()()(はい)(しや)になつてゐるのである。

 かくの(ごと)く、(れん)(あい)より(うつく)しいものにすることによつて、(たん)(せい)(よく)調(てう)(ぎよ)(こく)(ふく)するのみならず、一(ぱん)(にん)(げん)(せい)(たか)めて()くといふこと、そこに(れん)(あい)の、(したが)つて(けつ)(こん)(りん)()(てき)(だう)(とく)(てき)()()(みと)むべきであるが、()てその(れん)(あい)より(うつく)しいものにしようと(つと)める()(あひ)(とく)(ぢう)(えう)()されねばならないのは、その(じゆん)(すゐ)(せい)()(ぞく)(せい)といふことではないだらうか? (くわん)(げん)すれば、(たう)(めん)(たい)(しやう)に一(さい)()()んでしまつて、また()(かへり)みないといふ()()での(じゆん)一な()(もち)(なら)びに一たび(しふ)(ぢやく)したる(たい)(しやう)へいつまでも(しふ)(ぢやく)しつづけて()つて、つひに(かは)るところがないといふ()()での(しん)(じつ)(たい)()を、(いよ)(/\)(のう)(こう)に、(つう)(せつ)にしないで()いて、その(れん)(あい)より(うつく)しいものにするといふことが()()るであらうか? (さら)(くわん)(げん)すれば、(すくな)くとも(てい)(さう)(とく)()たないでゐて、()()にして(その)(れん)(あい)より(うつく)しいものにして()くことが()()ようぞ。

 (すなは)ち、(てい)(さう)(れん)(あい)その(もの)(かう)(じやう)させる(うへ)(ぜつ)(たい)(てき)(ひつ)(えう)(でう)(けん)であり、(したが)つて(れん)(あい)を、(けつ)(こん)を、(ほん)(たう)(いう)()()なものにする()めに、どうしても(まも)られねばならないところの(だう)(とく)(りつ)である。

 だが、(れん)(あい)(れん)(あい)()(ぐわい)(なに)(もの)かに(やく)()たせるといふ(ふう)(かんが)(かた)(たい)して、あながち(かう)()(まをし)()さないまでも、(なん)となく(きよう)()がもてないやうに、()()りがしないやうに(かん)ずる(ひと)(/″\)には、(わたし)(れん)(あい)その(もの)(きやう)(らく)といふことに(もつぱ)()(てん)()きながら、(れん)(あい)()()るだけより(たの)しく(よろこ)ばしいものにする()めに、()()(てい)(さう)(げん)(しゆ)されねばならないかと()ふことを()いて()たいと(おも)ふ。

 そもそも、(なん)()かの(えつ)(らく)(あた)へるといふ(てん)(おい)ては、(せい)(よく)(れん)(あい)(どう)(やう)ではあるが、しかし、(せい)(よく)より()(あく)()()(しゆ)()の一(けい)(たい)であり、()はば(あひ)()()(かう)にしてでも()(ぶん)(かう)(ふく)にしようとするものであり、(れん)(あい)より(せん)(れん)された()()(しゆ)()の一(けい)(たい)であり、()はば(あひ)()(かう)(ふく)にすることによつて()(ぶん)(かう)(ふく)にするといふことを()つてゐるものである。

 (せい)(よく)(こと)(しばら)()く。(れん)(あい)(あひ)()(かう)(ふく)にすることによつて()(ぶん)(かう)(ふく)にするといふこと、(くわん)(げん)すれば、(れん)(あい)()(ぶん)(かう)(ふく)にする()め、()(あひ)()(かう)(ふく)にしようとすること、それを便(べん)()(じやう)(せう)(きよく)(てき)(はう)(めん)からと、(せき)(きよく)(てき)(はう)(めん)からと、(べつ)(/\)(かう)(さつ)して()よう。

 ()づ、(せう)(きよく)(てき)(はう)(めん)から(かう)(さつ)すると、(あい)してゐる(ひと)は、その(あい)(じん)(すで)()つてゐるところの(かう)(ふく)から、(なに)(もの)をも()りさるまいとする。そしてさう(こゝろ)()けるのが、一(おう)(かれ)()(しん)より(かう)(ふく)にすることの(じや)()になるやうに()えるのをも()(かい)しないのである。

 (すなは)(その)一の()(あひ)として、ただ(その)(あい)(じん)をのみ(あい)しつづけてゐなくなるのが、(あい)(じん)(なん)()()(かう)にするものである(かぎ)り、(ひつ)(えう)なる()(せい)(てき)()(りよく)(もつ)てすらも、(あい)(じん)のほかに(あい)(じん)をつくるまいとする。そしてこれが、(おのづか)らにして(てい)(さう)(とく)(しやう)ずるといふのは、(さう)(けん)するに(かた)くない(こと)ではないか?

 ()ぎに、(せき)(きよく)(てき)(はう)(めん)から(かう)(さつ)して()ると、(あい)してゐる(ひと)に、その(あい)(じん)(すで)()つてゐるところの(かう)(ふく)へ、(さら)()()るだけ(おほ)くの(もの)(くは)へてやらうとする。そして(その)(こゝろ)()けの()めに、(かれ)より(ぐわい)()(てき)(かう)(ふく)()(せい)にすることが、(おほ)きければ(おほ)きいほど、(かれ)(みづか)らのより(ない)()(てき)(かう)(ふく)(おい)て、ただ(ます)(/\)(かう)(ふく)(かん)ずるばかりなのである。

 (すなは)ち、(その)一の()(あひ)として、その(あい)(じん)()()るだけより(じゆん)(すゐ)に、より()(ぞく)(てき)(あい)するといふことが、(けつ)(きよく)()(ぶん)()(しん)より(ぐわい)(てき)(かう)(ふく)をすてて、より(ない)(てき)(かう)(ふく)()るものである(かぎ)り、(じつ)(さい)(かう)(くわ)(おい)(あい)(じん)より(かう)(ふく)になし()なかつたかも()れないやうな(とき)にすら、()()つ、その(けん)(しん)(てき)(ほう)()の十(ぶん)(むく)いられてゐることを(かん)じる。そしてこれがまた、(おのづか)らにして(てい)(さう)(とく)(しやう)ずるといふのも、たやすく(さう)(けん)()られるであらうと(おも)ふ。

 (わたし)(かつ)(ぜん)(けい)(れん)(あい)(けつ)(こん)との(くわん)(けい)(ろん)ず』(一九一七年十一月本誌所載)(ちう)()べて()きました——

トルストイの『アンナ・カレニナ』といふ(せう)(せつ)(をんな)(しゆ)(じん)(こう)アンナの(あに)(ぼう)といふ、さんざ(をんな)(だう)(らく)をして、(だう)(らく)をしぬいて()(ちう)(ねん)(もの)が、(たい)(へん)(おも)(しろ)(こと)()つて()りました。(わたし)()(じう)(その)(こと)()(わす)れることが()()ません。(いは)く、『(いく)(にん)もの()(じん)(あい)した(だん)()よりも、ただ(ひと)()()(じん)しきや(あい)したことのない(だん)()(はう)が、(けつ)(きよく)()(けい)()(じん)といふものを()つてゐるのだ』と。(わたし)はそれを()(やく)して、『(いく)(にん)もの()(せい)(あい)した(にん)(げん)よりも、ただ(ひと)()()(せい)のみを(あい)した(にん)(げん)(はう)が、(けつ)(きよく)()(けい)(れん)(あい)(きやう)(らく)(けい)(けん)してゐるのだ』と()ふやうな(こと)()(なほ)し、(わたくし)(あたま)(なか)()れてゐるのであります。(じつ)(さい)(いく)(にん)もの()(せい)(あい)することになると()ふのは、それだけ(おほ)()(せい)(あい)しないで()(にん)(げん)()(あひ)()して、たしかにより()(かう)(こと)でなければなりません。(わたし)より()(かう)なと()つてゐるものを、より()()(がふ)(こと)()ひたい(ひと)(/″\)(たい)しては、(わたし)はさうした()()(がふ)(こと)をする(にん)(げん)が、その()()(がふ)(こと)その(もの)(うち)に、(すで)に十(ぶん)(けい)(ばつ)されてゐるとだけ(こた)へて()けば、それでよからうと(おも)ひます。(だん)(ぢよ)(あひだ)(おい)て、()てる(もの)()てられる(もの)とのある()(あひ)()(けん)(じやう)(しき)(もち)(ろん)()てられた(もの)(がは)(どう)(じやう)して()(どく)がります。()てられた(もの)()(しん)も、さうして()(どく)がられるのを(あた)(まへ)(こと)だと(おも)つて()ます。けれども、(その)(さい)(ほん)(たう)(びん)(さつ)されなければならないのは、()てた(もの)()(うへ)です。そして、()てられた(もの)が、それにも(かゝは)らず()(ぜん)として(その)(あい)()てないでゐられたならば、それこそ(むし)(せん)(ばう)すべき(かう)(ふく)()であります。(この)(ぎやく)(せつ)(てき)(しん)(じつ)は、(こん)(にち)のところ()だ、あまり(ぎやく)(せつ)(てき)()えすぎるかも()れない。けれども(この)(えい)()は、()(じん)(てき)にも(しや)(くわい)(てき)にも、(れん)(あい)(うへ)(あるひ)(あま)く、(あるひ)(にが)(けい)(けん)が、その(あま)さと(にが)さとを(くは)へて()けば()くほど、(いよ)(/\)よく()(とく)されて()るに(さう)()ありません。一(ごん)にして()へば、(にん)(げん)(かしこ)くなればなるほど、(れん)(あい)(あひ)()()へる(こと)(おろか)さを、いよいよ(さと)つて(まゐ)ります。そして(その)(さと)りの(なか)から、(おのづか)らなる(てい)(さう)(ろん)()()えて()るのであります。

 と。

 (おも)ふに、『(によう)(ばう)(たゝみ)(あたら)しいほどいい』は、(によう)(ばう)なるものを(せい)(よく)(てき)(けつ)(がふ)(あひ)()として()たのであつて、(れん)(あい)(てき)(けつ)(がふ)(あひ)()として()たのではない。そして所謂(いはゆる)(によう)(ばう)が、(せい)(よく)(てき)(けつ)(がふ)(あひ)()であるよりも、(むし)(れん)(あい)(てき)(けつ)(がふ)(あひ)()である()(あひ)には、(たう)(ぜん)()ぎのやうに()はるべきである。(いは)く、『(によう)(ばう)(さけ)とは(ふる)いほどいい』と。

 (いく)(にん)もの()(せい)(なら)べて()いて、(あるひ)()()()きかへ(あひ)()にするのが、より(すくな)()(せい)(かう)(せふ)するよりも、より(おほ)くの(きやう)(らく)をもたらすかも()れないといふのは、(せい)(よく)(てき)(けつ)(がふ)(おい)ての(こと)であつて、(れん)(あい)(てき)(けつ)(がふ)(おい)ての(こと)ではない。

 (れん)(あい)(てき)(けつ)(がふ)()(あひ)にも、(わう)(/\)にしてより(おほ)くの()(せい)(あひ)()にするのが、より(おほ)くの(きやう)(らく)をもたらし()るかのやうに(おも)ひなしてゐる(ひと)(/″\)は、(れん)(あい)その(もの)からの、(れん)(あい)(ほん)(しつ)(てき)()(ぶん)からの(きやう)(らく)と、(たん)(れん)(あい)(ほん)(しつ)(つゝ)んでゐるにすぎない(ぐわい)()からの(きやう)(らく)とを()りちがへてゐるのである、(こん)(どう)してゐるのである。

 (すなは)ち、さまざまに浪漫的(ロマンチツク)(れん)(あい)(げき)を、(げん)(じつ)()(たい)(えん)じて()たい(しば)()()や、(おほ)くの()(せい)から(あい)(ぢやく)されてゐる、(はなは)だ『もてる』(をとこ)(もしくは(をんな))として()(ぶん)()(しん)(かん)じたい(こう)(みやう)(しん)や、さうした(をとこ)(もしくは(をんな))として()(けん)から()られたい(きよ)(えい)(しん)なぞは、(なる)(ほど)より(おほ)くの()(せい)(あひ)()にすることによつて、より(おほ)滿(まん)(ぞく)させられるかも(わか)らない。けれども、さうした(しゆ)(るゐ)滿(まん)(ぞく)と、(あい)(じん)(ほん)(たう)(あい)したり(あい)せられたりすること(その)(もの)からの、(れん)(あい)(ほん)(しつ)その(もの)からの(よろこ)びとは、(ぜん)(ぜん)(べつ)()(きやう)(らく)(ぞく)してゐるのである。

 ()()れ、(れん)(あい)その(もの)より()(きやう)(らく)する()めに、(ない)()(れん)(あい)その(もの)より(うつく)しく、より(すう)(かう)なものにする()めに、(てい)(さう)(とく)(いう)(よう)であり、のみならず(ひつ)(えう)であるとしたならば、(てい)(さう)(れん)(あい)その(もの)からの(ほん)(しつ)(てき)(えう)(きう)であり、(あい)する(もの)()(しん)(かれ)()(しん)()めに(じゆ)(りつ)したところの(だう)(とく)(りつ)であり()るではないか?

 そして()し、かくの(ごと)()(りつ)(てき)(だう)(とく)からさへ()(いう)にされようとねがふのが、所謂(いはゆる)()(いう)(れん)(あい)』の(しゆ)(ちやう)であるならば、それは()(いう)(かは)りに()()(りつ)(はう)()とを、(また)(れん)(あい)(かは)りに(せい)(よく)とそれに(ちか)(もの)とを()(もと)めてゐる(ゆゑ)に、(むし)ろ『(はう)()(せい)(よく)』の(しゆ)(ちやう)()ばるべきものではなからうか?

 そもそも(てい)(さう)(なに)()()してゐるか、(なに)(ゆえ)(てい)(さう)(まも)られねばならぬかについてなぞの(もん)(だい)についての(わたくし)(こん)(ぽん)(てき)(かう)(さつ)は、()(じやう)(しよ)(せつ)(だい)(たい)(つく)くされてゐるとは(おも)ふのであるが、()ほその(あい)(じん)()(べつ)した(ひと)(/″\)()(あひ)(あるひ)は一たび、二たび、(ない)()(いく)たびも()(てい)(あやまち)(おか)した(ひと)(/″\)()(あひ)(あるひ)はいつまでも(れん)(あい)(あひ)()にぶつからないでゐる(ひと)(/″\)()(あひ)なぞに(おい)て、(てい)(さう)もしくはひろく(せい)(てき)(だう)(とく)(くわん)して、()()なる(せい)(くわつ)(たい)()()らねばならないかといふやうなことをも、(すこ)しばかり(ろん)じて()きたいと(おも)ふ。

 一(たい)(ひと)()ぬといふのは、(ほん)(たう)にどうなつてしまふことであるか(わか)らないけれど、とにかく、(たん)(せい)(よく)(てき)にでなく、(れん)(あい)(てき)にも(もしくは(れん)(あい)(てき)にのみ)(けつ)(がふ)されてゐた(だん)(ぢよ)(あひだ)にあつては、その(あい)(じん)は一(おう)()()(おい)てこそ()ぬけれど、(ほん)(たう)(けつ)して()なないで、いつまでも()きてゐるのである。

 (ほん)(たう)(あい)してゐる(もの)から()へば、その(あい)(じん)(はか)(した)(ねむ)つてから(のち)も、()きつづき、より(かう)(ふく)にされたりより()(かう)にされたりすることも()()()(のこ)つてゐる(もの)を、より(かう)(ふく)にしたりより()(かう)にすることも()()るのである。

 (いま)()になき(あい)(じん)が、()(のこ)つてゐる(もの)によつて、()()にその(えい)()(くは)へられたり(きず)つけられたりすることか! ()()(その)()()(およ)()(げふ)(けい)(しよう)されたり(じう)(りん)されたりすることか! (とく)(しう)(けう)(てき)()へば、()()()(だい)(めい)(ふく)とを(たす)けられたり(さま)げられたりすることか!

 (また)()(のこ)つてゐる(もの)が、(いま)()になき(あい)(じん)によつて、(すくな)くとも(こゝろ)(うち)(えい)(きう)()きつづけてゐる(その)(あい)(じん)によつて、()()(なぐさ)められ、()()(はげ)まされ、()()(つよ)くされ、()()(かしこ)くされ()ることぞ!(この(こと)は、(ほん)(たう)(あい)してゐた(あい)(じん)()()(おい)て、なほ()きつづけてゐるところの(ひと)(/″\)だけが()つてゐる。(おそ)らくは()()ぎるほど()つてゐるだらう。)

 ()(ぜん)としてより(かう)(ふく)にされたり、より(かう)(ふく)にしたりしながら()きてゐる(はか)(した)なる(あい)(じん)を、()きつづき(あい)することが()()ないと()へるであらうか? その(せい)(ぜん)(ことな)るところなく、(あい)しつづけないでゐられると()へようか?

 そして(あい)(じん)()()にも、()きつづき(あい)することが()()るとしたら、また(その)(あい)より(うつく)しくより(すう)(かう)なものにすればするほど、(せい)(よく)調(てう)(ぎよ)(こく)(ふく)をはじめとして一(ぱん)(じん)(かく)(かう)(じやう)(いよ)(/\)(やく)()つて()くとしたら、(あるひ)(その)(あい)より(じゆん)(すゐ)な、より()(ぞく)(てき)なものにすればするほど(れん)(あい)(てき)(きやう)(らく)そのものを(ます)(/\)(くは)へて()くとしたら、(あい)(じん)()()にも、ただその(あい)(じん)をのみ(こゝろ)(うち)(あい)しつづけて()くといふ()()での(てい)(さう)がまた、(たう)(ぜん)一の(うつく)しい、十二(ぶん)にも(にん)(げん)(てき)(だう)(とく)(りつ)となつて()るではないか?

 (もち)(ろん)(あい)(じん)がまだ()きてゐる(あひだ)の、()(つう)()(あひ)(てい)(さう)をすらも、(たう)()(しや)(たち)()(しん)から(ねが)はしい(こと)(おも)はれてゐない(かぎ)り、()(りつ)(てき)(きやう)(えう)することを(ほつ)しない(わたし)(たち)は、()(べつ)した(あい)(じん)(みさを)()てるといふやうな(とく)を、一(ぱん)(じん)にまで()ひようとは(けつ)して(おも)つてゐないのである。

 けれども、さうした(てい)(さう)のゆかしさ、(たふと)さと、(とく)にその(たの)しさを()いて、(ひと)()でも()(けい)にその(とく)()たせるやうにするといふのが、どうして()(ちが)つた(こと)であらうか?

 (せい)(くわつ)(じやう)のさまざまな便(べん)()(ひつ)(えう)から(さい)(こん)するといふこと、それは(げん)(ぜん)(しや)(くわい)(せい)()()(しき)(もと)(まぬか)れにくい()(どく)()(じやう)として、(わたし)(ども)からも(もち)(ろん)(くわん)(じよ)されるであらう。と(どう)()に、さうした(しゆ)(るゐ)(さい)(こん)が、さうした(しゆ)(るゐ)(しよ)(こん)(とも)に、(すで)にあまりにも()(ぶん)(くわ)(てき)なものとして、一(にち)(はや)(あと)()()るやうに、(しや)(くわい)(せい)()()(しき)とは(あらた)められて()かねばならないのである。

 (ぐわい)()(てき)()(じやう)(こう)(そく)から、もしくは(たん)なる(けい)(しき)(だう)(とく)(てき)(たい)(めん)から、()むを()(さい)(こん)(だん)(ねん)してゐることの()(れつ)さ、(およ)びその()()(ぜん)(せい)(くわつ)から(おも)()つた()(ちが)ひを(とつ)(ぱつ)して()ることの()(けん)さなどについてはわざわざ()かない。

 それとは(ことな)つて、()(ぶん)()(しん)(ない)()(えう)(きう)から、(きは)めて()(ぜん)に、(きは)めて(たの)しげに、(よろこ)ばしげに(みさを)()てて()かうとする()(ばう)(じん)(だん)(ぢよ)いづれの()(あひ)にも)の()(あひ)にさへ、さうした(せい)(くわつ)(たい)()(くだ)らないもの、もしくは()(ちが)つたもののやうに()ひなす(ひと)(/″\)を、()(しよう)(しん)(じん)(たち)(あひだ)(をり)(/\)()()けるのは()(くわい)(せん)(ばん)(こと)である。

 それらの(ひと)(/″\)よ、(こゝろ)みに(おも)へ。()(べつ)したる(あい)(じん)(みさを)()てるといふことが、それほど()鹿()()鹿()しいものと(かんが)へられてしまつた(とき)、一(ぱん)(てい)(さう)といふものの(だう)(とく)(てき)(こん)(てい)がまた(なん)()かぐらついては()ないであらうか? (ひら)たく()へば、(つま)(をつ)()へ、『(あな)()()くなつたら、こんどは(わたし)は、どんな(ひと)(けつ)(こん)したらいいでせうね?』といふやうな(はなし)を、()()()()()すやうになつてゐて、()()()をも(たましひ)をも()()んだ(ほん)(たう)(れん)(あい)といふものがあり()るだらうか?

 (ついで)ながら、(こん)(にち)ほどに()(ばう)(じん)(てい)(さう)(けい)()されてゐない()(だい)(しや)(くわい)(おい)て、(こん)(にち)ほどにその(てい)(さう)(まも)りにくいものであるや(いな)やは、(すくな)くとも()(もん)でなければならぬ。

 (また)()くなつた(あい)(じん)への(あい)(ぢやく)から、(さい)(こん)(だん)(ねん)してゐたところの(だん)(ぢよ)が、()(じつ)その(こゝろざし)(あらた)めて(さい)(こん)することになつた(とき)()(じん)()(すう)は『それならもつと(はや)くさうすればよかつたのに』と()ふのであるが、しかし(てい)(さう)(とく)その(もの)(くわん)してならば、さうした(こと)()()()()()(じやう)のものである——『どうせ(かた)()になる(くらゐ)なら、もつと(はや)(かた)()になればよかつたのに』といふやうな(こと)()(どう)(やう)に!

 (あるひ)は、(ちやう)(ねん)(げつ)(わた)つて(みさを)()てて()たところの()(ばう)(じん)が、ふとした()(くわい)()がさして、(れん)(あい)ならぬ、()はば(せい)(よく)(じやう)(あやま)ちを(おか)した()(あひ)なぞに(おい)て、()()なれば()(じやう)()(すう)(ひと)(/″\)は、その()(ばう)(じん)()(りよ)(くわ)(しつ)をのみ(くわ)(こく)()めながら、その()(ばう)(じん)のそれまでの()(ねん)(さう)()(いさゝ)かも(たん)()することをしないのか?

(あまり(なが)くなつた(ゆゑ)()()(おほ)いにはしよつ()きます。)

 (かた)(こひ)は、()(べつ)した(あい)(じん)(あい)(ぢやく)してゐるのと(だい)(たい)(おい)(あひ)(ちか)い。そして(やゝ)もすれば、より(くる)しく、またより(あま)(たい)(けん)であり()る。(すくな)くとも、(せい)(よく)調(てう)(ぎよ)(こく)(ふく)をはじめ一(ぱん)(じん)(かく)(かう)(じやう)(くわん)(せい)(やく)()(てん)(おい)て、(てい)(じつ)なる(かた)(こひ)がいかにすばらしい(ちから)をもつてゐるかは、()(らい)(てん)(さい)(しや)()(じん)などの(でん)()(はなは)(しば)(/\)(しよう)()()ててゐる。

 (ひと)たび(てい)(さう)(うへ)(あやま)ちを(おか)した(もの)が、(かさ)ねて(その)(あやま)ちを(おか)すまいとするのは、所謂(いはゆる)(ぜん)(くわ)ある(ひと)(/″\)(かさ)ねて(つみ)(おか)すまいとするのと(おな)じく、(はなは)(こん)(なん)(こと)であるだけそれだけ(しゆ)(しよう)(こと)である。(しう)()(もの)は、(あた)()られる(かぎ)りの(げき)(れい)(じよ)(りよく)とを(あた)へることの()()()うてゐる。

 (げん)(ざい)(いく)(にん)もの()(せい)(あい)してゐる(ひと)(/″\)が、()()()()(かた)()(かへ)さうと(おも)()つた(とき)、そもそも()()なる(しよ)()をつけるべきであるか? この(もん)(だい)ほどむづかしい(もん)(だい)はない。

 けれども(けつ)(きよく)は、それらのいく(にん)もの()(せい)(うち)(ほん)(たう)(あい)してゐるのは()(ひと)()だけしかないであらう。(すくな)くとも(うは)ついた(こゝろ)をすてて(しん)(けん)(かんが)へて()()(あひ)、ゆくゆく(ほん)(たう)(あい)して()けさうな(あひ)()が、その(うち)のどの(ひと)()であるかは、(けつ)して(けつ)(てい)され()ないものではあるまい。

 それがどうしても(けつ)(てい)され()ないとしたら、(わたし)はその(まよ)つてゐる(ひと)(たち)に、(あへ)(ちう)(しん)から(しん)(げん)する——(あな)()(げん)(ざい)(あひ)()にしてゐるところの、いづれの()(せい)からも、()()(かぎ)()(やう)ならをしてお()()ひなさい。なぜと()つて、(あな)()はそれらの()(せい)のいづれをも(じつ)(さい)(あい)してはゐなかつたしこれからも(ほん)(たう)(あい)することは(たう)(てい)()()ないのだから。そしてそれらの()(せい)から(こと/″\)(はな)れてしまつて、(あな)()は一(さい)(しん)()まき(なほ)しにやるのですと。

 (うん)(めい)(かみ)がいつまでも(れん)(あい)(あひ)()にめぐり()はしてくれない(ひと)(/″\)、もはやその(のぞ)みをさへなくされてしまつた(ひと)(/″\)、それらの(ひと)(/″\)(がく)(もん)とか、(げい)(じゆつ)とかいふやうな()(ごと)(ぼつ)(とう)してゐるのであつたら、(たい)(へん)()(こと)である。(よる)()のない()()とか、(なぐさ)めのない(びやう)(にん)とか、すべて()(こゝろ)とに()(きず)ついてゐる(ひと)(/″\)(ほう)()して、それらの(ひと)(/″\)()(じやう)(かな)しみを(わか)ち、(てん)(じやう)(よろこ)びを(とも)にするやうな(せい)(くわつ)をして()くのは、(さら)に一(そう)()(こと)である。

 (また)、はじめから(がく)(もん)とか(げい)(じゆつ)とかに(ぼつ)(とう)してゐた()めに、(あるひ)(りん)(じん)(およ)(かみ)への(あい)(ぜん)(そん)(ざい)をささげてゐた()めに、(れん)(あい)といふやうなものへわき()をふるひまもなかつた——(たと)へばナザレのイエスの(ごと)き——(ひと)(/″\)(せい)(くわつ)は、()()のものでこそあれ、(なん)()()()(ぜん)なものではない。のみならずそれらの、(せい)(よく)をも(れん)(あい)をも(てう)(ゑつ)した(てん)(さい)(しや)のお(かげ)で、()()(じん)(るゐ)がその(にん)(げん)(せい)(たか)められて()てゐるか、()()(あたら)しい(せい)(めい)(あた)へられ、(えい)(きう)()きる(みち)(をし)へられて()てゐるかは、(あらた)めて()くまでもないことであらう。

 『やは(はだ)のあつき()(しほ)にふれも()(さび)しからずや(みち)()(きみ)』——この(めい)()(おい)て、あつき()(しほ)にふれて()ることの、(だい)なる(じん)(せい)(てき)()()(きやう)調(てう)してゐるのは(あり)(がた)い。けれども、あつき()(しほ)()れるといふのは、(れん)(あい)(たい)(けん)(とほ)してのほか、(たう)(てい)(のぞ)まれないところのものであらうか? (いな)(まづ)しき(もの)(きず)つける(もの)()める(もの)なぞに(ほう)()して、つねに(その)(なげ)きをなげき、(その)(かな)しみをかなしみ、(その)(わづら)ひをわづらつてゐる(ひと)(/″\)こそ、(にん)(げん)の『あつき()(しほ)』は(おろ)か、その(こつ)(ずゐ)にも、その(たましひ)(たましひ)にも()れてふれて、ふれぬいてゐるではなからうか?

 それにしても、イエス()(ごと)(れん)(あい)(てう)(ゑつ)して、ただ(りん)(じん)(およ)(かみ)への(あい)()きるといふ(せい)(くわつ)は、(すくな)くとも(げん)(ざい)のところ()()()(あひ)のみ()(のう)であり、(したが)つて(みだ)りに(すゐ)(しやう)さるべきものではない。(すなは)ち、()(タイ)(でん)(だい)十九(しやう)(おい)てイエス(みづか)らも()つてゐる——

『この(こと)()(ひと)みな()()るること(あた)はじ。ただ(てん)()ある(もの)のみこれを()()べし。それ(はゝ)(たい)よりして(うま)れつきたる()(じん)あり。また(ひと)にせられたる()(じん)あり。これを()()るることを()(もの)()()るべし』

 と。     (一九二五年十一月)