マルキシズムの()(ヘン)(せい)

生田長江

 (げん)()(じん)(せい)(くわつ)()(れう)(かう)(くわん)をやりはじめると(とも)に、(すう)(くわん)(ねん)(には)かに(はつ)(たつ)したのであり、そこに(すう)(がく)といふものの()(げん)があると、(たん)にこれだけの()(しき)からして、(こん)(にち)(しや)(くわい)()ける(すう)(がく)()()(また)(ひつ)(きやう)(かう)(えき)(しやう)(げふ)(ひつ)(えう)(しゆ)(だん)()(じやう)のものでないと(ばう)(だん)したならば、(ほう)(ふく)(ぜつ)(たう)しないものは(ひと)()もないだらう。

 (ところ)が、(げん)にマルキシズムを(くわん)するところの似而非(えせ)(くわ)(がく)なぞでは、屡々 宗教の原始社會的起源を少しばかり拾ひ上げて來て それで以て我々文化人の社會に於ける我々の宗教の意義をもつきとめてしまつたかの如き事を言つてゐるのはどうだ

 だが、マルキシズムの似而非(えせ)(くわ)(がく)(せい)(おほ)きく(もん)(だい)にするのは()(じつ)()(くわい)(ゆづ)り、ここには(しう)(けう)()(てい)(へう)(ばう)するマルキシズムが一()()(あく)(しう)(けう)であり、(しう)(けう)()(ヘン)なりと(かつ)()するマルキシズム()(たい)(かく)(じつ)()(ヘン)(せい)()つてゐると()ふことを(かた)つて()ようと(おも)ふ。

 『(しう)(けう)(みん)(しう)()(ヘン)である。(みん)(しう)(かう)(ふく)としての(しう)(けう)(はい)()(みん)(しう)(しん)(せい)なる(かう)(ふく)(さい)(よう)()である』(うん)(ぬん)のマルキシズム(しん)(でう)は、(いま)やマルキシズム(せい)(ねん)(ねこ)(しやく)()もによつてふり(まは)されてゐる。

 (もち)(ろん)(だう)(たふ)()(らん)(きん)ピカの(ころ)()()()なぞからのみ()()(あが)つてゐる、(げん)(ぜん)(だい)()(すう)(けう)(くわい)(てき)()(ゐん)(てき)(しう)(けう)だけが(しう)(けう)であるならば、(しう)(けう)はたしかに(みん)(しう)()(ヘン)である。(みん)(しう)をして()(わい)もない(げん)(さう)(てき)(かう)(ふく)()はしめて、(かれ)()()(げう)する(しや)(くわい)(てき)(げん)(じつ)をありのまゝに(にん)(しき)することをなさしめず、その(かい)(へん)(えう)(ばう)せしめざらんとする(かぎ)りに(おい)て、まさしく()(はい)(かい)(きふ)(やく)()つてゐるだけ、それだけ()()(はい)(かい)(きふ)(わざはひ)してゐるところの()(ヘン)である。

 (すべ)ての(ほう)(かん)(てき)(そん)(ざい)がさうである(ごと)く、それらの(けう)(くわい)(てき)()(ゐん)(てき)(しう)(けう)は、(たと)へば(キリ)(スト)(けう)(てい)(せい)()(だい)には(てい)(せい)()(だい)()(はい)(かい)(きふ)(げい)(がふ)して、(こう)(ぜん)たる(その)(しん)(でう)をも(なに)をも()()げてさへ()(よう)をつとめ、(ほう)(けん)()(だい)には(ほう)(けん)()(だい)()(はい)(かい)(きふ)(げい)(がふ)して、あらゆる()(れん)()()()(はう)()(もつ)()(よう)をつとめ、()てブルヂョア()(だい)には、その()(はい)(かい)(きふ)(げい)(がふ)して、(われ)(/\)(がん)(ぜん)()(ごと)(げい)(がふ)ぶりと()(よう)ぶりを(はつ)()してゐるのである。

 しかも(われ)()()るところを(もつ)てすれば、ブルヂョア()(だい)()ぎの()(だい)にも()(かい)(きふ)(しや)(くわい)()ないであらうと(とも)に、その時代の支配階級——それがプロレタリアであるかどうかは(しばら)()き——に迎合するところのそして其御用をつとめるところの宗教——それは(しう)(けう)()ばれないで、(くわ)(がく)とか、(しや)(くわい)(くわ)(がく)とか、(しや)(くわい)(しゆ)()とか(あるひ)(まつた)(べつ)(なに)(もの)とか()ばれてゐるかも()れない!——は矢張存在するだらう。そして(その)()(だい)(さう)(おう)した()(ヘン)(てき)(かう)(くわ)(その)()(だい)()()(はい)(かい)(きふ)(うへ)(およ)ぼして()くことだらう。

 (ところ)で、(しう)(けう)(たい)(てい)()(あひ)(おい)て、(みぎ)(ごと)(げい)(がふ)(てき)な、(ほう)(かん)(てき)なものとして、(その)()(だい)々々(/\)()(はい)(かい)(きふ)()(よう)をつとめるのを(つね)とするにもせよ、それらの(しう)(けう)(ぜん)(ぜん)(べつ)()の、むしろ(せい)(はん)(たい)(たい)()()(ところ)(しう)(けう)()(ほう)にあり()るならば、(しう)(けう)()(ヘン)なりと(そう)(くわつ)(てき)()()つてしまうことは(ゆる)されないだらう。

 『()(しん)(じつ)のクリスティァンは()(ひと)()ゐた。そして(かれ)(じふ)()()(うへ)()んだ』といふのはフリードリッヒ・ニイチェの(いう)(めい)(こと)()であるが、(まつた)くのところ(キリ)(スト)(けう)とか(ぶつ)(けう)とか()つて、(けう)()()(まへ)をだけ()(ぞん)してゐたところで、その(けう)()(せい)(しん)をなくしてしまった(けい)(がい)(てき)(しう)(けう)は、(げん)(みつ)(キリ)(スト)(をしへ)とか(ぶつ)()(をしへ)とか()はれることを(あたひ)してゐないのである。

 (すくな)くとも(われ)(/\)(ぶん)(くわ)(じん)(しう)(けう)(おい)ては、その(けう)()(てき)(せい)(しん)にまでさかのぼつて()()(あひ)()(はい)(かい)(きふ)(たい)して(げい)(がふ)(てき)(ほう)(かん)(てき)(たい)()をとつたやうなものは(ぜつ)(たい)になく、むしろ私達はその總てが何等かの程度に於て彈劾的叛逆的でさへもあるといふことを認定しなければならない

 加之(しかのみならず)(かれ)()(けう)()(あん)(こく)(たい)する(くわう)(みやう)(あた)へるものとして、(めい)(まう)(ゆめ)から(かく)(せい)させるものとして、(みん)(しう)(じん)(せい)(しん)(じつ)(さう)をありの(まゝ)()ることを(さまた)げるどころか、(もつぱ)らその(たゞ)しい(にん)(しき)(みちび)()れることにこそ(がん)(もく)()いてゐるのである。

 かりに(けう)()()(ごく)(らく)とか、(じやう)()とか、(てん)(ごく)とか()ふやうな(ひと)つの(ゆめ)(あた)へた(もしくは(にん)(よう)した)としても、(その)()(あひ)(かれ)()はこれによつて(みん)(しう)より()しき(あく)()から(だつ)(きやく)させようとしてゐたのである、(その)(はう)便(べん)(もく)(てき)とするところは、(しよ)(ぎやう)()(じやう)(しよ)(ほふ)()()(しん)(じつ)(さう)をありの(まゝ)(にん)(しき)させ、一(めん)(その)(しん)(じつ)(さう)()()()()(りよく)(やしな)はしめ、()(めん)(その)(しん)(じつ)(さう)(たい)して(しの)()ざる()()(しん)(おこ)さしめることにあるのだ。

 (とく)(わたし)(たち)()(かい)する(ぶつ)(けう)(キリ)(スト)(けう)(など)から()れば、(げん)(じつ)(にん)(げん)(しや)(くわい)はそれが(げん)(じつ)(にん)(げん)(しや)(くわい)である(かぎ)り、(しよ)(せん)(わたし)(たち)滿(まん)(ぞく)するやうな、(わたし)(たち)()(さう)するやうなもの、(すなは)(じやう)()その(もの)(てん)(ごく)その(もの)とはなり()ない。

 たゞ、(わたし)(たち)(わたし)(たち)(しう)()(しや)(くわい)を、(すこ)しでも()(けい)より()きものにし、()()()(かぎ)りの(ちから)(つく)して、一()をでも(はん)()をでも(じやう)()その(もの)へ、(てん)(ごく)その(もの)(ちか)づけて()きたいと(ぐわん)(まう)し、(ちか)づけて()かうと()(りよく)する。

 そして(かく)(ごと)(ぐわん)(まう)(およ)()(りよく)のない(ところ)に、()()なる()(だつ)(きう)(さい)への(しゆ)(だん)もなく、また(かく)(ごと)(ぐわん)(まう)(およ)()(りよく)さへあるならばその(ぐわん)(まう)(およ)()(りよく)(うち)にもはや()(だつ)(きう)(さい)(じつ)(げん)(やく)(そく)されて()り、()()()(おい)ての(じやう)()その(もの)(てん)(ごく)その(もの)(すで)(けん)(せつ)されて()る。

 (あへ)てマルキシスト()()ふ。(わたし)(たち)(かく)(ごと)(かんが)(かた)(しう)(けう)(てき)でないと(しよ)(くん)()()るか?(また)此の如き考へ方をなすところの宗教がありの儘なる社會的現實の認識を妨げ從つて其實際的改善を不可能にするものであると諸君は言ひ得るか

 (かく)(ごと)(わたし)(たち)(しう)(けう)をも()(ヘン)であると()ふならば、(しよ)(くん)(おそ)らく()(ヘン)(なに)(もの)であるかを(ぜん)(ぜん)()らないであらう。

 マルキシスト()(いは)(ゆる)()(ヘン)(てき)(しう)(けう)は、よしそれが(キリ)(スト)(をしへ)だとか(ぶつ)()(をしへ)だとか()(ごと)き、どんなに(りつ)()()(もつ)(みづか)()び、(あるひ)()から()ばれてゐようとも、それは(すくな)くとも(はつ)(らつ)たる(けう)()(てき)(せい)(しん)(くわん)(ぜん)になくしたもので、その(たん)なる(けい)(がい)(てき)(そん)(ざい)(しう)(けう)としてよりも(むし)(にせ)(しう)(けう)として()らるべきである。

 さうした(にせ)(しう)(けう)は、(とく)()()(ほん)(など)(おい)ては(こん)(にち)(ところ)、マルキシストなぞが(ちよく)(やく)(てき)(くわん)(さつ)(もつ)(おほ)(さわ)ぎをしてゐるのに(たい)して、むしろ(すで)()(りよく)()ぎる(くらゐ)になつて()り、(わたし)(ども)(おほ)きな(もん)(だい)とするにも()りないのであるが、()もあれ、私達からすれば單に阿片的であるより以上にさへ有害な僞宗教や似而非宗教をマルキシスト等が否定したり排撃したり絶滅したりしてくれるならばこれほど有り難いことはない

 一(ぱう)(にせ)(しう)(けう)似而非(えせ)(しう)(けう)が、(しや)(くわい)(てき)(げん)(じつ)のありの(まゝ)なる(にん)(しき)をさまたげ、その(かい)(ぜん)(てき)()(りよく)()()(のう)にすると()ふやうな()(じつ)()るとき、()(はう)(わたし)(たち)は、十(ぶん)(たか)(しう)(けう)(てき)(えい)()(たう)(たつ)しないけれども、(せい)(ぱい)(せい)(じつ)()(ぶつ)(かんが)へようとする(ひと)(/″\)が、(しば)(/\)(げん)(じつ)(この)(しや)()()(かい)()(さう)(てき)(くわん)(ぜん)なる(しや)(くわい)(たう)(らい)することを(しん)ずるに(いた)るといふ()(じつ)()る。

 そして(これ)()(しう)(けう)(てき)(けい)(かう)をもつた(きん)(だい)()(さう)()は、(いは)(ゆる)(くう)(さう)(てき)(しや)(くわい)(しゆ)()(しや)としてマルキシスト()から(しりぞ)けられてゐる。

 だが、(かつ)(くう)(さう)(てき)(しや)(くわい)(しゆ)()()(くわん)して、()(ざう)()(しりぞ)けられてしまつてゐた(しや)(くわい)()(さう)も、(きん)(らい)(さい)(ぎん)()(おい)(あなが)ちそれほど()()さるべきでないことを(しよう)()()ててゐる。

 (また)、それと(どう)()に、()(つゞき)(くわ)(がく)(てき)(また)似而非(えせ)(くわ)(がく)(てき))であるにも()げなく、マルキシズムの(けつ)(ろん)(あん)(ぐわい)()(くわ)(がく)(てき)(はん)(くわ)(がく)(てき)なものの(おほ)いことも(また)()られはじめてゐる。

 マルキシズムに(たい)する(もつと)(しゆん)(げん)なる()(ひやう)()(ひと)()であるシンコヰッチ(けう)(じゆ)の『マルキシズムと(しや)(くわい)(しゆ)()』の(なか)()ふ——

(まつ)()(だい)(しん)(ぱん)()(ちか)づくべしとの(しん)(かう)(かた)()してゐることに()いては、マルクスとその使()()とは(がう)(キリ)(スト)(さい)(たん)(ろん)(しや)(ことな)らない。(せん)(ぴやく)五十(ねん)()(らい)(ほと)んど(すべ)ての(しやう)(げふ)(てき)()(けい)()(しふ)(らい)(かれ)()によつて()(ほん)(しゆ)()(しう)(きよく)(はじ)めであるかの(ごと)(さき)()れせられた。()(かれ)()ミレリテス((べい)(こく)(キリ)(スト)(さい)(りん)(ろん)(しや))のやうに(この)(しゆつ)(げん)()(むか)ふるに、(しろ)()(ごろも)()(かざ)らなかつたとすれば、それは(かれ)()(けい)(てん)(ことな)つてゐたからである。(かれ)()(かく)(こく)のプロレタリアに『(よう)()せよ』との(つう)(てふ)(はつ)した。(せん)(ぴやく)九十三(ねん)(こく)(さい)(しや)(くわい)(しゆ)()(しや)(たい)(くわい)は、(つぎ)(けつ)()(つう)(くわ)した。『(けい)(ざい)(てき)(こう)(げふ)(てき)(はつ)(たつ)は、(こく)(/\)(しん)(かう)し、(きよう)(くわう)(しふ)(らい)(まさ)(ちか)からんとす、(ほん)(たい)(くわい)(こゝ)(かく)(こく)()けるプロレタリアが、(かい)(きふ)()(しき)()()めたる()(みん)として、(きよう)(つう)(ぜん)(たい)し、その(かく)()(くに)()()になさんかを()(とく)するの(きん)(えう)なるものあるを()ぐ』と。‥‥さりながらマルクス(しゆ)()(しや)()(げん)しつゝあつた(その)(せう)()(だい)(へん)(かく)は、(その)()の六十(ねん)(あひだ)には(おこ)らなかつたといふ()(じつ)のみ、そのままになつてゐる。(じつ)(さい)(かれ)()(なに)(ゆゑ)それが(えん)()されてゐるのかを(せつ)(めい)しなければならない(とき)であつた。(キリ)(スト)(さい)(りん)(ろん)(しや)()()(しつ)(ばう)した。その(たび)(ごと)(かれ)()はそのダニエル(しよ)(もく)()(ろく)との(かい)(しやく)(てい)(せい)したのである。

 (この)()(あひ)、マルキシスト()()(げん)(いま)(もつ)(あた)らないでゐるといふやうなことを(きやう)調(てう)するのは、(わたし)(たち)にとつてそれほど(きよう)()のあることではない。私達はたゞ彼等が地上天國の出現を少くとも餘り遠からぬ將來に希望し期待してゐる點に於て彼等の冷笑する空想的の社會主義者なぞの非科學性に相讓らないほどのものを有つてゐることを言ひたいだけである

 (きん)(/\)(うち)に、(いは)(ゆる)(しや)(くわい)(かく)(めい)(じやう)(じゆ)すれば、(あるひ)はそのあとにどれだけかの、(すう)(ねん)(また)(ひゃく)(すう)(ねん)かの(くわ)()()をすぎて(きよう)(さん)(しゆ)()(くわん)(ぜん)(じつ)(げん)されるに(いた)れば、(じん)(るゐ)(しや)(くわい)から一(さい)(かい)(きふ)(たい)(りつ)がなくなり、一(さい)(けん)(りよく)()(はい)がなくなる——といふのは、(すべ)てのマルキシストの(れい)(ぐわい)なく(しん)じてゐるところの(こん)(ぽん)(しん)(でう)である。彼等に共通する最も幸福なる夢想的遠望の一つである

 ()うした()(さう)(てき)(ゑん)(ばう)が、(みづか)ら『(くわ)(がく)(てき)』を(ほこ)りとするマルキシストのものであるとは、(じつ)(おどろ)くべき()(じつ)ではないか?

 ()(ラン)西()(だい)(かく)(めい)(ころ)、あの(かく)(めい)()(たち)は、(ほう)(けん)(せい)()(こん)(てい)(てき)()(くわい)された(のち)にも、(いは)(ゆる)(だい)(かい)(きふ)(くわん)(ぜん)(かい)(はう)された(のち)にも、()()(さん)(かい)(きふ)の、()(いう)(びやう)(どう)(はく)(あい)()(さう)(しや)(くわい)(しゆつ)(げん)しないと()ふことを、どうして()(さう)()たらうか?

 (ちやう)()その(ごと)く、マルキシスト()はプロレタリア(かく)(めい)(じやう)(じゆ)したあとに、()()(ぜん)として(かい)(きふ)(たい)(りつ)があり、それに(もと)づくあらゆる(しや)(くわい)(あく)(ざん)(ぞん)するかも()れないと()ふやうなことは、()(さう)だもなし()ないやうに()えるではないか?

 (ところ)で、(いは)(ゆる)(かい)(きふ)(たい)(りつ)、もしくは(けん)(りよく)()(はい)(じん)(るゐ)(しや)(くわい)(おい)てそもそも()()からはじまつたのであるか?アダムとイブとが(らく)(ゑん)()はれない()(ぜん)(こと)(しばら)()き、我々の科學的な推定と現實的な認識との遡り得る限りに於てそもそも何時の世の何處に何等の階級對立もない何等の權力の支配しない人類社會といふものがあり得たか

 (ほと)んど(かぎ)りなく(とほ)(くわ)()から(じん)(るゐ)(しや)(くわい)(ともな)つて(そん)(ざい)したらしい——この(こと)(たれ)よりもマルキシスト()が一(ばん)よく()つてゐる(はず)である——(かい)(きふ)(たい)(りつ)または(けん)(りよく)()(はい)が、(せん)(ひやく)(なん)(ねん)か、(ない)()おそくともそれから(なん)(びやく)(ねん)かの(のち)に、プロレタリア(かく)(めい)といふ一()()(せき)(てき)()(けん)(ぼつ)(ぱつ)(とも)に、()(れい)(この)()(じやう)から(あと)をたつてしまふといふやうなことが、そもそも()(のう)()として(かんが)へられるといふのか!

 そして、これが『(くわ)(がく)(てき)な』(しや)(くわい)(しゆ)()(しや)の、(ゆい)(ぶつ)(べん)(しよう)(はふ)(てき)()(あく)された(しや)(くわい)(にん)(しき)であるといふのか!

 しかも一(さい)(しや)(くわい)(あく)(こん)(げん)(けん)(りよく)()(はい)または(かい)(きふ)(たい)(りつ)()(じつ)にのみ()くマルキシスト()からすれば、(けん)(りよく)()(はい)のない、(かい)(きふ)(たい)(りつ)のない(かく)(じん)()(いう)にして(びやう)(どう)なる(しや)(くわい)は、いかなる(しや)(くわい)(あく)(ざん)(ぞん)をも(かんが)へさせないところの()(さう)(きやう)であることを(おも)へ!(いま)から(あま)(とほ)からぬ(しやう)(らい)(おい)て、一(にち)(とつ)(ぜん)(じん)(るゐ)(しや)(くわい)のそれまでの(べん)(しよう)(はふ)(てき)(はつ)(てん)がその(はつ)(てん)(てい)()してしまふといふやうな、(かれ)()()(しん)(たち)()()らして(じつ)()(くわい)(せん)(ばん)なる(こと)(かんが)へたものではないか?

 (わたし)(たち)()(ところ)(もつ)てすれば、(かつ)()(もの)()()(ひやく)(じう)()(はい)する(ごと)くして()(はい)した。(また)()(もの)は、(えう)(じゆつ)(しや)()(みん)()(はい)する(ごと)くして()(はい)した。(さら)()(もの)は、これらの()(はい)(しや)()ねる(もの)として()(はい)した。

 (われ)(/\)(がん)(ぜん)(しや)(くわい)では、(しゆ)として(ざい)(りよく)()(だい)()いた、()(しき)(てき)な、(くわ)(がく)(てき)()(りよく)(しよ)(いう)(しや)()(はい)(しや)となつてゐる。

 ()(はい)するところの(けん)(りよく)は、それぞれの(しや)(くわい)(おい)(しゆ)(/″\)さまざまである。(れき)()(てき)()れば(へん)(せん)(すゐ)()があつたとも()へる。(しん)(くわ)(ろん)(しや)()はせれば、(けん)(りよく)そのものが()(だい)(しん)(くわ)して()てゐるだらう。

 ()(はい)するところの(けん)(りよく)(せい)(しつ)が、(こん)()もこれまでと(おな)じく(へん)(せん)(すゐ)()し、(ない)()(しん)(くわ)()るものとしたならば、(ざい)(りよく)()(だい)()いた、()(しき)(てき)な、(くわ)(がく)(てき)()(りよく)といふやうな(げん)(ぜん)(しや)(くわい)(てき)()(はい)(りよく)が、いつまでも(われ)(/\)(じん)(るゐ)(あひだ)()(はい)(りよく)として(そん)(ぞく)すべしとは(さう)(ざう)しがたい。

 (また)(じん)(るゐ)(せい)(くわつ)(げん)(じやう)(その)(くだ)(ざか)へかかつてゐるのでなくて、(むし)ろまだまだ(のぼ)(ざか)にあるのだとしたならば——(わたし)()(しん)(この)(てん)(おい)(あま)(らく)(くわん)(しゆ)()(しや)ではなくなつてゐるのだが——(げん)(ざい)()(あく)()(はい)(てき)(けん)(りよく)を、どれだけかより(りつ)()な、より(せい)()な、より()(やす)(けん)(りよく)()きかへるとか(かい)(ぜん)するとか()()()での、(おほ)きな(へん)(かく)()(たい)したり()()したりするといふのは、(かなら)ずしも()()(のう)()ではなささうである。

 (たと)へば、()(さく)(れう)や、()(だい)や、()(ちん)や、(ぎん)(かう)からの()()や、(くわい)(しや)からの(はい)(たう)なぞで、(ぜん)(ぜん)()(らう)(しよ)(とく)(せい)(くわつ)してゐる(ひと)(/″\)(ざい)(りよく)が、(けつ)(きよく)(わたし)(たち)(きん)(らう)(しや)()(はい)する(けん)(りよく)となつてゐる(しや)(くわい)(くら)べれば、かなり(けふ)()(せい)(さん)()(げふ)(おい)てでも、(けい)(えい)()(なう)や、(くわ)(がく)(てき)()(しき)や、()(じゆつ)(てき)(じゆく)(れん)(など)()つた(ひと)(たち)が、(たん)なる()(ほん)(しよ)(いう)(しや)()(じやう)(けん)(りよく)(しや)であり()るやうな(しや)(くわい)は、(すくな)くとも(こん)(にち)(わたし)(たち)にとつて、たしかに一(だん)(すみ)(ごこ)()のよい(しや)(くわい)()はれるだらうし、(また)さうした(あたら)しい(けん)(りよく)()(はい)(けい)(たい)(すゐ)()して()くやうにと()(りよく)する(ごと)きは、(けつ)して()()のない(こと)ではない。

 だが、さうした(あたら)しい(けん)(りよく)()(はい)(かく)(りつ)されるかされない(うち)に、(おそ)らくは(さら)より(のぞ)ましい(けん)(りよく)()(はい)への(えう)(ばう)(おこ)り、(べつ)()(げき)(れつ)なる(かい)(きふ)(たい)(りつ)をも(せう)()してゐることだらう。しかもかくしていつまでもいつまでも同じやうな事を新しく反覆しつづけて行くのが免れがたき人間社會の發展過程でなければなるまい

 (えう)するに、(かい)(きふ)(たい)(りつ)(また)(けん)(りよく)()(はい)は、(じん)(るゐ)(しや)(くわい)()(さい)(しよ)(ページ)から(さい)(しう)(ページ)まで、つねに(けい)(たい)(へん)(くわ)しながら()(だん)()(ぞく)する。しかも(みづか)らその()(じやう)()る一(てん)()てる(ぼん)(よう)(しや)()は、その()()(りよく)(ぼん)(よう)さの(ゆゑ)に、(あし)(もと)(かな)ダラヒを(てん)(じやう)(つき)より(おほ)きいと(かんが)へ、もしくは(にく)(がん)(えい)じない()(すう)(たい)(やう)が、()(げん)(とほ)くまで(そん)(ざい)()べきことを(おも)はない(ごと)く、(その)(ちか)(しやう)(らい)()(かい)(きふ)()(さう)(しや)(くわい)(しゆつ)(げん)するなぞといふ、オメデタイ()(さう)をもほしいままにするのである!

(すべ)ての(しう)(けう)は、()()(しう)(けう)(たい)する(たい)()(おい)ては(そう)(めい)であるが、()(ぶん)()(しん)(しう)(けう)(こと)になると(まう)(もく)である。()(ぶん)()(しん)(しう)(けう)(たい)しては、()(へん)(てき)(はふ)(そく)よりの一(ぢよ)(ぐわい)(れい)(まう)けるが、()(しう)(けう)(たい)しては、()(ぶん)()(しん)(うへ)(かつ)()(もん)としない(こと)をさへ、()(かく)()(あらそ)ふのである。

 ——これはフォイエルバッハの(こと)()であるが、マルキシズムも(また)、一()(ゑん)(ぜん)たる(しう)(けう)として、()(しう)(けう)(うへ)へあれほど()きびしく(しりぞ)けてゐたところの()(くわ)(がく)(てき)()(さう)を、(たう)(すゐ)を、(したが)つて一(しゆ)()(ヘン)(せい)を、()(はり)それらの(うへ)に、(まをし)(ぶん)なく(にん)(よう)し、(ばく)()してゐるではないか!

 その(うへ)、マルキシスト()にまで(じつ)(さい)(じやう)(もつと)(おほ)きな()(りよく)となつてゐる()(ヘン)(てき)(たう)(すゐ)が、そもそも()()なるものであつたかを()()めには、教祖マルクス()(しん)()ぎの(こと)()(じゆく)(どく)(ぐわん)()するだけで十(ぶん)であらう——

しかしプロレタリアは(その)(どく)(さい)をそんなに(はや)()めはしない。(ふく)(しう)をして()たしめよ。(あを)(ほのほ)(ごと)く、(じん)(みん)(しん)(ざう)(つらぬ)きて()かしめよ。(あか)(ほのほ)(ごと)く、××を、×を、(えん)(/\)として()えしむるところあれ。プロレタリアの()(だう)(しや)は、『(かく)(めい)(しよう)()()たとて(かく)(めい)(てき)(こう)(ふん)は、()()ゆるものではない』ことを()らねばならぬ。これの(はん)(たい)に、(この)(こう)(ふん)()()るだけ(なが)()()するやうにしなければならぬ。(のろ)ふべき()(おく)(のこ)れる、いやな(にん)(にく)(こう)(きよう)(けん)(ざう)(ぶつ)(たい)して、(おも)ひきり(げき)(れつ)な一(ぱん)(じん)(ふく)(しう)()(ほん)(しめ)すことを×めるやうなことを、(けつ)してしてはならぬ。すこしの(よう)(しや)もせず、この(ふく)(しう)()(ほん)を×はしめることに(ひと)(/″\)を××し、 これを××せしめなければならないのだ。

 と。

 ——これは(たん)()(ヘン)(てき)(たう)(すゐ)(おも)はせるだけのものではない。この(きう)(やく)(しよ)(てき)あく(つよ)(あく)(しゆ)()は、(おそ)らく(わたし)(たち)をしてともすれば、(おほい)にマルキシズムから(とほ)ざからしめるところの(もつと)(いう)(りよく)なものの(ひと)つであらう。