マルキシズムの阿片性
生田長江
原始人が生活資料の交換をやりはじめると共に、數の觀念が俄かに發達したのであり、そこに數學といふものの起原があると、單にこれだけの知識からして、今日の社會に於ける數學の意義も亦、畢竟交易商業の必要手段以上のものでないと暴斷したならば、捧腹絶倒しないものは一人もないだらう。
處が、現にマルキシズムを冠するところの似而非科學なぞでは、屡々
、宗教の原始社會的起源を少しばかり拾ひ上げて來て
、それで以て我々文化人の社會に於ける我々の宗教の意義をもつきとめてしまつたかの如き事を言つてゐるのはどうだ?
だが、マルキシズムの似而非科學性を大きく問題にするのは他日の機會に讓り、ここには宗教否定を標榜するマルキシズムが一個の粗惡な宗教であり、宗教は阿片なりと喝破するマルキシズム自體が確實に阿片性を有つてゐると云ふことを談つて見ようと思ふ。
『宗教は民衆の阿片である。民衆の幸福としての宗教の廢棄は民衆の眞正なる幸福の再擁護である』云々のマルキシズム信條は、今やマルキシズム青年の猫も杓子もによつてふり廻されてゐる。
勿論、堂塔伽藍や金ピカの法衣や袈裟なぞからのみ出來上つてゐる、現前大多數の教會的寺院的宗教だけが宗教であるならば、宗教はたしかに民衆の阿片である。民衆をして他愛もない幻想的幸福に醉はしめて、彼等を圍繞する社會的現實をありのまゝに認識することをなさしめず、その改變を要望せしめざらんとする限りに於て、まさしく支配階級に役立つてゐるだけ、それだけ被支配階級に禍してゐるところの阿片である。
總ての幇間的な存在がさうである如く、それらの教會的寺院的宗教は、例へば基督教は帝政時代には帝政時代の支配階級に迎合して、公然たる其信條をも何をも捻ぢ曲げてさへ御用をつとめ、封建時代には封建時代の支配階級に迎合して、あらゆる破廉恥の自己放棄を以て御用をつとめ、偖てブルヂョア時代には、その支配階級に迎合して、我々の眼前に見る如き迎合ぶりと御用ぶりを發揮してゐるのである。
しかも我等の見るところを以てすれば、ブルヂョア時代の次ぎの時代にも無階級の社會は來ないであらうと共に、その時代の支配階級——それがプロレタリアであるかどうかは暫く措き——に迎合するところの、そして其御用をつとめるところの宗教——それは宗教と呼ばれないで、科學とか、社會科學とか、社會主義とか或は全く別な何物とか呼ばれてゐるかも知れない!——は矢張存在するだらう。そして其時代に相應した阿片的效果を其時代の被支配階級の上に及ぼして行くことだらう。
處で、宗教が大抵の場合に於て、右の如き迎合的な、幇間的なものとして、其時代々々の支配階級に御用をつとめるのを常とするにもせよ、それらの宗教と全然別個の、むしろ正反對の態度を取る處の宗教が他方にあり得るならば、宗教は阿片なりと總括的に言ひ切つてしまうことは許されないだらう。
『世に眞實のクリスティァンは唯だ一人ゐた。そして彼は十字架の上に死んだ』といふのはフリードリッヒ・ニイチェの有名な言葉であるが、全くのところ基督教とか佛教とか云つて、教祖の名前をだけ保存してゐたところで、その教祖の精神をなくしてしまった形骸的宗教は、嚴密に基督の教とか佛陀の教とか云はれることを値してゐないのである。
少くとも我々文化人の宗教に於ては、その教祖的精神にまでさかのぼつて見た場合、支配階級に對して迎合的幇間的な態度をとつたやうなものは絶對になく、むしろ私達はその總てが何等かの程度に於て彈劾的叛逆的でさへもあるといふことを認定しなければならない。
加之、彼等教祖は暗黒に對する光明を與へるものとして、迷妄の夢から覺醒させるものとして、民衆が人生の眞實相をありの儘に見ることを妨げるどころか、專らその正しい認識へ導き入れることにこそ眼目を置いてゐるのである。
かりに教祖等が極樂とか、淨土とか、天國とか云ふやうな一つの夢を與へた(もしくは認容した)としても、其場合彼等はこれによつて民衆をより惡しき惡夢から脱却させようとしてゐたのである、其方便の目的とするところは、諸行無常諸法無我の眞實相をありの儘に認識させ、一面其眞實相に堪へ得る不畏力を養はしめ、他面其眞實相に對して忍び得ざる慈悲心を起さしめることにあるのだ。
特に私達の理解する佛教、基督教等から見れば、現實の人間社會はそれが現實の人間社會である限り、所詮、私達の滿足するやうな、私達の理想するやうなもの、即ち淨土その物、天國その物とはなり得ない。
たゞ、私達は私達の周圍の社會を、少しでも餘計により善きものにし、出來得る限りの力を盡して、一歩をでも半歩をでも淨土その物へ、天國その物へ近づけて行きたいと願望し、近づけて行かうと努力する。
そして此の如き願望及び努力のない處に、如何なる解脱や救濟への手段もなく、また此の如き願望及び努力さへあるならばその願望及び努力の内にもはや解脱や救濟が實現を約束されて居り、或る意味に於ての淨土その物、天國その物も既に建設されて居る。
敢てマルキシスト等に問ふ。私達の此の如き考へ方を宗教的でないと諸君は云ひ得るか?又、此の如き考へ方をなすところの宗教が、ありの儘なる社會的現實の認識を妨げ、從つて其實際的改善を不可能にするものであると諸君は言ひ得るか?
此の如き私達の宗教をも阿片であると言ふならば、諸君は恐らく阿片が何物であるかを全然知らないであらう。
マルキシスト等の所謂『阿片』的な宗教は、よしそれが基督の教だとか佛陀の教だとか云ふ如き、どんなに立派な名で以て自ら呼び、或は他から呼ばれてゐようとも、それは少くとも溌剌たる教祖的精神を完全になくしたもので、その單なる形骸的存在は宗教としてよりも寧ろ僞宗教として見らるべきである。
さうした僞宗教は、特に我が日本等に於ては今日の處、マルキシストなぞが直譯的な觀察で以て大騷ぎをしてゐるのに對して、むしろ既に無力過ぎる位になつて居り、私共の大きな問題とするにも足りないのであるが、兎もあれ、私達からすれば、單に阿片的であるより以上にさへ有害な僞宗教や、似而非宗教をマルキシスト等が否定したり、排撃したり、絶滅したりしてくれるならば、これほど有り難いことはない。
一方僞宗教や似而非宗教が、社會的現實のありの儘なる認識をさまたげ、その改善的努力を不可能にすると云ふやうな事實を見るとき、他方私達は、十分に高い宗教的叡智に到達しないけれども、精一杯誠實に事物を考へようとする人々が、屡々現實の此娑婆世界に理想的に完全なる社會の到來することを信ずるに至るといふ事實を見る。
そして此等の宗教的傾向をもつた近代の夢想家は、所謂空想的社會主義者としてマルキシスト等から斥けられてゐる。
だが、曾て空想的社會主義の名を冠して、無造作に斥けられてしまつてゐた社會思想も、近來の再吟味に於て強ちそれほど無視さるべきでないことを證據立ててゐる。
又、それと同時に、手續の科學的(又は似而非科學的)であるにも似げなく、マルキシズムの結論に案外非科學的、反科學的なものの多いことも亦知られはじめてゐる。
マルキシズムに對する最も峻嚴なる批評家の一人であるシンコヰッチ教授の『マルキシズムと社會主義』の中に言ふ——
末世の大審判の日近づくべしとの信仰を固く持してゐることに就いては、マルクスとその使徒とは毫も基督再誕論者と異らない。千八百五十年以來、殆んど總ての商業的不景氣の襲來は彼等によつて資本主義の終局の初めであるかの如く先觸れせられた。若し彼等ミレリテス(米國の基督再臨論者)のやうに此出現の日を迎ふるに、白い羽衣を着飾らなかつたとすれば、それは彼等の經典が異つてゐたからである。彼等は各國のプロレタリアに『用意せよ』との通諜を發した。千八百九十三年國際社會主義者大會は、次の決議を通過した。『經濟的工業的發達は、刻々進行し、恐慌の襲來將に近からんとす、本大會は爰に各國に於けるプロレタリアが、階級意識に目覺めたる市民として、共通善に對し、その各自の國を如何になさんかを知得するの緊要なるものあるを告ぐ』と。‥‥さりながらマルクス主義者の豫言しつゝあつた其焦眉の大變革は、其後の六十年の間には起らなかつたといふ事實のみ、そのままになつてゐる。實際彼等は何故それが延期されてゐるのかを説明しなければならない時であつた。基督再臨論者は何時も失望した。その度毎に彼等はそのダニエル書と默示録との解釋を訂正したのである。
此場合、マルキシスト等の豫言が今以て中らないでゐるといふやうなことを強調するのは、私達にとつてそれほど興味のあることではない。私達はたゞ、彼等が地上天國の出現を少くとも餘り遠からぬ將來に希望し期待してゐる點に於て、彼等の冷笑する空想的の社會主義者なぞの非科學性に、相讓らないほどのものを有つてゐることを言ひたいだけである。
近々の内に、所謂社會革命が成就すれば、或はそのあとにどれだけかの、數十年又は百數十年かの過渡期をすぎて共産主義が完全に實現されるに至れば、人類社會から一切の階級對立がなくなり、一切の權力支配がなくなる——といふのは、總てのマルキシストの例外なく信じてゐるところの根本信條である。彼等に共通する最も幸福なる夢想的遠望の一つである。
斯うした夢想的遠望が、自ら『科學的』を誇りとするマルキシストのものであるとは、實に驚くべき事實ではないか?
佛蘭西の大革命の頃、あの革命家達は、封建制度の根柢的に破壞された後にも、所謂第三階級が完全に解放された後にも、尚ほ無産階級の、自由、平等、博愛の理想社會が出現しないと云ふことを、どうして豫想し得たらうか?
丁度その如く、マルキシスト等はプロレタリア革命が成就したあとに、尚ほ依然として階級對立があり、それに原づくあらゆる社會惡の殘存するかも知れないと云ふやうなことは、假裝だもなし得ないやうに見えるではないか?
處で、所謂階級對立、もしくは權力支配は人類の社會に於てそもそも何時からはじまつたのであるか?アダムとイブとが樂園を逐はれない以前の事は暫く措き、我々の科學的な推定と現實的な認識との遡り得る限りに於て、そもそも何時の世の何處に何等の階級對立もない、何等の權力の支配しない人類社會といふものがあり得たか?
殆んど限りなく遠い過去から人類社會に伴つて存在したらしい——この事は誰よりもマルキシスト等が一番よく知つてゐる筈である——階級對立または權力支配が、千九百何十年か、乃至おそくともそれから何百年かの後に、プロレタリア革命といふ一個の奇蹟的事件の勃發と共に、綺麗に此地上から跡をたつてしまふといふやうなことが、そもそも可能事として考へられるといふのか!
そして、これが『科學的な』社會主義者の、唯物辯證法的に把握された社會認識であるといふのか!
しかも一切の社會惡の根原を權力支配または階級對立の事實にのみ置くマルキシスト等からすれば、權力支配のない、階級對立のない各人自由にして平等なる社會は、いかなる社會惡の殘存をも考へさせないところの理想郷であることを思へ!今から餘り遠からぬ將來に於て、一日突然、人類社會のそれまでの辯證法的發展がその發展を停止してしまふといふやうな、彼等自身の立場に照らして實に奇怪千萬なる事を考へたものではないか?
私達の見る處を以てすれば、曾て或る者は獅子の百獸を支配する如くして支配した。又或る者は、妖術者の愚民を支配する如くして支配した。更に或る者は、これらの支配者を兼ねる者として支配した。
我々の眼前の社會では、主として財力に土臺を置いた、組織的な、科學的な武力の所有者が支配者となつてゐる。
支配するところの權力は、それぞれの社會に於て種々さまざまである。歴史的に見れば變遷推移があつたとも云へる。進化論者に云はせれば、權力そのものが次第に進化して來てゐるだらう。
支配するところの權力の性質が、今後もこれまでと同じく變遷推移し、乃至進化し得るものとしたならば、財力に土臺を置いた、組織的な、科學的な武力といふやうな現前の社會的支配力が、いつまでも我々人類の間に支配力として存續すべしとは想像しがたい。
又、人類生活の現状が其下り坂へかかつてゐるのでなくて、寧ろまだまだ上り坂にあるのだとしたならば——私自身は此點に於て餘り樂觀主義者ではなくなつてゐるのだが——現在の粗惡な支配的權力を、どれだけかより立派な、より精緻な、より堪へ易い權力に置きかへるとか改善するとか云ふ意味での、大きな變革を期待したり企圖したりするといふのは、必ずしも不可能事ではなささうである。
例へば、小作料や、地代や、家賃や、銀行からの利子や、會社からの配當なぞで、全然不勞所得で生活してゐる人々の財力が、結局私達勤勞者を支配する權力となつてゐる社會に比べれば、かなり狹義の生産事業に於てでも、經營の頭腦や、科學的知識や、技術的熟練等を有つた人達が、單なる資本の所有者以上の權力者であり得るやうな社會は、少くとも今日の私達にとつて、たしかに一段と住心地のよい社會と云はれるだらうし、又さうした新しい權力支配形態へ推移して行くやうにと努力する如きは、決して意義のない事ではない。
だが、さうした新しい權力支配が確立されるかされない内に、恐らくは更により望ましい權力支配への要望が起り、別個の激烈なる階級對立をも招致してゐることだらう。しかもかくして、いつまでもいつまでも同じやうな事を新しく反覆しつづけて行くのが免れがたき人間社會の發展過程でなければなるまい。
要するに、階級對立又は權力支配は、人類社會史の最初の頁から最終の頁まで、つねに形態を變化しながら不斷に持續する。しかも自らその途上に或る一點に立てる凡庸者等は、その理智力の凡庸さの故に、足下の金ダラヒを天上の月より大きいと考へ、もしくは肉眼に映じない無數の太陽が、無限に遠くまで存在し得べきことを思はない如く、其近き將來に無階級の理想社會が出現するなぞといふ、オメデタイ夢想をもほしいままにするのである!
總ての宗教は、爾餘の宗教に對する態度に於ては聰明であるが、自分自身の宗教の事になると盲目である。自分自身の宗教に對しては、普遍的法則よりの一除外例を設けるが、他の宗教に對しては、自分自身の上に曾て疑問としない事をさへ、兎や角と言ひ爭ふのである。
——これはフォイエルバッハの言葉であるが、マルキシズムも亦、一個の宛然たる宗教として、他の宗教の上へあれほど手きびしく斥けてゐたところの非科學的な夢想を、陶醉を、從つて一種の阿片性を、矢張それらの上に、申分なく認容し、暴露してゐるではないか!
その上、マルキシスト等にまで實際上最も大きな魅力となつてゐる阿片的陶醉が、そもそも如何なるものであつたかを知る爲めには、教祖マルクス自身の次ぎの言葉を熟讀玩味するだけで十分であらう——
しかしプロレタリアは其獨裁をそんなに早く止めはしない。復讐をして勝たしめよ。青き焔の如く、人民の心臓を貫きて行かしめよ。赤き焔の如く、××を、×を、炎々として燃えしむるところあれ。プロレタリアの指導者は、『革命が勝利を得たとて革命的興奮は、直ぐ消ゆるものではない』ことを知らねばならぬ。これの反對に、此興奮を出來るだけ長く保持するやうにしなければならぬ。呪ふべき記憶の殘れる、いやな人肉や公共建造物に對して、思ひきり激烈な一般人の復讐の手本を示すことを×めるやうなことを、決してしてはならぬ。すこしの容赦もせず、この復讐の手本を×はしめることに人々を××し、
これを××せしめなければならないのだ。
と。
——これは單に阿片的陶醉を思はせるだけのものではない。この舊約書的にあく強き惡趣味は、恐らく私達をしてともすれば、大にマルキシズムから遠ざからしめるところの最も有力なものの一つであらう。