法律解釋學の神學性はいかにして始つたか

栗生武夫

   目次

        一

 十九世紀の輝ける神學者Schleiermacher(1768--1834)の全集のなかに、『解釋の觀念について』(Ueber den Begriff der Hermeneutik)と題する・秀れて美しい小品論文を見出す。それは聖書や文學書の解釋の方法に關して述べたものであるが、著者の敏感は、文學書解釋の方法と法律解釋の方法との間に、或相異點の存することを見逃すわけにいかなかつた。そして著者は法律解釋學の特質を規定して、次のやうにいつたのである——

 『法律の解釋は文學書の解釋と同一ではない。法律の解釋は法律の範圍の確定(Bestimmung des Umfangs der Gesetze)を仕事にする。すなはちそれは或條規のなかに明確には包想されてゐない場合に對して、その條規がどんな關係に立つであらうかを決定せんとつとめるものである<[#註(一)]』

一 Schleiermacher, Ueber den Begriff der Hermeneutik mit Bezug auf T. A. Wolfs Andeutungen und Abts Lehrbuch. Sämtliche Werke, 3. Abt. 3 Bd. S. 347 Anm.

 この句は、寸鐵よく文藝解釋と法律解釋との相異點をいひ破れるものとして、Radbruch氏の感嘆せるところのものであるが[#註(一)]、いかにもこの句のいつてゐるやうに、法律解釋と文藝解釋とは『同一でない』のである。文藝解釋は作者の現實に思念してゐた意味を把捉しようとする。作者の眞實の内的經驗へ觸れようとする。もちろん解釋の對象として或作品を選ぶのは、その作品に美を感じ價値を認めたればこそであらうが、だからといつて文藝の解釋家は故意に作品を美化し完全化して見ようとはしない。彼はたゞ作品の中に包藏されてゐる意味をそのままに把握し抽出しようとし、又それだけで滿足するのである。

一 Radbruch, Gruntzüge der Rechtsphilosophie 1. Aufl. S. 193.

 しかし法律の解釋の方はさうではない。解釋家は立法者の思念してゐた意味をそのままには把捉せず、それに或程度の加工を施し、時とするとかなりの變更を加へることさへ辭せぬのである。簡單な條文を一變させて深遠詳密な意味體系に轉化させてしまふことさへないではないのである。けだし法律は文藝のやうな鑑賞の對象ではなくして生活の規範である。われらは生活において湧き上り、群がり興る大小無數の問題を法律の前へもち出し、その解決を求めるのである。法律としては、それへの答を豫ねてから貯へてゐる場合もあらうし、さうでない場合もあるであらう。さうでない場合にも法律は答へざるをえぬのである。『裁判所は法律を知る』。彼は答を回避するわけにはゆかぬのである。よつてここに、法律の内容をその原意以上に豐富にし完全にしようとする作業が開始される。それが法律の解釋である。法律の解釋は立法者の思念してゐた原始的意味を詮索しようとするものではない。法律の内容を事件の妥當なる解決に堪へうる程度にまで、豐富化し精密化しようとするものなのである。だから一言以て法律解釋と文藝解釋との相異を指摘してみれば、文藝解釋は對象の中から意味と生命とを汲み出さうとする作業であるが、法律の解釋は對象の中へ意味と生命とを吹き込まうとする仕事である。一は中からの意味抽出、他は外からの意味賦與——ここに摩すべからざる兩者の相異が横はるのである。Schleiermacherが、『法律の解釋は或條規のなかに明確には包想されてゐない場合に對して、その條規がどんな關係に立つであらうかを決定せんとつとめるものである』といつたのは、法律の意味内容が外界との關係に應じて絶えず移動するものなることを道破せるもので、Radbruchの感嘆したごとく、たしかに一の卓見であつた。

 しかし法律解釋の意味賦與的性質は法律解釋學者自身のとかく看過する所である。彼等は通常かう考へる——『解釋の結果、法律の意味内容が豐富化され圓滿化され合理化されたとしても、それは解釋が新しい何ものかを法律の内容へ持ち込んだためではない。解釋は法律の深底に初めから藏されてゐた豐富な圓滿な妥當な意味を明るみへ抽出したに過ぎぬのである』と。すなはち解釋に法律變更の力あることを解釋家は容易に認めようとはせぬのである。けだし彼等には一の信仰的前提がある。彼等は法律秩序の完全性を信仰的に豫定してかう構想してゐるのである——『法律には不明・不當・缺陷等々の缺點はない。一見するとこの種の缺點存するかのやうにも見えるが、それは表見上のことに過ぎない。それはいはば鏡上一片の浮塵である。浮塵を一拭すれば鏡の圓滿な光りが發揮されるやうに、表見的諸缺點を除去すれば法律の圓滿な眞の姿が現はれる。解釋は法律の表見的諸缺點を除去するだけである。新しい意味を外から賦與する作業ではない、やはり内なる意味を外にひき出すだけの作用である』と。實は彼等も法律に不明・不當・矛盾・重複・缺陷の諸缺點の存することをよく知つてゐるのであるが、知つてゐればこそ種々の解釋技巧を操つて諸缺點を除去しようともしてゐるのであるが、彼等の信仰心が彼等の作業の性質の率直なる承認を妨害してゐるのである。法律秩序は完全だと信仰的に前提してゐるがゆゑに、法上の諸缺點は表見的のものに過ぎぬと公稱せざるをえないことになるのである。

 かやうに法律の完全性を信仰的に豫斷して然るのち解釋作業にとりかゝるやうな態度をわたくしは神學的態度といひたい。なぜかならかかる解釋態度は神學殊に聖書の解釋學において最も顯著に示されてゐる所のものであるからである。

 けだし聖書の宗教生活におけるはなほ法律の社會生活におけるがごときものありといつてもいいであらう。われらは社會生活上のありとあらゆる紛爭を法律の前へもち出して法的解決をまつが、それと同樣に、宗教生活上のありとあらゆる苦惱煩悶を聖書の前へもち出して宗教的解決を求めるのである。よつて聖書は自己の前へ提出されてくる各種の難問苦問に應答すべく、自己を相當に深遠化させ豐富化させておく必要を感じるが、聖書解釋の場合には、どうしても聖書の不明・不當・矛盾・缺陷等を認めるわけに行かない。聖書は神の啓示であるからである。ゆゑに聖書の解釋においては、聖書の完全圓滿性を前提としつつしかもその不明・不當・缺陷を除去しなければならぬといふ苦境に立つ。唯一の逃路は、その不明・不當・缺陷等々が單に表見的のものに過ぎぬと見るより外はないのである。解釋の結果、簡單な聖書の文句が深遠悠久な意味内容に一變してしまふ場合が稀ではないが、この場合にも解釋家は解釋家の手で聖書の内容を改變したとはいはない。初めから聖書の内部に、解釋の成果と同一のものが包藏されてをり、解釋家はそれを明るみへひき出したに過ぎぬと公稱するのである。

 かくのごとく法律學者の法律に對する態度と神學者の聖書に對する態度との間には、類似性の否定すべからざるものが存するのであるが、何故かこの事は久しく學者の注意に上らずに來た。余の寡聞なる、未だ法律學の神學性について論じた文獻を殆ど發見せぬのである。斷片的には、なるほどEngelsがいつてゐる——

 『法學的世界觀は神學的世界觀の俗界化である。教義や神の法やの代りに人間の法が、教會の代りに國家が、登場した[#註(一)]』

一 Engels, Juristen-Sozialismus. Neue Zeit 1887, 49 fg.

 Radbruchもいつてゐる——

 『聖書が外來の問題に答へる必要上からその意味を取るやうに、法律の意味も外來の問題に答へる必要上から規定される。聖書の解釋者が作者の思念してゐたよりも多量の意味を聖書からひき出さねばならぬやうに、法律の解釋者も作者の思念してゐたよりも多量の意味を法律の中からひき出さねばならぬのである。而してこれをなすについては、兩者とも解釋對象の明瞭性・完全性・圓滿性を前提して仕事にかゝる[#註(一)]』

一 Radbruch, Gruntzüge der Rechtsphilosophie 1. Aufl. 183, 193, 207; 3. Aufl. 110 fg.

 かやうに解釋法學と神學との間の類似性は何としても疑ひえぬ所であるが、問題はこれが解釋法學の先天的運命であるかどうかである。解釋法學たるかぎりどうしても神學性を脱しえざる運命にあるのかどうかである。吾人の見るところを以てすると、法律解釋學の神學性は必ずしもその先天的運命ではない。少くともそれの神學性の程度は時代によつてその度を異にするのである。即ち顯著にこの性格を示す時代と稀薄にしかこの性格を示さぬ時代とがあるのである。でいまわたしは法律解釋學の神學性を時代順に研究して見たい。そしてできることなら、何故にある時代の法律解釋學が顯著に神學性をとるのかの原因をも考へてみたい。

        二

 ローマ法が生氣最も溌剌たる發育を遂げたのは共和政治の末期であり、Jheringもこの時期をローマ法史上の赫灼期と稱してゐるが、かかる時代を現出させえたのは主として學説の力であつた。學説は當時のローマ社會に新しい法律を供給する原動力であつたのである。裁判官は大なる敬意を學界の通説即ちいはゆる『諸學者共通の意見』(comunis opinio doctorum)へ拂ひ、事實上これを基礎として事件を處理した。そして遂にそこに、學説を事實上の淵源とする所の一聯の判例法を發達させた。ローマ法にいはゆる『固有の市民法』(proprium jus civile)とはかかる判例法に外ならないのである。Pomponiusもいつてゐる——

 『十二表法の制定後、漸次學者による解釋の必要を生じたるが、學者によつて作られし不文の法を市民法といふ』(Pomp. D. 1, 2, 2, 5)

 十二表の法律が、その制定後における大なる社會變革をふみ越えて永久にその法的權威を保持しえたゆゑんのものは、別にかやうな學説を淵源とした不文法の體系があり、よくそれが十二表法の缺陷を補ひ、嚴格を柔め、古陋を彌縫してくれたがために外ならなかつた。學説的不文法こそ十二表法の補充法ではあつたのである。

 帝政期に入つてからも初めの間は學説の法源的價値の大した下落を見せなかつた。なぜかなら初期帝政の皇帝たちは、彼等の御代を飾る大法律學者たちにいはゆる『帝威に基いて公に解答しうる權利』(Jus publice respondendi ex auctoritate principis)を賦與し、この權利をもつ學者すなはちいはゆる勅許法律學者は、具體的事件につき、裁判官を拘束する力ある解答をなしうると定めたからである。共和時代にあつては學者の意見は事實上裁判官を指導しえただけであつたが、今ではそれが帝權の庇護の下に法律上裁判官を拘束するだけの力となつたのである。換言すれば解答即法律となつたのである。裁判官を拘束する點においては解答は法律と差別なかつたのである。だからGajusはいつてゐる——

 『法學者の解答とは法律解釋の特許を與へられたる學者の斷案及見解をいふ。これらの諸説の互に一致してゐるものは法律の效力を有し、裁判官を拘束せり』(Gajus, 1, 7)

 共和の末葉から帝政の初期へかけて、學説の有した法源的價値は右のやうに絶大であつたが、では學説は制定法に對してどのやうな態度をとつたか、それは制定法の不完全性を率直に認め、學説を以て制定法以外に新法規の一系統を創出しようとする態度に出たか、或は又制定法をあくまでも不動の本位におき、外部からこれに新しき意味と生命とを附加しようとする態度に出たが、次にそれを見よう。

 もちろんローマの學者は、法律解釋の方法につき體系ある理論は立ててゐない。がしかし斷片的には諸所に彼等の解釋態度を示してゐるのであつて、例へばCelsusは、

 『法は正義衡平の術なり』(Ulp. D. 1, 1, 1)

 といつたが、これは法の本質に關する彼の見解の披瀝であつたと同時に、法律解釋の方針に對する彼の態度の聲明でもあつたと見られうるであらう。Celsusは又、

 『法の文言を知れるを以て法を知れりとなすべからず、法の意味精神を知れるを以て法を知れりとなすべし』(Cel. D. 1, 3, 17)

 ともいつてゐるが、これは法の精神がいかに彼にとり主要であつたか、法の文言がいかに彼にとり枝葉的であつたかを示してゐると見て差支ないであらう。

 Modestinusもいつてゐる——

 『文言には然々となれども、精神上然らざる場合多し』(Modestin. D. 27, 1, 13, §2)

 彼にとつても大切なのは精神であつて、文言ではなかつたのであつた。Paulusに至つては最も明瞭にいふ——

 『凡そ法においては衡平を考慮せざるべからず』(Paul. D. 50, 17, 90)

 彼から見ると、衡平(aequitas)の思想・條理(ratio)の觀念が法律解釋の根本指針でなければならぬのであつた。彼は又、

 『文法的にいかに正しくとも、衡平の要求に反する解釋は法文の故意的曲解なり』(Paul. D. 10, 4, 19)

 とさへいひ放つてゐるのである。

 Ciceroもいつてゐる——

 『衡平を説けば法の解釋となる』(Rep. 5, 2)

 Constantin大帝もいつてゐる——

 『正義衡平に對する尊敬は、制定法に對する尊敬の上にあらざるべからず』(Constantin. C. 3, 1, 8)

 かやうに解釋の方針に關してローマ人のいつたところのものを綜合してみると、いかに『衡平』が、いかに『條理』が、彼等の解釋技術(Auslegungskunst)であり、解釋原理(Auslegungsmaxime)であつたかを知りうるのである。彼等は決して制定法を本位におきその内容を解明し確定することを以てその仕事とはしてゐなかつた。むしろ或意味において制定法を輕視し、學説を以てこれを擴張し修正することを仕事としてゐたのである。衡平に照らし條理に鑑みて制定法の缺陷を補ひ、不當を去ることを仕事としてゐたのである。それゆゑに制定法の意味が一義的に明瞭だつた場合にも、解釋の必要はなほ存したのであつて、現にUlpianusのごとき、

 『法務官の告示の意味が明瞭なる場合にも解釋の必要はなほ存す』(Ulp. D. 25, 4, 1, §11)

 といつてゐるのである。制定法の修正が眼目であつたから、制定法の意味が明瞭だつた場合にも解釋の必要は存したわけだ。

 近代におけるローマ法の研究者たちも、ローマ人の解釋態度の自由であり、創造的であつたことを通説的に認めてゐるのであつて、例へばSavignyはいふ——

 『ローマ人の解釋は、往々、解釋の限界を越えて法の修正となつてゐる。今日のわれらよりも彼等ははるかに大なる解釋の自由を享受してゐたのである』(Savigny, System des huetigen römischen Rechts I, 297 fg.)

 Puchtaもいふ——

 『われらは今日、制定法の意味内容を確定することを解釋といつてゐるが、ローマ人は成文法へ不文法を加へ、此によつて彼を補正することを解釋といつてゐた。彼等は成文法の言語的意味に囚はれず、立法者の原始的意思にも拘束されず、むしろ自由なる解釋の作用によつて制定法の規定と生活の實際的必要とを握手させることを仕事の目標としてゐるのである』(Puchta, Institutionen I. 316 fg.)

 Kippもいつてゐる——

 『ローマ人の解釋は衡平の要求に合するところの新しい法を育成させるために行はれた。解釋は法と衡平とを握手させるための媒介者に外ならなかつた』(Kipp, Geschichte der Quellen des römischen Rechts 4. Aufl. S. 8)

 Kissもまたいふ——

 『ローマの學者は論理上法の意味はかうだとか、立法者の意思はかうだとかいふだけでは滿足してゐられなかつた。彼等は論理解釋の成果を衡平の試金石で檢したのである。彼等にとつては、法規の論理的意味に從ふことよりも、一般の福利に合する結論をうることの方が、肝要であつたのであつた』(Kiss, Jherings Jahrb. 58, S. 431 fg.)

 最近ではBruckが次のやうにいふ——

 『ローマ人は制定法に對して非常に自由な態度をとつてゐた。彼等は制定法が何を規定してゐるかを見るよりも、むしろ當事者の利益が實際上いかに衝突してゐるかを認識し考察しようとしてゐた。法律形式(Rechtsformen)よりも生活形象(Legensgebilde)を彼等は見ようとしてゐたのである。解釋の名において彼等は新しい法規を發見して行つた。大なる自由を以て衡平の觀念に合する法規を創造して行つた。彼等の活動は法の適用(Rechtsanwendung)に存せず、むしろ法の創造(Rechtsschöpfung)に存したのである。ローマ法の精神はその方法の自由法學的だつた點に存した』(Bruck, Römisches Recht und Rechtsschöpfung der Gegenwart 1930, 21 fg.)

 Bruckはまたこんなふうにもいつてゐる——

 『ローマ人は判斷の過程よりも判斷の結果を重んじた。條文を解いたりほぐしたり結び合せたりしながら、とぼとぼと結論へ辿りついて行つたのでは決してない。一種の政治家的達見を以て妥當な結論を直觀し、端的に判斷を下して行つたのである。その結論の妥當さにも似ず、その論斷の過程は甚だ疎略であつた。現時イギリスの法律家たちがさうしてゐるやうに、彼等も屡〻理由を示さずに直ちに“yes”“no”を答へたのであつた』(Bruck, a. a. O.)

 右のごとく共和の末期・帝政の初期、絶對帝權の思想の未だ起らざる時代には、制定法の自足完了性を信仰し豫斷するやうな思想は少しも出現してゐなかつたのであるが、三世紀の半に及んでローマの法律史は一大轉回を行ふこととなつた。それはDiocletian及Contantinの二帝が、ローマのために完全な政體轉換を敢行してしまつた結果であつた。二帝出づるまでのローマは君主政にして君主政にあらず、共和政にして共和政にあらず、いはば二政體の複合であつたが、二帝によつて共和政治の殘骸は洗ひ落され完全なる絶對專制主義の國家とはなつたのである。あらゆる國家權力は皇帝の意思から流出することとなつた。司法も立法も行政も皇帝の意思から流出することとなつた。いな皇帝は神とまでなつてしまつたのである。帝冠を頂き帝服を着け、『聖字』を冠せらるる皇居(sacrum palatum)に住み、『聖字』を冠せらるる勅法(sacre constitutiones)を發する・現身のDeus神と成り變つてしまつたのである。

 法律學もこの期に入ると根柢的な變化を受けた。即ちかの勅許法學者の解答權の制度が全く廢止されてしまつたのであつたが、もちろんこれは民間の學者に裁判所を拘束する解答權を認めておくのは、皇帝の裁判權の神聖性と相容れないとする見解からであつた。

 大帝Constantinは三一六年十二月三日、一の勅法を發して、

 『解釋の名において衡平の要求に從ひ制定法の不備を補充するは、朕自身の權利にして他者の容喙を許さず』(Constantin c. 1, 4.)

 と宣言されたのである。

 ではこの期の學者は法律に對してどんな研究態度をとるに至つたかといふと、ちやうどそれは共和末の學者とは對蹠的な行方であつた。共和末の學者は法の文言よりも社會の規範意識を本位に取り、社會規範に一致させて法律を意味づけ内容づけてゐたのであつたが、帝政末の學者は自分自身を全く法律の下に屈服させてしまつたのである。法の文言を尊重し文言上の意味を以て意味なりと見るやうになつたのである。いはゆる文理解釋の方法がこれである。次に彼等は『立法者の意思』又は『法律の意思』を基準に取り、これから推理して法律の意味内容を確定しようと試みた[#註(一)]。いはゆる論理解釋の方法がこれである。そして論理上の解釋と文理上の解釋とが一致せぬ場合には、論理上決せられたものを基準に取上げ、これに依つて文理上決せられたものをより明かに意味づけたり、よく廣く意味づけたり、より狹く意味づけたりしたのである。文理上不明なものを論理の上から一層明かにする場合を宣言解釋(interpretatio declarativa, declarans)といひ、文理上狹いものを論理の上から一層廣く意味づける場合を擴張解釋(interpretatio extensiva, extendens)といひ、文理上廣いものを論理の上からわざわざ狹く意味づける場合を縮小解釋(interpretatio restrictiva, restrigens)といつた。又彼等はいはゆる類推(analogia)の方法を用ゐた。けだしローマの法律には指令(reskript)の形ちで發しられたもの、即ち皇帝が特定の官吏に對して斯く斯くの事件は斯く斯くの方法で處斷すべしと命じた形ちのものが多かつたから、どうしても類推の作用によつて一の場合に關する規定を同種の場合に準用する必要があつたのであつたが、しかし概言すると、この期の學者は類推の使用については特に謙抑な態度を示したのであつた。少くとも類推の名の下に新しい法規を創造したり、豫想を越えた處分をなしたりすることは嚴にこれを避けたのであつた[#註(二)]。

 降つてユ帝の時代となると、帝は人も知るごとく法典に對する解釋を禁じて、ただ法文の要約と關係條文の蒐集とラテン法文をギリシャ語に譯すこととを許したのであつたが[#註(三)]、想へばこれも突發的なる現象ではなかつたのであつた。帝政以來、年と共に高まりつつあつた傾向、即ち皇帝の命令を絶對神聖視し、これに屈服しこれに抑壓され、皇帝の意思の内容を知ることのみを以て能事了れりと觀念するに至つた學的傾向の、益々進んで極點にまで達せる姿には外ならぬのであつた。

 帝威の顯揚・帝權の確立と共に、法律學が帝王の立法を絶對神聖視せんとする神學的傾向を示すに至るといふことは注意すべき事象ではないだらうか。しかしこれについて輕率な理論を立てる前に、史的敍述の筆をわれらは一層前方へ展開せしめなければならない。

一 ローマ人の論理解釋は立法者の意思を基準にした論理解釋であつたか、法律そのものの意思を基準にした論理解釋であつたか、やや明瞭を缺くが、いづれかといへば立法者意思説に傾いてゐたであらう。(Vgl. Thibaut, Theorie der logischen Auslegung des römischen Rechts 1799 S. 10 fg.) 二 Thibaut, Theorie der logischen Auslegung des römischen Rechts S. 113 fg. 三 Const. deoa uctore §§12, 13; Const. tante §21.

        三

 すでにローマ人の解釋態度を見終つたわたくしは、眼を中世へうつして、中世前期——ここに中世前期とは十一世紀末までをよぶ——の學者の解釋態度を檢討しなければならないが、夕暗の空にも似たる寂しい當時の學問の空に二つ三つ星のごとくに懸つてゐたのは、(一)イタリイのRavennaの法律學校。(二)やはりイタリイのPaviaの法律學校。(三)東方のConstantinopelの法律學校。——わづかにこの三つ位のものであつた。これらの三つの學的光星が各〻どんな解釋態度を示したかを左にのべて見ようとするのである。

 Ravennaの學者の解釋態度を見るに、この學校の教師たちの、制定法に對する態度を知るための基礎史料は、十一世紀の半頃同地で編纂された通稱Exceptiones Petriといはれる法律書である。これは同地の學者Petrusが、さる地方領主のために、裁判上の參考書として作つたもので、その卷頭の序文には、次のごとき注意すべき一文が掲げられてゐるのを見るのである——

 『法律の現状においては、不備不當の規定あまりにも多く、斯學の智識を修得せる者でさへも、事案に對して決定的判斷を下し難い場合少くない。よつて著者は判決及辯論の成果のなかから、自然法及人定法の法理に合したもののみを拾つてここにこの一書を成す。著者は法律中の不使用に歸せる規定・廢止に遭ひたる規定・若くは衡平の觀念に反する規定をば、躊躇するところなく踏みにじつて進んだ。著者は領主閣下にささぐるに、新たに發見されたる若くは忠實に保存されたる眞理のみを以てする。この書を閣下の裁判審理と法律起草とに使用されることによつて、庶幾くは閣下が一切の不當と非難とから免れられ、正義のために、閣下の尊嚴のために、上帝の稱讚のために、何事も輝しくなるであらうことを』と[#註(一)]。

一 右のExceptiones Petriの序文のラテン原文は、Geschichte d. röm. Rts. im Mittelalter II. S. 321においても、Fitting, Juristische Schriften S. 151においても見られうる。

 見よ、そこには現行法制の完璧性に對する信頼などは微塵もないではないか。反對にそこには現行法制の不備不當を單純に認める率直さと、大いにそれを修正してやらうとする傲つた心とが、逞しく波打つてゐるのを見るではないか。われわれはRavennaの學者から、ローマ人からと同樣の、いなそれ以上の改革精神を、熱いばかりに感じるのである。

 されば中世法律學の研究家Fittingはいふ——

 『Ravennaの學者たちは、かの法規創造の權利を認められてゐたローマの法律家の後繼者を以てみづから大いに任じてゐた。全く自由な方法を以て既存の法規を改變することができ、新しき法規を創造することができ、内的なる正義の要求を直ちに法として通用させることができるものだと信じてゐた』(Fitting, Anfänge der Bologna S. 117)

 實際又Exceptiones Petriの著者は、書中屡〻著者自身の創造にかかるとしかおもへぬやうな規定をも掲げてゐるのであつて、例へば、

 『原告が被告の裁判所へ出頭せざるを怒つて、自力で被告の動産・不動産を差押へ、家を燒拂ひ、葡萄畑を荒し、木を切倒したとしても、罪とはならぬ』(Excep. Petri IV. 7)

 などといつてゐるが、かやうな規則はローマ法には見當らない。どうしてもそれは著者自身が、公權力の保護なかりし中世初頭の社會状態に鑑み、また自力救濟を認め來つたゲルマン古來の慣行を案じて、みづから立てた・著者のいはゆる『新たに發見された眞理』であつたとしかおもへぬのである。

 結局Ravennaの學者はローマ的解釋態度の後繼者であり、法律の完璧性に對する懷疑主義者であり、解釋上の自由主義者であつたと見ることを至當とするのである。

 次にPavia學者の解釋態度を見ると、Paviaの法律學校は前出Ravennaの法律學校がローマ法の學校であつたのに對してロンバルド法の學校であつたが、そこの學風は、十一世紀の半を劃線として『古學』と『新學』との二派に分れるといはれてゐる。古學の方は未だ法律解釋學にはなつてゐなかつた。なぜかなら古學はロンバルド古來の法源を蒐集し分類し、便利な法源集を編成することを以て仕事の目的としてゐたに過ぎなかつたからである。Walcasus, Bonifilius等は『古學者』(antiqui)に屬する。彼等は單なる『法律上の博識家』にして、某年某月、王某・皇帝某が某の法律を出したといふやうなことを諳んじてゐたに過ぎなかつた。

 眞正の解釋學は十一世紀の後半に興つた『新學』に始るのであるが、新學の特色を知る基礎史料は、後に同地で『Pavia學者の學説彙纂』として結撰されたExpositio ad librum Papiensemなる書物である。そしてそのなかにわれわれは次の一句を見出すのである——

 『法律のなかに答を見ざる新問題に逢著せる場合には、萬人の普通法たるローマ法によりて決すべし』(Expos. ad Guido c. 5)

 この句はやはりロンバルド法自身の不完全性・不充分性を端的に自認してゐるのである。その制定法觀において、Ravenna學者と何等異るところのないのを見るのである。

 『新學者』(moderni)の錚々たるものをLanfrancusとする。かれは古學の破壞者であり、新學の創建者であり、彼を出發點として新學は發生したのであるから、彼を知るは新學を知るゆゑんともなるのである。よつて、わたくしはLanfrancusの解釋態度を知るために、Expositioのなかから一二の例を引いて見ると、第一は公正證書の眞僞の決定方法に對する一法條への彼の解釋である。その法條にはかうある——『公證人及立會人共に死亡せる後において公正證書の眞僞が爭はれたる場合には、當事者は十二人の保證人を立つることによりて、その證書の眞實性を立證することを得』と。この條文を解釋してLanfrancusはいふ(Expos. ad Guido c. 5)——十二人の保證人を立てさへすれば形式的に、證書の眞實性を立證することができるといふごときは、まことに『嫌ふべき慣習』(mos detestabilis)である。かかる反良俗的條規には法としての效力を有せしめてはならない。法としてそれは無效であると。勇敢にも彼は右條規の拘束力を否認してゐるのである。けだし保證の制度は、僞證の弊などの全くなかつた古代においては存在の意義もあつたれ、その弊のすでに生じつつあつたLanfrancusらの時代には、著しく不當のものとなりつつあつたので、彼はこの制度の絶滅を期しつつ、上のごとくに註釋したのであらう。そこにやはり制定法改革の精神の鋭い現はれが見られるのである。

 第二は重婚の問題に關してである。Lanfrancusは一の疑問を掲げていはく——『夫が第一の妻をして修道院に入ることを餘儀なからしめた後、第二の妻を娶つたとすると、その場合に、夫の遺産に對して1/4の相續權をもつのは第一の妻か、第二の妻か』と。而して彼はみづから如上の疑問に答へていはく——『原則としては修道院入りは婚姻解消の原因なれども、夫から入院を餘儀なくされたやうな場合には、入院には婚姻解消の效果なし。從つて問題の場合に1/4の相續權をもつは第一の妻にして第二の妻にあらず、第二の妻は法律上の妻にあらざるなり』(Expos. ad Guido c. 8)と。これもLanfrancusが、衡平の理念のために——婦人の地位の向上のために——成文規定を改變させようとしてゐた證示と見ることをうるであらう。

 要するにPaviaの學者も、Ravennaの學者と同樣、『解釋の要は實際生活上の需要を考へて制定法を修正したり、新しい法規を創造したりするところにこそある』と見解してゐたのであつた。

 終りに見らるべきはConstantinopelの學者の解釋態度であるが、これについては、わたくしは前に屡〻詳述の機會をもつたので、それをここに再びしようとはおもはない[#註(一)]。ただ一言、簡單にいひ添へておくならば、ビザンチンの學風の特色を形成した研究方法は『拔萃書』の作成であつた。多種多樣の古法源のなかから學者が見て以て時代の要求に合すとするもののみを拾つて一書と成し、多少の説明をも加へて世上に提供するといふやり方であつた。epitome legumとか、synopis basilicorumとか、epanagoga auctaとかいふやうな有名な法書類は、いづれもBasilica大法典その他からの拔刷であつたのである。しかし拔萃は撰者主觀の作用である。主觀の優越性を認めないところに拔萃書などの現はれよう筈もないのである。ビザンチン學者の間に拔萃書の作成が風をなしてゐたといふ一事は充分に彼等の對制定法的態度を物語つてゐるではないか。

一 拙著・西洋立法史・一一頁以下、ビザンチン期における親族法の發達・三三頁以下。

 以上、わたくしは初期中世の三つの星——Ravenna, Pavia, Constantinopel——について述べた。三者の對制定法的態度がいかに自由であつたかをつきとめた。がわたくしはなほ見逃してはならないもう一つの星を殘してゐる。それはサラセン人の法律學だ。サラセン人は中世の初めヨーロッパにおいて勢力を張り、奇しくも妖しい異國文化を咲誇つてゐたのであつたが、その法律學はどんな特色をもつたものであつたか、それを一應見渡しておく必要もあるかとおもふのである。

 が、わたくしはサラセンの法律學についても嘗て論述の機會をもつたゆゑに[#註(一)]、ここにはその要所のみを摘んでおくと、サラセンの學界には、(一)Abu Hanifa(699--767)を始祖とするHanifa派、(二)Malik(†795)を始祖とするMalik派、(三)Shafiを始祖とするShafi派の三學派が流れてゐたのであつたが、いづれもローマ人やビザンチン人の解釋態度を模倣して制定法の完全性を疑ひ、解釋の作用でその足らざるところを補はうと努めつつあつたのであつた。すなはちHanifa派は裁判官の主觀的判斷・個人的理性もまた法となると主張した。Malik派は公益公安(istilah)の前には明文なしと叫んだ。Shafi派は立法理由(illah)より見て解釋せざるべからずと主張した——ここにもまた制定法又は法律秩序の完全性を獨斷するやうな思想は痕跡的にも見られなかつたのであつた。

一 拙著・西洋立法史・三九頁以下。

 ローマ人も制定法の完全性に對して懷疑的、Ravenna, Pavia, Constantinopelの學者も制定法の完全性に對してやはり懷疑的、サラセン人もまた懷疑的であつたとすると、制定法の完全性を假説する神學的な學風は、いつ何人によつて始められたのであらうか? 現代においてなほわれわれを支配しつつある法律解釋學の神學性はいかにして始つたのであらうか? 次段においてわたくしはそれを述べよう。

        四

 十二・三世紀はヨーロッパの法律學に新舊の一線を太く劃した殊勳的な世紀であつた。ローマ法が大規模に研究され出したのもこの時代であり、教會法學が嚴かな姿において建設されたのもこの時代であつた。解釋學らしい解釋學がその出生を完了したのも、十二・三世紀の頃であつたのである。

 新法學の搖籃はイタリイのボローニヤの大學であり、そこを本據として活動した註釋學者(Glossatoren)の一團こそ、新法學の母ではあつたのであつた。一時は『ボローニヤ以外に法律學を學ぶ地なし』と歌はれたほど、ボローニヤは尖端的な存在であり、光輝ある指導者であつたのであつた。以下われらはボローニヤ註釋學者の對制定法的態度が、ローマの學者や中世初期の學者の對制定法的態度といかに鮮明に對立してゐたかを示すであらう。

 註釋學者の專門別を見ると、ボローニヤの註釋學者は二箇の部類に分屬してゐたのであつて、一は教會法學者(Canonisten)として教會法の講義に當り他はローマ法學者(Legisten)としてローマ法の講義に當り、角逐の姿勢で對峙してゐたのであつた。教會法學の誕生は十二世紀の初半であり、ローマ法學の發生も十二世紀の初半であつた。前者はGratianとその弟子のPaucapaleaとによつて開始され、後者はIrneriusによつて創建された。同世紀の後半期に入ると、教會法の學者としてはRufinus, Huguccioのごとき巨匠が出、ローマ法の學者としてはMartinus, Bulgarius, Placentinusのごとき大家が出た。十三世紀の初めには教會法の側にTancred, Durantisあり、その好敵手としてローマ法の側にAzoがあつた。十四世紀にはJohannes Andreaeが出て教會法學の發達に光輝ある結末をつけたやうに、十三世紀にはAccursiusが出てローマ法學の發達へ有終の美を添へたのであつた。しかし勝利の星は概して教會法學者のために輝いてゐたのであつて、ローマ法學の發達は教會法學の進歩に遲れがちたるを免れなかつた。學者の數からいつても教會法學者の方がずつと多かつたらしいのである。Schulteの『教會法史』に傳されてゐるボローニヤ教會法學者の數は二百に垂んとしてゐるが[#註(一)]、Savignyの『中世ローマ法史』に出てゐるボローニヤのローマ法學者の數は二・三十を越えぬのである。著書の數なども教會法側の方が斷然多數に上つたらしい。註釋の方法・著述の樣式等も、教會法學の側において、より進歩的な行き方を示してゐたのである。とにかくボローニヤの中心を形づくつてゐたのはむしろ教會法學であつたといふことを看過するわけにはゆかぬのである。

一 主もな教會法學者の略傳は、別稿『教會法の法源』において述べてある。

 次に註釋學者の研究對象を見ると、教會法學者の研究したのは、ローマ法王の法典たるCorpus Juris Canoniciであり、ローマ法學者の研究したのは、ローマ皇帝の法典たるCorpus Juris Civilisであつた。前者がC. J. Canoniciの外へは一歩も踏出さなかつたやうに、後者もC. J. Civilisの外へは出ずにしまつたのであつた。尤も教會法學者はC. J. Canoniciの外に、單行の法王訓令(Dekretalen)をも研究はしたものの、單行の訓令は逐次整理を受けつつC. J. Canoniciそのもののなかへ繰込まれてゆく例であつたため、單行訓令の研究がそれとして意義をもつまでにはなり兼ねたのであつた。ローマ法學者の方も古へのローマ皇帝の勅令ばかり研究してゐたわけではなく、現存のローマ皇帝すなはち神聖ローマ皇帝の新勅法などをも研究はしたのであつたが、新勅法は數においてすでに稀少だつたので、その研究も重きをなすまでには至らなかつた。結局、教會法學者はC. J. Canoniciへ、ローマ法學者はC. J. Civilisへ、すなはち兩者とも法典へ、その全心全力を傾倒してゐたのであつた。

 研究の對象が法典に限られてゐたといふことを別の側面からいひ直して見ると——

 (一)註釋學者は歴史を研究することをしなかつたのであつた。歴史へ溯ることを法典外へでも出るやうに思つて警戒さへしてゐたのであつた。もちろん彼等の研究對象であつたC. J. CanoniciやC. J. Civilisやは法王や皇帝の偶意的制作物ではなかつた。それは永き法的發展の結實であり、中には數世紀の沿革をもつ規定さへ含んでゐたのであるから、C. J. CanoniciやC. J. Civilisそのものを知るためにも、ローマ法史や教會法史を尋究する必要は大いにあつたのであつたが、註釋學者はこの方面の研究には一指だも染めようとはしなかつたのである。

 (二)註釋學者はまた法律生活の實際を眺めようともしなかつた。生きて當時の社會に流れてゐた現實の法律は、斷じてC. J. Civilisの規定ではなくて、封建領主の判例や地方的慣習や都市の條例などであつたのであるが、註釋學者は生きたこの種の法律へは一視も投げず、紙の上の法律ばかり玩んでゐたのであつた。ちやうど古典學者が古典美のみを尚ぶやうに、註釋學者はローマ法の論理美のみを愛して、現實法の粗笨さを冷笑してゐたのである。

 (三)同じローマ法でも、註釋學者の取扱つたものは古典的なローマ法で、中世の『田舍ローマ法』(römisches Vulgärrecht)ではなかつた。『田舍ローマ法』といふのは、中世化したローマ法、すなはちゲルマン分子を多くとり入れた不純なローマ法のことで、かのRavennaの學者の取扱つてゐたのはまさにこれであり、これこそ却つて中世の社會には適合してゐたでもあらうに、註釋學者はこの種のローマ法の不純さを嗤つて相手にもしなかつたのである。つまり彼等はユスチニアンをして一切の問題を裁斷させようとしたのである。帝の古典法を昔ながらの姿において再興させ、再現させ、そのまま再實施させようとしたのである。

 (四)最も注意せらるべきは、註釋學者が陰に陽に地方教會法や地方法の勢力の驅除に努めたといふことであつた。例へばGratianはいふ——

 『一般的宗教會議の決議も法王の是認なければ法となりえず』(Princ. D. 17) と。Hostiensisはいふ——

 『地方教會の慣習法は、新しき一般法によつて廢せらる』(Vgl. Brie, Lehre vom Gewohnheitsrecht. 201) と。教會法學者にとつては、法王の訓令が絶對至高の法律であつたのである。宗教會議の決議や地方教會の法律やは、法王法の前に光を隱さざるをえなかつたのである。

 ローマ法學者も地方慣習法——彼等が地方的慣習法の語下に表象してゐたのは、イタリイの都市法だつた(Brie, a. a. O. 125)——の排撃には力を惜しまぬのであつた。例へば、AzoはCodex 8, 53, 2に引かれてゐるコンスタンチン大帝の有名な勅法『永年の慣習といへども、法律に優越する力はなし』を註して、同條は、地方的慣習法が帝國の法律に牴觸しては成立しえざる旨を規定したものだと解したのである(Brie, a. a. O. 124)。地方的慣習法の勢力をなるべく削つて全國の法律を皇帝法の下に統一させたいといふのが、Azo等の本心であつたこと疑を容れぬのである。

 さてC. J. CanoniciなりC. J. Civilisなりが註釋の對象であつたとすると、これらに對して註釋學者はどんな態度をとつたか——

 (一)第一に彼等は法典に含まれてゐる諸條規が全部同一の價値をもつと前提したのであつた。法典は一の立法者から出た一の法律であるから、法典内の條規相互の間に效力の差のあらう筈がない。全部は同一の日附を有し、同一の地域を支配する。換言すれば法典内の條規相互の間には新法舊法の差別もなく、普通法特別法の區別もない。全條規が同じ重さで、同じ平面上に、林のやうに竝立してゐるのだ、と考へたのであつた。

 (二)第二に註釋學者は法典内の各條規は生活關係の一角づつを、その固有の支配領域として支配すると考へた。固有の支配領域をもたないやうな條規はない。もしあればそれは眞の意味での條規ではないと見たのである。

 (三)第三の彼等の前提は、各條規の支配領域は他を犯さないと同時に他からも犯されない關係に立つといふ斷定であつた。換言すれば同一の生活關係が多數の條規から重疊的に又は矛盾的に支配されてゐるやうな場合はないといふ考へであつた。

 (四)第四の豫斷は、生活關係の全部が法典中のどれかの條規によつて必ず規律されてゐるに相違ないといふ法典の完全性に對する大なる信仰であつた。彼等は考へたのである——條規は各〻他を犯さず他からも犯されざる獨自の支配領域をもつが、各條規の支配領域を聯ねて見ると法律生活の全面を掩蓋する。いづれかの條規の支配下に立たざる生活關係はない。どんな生活紛爭でもきつと法典から解答を受けてゐるのであると。

 要するに法典には不明もなければ不當もない・重複もなければ疎略もない・矛盾もなければ缺陷もないといふのが、註釋學者の解釋上の根本前提であつたのであつた。

 然らば彼等の註釋の方法はといふに、前述のごとく法典には矛盾もなければ缺陷もないといふのが彼等の強い信仰であつたのであるから、彼等の註釋はこの信仰の基礎の上に展開されざるをえなかつた。彼等は法典中に表見的に存するところの矛盾を去り、缺陷を填め、重複を去り、疎略を補ひ、不明を明にし、不當を合理化しようと企てたのである。そしてかくすることによつて法典の圓滿性・完全性・正當性を立派に證據立てて見せようと企てたのである——

 (一)不明を明にする解釋手段は、語註(wörtliche Glosse)及説明註(paraphrasierende Glosse)であつた。語註とは一語の代りに他の同意語を代置させることをいひ、説明註とは一語の意味を布衍的に説明することをいふ。註釋學者は條文を、それを構成する箇々の語に分解し、箇々の語を逐一意味づけて行つたのである。

 (二)不明を明にするもう一つの手段は要旨の摘記であつた。註釋學者は一旦條文をバラバラな單語に解體したのち、再びこれを綜合し、其條の要旨を短い一句に一括しようと試みたのである。かかる要旨文をbrocardicaといふ。brocardicaは語義註の總果を要約したものであつた。

 (三)條規相互の間の重複矛盾を去る手段の一つはいはゆる峻別(distinctiones)の方法であつた。峻別とは一見恰も重複又は矛盾なるがごとくに見える數箇の條文を拉し來つて、仔細にその支配領域を比較し、結局各條はその支配領域を異にするものにして、相互の間には實は重複もなく矛盾もなしと論結するに至ることをいふ。峻別は註釋學者が、各條の領域が他から犯されざる獨立のものなることを示すがために、すなはち條規相互の間に矛盾なきものなることを示すがために、力を傾けて從事した・彼等にとりまことに重要な仕事ではあつたのであつた。

 Stintzingいはく——

 『中世の學者は法規相互の矛盾をより高き統一裡に根本的に解決してしまはうとは試みなかつた。彼等は峻別の方法によつて各條規にそれぞれの領域を指定し、妥協的に各自を竝列させようとしたのである』(Stintzing, Geschichte der duetschen Rechtsw. I, 106) と。又いはく——

 『中世の學者は、各條規を同じ重さにおいて取扱つた。偶然的な連結で積重ねて行つた。彼等の仕事は深さよりも廣さに向つたのである。集中よりも散開に向つたのである』(Stintzing, a. a. O. 106)

 條規は各〻固有の支配領域をもつといふ前提を立ててゐたればこそ、異常の辛苦をもして條規相互の間を『峻別』し、條規に各〻固有の領域を配當しようとも企てたわけであつた。

 (四)重複除去のもう一つの手段は、縮小註(einschränkende Glosse)であつた。これは峻別の方法を以て條規相互の間の矛盾重複を除去し能はざる場合に、窮餘の手段として使用したもので、重複條文の一つを強ひて狹意に解し、他條との衝突を避けたのであつた。

 (五)缺陷補填の有力な一手段は擴張註(ausdehnende Glosse)、すなはち或條文の支配領域を強ひて廣めて、漏らされてゐる場合をもその條文の支配下に取入れるといふやり方であつた。法に缺陷なきことを假定してゐた彼等は、往々にしてかかる彌縫をも試みざるをえぬ羽目に陷つたのであつた。

 (六)實際、『法の缺陷』は『法の矛盾』と共に註釋學者の安眠を妨げてゐた惡夢であり、何とかしてこの疑念を去らうと彼等は努めつつあつたのであつた。『矛盾』の危惧を除くために用ゐた手段が前述の峻別であり、『缺陷』の不安を去るために用ゐた手段がここに述べんとする『例題』(casus)である。例題とは、一見法典にも規定なきがごとくに見える稀有の場合を拉し來り、苦心してそれに擬せらるべき條文を搜索し、結局適當の條文を發見して、その支配下に右の場合を包攝させることであつた。適當な條文を發見しえたときにそれを解決(solutiones)といつた。例題は裁判の實際からとつたものもあり、想像を以て作爲したものもあつた。わざわざ稀有の例まで作つてそれに擬せらるべき法律の發見に惱苦し、結局それを發見して『解決』を喜んだのは、それによつて法典の完全性に對する彼等の所信が確實にさせられたからであつた。すなはち彼等の例題解決の目的は、具體的な例に即して妥當な規範を發見せんがためではなくて、それによつて法典の包容力の大を檢するため、いかに法典が一切の難問を解去つて綽々としてなほ餘裕あるかを證明せんがためであつた。

 (七)『法の不當』——それはあまり註釋學者を惱まさぬ問題であつた。なぜかなら註釋學者は法典の完全性を信ずる以上にその正當性を信じ、法典には不當の規定なしと獨斷してゐたからである。がさすがに折々は條規の不當性をおもはざるをえぬ場合もあつたのであつて、そんな場合には、彼等もやはり文言を犧牲にして正義の要求を貫かうと試みもしたのであつた。これを變更註(verändernde Glosse)といふ。一つ二つ變更註の例を示してみると、例へばMartinusはCodex 5, 12, 30『嫁資に關するユスチニアン帝の勅法』を註して、

 『嫁資は、婚姻中といへども妻の所有を離れず』(Gl. Naturali jure ad leg. 30 C. de jure dotium 5, 12) といつたのである。同條の文言解釋に從へば、嫁資が婚姻中夫の所有に移るべきこと明かなるに拘らず、Martinusはそれを不衡平と考へ、法文を曲げて嫁資を妻の所有に留めたのである。

 又ローマ法では『國庫が自己に屬せざる物を處分せる場合には例外として所有權移轉の效果を生ず』とされてゐたのであつたが、Martinusはこの問題に關し、

 『國庫により他人の物が有效に處分せらるるは、國庫が善意にてその物を處分せし場合に限らる』(Hänel, Dissensiones dominorum 57) と註したのである。これも衡平の原理のために法文を曲げた顯著な例であつた。

 しかし概していふと、註釋學者は條文に對する忠實な貞操家であつた。Martinusのごときはむしろ例外であつたのである。

 Martinusの好敵手Bulgariusは明快にいつたではないか——

 『法と道徳と一致せざる場合には道徳を以て法律を變更せしめず、各者をしてその本領を發揮せしめよ』(Landsberg, Die Glosse des Accursius, 16)

 序に註釋學者の著述の樣式について一言すると註釋學者は概して健筆の著述家であり、一人にして二三十種の著書をものした人さへあつたが(例へばJohannes de Deo)、内容はみな現行法本位の解釋論たるに止つてゐた。歴史や法理學は彼等の研究圈外にあつたのである。

 解釋學的著述の樣式にはいろいろあつたが、その(一)は註釋書(glossa, commentaria)。これはの順序を追ひつつ法典を解釋するを以てその特色とした。(二)は教本(summa, titulorum)。これは條の順序を追はず、單にの順序のみを追ひつつ法典を解釋するを以てその特色とした。(三)は提要(compendia)。これは條はもちろん章の順序さへも追はず、單にの順序を追ひつつ法典を解釋するを以てその特色とした。その他のものとしては、(四)單行論文(Monographie)や、(五)問題論文(questiones)があつた。單行論文は或制度又は或規定の内容を詳細に論及することを以て目的となし、問題論文は或實際上の又は假想上の設例を解決することを以て主眼とした——要するに著者も論文もみな條文本位であつたのである。而してそれは註釋學者の對法典的態度の眞率なる反映そのものに外ならなかつた。法典といふ介殼内に堅く閉ぢ籠つてゐた彼等には、解釋書以外のものを書くことが全く不可能であつたのである。

 以上わたくしはローマ共和末の學者から始つて帝政後期の學者を見、中世前期の學者を經由して中世後期の學者即ち註釋學者に至るまでの間の法律學上の方法の變化の跡を辿つて來た。そしてつまるところ共和末の學者と中世前期の學者との間には、その方法において類似したものがあり、帝政後期の學者と中世後期の學者即ち註釋學者との間にも方法上類似のものがあるといふことをつきとめた。よつていま前二者と後二者との間の對立状態を箇條書にして見ると、——

 (一)共和末の學者や中世前期の學者が制定法を不完全な人爲的作品と見、率直にその不備不當を承認してゐたのに反し、帝政後期の學者や註釋學者は法典を以て人爲の神品となし、その正當性・完全性・圓滿性を信仰的に獨斷してゐた。前二者が制定法に對する悲觀的懷疑派ならば、後二者は樂觀的信仰派であつたのである。

 (二)共和末及中世前期の學者は學説の作用を以て制定法以外に別の法の一體系を創出し、此を以て彼を補完しようと努めたが、帝政後期の學者及註釋學者はあくまでも制定法を本位におき、これに囚はれこれに拘束されつつ解釋の作業を進めた。前者によれば解釋とは制定法を離れて別に法を創造することの謂ひであつたが、後者によれば解釋とは制定法自身を明瞭にし精密にし完全にすることの謂ひであつた。前二者が自由法學ならば、後二者は一種の概念法學であつたのである。

 (三)共和末及中世の前期においては、『善い法律家』とは『善い法律を發見する人』の謂ひであつた。社會のために善い法律を發見し、創造するのが當時の法律家の手腕であつたからである。これに反して帝政後期及中世後期においては『善い法律家』とは『巧みに條文を操る技師』の謂ひとなつた。なぜかならこの時代の考では法律家は法王や皇帝の作り與へた制定法から拘束を受け、法律問題に對する彼の答の全部を制定法のなかからひねり出さねばならぬこととなつたから。

 輝ける註釋學者の一人Hugolinusは明瞭にいふ——

 『凡そ裁判官の判決は成文法に根據せざるべからず』と(Hänel, Dissensiones dominorum, 330 Anm. h)

 これ實に驚くべき解釋態度の變化ではないか。中世の前期までは判決が成文法に拘束されねばならぬといふやうな思想は毛頭なく、むしろ『制定法中の衡平の觀念に反する規定をば躊躇するところなく踏みにじつて進むところ[#註(一)]』にこそ判決の眞の價値はあると思つてゐたのに、果然今や判決は制定法に拘束せらるべきこととなつたのである。

 ではこの驚くべき變化は何に原因するのか、次段においてわれらはその原因を論じなければならない。

一 前出、七五頁以下參看。

        五

 何故に十二・三世紀において法律學がその方法を一變させるに至つたかの原因を探がすに當つてまづ心當りの方面はといへば、何人も指を政治方面に屈せずにはゐられない。なぜかなら十二・三世紀における法律學的方法の變化はローマ帝政の後期におけるそれの變化と性質を同じうする所のものであるが、帝政後期における法律學的方法の變化はたしかに當時の政治變革に原因したのである。即ち當時獨裁帝權の確立があつて皇帝が現身の神となり、神聖不可侵のものとなつた結果、法律學も法律に對する考へ方を一變せざるをえざる羽目に立至つたのであつたから、或は十二・三世紀においてもまた同樣の變化があつて、同樣な方法論上の變化を呼起したのではないかと猜するのも至極尤もな思考の經路ではあるからである。

 よつていま十二・三世紀における政治上の變化を檢して見ると、果してそこには統一勢力樹立の形勢が顯著に進行しつつあつたのであつて、まづこれを教會に見れば、この時代の教會はすでにもう絶對的な支配團體となり、國家の外に若くは國家の上にさへ立たんとする素晴らしい形勢を示しつつあつたのであつた。それはもう信仰の手段のみによつて信徒を指導してゐたのではない。法律の力・警察の力・刑罰の脅威を以て信徒を支配しつつあつたのであつた。宛然として法王は皇帝となり支配の主體となり、信徒は臣民となり支配の客體となりつつあつたのであつた。それは法王の皇帝化の時代、教會の國家化の時代であつたのである。當時の聖僧St. Bernardはこの形勢を慨嘆してかういつた——

 『法王は毎日を、いや毎時間を、法的事務に捧げてゐる。全注意を法的事務に奪はれてゐる。「法」は今や全宮殿に響き渡つてゐるが、その法たる、主イエスの法ではなくて皇帝ユスチニアンの法である』(Dunning, Political Theories, Ancient and Mediaeval, 183)

 いかに教會の世俗化・國家化・官僚化・法律化が當時の大勢であつたか、この呪詛の言葉のうちによくそれが現はれてゐると想ふのである。

 轉じて國家の側を見ると、國家における權力統一の形勢は教會におけるほど顯著ではなかつたが、それにしても王權の伸張・地方大諸侯の權力の上進は見逃しえない形勢であつた。從前の状態を見ると、王が支配しえたのはその直屬の人民に對してだけであつて、諸侯配下の人民には直接の支配を及ぼしえぬのであつた。諸侯が支配しえたのもその直屬の人民に對してだけであつて、臣配下の人民には直接の支配を及ぼしえず、臣下の支配しえたのもその直屬の人民に對してだけであつて、陪臣配下の支配にはやはり直接の支配を及ぼしえぬのであつた。結局王や諸侯の支配は間接的であつて直接的ではなく、分權的であつて統一的ではなかつたのである。ところが今や形勢は變りつつあつた。王や諸侯は一國・一地方全體の上にその權力を延ばして來た。自己直屬の人民に對してばかりでなく、臣配下の人民に對しても直接的な支配を及ぼし來つた。フランスのやうな王權の發達の顯著な國では、王は諸侯配下の人民に對しても直接に課税し命令することができるやうになりつつあつた。

 要するに十二・三世紀は教會側にとつても國家側にとつても權力の統一期・支配陣容の整備期であつたのであり、從つて法王や王や諸侯の左右にゐてその專制政治の遂行を助ける官吏の大群をも生じつつあつた時代であつた。

 ボローニヤ大學の歴史を見ると、生國別にして十八國の學生がこの大學へ雲集してゐたといふ。註釋學者Azoの教へた學生數だけでも一萬人を越えたといふ。むろんこれらの學生大衆は學問そのもののためにボローニヤに集つたわけではない。ボローニヤで法律を學んでローマ法や教會法のドクトルとなり、歸國して官吏となり、法王廳や教會の役僧とならんがためであつた。實に官吏は當時の國家や教會が盛に需要しつつあつた新職業であり、ボローニヤはかういふ新職業人を大量的に生産しつつあつた養生所であつた。ボローニヤ出身のドクトルにして、累進して大臣となり大使となり樞機官となり法王となつたものさへ少くはなかつた。

 學生ばかりがさうだつたのではない、教師の方も法王廳や王や皇帝やと切つても切れぬ關係にあつた。著名な教會法學者にして法王廳に仕へて樞要の地位に上つた人々も少くない。Stephanは僧正となり、Johannes Faventinusも僧正となり、Durantisは樞機員となつた。Rolandusは法王に選ばれてAlexander IIIとなり、Albertusも法王に選ばれてGregor VIIIとなつた。教會の要職に就かなかつた教會法學者はむしろ稀だつた位である。又著名なローマ法學者にして王や皇帝へ仕へて顯揚の地位に上つた人々も少くない。IrneriusはHeinrich Vに仕へて政治の樞機にも參畫した人。Bulgarius及Martinusは皇帝の御覺えの殊にめでたかつた人々であつた。Hugolinus, Azo, Placentinus等も皇帝の信任を忝くした。Odofredusに至つては帝の恩寵を鼻にさへかけてゐた。

 情勢すでにかくの如くであつたから、ボローニヤの學問に御用的色彩の濃厚だつたのもけだしまた止むをえざるところであつた。實に註釋學の性質の或部分は、これを御用學と見ることによつて最もよく説明されうるのである。例へば(一)註釋學者が教會法典やローマ法典を聖典視し、その正當性を信仰しその自足完了性を獨斷してゐることは上來屡〻述べた所であるが、これは註釋學者が法王や皇帝やに對する彼等の敬虔なる崇拜の心を法王や皇帝の制作物へ移して行つた結果に外ならなかつた。法王や皇帝やの制作物たる法典の正當性を疑ひその完全無缺性を懷疑するといふやうなことは法王や皇帝に對する一種の不敬に外ならないと、彼等は恐れ愼んでゐたのであつた。又(二)註釋學者が地方慣習法の研究や都市の立法などに研究の手を延ばさず、それどころかこれらの法律の價値をかなり低く評價して、『永年の地方慣習といへども、皇帝の法律に違反しては法となりえず』などといつてゐたといふことを前に述べたが、これなども註釋學者の王法本位の思想からよく説明される現象であつた。彼等は王の權力を中心にし、王の法律を本位にして國家の統一・法律の統一を達成しようとしてゐたのであるから、どうしても地方の慣習法や都市の立法を無視し輕視せざるをえぬ關係にあつたのであつた。これらの法律を無視して一律に事件を王の法律に屈服させることが法的統一をもたらす最善の方便ではあつたのである[#註(一)]。

一 教會法學者は法王へ、ローマ法學者は王又は皇帝へ仕へてゐた關係上、事一たび教會對國家の爭となると、兩者は忽ち意見を異にし、教會法學者は法王權の優越性を、ローマ法學者は帝權の不可侵性を力説せざるをえなかつた。すなはち、まず (一)教會法學者の方を見ると、最初の教會法學者Gratianはいつた、『皇帝の法律は教會の法律に優先せず、むしろこれに後續す』と(c. 1. D. 10)。十二世紀の代表的神學者Huguccioはいつた、『皇帝の法律は、これと趣旨相反する教會法のなき場合に行はる』と(Schulte, Geschichte der Quellen u. Literatur des Canonischen Rechts I. 165)。教會法最大の巨星Johannes Andreaeなども法王黨で、法王權の優位のために論辯大いに努めたものであつた(別稿・教會法の法源七參照)。Innozenz III(1198--1216)は學者としても秀拔な一人であつたが、傲慢にもかういつた、『國法上・教會法上の難問一切は法王のみより適當の答を與へらる』と(Dunning, Political Theories, Ancient and Mediaeval, 173)。その他大小の教會法學者、一人として法王權の優位を主張せぬ者はなかつたといつても過言ならざるありさまであつたのである。 (二)ローマ法學者の方を見ると、彼等常套の論理は、『古代ローマの皇帝の權力は連綿として現代のドイツ皇帝に傳つてゐる。そこには中斷なき帝權(imperium continuum)がある。ゆゑにドイツ皇帝は教會の上になければならない。なぜかなら古代ローマの皇帝がすべてのものの上に、從つて又教會の上にも、卓立してゐたことは疑を容れないから』と(Dunning, 180)。後期註釋學の大家Bartolusのごときは、極端にもかういつた、『ドイツ皇帝はローマ皇帝が然りしがごとくに、全クリスト教國の人民の元首である。ギリシャ人・トルコ人・ユダヤ人・インド人・サラセン人等を除くすべての他のヨーロッパ人はドイツ皇帝の下に立たねばならぬ』と(Savigny, Geschichte des römischen Rechts im Mittelalter III. S. 87 Anm. a)。各自その主のために歌つてゐたのであるから、主の利益相反すれば學説もまた相反したわけだ。

 要するに十二・三世紀は專制的官僚政治の新芽の若々しい發生期であつた。そしてボローニヤの大學は勃興しつつある專制的官僚政治へ仕へた忠貞なる侍女なのであつた。彼女は專制君主が支配の新武器として法律の智識を需要しつつあつたので、法律の智識を彼に獻上した。又彼女は專制君主が支配の機關として有能な官吏の大群を需要しつつあつたので、これをも供給した。ボローニヤこそは專制的官僚政治の水源地であつたのである。ボローニヤの學問の性格の一半はたしかにその御用性・迎合性から説明せられうるのである。

        六

 以上われわれは註釋學の形成に對する政治上の原因をさぐつて見たが、さらにわれわれは當時における物の考へ方一般をも見なければならない。なぜかなら一箇の學問がその時代の思考方法の影響を受けずに孤島的に成育を遂げるといふやうなことは不可思的であり、註釋學なども必ずや中世的考へ方一般の影響を受けつつ成長したものであつたらうからである。では中世的な考へ方といふのは、そもそもどんな考へ方であつたか——

 (一)最初に顯著なのは、事實を尊重しようとする實驗科學の精神の一向に芽生えてゐなかつたことであつた。今日のわれらがもつやうな精密な自然科學の當時なほ存せざりしことはいふまでもないが、實は科學どころか、科學的考へ方すらもが存しなかつたのである。けだし科學は多數の事實を蒐集する・精密にそれを觀察する・系統的にそれを分類する・事實相互の間に必然的な關係を見出さうと努める。一言にしていへば科學は事實を尊重し、事實が教へ、事實が物語つてくれるところのものに謙虚に追從して行かうとするのであるが、中世においてはこのやうな事實尊重の精神はなかつた。反對にそこには聖書の教訓と教會の傳承とを信仰する精神が存在してゐる。實に當時の人々は事實を基礎としてそこから法則を歸納する代りに、聖書を基礎として事實に説明を加へてゐたのである。説明を加へてゐたといふよりも事實に暴力を加へてゐたのである。強ひて事實へ獨斷の定見・傳承の定説を適用してゐたのである。

 (二)又中世においては歴史的敍述も見られず、歴史的考へ方も見られなかつた。そこには歴史科學も歴史的敍述もなく、ただ神祕的な物語と虚構された傳説と亂脈極まる年代記(Chronik, Annalen)とが横行してゐるに止つた。年代記は事件と人名と數字との無連絡な羅列であつた。偉大な世界的事件も、いふに足らない地方的小事件も、お伽話的異變事も、何もかも一所くたにした混沌たる素材の集積であつた。今日の、選擇あり脈絡あり發展もある史的敍述の方法とは、日を同じうして論ずべからざるしろ物であつたのである。ゆゑにLandsbergはいふ——

 『中世には自然科學がなかつたやうに歴史もまたなかつた』(Landsberg, Die Glosse des Accursius S. 23 fg.)われらもLandsbergと同樣の感に打たれざるをえない。

 (三)しかし中世には自然科學と歴史學とがなかつただけではなかつた。哲學すらもなかつたのである。けだし哲學は理性の立場から規範を立てる。それは外的なる一切の勢力・權威・傳統から自己を自由にしてゐる。外的者は批判の客體とこそなれ、その基準とはならないと見てゐる。いはば哲學は神よりも人を信じてゐるのである。人性そのものの内奧に、善惡判定の力・美醜區別の基準があることを信じようとするのであるが、中世のいはゆる哲學は善惡自律主義でなくして、その反對の善惡他律主義であつた。彼等は考へた。——絶對の價値は神のみである。人間は神に從ひ、神によつて導かれなければならない。善惡の區別は、人間が自己内奧の規律に從つたか否かによらず、神の掟に從つたか否かによつて決せられると。近世人は『衷なる聲』に畏れ、中世人は『外なる權威』に屈してゐたのである。

 一般の情勢右のごとくある中においては、法律學が獨斷的演繹的な方法をとるやうになつたのも自然の成行だつたといはねばなるまい。例へば(一)註釋學はローマ法典や教會法典を金科玉條視し、これを無上の規範として一切の判斷をそこから演繹してゐるが、かういふ方法は神の權威に屈服し、神の掟を標準として是非善惡の區別を立ててゐる當時の風潮の一つの現はれには過ぎぬのであつた。兩者の間にはただ『神』の代りに『皇帝』や『法王』を持つて來、『神の法』の代りに『人の法』を持つて來るだけの相違しかなかつたのである。Engelsの用語に倣つていへば當時の法學的世界觀は『神學的世界觀の世俗化に過ぎぬのであつた[#註(一)]』。又(二)註釋學者は法の實證的研究、すなはち生きた現實法の研究に無關心であり、法の歴史研究すなはちローマ法史や教會法史の研究にも不熱心であり、法の哲學的研究即ち現行法の批判をも忽諸に附してゐたといふことをすでに述べたが、これとても當時における一般の風潮の一つの現はれにしか過ぎなかつたのである。

 想へば註釋學の特徴はすべてみな中世といふ時代の特徴であつた。時代の特徴がそのまま法律學の上へ反映して法律學をあのやうな形態のものにはさせてゐるのである。

一 前出、六五頁參照。

        七

 以上わたくしは註釋學形成の原因をたづねて(一)政治的にはこれを當時における官僚的專制政治の發達に歸し、(二)思想的にはこれを當時の獨斷的思想傾向に歸したが、しかし註釋學の方法論上の特徴はこれを如上の一般的原因を以て説明すべく、あまりにも特殊的であつた。學問の方法としてそれが正しかつたかどうかは別論として、とにかく註釋學の方法が非常に精密であり非常に組織的であり、或意味において非常に學問的でさへあつたことは事實であつた。一般的にいふと、かういふ精緻な方法の發見は長い歴史的發達の成果でしかないが、註釋學の場合にはさういふ歴史的聯續も認められない。むろん註釋學の發生に先行してその準備をなした學問もないではなかつたが、これと註釋學そのものとの間には懸厓萬丈も啻ならざる相異がある[#註(一)]。或意味において註釋學の發生は奇蹟的突發的な現象であつたといひたいほど、それは前代の學問から懸け放れた光に輝けるものであつたのである。では結局註釋學はどうして發生したか、私はその發生の原因を中世の代表的學問であつたスコラ神學からの影響に歸したい、スコラ神學こそ註釋學の先型であつたといひたいのである。

一 別論、『中世イタリイにおけるローマ法の運命』及『註釋學者の群像』參照。

 よつてわたくしは以下において註釋學の發達とその方法論上の特色の形成とがスコラ神學からの影響に負ふところ最も多きゆゑんを明かにしたいとおもふのであるが、先決的に必要なことはスコラ神學そのものの何たるかを知つておくことである。そこでわたくしは有名なGrabmannの著書Geschichte der scholastischen Methodeの第一卷序説の中から、スコラ的方法の特性に關して近世の諸大家の下してゐる諸見解を學びとり、以てスコラ神學の何たるかを見ると共に、斯學と法律解釋學との關係をつきとめる一助ともしたいのである[#註(一)]。

一 Grabmann, Geschichte der scholastischen Methode I, 1-37.

 Grabmannのあげた學者の數は十數人の多きに上つてゐるが、その中の代表的な二三を選ぶと、Paulsenはいつてゐる——

 『スコラ神學の目的は教會の信仰を合理的なものとして證據立てようとするに在つた。教會の信仰は大體において學問的認識と相一致するものだといふことを證示するのが彼等の仕事であつた』

 と。つまりPaulsenに從へば、スコラ神學は一方において信仰を支持し、他方において理性を尊び、信仰と知識とを平行さすことによつて、信仰の虚妄ならざるゆゑんを示さうとしたのである。根柢においてそれは信仰主義であり、決して理性主義ではなかつたのであつた。せいぜいのところ半理性主義(Semirationalismus)であり、決して純理性主義ではなかつたと、Paulsenは考へるのである。

 Seebergも同じ考を次のやうな言葉でいひ表はしてゐる——

 『スコラ神學者に共通の要素は權威と理性(auctoritas und ratio)とであつた。彼等はバイブル・教説・獨斷・傳承・法王等を毀損すべからざる基本材料として受取り、盲目的にこれを尊重した。彼等はこれらの基本材料を整序し、信仰と學理とを連結せんと試みた點において、わづかに理性の働きを發揚しえたに過ぎなかつた』

 すなはちSeebergに從つても、スコラ神學においては信仰が主、理性は從に過ぎざるものなのであつた。

 轉じてGingensohnの説を見ると、彼いはく——

 『中世の學問にとつての基礎的前提は、權威及信仰(Autorität und Glauben)であつた。當時の考では眞理は新たに求められるべきではなくてすでに存在してをり、すでに啓示されてゐるのであつた。人々は啓示されてをり公認されてをる眞理を疑ふことを許されなかつた。教會の威勢は公認眞理に對する力強き保證であつた。だからせいぜい學問的活動はただ二つの方向において存立しえたに過ぎなかつた。(一)は啓示されてゐる眞理を系統的に組織立てる企て。(二)は啓示されてゐる眞理をこの世の日常の出來事へ適用して見る試み。後者はそれによつていかに「眞理」が地上一切の出來事を裁いて綽々としてなほ餘裕あるかを、換言すればいかに「眞理」が深遠博厚のものであるかを、證示せんがためであつた』

 つまりGingensohnに從へば、スコラ神學は半理性主義どころか、全然獨斷主義・信仰主義であつたのである。理性は全く信仰と權威との背後にひそみかくれて、その鋭鋒を示さずにゐたと見るのである。

 その他Loofs, Eucken等の定義も概して同樣であり、いづれもスコラ神學を以て外的權威に服屬した一の『拘束科學』(gebundene Wissenschaft)と見てゐるのである。

 わが波多野博士も、

 『組織神學は、一定の特殊宗教の具體的個性的なる生内容を承認し、主張する。それゆゑにそれは最早單なる學ではないであらう……組織神學は一つの信仰であるか[#註(一)]』

 といつてをられる。

一 波多野精一博士・宗教哲學の本質及其根本問題・二九頁。

 右の諸説を見るとき、われわれは『註釋學』の肖像を見せつけられるがごとき思ひをせぬであらうか? あまりといへば註釋學がスコラ神學に類似してゐるのに驚愕せぬであらうか? 實に二つは相似形のごとくに相似てゐるのである。スコラ神學者が教會の教説を是認しその完全性圓滿性を主張するやうに、註釋學者は國家の法律を是認しその完全性圓滿性を主張したのである。教説のなかにあらゆる人生問題への答が用意されてゐるとスコラ神學者が考へるやうに、法律秩序のなかにはあらゆる法律問題への答が用意されてゐると註釋學者は考へたのである。スコラ神學者にとつて、眞とは教説と一致することをいひ、僞とは教説と一致せぬことをいふのであるが、註釋學者にとつても、眞とは條文と一致することであり、僞とは條文と一致せぬことであつた。他の學問が理性の要求に傾聽してゐる間にスコラ神學と註釋學とは外的權威に拘束されてその外に出でず、他の學問が實驗を重んじ、事實がいかにあるかを探らうとしてゐる間に、スコラ神學及註釋學のみは『言葉』を重んじ、法典や經典に何が書かれてあるかを見ようとするのである。その他抽象的觀念を重んずる點において、條文を大前提として推論式に判斷を進めて行く點において、あまりといへば註釋學はスコラ神學に近似してゐたのである。

 しかしなほ一段の詳細さにおいてスコラ神學の方法上の特徴を述べておくと、(一)スコラ神學は聖書の教や教會の傳承やをなるべく正當に圓滿に精密に深遠に意味づけることを以て本旨としたものであつた。まづそれは聖書の句や教父の言葉や宗教會議の決議や法王の訓令やを『有權的に與へられたる眞理の泉なり』として有難く頂戴した。そして一切の教説・教則をこれらの官製材料のなかから——それのみのなかから——汲取らうと欲した。これらの官製材料のなかには、不當もなければ缺陷もなく、矛盾もなければ疎略もない、この種の缺點の存するがごとくに見えるは、鏡上一片の浮影に過ぎない。浮影を清拂して經典の眞の姿——矛盾なく缺陷なき眞の光——を發揚させるところにこそ、學者の任務は存在すると彼等は考へてゐたのであつた。要するに彼等のなしたところのものは學問ではなくて信仰そのものであつたのである。經典の前へひれ伏してその正當性・完全性を謳歌することが彼等の仕事の全部であつたのである。

 (二)さらにスコラ學者が經典における表見上の諸缺點を除去するために使用した諸手段を見るに、矛盾除去の手段として用ゐたのが峻別(distinctiones)の方法であつた。峻別とは各教則の妥當する場合を嚴格に差別することをいふ。スコラ學者によれば、教則には各〻固有の支配領域がある。ゆゑに各領域相互の間の境界を明劃にして行きさへすれば、教則相互間の重複や矛盾はおのづから除かるべき筈だといふのであつた。峻別の方法を以てしても除去し能はざる矛盾の存するときは、スコラ學者は縮小解釋の方法をとつて重複教則の一つを狹く意味づけ、強ひて二つの教則を平行の關係にもたらした。

 (三)缺陷補充の手段として用ゐられたのが分解(Zergliederung)の方法であつた。分解とは教會の教説内容を仔細に分析し、分析に分析を重ねて無數の教則を派生させ、教則の網を廣々と散開させてゆくことであつた。かくすることによつて、大抵の問題をば、いづれかの教則の支配下に包攝することをえたのである。どの教則の支配下にも取りこみえぬやうな事案に逢著した場合には、近接の規則に擴張解釋を施し、その意味を廣めて、無理にそのなかへ問題たる事案を包攝させたのであつた。

 (四)完全性試驗の方法として愛用したのが例題(casus)の方法であつた。スコラ學者は一見經典もまた豫想せざるかに見える例題を設けて、わざわざ解答を經典に求め、巧みに經典の中から何等かの根據を引證して、遂に解答の發見に成功し、今更らしく經典の含容に遺漏なきを確めえて、ひとりみづから悦に入つてゐたのであつた。解決(solutiones)とは彼等にとり問題を教説體系のなかへはめこむことの謂ひを出なかつたのである。

 かう見てくると、スコラ學が註釋學の完成へいかに影響したかも明瞭となるであらう。われわれはすでに見た、(一)いかに註釋學者が法典の正當性・完全性・圓滿性を假定してゐたか、(二)いかに矛盾除去の手段として峻別や縮小解釋の方法を用ゐたか、(三)いかに缺陷補填の手段として分解や擴張解釋の方法を用ゐたか、(四)いかに無缺陷證示の手段として例題の方法を愛用してゐたかを。かう見て來ると註釋學上の諸方法は註釋學者がスコラ學者から繼受して、一層それを自覺的且つ組織的に發展させたところのものに過ぎなかつたのである。Stintzingはいふ——

 『中世の學者は信仰的に傳承を尊敬し、常習的に判斷を權威の下に屈服させてゐた。眞理なるものは新たに發見せらるべきではなくて、啓示されてある傳承のなかから學び取らるべきだと考へてゐた。從つて中世人の仕事は與へられたる傳承を仔細に分析することと、與へられたる傳承を引證しつつ問題を解決することとの二つに局限せられざるをえなかつた。傳承の拘束を受けてゐる以上、それの分解といふことが學問の重心とならざるをえないわけだつたし、傳承の眞理性を信じてゐる以上、それをそのまま機械的に適用して見たくなるのが自然の勢であつたからである。解決とは傳承との間の一致又は不一致を認識することの謂ひであつた。バイブルこそ眞理の試金石、教會こそ眞理の保管者であつたのである』(Stintzing, Geschichte der duetschen Rechtsw. I, 103fg.)

 又いはく——

 『同一の現象は法律學の上でも繰返されてゐた。ここでも分解が行はれ、峻別や例題の方法が盛であつた。いな法律學者にとつてはスコラ學者にとつてよりも、「眞理は與へられてゐる、判斷は拘束を受けてゐる」といふ感じが幾層倍も強かつた。彼等はただ客觀的に與へられてゐる法律を知らうとし、それより演繹して事案を解かうとしただけであつた。せいぜいのところ客觀法を、その根據と目的と内的關聯において認識しようとしただけであつた。生きた法律の現實態を觀察したり、新しき法規を産出しようなどとは試みだもしなかつたのである』(Stintzing, a. a. O. 102 fg.)

 なほ、スコラ學の歴史と註釋學の成立過程とを對照することによつて、われらは兩者の關係の緊密さを一層切實に感じうるであらう。いふまでもなく、註釋學が活動したのは十二・三世紀のことであつたが、ちやうどこの時代はスコラ學の飛躍時代に相當した。前世紀すなはち十一世紀の末に『スコラ神學の父』Anselm von Canterbury(1033--1109)が出て斯學の基礎を定置してから、スコラ學の發育は沖天的であつた。アリストテレスの形式論理が教會へ繼受されたのも——いはゆるアリストテレス繼受(Aristotelesrezeption)も——十二世紀中のことであつたし、三位一體の學理(Trinitätslehre)の大成したのも十二世紀中のことであつた。フランスがスコラ學の中心地となり、思想の元締となり、學星悉くパリに集つたのも同じ時代のことであつた。實に十二・三世紀は、Grabmannがいつたやうに、『全スコラ學の發達へ大なる影響を殘した時代・來るべき高度スコラ學(Hochscholastik)の時代のために基礎と準備とを作り上げた時代、變化と發展・努力と試みとの意義大なる時代であつたのである』(Grabmann, Geschichte der scholastischen Methode II, S. 4)

 おもふに法律學が十二世紀に入つて俄然その面目を一新しえたのは、法律學が自己の力で自己改造の手段を發見しえたがためではなかつた。むしろそれは法律學が他の學問すなはちスコラ神學においてすでに使用されてをり、多大の效果をも擧げてゐたところの學的手段を借來つて、これを自己に應用したその結果に外ならなかつた。換言すれば法律學は神學の處方箋を用ゐて自己を改造したのである。切言してわたくしはいふ、註釋學は經典の代りに法典を對象としたスコラ學そのものであつたと。

 要するに中世前期までの法律學は條文から自由であつたといふ意味において自由法學、社會における生きた規範意識を法律化することを所期してゐたといふ意味において『社會法學』であつたが、註釋學者の法律學は條文に拘束されてゐたといふ意味において『拘束法學』(gebundene Rechtswissenschaft)、條文の操縱のみを事としてゐたといふ意味において『條文法學』(Paragraphenjurisprudenz)とはなつたのである。さうしてかう一旦運命づけられ、性格づけられてしまつた法律學はその後においてもこの特色を失はず、かかるものとして今なほ生存しつづけてゐるのである。ゆゑにKissはいふ——

 『余は今日なほ盛行してゐる論理解釋の方法が、註釋學者の註釋方法に由來するといふ主張に大きな重さを與へるものである。通説は論理解釋の方法竝に法の缺陷を法自身の力で内部から補充させようとする方法をモンテスキューの三權分立説に由來するかのやうに説いてゐるが、焉んぞ知らん、かかる態度は遠き昔の註釋學者によつてすでに完成されてゐるのであつた[#註(一)]』

 實にわれらの學問・法律解釋學は十二・三世紀の頃スコラ神學の影響の下にその運命を規定されて以來、今に至るまで連綿として神學としての性格を持ち續けてゐるのである。

一 Kiss, Jhering Jahrb., 58. 436 Anm. 2.
底本:法の変動、岩波書店
   昭和12年1月10日