法學入門

末弘嚴太郎

      序

 本書は特に法學入門者の爲めに書かれたものである。私は多年法學入門者を教育した經驗上、吾々の法學界には立派な法學書が澤山存在するにも拘らず、特に初學入門者に手引を與へるに適する著書が殆ど存在しない、其結果初學者が想像以上法學研究の入口で無用な骨折をしてゐることを平素非常に遺憾としてゐる。本書はこの缺陷を補填するすることを目的として書かれたものであつて、これが多少とも入門者の手引として役立つことが出來れば非常に幸である。

 本書始めの五話はもと現代法學全集の中に「法學問答」なる表題の下に書かれたものであるが、それに特に法學入門者の爲めに必要と思ふ事柄を第六話として新に書き添えたものが本書である。現代法學全集に書かれたものゝ中には尚この外別に二話があつたが、これはそこで取扱はれてゐる事柄の性質上本書からは一先づ之を除くことにした。

 私は今別にもつと組織立つた形で法學通論を書こうとしてゐるが、此法學通論は特に初學者の爲めにと言ふ極めて熱心な念願で執筆されてゐるにも拘らず、とかく不手際な私の仕事であるから、結局出來るものは恐らく初學者の讀書に適しない中途半端なものになりはしないかと、今からそれを恐れてゐる。それで或は本書がその法學通論の短所を補ふものとして多少とも役立つことがあり得るかも知れないと考へて今玆に本書を公にする次第である。

  昭和九年四月         著者

     目次

     第一話 法律の學び方教へ方

     一

 ——法律を學びたいのだが、どうしたらいゝだらう。

 ——サァ何と答へていゝか……が、一體何だつて今更法律を學ばうなんて氣を起したのだ?

 ——別にこれと言ふ理由もないが、ともかく今の世の中に一人前の人間として生きてゆくには、一通り法律の智識をもつてゐる方がいゝ、イヤ是非共もつてゐる必要があるような氣がして來たのサ。

 ——成程そりや至極尤もな考へだが、餘程氣をつけて始めないと論語讀みの論語知らず、言はゞ生じつか法律を覺えた爲めに反つて世の中が暮し難くなつたり、反つて法律を惡用して惡いことをするようになる……。

 ——そりやそうだな、世の中の人間が皆揃つて三百代言見たいな小理窟を言ひ合ふような世界があるとしたら、一寸想像して見るだけでもゾツとするから。

 ——全くだ。今の日本なぞ一面から言ふと一般民衆は極端に法律を知らないが、他の一面から見ると或る種の人間は實にわるく法律を知り過ぎてゐる、そうして法律を惡用して惡いことをしたり他人をいぢめたりする、とてもひどい奴が澤山ゐるからね。例へば水力電氣の會社でトンネルを掘らうとしてゐる話をきゝ込むと、其道筋の山に全くありもしない鑛物の試掘權を出願して置いて、イザと言ふ場合に會社に其權利を賣りつけようとする、こんな手合は田舍に行つて見るとウヂヤ/\ゐる。こんな手で飯を食つてゐるんだから全く驚くよ。

 ——成程して見ると法律を研究するのも考へものだな。

 ——馬鹿を言へ。先づ第一に極卑近に考へてもこうした手合の多い世の中を無事に渡らうと思へば、仙人のように山に引籠るなり、初めから全く無抵抗主義でゆく積りなら格別、さもない限りみす/\馬鹿な目に合はないだけの素養が必要だ‥‥。

 ——と言ふと、此頃のように世の中が物騷になると、女學生でも柔道の一手位は心得て置く必要があると言ふのと同じ論法だね。

 ——マァそうだ、例へば貧乏な人達なぞになると普通中流の人に比べると尚更法律を知らない。所がそれをいゝことにして三百代言見たいな奴等が貧乏人の社會を横行してゐる有樣なぞは全く以てヒドイ。どうしてもムザ/\人にだまされない丈の法律智識は常識としてもつてゐる必要がある。そうして世の中に活動して他人と交渉をもつ機會が多くなればなる程其必要が増してくる。

 ——成程其點は全く其通りだ。しかしそんなに法律を惡用する惡人が多いとすると、今度は初め護身用の積りで習つた法律を惡用して惡いことをする。言はゞ護身用の積りで習つた柔道を惡用して無闇に人を投げて見度くなるような弊害が起りはしないか知らん。

 ——そりや無論あり得る。しかしそうした弊害の起る因を考へて見ると、第一世の中そのものが惡い。法律にさへ觸れなければ何をしても差支へないと言ふような氣分が一般にみなぎつてゐる以上、法律をくゞる爲めに法律を學び惡事を働く爲めに法律を惡用するような人間が澤山出るのは已むを得ない‥‥。

 ——だからそう言ふ弊害の起るのは決して法律學そのものゝ罪ぢやないと君は言ふのかい。

 ——イヤ必ずしもそうは言はない。法律學そのものにも罪の一半はある。

 ——と言ふと‥‥。

 ——つまり今の法律學は個人主義の基礎の上に立つて萬事を權利本位に規律してゐる。昔封建君主によつて極度に個人的自由が蹂躙された時代の反動として、個人的權利の保護確立が基調となつて今日の權利本位の法律學が生まれた。法律の主たる目的は權利の保護であつて義務の賦課ではない。義務は權利保護の手段として之を賦課するのみであつて、それ自身獨自の目的をもたない。之が現代法律學の根本思想だ‥‥。

 ——成程、それだから兎角法律を學ぶと權利を主張することだけを知つて義務を守ることを忘れるような人間が生まれるのだね。

 ——そうだ。しかし現在新しい法律學の先頭に立つてゐる人々は、現行法の解釋についてすら今ではもう權利本位の考へ方を捨てゝゐる。權利は無論之を認めるけれども今までのように專ら權利者本人の個人的利益だけを考へて之を保護しようとしない、法律上權利の認められてゐる社會的根據を充分考へた上それと調和し得る範圍に於てのみ保護を與へようとするのが、新しい法律學の傾向だ。

 ——成程、すると權利の確立よりは寧ろ權利の制限が現代法學の目標になつてゐる譯だね。

 ——そうだ、しかし唯無闇に制限しようと言ふのぢやない。權利は認めるとしてもそれを認めるについてはそれ相應の社會的根據がなければならない。その社會的根據にはづれた權利行使は縱令權利行使の外形をもつてゐても實質上全然權利行使として法律上保護に値しないと言ふのだ。更に進んで言ふと、世の中は寧ろ義務本位責任本位のもの、萬人は社會の一員として其責任を盡さねばならない。而してそれを盡すに必要なる限りに於てのみ權利が認められると言ふ考をもとにして法律組織の全部を建て直したいと言ふのが新法律學の理想だ‥‥。

 ——すると、丁度社會主義だとかファシズム、もつと當り障りのない廣い言葉で言ふと——個人主義に對する意味に於て——全體主義 Collectivism とでも言ふべき一般社會思想の流れが法律學の上にも現はれてゐることになるのだね。

 ——そうだ、だから今後法律學だけが飛び離れて突然社會本位責任本位に變はることはあるまい。全體主義的の社會思想が社會全般に滲み亙るにつれて法律も亦責任本位のものに變るだらう。其時が來るまで、否其時を來たらしめる爲めに極力努力するのが吾々學者なり思想家なりの責任だと僕は考へてゐるのだ。

 ——成程、すると——詳しいことは追つて改めて説明して貰ふとして——兎も角今までの個人主義的な權利本位の法律學にも世の中を惡くするについて相當責任があつたと言へるね。

 ——そりや言へる。しかしそれは決して法律學だけの責任ではない。寧ろ個人主義的法律學の立つてゐる個人主義思想、而かも個人主義思想の生まれ出た本來の精神を忘れた誤られたる個人主義思想が世の中全體に滲み亙つた所に弊害の根本があるのだ。

 ——して見ると、法律學を研究するにしても常に其點を反省しながら進みさへすればいゝと言ふ譯だね。

 ——大いにそうだ。

     二

 ——其處で愈々法律學に入門するとして一體どんな方法をとつたら一番いゝか知らん。

 ——サァ研究の目的如何によつて色々あり得るが、矢張り民法とか刑法とか言ふような個々の法律をコツコツ地道に研究してゆくのが一番確かな方法だらう。

 ——しかし其前に「法學通論」のようなものを勉強して一通り法律とは何ぞや權利義務とは何だ位の事は心得る必要があるだらう。

 ——そりやあると言へば言へないこともない。しかし素人が下手に法學通論の本なぞを讀むと法律若くは法律學を輕蔑することを覺える位のもので碌なことはない‥‥。

 ——がしかし現在高等學校あたりでは法學入門のつもりで法學通論を正規の教科目中に加へてゐるぢやないか。

 ——そりや加へてゐる。しかしあれには一々初學者を正しい理解に導き入れ得るだけの立派な先生がついてゐることが豫定されてゐるのだ。例へば普通そこらに賣つてゐるような法學通論を教科書にしてヘボな先生が形式一遍の講義をやるとして見給へ、どんな學生だつて法律のホの字も覺えやしない、少し血の氣の多い學生は寧ろ法律學を輕蔑することを覺える位のものだ。現に吾々の大學にも毎年何百と言ふ高等學校卒業生が入つて來るが、其中に心から法律學に興味をもち多大の期待をもつて入つて來る奴は幾人もゐやしない。理科や文科に入學して來る連中に比べて見ると全く比較にもならない。大抵は單に出世の手段としてパンを得る方法として仕方なしにやつて來るので、入學後一年位夢中に勉強した上で漸く成程法律學も相當面白い學問だなと氣のつく奴がチラホラ出て來る位のものだ。

 ——そんなものかね。

 ——そうだとも。

 ——しかしどうしてそんなことになるのか知らん。

 ——解り切つてゐるぢやないか。例へば人に建築のことを教へるにしても、煉瓦とか材木とか其他建築材料について一通りの智識をもち、又建築される建物の各部分、例へば客間とか臺所とか言ふようなものが一體どう言ふ役目をもつてゐるものであるかについて相當の理解をもつてゐる者に向つてこそ、建築設計の巧拙良否を説くことが出來る。全くそう言ふ豫備智識をもたない者に突然設計圖を見せて樣式がどうの構造がどうのと説明して見ても、何等の理解も與へ得る筈がない。

 ——そりやそうだ。

 ——所が從來一般に行はれてゐる法學通論を見ると、事實それと全く同じことをやつてゐる。成程説明は法律學の全般に及んでゐる。吾々專門家が讀んで見ると一々成程と思ふ。著者はそれ/″\中々立派な學者であらるゝように見える。しかし法學入門書を通して著者が如何にもえらい學者であるように見えるだけで、其記述が實際上初學者を其道に導き入れるだけの力をもつてゐないならば、著者にとつて少しも名譽ぢやない。そんな本は法學入門書として全く何等の價値をもたないものと言はなければならない‥‥。

 ——成程、それぢや一體どうすればいゝと君は主張するのだ?

 ——サァ、その遣方には實際上色々あり得るだらう。しかし、いづれにせよ執筆者が此本は要するに初學者に讀ませるのだといふ氣持をはつきり持つてくれることが何よりも必要だ。今迄の法學通論は第一法律の定義から初まつて民法憲法國際法‥‥と法律學全般に亙つて如何にも萬遍なく立派な説明を與へてゐる。しかし、法律とはこう言ふもの權利義務とはあゝしたものと言ふような實質的の説明を適宜な實例を擧げつゝ適切に與へてゐるような本は一冊も見當らない。徒に唯形がとゝのつてゐるだけで精神を與へてゐない。在來の法學通論を見ると、徒に著者の學識が誇らかに羅列されてゐるに過ぎない。甚だしいのになると大學の講義全體を筋と骨だけに拔き書して——惡く言ふと著者自らにも法律とは何ぞやと言ふような根本問題についてとんと確りした考へをもつてゐないらしい本が少くない。あれを讀ませられる初學者こそ全くいゝ面の皮だ。

 ——するとつまり大學の倫理學の講義の筋だけを拔き書して修身書を作つて、それを小學生徒に讀ませようと言ふ流儀だね。

 ——そうだ。何分相手がズブの素人なのだから、假令斷片的にせよ又法律學の全範圍に萬遍なく行き亙らずとも、法律とはこうしたものだと言ふ活きた智識を實質的に與へ得てこそ、本統の法學入門書だ‥‥。

 ——成程。

 ——それでもあゝした本を教科書にして教へる先生が立派に力をもつた人でありさへすれば別に問題も起らないけれども、大學を出た計りの法學士だとか裁判官の古手——と言ふと惡いが、言はゞ法律の精髓にまで立ち入つて心から考へ拔いたことのない先生方があゝした本を教科書にして、恰も小學生に地理や歴史を教へるような調子で形式的な教授を行つたのでは、抑々事が旨く進行すべき筈がない。

 ——況んや僕等のような素人が獨學であゝした本を讀んでも到底法律の精神を掴むことは出來ないと君は言ふのだらう。

 ——大にそうだ。だから矢張り初めは先づ民法とか刑法とか個々の法律について法律及び法律生活の實質を學ばなければいけない。そうして先づ實質を得た上それを通して自ら形式を會得し、具體的智識から入つて漸次に抽象的理論的の問題に入つてゆくようにしなければ駄目だ、と僕は心から考へてゐるんだ。

     三

 ——しかし、抑々學問を研究するについてはすべて先づ研究の方法、即ち方法論を確立してゆく必要がある。方法論を確立せずに學問の研究を初めるが如きは、抑々羅針盤をもたずに大海に乘り出すようなものぢやないか知らん。

 ——大いにそうだ。しかし羅針盤をもつて大海に乘り出す前に吾々の先づ知らねばならないのは、漕艇術であり操帆法でなければならない。先づ初めに櫓を押す術を體得しなければ、大海は愚か池沼に舟を泛べることすら出來やしない。然るに、ともすると此頃法律學を研究しようとする者の中にはそうした誤謬を平氣でやつてゐるものが少くない。そうして形式上立派な方法論を唱へながら自ら少しも其方法を實際上に活用し得ない連中が少くない。それこそ全く机上の空論、ペダンテリーの外何物もないと言ふ始末だ‥‥。

 ——しかし、此頃の哲學者の中には一生を方法論に終始しようと言ふ位の覺悟をもつた人が少くないように、法律學者の間にもそうした連中が多少ゐることは何の差支もない、否寧ろ大に必要ぢやあるまいか。

 ——それはそうかも知れない。しかしそう言ふ連中にしても方法論を確立する前には先づ法律の各部門について方法の對象たるべき法律内容を實質的に充分會得する必要がある‥‥。

 ——そりや無論そうだらう。

 ——然るに、今迄の所吾國の學者を見てゐると實際上中々そう行つてゐない。例へば、おれは法理學を研究するのだと言ふことになると、大學を卒業したばかりの男が直に哲學上の大問題に頭を突込んで專ら方法論がどうのこうのと半可通の抽象理論をこねくり廻すことばかりを考へる。そして具體的の法律問題を丹念に考へたり個々の法律内容を研究するようなことを全くしない‥‥。

 ——成程。すると西洋の立派な法理學者には一般にはそうした弊がないかね。

 ——無論ない。今日一流の法理學者と言はれてゐる人でもいづれも初めは民法とか刑法とか中々細い問題について丹念な研究をやつてゐる。そうしてその内に段々と幾多の具體的資料を基礎として自己獨特の理論なり體系なりを築き上げてゆくのが彼等一般の遣方だ。さればこそ彼等の法理學書を讀んで見ると、法制史なり現行法の中から實に適切ないゝ例が澤山引かれてゐる。つまり彼等はこうした具體的事實を澤山研究しそれを基礎として獨自の思索を試み、そして初めて彼等自らの理論を築きあげてゐる‥‥。

 ——そうだらうな。一體方法論なんて言ふものは初めに先づ研究對象にぶつつかつて色々やつて見るが中々旨くゆかない。苦心に苦心を重ねた上其煩悶から出發して初めて自己の方法を考へるによつて成り立つべきものだ。研究者はすべて先づ自己の方法論を確立してかゝらなければならないと言ふ主張は理論上確に正しい。けれども、實際上は理論よりも行爲が先きでなければならない。ファウストの言草ぢやないが、初めに先づ行爲がある。そうして其處に初めて方法を必要とすべき煩悶が生れる。そして其煩悶こそ方法論の産みの親だ‥‥。

 ——そうだとも。えらい法律學者にしておれの方法論はこうだと初めから方法論を振りかざして出發してゐる人は恐らく一人もないだらう。のみならず、彼等は立派に自己の方法をもち又その方法を立派に使ひこなしてゐるにも拘はらず、態々おれの方法はこれ/\だと方法論の説明をしてゐる學者も恐らく殆どないだらう。唯後人が誰れ/\の方法はどうだつたこうだつたと後から解剖分析して見るだけのことだ。所が吾國の法律學者の中には此點について寧ろ逆な經路をとらうとしてゐる者が多い。其結果彼等の言つてゐることは形式上如何にも立派そうに見えるけれども、實は何等自己の思索と體驗とに基かない付燒刄に過ぎない場合が多い。これは法律學の研究上最も愼むべき事柄だと僕は思ふのだ。

 ——成程。して見ると、吾々のようにこれから法律學に入門しようと言ふような者は尚更そうした形式的の方法論なぞを考へる必要がないと言ふ譯だね。

 ——無論だとも。例へば、苟も游ぎの名人と言はれる程の人は自ら良く游ぎ得るのみならず理論についても一般に精妙至極な悟りをもつてゐる。けれども、彼等が其境地に達したのは決して理論から出發したのではない。とにかく先づ游いで見たのだ。そうして實踐に實踐を重ねた上自ら體得したのが彼等の技術及び理論だ。いくら澤山の游泳術書を讀破しても游げるようにはならない。否其本に書いてある本統の意味を理解することすら出來やしない。だから君等も先づ游がなければいけない。理論は自ら其中に自分で其必要を感じて來る‥‥。

     四

 ——そりや無論そうだらう。しかし法律學と游ぎとは違ふだらう。

 ——無論違ふ。がしかし又兩者の間に大に共通した點もある。一體法律學と言ふ學問は醫科や工科の學問と同じように實踐的方面の非常な大切な學問だ。無論其實踐を指導し基礎付ける爲めの理論は大に重要だ。又實踐的の法律運用術そのものにも術そのものに關する理論が成り立ち得る。そうしてそれこそ正に法律學の中心を成す事柄に違ひないけれども何よりも先づ修得し體驗せねばならないのは術それ自身だ。其點游ぎを習ふのと大に似てゐる‥‥。

 ——そう言ふものかね。して見ると現在大學あたりで法律學を教へるについては大いに其方面に留意してゐる譯だね。

 ——所がお恥しいことには事實はそう旨くいつてゐない。第一今の大學ぢや學そのものはしきりに研究してゐるけれども、學を教へる方法言はゞ教育法とでも稱すべきものを少しも研究してゐない。十年一日の如く獨逸あたりの大學でやつてゐると同じような講義法を持續してゐる。法律學そのものゝ特質を充分に考へた上、どうしたら最も能く學生をして容易に正しい理解を得させることが出來るかと言ふような事柄を苦慮し研究してゐる先生は恐らく一人もないだらう‥‥。

 ——そう言へば、一般に今の大學位教授法に無頓着な學校はあるまい。教授の方法にしても試驗の方法にしても、全く唯あり來りの方法を踏襲してゐるだけで、少しも特に考へられてゐるらしい所がない。小學校あたりに比べて見ると全くお話しにならないね。

 ——しかし今の法科大學のように學生の數が多くなると、あれより外にどうにも仕方がないと言ふ大いに情状酌量すべき點もあるのだ。しかし教授等自らが教授法に無關心だと言ふ缺點は大いにある。それに實際やつて見るとあの講演式若くは口授式方法で筆記をとらせるのが先生としては一番樂な方法だからね‥‥。

 ——そりやそうだらう。先生としては豫め講義案を作つて置いて一方的にそれを讀み聞かせさへすればいゝ。ヒドイのになると十年一日の如く舊稿を讀んでゐても大學の教師がつとまる‥‥。

 ——馬鹿を言へ、そんなヒドイことをやる先生は——昔はともかく——今ぢや少くとも吾々の仲間には一人もゐやしない。そんなことでは第一もう學生が承知しない。がしかし口授式方法が先生にとつて一番樂なことだけは確に事實だ。所が、あの口授式にも色々のやり方がある。其中最も幼稚な方法は講義案をそのまゝゆる/\と讀み上げて一字一句學生に筆記させる方法で昔吾々が學生時代に受けた教授は皆あの方法だつた。此方法によると、學生は何のことはない寫字生若くはタイピスト見たいなもので、書いてゐる間は無我夢中、書いてゐる事柄の意味をすら理解出來ないような始末だ。

 ——しかし先生の身になつて見ると、多數の學生が平蜘蛛のようになつて自分の一言一句を一生懸命に書いてゐるのを見ると聊か優越感を感じやしないかね。

 ——馬鹿、今時そんな馬鹿なことを考へる教師がゐるものか。おれなぞは學生があまり一生懸命に筆記してゐるのを見ると氣の毒になる。何とかしても少し筆記して貰はないようにと毎々注意してゐるような譯合だ。

 ——しかしとにかく學生をタイピスト扱ひにする教授法は野蠻に違ひない。その位なら講義などをやめて初めからプリントを配布して讀ませればいゝ譯だ。一體何だつてあんな不完全な教授法が行はれるようになつたものか知らん。

 ——其理由は色々あるが、第一昔は法律に關する著書が少かつた。大學の講義筆記が最も詳しく且完全な法律書だつた。だから學生の身になると成るべく精しく且完全に先生の言ふことを書きとつて置いて、場合によつては卒業後の參考書にまでしようと言ふような心掛けをもつてゐた。從つて先生としても成るべく文章を整へた講義案を作つてそのまゝ學生に書きとらせるように力めた。現に僕等が憲法を習つた穗積八束先生の如きは、音吐朗々書きとれば直に玉の如き文になるような講義案をゆる/\と讀みきかされた。そうして一年間何等の説明を別に加へるようなこともされなかつた。それでゐて吾々學生は大に隨喜の涙をこぼして敬服したものだ。つまり其時代には大學の先生の講義を筆記したものが其專門に關する唯一最高の讀み物だつたから、あゝした形式の講義にも大に存在理由があつたのサ。

 ——して見ると此頃のように著書が完備して來るとあゝした講義方法の存在理由がなくなる譯だね。

 ——そうだ。所がそればかりぢやない。あゝ言ふ形式の講義をすることになると、先生も結局讀ませる目的で講義案を準備する、先生が講壇に登つてしやべるのも口頭を以て親しく説明すると言ふよりは、後で讀んで貰ふものを書かせる。つまり自分のしやべるのも要するに一の機械的動作に過ぎないことになる。其結果講義案を書くに當つてもまるで本を書くのと同じような氣持で、少しも口頭説明の特徴を利用するような氣持にならない。一體僕の考へでは口で物を説明するのは恰も畫を描くようなもので、常に説明對象の全景を聽者の前に展開しながら、コツチをいぢりアツチをいぢつて順次に全體をまとめ上げてゆくことが出來ると言ふ特徴をもつてゐる。之に反して讀書によつて物を教へるのは恰も細い管の中を引つ張り廻すようなもので、讀者は各瞬間に於て現に其讀んでゐる個所のみを讀み得るに過ぎない。説明の各部分は必然的に時間的前後を以て現はれる結果として、説明方法も自ら全然違つたものになる。だから、同じ講演にしても、筆記して後から讀むとまとまつてゐないが聞くと如何にも面白い講演と聞いてはどうも面白くないが後から讀むと面白い講演の區別がある。世の中の人はどうかすると、後者のほうを尊重する氣味があるけれども、苟も口頭説明と言ふ特徴を利用する以上、寧ろ前者の方が講演として成功したものだと僕は考へてゐる‥‥。

 ——だから大學の講義もそうなければならないと君は言ふのだね。

 ——そうだ。無論學生が筆記してゆく便宜も多少考へねばならないからそう無遠慮に繪畫式を發揮する譯にもゆかないが、昔のように初めから書かせ且讀ませる目的で講義をするが如きは、抑々初めから口頭演述の特徴を捨てゝかゝるもの、講義として甚だ愚なるものだと僕は思ふのだ‥‥。

 ——それで今ではもうあの流儀は段々流行らない譯だね。

 ——そうだ、尤も或る大學では今でもやはり相當行はれてゐるらしいけれども。

 ——それぢや此頃は一般にどんな方法をとつてゐるのかね。

 ——サァ色々の流儀があるけれども、講義案なり著書をもたせて置いて説明を與へると言ふ形式をとつてゐる人が最も多いだらう。

 ——其方法はどうだね。

 ——此方法は少くとも學生をタイピスト扱ひにせずにすむだけの長所はある。それに講義案が能く出來て居り且先生の説明が旨くゆきさへすれば大いにいゝ。所が、此頃では此方法にも色々缺點があると言ふことが發見されるようになつた。第一豫め適當な講義案を準備印刷して學生に配布して置くことが大事業で仲々旨くゆかない、何か著書を臺本として使ふのも一方法だが著書は抑々それ自身獨立して讀む爲めにかゝかれたものだから講義案としては必ずしも適當しない。それから妙なもので講義案を臺本にして説明をしてゐると動もすると學生の注意が散漫になる虞がある。恐らく學生としては少し位聞き漏らしても兎も角講義案をもつてゐるから大したことはあるまいと言ふ氣持が多少あるらしい。筆記時代に比べるとどうも其所が旨くゆかないと言ふのだ‥‥。

 ——そんなことぢや心がけの惡い學生は初めから學校へ出て來ないだらう。

 ——無論そう言ふ弊害もある。しかしそうした學生は筆記時代でも他人のノートを借りたりプリントを買つて何とか間に合せてゐる連中で、餘り問題にする價値がない。之に反して學生の注意が散漫になると言ふ問題は大に考へなければならない。がしかし僕の考へでは先生の説明方法がよく説明内容も亦適切でありさへすれば、此方法をとつても恐らくそうした弊害は起らない。それが旨く行かないのは恐らく先生に力が足りないのか若くは熱が足りない爲めだと思ふ。

 ——しかし一體先生に力があり熱がありさへすれば教授法などはどうでもいゝのぢやあるまいか。

 ——そりや無論先生に力があり熱のあることは必須條件だ。力もなく熱もない先生が教授法にばかり氣をつけても教育の效果を擧げ得る譯はない。しかし同じ力を以てし熱を以てしても方法が惡いと教育の效果を充分に擧げることは出來ない‥‥。

     五

 ——それで一體君はどう言ふ方法で講義をしてゐるのだ?

 ——サァ色々やつて見たよ、筆記式も講演式も、其他色々の方法をやつて見たが、結局最も理想的な方法として確信をもつてゐるのは米國流のケース・メソッド(Case-method)だ。尤も今では學生の數が多過ぎるのと教授資料の作成が間に合はない爲めに實施を中止してゐるけれども‥‥。

 ——何だい、そのケース・メソッドと言ふのは?

 ——簡短に説明すると、要するに澤山の裁判々例の中から豫め適當の資料を選んで置き、それを學生に研究させた上、教場では質問應答の形式で學生自ら法律の精神と運用術を會得させようとする方法だ。

 ——すると先づ普通に演習とでも言ふような方法をとるのだね。

 ——そうだ。しかし根本の精神は演習と全く違つたものだ。演習にあつては演習を行ふ前既に講義によつて理論的に充分の智識を與へて置く、そうして實地演習によつて其智識の活用を習得させるのが主要目的になつてゐる。つまり講義が主で演習は副であり補充であるに過ぎない。之に反して、ケース・メソッドにあつては教師の方から積極的に理論を教へるようなことを絶對にしない。教師は唯教授資料たるべき判決集を與へる。そうして學生自らをして判決集を讀ませ且研究させる。それで教師が教場でやる仕事は專らかくして研究して來た結果について學生に質問を發する。そうして問ひつめ問ひつめた上結局學生自らをして自ら成程と悟らせるようにするのが此方法の精神だ。

 ——すると丁度禪の修業が公案を與へた上修業者自らをして思辨せしめる方法によつて悟りを開かせるようにしてゆくのと大いに似た點があるね。

 ——大いにそうだ。法律學を研究するについて最も大事なことは法律的思惟の修得だ。所が思惟の修得は思惟の實踐によつて之を取得するのが最もいゝ方法で、外からあゝ考へろのこう考へろのと教へて見た所が中々旨く行くものではない。恰も禪學問答なんて言ふ本をいくら讀んで見ても悟りを開き得ないのと全く似てゐる。一體法律學と言ふと其内容は、千變萬化色々複雜してゐるように見えるけれども、能く/\分析して見ると其根底に横たはつてゐる根本原則はいくらもない。それを澤山の公案を與へて順次にぶち破らせながら自ら悟らせてゆく所にケース・メソッドの特徴があるのサ。

 ——成程。理窟だけは尤もらしい。しかし實際君の言ふ通り旨くゆくものか知らん。

 ——無論行くよ、判決集のいゝのがあり、又教師に其人を得さへすれば全く理想的にゆく。現に此方法を發明したアメリカなどではハーヴァートのラングデル(Langdell)教授がこれを創始實行してからまだ五十年にもならないのに法科大學と言ふ法科大學は殆どすべて此方法を採用してゐる。そうしてすべて立派な成績を擧げてゐる。此事についてはウィーン大學のレードリッヒ(Redlich)教授の書いたものに The Common law and the case method と言ふ本があるから是非一度讀んで見給へ。

 ——そうかね。しかしそう言ふ方法を實施するについては教師も隨分勉強する必要があり學生としてもかなり勉強しなければなるまい。

 ——無論だとも、教師にしても現在日本の大學教授がやつてゐるよりは二倍三倍の骨が折れると言ふ話だ。學生などは一時間の講義を受けるのに二時間の準備をしなければならないような始末だ。だから一流の大學では法科の學生はとても運動の選手などになつてゐる暇はないと言はれてゐる‥‥。

 ——成程。しかしそれにしても能く學生がそんなに準備して來るね。

 ——だつて先生の方から積極的に教へてくれない以上、學生自ら充分に準備して自發的にやらない限り、全く教場に出る價値がないことになるもの。

 ——成程ね。そう言へば今の日本の學校では一般に餘り教へ過ぎる。僕が高等學校にゐた頃鹽谷青山先生と言ふ漢文の先生がゐた。その先生は學生に朗讀させたり先生自ら朗讀してきかせたりするだけで、一々細かい説明なぞを與へない。うるさく質問をすると、そんなことは何遍も讀んでゐる内に自ら解るものだと言つてとり合つてくれなかつた。それで其頃は何だ先生は誤魔化してゐるのだ位の惡口を言ひ合つたものだが、今にして考へて見るとあゝした教授法に大いに味があると思ふね。

 ——そうだとも、子供にしたつて腹を惡くすることばかりをこわがつて毎日お粥ばかりを食はせてゐると反つて體を弱くする。適當に固いものを喰はせながら消化力の發達を促すようにしなければ眞の健康を期することは出來ない。教授法でも其點は最も大事だ。

 ——そうだらう。しかしそれにしてもアメリカの學生達は先生の問ひに對して一々ハキハキと受け答へをやるかね。

 ——大いにやるよ。日本の學生を見てゐると、先生から何か質問を發しても中々奮發して答へようとする奴がない。皆おれは解つてゐるけれども答へない。答へなどするのは大人君子の沽劵にでもかゝはるような顏をしてゐる、全く以ていやになる。

 ——アメリカの學生にはそんな傾向は全くないか?

 ——ない。先生が「誰れか知つてゐるか」と言ふような質問を發すると、大の男が——イヤ無論女の學生もゐるがね——皆競つてまるで日本の小學生がやるように手を上げる。そうして臆面もなく滔々とやる。その溌剌たる具合は見てゐるだけでも實に氣持がいゝ。

 ——そうかね。日本の大學生ぢやとても仲々そう旨く行かなそうに考へられるが、一體どうしたらそんな具合に旨くゆくか知らん。

 ——至極尤もな疑問だ。おれも初めその點について大いに驚嘆した。そうして或る先生にケース・メソッドを旨くやつてゆくについて教師の心得べき重要事はなんだと言ふ質問を發したものだ。すると其先生の言ふことが面白いぢやないか。第一に學生がどんなに馬鹿な返答をしようとも絶對に笑つてはいけない。否他の學生に笑ふべき機會を與へるようなことをしてもいけない。第二に學生の質問に對して先生自ら知らないことがあつたならば「知らない」と答へろ。この二つが教授の祕訣だと言ふのが其先生の答へサ。

 ——成程。してその笑つてはいけないと言ふのはどう言ふ意味だい。

 ——それは解つてゐるぢやないか。學生が先生の問ひに答へるについては相當決心が要る。然るに折角決心して答へると笑はれて仕舞ふのでは、學生としてももう再び答へまいと言ふ氣になる‥‥。所がどうだい、日本の小學教育を見てゐると、充分其點を考へてゐない先生が實に多い。春の若草が萌え出るようにおつかなびつくり頭を出して來る幼少な生徒に向つて先生は無遠慮に嘲笑を與へる。無論他の生徒は一齊にドツと笑ふ。あれぢや折角一度は答へるだけの勇氣を奮ひ起した生徒もまるで晩霜にあつた若芽のように忽ちいぢけて仕舞ふ。かくして生徒は年と共に萎縮して中學生となり、大學生となつて、終には石のように沈默した大人君子になつて仕舞ふ。こうした學生を相手にしては到底旨くケース・メソッドなどを行ふ餘地は全くないと言はなければならない。

 ——すると、解らないことは潔く解らないと答へろと言ふ教への意味は何だい。

 ——それも今更説明する必要はないぢやないか。一體教師と言ふものは學生に質問されたときに「知らない」と答へるのを嫌がるものだ。何だか馬鹿にされそうな氣がして仲々そうした答をすることが出來ない。所が「知らない」と言ふ答へを嫌がつて何とかいゝ加減な返事をしたとして見給へ。其いゝ加減なことは直にばれるにきまつてゐる。そうしてそれがばれた以上、以後先生の信用は全く地に墮ちる。今度は如何に先生が立派な説明を與へても學生の方ぢや最早それをそのまゝ信用しない。大いに割引きして幾分の疑問を挾みつゝ萬事を聞くようになる‥‥。

 ——それぢや全く教育の效果を上げることは出來ないね。

 ——そうだとも。だから問答式の教授法をとるについては先生としても充分な準備と立派な覺悟を必要とする。先生の身になつて見ると仲々樂ぢやないよ。

 ——そうだらうな。しかしその代り教授の成績は大に上るね。何しろ教へることが一々學生の身に滲みて徹底し得るから。

 ——そうだ。殊に法律學のように先づ第一に法律的思惟の修練をさせねばならない學問にあつては、あゝした實踐的な禪式の鍛錬が最も必要だ。あゝやる以外全く他に採るべき方法がないと思はれる位なものだ‥‥。

 ——そんなら君も萬難を排してその方法を實施すればいゝぢやないか。

 ——そりや無論いゝにきまつてゐる。だから嘗て二三年萬難を冒して實行したことがある。そうして、自分の口から言ふのも變だが、其成績は決して惡くなかつたと今でも考へてゐる。所が何分教材たる判決集を作ることが仲々僕一人の力では出來ない。學生の數も問題にならない程多過ぎる。それにさつきも言つたような事情で學生が一般に大人君子を氣取つてゐる。これぢや到底理想的に此方法を實施することが出來ないよ。

 ——成程尤も千萬だ。それで今ではどんなことをして教へてゐるのだ?

 ——仕方がないから、筆記式に講演式を加味したような折衷的な方法でどうやらやつてゐる。しかし、成るべく判例に現はれた事例を引きながら法律的思惟とはこうしたものだと言ふことを教へるために、出來るだけ考へ方の實際をやつて見せるようにしてゐる。

 ——すると、一々公案を與へて修業をさせる譯にゆかないから、禪學問答の説明をして間接に悟りに近付かせるようなことをしてゐる譯だね。

 ——そうだ。遺憾ながら今の所それより外にとるべき途がないのだ。

 ——それにしても、從來普通に一般の教授がやつてゐる口授的筆記式よりは遙かに法學教育の目的に適つてゐるだらう。

 ——ウム、少くとも僕自らはそうだと確信してゐる‥‥。

     六

 ——其所で終にも一つ聞きたいが、法律學を學ぶとしてどう言ふ學問を豫備的若くは補充的に研究する必要があるかね。

 ——經濟學、經濟史、社會學、心理學、論理學‥‥と何でも知つてゐて損なものは一つもないね。

 ——ハハァ‥‥そりや無論そうだらう。しかし中でも特に必要なものは何かね。

 ——サァ僕の考へでは經濟學、經濟史、それと社會學の知識だけは一通りどうしても欲しいと思ふ。

 ——論理學はどうかね。

 ——無論必要だ。しかし今日高等學校あたりでやつてゐる程度の論理學なら必ずしも必要ぢやない。尤も昔僕等が大學に入る頃には法律學に入るとして最も必要な豫備知識は論理學だと一般に考へてゐた。形式論理を巧に操り得る者即ち法律學の優者であるように考へてゐた。

 ——と言ふのはどう言ふ譯だい。

 ——今から考へると變な話だが、その頃の法律學では、法律の解釋適用は「法律」を大前提とし「事實」を小前提として行はれる單純なる形式的の三段論法に外ならないものと考へてゐた。從つて法律の解釋適用は中學校でやる初等幾何學の問題を解くのと非常に似たもので、中學校で幾何學の能く出來たものは法律學にも向いてゐる位に考へてゐた‥‥。

 ——しかし、そりや一面至極尤もな所もあるぢやないか。

 ——そりやそうだ。一體あの幾何學といふ奴が數學の中でも一種特別なもので、一面形式論理を巧みに操る力をもつてゐる必要があると同時に、他面一種の言ふに言はれない「コツ」と言ふか「思ひ付き」とでも言ふようなものがないと旨く行かない學問らしい。其點では法律の解釋學と幾何學との間に非常に似た點であるから。

 ——成程、所で今ではそうした幾何學の問題を解くような能力をもつてゐるだけでは、到底立派な法律家になれないと言ふのはどう言ふ意味かね。

 ——サァ、それは非常に六かしい問題だが、簡短に言ふと法律解釋學にあつては、幾何學の公理定理に相當する「法律」の何であるかゞ一々の事柄について必ずしも確實にきまつてゐない。裁判官なり法律家が自分獨自の意見で此際適用せらるべき法律の何であるか其法律内容如何をきめてかゝらなければならない。法律は決して幾何學の公理や定理のように明瞭な内容をもつて初めから確然と其所に存在するものではない。寧ろ法律家自らが探求する、否進んでは法律家自らの創造するものだ。法典の中に書かれた文字そのものは死文に過ぎない。その中にそれ自身充足した不可動的の法律内容が其儘はつきりと書き記されてゐる譯ではない。次に又三段論法の小前提に相當すべき「事實」にしてもそれは決して幾何學の問題に於ける小前提の如く明確なものではない。裁判官が裁判をするに當つては雜然たる生地の事實の中から法律適用の對象たるべき「事實」を探出し作り出すのであつて、裁判官其物の働きも矢張り一種の創造的作用と言ふことが出來る。所が以前吾々が法律學を習ひ初めた頃の法律家は法律の解釋適用をそうしたものとして考へてゐなかつた。「法律」も「事實」も初めから確定したもので裁判官自らの「創造」を入れる餘地は全くない。裁判官としては唯機械的に形式論理を操るの外他に何等の爲すべきことがないように考へてゐた。其所で法律の解釋適用は幾何學の問題を解くのと大差ないものとして一般に考へられてゐたのサ。

 ——成程。そうなると例へば裁判官が或る事件に適用せらるべき法律の何であるかをきめるについても與へられてゐる法規の社會的價値如何について充分の批判を加へる必要がある。そうしてその上で初めて適用せらるべき法律の内容が定まる、と言ふ譯だね。

 ——そうだ。さればこそ其批判を妥當に爲し得べき能力を養ふ必要がある。經濟學、經濟史乃至社會學等の素養を必要とすると言ふのもそれが爲めだ‥‥。

 ——つまり今迄の法律家はとかく法律の世界に立籠つて内からのみ法律を觀察しようとする。其結果として、とかく法律の實際上働く範圍を不當に廣く考へ過ぎたり、社會制度の一として法律の存在する所以を忘れて全く世の中と調和しない一人よがりの法律解釋をする。之に反して君等は法律を内から眺めると同時に法律以外の世界からも觀察しようとする。そして一面法律本來の社會的使命を正しく理解して道徳、宗教其他各般の社會的規範及び經濟其他社會的事物の必然に要求する所と調和しつゝ、法律をして其本來の使命を充分に發揮させようとする譯だね。

 ——大いにそうだ。それに學生をして法律を正しく理解させる方便としても、其法律を生まれしむるに至つた經濟的社會的事情について充分説明を與へる必要がある。そうすれば其法律の妥當する範圍も明瞭になり、從つて法律を解釋適用するに當つても對象たる事實が果して其法律の妥當する範圍内にありや否やについて精密な觀察をするようになる。かくして初めて法律の社會的使命を正當に理解させ、之を社會と調和するように取扱ふ術を會得させることが出來るのだ‥‥。

     七

 ——すると君等が法律研究方法の一として判例の研究を高唱すると言ふ話を聞いたことがあるが、其理由も正に其所にある譯だね。

 ——そうだ。學者は自ら机上で純理を考へると主張してゐる。而かも彼等が机上で其所謂「純理」を考へる場合にも、實は頭の中で或る事實——而かも極めて單純化された實際の世の中にはとてもありそうもない事實を空想してゐる。そうして其事實を基礎として法律を考へてゐる場合が多い。其結果、彼等の説く所は初歩の學生に法律の模型的な——從つて實際には存在しない——動きを教へるには役立つけれども、實際世の中に出て來る活きた複雜な事實に法律を解釋適用してゆくについては殆ど何等の助けをも與へ得ない場合が多い。之に反して實際の判例を研究してゆくと、法律が實際の活きた複雜した社會的事實に當てはめられつゝ活々と活躍してゐる有樣があり/\と見える。其結果判例を研究して見ると、實用的にも又理論的にも、學者として大いに反省する所が多い‥‥。

 ——それでこそ初めて本統の活きた法律が解ると言ふ譯だね。

 ——そうだ。學者は能く判例などを研究しても、裁判所はどの法規をどう解釋してゐるか若くは嘗てどう解釋したことがあるかゞ分るだけで、學問的には大した價値がないものゝようなことを言ふ。けれども、そう言ふ連中は法律と言ふものが活きた複雜な事實に適用せられつゝ如何に千變萬化の相を示すものであるかに氣がつかないのだ。そうして其事實につれて千變萬化する所以及び其變化する法則を明にすることが法律解釋學の最も重要な任務であることを忘れてゐるのだ。又吾々が判例を研究してゐると裁判所が或る事件を取扱ふに當つて其理論的説明に窮するの餘り色々無理な説明を與へてゐる例を發見することが少くない。其場合吾々は直に吾々法律家が從來理論なりとして説いてゐたことそれ自身に或は根本的の誤謬があるのではないかと言ふ反省をする‥‥。

 ——丁度物理學者が新しい實驗に基いて在來の假説それ自身に向つて疑ひを抱くようになるのと同じように‥‥。

 ——そうだ。吾々法律家は物理學者のように自分の好む事柄について隨時に限定された條件の下に好き勝手な實驗をやつて見る譯にはゆかない。しかし判例の上に現はれた法律の活きた動きを活眼を以て觀察してゐると、全く物理學者が實驗をやつてゐるのと同じ效果を擧げることが出來る譯だ。

 ——そう言ふ風にして或は從來の理論の誤謬乃至缺點を發見し、又或は新しい理論の補正を考へることが出來れば誠に結構だね。

 ——大いにそうだ。だから君がこれから法律學を研究するにしても、やはりこう言ふ方面に注意することだけは怠らないようにして欲しいと思ふね。

     第二話 法律

     一

 ——それでは愈々法律學の本問題に入るとして、先づ第一に「法律とは何ぞや」と言ふ問題を説明してくれないか。

 ——何に? 法律とは何ぞや? 君のような初學者がそんな問題から始めるのは學習の順序上甚だ面白くないんだがな‥‥。

 ——と言ふと、初學者にとつては問題が餘りに理論的乃至抽象的に過ぎると言ふ譯かね?

 ——そうだ。

 ——しかし、僕の注文は決して初めから專門的法律學者を滿足させるような嚴密な定義を掲げて理論的に説明してくれと言ふのではない。寧ろ色々實例を擧げながら、法律はこうしたものだと言ふことを自ら悟れるように説明して欲しいのだ。

 ——よろしい、そんなら一つ其方針でやつて見るが、飽くまでも君を素人扱にして説明するぜ。つまり具體的の實例を擧げて君の直觀に訴へつゝ、其直觀する所に理論的の批判を加へながら段々に概念を明確にしてゆくと言ふような方法で‥‥。

 ——どうかそう願ひたい。

     二

 ——それでは先づ僕の方から聞くが、君等普通の人々は法律と言ふと何となく君主其他主權者の命令であると言ふような感じをもつてゐるのぢやないか?

 ——どうもそんな氣がする。

 ——しかし、そう言ふ風に考へると、一般に法律だと思はれてゐる國際法は法律の中に入らないことになるぜ。

 ——と言ふと?

 ——國際法の行はれる社會、即ち國際社會にはそれを支配する君主其他主權者のようなものが存在しない。從つて從來國際法だと言はれてゐる法規のすべては國際條約なり國際慣例から發生したものだ。それにも拘はらず吾々法律家は勿論君の直觀に訴へてもあれを法律ではないとは言ひ切れないだらう?

 ——そりやそうだ。しかし國際社會にしても國際聯盟が出來たり國際仲裁裁判所が出來たりするにつれて段々主權らしいものが生長してゆく傾向はあるぢやないか。

 ——そりや無論ある。しかしさらばと言ふて、今までの國際法は法律にあらず、今後漸く法律にならんとしてゐると言ふ譯にもゆくまい。

 ——そう言はれゝば確にそうだ。がそれにしてもどうして吾々普通の人間には法律即ち主權者の命令と言ふような考へが一般に滲み込んでゐるのか知らん?

 ——そりや歴史上法律の中重要なものは主權者の命令によつて發生したものが最も多い。其結果として一般に法律と言へば何となく主權者の命令であると言ふような感じを抱くようになつたのだ。

 ——成程、すると、國際法以外にも主權者の命令に基かずに發生したと認むべき法律の例が他に澤山あるかね?

 ——そりやいくらでもある。第一吾々の世の中には慣習法即ち社會一般の慣習によつて法律たる力をもつに至つた規範が數多く存在する。そうしてそれ等の慣習法的規範は國家主權者の命令によつて發生したものでもなければ、又國家主權者の承認を待つて法律たる性質を取得したものでもない。假りに國家がかくかくの慣習法は之を否認すると宣言して見ても、それは唯國家としては其慣習法を認めない、從つて國家の裁判所は裁判上其效力を認めてはならない、と言ふことを宣言したゞけのことであつて、其慣習法それ自身が社會上實質的に法律たる性質を有するや否やは理論上毫もそれによつて影響を受くべきではない‥‥。

 ——しかし國家が認めなければ、慣習法にしても自ら效力が薄くなるだらう。

 ——そりやなることもあるだらう。しかしそれは事實上の問題であつて理論上必然の關係ではない。成程慣習法は國家の否認によつて事實上世の中から消滅することもあり得るだらう。けれども慣習法の法律性それ自身は理論上全然獨自的に考へられるべき事柄であつて、國家の認否如何とは何等理論的の關係をもつものではない‥‥。

 ——成程、その點は如何にもそうらしい。

 ——それでは今度はもつと極端な例を引いて問題を考へて見よう。例へば僕が此部屋に「禁煙」と言ふ掲示を出したとするぜ。君はそれを法律だと思ふかね。

 ——さあ確に一種の規則だとは思ふけれども、何となく法律だと言ふ氣はしないね。

 ——それなら電車の中に出てゐる「禁煙」の掲示はどうだ?

 ——あれ等でも「其筋のお達により」とか何とか警察其他多少とも國家權力に基礎を置いて居れば兎も角、電車會社が勝手にそう言ふ掲示を出しても法律にはなり得ないだらう。

 ——しかし、例へば電車會社がそう言ふ掲示を出してゐるにも拘はらず或る乘客がそれを無視して煙草を飮む、車掌が注意してもどうしてもきかない、仕方がないから車掌が終に其客を降して仕舞つたとするぜ。そうした現象は國法を遵奉しない人間に向つて國家が刑罰其他制裁を加へてまでも遵奉を強要するのと非常に似てゐないか知らん‥‥。

 ——似てゐることは確に似てゐる。

 ——そんなら國家の權力を基礎に置いてゐるかどうかと言ふことだけを標準にして法律なりや否やをきめようとする考へは非常に怪しいと言ふ結論だけは確に出て來るぢやないか。電車に乘つて來る不特定多數の客を豫定しそれに向つて遵守を強要する目的を以て會社が「禁煙」の規則を出した以上、其規則は國家の法律——乃至所謂「其筋のお達し」——に根據を置いてゐるや否やに關係なく電車内の法律になる。無論其規則が「其筋のお達し」に根據して制定されたのであれば、イザ違反者がある場合にも國家は直に強制力を貸して規則の強行を助けてくれるだらう。從つて平素から其規則が事實上行はれ易いと言ふ傾向はあり得るだらう。しかしそれもやはり事實上の問題に過ぎない、其規則が性質上法律と見るべきものなりや否やは全然別に理論的に考察せらるべき問題だ‥‥。

 ——すると君が此部屋に「禁煙」の掲示を出した場合も全然同じだと言ふのかい?

 ——そうだ。

 ——しかし此部屋は大學研究室の一部分、言はゞ國家の所有物だ。從つて大學自らが「研究室内に於て喫煙を禁ず」と言ふような規定を制定したのであれば格別、事實上此部屋の使用を許されてゐるに過ぎない君が勝手にそんな掲示を出しても、それを法律と考へるのはちと變ぢやないか。

 ——そう言ふと君は大學自らがきめたものであれば兎も角國家と言ふ背景をもつた規則だから法律だと言ふのかい?

 ——そんなことはない。さつきからの話をきいた以上、法律性の決定について今更國家をかつぎ出す必要はない位のことは分つてゐる‥‥。

 ——そりやそうだらう。さもないと、同じく大學當局者の制定した禁煙の規則でも國立大學のそれは法律であり、私立大學のそれは法律でないと言ふような變な結論に到達せざるを得ないから‥‥。

 ——成程そりやそうだ。しかし、同じ規則でも君が作つたのと大學當局が作つたのでは大いに譯が違ふだらう。

 ——そりや違ふ。しかし根本の理窟は少しも違はない。成程此部屋は大學研究室の一部分に過ぎないから法律上僕の所有物でないこと素より言ふを俟たない。けれども、此部屋が僕の研究室として事實上僕の專用に供されてゐる以上、僕としては事實上此部屋について「禁煙」の規則を制定することが出來る。そうして入室者に向つて禁煙を強制することが出來る‥‥。

 ——しかし君が強制し得ると言ふのは要するに事實上の問題で、何等法律上の根據を持つてゐないぢやないか。

 ——そりやそうだ。けれども、それと國家が何等か或規則をきめて國民はすべて之を遵守すべしと命じてゐる場合とどれだけの違ひがあるか知らん‥‥。

 ——けれども、國家には主權がある。

 ——成程、しかし國家には主權がある、從つて國家の制定した法律は國民一般に向つて法律的效力をもつと言ふ説明は、要するに光の傳達を説明する爲めにエーテルの存在を假設するのと類似した説明方法ではあるまいか。國家の法律が國民に向つて法律的效力を有する社會的基礎を細かに考へて見ると、或は國民が主權者たる君主に向つて理窟を超越した崇高な尊敬心を持つてゐるとか、或は主權者が兵馬の權、警察司法の權其他の權力をもつて其命令を強制貫徹し得るだけの實力をもつてゐるとか、國家が國民に對して心理的乃至物理的の優越力をもつてゐることが要するに其命令に法律的效力を與へる社會的基礎であつて、主權概念の如きは畢竟それ等の事實的優越力の足らざる所を補足する爲めの論理的假説に過ぎないのではあるまいか。換言すれば、國家には主權がある、從つて其制定した規則は國民に對して法律的效力があると言ふ説明は、法律的論理的には確かに成り立ち得るけれども、社會學的に事物をありのまゝに觀察して見るとそれでは如何にも物足りない。殊にそうした考へ方をもとにして、國家には主權があるから其制定した規則に法律性を認め得る、之に反して僕は此部屋について主權をもたないから、僕のきめた規則は法律になり得ない、と言ふが如き説明は少しく物を實質的に考へて見ると全然意味をなさないぢやないか。

 ——成程、そう言はれて見ると確にそうだ。社會學的に考へて見れば、國家が其支配する人民を相手にして規則をきめるのと、君が此部屋に入り來るべき不特定多數の人々を豫期して「禁煙」の規定をきめるのとは極めて類似した事柄だ。本質的には全く同じもの、唯兩者の間に程度の差異があるに過ぎない、と考へるのが合理的だ‥‥。

     三

 ——そうだとも。一體今までの法律論は一般に國家的要素を重く考へ過ぎて居る。そうして社會學的考察と論理的思辨の問題とを混同してゐる。其結果、或は國家主權者の命令即ち法律であるとか、或は少くとも國家主權によつて支持されてゐる規範即ち法律である、と言ふような説明を與へ勝ちである。所が、事實を如實に觀察して見ると、同じく國家の法律にして見ても專制君主國若しくは現在吾國の如き立憲君主國にあつては如何にも君主即ち主權者の命令によつて法律が制定されるように見える。之に反して共和國等に於て法律の制定される工合を見てゐると、あれを主權者の命令であると説明するのはかなり無理だ‥‥。

 ——しかし、主權は君主に在らず、主權の主體は國家である、と言ふように説明すれば、あれ等の國の法律も尚主權者の命令として説明し得るぢやないか?

 ——所がそうした説明は畢竟形式的な法律家的説明に過ぎない、事物の根柢まで透徹した科學的説明とは到底言ふことが出來ない。そう言ふ考へは要するに、古來法律の多數が君主の命令によつて發生したと言ふ事實を根據として先づ「法律は君主の命令なり」と言ふ定義をきめた上、更に「君主は主權者なり」否「主權者は國家なり」と言ふような考へを基礎として「法律は國家主權者の命令なり」と言ふ結論を導き出してゐるに過ぎない。それに比すれば、國家の法律の中にも君主の命令によつて發生するものもあり國内有力者の協定によつて成立するものもある、と言ふ説明の方が遙に眞を穿つてゐるぢやないか。

 ——成程、そうすると國家の法律でも發生原因を標準にして分類すると色々に區別することが出來ると言ふ譯だね。

 ——そうだ。同じく國家の法律でも或るものは命令により、或るものは協定により、或るものは又慣行によつて發生する。所謂裁判上の慣例ドイツ人の所謂 Gerichtsgebräuche の如き正にその最後の例だ。そうしてそう考へて見ると、國家以外の社會についても、或時には其社會の事實的權力者の命令によつて法律が發生したと考へることが出來るし、或時には其社會構成員全部若くは有力者の協定によつて法律が出來、又或る時には社會生活の一般慣行から法律が生まれると考へられる場合もある。要するに、發生原因如何によつて法律なりや否やを區別し、又國家的要素の存否如何によつて其區別を立てようとするのが根本的に間違つてゐる‥‥。

 ——すると、國家的權力によつて支持されてゐる規範即ち法律だと言ふ考へもいけないかね。

 ——無論いけない。成程國家の法律は國家的權力によつて支持されてゐる。けれども、國際法を支持してゐるものは國際社會そのものに行はれてゐる一種の統制力であつて、國家的權力ではない。國家内の各種小社會に行はれてゐる法律を支持するものもそれ等小社會を支持してゐる統制力それ自身であつて國家的權力ではない。要するに、國家主權者の命令とか國家主權の支持と言ふような觀念を基礎にして法律概念をきめようとする考へはすべて間違つてゐる‥‥。

 ——それぢや一體君は何所に法律と否とを區別する標準を求めようとするのかね?

 ——充分に説明すれば長くなるが、要するに法律はすべて其行はるべき社會の存在を前提とする。又社會が存する以上其所には必ず或る統制力が行はれてゐる、そうして其統制力が當該社會に行はるべきものとして遵守を強要してゐる規範である以上、其社會が國家であると否とに關係なくすべて法律だと言ふのが僕の考へだ。

     四

 ——何だい其統制力と言ふのは?

 ——國家について言へば國家の權力が即ちそれだ。

 ——國家以外の社會について言ふと?

 ——要するに當該の社會それ自身從つて其法律の存在を可能ならしめてゐる基本的の力だ。

 ——と言ふと?

 ——例へば僕が此部屋に「禁煙」の掲示をした場合に、それをして法律的性質をもたしめてゐる統制力は僕自らの事實的支配力にある。僕は此部屋について事實上支配力をもつてゐる、從つて僕が此部屋に入り來るべき不特定多數の人々を豫定して「禁煙」の規則をきめ、そうして其遵守をそれ等の人々に向つて強要してゐる以上、其規則は此部屋に關する限り確に法律たる性質をもつてゐる‥‥。

 ——成程。

 ——又例へば方々の工場に行はれてゐる就業規則‥‥。

 ——と言ふと?

 ——職工の出勤時間其他就業上の規律をきめてゐる規則のことさ。あれなどは性質上どうしても當該工場の法律として見なければならないものだが、其法律的性質の基礎たるべき統制力如何を考へて見ると、或場合には規則を制定した工場主その人の事實的支配力がそれだと考へられるし、又或場合例へば工場主と職工の代表者との協定によつて規則をきめたような場合には其協定當事者間に成立した一種の實力關係、信義關係が統制力の基礎だとも考へられる。

 ——すると、國際法についても國際社會に行はれてゐる一種の信義關係が即ちその基本的統制力だと考へることが出來るね。

 ——そうだ。無論單に信義關係と言ふよりは何となく國際法に權威を與へてゐる國際社會の力と言ふ方がより適切のように思はれるけれども‥‥。

 ——成程、すると、君の考へによると社會には必ず法律の基礎たるべき統制力がある、唯其統制力が如何なる事實に基礎を置き如何なる形式をもつて現はれるかゞ場合によつて色々違ふと言ふ譯だね。

 ——そうだ。國家の場合でも單に國家には主權があると言ふような形式的説明を以て滿足することは到底出來ない。國家も一種の社會である以上其所には必ず一種の統制力がある。そうして其力の實質的基礎を考へて見ると、或場合には君主の傳統的な神權的實力がそれだと考へられる。或場合には征服君主の武力がそれだと考へられる、又或場合例へば純粹な共和國なぞについて言ふと各種の政治的勢力相互間に存する節制關係、協調關係乃至は又信義の關係がそれだとも考へられる。要するに、形は色々違つても苟も社會たる以上其所には必ず基本的の統制力が存在する。そうして其統制力が遵守を強要してゐる規範が即ち法律であると言ふのが僕の考へだ。

     五

 ——成程色々聞いて見ると大に尤な所がある。無暗に國家的な何物かを法律の必要的要素のように考へるのは確に間違つてゐる。けれども、此所まで考へを進めて來た上で又別に心配になるのは、かくして得られた法律の概念が餘りに空漠に過ぎる。道徳禮儀等との區別は果して何所に存するのであらうか、と言ふことだ。そこの所を君はどう説明するのかね?

 ——其點をどう説明するかについては昔から色々の議論があるけれども、僕としては矢張り當該の規範が其社會の統制力によつて強行せらるべく要求されてゐるかどうかで法律なりや否やを區別し得ると考へてゐる。學者の中には、規範の内容如何で其區別を立てゝ、例へば道徳は人の心に關する規範、法律は人の行爲の規範であると言ふような説明を與へてゐる人が少くないけれども、僕の考へでは例へば一般に道徳に過ぎないと言はれてゐる「親を敬ふべし」と言ふ規範でも、國家が法律制定の手續によつてそれを制定し、そうしてその遵守を強要するならばやはり法律になる。無論、法律の力を以て人の良心を動かすことは出來ない。從つてそう言ふ法律が事實所期の目的を達し得るや否やは別問題だ。だから又國家がそう言ふ法律を制定することが妥當であり合目的的であるかどうかは大に疑はしい。寧ろ甚だ妥當ではないと僕は考へてゐる。けれども、それが爲め其規則が法律であることには何等の妨げもない譯だ。

 ——すると禮儀についても同樣のことが言へるかい?

 ——言へるとも。例へば吾々が知人に會つたときにはお辭儀すべきだと言ふ規範は禮儀に過ぎない。けれども、軍隊で上官には必ず敬禮すべきことを規定し強要してゐれば、其内容的には全く同じ規範が法律になる。宗教的信仰にしても國家が國民に向つて一定の信仰をもてと言ふ命令を發することが妥當であるかどうかは別問題として、社會統制力としての國家がかゝる規範の強行を要求してゐる以上、尚それは一種の法律だと言ふことが出來る。

 ——しかし或る人が一定の信仰をもつてゐるかどうかは結局その人間の外部的行動によつて推知するの外ない。例へば「日本人はすべて神道を信仰すべし、信仰せざる者は死刑に處す」と言ふ法律を作つたと假定する。しかし愈々其法律を強行するとして、果して或る人が神道を信仰するや否やは神社を拜むや否やと言ふような外形的事實によつて之を判斷するの外ない。從つて、結局法律としては單に人の行爲を左右し得るだけで心の問題はどうにもならない。それは法律規範の外にあらねばならない、と言ふ結論になりはしないか知らん。

 ——そんなことはない。そう言ふ議論は從來可成り廣く行はれてゐるけれども、それは要するに法律の法律としての效力と社會的效果とを混同する爲めに起る考へだ。成程或る人が一定の信仰を有するや否やは其人の行動によつて判斷するの外ない。けれども、法律は必ずしも神道の信仰を強制する目的を以て「神社を拜むべし」と言ふような外形的行爲を強要する規範の形式をとらねばならないと言ふ理由はない。直接心の問題に干渉して「神道を信仰すべし」と言ふ規則を作つたからと言ふて決してそれが法律ではないと斷言することは出來ない。成程そう言ふ法律は不適當な法律であるかも知れない。如何程そんな法律を作つても結局人の心を動かすことは出來ないかも知れない。しかし動かすことが出來るかどうかは其規範の社會的效果の問題に過ぎない。それが法律それ自身として效力を有するや否やは毫もそれによつて動かさるべきではない‥‥。

 ——するとつまり、法律が心の問題に干渉するのがいゝか惡いかの問題と、心の問題を規律したものが法律であるかどうかの問題とは全然別だと言ふ譯だね。

 ——そうだ。所が今まで多數の學者は其二つの問題を全く混同して兎角法律は外形的行爲の規範だと言ふような定義を與へようとしてゐる。

 ——成程、所でそうした考へは一體どう言ふ原因から生まれたのかね?

 ——さあこれも相當議論のあり得る問題だが、要するに中世の國家が一般に個人の權威を無視し濫りに人の心の問題にまで立入つて無理な干渉を行つた、それに對する反動として——即ち近世的の個人主義的人格主義的思想の現はれとして——法律は單に人の外形的行爲を支配すべきもの、心の問題に立ち入るべきものではない、と言ふような主張が一般に行はれ、そうして法律と道徳乃至宗教とを成るべく引き離そうとする努力が廣く一般に行はれるようになつたことに其原因があると僕は考へてゐる。

 ——するとそうした主張は要するに法律を以て心の問題に干渉するのはいけない、合目的的でないと言ふことを主張してゐるだけで、法律は概念的に必ず人の外形的行爲に關するものでなければならないと言つてゐる譯ではないのだね?

 ——そうだ。所が後の人々はあゝした議論の生まれて來た時代の背景を忘れて一般に法律と道徳とは飽くまでも區別すべきものだと言ふ考へにのみ捉はれてゐる。そうして法律は人の行爲に關する規範、道徳は人の心に關する規範であると言ふような説明を與へて安神してゐる。無論、僕だつて法律を以て濫りに人の心や信仰の問題に干渉するのは甚だよろしくない、そんなことをしても單に目的を達し得ないのみならず、社會上反つて惡い影響を及ぼす、と確信してゐる。けれども、それは單にそうしたことをするのが合目的的であるかどうかの問題に過ぎない。法律の概念それ自身とは全然別箇の事柄だ‥‥。

     六

 ——成程。その點は大に納得出來る。が、そう言ふ風に或規範が法律であるかどうかをきめるについて國家的要素も全然排斥し又規範の對象たるべき事柄にも全然何等の區別も立てないことにすると、結局或規範の法律なりや否やは其規範の行はるべき社會の統制力が其遵守を強要してゐるかどうかと言ふ標準だけできまることになる‥‥。

 ——その通りだ。

 ——所がそう言ふことになると、その遵守が強要されてゐるかどうかを具體的事實について判斷することが非常に困難であり、其結果法律なりや否やを判定するのが非常に六かしくなりはしないか知らん。

 ——そりや無論なる。しかしそれは單に實際上の困難であつて理論そのものの缺點ではない、國家の命令其他國家的要素を加味して法律の概念をきめようとするが如き學説は畢竟その實際的困難を避ける目的を以て理論をみだし誤つてゐるものと見なければならない。又規範に制裁が附いてゐるかどうかを標準として法律なりや否やをきめようとするが如き説も同樣の傾向にあるものと言ふことが出來る‥‥。

 ——と言ふと?

 ——つまり道徳はそれに違反するものに向つて何等外部的の制裁を加へざるに反し、法律はそれを加へると言ふのさ。

 ——成程。

 ——所が、制裁の有無は社會的統制力が遵守を強要してゐるかどうかを判斷する標準の一にはなり得るけれども、それ自身決して獨立唯一の判斷標準となるものではない。現に法律の中には何等制裁の規定されてゐないものがいくらでもある‥‥。

 ——と言ふと?

 ——例へば憲法や國際法の中には澤山そうした例があるが、それ等の規定はいづれも法律の強行を確保するについてすべてを政治的道徳、國際的信義等法律以外の力に信頼してゐるのであつて、事實又それより外仕方がないのである。而かもそれが爲めその法律たる性質は毫も害されない‥‥。

 ——成程。聞いて見ると結局社會的統制力の強要と言ふ所に標準を求めるより外仕方がないことになるね。

 ——そうだ。無論その標準を實際に應用するについては先程も言つたように色々の困難がある。殊に其點で一番困るのは慣習法と事實たる慣習との區別だ。例へば或土地に一定の慣習があるとして、それが果して法律たる性質をもつてゐるか、若くは單なる慣行に過ぎないか、を判定するのは非常に困難だ。其所で仕方がないから結局學者は一般に其社會の人々が其慣行的規範について法律たるの確信を持つて居るかどうかを標準として區別を立つべきであると主張してゐる‥‥。

 ——問題を以て問題に答へてゐるようなものだね。

 ——そうだ。しかし能く考へて見ると其所に中々妙味がある。つまり單に慣行であり仕來たりであるに止まらず、法律として遵守が強要される程度になつてゐるかどうかに標準を求めようとするのだから‥‥。

 ——が其場合その強要をする主體は何者だと言ふことになるのかね?

 ——社會それ自身、社會を構成する人々全體、も少し具體的に言へば輿論其他の形式で現はれる社會そのものゝ統制力だ。

 ——頗る漠然たるものだね。

 ——無論漠然たるものだ。國家の制定した法律の場合だと其遵守を強要する統制力は國家であるとか主權であるとか比較的はつきりしたことを言へる。其結果やゝともすると國家の制定によらずして成立した法律についてまで國家的統制力其他國家的要素を持つて來て法律と否とを區別を何とか然るべく説明しようとする考へが出て來る譯だ。しかし、國家以外の社會——例へば國際社會、國家内の各種小社會——にもそれ/″\必ず或る形の統制力がある。無論國家的統制力の場合のように多少ハツキリした形式をもつて現はれてゐる場合もあり、又單に輿論其他極めて漠然たる形をとつてゐるに過ぎない場合もあつて、其外形に現はれてゐる工合は千差萬別だ。從つて最も極端な場合を見ると、頗る漠然たるものになるけれどもそれは已むを得ない‥‥。

 ——成程。

 ——例へば、或部落に村民は必ず毎年一回道普請の仕事に出なければならないと言ふ慣習があるとするぜ。そうして其慣習は或場合には區長其他部落の役人の命令によつて實行され、或場合には違反者には村八分其他制裁が加へられると言ふ理由を以て確實に實行される。しかし又或場合にはそうしたことが全くなく、單に慣習たるの故を以て村民のすべてが遵守すべきものと信じ而して其故を以て立派に實行が確保されてゐることもある。しかし、さらばと言ふて、此最後の場合は法律でないと言ひ切れないだらう。

 ——そりやそうだ。

 ——そうして、此場合にはそうした村民全體の信念、それが即ち其慣習の法律たる所以を支持してゐる社會的統制力だ。

 ——成程、すると君の考へでは、法律の中にも非常に法律らしいもの即ち何人も其法律たることを疑はないものと、非常に法律らしさの稀薄なものとがあつて、法律らしい程度に色々の段階がある。そのすべてをひつくるめて、法律とは何ぞやと言へば要するに社會的統制力によつて遵守が強要されてゐる規範が即ちそれだと答へるの外ないと言ふことになるのだね。

 ——そうだ。非常に漠然としてゐるようだが色々不純な分子をとり除いて考へて見ると、考へは結局此所に落ちつく。無論、そうして法律ときめられた規範の中にも色々な區別がある、殊に國家以外の或社會が生み出した法律を國家——例へば國家の裁判所——がどう取扱ふか、どの程度まで效力を認めるか、と言ふような問題になると、別に大いに考へる必要がある。以下の標準できめられた法律だからと言ふて、國家は必ずしもそのすべてを當然に法律として取扱はねばならないことはない‥‥。

 ——國家的立場から或規範は之を法律として取扱ふべきではないときめたとしても、それが爲め其規範の法律たる性質それ自身は毫も害されないと言ふ譯だね。

 ——そうだ。だから其所の所は別の問題として他日別に話することにしよう。

 ——どうかそう願ひたい。

     第三話 社會の法律と國家の法律

     一

 ——君の話によると「法律」と言ふものゝ範圍が非常に廣い、苟も或る社會の統制力によつて強行を要求されてゐる規範である以上、其規範の内容如何に關係なく又其社會が國家であると否とに關係なく、すべて法律だと言ふことになる‥‥。

 ——そうだ。

 ——所でその君の所謂法律は國家の法律であると否とに拘はらずすべて法律學の研究對象になるの かね?

 ——無論なるさ。例へば國際法なぞは國際社會の法律で國家の法律ではない。而かも國際法を研究對象とする國際法學は明かに法律學の一部門を成してゐる。

 ——成程。すると君が此研究室に出した「禁煙」の掲示も君の説によると一種の法律だそうだが、之も矢張り法律學の對象になり得るかね?

 ——無論なり得る。而かもそれは全然違つた二の意味に於てなり得る。

 ——と言ふと?

 ——一は此研究室と言ふ小社會を標準として此小社會の法律學が成り立ち得る。例へば、此部屋の中で煙草を喫んではいけないと言ふ法律がある、然るに或る男が入つて來て煙草をのむ、僕がとめてもきかない、とう/\僕が其男に退出を命じたとする。其所には明かに一の法律現象があり、此部屋の法律學の研究對象となるべき法律事件がある譯だ。

 ——成程。

 ——所で其退出を命ぜられた男が、此部屋は大學研究室の一部であるのに僕が勝手に禁煙の規則を作つてそれを強行するのは怪しからん、と言ふて、大學の當局者に訴へたとするぜ。其所で國家の一機關たる大學は國家の立場から大學教授の一人たるに過ぎない僕が勝手に規則を作つて其強行を計るのはいけないとかいゝとか然るべく判斷を下さねばならない立場に立つ。そうして其判斷を下すについては、大學の規則だとか國家の營造物使用に關する規則だとか言ふものを規準として色々考へねばならない。而して其問題は正に國家の法律の問題であり國家を基準として成り立つ法律學の對象となるべき法律現象だ。

 ——成程、それで二の全然違つた意味に於て法律學の對象になり得ると言ふのだね。

 ——そうだ。も少し他の例を引いて僕の考へを明かにしてゆくと、例へば或る博徒仲間に「博打に負けた者は直に支拂はざるべからず」「支拂を爲さゞる者には鐵拳制裁を加ふ」と言ふ規則があるとする。所が甲なる博徒が負けたにも拘らず容易に支拂はうとはしない。そうすると彼等仲間の問題として「甲は支拂ふべきや否や」「甲に鐵拳制裁を加ふべきや否や」なる法律問題が起る。そうして其問題を裁斷する規準たるべきものは彼等仲間の法律であり、其法律及び裁斷を對象として一の法律學が成り立ち得る譯だ‥‥。

 ——博徒仲間の法律學がね?

 ——そうだ。彼等の仲間にだつて、かく/\の場合にはかくすべしこれ/\の場合にはかくあるべしと言ふ色々の規則があり、そうして其規則の解釋適用に精通した法律學者があり、又其適用を實行する執行者もあり得る譯だ‥‥。

 ——成程。

 ——所でそうした博徒仲間の法律は獨り彼等仲間の法律學の對象となるのみならず、同時に又國家の法律學の對象にもなり得る。例へば、先程の甲が支拂はない、勝つた奴から甲を被告にして國家の裁判所に賭博金請求の訴を起したと假定する。其場合裁判所は其訴を認むべきや否や、此所に一の國家法上の問題が起り得る譯だ‥‥。

 ——無論國家はそんな訴を認めることはあるまい。

 ——そりや無論ない。裁判所は必ずや「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行爲ハ無效トス」と言ふ民法第九十條の規定を援用して原告の請求を却下するに違ひない。しかし其意味はかゝる汚はしい請求は國家として何等援助を與ふべき限りでない。即ち國家的援助を與ふるに値しないと言ふ價値判斷が下されたと言ふだけのことで、博徒社會の法律に於てもかゝる義務は初めから存在しないと言ふような事實認定が與へられた譯ではない‥‥。

 ——そりやそうだらう。如何に國家と雖も社會的に存在するものを存在しないとは言ひ得ない。此際國家として爲し得るのは、縱令社會的には存在しようとも、國家としては援助を與へる價値がないと言ふ價値判斷を下すことだけに過ぎないから‥‥。

 ——そうだ。だから博打に敗けた奴が支拂をしない爲めに鐵拳制裁を喰つた場合を考へて見ても、其鐵拳制裁が博徒仲間の法律上適法であると言ふことは、國家の法律から見ても同じく適法であるかどうかについて何等の決定を與へるものではない。博徒仲間の法律ではどうあらうとも國家は國家自らの立場から自由に決定を爲し得る譯だ。

 ——つまり鐵拳制裁と言ふ同一の行爲が二の違つた社會の法律によつて異別獨自の法律判斷を受ける譯だね。

 ——そうだ。つまり或る社會の法律は一面其社會の法律として其社會獨自の法律的判斷の規準になると同時に、他面他の社會例へば國家の法律的判斷の對象にもなり得る。そうして此後の場合に國家はかくの如き社會の法律を無視して國家自らの立場から自由に國家的判斷を與へることもあり、又場合によると其社會の法律を尊重して其法律を是とし否とする所を國家も亦是とし否とすると言ふような態度をとることもあり得る‥‥。

 ——成程、理窟は確にそうらしい。ついては少し實際の例を擧げて其所の理合を詳しく説明してくれないか。

     二

 ——よろしい。これは實際上能く起る問題だが、例へば或る村に一定の行爲を爲したものは「村八分」に處すると言ふ規則があつたとするぜ。其所で甲なる男が其規則に違反した爲め「村八分」として村民全體から共同絶交を喰つた所、甲が言ふには、かくの如きは吾輩の名譽を毀損するもの、實に怪しからんと言ふ譯で、國家に誹毀罪の告訴を提起したとするぜ‥‥。

 ——成程。

 ——此場合事柄を簡短に考へると、國家としては村の人々が濫りにかくの如き私的制裁を加へることは法律上是認し難いから、被告はすべて誹毀罪として處罰せらるべきものだと言ふ判斷を下すべきものゝように思はれる。けれども、若しも國家がそうした裁判をすると、喜ぶ者は村の法律から見れば確に犯罪者である所の規則違反者一人だ。そうして村内の秩序は其一人の異端者の爲めに譯もなく蹂躙される結果になる‥‥。

 ——成程、すると國家が國家の立場から獨自の法律的判斷を下すにしても實際上餘程考へねばならないと言ふ譯だね。

 ——そうだ。國家としては或は國家法の立場から斷然共同絶交を喰はせた奴等を罰する方がいゝと思はれる場合もあるだらう。しかし又全然罰を加へない方が村の爲めにいゝと考へねばならない場合もあるだらう。だから現に大審院などでは色々此種の問題の處理に苦んだ擧句今では「絶交ハ實際上種々ナル事情ノ下ニ行ハレ、其原因モ亦區々ニシテ一定セズシテ背徳ノ行爲又ハ破廉耻ノ行爲ニ對スル社交上道徳上ノ制裁トシテ一般ニ認メラレタル所ナレバ、多衆共同ノ絶交ガ正當ナル道義上ノ觀念ニ出デ、被絶交者ガ其非行ニ因リ自ラ招キタルモノナルトキハ之ニ對シテ救濟ヲ與フルノ必要ナク、絶交者ガ之ニ依リ被絶交者ヲシテ義務ナキコトヲ行ハシメ又ハ行フベキ權利ヲ妨害シタル場合又ハ其絶交ガ正當ノ理由ナキトキハ、玆ニ初メテ違法性ヲ有スルコトヽナル」と言ふような理由で、或る程度の私的制裁は差支ないと言ふ判例を保持してゐる譯だ。

 ——成程。村の私的制裁を定めた法律及び其實施を國家の立場から或る標準の下に是認したと言ふ譯だね。

 ——そうだ。

 ——所で、そう言ふ風に國家の裁判所が他の社會の法律に批判を加へるに當つては、何時でもそう言ふ漠然たる標準で勝手な判斷を下すことになるのかね。

 ——そうだ。國家としては國家の立場から自由に判斷し得るのが原則だ。無論實質的にはかくの如くにして與へられる國家的判斷が當該社會にどう言ふ影響を與へるかゞ大いに問題にされるのだが、理論としては國家は國家の立場から自由に判斷し得る譯だ。

 ——しかしその判斷を與へる標準を國家的立場から豫めきめて置くことは必ずしも不可能ではあるまい。

 ——無論だ。單に不可能でないのみならず、大いに必要だ。何故かと言ふと、他の社會の法律の中でも特に國家の裁判所の問題になる機會の多いものについては、國家としても豫めそれをどう取扱ふかについて規則をきめて置く必要があるからだ。

 ——成程。すると現在日本でも國家としてそう言ふ規則をきめてゐる譯かね?

 ——そうだ。慣習法及び外國の法律をどう取扱ふかについてははつきり規則を置いてゐる‥‥。

 ——どんな規則を?

 ——慣習法については一般原則として法例第二條に「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反セザル慣習ハ法令ノ規定ニ依リテ認メタルモノ及ビ法令ニ規定ナキ事項ニ關スルモノニ限リ法律ト同一ノ效力ヲ有ス」と言ふ規則を設けて居り、又商事については商法第一條に「商事ニ關シ本法ニ規定ナキモノニ付テハ商慣習法ヲ適用シ商慣習法ナキトキハ民法ヲ適用ス」と言ふような特別の規定を置いてゐる‥‥。

 ——すると、商慣習法は國家の法律たる民法より優待されてゐる譯だね。

 ——そうだ。商事に關しては、商法に特別の規定がない限り、國家法たる民法を適用するよりは寧ろ商事取引の實際が生み出した商慣習法を適用する方が適當であると考へた譯だ。そうしてこうした例は民法の中にも澤山ある‥‥。

 ——と言ふと?

 ——例へば「共有ノ性質ヲ有スル入會權ニ付テハ各地方ノ慣習ニ從フ外本節ノ規定ヲ適用ス」とある第二百六十三條、「前三條ノ規定ニ異ナリタル慣習アルトキハ其慣習ニ從フ」と言つてゐる第二百二十八條等の如きすべて其例だ。要するに、國家の裁判所と雖も必ずしも常に國家の法律だけを適用せねばならぬと言ふ理窟はない。國家は其獨自の立場から、或る場合には飽くまでも國家法を以て社會に臨み、或る場合には又社會法たる慣習法に優先的地位を讓るのであつて、其中何れの態度をとるかは畢竟する所國家の政策問題だ。

 ——すると、それは丁度或る國が他國の領土を征服した場合に、以後は斷然萬事を自國の法律を以て規律することにするか又は或る事柄については引續き被征服國從來の法律の適用を認めることにするかをきめるのと同じ問題だね。

 ——そうだ。理論的に言へば國家はすべて國家の規準を以て社會に臨み得る譯だけれども、實際的には社會的規準たる社會法をそのまゝ認めねばならない場合が少くない。そうしてそうした事例は、獨り征服國家の場合についてのみならず、すべての國家について起り得る。無論其程度には色々あり得るけれども‥‥。

 ——成程。其所の理窟は略諒解した。しかし法律學的に考へると、國家が豫め一定の規準をきめて斯く/\の場合には國家法を適用せずに社會法たる慣習法等を適用すると定めてゐるような場合には、それ等の社會法それ自體が國家の承認によつて國家法になるのだと考ふべきではあるまいか?

 ——と言ふと、慣習法それ自身は本來社會法だけれども、例へば法例第二條が一定の規準の下に其效力を認めることになると、其範圍内に於て本來社會法たる慣習法が國家の法律になると考へようと言ふのかね?

 ——そうだ。

 ——そりやいかん。從來普通の學者は多くそう言ふ説明を與へてゐるけれども、それは畢竟彼等が國家の裁判所の適用する法律は國家の法律に限ると言ふ獨斷をきめてかゝつてゐる關係上、慣習法と雖も國家が認めてそれを適用する限り國家の法律でなければならないと言ふ結論を認めざるを得ない立場にあるだけのことで、事物を素直に觀察して見ると餘程變な考へ方だと言はざるを得ない‥‥。

 ——と言ふと?

 ——本質上社會の法律たるものは國家が認めようが認めまいがそれ自身社會の法律たることに變はりのあるべき筈がない。其事は法例第三條以下の規定に基いて日本の裁判所が外國の法律を適用する場合を考へて見るとよく解り得る。法例は或る種の渉外事件を裁判するについては外國の法律を適用せよと言ふてゐる。其結果裁判所は外國の法律を適用して其事件を裁判する。しかし外國法は終始外國法であつて日本の法律にならない‥‥。

 ——そりやそうだね。

 ——それならば、國家が一定の規準の下に社會の法律たる慣習法の適用を認めても、その故を以て直に社會の法律が變じて國家の法律になると考へるのはおかしいぢやないか。

 ——成程。すると、社會の法律と國家の法律とは全然別なもので、場合によると國家は其裁判所に社會法の適用を命ずることがあるけれども、其爲めに社會法變じて國家法になると考ふべきではないと言ふのだね。

 ——そうだ。

     三

 ——社會の法律が國家の法律と獨立して別に存在すると言ふ君の考へは略諒解した。しかし、その事實は國内の小社會の法律、外國の法律若くは國際社會の法律の如く國家と地的範圍を異にする社會の法律については容易に之を認め得る、博徒社會の法律と國家の法律の別物たること、國際法と國家の法律の別物たることも又比較的容易に理解し得る、しかし國家と地的範圍を同じうする社會、例へば此吾々日本國の社會に日本國家の法律と別物である社會の法律が存在すると言ふ事實は一寸認め難い‥‥。

 ——確に認め難い。常識的に考へたゞけでは無論非常に六かしい。何故かと言ふと、社會の法律と國家の法律とは多くの場合同じ内容をもつてゐる、社會に於てかくあるべきことは國家に於ても亦かくあるべきことになつてゐる、つまり二者は全然別物であるにも拘らず内容が同じである爲めにとかく同一物と見られ易い譯だ‥‥。

 ——成程。しかし必ずしも常に内容が同じではあるまい?

 ——無論だ。そうして其内容の違ふ場合を實例について考へてゆくと二者の區別が明瞭になつて來る。例へば、結婚と言ふ同じ事柄についても國家の法律と社會の法律とがある。其中國家の法律は主として民法第七百六十五條以下の規定する所で、國家は一面婚姻成立の要件を定めて其要件を充たした婚姻でなければ國家としてそれに婚姻たる法律的取扱を與へないと言ふ態度をとると同時に、他面其要件を充たした婚姻に與へらるべき法律的取扱の内容を規定して夫婦間に起るべき各種の問題を解決すべき國家的規準を定め示してゐる。所が其同じ婚姻に關して吾々の社會は立派に別の社會法をもつてゐる。例へば、民法は法律上の婚姻は婚姻屆を出すによつて成立すると規定してゐるけれども、吾々社會の法律は必ずしもそう言ふことを要求してゐない‥‥。

 ——三々九度の盃でもして社會上婚姻と認むべき事實關係が成立すれば、それを以て足りると言ふ譯だね。

 ——そうだ。其結果社會法によると婚姻たるものが國家法上婚姻として取扱はれず、又反對に縱令社會法上は婚姻たる事實が全然存在しなくとも屆出さへあれば國家法上婚姻として取扱はれると言ふ一種妙な現象が生まれて來る‥‥。

 ——成程。が一體國家は何故にそう言ふ妙なことをするのかね?

 ——國家としては夫婦關係は是非共こうありたいとか、かく/\の婚姻は成立せしめてはならないとか、婚姻に關して色々の理想をもつてゐる、そうしてそれを社會に押しつけてゆきたい。其所で一面に於ては屆出と言ふ一の關所を作つて當該の婚姻が法定要件を充たしてゐるかどうかを確めることゝし、そうして其關所を通らない婚姻には全然國家法上の保護を拒絶することによつて、法定要件が社會上成るべく遵守されるように努力し、他面に於ては例へば重婚罪に關する刑罰規定を置いて、二重婚姻の如きは獨り國家法上無效たるのみならず一歩進んで之を刑罰に處すると言ふような態度をとつてゐる譯だ。

 ——するとつまり婚姻に關する國家の理想を實現する手段として色々の規定を置いてゐる譯だね。

 ——そうだ。所が實際上其理想は必ずしも容易に實現されない。世の中には其理想に合はない婚姻が今尚澤山發生する。例へば、民法は男は滿十七年女は滿十五年でなければ結婚出來ないと規定してゐるけれども、今日尚早婚の風習の行はれてゐる地方では法定年齡以下の男女がドン/\結婚してゐる。成程國家はかゝる婚姻の屆出を受理しない。從つて又かゝる婚姻には全然國家法上の保護を與へない。しかしかゝる婚姻と雖も社會法上は尚立派な婚姻と言はざるを得ない。例へば、かくの如き婚姻關係に在る妻が他の男と姦通すれば社會法は姦通罪として之に制裁を加へる。けれども、國家はかくの如き屆出のない違法の婚姻に對して何等の保護をも與へないのであつて、かくの如き姦通は社會法上如何に非難せらるべきものであらうとも、國家としては全然之を不問に附する‥‥。

 ——成程。國家としては自分の所へ屆けられてゐない以上婚姻たる取扱を與へる譯にゆかない。從つて姦通罪も亦成り立ち得ないと言ふ譯だね。

 ——そうだ。それに具體的の或る男女の關係が夫婦であるかどうかを見分けることは場合によつて中々困難である。從つて國家が或る行爲を姦通罪として罰すべきや否やを決するについては、特に屆出の手續きがとられてゐるとか何とか、何等か明確な形式的の標準をつかまへざるを得ないと言ふ證據法的の理由も附け加はつてゐるけれども‥‥。

     四

 ——成程。段々聞いて見ると話は大分解つて來た。しかし、考へ方によつては君の所謂社會の法律例へば婚姻に關する社會法は——實を言ふと——法律ではなくして道徳、つまり婚姻道徳とでも言ふべきものゝように思はれる‥‥。

 ——そんなことはない。成程婚姻についても道徳規範は存在する。しかし道徳は畢竟人の良心に訴へる規範であつて、外部からの強要を豫定する規範ではない。姦通してはならないと言ふことは一面道徳規範でもあるが同時に又社會法の規範でもある。姦通なる行爲が道徳上非難せらるゝのみならず、輿論其他の形式をとつて現れる社會的統制力によつて否定せられ、其力によつて外部から制裁せらるゝことは明かに其證據だ。世の中の人は兎角漠然と婚姻道徳とか政治道徳とか苟も國家の法律でない所の一切の規範に向つて道徳なる名稱を附けたがる。そうして嚴密なる意味に於ける道徳の外社會の法律の存在することを意識しない。

 ——つまり道徳的規範の意味をはつきりせずに、道徳と言ふ言葉を廣く濫用し過ぎるのだね。

 ——そうだ。所が一面無理もないと思ふのは、國家と地的範圍を同じうする社會の場合には、其地域に行はれる國家的統制力が餘りにはつきりと力強く行はれ過ぎてゐる爲めに、其同じ地域内に社會其ものに固有する別の統制力の行はれてゐることがはつきり意識に上つて來ない。其結果國家的統制力によつて支持される國家法の外に社會的統制力によつて支持される社會法の存在する所以を忘れ勝ちになる。そうして其社會法に相當する規範までをもすべて道徳と名付けて仕舞ふ譯だ。

 ——成程。其所へゆくと國家内の小社會とか國家以上の國際社會になると、それ/″\其社會に固有する社會的統制力の存在することが比較的容易に認識せられ得る。從つてそれ等の社會にそれ/″\特殊の社會法の行はれてゐることが比較的容易に認識せられ得る譯だね。

 ——そうだ。しかしそう言ふ社會に其社會特有の統制力が行はれることを認める以上、國家と地的範圍を同じくする社會にも國家的統制力と離れて其社會特有の社會的統制力が行はれてゐることを認めざるを得ない、そう言ふ社會は一面外部から國家的の統制を受けながら實は自ら固有の統制力によつて規律立てられてゐる、其統制力は形式的にこそ餘りはつきりした形をとつてゐないけれども、實質的には吾々社會の秩序を立てるものとして大きく働いてゐる。例へば、吾々が借りた金は返さねばならぬ、物を買つたら代金を拂はねばならぬと言ふのも、國家法たる民法第何條が云々の規定を設けてゐるからと言ふよりは、寧ろかゝる内容をもつた社會的法律が存在するものと考ふべきだ‥‥。

 ——所が現在の日本のように國家的統制力が充分に働いてゐると、其裏で實は社會的統制力が大きな働きをしてゐると言ふ事實が忘れられ勝ちになる‥‥。

 ——だから、僕が今説明したようなことも中々一般人の耳に入り難い。しかし、そう言ふ人達でも例へば支那のことを考へて見れば直に悟る所があると思ふ。現在支那にも國家的法律は行はれてゐる。國家的統制力も働いてゐる。けれども現在支那社會の秩序を保持してゐるものは決して國家的法律のみではない、否其點に於て一層重要な働きをしてゐるものは其社會それ自身に固有する社會的統制力とそれによつて支持されてゐる社會的法律だ。例へば南京政府の民法典は云々の規定を置いてゐる、從つて南京政府の裁判所は其規定によつて裁判をするだらう。しかし世の中の取引は其等の事實におかまひなく社會そのものゝ法律に從つて行はれてゐる‥‥。

 ——無論、そう言ふ場合には國家的統制力の働きが鈍く、其代はりに社會的統制力の働きがはつきり現はれてゐる譯だね。

 ——そうだ。だから人々も容易に社會的法律の獨自的存在を認識し得る譯だ。しかし、畢竟はすべて程度の問題に過ぎない。例へば支那のように國家的統制の充分に行はれてゐない國、又例へば新しい征服領土の場合の如く國家的統制は如何に強くともそれと社會とがまだ充分に馴染んでゐない場合には、社會的法律の獨自的存在を認識することが比較的容易であり、之に反して現在吾國の如く國家的統制力が充分に働いてゐる所では國家的法律のみが兎角目について社會的法律の存在が忘れられ勝ちになる。しかし要するに程度の問題であつて、後の場合と雖も尚社會的法律の存在すること及び其社會的價値を全然否定する譯にはゆかない。

     五

 ——しかし、理想から言ふと成るべく社會のすべてを國家の下に統制して秩序を正し、國家的法律の外に社會的法律の如きものゝ存在する餘地を全然なからしめることが吾々窮極の理想ではあるまいか?

 ——そうかも知れない。もしも眞に社會即國家と考へられるような理想的の國家なるものがあり得るならば‥‥。

 ——と言ふと?

 ——つまり、もしもそう言ふ理想的國家が生れるならば國家的統制力の外に社會的統制力の存在する價値が零になる。けれども、歴史が吾々に教へた國家の中には一としてそうした理想的のものは存在しない。して見ると社會的統制力によつて其足らざる所を補ふことが社會の爲めどうしても必要になる。だから理想的國家を夢想して直に專ら國家的統制力のみの行はれる社會を空想し、それを理想として直に其所に赴かむとするが如きは机上の空論に過ぎない。若しも現實論としてそう言ふ議論をするものがあれば、それは畢竟宗旨狂的な國家主義者の利用する所となるに過ぎない。要するに僕の考へではそう言ふ理想的國家が生まれた曉には自然と國家即社會、國家的法律即社會的法律の理想が實現されるのであつて、其時までの間二者の間には程度の差異こそあれ常に多少の間隔がある、そうして現在吾國の如きに於てすら其間隔は相當大きいと考へざるを得ない譯だ。

 ——其所で現實の問題としてはやはり二者の間に區別があり間隔があると言ふ前提から出發して萬事を考へねばならぬと言ふ譯だね?

 ——そうだ。國家が一定の理想の下に社會に働きかけてゆくことは無論差支ない。否正しい理想の下に行はれる限り寧ろ大に望ましい。社會は社會、國家は國家だなんて風馬牛の態度をとるが如きは素より望ましいことではない。けれども、初めから全然社會と其法律との獨自的存在を否認し、すべての社會關係を國家的統制の下に置いて仕舞はうとするが如きは大いに誤つてゐる。國家は決して全智全能ではない。或種の事柄は寧ろ其統制を社會に任せて置く方がいゝ場合がある。又或る場合には同じ事柄に關する國家法と社會法との間に乖離があり、そうして社會法の要求する所の方が寧ろ妥當だと思はれることもあり得る。然るに、社會と其法律との獨自的存在を否認する立場から出發する人々は、到底かくの如き場合に國家の方から讓つてかゝると言ふような態度をとることが出來ない。其結果我武者羅に萬事を國家的統制の下に置かうとする爲めに、一面では社會を害し他面では又國家そのものを傷けることになる‥‥。

 ——實際上國家に出來得ない事までをも國家がやらうとすると反つて國家の權威を損すると言ふ譯だね?

 ——そうだ。所が現在吾國には其點を充分理解してゐない人が多い爲めに、動ともすればそうした弊害を生じ易い。例へば立法論としても社會の實情を考へずに濫に國家的立場だけから法律を作らうとする‥‥。

 ——しかし社會の實情を考慮し過ぎると保守的になつて仕方がない、理想などは到底行はれない。

 ——無論そう言ふ方面はある。或る場合には斷然國家的理想を樹立して社會に臨まねばならぬ場合もある。けれども、社會は決して常に保守的ではない。社會は常にそれ自身の中に自らを進化せしむべき働きを包藏してゐる。其結果國家の法律は依然として舊社會を前提とした極めて古い内容をもつてゐるに拘らず、社會は既に自らの力によつて自らを更新し、そうして自ら新しい法律を生み出してゐる場合が非常に多い‥‥。

 ——と言ふと、例へば?

 ——現在の小作法など其最も良い適例だ。現在民法がきめてゐるような小作法は成程國家の裁判所に於ては通用するだらう。けれども、農村の實際は決してかくの如き法律によつて規律立てられてゐるのではない。農村には實際の小作慣行から生まれた社會的小作法がある。そうして其規律の下にともかくも一定の秩序が保たれてゐるのだ。例へば、現行民法によると、小作人が小作料の納付を一日でも怠ると、地主は直に相當の期間を定めて催告した上土地の返還明渡を請求することが出來る。しかし農村の社會的小作法はそんな亂暴なことを許しはしない。だから、現行民法を改正して新に小作法を制定するについても、吾々は必ずしも吾々の理想を強調してそれを立法の上に實現せしめるように努力する必要はない。現に社會的法律として行はれてゐる慣行的小作法と同一の程度まで民法を改正したゞけでも、かなりいゝ小作法を作ることが出來る。

 ——成程。そう言ふ場合を考へて見ると、社會の實情を考へ社會的法律の要求する所に讓歩すること必ずしも保守的の結果に到達するとは限らない。

 ——そうだ。だから立法者は一面自己の理性に訴へて理想を高唱する必要あると同時に、他面或る事柄は寧ろ之を社會的統制に委ねるだけの雅量をもつ必要があり、又或點については社會の要求社會的法律の規定する所に鑑みて國家自らの法律を改正するだけの寛容をもたねばならない。

 ——大いに同感だ。すると其同じことは司法についても言へる譯だね?

 ——大いに言へる。裁判官は決して國家的法律を墨守するによつてのみ立派な裁判を爲し得るものではない。例へば先に話した村八分に關する裁判の如き正に其例だ。此場合の如き若しも裁判官が國家的法律のことだけを考へて村内の秩序維持を或る程度まで村の社會的法律と統制力とに一任する雅量をもたないならば、村八分を加へた人達はすべて誹毀罪として罰を喰ふ。そうして村内の秩序は一人の異端者の爲めにムザ/\蹂躙されるような結果を見るに至る。其所を考へて村の法律と其執行とに敬意を表した所にあの判決の賢明さがある譯だ。

 ——成程。

 ——そうして、それと同じことは民事の裁判についても考へ得る。例へば、凶作減免は現在の小作慣行上殆ど全國到る所に認められてゐる慣行だ。所が民法によると小作料減免については單に「收益ヲ目的トスル土地ノ賃借人ガ不可抗力ニ因リ借賃ヨリ少キ收益ヲ得タルトキハ其收益ノ額ニ至ルマデ借賃ノ減額ヲ請求スルコトヲ得」と言ふ規定があるに過ぎない‥‥。

 ——すると、實收額が約定小作料以下のときは實收のすべてを出して仕舞へばあとは負けてやると言ふのだね?

 ——そうだ。つまり通常二石とれる土地について一石の小作料が約定されてゐる場合に、凶作の爲め實收が八斗しかないならば、小作人は其八斗全部納めろ、そうすれば殘りの二斗だけは負けてやると言ふ譯だ。

 ——すると、小作人はあとどうして生きてゆけと言ふのかね?

 ——民法はそんなことを心配してゐやしない‥‥。所が小作慣行によると、同じような場合には實收が豫定の半分もないのだから、小作料は六分減とか八分減とか或は又全免とか隨分負けて貰へることになつてゐる。其處で、小作人が此慣行を援用して裁判上小作料の減免を主張したと假定して見給へ。裁判官の立場は相當苦しいことになるから‥‥。

 ——つまり民法によれば實收全部を納めて殘りの二斗だけ負けて貰へるに過ぎない、小作慣行によると單に二三斗納めさへすればいゝとか乃至は又全部負けて貰へる場合もある、裁判官としては果して其いづれをとるかと言ふ困難な問題に逢着する譯だね?

 ——そうだ。

 ——しかし、國家の裁判官たる以上結局國家法の命ずる所に從ふの外あるまい。

 ——簡短に考へればまあそうだ。しかし裁判官としても小作慣行の實際を考へて見ると、實際上中々そう簡單には裁判出來ない。恐らく心ある裁判官は民法第九十二條の「法令中ノ公ノ秩序ニ關セザル規定ニ異ナリタル慣習アル場合ニ於テ法律行爲ノ當事者ガ之ニ依ル意思ヲ有セルモノト認ムベキトキハ其慣習ニ從フ」なる規定を援用して、かゝる場合には當事者双方共暗默に凶作減免の慣習を認め之を前提として小作契約を締結したものと解釋すべきだから、小作人は法律上尚慣習による小作料の減免を請求し得べきだ、と言ふような裁判をするに違ひないと思ふ。

 ——成程そうすれば一面國家の法律に根據を置きつゝ同時に社會法の要求を容れることが出來ることになる‥‥。

 ——そうだ。

 ——成程色々聞いて見ると、國家法の外に社會法が獨自の存在をもつて居ると言ふ君の考へには中々尤至極な所がある。そうした考へを基礎にして法律を考へると、餘程特色のある法律論が生まれる見込みがある。

 ——そうだ。これからそうした考へを元にして段々に話を進めてゆくからどうか其積りで聞いてゐて貰ひたい。

     第四話 法律の解釋適用

     一

 ——次には「法律の解釋適用」と言ふことについて少し話をきゝたい‥‥。

 ——よからう。それでは先づ第一に從來一般の學者は此事をどう言ふ風に考へどう言ふ風に説明してゐたかをお話しよう。

 ——どうかそう願ひたい。

 ——法律の適用と言ふことは言ふまでもなく具體的の事實に向つて豫め法律の中に定まつてゐる規範を當てはめることだ。從つて法律の適用は常に「事實」——「法律」——「結論」なる三段論法の形をとつて現はれる。例へば「甲は人を殺したり」「人を殺したる者は死刑に處す」「故に甲は死刑に處す」と言ふような推論式の形をとるのだ。所で從來一般學者の考へによると法律の適用者は先づ第一に「事實」を確定せねばならぬ。而して其事實確定はその事實に適用せらるべき法律内容の如何又結局下さるべき結論の如何に關係なく全くそれ等と引離して純粹に爲すことが出來る‥‥。

 ——成程。

 ——そうしてかくの如くにして先づ事實を確定した上、之に適用せらるべき法律の規範内容を討究明確ならしめるのが「法律の解釋」だ。そうして其結果解釋確定された法律を其前に確定して置いた事實に當てはめて結論を得るのが法律適用の仕事だと言ふ譯だ。

 ——すると、要するに法律適用の仕事は事實認定・法律解釋及び法律適用なる確然と分離せらるべき三段の働きに分たれるものと考へてゐる譯だね。

 ——そうだ。所で君はこう言ふ考へ方を正しいと思ふかね。

 ——さあ‥‥何處と言ふて缺點がない、先づ極めて科學的な正しい考へ方だと思ふがね。

 ——そうか知らん。從來一般の學者は君と同じように此考へ方を正しいと考へてゐる。しかし法律適用の實際を具體的の事例について細く考へて見ると大いに疑が出て來る。僕にはどうしてもこう言ふ考へ方は、事柄の辻褄を合はせる爲めに事實を曲げ、そうして推論の形式だけを整へて自己滿足を得てゐるに過ぎない極めて非科學的な考へ方であるような氣がしてならないのだ。

 ——そうかね。一つ其理由を詳しく説明してくれ給へ。

     二

 ——よろしい。先づ第一に僕が疑ふのは、適用せらるべき法律内容の確定及び其法律の適用と言ふことゝ全然離れて法律適用の對象たるべき事實だけを純粹に認識確定することが果して可能であるかと言ふことだ。

 ——しかし、甲が人を殺したかどうかと言ふような事實は全くそれだけを引離して認識確定することが出來るぢやないか。

 ——そりや無論出來る。しかし法律適用の對象たるべき事實は決して甲が人を殺したかどうかと言ふような單純な自然的事實ではない。多數の自然的事實の中から選擇し組合はせによつて初めて法律適用の對象たるべき法律的事實がきまるのだ。例へば、甲を殺人事件の被疑者として裁判するについて確定を要すべき事實は、甲が人を殺したかどうか、故意に殺したかどうか、又甲は當時心神喪失の状態に陷つて居りはしなかつたか等極めて多種複雜な事實だ、そうして其等の事實は更に幾多の自然的事實から推定されねばならない。例へば甲が殺人の當時心神喪失に陷つてゐたかどうかと言ふような問題は或は證人を訊問したり或は醫者の鑑定を聽いたり色々の事實を取捨選擇した上それから推測して之を決定するの外ない‥‥。

 ——しかし事柄が如何に複雜困難であつてもそれだけを引き離して研究確定することは必ずしも不可能ではあるまい?

 ——一寸考へるとそうらしく思へる。けれども事實は全く反對だ。例へば、心神喪失の問題を決定する爲めに色々の事實を調べた上其取捨選擇を行ふにしても、其取捨選擇は必ず何等かの標準によつて爲されねばならない。而かも其標準は裁判官が當該の事件をどう裁くべきであるかと考へる、其考へ方と極めて密接な關係をもつて決定されるものだと思ふ。

 ——すると、裁判官が甲を殺人罪として罰すべきであると考へれば、心神喪失の問題を決するについても自らそれを否定するの態度をとり、彼は殺人の當時正氣であつたと言ふような事實認定をすると言ふようになると言ふのかね?

 ——そうだ。

 ——しかしそうすると裁判官は先づ結論をきめた上後からそれに合ふように事實を構成する。謂はゞ事件を豫斷することを是認する結果になりはしないかね。

 ——見方によつては確にそうなる。しかし僕の考へでは、決して先づ結論をきめた上それに合ふように後から事實を構成するのではなくして、結論をきめることゝ事實を構成することゝが一切一時に行はれる、つまり同一の或る標準が結論をきめる要素ともなり事實認定を指導する要素にもなる、と考へるのが最も精確な見方だと思ふ。

 ——成程。そう言ふことは事實あるだらう。しかしそれは單に事實であつて言はゞ人間の弱點、科學的方法の理想としては寧ろ決してそうあつてはならないと考へ、そう言ふことをしてはいけない。飽くまでも事實だけを純粹に認定するように努力する立前をとるべきではあるまいか?

 ——自然科學の方法としては確にそうだ。自然科學者が自分の結論に都合のいゝような事實だけを蒐集し、それを基礎として自分の結論を主張することは勿論許し難い。無論事實上は自然科學者と雖も動ともすればそう言ふ不純なことをやりたがる傾向があり得るけれども、學問の立前から言ふと勿論否定されねばならない態度だ‥‥。

 ——法律學についても何等變はりはあるまい?

 ——そんなことはない。自然科學と法律學とは元來全く違つた學問だ。無論法律學に於ても例へば多數の判決例を蒐集研究して最近判例の傾向はこうだと言ふようなことを結論主張しようとする場合には自然科學者と同一の態度をとらねばならない。其場合に先づ初めに結論をきめた上それに合ふような判例だけを引いて來るようなやり方は無論是認し難い‥‥。

 ——しかし事實はとかくそうなり易いのだらう?

 ——そうだ。しかし學問的の立前から言ふと法律學に於てもそれは飽くまでも排斥せらるべき態度だ。けれども、裁判官が或る事件を如何に裁斷すべきかと言ふ立場に置かれて其事件に臨んでゐる場合は全く違つたものだ。其時の心の働き方を吾々法律學者が學問的に觀察して、結論を決める前には必ず事實を純粹に認定せねばならない、結論の爲めに多少とも事實認定を誤るのは許し難い、と言ふ批評を下すことは絶對的にいけないと僕は言ふのだ。

 ——しかし結論の爲めに事實を曲げるのは此場合と雖も許し難いだらう。

 ——無論事實を曲げてはいけない。しかし、多數の自然的事實の中から法律判斷の前提たるべき「事實」を選擇構成することは、單に或るものが赤いか白いかを判定するが如き單純な事實認定とは全然違つたものだ。而して其選擇構成の標準は法律的判斷を決定する標準と同一物たるを免れないのであつて、法律學に於ては其同一物であることを理論的にも是認すべきであると思ふ。然らずして事實の選擇構成だけを純粹にやれと言ふが如きは、全然選擇の標準を示さずして選擇を爲すべきことを命ずるのと同じであつて、抑も不可能なことを命ずるものと言はねばならない‥‥。

 ——成程其點は大いに尤だ。美術品其他藝術的作品の鑑賞を爲すに當つても、甲は美なりと言ひ乙は醜なりと言ふが如く同一作品に對する批評が區々になることが非常に多い。其原因を考へて見ると、一には甲乙等各批評家の抱いてゐる鑑賞の標準美の法則が同一でないことに原因するけれども、他の一面に於て偶々其鑑賞法則の違ふことゝ密接な關係をもつて彼等が同一作品の中から選擇して來る點が色々に違ふと言ふ事實に氣が付く。即ち或る人は繪畫の中專ら其色彩のみを見て美なりと言ひ、他の者は又專ら線や筆觸のみを見て醜なりと言ふ。つまり同じ繪の中から互に違ふ部分を選び出してそれに批評を加へる。そうして個々の鑑賞家が同一の繪に向つて色々の價値判斷を下す譯だ‥‥。

 ——全く其通りだ。そうして僕は法律的判斷に於てもそれと全く同じことが行はれるのだと思ふ。どうだい、君は鑑賞家達が各自の鑑賞標準に應じて作品中の或る個所だけを選び出した上それに批判を加へる態度を非難する勇氣があるかい。

 ——そりや無論ないね。

 ——それならば、裁判官が具體的の事件に向つて裁斷を與へる場合の態度もそれと全く同じもの、若しくは少くとも非常に似たものとして僕の説明を是認する譯にゆかないかい?

 ——そう短刀直入に來られては返答に困るが、先づ一應は贊成出來るように思ふ。しかしその前にも少し他の例を引いて此點を説明して欲しい。

     三

 ——よからう。例へば現行の陪審法によると、犯罪事實の認定は陪審員をして爲さしめ、法律の解釋と適用だけは裁判官をして爲さしめることになつてゐる。所で、君も知つてゐる通り陪審員になるのはズブの素人であつて法律家ではない、況んや犯人を取調べたり犯罪を搜索した經驗などは全然もつてゐないのが先づ普通の例だ。從つて若しも單に犯罪事實の有無を審理認定するだけの仕事を爲さしめるものとすれば、陪審員は一般に頗る不適任だと言へる。そう言ふ仕事は寧ろ慣れた裁判官にやらせる方がいゝ譯で、それを態々金をかけて陪審員にやらせるが如きは愚の骨頂、陪審法は實に愚な法律だと言はねばならない‥‥。

 ——無論だね。

 ——だから態々陪審制度を採用して事實認定を素人にやらせる以上其所に何等か特別の理由がなければならない。所で僕はその理由を所謂事實認定なるものが決して客觀的事實の單純な認識ではないと言ふ先程から話した理論によつて説明出來ると思ふのだ。

 ——と言ふと?

 ——つまり事實認定は事實の選擇構成である、而して其選擇構成は最後の法律判斷を決定するのと同じ標準で決定される。例へば或行爲が犯罪事實を構成するや否やの事實認定は其行爲を法律上罰せらるべきものとして考ふるや否やの法律判斷が決定されるのと全く同じ標準によつて行はれる。從つて、同じ事件でも職業的法律家として固まり切つてゐる裁判官が見るのと常識ある通常の素人が見るのとでは餘程結果が違ひ得る。裁判官は當該の行爲を非常に憎むべきもの嚴罰すべきものと考へても、素人である陪審員は或は寧ろ憐むべきもの罰すべからざるものと考へるかも知れない、そうして其どう考へるかゞ正に犯罪事實の認定に向つて必然の影響を與へる譯だ。其所で陪審制度が事實の認定を陪審員に任せてゐるのは畢竟彼等陪審員の人間としての判斷に訴へて事を裁斷したい、彼等の事實認定の上に彼等の法律的判斷を間接に現はすことによつて裁判を實質上人間的にしたい民衆的にしたいと言ふ精神に外ならないものと僕は考へてゐる。

 ——成程そう考へて見ると事實認定だけを陪審員にやらせることにも相當の理論的根據があると言ひ得る‥‥。

 ——そうだ。そうしてこう考へて見ると事實認定と言ふことが決して自然的事實の純粹認識ではなくして、事實の選擇構成に外ならない、のみならずその選擇構成の標準となるものは正に當該事件に對する裁判官の法律的判斷を決定するものと同一であると言ふ僕の説を是認出來るだらう。

 ——ウム確にそんな氣がする。がも少し他の例を引いて事柄を別の方面から説明してくれないか。

 ——よからう。それでは嘗て學者の間で議論の種になつた有名な事件を例にとらう。事件の大體はこうだ。或る男が妻子を故郷に殘してアメリカに出稼した。所が思ふように金が入らないので留守宅に金を送つて來ない。仕方がないから妻は或る婆さんから四五十圓の金を借りた。所が愈々婆さんから返金を請求されて見ると返せないものだから——多分辯護士でも智惠をつけたのだらう——女は終に民法第十四條を楯にとつて「人の妻たるものは夫の許可を得ずして借財を爲し得ない。許可なしに爲された借財は取消し得る。所で自分は夫の許可なくして金を借りたのだからあの契約は取消す」と稱して請求に應じない‥‥。

 ——しかし如何に取消しても借りたものだけは返さねばなるまい?

 ——所が民法によると無能力者たる妻の側では「現ニ利益ヲ受クル限度ニ於テ償還ノ義務ヲ負フ」に過ぎない。從つて妻が借りた金を費消して最早現に何等の利益をも受けてゐない以上一文も返へす必要がないようになつてゐる‥‥。

 ——へえ‥‥そんな都合のいゝ法律があるのかね。

 ——ある共。其所で若しも女の言分を通せば婆さんの訴はどうしても通らない。所が君が考へても此場合何とかして婆さんの言ひ分を通してやりたいような氣がするだらう。

 ——大いにする。所で裁判所はその事件をどう裁判したのかね?

 ——裁判所だつて無論君と同樣何とかして婆さんを勝たせたいと思つたらしい。とう/\夫が妻子を故郷に殘して出稼したるにも拘らず生活に必要な費用を送らないような場合には借金をするなり其他何とか途を立てゝ生計を續けるよう實は暗默に借金の許可を與へたものに外ならないと言ふ理窟で婆さんを勝たせて仕舞つたのさ。

 ——至極尤な裁判ぢやないか‥‥。

 ——結果は確にそうだ。しかし此際特に君の注意を乞ひたいのは、裁判所は暗默に借金の許可があつたと言ふてゐるけれども、それは畢竟本件に於ては原告たる婆さんを勝たせるのが至當だと言ふ考へに動かされて出て來た事實認定ではあるまいかと言ふことだ。

 ——成程。明瞭な許可は確になかつたけれども、暗默の許可だけは兎も角あつたものと見るのは確かに一策に違ひない‥‥。

 ——そうだ。一寸無理なようだが確かに一理ある。所が吾々が此事實認定に一理ありと考へるのも、結局此事件では婆さんを勝たせるのが至當だと考へることの結果ではあるまいか。つまり此事件に於ても僕の考へが立派に證據立てられてゐると僕は思ふのさ。

 ——成程ね。今の事件などは少し事柄が極端過ぎて反つて多少の不安を殘すけれども、君の言ふ理論だけはどうやら正しいような氣がする。

 ——そうかね。それぢやも一つ別の例を引いて見よう。大分前の事件だが、麹町の或る靜かな通りで自動車が犬を轢いた。犬の持主は大に憤つて自動車の持主に對して損害賠償の訴を起したけれども、民法によると不法行爲を理由として損害賠償を請求するについては是非共加害者に故意又は過失のあつたことを證明しなければならない。所が事件の起つた際には生憎別に通行人もなし全く事件を見てゐた人がゐない。從つて被害者の側では如何程加害者の過失を證明したくとも全く其方法がない‥‥。

 ——成程其證明が出來なければ當然敗訴になる譯だね?

 ——そうだ。所が裁判所は何とかして原告を勝たせてやりたいと考へたらしいのだね。とゞのつまり「あゝ言ふ靜かな廣い通りで犬を轢くようなことは、若しも運轉手に過失なしとせば起り得ざる事柄だ、だから裁判所としては一應運轉手に過失ありたるものと推定するから、原告に於て特に過失を立證する必要はない、被告が若し不服ならば被告の側から無過失の立證をしろ」と言ふ裁判を下した‥‥。

 ——そうなると、被告の側で無過失を證明することも——別に事件の目撃者などのない關係上——事實上不可能であり、結局被告が敗けるの外ないと言ふ結果になるね。

 ——そうだ。

 ——成程ね。すると此場合も裁判所が運轉手に一應過失があつたものと認めたことゝ此場合はどうも被害者に救濟を與へるのが至當だと裁判官が考へたことゝの間に密接の關係があると君は言ふのだね?

 ——そうだ。裁判官が何となく過失があるらしく思ふ氣持は四圍の事情から生まれて來る譯だが、吾々から見ても此場合裁判官がそうした氣持をもつたことに何となく同感をもち得る、そうして其同感をもち得る譯は批判者たる吾々もやはり何となく此事件に於ては運轉手側に責任あるものと判斷するのを妥當と考へるからだと僕は思ふ‥‥。

 ——至極尤だ。しかし唯そうなると裁判官は一定の裁判を下すことが妥當であると考へると是が非でも其裁判を下すのに都合がいゝような事實認定をして差支ないと言ふ結論を認めるようなことになつて、理論上多少の不安が殘る‥‥。

 ——そんな心配はいらない。裁判官の事實認定は勿論裁判官の理想によつて指導決定されるけれども、一面には事實そのものに固有する客觀性が裁判官の認定作用に限界を與へる‥‥。

 ——と言ふと?

 ——裁判官は多數の自然的事實の中から選擇綜合して法律的事實を構成するとしても、その自然的事實は客觀的にきまつてゐるのだから、裁判官と雖もそれを無視して勝手な事實構成を爲し得るものではない。例へば、或る汽車の衝突事件に於て當時ポイントの燈火が紅であつたか青であつたかゞ機關手の有罪無罪を決すべき標準となるべき場合には、實際それが紅であつたか青であつたかの客觀的事實がそれを決定するのであつて、假令裁判官と雖も事實紅であつたものを青かつたと認定することは出來やしない‥‥。

 ——つまり事實の客觀性によつて或る限界が與へられると言ふ譯だね。

 ——そうだ。其上他の一面から言ふと、裁判官の合理性が事實認定に一定の限界を與へる。裁判官も人間である以上一面吾々と同樣に不合理的の方面を澤山もつてゐるに違ひないけれども、同時に他面合理性を多分にもつてゐる。從つて、裁判官が其合理性によつて下した事實認定は吾々の合理性に照しても同じく妥當であつたように思はれる。其所の理合を正しく理解しさへすれば、君のように裁判官が勝手な事實認定をやるだらうと言ふ不安を抱く必要はないと思ふ。

 ——成程。人間を裁判官にして裁判をやらせる以上、裁判官の合理的である方面に信頼しない限り、すべてが不安になるのだね?

 ——そうだ。だから、其所を信頼して安心を得るより仕方がない譯だ。

     四

 ——事實認定の問題だけはお蔭で大分解つた。其所で今度は適用せらるべき法律の問題、即ち法律の解釋適用の話をして貰ひたい。

 ——よからう。

 ——それでは先づ第一に聞くが、一體法律と言ふものはどんな事件が起らうともそのすべてを完全に裁き得るように初めから完全無缺の形で存在してゐるのかね?

 ——若しも裁判なるものが必ず——「事實」——「法律」——「結論」なる三段論法の形式をとらねばならないものだとすると、理論上當然に完全無缺な法律が初めから存在するものと假説せざるを得ない‥‥。

 ——假説と言ふと、君は實際はそんな法律はない、唯論理の必要上假説するに過ぎないと言ふのかね?

 ——無論だとも。

 ——しかしそれでは「法律に依る裁判」なるものは理論上成り立ち得ないことになるぢやないか?

 ——若しも「法律に依る裁判」なるものが必ず既存の法則としての法律に準據して裁判せねばならぬと言ふ意味であるとすればどうしてもそう言ふことになる。しかし裁判官に或る範圍の法律創造作用が許されてゐるものと考へ、愈々適用せらるべき法律のない場合には、裁判官自ら法律を創造して裁判することにすれば「法律に依る裁判」なるものが常に成り立ち得ることになる‥‥。

 ——しかしそうなると、裁判官は法律を適用すべきもので法律を作るものではない、然るに彼は法律を作りつゝあると言ふ非難を受けることになるだらう。

 ——そうだ。だから從來一般の學者は法律完全の假説を置いて吾々から見ると實は裁判官が創造したに違ひない法律までをも、初めから存在してゐたもの、そうして裁判官がそれを發見したに過ぎないのだ、と説明する。例へば、此場合に付いては法律はないけれども、條理上かく/\と裁判すべきだと率直に言へば濟む所を、法律の中には「條理法」と稱する法律もあるので、裁判官が條理上云々と言ふ裁判を下す場合は、實は條理法を適用したに過ぎないのだと言ふような説明を與へる‥‥。

 ——すると實質的には裁判官が法律を創造することを認めるのと全く同じぢやないか?

 ——そうだとも。唯裁判官は必ず既存の法律によつて裁判すべきだと言ふ獨斷を飽くまでも動かすべからざるものと考へるや否やで考へ方に根本的の違ひが出て來る。そうして僕の考へでは從來一般の考へ方はどうしても捉はれ過ぎてゐる、裁判官は法律を作るものではないと言ふ獨斷に捉はれ過ぎて率直な考へ方を失つてゐると思ふ‥‥。

 ——成程。

     五

 ——そうしてそう言ふ態度は、獨り法律中に明文がない爲めに條理によつて裁判をする場合についてのみならず、法律の明文に根據を置いて裁判其他法律上の議論をする場合にも常に現はれてゐる‥‥。

 ——と言ふと?

 ——先づ第一に裁判官其他法律家は屡々「法文中には云々と書いてあるけれども、此言葉は云々の意味に解釋すべきだ」と言ふて同じ文字を或は廣く解釋したり又或は狹く解釋したりする。そうして同じ文字について或學者は廣く解釋すべきだと主張し他の學者は寧ろ狹く解釋すべきだと主張して、互に爭つてゐるようなことすら屡々ある‥‥。

 ——しかしそう言ふ場合には、法律としては廣いとか狹いとか初めから意味がきまつてゐる、從つて相爭ふ學者の中一方は正しく法律を解し他方は誤解してゐるものと見さへすればいゝのぢやないか?

 ——だから何等解釋家の創造的作用は行はれてゐないと言ふのかい?

 ——そうだ。

 ——所が裁判の實例を見たり其他學者の議論を聞いてゐると、事はどうもそう簡單に考へられない。例へば民法第二十條には「無能力者ガ能力者タルコトヲ信ゼシムル爲メ詐術ヲ用ヰタルトキハ其行爲ヲ取消スコトヲ得ズ」と言ふ規定がある。所が此中の「詐術」なる言葉の意義について判例の上にも學者の間にも色々の意見が現はれてゐる。所で此言葉を廣く寛やかに解釋すれば無能力者が一寸したことをしても「詐術」と見られて法律上の保護を拒絶されることゝなり、又反對に此言葉を狹く解釋し過ぎると無能力者が可也りひどいことをやつても「詐術」にならない。其結果無能力者を相手にしたものがヒドイ目に合ふことになる。其所で君は解釋家の間にそうした意見の差異が生まれて來る原因は、抑も何所にあると思ふかね?

 ——サァ。その「詐術」と言ふ言葉をどう取るかで差異が出て來るのだらう‥‥。

 ——どう取ると言ふて、まさかその言葉の國語學的解釋如何によつてきまると言ふのぢやあるまい?

 ——サァね‥‥?

 ——其所だよ。一寸考へると「詐術」と言ふ言葉だけを引き離して其國語としての意義を明にさへすれば、此規定の解釋が出來るように思はれるけれども、本統の所は解釋家が無能力者保護の必要を大きく考へるか小さく考へるかできまるのだ。つまり無能力者を餘り保護し過ぎると相手になる一般人が迷惑するから成るべく保護を與へないようにすべきだと一般的に考へてゐる學者は「詐術」と言ふ言葉の意義を出來るだけ廣く解釋して相手方の保護を計らうとする。又裁判官としても眼の前に置かれた具體的事件に於て無能力者と相手方と其いづれがより多く保護に値するかを考へて「詐術」の意義を決する。要するに「詐術」なる言葉の意義が先きに定まるのではなくして、解釋家が此規定の適用によつて無能力者の相手方を何所まで保護すべきであるかを先きにきめた上その目的に合ふように「詐術」の意義をきめる譯だ。

 ——そんなものかね。

 ——そうさ。だから「詐術」と言ふ言葉の解釋も立派な創造的作用と言へる。つまり解釋家の頭の中にある主觀的な或るものが法律が作り上げて來る作用だと言ふことが出來る‥‥。

 ——成程。

 ——所でそうした例はまだいくらでもある。或る時或る藝者——と言ふて其女はまだ未成年だが——その藝者が出入の商人から呉服物や裝身具を買つたけれども代金を拂はない。それが爲めとう/\訴を起された。所が藝者の側では、自分は未成年者だから他人から物を買ふには法定代理人たる父親の同意が要る。然るに自分は事實其同意を得てゐないから民法第四條によつて賣買を取消す、とやつたものだ‥‥。

 ——隨分ヒドイことを言ふ女があるものだね。

 ——確にヒドイ。が確に法律上一理窟ある。其所で裁判所は此藝者を負かすのが至當だと考へることは考へたが、其方法を發見するのに苦んだ。とゞのつまりその藝者は未成年に違ひない、けれども民法第六條によると「一種又ハ數種ノ營業ヲ許サレタル未成年者ハ其營業ニ關シテハ成年者ト同一ノ能力ヲ有ス」る、親から藝者になることを許されて藝者屋に雇はれた以上やはり一種の「營業」を許されたものに外ならないから、藝者稼業に關する限りは「成年者ト同一ノ能力ヲ有ス」る、從つて問題の賣買を取消すことは出來ないと言ふ裁判をしたものだ。

 ——成程考へたものだね。しかし藝者屋に雇はれるのが「營業」とはちと變だね。

 ——言葉それ自身の意味だけから言ふと確に變だ。しかし此場合でも裁判官は無能力者たる藝者よりも相手方たる商人を保護すべきだと考へた譯だ。そうして其考へから出發して「營業」の意味をきめた譯で、それをそうきめる裁判官の働きは決して單に既存の或るものを發見する作用と見るべきではなく、やはり一種の創造的作用と見るべきぢやないか。

 ——成程ね。すると裁判官と言ふものは自分でこれはこう裁判すべきだと思ふと、それに旨く合ふように法文の文字を然るべく解釋するものだと言ふことになるのだね。

 ——然るべくと言ふても、さう勝手氣儘なことが出來る譯ぢやない。丁度先程話した「事實認定」に於ても自然的事實に固有する客觀性が「認定」に向つて或る限度を與へると同じように、法文そのものにも解釋によつて動かし得べき限度は確に存在する。從つて其極限を超えて勝手な解釋を下すことは勿論出來難い譯だ。

 ——すると其極限内で裁判官の創造的作用が行はれると言ふ譯だね。

 ——そうだ。そうして法律は抑もそう言ふ創造的作用を裁判官其他適用者に許すことを豫定して作られてゐるものだ。

 ——成程。

     六

 ——所で裁判官が創造的の働きをやる方法に、も一つ「類推」と稱するものがある。

 ——と言ふと?

 ——或る一定の問題について法律に規定がない。其所で裁判官は本問題については法律に直接規定がないけれども、之と全く同樣の問題である他の事柄について規定があるから、それを類推して同趣旨の判斷を下すべきだと言ふ、言はゞ實は法律そのものに依らないにも拘らず恰も依つてゐるような顏をする。それが即ち類推だ。

 ——そんなことなら一層のこと一思ひに先程の「條理裁判」をして仕舞へばいゝぢやないか。

 ——そりやそうだ。しかし裁判官としては職務上出來得る限り法律に根據を置いて裁判をしたい。「條理上當然だ」とか「何々の筋合」だとか言ふような裁判は極力避けねばならない。だから同じく法律に規定のない事柄について裁判をするとしても出來るならば法律にかゝり合ひをつけて裁判をしたい。例へば普通の有體物を賣買する場合については民法中に規定がある。けれども電力の賣買については何等の規定もない。其所で電力賣買に關聯して何等かの法律問題が起ると、有體物賣買に關する同樣の問題についての規定を類推して同樣に解釋すべきだと言ふような裁判をする。そうすると、ぶつきら棒に條理裁判をするよりは餘程法律によつて裁判したらしい感じがする‥‥。

 ——何故だらう?

 ——同じことは同じに判斷すべきであると言ふのが法律の根本精神だから、同樣なことを同樣に取扱ふによつて吾々は法律の精神に合致したと言ふ感じを受けることが出來るのだと思ふ。

 ——が要するに、直接法律そのものによつて裁判した譯ぢやないね。

 ——そうだ。所で此類推に關聯して問題になるのは、法律に規定のない事柄について問題の起つた場合に、裁判官なり學者が常に必ず類推をやつてくれゝば始末がいゝけれども、時によると反對に「此問題については規定がない、類似の事柄であるあの問題については云々の規定がある、して見ると立法者が特に此問題について規定を設けなかつたのは特に之を規定から除外する積りであつたに違ひない、從つて此問題は寧ろ規定の趣旨と反對に解釋すべきだ」と言ふような論法で所謂「反對解釋」なる方法を用ひる‥‥。

 ——すると同じく規定のない問題についても或場合には「類推」を使ひ、或場合には「反對解釋」を使ふと言ふ譯だね?

 ——そうだ。法律解釋上の議論と言ふと多くの場合其二つの使ひ分けをして議論をやつてゐるようなものだ。

 ——隨分勝手なものだね。

 ——勝手と言へば勝手と言へるが、抑も初めから法律に規定のない事柄なのだから已むを得ない。つまり裁判官が自分の意見で然るべく裁判するように許されてゐる場合なのだから。

 ——すると此場合も裁判官が自ら其適用すべき法律を創造してゐると言ふ譯だね?

 ——そうだ。

     七

 ——成程色々聞いて見ると、裁判官の創造的作用の非常に廣いものであることが段々解つて來た。しかしそうなると今度はあべこべに裁判と言ふものは法律に依つてなされる、從つて公平であると常々教へられてゐる點に就いて非常な疑が起る。裁判官は其創造的作用によつて勝手な裁判をすることが出來る。不公平も其間に自ら生まれて來る虞がある‥‥。

 ——一應至極御尤な心配だ。がしかしそれは畢竟裁判官の人を信頼するや否やの問題で、裁判官を信頼してかゝらない限り、どんな法律を作つても結局何にもならない。

 ——併し僕はどうしても自分と同じ人間に過ぎない裁判官に生殺與奪の權までをもお任せする氣にならない。

 ——御尤千萬だが、君が自分と同じ人間に過ぎない裁判官を信頼出來ないと言ふのを煎じ詰めると、結局人間は信頼出來ない自分すらも信頼出來ないと言ふことになる。そうして一度人間が信頼出來ないことになると、世の中全體が全く動きのとれないものになる。例へば自動車を運轉するのだつて向ふから歩いて來る人は多分合理的に行動するであらうと思へばこそ安神して進んで行ける。之に反して何をするか分らなければあぶなくて進めない。だから、成程人間の中には一面多分に不合理な分子が含まれてゐるけれども、他面に於て合理的な方面もある、否寧ろ合理性が人性の基礎をなしてゐる、だから自分の不合理から類推して矢鱈に他人の同じく不合理なるべきことを恐れるよりも、自分の合理性から推論して他人も同じく合理的なるべしと考へてかゝる方が萬事が圓滑に動く‥‥。

 ——だから裁判官の合理性に信頼して萬事をお任せしろと言ふのかい?

 ——萬事をとは言はないが、他人の合理性を信頼しない限り世渡りは出來ない、だから裁判のことを考へるにしても裁判官に對する信頼だけは飽くまでも之を基礎に置く必要があると言ふのだ。だからフランス革命系統の刑法のように、裁判官が不公平をするだらうと言ふことだけを專ら心配して法律を立てゝゆくと、結局窮屈な動きのとれない法律が出來上つて、反つて刑罰の目的を達することが出來ない。それでも專ら公平を要求した當時の人々はあれで安神した譯だ。所が法律で如何に裁判官を束縛して見ても事實は中々其目的を達し得ない。否反つて弊害が起る。刑法の如きでも刑罰本來の精神を發揮する爲めには、どうしても裁判官に成るべく廣い裁量の範圍を許し與へた上、個々の犯人について一々適當な個別的の取扱を與へしめる必要がある。所がそれには裁判官を信頼してかゝるより仕方がない譯だ。

 ——成程。すると今日のように澤山の法令を作つて裁判官や役人に苦しい思ひをさせてゐるのは要するに人民の彼等に對する信頼の不足を表章するものだね。

 ——そう言へば確にそう言へる。王樣の徳化が廣く深く及んでゐる國では法三章を以て民を治めることが出來た。其時代には王樣は神樣に近いもの、神樣王樣の言葉ならば其是非善惡や公平不公平を考へるまでもなく人を服するに足りた。だから法律など要らない、王樣の言葉即ち法律に外ならないのだから。所が近代人は自由平等思想の結果すべてのものを自由平等の人間として仕舞つた。そうして吾々は互に自分の中に在る不合理的分子から推測して他の人々の不合理を恐れるようになつた。役人だつて自分と同じ人間だ、して見ると何をするか分つたものぢやない、こう心配して見ると何でもかでも法律を作つて萬事を法律づくめにしなければ承知出來なくなる‥‥。

 ——要するにデモクラシーは法律を澤山作るものだね。

 ——確にそう言ふ傾向はある。けれどもデモクラシーの下でも人間が他人の惡を恐れずして善を信ずるようになり、他人も自分と同じように大體合理的なものだと考へるようになつて見ると、むやみに法律を作つて役人を縛ることの愚なる事に氣がつく。近代的刑法が諸國共著しく刑罰量定の範圍を廣くする傾向を示してゐるが如き正に此覺醒の結果と見ることが出來る。

 ——すると君が法律の解釋適用についても裁判官の人間に對する信頼に立脚して議論を進めるより外ないと言ふのも結局其同じ傾向を物語るものと見ることが出來るね。

 ——大にそうだ。今までの法律解釋理論では裁判官の創造作用を全然否定してゐた。而かも實際上創造的の活動をしてゐる事實を否定し得ない爲めに、已むを得ず法律完全の假説を設けて、實は裁判官の創造したものについてもそれは法律の中に初めから規定されてゐた、それを裁判官が發見したに過ぎないと言ふような説明をしてゐたのだ。だから事實に於ては裁判官の創造作用を是認しつゝ、形式上それを否定したことにして、本來頼るべからざる假説の上に安眠してゐるものと言ふことが出來る。所で吾々はその假説に滿足出來ない、裁判官が創造作用を營むことが事實であるならば、事實は事實として之を認めつゝ解釋理論を樹てゝゆきたい、そうして裁判官に創造作用を許しても法律の解釋適用は決して無秩序に陷るものではないと言ふことを説明もし又自らも確信したいと考へてゐる譯だ。

 ——そうしてその確信する根據を裁判官の合理性に對する信頼に置かうと言ふのだね?

     八

 ——そうだ。無論先程も話した通り事實認定に於ける裁判官の創造作用が如何に大きいとしても選擇綜合の對象たるべき具體的事實そのものには必ず或る程度の動かすべからざる客觀性がある。それを超えて勝手な認定を下すことは裁判官と雖も出來ない‥‥。

 ——すると事實認定についても超ゆべからざる一の限界があると考へることが出來る譯だね?

 ——そうだ。事件の當時或る燈火が赤かつたか青かつたかゞ事を決すべき最後の事實である場合には、其赤かつたか青かつたかと言ふ客觀的事實が事を決するのであつて、裁判官と雖も之を如何ともすることは出來ない。それと同じように解釋の對象たるべき法律そのものにも或る程度以上動かし難い一定の客觀性がある。法文の文字用語であるとか法律立案の沿革であるとか、若しもそれを無視した解釋をすると誰れが見ても不穩當だと思はれるような限界が存在し得る。つまり法律解釋に於て裁判官に許さるべき創造作用が如何に大きいとしても、これ以上超えてはならないと言ふ客觀的の限界は確に存在するものと見ねばならない‥‥。

 ——すると裁判官の創造作用は事實認定及び法律解釋に於ける二の客觀的限界の間に於て自由に躍動すると言ふのが君の意見だね?

 ——そうだ。此二の限界の範圍内に於て事實認定と法律解釋とそうして結論を産む心の働きとが三つ巴をなして相互的に決定し合ふのだと思ふ。つまり心理的過程としては事實認定が先きにあり次に法律解釋が行はれ、そうして其結果結論が産まれるのではなくして、此三の働きは相互的に決定し合つゝ一切一時に行はれるものだと思ふ。

 ——しかし其相互的決定關係を最後に動かないものとして決定する何物かゞ別になければ困るだらう。

 ——無論だ。

 ——するとそれは?

 ——言ふまでもなく裁判官の人だ、その理想だ、人生觀だ。裁判官の人が事實認定の標準にもなり法律解釋を決定する規準ともなり同時に又結論を生み出す基本にもなる譯だ。

 ——しかし、一概に理想とか人生觀とか言ふても人によつて色々違ひ得るから、中々以て安心出來ないぢやないか?

 ——無論だ。だからブルヂョア社會に於ては兎角ブルヂョア・イデオロギーが裁判の内容を決定し易い。プロレタリアから見ると善と見えることでも、ブルヂョアは動ともするとそれを惡と見る虞がある。そうしてそれが正に裁判の上にも現はれて來る‥‥。

 ——すると同じ事件でも裁判官の違ふによつて色々違つて裁判されることがあり得る譯だね。

 ——そうだ。しかしそれは人間をして裁判をやらせる以上如何とも仕方のない事柄なのだ。

 ——がそれにしても、裁判官がそう勝手に自分の人生觀を振り舞はされても困るぢやないか?

 ——そりや無論だ。しかしこれだけは如何とも仕方のない事實だ。その上裁判官は自己の人生觀を基礎にして裁判をするとしても、要するに彼等のすることは裁判である、法律によつて裁判をする、立法をするのではないと言ふ根本の所を忘れさへしなければ、決して勝手氣儘な振舞をする虞はない‥‥。

 ——と言ふと?

 ——つまり裁判官は決して其面前に提出された具體的事件をともかく其事件として妥當に片付けさへすればいゝのではない。無論彼等の行爲は立法ではないけれども、若しも此當該事件と全く同じ事件が他に起つたならば同時にその事件についても同じ結論を與へると言ふ確信の下に、當該事件に適用せらるべき法律を創造せねばならない。スイス民法は此點について旨いことを言つてゐる。即ち法律に規定なきときは慣習法によるべく、慣習法亦存在せざるときは、彼が立法者なりせば作るべき法則を立てゝ裁判すべしと言ふてゐる‥‥。

 ——單に條理に依つて裁判しろとは言はないのだね?

 ——そうだ。單に一定の事が條理的であるかどうかを考へたゞけでは足りない。此際當面の事件に適用せらるべき法律を立法者として立法するとせば正に作るべき法規を創作し、それによつて裁判せよと言ふのだ。其所に裁判官の仕事が立法ではなくして裁判であると言ふ精神を旨く表はしてゐる譯だ。僕が先程言つたように裁判官の創造作用を高調すると、裁判官は動ともすると自己の仕事が裁判であると言ふ根本義を忘れ易い。それを戒めた言葉として此規定は大變面白いと思ふ‥‥。

 ——成程。法律によつて裁判するのだと言ふ根本義を忘れさへしなければ、法なき場合に裁判官自らをして法を作らしめてもいゝ、裁判官が單に事件を然るべく形付けると言ふ氣持に陷ることなく、飽くまでも法律によつて裁判すると言ふ氣持でゐさへすればいゝと言ふ譯だね?

 ——そうだ。其根本義を忘れないことだけは裁判官として絶對的に必要だ。裁判官としては單に或事件が其事件として具合よく形付いたと言ふだけで滿足してはいけない。かくの如きは調停の仕事であつて裁判の仕事ではない。裁判に於ては飽くまでも公平の要求を聽く必要がある。同じことは同じように裁判することによつて一般人民に安心を與へる必要がある。この事を忘れると裁判そのものゝ根本精神は全く破壞して仕舞ふ‥‥。

 ——成程至極尤だ。がそれにしても裁判と言ふ仕事は——君の説を聞いて見ると——中々大變な仕事だね。

 ——そうだ。「事實認定」と「法律解釋」とそうして「結論」と、其すべてに通じて最後の決定を與へるものは裁判官の「人」に外ならない。從つて、裁判官としては飽くまでも其「人」を完成すべく努力する責任がある。又そうしてこそ初めて一般人の信頼を受けることも出來る譯だ。

     第五話 判例の研究と判例法

     一

 ——法律の解釋適用に關する話をきいたついでに「判例」のことを少し話してくれないか。

 ——よからう。

 ——ひとの話によると、君等は近頃大いに判例研究の必要を高調してゐるそうだが、一體どう言ふ理由によるのかね?

 ——近頃特に高調してゐる譯ぢやない。同志の人々と共に判例の共同研究を始めたのはもうかれこれ十年も前のことだ。

 ——そうかね。がしかしそんなことはどうでもいゝ。ともかくどう言ふ譯で判例研究に力を入れるのか、其理由を説明してくれ給へ。

 ——一言で説明するのは六かしいが、要するに此前詳しく説明した法律の解釋適用に關する僕の考へから出て來る當然の結論に過ぎない‥‥。

 ——と言ふと?

 ——昔僕等が學校で法律を習つた頃には、或事柄に關する法律が何であるかは初めからきまつてゐる。裁判官其他法律の解釋を爲す者は單に其既にきまつてゐるものゝ何たるかを發見説明するに過ぎないものと考へてゐた。從つて當時と雖も學者は屡々「判例批評」なる名の下に判例の研究をやつてゐたけれども、其爲す所は全く判決中に書き示されてゐる法律の解釋が學理上正しいか否かを批評するだけで、法律適用の對象たるべき事件そのものを具體的に觀察研究することをしなかつた。此前も話したように法律的判斷に於ては事實と法律と結論とが相互的に關聯しつゝ一切一時に相決定し合ふ關係をもつてゐる。裁判官は具體的の事件について事實を選擇構成すると同時に法律を解釋適用して結論を出す。其働きたるや決して單に既存のものゝ發見説明たるに止まらずして、明かに一の創造である。して見れば、今までのような態度でいくら判例を研究して見ても、結局學理的に上すべりをしてゐるだけで、眞に當該の裁判が爲さるゝに至つた理由を具體的に明瞭ならしめることが出來ない。從つて名は判例批評であるけれども、實は裁判の説明に使はれてゐる學説の批評に過ぎない。少しも裁判其ものゝ中に躍動してゐる生命に觸れてゐない。其結果判例の中に潛んでゐる活きた法律を發見してそれに適切な批判を加へんとするよりは、多くの場合裁判の中に或學説が述べられてゐるのを機會として批評者自らの學識を披瀝してゐるに過ぎないようなことになつてゐた‥‥。

 ——成程。それで君等の考へ及び態度は全く違ふと言ふのだね?

 ——そうだ。僕の考へでは、前にも屡々言つた通り、法律の解釋は法律適用の對象たるべき事實の複雜さにつれて極めて微妙な變化を來たすものだ。從つて、具體的事件に於ける事實を精密に觀察した上でなければ、與へられた法律判斷の當否を批判することは出來ない。之に反して事實を充分具體的に觀察した上それと對比しつゝ與へられた法律判斷の何たるかを考へて見ると、其所に初めて裁判官の活きた心の動きが分る、そうして活きた法律の動きを發見することが出來る、其所をねらつて判例を研究することが實際的にも學理的にも極めて有益必要だと僕は信じてゐる‥‥。

 ——成程理窟は大分解つたが、其實際的學理的に有益必要だと言ふ點をも少し詳しく説明してくれないか?

 ——それでは先づ實際的の方面から言ふが、例へば辯護士が或事件を引受けて訴訟をするとする。其際必然問題になるのは、裁判所は當該事件に適用せらるべき法規をどう解釋するだらうかと言ふことだ。其所で辯護士としては無論一面學者が一般にどう言ふ解釋をとつてゐるかを顧慮する必要があるけれども、それにも増して大切なのは裁判の先例だ。所が、其判例を研究するに際して單に「判決要旨類集」か何かを調べて判例は云々の説をとつてゐると言ふようなことを形式的に調べたゞけでは何にもならない。先例たる事件を具體的に觀察解剖した上、それと判決内容との關係を有機的に研究して見る必要がある。そうすれば、其判決の生まれて來た眞の經過を見出し、其所に動いた裁判官の心の動きを洞察することが出來る‥‥。

 ——成程。そうすれば嘗て云々の事件についてこう言ふ判決が下されたと言ふことから推して、當面の事件について行はるべき裁判官の心の動きを推察し得ると言ふ譯だね?

 ——そうだ。だから辯護士が判例を調べるなら其所まで立ち入つて調べる必要がある。又そうしてこそ初めて安神して訴訟することが出來る譯だ。よく世の中ではやれ判例が變はつたとか裁判所が時々前後矛盾した裁判を下して困るとか言ふけれども、仔細に研究して見ると判例が變はつたのでもなければ前後矛盾してゐる譯でもなく、單に前後二の事件相互間に事實そのものゝ差異があるに過ぎない、そうして判決の差異は其事實の微妙な差異が生まれて來るのだと言ふことに氣がつく‥‥。

 ——そう言ふことは在來の判例批評家には解らない譯だね。

 ——そうだ。そう言ふことは理論上あり得べからざることゝ考へてゐるのだ。所が吾々の考へでは其所にこそ法律適用の妙味があり判例研究の面白味がある譯だ。

 ——成程。すると君等の判例研究は其妙味を發見して辯護士其他一般人に注意を與へてやらうと言ふのかね?

 ——それも無論副産物として考へてゐるが、吾々が判例研究上重きを置いてゐるのは寧ろ其理論的重要さだ。

 ——と言ふと?

 ——それにも色々あるが、先づ第一にこう言ふ考へで判例を研究することが何が現行法であるかを知り得る唯一の途だ。法律が事實の如何によつて微妙に働く具合を仔細に研究してこそ吾々は現行法の何たるかを知り得る。それをやらずに註釋書や教科書の中からいくら學説を漁つて見ても現行法の何たるかを明瞭に知ることは出來ない。それから第二に判例研究は吾々の理論的研究に向つて極めて重要な反省を與へる。丁度自然科學者が實驗によつて自己の理論を反省修正する機會を與へられるのと同じように、判例の中に現はれた事實と法律の動きとは吾々に向つて極めて貴重な實驗を與へてくれる。吾々が其與へられた實驗の結果を能く考へて見ると、從來抱いてゐた理論を修正する必要を感ずることもあり、現行法の缺點を發見して法律修正の必要を感じさせらる場合も非常に多い。世の中にはどうかすると判例など研究しても學問上何になるものかと言ふような惡口を言ふ男がゐるけれども、實際やつて見れば恐らく思ひ半に過ぐる所が多いと思ふ。

     二

 ——成程。そう聞いて見ると判例研究の必要だけはどうやら一通り解つたような氣がする。所で今度は判例の研究に關する理論的の方面を少し話してくれないか。

 ——よろしい。それでは先づ第一に、判例は單なる事實であるか法律であるかと言ふ議論について話をしよう。

 ——何だい、其單なる事實と言ふのは?

 ——つまり判例は單にかく/\の事件について嘗て云々の判決が與へられたと言ふ過去の事實に過ぎないものとして觀察せらるべきあるか、それとも其所には裁判官が其事件について創造した法律が現はれてゐる、從つて將來に向つて效力を有する規範が現はれてゐるものとして觀察すべきであるか、其所に判例の研究に關する根本の問題がある譯だ。

 ——しかし裁判官は立法者ではない。其面前に提出された具體的の事件を裁判しさへすればいゝ、否それ以上のことは絶對に爲し得ない役人ぢやないか。して見れば彼等の與へた裁判は單なる事實たる以上特に何等の效力をも有する筈がないぢやないか。

 ——從來一般の學者は皆そう言ふてゐる。英米のような判例法の國でさへ以前にはそうした考へをもつてゐるのが少くなかつた‥‥。

 ——當り前ぢやないか。

 ——裁判官は立法者にあらずと言ふ三權分立論的の獨斷を妄信する限りは確に當り前だ。しかし、此前詳しく話した通り問題の根本は裁判官の裁判なる働きの中に創造的の作用を認めるか否かに在る。從來多くの學者はそれを認めない、そうして法律完全の假説を置いて裁判官はすべて其既存の法律を發見し其何たるかを説明するものたるに過ぎないと説いてゐる。けれども、其考への理論的に成り立ち得ないことは、此前に詳しく説明したぢやないか。

 ——あの話はあれで解つてゐる。しかし裁判官が裁判に際して爲し得るのは、單に當該の事件を裁判することのみであつて法律を作ることではない‥‥。

 ——そりや無論だ。しかし此前にも言つた通り裁判官は決して既定の物指で物の長を計る機械ではない。裁判を爲すが爲めには——多少の差こそあれ——必ず其場合に適用せらるべき法律を創造する。而して法律を創造すると言ふ以上彼が其際創造する法律は決して單に當該事件にのみ適用せらるべきものとしてゞはなく、苟も事情の全く同じ事件が他に起るならば其事件にも亦當然に適用せらるべきものとして當該の法律を創造するものと考へねばならない‥‥。

 ——其事は解つてゐる‥‥。

 ——それならば彼等の裁判はやはり一の法律を造り出すもので、決して單に一事件を解決したと言ふ事實ではない、と言ふことも解つてよさそうなものぢやないか。

 ——しかし、それは解るとしても彼等が法律を作るのと立法者が法律を作るのとは全く譯が違ふ。

 ——そりや無論違ふ。しかし其差異は、立法者の場合には彼等の立法が當然法律として以後發生すべき一切の事件を支配すべきものであることが制度上保障されて居る、之に反し吾國のような所では判例法については全くそう言ふ制度上の保障が作られてゐない、と言ふ點に存するに過ぎない。而してそう言ふ制度上の保障がないからと言ふて、依つて作られるものが法律でないとは絶對に言ひ得ないだらう。

 ——しかし前に君が話した通り或規則が法律たるが爲めには其背後に之を支持する社會的統制力の存在を必要とする、然るに判例の場合にはそうしたものが存在しないぢやないか。

 ——存在しないことがあるものか。先づ第一に例へば或裁判所が一定の判例を作る、殊に同じ判例を何遍も繰返へすと、世の中でもあの裁判所に行くと云々の事件はかく/\に裁かれると言ふことが分つて來る。其結果自ら判例の趣旨に從つて行動するようになる。つまり此の場合には裁判の權威に對する一般人の尊敬心が立派に判例を法律たらしめる力となる譯だ‥‥。

 ——成程。

 ——又第二に、大審院の如き上級裁判所が一定の判例を作ると、下級裁判所は自らそれに從ふ傾向を示す。いくら反對の裁判をしても結局上告すると判例通りにやられて仕舞ふから、先づ何等か特別の理由がない限り判例に從ふ、其審級の上下關係上已むを得ず從つて仕舞ふ所に判例を法律たらしめる社會力があると考へることが出來る。

 ——すると、君は法律であるけれども、君の所謂社會の法律に過ぎないと考へてゐる譯だね?

 ——そうだ。國家が裁判所を立法機關としてない以上依つて作られる判例法は國家の法律ではない。しかし、國家が——恰も本來社會の法律たるに過ぎない慣習法を國家的に利用する法律例へば法例第二條のような規定を作ると同じように——別に法律を作つて判例法を國家的に利用すべき規準を作ることは毫も差支ない。

 ——成程。それで日本には現在そうした法律はないのかね。

     三

 ——それがない譯だ。無論裁判所構成法第四十九條には「大審院ノ或ル部ニ於テ上告ヲ審問シタル後法律ノ同一ノ點ニ付曾テ一若ハ二以上ノ部ニ於テ爲シタル判決ト相反スル意見アルトキハ其ノ部ハ之ヲ大審院長ニ報告シ大審院長ハ其ノ報告ニ因リ事件ノ性質ニ從ヒ民事ノ總部若ハ刑事ノ總部又ハ民事及刑事ノ總部ヲ聯合シテ之ヲ再ビ審問シ及裁判スルコトヲ命ズ」と言ふ規定がある‥‥。

 ——例の聯合部判決と言ふ奴だね?

 ——そうだ。此規定は、大審院判決は少くとも大審院内に於ては後の裁判官を一應拘束する。大審院の或部で判例に反する裁判をしようと思へば聯合部を開いて貰はねばならない、然らざる限り判例に從はねばならぬ、と規定してゐるもので、確に判例法に或程度の國家的保障を與へてゐるものと言ふことが出來る。

 ——成程。が一體なんだつて大審院の判例についてだけ特にそう言ふ規定を設けてゐるのかね?

 ——そりや無論大審院の判例を統一して法律の解釋適用を全國的に統一する必要があるからサ。つまり大審院の判例は下級審に對する關係に於ても又一般人民に對する關係に於ても法律性が最も強い。從つて、一旦判決した或事を判例として公示した以上濫に之を變更するのは面白くない。又同じ事柄について二個以上違つた判例の併存することは不穩當であつて一般人が迷惑する。其所に此規定の制定されてゐる理由がある。

 ——成程。して見ると其規定のある結果として大審院の判例には特に權威が加はると言ふ譯だね。

 ——そうだ。しかし國家の法律としてはそれ以上別に何事をもきめてゐる譯ではないから、下級審は必ず大審院判例を遵奉せねばならないと言ふようなことは毫も國家法としてきめられてゐる譯ではない。けれども、特に理由のない限り判例に違反した下級審の裁判は上告の結果破毀されることになるから、縱令國家法としての保障はなくとも大審院判例が事實上、否もつと精確に言ふならば社會の法律として下級審を拘束することは非常なものだ。

 ——しかし判例に反する裁判をすることは絶對にいけないと言ふ譯ぢやあるまい。

 ——無論そうだ。いくら違反しても國家法上毫も違法を働いたものとして非難されることはない。しかし特に違反すべき理由がないのに、無智若くは物好きから濫に判例を無視するが如きは下級審として大いに愼むべきことだ。かくの如き裁判官は故なく法律の第一要素たる安全の要求を無視するものであつて決して良い裁判官と言ふ譯にゆかない。

 ——成程。すると大審院の判例は事實上殆ど成文法と同じような效力をもつてゐるのだね。

 ——そうだ。だから、現行法の何たるかを知らんとする者は常に大審院の判例を研究して置く必要がある譯だ‥‥。

 ——成程。

     四

 ——しかしくれ/″\も注意して置きたいのは、判例は具體的事件について下された具體的判斷たることが本體であつて、立法の如く抽象的の法則を制定するものではないと言ふことだ。無論裁判官が具體的事件を裁斷するについては正に其事件に適用せらるべき法律を創造する、即ち其事件を解決するだけではなく若しも同樣の事件が他にもあるならば同じく適用せらるべきであると言ふ確信の下に當面の事件に適用せらるべき法律を創造する譯だ。だから同じく法律ではあるものゝ抽象的な法則を示すものではなくして、極めて内容の具體的なものだ。

 ——つまり同じく法律ではあるものゝ、飽くまでも當面の具體的事件を裁斷するものとして創造されねばならないと言ふ譯だね?

 ——そうだ。だから裁判官が其氣持を離れて無闇に立法者のような顏をして抽象的な法則を宣言するような態度をとることは大いに愼まねばならない‥‥。

 ——無論のことだ。

 ——所が判決を讀んでゐると時々そうした態度を示す裁判官がゐる、そうして直接裁判に關係のないことについてまで非常に權威あるが如き顏をして學理を説いたりなぞする、甚だ苦々しいと思ふことが時々ある‥‥。

 ——そいつは怪しからんね。それに一體裁判官がそんなことをしても何にもならないのだらう?

 ——無論ならんサ。世の中には動もすると判決の中で或る學説が採用主張されてゐると直にそれを判例だと思ひ込んで仕舞ふものがあるけれども、かくの如きは全然判例の何たるかを理解せざるものと言はねばならない。

 ——と言ふと?

 ——つまり英米の學者がよく言ふ通り判決の中に書かれてゐることの内で眞に判例となるのは ratio decidendi 即ち「判決理由」に限る、判決の中で偶々述べられてゐるに過ぎない裁判官の意見は obiter dicta 即ち「傍論」と稱して何等判例を成すものではない。何故かと言ふと、前にも屡々言つた通り、判決は具體的事件に對する具體的判斷だ、當該の細かい具體的事情が微妙に裁判官の心の動きに影響して、具體的判斷が生まれるのだ。立法者が法律を作るときには抽象的に將來の事件を想像して抽象的の法則を作るに過ぎない。之に反して裁判官が裁判をするときには、充分當面の事件を具體的に觀察した上正に其事件に適用せらるべき法則を作る、そうして其法則を當てはめて具體的判斷を下す譯だ。だから同じく法律が作られると言ふても、當面の具體的事件と全く事情を同じくするような事件にのみ妥當する法律であつて、抽象的法則たる法律が作られるのではない‥‥。

 ——成程‥‥。

 ——だから、判決の中に書かれてゐることの内眞に判例として判例法を形成すべきものは、具體的事件に對して下された具體的判斷を決定せしめた裁判官の法律意見のみでなければならない。「傍論」はその際偶然に言はれた抽象的意見に過ぎないのであつて、具體的判斷そのものゝ一部を構成するものではない。だから判決の中に書かれてゐることの中何が眞の「判決理由」なりやを見出し、それと「傍論」とを識別することが判例研究上最も大切だと言はねばならない。

 ——が其識別は一體どうしてやるのかね?

 ——判決を能く具體的に研究して見れば自ら解る。無論經驗を必要とするがね。だから米國の大學で例の判例式教育をやる際には、先生はいつも其點に氣をつけて、一々學生に何所が此判決の眞の「判決理由」であるかを訊ねるようにしてゐる。然るに、吾國では從來全く判例法が研究されてゐない爲めに、判例とは何ぞやと言ふことについてすら、はつきりした意見をもつてゐない者が非常に多い。其結果、例へば現に大審院判事自らが關係して編輯してゐる「大審院判例集」に於てすら、各判決の初めに「判決要旨」と稱して掲げてゐるものゝ中で、全く眞の「判決理由」と「傍論」とを區別せず、單なる「傍論」に過ぎないものでも何か或法規の意義に關係があるようなことが言つてあると、それを「判決要旨」だとして書き記してゐる場合が少くない‥‥。

 ——そんなものかね。

 ——そうだとも。だから「判決要旨類集」なんて本を拾ひ讀みして大審院の判例はかく/\だなどと早呑み込みをすると、とんだ間違が起る。

 ——すると眞の判例を知らうと思へば、どうしても判決そのものについて自ら判決理由を發見する必要がある譯だね?

 ——そうだ。だから先程も一寸言つたように例へば辯護士が或訴訟事件の必要上判例を調べる場合などは特に其用意が必要だ。判例集の中から類似の先例を見出して能く其具體的事實とそれに下された裁判官の具體的判斷とを研究し、其所に動いてゐる細かい裁判官の心の動きを洞察する必要がある。さもないと、折角これが判例だなと考へそれに信頼して訴訟をやつて見ると、マンマと失敗するような結果になる‥‥。

 ——つまり眞に判例の何たるかを理解してゐない罪だね。

 ——そうだ。所が此種の無理解は今尚至る所で盛に行はれてゐる、例へば、大審院が聯合部判決で判例を變更する場合を細かに研究して見ると、實は何等變更と稱する必要のない場合の少くないのに氣がつく‥‥。

 ——と言ふと?

 ——つまり前の判例を生み出した事件と今度の判決を生み出す事件とでは具體的事情が非常に違ふ。從つて、同じ法規の解釋適用によつて事件を裁斷するについても、前の場合に裁判官の創造する法律從つてそれによつて下される裁判と後の場合のそれとは全然違ふことがいくらでもあり得る。從つてそう言ふ場合には、舊判例の外に新判例が出來たゞけのことであつて、後者は前者を否定するものではない、兩者は判例としての價値に何等の輕重なく併存し得る譯だ。

 ——それならば態々聯合部を開くまでもない譯だね?

 ——そうだ。所が一寸考へると同じ法規について從來と違つた解釋が下されるのだから判例の變更が行はれるように思はれる。其結果聯合部が開かれるようなことになるのだけれども、かくの如きは全く判例の意義を理解せざるが爲めに起る間違だ。

 ——成程。そうすると學者の著書の中に判例を引用するにしても餘程其所の所を氣をつけてかゝらないと間違が起るね?

 ——そうだ。著書の中には何年何月何日の大審院判決が同説だとか反對だとか書き放しにしてあるのをよく見受けるけれども、其判決そのものについて能く研究して見ると同説でも何でもないものが屡々發見される。これと言ふのも判決の結論だけを形式的に見てそれを判例なりと思ひ込む爲めに起る誤謬に外ならない‥‥。

 ——成程。して見ると判例研究と簡短に言ふけれども、中々六かしい仕事だね。

 ——そうだ。全く六かしい仕事だ。而かも苟も現行法を研究する以上、何人も力を注いでやらねばならない仕事だ。だから吾々の仲間では現に「民事法判例研究會」なるものを組織して今まで話したような意味から眞の判例を見出す爲めに毎週大審院の新しい判決の共同研究をやつてゐる。

 ——成程。しかし同じく判例を研究するにしても判例の何たるかに關する根本の考がしつかりしてゐなければ駄目だね?

 ——そうだ。最近判例研究の必要が一般に認められて各方面に研究會などが出來つゝあるようだが、其所の所を充分氣をつけないと、何等意義ある成果を擧げ得ないと思ふ。

     第六話 法律書の選び方讀み方

     一

 ——色々聞いたお蔭で理窟の方はどうやら大分解つて來たような氣がする。

 ——それは結構だ。

 ——それでこれから愈々自分で勉強を初めて見ようと思ふのだが、獨學でやつてゆく以上やはりそこらで賣つてゐる教科書を根氣よく讀んでゆくより外に仕方がないな。

 ——そりや無論そうだ。

 ——所が、吾々素人にとつては讀むべき教科書の選擇が六かしい。何しろ本屋に行つて見ると同じような名前の本がいくつも列んでゐて、一體どれを買つたらいゝのか、とんと見當がつかない。

 ——成程。それは至極尤だ。

 ——だから、其選擇の標準と言ふか方針と言ふか、そんな話を少ししてくれ給へ。

 ——さあ、そう開き直つて聞かれて見ると旨く簡短には話せないな。

 ——だから、そう六かしく考へないで、吾々素人の心得になりそうなことを二三かいつまんで話してくれ給へ。

 ——それでは話すが、先づ第一に注意すべきことは自分勝手に本を選擇してはいけない、出來るなら誰か然るべき人に相談した上で讀むべき本をきめろと言ふことだ。

 ——それは今更君に言はれないでも解つてゐるが、僕にしたつて一々君の所に相談に來るのも面倒だし、君にとつても迷惑だらう。況んや一般の人にとつては其相談すべき相手を見付けることそれ自身が非常に六かしい‥‥。

 ——それは解つてゐる。しかし僕が特にこう言ふことを注意する必要があると思ふのは、世の中には此點の注意を全く怠つて例へば本の標題だけを見ていゝ加減に本を買ふような人が少くないからだ。

 ——まさか法律書を買ふのにそんな無茶なことをするものはあるまい。

 ——所が大にあるらしい。此間或本屋の番頭に會つたときに、法律書の内でどんなものが一番賣れるかと聞くと、それは民法總論ですと言ふのさ。何故だときくと番頭の言ふことが面白いぢやないか、多分民法總論とあるから民法のことが總て論じてあるとでも思ふらしいですね、と言ふ譯さ。

 ——總論即ち總て論じてあるでいゝぢやないか。

 ——君までそんな馬鹿なことを言ふようだから、世の中の人が間違へるのも無理はないが、題して民法總論と言ふ本はすべて例外なく民法序説とでも言ふようなことを少しばかり書いた後に民法總則篇百七十四箇條の註釋をしたものだ。物權債權とか親族相續とか世の中の人が寧ろ普通に知りたがるようなことは少しも書いてなくて、やれ法人論だとか法律行爲論だとか素人には最も解り憎いようなことばかり書いてある‥‥。

 ——ヘエ、そんなものかね。

 ——そうさ。だから本の標題だけを見て法律書を買ふなどは危險千萬、君なども今後大に氣をつけないといけないな。それに著者の中には隨分中味とはとつてもつかないような標題をつける人が少くないから‥‥。

 ——成程。それは危險だね。

 ——そうさ。だから君なども今後精々面倒がらずに一々相談に來るようにし給へ。

 ——有難う、是非そうしよう。所で其事は充分注意するとして、も少し他の注意をきかせてくれないか。

 ——それでは話すが、本は成るべく定評のあるものを讀むようにするがいゝ。無暗に新刊書を追つて矢鱈なものを濫讀するような態度は極力避けねばならない‥‥。

 ——定評のあるものと言ふと?

 ——古いとか新しいとか言ふようなことを超越して是非共あの本だけは讀まねばならないと一般に言はれてゐる本のことだ。

 ——成程。そう言ふものがあれば誰しも讀むべきが當り前ぢやないか。

 ——所がその當り前のことをやらない人が中々多いから困る。例へば或專門の研究に從事する以上、其專門に關する限り是非共讀まねばならない本が必ずあるものだ。無論專門の研究者のことだから新刊書も極力讀むように努力せねばならないが、それはそれとして是非共讀まねばならない本があるものだ。所が自ら學者と稱してゐる連中の中にもそう言ふクラシツクスを讀むことを怠つて新刊書の後ばかりを追つてゐるものが少くない‥‥。

 ——そんなものかね。しかしそう言ふ古い本に書いてあるようなことは大概どんな本にも書いてあるから、何も改めて古いものを讀まずとも差支あるまい?

 ——所がそれが間違だ。一見すると、優れた人の書いたものも凡庸な人間の書いたものも大體同じことを書いてゐるように見えるけれども、優れた人の書いたものには氣魄と言ふか精神と言ふか何とも言ふに言はれない特殊の力がこもつてゐる、そう言ふ言ひ知れぬ力に打たれることがクラシツクス讀書の價値で、こう言ふ本は必ずしも智識を與へないけれども力を與へてくれる、吾々の體の中に内在してゐる天分を伸ばしてくれる‥‥。

 ——成程。そう言ふことは大にあるだらうな。

 ——大にある。だから苟も學に志す以上は縱令新刊書を讀むことは十分出來ずとも、其學に關して苟も是非共讀まれねばならないクラシツクスだけは必ず讀まなければいけない。さもないと徒に物識りになるだけ、自ら物を見自ら物を考へる力が少しもつかない。そんなことでは到底立派な學者になることは出來ない‥‥。

 ——成程。その點大に同感だ。しかし吾々これから法律學に志そうと言ふものが初めからそうしたクラシツクスを讀むと言ふ譯にもゆくまい。

 ——それは無論そうだ。初學者は初めから六かしい理窟を考へずに、先づ考への材料になるべき智識を得るように努力しなければいけない。それにはやはり法律學中の各科目についてそれ/″\優れた教科書を一つ/\根氣よく讀まなければいけない。例へば民法なら民法に關する最も優れた教科書、刑法なら刑法に關する最も優れた教科書を次から次へと根氣よく讀まなければいけない。

 ——それでは其最も優れた教科書と言ふのはどんな本のことを言ふのだ?

 ——さあ、それは一寸簡短には言へないが、要するに著者自らがすべて自ら考へて書いてゐるかどうかゞそれを見分ける目安になる。

 ——しかし自ら考へないで物を書く奴はあるまい。

 ——所がそれが大ありなのだ。無論それにも程度の差は大にあるが、書かれてゐることのすべてを心から考へ拔いて書いてゐると思はれる著者は少くとも現在我國にある法律教科書の中にはいくらもない。多くは他人の書いたものをコツピーしながら唯外形だけ如何にも特色がありそうに取りつくろつてゐるに過ぎない。

 ——そんなものかね?

 ——遺憾ながらそうだ。

 ——するとそうした模倣的な教科書と眞に優れた教科書とを見分けるにはどうすればいゝのだ?

 ——さあ、それは君等のような初學者に話してきかせても到底解るまい。少くとも僕が話してきかせるようなことを目安にして君自ら其見分けをすることは到底不可能だらう。

 ——それはそうかも知れないが、君自らはどうして見分けるのだ。

 ——本統を言ふと殆ど理窟なしに直感的に見分けることが出來るのだが、多少分析的に説明して見ると、先づ第一に、自ら考へて書かれた本には前後矛盾がない。之に反して他人の書いたものをコツピーした本には、部分々々に如何にえらそうなことが書かれてゐても全體に通じた統一が缺けてゐる。或部分で甲と言つた以上他の或部分では必ず乙と言はなければならない關係にあるにも拘らず、そう言ふ關係を無視して矛盾を曝露してゐるから、目のある人間が見れば直に其誤間かしを看破することが出來る。

 ——しかし吾々素人が見分けるのは六かしいな。

 ——それは無論六かしい。しかし君等が見てもこれだけのことは直ぐ解る。大事の根本問題では大體在來の通説に盲從してゐながら、末梢的な部分について如何にも自己獨特の見解があるようなことを誇張的に書いてゐる本には碌なものがない。

 ——成程。若いものゝ書いたものゝ中などにはそんなのが多いのだらうな。

 ——そんなことはない。君等はとかく若いものと言ふと直ぐに馬鹿にする癖があるが、此頃では少くとも此點若いものゝ方が反つて信用出來るように思ふ。無論實際上例外はいくらでもあるけれども‥‥。

 ——すると、著者の老若如何を問はず、事の根本を自ら十分に考へ拔いて書いた本はすべていゝ、他人の書いたものを模倣してゐながら無理に特色らしいものを作り示してゐる本はすべていけないと言ふ譯だね。

 ——それは勿論そうだ。しかし如何に自ら考へ拔いて書いたものがいゝと言つても、他人の言ふことや在來の通説を十分研究せずに無闇に一人よがりのことを書いてゐる本は、假りに其中に多少示唆的ないゝことが書かれてゐるとしても、學問的見地から見ると餘り多くの價値を認める譯にゆかない。少くとも君等のような初學者が讀むには全然不適當だ。

 ——すると、吾々初學者としては大體何所へ出しても通用するような通説を忠實に書いてゐるような本を讀みさへすれば先づ間違ないと言ふ譯だね。

 ——必ずしもそう言ふ譯にはゆかない。大事なことは從來多數學者の説いた所を精細に研究理解した上それに向つて自己獨自の批判を加へ、その上ですべてを我物として述べてゐることで、そうした態度で書かれたものでありさへすれば一見如何にも平々凡々に見える本でも立派な本だと言ふことが出來る。之に反して自分と言ふものが十分確立して居らずに唯無闇と通説に盲從してゐるものや、先人の言ふ所を十分研究せずに矢鱈に獨自がつてゐるようなものは駄目だ。

     二

 ——所で話は少し違ふが、同じく法律書を讀むにしても、例へば行政科なり司法科なり高等試驗を受ける爲めに本を選ぶ段になると、本の善惡は兎も角としてやはり試驗官自らの書いたものを讀む必要があるだらう。

 ——僕は必ずしもそう思はない。眞に事柄を理解してゐさへすれば、試驗官の著書などは一冊も讀む必要がない。事柄を十分に理解してゐなければこそ、試驗官の書いたものを暗記して何とか誤間かしをつける必要があるので、眞に事柄を理解してゐる限り、試驗管の所説など少しも知らずとも立派な答案が書ける譯だ。

 ——理窟は確にそうらしいが、やはり普通の受驗者は試驗官の著書を讀む方が得だらう。試驗の問題にしても自然そう言ふ著書に書かれてゐるものゝ中から出るに違ひないから‥‥。

 ——しかし此頃の問題を見るとそんな傾向は殆どない。大概は誰れの本にも書いてあるようなことしか問題になつてゐない。無論試驗官も人間のことだから、短い時間の内に多數の答案を見る段になると、自分の所説と同じようなことを書いた答案は理解し易い關係上自然良く評點する傾向はあるだらうけれども、試驗官と言ふものは一般に君等が考へるようにそう偏狹なものではない。自分と反對の説を書いてゐても筋道さへ通つてゐれば良い點をつけるのが通例で、實際又そうなければならん理窟だ。だから徒に試驗官の所説の結論を暗記するような態度であらゆる試驗官の著書を讀むが如きは最も下手な受驗準備法だ‥‥。

 ——するとやはりそれ/″\の試驗科目について君の所謂定評のある優れた本を一冊づゝ丁寧に精讀するのが最もいゝ方法だと言ふことになるね。

 ——そうだ。そうして受驗者自らが智識を自己自らのものにして仕舞ふ所まで行き得れば上乘だ。

     三

 ——成程、それは非常にいゝことを聞いた。それでは受驗準備の話のついでにもつと廣く一般的に讀者殊に法律書を讀むについての心掛けに關して少し話をしてくれないか。

 ——よろしい。それでは先づ初めに讀者一般に關して僕が平常誰にでも話すことを話そう。それは苟も本を讀み初めた以上必ず終りまで通讀せよと言ふことだ‥‥。

 ——しかし、中途まで讀んで見て如何にも下らないと言ふことの解つた本を終りまで通讀するのは馬鹿々々しいぢやないか。

 ——それは無論だ。しかし僕が特にこう言ふことを言ふのは、一にはこう言ふ心掛けで本を讀むようにすると讀むべき本の選擇を愼重にする癖がついていゝと思ふからであり、二にはすべて本と言ふものは全體を讀んで見て初めてその本統の値打が解るもので、初め二三十頁讀んだゞけで「これは下らない」などきめて仕舞ふのは甚だよろしくない讀書態度だと思ふからだ。

 ——しかし此頃或先生に會つたら、「おれは大概の本は序文と結論しか讀まん」と言つてゐたぜ。

 ——矢鱈に澤山新刊書を讀みたがる人の中にはよくそう言ふのがゐる。

 ——又そうでもしなければ到底澤山の新刊書を讀むことは出來まいからな。

 ——僕はそう言ふのは「讀む」のではなくて、一應「目を通す」に過ぎないのだと思ふ。吾々のように學者稼業をしてゐると、その「目を通す」必要に迫られる場合も可成り多くて困るものだが、これは決して眞の讀書ではない。こう言ふ態度で本を讀むと、いくら澤山の本を讀んでも結局自分の既に解つてゐることが解るだけで、今まで解らなかつたことを新に理解するようなことがない‥‥。

 ——それでは困るな。

 ——そうだ。一體子供の時は別として相當の年配になつてから以後は今まで解つてゐなかつたことを新に解るようになるのは非常に六かしいもので、それには特別の努力がゐる。

 ——そんなものかね。

 ——どうもそうらしいのだ。話は少し違ふが嘗て或先生が僕にこんな話をしてくれた。「自分が嘗てドイツに留學した時に、伯林に到着早々學校に出て見ると、どの先生の講義も下らない、自分の既に知つてゐるようなことばかりを話してゐる、それで以後學校の講義を聽くことは全くやめて仕舞つたが、さて愈々留學期間も切れて歸國しようと言ふ間際に、想ひ出の爲めと思つても一度講義を聽きに出て見ると、前とは打つて變つて先生が非常に有益な話をしてゐる、こう言ふことならもつと早くから聽講すればよかつたと思つたが、もう間に合はない、非常に殘念な思ひをしながら歸朝の途についたものであるが、其時よく考へて見ると、最初聽いた講義が下らないのに反して後の講義が特に優れてゐたと言ふ譯ではなくて、初めは自分のドイツ語がまづかつたから先生の言ふことの内自分の既に知つてゐることのみを聞きとり理解することが出來た。然るに留學三年の後愈々歸らうと言ふ時には流石に言葉が達者になつてゐたから先生の言ふことのすべてを十分に理解し得るようになつたのだと言ふことに氣がついた」と、こう言ふ話をしてくれたが、これは吾々が他人の講義を聽いたり本を讀むについて非常に參考になる面白い話だと思ふ。つまり人間と言ふものは各時々の自分の能力に應じて出來るだけのことしか理解し得ないもので、それにも拘らず自分一人では大に何もかも解つて仕舞つたような心持でゐるものだ。だから特に其能力を伸ばすことを心掛けないと、いつまでたつても進歩しない。本を讀んでも話を聽いてもすべてを唯自分流に理解するだけで結局は唯物識りになるに過ぎない。

 ——人間は自ら解決し得ることだけを問題にするものだ、と言ふ言葉があるが、つまりそれと同じことだな。

 ——そうだ。だから讀書によつて今まで解らなかつたことを解るようにならうとするには特別の努力がゐる。唯目を通すと言ふようなやり方ではいくら澤山の本を讀んでも徒に物識りになるだけで、人間そのものが進歩しない。講義を聽講する場合だと、先生の方から無理にも解るように仕向けてくれるからともかく忠實に聽いてゐさへすれば段々に解るようになり自づと學力がついて來るけれども、讀書の場合には自分で餘程辛棒努力しないと今まで解らなかつたことを解るようにならない。解らないことは兎角讀まないものだ、讀んでも著者の眞意を理解することなしにすべてを自分流に讀みなして仕舞ふものだ。だからいくら本を讀んでも自分と同じ考への説を見出すだけで、反對説を見出さない、稀に見出しても著者の眞意を理解することが出來ない。だからこう言ふ讀書によつて學力の進歩を望むことは出來ない。

 ——すると序文と結論だけしか讀まないなんてのは甚だよろしくない譯だな。

 ——無論さ。しかしさつき君の言つてゐた先生などは既に行く所まで行き着いた人だから、もうそれでもいゝ。そう言ふ讀み方にしろあゝした老先生が大に讀まれるの甚だ尊敬すべきことだ。之に反して君のようにこれから新に法律學を學ばうと言ふものは、一冊々々の本に噛りついて熟讀通讀するようにしなければ駄目だ。

 ——大にその心掛でやつて見よう。所で一般讀書法のことは先づ其位にしてあと法律書を讀むについての心掛けをも少し話してくれないか。

     四

 ——さあ、これも讀書の目的如何によつて色々注意すべきことが違ふと思ふが、君等のような初學者にとつて特に大事なことは、中學生が地理や歴史の教科書を暗記するような調子の讀書では何にもならないと言ふことだ。

 ——しかし例へば民法を研究する以上民法第何條には何と規定してあるか位のことは覺える必要があるだらう。

 ——無論其必要はある。けれどもそれは段々やつてゆく内にひとりでに出來ることでもあるし、又イザ必要な場合には六法全書でも開けて見れば事は足りる。之に反して法典に書いてあることをいくら澤山暗記してもそれだけでは法律學者になれない。法律學者にとつて大事なことは「法律的に考へる力」をもつことで、法律書を讀むことも畢竟は其力を養ふ方法に過ぎないのだ。だから著者の書いてゐることの結論よりは寧ろ其結論が導き出された徑路に注意しなければいけない。そうして其處に著者の法律的な考方を見出してこれを習得することが必要だ。

 ——教科書を開けて見ると、よく同じ事柄について何々説何々説などゝ色々な學説が澤山列べられてゐるのを見受けるが、あゝ言ふのにぶつつかつた場合にはどんな態度で讀めばいゝのかね。

 ——その何々説と説が色々分れてゐる原因が何處にあるかに注意することが最も大切だ。何故に説が分れねばならないような事情があるのか、そこの所をはつきりするように力めなければいけない。それを怠つて矢鱈に説の名前ばかり覺えてゐるようなのは最も駄目だ。

 ——まさか説の名前ばかり覺える奴もあるまい。

 ——所があるのだ。口頭試問をして見ると「それについては何々説何々説と説が色々ありまして‥‥」と言ふようなことを言ふから、他人の説はともかくとして君の説はどうなのだと訊くと、何等はつきり答へられないような手合はいくらもある‥‥。

 ——すると自分の考へを前後矛盾なくまとまつたものにして置く方が、色々の説を知つてゐるよりも大事な譯だな。

 ——そうだ。だから僕などは講義の際にも特に初學者に對しては無闇に色々と學説をきかせて迷はせるようなことを成るべく避けるようにしてゐる。殊に同じく學説の分れの中でも重要な大問題に關するものになると、大きな歴史の動き社會事情從つて社會思想の變遷と極めて密接な關係をもつたものがあつて、それ等を理解したり批判したりするには、それ/″\の説の背景になつてゐる事情を十分に知ることが必要で、成程こう言ふ事情の下に於てはこう言ふ説が生まれるのが當然だと言ふことを理解するようにしなければいけない。然るに世の中にはそう言ふ根本の事情に全くお構ひなく、殊にそれ/″\の説が書かれてゐる原本も碌に讀まずに他人の本の中に書いてあることを孫引き的に借用して、澤山の學説を一所に平面的に列べ立てゝ色々比較論評を加へてゐるような學者も少くないから、これから教科書を讀んでゆくについてもそこの所は最も注意しないとあぶない。

 ——成程。そう言ふものかな。精々注意して勉強しよう。それでもうあとは此際聞いて置くようなこともないか。

 ——さあね。も一つこれは極下らないことだが、法律書を讀む際にはいつも六法全書をもつてゐて出來るだけ參看するようにしなければいけない、と言ふ注意は君にも與へて置く方がいゝだらうな。

 ——すると本の中に何法第何條參照とあるような場合には必ず其條文を見るようにしなければいかんと言ふ譯だね。

 ——そうだ。それから法文は始終變はるから成るべく新しい六法全書をもつてゐないと、時々とんだ間違ひをするよ。何しろ現行法を學ばうと言ふのだから、議論の心になる法律の規定は精確に捉へてゐなければいけない。學生の中にはどうかすると條文を少しも讀まずにノートばかり讀むものもまゝあるらしいが、これなどは法律學を學ぶとしては最もよろしくない態度だ。

 ——解つた。どうも色々有難う。それではこれから一つ大にやつて見よう。

底本:『法学入門』日本評論社、昭和9年