三百餘年前の日本の方言に關する西人の研究

橋本進吉

 われ/\の祖先は千二百年の昔から、邊僻の地の異風な言語味を感じて、その詞を歌に詠じ、又東埵の土民の歌を集めて記録にとゞめた。平安朝鎌倉時代の歌學者は、たま/\耳にした田舍詞によつて難解の歌語を釋して、古語が田夫の口に殘れる事を説き、室町時代の能樂師は、遠國の發音が京洛の正音に背馳する所あるを見て、謠に訛音を用ゐる事を誡めた。かやうに我が國民の方言に留意したのはかなり古い時代からではあつたけれども、唯方言に對して好奇心を動かしたのみか、又は之を他の目的に用ゐたのであつて、方言の研究と名づけるには遠いものであつた。我が國で方言自身を目的として之を集録し、爲に一書を成すまでになつたのは、江戸時代も半を過ぎてからであつた。それから明治の世までに出來た方言書の類は、必しも少くないが、その中で、安永四年に越谷吾山の編した物類稱呼は、ひろく各種の語をあつめた分類體の方言語彙で、その蒐集範圍の全國に亘つて居る點で他に類のないものであるが、各地の方言の特徴が何處にあるかは、この書によつてはもとめ得られない。その他の諸書は、地方地方の方言集であつて、その地の方言の特徴は知られようとも、諸方言について通覽する事は出來ない。しかのみならず、此等の書は、概して語彙に偏して、發音や語法上の特點は之を閑却したものが多く、その地の方言の特徴を見るにも不充分なものが少くない。我々が、ひろく全國各地の方言に亘つてその重な語法上及び發音上の特徴をほゞ概括的に知る事が出來るやうになつたのは、今世紀に入つてからであつて、文部省に設置せられた國語調査委員會の行つた方言調査の賜である。しかも同會の目的は、なるべく早く大要を得るに在つた爲、その調査の項目も少く、方法にも不備な點があつてその結果も十分正確を期し難く、後の補訂を要する點が多いのである。その後今日まで二十餘年の間に諸方の方言に關する有益なる研究や著書のあらはれたものも二三にとゞまらないが、概して我が國の方言研究は進歩極めて遲く、まだ甚不完全であるといはなければならない。

 かやうに我國人の方言に關する研究は今日に於てもまだはか/″\しく進歩しないのに、今より三百餘年前、我が國では方言研究と名づくべきものも無かつた十六世紀の初頭に於て早くも我が國に渡來した西洋人が、我が國の言語の地方的差異に注目し、全國の重なる諸方言についてそれ/″\その特點を明にし、之を記録に留めたのは誠に驚嘆すべき事である。それは千六百四年(慶長九年)に長崎の耶蘇會學林で刊行せられたロドリゲーズ編日本語典(Joäo Rodriguez: Arte da lingoa de Japam. Nangasaqui. 1604.)の中の方言に關する記事である。

 室町時代の末葉に我が國と西洋との交通が開けると共に、耶蘇會の諸士は基督の福音を未信の人々に傳へ、異教の神々を禮拜する國民を公教の正信に歸せしめようとして萬里の海を超えて我が國に渡來し、九州からはじめて熱心に布教に從事し、數年の後には京都の地にも及び種々の困難に會しながら次第にその目的を達し、諸侯豪族の歸信するものも多く、信長の時代に至つては、九州は勿論京畿地方にも寺院や學林が設けられるまでになつたのである。かやうに教をひろめるに當つて第一に必要なのは日本語の知識であつたから、開教の事業が進むと共に追々日本語の教科書や辭書や文典なども編せられ、千五百九十年(天正十八年)西洋印刷機が輸入せられてからは、次第に印刷に附せられるやうになつた。即ち、千五百九十二年(文祿元年)及び三年には口語羅馬字綴の平家物語と伊曾保物語とがまづ刊行せられ、ついで千五百九十四年には日本語の説明を附した拉丁文典が、その翌年には拉丁葡萄牙日本對譯辭書が出版せられ、踰えて千六百三年(慶長八年)には日葡辭書、翌千六百四年には日本語典が印行された。この最後に刊行された辭書と語典は何れも浩瀚なもので(辭書は四ツ折版四百二丁、語典は同じく二百四十丁)前者は耶蘇會諸士の共編に係り、後者はロドリゲーズの編著に成るものである。

 ジヨアン・ロドリゲーズ(Joäo Rodriguez 一五五九年生、一六五五年歿)は葡萄牙生れの耶蘇會師父であつて、一五八三年に日本に渡來したが、語學の才があつて日本語に熱達し、爲に通譯官又は外交官として秀吉の信任を受け、秀吉が禁教命を發し師父等に退去を命じた後も、特に都に在る事を許されたほどであつた。その編著に係る日本語典(Arte da lingoa de Iapam)は、當時の口語及び文語の發音單語法並に文章法を説くこと至つて委しく、各種の文體、書札の諸體、敬稱及び數詞の用法等にも及び、當代日本語の全貌を傳へてほゞ剩すところ無きもので、耶蘇會諸士共編の日葡辭書と共に國語の史的研究上無二の寶典である。

 この語典に説いた口語の語法は、主として京都並に近畿地方の言語を標準としたものであるが、猶他の諸地方に於ける言語の差異にも注目して、處々に之を註したのみならず、特に一章を設けて各地の方言の發音及び語法上の特點を列擧してゐる。これは、一はこれ等の方言に接して理解に苦まないやうにし、一は一地方にのみ用ゐられる粗野な發音や言ひ方を避けて雅正な言語を用ゐさせる爲にしたものであるけれども、それ自らとしては純然たる日本方言の研究であつて、諸方の重なる方言の特徴を明にし、當時の日本語の地方的差異に關する概括的觀察を試みたものである。これは、我が國人の研究では、國語調査會に於ける方言調査の業績に比すべきものであつて、明治の世になつて官府の力によつてはじめて企てられた全國方言の一般的觀察が、三百年の昔、異邦の客によつて既に成されてゐるのは誠に異とすべきである。しかもその中には、日本に存する資料によつては知る事の出來ない多くの新しい事實を含み、今日に於ても我々に教へる所極めて多いのであるから、我々は一層之を尊重しなければならない。

 前に述べた通り、ロドリゲーズの日本語典中には、方言に關する記事は處々に散見するが、特に方言についてまとめて述べたのは、同書第百六十九丁表面以下の「或國々に特有な言葉遣ひや發音の訛謬について」(De alguns abusos no falar, e pronunciar proprios de alguns reynos)と題する條である。こゝには、まづ日本の諸國に方音訛語の存するもの少からぬ事を述べ、五畿内及びその周圍の少數の國々の外は開合清濁の誤ある事を説き、以下「都」からはじめて、「中國」、「豐後」、「肥前肥後筑後」、「筑前博多」、「下一般」、「備前」「關東」の順でその地方特有の言語の訛謬を列擧して居る。こゝにあげた諸地方は各獨特の方言を有し、方言區劃上、それ/″\別な地域と見られるものである事いふまでもないが、これらの地域は、ことごとく同等の資格で相並ぶものではなく、或ものは他の地域中に包含せられ、大なる方言區域中での小區域であるものがあるに違ひない。この點については、この書には何等の説明をも見出さないが、日葡辭書其他によれば、當時日本國中での重な地方の名として(かみ)(しも)とを對立せしめ、その言語に相違ある事を認めて居たのであつて、上といふのは畿内地方をさし、下といふのは九州地方をさすのである。右に擧げた、本書の方言に關する記事に、上の言語全般に關しては特に項を設けず、唯、都の言語についてのみ説いて居るのは、五畿内の言語は、開合清濁が正しく概して訛の無い標準的のものであつたから特に記すべき事がなかつたので、唯京都地方に見られる發音上の訛謬だけを指摘したのであらう。下即ち九州についてはかなり委しく、豐後地方肥前肥後筑後地方、及び筑前博多地方など、九州中の一部分に關するものの外に、下全般に關するものをも擧げてゐるが、これ等の地方の方言は、すべて九州方言の下に屬してしかもおの/\別箇の方言をなすものとおもはれる。中國は上と下との中間にあつて、その言語に特異な點があり、おのづから一區域を成すのであらう。さうして備前は、多少疑はあるが、多分中國方言に屬するのであらう。以上の外に、別に關東地方の方言がある。つまり大きな方言區域としては、上と下とその中間の中國と、更に鬪東とを認めたのであらう。これに漏れた重な地方は南海北陛の二道であつて、その中北陸の南部なる越前及び若狹については、その言語の雅正なことを説いて居るが、その他の部分は、必しも言語に著しい訛が無かつたのでなく、西教があまり流布しなかつた爲、その言語の特徴を知る便が無かつたので、記載を缺いたのであらう。九州地方が他の部分にすぐれて委しいのは、その言語に方音訛語が多かつたからでもあらうけれども、それよりも、西教の最よく浸潤した地として、耶蘇會士が最よくその言語に通じて居たからであらう。

 次に以上の諸地方に於ける方言の特徴を本書に如何に傳へて居るかといふに、之に關する本書の文は簡にして要を得たもので、更に之を簡約にすればその價値を減じ理解を妨げる虞があるから、全文をそのまゝ譯出しようと思ふ。然るに右の文はその題目の示す如く、各地に特有の言語の訛謬、即ちその地方の言語が、當時の口語の標準的發音及び語法と異る諸點を擧げたもので、當時の標準的發音及び語法は今日の標準語と違つた點があるから、その點をまづ明にして置かなければ、この文を正しく理解する事が出來ない憂がある。それ故、當時の口語の發音及び語法の今日の標準語と異るものの内、當面の問題に必要なもの數條をこゝに掲げておかう。

一、ヂとジ、ヅとズは發音上區別があつた。本書には、ヂはgi、ジはjiヅはdzuズはzuと書かれてゐる。
一、オの長音には二種ある。一は英語のallのaの如く、普通のオーよりも口を開いて發するオーで、之を「ひろがつた」オー(開音のオー)と稱し、一は普通のオーで、之を「すばつた」オー又は「すぼつた」オー(合音のオー)と稱した。前者は「あう」「さう」「かう」などau音から出たもので、本書にはŏと書き、後者は「おう」「そう」「とう」又は「えう」「けう」「せう」などeu又はou音から出たもので、本書にはôと書いてある。この二種のオーは現今では同じ音になつたが、當時は發音上區別があつたのである。今、假名では、ŏ類をアォー、カォー、サォーと書き。ôの類をオー、コー、ソーと書いて區別した。
一、「せ」「ぜ」はすべてxejeと書き、シェジェと發音した。
一、「は」「ひ」「ふ」「へ」「ほ」はfafifufefoと書きファフィフフェフォと發音した。
一、ガ行音及びダ行音(この書では、g又はdではじまる音節)の直前の母音はすこし鼻音化した。

 猶この語典では動詞の活用(conjugaçam)を三種にわかち、一二段活用を第一種活用、四段活用(ハ行を徐く)を第二種活用、ハ行四段活用を第三種活用と名づけた事も知つて置かなければならない。原文は葡萄牙語であつて、日本語はすべて葡萄牙式の羅馬字綴りであるが、譯文には必要の無い限り羅馬字を假名に改め又は漢字を宛てた。括弧の中の語句は、誤解の無いやうに又はわかり易いやうに今私に加へたもので、原文には無いものである。

 以下が全文の譯である。

    或國々に特有な言葉遣ひや發音の訛謬について

 日本の國々には「(クニ)(キヤウ)(ダン)」即ち或國又は地方に特有な言葉といつて、多くの特有な言ひ方や言葉がある。又發音に於ても多くの訛がある。これ等のものは、この國語では卑しく且つ有害である故に。之を理解する爲にも又之を避ける爲にも、知つて置く必要がある。これについて一般に亘つて述べておくべき事は、都及び或少數の國々——五畿内及びそのまはりの、越前若狹其他二三の國々の如き——を除いた、日本の大部分に於ては「開合清濁」即ち音調や發音が正しくなく、すべて己がさま/″\に「訛つて」即ち不正に發音するといふ事である。

     都

一、都の言語は最よろしく、言葉に於ても發音に於ても學ぶべきものであるけれども、都の人々にも、或音節の發首に二三の缺點ある事を免れない。
一、Gi(chiの濁音ヂ)のかはりにIi(即ちjiで、シの濁音ジ)と發音し、又反對に、Gi(Iiの誤か)といふべき所をIi(Giの誤か)といふのが普通である。例へば、ホンジ(本寺)をホンヂ、ジネン(自然)をヂネン、ヂバン(地盤)をジバン、ヂキニ(直に)をジキニといふ。又Iŭ(即Jüで、シューの濁音)のかはりにGiŭ(チューの濁音)といふ。例へばコノヂューのかはりにコノジューといふ。(これは説明と例とが一致しない。IŭとGiŭと誤つて入れかはつたのであらう)
一、又Zu(スの濁音ズ)のところにDzu(ツの濁音ヅ)と發音し、又反對にDzuのところにzuといふ。ミヅ(水)をミズ(マイ)ラズをマイラヅのやうに。これは一般にさうである、尤正しく發音する人もいくらかあらうが。

    中國

一、中國のものは、發音する時ひろがりを過度にする。即ち、口を過大に開いて、一種の高い響を與へる。例へば、()ルマイをナルマー(Narumá)といふ。又一般に打消の動詞(助動詞)ザル、ズを用ゐる。上ゲザッタ(マイ)ラザッタのやうに

    豐後

一、この國のものも、やはり、ひろがりを過大にする。さうして、その物言ひには、世によく知られた野鄙な響がある。
一、中國に於ける如く、打消動詞ザルを用ゐる。習ワザッタ、上ゲザッタレバ、シェザッタのやうに
一、Iの前のEOをiに變ずる。例へば、レイ(禮)をリイ、フェイ(塀)をフィイ、ヨイ(好)をイイ、フィイキをフェイキといふ。猶多くの同樣な語に於ても亦さうである。
一、又Iと發音するものを豐後のものはEiといふ。例へば、ミーサ(Missa)をメイサ、リーノ(Lino)をレイノ、カタリーナ(Catarina)をカタレイナといふ。
一、どんな動詞でも、敬稱には、()(マイ)リアル、(マイ)ラルルの代りに、マイリシャル、クイシャッタ、シシャッタ、讀ミシャッタ言イシャッタなどといふ。尤、ヲマイリアル等も用ゐるには用ゐるが。

    肥前、肥後、筑後

一、肥前肥後及び筑後でも、其他近邊の國々でも、高來でも大村でも、ゾ、カ、ヤラン、ヤラのかはりに、イラォー(irŏ)又はヤラォー(Yarŏ)を用ゐる。例へば、()ムイラォー、(マイ)ッタラォーなどは、即ち、(マイ)ルカ、——ゾ、——ヤラ、——ヤランである。著作家であり和歌の作者である西行が、戲れに、この國だけの語で作つた短歌がある。それはかういふのである。
ヤバォーメ(Yabŏme)ガ、イカイテ ヲソー サクイラォー マッサイムカイ、ハラア キタトガ

その意味は

藪梅が如何でか遲う咲くぞ
 實にも早や春は來たと申す
一,又、女達、又は女と話をする男達は、感動詞のヨ、ヨノ、ゾのかはりに、バヲを用ゐる。例へば、(マイ)ルバヲ()イタバヲ、()カォーバヲ。
一,又、動詞に助辭サシェメシ、メシを附け加へる。これは、ラレと同程度の敬意を有し、都では、サシェマシ、シェマシと用ゐられるものである。例へば上ゲサシェメシェ、讀マシメス、(ナラ)ワシメッタのやうに。
一、又、()ゲヨ、()ヨなどの如くヨで終る命令形のヨをロに變ずる。例へば、()ロ、(シエ)ロ、()ゲロ、()ロ、()ビロなど。
一、肥前でも、又此の下の大部分でも、A又はOの次のIは、その發音に甚惡い一種の響を件ふEに變ずる。例ヘば、シェカイ(世界)をシェカエ、()イをヨエ、(アマ)イをアマエ、大事をダエジ、タイシェツ(大切)をタエシェツ、フィロエ(廣い)をフォロエ、(クロ)イをクロエといふなど。
一、AiEiIiOiVi(即ちui)に終る形容詞は、現在形の最後のiをカに變ずる。例へば、(アマ)カ、(シゲ)カ、(アタラ)シカ、()カ、(クロ)カ、(ヌル)カ、(フル)カなど。
一、猶、他の諸國と同じく、多くの異風な語があるが、それ等は、前掲の短歌に見られる通り多數であるから——かの短歌の殆どすべてが異風な語である——こゝに擧げ盡すことは出來ない。

    筑前、博多

一、博多のものは一種の非常な訛があつて、流音(liquido)のクヮ、グヮを悉くパ、バに變じ、パをすべてクヮに變ずるので世に聞えてゐる。(クワ)(ブン)(クワン)()(クワン)(ネン)(クワ)()(クワ)()(ボン)等をパブン、パンス、パンネン、パシ、ハシボン等と云ひ、シャォーグヮチ(正月)をシャォーパチなどと云ひ、ケンクヮ(喧嘩)のかはりにケンパ(Quempa)など云ひ、パーデレ(Padre)パスコア(Pascoa)、パウロ(Paulo)をクヮテレ、クヮスコア、クヮウロといふ。

    下の諸地方一般に關する追記

一、この下の九箇國全體に於て、すばつたô(合音のオー)は、長いŭ音(ウの長音)にかはる、例へば、イッショー(一升)ソー(添ふ)ケォー(queô今日)等を、イッシュー、スー、キュー等といふ。
一、或地方では、ツ(ツーの誤か)がトーに變ずる。例へば、マォーシツージェズ(申し通ぜず)をマォーシトージェズといふ。又反對にトーがツーに變ずる。例へばトーザイモン(藤左衞門)をツーザイモン、トーダイ(燈臺)をツーダイといふなど。
一、移動を示すエ(方向を示す助詞「へ」)のかはりに、ニ、ノヤォーニ、ノゴトク、サマエ、サナなどを用ゐる。

 京へ筑紫に阪東さ
といふ諺は、そこから出來たのである。
一、可能法に、ラォー、ツラォー、ヅラォーを用ゐる。之を都ではモノデアラォーズ、モノデアッタ、モノデアルなど云ひ、又文章語ではラン、ツラン、ズランといふ事は、動詞の活用のところで、可能法及び直接法の條下に述べた通りで診る。
一、アンガイ、コンガイ、アンガイナ、コンガイナ、アンガイニ、コンガイニ等のやうな異風な語が多い。

    備前

一、打消のザルを用ゐる事中國並に豐後と同樣である。
一、他の動詞に連續する場合には、ŏ(アォー)ô(オー)ŭ(ウー)で終る形容詞の語根(連用形)に助辭ニを添加する。例へば、(ウレ)シューニ(ゾン)ズル、(メヅラ)シューニ()()ル、(チヤ)ヲアツーニ(熱うに)立テイなど。
一、g(ガ行音及びヂ、ヂャ、ヂュ、ヂョ等の子音)の前の母音は、半、鼻音化して發音するのであるが、備前のものは、この母音を發する時、鼻音化を捨てゝ、ぎごちなく發音する。例へばトンガ(toga)のかはりに、トガ(toga)ソレガシ(Soregaxi)などいふ。さうして、この發音をするので備前のものは名高い。

    關東又は阪東

一、三河から日本の涯にいたる東の諸部に於ては、一概に語氣荒く、鋭く、多くの音節を呑み込んで發音せず、且つその地の人々相互の間でなくては了解せられぬ、獨特な異風な語が多い。
一、直接法の未來形には多く助辭ベイを用ゐる。たとへば、(マイ)リマォースベイ、()グベイ、()ムベイ、ナラォー(習ふ)ベイなど。
一、打消にはヌのかはりにナイといふ動詞(助動詞)を用ゐる。例へば、()ゲナイ、()マナイ、(アラ)ワナイ、マォーサナイなど、
一、Ay(ai)Ey(ei)Iy(ii)Oy(oi)Vy(ui)に終る形容詞に於て、好う(Yô)甘う(Amŏ)緩う(Nurŭ)の如く、ô、ŏ,ŭで終る語根の形(連用形)を用ゐるかはりに、(シロ)ク、(ナガ)ク、(ミジカ)クなどの如く、クで終る、文章語の形を用ゐる。
一、ナライ(習ひ)、ファライ(拂ひ)、クライ(食ひ)などの如く、aiで終る第三種活用の動詞では、アッテ(atte)で終る文章語の分詞形を用ゐる。例へばファラォーテ又はファライテのかはりにファラッテ、ナラォーテのかはりにナァラッテ、クラォーテのかはりにクラッテ、カォーテのかはりにカッテ、など。
一、第二種活用の或分詞形と區別する爲に、張ルといふ動詞のファッテのかはりにファリテを用ゐ、借ルから出たカッテのかはりにカリテといふ。
一、移動をあらはすエ(方向を示す「へ」のかはりに、サを用ゐる。(ミヤコ)(ノボ)ルのやうに。
一、Xe(音シェで、當時「せ」は一般にシェと發音した)の音節をSe即ちCe(どちらも今のセの音)と、さゝやくやうに(ciciosamente)發音する。例へば、シェカイ(世界)をセカイと云ひ、サシェラルルをサセラルルといふ。さうして、この發音によつて關東のものはよく知られてゐる。
一、尾張から關東に至るまで、anzu(アンズ)又はenzu(エンズ)で終る文章語の未來形を多く用ゐる。例へば()ゲンズ、シェンズ(爲んす)()カンズ、(マイ)ランズ、(ナラ)ワンズなどを、上ゲォーズ(Agueôzu)、ショーズ、キコーズ、マイラォーズ、ナラワォーズのかはりに用ゐる。

 以上ロドリゲーズの語典に載せられた各地の方言の特徴は、大概今日の方言にも見られるのであつて、隨つて現代の諸方言は隨分由來の久しいものである事が知られるが、かやうな特徴が三百餘年前からその方言にそなはつて居た事は、多くはこの書によつてはじめて證明せられるのである。

 猶、右の文の外にも、方言に關する記事はロドリゲーズの語典のこゝかしこに散見するが、大概は右の文に竭きて居る。但し、動詞の活用に關する總説の條に見える關東方言に於て下二段活用の動詞を下一段に活用させる事のやうな、國語史上注目すべき事項で、此處に漏れたものもないではない。又、本書に擧げたのは主として發音及び語法に關するもので、語彙には殆ど全く及ばないが、この點は、ロドリゲーズも多分その編纂に與つたであらうとおもはれる日葡辭書によつて、幾分補ふことが出來るであらう。即ち同書は、言語の使用範圍にも注意して、上又は下などにのみ行はれる語には必その由を註したから、これを資料として、當時の語彙の地方的相違を討究する事が出來るであらう。(しかし、これに關する纏まつた知識をこの書から直に得る事は困難である)

底本:『民族』第二巻第一号、昭和二年