國語學と國語教育

橋本進吉

      一 國語學と國語教育との交渉

 國語といふ語はいろ/\の意味に用ゐられるが、我々國語學を專攻するものに於ては、單に國語といへば、我が國の言語、即ち日本語の意味に解するのが普通である。國語學は、かやうな意味の國語を研究するのを目的とする學であつて、現在及び過去の一切の日本語に於けるあらゆる事象について、その本質を究め、その中に行はれる法則を見出し、由來を明かにして、國語に關する透徹した體系ある知識を得る事を目的とするものである。

 それでは、國語教育の場合の國語も、亦右と同じく日本語といふ意味に解して、國語教育は即ち日本語教育であり、言語教育の一種であると考へてよからうか。かやうな問に對しては、我々は一應之を肯定しておいてよいと思ふ。日本の言語文章を誤なく理解し、又日本の言語文字で正しく自己の思想感情意志を表現し得る能力を與へる事が國語教育のまづ第一の大切なる使命である事は疑なき事實であるからである。しかしながら、單に右の目的をさへ達すれば、國語教育はよくその使命を果したといへるであらうか。

 私の見る所では、教育の目的は、自己及び外界を正しく認識し、身心を陶冶して、現在及び今後の國家社會の一員として世に處するに必要な精神と能力を養ふにあらうと思ふ。學校で課せられる科目は、いくつかに分れてゐるけれども、究極に於て、この大なる目的を目指してゐるのであつて、さうして、その一つ一つは、それ/″\の部面に於てその任務を果すものである。

 言語文字は意思を通じ思想を交換する手段として、社會生活には缺く事の出來ないものである。殊に言語は民族又は國の異るに隨つて違つてゐるものであつて、その民族又は國民の一の標識となるものである。我々が同じ言語を用ゐるといふ事でどれほど互に親しみを感じる事か。實に言語は國民を互に結ぶ紐帶である。我々日本人が、何れも日本語を正しく使つて、互に自由に意思を通ずる事は國民の融合に必要な事であつて、國民としての團結を堅くする所以である。もし國語教育が單に日本語教育のみを目的とするものであるとしても、それは人々に右のやうな能力を養はせて、個人を國民に結びつけるものであるから、甚だ大切なものである事はいふまでもない。しかしながら、言語はどこまでも思想を通達する手段であつて、その思想内容については問ふ所がない。それ故、數學であつても、理科であつても、法學であつても經濟學であつても、之を日本語で教授する以上は日本語の教育と見る事も出來るのであつて、かやうな點から見れば、これ等の諸學科も亦實際に於ては國語教育の一部分を分擔してゐるのであるが、それでは、國語教育は、單に表現の手段としての言語の教育だけで、他に國語教育獨特の内容はないかといふに、決して、さうではない。それは日本人としての物の見方、考へ方、及び感じを知らしめる事である。かやうな國民的の思想情操は永い傳統に培はれて來て國民の精神及び生活を規定し支配するものである故に、之を知り之を身に體する事は國民として肝要な事である。さうして、かやうなものは、勿論他の諸學科の内容に於てもあらはれて居り國語そのものの中にも相當に著しくあらはれてゐるが、國文學に於ては特に力強く又微細にわたつて表現せられてゐるのであるから、國文學によつて之を體得せしめるのが最も有效な手段と認められる。然るに、國文學はその表現手段として國語を用ゐるものであり、又言語といふ點から見ても、國文學に用ゐられる言語は、比較的に範圍ひろく、變化に富み、言語教育の資材として適當なものが多い故に、國語と併せて一科として、その教育上の效果を收めしめるやうにしたのである。

 かやうに國語教育は、單なる國語の教育のみではなく、その外に國文學に關するものを多く含んでゐる。さすれば國語教育といふ場合の國語といふ語は單なる日本語をさしたものではなく、教科目としての國語科をさしたものと解するのが妥當であらう。實際、最も多くの人々に知られてゐる國語といふ語は、多分右のやうな意味のものであらうと思はれる。小學校に於ける國語讀本から、中學校、高等學校、專門學校に於ける國語漢文、さては、「國語の先生」とか「今日は國語が休みだ」とか用ゐられて、我々に親しい「國語」といふ語は何れも國語科をさしていふのである。

 國語學は專ら國語即ち日本語を對象とする學である故、それと國語教育との交渉は、直接言語としての國語に關する範圍にとゞまる。その他の部分については、國文學其他の諸科の學の關與する所である。

 國語教育は、我が國の言語文章に習熟させて、自己の思想を正しく表現し、他人の思想を誤らず理解する能力を養はせる事を第一の大切な任務とする。これに對して國語學はどんな關係をもち、どんな寄與をなすであらうか。

 言語に習熟し、これを正しく使用する事は、必ずしも特別の方法を用ゐずとも、唯言語を聞きなれ使ひなれ、讀みなれゝば出來る事である。現に小學生でも、學校に入るまでに、既に家庭に於て日常生活に必要な國語の知識を得てゐるのであつて、かやうな意味に於て、國語教育は家庭に始まるといつてよいのである。勿論、文字はやゝ後になつて特別に習ふのが常であるが、それとても、之を教へるのは唯文字の讀める人であればよいので、特に國語に關する專門的知識を有する人を要しない事は、言語の場合と同樣である。さすれば國語學は、國語の學習には必ずしも要用でないといふ事が出來る。

 しかしながら、國語學は、我が國の言語文字の本質を明かにし、現状及び歴史をきはめ、その中に存するきまりを見出し、さやうなきまりが如何にして生じたか、又何故に存するかを説明して、我々が祖先から傳へて來て、今日に於ても一日として離れる事が出來ないわが國語に對して、明かな自覺と透徹した組織立つた知識を與へるものであるから、その大體の知識は苟も教養ある國民の常識として持たなければならないものである。中等學校に於て國語變遷の大要を課し、專門學校に於て國語學概論、國語學史を講ずるのはこの理由によるのであつて、これ等は純然たる國語學の範圍に屬するものである。又、國語學の知識は、言語として國語を修得させる爲には、必ずしも之を授けるには及ばないけれども、之を教授するものには是非必要であつて、有效適切な教授の方法も、かやうな國語の本質と實状についての徹底した認識を基礎としてこそ、はじめて求められるのである。

 文法の知識が文を理解し、又文を綴るに當つていかに有用であるかは、我々が外國語を學ぶに當つて痛切に感じる所である。我が國で中等以上の學校に國文法が課せられるのも、主たる目的はこゝにあるのであるが、實際に於てはまだ十分その目的を達せず、やゝもすれば無用視せられるのは、認識と工夫の不足に基づくのであつて、もし文法の知識が十分に應用せられたならば、文を讀むに當つても、よく筆者の意趣を明かにした明晳なる解釋が得られ、文を綴るに當つても、脈絡の通つた整然たる文を作る事が出來る事は疑ない。

 かやうに國文法の知識は、國語教授に有用なものであるが、國語の文法は國語の中に具はつてゐるきまりであつて、國語を理解し、國語を使用する場合には、我々がそのきまりに從つてゐるのであるが、普通の人々は之に對して明かな自覺をもつてゐない。之を研究してどんなきまりが行はれてゐるかを明かにするのは、國語學の一部門たる文法學である。文法學に於て得た國文法の知識が、國語の教授や學習に役立つ事右に述べた通りであるが、國語學に於ける文法研究の目的は、事實を明かに認識するに在つて、必ずしも之を國語の學習に用ゐる爲ではない。之を學習に役立てるのは、國語學から得た結果の應用に過ぎない。しかしながら、とにかく教授する文法の知識そのものは、國語學に屬するものである。然るに文法は、單語から文を構成し、他の單語又は單語以下の單位から單語を構成する場合のきまりであつて、之を明かにする事は、國語の構造を明かにする事になるのであり、その結果を組織的に教授すれば、國語の構造に關して明かな意識をもたせる事が出來るやうになるのである。こゝに於ても、國語學の知識がそのまゝ、國語教育に役立つのである。

 前に述べた如く、國語教育は國語の習得をまづ第一の大きな目的とするが、國民的精神情操の體得を他の重要な目的とするものである。この目的に對しては、主として國文學を資材とする事は既に述べた通りである。しかしながら、かやうな國民の物の見方、考へ方、感じといふやうなものは、國語そのものの中にもあらはれてゐるのである。

 國語は所謂文化財の一種であつて、過去の國民の經驗や思想感情が之に宿つて次の世代に傳はり、次の世代の人々は、國語を學ぶ事によつて、傳統的の思想感情を自己のものとして、その生活を營むものである。されば、一の事物の名づけやうにもかやうな國民の思想感情が見られ、一の語の意味の變化の上にも、國民の思想感情の變化を見る事が出來るのである。又、文法は或學者が之を社會的論理又は民衆論理と呼んでゐるやうに、その國民の思考の樣式がその中にあらはれてゐるのである。

 右のやうな次第であるから、國語を學修して之を正しく理解し自由に使用し得るやうになれば、既にそれによつて國語に宿る傳統的思想感情の中に身を置く事にはなるけれども、唯それだけでは、この事に對する十分な自覺を得る事は望み難いのであつて、どうしても、國語教育によつて之を得させなければならないのである。その爲には國語學上の知識を必要とする場合が多いのであつて、一々の語の意味の如きは、必ずしも國語學によつてはじめて明かになるのではないけれども、一々の語の意味を明かにする事は國語學の範圍に屬する事であり、ことに、一々の語の意味の變遷をきはめ、種々の文法形式の意味を闡明するのは國語學自身の問題として研究する所のものである。それ故、國語による國民的精神の教育も、國語學の知識に基づいて、はじめて全きを得るのである。

 要するに國語學は言語としての國語の學であるに對して國語教育はまづ第一に言語としての國語の習得を目的とするが、單にそれのみに止まらない點に於て、その範圍を異にするのみならず、國語學は言語としての國語の習得の爲に、是非必要なものでもない。しかしながら、國語の習得を組織的にし有效適切ならしめる爲には國語學の知識は最も必要であり、又、我々國民の一日も捨てる事が出來ない言語文字に關して眞の理解を與へるものとして國語學の一般的知識は國語教育中重要な位置を占めるべきである。また國語學は、國語教育の重要な目的の一つである國民的思想感情の教育に於ても、その國語に關する部面に於て大切な役割をもつものである。

      二 國語中の言語の種類について

 國語を觀察する場合に、之を要素に分解して、國語の内部構造を考へるといふ方法をとれば、音韻、語彙、文法、文字の四つの部面にわける事が出來るのであるが、之を全體として見た場合、即ち右のやうな要素から組立てられて一つの體系をなしたものと見た時(我々はかやうなものを言語と名づける。一つ一つの音とか單語とかは、言語の部分であつて、言語そのものではない)、國語は一つの言語であると見る事が出來ると共に、又その中に多くの言語を含んでゐると見る事が出來る。

 實際、國語即ち日本語と一口にいふが、それは決して一樣なものではなく、多樣な言語を含んでゐるのである。例へば、同じ日本語でありながら、言語は土地によつて互にちがつてをり、又、社會層の違ひによつても違つてゐる。所謂口語と文語とでもまた違つてゐる。又、歴史的に見ても、各時代の言語は、それ/″\違つてゐるのであつて、決して同一ではない。さうして、これ等の言語は、それ自身として別々のものであつて、それだけで立派に意志を通じ思想を交換する役目を果す事の出來るものであり、他の言語の助をかりなければ使用出來ないといふ性質のものではない。即ち、それ/″\獨立した言語である。かやうに見て來れば、國語即ち日本語といふのはこれ等の種々の言語の總稱といふべきであるが、これを日本語と呼んで、單一な言語と見るのは、これ等の諸言語がすべて我々の屬する同じ日本民族の言語であつて互に聯關をもつてゐるといふ主觀的の感じからであるが、この感じは、これ等の言語を比較して見ると、互に違つた點も多いけれども、根本に於て一致した處が多く、畢竟、同種のものの變異であり、同一のものから分化したものと認められるといふ、事實の上からの考察によつて確かめられるのである。

 さて、國語の中に含まれてゐる種々の言語の種類については、次のやうに考へるのが便宜であらうと思ふ。

 まづ現代の國語に於ては、まづ一切の言語は口語と文語の二つにわかれる。口語は談話に用ゐるもので口に發し耳に聞くものであり、文語は書く時に用ゐるもので文字に書いて讀むものである。國語の中のあらゆる言語はこの二種の内の何れかに屬し、その他のものは無い。

 口語の中には又種々の言語の種類がある。まづ土地による言語の違ひがある。その土地土地の言語を方言といふ。つまり日本の口語には非常に多くの方言があるわけである。方言が土地によつて違ふに對して全國一樣に行はるべき言語として標準語がある。なほ、その外に、階級により、職業により、男女の違ひにより、又大人と子供との違ひによつて、それ/″\特色をもつた言語が行はれてゐる。

 以上は口語に屬する種々の言語であるが、これ等の言語は、勿論互に違つた點があるのであつて、何れの言語に於ても、その語彙に於ては他の言語に無いやうな語をもつてゐるのであるが、中にも方言相互の差異は最も著しく、音韻や文法に於ても異る所が少くない。さうして、これらの言語は、それぞれ或は地域的に或は職業的に或は年齡的に或は性(男女)的に限られた社會に行はれるもので、それ/″\の言語のもつ特徴は、同時にそれを話す人々の屬する特殊の社會の標識となるものであるが、唯標準語だけは國語の行はれる全範圍に及ぶものである。

 次に文語の中にもまた種々の言語がある。之を大別すれば二種となる。一は口語文であり一は文語文である。口語文は、現代の口語に基づくものであり、文語文は、文字に書く場合の言語として古くから傳はつて來た特殊の言語所謂「文語」によるものである。口語文は更に對話體のものと、非對話體のものとにわかれ、文語文も、また普通文、書簡文(候文)、漢文などのちがひがある。口語文と文語文との間には、語彙の違ひの外に文法の違ひがある。又文字に書いた形にも相違のあるものがあつて、殊に書簡文、漢文などには獨特の書き方がある。さうして、これ等の文語に屬する諸種の言語は、之を用ゐる場合が自然にきまつてゐて、その用途に廣狹の差があるのである(書簡文は書簡にのみ用ゐるに對して普通文は他の多くの場合に用ゐ、口語文は更に廣く一般的に用ゐられるなど)。しかしながら、文語は、口語の多くのやうに或限られた社會の人々の間にのみ行はれるのではなく、國語の行はれる全範圍に行はれるのを原則とするものである。

 右に擧げたやうに現代の國語の中には非常に多くの言語があるのであるが、個人について見ると、一人の人で、これだけの多くの言語のすべてに通じてゐるといふ事は無いのである。しかし、その二三に通じてゐる場合は少くなく、もつとも少い場合に於ても、日本人である以上は(非常に特別な場合の例外は別として)その中の一つ即ち、自己の生れた土地の方言だけは何人も自己の言語としてつかつてゐるのである。さうして、多くの人々は、その上に標準語をも用ゐ、口語文又は文語文を讀み、又書簡文をも書くといふ風に、多少他の種の言語をも用ゐるのである。

 以上の種々の言語は、現代に於て生じたものではなく、多かれ少かれ過去に於て生じてそれ自らの歴史をもち時と共に變化し來つたものである。同じ言語であつても時代の差によつて、現在の國語内の諸言語の間に見るやうな(場合によつてはそれよりも著しい)差異がある。さうして、或時代にその言語をつかつてゐた人々は、その時代の言語だけを以て十分意志を通じてゐたのであつて、その言語が前の時代にどんなであつたか、又後の代になつてどんなになるかを知らないでも少しも差支なかつたのである。さすれば、同一の言語でも、違つた時代に於てそれ/″\違つた一つ一つの言語として見る事が出來るのである。

 さて、右に述べたやうに、現在に於ても國語の中に多數の違つた言語があり、過去に於ても亦さうであつたとすれば、國語教育に於て國語を教授するにはどんな言語を教へるべきであらうか。

 國語教育に於て教授すべき言語は、現代語では、口語としては標準語であり、文語としては各種の文語である。その外に、なほ過去の國語がある。

 標準語は、方言其他の諸種の口語が、或限られた社會或限られた地域にのみ行はれるに反して、國語の行はれる全範圍に行はるべきものである。これによつて、いかなる土地、いかなる社會の人々とも自由に意志を通じ得べき全國民的のものである。日本語を學ばうとする外國人に教へる日本語(口語)は、方言其他の特殊な言語でなく、標準語でなければならない。かやうにして標準語は日本語を代表する言語といつてよいのである。國民の養成を目的とする國家の教育機關に於て教へる口語としては、どうしてもこの標準語でなければならない。もし國民が各自の方言を用ゐる時は、違つた地方の人々が相會した場合に、その言語の相違の爲に、自由に意志を通ずる事が出來ないのみならず、時として感情の疎隔を來すことは屡〻經驗する所である。かやうな事は、國民の團結を固くする爲には不祥な事であつて、之を避けるには全國民に同一の言語を教へる必要がある。この必要に應ずる爲の言語が標準語であつて、これを國民に教授し、之を自由に使用し得るやうにするのは國語教育の重大な任務の一つでなければならぬ。

 標準語は一方口語文と關係がある。口語文は口語に基づくものであるが、口語といつても、方言や特殊語ではなく標準語に基づくものである。前にも述べた通り、文語は本來或特殊の地域や社會の人々を目的としたものではなく、あらゆる地域あらゆる社會の人々にも讀ませるのを目的としたもので、國民一般にわたる標準語が出來なかつた時代に於ても、文語文があつて、全國的に用ゐられたものであるが、その文語文にかはつて行はれるやうになつた口語文もやはり全國的のものであつて、特別の場合の外は一般に知られた口語である標準語に基づくのである。かやうに標準語と口語文との間には緊密な關係があつて、口語を文字に寫せば口語文となる場合も多い故、國語教育に於ては、讀本の口語文によつて標準語を教へるのが普通になつてゐる。然るに、口語文はやはり文語の一種であつて、文字に書いた形が主になり、音聲は文字の讀み方として文字に附隨したもののやうに考へられがちであり、又實際に於て、たとひ發音が正しくなくとも、文字に書いた形さへ正しければ、意味を解するに差支ないが、標準語は口語であつて、音聲が唯一の外形であり、專ら耳に訴へるものである故、もし發音が正しくなければ、全くわからないか、又は誤解を來す虞がある。この事は、しつかり記憶しておかなければならない事であつて、標準語としては、文字を離れた口頭の言語として、之を正しく發音し、正しく用ゐる事に習熟させなければならないのである。

 標準語を教授するに當つて、いやでも當面しなければならないのは方言の問題である。

 標準語は、或方言が基礎になつて出來たもので、我が國の標準語は東京語を基礎として出來た東京語式のものであるから、實際の東京方言に近いものではあるけれども、全然之と同一といふのではなく、その間に多少の相違がある。東京以外の諸方言が標準語と異る所があるのは勿論であつて、中には隨分甚しい差異のあるものもある。それ故、標準語はいかなる地方の人々でも之を特に學ぶ必要がある。

 各地の人々が最初に學ぶ言語は、その地の方言である。これは自己の周圍の人々から自然に覺えるもので、物心のつかない中から知らず/\のうちに練習を重ねて、大した注意をしなくとも誤らず使用出來るまでになるのである。かやうに方言の習得によつてはじめて得た言語の觀念や發音の方法其他言語使用上の慣習が、その人の一生の言語習得及び使用の基礎となるのであつて、後に他の言語を學ぶに當つても、之を基準として之と比較し、之と違つた部分を修正してその言語を使用するのである。標準語を習得するに當つても、各自の方言が基礎となる事勿論であるから、之を教授するものは、その方言について研究し、音韻、語彙、文法の如何なる點が標準語といかに違つてゐるかを明かにして、教授上如何なる點に注意すべきかを知り、又之を如何に教授すべきかを工夫すべきである。又出來得る限り、自己の言語を反省せしめて、それが標準語とどう違ふかを覺らしめるやうに努力すべきである。方言は、十分自己の言語となりきつて、之を使用するには特別の努力を要しない故に、それがどんなであるかを意識しないのが常である。之を自ら反省させて自覺させるやうにすれば、標準語のみならず、外國語を學ぶ爲にも、甚だ效果が多い。

 標準語を方言と對照して教へる所に言語匡正、又は方言匡正といふ考が生れる。これは方言を正して標準語にするといふことで、この場合方言を正しくない言語、標準語を正しい言語と考へるのである。標準語は國民として知らなければならない公の言語であり、口語文の基礎となるべき言語である。之を正しい言語と見る事は許してもよからう。實際、標準語といふ語はあまり世間には行はれないやうであつて、それよりも正しい言語といふ方がわかりやすい。のみならず、之を正しい言語とした方が標準語を世に行はせる上に效果が多いであらう。しかし、方言を不正な言語といふのは、恐らく異論と反感があらう。今日に於ては、標準語はまだ十分全國に普及し、社會の各層に行き亙つてゐるとはいはれないのであつて、各地の方言が勢力があるのであり、今後次第に方言の勢力は弱くなつて行くであらうが、それでも、容易に消滅する事はないであらう。我々は標準語の普及を大切だとするだけで、之と共に方言があつて家庭や郷黨の間に行はれても必ずしも妨なしとするものである。唯その場合に標準語を以て公の言語とし、方言を以て私の言語と見たいとおもふのである。國語教育に於ては勿論標準語の教育を專らとすべきであつて、之を正しく、自由に使用する能力を養ふ事に力を盡すべきである。さうして、方言は或地域に限られた言語であつて、他の地に於ては、誤解せられ又は理解せられない事もあり、時としては笑はれる虞があるに反して、標準語は國語の行はれる範圍に於ては、何處にも同じやうに行はれ、理解される言語で、國語を代表するものと見るべく、國民としては必ず知らなければならないものである事を理解せしむべきである。

 標準語は各地の方言の影響を受けて、地方的差異を生じ易いものである。之を絶對に防ぐ事は不可能かも知れないが、極力之を防いで、出來るだけ一樣な標準語が全國に行はれるやうにしなければならない。その第一線に立つのが學校に於ける國語教育であつて、ことに、口語としての標準語に大切な發音の教授は、近來ラヂオや蓄音器などもあるが、どうしても學校に於ける教師からの直接の教授に俟たなければならないのである。

 次に國語教育に於て教授すべき現代の文語の各種について考へて見よう。

 口語文は、前に述べたやうに標準語に基づいた文である。時には方言を用ゐたものや或部分に方言を插んだりしたものもある事はあるが、それは特別なものか、又は特殊の目的の爲のもので、普通ではない。口語文は、口語による文であるが、それではいつも口語文そのまゝの言語を口語として談話に用ゐるかといふに必ずしもさうでない。口語文には、口語に用ゐないやうな獨特の語や言ひ方があるのである。口語文は、漢字と假名とをまじへて書くのが普通である。特別のものは假名だけで書き、又ローマ字で書く。口語文は現今では最も普通に用ゐられ、新聞、雜誌、書籍など大抵これで書かれる。

 口語文は、對話體のものと非對話體のものと二種にわける事が出來る。前者は或人に話しかけるやうな態度で書くもので、「犬が來ました」「それもさうです」のやうなもの、後者は聽手を意識せぬ態度で書くもので、「犬が來た」「それもさうだ」のやうなものである。兩者の間には聽手に對する敬語の有無の相違があるのであつて、明かに言語として區別される。口語の手紙の文などは前者に屬する。

 文語文にもまた種類の別がある。

 普通文は文語文として最も通俗的のもので、用語も比較的自由で、漢語なども多く用ゐる。文字としては漢字を多く用ゐて之に假名を混じる。その假名は、平假名の事もあるが、また片假名のこともある。これは明治時代までは、今日の口語文のやうに最も廣く行はれたものであつたが、今日では法令の文、官府の文、祝辭其他幾分儀式ばつた場合に用ゐ、其他の場合は稀になつた。

 和文又は雅文は、江戸時代の雅文即ち擬古文の系統をひくもので、平安朝の假名文の文法に從ひ、主として純粹の日本語を用ゐ、漢語を用ゐる事は稀である。文字は平假名を主として用ゐ漢字はあまり多くは用ゐない。これは特殊の文學的の文に用ゐられる。和歌の語も、概してこの種に屬する。

 文語體の書翰文即ち候文は、手紙に用ゐる文語であつて、相手や自己に關する語や、挨拶の語などに、他の種の文語にはないやうな特別な語や句を用ゐる。文字は、大體普通文と同じく漢字に假名をまじへて書くが、慣用の語句には漢文のやうに漢字だけで書き顛倒して讀むやうな書方をする事が多い。「被下度」「奉深謝候」など。もとは一般の手紙に用ゐたが、今は形式ばつた手紙の外は口語文を用ゐるものも多い。

 漢文はもと支那語の文であるが、我が國では、古くから之をそのまゝ訓讀してゐるのであつて、訓讀は言語としては日本語であるから、これは國語の文語と見るべきであり、その訓讀には文語文式の言語を用ゐる故、これを文語文の一種と見るのである。(經文だけは全部を音讀するが、さすれば國語でなく支那語である。しかし、他の漢文は訓讀だけで音讀する事はない)。漢文は訓讀した場合には、國語としては普通文と大體同じであるが、それでも、普通文には用ゐられないやうな漢語が用ゐられる。文字は勿論全部漢字で書かれ、讀む時は、文字の順序のまゝでなく顛倒して讀む。これ等が他の文語と非常に違つた點である。漢文は、今は普通には用ゐられないが、それでも、碑文を書き又漢詩を作る人がある故、やはり現代の文語と見るべきである。

 猶、祝詞の文があつて、今でも新に作られるのでこれも現代の文語といつてよいが、あまり特殊なものであるから今は省いておく。

 以上は現代の文語のおもな種類であるが、國語教育の立場から見れば、文語は口語に較べると、文字といふ要素が加はつてゐるから、文字自身の讀み方と書き方とを教へると共に、文字に書かれたものを讀み解いて言語とし、又言語を文字で寫す事を教へなければならないのであつて、その場合に、假名については假名遣や送假名、漢字については、種々の文字の用法、漢文では顛讀法などの知識が必要である。

 文語は、種類によつて、唯讀んで理解する事が出來ればよいものと、それだけでなく、自分で之を使つて文を作る事が出來なければならないものとある。口語文や普通文や候文のやうに廣く行はれるものは後の部類に屬する。但し特殊の專門教育に於てはこの限りでない。

 文語の學習に於ても、基礎となるのは口語である。それ故口語と各種の文語との間の語彙や文法上の差異を會得させなければならない。

 次に、國語教育に於て教授すべき過去の國語は何かといふに、口語はその性質上、その場限りで消え失せるもので過去の口語がそのまゝ殘つてゐるものはないから、過去の國語は自然に文語だけに限られる。さうして、現代の文語に種々の種類があるやうに、過去の文語にも種々のものがあつて、その著しいものだけを擧げても、

(一)漢文
(二)變體の漢文及び書簡文(日本化した漢文で、奈良朝にもあるが、主として平安朝以後、日記、記録、男子の書簡のやうな實用的の文に用ゐられたもの。今日の候文はこの系統を受けたものである)
(三)祝詞宣命文(古代の言語を用ゐた文で、全文漢字を用ゐ、(セン)(ミヤウ)書になつてゐる)
(四)和歌及び假名文(平安朝の口語に基づき、平假名で書いた文語で、擬古文又は雅文はこの系統に屬する)
(五)假名交り文及び和漢混淆文(漢字を主とし片假名を交へたもので、平安朝にはじまり、達意を主とした文語であつたが、後には他の種の文語をまじへて、新興文學に用ゐられた。又假名も必ずしも片假名にかぎらず、平假名をも用ゐるやうになつた。今日の普通文は大體この系統に屬する)

 これ等の各種の文語も、時代によつて變化し、その書き方の上にも變遷がある事は勿論である。

 國語教育には、國文學に屬する文が多く用ゐられてゐるのであつて、隨つて文學に用ゐられないやうな種類の文語は、全然あらはれないか、又は極めて稀にしかあらはれない(變體漢文などはさうである)。又、祝詞や宣命や古事記や萬葉集のやうな古代の文は、專門教育以外に於ては、原文のまゝでなく、漢字假名まじりに書き直してある。

 かやうな過去の文に就いては、言語としての國語教育は、その意味を理解し、同樣な文を讀み解く能力を與へるのを主とすべきであるが、これ等の文語は大抵は平安朝前後にその源を發して多くは現代の文語文まで系統をひいてゐるのであるから、その文法に於ても、現代の文語文と一致する所多く、語彙に於ても之と同じものが少くない故、現代の文語文と對照して教授するのが便利であり有效でもある。勿論一致しない點も相當にあり、時代による變化も少くないからその點には十分注意すべきである。

 さて、これ等の過去の文は、その當時の言語で書いたものであるから、これが正當に解釋されたならば、これによつて、當時いかなる語や文法形式があり、それが如何なる意味で如何なる場合に用ゐられたかといふやうな當時の言語の状態を明かにする事が出來る筈であつて、實際、語や文法形式の意味用法の如き、言語の意味に關する部面に於てはさうである。しかし他の部面に於ては必ずしもさうでないものがある。それは言語の音に關するものである。

 我々は過去の文を讀むに當つて、之を現代の文語と同樣に發音する。これは過去の文語の現代の文語と同樣に取扱つてゐるのである。かやうな過去の文語の讀み方は、果してその當時に於ける讀み方と同じであらうか。もしこれが當時の讀み方であるとするならば、我々は、古事記でも源氏でも平家でも狂言記でも近松でも、又今日の文語でも、同じ語は皆同樣に發音するのであるから、我が國語には千數百年來、音の變化は全然無かつたといふ事になるのである。もしさうならば實に不思議千萬な事であるとしなければならない。現に國語學の研究の結果によれば、我々がイワイと讀む「いはひ」(祝)は平安朝初期以前は「イファフィ」と發音してゐたものと認められる。さればといつて、假名で書いた古文を、その假名のまゝによめば昔時の讀み方の通りになるかといふに、さうでもない。「いはひ」を假名のまゝに發音しても「イハヒ」となつて、古代の發音「イファフィ」とはならない。かやうな次第で、現代に於ける過去の文語の取扱方では、その發音に關する限り、これによつてその昔時の言語の状態を知る事が出來ないのである。

 音以外の部面に於て、過去の文が當時の言語の状態を表はすものである事は上述の通りである。しかし當時の言語といつても、これは文語の状態であつて、それが直ちに當時の口語の状態であるといふ事が出來ないのは勿論である。文語は、現代の文語にも口語文と文語文とがあつて、口語文は口語に近いが文語文は口語とかなり差異があると等しく、過去の文語に於ても、口語に近いものもあれば遠いものもあつた筈であるから、その時代の實際の口語の有樣は、當時の文語中、口語に近いと認められるものに基づいて考へなければならない。萬葉の歌の如きは口語そのまゝのものが多いであらうし、平安朝の物語の類、今昔物語、平家物語中の人物の詞、狂言記、近松の歌舞伎狂言の詞、世話浮瑠璃中の人物の詞などには、その當時の實際の口語を寫したものがあらうと思はれる。かやうにして、源氏物語や枕草子の文も、その時代には口語文であつて、「いづれのおほん時にやありけん」も「香爐峯の雪はいかならん」も多分日常の口語に用ゐられた語であつたらうと思はれる。これと同じ語を今日の文語でも用ゐるが、それは現代では、口語に基づかない文語文であつて、源氏枕草子時代とは、よはど趣を異にするのである。

      三 國語の語彙について

 語彙といふのは單語の總稱である。或一つの言語に用ゐられる單語を總稱してその言語の語彙といふ。國語の語彙、鹿兒島方言語彙など之に屬する。或種類に屬する語をあつめたものをも語彙といふ。動物語彙、天文語彙などは之に屬する。一つの單語でも、一の言語の語彙の一部分と見る事が出來る。一々の單語について説明したものを集めたものは辭書となる。

 單語は言語の實體をなすもので、言語を以て意志を通ずる場合には、單語を一つか、又は二つ以上を連ねて用ゐなければならない。單語を記憶してゐなければ、人の言語をきいてもわからず、又言語を以て人に話しかける事も出來ない。又人の書いた文もわからず、文を書く事も出來ない。一の言語を習得するには、相當多數の單語を記憶しなければならない。しかし、人々は、聞いて(又は文字を見て)わかる單語でも必ずしもそれを自分の言語(又は文章)に使用するとは限らない。人の聞いて了解し得るすべての單語を了解語彙と言ひ、自ら使用するすべての單語を使用語彙と言ふならば、了解語彙は使用語彙よりも多いのが常である。

 單語には二つの要素がある。一は外形である音の形又は文字に書いた形であり、一は内容たる意義(事物の觀念)である。この二つのものは元來必然的の關係は無いもので、唯、心の中で聯合してゐるだけである。單語を覺えたといふのは、その語の外形たる一定の音又は文字と内容たる一定の意義とを心の中で聯合させ一方から一方を喚び起す事が出來るやうになつたのをいふ。かやうになる爲には、幾度も繰返して練習する必要があるのであるが、單語は實際の言語に於ては、單獨で用ゐられる事は稀で、他の單語と結合して、之と共に或事柄を言ひ表はすのが普通であるから、單語單獨でなくその單語の用ゐられた實例に幾度も接して之を覺える方が有效な場合が多い。

 單語には外形と内容とがあるのであるが、實際の言語では、聞き又は讀む場合と言ひ又は書く場合とで、この二つのものが心の中にあらはれて來る順序が違ふ。即ち、他人の言語を聞き又は文を讀む場合には、外形たる音又は文字から内容たる意味が喚び起されるのであり、言ひ又は書く場合には意義がまづ心に浮んでそこから音又は文字を喚び起すのである。この二つの作用は決して同一のものでない故、言語を自由に使用しようとするには、この兩方の練習をしなければならない。

 單語の外形としては音の形と文字の形とがある。文字の形は文語特有のもので口語に於ては音の形があるばかりである。音の形は一定の音が一定の順序に竝んで全體がいつも一續きに發音され、その上、どの部分を高くどの部分を低く發音するかがきまつてゐる。一語中に於ける音の高低がきまつてゐる事は所謂アクセントであつて、これによつて、それだけの音が一體をなしたものと感ぜられるのである。さうして單にアクセントの違ひだけで、語を區別するものもある(たとへば「(ハナ)」と「(ハナ)」、「(ハシ)」と「(ハシ)」など)。英語のアクセントは音の強弱の差によるものであつて、日本語の高低の差によるものと性質がちがつてゐる。日本語にアクセントが無いと考へる人もあつたが、それは誤である。しかし、アクセントは各方言に於てきまつてゐるが、方言がちがへば、同じ語でもアクセントの同じくないものがある。標準語としてはどの方言によるべきかは、まだきまつてゐない。

 單語の外形としての文字の形は、普通二種ある。一は假名で書いた形であり、一は漢字で書いた形である。假名で書いた形としては、現代の音をそのまゝ假名に寫せばよい部分が多いが、しかし現今正しい書き方とせられてゐるのは現代の發音に基づく書き方でなく、古代語の發音に基づく傳統的の書き方であつて、それが爲現代の發音と假名で書く形との間に多少の差異があり、そこに所謂假名遣の問題が起るのである。さうして假名遣は、語によつて定まつてゐるのである。例へばイルといふ音はどんなに書くかは一定しない。もし「射る」又は「入る」といふ語ならば「いる」と書き、「居る」といふ語ならば「ゐる」と書くのである。

 漢字で書いた形としては、一語を漢字一字又は二字で書くものが多いが三字のものもある。又助詞や助動詞の多くは假名でのみ書いて漢字で書かない。漢字は多くはその語と意味の同じものを用ゐるが、意味には關係なく、唯讀み方の同じものを用ゐるものもある(當字や萬葉假名)。

 一語を漢字と假名とで書く場合がある(「見る」「殆ど」など)。その場合に漢字の下に補助的に用ゐられた假名を送假名といふが、どれだけ送假名を附けるかは、實際にはまだ十分一定してゐない。

 文語に於ては文字で書いた形が主になり、音の形は文字の讀み方として從屬的に見られるのが普通である。從つて、文字はきまつてゐても、語として讀み方の一定しないものもある(「萬葉」を或人はマンヨーとよみ或人はマンニョーとよむ)。

 單語の外形は、その音も、又文字も、時代による變化がある事はいふまでもない。しかるに、現代に於ては過去の文語も單語の讀み方は現代の文語と同樣に發音してその當時の音と相違する所がある事前述の通りである。又文字に書いた形も、過去の文獻のを後になつて改めたものもあり、國語教育に用ゐる教科書類にはこの類のものが少くない故、それによつて直ちにその時代の書き方を知る事が出來ない事がある。

 次に單語の内容たる意義について見るに、或單語の意味として我々が心の中に記憶してゐるものは、一般的な、多少漠然たるところのあるもので、いろ/\の場合に適合すべき融通性をもつてゐるものである。然るに、之を實際の言語として、即ち或時、或人に或事を傳へる爲の言語として用ゐた場合には、その意味は限定されてはつきりして來る。例へば、「いぬ」(犬)といふ語は、動物の或一種を意味するが、之を實際の言語に用ゐて、「そら犬が來た」といふ時は、その「犬」は或特定の具象的の犬をさすのであり、「犬は動物だ」といふ時は、その犬は犬といふもの即ち犬の概念又はあらゆる犬をさすのであつて、特定の犬ではない。即ち、單語としての犬は、抽象的な犬をも具象的な犬をも、犬全體をも特定の犬をも包括した意味をもつてゐるが、それが實際の言語に用ゐられると、抽象的の犬か具象的な犬か、犬全體か、特定の犬か、どちらかに限定せられて、もつとはつきりした意味をもつ事になるのである。又、同じ單語にいくつかの違つた意味をもつてゐる事がある。「いぬ」(犬)は右の如く動物の一種をさすと共に、また間牒の意味があるが、これも、心中に記憶した單語の意味としては、場合によつて「犬」又は「間牒」の意味があるといふにとゞまるが、これが實際の言語に用ゐられた場合には、きつとどちらかの一つを意味するのである。この場合にも、實際の言語に於ては單語の意味が限定せられて、はつきりきまるのである。

 然るに我々が言語を實際に用ゐて、之によつて或事を人に傳へようとする場合には、單語を材料として文法上に所謂文を構成し、文の形として人に示すのである。それ故、單語はそれ自身としては一般的な又は多樣な意味をもつものであるが、文中に用ゐられた場合には、その意味が限定せられると考へてよいのである。我々が普通に單語の意義(又は語義)と考へてゐるものは、我々の記憶してゐるその語の一般的意義であり、辭書に記載されてゐるのもこの語義である。さうして、これは、同じ言語を用ゐる他の人々の心の中にも同樣に記憶されてゐて、言語の理解を可能ならしめるものであり、その言語を學習するには、かやうな語義を記憶して心の中に貯へなければならない。それでは人々はどうしてかやうな語義を心の中に持つやうになつたかといふに、自然に會得した言語に於ては、時として他人から特に教へられる事もあるが、多くはその語が實際の言語の中に用ゐられるのを聞いた結果であつて、その語が種々の文中に於ていろ/\に限定せられた意味であらはれるのを經驗して、それらを綜合してかやうな語義を歸納し、之を心中に留めたものである。

 以上のやうな事實は、言語としての國語教育に於ては極めて大切な事である。標準語や現代の各種の文語や過去の國語を理解し又使用出來る爲には、之に用ゐられる單語の語義を理解し之を記憶しなければならないのであるが、教科書の文は、或時或人が或事を傳へる爲に書いた實際の言語である故に、その中の單語の意味は既に限定せられたものである。それを直ちにその語義であると考へる時は非常な誤に陷る虞がある。さればとて、個々の語の一般的意味のみを明かにして文全體の意味を等閑に附するのも誤である。つまり、單語の一般的意味を明かにすると共に、その文に於ていかに限定せられてゐるかを明かにして、語義と文全體の意味との相關を知らしめるのが最も望ましい態度であらう。文の意味は、勿論、之を構成する個々の單語の語義に基づくものであるが、同時に文全體の意味によつて限定せられるものである。一々の單語の語義をはつきり理解してゐなければ、之を正しく使用する事が出來ず、文全體の意味がたしかでなければ、筆者(又は話者)の眞意を理解する事が出來ない。

 單語には、普通の意味の外に特別の感じの添はつたものがある。尊敬、謙遜、親愛、侮蔑などの感じの伴ふ語のある事は著しいことである。對稱代名詞の「お前」は普通は幾分悔しめる意味を伴ふが、方言によつては幾分丁寧な詞として用ゐるやうに、言語の違ひによつて同じ語でも感じが違ふもののある事は注意すべきである。其他、「(たび)(/\)」と「屡〻」、「着く」と「到着する」のやうに、同じ意味でありながら、やゝ感じがちがふものもある。かやうな語感に慣れさすのも言語としての國語教育の任務の一つである。

 單語の意味が時代的に變化する事は勿論である。同じ語の一つの意味から他の意味が生じた場合に、新な意味と共にもとの意味も用ゐられる場合が少くない。語の意味は、その時代の意味に隨つて解釋すべきであつて、必ずしもその原始的意味を説く必要はない。しかし、場合によつては、原始的意味を説く方が、その語の中心たる意味をよく理解させる事もある。例へば「甲斐が無い」の甲斐は、代へるの意味の古代の動詞「かふ」の連用形「かひ」の名詞化したもので、もと代償の意味をもつてゐたものであり、「(わけ)がわからない」の「わけ」は古くは「わき」であつて、「分ける」の意味の動詞「わく」から出た名詞で、もと區別の意味であつたのである。

 國語中の言語の相違によつてその語彙にかなりの相違がある。各種の職業による言語の相違は主として語彙の相違による。口語と口語文との間にも幾分語彙の違ひがあるが、文語文になるとやゝ著しく、その内でも、書簡文や漢文には相當著しい。

 同じ言語でも、時の移ると共に語彙が變化する。新しい單語が出來たり、またこれまで用ゐられた單語が用ゐられなくなつたりする。

 新しい語が出來るのは、(一)全然新に作る場合と、(二)これまであつた單語又は語の構成要素を用ゐて新に單語を作る場合と、(三)國語中の他の種の言語例へば他の方言、特殊語、文語又は古代語から取入れる場合と、(四)外國語から取入れる場合とある。(四)のものを外來語と稱する。我が國の外來語は、支那語と西洋諸國語から來たものが最も著しい。支那語即ち漢語は古くから我が國に入つたもので、多くは漢字に伴ひ、漢字の讀み方、即ち字音として輸入せられたものであり、時代が永い爲に、同じ語でも種々違つた形で輸入せられた。漢字音に呉音漢音唐音の三種あるのはこの爲であつて、呉音は六朝又はそれ以前、漢音は隋唐時代、唐音は宋以後の支那語が傳はつたものである。西洋語は室町時代に葡萄牙語、江戸時代に和蘭語、幕末以後、英佛獨露等の諸國語が傳はつた。漢語を多く用ゐる事は、我が國語の一つの特徴となつてゐるのであつて、日本で作つたものもあり、殊に西洋文明輸入の際、新しい事物の名として新に作つたものも少くない。

 すべて語が新に作られるのは、何等かの社會的事情によるもので、殊に外來語は文化の輸入と密接な關係がある。

 古く行はれた單語で後に用ゐられなくなつたものを古語といふ。これ等は今から見れば現代語とは違つてゐる爲、我々は之に對して特別な感じを懷くが、行はれた當時には現代語であつたのであつて、他の語とかはりは無かつたのである。これは古文を讀み、その文の當時の人々に與へた感じを考へるに當つては注意を要する事である。

      四 國文法について

 まづ文法といふものの性質について考へたい。

 文法は、一の言語の内部構造に關するものである。或時代或時期の一つの言語(現代の東京方言とか平安朝中頃の京都方言とか)の構造を觀察する時にあらはれて來るものである。いくつかの違つた言語の間、又は一つのの言語のいくつかの違つた時代や時期の間に存するものではない。隨つて、同時代同時期の國語でも、その中の違つた言語の一つ一つに於て、又同じ一つの言語でも、その違つた時代又は時期の一つ一つに於て、皆それ/″\の文法があるのであつて、それが互に違つたものである場合が多いのである。

 文法は言語の内部構造に關するものである。言語の構造は複雜であるが整然たる組織を有するものである。さうして大小種々の單位があつて、大きな單位は小さな單位から組立てられてゐるのであるが、その單位には二種ある。一は意味を有せぬものであり、一は意味を有するものである。前者は、單音及び單音から組立てられた音節のやうな、言語の外形を形づくるものであり、後者は、單語又は文のやうな、意味上の或單位を表はすものである。それでは文法は、その何れに屬するものかといふに、それは單なる外形にのみ關するものではなく、意味に關するものである。それでは、文法の關係する意味は如何なるものかといふに、意味を有する小さな單位から、大きな單位が組立てられる場合の意味に關するもので、例へばいくつかの單語が結合して文を組立てるには、それらの單語の意味が結合し合體して一つにならなければならないのであるが、その場合に於ける意味の結合が文法に屬するものである。又、單語の意味が他に結合せずして、そこで文が完結した場合には、その完結の意味も亦文法の關係する所のものである。かやうな、意味の結合や、完結の意味に如何なる種類があり、それが如何なる手段で表はされるかが、文法研究の根本問題である。(右のやうな意味の結合は、單語と單語とが結合する場合にかぎらず、接頭語接尾語をつけて出來た單語や複合語に於ては、單語自身の構造に於ても見られるものである。)

 右のやうな文法的意味は、それだけ獨立してはあらはれず、常に他の(文法的意味以外の)意味に伴つてあらはれるものである。例へば、動詞の命令形は、命令の意味を帶びた完結の意味を表はすのであつて、かやうな意味は文法的のものであるが、これはいつも「行け」「立て」「思へ」などの如く、他の意味(「行く」「立つ」「思ふ」など)に附隨して表はされるのであつて、それだけ單獨に表はされる事はない。「花散る」は「花」と「散る」とが主語述語の關係で結合してゐるのであるが、かやうな關係は勿論意味に關する事で、それは文法の領域に屬するが、その意味は、單獨には表はされず「花」及び「散る」の意味に伴つてあらはれるのである。常に他の語に附屬して用ゐられる助詞や助動詞が文法上特に大切なのは、かやうなところから來てゐる。

 意味を有する單位は、それ/″\きまつた形をもつてをり、或一定の音から成立つてゐるが、文法上の意味は、或ものは音の形により、或ものは、單語と單語との順序(語位)によつてあらはされる(「行け」の最後の母音eによつて動詞の命令の意味を表はし、「花」と「散る」との順序によつて「花」が主語なる事を表はす類)。又同じ意味でも、必ずしも常に同一の形又は方法であらはされず、種々の形又は方法を用ゐる事がある(命令は「行け」の場合はeの音であるが、「來い」の場合はoiの音であらはし、「起きろ」の場合はiroの音で表はす類)。

 文法は言語上のきまりである。その言語をつかふ人々は必ずそのきまりに從はなければならない。もし之に背いたら、全く理解せられないか、誤解せられるか、又わかるにしても、子供の片言か未熟な外國人のつかふ言葉のやうに奇異の感を懷かせる。しかし、これは文法に限つた事でなく、單語でも同樣であつて、犬をイヌといはないでエヌといつたり、イノといつたり、又イヌを猿の意味につかつたりしては、わからなかつたり、誤解を來したり又は笑をまねく虞がある。それではかやうな單語に於けるきまりと文法上のきまりと、どう違つてゐるか。犬をイヌといひ、イヌで犬を意味するのは、この語だけのきまりである。然るに主格をあらはす「が」は、唯一つの單語につくばかりでなく非常に多くの單語につく事が出來る。接續の意味の「けれども」も、亦多くの單語につく。又、「花が」は「咲く」といふ語ばかりでなく、非常に多くの語に連つてその主語となる事が出來る。かやうに文法上のきまりは、或一つのものだけでなく、非常に多くのものに對して當てはまるきまりである。即ち文法に於ては個々の言語單位は、個々のものとしてではなく、或類に屬するものとして取扱はれるのである。單語は一々覺えなければならないが、文法上のきまりは、一度覺えれば同類のものにはすべて應用出來るのである。かやうな點からして、文法は法則であるといはれてゐるが、しかし法則といつても、自然界の法則の如く、いかなる時と處とにかゝはらず、あらゆる場合にあてはまる抽象的なものではなく、或時期の或言語に於ける慣習であつて、言語毎に異り時と共に變化する法式、通則又は型ともいふべきものである。さうして、單語は、必要に應じて之を實際の言語につかふ爲に、豫め記憶して我々の腦中に蓄へておかなければならないが、文法も、實際の言語に用ゐる場合に是非據らなければならないきまりとして、我々の腦中に記憶しておかなければならないものである。しかるに、文法上のきまりは、その言語を自由に使用する人々にも明瞭な形として意識せられないのが常であつて、特に之に注意を加へて研究して、はじめて、明かに自覺し得べきものである。

 以上述ベた所によれば、文法は一の言語の内に存するきまりであつて、意味を有する單位の構成に關する通則であると考へておいてよからうと思ふ。

 前に述べた通り、國語教育で取扱ふ言語は、現代の國語としては標準語及び各種の文語であり、過去の國語としては各時代の文語である。これ等の諸言語の一つ一つにそれ/″\の文法があつて、それが互に違つてゐるのであるが、標準語と口語文とは大體に於て一致する所が多く、文語文と過去の國語とも似た所が多い爲に、普通は口語文法と文語文法とにわけて、之を説いてゐる。しかし、微細な點に於ては、口語文と標準語との間にもちがひがあつて、口語文には時として文語式の形がまじへ用ゐられる。又、現代の文語文法は古代の口語文の文法が基礎となつてゐるのであるから、大綱に於ては古代語の文法と一致しても、やはり互にちがつた點があるのであり、その上過去の言語は時代による變化があつて文法も時代的にちがつてゐる。さういふものを一緒にして口語文法又は文語文法として説くのが普通である爲に、そこに幾分の混雜と無理が出來るのはやむを得ない。その上、口語文法と文語文法とを同じ組織で説かうとする爲にも、また無理が生ずる事がある。例へば、口語の動詞形容詞では、終止形と連體形とは何時も同じ形で、之をわける必要はないのであるが、文語文では形を異にするものがある爲に之をわけるなどその例である。

 言語を習得させる爲には、是非文法の知識をそのまゝ授けなければならないのでなく、實際の言語になれさせるだけでもよい。しかし、文法の知識は、實際、言語の中に行はれてゐながら、明かに捉む事が困難なきまりを、自覺させ意識させるものである故、その言語を教授するものには是非必要なものであり、學ぶものにも之を授けた方が效果が多いのであつて、これによつて言語を正しく解し、又誤に心附かしめる事が出來る。さやうな效果は、その言語が我々の平生の言語に比して差異の多いものであるほど著しいのであつて、口語よりも文語、現代語よりも古代語、自國語よりも外國語の方が、文法の知識の恩惠を蒙る事が著しい。かやうな事情からして、文法の知識は外國語や文語に於ては必要であるけれども、國語又は口語では必要が無いといふやうな考も起るのであるが、しかし、前にも述べた通り、我々が新しい言語を學習する場合には、既に習得した言語が基礎となり、之と比較しつゝ覺えるのであつて、文法に關してもやはりこれまで習得した言語の文法が基礎となるのである。これは勿論、特別な文法の知識を得てゐない場合にも行はれる事であるが、他の言語を學ぶ場合に、特別な文法の知識が有用であるとするならば、その場合にその學習の基礎となるべき言語について明かな文法の知識を有してゐたならば、之と比較しつゝ新な言語の文法の知識を速に又正確に得る事が出來て、學修上多大の效果を收める事が出來るであらうと思はれる。さうしてこの點から考へると、標準語の教授に當つては、その基礎になるその地の方言の文法の知識が是非必要であつて、少くとも、教授に當るものは、方言の文法についての知識をもつてゐなければならないのである。

 國語内の種々の言語の文法は、それ/″\異る所があるにしても概して一致する點が多いものである。差異のある點でも、意味に關する差異よりも、むしろ、意味を表はす手段方法の差の方が多い。それ故、口語文法で得た知識はそのまゝ文語文法に適合するものが少くなく、文語文法の知識は、古代語文法に應用出來るものが相當にある。それ故、我々に幾分遠い文語についてはじめて文法を學ぶよりも、我々に親しい口語について、文法の如何なるものであるかを學んで、それから之と比較しつゝ文語文法を學ぶ方が、實際の言語學習の順序に從つた自然な方法であつて、隨つて效果が多からうと思はれる。

 以上は、文法の知識を言語の習得といふ點からのみ見たものであるが、廣く國語教育の立場から見れば、文法の知識は、我が國語の構造を明かにし、國語の特色を知らしめ、又、文法の上にあらはれた國民の思考法を自覺せしめるに必要である事は既に述ベた通りである。

 しかしながら我々は、更に一歩をすゝめて、國語教育といふ立場だけからでなく、一般に教育といふ立場からして、國文法の學修といふ事を考へて見る時、こゝにまた別種の意義が見出されるのではなからうかと思ふ。組織的の教育に於て課せられる種々の學科は、それ/″\の領域に於ける特殊の知識を與へる外に、種々のものの見方考方取扱方を教へるものである。博物は、自然物の知識を與へると共に、自然物の觀察法を教へ、物理化學は自然界の法則を教へると共に、實驗によつて考察する方法を教へ、數學は數量や空間の性質や關係についての知識を與へると共に論理的思考の方法を教へる。しかし、以上のやうな考へ方や觀察法は自然界に關するものであつて、人の精神や、その働きから作られた文化に關するものではない。

 精神や文化を研究する專門の學としては文科的の諸學があるが、これ等は普通教育に於ては十分に學的體系をなした知識としては授けられないやうであり、大體の知識は授けられるとしても、精神や文化的現象を觀察する方法をそれから學ぶといふ所までは行けないやうである。唯國文法のみは、かやうな所まで行きうるのでなからうかとおもはれる。

 文法は言語に存する一種のきまりである。言語は文化現象であつて、音又は文字のやうな物的要素を媒介として、心の中に起つた思想感情意欲を他人に傳達するものである。かやうに、言語によつて思ふ事を人に傳へる事が出來るのは、人々の心の中に、一定の音又は文字の觀念と一定の事物の觀念とが聯合して、記憶せられてゐる爲である。言語の研究には、かやうな觀念を明かにしなければならないのであつて、その方法には他の方法もあるが、自分の使つてゐる言語に於ては、自己の言語を反省して、自己の心の中にある觀念を自ら觀察する事が有力な方法となつてゐる。これは言語のあらゆる部面に適用出來るのであるが、殊に我々に最も親しい國語の口語に於ける、單語や文法形式の意味については何人でも行ふ事が出來る方法である。それ故、國文法の教授に當つては、種々の文法形式の意味については、出來るだけ自分自身の言語について考察させ、之に基づいて導くやうにすれば、徹底した知識を與へる事が出來ようと思はれる。

 又文法のきまりは、自然界の法則とは性質を異にした、社會の慣習としてのきまりである。しかも單語の場合のやうな個々別々のきまりとは違つて、多くの場合に通じてのきまりである。その上、言語を用ゐてゐる人には、そのきまりに從ひながら、自身はこれについて十分明かな意識をもたず、特別な考察を加へてはじめて明かになるものである。國文法の知識は、我々の日常用ゐてゐる言語上の慣習にかやうな規則性ある事を自覺せしめるものであるが、國文法の教授に於ては、いかにして、かやうな規則性ある事を見出すかといふ方法について、比較的容易に覺らしめる事が出來ようと思はれる。

 以上のやうに我々が我々自身の心的現象を觀察してその如何なるものであるかを知る事や、我々が平生身近に接してゐる文化的現象を觀察してその中に存する規則を見出す事は、我々の生活に取つては有用な事である。しかるに、この種の觀察法を修練するに適當な學科としては、普通教育の課目の中では國文法の外には見出し難いのではあるまいか。果してさうであるならば、國文法には容易に他の學科では得られない特別の教育上の效用があるといつてよいのである。

 しかしながら右のやうな效果を期するならば、國文法の教授は開發的な方法を以てしなければならない。研究せられた結果だけをそのまゝ教へるのでなく、出來るだけ自ら觀察して見出さしめるといふ方法をとらなければならない。この方法は、單に文法の知識を授けるのを目的とした場合に於ても有益なものであつて、文法上のきまりは、多くの場合の例から歸納せられた、比較的抽象的のものであるが、實は、無數の實例に適用せらるべきものである。然るに單にきまりをきまりとして覺えただけでは、實際の言語から遊離したものとなり易く、文法教授の目的を達する事困難である。之を救ふ爲には、之を具體的の實例と結びつけなければならないのであつて、それには、寧ろ多くの實例の中からきまりを見出さしめるのが最も有效な方法であらうと考へる。

 かやうにすれば、文法の知識が徹底するばかりでなく、精神や文化的現象の觀察法の一端をも會得する事が出來るのである。

國語教育には全く素人で、到底任に堪へないのを、編輯の方からのたつての御依頼で強ひて筆を執りました。定めて無駄や獨斷や見當違ひが多からうと思ひます。その上、脱稿を急いだ爲、説明が不十分であり、大切な問題で漏れたものも多く、自分ながら不滿足なものになりました。
底本:「國語學概論」、岩波書店
   昭和25年08月25日