國語の表音符號と假名遣

橋本進吉

      一 言語と文字

 言語と文字とを明瞭に區別し、言語を文字から離してその本質を明かにするやうになつたのは、寧ろ近代の事であつて、それまではカの音といふべきをカの假名と言ひ、助辭を助字と呼ぶやうな、言語そのものと文字との混同は、その道の學者にも屡見る所であり、常人の間では今日も猶兩者の差別について明瞭な意識をもつてゐないものが少くない。かやうな事は我が國に限つた事ではなく西洋に於ても同樣であつたが、前世紀の後半にいたり、獨逸に起つた所謂「少壯文法學者(ユンクグラムマテイケル)」の一派に於て、言語の本質は音聲に意味の結合したものであるとし、文字に書いた言語よりも口に話す言語を重んじ、これにこそ言語の眞生命が宿るとの主張の下に、言語を文字から嚴重に區別して、文字にとらはれる事なく、言語や音聲を研究するに至つたのである。

 かやうな言語觀が明治時代に新に興つた國語學に採り入れられて、今日までもまだ力を失はないのであつて、その結果として、從來專ら文語を對象とした國語の學問が、口語や俗語や方言をもその對象とするやうになり、文字に煩はされて徹底を缺き、時には誤謬に陷る事を免れなかつた國語音聲の考察が、直接に音聲そのものを觀察してよくその眞相を明かにするに至つたのであつて、その國語の科學的研究の上に齎した效果は顯著なるものがある。併しながら、音聲と意味とを以て言語の本質とする考や、口に話す言語こそ眞生命を有するものであるとする説は必ずしも不當でないとしても、動もすれば文字を輕視し言語の上に有する文字の機能や、文字に書いた言語の特質や勢力を看過し又は過小視せしめる弊を生じ易い。これ等の諸點に對する正當な認識なくしては、過去及び現在の國語の事象に對して正當なる解明を施す事も、今後の國語教育や國語問題に對して適切なる對策を樹てる事も到底不可能である。實際、文字が我が國民の生活の上に如何なる價値を有し如何なる役目を果すかを明かにするのは、我々國語學者に課せられた重大なる課題の一つである。

 私は今かやうな重大なる問題について全面的に述べようとする意志もなく又暇もない。唯、こゝでは音聲と文字とは區別して考ふべきものであり、假名は單なる音聲の代表でないとする立場から、音聲を代表すべき表音符號制定の必要とその方法とを論じ、且つ表音符號と假名遣との本質的差異を明かにしたいと思ふ。

      二 音聲言語と文字言語

 現代の國語(即ち日本語)は、その表現手段の上から二種に分つことが出來る。

(一)專ら 音聲を以て表現手段とするもの。即ち、耳に訴へる言語であり、言ひ聞く言語である。又口から耳への言語といつてもよい。——音聲言語
(二)文字を以て表現手段とするもの。即ち、目に訴へる言語であり、讀み書く言語である。——文字言語

 (一)は「はなし言葉」「談話語」「口頭語」などとも呼ばれる。「口語」といつてもよいが「口語文」はこの中に含まないから誤解を避ける爲「音聲言語」といつておく。(二)は「もじ言葉」「記録語」などの名もあるが「文字言語」と呼んでおく。「文語」といつてもよいが「口語文」をも含む故、避けた方がよからう。

 音聲言語は專ら 音聲による言語である。といふのは文字言語にも音聲があるからである。文字言語の音聲は、文字の「よみ」といはれるものであつて默讀する時は他人にはわからないが音讀する時は明かに耳に聞える音聲となつてあらはれる。それ故、音聲言語は音聲と意味とが聯合したものであり、文字言語は文字と音聲と意味とが聯合したものである。かやうに考へれば、音聲言語は文字を表現手段としない言語、文字言語は文字を表現手段とする言語といつてもよい。

 以上は現代の國語についてであるが、過去に遡つて考へると、音聲言語は勿論日本語の起つた最初から存在し、今日まで傳はつてゐるのであるが、文字言語は漢字が我國に傳はつてから出來たもので、漢文の和譯即ち訓讀からはじまり、漢字を以て日本語を寫すやうになつて完全に日本の文字言語となり、平安朝以後、平假名片假名が出來て、漢字のみで書くものの外に漢字假名まじり文及び假名文も出來た。これ等の文字言語は、言語として見る時は、最初から幾分音聲言語と違つた點があるものもあつたであらうが、その相違は著しくなく、その後も平安朝の頃までは音聲言語の變遷と共に變遷して、兩者の間にあまり甚しい差異がなかつた。然るに鎌倉時代以後音聲言語は徐々に變化したに拘らず、文字言語は大體平安朝時代の特色を失はなかつた爲、遂に談話の時に用ゐる音聲言語と、文書や書籍を書く時に用ゐる文字言語との間に大なる差異を生ずるにいたつたのである。これが現代の所謂口語と文語との源流である。明治以後、從來の文語文の外に新に文字言語の基礎として口語系統の言語が取り上げられて口語文が出來、ここに二種の文字言語が存することになつたのである。

 江戸時代までは、言語の教育としては專ら文字言語の教育のみであつた。それには讀む事と書く事との二つの方面があるが、とにかく文字の教育が大切とせられて之に主力を注ぐこととなつてゐたのであつて、その餘勢は今日に及び、專ら耳に訴へる音聲言語の教育は屡その必要を唱へられたにも拘らず、實際に於ては寧ろ閑却せられたのである。

 然るに一方明治時代になつて、殊に日清戰爭の後、國家意識が高揚せられた時にあたつて、標準語の必要が上田萬年先生を始め識者によつて主張せらるるに至つた。これは、全國に通ずる音聲言語であつて、全國の人々が互に出會ひ又は一堂に會する場合に、自由に意志を通ずる手段たるべきもので、音聲言語としての日本語がこれまで多くの方言に分裂してゐたので、全國共通の統一的言語が要求せられるにいたつたのである。

 それでは以前は標準語のやうな全國共通の言語は無かつたかといふにさうではない。極古い時代は別として、平安朝以來の京都の言語も、正しい言語と認められてゐたにしても全國どこでも通用したのではなく、江戸時代の江戸語も又同樣であつたのであつて、音聲言語としての標準語又は共通語は無かつたのであるけれども、それでも全國共通の言語はあつたのである。それは即ち文語である。文語は全國一樣であつて地方的差違はない。さうしてこれは文字言語であるから、文字を解する事が出來るものであれば、どの地の人々でも解し得る性質のものである。そのよみ方は、たとひ同一でないにしても文字さへ同じであれば意味は理解し得るからである。

 かやうに異郷の人々の間に意志を通ずる手段としての文字言語に大切なのは、文字の形及びその正しい用法のみである。たとひ文字のよみ方はきまつてゐるにしても、違つた地方の人々が實際に之を讀む場合に於てあり得べき音聲の相違は問題にする必要は無い。それ故、文字言語に於ては、文字上の統一は期し得られても、音の上の統一は期する事は出來ない。然るに、標準語になると、音聲を唯一の表現手段とするものであるから、音聲が甚重要なるものとなる。もし音聲の差が大であれば、言ふ事が對手に理解せられぬか、誤解せられるか、又は少くともをかしく感ぜられる。それ故、標準語としては、その發音を正しくする事が最も大切な事となるのである。

 又標準語は違つた方言を話す人々の間に用ゐられるものである故、方言の音の影響を受け易く、その音の全國的統一を保つには異常な努力を捧げなければならない。

      三 表音符號

 標準語は、前述の如く、方言が土地によつて異る言語であるに對して、全國一樣に行はるべき共通の音聲言語であり、さういふ意味に於て國語を代表する言語である。さうして、あらゆる國民をして正しい標準語を自由に使用し得られるやうにするのが、學校に於ける國語教育の最重要な目的の一つである。さうして標準語としてはその音聲が極めて大切なものである事上述の通りであるとすれば、標準語としての正しい音を教へる事が國語教育の重要な任務の一つである事はいふまでもない。

 音聲は耳に聞き口に發するものである。之を教へるには正しい音を耳に聞かせて覺えさせる外なく、その爲には教師が口づから正しい音を發して幾度も聞かせて之を記憶せしむべきであるが、猶その外にレコードやラヂオなどをも利用すべきである。實際、發音教授は、正しくは現實に耳に聞える音聲によるより外に方法は無いのであるが、音聲は、その性質上、その時限りのものである故、その補助として表音符號を用ゐる事も亦甚有益である。これは、又音聲符號とも發音符號とも表音記號とも呼ばれ、音樂教授に樂譜を用ゐると同樣に、言語の音聲をその單位に分解して之を目に見え何時までも殘る形に代表せしめて示すもので、音としての言語の構造を明かにすると共に、種々の語に於ける個々の音の異同を明かにし、又、未知の語の發音を知らせる爲に有益であつて便利な手段であり、我國の英語教授に於ては既に採用せられて一般にその效果を認められてゐる方法である。

 以上のやうな國語教育の見地からばかりでなく、國語の學問的研究の上から見ても、音聲はその性質上、目に見える記號の如きものとは別の世界に屬するもので、その研究は獨自の方法によるべきであるが、既にその性質が明かになつた以上は、之を目に見得べき符號で代表せしめれば、國語音聲の理解竝に取扱に多大の便益を得る事は、音樂の研究に樂譜が有用であるのと同樣である。

      四 國語に適した表音符號

 右のやうな目的の爲に用ゐる表音符號は、國語の音を正しく代表するものでなければならない。即ち、同一の音はいつも同一の符號で、異つた音はいつも異つた符號で表はし、少しも曖昧な點が無いものでなければならない。

 表音符號を用ゐて言語の音を表はすには、言語の音を單位に分解して、その一つ一つを一つ一つの符號で書くのが常例となつてゐる。或一定の言語を組立ててゐる音の單位は、比較的少數のものから成立つてゐるもので、その各の單位を示す一々の符號をきめてさへおけば、比較的少數の符號で、その言語にあらはれるあらゆる音の形を表はす事が出來るからである。

 言語の音を單位に分解する場合には、標準のとり方によつて、大きくも小さくも分けられる。稍大きくわければ音節になり、之を更に小さくわければ單音になる。音節は單音から成立つものであるから、個々の單音を一つ一つの符號で表はせば、音節は個々の單音に分解せられて自然に表はされる事となる。

 單音を表はす表音符號としては單音文字である羅馬字を利用することが出來るが、羅馬字に改良を加へて、世界のあらゆる言語の音を標記する事を目的とする「萬國音聲文字(インターナシヨナルフオネテイクアルフアベツト)」が音聲學者の協議によつて制定せられ、各國の音聲學者や言語學者が之を用ゐてゐるのみならず、我國でも現に英語教授に之を用ゐてゐるのであるから、我が國語にも之を採用して、國語の音聲を單音に分解して標記すれは、十分にその音聲を表はす事が出來る。もし國語の單音で、從來の國際音聲文字では標記出來ないものがあるとすれば、新に作つて加へればよい(これは右の音聲文字を制定した時、原則として許された事である)。

 かやうに國語の音聲は、單音に分解して表音符號で示せば示せるのであるが、しかし、さうする事が果して日本語の本性に適したものであるかどうかは考へなければならない問題である。普通の日本人が、日本語を音として分解する場合に、誰でもが到達し得る最小の單位は、單音でなくして音節である。更に之を分解して單音にまで到達する事は專門の學者以外には困難である。我が國語に於ては、一つ一つ同じ長さを有し、同じ時間を占めると考へられる音が發音の基準をなしてゐるのであつて、自分が發音する場合にも、かやうな音をいくつか連續して發するものと考へ、又他人の發音を聞く場合にも、かやうな音の連續として聞くのである。この事は、我國の韻文の形式が、かやうなものの一定數から成立つてゐる事からも、又、我國で出來た表音文字たる假名が、かやうなものの一つ一つに相當する事からも明かに知られるのである。これが即ち我國で音節といはれてゐるものである。

 實際、右のやうな音單位は、更に單音に分解出來るのであつて、例へばアナ(二音節)はana(三單音)に、アンナ(三音節)はanna(四單音)に分解せられ、「アナ」の「ナ」の最初の單音nと「アンナ」の「ン」のnとは同じ單音であるが、我々はかやうな事を意識せず、ナとンとは全然別な音だと思つて居る。又ナマはnamaであり、アマはamaであつて、兩者の相違は單音としてはnの有無だけであるが、我々はさうは考へずナとアとは全く別の音だと考へてゐる。又、アンナ(anna)アンマリ(ammari)サンガイ(saŋŋai)のンは、單音としては、それ/″\mnŋであつて、各違つた音であるのに、我々は皆同じ音だと思つてゐる。さうして、ンの場合の如きは、時として、その單音としての音の相違は決して意味の相違を示してゐない事は、「本の」(ホノ——honno)「本も」(ホモ——hommo)「本が」(ホガ——hoŋŋa)の例に於て、ホンのンがそれ/″\違つた音であるにかゝはらず、「ホン」は何れの場合にも「本」の意味を有する事によつても明かである。

 以上のやうに、違つた音節の中にも同じ單音があり、同じ音節の中にも違つた單音がある事は事實であるけれども、我々は之を自覺せず、殊に「ン」の如き、之を場合によつて夫々別の音とする事は、我々の言語意識に背く事となるのである。さすれば、日本語は單音まで分解せず、音節を基本單位とみるのが我々の言語意識に忠實なものといふべきである。從つて、表音符號も、一々の音節を表はすものを用ゐるのが適當であらうと思はれる。

 音節を示す爲の表音符號は、單音を示すものに比して多くの違つた符號を必要とする事は事實であるが、しかし日本語は音節の構造が甚簡單であつて、英語は勿論、支那語に比べても音節の種類はよほど少いから、さほど多くの符號を要しない。のみならず同じ語を音節符號を以て寫す場合と、單音符號を以て寫す場合とを比べて見るに前者が後者よりも遙に少數で事足りる事は、同じ語を假名で書く場合と羅馬字で書く場合とを比べて見ても明かであるからして、この點は音節符號の方がよほど便利である。かやうに日本語の場合は音節符號を用ゐても實用上の不便は無いものと思はれる。(英語のやうに音節の種類の甚多い言語に於ては、音節符號を用ゐては到底煩に堪へないであらう)

 右に述べた如く、日本語の表音符號としては、單音でなく音節を表はす符號が適當であるとするならば、假名を利用するのが最便利であらうと考へられる。假名はもと/\表音文字として、即ち日本語を音によつて表はす文字として作られたものであり、そして原則としてその一つが一つの音節に當るからである。

 假名には平假名と片假名と二種類あるが、表音符號に用ゐるには片假名の方が適當である。片假名は元來、漢字の傍に附け、漢字と共に用ゐるものとして發生したのであつて、獨立してそれだけで日本語を書き記すものとして發達した平假名とは性質を異にし、その形も獨立性に乏しく、むしろ符號的である。さうして、古くから漢字の讀み方即ち文字の發音を示す爲に用ゐられる事多く、假名遣の亂れたものも平假名で書いたものよりも片假名で書いたものの方に一層多く見える事も、平假名よりも一層表音的に實際の音を表はした事を思はせる。さうして、かやうな性質は後世に至るも失はれず、談話中の特別の發音や語調を示す爲に(「いツそ」「やンわり」「いやだワ」など)、又外國語を示す爲に、平假名の文中に片假名を交へ用ゐたなども、片假名が實際の發音を示す傾向の強かつた事を示すものである。かやうな點から見て、表音符號として用ゐるには、平假名よりも片假名の方が數等優れてゐると考へられる。

 もつとも、片假名とても假名であつて、今日まで日本語を書く文字として一般世間に認められて來たものであり、隨つてその用ゐ方も假名遣のきまりに從ふべきものと考へられ來つたのであるから、之を今新に表音符號として用ゐ、從來の用法に拘る事なく、純粹に國語の音を代表するものとして、發音のままに同じ音(我々が同じ音と意識する音)はいかなる場合でも同じ字で書き、違つた音はいつも違つた文字で書くこととすれば、從來の正しい書き方と考へられたものとの間に相違を生じて、或は奇異の感を起させ、或は之を假名としての正しい書き方と誤解せしめる虞は無いでもないが、しかし、これは、國語の音聲を如實に示す爲に、音聲の代りに片假名を用ゐたものであつて、之を普通の假名として用ゐたものでない事をさへ了解すれば解消すべき問題である。(表音符號として用ゐた場合と普通の假名として用ゐた場合とを混同するのを防ぐ爲には、表音符號の場合には特別の書體を用ゐるとか、又は〔~〕のやうな括弧の中に入れるとかして之を區別する方法はあるであらう)

 片假名を表音符號として用ゐようとするに當つて、之を如何に用ゐればよいかについては、今日までまだ一般にきまつた方式はない。只一二の人々の試みたものがあるばかりである(神保格、常深千里兩氏の國語發音アクセント辭典に於けるが如きその一例である)。外國の地名人名等の書き方も、音を示すといふ點では之に近いものであるが、これは外國語である上に、その書き方も一般的にきまつてゐるとはいはれない。結局今日に於ては、假名を表音符號として用ゐる時のきまりとして一般的に行はれてゐるものは無いのである。しかも、標準語の教育は、現今、國の内外共に緊急の要事であり、標準語の教育には正しい發音を教へる事が大切であつて、その爲には表音符號を用ゐる事が有效適切なる手段であるとすれば、適當なる表音符號を制定する事は、この際極めて緊要なる事であるといはなければならない。

      五 表音符號と假名遣

 今日世に廣く用ゐられてゐる國語辭書の中に、發音引のものが少くないが、それ等の辭書に於ては見出しの語を假名書きにして國語調査委員會で決定した假名遣案の法式に從つて書いてゐるものが多い。發音引といつても、音はそのまゝ直接に辭書の中に示す事が出來ない故、これ等の辭書は之を假名で代表せしめて語の音を示してゐるのであり、その音を示す方法として所謂表音的假名遣の一種なる國語調査會の假名遣案の書き方を利用してゐるのであつて、畢竟、假名遣としての法式を表音符號に流用したものである。これを見て、表音符號は新に定める必要なく、表音的假名遣を用ゐればよいと考へるものがあるかも知れない。然るに假名遣といふものは、いかなる種類のものでも、表音符號とは全く性質を異にし、その目的を異にし、全然別な理念から生れたものである。

 假名遣は假名で國語を書く時の正しい書き方としての社會的のきまりである。即ち、それは、文字言語に於ける文字の上のきまりであつて、文字と關係の無い音聲言語とは無關係のものである。

 假名は初めて出來た時代に於ては、國語の音を忠實に表はしたであらうが、その後、國語の音が變化したにもかゝはらず、假名は文字の有する固定性の故に、音の變化に伴はず、容易にもとの書き方を改めなかつた爲に、假名と音との間に差異を生じて、同じ假名は必ずしも同じ音を表はさず、違つた假名は必ずしも違つた音をあらはさなくなつたのである。かうなれば、假名は音を表はすものとしては亂雜できまりの無いものとなつたのであるが、かやうな状態に立到つた時に、假名で言語を書く時の書き方を統一すべき基準として假名遣の規定が立てられたのである。

 かやうに假名遣は、假名を用ゐる文字言語に於て、文字にあらはれた言語の形を一定する爲のきまりである。然るに從來の假名遣に於ては、同じイの音を或語では「い」と書き或語では「ゐ」と書き或語では「ひ」と書き、又音としては明瞭に區別せられてゐるワの音とハの音を同じ「は」の字で書く場合があつて、一定のきまりが無いやうである。しかしこれはを標準にして見たからであつて、もしを標準にして見れば、一々の語は必ず一定の書き方があるのであつて、同じタイといふ音でも「隊」といふ語ならば必ず「たい」と書き、「鯛」といふ語ならば必ず「たひ」と書くときまつてをり、それによつて同じ語は常に一定の假名で表はされ、隨つて、音は同一であつても意味の違つた語を假名の違ひによつて區別する場合も少くない(「折る」と「下る」とを「をる」と「おる」とで區別し、「泡」と「粟」とを「あわ」と「あは」とで區別するなど)。

 全體、言語は意志を交換し思想を傳達する爲のものであるから、その目的とする所は意味に在つて、音聲や文字に無い。勿論音聲や文字は大切ではあるが、それは意味を示す爲の手段として大切なのであるから、文字言語としては、その文字の形によつて意味が明瞭に了解せられればよいのである。その爲には、同じ語は何時も同じ文字であらはれるのが理想的である。假名遣は、かやうな理念の下に起つた、文字言語に於ける假名の用法上のきまりであつて、同じ語は誰が書いても同じ字で書くやうにさせる事を目標としたものである。たとひ實際に於ては十分嚴格に守られない事があるとしても、假名遣は少くとも右のやうな事を目的として、そのきまりを、言語を文字に書く時の正式な書き方として、社會一般に行はうとするものである。

 かやうな事は單に我國にのみある事ではない。西洋諸國の如き、表音文字を用ゐてゐるものに於ても同樣であつて、文字に書いた言語の形は、之を實際の言語の音と比較してみると、一致しない所や、不足な所や、又過剩な所などあつて、必ずしも文字は音を忠實には表はさないが、しかし、同じ語を書く文字の形は常に一定して何時もかはらないのが常である。

 右のやうに、文字に書いた形が實際の言語の音と一致しないのは不都合であり、不便ではないかといふ非難もあり得べきであらう。なるほど我々が全く知らない語にはじめて出會つた場合にその發音(即ち讀み方)がわからないで當惑するのは事實である。しかしながら、元來文字は、知らない言語を教へる爲のものではなく、知つてゐる言語を想ひ出させる爲のものである。さうして言語の音の形は、我々の腦中に、或意味を示し或意味に伴ふ一つづきの音として記憶せられてゐるのが常であるから、文字言語に於ける文字の形が、何等かの手懸で、その意味に伴ふ音の形を想ひ起させる事が出來れば、我々は之をたよりとしてその意味を理解し得るのであつて、必ずしも一々の文字が正確にその一つづきの音の一つ一つの部分を示さなくともよいのである。もし讀み方のわからない語に出會つたならば、人に尋ねるか、何かで調べるべきであつて、勝手に讀むべきものではない。

 要するに、假名遣は文字言語に於けるきまりであり、言語を文字に書く時の基準であつて、この基準にしたがへば同一の音は必ずしも常に同じ文字によつて表はされないけれども、同じ語はいつも同じ文字によつてあらはされる。

 以上假名遣の性質について述べたのは、主として今日一般に行はれてゐる所謂歴史的假名遣を對象としたものであるが、かやうな假名遣の性質は所謂表音的假名遣に於ても亦同樣である。これは、國語を文字に書く時の正しい書き方として、從來の所謂歴史的假名遣に代つて社會一般に行はうとするものであるから、勿論文字言語に屬するもので、文字言語の書き方の改革を目的とするものである。さうして、これは假名を現代國語の發音に近づけようとするものであるから、文字と音との不一致は歴史的假名遭に比しては少いけれども、それでも精密に國語の音と合致するものではない。

 表音的假名遣にも種々の方式のものがあるが、明治三十八年國語調査委員會で議決したものは、

(一)拗音を表はす爲の「や」「ゆ」「よ」及び促音を表はす「つ」を小書しない事にした爲に、次の如く、明瞭に發音上區別のあるものを同じ假名の形で書き、文字の上からは之を區別する事が出來ない。
「視野」と「紗」(共に「しや」) 「千代」と「著」(共に「ちよ」) 「石屋」と「醫者」(共に「いしや」) 「玩具」と「御餠屋」(「おもちや」) 「利用」と「量」(「りよう」) 「費用」と「表」(「ひよう」) 「器用」と「京」(「きよう」) 「私欲」と「職」(「しよく」) 「私用」と「賞」(「しよう」) 「美容」と「鋲」(「びよう」) 「嘗て」と「勝手」(「かつて」) 「皐月」と「先」(「さつき」)
(二)長音に「う」「い」を用ゐた爲に、音を異にする左の諸語を區別出來ない。
「小牛」と「孔子」(共に「こうし」) 「夜討」と「用地」(共に「ようち」) 「問ふ」と「十」(「とう」) 「小賣」と「行李」(「こうり」) 「牡牛」と「聾者」(「おうし」) 「繪入」と「營利」(「えいり」) 「目色」と「迷路」(「めいろ」) 「毛色」と「經路」(「けいろ」)
隨つて「のうさぎ」(野兎)を「ノーサギ」と發音し、「しろうり」(白瓜)を「シローリ」と發音し、「ものうい」(慵い)を「モノーイ」と發音する事を防ぐ事が出來ない。

 大正十三年臨時國語調査會所定の假名遣案では、拗音を表はす爲の「や」「ゆ」「よ」及び促音の「つ」は原則として之を小書する事に改めたから(一)の諸語は明に之を區別する事が出來るが(「視野」は「しや」「紗」は「しゃ」)、(二)の類のものは前のままである爲、これ等の諸語に於ける音の相違は依然として假名の上に表はすことが出來ない。しかのみならず、明治三十八年の國語調査會案では助詞の「は」「へ」「を」も發音のままに「わ」「え」「お」と書く事になつてゐたのを、同案では「は」「へ」「を」と書く事とし、又「ぢ」「づ」はすべて發音の通りに「じ」「ず」と書いたのを、左の如き場合に限つて「ぢ」「づ」と書く事に改めたのである。

一、二語の連合によつて生じたヂヅ。「はなぢ」(鼻血)「みかづき」(三日月) 二、同音連呼によつて生じたヂヅ。「ちぢみ」(縮)「つづみ」(鼓) 三、連聲による濁音。「さるぢえ」(猿智意)「れんぢゆう」(連中)「はぢゃや」(葉茶屋)「ゆうづう」(融通) 四、呉音によつて濁る「地」「治」。「ぢぬし」(地主)「せいぢ」(政治)

 その結果として、同じオの音を場合によつて「お」とも「を」とも書き、同じジズの音を場合によつて「じ」「ず」とも「ぢ」「づ」とも書くと共に、ハの音を表はす「は」の假名が時としてワの音をも表はす事となつて、文字の異同は必ずしも音の異同を表はさないのである。この臨時國語調査會所定の假名遣を多くの發音引國語辭書の類に於て表音符號として利用するに當つて、かやうな點に修正を加へざるを得なかつたのも當然の事であつて、これ即ち、この表音的假名遣の方式が、音を明瞭に示す表音符號としては不完全な點がある事を證明するものである。(發音引國語辭書に於ては右の假名遣の方式に修正を加へてゐるけれども、前掲(二)の方式はそのまま用ゐて、音の相違を區別する爲の工夫はまだなされてゐない)

 しかしながら、かやうな事は、假名遣としてはその本質上避け難い事であつて、假名遣が、言語を文字に書く場合のきまりとして國民一般に遵守せらるべき性質のものである以上、國語の音聲に忠實なる餘り、これまで世間一般に行はれた文字言語上の慣習と著しい違ひがあつて奇異の感を生ぜしめ、或はあまりに煩雜であつて書寫に不便を感ぜしめるものであるならば、實施不可能に陷る虞がある故、かやうな妥協策をとるのも亦止むを得ない事である。

 右の如く、表音的假名遣に於てさへ、その假名は必ずしも正確に國語の音を表示しないのであつて、しかも假名遣としてはそれで少しも差支ない。それは、畢竟、假名遣の本性に基づくものであつて、表音的假名遣に於て、實際の音の通りに假名を用ゐるのは、必ずしも音を寫すのが窮極の目的でなく、同一の語の音の形はいつも一定したものであるから、これを或きまつた法式によつて假名に寫せば、その假名の形はいつも一定したものとなる故、かやうな方法によつて、各語の假名の形を常に同一ならしめて、文字言語に於ける言語の形の統一を保たしめ、言語の意味の理解を容易ならしめようとするのである。

 之に反して、表音符號は、純粹に國語の音を示す必要ある場合に用ゐるものである。たとひ之に假名を用ゐるとしても、それは假名遣の如く文字言語に於ける、語を表示する一定の形として之を用ゐるのではなく、國語の音聲の形を目に見える符號に代置してその發音を示し、且つ國語がいかなる音單位から成立つか、個々の語の形がいかなる音單位から組立てられてゐるか、又文字が如何なる音を表はすかを明かにするものである。

 前にも述べたやうに、元來文字は知らない言語を教へる爲のものでなく、既に知つてゐる言語を想ひ起さしめる爲のものである。言語を文字に書いたもの即ち文字言語は、その言語を知つてゐるものをして、文字によつて言語を想ひ起さしめ、その意味する所を理解せしめるのを目的とするものである。それ故、表音文字を用ゐた場合でも、一々の文字が必ずしも忠實に一々の音聲を寫さずとも、一々の語を表はす文字の形が一定してその意味を憶ひ起さしめ得れば十分目的を達したものである。然るに、音聲言語は音聲を唯一の表現手段とするものである故に、之を全然未知のものに教へる場合にも、その音聲は實際耳に聞える音聲による外方法が無いにしても、表音符號を用ゐて音聲を目に見える形に代置して示す事は實際上有益であつて效果多い方法である事既に述べた通りであり、又、語の音聲はわかつてもその意味がわからない場合には、音聲をたよりにして意味をもとめるの外なく、その場合には、音聲の代りになる表音符號があれば、それにたよつて(發音引辭書の如きものによつて)目的を達する事が出來る。又文字言語に在つても、文字の形は必ずしも眞の發音を示さない故、その正しい讀み方(即ちその文字の表はす語の正しい音)を表音符號で示すならば、讀み方を知らないものも之を正しく讀む事が出來るのである。

 又學問的研究に於ても、純粹の音聲は、性質上瞬間的のものであり把握しにくいものである故、之を永續性ある表音符號を以て代表せしめれば、種々の音の區別や音結合體の構造を明かに示し得るなど、取扱上多くの便宜が得られる。殊に論文などに記述するには、かやうな符號によらないでは音聲は到底示すことは出來ない。

 要するに、假名遣と表音符號とは、その性質を異にし、その目的を異にするものであつて、假名遣は、文字に書いた言語の形の統一を目的とし、言語を假名で書く時のきまりとして、一般國民の守るべき規定であり、表音符號は國語の音聲を代表する符號であつて、國語の研究及び教育に於て音聲を取扱ふ場合に用立つものである。前者は專ら文字言語に屬し、音聲言語とは關係なきものであるに對して、後者は音聲言語のみならず文字言語にも關するものである。

      六 表音符號の制定について

 國語の音聲を代表すべき表音符號を新に制定するに當つて問題となるべき諸點について考へて見たい。國語の音聲といふ中には標準語ばかりでなく諸方言の音聲をも含むべきは言ふまでもないが、今は標準語に限る事としたい。

 重なものは大體以上の諸點であらうと思はれるが、これ等を如何なる符號で表はすのが適當であるかが問題となる。しかし、こゝに、もつと根本的の問題としては、いかなる音を標準的の音と認めるかといふ問題である。右に掲げたのは、東京語に於ける發音を標準としたものであるが、大體東京語式の言語を標準語として認めるとしても、東京語に於ける右のやうな諸點をすべて標準的のものと認めるかどうかに就いては必ず議論があらう。語頭の撥音や、ガ行鼻音や、無聲化母音などは定めて問題になるであらう。さうして、かやうな根本になる音それ自身の問題がきまらない以上は、標準語の發音符號の問題は何時までも決定しない。

 次に、いかなる發音を標準的のものとするかが決定したとしても、その音をどう見るかが問題になる。例へば、普通に長音といはれてゐるものを、或は「ー」を附けて、或はウ又はイを附けて表はすのは、之を一つの長い音節と見てゐるのであるが、之を、上の假名と同じ母音の假名を附けて書くのは(例へば、オオ・コオ、レエ・メエなど)、之を一つの長い音節と見て、それをそんな方式で書いたものとも見られるけれども、又一方、之を長音節と見ず、上の音に、それと同じ母音から成る一つの音節が附いたもの、即ち二つの音節と見たものとも解せられる。この二つの見方の中、どちらが日本語としての實際に合致するかが問題となるのである。

 かやうな場合に主觀主義と客觀主義とのどちらに依るかによつて、相違が生ずる。例へば、その言語を用ゐる人々の意識に關係なく、實際に於て同じ母音が切目なく長く續けば一つの長音節であると見るのは客觀主義の立場である。又、實際は母音が切れる事なく長く續くとしても、その音を發する人々の主觀に於て一つのものとは意識せず、二つの音節として發した場合には之を二つの音と見るのは主觀主義の立場である。もし客觀主義の立場からすれば、「ホモ」「ホノ」「ホガ」のンは、それぞれmnŋであつて、音としては、それ/″\別々の音と見なければならない。然るにこれらのンを何れも同じ音と見るのは、かやうな音の區別は我々日本人は之を意識せず、同じ音と考へるからであつて、その言語を用ゐる人々の言語意識を基準としたもの、即ち主觀主義の立場に立つものである。かやうな見方は、どちらも眞實を得たものであつて、一を眞とし他を誤とすべきではない。つまり、客觀的事實と主觀的事實と、どちらに重きをおくかによつて違ふのである。

 前に私が、日本語の音單位としては音節を採るべきであるとしたのは、我々の言語意識に基づいたもので主觀主義の立場からである。所謂長音の場合に於ても、「通る」の「トー」は主觀的にも客觀的にも一つの長音節と見られるが、「()()しめる」の「トオ」ほ、いつもその間に切れ目を置いて發音する事が無い故、客觀的には一つの長音節と見る事が出來るが、主觀的には「ト」と「オ」とは別のものと考へる故、二音節と見るが至當であり、「(エー)國」の「エー」は主觀的にも客觀的にも一の長音節であるが、「(イエ)()歸る」の場合の「イエエ」のエエは、客觀的には一つの長音節と見られるが、主觀的には二つの音節と見られる。其他「飼犬」(カイイヌ)「鴇色」(トキイロ)のイイとキイも客觀的には一つの長音節と見られようが、主觀的にはそれ/″\二つの音節と見られる。「大きい」(オーキイ)のキイも亦主觀的には二音節であると思はれる。(これ等の諸例に於て、右の如き音が我々の意識に二つの音節として感ぜられるのは、そこに意味の切目があるからである)

 實際に於て、我々が言語の音を聞いてその言語を理解するには、客觀的の音が正しければよいのであつて、その音が直接人の發したものでなく、蓄音機やラヂオの出す音でも、鸚鵡や九官鳥の發する音でも少しも差支ない。しかし、その音を聞いてわかるといふのは、どうしてであるかといふに、我々の心の中に、その言語の音の觀念が出來て記憶せられてゐるからであつて、現實に耳に聞えて來る音が、その音の觀念を喚び起して之に伴ふ意味を想ひ出さしめる爲である。もし聞手の心中にそんな音の觀念が全然存在しないならば、言語の音を聞いて之を理解する事は絶對に不可能である。さすれば人々の心の中に存する音の觀念は言語に取つては極めて大切なものであるが、その各個人の音の觀念に於て、一つの長音節としてでなく、二つの音節の連續したものとして意識せられてゐるとすればこの主觀的事實を重んじ、表音符號に於ても明かに之を示すのが至當であらうと考へる。私は國語の音を表音符號で表はす場合にも、主觀主義の立場に基づくべき事を主張する。

 私は發音符號をきめるに當つて主觀主義を採り、我々の言語意識を重んずべき事を主張するのであるが、これは決して客觀的事實を輕んじ又は無視してよいといふのではない。前に述べた如く我々が普通同じ音と考へてゐるンも、實際に發する現實の音としては、場合によつて種々の違つた音になる。又ナの初の子音とアンナのンの音とは實際の發音に於ては同じ音である。かやうな事もまた客觀的事實として認識しなければならない。これは普通の言語意識を超えて一歩を進めた認識である。さうして、かやうな點までも明かにしようとするには、音を音節に分解しただけでは不充分であつて、更に之を單音にまで分解しなければならない。さうして之を表はす表音符號も、羅馬字や萬國音聲文字のやうな、單音を表はす符號でなければならない。國語音聲の研究としては、かやうな客觀的事實までも子細に檢討すべきは言ふまでもなく、猶更に一歩を進めてそれが我々の意識に如何に反映してゐるかをも明かにしなければならないが、しかしこれは、音節の性質や構造を明かにする爲に必要な仕事であつて、普通の場合、殊に國語教授の如き實用を主とした場合に用ゐるものとしては、音節を表はす假名式表音符號で充分であらうと思ふ。勿論假名式符號を用ゐても、客觀主義の立場から、實際の發音をそのまゝ符號に書き表はして、例へば「ホモ」「ホノ」「ホガ」のンをそれ/″\別々の形で書き表はす事も可能であるが、我々の主張する如き主觀主義によれば、之を一樣にンと書くべきである。その爲に實際の發音との間に不一致を來す事は事實であるが、しかし、本格的の言語教授は、唯その言語の形骸のみを眞似させればよいのではなく、言語意識をも體得させるべきものであるから、實際の發音のみに忠實で、言語意識にそぐはないやうな表音符號の用法は、言語の本格的學習を妨げる虞があるものである。のみならず、ンの例の如き、場合によつて實際の音がかはるのは、その次に續く音に同化せられたのであつて(そこに我々がンをいかなる場合にも同一の音と意識する根據がある)、隨つてその次にどんな音が來るかを見れば、その實際の發音は明瞭になるのであつて(ナ行タ行ダ行音の前ではnの音となり、バ行パ行マ行音の前ではmとなるなど)この點をさへ會得すれは、實際教授の上にも甚しい不便はなからうと思ふ。もとより、教授者の側にあつては、個々の音節が如何なる單音から成立つか、各の單音がいかなる發音器官の運動によつて發せられるか、同一の音がいかなる條件の下に種々の違つた音に發音せられるかなどの客觀的事實についての徹底した知識を要する事は言ふまでもない。

      七 文字言語と表音符號

 表音符號が專ら音聲を表現手段とする音聲言語の教授や研究に有益であり有效である事は既に述べた所によつて明かであるが、上にも時々言及したやうに、表音符號は又文字言語に於ても有用であり必要でもある。

 文字言語は文字を以て表現手段とする言語であるが、言語である以上は必ず一定の音を有するものであつて、それは文字の讀みとしてあらはれる。それは音讀する場合は現實に耳に聞える音となつてあらはれて來るが、默讀する場合には耳に聞える音としてはあらはれない。しかし、その場合にも、文字に伴ふ一定の音の觀念は我々の心の中に存在するのであつて、さやうな觀念が存在すればこそ、必要に應じて現實の音を發する事が出來るのである。もつとも或場合には、文字の意味はわかるが、その讀み方を知らない事がないでもない。しかし、それでも、我々はその文字に一定の讀みが無いものとは決して考へないのであつて、何かきまつた讀み方はあるが、自分はそれを知らないのだと考へる。さすれば、かやうな事實は、文字言語には必ず一定の音(即ち讀み)を伴ふといふ原則を否定するものではない。唯、文字言語に於ては、音聲は文字ほどの優位を占めてゐないと言ひ得るのみである(それ故、文字を唯觀念を表はすもの、即ち意味をあらはすだけのものとする説には贊成することは出來ない。文字はやはり言語を表はすものである)。

 又、文字言語は文字を表現手段とするものである故、文字を缺く事は出來ないけれども、いつも現實に目に見える文字がそこになければならないとは限らない。唯文字に書く事を豫想しただけでもよい。例へば、二人が手紙の文句について相談する場合に「御返事無之候間」と書かうか「御回答に接せず侯故」と書かうかといつたとすれば、その手紙の文句は唯音聲として聞えるだけで、文字としては現はれてゐないのである(但し、文字に書く事は豫想してゐる)。又手紙や文章を讀んで聞かせる場合には、そこにある文字言語は音聲としてのみ聞手に傳はる。

 かやうに文字言語には必ずきまつた讀みがあつて、それは現實に耳に聞える音聲となり得るのであるが、その讀みを正確に示すには、表音符號を用ゐるのが最便利で有效であると思はれる。

 現代日本の文字言語は、普通には假名ばかりで書くものと、漢字と假名とをまじへて書くものと二つの種類があるが、各の語について見れば、假名で書く場合と漢字で書く場合との二つに分けて見ればよい。一語を漢字と假名とで書く場合もあるが(「思ふ」「靡かす」「恰も」など)、それは以上二つの場合に準ずる事が出來る。

 假名で書く場合は、現在に於ては、普通は歴史的假名遣に從つてゐるが、假名で書いた形と實際の發音との間にかなり相違がある。相違があつても、兩者の間に規則的なきまりがあれば讀みを知る爲に感ずる困難は少いのであるが、不規則な點も相應にある。例へば

ハ行の假名は語の最初以外の位置にあればワイウエオと發音し、その中「ふ」がア段の假名の下にある時は上の假名と共にオーコーソー等の音になるのが一般のきまりであるが、その例外として
(1)「あひる」(鶩)「あふれる」(溢)「しばふ」(芝生)「おもほす」(思ふの敬語)では語頭でないのに「ひ」「ふ」「ほ」をヒフホと讀む。 (2)「あふひ」(葵)「あふぐ」(仰)「たふる」(倒)「あふり」(障泥)の「あふ」「たふ」はオートーと讀まずアオタオと讀む。 (3)ハ行の假名で初まる語が他の語の下に附いて複合語となつた時、そのハ行の假名は時としてワイウエオとなり、時としてハヒフヘホとなる。「ふぢはら」(藤原)「かぢはら」(梶原)「すがはら」(菅原)などは「ワ」、「くりはら」(栗原)「すぎはら」(杉原)「のはら」(野原)などは「ハ」。
かやうであるから、假名で書いたものでも讀み誤る虞がある。その正しい音を示す爲には、表音符號を利用すれば完全に目的を達する事が出來る。

 次に漢字に書いた場合には、漢字に種々の讀み方のあるものがあり、又讀み方のわかりにくいものもある。之を明かにする爲に、假名を傍に附けてその音を示す方法が古くから行はれてゐる。之を振假名といふ。これは相當有效な方法であるが、しかしその假名は、假名としては文字言語に於ける社會一般の正しい書き方(現今では歴史的假名遣による書き方)に從ふのが普通であり又正當であるが、それでは、十分明かに發音を示し難い場合がある。例へば「橿原(かしはら)」はカシハラかカシワラか明かでなく「園生(そのふ)」はソノフかソノーかわからない。又國語調査會式の表音的假名遣によつても、「白兎(しろうさぎ)」をシローサギと發音し、「黒馬(くろうま)」をクローマと發音する虞があり、又、振假名に假名の大小を區別するのは實際上殆ど不可能であるから、「赤土(あかつち)」をアカッチと讀み、「規約(きやく)」をキャクと讀むのを防ぐ事は困難である。それ故、これも必要に應じて表音符號を用ゐて讀み方を示すのが有效適切な方法であらう。

 既に前にも述べた通り、文字言語に於ては、文字の形は意味を解する爲の據處として最大切なものであるから、文字の形の統一は比較的保ち易いが、その讀み方は必ずしも常に意味の理解に必要でないから、とかく疎略にせられる傾がある。殊に我國の漢字の用法は甚複雜であつて、やゝもすれはその讀み方を誤り、爲に、同じ語が種々の違つた音の形をもつに至り、國語の統一を損ふ憂が少しとしない。それ故、文字の讀み方を明示して誤讀なからしめる必要があるのであつて、その爲には表音符號が甚有效であるといはなければならない。

 もつとも文字言語の正しい讀み方は表音符號を用ゐる以外の方法によつても示せないではない。例へば現行の國定國語讀本を見るに、その假名の用法は世間普通の歴史的假名遣に據つてゐるが、下年級用のものに於ては、發音を表示する爲に之に多少の變更を加へた所がある。例へば

イッテ イラッシャイマス アッチ コッチ シャボンダマ ユックリ ケッシテ きしや きつぷ かほぢゆう かへつた イッシャウケンメイニ タイシャウ チャウダイ ニンギャウ セカイヂュウ りゆうぐう
かやうに、普通大字で書くものを小字にしたのは、大字に書いたものと音を異にするからである(但し「學校」を「ガッカウ」としたのは假名遣まで改めてゐるのである)。

 しかしかやうな方法で發音を示したところで、全部が發音通りになるのではなく、唯その一小部分にとゞまる事は、次のやうな例でも明かである。

レイ タラウ サン ヒカウキ サウ デス オホゼイ タイソウ  ヤウ
これ等は決して假名の通りに發音するのではないが、その爲に特別のしるしも附けてない。かやうな點で不徹底であるといふべきである。

 しかしながら、この種のものでも特別の補助符號を用ゐればその發音を示すことが出來る。例へば、次の如き方法によれば促音とツの音、拗音シャとシヤの二音、拗長音ショーとシヤウの二音とを區別する事が出來る。

イラ--ツシ--ヤイマス キ--ツプ シ--ヤボン イ--ツシ--ヤ--ウケンメ--イニ タイシ--ヤ--ウ ニンギ--ヤ--ウ タラ--ウサン タイソ--ウ

 又、次の如き方法によれば、二字で一音節を示すものとさうでないものとを區別する事が出來る。

イラシヤ イマス キプ シヤ ボン イシヤ --ウケンメ--イニ タイシヤ --ウ ニンギヤ --ウ タラ--ウサン タイソ--ウ

 其他色々の方法があらう。しかしながら、この方法による時は、同じ假名が場合によつて種々違つた音を表はすのは示すことが出來るが、左の例の如く同じ音に對して種々の違つた書き方のあるものは、それが同音である事を示すことは不可能である。

か--う か--ふ こ--ふ こ--う くわ --う (以上コー) け--ふ け--う き--や--う き--よ--う (以上キョー)

 右のやうな方法は、文字言語としての文字の正しい形と、その讀み方としての音聲の正しい姿とを同時に示さうとしたものであるが、かやうな方法は、どちらから見ても不徹底なもので、音の同異も十分明瞭には示し難く、又、音を示す爲にとつた手段を文字の正常な書き方と誤認せしめる虞があり、隨つて文字言語を損ふ憂があるものである。それよりも、文字言語としての文字の形はそのまゝにしておいて、その音は別に表音符號を用ゐて文字の傍にでも加へて示す事にすれば、文字言語の形を破らず、しかもその正しい讀み方を示すことが出來るのである。

 

 要するに我が國語に適した表音符號を定めて、國語の音を表示することは、音聲言語の爲には勿論、文字言語の爲にも有用であつて、それによつて標準語の正しい發音と文字の正しい讀み方とが國民一般に普及すれば、國語の統一に資する所多大であらうと思ふ。

本稿は本年八月國語教育學會夏期講座に於ける講演の覺書を基礎として改訂増補を加へたものである。表音符號の問題を、主として國語教育の方面から説いたのはその爲である。(昭和十五年十月記)
底本:「文字及び假名遣の研究」、岩波書店
   昭和45年01月31日(改版)
   「國語と國文學」(第17卷第12號)