萬葉集の語釋と漢文の古訓點

橋本進吉

     一

 過去一千年の久しきに亙つて、數多の學者の研究の對象となつて來た萬葉集は、今日に於ても猶我々に多くの問題を提供してゐる。從來の學者の研究が及ばなかつた方面は言ふに及ばず、古くから幾多の學者が心力を盡した語釋の方面に於ても、今日の立場から仔細に觀察すれば、猶缺陷多く、解決を今後の攻究に侯つべきものが少くない事を見出すのである。

 語釋の方面に於ける從來の研究の著しい缺陷は、一は語釋に直接關係ある事項、例へば用字法假名遣語法などの研究がまだ十分發達しなかつた爲に、當然顧慮すべき條件を顧慮しなかつた事と、一は語釋研究の基礎とし又は參考とすべき資料が乏しく、勢、臆斷に陷らざるを得なかつた事とにあるのである。

 かやうな事は、その當時の事情としては、誠に已むを得なかつた事であるから、我々は之を以て從來の學者を責めようとするのではない。たゞ、今日に於ては、これ等の點に於て昔時と大に事情を異にするものがある事を述べて、既に殆ど開拓し盡されたかの觀ある語釋の方面に於ても、猶攻究すべき餘地の多い事を明かにしたいと思ふのである。

     二

 まづ語釋に直接關係ある事項の研究について見るに、假名遣については、イエオとヰヱヲ、ハ行の假名とワ行の假名、ジズとヂヅ等の區別が古代の文獻に儼存した事は、契沖以來の萬葉學者の熟知してゐた所であるが、石塚龍麿が發見して、その著假名遣奧山路に説いた、上代の文獻に存する特殊の假名遣、即ちエキケコソトヌヒヘミメヨロの十三の假名の各に於ける兩類の區別の如き、又、奧村榮實が古言衣延辨に説いた、平安朝初期以前の文獻に存するア行のエとヤ行のエの區別の如きは、共に上代文獻の語釋竝に本文批判の一の規準たるべきものであるに拘らず、その眞價は近來に至つてやうやく認められるにいたつたもので、萬葉集研究には、まだ殆ど利用せられてゐないのである。

 又古代語の語法の研究は、本居宣長富士谷成章によつてその基礎が出來、本居春庭、東條義門、鹿持雅澄などの時代によほど進歩したが、明治に入つて、山田孝雄博士の研究にいたつて面目を改め、その後も部分的に次第に開拓されて行つてゐるのであるが、江戸時代の萬葉學者は、春庭義門の時代までの研究を利用したに止まる。今後この方面の研究の進展と共に、語釋の方面に於ても何等かの影響を受くべき事は疑ない。

 其他、近年益精細になつて行く用字法の研究に伴つて語釋の方面もまた進歩を見るであらう。

     三

 次に研究資料の方面に於ては、上代乃至古代の文獻は大體その數が限られてゐるのであつて、その主なものは大概江戸時代の萬葉研究者が利用してゐるが、江戸時代末期から今日にいたるまでの間に新に見出されたものも、かなりの數に上るのであつて、これ等は、まだ全く語釋の研究に利用せられないか、少くともまだ十分利用せられてはゐないのである。

 まづ、萬葉集の異本では、江戸時代の學者が見る事が出來たのは、古葉略類聚鈔と元暦本とであるが、幕末から明治にかけて木村正辭博士が諸本を蒐集せられ、明治の後期以後、佐佐木信綱博士の異常なる熱心によつて、多くの有力なる異本が發見され、且、同博士の盡瘁によつて、諸本の異同を一覽し得べき校本萬葉集の編纂刊行も遂行せられたのみならず、異本中の特に價値多きものは複製せられて、自由に之を用ゐる事が出來るやうになつたのであつて、これによつて語釋上に新しい光を役じたものも少くない。

 又、上代の歌謠を收めた琴歌譜や歌經標式の如き者の發見もあり、風土記や日本紀などの古鈔本も見出されて、語釋の上に有力な參考資料を加へ、正倉院文書も、次第に刊行せられて、萬葉集の言語研究に新しい資料を供してゐる。

 かやうな新資料は、何れもまだ十分利用されてはゐないのであつて、今後の討究によつて、語釋研究の上にもその價値を發揮し得べきものである。しかしながら、今こゝに特に述べたいと思ふのは、漢文の訓點に關する種々の資料である。

     四

 漢文漢字のよみ方として今日までも傳はつてゐる訓讀の語は、和歌の詞や平安朝の假名文に比べて、後世の口語に近い點が多いにも拘らず、平安朝の歌文には既に用ゐられなかつたやうな上代の語や語法を混じてゐることは、周知の事實である(「けだし」(蓋)「あに」(豈)「べけむや」などその例である)。これは、漢文訓讀の由來が甚古い爲であつて、上代に於て、漢文漢字の譯語として用ゐた、當時の口語に於ける語や語法が、既に口語として用ゐられなくなつた時代に於ても、猶漢字の訓として漢文訓讀の場合に襲用せられた爲である。中にも、日本紀や文選遊仙窟などは、かなり古代の訓點が後世までも殘つてゐて、中に上代の語を存してゐる爲に、契沖の如きは代匠記中に屡之を引用して萬葉集の語義を釋してゐる。

 實際、比較對照すべき資料に乏しい上代の文獻に於ては、その語義を明かにするに屡困難を感ずるが、もしその語が漢文漢字の訓として見出されたならば、その漢文漢字の意義によつて、容易にその語の意味を解する事が出來るのであるから、漢文漢字の古訓を知るべき諸種の資料は、語釋の上には極めて大切なものであるといはなければならない。

 それでは、かやうな資料としてはどんな種類のものがあるかといふに、その主なるものは凡そ三種ある。一は漢字漢語の辭書であり、一は佛典の註釋書たる音義の類であり、一は漢文に訓點を附した所謂點本である。

 漢字漢語の辭書として現存せる最古のものは、空海の篆隸萬象名義であるが、これは漢文で漢字の發音と意義とを註しただけで、訓を擧げてゐない。ついで寛平昌泰の頃、僧昌住の撰した新撰字鏡がある。主として漢文で各字の音義を註したが、これには處々萬葉假名で訓が加へてあり、又、漢字の熟語を集めて訓を附した部分もある。全部十二卷であるが、この中から訓のある字のみを拔萃した略本がある。

 承平年中の作と認められる源順の和名類聚鈔(和名抄)は、分類體の漢語辭書といふべきもので、各種の物名を漢字で出して漢文の註を加へ、萬葉假名でその和名を示したものである。殆ど名詞ばかりであつて、其他の語は極めて稀である。

 新撰字鏡に似て、一層廣く古訓をあつめたものは類聚名義抄である。院政時代に佛家の手に成つたものらしく、音は反切で註し、意義は漢文で註した所もあるが、それは稀で、主として片假名で訓をあげてゐる。その訓は甚豐富であつて、實に和訓の集大成である。

 又平安朝末に橘忠兼の編した色葉字類抄は、音又は訓から漢字を檢出するやうにした伊呂波引の辭書で、漢字とその訓とを知る事が出來るものであるが、訓は、類聚名義抄などに比すれば、あまり多いといふ事は出來ない。二卷本三卷本十卷本と、三種の異本があり、二卷本と三卷本は原著者の作であるが、十卷本は後世の増補である。

 以上は何れも平安朝のものであつて、その著作年代が古く、古訓を知るに恰好の資料であるが、中にも類聚名義抄は收むる所最廣く、古訓の寶庫ともいふべきである。

 次に音義の類は、主として或佛典中の難讀難解の語を抄出してその發音と意味とを註したもので、既に奈良朝から作られ、初は、支那に於ける一切經音義などと同じく、漢文で註したが、次第に訓を加へるやうになり、遂には、假名で音訓を註するのみのものも出來た。語は、佛典の本文にあらはれた順序で排列してある故、檢索には不便であるが、古くから作られただけに古語を傳へてゐる。今日までに知られた和訓のある音義書で、時代の古いものは、八十卷花嚴經音義(奈良朝書寫)、大般若經音義(石山寺藏)、祕音義(空海作)、金光明最勝王經音義(承暦二年成)、花嚴經音義(天治本一切經音義と合冊)、法華經單字(保延二年書寫)などがある。佛典ではないが、宇多天皇御筆の周易抄なども、これと同種のものである。

 次に、漢文に訓點を加へた諸書即ち點本は、江戸時代に刊行せられたものだけでも夥しい數に上るのであつて、中に古訓を存するものがあり、殊に、因明唯識の如き、奈良の諸宗に於て古くから講ぜられた佛典には、甚古風な訓が附いてゐるものもあるが、概して後世に訓點を改めたもの多く、古代の點本にくらべれば、古訓が失はれたものが少くない。古代の點本は、寺院や名家に祕藏せられて、まだ世に知れないものが多いが、既に知られてゐるものでも、かなりあり、現存するものは、隨分多數に上るやうである。中に、平安朝のもの、ことにその初期のものも相應にあつて、これ等を調査すれば、多くの古訓を見出す事が出來るであらう。

     五

 以上各種の資料は、古代語の語義研究には缺くべからざるものであるが、これらの資料が萬葉集の語釋に、どれほど利用せられたかといふに、辭書の類では、和名抄は古くから流布して、契沖はじめ江戸時代の註家も之を盛に用ゐて居り、新撰字鏡は、その略本が眞淵の時代にいたつてはじめて國學者の間に知られ、後享和三年に刊行されて、それより次第に利用されるに至つた。しかし十二卷本は、安政の頃はじめて鈴鹿連胤が見出したのであつて、その訓は異本とは出入異同があるから、必參照すべきものであるが、傳寫本が極めて少く容易に得がたいものであつた。類聚名義抄は、伴信友がはじめて東寺觀智院の本を寫し、異本を以て校合を加へてから世に知らるゝにいたつたが、これも流布するものが少なかつた。色葉字類抄は、元祿十三年今井似閑が中院家の十卷本を寫してから、多少世に傳はつたが、三卷本は、黒川春村が之を見出してはじめて世にある事が知られたもので、二三の轉寫本があるに過ぎず、前田侯爵家の三卷本(但し中卷を缺く)や二卷本が世に知られたのは明治以後の事である。

 かやうに和名抄以外の諸書は、江戸時代になつて次第に見出されたもので、しかも、略本の新撰字鏡の外は、殆皆江戸末期の發見に係り、且、傳本も極めて稀であつた爲、江戸時代の萬葉學者に利用されなかつたのみならず、明治以後もあまり用ゐられてゐないのであつて、唯、近藤芳樹の萬葉集註疏に處々に類聚名義抄や色葉字類抄を引用してゐるのを異とする位である。

 しかしながら、この種の資料の發見が、いかに語釋の上に新しい光を投ずるかは、次の一二の例によつても推測する事が出來よう。

 萬葉卷十七にある、大伴家持が飼養した鷹の逸し去つたのを惜んでゐる時、夢に、少女があらはれて近く歸つて來る由を告げたので、歡んで作つた長歌の反歌の一つである

(コヽロ)()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()(卷十七、四〇一五)
の「須可奈久」を代匠記には「すきなくにて透間なく鷹をこひおもふなり」(初稿本)又「スカナクハ透ナクナリ」(精撰本)と解し、略解には「無困所(ヨスガナク)の略語なるべし」と解したが、古義にいたつて、はじめて新撰字鏡に「嘻囉、心中不悦樂㒵、坐歎㒵、須加奈加留佐久佐久志」とあるを得て、その眞義を明かにする事が出來たのである。(この新撰字鏡は略本によつたもので、十二卷本には「嘍囉、獨坐不樂皂湏加奈志乎佐奈志又佐久々志」とある。)

 又、大伴池主が家持に戲に贈つた四首の歌の一つなる、

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()(卷十八、四一二九)
の「於能等母於能夜」を、代匠記には「おのれが袋ともおのれが袋ともやとなり」(以上初稿本。精撰本も同説)と解し、略解には「オノトモは、能と母と相通へば、オモテモと言ふ心ならん。(中略)裏返して見れば、表も表よ、裏さへに綴りて惡ろき袋かなと言へるなるべし」と釋し、古義は「岡部氏説に表も表よとなりといへり。(中略)表も表にて、裏さへも種々の絹を繼交へてうるはしく宜しく縫製らせて賜へりと、美たるなるべし」と説き、近く井上通泰博士の新考には、「オノシトモオノシヤの二つのシを省けるにて、當時オノシといふ俗語又は方言の形容詞ありしならむ。そのオノシはオドシの訛にて驚くべしといふことにや」と説かれてゐるが、何れも、根據のない臆測の説に過ぎない。然るに木村正辭博士は好古雜誌第九號(明治十五年三月發行)に「於能といふ詞の考」を載せて、この於能を新撰字鏡に「吁、虚于反疑怪之辭於乃」とあるによつて解し「こは池主より家持卿へ針袋をぬひてたまはらんことを乞て、それが料の絹布などをおくりたるに、家持卿そのおこせたる本物を貿易して、よき絹布してぬひてあたへたるによりて、池主のそを見てうたがひあやしみおどろきたるよしなり」と説いたのであつて、こゝにはじめて根據ある正しい解釋が得られたのである。吁は説文に驚語也と註し、玉篇に疑怪之辭也驚語也とあつて、新撰字鏡の註は玉篇から出たものと思はれる。このオノの語は、類聚名義抄に吁の字の訓にオフと誤寫されて出て居り、又書經の訓に吁をみなオンノとよみ、以呂波字類抄にも「吁オンノ疑怪之辭也」と見えてゐる事を木村博士は指摘してゐる。かやうに、オノは、漢文の訓點として、すこし變化したオンノの形で近世まで殘つてゐたのである。(寛永五年刊行の安昌點の五經には、書經堯典大禹謨等の吁を皆ヲンノと訓してゐる。)

 これ等の一二の例を以てしても、古訓を蒐集した辭書類が、いかに萬葉集の語釋に用立つかを見ることが出來ようと思ふ。しかるに從來の諸家が用ゐたのは、新撰字鏡と和名抄であつて、古訓の寶庫ともいふべき類聚名義抄や色葉字類抄の如きはまだ殆ど利用されてゐないのであるから、今後この方面の討究を進めれば必得る所少くないであらう。

     六

 次に音義の類は、八十卷花嚴經音義、金光明最勝王經音義などが、幕末から明治初年に二三の學者に知られてゐた外、大概近來になつて見出されたものであつて、今日にいたるまで殆ど萬葉集研究に利用せられてゐないのであるが、これ等の中には、萬葉集に極めて近い時代のものもあつて、今後の研究に有力なる資料となるであらう。

 更に佛典漢籍の點本については、既に契沖が、日本紀や文選遊仙窟などの訓點を萬葉の語釋研究に用ゐてゐるけれども、これは江戸時代の版本に存する訓點によつたものである。一層古い時代の訓點を見るべき古鈔の點本にいたつては、極めて少數は江戸時代に見出されて、模刻までされたものもあるが、主として、明治以後、假名や古代國語の研究者が之に注目して探索してから世に知られたもので、探るに隨つて見出され、今後見出されるものも多數に上る事と思はれるが、中には奈良朝に接する時代のものまで現存して、當時の訓を傳へてゐる。勿論これ等の古點本に存する訓は、必しも全部新奇なものでなく、古辭書類に見えるものが大部分を占めるが、しかし間々容易に他に見出されぬものもあり、さなくとも辭書と相俟つて難解の語の解釋に根據となり參考となるものもあるのである。今左に私自身が見出した一二の例を擧げて之を明かにしたいと思ふ。

     七

 萬葉集の中に「とりみる」といふ語がある。そのあらゆる用例は次の通りである。

(一)(クニ)()()()()(チチ)()()()()()(イヘ)()()()()(ハハ)()()()()()(ヨノ)(ナカ)()()()()()()()()()()()()()(ミチ)()()()()()()()()()()(ナム)(卷五、廿八オ、八八六。筑前國司守山上憶良敬和爲熊凝述其志歌六首并序)
(二)(イヘ)()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()(卷五、廿八ウ、八八九。同前)
(三)今年(コトシ)(ユク)(ニイ)(サキ)(モリ)()(アサ)(コロモ)(カタ)()間亂(マヨヒ)()許誰(タレカ)(トリ)(ミム)(卷七、廿五オ、一二六五、雜謌、臨時)
(四)(タナ)(ハタ)()()()(ハタ)(タテ)()(オル)(ヌノ)()(アキ)(サリ)(コロモ)(タレカ)(トリ)(ミム)(卷十、廿八オ、二〇三四、秋雜歌)
(五)()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()(卷十四、廿三ウ、三四八五、相聞)

 これ等のトリミルに關する諸家の説を見るに、代匠記には、(一)及(二)のを「執看まし」で「取まかなひて看病せまし」の意であるとし、(三)を「麻衣の肩のまよひてやるゝをも誰かをぎぬふ人あらむと防人の行を見てあはれびてよめるなるべし」と解し、(四)を「孰取見とは彦星こそ取見めの意なり」とし、(五)を「身にそふ妹は面影なり依て見かねと云へり」としてゐる。即ち(一)乃至(三)では「取りまかなふ」の義とし(四)(五)では「取つて見る」の義としたやうである。略解は、(一)(二)を「とりあげ見る」であるとし、(三)を「誰とりあげんといふ也」とし、(四)を「彦星ならで誰か着て見んといふ也」と解し、(五)を「身に添ふべき妹を見難くて」と解した。即ち、これは、すべてを「取つて見る」の義としたやうである。古義には特に「取見る」の語義を釋した所はなく、(二)については、「家にあつて母親がいかにぞと云て吾を取見ば慰むる意はあらましものを」と解し、(三)は「誰あつてか取見て(ケガレ)(アカヅ)けば洗ひ、(ホコロ)び破るればぬひなどせむ」であるとし、(四)は「彦星ならで孰か取見て服むぞ」と云つたのであらうとし、(五)は「身に親く取り見る事を得ざるよしなり」とした。大體「取つて見る」の義に解したらしいが、(一)乃至(三)は、いくらか違つたやうに見える。井上博士の新考には、(一)に「トリミルは世話する事なり」と釋し、(三)も「世話する事にて、ここにては繕ふ事なり」とし、(四)も同義とし「今ハ秋ニナレバ彦星ヲ待ツトテ他事ヲ願ミネバ機ノ世話ハ誰ガスルダラウといへるなり」と解した。たゞ(五)だけは「トリ見のトリはたゞ輕く添へたるなり。さればこゝのトリ見は世話介抱などいふ意にあらず」として別義とした。武田祐吉氏の新解には(三)の歌を收めたが、これにはトリミルは保護修繕の意とした。契沖の説に近いが、その他の歌の解がない故、他の場合もすべてさうであるかどうか不明である。鴻巣氏の全釋は(一)(二)ともに「手に執つて(病氣を)見る」の意とし、(三)は「誰が手にとつて繕つてやるだらうか」の義とした。其他の歌は、未刊の部に屬する故、何と解せられるかわからない。

 從來の諸説は、大體に於て、トリミルを「取りまかなつてする」或は「世話する」の義とするものと、「取つて見る」とするものと二つあつて、前者の義とするものも、或は(一)(二)(三)の場合にかぎり(代匠記)、或は(一)(二)(三)(四)にかぎつて(新考)、全部をさう解するのではない。之に反して、後者の義とするのは、あらゆる例に及ぶものがあり(略解)、又は(四)(五)或は(五)だけをさう解するのである。然るに、松岡靜雄氏は、「民族學より見たる東歌と防人歌」に於て(五)の歌を

妻に死に別かれたのを悲しむ歌である。トリミは今の語のミトリと同じく介抱の意。連そふ女房の介抱もなし得ないで子供のやうに哭くといふことである。
と解せられた。之を新考の説に合せればあらゆる場合のトリミルを右の如く「世話する」(病氣ならば「介抱する」)の義とする事も出來るのである。

 以上のやうな種々の説があるが、これ等は何れも、前後の關係から推測して得た解釋であつて、他に確實な根據があるのではない。實際「世話する」又は「介抱する」など解するのは、少くとも(一)(二)の例には極めて適切な解釋のやうではあるが、果して許さるべきであるかどうか。疑問であるといはなければならない。

 しかるに、先年私が高楠博士に隨つて高野山で古書の調査をなした時、永仁五年書寫の喫茶養生記を見出したが、その訓にトリミルの語がある事に心づいた。即ち序文の中に、

( ニ)( ノ)耆婆徃()二千餘年末世()血脈( カ)診乎(トリミム)( ノ)神農( レ)()三千餘歳近代之藥味( カ)理乎(コトハラム)
とあつて、診の字をトリミルと訓してゐるのである。喫茶養生記は榮西禪師の著であり、この寫本は永仁五年の書寫で訓も同筆であるからこの訓は鎌倉時代のものであるが、それは決してその時分にはじまつたものでない事は、この訓が類聚名義抄に見えてゐるのによつて明かである。即ち、同書、法上、言の部に、
〓(言+尓) 除刄反 又音〓(車+尓) 又陳、驗也 トフ トム 侯也 ミル タツヌ ウラナフ トリミル ハカリヿ ワサハヒ スチ コヽロミル
とあるのである。(〓(言+尓)は診の俗字である。こゝに引用した文は、印刷の便宜上、略字や異體の假名は皆普通の體に改めた。)この書は院政時代のもので從來の字訓を類聚したものであるから、この訓は平安朝には行はれたものといふ事が出來る。

 今これによつて萬葉集のトリミルを考へて見るに、(一)(二)の歌は、熊凝が旅行中に疾にかゝつて、故郷の父母の事をおもひつゝ死んだ時の心を憶良が詠じたものであるから、「國にあらば父とりみまし家にあらば母とりみまし」といひ「家にありて母がとりみば」といふトリミルを診の義に解すれば、大概該當するやうである。診は支那の古代の辭書に視也とも侯也とも驗也とも註して診察するといふ意味が主であるが、多分昔は、診察と看護とを分離しては考へなかつたであらうから、トリミルも樣子を見、保護を加へる事、即ち看病の意味に用ゐたとしてよからうと考へる。少くとも、診をトリミルと訓した事によつて、トリミルが、只「取つて見る」といふだけでなく、もつと特殊化した意味を有する場合がある事が明かになつたであらうとおもふ。かやうに考へれば、トリミルを介抱すると解する説が、はじめてかなりの確實性を得るのである。(三)の防人の「肩のまよひは誰かとりみむ」のトリミルは、勿論「診」の義とは直接關係がない。しかしながら、これも只「取つて見る」だけでは適切でなく、やはり「世話する」とする方がよいやうに思はれるが、「世話する」といふ意味は(一)(二)に於けるトリミルの看護の意味と共通な點があつて、看護も世話する一つの場合である。診をトリミルと訓したのも、トリミルの一の場合として診の義にあたるものがある爲であらう。かやうにトリミルに世話するといふ義があるものとすれば、(四)の「秋去衣たれかとりみむ」も新考の説をとり、(五)の「身に添ふ妹をとりみかね」も松岡氏の説に隨つて(歌全體の解はもつと違つた説も可能であるが)、共に世話する義に解するのがよくはあるまいか。しかし、これは人によつて意見が分れるであらう。

 要するに、診をトリミルと訓した實例は、萬葉集に於けるトリミルの意義をすべての場合に亙つて解決する事は出來ないにしても、その中の二三の例に對しては、その意味を決定すべき一方の根據とする事は出來るであらう。(右の永仁書寫の喫茶養生記は、東京帝國大學に借用中、大正十二年の震災で燒失した事と思ふが、本文及び訓は大日本佛教全書の遊方傳中に收めて刊行されてゐる)。

     八

 猶一例を擧げよう。

 萬葉集卷五、貧窮問答歌の中に、「のどよふ」といふ語がある。

()()()()()()()()()()(ウチ)()(ヒタ)(ツチ)()(ワラ)(トキ)(シキ)()(チヽ)(ハヽ)()(マクラ)()()()()()()()()()(アト)()(カタ)()(カクミ)()()(ウレヘ)(サマヨヒ)()()()()()火氣(ケブリ)()()()()()()()()()()()()()()()()()(イヒ)(カシグ)(コト)()()()()()()()(トリ)()()()()()(ヲル)()(卷五、三十オ—ウ、八九二)
このノドヨヒの意義は、代匠記に「ヌエノ喉聲ニ鳴コトク貧シキ事ヲ打ウメキテ嘆クヲ……」と釋し、其他の主なる諸註も殆ど異説無く、皆「喉喚ぶ」と解して居る。唯、岸本由豆流の考證には「此歌は貧しきに思ひ屈する事なく清貧を樂しめる意もて詠れしなれば、こゝもその意にて、飯炊く事をもわするゝばかり貧しけれど、それにも屈する事なく、長閑に呼かはし居るにの意なるべし」といつて、「のど」を「長閑」の義と解してゐる。しかし、この解は、前に「憂へ吟ひ」などあるのに調和しないのであつて、甚疑はしく、今日では、「喉喚ぶ」が定説の如くなつてゐるが、この語は他に全く所見なく、唯「ノドヨヒ」の語をその形から「喉喚び」と解しただけで、何等の根據があるものではない。その上、咽喉は、和名抄に「能无度」とあり、又同書に吭を「能无度布江」とあつて、平安朝初期にはノムドといつてゐたのであり、漢文の訓點には、後までもノンドと呼んでゐる。奈良朝には、まだ假名で書いた例を發見しないから明かでないが、果して當時ノドといつてゐたかどうかは疑問である。猶又、奈良朝にはヨの假名に二類の別があつて、與・余・餘の類と欲・用の類とは大概區別して用ゐられて居り、「喚」「呼」のヨブのヨには欲の類を用ゐるのが常であるから、「能杼與比」の「與比」を「喚」の義のヨブと解する事も果して妥當であるか、甚疑はしい(萬葉集中一個所だけ、ヨブのヨに「與」とあてた例があるから、絶對に否定する事は出來ないが)。

 かやうに從來の説は猶疑を容れる餘地を存するのであるが、幸に、近く古點本中に「ノトヨフ」の實例を見出すことが出來た。それは黒板勝美博士が昭和四年頃入手せられて私に示された古鈔本金剛波若經集驗記(唐、孟獻忠撰)の裏面に施された朱訓の中にあるのであつて、楊州高郵縣丞李丘一が死して五道大神の府に到つたが、金剛般若經を書寫した功徳によつて送り返され眞黒な坑の中に落され、驚き怕れて眼を開けば棺の内にあり、困憊して久しく物いふ事が出來なかつたが、男女の哭する聲が聞えたので、細々とした聲で、「哭するな、今活きかへつた」と告げた事を敍する文に [#金剛波若經集驗記1画像] 金剛波若經集驗記 [#金剛波若經集驗記2画像] 同裏面

策推之落黒坑中驚怕眼開乃在 棺内因而久不語聞 男女哭聲細々聲報云莫哭我今得 活(因の字、續日本大藏經本には困とある。恐らくは正しからう)
とあつて、その「細々聲」の文字の裏面に古體の假名でノトヨフコヱと朱書してあるのである。これは、この本の一般の例から見れば、「細々馨」の訓である事疑ない。さすれば、ノトヨフは細々とした力なき聲を發する事とおもはれる。今これを萬葉集の「のどよひ」に宛てて考へてみるに、「竈には烟吹き立てず甑には蜘蛛の巣かきて飯炊ぐ事も忘れて」と、久しく飯炊ぐ事もなく、食ふものも食はないで、餓ゑ疲れてゐるのであるから、物言ふにも力なく細々とした聲を發するといふ意味で「鵺鳥ののどよひ居るに」といつたと解して正しく適合すると思はれる。恐らくはこの解が當を得たものであらう。(「のどよふ」が果して「喉喚ぶ」から出たものかどうかは、まだ定め難いが、それは語源の詮索であつて、語源は、意義が明かになつてから考へるのが正當であり、逆に語源を推測してそれから意義を説くのは屡危險を伴ふことは、我々の經驗が教へる所である。)

 右の金剛波若經集驗記は、平安朝初頭の書寫本(卷子一軸)であつて、全文に、主として裏面に委しい朱訓が施してある。その假名は字體甚古風で平安朝初期又は之に近い時代のものと思はれ、「欲似尚未」の「未」の傍に「イマタシクアルヘラナリ」とあつて、古今集の歌に屡見える「べラ」の形が見えてゐるなど、訓そのものも、平安朝初期のものを傳へたと見られるのであつて、和名抄や新撰字鏡などと大體同時代のものらしく、萬葉集の研究資料として有力なものといふべきである。猶本書には、「流澤滂霑」の「滂霑」にホヒコリと訓してある。これも萬葉にある語であつて、その語釋の參考に供する事が出來る。

 以上は、私が偶寓目した少數の古點本の中から見出した一二の例に過ぎないが、これによつても、古代の點本が、萬葉集の語釋研究の資料として價値あるものである事が知られるであらう。かやうな古點本は、從來の萬葉學者には殆ど利用せられて居ないものであつて、その數もかなり多く、今後も追々に見出されるべき見込があり、既に知られてゐるものでも、多くはまだ精査されてゐないのであるから、今後この種の資料によつて研究を進めれば、必ず得る所が少くないであらう。

     九

 以上述べた所は甚多岐に亙つて、盡さないものが多いが、古來の萬葉集研究中、最開拓された部面である語義の解釋に於ても、猶將來研究すべき餘地多く、その研究には漢文の古訓、殊に古代の點本が有力なる資料である事を明かにするのがこの篇の目的である。猶、かやうな漢文の古訓は、萬葉集の歌を訓するについても重要な資料である事いふまでもない。   (昭和七年二月八日稿)

 

      追記

 この文脱稿後、黒板博士の金剛波若經集驗記古鈔本を寫眞撮影の爲再び拜借して再査する機會を得たが、これは、大矢透氏が假名遣及假名字體沿革史料に載録せられた石山寺所藏の金剛波若經集驗記と同一の本で、黒板博士の本から脱落した上卷の大部分と、下卷中の小部分とが、二軸の卷子本として石山寺に現存するものと考へられる。(石山本は卷初が缺けて題目が無い。大矢氏は上中二卷とせられたけれども、上と下との各一部づつが、それ/″\一軸となつたものであらう。)大矢氏は、石山本を或は唐人の書寫であらうとせられ、又本文に白墨の訓點があるが、剥落して見えにくいのを、裏面にある朱訓によつて推讀して、その訓及び假名を研究せられ、ア行のエとヤ行のエとの區別がある事によつて、その訓を天安以往天長承和に近きものとせられた。黒板本を精査するに、やはり表面に白墨の訓點のあつた痕跡があり、處々その字形の髣髴として窺ひうべき所がある。その假名の字形は、大抵裏面の朱訓と同一なやうである。表面の白墨が剥落し易い爲に、その訓點を加へた人、又は之に近い時代の人が、裏面に朱を以て訓を附したものとおもはれる。ノトヨフコヱの條も、裏面の朱訓と同じ字體の白墨の訓が本文の傍にほのかに見える。

刊行委員附記(略)

底本:「上代語の研究」、岩波書店
   昭和26年10月10日