辭書さま/″\ 「とほしろし考」餘談

橋本進吉

 文學大辭典第二卷の刊行を前に控へて、それだけでさへ手に餘るのに、前から約束の原稿もあつて、身も心も忙しい折柄、本誌の百號記念號に何か書けとの事、迷惑千萬な事であるが、創刊以來編輯に與つてゐる身で、唯一人仲間はづれになるもいかゞと思ひ迷つて居る時、最近刊行の萬葉集論考を奈良の辰巳氏から贈られたので、その中の拙稿「とほしろし考」を讀んでゐる中に、ふと思ひ出した事があるので、それでも書いて責をふさぐ事としよう。

 右の「とほしろし考」は、萬葉集に見えてゐる「とほしろし」といふ語の意義について論じたもので、萬葉の諸註には、契沖眞淵の「大」の義とする説と、宣長久老及び之を承けた千蔭雅澄等の「あざやかなり」「さやけし」「清淨なり」の義とする説とあつて、後説の方が多く行はれてゐるが、實は前説が正しく、且つ、この語は鎌倉時代までも萬葉集に於けると同じ意味で用ゐられた事を論證したものである。

 この研究に從事したのは、かなり古くの事であるが、その際蒐集した資料によると、右に述べた諸註釋書の説の外に、辭書の類には猶ちがつた説があつたのであるが、それは結局誤解に出たものである事がわかつたので、右の論文には載せないでおいたのであつた。しかし、どうしてその誤解が生じたか、又その誤つた説が、後の辭書類にどんなに影響してゐるかを見るのは、多少の興味がないでもなく、また何かの參考にならないでもない。

 私が、はじめて右の研究に手をつけたのは、大日本國語辭典がまだ出來てゐなかつた時分と記憶するが、まづ「とほしろし」の意義を手近の辭書にもとめて、言海には「遠ク著シ。氣高ク鮮ナリ」とあり、辭林には(一)遠くより白く見ゆ「とほしろくさき魚」(二)氣高く鮮かに見ゆ「山高み川——」とあるのを知つた。主な註釋書や辭書と比較した結果、言海の解釋は、雅言集覽に「いちじるくあざやかなる意也」とあるのから出て、多少の修補を加へたもので、辭林の(二)の解も之と同種のものである事がわかつたが、雅言集覽の説は萬葉略解に「いちしろくあざやかに見ゆる事をいへり」とあるに基づくもので、結局萬葉註釋書から出たものである。處が、辭林の(一)の解釋は、言海の「遠ク著シ」とあるに似てゐるやうではあるけれども、實は全く別のもので、註釋書の類には見出す事が出來ない説である。但し、そこにひかれた「とほしろくさき魚」は、契沖も代匠記に引用してゐる日本書紀卷二の「(ツドヘテ)大小之魚(トヲシロクヒキイヲドモヲ)」の訓トヲシロクヒキイヲらしく思はれるが、契沖はこの日本紀の訓を根據として、「とほしろし」を「大」の義と解してゐるのである。

 それでは、どうして、この日本紀の訓から辭林の(二)のやうな解釋が出たかが疑問になるが、これは、幸に谷川士清の倭訓栞によつて解く事が出來た。即ち、同書には、萬葉集無名抄等から「とほしろし」の例を引いた後に「神代紀に大小之魚をとほしろくひきいをともと訓せり。網曳の魚を遠く望めば白くみゆるをいふ成べし」とある。士清はヒキイヲを網引の魚と解し、「とほしろく」を「遠白く」の義として、遠く望めば白く見ゆると解したのである。これが辭林の「遠くより白く見ゆ」といふ解釋の根源になつたと考へられる。

 しかし、この解釋はいかにも不思議である。神代紀のこの條は、海神が彦穗出見尊の失はれた鈎を搜す爲に魚を集めて尋ねた事を述べた處であるが、士清の解釋にしたがへば、引網でひきよせて魚どもを集めたやうに見えるが、もしそんな意味であるならば、「集大小之魚」など書く筈はない。「大小之魚」の訓トヲシロクヒキイヲドモは、あらゆる漢文の訓と同じく原文と語々相當る訓でなければならない。ところが、この訓は、實は少々不完全で、又少し誤のある訓であつた。即ち、トヲシロクは「大」の訓で、萬葉の「とほしろし」と同語であるが、ヒキは「小」の訓チヒサキの終の部分サキにあたるもので、ヒはサの古體字〓(「サ」の古體字)を誤つたものである(日本紀私記には「知比左岐」とある)。士清はヒキのサキである事に心づかず、之を(ヒキ)と解して曳網の魚を聯想し、それに基いて「とほしろく」の意味を考へたのである。かやうにして、倭訓栞の説は一顧の價値もないもので、契沖の説が正しい事がわかるのであるが、しかし萬葉集の解釋には契沖の説が用ゐられず、宣長久老の説が永く行はれたと同じく、辭書に於ては、倭訓栞の説が、宣長久老の説及び之に多少の修補を加へた説と相竝んで明治以後までも勢力を保ち來つたのは不思議といへば不思議である。

 明治以後の辭書で、和訓栞の説をはじめて採用したのは何であつたかまだ確めないが、私の知る範圍で最古いのは、山田美妙の日本大辭書(明治二十六年刊)である。その「とほしろし」の條に、(一)遠ク白ク見エル(二)氣高ク鮮カニ見エルの二つの釋義を擧げてゐる。(一)は倭訓栞の説から出たものであり、(二)は多分言海から出たものであらう。ついで、藤井草野兩氏の帝國大辭典(明治二十九年刊)、棚橋林兩氏の日本新辭林(明治三十年刊)から辭林(明治四十年刊)に至るまで、三省堂出版の辭典には何れも右の二義が竝び擧げられてゐる。その中、帝國大辭典には(一)の例として萬葉集の「やまたかみかはとほしろし」を載せたが、辭林には前述の如く「とほしろくさき魚」を擧げてゐる(辭林は多分和訓栞を參照してこの例を擧げたのであらう。しかし「き魚」が「き魚」となつてゐるのは、その誤を訂したのである)。辭林の後に出た最學問的な辭書である大日本國語辭典も、亦、二つの意義を出して、その「一」に「遠く隔たりて白く見ゆ」の解を擧げてゐるが、これも亦直接間接に和訓栞の説を承けたものらしい(その「二」には多くの實例を擧げてゐるが、「一」には一つも例を奉げてゐない)。

 言泉の初版は明治三十二年に出て、辭林以前のものであるが、これには「氣だかく鮮かなり」「遠くしるし」の譯をあげただけで、和訓栞の説の影響は見えない。處が、増修版(昭和二年刊)には「遠くより白くきらきらと見ゆ。はるかに鮮かなり」とあつて、その前年に和訓栞又は大日本國語辭典の影響が見えるやうになつた。かやうに、もと/\誤解から出た和訓栞の説は、近年になつても辭書の上にその勢力を失はないばかりか、益その範圍を廣くしたやうな形勢さへ見えるのである。ただ異とすべきは、古く(私の知る限りでは最古く)和訓栞の説を採り入れた山田美妙が、舊著日本大辭林に大増訂を施して新に刊行した「大辭典」(明治四十五年青木嵩山堂刊)に於てはこの説を棄てて、唯「離レテ鮮カデアル」と解した事である。

 物集博士の日本大辭林(明治二十七年刊)は、はじめから和訓栞の説は採らず「みわたしひろ/″\とうちひらけたり。みわたしあざやかなり」と解した。この解釋は、宣長や千蔭の説と通ずる所はあるが、また大分違つた點もあつて、一の新解と見る事が出來るが、しかし確實な根據のあるものではなく、又あまり他に影響を及ぼさなかつたやうである。

 かやうにして、「とほしろし」の語釋に關しては、明治以後の主な辭書に於ては、和訓栞の説が一方に勢力を保つてゐると共に、宣長久老以下の註釋家の説及び之から展開した多少の異説が用ゐられて、契沖が提唱し、眞淵が祖述し、近く井上博士が萬葉集新考中に主張せられ、私も研究の結果これ以外に「とほしろし」の眞義はないと信ずるにいたつた「大」の義とする説は、全く見出されないといふ事になるのである。

 辭書編纂は非常な難事である。博搜は勿論必要であるが、採擇に十分の意を用ゐなければ却つて誤を添へる結果になる。一度採られた説は容易に改め難く、先出の書に於ける誤が永く踏襲せられがちである事は、この「とほしろし」の例を見ても明かである。實際一々の語の解釋に於て、確實な斬新な知識を以て全卷を埋める事は、一書の註釋に於ても容易になし難いものである。まして一般辭書に於ては殆ど望み難い事であらう。私は、尊敬する先哲の書の瑕瑾を指摘したやうな結果になつたが、徒に疵を求めて快とするものではない。否、さやうな心持は、現に辭書の編纂に携はつてゐる私にとつては最遠いものである。唯聊か前者の覆轍を省みて自他の警めとしようとするまでである。

底本:「上代語の研究」、岩波書店
   昭和26年10月10日