奈良朝語法研究の中から

橋本進吉

     一

 本居宣長の詞玉緒卷七古風の部は、奈良朝の言語が平安朝の言語に對して有する語法上の特異な點を多くの實例を擧げて説明したものであつて、奈良朝語法研究の基を開いたものとして注目すべきものであるが、中に、「ずば」といふ語の一種の用法が擧げてある。それは、

斯くばかり戀ひつゝあらずば 高山の磐根し()きて死なましものを(萬葉卷二)
後れ居て戀ひつゝあらずば 追ひ()かむ路の(くま)()(しめ)()(わが)()(同)
(しるし)なき物を思はずば (つき)の濁れる酒を飮むべくあるらし(萬葉卷三)
なか/\に人とあらずば酒壺になりにてしがも酒に染みなむ(同)

のやうなもので、助動詞「ず」に助詞「ば」のついたものと思はれるけれども、普通の「ずば」の意に解しては歌全體の意味が通じにくいもので、宣長は之を「んよりは」の意と解してゐる。即、「戀ひつゝあらずば」は「戀ひつゝあらんよりは」の義「物を思はずば」は「物を思はんよりは」の義「人とあらずば」は「人とあらんよりは」の義となるのである。宣長がその實例として玉緒に擧げたのは萬葉集の歌二十四首であるが、かやうな例は古事記及日本紀の歌謠にも見られる。忍熊王が建振熊命の謀計にかゝつて戰敗れて近江の湖に浮び將に入水しようとする時詠ぜられたといふ

いざ()()(ふる)(くま)が痛手負はずば 鳰鳥の淡海(あふみ)の海に(かづき)せな()(古事記卷中、仲哀記)

の歌の「ずば」が即これであつて(日本紀のもこれと同じ歌であるが、すこし語句に相違がある。しかし「負はずば」の句は同じことである)宣長は之をも「んよりは」の義に釋してゐる(古事記傳卷三十一)。猶伊勢物語の

なか/\に戀に死なずば桑子にぞなるべかりける玉の緒ばかり
の「死なずば」も同種の例であるが、これは萬葉集卷十二に殆同一の歌があるから、恐らく萬葉集から出たもので、平安朝の文獻には他に例を見ないから、かやうな「ずば」の用法は奈良朝語法の特徴の一つといつて好いやうに考へられる。

 今奈良朝の文獻に存するかやうな「ずば」の實例をことごとく擧げれば次の通りである(原文はすべて漢字ばかりであるが、讀みやすいやうに漢字と假名とをまじへて書く。但「ずば」の部分だけは原文のまゝにした。「萬」は萬葉集で、その下の數字は卷名、更にその下にある數字は國歌大觀に於ける歌の番號である)。

(1) いざ()()(ふる)(くま)()()()()()()()(にほ)(どり)淡海(あふみ)(うみ)(かづき)せな()(古事記、仲哀記)
(2) いざ()()五十()()()宿禰(すくね)(たま)きはる(うち)()()(くぶ)(つち)()()()()()()()(にほ)(どり)(かづき)せな(日本書紀卷九、神功紀)
(3) 斯くばかり戀ひつゝ不有(あらず)()高山の磐根し()きて死なまし物を(萬葉集卷二、八六)
(4) (おく)れ居て戀ひつゝ不有(あらず)()追ひ()かむ道の(くま)()(しめ)()()()(萬二、一一五)
(5) 吾妹(わぎも)()に戀ひつゝ不有(あらず)()秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを(萬二、一二〇)
(6) (しるし)なき物を不念(おもはず)()(ひと)(つき)の濁れる酒を飮むべくあるらし(萬三、三三八)
(7) (なか)(/\)に人と不有(あらず)()酒壺になりにてしがも酒に()みなむ(萬三、三四三)
(8) 後れ居て戀ひつゝ不有(あらず)()紀の國の妹背の山にあらましものを(萬四、五四四)
(9) 斯くばかり戀ひつゝ不有(あらず)()岩木にもならましものを物思はずして(萬四、七二二)
(10) (よそ)に居て戀ひつゝ不有(あらず)()君が家の池に住むとふ鴨にあらましを(萬四、七二六)
(11) 吾が(おもひ)斯くて不有(あらず)()玉にもが(まこと)も妹が手に()かれなむ(萬四、七三四)
(12) 後れ居て汝が(こひ)()()()()園生(そのふ)の梅の花にもならましものを(萬五、八六四)
(13) 言繁(ことしげ)き里に不住(すまず)()今朝鳴きし雁にたぐひて()なまし物を(萬八、一五一五)
(14) (あき)()()の上に置きたる白露の()かもしなまし戀ひつゝ不有(あらず)()(萬八、一六〇八)
(15) (あき)()()の上に置きたる白露の()かも死なまし(こひ)(つゝ)不有(あらず)()(萬十、二二五四)
(16) 秋の穗をしぬに押し()み置く露の()かも死なまし(こひ)(つゝ)不有(あらず)()(萬十、二二五六)
(17) 秋芽子の枝もとををに置く露の()かも死なまし戀ひつゝ不有(あらず)()(萬十、二二五八)
(18) 長き夜を君に戀ひつゝ不生者(いけらずば)咲きて散りにし花にあらましを(萬十、二二八二)
(19) (つるぎ)(たち)(もろ)()の上に行き觸れてしせかも死なむ戀ひつゝ不有(あらず)()(萬十一、二六三六)
(20) 住吉(すみのえ)()(もり)()(びき)(うけ)の緒のうかれか行かむ戀ひつゝ不有(あらず)()(萬十一、二六四六)
(21) 斯くばかり戀ひつゝ不有(あらず)()朝に日に妹が履むらむ(つち)にあらましを(萬十一、二六九三)
(22) 吾妹(わぎも)()に戀ひつゝ不有(あらず)()(かり)(ごも)の思ひ亂れて死ぬべき物を(萬十一、二七六五)
(23) 白浪の來縁(きよ)する島の荒磯(ありそ)にもあらましものを戀ひつゝ不有(あらず)()(萬十一、二七三三)
(24) 中々に君に不戀(こひず)()(ひら)の浦の()()ならましを玉藻刈りつゝ

  或本歌曰中々に君に不戀(こひず)()留鳥(あみの)(うら)()()にあらましを玉藻かる/\(萬十一、二七四三)
(25) 吾妹(わぎも)()に戀ひつゝ不有(あらず)()苅薦の思ひ亂れて死ぬべきものを(萬十一、二七六五)
(26) 何時までに生かむ命ぞ(おほよそ)は戀ひつゝ不有(あらず)()死ぬるまされり(萬十二、二九一三)
(27) 中々に人と不有(あらず)()(くは)()にもならましものを玉の緒ばかり(萬十二、三〇八六)
(28) 後れ居て戀ひつゝ不有(あらず)()()()の浦の()()ならましを玉藻刈る/\(萬十二、三二〇五)
(29) 家にして戀ひつゝ()()()()()()ける(たち)になりても(いは)ひてしがも(萬二〇、四三四七)

 宣長は以上の諸例に於ける「ずば」を悉く「んよりは」の意と釋してゐる。この解釋は宣長が創めたもので、以前は、「戀ひつゝあらずば」を「戀ひつゝあられずば」(仙覺の萬葉集註釋卷二上)「戀ふるかひの無くば」(契沖の萬葉代匠記初稿本卷二上)又は「こひこひつゝも終にかひあらざらん事と知らば」(眞淵の萬葉考卷二別記)と釋き、例(6)の「物を思はずば」を「物を思はじとならば」(代匠記初稿本卷二上)と釋いて居たのであるが、かやうに「ずば」を普通の意味に解さうとすれば、勢、場合場合に應じていろ/\違つた意味を附け加へなければならないのであつて、あらゆる場合を通じて一貫した解釋を下すことが出來なかつたのである。宣長が之を「んよりは」と釋したのは、或は契沖の代匠記初稿本卷二上「かくばかりこひつゝあらずば」の歌の註に「君をこひこひて戀ふるかひなく物おもひてあらんよりは死にたらんがまさらんとなり」とあるに暗示(ヒント)を得たものかも知れないが、代匠記は、この歌の註の最初に「此こひつゝあらずばといふ詞集の中におほし、こひてもこふるかひのなくばといふこゝろなり」とある通り、「ずば」を直に「んよりは」の意に解したのではない。宣長にいたつて此等の諸例を悉く「んよりは」の意に解して、はじめてあらゆる場合にあてはまる解釋が出來たのである。その手際は頗鮮で、人を服せしむるに充分であつたので、その後に出た有力な萬葉註釋書は、荒木田久老の槻落葉、橘千蔭の略解、鹿持雅澄の古義、橘守部の檜枛から、木村正辭氏の美夫君志及井上通泰氏の新考のやうな近來の著にいたるまで、皆この説に從つてゐる。又古事記及日本紀の「痛手負はずば」の例も、宣長の古事記傳、荒木田久老の日本紀歌解以後專らこの説により、伊勢物語の「戀に死なずば」も藤井高尚の伊勢物語新釋以來この解釋をとつて居る。

 かやうに今日では、これらの「ずば」を「んよりは」の意に解するのは、殆定説のやうになつて居るのであるが、これは果して當を得たものであらうか。なるほど右の如く解すれば、あらゆる場合を通じて穩に解釋出來るのであるけれども、さすればこの「ずば」の意味は普通の「ずば」とは全く違つたものとなる。勿論言語の變遷は同一の語から全然相反する意義を分化せしめる事もあり、もと無かつた意味を附加する事もあり、又、本來全く別な語に同一の形をとらせる事もある。それ故「ずば」に全くちがつた二つの意味があつたとしても、必しも怪しむに足りないかも知れないが、その由來について根據ある説明が出來ない以上は到底論議の餘地なき定論とする事はできない。しかも、かやうな説明はまだ試みられず、たゞ、さう解すれば全體の意味が無理なく穩に解けるといふだけであるとすれば、宣長の説も、まだ常識的解釋の域を脱せざるものであつて、確論として認容するには猶距あるものとしなければならない。

     二

 上述の如く、奈良朝に於ける「ずば」の一種の用法に對する宣長の解釋が、まだ研究の餘地あるものとすれば、我々はまづ之に對する異論をさぐつて考察しなければならない。

 問題の「ずば」を宣長以前の諸家が普通の「ずば」の意に解した事は既に述べたが、宣長以後に於ても之に似た説を提起したものがある。それは僧義門である。義門の玉緒繰分は詞の玉緒の研究を補訂したものであるが、同書にはこの「ずば」を「んよりは」と解する説を「妙解と云べし、仰ぐべし」と賞讚しながら、「又思ふにずばのまゝにてきこゆるやうに(はた)おぼゆるやうを云はゞ」といつて、「かくばかり戀ひつゝあらずば高山の」(前掲の實例(3))の歌を「戀ひつゝあるによりて岩根まきて死にもせぬ」と解き、「後れ居て戀ひつゝあらずば追ひ及かむ」(例(4))の歌を「戀ひつゝあるによりておひしかぬなり、急におひしかぬ故にしめゆひてよ」の意とし、「吾妹子に戀ひつゝあらずば秋萩のさきて散りぬる花にあらましを」を「秋萩のちりぬる花ならであるは戀ひつゝあるによりてなり」の意とし「中々に人とあらずば酒つぼに」(例(7))の歌を「なまじひに人とあるゆゑ酒つぼにならず酒にしまれぬ」の意とし「長き夜を君に戀ひつゝいけらずばさきて散りぬる花にあらましを」(例(18))を「君に戀ひつゝ生けりをるゆゑにさきてちりにし花ならでうき世にうくもあるぞ」の義と解して、「すべてのうらへ返しみれば、いづれも(ひとつ)につらぬきて一首々々の趣はた穩ならずとはなく明にきこゆるなり」といつて居る(玉緒繰分、波卷、四十三丁)。いかにもかやうに解釋すれば言語上の解釋は少しも無理はないけれども、一首全體の意味から見て簡素率直の趣なく、奈良朝の歌として不自然であるとの感を免れ難い。殊に例(4)の歌を「戀ひつゝあるによりて追ひ及かぬ」と解する如き、どうしても附會の説としか考へられず、また古事記の忍熊王の歌の如きも「痛手を負うたから入水しない」に義になつて、道理から考へても、又入水せられる時の歌であると傳へられてゐる點から見ても當を得たものとはおもはれない。要するにこの義門の説は歌全體の意味から觀て承認しがたいのであつて、この點に於ては宣長の解釋の方が數等優れて居るといはなければならない。義門も宣長の説を排するのではなく「素よりそはいとかしこきときざまと思ふうへに又斯ても解せずはあらぬぞといひ試みるのみなるぞかし」といつて居る。おもふに義門は宣長の説の巧なるに服しながらも、殊に語學者として、語學上の説明の出來ないのに不安を感じて別の解釋を試みたのであらうが、それにも充分滿足する事が出來なかつたのであらう。

     三

 以上の諸説は、いづれも前掲の「ずば」の諸例を皆「ず 」と認めて少しも疑はなかつたのであるが、それは「ず 」ではなく「ず 」であるとするものがある。その一つは萬葉集古義の著者なる鹿持雅澄の鍼嚢であつて、同書(上、百七丁表)に「ずは」と標し傍に「んよりはノ意」と註して、萬葉集及古事記に於ける諸例を擧げて居る(古義の本文にもズハと訓して居る)。しかし何故に「ずは」と讀んだか、また「ずは」がどうして「んよりは」の意になるかといふ點については何等の説明をも加へて居ない。

 鍼嚢は唯「ずば」を「ずは」としただけで、その意味については宣長と同じく「んよりは」の意と解したのであるが、こゝにまたその意味についても別の解釋をとつたものがある。それは香川景樹の萬葉集捃解にあげた熊谷直好の説であつて、同書「かくばかり戀ひつゝ不有者(あらずは)高山の」の歌の註に「直好云」として「コハ戀ツヽアラズ高山ノト云バカリノ詞ニテ者ハ例ノ輕ク見ルノ也」とあるもの即是である。これによれば「ずは」は「ず」に輕く「は」を添へただけで、たゞ「ず」といふとほゞ同じ意味になる。これは直好の説であるが、景樹も之に贊し、宣長の説を斥けて「コノ不有者ノ詞ヲアランヨリハト云言也ト云ルハアラズサテハ不ノ字ノ意聞エズ」といつてゐる。

 これと同じ説は語學書の中にも見えるのであつて、黒澤翁滿の言靈のしるべ中篇下(四十八丁以下)「ずは」の條に「ずは(ソヒ)たるにてはいと輕し故にのぞき(サリ)ても心にさまたげなし、然るにずばずはとをまがへ誤りてよく分つ人稀なり」と説き、

今日來ずば明日は雪とぞふりなまし消えずは ありとも花と見ましや

の歌をあげて「ずば」と「ずは」との區別を示し、猶「ずは」の例として

たちしなふ君が姿を忘れずは 世の限にや戀ひわたりなん(萬葉卷二十)
死ねとてかとりもあへずはやらはるゝいといきがたき心ちこそすれ(大和物語)

の二首をあげ、次に萬葉卷二の「おくれ居て戀ひつゝあらずは 追ひしかん道のくまわにしめゆへわがせ」以下、宣長が「んよりは」の意の「ずば」の例とした歌を列擧して、「此類を昔より誰も/\ずばとよみて種々の説をなせども皆あたらず、つら/\考ふるに集中に此辭いといと多かるを大方はの字を(カケ)り又たま/\假名書なるもの字を書きたれば必清て(ヨム)べくして濁るべき理なし、又濁る時は其心もおだやかならず、(スム)時はいづれの歌も貫きて心明らかに聞ゆ、いづれもかの(キエ)ずは(アリ)とも花と見ましやのずはと一にしてはいと輕く添たるものなり、されば文字をのぞき去て見ればいよゝ聞え(ヤス)し」と説いてゐる。又、物集高世の辭格考抄本下「不の活辭」の條下(二丁以下)にも、まづ「んよりは」と解する宣長の説をあげて「意はさにて聞ゆれどさやうにいふズバの格心得がたし」と評し、次に前に掲げた繰分の説を出して「ひとわたりきこえたるやうなれどもさはいひがたきものあればひがこと也」と斥け、さて自説を出して『されば考ふるに古事記中の「いざあぎふるくまがいたで淤波受波にほ鳥のあふみの海にかづきせなわ」の歌も萬葉のともはらおなじよみやうなれどもをばすみてズバとはにごりたらず書紀なるも孺破とあるにてしるべし(こゝに次のやうな割註がある「も清音の字也但濁音のはすみてはよむまじけれど清音のはにごりてもよむべきあるおほかたの例はさりながらこはそのかぎりにはあらずかし」)されば上のズバどもゝこれに准へてバをばすみてよむべし(割註に「萬葉のもおほく清音の字をかきたるなり」)そはこゝの連用のズの三段辭の一のハにかかれるのと心得て也、さ心得ればいづれの歌も何のむつかしきこともなくやすらかに聞ゆるをや、さるは「見あれど」「きかあらめや」を「ミズハアレド」「キカズハアラメヤ」などいふたぐひにてハはかろくそへたるなれば假にのぞきて「かくばかりこひつゝあらず高山の云々」「しるしなきものを思はず一杯の云々」「おくれゐてこひつゝあらおひしかん云々」「ふるくまがいたでおはずにほ鳥の云々」とよみて心得べし』と説いて居る。連用のズとは「絶え行く」「思は聲を擧ぐ」のやうに打消の助動詞「ず」が下の用言につゞくものを言ひ、一のハとは助詞のハをいふのである。

 以上の諸説のうち、捃解にある直好の説は至て簡單で唯結論を述べただけであるが、言靈のしるべ及辭格考抄本の説は説明の順序方法に多少の相違はあるが、共に文字の用法からして「ずば」の「は」を清と斷じ、傍例によつて「は」がただ輕く添へられ之を除き去つても意味に重大な變化を來さゞるものある事を證して、「痛手負はずは」「戀ひつゝあらずは」を單に「痛手負はず」「戀ひつゝあらず」の意味であると論じたのである。この解釋は語學上の説明も容易に出來、一首全體の意味も穩當であつて、宣長の説よりも一層すぐれたものと認められる。さうして自分がこれらの説と關係なく全く獨立に研究を試みた結果も亦同じところに歸着したのである。

     四

 自分は前からこの種の「ずば」を語法上の一疑問として、その性質を明にしたいと望んで居たのであるが、今より十數年前(明治四十二年頃)專ら奈良朝語法の研究に從事して居た時、たま/\萬葉集中に左の如き「ずば」の例を發見した。

たちしなふ君が姿を和須禮受波(わすれずば)世の限りにや戀ひわたりなむ(萬二十、四四四一)

これは上總國朝集使大原眞人今城が京に向つて出發する時、郡司の妻女等が餞に詠んだ歌であるが、萬葉集古義などにはこの「和須禮受波」を「わすれずば」とよみ「忘れなかつたならば」の義に解して居る。しかしながら「一生の間戀しく思ひつゞける事でせう」と別を惜む詞に「もしあなたの御姿を忘れなかつたならば」と條件をつけるものが何處にあらうぞ。この解釋の不穩當である事は何人も疑はないであらう。しからば誤は何處にあるかといふに「たちしなふ君が姿を忘れず」の句も「世の限にや戀ひわたりなむ」の句も共にその意義明白であつて、他の解釋を容れる餘地がない。もし誤があるとすれば「たちしなふ君の姿を忘れず」を假定的のものとして、「世の限にや戀ひわたりなむ」の條件とした點、即「ずば」といふ語形式の解釋に在るに違ひない。しかるに、この「ずば」は普通の意味に解すれば古義の如く解釋するの外なく、又宣長が一種の「ずば」を解したやうに「んよりは」の義とすれば全然意味を成さなくなる。そこで原文を檢するに、このところは「和須禮受波」とあつて、文字から見れば必しも「忘れずば」と讀まなければならないのでなく「忘れずは」と讀む事も出來るのである。萬葉集に於ける文字の用法からすれば、「波」は清音に用ゐるのが常であつて、唯、濁音に讀まなければ意味が通じない場合に限つて濁音に讀むのであるから、之を濁音によんで解釋に苦しむ今のやうな場合には、清音によむ方が寧合理的である。清音とすれば「忘れずは」とよまなければならないが、それでは、この「忘れずは」は何と解すべきであらうか。

 「忘れずは」の「は」はどうしても助詞と解するの外ない。「ず」は奈良朝に於ても連用形かさもなければ終止形であるが、助詞「は」は如何なる場合にも終止形についた例が無いから、「ず」は必連用形でなければならない。さうして、連用形の用言又は助動詞に「は」がついた場合は、たゞ「は」の意味が附け加はるだけで、連用形それ自身の意味職能は少しも變化せず、隨つて連用形をとつて居る用言又は助動詞の他の語に對する關係は「は」があつても無くても何等の相違を來さないのが常である。例へば「過ぎは行けども」「善くはあらず」「賜ふべくはあれど」等に於て、「は」は「過ぎ行けども」「善くあらず」「賜ふべくあれど」と下の用言につゞくべき用言又は助動詞の連用形についたもので、「は」を省いても「過ぎ」「善く」「賜ふべく」等の意味職能は少しも變化を受けないのである。右の諸例は下の用言に直につゞくものばかりであるが、他の語を隔てゝ用言に續く場合にも亦同樣である事は次の例によつても知られよう。

見ずもあらず見もせぬ人の戀しくは あやなく今日やながめくらさむ(伊勢物語)

これは「見もせぬ人の戀しく、ながめくらさむ」とつゞく「戀しく」に「は」がついたもので、その「戀しくは」は「あやなくけふや」の語をへだてゝ「ながめくらさむ」につゞいて行くのである。この場合に假に「は」を省いても「戀しく」の意味及下の語に對する關係は少しもかはらない。

 「ずは」の性質がかやうなものであるとすれば「忘れずは」は「忘れず」と大體同じ意味になる。否、他の語句に對する關係に於ては「忘れず」と全然同じことになる。さすれば、かの歌は大體「あなたの御姿を忘れ(又は忘れずして)一生の間戀しく思ひつゞける事でせう」の義となつて、人を送る歌としては極めて適切なものとなるのである。こゝに於て、「忘れずば」が誤訓であつて「忘れずは」と解するのが正當である事、明瞭であつて少しも疑を容れない。

 かくの如く、從來「ずば」と解せられてゐたものの中に、實は「ずば」でなく「ずは」であつて、「ず」又は「ずして」の義と釋かなければならない例があるとすれば、宣長が「んよりは」の義に解した一種の「ずば」の諸例も亦かやうに解する事が出來ないであらうか。

 まづ、前に掲げたこの種の「ずば」のあらゆる實例について「ずば」にあてた文字を見るに古事記には「受波」とあり日本紀には「孺破」とあり萬葉集には卷五に「殊波」、卷二十に「受波」とあり、他はいづれも「不—者」とある。古事記では「波」は專ら清音に用ゐ、日本紀でも「破」は清音に用ゐる。萬葉集では「波」は多く清音であり、「者」は清音が多いが濁音にも用ゐる。古事記は清濁の別が嚴重であり、日本紀も大概清濁をわかつて居る。萬葉集は清音の假名を濁音に用ゐる事もあるから一概に論ずる事は出來ないが、右の「ずば」の諸例に於ては必濁音によまなければならない文字は一つもないのであるから、紀記の例に準じて清音とすべきである。さすれば「ずは」と讀むのが正當であつて、「ずば」とよむのは寧違例である。

 かやうに前掲の諸例皆「ずは」であるとすれば、その外形は「忘れずは」の「ずは」と全く同一になるのであるが、それではその意味も之と同じく「ず」又は「ずして」の義と解したならばどうなるか。前に擧げた諸例について檢するに、(1)及(2)は「痛手を負はずして淡海の海に入水しよう」の義となり、(3)は「これ程戀ひ/\て居ないで(自分も同じ旅路に出立ち險しい山路に行きたふれて)岩を枕にして死なうものを」の義となり、(4)は「遺つて居て戀ひ/\て居ないで後を追うて行かう。路の角々に目標をしておいて下さい」の義、(5)は「吾妹子に戀ひ/\て居ないで、咲いて散つてしまふ萩の花のやうに死んでしまつたがよからうものを」の義、(6)は「甲斐のない物思ひをしないで濁酒の一杯も飮むがよささうだ」の義、(7)は「なまなか人間となつてゐないで酒壺になりたいものだ。さすればいつも酒びたりになつて居られよう」の義となり、其他の諸例も皆同樣であつて、一首一首の意味が少しも無理なく穩に解せられるのである。この解釋は語學上の説明にも困難を感ぜず、歌全體の上から見ても附會の厭なく趣を損ふ虞もない。どの方面から見ても穩當であつて、まさしく正鵠を得たものと思はれる。

 かやうにして宣長が「んよりは」の意と解した一種の「ずば」は實は「ずは」であつて、「ず」又は「ずして」の義と解すべきものである事が明かになつた。されば、宣長の解釋は勿論誤であるが、しかも宣長の説が語學上の説明はともかく、意義の解釋に於ては甚だ適切であつて當を得たもののやうに見えるのは何故であるかといふに、これは同じやうな思想をあらはす相似た二つの表現法があるからである。

(甲)汽車で行かないで船で行くがよい
(乙)汽車で行くより船で行くがよい

 この二つはつまり同じ事を言つたのであるが、違つた表現法を用ゐたもので、言語としては同じではなく、「行かないで」が「行くより」の意味を有するのではない。問題の「ずば」の諸例は(甲)の表現法を用ゐたものであるが、(乙)の表現法を用ゐたものも亦萬葉集中に存するのであつて、

玉きはる命にむかひ戀ひむゆは君が御船の梶柄にもが(萬八、一四五五)

の如き正に是である。宣長が詞玉緒(卷七、三十一丁)にこの歌をあげて

此「戀んゆはと「戀つゝあらずはと同じ意にて一首の趣もずば とよめる右の歌どもと全く同じきを思ふべし

といつて居るのは、此の二つを混同して、(甲)を(乙)の意味に解釋したのであつて、言語の解釋としては失敗であるけれども、一首全體の意味は、略同じ處に歸着するのであるから、その説が正當なものとして多くの學者に認容されたのである。さうして我々も亦歌全體の解釋としては宣長の説にも採るべき點がある事を認める。即、宣長が「ずば」を「んよりは」の義と釋したのは、此等の歌に、二つの場合を比較して彼よりも寧此を選ぶといふやうな意味がある事を認めたのであつて、かやうな趣は、たしかにこれ等の歌の思想中に存するのである。それ故「ずは」を我々の説の如く解釋する場合にも、「寧」といふ語を加へて「痛手を負はずして入水しよう」「戀ひ/\て居ないで後を追つて行かう」と釋いた方が一層適切に感ぜられる。しかしかやうな比較選擇の意味は(乙)の如き文では「より」又は「ゆ」のやうな比較を示す助詞を用ゐて、一を抑へて他を掲げるといふ方法によつてあらはしてゐるのに對して、(甲)の如き文に於ては「ずして」又は「ずは」の如き打消をあらはす語を用ゐて、一を捨てて他を採るといふ方法によつてあらはしてゐるのである。それ故「ずは」はどこまでも「ず」又は「ずして」の義であつて、「よりは」又は「寧」といふやうな比較選擇の意味は全然無い。ただ「寧」といふ語を添へて解釋すれば、歌全體の思想に存する、一方を斥けて他を撰ぶ意趣を十分に明にして、一層適切な解釋が得られるといふまでである。

     五

 以上は自分が十數年前に試みた獨自の研究の結果であつて、何等他人に負ふ所無いものである。しかるに其後言靈のしるべ及辭格考抄本を閲して、既に兩書に同じ説がある事を知り、自分の考が此等の獨創に富んだ先覺者の見解と一致するのをよろこんだが、自分の研究はその資料に於てもその結果に於ても、此等の人々殊に黒澤翁滿のと甚しく違つた所がないのを見て、事新しく自分の説を發表するには及ばないと考へて敢て之を公にしなかつたのである。然るに、そののち世にあらはれた山田孝雄氏の奈良朝文法史にも、宣長の説を否定しながら、猶「ずば」が「ずは」の誤である事に心づかず、之を普通の「ずば」(否定の假設條件をあらはすもの)として釋するのを適切であるとし、

云々の事を今現に云爲す。若し、出來得べくば之と反對に、即之を否定して次にいふ云々の事を云爲すべきを

といふやうな思想上の徑路を經たものと主張して居り、世間一般には今以て宣長の説が行はれ、言靈のしるべ等の説はあるとも知られないやうな有樣であるので、之に關する從來の諸説と自分の研究の結果とを述べて、言靈のしるべ等の解釋の正當な所以を説いたのである。これによつて奈良朝語法の一疑問たる一種の「ずば」の本體が明になり、その正しい意味が世に認められるやうになれば幸である。

底本:「上代語の研究」、岩波書店
   昭和26年10月10日