允恭紀の歌の一つについて

橋本進吉

 日本書紀卷十三、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の十一年の條に、衣通郎姫の

とこしへに君も逢へやも勇魚(イサナ)(トリ)海の濱藻の寄る時時を

といふ歌を載せてゐる。この歌は箇々の語としては特に難解なものもなく、その意味については別に疑問も起りさうに見えないが、しかも從來の解釋はいづれも首肯し難い點があるやうに想はれるので、一の新しい釋義を提出してみたいとおもふのである。

 それについては、この歌の作られた前後の事情を明にして置く必要があるのであつて、勢、允恭天皇が衣通姫をはじめて召された時から説き起さなければならない。

 衣通姫は、允恭天皇の皇后忍坂火中姫命の妹で、絶世の美人であつたので、天皇は、皇后の好み給はぬのを、策を設けて皇后をして之を奉らしめ給うたのであるが、衣通姫は、姉君の嫉を懼れて度々の天皇の御召にも應じなかつたが、遂に已むを得ず命に隨ひ奉つた。併し天皇は皇后を憚り、別殿を藤原に造つて居らしめ給うた。その翌年、即、天皇即位の八年二月、天皇が藤原に幸して、密に衣通姫の樣子を御覽になつてゐると、姫は天皇の御出になつたのを知らず、つれ/″\と獨居て天皇を戀ひ奉つて、

吾がせこが來べき宵なりさゝがねの蜘蛛の行ひ今宵しるしも

と口ずさまれたので、天皇もその眞情に感じて、

さゝらがた錦の紐を解き()けて數多は寢ずに唯一夜のみ

とお歌ひになつた。あくる朝、天皇は、井の傍の櫻を御覽になるにつけても、

花くはし櫻の愛でこと愛でば早くは愛でず我が愛づる子ら

と歌つて、相見る事の遲かつたのを嘆じ、深い御いつくしみの情を示された。然るに、皇后は之を聞いていたく恨まれたので、衣通姫は、皇宮に近く居て日夜天顏に咫尺し奉りたいが、吾が姉なる皇后が自分の故に天皇を恨み奉るは甚心苦しいから、皇居を離れて遠くに居りたいと御願ひしたので、天皇は河内の()()に宮を築いて衣通姫を居らしめ、それより後は屡和泉國日根野に遊獵に出て立たれ、途すがら茅渟宮に御立寄りになり、衣通姫にお會ひになつたのである。かくて、翌九年には、二月八月十月と三度も茅渟宮に行幸になつた。

 然るに、その翌年(十年)正月又もや茅渟宮に行幸あらせたので、皇后は、自分は露ばかりも妹を嫉むのではないが、度々行幸になれば百姓の苦となる故、願くはあまり屡御出ましにならぬやうとお諫めになつたから、それより後は行幸も稀になつた。その翌年(十一年)三月にいたつて茅渟宮に行幸があつた時、衣通姫が歌はれたのが、即最初に掲げた「常しへに君も逢へやも」の歌であつて、天皇は之を聞いて、この歌は他人に聽かせてはならない。もし皇后の耳にはひつたならば、必ひどく恨むだらうと仰せられた。それで、その時の人が濱藻を「なのりそ」と名づけたと傳へて居る。

 右の歌の由來に關して書紀の傳ふる所は右の通りであるが、今この歌を原本の形のまゝに録すれば、次の如くである。

等虚辭陪邇枳彌母阿閉椰毛異舍儺等利宇彌能波摩毛能余留等枳等枳弘

「とこしへ」が「とこしなへ」と同じく常住不斷の義であり、「きみもあへやも」が「君も逢へやも」で、君も逢ひ給へかしと願望する義であり、「いさなとり」が海の枕詞であり、「うみのはまものよるとき/\を」が「海の濱藻の寄る時々を」の義である事は、古來の諸註の一致する所である。しかるに、この歌全體の旨趣については諸家の説必しも一致しない。契沖は「濱藻ノイツトナク來依ル如ク常ニ我方ニ依來テ逢タマヘトナリ」と説いてゐる(厚顏抄中、契沖全集第五卷三四頁)。即、海の濱藻の時々に來依るのを常に天皇が御出になるのに喩へたものと考へたのである。谷川士清は全くこの説を襲踏してゐる(日本書紀通證第十八、八丁)。荒木田久老は最後の句に註して「依時々也。濱藻の海邊に來依るが如く、時々われに來依てあひ給へといふ意也」といつてゐる。(日本紀歌解中、二十四丁表)「時々」は「折々」の意味であらうが、前に「とこしへにきみにあへやも」即、常にあひ給へと言ひながら、また時々逢ひ給へといふのは、前後撞着するではないか。もしさうでないといふならば、その理由を説明しなければならない。然るに久老は之に對して何等の説明をも加へて居ない。然るに橘守部は、この點について明な解釋を與へて居る。稜威言別卷七(十六丁、全集本第三、二百九十四頁)に

一首の意は、行末長く見すて給はず、君もあひ給へかし。此 ()()の海に西風ふきて、稀々濱藻のより來る如く (あまりに滋からず)たゞをりふしごとにとなり。

と説き、更にその後段にいたつて、

抑衣通姫の然か詔ひしは(ワガ)()(オト)として姉 皇后の()(オモヒ)を痛めては、姉妹の間にしてあるまじき事とおぼして和泉國まで遠そき給ひたるに、猶あまり屡問給ふがうたてさに如此(カク)しげ/\問せたまはすな、海の濱藻のたまさかに依來る如くに只時々に(トヒ)來給ひて、皇后の御恨みを休め長く(トコ)しくに相變らず逢給へと詔るにて、今俗言に、ほそく長く逢給へと云ほどの意にこそあれ

と説明してゐる。即、「とこしへに」は逢ふ事の何時までも斷絶しないのを言ひ、「時々を」はあまり度々でない事を望んだと言ふのである。

 守部のこの説は、上に擧げた難點を巧に解決したもののやうに思はれるのであつて、今も一般に用ゐられてゐるが、これは果して正鵠を得たものであらうか。

 若し此の歌を、右のやうに解すれば、この歌は、極めて微温的な、至つて穩當なさしさはりの無いものであつて、たとひ皇后の御耳にはひつても少しも差支なく、天皇が「この歌他人に聽かしむべからず、皇后聞かば大いに恨みむ」と懼れ給うた理由が理會し難くなるのである。天皇が斯く仰せられたのは、必、この歌に、もつと強い思慕の情が含まれて居るからであらうと考へられる。かやうな點からすれば、むしろ契沖のやうに「常に依り來て逢ひ給へ」と解した方が適切なやうに思はれる。現に飯田武郷も

一首の意、常住(トコシヘ)(カル)る時なく、いかで君も行幸してあへ玉へかし。此茅渟の海に常に西風吹きて濱藻のより來る如く時々ことに、二六時中にいつも/\かはらず見ましとなり。此後文に是歌不他人云々と憚りたまへるなり。守部の解は宜しからず(日本書紀通釋第四、二二七〇頁)

と言つて居る。

 それでは、我々は契沖及飯田氏の説で滿足出來るかといふに必しもさうでない。契中は「海の濱藻の寄る時々を」を「濱藻ノイツトナク來依ル如ク」と解してゐるのを觀れば、「時々」を「イツトナク」即、「常に」と解したのである。飯田氏も亦、「時々ことに、二六時中にいつも/\」と解してゐる。これは果して正しい解釋であらうか。

 上代の文獻にあらはれてゐる「とき」といふ語について調べてみると、上代の日本人は「とき」は決して常住不變のものとは考へず、常に變轉するものと考へてゐた事が知られる。「時つ風」「時の花」「時しあれば」「時毎にいやめづらしく」「時毎にさかむ花をば」「時ぞともなし吾が戀ふらくは」「ひぐらしは時となけども」「時ならず過ぎにし子ら」「雲にしもあれや時をしまたむ」などの如く、「とき」は、或一定の限られた時間をさすのであつて、常住不斷の意味には却つて「時無し」といつたのである。

三吉野の耳我の嶺に(トキ)(ナク)()雪は降りける (萬葉、卷一) 伊香保風吹く日吹かぬ日ありと云へど()が戀のみし()()()()()()() (萬葉、卷十四)

又、「時々」と重ね用ゐたのも、

()()()()()花は咲けども何すれそ母といふ花の咲き()來ずけむ (萬葉、卷二十)

の如く、決して「常に」の意味ではない。されば「時々」を「イツトナク」又は「二六時中いつもいつも」と解するのは不當である。その上、海濱に藻の寄つて來るのは、風や潮の工合によるものであつて、決して何時でも寄るものではないから、この點からみても穩當とは想はれない。

 かやうに考へ來れば、「時々」はやはり守部の説の如く折々の義であつて「とこしへ」とは反對の意味となり、隨つて「海の濱藻の寄る時々を」は常しへに逢ふ事の譬に引いたものとは解せられなくなるのである。さすれば、契沖や飯田氏の説は到底認容する事は出來ないのである。

 かやうに、守部の説は前後の事情にそぐはぬ所があり、契沖などの説も語句の解釋に不合理な點があるのであるが、これは、從來の學者がいづれもあまり注意しなかつた何處かの語句に誤解がある爲ではなからうか。

 そこで、この歌の語句に、從來の説とはちがつた解釋を下し得べきものが無いかと見るに、必しも無いではない。それは第二句「君も逢へやも」である。從來の註釋家は之を「君も逢ひ給へかし」の義と解して誰一人も疑つて居ない。それは「逢へ」を「逢ふ」の命令形と認めたのであつて、命令の意味の「逢へ」に「やも」の添加する事は、日本紀歌之解以後の諸註に指摘して居るやうに、萬葉集などに例がある。併しながら、「あへやも」の形は、かやうにして構成せられたものばかりかと云ふに、決してさうではない。逢ふの已然形(既然形)に「やも」がついてもやはり「あへやも」となる。かやうな、動詞又は助動詞の已然形に「や」又は「やも」がついて文を終止する例が上代の日本語にあつた事は、次の諸例によつて明である。

たるひめの浦を漕ぐ舟梶間にも奈良のわぎへを忘れて()()()() (萬葉、卷十七) なぐさむる心しなくは天さかる鄙に一日もあるべくも()()() (萬葉、卷十八) ちゝの實の父の尊はゝそ葉の母の尊おほろかに心盡して念ふらむ(ソノ)()()()()() (萬葉、卷十九) 海原のねやはり小菅數多あれば君は忘らす(ワレ)()()()()() (萬葉、卷十四) さゆり花ゆりもあはむとしたはふる心し無くは今日も()()()() (萬葉、卷十八)

此等の諸例に於て、「や」は常に疑問の意味を有し、しかも大概皆反語になつて反對の意味をあらはす。即、「思へや」は「思ふか、否、思はず」、「在るべくもあれや」は「在るべくもあらうか、否、在るべくもなし」の義となる。それ故、かの「とこしへに君も逢へやも」の「逢へやも」も、右の諸例と同樣とすれば、「逢ふのか、否逢ふのではない」と解する事が出來る。さすれば、かの歌は

常始終、君は(私に)お逢ひになるのでもない。あの海の濱藻の時々寄つて來るやうに、唯時々しか御逢ひにならないのであるものを

の義となつて、たまの御出であるから、御ゆるりと歡を盡して御いで下さるやうにといふ意味を含めたものと解する事が出來るのである。元來、衣通姫が、みづから請うて遠地に遷つたのは、姉君なる皇后の嫉を懼れた爲であつて、姫が衷心天皇を戀ひ慕ひ奉つて居た事は、「わがせこが來べき宵なり」の歌によつても明である。然るに、茅渟宮に遷つてからも、初のうちは、天皇は遊獵に事よせて度々衣通姫の許に御出でになつたが、十年正月の行幸の後、皇后が民の煩になるとの理由で屡次の行幸を諫止せられてからは、御出も稀になり、十一年三月にいたつて、甫めて茅渟宮へ行幸になつたので、その間一年以上の月日を隔つてゐる。獨り茅渟宮に居て、久しく御出でのない天皇を戀ひわびて居た衣通姫は、この久方ぶりの行幸を迎へて、必、永く相見ざりしを慨み、たま/\會ふを歡ぶの情に堪へなかつたであらう。この感懷が外に發して、この歌となつたとするのは最自然な解釋である。いかに皇后を憚り懼れたにしても、この場合にさう度々御出でにならないで末永く折々御出で下さるやうにと歌つたとするのは、どうしても人情に遠いといはなければならない。かやうな歌であつたればこそ、天皇は、皇后が聞いて大いに恨まれる事を憂ひて、この歌他人に聞かしむべからずと仰せられたのである。

 かやうに考へ來れば、右の解釋は、語句の釋義にも不合理な點なく、前後の事情にも適切であつて、恐らくは當を得たものであらうと考へられる。

 以上、我々は、「君も逢へやも」の「逢へ」が從來命令形と解せられてゐたのを、また已然形とも解し得る事を認めて別の解釋を試み、この新解釋が、この歌の作られた前後の状勢に照して最妥當なものである事を説いたのである。併しながら、この「逢へ」が、右の如く已然形と解せられると共に、また命令形とも解し得る以上は、從來の説でも、守部の説の如きは、語句の解釋には缺點なく、唯斯く解すれば前後の事情に適合し難い所があるといふばかりであるから、この説もあながち誤謬として斥け難いといふ者があるかも知れない。この點については、自分は猶一歩進んで、「逢へやも」の「逢へ」は必已然形と解すべきもので、之を舊來の諸説の如く、命令形とするのは全然誤であると信ずるのである。それは書紀の原文にこの「逢へやも」の「へ」に閉の字を宛てて居るからである。奈良朝以前の文獻には「へ」に用ゐた假字は二類に分れ、同じ「へ」の假字でも幣覇陛弊蔽敞返遍平等は互に通じて用ゐ、閉背俳杯沛珮などは又互に通用するが、幣の類と閉の類とは決して互に通ずる事なく、その何れの類の假字を用ゐるかは、語によつて一定して居るのである。例へば、()(イヘ)(カヘル)の「へ」には幣の類を用ゐて閉の類を用ゐず、(ウヘ)(タヘ)(ニヘ)の「へ」には閉の類を用ゐて幣の類を用ゐたものはない。動詞の活用語尾ではハ行下二段の()(アヘ)(ツドヘ)などは將然形でも連用形でも共に閉の類を用ゐるが、ハ行四段は已然と命令とは別の假字を用ゐるのであつて、已然は閉の類を用ゐ、命令は幣の類を用ゐて、決して互に混同する事がない。それ故、ハ行四段動詞の語尾「へ」が已然形であるか命令形であるかは、その假字が何れの類に屬するかを見れば明に知る事が出來るのである。右の「逢へやも」は阿閉椰毛とあつて閉の假字が用ゐてあるから、已然形である事明であつて、決して之を命令形とする事は出來ないのである。さすれば、「逢へやも」を「逢へかし」の義と解するのは全く誤であつて、守部の説も到底成立する事は出來ない。

 「へ」の假字に二類の別ある事は、本居宣長の弟子石塚龍麿が、奈良朝の文獻について精査した結果發見したのであつて、龍麿はその著、假字遣奧山路(寫本三卷)の中にその事を述べてゐるが、後の學者の注意を惹かなかつた。自分は、獨立に萬葉假名の用法を研究して龍麿と略同じ結果に到達したのである。さうして自分が右の歌の解釋に疑を插むにいたつたのも、亦その假字の用法を調査して、命令形と解せられてゐる「逢へやも」の「へ」に閉の假字を用ゐたのを見出して不審に感じたからである。若し「へ」の假字に右の區別がある事さへ認容されれば、この歌に關する舊來の諸註の信じ難い事は決定的になるのである。併しながら、龍麿の研究にもまだ不完全な點が多く、自身の研究も之を公にして學界の批判を仰ぐには猶年月を要するであらうから、今日に於ては、まだ一般に認容せられない説と見るべきで、之を根據として下した論斷は、あながちに主張すべきでない。それ故、この篇に於ても、出來るだけこの問題を前提として論述する事を避け、先づ他の方面から考察して、一新説を提出し、その頗有理なるをたしかめ、然る後、假字の用法の問題に論及して最後の決定的の斷案を下す事にしたのである。それ故、假に「へ」の假字の用法に關する我々の説が全然謬であるとしても、猶、この歌に對する我々の新解釋は成立し得べきものであり、且從來のどの説よりも一層妥當なものである事だけは主張する事が出來るのである。

底本:「上代語の研究」、岩波書店