萬葉集語解三則

橋本進吉

 萬葉集を幾度か通讀した際特に注意を惹いた此處彼處の語句について、討究を試みた結果、多少新しい考説を得たものの中から、三箇條を拔き出したものである。國語學を專攻して居る關係上、自然、語法に關する論議が多く、專門家以外のものには興味に乏しいかも知れないが、由來、語法に關する知識の不充分なのは、多くの萬葉集註釋家の通弊であるから、此の方面の研究によつて、少しでも從來の誤を訂すことが出來れば幸と考へて、敢て之を公にすることとしたのである。

     一 いもかここりはあよくなめかも

 萬葉集卷二十、下總國防人の歌の内に

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 右一首猨島郡刑部志加麿(寛永本、三十一丁ウ)

といふのがある。「牟浪他麻乃久留爾久枳作之」については、下河邊長流の萬葉集管見や契沖の代匠記には、「久枳」を莖とみて「群玉に緒をさし通して」と解して居るが、「牟浪他麻乃」を枕詞とし、「久留爾久枳作之」を仙覺抄にしたがつて「(クルル)に釘をさして」と釋した略解及び古義の説の方が好いやうである。「加多米等之以母加去去里波」が「固めてし妹が心は」である事は古來異説が無い。最後の「阿用久奈米加母」については、仙覺抄にはアユクナミカモ(異本には「あるくなみかも」とある)であるとし「ヲトコハサキモリニタチヌレバ、クルニクギサシカタメテ、イモガ心ハシズカニテ、アルキタカフコトモナクナリナントヨメル也」と説いて居るが、後の諸註書には「阿用久」を「危く」と解し「奈米加母」を「無みかも」(管見、代匠記及び古義の説)又は「無けめかも」(考の説)、「無くあらむかも」(考に載せた狛諸成の説)など解して、何れも「危くあらじ」の義と釋いて居る(略解もさうである)。かやうに此の最後の一句の解釋は諸家の説殆皆一致して居るが、自分はまだ大に疑ふべき點があると思ふのである。まづ第一に、「あやふく」が「あよく」となつたとすれば、「やふ」といふ二音節が「よ」といふ一音節になつたとしなければならないが、かやうな音變化は平安朝以後ならばとにかく、奈良朝以往に於ては殆例の無い事である(平安朝以後に於ては、一語中のヤウ、ヤフは、特別の場合の外は皆次第にヨー音の方へ移り行いたのであるが、しかも今日のやうなヨー音になつたのは足利末以後らしい。今日謠曲で危くをアヨークと發音するのはかやうな音變化の結果である。奈良朝以前では「やふ」はyauではなくyafu又はyapuと發音したと認められるから、ヨと變ずるのは困難である)。我々は簡單に「()()の約()なるを()に通はせるなり」(考)と説き去つて安心する事は出來ない。勿論、此の歌は防人の詠んだもので、防人の歌には東國の方言的音轉訛はあるけれども、いかに東國方言でも、かほどの違があらうとは信ぜられない。現に同じ東國の歌に、

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()(萬葉集卷十四、三十一丁オ)

とあつて、「あやふし」は「あやほし」となつて居るが、その「やふ」にあたる部分は「やほ」で、やはり二音節を保つて居る。

 次に從來の説では「あよくなめかも」の「なめ」を「無」の義に解して、此の一句を「危からじ」の義と釋するのであるが、「無し」といふ形容詞が、他の形容詞の副詞形(「好く」「危く」など)に接して打消をあらはすのは、後世の語法であつて、奈良朝以前には決して無い事である(奈良朝以前には「好けくもぞ無き」とは言ふけれども「好もぞ無き」とは言はない。「好けく」は「好い事」の意味で、ク形名詞法とも名づくべきものである)。それ故「あよく」を危くと解すれば、「なめ」を無しの義と解する事が出來ず、「なめ」を無しの義とすれば「あよく」を危くと解する事が出來ない筈である。

 猶又、奈良朝に於ては、「無からむ」を「無けむ」「無けめ」とは云つたが、「なむ」「なめ」といつた例は全く無い。語法上から觀ても、「な」のやうな形容詞の語幹が、すぐ「む」「め」のやうな助動詞につゞくのは異例である。

 かやうに、從來の解釋は種々の難點をもつて居るのであつて、我々は之に滿足する事は出來ないのである。

 そこで他の解釋をもとめて見るに、黒川春村の硯鼠漫筆の中に、此の歌に次の如き訓を下して居る。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()此點は僻案に任せて施したるなり。諸共に契り固めたれば、妹が心は動搖じといひて、庫に鑰さしを固むるの序とせしなり。諸字の音の異なるどもは、音韻考證に就て其徴あるを見るべし(硯鼠漫筆卷之八、「うらびれといふ語づかひ」の條)

 此の訓は假名のよみ方が非常に奇怪であつて、全部信ずる事は出來ないが、從來危くの義として居た「阿用久」を動搖の義と解したのは卓見であつて、此の一句の眞義を闡くべき鍵を與へるものといつてよい。「あよぐ」といふ語に動搖の義がある事は、出雲風土記、大原郡阿用郷の條に

阿用郷、郡家東南一十三里八十歩、古老傳云、昔或人此處山田佃而守之、爾時目一鬼來而食佃人之男、爾時男之父母竹原中隱而居之時竹葉(アヨ)(ケリ)、爾時所食男云(アヨ)(アヨ)、故云阿欲神龜三年改字阿用(刊本、八十二丁ウ)

とあるので知る事が出來る。此の語は平安朝に入つては「あゆぐ」となつて、諸書に散見して居る。

雲まよひ星のあゆぐと見えつるは螢の空に飛ぶにぞありける(拾遺集卷八雜上) きえぬべき露の我が身はもののみぞあゆぐ草葉に悲しかりける(和泉式部集第五)

「あゆぐ」は四段活用の動詞で、「あよぐ」も多分同じ活用であらうから、連用形を承ける助動詞「なむ」につゞく時は「あよ なむ」となるべき筈である。春村が「阿用久奈米加母」の「久」をキとよんだのは、此の理由に基くのである。けれども、奈良朝當時の東國語には連用形を承ける「なむ」の外に、終止形を承ける「なむ」がある。それは

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()(萬葉集卷十四、二十五丁オ) ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()(同、卷十四、六丁オ、相模歌)

の如く、大和詞の「らむ」と同義であつて、用法及び活用も之と全く同一なものである。「なめかも」の「なめ」が「なむ」の活用形であるとすれば、「阿用久奈米加母」は其まゝ「あよぐなめかも」とよんで、「()()ぐらんかも」の義と解する事が出來るのである。さうして此の「なむ」は、卷十四の相模歌、卷廿の上總國防人歌に見えて居るのみならず、右の「牟浪他麻」の歌のすぐ次にあつて、同じ下總國の防人の作なる

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 右一首結城郡忍海部五百麿(卷二十、三十二丁オ)

といふ歌にも用ゐられて居るのであるからして、「あよくなめかも」の「なめ」を此の「なむ」と解しても少しも不自然な點は無いのである。我々は此の解釋が當を得たものと信ずる。

     二 あすきせさめやいざせをどこに

 萬葉集卷十四の相聞往來歌のうちに

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()西()()()()()()西()()()()()(同卷、廿三丁ウ)

といふのがある。その第三句までの解釋は從來の諸註ほゞ一致して「麻苧を桶に多く績まずとも」の義であるとして居る。第四第五の兩句については、種々の説があるのであつて、管見には「明日着せざらめや、勇める男に」の義とし、代匠記には「明日着せざらめや、(イササ)(ヲトコ)に」と釋し、考には「(アサ)()を着せざらめや伊射西(地名)の男に」と説いて居る。略解は初に考の説を引いて「されど穩ならず」と評し、次に本居宣長の説を擧げて居る。

宣長云、四の句は()()()せざらめや也。明日來といふは、すべて月日の事を()()ゆくといひて、明日の日の來る事也。結句は、(イザ)()(ドコ)に也。中古の言に、人をさそひたつるにいざゝせたまへといへるに同じ。一首の意は、夜の業に女の麻を績居る所へ男の來てよめるにて、早く寐んと女を(イザナ)ふ哥也。今宵さのみ麻を多くうまずとも有べし。明日も來らざらんや。あすの日もあれば、明日又うみたまへ。こよひは其業をやめていざ早く小床に入て寐んと也といへり(略解、卷十四下十丁ウ)

古義は全く宣長の説にしたがつて居る。

 かやうに樣々の説がある中にも、「安須伎西佐米也」の「佐米也」を「ざらめや」の義と解する事だけは諸説皆一致して居るが、「ざらむ」「ざらめ」を「ざむ」「ざめ」といつた例は他に無く、其の類例も容易に見出す事が出來ないからして、我々はたやすく之を信ずる事は出來ないのである。或は其の類例として、「よからば」「よかれど」を「よかば」(又「よけば」)「よかど」(又「よけど」)といつた事を擧げるかも知れないけれども、「よかば」「よかど」が、「よからば」「よかれど」から出たといふのも猶疑ふ餘地があつて、確説とはし難いのであるから、類例としてもあまり有力なものではない。

 今、別の解釋を試るに、「()西()()()()」の「()」を從來の説の如く助動詞「む」の已然形とすれば、之に接するものは用言又は助動詞の將然形でなければならぬ。故に假に「伎西佐」を將然形と定めて、其の終止形をもとめるに、用言の活用の形式から推せば「きせす」であるべき筈である。然らば「きせす」といふ語はあるかどうかといふに、かやうな一語はないけれども、「せす」といふ語は萬葉集の時代にはあつたのである。それは、

(ヤス)()()()(ワガ)(オホ)(キミノ)(カム)長柄(ナガラ)(カム)()()()()()(萬葉一、十九丁オ) ()(スミ)()()(ワガ)(オホ)(キミノ)(タカ)(テラス)()()()()(カム)長柄(ナガラ)(カム)()()()()()(萬葉一、廿一丁オ) (ハタ)()()()()()()(オシ)(ナミ)(クサ)(マクラ)()()()(トリ)()()古昔(イニシヘ)(オモ)(ヒテ)(萬葉一、廿一丁ウ)

の如く、()といふ語の敬語の形である。其の語尾活用は

()()()()()()()()(シジ)(ヌキ)()()()()()(クニ)()()()()()()()()()()(ハラヒ)(タヒラゲ)(萬葉十九、三十九丁オ)

の例に見える「せし」といふ連用形の外、實例を得ないけれども、從來知られて居る各種の活用の形式によれば、佐行變格か、さなくば四段活用と推定せられる。若し、佐行變格とすれば、助動詞「め」につゞいた形は「せせめ」であるべきであるが、四段とすれば、常に「せさめ」となるべき筈である。此の「せさめ」は「伎西佐米也」の「西佐米」と全然一致するのである。されば、「せす」は四段活用であつて、「西()()()」は其の將然形に、助動詞「む」の已然形「め」が結合したものと觀る事が出來る。(「立つ」「執る」「見る」「着る」などの敬語の形「立たす」「執らす」「めす」「けす」などが皆佐行四段活用であるのを觀ても、「せす」を四段活用と推定するのは道理ある事である。)

 然らば「安須伎西佐米也」の「安須伎」は何であるかといふに、「せす」は「神さびせす」「旅やどりせす」「國見しせして」の如く、動詞の連用形に接するのが例であるから、「あすき」も動詞の連用形として解釋するのが妥當である。しかし「あすき」といふ一語は見當らないからして、「あす」は明日の義、「き」は「着る」又は「()」の連用形と解釋しなければならない。かやうにして、此の一句は「明日來給はんやは」又は「明日着給はんやは」の義となる。(宣長は「き」を來と解して、明日の日が來ると説いて居るが、「きせさめや」を來給はんやはと解すれば、「明日着せさめや」と解した場合と同じく、副詞的に用ゐられたものとしなければならない。もし明日の日が來るといふのならば、「來せさめや」と、敬語を用ゐる必要がないからである。)

 此の一句にかやうな解を下して、更に全歌について考へてみるに、若し宣長の説の如く、男が女に對して詠んだものとすれば、「麻苧を今そんなに多く績まないでも好い。たとひ今績んでも、明日之を着物にして着給ふ事は出來ないのであるから、早く臥床へ行かう」の義と解する事が出來る。此の歌の第三句「宇麻受登毛」の「受」は通常濁音の假名として用ゐられて居るから、諸註に此の句をウマズトモとよんだのは至當であるけれども、また()()()()()(ミヤ)()()()()()(萬葉集卷五、二十七丁ウ)のやうに受を清音に用ゐた例もあるから、之をウマストモとよんで「績み給ふとも」の義とし、「麻苧を今多く績み給ふとも、どうして明日之を着物にして着給ふ事が出來ようぞ。そんな事をしようより、さあ早く臥床へ入らう」と解すれば更に穩當なやうである。又、第五句「()()西()()()()()」の西()を「()る」といふ語の命令形と見ないで、「いもせ」の「せ」と同語で、女が男を呼びかけていふ語とすれば、女が男に對して、「君は明日また來給ふ事が出來ようか、明日は來給ふ事が出來ないのであるから、今宵は苧などを績まずとも、さあ、夫の君、早く臥床に行かう」と詠みかけたのであると説く事も出來る。かやうに種々の解釋が可能であつて、其の内どれが最好いかを決定する事は困難であるけれども、「せさめや」の「せさ」が「せす」の將然形であつて、「し給ふ」の義を有するものである事は略疑無い事と信ずる。

     三 まてどまちかねいでてこし

 萬葉集卷十九、大友家持の作歌の中に

(タチ)()()()(マテ)()(マチ)()()()()()()()(キミ)()於是(ココニ)(アヒ)插頭(カザシ)()()()()(卷十九、三十八丁ウ)

といふのがある。これは天平勝寶三年七月、家持が越中守から少納言に轉任して、翌八月國府を發して京へ上る途中、越前國拯大伴池主の邸に於て、偶、正税使として上京して居た越中國拯久米廣繩が事畢つて任地に歸るのに出會つて、共に酒飮み樂んだ席上、廣繩が芽子の花を見て

(キミ)()(イヘ)()(ウエ)(タル)()()()(ハツ)(ハナ)()(ヲリ)()插頭(カザサ)()(タビ)(ワカル)()()

と詠んだのに和して、家持が作つた歌である。

 此の歌は一つも難解な語がなく、大體の意味は捉へる事が出來るが、しかもどこかに落着かない點があるやうに感ぜられる。それは、「立ちて居て待てど待ちかね出でて來し」といふのは家持のした事と解せられるのに、「いでて來し君に此處に會ひ」といふ言葉續の上からは廣繩のした事のやうに見えるからである。それは如何に説明すべきであらうか。

 契沖は「家持も遷任して上らるれども、廣繩が歸るを待かねて跡を尋に出たるやうに云ひなすなり。出て來し君とつゞくるにあらず」(代匠記十九下、三四頁)と説いて居るが、「出でて來し」で文が終つて居るといふ意味か、又は「出でて來し君」とつゞくとすれば、廣繩が出て來たやうに聞えるが、さうでは無いといふ意味か、甚不明瞭である。略解には「廣繩が家持卿を待ちかねて池主の館まで出來りて共にはぎをかざしつるといふ也」(卷十九下、十五丁ウ)とあつて、「立ちて居て」云々をすべて「君」即ち廣繩の行爲として居る。かやうに觀れば語脈の上からの解釋は無難であるが、虚心に此の歌を讀み味つてみれば、決してさう解釋する事は出來ない。古義に此の説を評して「人にさしむかひて其ノ人のうへのことを(タチ)()()()云々とは云べき理にあらぬをや。熟、心をとゞめて味フべし」(卷十九、中、八十四丁ウ)といつて居るのは至當である。しかのみならず、事實の上から觀ても、廣繩は公務が果てゝ歸任する途で偶然家持に出會つたので、家持を待てど待ちかねて出て來たのではない。然るに家持は、七月十七日少納言に轉任し八月五日國府をたつたが、廣繩は未だ京から歸着しなかつた爲、家持は廣繩に會はないで出發したのであるが、家持が如何に之を遺憾としたかは、その出發の前日、態々廣繩の留守宅へ離別の歌を貽して年の緒長く相睦んだ心の忘れ難きを述べ「岩瀬野に秋芽子しぬぎ馬並めて(はつ)()(がり)だにせずや別れむ」と歎じたのによつても想見する事が出來る。おもふに、廣繩は家持の下僚として常に之に接して居たのみならず、共に遊行宴樂し、屡歌の贈答をもしたのであるからして、家持は殊に親しみを持つて居たであらう。されば、「まてど待ちかね出でてこし」を家持の事とし、家持が廣繩の歸つて來るのを今か/\と待つて居たが、自身の出發の日が迫つて、遂に待ちつける事が出來ず、已むを得ず上京の途に上つたと解して、少しも事實に背馳するところはないのである(代匠記に「家持も遷任して上らるれども、廣繩が歸るを待ちかねて跡を尋ねに出たるやうに云ひなすなり」とあり、古義にも「わざとをかしく廣繩を待ちかねて出來しごとくにいはれたり」とあるが、自分は、「いでて來し」は越中を出發して上京の途についたといふだけで、廣繩に會はんが爲に出て來たといふのであるまいと思ふ。されば、實際の事實を述べたので、わざと言ひなしたのではない)。かやうな譯で略解の説は到底信ずる事が出來ない。古義は「伊泥氐來之は今按フに之ノ字は弖の誤にて、イデヽキテなるべし」(卷十九、中、八十四丁オ)と説いて居るが、「之」の字は現存の諸本皆「之」であつて、弖とあるものは一つも無いから、此の説も容易に信じ難い。要するに從來の諸説は一つも滿足すべきものが無いのである。

 前に述べたやうに「立ちて居て待てど待ちかね出でて來し」は、事實の上から觀て家持の事としなければならないのに、廣繩をさして云ふ「君」といふ語につゞいて居て、語の形式の上からは廣繩が家持を待ちかねて出て來たやうに解せられ、事實からの解釋と言語からの解釋とが相扞格するのであるが、自分の見る所によれば、これは語法上の討究の至らぬ爲であつて、廣く類例をもとめて考究すれば、此の疑問は容易に解決する事が出來るのである。

 すべて「流るる水」「吾が思へる妹 」などの如く、用言が體言に連接して其の體言の有する意味に變更を加へ又は之を限定する時、語法上では其の用言を修飾語と名づけ、其の體言を被修飾語と稱するのであるが、或用言が、或體言の修飾語となるには、其の用言と體言との間に意義上何かの關係が無ければならない。例へば「流るる水」といふ語句では、「流るる」と「水」との間に「水流る」といふ關係が成立するから、「流るる」が「水」の修飾語となり、「吾が思へる妹」に於ては、「思へる」と「妹」との間に「吾、妹を思ふ」といふ關係が成立する故「思へる」が「妹」の修飾語となるのである。若し兩者の間に意義上何の關係も無ければ、互に修飾語となり被修飾語となる事は出來ない筈である。然るにその修飾語たる用言が、唯一語でなく、他の用言に接して連語又は句のやうな組立になつて居る場合には、幾分趣を異にするものがある。例へば、萬葉集卷十九の家持の長歌の中に左の如き句がある。

()()()()()()(タヅサハリ)()(アケ)(クレ)()(イデ)(タチ)(ムカヒ)(ユフ)(サレ)()(フリ)(サケ)()()()(オモヒ)(ノベ)()()()()(ヤマ)()(卷十九、十八丁オ)

 此の「見奈疑之山」は「見て我等が心を慰めた山」の義であつて、「山」は「見る」といふ語に對しては意義上連絡があるけれども(「山を見る」といふ關係が成立する)、「なぎし」に對しては何等直接の關係が無い。しかも、「なぎし」が「山」の修飾語になつて居るのは、「見」といふ語に接して居るからである。又、同じ歌の内に、

()()(ガナシ)(ハル)()(スグレ)()霍公鳥(ホトトギス)()()()()(ナキ)()(ヒトリ)(ノミ)(キケ)()不恰毛(サブシモ)(キミ)()(ワレ)(ヘダテ)()(コフ)()()(ナミ)(ヤマ)(トビ)(コエ)(ユキ)()(中略)(ナキ)()()()(ヤス)()不令宿(シナサズ)(キミ)()()()()()(同十八丁オ)

とあつて、其の「(キミ)()(ワレ)(ヘダテ)()(コフ)()()(ナミ)(ヤマ)」の一句は、一寸みれば、利波山を戀うて居るやうに聞えるが、さうではない。此の歌は、大伴家持が越中國から越前國に居る大伴池主の處へ贈つたもので、利波山(礪波山)は越中と越前の間にあるのであるから、「君と我とが利波山を隔てゝわかれ住んで、互に戀しく思つて居る、その利波山を」の義であつて、「利波山」は「隔てて」には繋るが、「戀ふる」には關係が無い。しかも、「戀ふる利波山」とつづくのは「戀ふる」が「隔てて」に接して居るからで、「隔てて戀ふる利波山」とつゞいて、始めて意味を成すのである。又

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()(萬葉集卷二十、三十三丁オ。但し、「刀禰」は「刀爾」の誤である)

に於ける「見つゝ越え來し櫻花」も、ふと見れば、櫻花が越えて來たか、または櫻花を越えて來たかのやうに思はれるが、これは「自分が眺めながら山路を越えて來た、あの龍田山の櫻花は」又は「龍田山を越えて來る道すがら見たあの櫻花は」の義であつて、「越え來し」は「櫻花」と直接關係があるのでなく、唯「見つゝ越え來し」とつゞいて居る爲「櫻花」の修飾語となつたまでで、意味上「櫻花」と關係を有するものは「見つゝ」だけである。

 かやうに、體言の修飾語が、唯一つの用言でなく、二つ以上の用言から成り立つて、連語又は句の形になつて居る場合には、其の體言の意味の繋るところは、之に直に接してゐる用言ではなく、其の用言に連接せる他の用言であつて、體言に直に接して居る用言は、其の體言とは意味上全く連絡なく、唯、文構成上の形式として修飾語の形をとつて居るに過ぎない事が間々あるのである。

 かやうな事實を認めて、再、問題の歌

立ちて居て待てど待ちかね出でて來し君に此處に會ひかざしつる芽子花

について考へて見るに、前にも述べたやうに、「出でて來し」は家持であつて、「君」即ち廣繩ではない。「出でて來し君」とつゞいて居ても、「出でて來し」と「君」との間には意味上何の連絡も無い。「君」の繋るところは實に「待てど待ちかね」の一句にある。君(廣繩)を待てど待ちかねて(家持が)出て來たのである。此の句につゞいて居ればこそ家持の行爲なる「出でて來し」が、廣繩をさす「君」といふ語に連續し、其の修飾語となる事が出來るのである。たゞ「出でて來し君」だけでは全く意味を成さない。かやうに觀來れば、「まてど待ちかね出でて來し」と「君」との關係は、前に擧げた諸例に於ける修飾語と被修飾語との關係と全く同一であつて、少しも違つた點が無いのである。然るに、同種の他の諸例に於て其の解釋をあやまらなかつた萬葉集の諸註家が、此の歌に限つて解釋に苦み又は誤解を來したのは寧ろ不思議な位である。想ふに、これは語と語との相關に關する研究が不充分であつた爲であつて、畢竟、語法の知識の不確實不精密に因るのであらう。

 「出でて來し君」とつゞく理由を右の如く説明すれば此の歌は「君に會つて別れたいと思つて、立つたり居たりして君の歸りを待つて居たけれども、自分の出發すべき時が迫つて、遂に待ちおほせる事が出來ず、越中國を立つて來たが、それほど自分が會ひたいとおもつて待つた君に偶然此處で會ふ事が出來て、共に芽子花をかざして酒飮み遊ぶは誠にうれしい事である」といふ意になつて、「出でて來し」や「君」の解釋も一つも事實に背く事なく、また言語の上からも何等の矛盾なく解釋する事が出來るのである。

底本:「上代語の研究」、岩波書店
   昭和26年10月10日