上田秋成の靈語通と徳川宗武の假名遣説

橋本進吉

 上田秋成の著靈語通假字篇は、契沖以來の古典に基づく假名遣に對する反對説として、以前から國語學史上に注目せられてゐるが、これは、契沖の説にも又定家假名遣にも拘はるべからずとする、一種の假名遣否定論であつて、積極的主張に乏しいのに反して、秋成が自説の據る所として同書の卷頭に擧げた或御説は、窮極に於ては假名遣否定論に歸するにしても、我國古代に於ては假名を發音のまゝに用ゐたが、後に音が變じて假名と音との不一致を生じた事を認め、「假字は言語を聞がまゝに書して其假字のまゝに讀むぞ本なる」と主張し、少くとも理論上には表音的假名遣の正當な事を認めてゐるのであつて、この點に於て甚異色ある假名遣論として近來特別の價値を認められるにいたつた(岩橋小彌太氏の靈語通論、木枝増一氏の假名遣研究史など)。然るにその或御説が何人の説であるかについては、從來種々の説があつたがまだ何れも確實なものと見る事は出來なかつた。私はこの問題について聊か明らめ得た所があると信ずるので、左に之を開陳しようと思ふ。

 まづ從來の諸説を見るに、岡本保孝の靈語通砭鍼には

呵刈葭にて考ふるに田安中納言殿悠然院なるべし。

とあつて、徳川宗武(田安家)であらうとしてゐるが、これは、本居宣長の呵刈葭後篇(天明七年成)に、

(宣)田安中納言殿の御問、藤原美樹の答といふ物は、共に他人の僞作にはあらざるか、疑はしき事ども多し。よく/\たゞし給へ。 (秋)假字問答は、往年美樹子に遇し時借シ與へられしを寫藏したるなり。御問の起りは、魚彦が古言梯の發端に美樹のいはれし言を見そなはしての事なりと談ぜられき。さらに他人の僞作にあらず。美樹かたじけなくも御名を犯すべからず。秋成又師名を僞はらず。是は問答ともに淺學の所爲なりとの隱語なるか。直くあらはにこそうけ給はるべけれ。

とあるによつて推測したものであらうが、我々はこの呵刈葭の文によつて、宗武が假名遣に關して意見をもつてゐたらしい事は推察出來るけれども、靈語通の或御説が即ちそれであると斷定するのは早計である。

 保科孝一氏は、

一體この靈語通の説わ「或御説」とゆーものお敷衍したものであるが、この御説とわ、何人の説であるか、明に知ることが出來ない。萬葉集見安わ、堯以法印の作であるから、あるいわ堯以一派の説であるかも知れないとゆー人もある。けれども、これわ、堯以法印の説でなくして田安中納言宗武の説であるとゆーことが、岡本保孝の書入本に見えておる。これわいかにも確な説である樣である。(國語學史第四編第二章一九〇頁)

といつて、堯以法印の説であるとの説を擧げながら、やはり宗武の説とする方を正しいとするに傾いてゐられるやうである。しかし、堯以法印云々の説は、萬葉集目安(萬葉集見安ともいふ)に秋成の弟子秦永良が補訂を加へておいたものを永良の歿後秋成が校訂して刊行した萬葉集目安補正(寛政八年成)の初に書した秋成の文に、目安の著者について、堯以法印の作であるといふ説がある事を述べてをり、その後の凡例ともいふべき部分に、靈語通と同樣な假名遣説を述べた中に或御説を引いてゐるが、目安の作者と或御説との間に何かの關係があるやうな口吻も見えないのを見れば、固より信ずるに足らぬ説であり、宗武説も、保孝の説によつたものであるとすれば、未だ確説とするわけには行かない。(保孝の書入本といふのは何であるか不明であるが、或は前述の靈語通砭鍼であらうかと思はれる。果してさうであれば確説とし難いことは前に述べた通りであり、またそれ以外のものであるとしても、右の文に述べられただけでは、我々は直に之を信ずる事は出來ない)

 岩橋小彌太氏は、「靈語通論」(雜誌藝文第十四年第八號所載)に、右のやうな諸説を擧げて、何れも確たる根據がないと斷定した後に、自己の意見として、

私は、同じく證據は無いのではあるが、靈語通の意見が胚胎したのは、秋成が上京後の事だとすれば、これは寧ろ京都に居る卿搢中の誰かだと考へる事が穩なのであるまいかと思ふ。

と述べてゐられるが、その後發表せられた靈語通餘論(雜誌藝文第二十一年第二號所載)には、秋成が靈語通に見るやうな假名遣説を懷いたのは、必ずしもその上京後の事ではなく、天明六七年頃の本居宣長との論諍に、既に大略同傾向の意見が見えるから、以前からであつたかも知れないとし、五井蘭洲の蘭洲茗話上に、

今のいろはと云物は護命弘法二人のつくれる長うたのごときなり。是にて日本の詞みな/\つくすといふはおぼつかなし。いかんとなれば先今時云かなづかひといふをしばらく置て、人の口より出る聲にて此長歌をよむにハホヘヒムケフ此七字の聲なし。ワふたつ有。ヲ四つあり。エイ各三つあり。又ケフのふたつを合せたる聲あり。是にてことは皆ありといふべけんや。是よりかなづかひといふ事をはじめて、おくのヲくちのヲなどといふ事をいひ出せり。あまねく人にしみこみていぶかる人なし。口より出る聲と文字に書るとくひちがへり。口にはいろわといひて文字にはとかく類なり。いろわと書は、わかよのわと同じ聲出る也。唇舌牙齒喉のたがひありといはば、四十七文字字々みなしかり。この數字にかぎるべからず。

とあるのを引用して、これは靈語通の意見に近く、その傾向は大略同じといつていゝとし、しかし、靈語通の或御説が即ち五井蘭洲の説であるといふのではない。さればといつて、この兩書の間に全く關係が無かつたと斷言するものでなく、或御説が蘭洲の著書でなかつたらうかとの疑問を全く否定するものでもないと説いてゐられる。とにかく、岩橋氏の説も、唯推測にとゞまつて、確證あるものではない。

 かくの如く、靈語通の或御説が誰の説であるかについては諸説紛々として歸着する所を知らない觀があるが、私は疑もなく徳川宗武の説であると斷定してよいと思ふのである。それは、玉函叢説の中に、或御説と同樣の説が見えるからである。

 玉函叢説は田安中納言宗武が年來近侍のものに筆記させておいた考説の草稿を、その歿後、嗣子治察が集録させたものであつて、安永六年二月二十二日の序文にその由來が記してある。全部八卷で、別に宗武壯年の頃の著作を集めて附録としたものがあり(附録はもと二卷であつたやうであるが、今は或は合せ或は分つて三卷としたものが多い)、又天降言(宗武の歌集)や宗武の年譜等を附卷として加へたものもある。

 玉函叢説に收めた説はすべて六十五あつて、大部分は有職故實に關するものであるが、中には萬葉集の訓釋に關するものもあり、假名や音韻や言語に關するものもある。言語に關するものとしては、女房詞を解釋した「草むすび」の如きも、この種の研究として珍しいものであるが、特に我々の注意をひくものは第四卷の初にある假名や音韻に關する五篇の文であつて、その題目は、次の通りである。

五十連言の辨 假字大本 和八以比惠邊遠保の事 伊爲於烏音の事 清濁音の事

試にこれ等の文を靈語通の或御説と比較するに、「五十連言の辨」は靈語通の「御國の五十連音こそ」より「おのづから罪得てんかし」に至る部分にあたり、「假字大本」は「假字は言語を聞がまゝに書して」より「これ御國のやすらかなる風俗也」までに當り、「和八以比惠邊遠保の事」は「和と云にはの假字を書」より「其比より後なる事明らけし」までに當り、「伊爲於烏音の事」は「伊ハ片かなに用ひられて」より「義かなひがたし」までに當り、「清濁音の事」は「言語に清濁あり」以下の文に當るのであつて、單にその説が同一であるばかりでなく、語句までも大概一致し殆ど同文といつてもよい程である。今その例として五十連言の辨の最初の部分と靈語通とを對照して擧げれば次の通りである。

   [玉函叢説]

    ()()(ツラ)(ゴト)の辨 (スメ)()(クニ)()()(ツラ)(ゴト)こそえもいはずあやしきものにはあれ。神の(オホ)()()のことしらるゝも此有ばなり。さるはことばをしも(ノベ)(ツヾメ)(カヨ)はしいふなるも是にもれねば也けり。はた五十連といへども其品は四十(ヨソマリ)()(コト)なるを、以を今二ツ宇をいま一ツ惠をいま二ツ遠を( )一ツくはへて五十連言とはなせるなり。一年は十二月なるを一月くはへたるもあるごと、萬づゆるび(ナゴ)さではとゝのはぬにぞあらん。いでや一年に一月を添ふなるは月のかたちのかけみち四ツの時の行かふさまは目にしるければおもひよらめ。此以惠二ツ宇遠一ツくはへて五十連言となせるは心のおよぶべきかは。はたいたくいさほしある事は、そを學ぶにもたやすからぬに、是はいさほしはいふべくもあらず大きなれど、學ぶはいと易しや。をさ/\(スメ)()(カミ)のなさせましゝにぞあらむ。

   [靈語通]

     御國の五十連(イツラノ)(コエ)こそえもいはず靈妙なるものなれ。神代の古事を知らるゝも是があれば也。さて(コトバ)(ノベ)(ツヾ)(タテ)(ヨコ)に通はして云も、是に(モル)る事なければ也。是を五十音といへど實には四十四音なるを、以(フタ)()(ヒト)()を二个をゝ一个づつ増(クハ)へて五十音となせる也。たとへていはゞ、一年は十二月なるを一月(クハ)ふる年も有が如く、萬の事(ユル)(ナゴ)さでは調はざるにこそあらめ。いでや、一年に一月をくはふるは、月の(カタチ)(ミチ)(カケ)にも四時の(イキ)(カヒ)にも眼にしるければ、誰しもおもひこそよらめ。此い惠を二个、宇をゝ一つくはへて五十音となせるは、心にはかり及ぶべきかは。(ハタ)いたく勳功(イサヲ)有事は、(ソレ)(マナ)ぶに容易(タヤス)からぬを、是は其用大きけれど、學ぶにいとやすし。是を(ツクリ)ませしは、(ケダシ)(スメ)(ガミ)(ナシ)ませしにこそあらめ。

これによつて觀れば、玉函叢説の文と靈語通の或御説とは同一人の説である事疑なく、從つて或御説は、宗武の説であると認めざるを得ないのである。さうして秋成が特に敬稱を附して御説と呼んだのも、宗武が將軍吉宗の子である事から容易に理解出來るのである。

 以上述べた所によつて、靈語通の或御説が宗武の説である事は確實になつたが、次に考ふべきは、宗武の説がいかなる徑路によつて秋成に知られるに至つたか、又玉函叢説の文と靈語通所載の文との間に如何なる關係があるかの問題である。

 秋成は靈語通に

此御説の條々は或人のうけたまはり得て暗記(ソランジ)たりしを、事のついでに打聞て侍るが(靈語通二十二丁裏)

と記してゐるが、しかし、秋成が直接に聞いたのでなく、他人から傳聞して記した宗武の説が、前述の如く、宗武の手許に殘つてゐた草稿と語句までも大概一致するといふ事は實際あり得べからざる事である。それ故、我々は岩橋氏と同じく「これはどうあつても、必ず人から聞いたことではなく、物に書かれたものから引用したものでなければならない」(同氏の靈語通論)と推論せざるを得ない。それでは、どうして秋成がこの宗武の説を見るを得たかといふにそれは、その師藤原美樹からであらうと推測せられる。前に引いた呵刈葭後篇の初に、

假字問答は往年美樹子に遇し時借シ與へられしを寫藏したるなり

と秋成自身が言つてゐる通り、秋成は宗武の問と之に對する美樹の答とを録した假字問答を美樹から借りて寫してゐるのであるから、その中の宗武の假名遣説を或御説として靈語通に引用したのであらうと思はれる。それを或人から傳聞したやうに記してゐるのも、宗武の説を美樹の手から得た事を指してゐるものと解せられる。(實際は書寫したのを、唯傳聞したやうに言つて居るのは、高貴な人の説である爲、之をあらはに言ふを憚つたのであらう)

 かやうにして我々は、靈語通の或御説を、假字問答に於ける宗武の説の引用であらうと推測するのであるが、それでは、その宗武の説と玉函叢説に於ける宗武の説との間の關係如何といふに、玉函叢説では、或御説に相當する部分は、それ/″\別の題目を有する數個の文にわかれてゐるのであつて、同書の編者は之を別々の文と認めたらしく、最後の「清濁音の事」の條の終に、

是は清濁の事を論じ給はんとて、まづそのはじめをいささかかゝさしめ給へる御草稿なり

と附記してゐるが、これ等の諸條はすべて假名の用法即ち假名遣に關するものであつて、清濁音の事の條も、唯の清音濁音の論ではなく、假名遣論の傍證として書かれたものである事は「さるからにいにしへはかなに心をもちひず、以爲惠江遠於はことばもいひわかつやうなく、字音もわかれず、何をもてわかたむや」と結んでゐるのによつても明かである。さうして、これ等の諸條は、その順序も靈語通の或御説と全く同一であつて、各條の題目を除いてそのまゝ併せて一文とすれば、或御説と殆ど同一のものとなり、唯序論ともいふべき最初の一節(「上古假字の法則立たざりし以往は」より「是ぞ御國の直き風俗なりける」まで)と最後の結論と見るべき數行の文(「然則(サルトキ)は假字(ツカ)ひと云法則は」以下)とを缺くのみである。さすれば、この玉函叢説の文と靈語通の或御説並にその出處なる假字問答の中の宗武の論との間に密接なる關係がある事は疑ない。

 しかしながら、今述べたやうに、玉函叢説の文は或御説に比して前後に缺けた處があり、その語句にも多少の異同があるから、之を直に假字問答中の宗武の文と同一であるとする事は出來ないけれども、玉函叢説の文を最初の草稿とし、假字問答の文は更に之に手を加へて首尾を整へたものであつたと解すれば、兩者の間に右の如き相違があるのは當然であつて、その間の關係が最も自然に説明出來るのである。

 なほ呵刈葭によれば、秋成は、假字問答に於ける宗武の論に就いて「魚彦が古言梯の發端に美樹のいはれし言を見そなはしての事なりと談ぜられき」と述べてゐるが、この美樹の言といふのは、或人が美樹(宇万伎)に「假字づかひてふもののいとしも上つ代にはあるべきにあらず、文字渡りて後音韻四聲により又は悉曇によりてことわりを定たるなるべし。いづれにも文字のうへのさたなれば、吾國の事とは云ひがたかるべし」と言つたのに對して、美樹が、文字は後に添へたもので、もとはその言をいふままに音韻が口の内でわかれてゐたのであつて、古くは文字を知らぬものまでもいゐえゑをおの言の區別をあやまる事がなかつた。その正しい言をそのまゝうつし傳へた假字であるから、古書によつて正すべきであると論じたのを指すのである(古言梯の初に載せてある)。玉函叢説及び或御説に見える宗武の假名遣説は、いゐえゑをおの區別は昔から無かつたのを、之を意味のある事のやうに考へて假名遣といふ事を言ひ出したのであるとするのであつて、美樹の説とは大に異る所あるものである。それ故、宗武はこの美樹の説を見て之に對する自己の異見を書いて美樹に示したのであつて、これが即ち呵刈葭に所謂宗武の問であり、之に對する美樹の批評が即ち美樹の答であつたのであらう。この問答書を秋成は美樹から借りて寫して置いたが、その中の宗武の論に基づいて自己の假名遣説を立てたので、靈語通を作つた時、或御説として之を卷初に引用したのであり、さうして、その最初の草稿の宗武の手許に在つたものが、後に玉函叢説に收められたのではあるまいかと考へられる。もつとも玉函叢説のは、古言梯を見てはじめて書いたのではなく、かねてかやうな説を懷いて書いて置いたのであるが、後に古言梯を見て、前の草稿に手を加へ首尾を整へて美樹に書き送つたのかも知れない。

 右の考説が大體正しいものとしたならば、靈語通の或御説の根源と推測せられる假字問答の宗武の論は古言梯の出版せられた明和二年頃のものであらうし、玉函叢説のは、その頃又はそれ以前のものであらう。

 以上述べ來つた所を要約すれば、

 前にも述べた通り、玉函叢説の文は靈語通の或御説とほゞ同文であつて、しかも之に比すれば、前後に缺けた處があり、之に反して靈語通は首尾完備してゐるのであるから、宗武の説を見るには必ずしも玉函叢説を要せぬやうであるが、しかし、兩者は全然同文ではなく、靈語通の方は文が幾分簡約であつて、まゝ解し難い所や曖昧な所があるに對して、玉函叢説の方は、文がやゝ委しく、同じ事でも違つた表現を用ゐてゐる所があるので、兩者を對照してはじめて眞意を詳にする事が出來るものも少くない。それ故、宗武の假名遣説の研究には、玉函叢説の文も亦棄てる事は出來ないものである。

底本:「文字及び假名遣の研究」、岩波書店
   昭和45年01月31日(改版)