駒のいななき

橋本進吉

 「兵馬の權」とか「弓馬の家」とかいふ語もあるほど、遠い昔から軍事の要具とせられ、現下の大東亞戰爭に於ても皇軍將兵と一體となつて赫々たる武功を立ててゐる勇ましい馬の鳴聲は、「お馬ヒンヒン」といふ通り詞にある通り、昔からヒン/\ときまつてゐたやうに思はれるが、ずつと古い時代に遡ると案外さうでなかつたらしい。萬葉集卷十二に「いぶせくも」といふ語を「馬聲()蜂音()石花()()()」と書いてあつて、「馬聲」をイに宛て、「蜂音」をブに宛てたのを見れば、當時の人々は、蜂の飛ぶ音をブと聞いたと共に、馬の鳴聲をイの音で表はしてゐたのである。「いばゆ(嘶)」といふ語の「い」も亦馬の鳴聲を摸した語である事は從來の學者の説いた通りであらう。蜂の音は今日でもブン/\といはれてゐて、昔と大體變らないが、馬の聲をイといつたのは我々には異樣に聞える。馬の鳴聲には古今の相違があらうと思はれないのに、之を表はす音に今昔の相違があるのは不審なやうであるが、それには然るべき理由があるのである。

 ハヒフヘホは現今ではhahihuhehoと發音されてゐるが、かやうな音は古代の國語には無く、江戸時代以後にはじめて生じたもので、それ以前はこれ等の假名はfafifufefoと發音されてゐた。このf音は西洋諸國語や支那語に於ける如き齒唇音(上齒と下唇との問で發する音)ではなく、今日のフの音の子音に近い兩唇音(上唇と下唇との間で發する音)であつて、それは更に古い時代のP音から轉化したものであらうと考へられてゐるが、奈良時代には多分既にf音になつてゐたのであり、江戸初期に更にh音に變じたものと思はれる。

 鳥や獸の聲であつても、之を擬した鳴聲が普通の語として用ゐられる場合には、その當時の正常な國語の音として常に用ゐられる音によつて表はされるのが普通である。さすれば、國語の音としてhiのやうな音が無かつた時代に於ては、馬の鳴聲に最近い音としてはイ以外にないのであるから、之をイの音で摸したのは當然といはなければならない。猶又後世には「ヒン」といふが、ンの音も、古くは外國語、即ち漢語(又は梵語)にはあつたけれども、普通の國語の音としては無かつたので、インとはいはず、只イといつたのであらう(蜂の音を今日ではブンといふのを、古くブといつたのも同じ理由による)。

 それでは、馬の鳴聲をヒ又はヒンとしたのは何時からであらうか。これについての私の調査はまだ極めて不完全であるが、私が氣づいた例の中最古いのは落窪物語の文であつて、同書には「面白の駒」と渾名せられた兵部少輔について、「首いと長うて顏つき駒の樣にて鼻のいらゝぎたる事かぎりなし。ひゝと嘶きて引放れていぬべき顏したり」と述べてをり、駒の嘶きを「ひゝ」と寫してゐる。これは「ひ」がまだfiと發音せられた時代のものである故、それに「ヒヽ」とあるのは上の説明と矛盾するが、しかしこの文には疑があるのである。即ち池田龜鑑氏の調査によれば、ここの本文が「ひゝ」とあるのは上田秋成の校本だけであつて、中村秋香の落窪物語大成には「ひう」とあり、傳眞淵自筆本には「ひと」とあり、更に九條家舊藏本、眞淵校本、千蔭校本其他の諸本には皆「いう」となつてゐる。その何れが原本の面目を存するものかは未だ判斷し難いが、「いう」とある諸本も存する以上、之を「ひゝ」又は「ひう」であると決定するのは早計であつて、寧ろ、現存諸本中最書寫年代の古い九條家本(室町中期の書寫)其他の諸本に於ける如く、「いう」とある方が當時の音韻状態から見て正しいのであるまいかと思はれる。さうして「いう」の「う」は多分現在のンの如き音であつたらうから、「いう」はヒンでなく、寧ろインにあたるのである。

 江戸時代に入つて、鹿野武左衞門の「鹿の卷筆」(卷三、第三話)に、堺町の芝居で馬の脚になつた男が贔屓の歡呼に答へて「いゝん/\と云ながらぶたいうちをはねまわつた」とあるが、この「いゝん」は落窪物語の「いう」と通ずるもので、馬の嘶きを「イ」で寫す傳統が元祿の頃までも絶えなかつたことを示す適例である。

 「お馬ヒン/\」といふ語は何時頃からあるかまだ確かめないが、一九の東海道中膝栗毛初編には「ヒイン/\」又は「ヒヽヒン/\」など見えてゐる。多分もつと以前からあつたのであらうが、これはhiの音が既に普通に用ゐられてゐた時分の事であるから、あつても差支無い。

底本:「國語音韻の研究」、岩波書店
   昭和25年08月25日
国文学叢話(日本文学報国会、青磁社、昭和19年11月20日)により欠落部分をおぎなった。