國語史研究史料としての聲明

橋本進吉

 國語史は日本語の發達變遷の歴史である。世には往々國語史と國語學史とを混同するものがあるが國語史は日本語そのものゝ沿革を説くものであり、國語學史は、日本語に關する研究の發達變遷を説くものであつて、その間に根本的な差異があるのである。さて日本語は、我々日本民族が先祖以來意志交換の手段として一日も缺く事が出來なかつた言語であり、今日の言語は過去幾千年の變遷を經て出來上つたものであるから、いかなる種類の學問を問はず、苟も日本文化の展開を詳にしようとするには過去の言語の正確なる知識を要し、又現在の日本語の由來する所を明にして、之を徹底的に理解するにも、亦國語の歴史を顧みなければならないのである。

 かやうに國語史は、種々の方面から觀て大切であつて、國文學史よりもむしろその關係する所が廣いのであるが、現今專門教育や高等普通教育に於ても、國文學史は之を講ぜない所はないにも拘らず國語史は殆ど之を授けるものなく、僅に國語學史を説いて能事了れりとしてゐるやうな有樣であつて高等の教育を受けたものでさへ、國語史の名をも聞かずその當に存在すべきものである事すら知らないものゝ多いのは甚遺憾であるといはなければならない。

 しかしながら、これには又已むを得ない事情があるのであつて、明治以前の國語研究は、主として歌學者又は國學者の手にあつた爲、最初から古代の言語を對象とし、その方面に於ては賞讚すべき業績を遺したが、專ら古代語を模範的のものとし後世の言語は、總て墮落し頽廢したものと考へたからして、その研究は中古以前の言語に限られ後世のものには及ばなかつた。明治以後、西洋の言語學が輸入されて、言語に歴史的研究の必要な事を學び知つたけれども、上下千數百年の間の國語の變遷を研究するのは非常なる時間と努力とを要する事である上に、世間一般に西洋の學術の輸入應用にこれ日も足らず、日本固有の事物の研究に從事するものは甚寥々たる有樣であつたから、國語の史的研究も遲々として進まず、近年になつて、やうやく部分的の研究があらはれたのみで、西洋諸國に見るやうな、國語史や歴史的文典や語源辭書の如きものはまだ一つとして編せられるまでに進んで居ないのであつて、國語變遷の大要を學び知らうとするにも適當な書物もないやうな状態にある。我々斯學の學徒は今他日の大成を目標として、國語の史的研究に專念し、國語史の知識が國民の常識となる日の一日も近くなるやうにと努力して居るのである。

 過去の日本の言語が實際どんなであつたかを明にするのは誠に容易でない。千三百年以上の昔から今日に至るまで、各時代の言語を文字で寫した書籍や文書や金石文が傳はつて居て、大體は一通りわかるけれども、文字に書かれた言語と實際人々の口に話された言語との間にどれほどの差異があつたか、又地方により、社會の階級、職業、男女の別、年齡の相違などによつて、どれだけ言語の異同が存したかなどの問題になると、解決がよほど困難である。文字に書かれた言語の意味は、多くの實例に徴して大概明かになるとしても、當時の人々が、一つ一つの言葉に對して持つて居た特別な感じや類義語の間の微妙な意味の差別などは、なか/\わかり難いものである。中にも最困難を感ずるのは言語の音聲の問題である。我が國で古くから用ゐ來つた漢字は、普通の場合には意義によつて言葉を寫して、その發音を寫さない爲、漢字に書いたものによつて、その言葉の音を知る事は困難である。假名や萬葉假名で書いたものは、言葉を音によつて寫したものであるけれども、それでさへ、文字と發音とが全く一致したものと速斷し難い事は、今日我々が「は」「ひ」「ふ」をワイウと讀み、「かう」「さう」と書きながらコーソーと發音する事があるのを觀ても、直に理解出來るであらう。

 過去の國語の發音は到底直接に知る事は出來ないもので、及ぶ限り多くの違つた種類の資料を搜り索め、出來るだけ多くの違つた方面から觀察して、それから得た結果を綜合して判斷を下すより外方法が無い。かやうな研究の根本となるべき資料として最大切なものは、言ふまでもなく、當時の言語を文字に寫したものであるが、此の種の資料から我々が直接に知り得るものは、耳に聞える音聲ではなく、唯目に見える文字だけである。その文字の用法を調査すれば、當時の人々が、どれだけの音を違つた音として言ひわけ聞きわけて居たかを知る事は出來るにしても、その一々の音が何と發音せられたかは、別の方面からして考察しなければならない。かやうな場合に、當時の實際の發音を推定する一方の基礎となるべきものは、現代の口語であり、殊に各地の方言である。元來各地の方言はもと同一の言語から出たもので、各特異な變遷を經てそれ/″\の方言になつたのであるから、他の地方では既に滅びた古代の發音を或地には今に殘して居る事もあり、又一の音が徐々に變化して遂に他の音になつてしまふまでの間の種々の段階を、それ/″\異つたいくつかの現代の方言に見る事が出來る場合がある。それ故、諸方言を互に比較して研究すれば、音聲の變遷推移の跡を明にし得べき場合が少くないのであつて、之を文字に書いた資料から得た結果と對照して、はじめて過去の國語音聲の状態を推定し、その音變化の生じ又擴まつた年代と場所とを知る事が出來るのである。

 かやうに現代の口語は、過去の言語の音聲研究に有力なる資料となるのであるが、こゝに、今日猶口で唱へられてゐるもので、現代口語よりも一層よく過去の言語の發音を傳へて居るものがある。(かたり)(もの)(うたひ)(もの)(となへ)(ごと)の類が是である。

 例へば、今日行はれて居る淨瑠璃の義太夫節に於て、ンで終る語の下に「を」といふ手爾遠波が來る時は「を」をノと發音し、「は」が來る時は之をナと發音する。(「御縁を切られ」「難をつけ」を「ゴエンノキラレ」「ナンノツケ」と云ひ、「兩人は暫く次へ」「時分はよしと」を「リヨーニンナシバラクツギエ」「ジブンナヨシト」といふ)。狂言の詞に於ては、同樣の現象がある上に「今日は」をコンニツタといふ事もある。謠曲にいたつては、ンの下のアヤワ三行の音は、殆すべてナニヌネノと發音し、入聲のツは、アヤワ三行の音の前では促音となつて、同時に下の音もタチツテトとなり、濁音及び鼻音(ガダザバの四行及びナマの二行の音)の前では一種の鼻的破裂音となる(かやうに發音するのを「のむ」と稱する。「(まつ)(だい)」「(けつ)(ぢやう)」などの「ツ」の音をさう發音する)。平家琵琶の語り方に於ても、大體謠曲と同じやうな音變化がある。かやうな發音は我々の耳には甚奇異に聞えるのであつて、此等のものが特殊の音曲である爲、聲調の都合上、普通の言語にはなかつた特別の發音をしたかとも疑はれ、又或名人の個人的發音が模範的のものとなつて後世に傳はつたものかともおもはれるが、慶長九年長崎の耶蘇會學林で出版した、同會教父ロドリゲース所編の日本語典に、當時の日本語の發音を説明した所によれば狂言に於ける如き發音は普通の口語の場合にも一般に行はれたのである。謠曲及平曲に見る如き、入聲のツが次に來る音の相違によつて、或は促音となり或は鼻的破裂音となる事については、ロ氏の語典は、只てにをは「は」の前に促音化して同時に「は」がタとなる(「差別は」「今日は」が「シヤベツタ」「コンニツタ」となる)事だけを述べてゐるが、この語典に説いたのは室町末期の發音で(狂言のことばと略同時代)、謠曲や平曲はそれより時代が古いから、その時代にはかやうな發音が一般に行はれたが、後には次第に消滅したものと考へられる。(「差別タ」「今日タ」の如きはその名殘が後までも殘つてゐたものとおもはれる)。さすれば、右のやうないろ/\の發音は、語物や謠物にのみ存する特殊な發音ではなく、一般口語にあつたものが、語物や謠物の中に殘つて、現今までも傳はつてゐるのである。

 右のやうな語物や謠物の類の、我々の研究資料として最尊ぶべき所は、口語としては遠い昔に滅び去つた過去の遺音を今に傳へて、親しく我々の耳に聞かしめる點にある。文字に書いたものは、意味を傳へるのが目的であるから、その發音は、時代々々の口語の音に任せて、古い時代の發音を傳へない。しかるに、語物謠物の類は、最初から口から耳へと傳へ來つたものである。勿論、(かたり)(ぼん)や謠本の如く之を文字に書いたものもあるけれども、師匠が教へ弟子が學ぶのは、抑揚長短強弱の曲節であり、開合清濁等の發音である。つまり音聲そのものである。文字や墨譜は之を忘れない爲の方便に過ぎない。一流一派が新に興つた當時は知らず、その流派が確立して詞章が一定してからは、一言一句も之に違ふ事を許されないのであり、その言語は音曲の要素として曲節と離るべからざる結合をなして居るのであるからして、口語の變遷にもかゝはらず、もとのまゝに傳はり、當時の發音を數百年の後にも聞く事が出來るのである。これは他の種類のものに於ては、求める事が出來ない特異の點である。

 といつても、今行はれてゐる謠物語物等の發音は、ことごとく過去の言語の發音をそのまゝ傳へてゐるといふのではない。中には、音曲であるが爲に特殊の發音をしたものも無いでもあるまいし、又後世の口語の影響を受けて變化した所もあるであらう。これ等は、他の方面からの資料と比較して研究した上でなければ斷定出來ない事である。ことに後世受けた變化については、明な證據のあるものもある。今日の謠曲では、ジとヂ、ズとヅ、及びアウカウサウの類とオウコウソウの類とを發音上區別しないが、元祿享保頃の謠曲書によれば、その頃までは、これ等を區別して發音したのである。さうして、此等の區別が、室町時代には平生の言葉にも存した事は、前掲ロ氏の日本語典によつて明瞭である。平曲も、今日ではジヂズヅの區別をしないが、江戸時代の或語本に記された歌に「シチツスの濁りを分てハヒフヘホ細く吹きだせ當れトタカを」とあつて、ジヂズヅを區別する事となつて居つたのみならず、ハヒフヘホも、フアフイフフエフオと發音して居たのであつて、ロドリゲース氏の語典及び及び當時の西洋人が羅馬字で日本語を書いたものに、ハ行音は皆fafifufefoで寫して居るのによれば、これ亦室町時代の言語一般の發音であつたのである。それ故、謠物語物等に關する古書の檢討も亦國語史研究上重要であるが、しかしその場合にも、現に實演せられる場合の發音に照して、はじめて眞の理解に達し得られるのである。

 右にあげた平曲其他の謠物讀物の類は、既に滅びた過去の國語の發音が特殊な事情の下に今日までも傳はつたものとして國語音聲史研究上獨特の價値をもつものであるが、それが果して何時頃の國語の發音を殘してゐるものであるかといふ問題になると、またいろ/\の方面からの考究を要するのであるが、しばらく、それらの音曲又は戲曲の創始の年代について見ると、義太夫節は元祿以前には遡りがたく、狂言は室町中期以後のものであらうし、謠曲は室町初期のものである。平曲は或は鎌倉時代まで遡れようが、今まで傳はつてゐる諸流派は、その祖を南北朝時代に置いてゐる。さすれば、これ等のものゝ中には南北朝以後(或は鎌倉中期以後)の代々の發音は殘つてゐるであらうが、それ以前のものはもとめる事は出來ないのである。それでは、これ等のもの以外にこれと同種の資料がないかと考へる時、我々の想起するを禁ずる能はざるものは、佛教中に傳はつてゐる聲明である。

 我々は、この方面には、まだ研鑽をつんだのでなく、その道の方々の教を仰ぎたいとおもつて居るのであるが、これまで我々の見聞に觸れたゞけの事實について觀ても、佛教の聲明の中には、謠曲や平曲に見るが如き特殊の發音が常に行はれてゐる。親鸞上人の和讚や蓮如上人の御文の如き、明惠上人の講式の如きに於て、前に述べたやうなン音や入聲のツ音の場合に起る種々の連聲上の音變化は、いつも規則正しく行はれてゐる。眞言宗や天台宗所傳の和讚や講式論議の類、並に漢語讚等に於て聞かれる種々の發音は、必しも、こと/″\く昔時普通の言語に用ゐられた發音でないかもしれないが、さやうな古音を傳へたものも少くないであらう事は、充分推察し得られるのであつて、過去の國語の發音を考へるに當つては有力なる參考資料となるものであり、且、その傳來の久しい點に於ては、平曲以下に比して遙に勝れてゐるのであつて、我々の狹い見聞を以てしても、他のものよりは一層古い時代の發音を殘してゐるとおもはれるものも、一二にとゞまらない。たとへば「妙」「勝」の類を明に「メウ」「セウ」と發音する如きは、平曲以下にはない事で、これが古代の正しい發音であつた事は、假名に書いた材料に對照して明に證する事が出來るのである。我々は文字にかゝれた資料によつては只假名にあらはれた形で見るばかりであるが、聲明に於ては、今なほ之を親しく耳に聞く事が出來るのである。又天台宗所傳の法華讚歎の歌に於て「法華經を我か得し事」の「は」を現在明にフアと發音するのを聞くが、これも、今日多くの國語學者に信ぜられてゐる、國語の「は」「ひ」「ふ」「へ」「ほ」の音は、古く、フアフイフフエフオと發音せられたといふ説に對して、生きた證據を提供するものである。其他、平上去入の四聲の區別、講式等に於ける日本語の音調なども、古代日本語のアクセントを攻究するにあたつて缺くべからざる重要な資料である。我々はこの方面の討究によつて、他の種の資料によつては得られないやうな新しい國語音聲史上の研究が開けて來る事を期待し得るのである。

 前にも述べた如く、この種の資料は甚貴重なものであるが、しかし、それだけで直に過去の日本語の發音を推定する事は出來ないのであつて、出來るだけ多くの、ちがつた種類の資料と比較對照しなければならない。それには文字で書いたものゝ如く、全然これとは性質の違つた資料から得た結果と對照する事が必要であるが、また、同じ性質の他の資料、たとへば平曲以下のものと比較するのも亦有益である。しかし、同じ謠曲でも流派によつて發音上多少の差異があつて、一の流派に於ては既に滅びてしまつた古音を、他の流派には今に存してゐる如き例もあるから(寶生流のみセゼをシエジエと發音する如き)、聲明でも、諸宗諸派に行はれてゐるものを互に對照して研究するのが必要である。又、かやうなものは、口語に比しては變遷は少いとはいへ、猶永い年月の間には、もとその中に存した古音が遂に失はれてしまつた事もあるべき事は、前に述べた謠曲の例によつても推想されるから、聲明自身の古來の變遷をも調査する事が必要である。この點からして古來の聲明書の研究が是非必要になるのであつて、昨夏高野山に催された聲明書の展覽會の如きは最當を得たものと考へられる。

 かうは云ふものゝ、一宗一派の聲明でさへ通達する事は容易でないやうである。まして諸宗諸派にわたつて通曉するのは非常に困難である。それを、また種類の全くちがつた他の資料と比較して、過去に於ける國語發音の實際を考定するのは容易ならぬ事業であつて、多くの人々の協力を要するのみならず、又かなり多くの年月を費さなければならない。しかし、これは、必ずしも成し遂げられない事ではないが、唯、我々の虞るる所は、その間に、この貴重なる資料が滅びてしまひはしまいかといふ事である。昔から、悉曇聲明は愚僧の役といふ諺もあつて、聲明はとかく輕んぜられ勝であつたらしい。近年、佛教界に於ても思想精神の研究は盛であるが、形式方面は輕視せられ、古來の法儀格式は次第に簡略化せられ廢滅に歸さうとする傾向があるやうに見受けられる。聲明は佛教の會式に缺くべからざるものであるから、佛教の存するかぎり永劫絶える事はあるまいけれども、當今の社會風潮から見れば、遂には時代に適應する爲に現代化し、又は改作せられる時が來はしないかとおもはれる。もしさうだとすれば、數百年の間師資相承けて折角今日まで口づから傳へ來つた古代の遺音は遂に地を拂ひ、學問上他に比類なき貴重なる資料は全く堙滅に歸するのである。口誦の音は、一たびその傳を絶てば永久に失はれたものであつて、後に、いかほど之を再興しようとしても出來るものではない。我々の憂は實にこの點にある。我々は各宗各派の本山又は學林に於て、今日まで傳はつた聲明をそのまゝに永遠に保存する事に特別の顧慮をせらるゝと共に、普通の音樂及音聲學の知識あるものには理解し得られる完全な聲明書を作り、現に傳はつて居るあらゆる聲明を集成して、口に誦へられて居る通りの曲調と發音とを示した譜を新に作つて、一般の初學者に便じ、且、萬一堙滅に歸した後も、その譜によつて大概を髣髴し得られるやうにせられん事を切望せざるを得ぬ。

 千數百年の歴史を有し、國民の生活と深い結合をなして來た日本の佛教は、各方面の日本文化研究者にとつて缺くべからざる幾多の貴重なる資料を包藏してゐる。もし佛教家自身が、その價値を知らなければ、遂に散佚せしめ絶滅に歸せしめてしまふ虞がある。今私が自己の專攻せる學問の立場から現存せる聲明の國語史研究資料としての價値を説いたのは、幸にも我々の時代まで口誦の上に傳はつた昔時の遺音を失墜せしめず、永久に學會の至寶たらしめたいからである。

底本:「國語音韻の研究」、岩波書店
   昭和25年08月25日