「盛者必衰」

橋本進吉

 平家物語を、平曲の譜本である語り本で讀んでみると、我々が普通に文字によつて讀んでゐるものと讀み方の違ふものが少くない事を見出すのであつて、殊に音の清濁の異るものが多い。今一例として、誰でも知つてゐる祇園精舍の初の文「舍羅雙樹の花の色盛者必衰の理をあらはす」の中の「盛者」の讀み方について述べて見たいとおもふ。

 この語は、我々は普通シヤウジヤと讀んでゐる。内海氏の平家物語評釋や有朋堂文庫本のやうな手近な本や、御橋悳言氏の平家物語略解や石村貞吉氏の新註平家物語のやうな勝れた註釋書にも皆「しやうじや」と假名を附けてゐる。しかるに、譜本によると、前田流の平家正節にジヤウシヤとあつて上のシを濁り下のシを清んで、その清濁が反對になつてゐる。これは或は書寫の誤ではないかと二三の寫本をしらべて見たが、やはり同樣である。譜本でなく、漢字に假名を附け假名に濁點を附けた萬治二年刊行の片假名整版本もやはり「盛」にジヤウの假名が附いてゐて、この點で語り本と一致する(この本には「者」には假名が無い)。

 それでは、盛の字にジヤウの音があるかどうかと調べて見るに、この字は廣韻では去聲勁韻に屬し、反切は承正切とあり(又別音として平聲清韻の部に是征切とあるが、この場合はモルといふ意味でサカンといふ意味ではない)。韻鏡には外轉第三十開、去聲禪母三等にあつて、何れも漢音セイ呉音ジヤウであるべきである。かやうに理論上盛の呉音がジヤウであつた事が知られるが、保延二年三月十八日書寫の法花經單字(序品)に

  盛《サカリ+イタル》《シヤウ》 《モル+イル》自[#左下2点]令[#右上1点] とあり、平安朝末に出來た色葉字類抄(三卷本)シ部に、

  盛[#右上2点]衰シヤウスイ とあつて、古くから「盛」にジヤウの音があつた事がわかる。(どちらも、假名には「シヤウ」とあるが、「盛」の字及び反切の上の字「自」に點を二つ附けたのは濁音である事を示す符號であるから、ジヤウであつた事明かである)又、後のものながら、快倫の法華經文字聲韻音訓篇(中、四十四丁表)に「シヤウ」の部に「盛[#右上2点][#左白丸傍点]サカンナリモル」とあり、慶證の淨土三經字音考に「盛[#右上2点][#左白丸傍点]是[#右上2点]征」とあつて、盛の呉音がジヤウであり、これが法華經及び淨土三部經を讀誦する場合に用ゐられてゐた事が知られるのである。

 これらの例によつて、盛[#「盛」に傍点]は佛經ではジヤウと讀まれてゐた事が推察されるのであるが、更に右の平家物語の盛者必衰の句の出所なる仁王經に於てはどうであつたかを見るに、宗淵が校訂して、聲點及び假名を附して刊行した山家本仁王經によると、右の句は

  盛《ジヤウ》[#右上2点]者[#左下2点]必《ヒツ》[#右下1点]衰《スイ》[#左下1点] とあつて、盛者を明かにジヤウシヤと讀んだ事を示してゐる。この山家本は、宗淵が古來の傳統的の讀誦法を傳へる爲に印行したものであるから、この讀み方は、古くから天台宗に傳はつて來たものである事明かである。さすればこの仁王經の句を出典とする平家物語のよみ方が之に一致するのは當然であつて、こゝに於て語り本のジヤウシヤといふ讀み方が典據あるものである事疑ひ無きにいたつたのである。(昭和八年山田孝雄氏の校訂刊行せられた平家物語の本文には「じやうしや」とあるが、同書の卷頭寫眞として掲げられた寫本覺一別本には、盛者に「ジヤウジヤ」と假名が附いてゐて、下の「者」までも濁つてゐるのは不審である。この字は語り本其他にも皆濁點なく、山家本仁王經にも清音の點を附してゐるから、これは清音の方が正しからうと思はれる。覺一別本のは多分誤寫であらう)。

 それでは、盛者をシヤウジヤと讀んだのは何時頃からであらうかといふに、これはあまり古い時代には見當らないやうであつて、現在までに知り得たところでは、元祿十一年の平假名整版本に「しやうじや」と假名を附したのが最古いが、この本はその前に出版せられた平假名版本の假名に勝手に濁點を加へたものらしく(寛文十一年刊本や延寶五年刊本にはたゞ「しやうしや」と假名があつて濁點はない)、その清濁は、語り本のみならず、濁點を附した、以前の版本にも一致しないものが少くないのであつて、據處とする事の出來ないものである。かやうにシヤウジヤといふ讀み方は、後になつて起つたものと認められるが、それではどうしてこんなに讀むやうになつたかといふに、これは多分、「盛者必衰」をその意味及び語形の類似から「生者必滅」と混同し「盛者」(ジヤウシヤ)を「生者」(シヤウジヤ)と同じものゝやうに考へて、之をシヤウジヤと讀むにいたつたものであらう。

 全體我が國では漢字で書いた語の讀み方が確かでないものが多く、假名で書いたものでも、その清濁が不明なものが少くない。この點が語源や語史の研究者や辭書編纂者の遭遇する難關の一つとなつてゐる。平家の語り本は、古代語の讀み方を保存してゐるものが多く、かやうな點で有益な資料といふべきである。右に擧げたのは、その一例に過ぎない。

底本:「國語音韻の研究」、岩波書店
   昭和25年08月25日