假名遣とは假名のつかひやう即假名の用法といふ事であるが、ア音を表はすに「あ」を用ゐ、カ音を表はすに「か」を用ゐる如きは甚簡單明瞭であつて何の疑をも惹き起さない。「い」と「ゐ」、「お」「を」などの如く同じ音に對して二つ以上の假名がある場合に、始めて、何れの假名を用ゐるかといふ疑問が起るのである。故に實際に於ては假名遣の問題は假名のつかひ分け以外には存せぬのであつて、假名遣とは同音の假名のつかひ分けであると解して好いのである。
さて假名遣に關する問題には二つの方面がある。一は、「い」「ゐ」「お」「を」の如き同音の假名は區別して用ゐるべきか、どうか、若し區別すべきものとすれば如何なる場合に如何なる假名を用ゐるべきかとの問題であつて、一は、此等の假名は實際に於て使ひわけられて居るか、若しつかひわけられて居るとすれば如何なる場合に如何なる假名が用ゐられて居るかとの問題である。即、一は主義の問題であり一は事實の問題である。前者を規範的のものとすれば後者は記述的のものである。普通世間で假名遣問題と云ふのは殆皆前者に屬するものであつて、彼の表音的假名遣と云ひ歴史的假名遣と云ひ理論的假名遣と云ふのは何れも假名遣上の主義の名である。現今のみならず古來假名遣の問題として學者の間に論ぜられた事も亦主として此の方面に關するものであつたのである。併しながら他の方面の研究、即事實問題としての假名遣の研究も亦必しも乏しかつたのではない。かの歴史的假名遣の創唱者なる契沖の如きは、平安朝の前期以前の文獻に「い」「ゐ」「え」「ゑ」「お」「を」等の別が嚴然として存する事を發見し、假名遣はすべて此の時代の用例に遵ふべしと説いたのであつて、契沖の假名遣上の主義は其の古代の假名遣に關する研究の結果に基づいて居るのである。さうして契沖が歴史的假名遣を唱へてから、後の學者は多くは此の主義に從ひ、假名遣の標準を古代の文獻にもとめたから、古代の假名遣に關する研究は次第に盛になり、新な資料によつて契沖の研究を補訂したのみならず、從來知られなかつた新事實を發見するものも出て來るやうになつたのである。
抑、古代の言語の音韻組織を研究するに當つて、根本資料となるものは、古代の文獻に於ける音標文字の用法であつて、其の時代の人々が幾何の音を言ひ分け聞き分けて居たかは、當時の文獻に於て音標文字が如何に用ゐ分けられて居るかを見て推測するの外にないのであるから、古代の假名遣の研究は實に當時の音韻組織研究の基礎である。されば、古代の文獻に於ける假名遣の研究は、それ自身として注意すべきものであるのみならず、また國語音韻史の研究に多大の影響を及ぼすものであつて、國語學上甚重要な事項の一である。然るに在來の國語學史や國語學書の類に於ても、假名遣と云へば假名遣上の主義の問題とのみ解して、猶他に此の重要な一方面がある事を忘れて居ると見えて、此の方面に於ける假名遣研究の發達の跡を詳にしたものが無いのは甚遺憾なことと云はなければならない。
我々は今こゝに此の方面の假名遣研究史を述べようとするのではない。たゞ此の方面に於ける諸研究中最著しいものとして三つを擧げたいと思ふ。其の三つは、何れも古代の文獻に存する假名の用法上の特質を發見して、國語音韻史の研究上に大なる貢獻をなしたものである。その三つとは、契沖の和字正濫鈔、奧山
假名遣奧山路は、本居宣長の弟子であつて古言清濁考の著者なる石塚龍麿(天保六年歿)の著である。全部三卷、寫本で傳はつて居る。其の成稿の年代は明でないが、卷頭にある稻掛大平の序に寛政十年九月十五日の日附があるから、それより前の著である事だけは確實である。此の書は本文の前に總論と名づくべきものと、古事記日本紀萬葉集假字と題する萬葉假名の表とがあるのであるが、此の萬葉假名の表は、記紀萬葉に用ゐられたあらゆる眞假名を集めて五十音順に排列し、同音の假名は更に古事記日本紀萬葉集と區別して擧げたものである。本文は、アイウエオ以下の諸音に如何なる假名を宛てたかを示したものであつて、先づ五十音の順序によつて「あ」「い」「う」以下の諸部を立て、各部には其の音(例へば「あ」部にはア音「い」部にはイ音)を含んだ諸語を擧げて其の音に如何なる假名を用ゐるかを註し、且古書に於ける實例を示したものである。第一卷にはあか兩行を、第二卷にはさ行からは行までを、第三卷にはま行からわ行までを收めてある。
此の書は、普通の假名遣書の如く「い」「ゐ」「え」「ゑ」「お」「を」などの假名遣に就いて説いたものではなく、古事記日本紀萬葉集など奈良朝の文獻に存する假名の定まりに就いて研究したものである事、總論の最初の左の文によつて明である。
上つ代には其の音おなじきも言によりて用ふる假字定まりていと嚴然になむありつるを、奈良の朝廷の末などより此
差別 のみだれつと見えて、古事記日本紀萬葉集の外には證とすべきふみなし。しか定まれるはいかなるゆゑともしれねども、古 事 解 にはたすけとなる事いとおほしとは世々の識 人 のいまだ見得ざりし事なるを、我師の君のはじめて見得たまひて古事記傳にかつ/\論らひおかれたる、おのれ其論によりて此ふみをあらはしてその定まりをくはしくわきたむ。
併しながら、こゝに云ふ假名の定まりとは如何なる性質のものであるかといふに、これに就いては、此の書の著者は十分の説明を與へて居ないのであつて、總論を讀んでも之を明にする事が出來ず、此の書の研究の據なる古事記傳の説を見てもやはり明亮な觀念を得られない。(古事記傳の説は後に全文を出す)故に我々は親しく此の書の内容を觀察して之を知るの外ないのである。先づ此の書の初めの萬葉假名の表を見るに、此の表は五十音に分つて多くの同音の假名を集めたものであるが、其の中に(一)同音の假名を擧げて最後に「皆通用」と註したものと、(二)同音の假名を二類に分つて其の各類の終に一々「通用」と記したものとの兩種がある。例へば「い」部「う」部などは、
い 古 伊 紀 伊以異易怡壹 万 移以異已壹伊 皆通用
う 古 宇汙 紀 宇汙紆于禹羽 万 宇汙于烏有雲羽 皆通用
とあつて(一)の種類に屬し、「え」部「よ」部などは、
え 古 延 愛 紀 愛哀埃通用 延曳叡 通用 万 衣依愛 通用 延要叡曳 通用
よ 古 余與豫通用 用 紀 與豫預余譽通用 用庸通用 万 余餘與譽通用 用欲容 通用
とあつて(二)の種類に屬する。又清濁兩音ある假名では、たゞ清と濁とを分つたのみのものと、清と濁とを更に各二類に分つたものとがあるが、これは前掲の(一)と(二)との兩種に相當するものであつて、別のものではない。例へば、「か」部の如きは、
か 古 甲訶迦加可 濁音賀我何 紀 加伽迦箇介訶軻柯舸哿可河歌甲 濁音餓俄〓 峨鵝我
万 加迦架嘉可哥箇香甲 濁音何河我賀 皆通用
とあつて(一)に屬し、「き」部の如きは、
き 古 伎岐吉棄通用 紀幾貴通用 濁音 岐藝通用 疑 紀 枳企耆祇吉己棄伎支岐祁既通用 氣基幾機紀奇通用
濁音疑擬通用 藝〓 儀蟻通用 万 吉伎企枳棄忌支通用 紀奇寄綺騎貴通用 濁音疑宜義通用 藝祇通用
とあつて(二)に屬する。
かくの如く、あらゆる假名は、此の兩種の何れかに屬するのであるが、假名の下に通用と註したのは、總論に、
假字をあげたる下に通用としるせるは、通ふかなをしめしたるなり。其例をいはゞ「きのふ」のごとき伎 を用ふとあるとも、伎をのみかぎりて用ふるにはあらず。吉 枳などを用ひても違ひなし
とあり又、
子小男彦 のこには古事記には古 をのみ用ひたるに書紀にはひろく古姑 故固枯 胡孤顧 などをも用ひたり(これら皆古に通ふかななり。許己擧據居虚去莒などをば一つも用ひず。こは皆許にかよふかななるがゆゑなり。古と許のけぢめ古事記に明らけし)。又辭のけには祁鷄稽家啓(皆祁に通ふかななり。古事記には祁の字をのみ用ふ)を用ひて氣開概階戒凱居(皆氣に通ふ也)などをば用ひず。
とあるに據れば、明に、此等の假名を通はして用ゐるといふ義であつて、(一)に屬するものは同音の假名悉く相通はして用ゐ、其の間に何等の區別なきに反し、(二)に屬するものは同音の假名が二類に分れて、同類のものは相通じて用ゐるが、異類のものは互いに通ずる事なく、其の間に劃然たる區別がある事を示したものと解せられる。五十音の中、アイウオカクサシスセタツテナニネノハフホマムヤユラリルレワヰヱヲの三十二は(一)に屬し、エキケコソトヌヒヘミメヨロの十三は(二)に屬する。チとモとは古事記に於ては(二)に屬して何れも二類に分れて居るが、日本紀と萬葉集とに於ては混用せられて居る。(註)
以上は萬葉假名の表に於て觀られる假名の區別であるが、次に本文に就いて觀るに、やはり(一)に屬するものと(二)に屬するものとの間には差異があるのであつて(一)の種類に屬するものは「用ひざま定まりなければあげず」とて全く語を擧げないか又は地名人名神名など特殊の語に於ける假名の定まり(例へば、國名及び人名のイガのガには賀を用ゐて他の字を用ゐないといふ類)を擧げたばかりであるが、(二)の種類に屬するものは、各部を更に二類に區別し、その各類に屬する語を分ち擧げてある。例へば「え」部には「衣」と「延」との二類を立て、「衣」の下には、
え(得) え(「え見ず」などの) 「え」(「えもなづけたり」の) え(善) かえ(人名) えひめ(地名) えみし(夷) えつり(蘆雚) みえり(地名) えくるしゑ
の諸語を擧げ、「延」の下には、
え(「れ」に通ふもの) え(江) え(「よ」に通ふもの) 云々え(ヤイユエと活用する言に用ふるもの) えだ(枝) えび(帶) こえ(越) ふえ(笛) さえ(采) ぬえ(鵼) ふかえ(地名) くえびこ(神名) やがはえ
の諸語を擧げ、「よ」部には「用」と「余」との二類を立てゝ「用」の下には、
よ(夜) 「よ」(
ユ エに通ふもの) より(從) よぶ(呼) あよ(地名) まよ(眉) よだち(役) かよふ(通) きよし(清) まよふ(迷) まよひ(紕) たよら(搖く貌) さよひめ(人名) なよたけ(嫋竹) いさよふ(猶豫) かゞよふ(炫) たゞよふ(飄流) あさよひ(晝夜) よぶことり(鳥名)
の諸語を擧げ、「余」の下には、
よ(世、代) よ(辭) よ(節) よき(避) よこ(横) よし(吉) よし(縁) よし(辭) よそ(外) よち(同齡の童子) よぢ(攀) よど(淀) よひ(宵) よむ(算) よみ(黄泉) よる(寄) そよ(物の音) とよ(豐) いよ(國名) ほよ(寄生) よそふ(人名) よそひ(裝) よそり(縁) よそへ(准) よすが(因處) よしぬ(地名) よさみ(姓又は地名) よもぎ(蓬) よゝむ(舌の廻らぬ) よろぎ(地名) よろづ(萬) よろし(宜) よろふ(具) いよゝ(彌) およし(老人) とよみ(動騷) ひとよ(一枝) とこよ(常世) よさづら(吉葛) 某よりひめ(人名) およづれ(妖言) なまよみ(枕詞) にこよか(笑ふ貌) つくよみ(月) はしきよし(愛)
の諸語を擧げてゐる。かくの如く(二)の種類に屬するものに於ては各部が悉く二類にわかれて居るのであつて、その各類を此の書では次の如き假名で代表せしめて居る。
類 別
{
え 衣 延
清 紀 伎
き{
濁 疑 藝
け(清) 祁 氣
清 古 許
こ{
濁 呉 碁
そ 蘇 曾
清 斗 登
と{
濁 度 杼
ぬ 怒 奴
清 斐 比
ひ{
濁 備 毘
清 幣 閉
へ{
濁 辨 倍
み 微 美
め 賣 米
よ 用 余
ろ 漏 呂
ち 智 知 此の假名は古事記の外には區別して用ゐてない(註)
も 母 毛 同 前
此の類別は、萬葉假名の表にある此等の假名の兩類の別に相當するものであつて、假名の表には多くの同音の假名が兩類の何れに屬するかを示し、本文には兩類の假名が各如何なる語に用ゐられるかを示したものである。
以上述べ來つた所によれば、此の書は記紀萬葉等に於ける假名の用法上の定まりを研究したものであつて、多くの假名は同音のもの相通じて用ゐられるに反し、「え」「き」「け」以下十三(古事記では十五)の假名は各兩類に分れ、同類は相通ずるけれども異類は互に通ずる事なく、其の何れを用ゐるかは語によつて定まりある事を明かにしたものである。
抑、假名の定まりには二つの種類がある。一は、多くの同音の假名の中、或る一つのみに限り、其の他のものを用ゐないもの、一は必しも一つと限らず、他のものをも用ゐるけれども、其の用ゐる假名に制限があつて、同音の假名全部に及ばないものである。即、一は眞の文字の定まりであり、一は文字の通用範圍の定まりである。地名人名など特殊の語に於ける假名の定まりは前者に屬し、假名のつかひわけ即假名遣の如きは後者に屬する。さうして此の兩種の假名の定まりと音韻との關係を考へて見るに、前者は多くは前の時代からの習慣に從つたものであつて、當時の音韻には關係なき、文字だけでの定まりであるに反し、後者は通常當時の言語に存する音韻の差別に因つて起つたものである。勿論前者とても一層古い時代の音韻状態を表はすものもあるから、漫然觀過する事は出來ないけれども、其の時代の音韻組織を研究する資料として多大の價値あるものは云ふまでもなく後者である。
假名遣奧山路に於て論じた假名の定まりは如何なる種類のものであるかといふに、「え」「き」「け」以下十三音の假名に關するものは同音の假名のつかひわけ、即假名の通用範圍の定まりであつて純然たる假名遣の問題である。しかるに此の書には、全體としては用法に制限の無い假名でも、地名人名神名等特殊の語に於て定まりあるものは之を擧げたのであつて、此等は、其の文字のみを用ゐて他の文字を代用しないものである。故に此の書に云ふ所の假名の定まりは、兩種のものを含んで居るのである。しかしながら、此の書の大部分を占めて居るのは「え」「き」「け」以下十三音の假名遣に關するものであり、我々が特に此の書に重きを置くのも亦主として此の假名遣に在る事は云ふまでもない。
假名遣奧山路に於ける龍麿の研究は、其の總論に明記して居る如く、古事記傳の説に基づいたものである。古事記傳の説とは、同書卷一、假字の事の條に見えて居るものであつて、古事記の假名の用法に關する宣長の研究の一節である、其の全文は左の如くである。
さて又同音の中にも、其言に隨ひて用フる假字異にして各定まれること多くあり。其例をいはゞ、コ の假字には普く
許 古 二字を用ひたる中に、子 には古字をのみ書て許字を書ることなく(彦 壯士 などのコも同じ)メの假字には普く米 賣 ノ二字を用ひたる中に、女 には賣 ノ字をのみ書て米 ノ字を書ることなく(姫 處女 などのメも同じ)キには伎 岐 紀 を普く用ひたる中に、木 城 には紀をのみ書て伎岐をかゝず、トには登 斗 刀 を普く用ひたる中に、戸 太 問 のトには斗 刀 をのみ書て登をかゝず。ミには美 微 を普く用ひたる中に、神 のミ木草の實 には微 をのみ書て美 を書 ず。モには毛 母 を普く用ひたる中に、妹 百 雲 などのモには毛 をのみ書て母 をかゝず。ヒには比肥を普く用ひたる中に、火 には肥 をのみ書て比 をかゝず。生 のヒには斐をのみ書て比肥をかゝず。ビには備 毘 を用ひたる中に、彦 姫 のヒの獨リには毘 をのみ書て備 を書ず。ケには氣 祁 を用ひたる中に、別 のケには氣 をのみ書て祁 を書ず。辭 のケリのケには祁 をのみ書て氣 をかゝず。ギには藝 を用ひたる中に、過 祷 のギには疑 字をのみ書て藝 を書ず、ソには曾 蘇 を用ひたる中に、虚空 のソには蘇 をのみ書て曾 をかゝず、ヨには余 與 用 を用ひたる中に、自 の意のヨには用 をのみ書て余 與 をかゝず、ヌには奴 怒 を普く用ひたる中に、野 角 忍 篠 樂 など後ノ世はノといふヌには怒 をのみ書て奴 をかゝず、右は記中に同ジ言の數 處 に出たるを驗 て此レ彼レ擧たるのみなり。此ノ類の定まりなほ餘 にも多 かり。此レは此ノ記のみならず、書紀萬葉などの假字にも此ノ定まりほの/″\見えたれど、其 はいまだ徧 くもえ驗 ず。なほこまかに考ふべきことなり。然れども此記の正しく精しきには及ばざるものぞ。抑此事は人のいまだ得見顯さぬことを、己 始メて見得たるに、凡て古語を解く助となることいと多きぞかし。
龍麿は此の宣長の説を端緒として研究を進めたのであつて、宣長の研究は古事記のみに限られて居たのを、龍麿は廣く奈良朝の文獻に及ぼし、日本紀萬葉集其他についても精密に調査したのである。其の結果、宣長の説を確かめたばかりでなく宣長もまだ想ひ及ばなかつた新事實を發見するに至つたのである。
宣長が古事記傳に於て指摘した假名の定まりは、コには普く許古の二字を用ゐた中に、
かくの如く龍麿の研究は宣長の研究を繼承したものであつて、全然獨創的のものとは云ひ難いけれども、其の得た結果は全く新しいものであつて、此の特殊な假名遣を發見した功績は全然龍麿に歸すべきものである。宣長は唯其の端緒を開いたに過ぎない。
假名遣奧山路に於て研究の資料としたものは、主として古事記日本紀萬葉集の三つであるが、猶其の他に佛足石歌、續紀宣命、出雲風土記などから、姓氏録、儀式帳、延喜式、古語拾遺、菅家萬葉、和名鈔、台記別記などまでも參照したと見えて其の名が書中に散見して居る。龍麿は此等の資料について調査した結果、アイウ以下の多くの假名に於ては同音のもの相通じて用ゐられるが、エキケ以下十三音の假名は各二類に分れ其の間に用法上の差別がある事を明にしたのである。さうして此の十三音の假名遣は、
奈良の朝廷の末などより此差別のみだれつと見えて古事記日本紀萬葉集の外には證とすべきふみなし(總論。但し、古言別音鈔に引用したものには「證とすべき書いと少し」とある)
とある如く、記紀萬葉以外の諸書に於ては正しくないものが多いのであるから、此の三書以外のものは多くは此の假名遣の存在を證する資料とする事が出來ないものである(但し、此の書には「後世の書にても此三書に合へるをばとりつ」とて此等の諸書からも例を擧げて居る)。然らば記紀萬葉の三書は絶對的に正しいものかと云ふに、必しもさうでない。總論にも「古事記は正しき書にしてたがへる事はをさ/\なきを書紀萬葉には
併しながら、龍麿の研究は、飽くまで事實に忠實である。自己の考によつて事實を枉げ又は隱す事が無かつた。これ實に尊重すべき所である。例外とても事實であれば止むを得ないが、此の書に例外として擧げたものゝ中には、研究の不完全な爲知らず/\事實を謬つたものが少くないのである。其の研究の不完全であつた第一の點は、資料とした諸書の校合が不充分であつた事であつて、其の爲轉寫の誤に心づかず多くの例外を出したのである。例へば「咲ける」「長けむ」の「け」には
此の書の研究の不完全であつた第二の點は文法上の考が十分明でなかつた爲當然分つべきものを混同した事であつて、其が爲正しいものを正しくないとした所が少くない。例へば、萬葉集卷十九、三十五丁の「いは
以上の如き諸點は、勿論缺點であるけれども、日本紀や萬葉集などの本文研究もまだ進歩せず、文法に關する知識も不完全であつた當時のことであるから猶恕すべき點がある。けれども、かくの如くして實際あるよりも多く例外を出した結果、例外に慣れて遂に重大なる過失を犯すに至つたのは最悲むべき事である。重大なる過失とは萬葉集中の東國語を例證とした事である。自分の研究によれば、十三音の假名遣が行はれて居たのは、我が國の中央部であつて、恐らくそれ以西の諸地方にも及んで居たであらうが、東國には及ばなかつたのである。萬葉集卷十四の東歌、殊に卷廿なる防人歌に此の假名遣の亂れたものが甚多いのは此の爲である。然るに此等の歌を採つて例證としたのは誠に大なる缺點であつて、東國語を除き去れば此の書に擧げた例外は著しく其の數を減ずるのである。
此の書の缺點は唯これのみではない。假名の類別に於て、「け」の清音に二類の別ある事を認めながら其の濁音に二類の別を立てなかつた事、
かやうに假名遣奧山路に於ける龍麿の研究は猶缺點が少くないのであるけれども、而も龍麿の發見したエキケ以下十三音の假名遣は、奈良朝の文獻に於ける假名の用法を精査した結果であつて、動かし難い基礎の上に立つて居るのであるから、大體に於て確實なものと云はなければならない。然らば、此等の假名に兩類の別があるのは何に由るかといふに、龍麿は「上つ代にはその音おなじきも言によりて用ふる假字定まりていと嚴然になむありつるを」(總論)と云つて居るから、音には關係なく唯文字だけでの定まりと考へて居たやうに思はれるけれども、其のすぐ後に、「しか定まれるはいかなるゆゑともしれねども」とあるのを觀れば、これに就いて確實な意見を有して居なかつたやうに思はれる。しかしながら、古言別音鈔に引用した假名遣奧山路には「今の世にては
かやうに、奧山路の説は本によつて相違があつて、何れが龍麿の本意であるかわからないが、自分は古言別音鈔所引のものが後になつて得た説ではあるまいかと考へる。しかしながら、龍麿が果してこれを音韻の別に因るものと認めたとしても、其の一々の音が如何なるものであるかに就いては龍麿は何等の意見をも述べて居ないのである。さうして此の問題については自分の研究も未だ定説を得るに至らないが、エ音の假名の兩類の別が阿行と也行のエ音の別(即、eとyeの別)に相當するものである事、古言衣延辨や大矢透氏の研究の結果と對照して明であるのを觀ても、此等の假名の區別が奈良朝又は其以前にあつた音韻上の差別に基くものである事は略疑の無い所である。果して然らば、奈良朝又はそれ以前に於てはこれまで考へられて居たよりも多くの音の種類があつたのであつて、上代の音韻組織に關する從來の見解は多大の改訂を要するのである。しかのみならず、語源語釋訓解並に用言の活用に關する從來の諸説は此の新な光に照して再査しなければならないのであり、古書の校定や時代鑑別の際にも亦此の事實を無視する事は出來ないのである。實に龍麿の發見した所のものは國語學上の事實であるけれども、其の影響する所は國語學のみに止まらず、苟も奈良朝の文獻を以て其の研究資料とするあらゆる學術に及ぶのである。其の結果は誠に重大であるといはなければならない。
併しながら、我々は此の重大なる新事實の發見に眩惑して猶他の方面に於ける龍麿の功績を觀過してはならない。それは、龍麿が十三音以外の假名に於ては同音のものはすべて相通じて用ゐられ、用法上何等の差異が無い事を明にした事である。
我が國古代の文獻に於ける假名の用法を見るに、同一の音は必同一の文字によつて表はされて居るのではなく、同音に對して種々の異體の假名が用ゐられて居るのである(此の事は片假名や平假名に於てもさうであるが、殊に萬葉假名に於ては著しい)。故に我々は、今日多くの異體の假名を同音に讀んで居るのであるが、此等の假名が古代に於てもやはり同音であつたといふ事は、此等の多くの假名について一々其の用法を檢し、此等の假名が古代に於ても何等の區別なく相通じて用ゐられて居た事を確かめた上でなければ斷言することが出來ないのである。もし今日之を同音に讀むといふ理由で、直に古代に於ても同音であつたと定めるならば、今日の發音で同音になつて居る、
要するに假名遣奧山路は奈良朝の文獻に存するあらゆる假名の用法に就いての根本的研究であつて、我が國古代の音韻組織に關する研究は、こゝに初めて確實な基礎を得たものと云ふべきである。
假名遣奧山路に於ける研究が、國語假名遣研究史上に如何なる位置を占めるかを考へるについては、先づ假名遣に關する研究が如何に發達して來たかを見る必要がある。
我が國ではじめて假名遣といふ考の起つたのは何時頃であるか確にはわからないけれども、既に鎌倉時代の前半には假名遣の事を説いた書があつたやうであるから、遲くも鎌倉時代の初、恐らく平安朝末期であつたであらう。さうして當時如何にして假名遣といふ考が起つたかといふに、從來の説では、平安朝の半以後、國語音韻に變化を生じて「い」「ゐ」「え」「ゑ」「お」「を」等が同音となつた事を以て其の原因として居るのであるが我々の見る所では、此の説明は謬ではないけれども、猶一つの重要な要素を逸して居る。其の要素とは、當時の人が「い」と「ゐ」「え」と「ゑ」「お」と「を」など同音の假名を、其の音が同一であるにも拘らず、假名としては別々のものと考へて居た事である。抑、當時の文獻について假名の用法を見るに、同音を表はす假名は必しも常に同一のものではなく、同一の音に對して種々の異體の假名が併用せられて居るのであるから、「い」と「ゐ」「え」と「ゑ」などが、發音上區別を失つて、共にイエの音となつた以上は、イ音に對して「い」と「ゐ」を用ゐ、エ音に對して「え」と「ゑ」を用ゐるのは、カ音に對して「か」と「か」「か」などを用ゐ、キ音に對して「き」と「き」などを用ゐるのと少しも違つた所が無いのである。しかも「か」と「か」「か」、「き」と「き」などの間の區別は問題とならずして、「い」と「ゐ」「え」と「ゑ」「お」と「を」などのみが問題となつたのは何故かといふに、當時の人は「か」「か」「き」「き」等を同じ假名の異體と認めて居たに反し、「い」「ゐ」「え」「ゑ」等は之を別の假名と考へて居たからである。若し、「い」「ゐ」「え」「ゑ」等を別の假名と考へる事がなければ、其のつかひわけに就いて疑問の起る筈はないのである。然らば如何にして此等の假名を別のものと考へたかといふに、我々は、當時盛に行はれて居た伊呂波歌に於て此等の假名が別のものとしてあらはれて居るからであると考へる。かやうにして、音韻の方では區別の無いものを假名としては別のものと考へて居た爲、同音に對して二種以上の假名がある事となつて、こゝに初めて何れの假名を用ゐるかとの疑問が起つたのである。これ即假名遣といふ考の起源である。故に我々は平安朝半以後に於ける音韻組織の變化と、平安朝の末に行はれた伊呂波歌とを以て假名遣といふ考の起つた根本原因と認めるのである。
假名遣に關する諸書の中、年代の略明なものでは下官集を最古とする。此の書は文永年間の書寫の奧書があつて、鎌倉時代の半には既に出來て居たのである。此の書の中の嫌文字事と題する一條が假名遣に關するものであつて、甚簡單なものであるが、世に定家假名遣と稱せられて居る假名文字遣は、かやうなものを基礎として、増補を加へたものらしく考へられる。定家假名遣は音の輕重四聲等によつて定めたものゝやうに云はれて居るけれども、この下官集の假名遣は古寫本に於ける實例によつて定めたものと思はれるから、其の主義から云へば寧ろ歴史的假名遣である。故に此の書に擧げた所のものは主として古書に存する實例であるけれども、其の典據とした所のものは多くは平安朝末期の寫本らしく、此等は既に假名遣の亂れた時代のものであるから、假名の用法が一定しないものもあつた爲、下官集や假名文字遣にも兩樣になつて居るものもあつて、之を假名遣の標準として見れば統一を缺いて居る。唯其の時代に於ける假名遣の實際を窺ふ資料とする事が出來るのみである。
鎌倉時代の末又は南北朝の頃に、行阿が下官集の如きものを増補して假名文字遣を作つてから契沖の出るまでの間に出來た假名遣に關する諸書は、殆皆假名文字遣を祖述したものであつて、中には活用や天爾遠波の研究の萌芽となつたものもあるけれども、假名遣の研究、殊に古書に於ける假名遣上の事實を闡明するといふ方面の研究は殆皆無である。唯南北朝の頃成俊の記した萬葉集の跋中に、萬葉集の假名遣が定家假名遣に一致しない事を説いたのだけは注目すべきものである。
契沖の假名遣研究の特色は、古書に於ける假名遣を調査して平安朝初期以前に於ては「い」「ゐ」「え」「ゑ」「お 」「を」等の區別が嚴然として少しも亂れない事を發見し、此の時代の用例を以て假名遣の規範と定め、以て從來曖昧であつた假名遣の標準を明にした點にある。其の結果の斬新にして重大なる事、誠に空前と云ふべきである。併しながら、其の研究の項目について見るに、殆全く假名文字遣に等しく、適これに無いものも、すべて契沖以前の書に見えて居るのであつて、一も新しいものは無い。されば契沖の研究は、自らも定家假名遣の誤を訂すと云つて居る如く、假名文字遣以下の研究を承けて起つたものであつて、契沖は、唯之に新な解決を與へたに過ぎないのである。古言梯、わかゝつら其他契沖以後の古學者の研究は、殆皆和字正濫鈔に於ける契沖の研究を精密にし、且増補を加へたものであつて、何れも正濫鈔の末流と見るべきものである。彼の契沖もまだ心づかなかつた阿行のエと也行のエとの區別が古書に存する事を發見した古言衣延辨も、亦正濫鈔以下の研究の結果、伊呂波歌、五十音圖等に於て別の假名とせられてゐる「い」「ゐ」「え」「ゑ」「お」「を」等が、實際古書に於て用ゐわけられて居る事を明にしたのを見て、これと同じく五十音圖で區別せられて居る阿行のイエと也行のイエ、及び阿行のウと和行のウの別が實際古書にあるや否やを研究したものであつて、やはり正濫鈔以下の研究を繼承して擴充したものといふべきである。されば以上の諸研究は皆同じ系統に屬し、我が國に於ける最初の假名遣研究から前を承け後に傳へて漸く發達し來つたものといふことが出來る。
然るに假名遣奧山路に於ける研究は、古事記傳の説から出發したものであるが、古事記傳の説は宣長が親しく古事記の假名の用法を觀察して得た結果であつて、全く宣長の獨創に出たもので他に其の源泉を求める事は出來ない。但し宣長が古事記に於ける假名の定まりを發見したに就いては都合の好い事情があつた事だけは認めなければならない。それは古事記の假名の用法が同音同字主義である事である。古事記の撰者は、古語を誤なく傳へ曖昧を避ける爲に、同音のものにはなるべく同じ假名を用ゐ、同音に二種以上の假名を用ゐる事を避けたのである。もとより地名人名などには慣用の文字を其のまゝ採用した爲、此の主義は十分押し通す事は出來なかつたけれども、其の用意だけは明に認められる。若し此の主義が十分嚴重に守られたならば、同じ語は常に同じ文字であらはされる筈であるが、實際に於ては同音に二三種乃至六種までの假名を用ゐた例もあり、又後世の轉寫の誤なども混じて居るから、同語は必しも常に同じ字であらはされて居ないけれども、大體に於て此の主義が行はれて居る爲、精密に觀察すれば、特殊の語に於て其の假名の常に同一である事が觀取せられる。宣長が古事記傳に於て指摘したのはかやうな諸例であつて、之を見出したのは宣長の鋭利なる觀察によるとは云ひながら、もし日本紀や萬葉集の如く同音に對して多樣の假名が用ゐられて居たならば、宣長の烱眼を以てしても、恐らく之を發見する事が出來なかつたであらう。されば宣長が古事記に於ける假名の定まりを發見したのは古事記撰者の同字同音主義の賜であつて、太安萬侶の細心が、千歳の後宣長の烱眼に觸れて光を發したのである。
併しながら、古事記撰述の際に於ける假名の選擇の如きは勿論假名遣上の研究といふべきほどのものでないから、奧山路に於ける假名遣研究の源流は宣長から出たものであつて其以上に遡る事は出來ないのである。されば、宣長に萌芽し龍麿に至つて實を結んだ此の新な假名遣研究は、我が國に於ける最初の假名遣研究以來、一系に續いて來た正濫鈔や衣延辨其他の研究とは系統を異にするものであつて、其の創始の年代から看て彼を舊系統と名づければ、これは新系統と名づくべきものである。
此の新舊兩系統の假名遣研究は其の發達の徑路に於て各其の趣を異にする。第一に舊系統の假名遣研究は、最初から假名遣の問題として起つたものである。即、同音の假名を如何につかひ分くべきかとの疑問から出發して種々の研究があらはれたのである。然るに新系統のものは、最初は純然たる假名遣(即同音の假名のつかひ分け)の問題でなく、唯特殊な語に於ける假名の定まりと認められて居たのが、研究が進むと共に、單に特殊な語に於ける定まりではなく同音の假名全體に亙る用法上の區別である事が明になつて、初めて假名遣の問題となつたのである。第二に舊系統の研究に於て古書の假名遣を研究したのは、當時實際に用ゐるべき假名遣の標準とせんが爲であつて、古書に存する事實を闡明するのを目的としたのではない。即、古書の假名遣を研究したのは實用に資せんが爲の手段であつたのであるが、後になつては之を目的とするものが出るやうになつたのである。前述の如く、下官集の假名遣は古寫本に於ける實例によつたものと思はれるが、古寫本に於ける假名遣を調査した目的は假名を書く時の模範とするに在つたのである。契沖の假名遣研究の目的も亦さうであつたらしく、古言衣延辨などに至つて、初めて古代の假名遣を明にするのを目的としたやうに思はれる。かやうに舊系統のものは實用上の問題から始まつて古書に存する事實の研究に及んだのである。然るに新系統のものは、古事記に於ける假名の用法の研究に始まつて、遂に一般に奈良朝の文獻に於ける假名の用法に及んだのであつて、其の研究の目的は、最初から此等の諸書に於ける事實を明にするに在つたのである。若し其の他に目的があるとすれば、それは古語を解釋する時の標準とする事のみであつたであらう(それもやはり古書に於ける事實を闡明せんが爲である)。但し龍麿は、かの奈良朝時代に特殊なる假名遣を以て萬葉假名でもの書く時の標準とするやうに説いたけれども、これは寧ろ此の假名遣を發見したから起る自然の結果であつて、最初から此の事を目的として研究を始めたとは思はれない。されば舊系統のものは假名遣の標準とせんが爲めに古書の假名遣を研究し、新系統のものは古書に於ける假名遣を研究した結果、おのづから新な假名遣の標準が生じたものと云ふべきである。
新舊兩系統の間には以上の如き諸點の外に猶一層著しい差異がある。舊系統に屬する諸研究は、たとひ其の得た結果は新しいものであつても、其の研究事項は決して新しくないのである。和字正濫鈔は「い」「ゐ」「え」「ゑ」「お」「を」等の別が古代の文獻に存する事を初めて明にしたものであるけれども、此等の假名は既に伊呂波歌に於て別のものとせられ、其のつかひ分けは假名遣といふ考が初めて起つた時から問題となつて居たのである。「ぢ」「じ」「づ」「ず」の別の如きは假名文字遣には見えないけれども、それでも正濫鈔以前の諸書に論ぜられて居るのであつて、正濫鈔に於て始まつたものではない。古言衣延辨は阿行と也行のイ、阿行と和行のウ、阿行と也行のエについて研究し、阿行のエと也行のエと用法上の別ある事を明にしたものであつて、其の結果は新しいけれども、此等の假名は五十音圖や天地の歌に於て別のものとなつて居り、其の區別は從來學者の間に論ぜられて居たのである。かくの如く舊系統に屬する諸研究は、從來問題となつて居た事項を古書に存する事實について研究したものであるから、其の得た結果は、事實としては新しくとも思想の上ではさほど珍しいものではない。然るに新系統なる假名遣奧山路の研究は、古書に於ける假名の定まりを調査するのを目的として遂に十三音の假名遣を發見するに至つたのであるが、かやうな假名遣のある事は從來何人も思ひ寄らなかつた事であつて、唯事實として新しいばかりでなく思想の上に於ても全く新しいものである。さうして正濫鈔や衣延辨に於て明にした假名の別は、伊呂波歌、天地の歌、五十音圖などにも區別があつて、從來問題となつて居たのであるから、人の注意を惹き易く、從つて其の研究に手を着けるものもあり易い譯である。然るに、奧山路に於て明にした假名の區別は、五十音圖其他從來知られて居た音韻並に文字上の區別に該當しないものであつて、未だ想も及ばなかつた新事實である。かやうなものは容易に人の心づかないものであるから、其の研究を起さしむる契機たるべきものを得がたい。もし人の注意を喚起するものがあるとすれば、それは、其の事實の端々が或特別な場合に表はれて居るものより外にないのである。宣長が古事記に於て假名の定まりを見出したのは、この特殊な假名遣が特殊な語の上に表はれて居るのを觀取したのであつて、これが龍麿の新假名遣發見の端緒となつたのである。何等の疑問もなく何等の目標もなくして研究を始める事は殆んど不可能であるから、若し宣長の研究が無ければ龍麿の研究も起らず、從つて此の假名遣の發見も無かつたであらう。我々はかやうな意味に於て、宣長の研究が新系統の假名遣研究の發達史上に重要なる位置を占めるものである事を否む事は出來ない。
かやうに、舊系統の研究は思想が先にあつて事實の研究を喚び起したものであるに反し、新系統の研究は初から事實について調査したものであるから調査の進むに從つて想ひがけない新事實を發見したのである。さうして、かやうな新舊兩系統の相違は又他の方面に於て重大な差異を生ぜしめた。舊系統のものに於ては、其の研究の範圍は、「い」「ゐ」「え」「ゑ」「お」「を」、語中語尾の波行と和行の假名、「じ」「ず」「ぢ」「づ」、阿行の「え」と也行の「え」など一部の假名に限られ、其他のものには及ばなかつたのであるが、新系統のものに於ては其の研究があらゆる假名に及んで居る。これは、舊系統の諸研究は從來問題となつて居た事項を解決せんが爲めに起つたものであつて、その問題となつて居たのは、發音同じくして而かも伊呂波や五十音で別のものとせられて居る假名だけであつた爲、其以外のものは全く顧られなかつたのである。然るに新系統に屬するものは最初から直に事實に就いて假名の定まりを研究したのであつて、如何なる假名に定まりがあるか全く豫測する事が出來なかつた爲、あらゆる假名に就いて調査しなければならなかつたのである。其の結果十三音の假名遣を發見したと共に其他の假名に於ては同音のものすべて相通用することを確かめ得たのである。さうして、あらゆる假名に亙つてのかやうな研究が、いかに價値あるものであるかは前に述べた所によつて明である。
以上述べ來つた所によれば新系統の假名遣研究は舊系統のものに比して種々の特色を有し、これに優るとも劣らぬ立派な效果を擧げたのである。
假名遣奧山路の假名遣研究史上に於ける位置を明にする爲、之を舊系統に屬する諸研究と對比して見よう。
假名遣奧山路は、新系統に屬する研究の中で、初めて古書に存する假名の用法上の特質を發見して新な假名遣を樹てたものであつて、舊系統に屬する諸研究中此の點に於てこれに比すべきものは、和字正濫鈔と古言衣延辨とがあるのみである。然るに、衣延辨はイウエの三音の假名について研究し、エ音の假名に兩種の別ある事を明にしたものであるが、この研究は奧山路の研究中イウエの三音に關する部分と同じ事である。唯奧山路では奈良朝に於ける實例の上からエ音の假名に兩類の別ある事を明にしたのみで、その別は何に基づくものであるかについては解釋を下して居ないのであるが、衣延辨では奈良朝のみならず平安朝の初期にも其の別ある事を明にし、且この兩類の別は阿行と也行のエ音の別である事を論證したのである。即、奧山路は、唯事實を發見したのみで、其の事實の解釋には及ばなかつたが、衣延辨に於ては事實の調査を一層精密になしたと共に其の解釋をもなしたのである。かくの如く衣延辨の研究は奧山路よりは完備し且進歩したものであるけれども、其の主要なる部分、殊に基礎たる事實の調査は大抵奧山路に於てなされて居るのであり、且其の成稿の年代も衣延辨は三十年ばかりも後れて居る。故に衣延辨の研究は奧山路の研究の一部を増訂し大成したものと看做しても好い位である。かくの如く、奧山路は衣延辨よりも前に衣延辨の研究の大部分を成し遂げて居るのみならず、奧山路の研究は唯二三の假名のみに止まらないのであつて其の範圍は衣延辨に比して遙に廣いのであるから、衣延辨は其の價値に於て到底奧山路と比肩しがたい。さすれば舊系統中にあつて奧山路に匹敵すべきものは、唯和字正濫鈔ばかりである。
和字正濫鈔は舊系統に屬する諸研究中初めて古書に存する事實に基づいて假名遣を樹てたものであつて、此の點に於て奧山路に一致する。今其の研究の成績について此の兩書を比較して見るに、正濫鈔は研究の範圍が一部の假名に止まつて居るのに奧山路はあらゆる假名に及んで居るのであるし、正濫鈔は、從來問題となつて居た假名の別が實際に存する事を確かめたばかりであるのに、奧山路は從來全く知られなかつた假名の別が古書に存する事を明にしたのであつて、其の研究の範圍の廣汎な事に於て、又得た結果の斬新な點に於て、奧山路は遙に正濫鈔の上に出て居る。しかしながら、契沖の假名遣研究は其の得た結果が重大であつたばかりでなく、契沖が用ゐた歸納的科學的の研究法が後世に影響を及ぼした事多大であつて、以後の學風は爲に一變したのである。龍麿には、もとよりかやうな事なく、其の研究の方法は唯、契沖乃至宣長の跡を追うたに過ぎない。とは云へ、契沖自ら此の方法によつて研究したのは唯同音であつて異字と考へられて居た數箇の假名のみに過ぎなかつたが、奧山路に於て初めてあらゆる假名に及んだのである。されば契沖の創めた研究法は、假名遣の方面に於ては、龍麿に至つて初めて到るべき所まで到つたと云ふべきである。唯正濫鈔及び其の系統のものに於ては、其の研究は單に事實の調査のみに止まらず事實の解釋にまでも進み、音韻組織の問題にまで入つて居るのであるが、奧山路は事實の闡明に於ては大なる功績を擧げる事が出來たけれども、其の解釋に至つては大部分は未解決のまゝに殘して置いたのである。併しながら、これは難易同日の談でないからであつて、正濫鈔の研究でも多くの後の學者によつて、補訂せられて始めて完備の域に近づいた事をおもへば決して奧山路の著者を責むべきではない。
要するに假名遣奧山路は和字正濫鈔と共に國語假名遣研究史上の雙璧であつて、龍麿の名は契沖と相並んで永く學者の忘るべからざるものである。
假名遣奧山路の末書としては古言別音鈔(寫本一冊)がある。此の書は草鹿砥宣隆(明治二年歿)の著であつて、嘉永二年十一月八木美穗の序がある。其の體裁は奧山路に似て、開題と萬葉假名の表と本文(即、假名遣辭書)とから成つて居る。此の書は奧山路の研究を童蒙の爲に見易く抄出したものであつて、奧山路に説いた假名の定まりの中、一般に用法上の區別なき假名に關するものはすべて除き去り、唯エキケ以下十三音の假名遣に關するもののみとなし、萬葉假名の表も唯此の十三音に關するもののみを擧げ、表の體裁も、奧山路に、まづ古事記、日本紀、萬葉集と分ち、更に之を各二類に分つたのを改めて、最初から此等の假名を二類に分ち(一を汎用、一を單用と名づけた)、書名は一々の假名に符をつけて示すことゝしたから、十三音の假名の區別が判然と見わけられるやうになつたのである。又、本文も、奧山路の體裁を改めて、十三音の假名遣に關係あるあらゆる語を五十音順に排列して、一々の語にいかなる假名を用ゐるかを註したのであつて、同音の假名に用法上の別ある事を示すものとしては不適當であるけれども、既に其の別ある事を認めた上で、或語にいかなる種類の假名を用ゐるかを知るには便利である。又、開題中に「さて其假字の中に、アイウオカクサシスセタチツテナニネノハフホマムモヤユラリルレワヰヱヲの三十四音はいづれの語に何れの假字を用ゐても同じ事なり。エキケコソトヌヒヘミメヨロの十三音は音毎に假字二つに分れて互に混ずる事無し。濁音もまた然り」とあるのも、其簡單な言ではあるけれども奧山路に於ける研究の要點を明亮に言明したものであつて、かやうな明白な説明は奧山路の中に於ても決して見出す事が出來ないのである。
かやうに此の書は奧山路に於ける研究の結果を簡約に明亮に説明したものとしては、よく其の目的に適つたものであるけれども、これを假名遣の研究として觀れば、極めて價値の少いものであつて、其の所説は一歩も奧山路以外に出た所なく、全部奧山路の説に據り、其の誤をも襲つて居るのである。又、かの十三音の假名の用ゐわけが、何に基づくかとの問題に就いては、此の書は明に音韻の相違によると説いて居るのであるけれども、これも、既に、此の書に引用した奧山路に説いた所である。又其の音の性質についても、序に、
今此書に集たる延と愛のたぐひは彼開合また四聲などに依るにあらずいにしえより毎字につきたる中國の字音の差別を古言の音の差別に配たるものなれば
とあるのを觀れば、多少漢字音についても研究したものゝやうに思はれるけれども、其の結果に於ては奧山路以上に進んで居ないのである。
此の書は奧山路を五十音引に改めた點に於て和字正濫鈔に對する古言梯と趣を同じうする。しかしながら、古言梯は、唯正濫鈔の説に盲從したのではなく、新撰字鏡催馬樂譜など契沖の未だ見なかつた新しい資料を以て正濫鈔の缺を補ひ誤を訂したのであるが、かやうな事は此の書に於ては見る能はざる所である。故に此の書の價値は、古言梯には及ばないものであつて、寧、正濫鈔を伊呂波引にした釋萬葉集附録に比すべきものである。
さうして、奧山路の研究を承けて出たものとしては古言別音鈔が唯一のものであつて、此の特色ある新系統の假名遣研究は、十分の發達を遂げずして、斷絶してしまつたのは甚遺憾な事である。之をかの和字正濫鈔の研究が古言梯以下の諸研究によつて次第に増補訂正せられ、事實の調査に於ても、又其の説明に於ても、漸く完備の域に達したのに比すれば、甚しい懸隔と云はなければならない。さうして、奧山路の研究は、啻に其の研究を繼いだものが無いばかりでなく、其の如何なるものであるかを正しく理解したものも殆無いのであつて、古くは荒木田久老が、
近頃龍麿とかいふ田舍者假名の事を彼是申候。その考全く己より出たる考にては無之、宣長が説によりて其説に叶はぬは不正とし其説に叶へるを正しとしたるものに候。古への假名にも悉くわかちあるよし申候。是も甚偏論にて御座候。譬へば紀の字は城の假名に用ひて垣のきには用ひずなど申す類にて候。能考へ見候に、紀の字城の義ならぬ所にもあまた用ひ候例有之候。是等も本文に申候通り彼廓内を出でず己より考へ見申す力なく宣長が説を尊信してそれを鑑として古へを強ひ候事に候。愚人のわざいふにたらず候。(和歌史の研究三二四—五頁所載、御薗主計助及び世古帶刀宛の書翰)
と評したのも、全く誤解から出たものであり、近くは、國語學書目解題に、
この書はかなつかひのことをかきたるなれども其目的普通にいふ所とやゝ異れり。そは萬葉集、古事記、日本紀の中に漢字の音をかりて詞をうつしたるに用ゐたる漢字をあつめたるにて、某の音にいかなる漢字をつかひてあるかといふこと、又詞により音は同じけれども、あてたる字に一の慣例あることを考へたるなり。たとへば古事記に「子」「小」「男」「彦」などの「こ」には必「古」の字のみ用ゐ書紀には「古」「姑」「故」「固」「枯」などの字を用ゐたること、又辭の「け」には書紀に「祁」「鷄」「稽」「家」「啓」を用ゐて「氣」「開」「概」「階」「戒」「凱」「居」を用ゐず、古事記には「祁」のみをもちゐたること等の類なり。
この説のもとは、古事記傳に見えたるを、さらにそれを敷衍してあまねく三書を搜索してそのよしを證明したるなり。詞の順序は五十音順によれり。(同書九三—四頁)
とあるのも、この書の眞相を解したものとは見難く、保科氏の國語學小史に、
要するに此奧の山路は言葉を五十音順に配列して眞假字の使用法を説明したもので、例へばそ には蘇と曾とを用ゐる場合があるといふことを説き、次ぎに、其用例を示して居ります。又記紀萬葉の中に使つてある眞假字の統計を擧げて居りますが、是は比較研究上甚だ便利なものです(同書三六〇—一頁)
とあり、又同氏の國語學史に、
とあるのも誤ではないけれども要點を逸して居る。花岡氏の國語學研究史には此の書を雅言假字格等の諸書と共に「さまで留意すべき程の著述にあらず」(同書五八頁)と評し去り、福井氏の日本文法史や長氏の日本語學史には、この書の名さへも載せて居ない。龍麿の「奧の山路」三卷わ歴史的假名遣派に屬するものである。かれの考でわ、假名遣のもつとも正しかつたのわ、記紀萬葉でこの右にいずるものがない。ことに記が正しいものであるのわ古事記傳によつて明である。故に記傳の説によつてこれおあらわしたと述べている。(同書一九五頁)
かやうに、奧山路の研究が世に知られないのは、此の書が刊行せられなかつたのみならず(但し刊刻の企はあつたと見えて享和元年刊行の古言清濁考の後附に近刻と見えて居る)、其の寫本も甚少かつたからでもあらうし、又、其の研究の結果が世人の想像さへしなかつた新奇な事實である爲、人の耳に入り難かつたからでもあらうが、その最重なる原因は此の書自身の中に在ると考へられる。即、其の總論に於ける説明が甚不十分であつて、此の書の性質に就いて明亮な概念を與へ難く、本文中にも特殊な語に於ける假名の定まりと十三音の假名遣とが混じて居て見分け難く、且「正しからず」と記した例外が多い爲、實際定まりが無いものに強ひて定まりを立てたやうに見えて、人をして其の結果に幾何の價値があるかを疑はしめるからであらう。此の缺點を補ふには、幸に古言別音鈔があつて、此の書の研究の要點を簡明に説明して居るけれども、これは奧山路よりも一層流布しなかつたものらしく、實際に於て效果がなかつたものと思はれる。かやうな事情によつて、上代の假名遣に關する此の重要な研究は今日に至るまで其の存在を認められなかつたのである。
自分が此の書の性質を明にし、其の價値を認めるに至つたのは、自分が偶然にも奈良朝の文獻に於てケ音の假名に兩類の別ある事を發見したに據つてである。自分が數年前奈良朝の文章法に就いて研究中、萬葉集東歌中の
自分が此の篇を草した目的は、假名遣奧山路に於ける研究の大體を述べて、龍麿が假名遣研究上に立てた偉大なる功績を傳へる爲である。故に、奈良朝に於けるこの特殊な假名遣そのものに關しては委曲を盡さない所が多い。しかしながら、此の假名遣については龍麿の研究も猶缺點多く、根本的に再査する必要があるのであるから、自分はケキ兩音の假名の調査に引續いて獨立に研究を進めて居るのであつて、それが完了するまでは斷言し難い點も少くないから、委細は自分の研究が完成した時に讓りたいと思ふ。