「萬葉集は支那人が書いたか」

橋本進吉

 三十餘年前のことであるが、或高等學校の文科の學生であつた某氏が、國語の時間に萬葉集は支那人が書いたものかといふ奇問を發したといふ話を聞いた事がある。この話は、その人の人がらを知るべき一話柄として語られたのであるが、今にしておもへば、この質問は、その道の學者でもどうかすると閑却しがちな萬葉集の一面を我々に思ひ起さしめるものとして、寧、意味深長なものがあるのではあるまいか。

 右の某氏は、萬葉集が漢字で書いてあるのを見てこのやうな質問を發したのであらうが、勿論萬葉集が支那人の著でない事は疑ふ餘地が無い。しかし當時の日本人は、文字としては漢字の外に知らなかつたのであつて、この點に於て支那人と同樣であつたばかりでなく、又當時は正式な文としては漢文の外になかつたのである。苟も文字あるものは多少漢籍又は佛典を學び、文を書く場合には未熟であつても漢文を書いたのである。英文が英語の文であると同じく、漢文は支那語の文である。たとひ日本人が書いたものであつても、必ず支那人が書いたものと同樣に、支那人には理解せらるべきものである。當時我國で漢文をどんなによんでゐたかは未だ確かにはわからないが、もし全部音讀したとすればそれは言語としては支那語であり(發音の正しくない爲、支那人が聞いてはわからない所があつたかも知れないが)、もし現代に於ける如く、音讀せずして訓讀ばかりしてゐたとしても、日本人が書いた漢文を支那人が讀めば、立派に支那語になるべきものである。たとひ未熟な爲に破格な文となつて支那人にわからない所が出來たとしても、ブロークンでも英語は英語であると同じく、漢文はやはり支那語の文であつて、決して日本語を寫した日本の文ではない。

 萬葉集の時代は、かやうな漢文が正式な文として認められ、一般に用ゐられてゐた時代である。教養ある人々は漢語漢文に熟達し、立派な漢文を書く能力をもつてゐたのである。さうして日本人であつても、かやうに、支那の文字たる漢字を用ゐ支那語の文たる漢文を書く限りに於て文字文章の點に於ては支那人と同樣であつたと見てよいのである。

 勿論當時の日本人は日本語を書く方法を知らなかつたのではない。否、相當巧に又自由に漢字を使ひ、又宣命書の如き記法をも工夫して日本語を寫してゐる。しかしこれはむしろ已むを得ない場合にのみ用ゐたのである。即ち神名とか人名とか、その他特に日本語を用ゐる必要のある場合に限つて、かやうな記法を用ゐたのであつて、さもない所はすべて漢文である。古くは聖徳太子の三經義疏をはじめ、律令、日本書記、風土記の類、歌經標式の如きことごとくさうである。古事記は、稗田阿禮の傳誦せる語を寫すのが目的で、これこそ純粹の國語の文、即ち國文であるけれども、なほ漢文式の記法を棄てる事が出來なかつた。古文書の如き實用の文も、また殆ど全部漢文であつて、國文と見るべきものは、數百卷、幾千通の文書の中、僅に二三十通に過ぎないやうであり、その内容も宣命の如き特に古語を存する必要のあるものの外は、大概は重大なものではなく、不用意に書いたものか又は文筆に熟せざるものの書いたと覺しいものばかりである。

 萬葉集は歌集であつて國文學書である。漢文ではなく國文で書かれてゐると普通に考へられてゐるやうである。しかし、右に述べたやうに、漢文が正式な文として一般に用ゐられ、文といへば漢文と解せられたらうと思はれる時代に編まれた萬葉集が、歌集であるが故に、獨り漢文の勢力を免れ得たであらうか。

 なるほど萬葉集の歌は漢文ではない。一字一音の假名で書かれたものはもとより「雖言(イヘド)」「思者(オモヘバ)」「金風(アキカゼ)」の如く、箇々の語句に於て漢語又は漢文式の記法を用ゐたものでも、一首としては漢文でない。しかしながら、歌以外の部分はすべて漢文である。まづ萬葉集の名そのものが既に立派な漢語である事は、近來殆ど定説になつたといつてよからうし、雜、譬喩、挽歌の如き歌の部類の名も漢文に用ゐる語であり、とかく疑問のあつた相聞の語も亦支那に用例がある事山田孝雄氏の研究によつて明かになつた。歌の題詞や左註もすべて漢文である。集中に收めた歌や詩の序や書翰などが漢文である事はいふまでもない。これ等は皆支那人にもわかる語であり文である。その中の地名人名神名其他の固有名詞と我國にのみ存する事物の名とは支那の文には見えないが、これは當然のことで、たとひ支那人が書いたとしても、同樣な結果になる事は疑ない。歌の部分が漢文でないのは、歌である爲であつて、歌としては單に意味のみならず、形も大切であつて、國語をそのまゝに寫すべき必要があるからである。概していへば、萬葉集は漢文の題目や序や左註の間に日本語の歌が插まれてゐるのである。それ故、唯漫然、萬葉集は國文で書いたものであると考へるならば、それは少くとも不正確であつて、一方から見れば、萬葉集は漢文で書かれてゐるといふ事も出來るのである。勿論萬葉集は歌集である。歌はその眼目であり生命である。題目や序や左註は歌あつてはじめて意義があるのである。分量から見ても、歌は全卷の大部分を占めてゐる。しかしながら、もし題目や序や左註が無いとしたならば、歌の作者や作られた時や、當時の事情などがわからず、歌を理解し味讀するに困難を生ずる事があるばかりでなく、萬葉集そのものが、書として體裁を成さなくなるであらう。かやうな部分が支那の文たる漢文で書かれてをり、唯歌の本文のみが日本風に書かれてゐるのである。それ故、假に支那人が日本の歌集を編したとしても、やはりかやうな體裁のものになり得べきわけである。かやうに考へて來れば、萬葉集は支那人の著かといふ質問も誠に尤であつて、萬葉集の漢文性についての我々の注意をうながすべき有意義なる質問であるといふ事が出來る。

 しかしながら、もし我々が我々の考察をこゝで止めたならば、我々はこの質問をして十分に效力を發揮せしめたものとはいはれない。我々は更に一歩を進めて、もし支那人が萬葉集の如き日本歌集を編したならば、歌をばどう書いたらうと考へて見るべきである。

 單に歌の意味だけを示すならば之を漢譯すればよい。さすればそれは純然たる漢文となる。しかしそれでは原歌の形は全く失はれてしまふ。歌には形が大切である。それでは歌の形をそのまゝに示さうとする場合には、どんな方法を取つたであらうか。

 歌は勿論日本語である。日本語は支那語に對しては外國語である。かやうな外國語の歌を萬葉集の如く漢文の中に置くには支那人は如何なる方法を以てしたであらうか。これは、漢譯佛典中の梵語の例を見ればほゞ推察する事が出來る。

 漢譯佛典は、梵語を漢語に譯したもので、勿論漢文で書いたものであるが、人名地名其他、譯し難い語や大切な名目は飜譯せず、たゞ漢字によつて原語の音を寫したまゝで漢文の中に收めてある(「阿羅漢」「舍利弗」「菩薩」「文殊師利」など)。但し、これ等は單語であつて日本の歌の如く文を成した語でないが、歌に最近いのは陀羅尼即ち呪文であつて、般若心經、法華經、金光明最勝王經其他の諸經にその例が極めて多い。これも漢字で原語の音を寫したもので、その漢字を支那語に於ける如く讀めば、梵語に近い音となるのであつて、之を音譯といつてゐる。法華經陀羅尼品から一例を擧げれば(漢文の部分も擧げておく)

爾時毘沙門天王護世者、白佛言、世尊我亦爲愍念衆生、擁護此法師故、説是陀羅尼、即説呪曰
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かやうな記法は、實に漢文中に外國語の語又は文を插入する正式な方法である。それ故、もし支那人が、萬葉集の如く漢文を用ゐて支那式に作られた書に日本語の歌を入れるとすれば、必ず梵語の場合と同樣に、漢字の音を以て日本語を寫したであらうと思はれる。

 然るに我國に於て、歌をしるすにすべて漢字の音を以てしたものがあるが、それは正に支那に於ける梵語音譯と同一の方法によつたものである。日本書紀の歌謠の如きその代表的の例であつて、漢文中に歌を插んでその音を漢字の音を以て寫してゐるばかりでなく、之に用ゐた漢字までも梵語の音譯に用ゐた文字を襲用したものが多いと私は見てゐるのである。さうしてかやうな、歌の記法は萬葉集にも少くなく、卷五や卷十五の歌の大部分の如き、この類に屬し、卷十四、卷十七、十八、二十の各卷の歌の多くも、多少不純な所があるけれども、やはりこの種のものと見るべきである。萬葉集の歌はすべて日本式の記法によるものであると考へられてゐるにも拘はらず、その中のかなり多くの部分は、右の如く支那人が漢文中に外國語を插む場合と同樣な方法によつたものであるとすれば、萬葉集に於ける漢文の勢力はたゞに題目や題詞や序や左註にのみ止まらない事が知られるのである。

 右のやうな記法以外の萬葉集の歌は、大概一首の中に漢字の正用と假用とをまじへた萬葉假名まじりのものであつて、その中、正用の漢字は概して漢文に於ける用法と一致し、支那人にもわかるけれども、それは唯一つ一つの語や句だけであつて、一首全體としては漢字でありながら支那人が讀んでも意味がわからず、又日本語にもならないのである。即ちかやうな記法は、純粹に、日本語を寫して日本人に讀ませる爲のものであつて、日本獨特のものである。かやうな記法による歌が集中の多くの部分を占めてをり、且つ一首全部が漢文になるやうに書かれたものが無い故に、萬葉集の歌はすべて日本式の記法によつたもののやうに解せられるのであるが、この考方が必ずしも正當でない事は既に述べた通りである。

 以上は、萬葉集の體裁及び記法の上に見られるその漢文性の一斑である。これはもとより漢文の立場から見た萬葉集の一面觀であつて、なほ他の立場からの觀察も必要であるが、それでもかやうな見方によつて、從來觀過せられ易かつた萬葉集の一面が明かになつたと思ふ。近來萬葉集の研究は非常に盛になつたが、漢文の方面からの研究はまだ不十分であつて、集中の漢文の解釋すら未だしい所があるやうに感ぜられる。或は今後、かやうな方面からの研究によつて、各種の問題に新な光が投ぜられるのではあるまいか。

 かやうに考へ來れば、かの某氏の問は、必ずしも愚問として棄て去るべきでは無い。之を愚問とするのも賢問とするのも聞く者の心がけ一つである。

底本:「上代語の研究」、岩波書店
   昭和26年10月10日