註釋學者の群像

栗生武夫

        一

 北イタリイの地に成長したロンバルド法は、同地方の政治的支配者がいくたび交替しても、變りなき愛撫を受けつつ、健やかに發達しつつあつたが、十世紀に入り、俄かにその發達を停止してしまはねばならぬことになつた。それは、その頃イタリイの上へ政治的覇權を延ばし來つたドイツの皇帝たちが、ロンバルド法の増補改訂を怠慢に附し去つた結果であつた。彼等ドイツの皇帝たちは、イタリイを政治的に軍事的に制壓するだけで、ロンバルド法を保育伸長さすことが彼等の立法者的責任であるといふことをば、全く失念してゐたのであつた。だから北イタリイでは、ドイツ勢力の侵入を轉機として、『學説によるロンバルド法の修理時代』を現出する情勢となつた。なぜならば、ロンバルド法はすでにその古物性・老朽性を露呈してゐたとはいへ、なほそれは北イタリイの實定法であり、北イタリイの生活關係は、專らこの法的基準から裁かれ正される外はなかつたのであるから、北イタリイの人民としては、ロンバルド法の反時代性・反社會性をなるべく緩和させ、なるべく彌縫するために、學者を動かして、この古法制修理の業に當らしめねばならぬ必要を感じたからである。かくして北イタリイにおいては十世紀以降、學説に依る固有法の修理となつたが、學説に依る修理が、却つて固有法を破局に導く結果となつたとは、何といふ皮肉な運命であつたであらう。

 それはロンバルドの學者たちが、固有法の修理工事を進めてゐる間に、漸次固有法を離れてローマ法の方へ接近して行つた經過の終局としてであつた。彼等といへども初めから固有法を蔑視してかかつたわけではない。いな初めの間はロンバルド法を一の自足完了的法系と見、ロンバルド的法源のみを使用してロンバルド法を解釋せねばならぬとさへ考へてゐたのであつた。これをロンバルドにおける『古學時代』といふ。十一世紀前半がそれに當つた。從つてこの時代の學者はローマ法から殆ど影響らしいものを感受せずにゐたのである。しかしやがて『新學時代』が來た。十一世紀の後半がそれである。この時代の學者にとつては、ローマ法は光りに滿ちた法律價値であつた。彼等はローマ法を標準として自國法制の價値を判定し、ローマ法に合するものだけを肯定し、ローマ法に合せざるものは輕蔑した。又ロンバルド法の明文に牴觸せざるかぎり、最大限度において、ローマ法をロンバルド法の組織内へ移植しようとも試みた。しかしこの時代の學者は未だローマ法がロンバルド法そのものの一部を成すとまでは見解してゐなかつたのである。むしろローマ法は外國法であり、ロンバルド法解釋の一資料として役立つに過ぎないと見てゐたのである。しかし遂にローマ法が自國法そのものの一部と見られる時代が到來した。『繼受時代』がそれであり、十二世紀以後がそれにあたる。この時代の學者にとつては、ローマ法は外國法ではなくて内國法であつた。ロンバルドの法律はロンバルド固有法とローマ法との二部分を以て構成され、前者の缺陷は後者を以て補はる、換言すれば、ローマ法はロンバルド法に對して補充的效力を有すと、彼等は見解してゐたのである[#註(一)]。

 ロンバルド法そのものの立場になつて見ると、ロンバルド法がローマ法に對して補充法的效力を認めるといふことは、いはば、軒端を貸して母屋まで奪はれる危險を孕むものであつたが、果せるかな、この危險は事實となつて現はれた。ロンバルド法の適用領域は漸次に縮まり、ローマ法の勢力は反對に益々伸びて行つた。實にローマ法の麗姿に眩惑されたロンバルドの法律家たちは、ロンバルド法の缺陷を補填するためと稱して、必要以上に多量のローマ法を導入し、ロンバルド法の犧牲において、ローマ法の適用範圍を擴張して行つたのである。

 學者の立場になつて見ると、しかし、ローマ法がロンバルド法の補充法となつたといふことは、華々しい研究時代の到來を意味するものに外ならなかつた。彼等はこれを機會として、ロンバルド法といふ陰鬱な中世的建造物の中から這ひ出し、ローマ法といふ無限の新視野の前に立つこととなつたのである。聖なる熱心を傾けて、彼等はこの古典法の研究に從事した。この歴史的大寶庫をさへ開くならば、新鮮な光りに輝く法律原則の多數を發見することもでき、永い間滿たされずにゐた北イタリイの法的需要を全幅的に滿たしてやることも可能になるだらうと考へた。彼等は斷じて骨董趣味からローマ法の研究を始めたのではない。新社會のために新法律を供給せんとの實際的目的から始めたのである。いはば彼等は、立法者の怠慢を補つて北イタリイの人民のために一種の立法作用を營んだ變態の立法機關なのであつた。

 なほその社會的經濟的背景について一言を添へておくならば、十二・三世紀の北イタリイは新時代の最尖端たる觀があつた。あらゆる新鮮なもの・活溌なもの・若々しいものの新芽がちやうどそこに動いてゐた。他のヨーロッパの部分は、その頃未だ昏々として中世の眠りをつづけてゐたのであつたが、ここイタリイの北部だけは、新鮮な感覺と活溌な力とに眼ざめ出してゐたのである。早くもここでは都市が興起し、貨幣經濟が發展し、人口も増加し、商業も活況を呈しつつあつた。思想も開發的になり、ルネサンスの曙光さへ赫やいてゐた。凡そ人は『中世的』といふ語のもとに、暗愚なもの・遲鈍なもの・無氣力なもののいろいろを聯想し易いのであるが、かかるものとしての『中世的』は、まづイタリイの一角から消散し初めたのである。光りは北イタリイから發し、夜も北イタリイから明け初めた。だから當時の北イタリイとしては、法律的にも思切つて革命的飛躍を斷行する必要があつた。彼等がロンバルド法といふ固有法の一大體系をすてて、ローマ法といふ外國法へ飛移つたのは甚だ突飛のやうであつたが、それは畢竟ロンバルド法が新時代の法律たるに適する性格を缺き、ローマ法がこれに適する性格を有したるがゆゑに、どうしてもそこに前者をすてて後者をとり、『法の乘替』を敢行せねばならぬ差迫つた必要があつたからであつた[#註(二)]。

 政治的にはその頃はちやうど、民族を基礎とする政治統一の思想が衰へて、地域を基礎とする政治統一の思想が興りかけた時代であつた。苟も同一地域に居住し、同一都市内に生存する以上は、その血液のローマ系なりやロンバルド系なりやに論なく、共同して一箇の政治團體を構成せざるべからずとの考へに移りつつあつたのであつた。かのロンバルド法がローマ法に對して遂に補充法的地位を認め、兩者連繋の力によつて北イタリイの新法律需要を滿たさうと策するに至つたのも、畢竟は、當時の北イタリイにおいて、民族的對立を超越した地域的法律協同體が新たに成立しつつあつた結果であつたともいへるのである。

 しかし私はここでは十二世紀の北イタリイにおける法律變革の社會的政治的原因を論じようとするのではない。單に右の變革運動へ花形選手として參加した四五の學者を簡單に傳して見ようとするだけである。

一 ロンバルドの法律學については、別稿『中世イタリイにおけるローマ法の運命』參照。 二 中世末におけるローマ法復活の原因については、拙著『中世私法史』一八頁以下參照。

        二

 註釋學者がその學的活動の本舞臺としたのは、北イタリイのボローニヤの法律學校だつたから、まづこの學校の起源を説いてみると、この學校の起源は、中世の他の學校の起源が大抵不明であるやうに、不明である。傳説によると、古ローマの皇帝Theodosius IIが建てたのだといふことだが、Savignyがその雄作『中世ローマ法史』(Geschichte des römischen Rechts im Mittelalter II. §62)の一節において、この傳説の虚妄性を指摘して以來、一人としてこれを信用する者はゐない。今日の通説は、多分この學校は、中世の文學學校(Schule der liberales artes)の進化してその型を轉じたものであつたらうと見る。文學學校といふのは、教會附屬の學校で、ラテンの文學や論理學や修辭學などを教へ、修辭學の一部分として初歩の法學的知識をも授けてゐた。それが十一世紀以後、漸次重きを法學教育におくやうになり、中には組織を改めて專門の法律學校化してしまつたものもあつたが、これは同世紀以後、法的知識の社會的重要性が認められ出した結果としてであつた。ボローニヤの文學學校も、かうした變化を辿つた末、專門の法律學校化してしまつたものだらうといふのである。十一世紀の末、そこにPepoといふ學者がゐた。その事蹟、頗る不明であるが、彼が修辭學の先生でなくて、法律學の先生であつたことだけは確からしい。恐らくボローニヤは彼あたりを端初の人として、專門の法律學校に轉化したものかと考へられるのである[#註(一)]。

一 なほボローニヤ大學の起源については石原謙博士・大學の歴史(岩波哲學講座)十三頁以下參照。

 ではなぜひとりボローニヤだけが新興法律學の魁となり、學術復興の中心點となりえたのかといふと、先進の他の法律學校が、種々の原因から極度の不振状態に落ちてゐた際、ボローニヤだけが反對に、有利な多くの原因に惠まれ、温められてゐたせいだつたと答へうるでもあらうか。先進の法律學校とここにいふのは、Paviaの法律學校とRavennaの法律學校のことである。まづRavenna法律學校の方を説くと、Ravenna市はもとビザンチン帝國の植民市であり、イタリイにおけるビザンチン文化の展覽會場でもあつた。元來イタリイが中世の荒廢裡において、ともかくも一種の文化をもち學問をも有しえたゆゑんのものは、イタリイの各地に殘存してゐたビザンチン植民市からの刺戟に俟つ所多いとのことであるが、Ravenna市のごときは、ビザンチン本國の文化をイタリイへ注ぎ込む最も太い導管であつたのであつた。

 しかしRavenna法律學校の活動は最初からさう華々しいものではなかつたらしい。高々それは、同市在住のビ ザンチン人へ、いはゆる田舍ローマ法(römisches Vulgarrecht)の簡單な知識を授ける位の機能しか營んでゐなかつたもののやうである。田舍ローマ法といふのは、ゲルマン的要素を雜駁に取入れたローマ法のことであつて、中世のローマ系人民は、かやうなゲルマン化し中世化したローマ法を使用してゐたのであつたが、Ravenna市民も、その例から洩れてはゐなかつたから、同市の法律學校は、同市市民のために田舍ローマ法の解説を試みてゐたのであらう。しかし十一世紀に入ると、ビザンチンの勢力が全面的にイタリイから退潮してしまつた結果、Ravenna法律學校の運轉も休止してしまつた。尤も一〇八〇年頃までは存續してゐた確證を留めてゐるといふことであるが、それはすでにもう動きの止つた存在としてに過ぎなかつた。

 次にPaviaの法律學校を見ると、Paviaといふ處はロンバルド古來の首府であり、ロンバルド裁判所の所在地でもあつたから、ここの學校としては、かのRavennaの學校がローマ法の教述を任としてゐたのに對抗して、ロンバルド固有法の教述を以てその目的となさざるをえなかつた。しかし十一世紀の後半になると、この學校もローマ法の研究に觸手を延ばして颯爽たる新活動を開始したが、これはその頃北イタリイにおいて時代の急轉があり、人間が息づまるやうな革新的興奮に驅られ出した結果であつたといふこと、前段で詳述したとほりである。實に十一世紀後半のPavia學者は、動き出したる新イタリイへ新法律を供給すべく、新知識・新素材を、ローマ古典法の裡にさがし求めつつあつたのであつた。だがしかし、その本來の目的がロンバルド固有法の教述にあつたといふことが、結局、Pavia法律學校を行詰らせてしまふ結果となつた。なぜならばその本來の目的がロンバルド法の説明に存したがために、萬ざらこれを見棄てかねてゐる間に、時代はどしどしロンバルド法を離れてローマ法の方へ乘替へて行つたからである。十二世紀の初めボローニヤの法律學校が、新しい選手のやうな猪突性を以て登場し來つた頃には、老いたるPaviaの法律學校は冷笑に送られて退場しつつあり、幾何もなくしてその消息をさへ絶つてしまつたのであつた。

 結局、新興の學問は、新興の學都によつて擔當されなければならなかつた。ボローニヤは當時の新興都市であつたのである。新鮮と情熱とに滿ちあふれた青年都市であつたのである。商工業は當時屈指を以て數へられたほど賑盛活溌であつた。場所がちやうどRomagna, Lombardy, Tuscany三地方を連結する交叉點に當つてゐたので、旅人・商人の往來絶えず、市民は彼等からいつも思想上の好刺戟を受けつつあつた。とりわけTuscany地方は、商業的繁榮の中心であり、ルネサンス運動の本營でもあつたから、ここから吹いてくる新鮮な風がボローニヤ市民の思想を殊のほか生新にしてくれた。ボローニヤ市民は敏感的に新時代の刺戟に反應してゐたのである。Ravennaの古都はボローニヤより程近く、Paviaの町も遠くはなかつた。ボローニヤはこれらの先進學校の硬直せる傳承には囚はるることなしに、その遺した學的遺産だけは十分にこれを繼承し利用しえたのである。新學問興隆の地としての諸條件は、十分にボローニヤに備はつてゐた。ローマ法學といふ當時の新興科學が、ボローニヤ市をその快適なる住宅として撰んだのも、決して偶然ではなかつたのである。

        三

 でいまボローニヤを舞臺として華やかに躍つた學星中の代表的四五を傳して見ると、ボローニヤ最初の學者だつたと傳へらるるところのPepoの事蹟は不明である。ただ十二世紀の註釋學者Odofredusがボローニヤ大學の起源を論じた文章中[#註(一)]Pepoに論及し、彼こそボローニヤ最初の學者だつたといつてゐるところから推して、論者Odofredusの世代までは、なほPepoの事蹟が人の記憶に殘つてをり、時々話題にも上つてゐたものと想像しえられるだけである。しかし彼はボローニヤ最初の學究であつたにしても、ボローニヤ學の特色たる註釋方法の形成へ、決定的な模範を垂れた人だつたとは考へられない。年代的には最初でも、註釋學の父ではなかつたのであらう。眞に父の名に値したのは、何といつてもIrneriusであつた。だからわれらも註釋學者の列傳をこの巨人から始めようとするのである[#註(二)]。

一 Odofredus in Dig. vetus, L. Jus civile 6. de just. et jure :……,,Quidam dominus Pepo coepit auctoritae sua legere in legibus, tamen quicquid fuerit de scientia sua, nullius nominis fuit. ''Vgl. Savigny, Geschichte des römischen Rechts im Mittelalter III. §158. IV. §3. 二 以下註釋學者の評傳は主としてLandsberg, Die Glosse des Accursius. 11 fg. 1. 2. 3.に據る。

 Irneriusの生涯とても決して明白ではないが、彼が、ボローニヤ生れのボローニヤ市民であつたことだけは疑ないやうである。彼はボローニヤ法律學校の教師であつたと同時に判事でもあり、一一一三年に一度、一一一五から二五年へかけて兩三回、有名な訴訟事件を裁判してゐるのである。彼は又政治家でもあり、侯Machildeに用ゐられてその顧問となり、侯の死後は、皇帝Heinrich Vの寵をえて政治の樞機にも參畫したのである。晩年のIrneriusは、法律學を見棄てて政治に專心したと見る説さへある位である [#註(一)]。

一 晩年のIrneriusは學問を見棄てて政治に專心したらうと見たのはSavignyである(Savigny, Geschichte des römischen Rechts im Mitterlater III. §7)。しかしFittingはSavignyの説を以てあまりに穿ち過ぎた想像説となし、Irneriusは終生決して學問を見棄てなかつたと見てゐる(Fitting, Die Anfänge der Rechtsschule zu Bologna 103)。

 Irneriusの學的後裔Odofredusの書いてゐるものによると、初めIrneriusは修辭學の教師だつたのを、後ち轉身して法律專門家となるに至つたのだといふことである(Savigny, Geschichte IV. §7)。假りにこの説にして眞ならば、Irneriusこそは、東洋の諺にいふ・文王なくして興つた豪傑の士だつたといはねばならない。彼はたしかに獨りで學び、獨りで考へ、獨りで新方法を案出し、獨りで新學問を樹立した稀有の一人であつたらしいのである。彼の修業時代には、Pepoもすでにこの世になく、どこをさがしても師らしい者はえられなかつた。彼はPaviaの學者やRavennaの學者が書き遺した註釋書類を覺束ない便りとして、ただひとり、ローマ法學の原生林の奧へ奧へと踏み進んで行つたのである。さうしてたうとうあの浩瀚なユ帝法典の全篇の隅から隅までを學問的に征服し了へたのである。

 その研究態度は破軌道的に斬新だつた。彼とPaviaの學者とは、すでに、その研究對象を異にしてゐたのである。Paviaの學者は、ロンバルドの固有法を研究對象とし、僅かにロンバルド法の補充法としてローマ法を參見したに過ぎなかつたのに、Irneriusは、その研究對象をローマ法だけに限定したのである。ロンバルド法のごときは彼から一瞥をも受けえなかつた。又彼はRavennaの學者とも、その研究對象を異にしてゐた。Ravennaの學者はいはゆる田舍ローマ法、すなはちゲルマン法上の觀念や規則やを不調和にとりこんだ不純なローマ法を研究してゐたが、Irneriusは、田舍ローマ法などへは全く見向きもしなかつた。彼は一途に純正ローマ法、すなはちユ帝法典の規定へ突進したのである。この聖なる經典を完全に知り、忠實に意明することを以てその全使命としたのである。これは全く傳統を打ち破つた・今まで夢想だもされえなかつた研究態度であつた。斬新でもあり、警拔でもあり、大膽でもあつた。當時、ボローニヤ以外にローマ法を學ぶ地なしとして、無數の學生がヨーロッパの各地から、聖地へつどふ順禮のやうに集り來つたのも、Irneriusの、かかる研究對象上の特色がもたらした當然の名譽といふべきものであつた。

 ではIrneriusの研究方法上の特色はどこにあつたかといふと、彼がユ帝法典の意味の解明のために使用した手段に二つあつた。『語註』と『法理註』とがそれである。語註といふのは、法文中の難語難句の意味を辭書的に規定することをいふ。すなはち一語の代りに他の同意語を、一句の代りに他の同意句を代置することをいふ。この方法は何もIrneriusに始つたものではない。先進の法律學者、例へばPavia法律學校の學者なども、かうした方法はかなり使用してゐたのである。しかしもう一つの方法、すなはち『法理註』の方は、斷然、Irneriusの獨創であつた。それは法條の文字的意味に囚はれず、或はそれよりも廣く、或はそれよりも狹く、時とすると全くそれを離れて法條を意味づけて行く方法であつた。この方法は法典の體系的統一性を假定し前提する思想から出たのである。すなはちIrneriusは多分かういふ前提的思想をもつてゐたのであらう——ユ帝法典に收載されてゐる無數の法條は、相連關し、相補完して一箇の體系的統一體を成してゐる・各法條は孤立的に離在してゐるのではない・一全體の中の要素として、一秩序の中の節として、相對的に獨立してゐるに過ぎない・ゆゑに註釋者は、各法條を無聯絡に意味づけて行つてはならない・他條との聯關において、全體との調和において、意味づけて行かなければならない・全體の立場から見て、その意味廣きに過ぐと見らるる法條は縮小してこれを解釋し、その意味狹きに過ぐと見らるる法條は擴張してこれを解釋し、その意味正當を缺くと見らるる法條は合理化してこれを解釋しなければならない・解釋の要は調和的秩序の認識にあると。かやうに法典の秩序性・統一性を信仰する思想と、この思想から當然に導き出された縮小解釋・擴張解釋・合理解釋等の方法とは、實にIrneriusの創案であつた。彼以前に、かかる思想を抱き、かかる方法を用ゐた者はなかつたのである。少くともIrneriusほど自覺的にこれを驅使した者はなかつたのである。この意味において彼は註釋學の父であり法律解釋學の創始者であつた。Savignyも『吾人は法理註の完全なる創作を、Irneriusへ歸するにつき、何等の躊躇をも感ぜず』といつてゐるのである(Savigny, Geschichte des römischen Rechts im Mittelalter IV. §11)。

        四

 十二世紀の後半に入つて、『四博士』(Vier Doktoren)又は『四つの百合の花』(Vier Lilien des Rechts)と美稱される四人の大家を出した。Jacobus, Hugo, Martinus, Bulgarusがこれである。しかし四人のうち、その活動の特に目ざましかつたのはMartinusとBulgarusとであつたから、ここではこの二人だけを傳して見ると、二人はIrneriusの遺業を承受大成しただけでなくて、註釋學の後日の發展へも決定的影響を與へたのであつた。二人を對照してみると、二人ともユ帝法典の全範圍を、隅から隅まで知り拔いてゐて、自在にこれを引用したり使用したり解説したりすることが可能であつた。二人とも各法條の包有する意味をいとも鮮やかに把捉し、各條の適用せらるべき場合を極めて精確に限定して行くことが自由であつた。法條相互の間に意外に緊密なる相關關係を發見したり、相互の間に一見恰も存在するがごとく見える重複や矛盾や缺陷やを、縮小解釋・擴張解釋・合理解釋の方法を用ゐることによつて清潔に掃除して行つたりする手腕の冴え——この點においても二人は優劣の差をもたなかつた。たしかに二人は、最高の解釋學的頭腦の所有者であつたのである。しかし強ひてもし二人の相違を求めるならば、Martinusは、『合理解釋』(begründende Glosse)の方法を愛用し、『衡平』(aequitas)の觀念を特に重んじた。 彼は衡平の觀念に適合するやうに法律を意味づけ秩序づけようと欲したのである。衡平の要求のためには、多少、條文の原意を損傷することさへ辭しなかつた。一二の例を示すと、ローマ法では、人は自己に屬せざる物を有效に處分することをえないが、國庫が自己に屬せざる物を處分した場合には、例外として所有權移轉の效果を生ずべきものとなつてゐたのであるが(C. 7, 37, 2. 3.)、Martinusは、國庫といへども自己に屬せざる物を有效に處分しうる謂れなしと考へた。それゆゑに彼は、國庫が、他人の物を有效に處分しうるは、國庫が善意なりし場合に限ぎると註したのである(Hänel, Dissensiones dominorum 57)。すなはち彼は彼の衡平觀念を滿足させるために、わざわざ『善意』なる制約者をもちこみ、法文の原意を曲屈させてしまつたのであつた。又ローマ法では妻又はその親族が、婚姻に際し、一定の物を嫁資として指定した場合には、その物は婚姻の繼續中、妻の所有を離れて夫の所有に移るといふことになつてゐたのであるが(C. 5, 12, 30)、Martinusは、たとへ婚姻の繼續中だけにもせよ、嫁資が夫の所有に移るのは不合理だと考へた。夫は嫁資に對し使用收益の權を獲得すれば足る。何もその所有權まで奪ふ必要はないといふのが、彼一流の正義感情であつた。だから彼は法文を彼一流に合理化して、『嫁資は婚姻中といへども妻の所有に留る、夫は嫁資につき單に使用收益の權を有するのみ』と註した(Gl. naturali jure ad leg. 30 C. de jure dotium, 5, 12)。この類の小刀細工は彼においては珍らしくもなかつたのである。彼は一種の正法主義者であつた。

 Bulgarusの方はこれに反して實定法主義者であり、忠實に嚴格に實定法の内容を意明しようと努めたのであつた。 彼にとつては、實定法の内容が正法に合するや否やは問題でなかつた。惡法といへども法として立てられたる以上は法である。解釋家としては、あるがままの内容において、法を認識し把捉しなければならぬといふのであつた。論敵Martinusのやうに、註釋家自身の主觀的正義觀を、解釋論のうちに織り込んでしまふのは、原典に忠なるゆゑんでないと見たのである。彼みずからかう言つたと傳へられる——『法と道徳とは相互に獨立する。もし二つが一致しないならば、道徳の犧牲において法を遵守するより外はない』と(Landsberg, Die Glosse des Accursius 16)。彼はMartinusの自由主義的なるに對して嚴格主義的であり、又Martinusの浪漫的なるに對して著しく現實的客觀的であつた。

 かやうにBulgarus, Martinusの二大家は、法に對する彼等の態度を兩極的に對立させてゐたので、Martinusの衡平主義・正法主義に對して愛好をもつ學者および學生は、彼を頭目としてその周圍に集り、Bulgarusの嚴格主義・實定法主義に對して同感をもつ者は、彼を中心としてその周圍に圓陣を作つた。Martinusの名はGosiaであつたから、彼の支持者は “Gosiani” と呼ばれ、Bulgarusのファンたちは “Bulgariani” と呼ばれた。ちやうどその昔ローマにおいて、學者Labeoを祖とするプロキュリアン學派と、Capitoから始まるサビニアン學派との二派があり、屡〻問題に當面して見解を異にし、對峙の姿勢を示したやうに、註釋學者の陣營中にも、二學派の對立を生じたのである。Gosianiの側からは、Placentinus, Pilius等の有力學者を輩出し、Bulgarianiの陣營中からは、Johannes Bassianus, Nicolaus, Furiosus, Azo, Odofredus等の巨匠を出した。十三世紀に入ると有名なAccursiusが 出て、二學派の學説を公平に取捨撰擇し、大きくこれを統一したが、これはローマにおいて遂にJulianが出て、サビニアン・プロキュリアン二派の學問を集めてこれを大成したのと趣を一にせる現象であつた。

        五

 註釋學はPlacentinus, Bassianus, Azo等を以て輝しい高潮期に入つた。

 Placentinus(†1192)は、數多き註釋學者中、特に論理的構想の力に秀でた點において、特徴的な存在であつた。彼は法律を一の論理的秩序と見、相互の間に論理的矛盾なきやうに留意しつつ、各條・各觀念を意味づけて行つたのである。彼は債務關係の性質とか、權利と訴の關係とか、所有權の本質とかいふやうな理論的考察を愛好し、又これに得意でもあつた。他の註釋家たちが法典の文字の上を匍匐してゐる間に、Placentinusのみは、ひとり高く理論の世界に逍遙してゐたのである。

 法學講義の方法についても彼は新味ある樣式を創出した。他の諸家が、法典の篇・章・條の順序を追ひつつ法典の内容を解説してゐた間に、彼だけは法典の排列順に拘泥せず、法典の内容を論理的順序に分解再構して系統的にこれを説明して行くやり方をとつた。すなはち他の教師らの講義が逐條態(Kommentar)であつた間に、彼のは教本態(Lehrbuch)であつたのである。註釋學者中、最初に教本態の講義樣式を思付いたのは實にPlacentinusであつた。

 Johannes BassianusはPlacentinusと世代を一にし、Placentinusがゴシア學派、すなはち自由派の棟梁であつた間に、Bassianusはブルガリ學派、すなはち嚴格派の代表であつた。彼はPlacentinusのやうな大膽奔放な思想家ではなくて、刻苦細心の研究家であつた。嚴密なる論程を辿つて、彼は、一歩一歩眞理へ近づいて行かうとした。Placentinusは、敏鋭な直觀力を以て一擧に眞理をとらへようとする行き方であつたが、Bassianusは、組織的研究の網を細心に張り擴げて行つて、極めて確實に眞理をとりおさへてしまふ・やり口であつた。彼は非常に獨斷をおそれ、廣く他人の學説を引用し、參考した。法律學において他人の學説を繁冗に引用する風は、Bassianusあたりから始つたらしいのである。ローマ法源の解釋上、彼も屡〻新説を出したが、それは彼の間然するところなき組織的研究の成果としてであつたらしい。十二世紀半以後ブルガリ學派は勢を増し、漸次、ゴシア學派を壓して行つたが、それは、ブルガリ學派の中にBassianusのごとき堅實無比な學究がゐて、嚴格學派の地歩を着々踏み固めて行つた當然の結果であつたであらう。

 Azo(†nach 1229)は全註釋學者中、Irnerius及びAccursiusに次ぐところの大なる名聲を享受してゐる。彼は註釋學の最高潮を代表する華麗な存在であつた。所屬學派からいふと、ブルガリ學派の人であつたが、この派の通弊たる澁滯窘束の苦を離れ、才氣縱横、恰もその一身に、ブルガリ學派の長所たる堅實味と、ゴシア學派の長所たる奔放性とを兼ね有したる觀があつた。彼は精緻な論考を流麗な文章に託し、自由な思想を緊い組織中に盛ることができたといはれてゐる。彼の學問は、該博と獨創と華麗との綾織物であつたともいはれてゐる。單に文章道の上からだけいつても、彼の作物は、文藝復興期のイタリイ文學を代表する名品の一にして、流動自在、あらゆる變化を曲盡してゐると聞く。

        六

 註釋學發展の終結を成した者はAccursiusであつた。彼は一一八二年頃生れ、一二六〇年頃死んでゐる。彼は彼自身の註釋によつてよりも、むしろ他人の註釋を巧みに結集せるのゆゑを以て、その名を不朽ならしめることをえた學者であつた。彼の註釋書を『標準註釋書』(glossa ordinaria)とよぶ。それにおいては、Irnerius, Bulgarus, Martinus以下、歴代諸大家の學説が多量に引用されてゐるのである。それはいはば著者の先及同時代の、諸學者の全給付・全業績を結撰した・註釋學發展の最後の記念碑であつたのである。

 この書の後代に及ぼせる影響の廣大さは、眞に測るべからざるものがあつた。後代は、この書を通じてのみ間接に註釋諸大家の學説に面接することとなつた。この書は、實に註釋學者と後代との間を截然、中斷してしまふ效果をもたらしたのである。だからこの書は中世法律學の『學説彙纂』(Digesta)であつたといつてもいい。ローマの『學説彙纂』が、ローマ古典期の學説の綜覽であり、これに媒介されて古典期の學説が後代に傳はつたやうに、『標準註釋書』は中世法律學の綜覽であり、これに媒介されて、中世の法律學は、後世へ傳はることとなつたのである。

 Accursiusと世代を一にしてOdofredus(†1265)が出た。この人は彼の學業の價値によつてよりも、彼の無用の駄辯によつて偶然にもその名を不朽ならしめることをえた稀なる幸運兒であつた。『彼の遺した講義録を見ると、そこには輝けるものも、斬新なものも、辛辣なものもない。ただ陳腐な凡説庸論が平板蕪雜な言辭のうちに力なく列べられてゐるだけだ』といふのが彼に對するSavignyの痛評である[#註(一)]。かやうな無刺戟な講義を聽くことは、學生にとつては午睡を催ふす材料にしかならなかつたらうし、講者自身にとつてもかなりの重荷であつたであらうとまでSavignyはいつてゐるのである。しかしOdofredusは、法律の大家ではなかつたが、漫談の大家ではあつた。彼はその獨特の駄辯を以て、聽講者の倦怠をまぎらす祕術を心得てゐたのである。彼はよく彼の講義の間隙を利用して、ボローニヤ大學の成立史とか、初期のボローニヤ學者の學風とか、逸事とか、彼自身の學生時代の思出話とかを面白をかしく話して聞かしたが、幸にもそこには又、師の凡庸な講義をそつくりそのまま筆記するばかりか、師の漫談までもそのままノートに取つて後世へ殘してくれた頭の惡い學生もゐた。今日Odofredusの『註釋書』として殘つてゐるところのものは、實はOdofredus自身の筆に成つたものではなくて、彼の劣等學生が取つた講義の筆記であつたのである。しかし低能教授と劣等學生とは、偶然にも大なる功名をなしてしまつた。なぜならば、彼等の餘戲のおかげで、ボローニヤ大學の成立史や、學生生活の模樣や、ボローニヤ學者の逸事やらが永く後代に傳はることができたからである。法律文化の發達に對するこの大學の寄與が、あまりにも重且つ大であつたがために、後の研究家は、この大學の成立および發達の過程を調べようとしたが、何分にも史料がない。八方これを求めた末、辛じて唯一の根本史料をOdofredusの講義録即漫談録において發見したのである。さうしてこの漫談録の價値を高々と見積つたのである。その結果Odofredusの名は、Irnerius, Azo, Accursius等と共に永遠に青史を照らすこととなつたのである。

一 Savigny, Geschichte des römischen Rechts im Mittelalter V. §117 fg.

        七

 以上をもつてわたくしはボローニヤを舞臺として活躍した註釋學者の重なる四五を傳し了つたので、進んで彼等の學問の性質やその方法やを論明すべき順序なのであるが、これについては本書に收載してゐる私の別稿『法律解釋學の神學性はいかにして始つたか』において私見を披瀝しておいたので、同稿の參照を乞ひつつ、ここにペンをおきたい。ただ一言わたくしが十二・三世紀におけるイタリイの法律學を論じつつある間に強く感得した一事だけをいひ添へておくならば、凡そ社會は、その基礎的經濟構造を根本的に變革させつつある轉型期においては、舊來の法律體制を全般的に揚棄して、新法律體制を、最初の第一歩より建設し始めるものだといふ臆斷である。社會轉型の過渡期に際しては、舊社會の經濟構造を反映するところの舊法律體制は、これを保存しこれを改良しこれを維持せんとするあらゆる努力・あらゆる企圖にも拘らず、遂に崩壞し死滅して行くのを、何としても避けえぬのである。逆にいへば轉型期においては、新社會の經濟構造に相應する新法律體制が、これを彈壓し迫害し斷種せんとするあらゆる企圖にも拘らず、結局生育を遂げてしまふのを何としても抑へえぬのである。余のいま取扱つた史代に即してこれをいひ直せば、十二・三世紀は、自然經濟から交換經濟への轉換期であり、村落生活から都市生活への飛躍期であり、仲間互助の倫理思想から、個人獨立の倫理思想への急激なる變化期であつたのである。だから法律上においても、『農民の法律』から『市民の法律』への轉換が行はれなければならなかつた。かの中世のゲルマン法といふのは、村落生活をなし、自然經濟を營み、相互扶助の倫理思想の中に生きていた中世の農民の法律であり、再生したローマ法といふのは、都市生活をなし、交換經濟を營み、個人主義的倫理思想の中に生棲してゐた都市民の法律であつたのである。ゲルマン法をして時勢の進歩に遲れさせまいための改良と増補とは、決して試みられなかつたわけではなかつたが、何分にもその立法の基礎的原則・根本的主義が、古い仲間主義・相互扶助主義であつたがために、遂にそれは、舊社會の法律體制として棄てられねばならなかつた。ローマ法の再生を妨害し迫害せんとした企ても、決して行はれなかつたわけではなかつたが、ローマ法の基調たる個人主義・獨立主義が新社會の生活原理たるに適合したため、遂にそれは自己の位置を獲得することができた。社會はその基礎的經濟構造を更新する際には、その法律體制をも、根柢的に更新してしまふのである。さうしてさういふ際には舊法律思想の打倒者・新法律思想の助産婦としての學者の活動が絢爛に多彩に、展開されるのを見るのである。本稿で傳した註釋學者の一團も、當時生れ出でつつあつた新社會のために、舊法制の破壞・新法制の建設に從事した・時代の選手たちに外ならなかつた。

底本:法の変動、岩波書店
   昭和12年1月10日