ベルグソンの哲學的方法論

西田幾多郎

 ベルグソンといへば今では單に佛國一流の哲學者としてのみならず、世界の學者として評判者である。我國でも近來大分氏の名が知られてきた樣である。氏の傳はよく分らぬが、千八百五十九年の生れといふから、まだ五十を少し越えた位の人であらう。四十歳頃までは處々の高等學校の教師をして居たさうであるが、千九百年來はコレージュ・ド・フランスの教授となり又學士學院の會員である。氏の思想の傾向をいへば、これまで自然科學的研究法が全盛を極め、何でもすべての現象を因果律の鐵柵の中に押し込めなければ實在の説明ができないかの樣に考へて來たのに反對し、我々の精神生活の奧底には自然法以上の創造的作用がある、我々に直接な實在界は却つて此意志活動の世界であつて知識的對象の世界ではない、自然科學の説明は實在の表面的説明にすぎないといふのである。かくの如き思想は佛蘭西に於てメーン・ド・ビランなどよりレヌーヴィエ、ブートルーなどに至るまで佛國哲學の一潮流として發展し來つたものであらうが、べルグソンに至つて大に光彩を放つ樣になつた。ウィンデルバントは獨譯の「物質と記憶」の序文の中に佛國ではデカルト以來一種特別な哲學の方法がある、内面的經驗の事實から出立して、之に批判的思慮を加へ、自ら一の哲學に到達するのである、獨逸ならば心理學的、認識論的、哲學的研究と分ける所を混和して一體系の思想を成して居る、べルグソンの書いた物もこの面影があるといつて居るが、いかにもその樣に思はれる。何だか心理や生理の如きことを論じて居る樣で、いつしかそれが深い哲學上の問題に入つて居るのである。氏の書いたものは思想は明快であるが、解り易いものではない。とにかく斬新な所があり、深い所があつて非常に面白いと思ふ。

     一

 哲學即ち絶對の學問といふのは如何なるものであらうか。ベルグソンに從へば、物には二つの見方がある。一つは物を外から見るのである、或一つの立脚地から見るのである。それで、其立脚地に依つて見方も變つてこなければならない、立脚地が無數にあることができるから、見方も無數にある筈である。又かく或立脚地から物を見るといふのは物を他との關係上から見るのである、物の他と關係する一方面だけ離して見るのである、即ち分析の方法である。分析といふことは物を他物に由つて言ひ表はすことで、此方の見方はすべて飜譯である、符號Symbolに依つて言ひ現はすのである。もう一つの見方は物を内から見るのである、着眼點などいふものは少しもない、物自身になつて見るのである、如ち直觀Intuitionである。從つて之を言ひ現はす符號などいふものはない、所謂言絶の境である。右二種の見方の中には第一の見方ではいかに精微を極めても、畢竟物の相對的状態を知るに過ぎぬ、到底物其者の眞状態を知ることはできない、唯第二の方法のみ之に依つて物の絶對的状態に達することができるのである。

 例へば空間に於ける一物體の運動といふことでも、我々は之を種々の立脚地から見ることができ、又種々の方法で言ひ現はすことができるであらうが、そは皆外から見たので、唯其相對的状態を知るにすぎない。運動其者の絶對的状態を知るには、我々は動いた物に内心がある樣に見て、之と同感し、其状態に自分を置いて見るのである。相對と絶對とを比較すると、恰も或市を種々の方面からとつた寫眞と市其者の實見との差異の如きものである。寫眞を幾枚あつめたとて實物の知識の樣にはならぬ。又たとへば希臘語を知り居る者がホーマーの詩をよめば單純なる一印象を留めるのみであるが、さて之を希臘語を知らぬ者に説明して聞かさうとすると如何に説明しても説明しつくすことができぬ。かかる絶對的状態は内より直觀するにあらざれば到底之を知ることができぬ。

 科學といふのは分析の學問である、符號に依つて説明するのである。科學の中にて最も具體的といはれてをる生理學の如きものすら、單に生物の機關の外形を見て、其形を比較し、其機能を論ずるまでである、始終有形的符號によつて見て居るのである。哲學は之に反して直感の學問である、物自身になつて見て其絶對的状態を捕捉するのである、符號を要しない學問である。

     二

 扨、右に云つた樣な哲學的直觀と科學的方法なる分析によつて得た概念的知識とはいかに違ふか、又此二者は如何なる關係に於て立つべきか、これべルグソンが論ぜんとする所のものである。べルグソンに從へば、我々に與へられた直接の具體的實在は流轉的である、發展的である、瞬時も止むことがない、つまり生きた物である。かゝる實在の眞面目は到底外から之を窺ふことはできぬ、唯之と成つて内より之を知ることができるのである(所謂水を飮んで冷暖を自知するのである)。直觀といふのは前にもあつた樣に全然自己の立脚地を棄て、利害得失の關係を一掃し、物自身になつて見るのである。

 然るに概念的知識とは如何なるものであるか、ベルグソンの考では我々の知力は知る爲に知るのではない、或る利益の爲に知るのである、欲求を充す爲に知るのであるといふ、此點に於て氏は全くプラグラマチストである。所謂知識といふのは我々が自己の利益を中心としてこの方面より物を見たのである、即ち自己の行爲の關係から物を見たのである。それで概念といふのは我々が物に對して働く一定の方《カタ》の如きものである。我々の行爲及び態度の種々あるだけ、種々の概念的傾向があるのである。種々の概念は皆活動せる實在の一面を捕へて之を固定したものにすぎない。我々が概念を實地に試めすといふのは、其概念を以て我々が如何程の事を爲し得るかを問ふのである。概念はかくの如き目的にてできた抽象の固定せる符號であるから、之を實用的に用ゐて居る間はよいが、之を純粹に知る爲に用ゐ、之を以て活躍せる具體的實在を捕へようとするのは誤である。

 右の如き譯であるから實在を知るには、之を直觀するの外はない。概念を再び組み立てゝ元の實在に達しようとするのは到底不可能である。死物よりして活物はできない。直觀は哲學唯一の方法である。然るに多くの人は概念によつて實在に達しようとする、科學の分析法を哲學の問題に用ゐようとする。是に於て各其固執する立脚地より種々の學派が立ち、種々の學流が分れ、甲論乙駁遂に知識の相對性を説くやうにもなる。併し、此等の人は皆其方向を誤つて居るのである。恰も東に行かんと欲して西に向つて走つて居るやうなものである。元來、概念は反對の形に於て現はれ來るべきものである、概念を以て實在を捕捉しようとすれば矛盾に陷るのは當然である。之に反し我々のこの單純なる現實の直觀に於て、大哲學者が頭を苦めた種々の矛盾が如何にして起り、如何にして調和せらるべきかゞ明白に現はれて居る。眞の哲學的方法は前の方法を逆にしたものでなければならぬ、即ち概念より直觀に行くのでなく直觀より概念に到るのである。啻に哲學の上ばかりでなく科學の歴史に於ても大發見といふのは皆直觀に遡つて得てきたのでゐる、現實に返つて捉へ來たつたのである。現實の根柢に錘を垂るゝこと深ければ深き程、益〻生きた實在に接することができるのである。

     三

 以上はベルグソンの考の要點だけを纏めて簡單に述べた積であるが、氏は之を一々實例に由つて證明して居る。直觀は内から其物になつて見るといふが、此の如き意味に於て何人も直觀の出來るものは我々の自己である。我々の自己を外から見れば知覺、記憶、努力など種々の要素より成立して居る樣であるが、深き其内部には一つの不斷的流動がある。この流動は他のいかなる流動にも比べることはできない。この流動といふのはつまり状態の連續ではあるが、各状態が將に來らんとする状態を指示し、又已に去れる状態を含んで居る。かゝる消息は言語に云ひ現はし得るものではない、即ち前に云つた樣な實在の眞相である。べルグソンは之を内面的持續又は純粹持續durée interne, durée pureといつて居る。かくの如きものは到底外から之を云ひ現はすことができない、比喩を以てしても其萬一を髣髴することも困難である、まして抽象的概念を以てしては尚更のことである。統一性、多數牲、連續性などいふことを組み合せたとで決して眞相に達することはできぬ。自己は唯自己にして直觀することができるのみである。

 心理學は自己を研究するのであるが、其仕方は他の科學と同じく分析である。單純なる直感によつて得た所の者を知覺、感情、表象などいふ樣に心理的要素に分けて考へるのである。是れ心理學の研究上已むを得ざることであらうが、此の如く一般的に言ひ現はしてしまへば、各人の特色といふ者が無くなつてしまふ。例へば嗜好といふことでも、自身の嗜好と他人の嗜好と違ふといふ樣な、何處か云ふに云はれない色合がなくなるのである。即ち單に我々が或一物に對する傾向といふ樣な一般的形式になつてしまふのである。かゝる物を組み合せて原物を作ることは到底出來ないことである。例へば、パリを描いた幾枚のスケッチの下に皆パリと書いてあれば、パリを見たことのある人ならば自分が嘗て得た直觀に由つて、此等の畫を組み立てゝ見ることもできるであらうが、パリを見たことのない人が之を組み立てゝ全パリの印象を得ようとするのは到底できないことである。然るに從來の經驗論者とか合理論者とかいふ人々はかゝることを企てゝ居たのである。經驗論者は心理學的分析に由つて精神現象を分析して見たが、かく分析して見れば個々の精神現象のみである、何處にも人格の統一といふ樣なものを見出すことはできない。合理論者も之と同じく精神現象を分析して見たが、矢張り人格の統一といふ樣なものを見出すことはできない。そこで經驗論者の方は遂に我々の精神は個々の現象の連合で人格の統一といふ如きものは虚僞であるといふ決定を下したが、合理論者は尚何處までも人格の統一を維持しようとした。併し苟くも積極的性質を帶びたものは盡く個々の精神現象の中に屬してしまふのであるから、人格の統一として殘る者は單に消極的統一といふ如きものの外にない、即ち何等の内容なき形式的人格を立てる樣になつたのである。而して此の如き形式的人格ならばペーターでもパウルでも同一であるから、全人類とか神といふものでも同一種の人格を當嵌めることができるやうになつたのである。右の如き譯であるから、テーンやミルの經驗論と獨逸の哲學者の超越的哲學と其方法は同一である、共に心理學的分析によつて得た所のものより哲學を論じようとした、而して兩者共に種々の困難や矛盾に陷つたのである。べルグソンは右と同樣のことを運動に就ても論じて居る。我々は運動といふことを分析に由つて理解しようと試みる。即ち運動といふものを先づ出來得るだけ多く靜止の状態、即ち點に分析し、而して後、點から點への推移といふ風に解釋しようとする。併し之から運動に關係した古來哲學上の難問など生ずるのである。運動の解釋は運動其者より出立すべきである。運動の速力を弱めた極點が靜止となるのである、運動は位置といふことより根本的である。

     四

 右に述べた樣に分析より直觀に到らうといふのが從來の哲學の誤であつた。かゝる考へ方は畢竟矛盾に陷るより外はない。眞の哲學的方法は普通の考へ方を逆にするのである、即ち直觀より分析に行くのである。かくしてすべて思想上の矛盾を解決することができるのである。例へば持續といふことを分析すると、連續する意識状態の多數と之を結合する統一とに分れ、持續とはこの二つの者の綜合といふことになる。併しかゝる綜合が如何にして可能なるか、此事既に不可思議なるのみならず、かゝる抽象的持續よりして如何にして我々が實地に經驗する具體的持續の種々の色合及び程度を理解することができるであらうか。詳言すれば、持續を多數性の方面から考へて瞬間の連續と見るならば、其瞬間なるものはいかに短きにせよ又無限に分たれなければならぬ、此考で進んでゆけば遂に持續といふことは成り立たぬこととなる。之に反し統一性の方面から見れば持續は變化しないものになる、變化のない持續はまた持續といふことはできぬ。かくの如く兩方面を綜合することができぬのみならず、いづれにしても唯一の抽象的持續だけが存在することとなる。然るに眞の具體的持續は決してかくの如く何處までも數量的増加の外、何等の變化なきやうなものではない、一時間の持續は一日の持續と異なる樣に各其特色を有する持續である。右の樣に分析より直觀に到らうとすれば種々の困難が起るのであるが、反對に直觀より出立すれば容易に此等の困難を去ることができる。持續を直觀に由つて内から見れば或一つの緊張の感である。我々は之に依つて容易に持續の種々の色合を理會することができるのみならず、我々はその緊張を弛め、之を短くして其極何等の性質なき純粹の繰り返しになることもでき(ベルグソンは之を物質性といふ)、又緊張を非常に強くして、其極、永久の念に達することもできる。此邊はべルグソン自身の哲學に關するのであるが、とにかく直觀より出でゝ分析に入れば容易に諸種の難問を解決し得るといふのである。數學に於ても最も有力なる研究法である微積分の如きは此の如き方法よりできたのである、近世數學は既成的なるものに代ふるに生成的なるものを以てせうと努めてをる。又ガリレオがアリストテレスの考を破り運動を運動其者から研究してより近世科學は始まつたのである。近世哲學に於ても其創立者といはれる樣な人は皆かゝる方法にて直觀より得來つたのである。唯、科學に於ても、哲學に於ても、一たび深き直觀の海底より得來つた眞理も、理解力の光線に逢うて乾燥し固定して、生氣を失ひ、一種の符號的知識となつてしまうたのである。カントが其「純理批判」に於て哲學をして再び立つ能はざる如き打撃を與へたのは此種の哲學に對してであつた。純正哲學は今も尚、依然として可能的である。直觀より得來れるものは容易くカントの批判を逃れることができるのである。最後に一言して置かねばならぬのは上來述べ來つた直觀といふのは毫も神祕的性質のものではない、何人も多少之を經驗しない人はないのである。例へば、文學的創作に經驗のある人は己が題目につき如何に多く研究し如何に多く材料を集めても、尚或一物を缺き居ることを感ずるであらう。それは即ち物其物になつて見る努力である。一たび此境に達するを得ば、精神自ら活動し千言萬語筆に隨うて出てくるのである。哲學的直觀も之と同一種のものである。唯其材料とする所は文學者のものと異なつて、すべての科學に由つて集められた觀察及び經驗である。(明治四十三年十月)

底本:「西田幾多郎全集」第一巻、岩波書店
   昭和22年07月10日発行