ベルクソンの純粹持續

西田幾多郎

 余はベルクソンの哲學には多大の興味を有つて居る者である。併し余は未だ氏の著書を精讀した譯でもなく、且氏の哲學の如き深くして獨創的なる思想は余の誤解し居る所も多からうと思ふ。此處には唯余が理解し得た二三の要點を記するまでである。氏の哲學の如きは自ら其書を讀まなければ眞の味が分らぬものであると思ふ。

 ベルグソンの思想に於て最も特色のあるもので、かねて氏の哲學の根柢となつて居るものは純粹持續durée pureの考であると思ふ。由來、哲學は理性より出立するものと經驗より出立するものとあつて、ベルグソンは後者の方に屬するのであるが、普通に經驗より出立するといつて居る人々の經驗といふのは眞の純粹經驗ではない、却つて思惟に因つて作爲せられたものである。ベルグソンは一切の獨斷を除き盡して深く經驗其者の眞相に到達せんとした、かくして補足し來つたものが純粹持續の考である。氏に從へば我々の直接經驗の事實即ち所謂意識現象は本來種別的qualitativeのものであつて、量別的quantitativeのものではない。之に對する量別的區別は物體界との對比から第二次的に起つて來るのである、例へば感覺の強弱、感情の深淺皆種別的であつて量別的ではないといふのである。かく意識が種別的であるといふことは同時に意識はいつでも一つの状態である、獨立せる二個の意識の同時存在を許さぬといふことになる。意識には決して並置juxtapositionといふことはない、即ち空間的關係を當嵌めることはできぬ。氏は次の如きことをいつて居る、自分が薔薇の香を臭いで幼時の追懷に耽る時、自分は薔薇の香に因つて幼時の記憶を想起したのではない、香の中に幼時の記憶を臭いだのであると。さて斯く種別的であつて何時でも一つである意議の變化は不斷連續でなければならぬ、換言すれば連續的進行でなければならぬ。此言語思慮を絶し、禪家の所謂心隨萬境轉、轉處實能幽といつた樣な所が赤裸々たる經驗の眞相である、自己の本體である、ベルグソンは之を純粹持續又は内面的持續と名けるのである。それではこの持續とは如何なる性質のものであるか。持續といへば直に時間といふことを想起するのであるが、氏の持續とは普通の意味に於ける時間上の持續と同一視することは出來ぬ。氏がEssaiの中に詳論する所に從へば、普通の所謂時間とは、連續的進行を反省して之を同時存在の横斷面の上に持ち來した場合の並置的關係にすぎぬ。例へば時計にて時間を計るといふのは針の進行を指針面上の空間的關係に移して之を知るのである。時はかへすことが出來ぬといふが、所謂時間の根柢には空間がある、空間的關係なくして所謂時間的關係を考へることはできないのである。然るに氏の所謂純粹持續は縱線的不斷進行である、一瞬前の過去にも還ることができない。我々が一瞬前の過去を想起した時、その意識は已に一瞬前の過去ではない、我々は到底同一の經驗を再び繰り返すことはできぬ。ヘラクレイトスの永久の流れにも比ぶべき純粹持續は、流るゝ時le temps qui s'écouleであつて、流れた時le temps écouléではない。かういふ譯であるから、純粹持續即ち我々の内面生活は不斷なる内面的進歩發展でなければならぬ、即ち創造的發展evolution créatriceであるのである。我々の現在は決して過去のない現在ではない、我々の過去が自ら發展して來た現在である、我々の未來は又此現在が自ら發展して行く未來である。我々の背後にはいつでも我々の過去が壓迫し來るのである、我々はいつでも我々の歴史を負うて立つて居るのである。我々の獨創性は實に此處にあるのである。記憶といふ如き力があつて過去を分類し記載し置くのではない、過去は自動的に己を保存し、影の如く我々の踵に隨ふのである。扨又此の如く考へれば、純粹持續は始から定つた目的を以て進むもので、その意匠的説明ができるものの樣に思はれるかも知らぬが、ベルグソンはこの直接の經驗である純粹持續に對しては、啻に機械的説明を拒むのみならず、其意匠的説明をも否定するのである。純粹持續は前にも云つた樣に連續的創造である、同一の場合を再び繰り返すことはできない。大體に於て類似せる場合に大體の方向を豫想することはできるかも知らぬが、眞に如何に發展するかは自身此流に入つて實地に臨んで見なくては分らぬ。此處には思慮分別の概念的知識を容るべき餘地がない、實に古歌の「ゆらのとを渡る舟人かぢをたえ行へも知らぬ戀のみちかな」といふ趣がある。ベルグソンが自由意志といふのは此境涯を指すのである。氏が好んで用ゐる比喩を以ていへば、畫家がモデルを前にして、肖像を描かんとする場合に、如何なる肖像畫ができるかは其モデルの容貌と畫家の性質と、パレットの上にのべられたる顏料とに由つて大體を豫想することができるかも知らぬが、眞に如何なる畫ができるかは畫家自身にも知ることができぬ。我々は生活の瞬間、瞬間に於て畫家である、一瞬々々が創造的である。かゝることをいへは、それは我々の知識が不完全なる故であるといふかも知らぬが、何處までも過去の經驗を基として抽象し得た概念的知識にかゝる説明をなす力のないことはポアンカレを始め多くの數物の大家も認めて居ることであらうと思ふ。以上述べた所に因つて、ベルグソンの純粹持續の如何なるものであるかを、略〻説明した積りであるが、氏に從へば、これが直接なる具體的經驗の眞相であつて、即ち實在の眞面目である。物理學者の所謂物體界の如き、合理論者のいふ所の不變なる實在界といふ如きものは、我々の知識に由つて作爲したもので實在の眞相を傳ふるものではない。我々の知識は行動の手段となるものであつて、外界の成功を目的としたものである。所謂知識はすべて實用的意味を有つたものである、物を手段として外から見たものにすぎぬ。物其者を知るには其者となつて内から之を知らねばならぬ、是が即ちベルグソンの直觀である。直觀と概念的知識の比較に就ては氏の「哲學入門」といふ小冊子に詳論してあるが、余は既に哲學的方法論に於て述べたから玆には之を略することとする。

 それでは右に述べた樣な純粹持續から如何にして知識や物質が出て來るか、此兩者は如何なる意味をもつたものであるか。純粹持續は前に云つた樣に連續的創造である。總べての過去を縱線的に背後に列して現在といふ一點に集中する處に創造があるのである、平易にいへば精神の非常に集中した處に創造があるのである、即ち純粹持續は緊張étendreであるといふことができる。既に之を緊張であるとすれば、緊張には程度の差がある譯である、緊張の他面には弛緩détendreがなければならぬ、即ち純粹持續には緊張と弛緩との兩方向がなければならぬ。さてかういふ兩方向があるとして、此純粹持續を縱線的に緊張しきつたる所が我々の生命であり、自由行爲でり、かねて實在の眞面目である。然るに一度此緊張を弛めんか、我々は活溌溌地なる眞劍の世界から一轉して夢の世界に入る、是に於て我々の自己は忽ち擴散し、過去の歴史は個々獨立せる無數の記憶の並列的關係に配置せられ、我々のパーソナリティは空間的關係の中に陷つてしまふ。かういふ風に相連續せる縱線的經驗を個々獨立せる横線的即ち空間的關係と並列し、外より相互の關係を見たるものが知識であつて、かくして成立したものが即ち物質界である、此兩者は同一の根源を有つたものであるといふ。所謂物質界とはつまり純粹持續の緊張を極度まで弛めたものにすぎぬ。勿論絶對的緊張とか絶對的弛緩とかいふ樣のものは實際に無いかも知らぬが、とにかく物質とは精神を逆にしたものである。然るに我々の精神即ち純粹持續は己を緊張して此並置的横斷面を突破して進まうとする。是に於て此外界に打ち勝つ爲め並置的關係の知識を要する樣になり、所謂外界知識と純粹持續の尖瑞が此横斷面に撞着する所に生ずるのである。ベルグソンに從へば我々の身體は單に行動の器具であつて、精神と平行する獨立の存在ではない、唯此接觸面を示すこととなるのである。

 それではべルグソンの宇宙觀といふものは畢竟如何なるものとなるのであらうか。右に云つた樣に純粹持續には緊張と弛緩との兩方向があつて此持續が己を緊張して突進する處に我々の生命がある、是が即ち宇宙發展の形式となるのである。弛緩の極度に達し、幾んど活力なきものが所謂無機物である。生物とは持續が既に此弛緩の平面を破つて己を發展したものである。即ち生命の原始的衝動l'élan vitalが一樣的なる物質を破つて個性を樹立したものである。併し生物といふも未だ全然物質の束縛を脱し得たものではない。氏に從へば生命vieは恰も一つの中心から四方に氾濫する大波の如きものである。或者は少しの障碍に遇うて止まり、或者は之を越えて進むのである。氏は生命の方向を分つて眠生、本能、知識の三として居る、第一は植物の生活、第二は動物の生活、第三は人間の生活である。此三つは固より一つの生活の分化であるから、相混じては居るが、大體に於て全然異なつた方向を取つたものである。獨り人間に於て純粹持續は全然物質に打ち勝つて自由の域に入ることができたのである。併し人間でもすぐ此純粹持續の流の上に固定せる獨斷や因襲の皮ができる。此皮が厚くなれば麻痺した植物生活と擇ぶ所なきものになつてしまふ。唯、創造的天才は之を破つて純粹持續の自由の天地を闊歩するのである。(明治四十四年九月)

底本:「西田幾多郎全集」第一巻、岩波書店
   昭和22年07月10日発行