毒薬を飲む女      一 「おい、あの婆アさんが霊感を得て来たようだぜ」 「れいかん[#「れいかん」に傍点]ッて——?」 「云って見りゃア、まア、神さまのお告げを感づく力、さ」 「そんな阿呆《あほ》らしいことッて、ない」 「けれど、ね、そうでも云わなけりゃア、お前達のような者にゃア分らない。——どうせ、神なんて、耶蘇《ヤソ》教で云うような存在としてはあるものじゃアない。従って、神のお告げなどもないのだから、そう云ったところで、人間がその奥ぶかいところに持ってる一種の不思議な力だ」 「そんなものがあるものか?」 「ないとも限らない——じゃア、ね、お前は原田の家族にでもここにいることをしゃべったのか?」 「あたい、しゃべりゃせん——云うてもえいおもたけれど、自分のうちへ知れたら困るとおもって」 「でも、あいつは、もう、知ってるぞ、森のある近所と云うだけのことは」 「森なら、どこにでもある」 「そうだ、ねえ」と受けて、義雄はそれ以上の心配はお鳥に語らなかった。無論、千代子が或形式を以《も》って実際お鳥を呪《のろ》い殺そうとしているらしいことも、お鳥には知らしていない。たださえ神経家であるのに、その上神経を悩ましめると、面倒が殖《ふ》えるばかりだと思っているからだ。  が、お鳥も段々薄気味が悪くなったと見え、日の経《た》つに従って、義雄の話を忘れるどころかありありと思い出すようになったかして、ついにはまた引ッ越しをしようと云い出した。もし知られると、今までにでも、云わないでいい人にまで目かけだとか、恩知らずだとか、呪い殺してやるだとか云っているあいつのことだから、わざと近所隣りへいろんな面倒臭いことをしゃべり立てるだろうからと云うのである。  然《しか》し、この頃お鳥はおもいかぜを引いてとこに這入《はい》っていた。近所の医者を呼んで毎日見て貰うと、非常に神経のつよい婦人だから、並み以上の熱を持ち、それがまた並み以上に引き去らないのだと説明した。その上、牛込の病院に行けないので、一方の痛みも亦《また》大変ぶり返してきた。  かの女は気が気でなくなったと見え、独りでもがいて、義雄にも聴《きこ》えるように、 「何て因果な身になったんだろう」と三畳の部屋で寝込みながら、忍び泣きに泣いた。おもての方の広い、然し向こう側の森から投げる蔭をかぶった室——六畳——には、憲兵[#「憲」に*]が三人で自炊する様になっていた。  義雄は同じ家にいる憲兵等に物も云いかわさなかったが、毎日、昼間からお鳥の看護に努めた。同時に、自分もひどい痔《じ》に悩んだ。  重吉からの返事は来ず、東京に残っている重吉の女房に問い合わせると、北海道の方をまわっていると云うのであった。義雄はまだ鑵詰《かんづめ》の事業の手初めも出来ないのが、無聊《ぶりょう》の感に堪えなかった。  丁度、その時、我善坊《がぜんぼう》の方へいいハガキが届いた。「竜土《りゅうど》[#「竜」に*]会例会——一、時日——一、場所——一、会費——右御出席の有無○○区○○○町○○番地○○○○方へ御一報を乞う——年月日——幹事——」と、印刷摺《ず》りにしてある中へ、それぞれ必要な文字を入れたハガキであった。  竜土会と云うのは、おもに自然主義派[#「自」に*]と云われる文学者連を中心としての会合で、大抵毎月一回晩餐の例会を開くことになっている。幹事は二名ずつのまわり持ちで、この月には田島秋夢[#「田」に*]と今一名渠《かれ》と同じ新聞社にいる人の名が出ていた。  義雄はこの会の最も忠実な常連の一人でもあるし、友人どもの顔も暫《しばら》く見ないし、印刷を終わった自著[#「自」に*]『新自然主義』がいよいよ世間に出た当座の意気込みもあったことだし、喜んで出席することにした。そしてお鳥が、その日になってもこちらの痔が悪くなるにきまってるから止めて呉れろと頼んだのも承知しなかった。  中《なか》の町《ちょう》から檜町《ひのきちょう》の高台にあがると、麻布《あざぶ》の竜土町である。そこの第一聯隊と第三聯隊との間に竜土軒と云う仏蘭西《フランス》料理屋がある。そこが竜土会の会場であった。  義雄はそこに一番近いので、午後六時にはかッきり行った。が、まだ誰れも来ていない。  ボーイを相手に玉を突いているうちに、人がぽつりぽつり集って来た。そのうちの一人が玉場へ飛び込んで来て、 「どうだ、久し振りで負かそうか?」こう云って直ぐキュウ[#「キ」に*]を取った。例の歌詠《うたよ》みから株屋の番頭に転じた男だ。「然し、ねえ」と、かの永夢軒に於ける義雄の失敗を持ち出して来て、 「また電球をぶち毀《こわ》すのは真ッ平だぜ」 「あれはどこの玉屋へ行ってもおお評判ですぜ」と、そばにいたそこの主人が少しおお袈裟《げさ》に笑った。 「もう、大丈夫だよ」まじめ腐って答えながら、義雄も台に向ったが、いろんなことが気にかかって、もろく勝負に負けた。 「よせよせ」と呼びに来たものもあって、義雄も二階にあがった。  渠《かれ》を見るのは近頃珍らしいので、皆が話をしかけた。 「君の著書をありがとう」と挨拶するものもある。 「あんな短い紹介だが、取り敢《あえ》ず新刊紹介欄に載せて置いたよ」と云うものもある。 「耽溺[#「耽」に*]《たんでき》はどうなるのだろう」と、こちらが現代小説にやった作のことを云うものもある。 「君の女はどうした」と、ぶしつけに聴くものもある。 「顔の色が悪いが、過ぎるのだろう」と穿《うが》ったつもりでからかうものもある。 「また痔が悪くッて、ね、閉口しているのだ」 「じゃア、酒はやれまい」と、慰め顔に質問するものもある。が、渠はかた一方の耳がまだよくないので、左の方から云われた言葉を度々《たびたび》聴き返したり、聴き落したりした。  やがて椅子《いす》が定まって、日本酒の徳利がまわった。  秋夢は幹事だから末席にいる。渠は鋭い皮肉な短篇小説で名を出した人だが、外《ほか》に「破戒[#「破」に*]」を書いた藤庵がいる。「生[#「生」に*]」を書いた花村がいる。劇場のマネジャーを以って任ずる内山がいる。また外国新作物の愛読者で、司法省の参事官をしている西がいる。その西が紹介した農商務省の山本という法学士がいる。株屋の番頭がいる。工学士の中里がいる。※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p78-上段4]町《こうじまち》の詩人がいる。琴の師匠の笛村がいる。漫画で知られる様になった杉田がいる。或出版店の顧問、雑誌の編者等もいる。  こう云う人々の中にあって、いつも渠等《かれら》の談話を賑わすのは田辺独歩[#「田」に*]であったが、今年の六月に肺病で死んでしまった。余り出席はしなかったが、矢張り、会員であった眉山[#「眉」に*]《びざん》は、独歩の死ぬ少し前に自殺した。  眉山の自殺してから間もなく、茅《ち》ヶ崎《さき》海岸の独歩の病室で、「この竜土会の会員の中で、誰れが眉山の次ぎに死ぬだろう」と云う話が出た。 「無論、田村の狂死、さ」と、毒舌家の病人は笑って、「あいつが生きているうちに、おれは死にたくない」  そう言われるほど、義雄も随分毒舌の方であるし、それをあとで聴いた渠は曽《かつ》て独歩の思想をまだ旧式だと批評したことがあるのを思い出したりしたが、今夜は甚《はなは》だ勢いがない。酒は平気で人並みに飲んでいたが、持病のむずがゆく且《かつ》痛むのを頻《しき》りにこらえていた。  花村は「鳥の腹[#「鳥」に*]」と云うのを文芸|倶楽部《クラブ》[「文]に*]に出した男を捕えて、あの小説は描写でない、下手《へた》な説明だ、きわどいところがあるのは構《かま》わないが、説明的だから、それを人に強《し》いるようになっている、挑発的だと云って、発売禁止になったのも止《や》むを得まい、などといじめていた。  藤庵は、或新聞記者に向って、謙遜《けんそん》らしく、人生の形式的方面をどう処分していればいいのだろうと云うようなことを質問していた。  西は内山や中里と共に頻りにイブセン[#「イ」に*]やメタリンク[#「メ」に*]やストリンドベルヒ[#「ス」に*]の脚本を批評し合っていた。  こう云う別々な話がいつまでも別々になっていないで、互いに相まじわり、長い食卓のあちらからも、こちらからも、機《はた》の梭《ひ》が行きかう様になった時、義雄はその意味を取り違えたり、ただやかましい噪音《そうおん》が聴こえたりする瞬間もあった。それが如何《いか》にも残念で、この耳だけに関して云っても、もう、これ等の人々と自由に話し合う資格がなくなったのかとまで思った。 「田村が乙に澄ましていやアがるので、今夜は少し賑《にぎ》やかでない、なア」と、株屋の番頭が云うのが聴こえた。「色おんなを持つと、ああおとなしくなるものか、なア?」 「きょうは、何と云われても、しゃべる気になれないのだ」こう云って、義雄は笑ったが、自分のいつも特別に注意を引くからから笑いも、それと好一対になっている※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p79-上段9]町の詩人の羅漢笑《らかんわら》い[#「羅」に*]と云われるのに圧倒された。  そして、花村の耳も鼻も目も内臓も、どこもかも健全で、而《しか》も巌乗《がんじょう》な体格が何よりも羨《うらや》ましくなったと同時に、独歩の死んだ時、茅ヶ崎へ集まった席で、義雄は自分が花村に向って、君は僕等すべての死んだあと始末をして、誰よりもあとで死ぬ人だと云ったことを思い出した。  次の忘年会大会の幹事を義雄も引き受けた竜土会の帰りには、おも立った人々よりも一時代あとの若手連が二三名、※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p79-上段20]町の詩人と共に付いて来た、が、中の町の隠れ家は連れ込むことをしたくなかった。と云うのは、自分の痔が果して酒の為めに非常に不気分になった上に、お鳥がうんうん呻《うな》って寝ているのを思ったからで、而《しか》もそれがたッた三畳のきたない部屋だもの——自分等の弁当を運ぶ弁当屋のある角で、渠等と無理に右と左にわかれた。  例のどぶを渡って、戸を開けると、今夜は断ってあったので締りはしてなかったが、酔っているのと早く横になりたいとの為めの荒ぢからで、自分の引き明けた戸はがらりと大きな音を立てた。 「お帰りですか」と、下のかみさんが、炬燵《こたつ》をしてある奥の方から声をかけた。 「あ、只今」と答えて、渠は自分で戸締りをしてから、あがり段をあがった。    あたまの上には、無学、無趣味、無《ぶ》作法、卑俗で、話と云えば,賤業婦の※[#「墫」の「土」にかえて「口」、読みは「うわさ」、79-下段16]《うわさ》ばかりの憲兵連がいるのを思い出した。  上にも下にも、こんな毛だ物同様の野蛮人種が籠《こも》っているほら穴より外に、義雄は自分の眠るところもない今の状態を考えて見た。 「吾人《ごじん》の頭脳は銀河に浴し、吾人の両足は地獄のゆかを踏む」と云うエマソン[#「エ」に*]の警句が浮んだ。が、若《も》しこのおお袈裟な口調で自分の考えを発表すれば、地獄のゆかをも踏み破って、而も天井に須佐之男《すさのお》[#「須」に*]の暴威の雄たけびをやって見たいほど絶望的だ。 「こんな腐ったからだ! こんな死獣のたいを借りたようなからだ! こんな多くの悪病気の問屋をしているようなからだ! ひょッとすると、耳や鼻や痔は何物かの梅毒から来ていはしないかと疑われるからだ!ええッ! こんなからだはどうにでもなれ」と、義雄は二階へあがってから、自分で自分を投げ出した。 「どうしたの」と、お鳥はその重たそうな首を枕からもたげた。「お酒が悪かったのだろう——だから、あんなに行くなと云うたのに」  渠は黙って返事もしなかったが、ほッこりと迫って来る女のにおいを嗅いだ。渠には、鼻も亦右の方しか役に立っていないのだが、一方で僅《わず》かに嗅《か》ぎ分けるこのにおいが、今のところ、たッた一つの慰めだ。この頃は、 外のどぶの悪臭も気にならなくなった。この部屋へあがって来るまで陰気臭いことも、そう神経を悩ませなくなった。その代り、お鳥のこの臭いがどう嗅ぎ直して見ても、義雄には穢多《えた》臭くなった。そのくせ、別にわき香《が》か何かのようにいやな感じを伴っているのではないが——。  それでも、なお、千代子の※[#やまいだれに「叟」、読みは「や」、80-下段5]《や》せて冷めたそうなところよりも、夜は、梅が香を包んでいるように、此あッたかい臭いのするところがいいのである。渠はこの臭いがしないと、却《かえ》って寂しい、寂しい気持ちになった。  お鳥がまた別にかぜの医者を呼んでいるのに、義雄がまた耳に通うほかに他の医院を訪《おとな》うのは、自分で我慢していた。そして、隔日に行く学校へは欠勤届を出した。が、堪え切れなくなって、或る肛門病院へ行った。そして注射をして貰ったのが、薬の利き目でか、一層不気分を増した。 「あたいにこんな二重の苦しみをさせるから、その罰で自分もうえした二重の病気になったのだ」 「そりゃア、そうかも知れない——許して呉れ」と云って、義雄はそれをお鳥の気休めに供し、その実、自分が苦しいのにかく女の看護までをしてやらなければならない面倒を少しでも避けるようにした。      二 「おかアさん! おかアさん!」  義雄はぎょッとしてあたまを持ちあげた。お鳥が死んだ母親を呼んでいるのである。  病人を見ると、あお向いて、目をつぶったまま、久し振りの優しい微笑を浮べている。  炬燵《こたつ》の火も消えた真夜中、しんとして、鼠《ねずみ》一匹騒がない。消し忘れた置きランプの光に、時計のちくたくばかりが明らかに響く。  その時計のこまかい確かな刻み——それが渠《かれ》の痛みを全身に伝える血脈にめぐって、刻一刻快楽と思えた夢が、羽ばたきをして過ぎ行くのがありありと見える。  ふと、その過ぎ行く快楽の夢を米国の浪漫的《ろうまんちく》詩人アランポー[#「ア」に*]が歌った「おおがらす」[#「お」に*]の姿にして見た。レノアと云う世に亡き乙女《おとめ》を恋して、   「あわれ、冴《さ》やかに 吾れは 覚ゆ 寒き 師走《しわす》   の 夜中なり、   炭の 燃えさし 離れ離れ 床に その影 落し   てき。   吾《われ》は 頻《しき》りに 朝を 待ちつ 無駄に 求めて    わが書《しょ》より   借らん と せしは 憂《う》さ の 晴らし」 であったところへ、「何を※[#やまいだれに「叟」、読みは「や」、81-下段6]せ魂《たま》、鄙《ひな》び魂《たま》の不吉怖鳥《ふきつこわどり》、古鳥《ふるどり》」の鳥類の悪魔か分からないような真ッ黒なおお鴉《がらす》が闇の外から飛んで来て、書斎に備えつけられたパラス彫像[#「パ」に*]の肩にとまった。そして愛婦の今と同様ノーモア[#「ノ」に*]、「またもなし」と語った。  それは失恋と云う物を地上に引き据えて見たのだが、英国の画家詩人ロセチ[#「ロ」に*]の「昇天|聖如《せいによ》」に、   「昇天 聖女 の 身を 傾けて   恁《かか》りしは 黄金《こがね》の 天津横木《あまつよこぎ》。   まなこは、 深みて、 一しほ、 海の   平らに 静める それに 勝《まさ》り。   その手に 持ちしは、 小百合《さゆり》を 三個、   髪なる きら星 数《かず》は 七つ」 とあるのも、つまり、これは失恋を天上に祭りあげたに過ぎない。  ワルツホイトマン[#「ワ」に*]にも同じ系統の「揺《ゆ》り籠《かご》から」[#「揺り」に*]があり、義雄[#「義」に*]自身にも長い詩篇「三界独白」中の「常盤《ときわ》の泉」があって、矢ッ張り、若々しい恋の失敗を地上なり、天上なりに引き据え、祭りあげていたのが思い出された。  然《しか》し現在の状態はどうだ?   空想のでも、天女や恋人なら、まだしも——架空のでも、おお鴉やアラバマ[#「ア」に*]から来たと云う鳥ならまだしも——義雄は身ずから穢多だと思うものを介抱しているのである。  無論、世に神聖な恋愛などはない——あっても、ただの空想で、現在に活動する人間の糧《かて》にはならない。が、曽《かつ》ては聖愛などを——その時から、肉的に見てたが——歌ったことがある渠は、今更らのように今昔《こんじゃく》の感無しにはいられなくなった。  穢多の熱病人に、殆《ほと》んどあらゆる病気の問屋! 渠は、こう思って、ますます絶望的な蛮勇気《ばんゆうき》を出した。 「死にたくはない——今、一度、この女を完全なからだに返して、その全身の愛を本統に自分に捧げさせて見ないじゃア置かないぞ。それからなら、自分が死んでもいい、また、破れ草履《ぞうり》を棄《す》てるように、この女をすッぱりおッぽり出してもいい」  こう考えて、渠は片手で自分の痛みの個所を押しこらえながら、熱に疲れてよく眠っているかの女の二つの病気の、直った上の楽《たのし》みを想像した。  しんとした、そとには何ものかが窺《うかが》っているようだ。渠はこッそり罪悪でも犯しているようにまたぎょッとした。 「おかアさん!」と、輪郭のぼやけた一声に、この僅か三ヶ月間に※[#やまいだれに「叟」、読みは「や」、82-下段12]せの見えて来た顔の微笑がまだ浮んでいる。  また、夢を見ているのらしい——この飽《あ》くまでも見飽きぬ妖態!  試みに、そのあッたかい胸から、渠は自分の一方の腕をのせていたのをやわらかに外《はず》すと、かの女《じよ》は逃げるものを追うように、両の手を空しくさし延べた。が、直ぐそれを引ッ込めたかと思うと、やがて、 「あア、ア、ア——」頼りなげに又苦しそうにもがいたあげく、半身をがばりともたげた。が、あたりをじろじろ見渡して、「畜生! 殺すぞ」と云いながら、再び枕に就《つ》いた。  ひどい熱になやんだあとの疲れで、眠りはまだこの恨みの深い人を※[#「纒」の「黒」を「黑」、読みは「まと」、p83-上段5]《まと》っていると見えた。直ぐいびきをかき出した。そして、そのぐうぐう云う響きが、おもて座敷の憲兵どものと何の遠慮もなく競争を始めた。  みじめな人生の裏家住い——こう云うことが義雄のあたまに浮んだ。こちらのいびき家《か》は、然し、相変らずうなされていると同時に、からだの筋肉が痙攣《けいれん》を引き起す前のようにびくびく動いている。 「鳥ちゃん——鳥ちゃん!」  静かに呼んで見たが覚めようともしない。あお向けに吐く白い息と横向きに吐く白い息とが交叉《こうさ》した。渠は考えた、呼び起こして、覚《さ》めた自分と同じように苦痛を感じさせるよりも、いッそのこと、死ぬまで斯《こ》うしていさせる方がまだしも功徳《くどく》かもしれない。且《かつ》、自分に対しても、やきやき面倒を訴えないでいいと。  若《も》しこちらが昔の人のように十五六歳で結婚をしていたら、これくらいの総領娘があったかもしれない。無病息災であったきのうは、駄々も捏《こ》ねたし、泣いて無理も云った。が、その可愛さは、もう、なくなった。  過ぎ去った快楽は現在の自分を満足させるに足りないのに、矢ッ張り、こんなところにこびり付いているのは、宿無し犬が掃き溜めの汚物に飢えをつなぐと同様、ここに自分の苦痛の必然な餌《え》じきを求めているのだ。  こう思うと、渠には女の方も亦《また》そうではないかと云う考えが起った。この頃、かの女は非常に愛着を増した。少しでも男を自分のそばから離れさせまいとする。が、それは男を先ずそとに見えない心臓や肺のあたりからがつがつとかじって、ついにはその全身をかの女の病熱と衰弱との喰い物にしてしまうのではなかろうか?  自分の恋も純潔でなければ、お鳥のも亦利害を混濁していると見ながら、ランプの光に獣性が目覚めて、二つの肉その物の腐爛《ふらん》して行く姿を心のまなこに見詰めている。そしてこちらの手あしに女の存在を知らせるのは、こちらがかの女に相分った毒血《どくけつ》のあッたかみである。  このまま死んで、腐って、骨になったら——?そうだ、その時は、 「二つのしゃりこうべ!」恨みもない、執着もない、全く関係のないあかの他人だと渠は考えた——そして、また他人の寝ごとは却ってはッきり聴えるものだと誰れかが云ったことを。  寝ている病人はまたうなされ出したが、今度は何かの怨霊《おんりよう》が磐石《ばんじやく》の重りを以って息の根を押し止めようとしているのを、四苦八苦のもがきで逃げようとするようなありさまがありありと見えた。両うでを空《くう》に開いて、 「あア—! あア—ア、ア—」と叫んだ時は、怨敵《おんてき》の姿も見えたかのように、義雄は三たびぎょッとした。かの女は目をきょろりと明けてこちらの驚いた顔を見た。 「何か云うた?」ぼんやりとほほ笑んでる。 「うなされていたよ」 「そう——夢を見て、苦しかった」 「——」義雄はただかの女の顔を冷やかにのぞき込んで、寒い深夜のどこかそとを想像して見た。千代子が神社か大木の陰で藁《わら》人形[#「藁」に*]釘《くぎ》を打っていたのではいか知らんと。      三 「熱の方は大分えいようになった。依《よ》って、あすからでも、また牛込の病院へゆこか?」 「無理をしても悪いが、なア——おれも然《しか》し痔の方は少し辛抱出来るようになったから、また耳の治療にせッせとかよおうかと思ってるのだ」 「こんな二人までも苦しい目に会うのはおかしい——あたいの写真が一つ我善坊に置いてあるから、自分の写真と一つにして、あいつがそれを五寸釘でも打ってやせんだろか?」 「まさか、ねえ」と、こちらは何げなく見せて、「よしんば、そんなことをしたところで、お前とあいつとの間に無線電信でもかかっていなけりゃア、通じる筈がない、さ」 「でも、そうして人を呪い殺した奴が田辺に一人あった」 「そりゃア、自分を呪ってると云うことを伝えぎきでもしたから、神経に負けて、われとわが身を殺したの、さ」 「でも、自分はあいつに霊感が出て来たと云うたじゃないか?」 「それはちょッとそう思っただけで——きッとそれだとは思っていない」 「でも、若し感づいて、ここへやって来たらどうする?」 「今まで来なけりゃア、もう、大丈夫分りッこはないの、さ」  こう云う話があった時は、義雄とお鳥とが大工の家を体《てい》よく断られて、仮りにその隣りの弁護士のおやじとその妾《めかけ》とがその間に出来た一人の子と共にいる家の二階へ移っていた。同じ間取りの、同じ裏二階の三畳敷だ。  そこの細君が矢ッ張り女房のある人と一緒になっていると云う事実は、同じような事情にあるお鳥をして少しその神経を休めさせた。 「隣りの人が云うてたが、もとはあのおやじさんの息子の家で下女をしておって、おやじさんの子を孕《はら》んだのだそうや——見ッともない女だろうが?」 「見ッともないとしても、からだは無病息災だ」斯《こ》う義雄が答えたのには自分の持ち物の方には面倒くさい病気がとッ付いていると云う不平も含めた。 「自分が悪いのじゃないか?」とお鳥はこちらを睨み付けた。  そこのおやじと云うのは、自分の息子が弁護士の若手として羽振りがいいのを自慢した後、義雄と同国だと分った嬉しさに、「わたしも、同じような事情で、息子と同居しておる婆アさんがやかましいのに困っておりますので、あなたのことも予《かね》て人ごとには思うておりませんでした」と云った。 「なアに、あり勝ちのことですから」と、こちらは笑って軽く受けたが、こんな死にぞくないのおやじなんかの同情は少しもありがたくないと思った。  義雄の耳は一向にはかばかしくないのもまどろッこしくて溜らないのだが、痔《じ》の方がよくなって来たので、学校の冬期試験をやりにも行くし、段々気力も恢復した。  すると、自分の身に※[#「纒」の「黒」を「黑」、読みは「まと」、p85-下段20]《まと》い付いたすべての面倒を早く振り切って、早く樺太《からふと》の事業に対する計画に直進したくなった。  自分の耳も面倒だ。いとこの重吉が北の方からこちらの電報に対してまだ便りのないのも面倒だ。病人のお鳥も面倒だ。然し最も面倒なのは、夫婦に関する法律の規定と父の遺言《ゆいごん》とを楯《たて》に取り、我善坊の家にがん張っているヒステリ女である。 「人を呪えば穴二つだ[#「人」に*]——早くあの千代子がくたばって来《く》れりゃア」と云う願いが、義雄の胸を絶えず往来していた。ところが、意外にも、死んで呉れたのは千代子でなく、かの女が里にやってあったのを取り返した赤ん坊だ。  竜士会の忘年会が、義雄と長谷天香[#「長」に*]という批評家との幹事で、午後五時から烏森《からすもり》の湖月であると云う日の昼過ぎであった。渠《かれ》が本郷の耳科医院へ行った帰りに、中《なか》の町《ちょう》の中通りを耳ばかり気にして通り過ぎてしまい、裏通りの隅にある例の弁当屋と反対になったかどから出ると、今その弁当屋から出た千代子の姿が目に這入《はい》った。  目は落ち込んで、※[#「夾+頁」、読みは「ほお」、p86-下段1]はずッとこけて、顔全体に血の色とては少しも見えず、五六間を隔てて見たところでは、全く憂いと呪いのおも影であった。  たッた僅かのあいだ見ないうちに、身体までが実際あんなに影の薄い怨霊になってしまったのかと思われた。  羽織りや着物は不断着のままで、こちらには気が付かず、下向き勝ちに歩いて、そのかどをお鳥のいる方へ曲った。 「とうとう嗅ぎ付きゃアがった」と思いながら、直ぐ義雄はインバネス[「イ」に*]の袖《そで》で※[#「夾+頁」、読みは「ほお」、p86-下段11]をこするふりをして、向うの横町へ逃げ込んだ。  義雄は千代子を避けたのを誰れにも知られたくなかった。その足で辻ぐるまに乗り、竜士軒の玉突場へ行った。  が、気になって、玉が当たらないので、二階へ移って洋食を二皿ばかりやりながら、曽《かつ》てここへお鳥を連れて来たことを思い出した。 「洋食などいやじゃ」こう云って、お鳥はわざとらしく両手を袖の中へしまっているのを見てこちらは喰い方を知らないのだと推察した。そして、そばに来ていたおかみさんの手前もあることだから、こんな田舎者《いなかもの》をいい気に可愛がっていると思われないように、 「まア、いやでも喰べさせてやるぞ」と、向うの皿の肉を自分のナイフで切ってやりながら、「こいつは好き嫌いが多くッて困るんですよ」と云った。  何ぼくどくどしい千代子でも、もう、帰ってしまっただろうと思われる頃、義雄はそこを出て、中の町へ向かった。然しまだ闇に野犬のしッぽを踏みはしないかと云うような気持ちで、おそるおそる仮寓《かぐう》のどぶをまたいだ。  すると、直ぐ下の女が出て来て、鬼の首を取った手がらばなしをでもして聴かせるような待ち受けた様子で、 「今しがた、奥さんが見えましたよ」 「そうですか」と、わざと平気ではしご段をあがろうとした。 「何だか、お子さんがジフテリアで危篤《きとく》だから——」 「えッ!」渠ははしごの第一段にかた足をかけたまま踏みとまった。  下の女は言葉を続けて、 「芝の慈恵《じけい》病院の隣りの東京病院へ直ぐ来て下さいとおッしゃって、お帰りになりました」 「そうですか、ありがとう」と答えて、渠はお鳥の薬臭い寝どこへ行った。 「来たよ」と、かの女《じよ》は半身を枕からもたげて、こちらを恨めしそうに見た。 「何が?」 「あいつが、さ」 「そうか?」枕もとに坐って、そ知らぬ風はして見たが、心のうちはかき乱されていた。第一、どうしてここを嗅ぎ付けただろう? 霊感などと云っても当てになったものじゃアない。さきに、森のある近所などととぼけたのも、誰れかに聴いて知っていたのかも知れない。或は、また、先月の竜士会の帰りに※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p87-下段15]町の詩人がそばまで来たから、あの男から大体の見当を聴いて来たのだろう。また、あんなに影が薄かったのは病児の看護に疲れたのに相違ない。それにしても、自分自身で出て来たのを見ると、子供はたとい危篤だとしても、こちらが全く可愛がってもいないので、向うも焼けを起して来たのだろう。  こう考えると、千代子の身の周囲を可なり興味づよく※[#「纒」の「黒」を「黑」、読みは「まと」、p88-上段4]い付いていたこちらの不思議な幻影や、可なりおそろしく想像していた呪いの魔力《まりき》や、罵倒《ばとう》しながらもかの女の子煩悩《こぼんのう》を取り柄として子供のことは委《まか》せ切りにしてあった安心、などは全く消えてしまった。が、きッと、かの女とお鳥とはまた云い合っていたのだと思ったので——それでわざと三時間ほどもよそへまわっていたのだが——その面倒くさい報告を聴かせられるのがいやであった。 「また喧嘩したのだろう?」 「喧嘩などしやせん」 「じゃア、あがらなかったのか?」 「そう、さ」 「……」それじゃア、まだしもよかったと、義雄は多少気を落ち付けた。 「でも」と、かの女は言葉を続け、「隣り近所へ入《い》らないことまでしゃべって行った。見ッともなくて、もう、ここにもおられませんじゃないか?」 「どんなことを云ったのだ?」 「どんなことッて——」お鳥がふくれッつらをして語ったのに拠《よ》ると、千代子は先ず弁当屋に当たりを付けて這入り込み、そこでこちらのいどころを確かめ、そこを出てからお鳥のもといた大工に行き、またその隣りの蒲団屋《ふとんや》にまで行って、お鳥に関することを洗いざらいしゃべり立てたのである。お鳥は、また、下の女から、それを聴かせられ、気になって溜らないので、寝床から飛び起きて、千代子のまわったさきを自分も一一まわり歩いて、自分の弁護をすると同時に、向うの悪口も吹き立てて来たそうだ。 「どいつも、こいつも仕ようのない女どもだ、なア」 「でも、皆がおかしな人だ、目ばかりきょときょとさせて、聴きたくもないことをわざわざしゃべりに来て、と云うていた」 「お前も行ったのじゃアないか?」 「あたいのはあとのことじゃ——然し」と、お鳥は余ほど譲歩してやると云う態度で、「子供が病気なのは可哀そうだから、行っておやり」 「そりゃア、行くが、ね——」考えて見ると、第一子(女であった)もジフテリヤの苦しみに枕もとの小ランプを攫《つか》もうとしながら死んだ。第三子(男であった)も同じ病気であったが、母に抱かれながら、なぜこんな苦しい目に会わせるのかと云うような目附きを残して死んだ。第一子の時は初めての子でもあるし、二年二ヶ月も生きた記念があるので、残念に思ったが、第三子は自分からの子として二度目の死でもあるし、たッた九ヶ月をそう抱きもしなかったから、惜しくはなかった。今回の赤ん坊に至っては、見たことさえ稀《ま》れな上に、どうせまた死ぬのだろうと思うと、全く愛着が起らない。  それでも、子が死んだら、またその死骸の処分はしなければならないし、今夜は竜士会もあることだし、お鳥が成るべく早く帰って来て呉れろと頼むにも拘《かかわ》らず、 「今夜はどうか分からない」と云って、義雄は二階を下りた。そして下でそれとなく聴いて見ると、千代子は大変な権幕で、意張《いば》って上り込もうとしたのだが、お鳥の病気で寝ていると云うのうをかこ付けに、下の人が気を利《き》かせてあがらせなかったので、 「わたしも、そんな病人なんか相手にしても詰《つま》りませんから、では、帰ります」と、千代子は飽《あ》くまでも負け惜しみを云ったそうだ。  それに、入院したのは赤ん坊一人と思っていたら、そうでなく生き残ってる四人の子供をたッた一人除いたあとのすべてがその病院の厄介になっているのだと分った。  車を駆けらした時は、もう、四時過ぎで、どこでもあかりをつけていた。  東京病院の受け附けに駆けつけて聴くと、赤ん坊は既に息を引取ったと告げられた。そして、次女の富美子は普通の病室に、三男の知春《ともはる》は隔離室に這入っていることが分かった。  義雄は、弟の馨《かおる》に桐ヶ谷《きりがや》の火葬場へ行くつもりで、直ぐ支度をして来いと云う使いを出してから、先ず知春の室に行った。すると、千代子が一人附き添っていて、所天《おつと》を責めるに最もいい口実を得たと云わぬばかりの権幕だ。かの女は自分の混乱した忿激《ふんげき》と愁傷とをまぶたの落ち窪《くぼ》んだ目に漲《みなぎ》らせ、而《しか》も自分は亡児の魂に従って既に地獄か墓の底までも検閲して来たようなつよい暗い光を顔じゅうに現わして、 「あなたのおかげで、わたしも児どもの死に目に逢えなかったじゃアありませんか?」 「そりゃア、知れ切ってらア、ね」義雄はかの女に毒々しく見せたほどわる度胸をきめ込み、睨《にら》み付けながら、「おれの隣り近所へまでも、わざわざ入《い》らざらんおしゃべりをしていやアがったからだ」 「おしゃべりをしないで、どうします? あんな女のことは、一切合切《いっさいがっさい》しゃべり立てて、隣り近所へ顔向けの出来ないまでにしてやるんだ」その声で、眠っていた児が目を覚した。そして、父が一方の枕もとにいるのを見て、びッくりしたように身をのり出し、他の一方にいる母の膝にしがみ付いた。 「それもよかろう、さ——また引ッ越《ひっこし》させるだけのことだ」 「どこへ逃げたッて」と、かの女は児にそのまま蒲団をかけてやりながら、「このわたしの前じゃア隠れおおせませんよ」 「現在、きょう、あの弁当屋から貴さまが出たのをおれは見たのだ。面倒だからはずしてしまったのだ」 「そう——」千代子は意外だと云ったようにぽかんとした。が、負けていないで、また語を継《つ》ぎ、「然し、清水の居どころは当ったじゃアありませんか?」 「原田かどこかで云ってもらやア、当のは当り前だ」 「いいえ、そんなことア——あすこへは云ってなかったじゃアありませんか?」 「じゃア、※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p90-下段9]町で聴いたのだろうよ」 「あの方だッて、知りゃアしません」 「貴様が口どめされてるの、さ」 「あんなこと! あなたは余っぽど疑《うたぐ》りッぽいの、ねえ」 「そんなことアどうでもいい」と、義雄は千代子の強情を押し付けたつもりになった。が、今の対応で以って見ると、かの女は中の町であんなおしゃべりをして歩いたように、どこへでもこちらの知り合いでかの女も会ったことがある人のところへは、この狂態を以って吹聴《ふいちょう》しに行くらしい。原田へ度々行くのは勿論《もちろん》のこと、もう、※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p90-下段20]町の詩人へも行った様子だ。  思い出すと、かの「※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p91-上段1]町の詩人が我善坊の家へ遊びに来た時、千代子はこちらのいる前でこちらの不行状を詩人に訴えた。然し、 「そりゃア、然し、男子のことだから」と、こう※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p91-上段4]町が答えたので、 「あなたまでがそんなことを」と叫んで、かの女は詩人をいきなり突き飛ばした。すると、同じように神経質の詩人は非常に気を悪くして帰った。  それを見ても、誰れも千代子をまじめには相手にしまいが、意地悪くでも出て、こんな狂人じみた女のおお袈裟《げさ》な言葉を釣り出し、それを根拠にまたこちら自身の平生《へいぜい》を人が世間に広告しては甚《はなは》だ以っておお迷惑だ。 「実に困った女だ——その歩いたあとをお鳥がまた云い消して廻ったのも尤《もつと》もだ」と、渠は考えて見た。 「わたしは、どうしても」と、千代子はなおその言葉をさし控えようとはしない。「どうしても、この神さまの力で、あなたの不身持ちが直るまでは、あなたと清水とがどこへまた隠れたッて、その隠れ場所を探し出していないじゃア置きません。あなたがたに隠れおおせる気があるなら、わたしにも探し出す力があります」 「そうなら、そうとして置け——だが、今回も葬式に宗教上の儀式は使わせないぞ」 「そんなことア御勝手におしなさい——また、そう云うだろうと思ってたんですから」  義雄はもと耶蘇教信者であった。そして、その教えを脱する頃になって、千代子の方が信者になった、が、かの女も今では変梃《へんてこ》な陰陽学《おんみようがく》[#「陰」に*]に凝《こ》ってしまった。今年の父の葬式は父の信仰に従い仏式でやったし、一昔以上前の第一子の時は、千代子の望みにまかせて耶蘇教式であった。が、第三子の時は、滋賀県の大津で無式で済ませた。その次が今回のだが、渠としては死んだものは既に無も同然だから、ただそのまま土から土、闇から闇へ葬ってしまうつもりだ。 「死んだものなんか、掃き溜めへほうり投げて置いてもいい位のものだ」 「どうせあなたが死ぬ、死ぬと云ってたから、あの子もその通り死んだのでしょうし、うちには誰れも人情にあつい人がいないのだから——あなたは色おんなのところばかりへ入り浸りになってるし。馨さんは馨さんで、人の頼んだこともして呉れないで、勉強もしずに、どこかほつき歩いてばかりいるし。おッ母さんはおッ母さんで、まだお父《た》アさんの一周忌も来ないうちに、娘の方へ逃げて行った癖に、よこした手紙には、五尺も雪が降るところで寒いから、また帰りたい! も、ないものだ」  こんな繰《く》り言《ごと》を千代子が云うのを、義雄は聴くような、聴かないような振りで、自分の心には、どうせ死ぬなら、何も分らない空体《くうたい》の時に死ぬ方がいい、人生の味いが分って、悲痛に悲痛を重ねて来ると、却《かえ》って未練が多くなるものだ、と云うようなことを考えていると、にこにこした看護婦が病院の命令を受けてやって来て、早く死体を引きとって貰いたいと云った。 「今に人が来ますから、それまで待って下さい」と、義雄は素直に答えた。が、さッきから病院の人々の死者並びにその家族に冷淡なのを怒っていたところだから、「どうせ伝染病は家へ引き取ることが出来ないのでしょう」と、からかって見た。そして、その看護婦に頼んで、会をやってる湖月へ少し遅くなるからと云う理由の電話をかけて貰った。 「まア、兎《と》も角《かく》、死んだ児の顔でも見納めに見ておいでなさいよ」こう千代子が勧めたのにも意地を張って、義雄は何か反抗の意味を云い返さないでいられなかった。 「血の気のなくなった顔などア、手めえのを見ていりゃア十分だ、——手めえマイナス気ちがいイクオル死だ。子供は目をつぶって、口に締りがなく、土色をして固くなってるだろうが、そんなものも、もう、何度も見飽きてらア」  千代子の妹がきのうまで来ていたが、家の方の世話が忙しいので、代りに専門の看護婦を雇って附き切らせてあると云う富美子の病室へは、義雄は行く必要がないと思った。  富美子のはその祖父の死因と等しく腎臓《じんぞう》が悪いのであって、ジフテリヤではなかった。が、知春のはまだ小さいだけに死んだ子のが殆んど同時に移ったのである。義雄は、若《も》し自分に梅毒気味があるとすればその痔に於いて父のを遺伝したと思っているし、富美子は又その祖父の腎臓を受けたし、知春は又その兄弟の病気に伝染したのだ。然しこの知春のは手後《ておく》れでなかったから、注射が利いて、まだ熱が去らないが、——咽喉《のど》のひゅうひゅう云うのは直っていた。 「もし生の悲痛に堪えるだけの活気がないとすれば、こいつも今のうちに死んだ方がましだのに」と考えながら、義雄は知春の隔離されてるその室で、千代子から死んだおじイさんからして後妻の姉に手を出しかけた程だから、その悪い報《むく》いが子や孫にまでも来たのだと云うような繰り言を聴かせられながらも、それを聴き流していた。かの女は病児の無理をなだめて眠らせるようにしながら、切りもなくいろんな不平を漏らしていた。  やがて義雄の弟がやって来たので、死骸に付き添って桐ヶ谷へ行かせることにし、今夜はそこの火葬場の茶屋へとめて貰い、あすの朝、骨拾《こつひろ》いをして帰るように命じた。 「とめて呉れるか知らん」と、馨はいやそうな顔をした。 「おれが前に経験があるから、云うのだ」 「では」と、しぶしぶ承知したので、義雄は渠に火葬の手続き証の出来ていたのなどを渡した。  人夫の代りに呼んだ車夫も来たと云うので、知春の室には看護婦を残し、千代子もしおしおとして、義雄等と共に出て来た。  死人の置き場が別に隔離室の建物のはずれに建っていて、田村の赤ん坊のほかに今一つの棺があった。いずれにも、別々に※[#「臘」の「月」を「虫」、読みは「ろう」、p93-下段9]燭《ろうそく》がともしてある。線香の立っている粗雑な土皿もある。  二名の看護婦が何か艶《つや》ッぽい声をあげてきゃッきゃッと笑っていたが、義雄等の這入って来たのを見て、急にしおらしい態度に改まり、火をつけたまま手に持っていた線香を棺の前の香皿《こうざら》にさし、 「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏」と不慣れらしい声で合唱した。 「とうとう死んでしまって」と、千代子は棺を見詰めながら、「あんなに親が骨を折って介抱したのに——憎らしい!」 「そんなことを云ったッて、死人にゃア聴えやアしない」こういったこちらの顔を、二名の看護婦はおそろしそうにふり返って見た。渠自身もまじめになってる自分の顔にはあごひげが三分ばかり延びてるのが自分の手ざわりで分っていた。この数日を剃《そ》るひまさえなかったのだ。 「くるま屋」と、渠は怒鳴り付けるような声で、——「これを乗せるのだ」 「へい」車夫はおずおず棺に手をかけたが、軽いので、造作《ぞうさ》もなくその肩で運んだ。  先ず馨が乗り、それから蹴込《けこ》み[#「蹴」に*]へ白い布をかけた箱を乗せたのを見て、通りかかった医員が立ちどまり、 「何ですか、それは?」 「棺です」と、義雄はきつい、尖《とが》った声で答えた、分り切ってるじゃアないかと云わないばかりに。 「ご注意までに申しますが、ね、知れると車は警察でやかましいのです」 「じゃア、これで包んでおやりなさい」と、千代子は自分の巻いていた絹の肩掛けをこちらへ渡した。医員はそれを見て黙って本館の方へ行ってしまった。  一番長く——と云っても、きのうの夕方から——看護した若い婦人が一人、義雄等と共に裏門まで車に附いて来た。 「残念だ、ねえ、もう、これッ切りかと思うと——」 「お気の毒でした、わ、ね」 「桐ヶ谷だよ」義雄が念を押すと、 「へい」と、車は駈け出した。 歳《とし》の暮《くれ》に近いさむ風がそのあとをひゅうひゅう云ってるのに義雄は気が附いた。 千代子はすすり泣きをして、袖を目に当てた。こちらも胸が一杯になったが顔を反《そ》むけて、愁《うれ》いの色を隠した。そして、気を無理に持ち直して考えた、死に行くものは自分に関係がない——亡父でも、自分に残して呉れたのは、ただ梅毒もしくは痔と僅かな財産だけだ——千代子も死ね、お鳥も死ね、入院している二名の子も死ね、そうしたら、最も冷たい雪や氷の中へでも、自由自在に自分の事業をしに行けると。 「そうだ。どうしても、わが国の極北へ行かなければならない——でないと、あいつ、意思が弱いのだ、為《す》る為ると吹聴《ふいちょう》ばかりして、何も着手しない、と云う、友人間のそしりを脱する事ができない」  千代子の言葉に拠れば、一昨日、重吉も樺太から帰って来て義雄に会いたいと云ってるそうだ。 渠には、いよいよこの自分の事業により、やがて、じぶんの これまでの失敗と不評判とを取り返して自分の同時にまた全人的発展なるところの社会的発展をも実現することが出来ると云う希望が輝いた。 「今晩は帰ってきなさるでしょう、ね」こう千代子が聴いたのを振り向きもせず、渠は自分が幹事の忘年会が湖月で多くの芸者などをまじえて賑やかに飲んでいるありさまを想像しながら、「どうか分らない」と、及《すなわ》ち、お鳥にも告げて来たのと同じ言葉を繰り返して、電車の乗り場へ急いだ。  渠はそれほど、万事を投げ出してまでも、友人仲間に孤立している自分の意気込みを発表したかったのである。      四  よそおってまで見せるいつものむッつりとは少し違った気分で、義雄は自分の物だが、最も好まない家へ出かけて行った。然《しか》し、下宿屋田村の玄関をあがると、直ぐ女房の千代子に出くわしたので、いつもの通りまたむッつりした気が起って、物を云いかけたくも無かったが、強《し》いて顔を和《やわ》らげた時は、棒立ちに立ちどまっていた。  千代子も立ちどまって、冷《ひや》やかな笑みを示した目をじッと所天《おつと》に投げた。そしていきなり、 「珍らしくにこにこしてらッしゃいますが、何か面白いことでもありますか、ね?」 「……」これで、もう、渠《かれ》は素直に出られなくなってしまった、腹のどん底に用意していた声を腹一杯に出して、「金が入《い》るんだ——三円だ!」 「へい——」かの女《じよ》はきょんとして、所天の突然な太い大きな声を出した顔を見守っていたが、飛び出たような眼をわざとらしく横に反《そ》らして、「お金なんかありません!」 「何!こないだ渡したのが、もう、無くなったわけはない!」 「あれは」と、また向き合って、「うちの暮しに入ります——お客さんが立て換えて呉れいと云っても困る。じゃアありませんか?」 「下宿人に金を立て換えるときまってやアしない!」 「あなたは御自分のうちの商売を御存じないのですよ」 「商売はお前が勝手にしているのだ、おれは別におれの仕事がある!」 「じゃア、あんな目かけなどに夢中にならないで、せッせとその仕事をすればいいでしょう——下宿屋は、ね、亡くなられたお父《た》アさんが、やめてしまうのも惜しいからわたしにしろとおッしゃったのですよ!」 「だから、勝手にするがいい、さ。おれは兎《と》に角《かく》、今、音楽会に行く金が入るんだ」 「ふン」と、かの女は鼻で受けて、横を向き、「きのうの新聞に在った音楽倶楽部でしょう——ありません!」 「よし!」こう云って、渠は鳥うち帽をかぶった儘《まま》、つかつかと、家族の居間へ這入《はい》って行った。 「あなたは」と、かの女はついて来て、「泥棒して行く気です、ね。じゃア、お待ちなさい、わたしが出しますから」 「おれのうちの物を」と、つッ立って勢いを見せ、「おれが出すのに、何が泥棒だ?」 「だッて」と、一生懸命な口答えをするように口をとんがらかして、「※[#「かけかんむり」に「單」、読みは「たん」、p96-下段4]笥《たんす》をこわされるだけでも詰りませんから、ね、この家だッて、もう、抵当に這入っていますよ」 「知れたことだ、今度の樺太の事業の為めにゃア、家どころか、家族やおれ自身をも犠牲にするかも知れないんだ」 「あの女におだてられてでしょう——」 「手めえにおれの心が分るものか?」 「分ってますとも!」 「ぐずぐず云わないで、出せ!」 「樺太の事業だって、成功するか、しないか、分るものじゃアない——きのうだッて、二百円よこせの電報が来たのを届けたのに、どうするんだろう?」 「どうするも、こうするも、おれの考えだ」 「あなたはおれおれとお云いなさいますが、ね、若《も》し失敗したら、うちのものをみんなどうする気です——かつえさせても構《かま》わないのでしょう」などと云いながら、千代子は引き出しをあけて、札《さつ》を三枚出した。「ほんとに馬鹿々々しい!」 「出せ」と、引ッたくって、「うちなんざアどうでもいいんだ!」 「そんなにあの女が——」 「いつも云う通り、ね」と、あごを突き出して、「おれは女の為に狂ってるんじゃアない!」 「狂ってるじゃアありませんか? ちッともうちにいつかないで——」 「おりゃア手前をいやなんだ!」 「いやでもなんでも、家内《かない》は家内じゃアありませんか?」 「だから、早く自決しろと云うんだ!」  三人の子供はおずおずしながら、一緒に室をのぞいているので、女房のくどくど云うのを相手にしないで、義雄は飛び出すように家を出てしまった。  その頃、義雄は、芝公園に接する或|片側道《かたがわみち》の粗末な二軒長屋の一方の二階へ、お鳥を移していた。  一度も二度も居場所を隠して歩いたが、魔のさすように発見せられるので、とうとう大胆になってしまった。樺太から事業上の電報などがいつやって来るかも知れず、また、新聞雑誌の寄稿依頼者があった場合——これが本来の職業であるから——いどころが分らないのも困ると思って、自分に家に近いここにきめたのである。  お鳥は最初これを非常に反対した。 「また、やって来て人に恥じをかかすのじゃ」 「もう、決しておどり込まないと誓わせあるのだから」 「分るもんか、あの気違いが!」 「来たら、蹴倒すだけのこと、さ」  時々、皿におかずやら、一人前のおはちに五もく飯やらを、子供が好意らしく届けて来ることもあるが、お鳥は口に入れたことがない。 「毒が這入ってるかも知れへん」 「まさか——」 「まさかと云うたッて」と、かの女は口びるを左右に引き張り、歯の間に少しつばをおどらせ、「それだけまだ向うを信じてるんじゃ」 「信じるも、信じないもないじゃアないか」と、微笑しながら、「死ねばもろともだア」 「あたい、まだ」と、真面目《まじめ》くさって、皮がたるんでくしゃくしゃした顔の中から男を見詰《みつ》めて、「あんな婆々《ばば》アに殺されとうはない」 「おれも死にたかアない」こう、からかい半分にあしらいながら、義雄は、家から届けて来たものがあると、いつもみんな自分独《ひと》りで平らげた。かの女には、それがおのれを馬鹿にしているとしきゃ思われないようであった。  かの女は一日物を云わないことがある。義雄はまたそれをいいしおにして、急ぎの原稿を書きつづけた。  障子をあけると、向うは、もう、公園の一部で、烏が沢山集まるので、烏山と名の付いた森が見える。この森と家の建ってる側との間の道幅は広いが、少し傾斜があって、上では直角に曲って、水道溜め場のある方に導く。その角を曲って来る人の姿が見えると、「旦那さまや奥さまや、お助けでございます」をやり出す乞食《こじき》が、こもを敷いて毎日のように、丁度この二階の正面に出ている。 「また云うてる」と云って、お鳥はよく障子のあわいからのぞいた。親子はいかにも哀れみを乞うような様子で、往来の男女を拝んでいるが、人通りがちょッとでも絶えると、子は、 「何かたべたい、なア」と云って、足を投げ出し、横になって天をながめたりする。 「それ、それ」と親に注意されると、急に拝みの卑劣な姿勢に返って、向うから見え出したものを見ない振りで見ながら、再び物乞いの声を張りあげる。 「あの子面白い子だ——あたいも何かたべたい、なア」 「じゃア、またあすこのあんころかい?」  こう云われてかの女が機嫌を直すこともあった。義雄はそれにお付き合いしながらも、執筆を絶ったことはない。その乞食親子とこの書斎代用の二階とを舞台にして、自分の事ではないが、自分が先駆者の一人であったと思う詩界に於いて、落伍者となった架空の一詩人を点出し、その無自覚な努力をしているところを以って、或る方面に対する諷刺《ふうし》をした小説が出来たのもこの叫びである。去年、苦心して書いた長編「耽溺《たんでき》」が今年の二月に或雑誌で発表せられてから、渠は小説を書こうと云う確信が強くなっていたのだ。でも、いろんな雑誌や新聞から依頼して来るのは、多くは評論の方で、それに次いでは、まだ、渠としては、もう、興が去ってしまった詩である。こう云う依頼を渠はすべてこの二階で受けた。 「お助けでございます」が始まると、お鳥はきッと障子のそばへ行った。そして御成門《おなりもん》の電車停留所の方から傾斜をのぼって来る男があると、どの男を見ても、先ず義雄の客ではないかと思った。 「違《ちご》てた」と、失望した様子で、「うちへ来るんかおもたら」 「東京にゃア、人は多くいるから、ね」 「でも、きのう、あの加集《かしゆう》に似た人が通った」 「お前あいつを好きだ、ね——?」 「誰がそんなこと云うた!」かの女は足ぶみして怒った。机に向かってる男を見おろして、「あんな軽薄な奴、あたい嫌いじゃ!」 「おれも嫌いだが、ね、小学時代の友人でもあるし、いろんな口聴きとして役に立つようだから——」 「そりゃ自分の勝手やないか——あたい知らん!」  そしてまた上から下りて来る女があると、かの女は先ず義雄の女房ではないかと——あれは綿服主義だとか云っていつもきたないなりをしているが、立派そうな風の、若いのを見ると、また、女優ではないかと思った。  この上を抜けたところに、帝国女優学校の仮教場があって、そこへお鳥も這入ろうとして義雄にかけ合って貰ってるし、またその用意に三味線と踊りとを稽古しているのであった。  義雄とお鳥との間に出来た最初の約束はそんなことではなかった。  かの女が一たびその故郷なる紀州に帰るまで在学して卒業した或裁縫学校へ再び入学し、一二年間その高等科を修めさせることであったが、裁縫などよりも琴の師匠にでもなる道を開いてやろうとしているうちに、義雄自身の直ってしまった或病気を急激に受け継いだが為め、殆ど半年ばかりは病院通いで経過してしまった。 「もう、そう苦にならんさかい、最早《もう》何かの稽古にやってお呉れ」と、かの女が云い出した頃には、かの女に対する渠の一度冷《さ》めかけた愛情が再び回復していた。そして渠は多少の慾目が手伝っているとは身ずから思いながらも、既に二人まで失敗した女優養成を今一度かの女にやって見ようと考え付いた。それに、やがては自分も事業上一時は樺太へ出向かなければならないので、かの女をどこかへ——金銭上の責任は持つとして——託して置くようにする必要もあった。 「どうだ、女優になって見ちゃア?」 「そんなもの、いやじゃ!」 「何も顔を赤くしないだッていいじゃアないか?——三枚目ぐらいのところじゃア、牛耳《ぎゆうじ》[#「牛」に*]が取れるかも知れないぜ」 「三枚目たら——?」 「——」義雄はその日それに対する返事をしなかったが、かの女がそう云うことに対して有する恐れだけは、毎日のように努めて取り去ってしまうようにした。そして、顔のことは云わないで、歳がもう三四年若かったら三枚目にも、第一流の花形にも行けたにきまってるが、それにしても脊が高いのは女優として一つのいい武器だとも話した。  六畳敷きの、外に向ったところに小さい一閑張《いつかんば》り[#「一」に*]を置いて、その上で義雄が筆を走らせているそばへ来て、かの女は片ひじを突いて横になり、黄の勝った中形|矢絣《やがす》りの広島銘仙の綿入れの、太く時色《ときいろ》の※[#「施」の「方」を「しめすへん」、読みは「ふき」、p100-下段5]《ふき》の出たところを、足袋《たび》の親指でさわりながら、云いにくそうに、 「あたいでも成れるだろか」と聴いたこともあった。 「お前の決心一つ、さ」 「決心したッて、成れないこともある」 かの女は、それでも、頻《しき》りに独りで鏡に向い、自分の顔をいろんな風に映して見る日がつづいた。 「大分乗り気になって来た、な」とは考えながら、義雄は後ろ向きにそ知らぬ風をして、友人なる有名な背景画家の大野がいつか云ったことを思い出した。 「あいつア馬鹿だぜ——少し足りないぜ」 「そりゃア、君のように芸者や苦労人《くろと》ばかり見て来た目にゃア、ね——ありゃアまだほんの田舎ものだ。土のにおいが抜けてないのだ」  この問答があったのは、大野が義雄とお鳥とを招待した或るうなぎ屋の二階で、お鳥が便所に立った留守の時だ。かの女が澄ましてもとの座に返ったところで、大野は酔眼でかの女を小娘か何かのようにのぞき込みながら、 「可愛い、ねえ」 「ふん」と、かの女は自分の顔をしゃくって、眼を横に反《そ》らせた。これはかの女が誰に対しても冷《ひや》かされる時などにする表情だ、が、自分は余ほど得意でいるのだな、と義雄はいつも推察が出来た。けれども、こんな時ほど女の顔の欠点をさらけ出す時はないと渠には見えているので——兎角、太い横じわが三筋寄り勝ちの額の下に、青みがかった眼の玉が動き、あまり高くない鼻が拡《ひろ》がって、その下で大きな口が一文字に引ける。意地の悪い表情の変化が豊富に出来ると思われるのは、ただこの口がある為めにだけだ。 「それにしても、もッと都会馴れなけりゃア、ねえ——」 「田舎ものなら、田舎ものになれる——では、女優にしておくれ」と、かの女が云ったのは、それからまた二三日あとのことだ。  女優学校へ傍聴生とでも云ったような入学の交渉は、校長が旅興行にまわっているので、返事はそれで帰るまで得られないのであった。  その校長がわが国では有名な女優であって、年中どんな忙しい生活をしているのかも知らないお鳥は、不在で分らないと云う返事を聞いただけで、それが体《てい》のいい断りではないかとあやぶんだ。 「そんなに心配するなよ、どうせ何事も手筈《てはず》が延び延びして来たのじゃアないか?」 「だから、早う何かさせて呉れたらえいじゃないか?」じッと、また、瞰《にら》むようにして、「樺太のことと云うたら、——何でも自分のことは——火の付くように騒いでる癖に、あたいの事となったら、いつでも平気でぐずぐずさせて置く!」 「じゃア、下のお婆アさんに先ず三味線でも習っているがいい、さ」 「そんなら、早う頼んでくれたらえいじゃないか?」 「そう意地悪く云うなよ」義雄は、かの女が余ほど情《じよう》の籠《こも》った時の外はおだやかに出ず、どことなく皮肉なような、いじけたような物の云い振りをするのを、社会一般から見て、不自然な状態に置かれているのを忘れない為めだと受け取っている。渠は、どうせ、今の妻は離別する時があると思っているので、お鳥に対しても、時には「やがておれの女房が無くなるのだが」とも語った。そうかと云って、いずれ来るべき本妻離別の時となって、お鳥のような女を正式の妻に直そうとは夢にも考えていない。 「本妻にして呉れ、して呉れ」が、子供が母に何かをねだるのを見ているのと同じように、渠にはうるさかった。  それには、毎日かの女のあたまを何か一つのきまったことに占領させて置く必要から、さきには、義雄が何年か以前に使ったヴァイオリンを持って来た。すると、かの女は独りでどうやらこうやら調子に辿《たど》り付いて、田舎で歌を聞きおぼえたストライキ節などを云わせるようになった。で、三味線もいけないことはなかろうと云うことが分っていた。  義雄は自分の家から、継母が残して逃げて行った古い三味線を、千代子の反対を受けたにも拘《かかわ》らず、ひッたくって来たのである。それが毎日一度は、渠の坐ってる下から、ぺこん、ぺこんと聞えた。同時に、またかの女は近所のちょッとした踊りの師匠へ通ったので、二階の片隅では、しょッちゅう、五十銭であつらえて貰ったとか云う花やかなおうぎが拡げられたり、閉じられたりした。  「清水さん、お稽古をしましょう」こう本統のお師匠さんらしく呼びかけられて、お鳥が三味線を持って下りて行った時、義雄は客の加集泰助に対して二百金の周旋を頼んでいた。  渠はこの客に対して信用を置かなくなった。と云うのは、不断から軽薄な性質であるばかりか、その本職のようにやっている周旋が一向依頼通りに運んだことがない。家を抵当にするからと云って、去年から頼んであった事業費引出しの件も、とうとう意外の方面から突然に出来た。  去年の歳末に迫って子供が三人|揃《そろ》って入院し、一人は死んだ騒ぎの時も、加集はとうとう工面《くめん》し切れなかったので、義雄は自分の足かせ七年間勤めた商業学校の英語教師を、どうせ辞職するのであった予定よりも、三カ月早く辞職し、その退職金を十二月三十一日と云う日に受け取ったので、僅かに年を越えることが出来た。  けれども、今回は、もう、二進《につち》も三進《さつち》も行かなくなったので、またこの加集を呼び寄せたのである。柄《がら》でもないと云われる事業に於ける兵站部《へいたんぶ》[#「兵」に*]を勤める為めに、技師や、弟以下に後《おく》れてまだ居残ってる義雄ではあるが、こう早く金の追求が来るとは予期しなかった。もっとも、その用意としては、地方の或都会の水道建設費二百万円を外資に仰がせることにして、渠の先輩で今コンミションマチャント[#「コ」に*]をしている人に話し込み、市の責任者の依頼状を待つことにまで運ばせたが、これは勧業銀行が出すから外資を仰ぐなと云うことになって、渠の奔走は無駄になってしまった。  また、渠の玉突仲間なる或鑵詰問屋の主人へかけ込んでも見たが、少くとも第一回の製品を見ないうちは、商売の法則として、金の融通が出来ないと云われた。  家を二重抵当にするか、余ほど好意ある人から信用貸しを仰ぐか、この二つの道しきゃなかったのを、この客は今度は、どこをどう甘《うま》く立ちまわったのか、信用で借りられそうだと云う話を持って来た。 「しゃア、頼む」 「然し金のことだから、君も十分に責任を負うて呉れんと——」 「そりゃ、無論、約束する期限までにゃア——」 「おい」と、今まで何となく下へ気を取られていた加集が、俄《にわ》かに「下手《へた》くそじゃ、なア」 「ふ、ふん」義雄も客について又苦笑いをした。  お鳥は「今も昔は」[#「今」に*]を習ってるが、三味線がびっこのように歩いてるらしい。 「まだ声を出せないのか?」 「出せば出せるだろうが、下の婆アさんを半分馬鹿にしているから、いけないの、さ」 「無論、あの婆アさんかて」と、時々、加集に関西弁が出るのはお鳥と同じようで、「上手《じようず》だと云えん。それに、五十づらをさげて、薄化粧をして、若い亭主に焼き餅を焼く奴だから、なア」 「清水に聞いたのだろう——けれども、ね、如何に縁日商人だからッて」と、義雄は額の広い、※[#「夾+頁」、読みは「ほお」、p103-下段19]のこけた顔に、鋭い眼を眼鏡の裏から光らせながら、「そう馬鹿にするものじゃアないさ——お互いに好き合っているのだから」 「よく夫婦喧嘩をすると云うじゃないか?」 「そりゃア、また、出来心からだろう、さ」 「君等と反対だぜ、女が五十で、男が三十四では」 「僕はそう年を取ってやしないじゃアないか?」 「いや、さ、年の割り合いがよ——あいつは二十二じゃそうじゃないか?」 「欲しけりゃアやるよ、僕が樺太へ行っちまやア」実際、義雄はその金を空鑵《くうかん》材料に換え、それを持ってあっちへ行かなければならないのだ。そしてその後のお鳥は、都合によれば、どうなってもいいと思わないこともない、こう金の融通に困ってる時は、殊《こと》に。 「君の病気の身がわりなんて」と、加集は反抗の様子を見せようとしたが、顔に多少の釣り込まれた色が見えたのを、義雄は私《ひそ》かに、「馬鹿な野郎だ」と認めた。 「声をお出しなさいよ、声を!」下の婆アさんの年に似合わない涼しい声がした。 「出さないじゃア、いつまでも出ませんよ」 「ナダイムスメノ—」低く、然し気取ってるような—— 「やってる、やってる!」加集は背広の洋服に円《まる》まって、その場にわざとらしくひッ繰り返った。  義雄が音楽倶楽部の入場費を自家から強奪したのはその日で、——渠《かれ》が不愉快な心持ちで戻って来た時、お鳥が同倶楽部へ伴われて行く用意を済まして、義雄の机に横ずわりにもたれ、むろ咲きのにおい菫《すみれ》を頻りに鼻に当てていた。渠の友人なるアメリカ帰りの或客がかの女へ贈り物に持って来た小鉢で、「あの人はなかなかハイカラだ」と云って、かの女はその客が帰ったあとまでも喜んだものだ。そして義雄の想像では、かの女がこれまでに余ほど得意に感じたことはたッた三つだ——第一は、かの女の寝物語りから知ったことだが、さきの所天《おつと》なる小学教員に、紀州でまだほんの同僚であった時、自分の写真を要求せられたことだ。第二は去年の夏、義雄に伴われて甲州へ行って、初めて温泉のお客さまとなったことだ。そして第三が、乃《すなわ》ち、この贈り物を受けたことだ。 「あたい、あの人好《す》ッきや」と、かの女はじらし半分に云った。 「でも、ね、お前のお望み通りの独身者じゃアないよ」 「独身者でなかったかて」と、負け惜しみに、「自分のようなおじいさんではない」  今も亦《また》じらしているのだと思われるので、義雄はそんな興には乗りたくなかった。坐らないで、そしてかの女の正面には向ってるが、暫く物を云わなかった。そして長く反《そ》り返ったうわ髭《ひげ》をいじくりながら、曽《かつ》てかの女が怒って、その髭をひッ張った時の痛さを思い出していた——まだ痛みが残ってるようだ。  かの女はこれでもか、これでもかと云わないばかりに、紫の花の上に自分の鼻を突ッ込み、ふんふん、ふんふん嗅いで見せていた。が、根《こん》負けをしてか、目だけで見あげて微笑した。 「さア、行こう」 「でけた」と、疑問的にくびを優しく動かしてから、いきなり訴えるように、「あの加集の奴、好かん!」 「……」 「あたいに、こないだから、いやらしいことばッかり云うて!」 「いいじゃアないか」と、とぼけた振りで、「向うがお前を好いて呉れりゃア?」 「では」と、花の鉢を両手で持って、すわり直した膝の上に置き、男の顔をうわ向きに正視して、「あたいを取られてもえいか?」 「うん」ふと、そうして呉れりゃア、こんな面倒はなくなると云う気が出て、「それもお前の決心一つだ」      五 「念の為めに聞いて置きますが、な」音楽|倶楽部《クラブ》の幹事の一人杉本博士の声だ。 「この会では、正当な婦人でなければ出入りさせないことになっていますが、君はあの婦人に関係はないでしょう、な?」 「関係!」義雄は、同倶楽部の演劇研究部へ鶴子と云う女をモデルに入れる為め紹介しにつれて行った時のことを思い出していた。無論関係はなかったが、その時考えの中にあった痛いところを突かれたので、それを隠す為めにわざとらしく胸をそらせた。  こんな思い出に冷汗《ひやあせ》をかく気がして、義雄は今夜の演奏会を小さくなって見渡すと、あの夜、あの女や渠《かれ》と共に、三味線につれて新|工風《くふう》の国風《くにぶり》舞踏の一なる、「木曽の御岳《おんたけ》さん」を稽古し、トコセ、キナヨ、ドンドンと云うかけ声などを挙《あ》げたりした連中は、すべてあちらこちらの椅子に陣取っている。渠の早く目に付いたのは、博士——某銀行の頭取——某富豪の息子で、義太夫[#「義」に*]に上手なもの——常任幹事の細君——踊りのモデルなる浜野嬢——。  義雄は、演奏芸術に対する純粋な感興によりも、寧《むし》ろ周囲の人々との関係に酔ってしまいながら、有楽座の下の真ン中ごろで、通り道に接する椅子を、自分と並んで占領している女が、さきに演劇のモデル志願を他の或理由でたッた一日で断念したあの女のような美人でないのを、且《かつ》田舎ものじみているのを、誰れにも見られたくなかった。が、いずれも美しい女連が先ず見のがさなかった。 「田村さん、田村さん!」常任幹事の細君が廊下で義雄を捕えて、「あなた、今晩は、奥さんと御一緒?」 「え——」 「嘘でしょう」と、浜野嬢は、細君と目くばせしながら、踊りの時のようにからだをしなやかに動かせた。 「それで、この頃は不勉強、ね——トコセキナヨも、富本[#「富」に*]も」 「……」どうしておれの女房でないのを知ってるだろうと思った時、ふと千代子が曽て、同倶楽部の素人《しろうと》試演会があった時——その時、きょうも来ている理学士が研究の為めに習ってる踊りのうちに「保名[#「保」に*]《やすな》の狂乱」を踊ったが、——義雄の紹介も待たないで、いつもの出しゃ張り根性で、勝手に杉本博士に面会し、うちのがいつも御厄介になりましてなどと入らざらん挨拶をしたのに思い及んだ。あの時見ていたに相違ないと気が付いたが、ただ二人の美しい衣物《きもの》の着こなしや、からだのしなやかさにいい感じを与えられながら、何げなく、「どうせ僕にゃアどッちも駄目ですから、ね」 「駄目ッて」と、細君があまえるように品《しな》をして、「稽古おしなさいよ——あたし大分富本が進みました、わ」 「あすからでも、つづけて入《い》らッしゃいよ」 「もう、僕にゃア興味がなくなったのでしょう」こう云って、渠は樺太に於ける事業に対する誇りを私《ひそ》かに胸に踊らせた。 「どうです、田村君、あの歌沢[#「歌」に*]は?」番組の第四が終ってから、博士は義雄に立ち話をした。 「富士の白雪などは最も面白いじゃアありませんか?」 「ちょッとひねくれて、含蓄があるようなところが、ね、お宅で初めて聴いた時から面白い物だと思いました。」 「そうでした、な、君は歌沢再興者の一人です」博士のこうした自信を交えた誇張的な挨拶も、この流派の再びあたまをあげて来た当時であったから、義雄には不愉快ではなかった。  番組第五の長唄[#「長」に*]「綱館[#「綱」に*]《つなやかた》」が六左衛門等の絃《いと》で進行中、伊十郎が例の通り自慢らしく大きな音をたてて鼻をかんだのが、つい厭になった為め、気を変えようとして席を立った。すると、義雄は出口に近い一番|後《うし》ろの、誰れもいない一列の椅子の一つに腰かけて、黒い羽二重《はぶたえ》の羽織りを着た千代子が、痩せこけた顔から両の眼を飛び出させるようにぎろぎろさせて、こちらを見ているのに出くわした。 「こいつだ、な、お鳥を何かの手段で呪ってると云うのは!」直《す》ぐにもなぐり付けたかった。が、あたりにこの会の内輪に属する連中がいるので、からだ中にみなぎる怒りの顫《ふる》えを微笑にまぎらせ、そッとその前の椅子に行きながら、成るべく小さな声で、「お前も来たのか?」 「お目出とうございます!」 「……」渠は吹き出したかったが、かの女の多少は遠慮しているらしい声が、持ち前の癇症《かんしよう》を運んで、ぴんと静かな聴衆の耳に響いたと思われたので、この演奏会のレコード破りをやったような申しわけ無さを感じた。 「あなたばかりがいいことをして」と、こちらばかりに恨めしそうな目を注いで、「うちのものはどうするんです?」  浜野嬢や常任幹事の細君がじろじろこちらを見ていた。義雄は腰をかけたでもなくかけないでもなく、かの女に向って椅子の背にもたれているのに気がついた。  なおいつものような事を千代子が云ってるので、義雄は黙って廊下へ出てしまった。が、かの女はついても来なかった。  ふらふら歩きながら、暫く気を落ちつけて見ようとしたが、どうしても義雄の怒りと不面目な気とが直らなかった。 「千代子が来ているから、きッと面倒が起る。直ぐ帰れ」と、名刺の裏へ鉛筆で書き付け、案内の女に託したら、 「隣りのお方が取ってしまいました」と云って、帰って来た。  渠が扉に付いてるガラス窓の羅紗《ラシヤ》をあげて、のぞいて見ると、渠の席へちゃんと黒い羽二重の紋付きがかけて、メリンス無地の牡丹色《ぼたんいろ》の被布[#「被」に*]と並んでいる。そこばかりが見すぼらしいように思われて、お鳥をつれて来るのではなかったと後悔された。迫《せ》めて被布が道行き[#「道」に*]で、道行きがメリンスなどでなく、且《かつ》、都会じみた柄であったらいいのに——かの女がいい気になって着ているのを幸いに、何も新調してやらないのも、あんな下らない病気の為めに、かの女の病院通いの入費がかさんだ為めだ。 「馬鹿々々しい!」渠は自分で自分を非難しながら、別な扉から這入《はい》り、夫婦で来ている大野のそばに行き、渠に廊下へ出て貰うように頼んだ。 「僕もさッきから」と、大野は酒くさい息を吹きながら、「何か事件が起るぞと云ってたのだ。困った、ねえ」 「兎に角、君が行って何とかこの場だけは無事に済ませて呉れ給え」 「何でも君の細君を一先ず外へ出して、なだめるんだ、ねえ」 「じゃア、頼む!」  義雄はまた扉の窓からのぞくと、新式な洋服を着た紳士|然《ぜん》たる友人が声をひそめるように千代子の顔に近づいていると、かの女は何か云って、つんけんつんけんと顎《あご》をあげているのが見える。気違い声がここまで聴えるようだ。  やがて大野は出て来たが、 「駄目、駄目!」首をふりながら、「相変らず分らない、ねえ。おれの云うことなんか、田村の友人だから、信じないッて」 「困る、なア」 「今夜こそ逃がさないで、方《かた》をつけると云って、——ちゃんと片手で」と、大野は口を結び、目を据え、ちから強く握った右の手を出して見せ、「向うの袂《たもと》をやっているよ」 「仕ようのない奴じゃアないか?」 「それもいいとして、さ、一方も亦大胆じゃアないか? 見ッともなく袂を握られながら、どうせ来たのだから、わたしもおしまいまでいましょうッて」 「おい、君」義雄は堪《たま》らなくなって、「今一度二人を呼び出して呉れ給え——どんなことが起るかも知れないから」 「いやな役割だが、ねえ」と云いながら、大野はまた這入って行ったが、ぷりぷり怒って出て来た。「もうほうッとけ、ほうッとけ——バーに行こう」      六  東洋軒の二階でビールを飲みながら、大野は義雄を冷《ひや》かしたり、慰めたりしたが、義雄の耳にはそれが碌《ろく》に這入らない程であった。  そのうち、長唄が済んだかして、がやがやと食堂へ這入って来たものがある。その間に常任幹事もまじって来て、心配そうに二人に聴いた。 「どうしたのです?」 「実は、ねえ」と、大野が受けて、手短かにこのことのわけを話したので、義雄はそれにつづいて、 「どうもあなたに済まないことがあってはと思って——どうだ、大野君、幹事の権利であの二人を追い出して貰おうか?」 「それにも及ばない、さ、おしまいまで聴きたいと云ってるし、僕からもこの場では必らず間違いをするなと云ってあるから」 「云ったッて、気違いが分りゃアしない」 「心配するにゃア及ぶまい、あの様子じゃア、一方が悪く云やア、図々しいから、無事に受けてるよ」  最後は呂昇[#「呂」に*]《ろしよう》の柳だが、義雄は勿論《もちろん》、大野もそれを聴く気にならなかった。が、ビールに飽いた頃、もう終りが近かろうと見に行って見ると、「必らず草木成仏《じようぶつ》」のところで、語り手の一特色なるほがらかなラ行音が直ぐ義雄の耳に這入った。  渠《かれ》は大野夫婦の席の後ろの方から、お鳥と千代子との様子を私《ひそ》かに注意していたが、はねばかりが急がれる神経のいらいらする奥には、どうでもなれ、あの二人がどんな芝居をするか見てやろうと云うような落ち付きもあった。 「自分だけが早く出てしまえばわけアないじゃアありませんか」と、どこからとなく無言の声が注意して呉れた。それが正面のニ重舞台の、敷きつめた赤い毛布の色が背後の金屏風《きんびようぶ》に反射している、その中央に据わった赤い房が二つ下った見台のあたりからであったようにも聴えた。 「どうせ焼けッ腹だ」と、渠も亦無言で答えた。そして花でも降って来そうな音楽に満ちた空気を、最後に於いて、出来るだけ沢山吸い込んで置こうと努めた。  大野の細君の静子がちょッと降り返ってこちらを見た。その所天《おつと》と同じように役者じみた所があって、ちょッと微笑して見せるのにも、その円く肉づいた頬ッぺたにまで表情が溢《あふ》れている。この女だ——姉よりも妹の方が真面目《まじめ》だと義雄が批評したのを人づてに聴いて、曽て、わざわざ「不真面目生」と称して愛嬌ある手紙を渠によこしたのは。それから親しく行き来するようになったが、渠は、かの女の妹の真面目腐って田舎じみた傾向あるに反し、静子は芸人じみても可なり垢《あか》ぬけした精神があるのを好《よ》みして、かの女を自分等の集まる或詩人会へつれて行ったこともある。  あれはかの女が大野と結婚する一ニ年前のことであった。世間では、大野より以前に義雄はかの女と関係があったと云ってる。それでさえ詰らないと思ってるのに、この男女がいよいよ結婚するとなって、大野が先妻を虐待すると云うごたごたの時、義雄が大野の先妻に同情したところから、またそれにもきたない関係があったと大野がわの友人等に云われた。静子からは、また、かの女と大野との間を円満に成立させる責任があるように頻りに云ってよこして、義雄に訴えるような又渠の態度に抗議するような言葉があった。  実際、大野と静子との手を握らせたのは——洋画家たる大野の或特別な画にかの女自身をして適当なモデルを供せしめる為め——義雄の所為《せい》である。 「僕は、然《しか》し、結婚しろと云って紹介したのではなかった」こう、義雄は静子に語ったことがある。それは、然し、甚だ未練らしい言葉だと、渠自身も思った。その時であった——渠は、かの女と大野とが関係の途中で中たがいをしたのを仲裁する為め、大野を日比谷公園の松本楼に待たせて置いて、静子をそこへつれて行ったのは。  大野は既に大分酔っていた。その上また義雄とビールやウイスキを重ねてから、そこを出ると、電燈のちらつく樹かげで大野はふらふらと倒れかけた、静子は、 「あぶない」と叫んで、抱きとめようとしたのを、 「大丈夫です」と、身ずから踏みとまって、大野は太い樹《き》の幹に片手を支えた。義雄はこれを見て、 「相変らず芝居をやる男だ」と思った。  静子をまかされた義雄は、かの女と供に急いで赤電車に乗ったが、車中から窓の外は今喰った物を吐いた。渠の背中をかの女はさすっていた。そしてかの女は電車から下りると、薬屋を叩き起して宝丹を買った。  静子姉妹は新派に属する日本画家で、女二人の腕でその母と静子の先夫の子とを養っていた。  義雄は宝丹を飲ませられ、暫時《ざんじ》その家に寝かせられた。やがて車が来て、それに乗った時、またへどを吐いた。  こんな記憶の間から「母[#「母」に*]の柳」が引かれて行く後ろ姿を義雄はまざまざと見た。すると、 「田村さアん、田村さアん」と云う女の声が青山あたりの電車の窓から聴える。  そうだ、あれは、義雄の友人たる某漢詩人が有名な事件で殺されたその葬式の掛り員として、義雄等が人力車を列《つら》ねて青山に向う途中のことであった。静子が妹と一緒に九段行きに乗っていて叫んだのだそうだが、義雄は後にかの女から、 「すまアし込んでいて、一向気が付かないんだもの」と、聴かせられた。かの女がまだ大野との間に親しみも何もなかった時のことだとは云え、その場の情熱に燃えると、前後もかまわず、 「何て向う見ずの女だッたろう」渠は思い出して、独《ひと》り微笑をもらした。  そして段々と自分の神経が舞台の気分に一致して来たと思う時、惜しいように幕が下った。  どやどやと聴衆が出て行くあとから、廊下の外の石段の上で、義雄と静子とお鳥と千代子とが落ち合った。  千代子はお鳥の袂《たもと》を片手でしッかリ握っている。 「見ッともないから、よせ?」と、義雄はあたりへ聴えないように云った。 「よう御座います」と、これはまた皆にも聴えるように、「わたしの勝手です!」  お鳥は何の云わないで、微笑にまぎらせていようとしている。 「うちのはどうしたんでしょう、ねえ」と、静子は首を延ばして方々を見まわした。 「僕が見て来ます」義雄は殆《ほとん》どがらんどうになった聴衆席をのぞいて見たり、廊下をあちらこちら行ったりした後、便所のそとのところで大野が巡査と何か云い合っているのに出くわした。 「そんな誤解をされちゃア、僕は実に迷惑します」 「誤解じゃアない、実際ではありませんか?」 「馬鹿なことを!」 「馬鹿とは何だ?」 「どうしたんだ、君?」義雄はそこへ口を出した。 「なアに、ね」と、大野はふり向いて、怒りの為めに声まで顫《ふる》わせて、「僕が君の細君に接吻をしていたと云うんだ」 「そりゃア間違いです——実は、ちょッとした事件の為めに——」 「まア、君云わないでも済むことは云わないでもいいんだ——野暮《やぼ》くさい誤解を解きゃア」 「何が野暮くさい?」巡査が赤い顔をしているのは、息の臭いで、義雄には、酒を飲んでいると思われた。 「まア、君」と、巡査をなだめるように、「僕が僕の妻に用があって言《こと》づてを頼んだので——そんな野暮は云い給うな——君は酒を飲んでるじゃアないか?」 「おれは決して酔っておらん!」 「酔ってないかも知れないが、飲んでるのは事実でしょう、顔に現われてるから」 「おれだッて、茶の代りに酒ぐらいは飲む」 「飲むのは御勝手ですが、それが為めに云いがかりを云われちゃア——」 「何が云いがかりだ?」 「実際、僕がこの友人に対してすまないことになるのですから」 「風俗壊乱だ——兎に角、警察署まで行って貰おう」 「何が風俗壊乱だ——馬鹿々々しい!」大野はこう云って、巡査をにらみ付けた。  静子がいつのまにか後ろへ来ていたが、 「あなたの為めに」と、泣き出しそうな顔をして義雄に向い、「こんな詰らない目に会うのだ、わ。——さア、行きましょう」と、大野の上衣の末を引ッ張った。 「また風俗壊乱だぞ」と、大野は押さえた声で叫んだ。 「馬鹿なことを云うにも程があるじゃアないか」と、義雄は巡査にも聴えるように静子に云って、皆と共に建物の外へ出た。  晴れた夜で、夜ふけの寒い風が星々の光をちらつかせていた。 「事件は何でもないのですから」と云いながら、倶楽部の常任幹事もついて来て、当の巡査をなだめていたようであったが、義雄は巡査がなおうるさく従って来るのを見て、 「もう、あなたがついて来るにゃア及びますまい」 「何だ、警察まで来なけりゃならん」 「馬鹿を云うな!」大野もまたむきになった。「貴さまは酔ってるんだぞ!」 「貴さまとは警察に向って無礼だぞ!」巡査も少し身がまえをして、「おれをそんなに馬鹿にする気なら、鉄拳を喰《くら》わせて見せる!」 「う、う、う、なぐるなら、なぐって見ろ! 酔ッ払いの警官に、人民をなぐる権利があるなら、なぐって見ろ!」 「手出しをすりゃア、おれも承知しないぞ!」義雄も大野の勢いにつり込まれて、腕がむずむずしていた。 「まア、そう手荒いことは云わないでも」と、幹事が云ってるところへ、別な巡査がやって来て、この二人で両方を引き分けた。  巡査が去ってから、幹事は云った。 「有楽座で歓待しないからと云って、あの巡査がその鬱忿《うつぷん》をこちらへ漏らすのだから、たまりません」 「不都合極《きわ》まる」と、まだ大野は納まらなかった。 「いろんなことが起って、すみませんでした」と、義雄は幹事に詫びたが、あらゆる面目を失ってしまった気がした。  見まわしたが、三名の女はいずれもそこにいなかった。  数寄屋橋《すきやばし》から日比谷公園に至る道で、女どもの後ろに追ッ付いたが、静子が昂奮《こうふん》した口調で早口にお鳥に物を云ってるのが聴えた。 「だから、ね、早く田村さんと別れるようにおしなさい——どうせ、いつか、棄てられるにきまってますから」 「……」 「ね」と、のぞき込むようにして、「分りましたか?」「……」お鳥が高いあたまを少し頷《うなず》かせるのが見えた。 「あなたも」と、静子はちょこちょこ千代子のがわにまわり、「あまりひどいでしょう?」 「何がひどいのです!」千代子はその方へ向いて、顎《あご》に力を入れながら、「わたしが頼みもしないことを持って来て、大野さんがぐずぐず云ったのです」 「馬鹿を云うな!」義雄も黙っていられなくなり、つかつかと出て行って、妻と、それから今の巡査とに対して押さえていた忿怒《ふんぬ》を一緒にして、この言葉と同時に、かの女の横ッつらを思い切りなぐった。 「そんな野蛮なことを——」静子はとめようとした。 「おれが貴さまを追ッ払うように大野君に頼んだのだ!」 「おおきなお世話です——こうしてつかまえてる以上は、うちまで引ッ張って行って処分を付けます。警察へでも、どこへでも突き出してやる!」 「あなたも少しお考えなさいよ、田村さんの——」 「考えた上のことですから、ね!」 「わたし、もう、知らん!——田村さんは女をみんなおもちゃにしてしまおうとするのです」と、静子は立ちどまって泣き出した。すすり上げながら、「そんな人でもなかったのに!」  義雄は引き入れられるような感じがして、かの女の姉妹と直接に行き来していた時のことを今一度親しく思い浮べさせられた。そばへ行って、 「兎に角、ねえ、奥さん、これから大野君の家へ行って、あいつによく以後こんなことをしないように話して貰うつもりですから」 「兎に角、奥さん」と、大野も千代子をなだめるように、「これから僕の家へいらッしゃい」 「わたし、不賛成です!」静子はからだを振って、その所天《おつと》から一歩を退《しりぞ》いた。「田村さんのような人は、もう、来て貰いたくありません!」 「貴さまにそんなことを云う」と、大野はおもおもしい声を出して、「権利があるか?」 「わたしだッて、大野さんのところなどへちッとも行きたかアありません!」 「黙れ!」義雄は妻の言葉を制してから、友人に向い、「君まで夫婦喧嘩をしちゃア困るじゃアないか!」「あいつが独り勝手な横暴なことを云やアがるから!」 「じゃア、わたしはあなたの家庭をおいとま致します」 「勝手にしやアがれ!」 「そんなことを云うなよ、君」 「なアに」と、大野はまた巡査に向った時のように怒りの声を顫わせて、力づよく、「生意気なことを云やアがる!」  お鳥はただ黙って、何かの機を見ていたのだろう、この時、さきを握られている自分の袂を両手で攫《つか》んで、うん—うん—うんと云うように、左右に三度振ったかと思うと、それが千代子の手から離れた。 「あんなことをしましたよ」と、千代子は甘えるように義雄を見あげたので、渠はいやでいやでならない妻がまだこッちに頼る気があるのだと知って、自分も逃げ出したくなった。  静子はその家路とは反対の電車に乗った——曽て義雄がかの女と一緒にそこから乗るが早いか、窓からへどを吐いた方角へだ。  お鳥はその脊高い真ッ直ぐなからだをそと輪に運んで、静子とは反対の方へずんずん行ってしまう。その歩き方は持ち前だが、これを後《うし》ろから見るたびに、かの女のまだ本統に直らない下《した》の病を義雄は思い出さずにはいられないのであった。 「今夜は、おいやでしょうが、ね、どうしても離れませんよ」と云って、千代子は渠がかの女から綿服主義にさせられているそのごつごつした羽織りの袂を握った。 「今、僕が逃げたら」と、言葉を英語に換えて、「こいつが君の重荷だから、ね——君、先ず電車に乗り給え」 「君ア色おとこだよ。まア、やさしくついて行ってやり給え。——僕はもッと酔いのさめるまで散歩する」 「じゃア」と、邦語《ほうご》に返った、「失敬するよ」 「僕のワイフは、実際、飯田町へ帰ったのか、なア?」 「大丈夫、君の方へまわって行ったの、さ——どいつも、こいつも、おどかしゃアがって!」 「わたしは一生懸命です、おどかすの、おどかさないのなど云うさわぎじゃアありません!」 「黙れ! 人をさわがせたじゃアないか?」 「まア、奥さん、お静かに」大野は少しうつ向きになり、両手をうわ向きに、低く拡げて、一歩を退いた。 「また芝居をしている」義雄はこう思いながら、「じゃア、失敬するよ」 「おれは独りぽッちだ、なア」  大野は投げ出すように云って、力なさそうにつッ立った。多くの街燈から落ちる光が混乱して、渠の姿を舞台の脚燈が反対にうえから照らして、明暗の光をそこに集めたように見えた。そして電車の響きさえ丁度途切れて、相変らず外套《がいとう》が欲しいような寒い風が吹いていた。 「失敬」と、今一度義雄は大野の方に向いたまま云わなければならなかった。  大野は軍人のような直立の姿勢に直り、右の手を横顔のところまであげ、ゆッくりした、低い、沈んだ調子で、同じく、 「失敬」と云って、靴の底で少しつま立つと同時に、首を前方へ傾けた。      七  義雄は千代子に引かれて、電車通りを、公園のふちに添って歩いていたが、あの鶴子の為めに遠のくようになった倶楽部《クラブ》の連中に、またこんなことがあった為め、又と再び会わせる顔がないかのような恥辱に満ちて、一言も口を聴かなかった。  かの女も亦《また》胸が張り詰めているのを、その息づかいに現わした。かの女が月が満ちた時に、よく苦しそうな息づかいをしたが、そのように肩で息をしているのが、義雄によく分った。  公園を外《はず》れようとするところにある交番の前へ来ると、かの女はその方をじろじろ見ながら、独り手に巡査の立ってる方へ義雄を引ッ張っているのであった。  義雄は踏みとまった。それが渠《かれ》の袂《たもと》の長さ一杯にかの女をこちらへ引いたわけになったので、その手ごたえでかの女は気がついたようだ。 「わたしはどうかしているようだ」こう、かの女は独《ひと》り言を云った。 「訴えてどうなるんだ」と、義雄は極《ごく》さげすんだ意味を心ばかりで叫んだ。この気違い女め! 何を仕出かすかも知れやアしない! が、撒《ま》いてしまう折もうまく見つからない。人通りは少いが、少くとも、一人や二人は絶えなかった。  橋を渡って芝区へ這入《はい》ると、直《す》ぐ友人なる弁護士の家があるので、そこへ立ち寄って話をつけ、今夜はおだやかに別れようかとも考えた。が、大野に迷惑をかけたのを思うと、重ねて友人を騒がせるでもなかった。  成るべく人通りの少い横町などをえらんで引ッ張られて行ったが、 「きゃッ」とか「恨めしや」とか、今にもこの女が変化《へんげ》になってしまいはしないかと云う気持ちが、渠のかの女を度々いじめて来た記憶から、おそろしいほどに浮んで来た。不断憎み飽きて、殴《なぐ》り飽きて、またと見たくはない顔を見て、一度でもいやな気を重ねるでもないと、渠は出来るだけそッぽうを向いていた。 「年うえなばかりに増長して!」これは、もう、思い出したくもない。今の結婚法が改正せられ、男女どちらかの申し立てを裁判所で受理して、兎《と》も角《かく》も訴訟を成立させることが、当分、望めるようにならないとすれば、ただただこの、自分には既に死骸の、女を早くどこかの闇へ方《かた》づけさせて呉れる願いばかりだ。  愛宕下《あたごした》の通りを横切り、桜川町の大きな溝《どぶ》わきを歩いている時、物好きにその中の黒い水たまりを人の門燈の光にのぞいて見た。そして、ふと、死んだ実母があか金《がね》の足つきだらいに向い、おはぐろ[#「お」に*]を付けているのを、自分はそのわきで見ていたことがあたまに浮んだ。きたないようだが、身に滲み込むようなにおいで、黒い物から出るのか、それとも、吐き出されたそれを受けるあか金から出るのか、分らなかった。  ここのはただの溝のにおいに違いないが、おどんですえ腐った物の発散する分子がぷんと鼻さきへにおって来ると、何だかかな臭い気がして、母が新らしく生き返って来そうに見える。 「All or nothing[#「A」に*]——生でなけりゃア、死だ!」  この間に譲歩はない! 妥協はない! 人間その物の破壊は本統の改造だ——改造はそして新建設だ。ぶッ倒されるか、ぶッ倒すか——そこに本統の新らしい自己が生れている! 渠はこう答えながら、面倒な物を引きずっているにゃア及ばない——いッそのこと、握られた袂を、あの、柔術を習ったと云うお鳥の手を試みて、わけもなくふり切り、千代子を転がし込む気になっていた。  溝の黒い水のおもてが暗くなった。——そのまたうえが闇になった。——自己の周囲がすべて真ッ暗になって——自己も、尖《とが》った嗅覚《きゅうかく》のさきにおどみの垢《あか》がくッ付き、からだ中がひやりとしたと思った。すると、反対に手ごたえがあって、 「どうするつもりです、わたしを!」 「……」渠の身の毛は全体によ立っていた。 「なアんだ、夫婦喧嘩かい!」こう云って、黒い影が他方の路ばたを通り過ぎた。もう、十二時を越えたと思われるのに、矢ッ張り、人通りが絶えない。 「……」かの女は、さッさと、反対の側へ引ッ張って道を進みながら、「人を水に投げ込もうたッて、そんな手は喰いませんよ」 「……」 「それこそ馬鹿げ切ってる!」 「……」渠が逃げようとして、ちょッと踏みとまると、かの女も直ぐ電気に触れたように手の握りを固めて、こちらをふり向いた。 「殺そうたッて、逃げようたッて、駄目ですよ、直ぐおお声をあげて、誰れにでも追ッかけて貰いますから、ね」  渠は答えもしないで歩いた。  避けて来た交番だが、西の久保通りの、広町|角《かど》にあるのは、どうしてもその前を——而《しか》も挨拶して——通らなければならないのであった。父の生きてた時、家へも来て、いつも顔を見おぼえてる巡査がいる交番だ。  千代子がここで本統に出来心でも起したら大変なので、その交番の手前で義雄はおのれの袂をふり切った。 「おまわりさん!」かの女は実際に甲高《かんだか》い声を出した。  義雄は自分が水をあびせかけられたと思って、つッ立った。幸いに人力車の響きが通った為め、向うへは聴えなかったようだが、渠は再び袂を握られていた。  何げないふりをして通る二人を、顔を知らない巡査がいて、怪しそうに見詰めていた。  若《も》し今の声が聴えていても、こちらが発したのだと思わせない為めにと、義雄は、ふと、その向う側のそば屋へ這入る気になった。千代子もあとからはしご段をあがって来た。 「こんなところで喰べるくらいなら、いッそ今一つ向うの、いつもうちで取るとこへ行けばいいのに」  もう、自分の物だと思ったのか、かの女の声は以前よりも落ち付いていた。が、義雄は一層いや気がさして、無言でぐんぐんまずい酒をあおった。 二三杯ででも赤くなると云われる酒が、例外に飲んだ今夜に限り、大して顔に出たとは思われなかった。  家に帰ると、直ぐ、千代子の母——もう、褥《とこ》に這入っていた——を書斎に呼びつけ、 「不都合極まる女だから、千代子をきょう限り引き取って行くようにして下さい!」 「義雄さんはいつもそう云うことをおッしゃいます、が、ね、子供があるのにそんなことは出来ますまい?」 「子供などアどうでもいいんです——そんな呑気《のんき》なことじゃアありません!」 「またどう云うことがあったのか、聴かないじゃア分りませんが、ね——」 「みんなあなたのことから起ったのじゃアありませんか?」千代子も傍へ来て、いやな眼をぎろつかせる。 「貴さまなどの出しゃ張る幕じゃアない!」今まで黙って押さえていた心中のもやもやが一時に、ここだと云わないばかりに迸《ほとばし》って来た儘《まま》に、渠はおのれの妻が裏店《うらだな》のかかアか何かのように、焼けぼッ杙《くい》[#「焼」に*]じみた行為に出た不埒《ふらち》を述べた。苟《いやしく》も表面だけはまだ亭主たる者を——そしておだやかに離婚しようと云っても、分らないで、承知しない癖に——その亭主を多くの公衆の前で侮辱したのだ! 分った母なら、この申しわけに、直ぐ娘をつれて出て行くべきである! 精神的には、もう、どッちからも、夫婦でないと云うことを証拠立ったことになっている。 「そうおッしゃると、あなたに済まないようですが、ね——この娘《こ》がこの頃何だかいらいらしているのは、云って見れば、まア、病気なんですから、ね」 「そんな気違い病人は、母として、直ぐ引き取って行かなけりゃアなりますまい!」 「そんなことも出来ません、わ」 「出来ますとも! 巣鴨へでも、どこへでも、つれてゆきさえすりゃアいいのです——あとの始末はゆッくりお母さんとわたしとで出来ることです」 「困ったことになりました、ねえ」と、母は娘の方へふり向いて、「この娘もあんまりわさわさして、落ち付かないからいけないのですが——」 「でも、ね」と、千代子は母に頓着せず、「あなたが好きで、わたしを一緒に車に乗せてここへつれて来たのじゃア御座いませんか?」 あれはまだ二人乗りの人力車が沢山あった時代だ。そしてこの女も二十四五の若盛りであった。或友人の紹介で尋ねて行ったのが縁となり、間もなく、とうとう約束までしてしまったが、その友人があとで義雄に向って、「結婚しろと云って紹介したのではなかった」と云ったのを思い出すと、丁度、義雄が大野の今の細君に向って云った同じような言葉と意味は違わなかったのだ。  かの女は小石川の方で、人の二階を借り、自炊をしながら、昼は小学の教員を勤め、夜は或音楽講習所の生徒であった。今の状態とは違って、おも長の上品に艶々しい顔に、姉のような優しみを帯びて、その着物の着こなしさえ、他の田舎出の女学生などとは違い、如何《いか》にもしなやかな姿に義雄は引かれた。そして三つ下の義雄ではあるが、渠が当時他の一人の女を思い思ってはね付けられた失望を全く取り返すことが出来た。  渠は芝の我善坊《がぜんぼう》から、毎夜のように、電車もなかった丸の内の寂しい道をてくてく歩いて、江戸川のほとりまで通《かよ》った。そしてそこから、直ぐ、築地の或西洋人のところへ、日本語を教えに且讃美歌改正の補助に——それが渠の毎日の仕事であった——出かけたこともある。 「深川の叔父さんが、あす、わたしを引き取って行くそうですよ」と、女があわてて告げたその晩に、義雄は非常手段として女を車に乗せ、かの驚きながらも寛大であった父の家へつれて来たのである。 「そんなことは十五年も二十年も昔のことだい」  それから、妻子をつれて田舎の中学教師にもなった。文学専念の為めに、東京の場末で貧乏な暮しをつづけたこともある。子供は六人も出来て、三人は死んだ。去年父が亡くなったので父の家業を千代子に引きつがせたが、その年末にはいろんなことで非常な困窮をした。 「みんなあなたのせいですよ、色気違いのあなたのせいですよ」と畳みかけて、千代子はあまり喜びもせず、この退職金、——大晦日《おおみそか》に都合して貰った——三分の二を手にした。  義雄はその他の三分の一を以って、お鳥と共に、氷川《ひかわ》の森かげに於いて、新年を籠城したのであった。けれども千代子はなお自分へ義雄の愛が返ると思っているのか、こう云って叫んだ—— 「昔のことだッて、今のことだッて、このわたしにゃア、変りはないのです!」 「現に」と、渠は坐った膝にまで力を入れて、「婆々アになったじゃアないか?」 「そりゃア五人も六人も子供を産んだのですもの!」  母は当り前のことを云ってると云うような顔つきをしていた。 「何かと云やア子供、子供と云う! それよりも自分自身のことをもッと忠実に考えて見ろ! 今の女の心持ちも知りゃアがらんで!」 「じゃア、あんな清水《しみず》鳥《とり》のようなものが今様《いまよう》美人ですか?」 「清水などア本統の問題じゃアない! 人のことなどにゃア口出ししないで、手前《てめい》のざまを見ろ!」 「どうせ、あなたの云う若々しいものにゃア、今更らなれません、さ」 「手前は、お母さんと同様、ずッと時代に後《おく》れたうじ虫だから、そう思え!」 「これでも、武士の——」 「またか、よせ!——武士の娘だろうが、なかろうが、活《い》き活きした女の精神が死んでいらア!」  うじ虫と云われたのを母も怒ったのかして、 「わたしもあなたの御厄介にはなっていますが、ね、まさか、そんな物じゃアないつもりですよ」 「どうせ分らないのだ! 分らないものがいるところにゃア、おれの家もないのだ——勝手にしろ!」  われを忘れたように叫んでいたので、俄かに酔いが発して来た。義雄はそこへ倒れた。隣りの寺の庭にある池から、時々緋鯉《ひごい》のはねる水音がして、急に静まった深夜の静けさを破るのが聞えた。そして渠は、子供の時、あの鯉を釣って、寺の和尚《おしょう》と自分の父とにひどく叱られたことがあるのを思い出していた。  阿弥陀《あみだ》経[#「阿」に*]を借りに行ったら、直ぐそれを坊さんになりたいのだと思って、何なら増上寺《ぞうじょうじ》の管長へも紹介しようと云った、あの世間知らずの、然《しか》し柔和な和尚も死んだ。これと親友であって、いろんな世間話を共にした父も、和尚年来の素志であった本堂新築の工事の音を羨《うらや》ましそうに聴きながら死んだ。自分の子供も、前後三人まで死んだ。女房も自分には死んで、もう、形骸ばかりだ。お鳥なるものも、その本体の半分か、四半分しきゃ自分に活きていない。 「自分を去るものはすべて形骸だ、否、死だ!」  そして自分自身も亦死ぬ時があろうと云う考えに及んだ。既に已《すで》に過ぎ去った自分の半生が、その死と同様に空《くう》であった。——虚であった。——無であった。——理想とか、運命とか云う形式的概念、外存的思想などが出て来る余地さえもない。今、この身に具体している欲望ばかりが、闇夜に於ける燈台の光のように僅かに唯一《ゆいいつ》のいのちだ。  今や義雄には樺太の事業に全心全力を注ぐのがそのいのちである。早く、もッと金が欲しい! 同時に、また、よく自分を理解して呉れる女が欲しい!  ぞくぞくと寒く、そして息詰るこの酔いの苦しみはやがて又この現在の煩悶の苦しみであった。  ばちり! ばちり!  水面に踊りあがる大きな緋鯉の姿が、締め切った室に倒れた渠の肉眼に見えて来て、渠のつき詰めた思想に正しい合の手を添えて呉れるようだ。 「おれは兎に角生きている!」 「また、何か」と云われたので、渠は千代子がまだそこにいたのに気付いた、「考え込んでるんでしょう——さっき逃げて行った清水のことでも?」 「……」無に帰したことを再び思い起させられるのがいやさに、起きあがって、「下らないことは云うな」と、真面目に叱り付けたかったが、からだが利かなかった。  千代子の何かにのぼせて来たような息使いが烈《はげ》しくなっている様子が、ちらりと見えただけである。 「以後は、ね、義雄さん」と、母もまたいたのであった、「こう云うことのないようにわたしからも云って聴かせますから、きょうのところは、あなたも、どうか、勘弁してやって下さいませ——久し振りのお帰りじゃア御座いませんか?」こんなことを云いながら、母は、押し入れから、渠の何ヵ月か触れたこともない蒲団を出して、洋書の背皮文字が金色や銀色に輝いてる二つの大きな書棚の前に拡げた。  然し、その夜も、それッ切りで、義雄は、暫《しばら》く経《た》って障子をあけに来た千代子を、一歩も、この昔から書斎兼用の寝室であったところへは入れなかった。      八  末の男の子は、父と云えば、恐れて少しも独《ひと》りでは近よらない。  うえの子二名は、父のことを母がいつも馬鹿だ、馬鹿だと話しているのを聴いているので、父のそばへ来ても何にも云わず、半《なか》ば下げすむような目を見張っている。義雄はもとからこれを知っていた。  で、翌朝、遅く起きると、直《す》ぐ、何にも云わず、その家を出た。  お鳥は二階の真ン中で、だらりと足を投げ出し、そッぽうを向いて肱《ひじ》まくらをしていた。  不手《ふて》腐《くさ》ってる、な、と義雄は思ったが、今までおさらいをしてたかして、三味線がそのわきに横たわっている。  かの女が挨拶しないので、渠《かれ》も黙ってその後ろの方に坐った。円いニッケルの置き時計ばかりがちゃきちゃき云って、五分か六分を過ぎた。 「もう、別れさせて貰う!」かの女は半身を起して、こちらにねじ向け、目で義雄をにらみ、足は投げ出したままだ。「相当の手続きをして呉れ!」 「手つづきも何も入るものか?」渠はわざとゆッくりして、「別れるなら、直《す》ぐにも別れよう、さ」 「では、病気を直ぐ直せ!」 「そりゃア、仕かたがないと諦める、さ、これまで随分金をかけてもまだ直らないんだからね」 「誰れがもとじゃ——お前の外《ほか》にありゃせん!」 「今更らそんなことア云っても駄目だ——お前の好きなようにするがいい!」 「でも、ええ気になって、引ッ張られて往《いっ》たじゃないか?」 「いい気でもなかったの、さ」 「迫《せ》めて——けさ——早くでも」と、また例の荒い息使いになって、「帰りゃええのに!」 「おれが寝坊なのはお前も知ってるじゃアないか?」 「場合が違う!——ふん! あたいが紀州を出て来たのが悪かったんや」と云って、再び向う向きにぶッ倒れた。そして渠の予期通りにすすり泣きになった。  山出しも同様な癖に、紀州を出て来たのが悪いのは、義雄は初めからそう思った。無論のことだと。さきの亭主——それも本統の亭主であったか、どうだか、分からないが——に棄てられたか、若《も》しくは本人の云う通り自分からそれを見限ったかして、もッといい人に引ッかかろうと云う野心から、東京へ出たのだ。そして碌《ろく》でもない炭屋の亭主——義雄の家の筋向うだ——にくッ付いて見たり、神田にいる国のものだと云う人の、そしてちょッと同居した家の細君に疑われて追い出されて来たり——それでいて、こッちの本妻に立ち直ろうとするなどとは以っての外だ。  若《も》し女優になれるとしたら、それだけででも仕合わせを与えられたのではないか? 多少ぬけたようなところがあるのに——その癖、神経が過敏で——ちょッと熱でも出ると、直ぐうわ言を云う。 「お母さん、お母さん、あア、ア、アーアッ」、などと云って、目をさますことは氷川の方にいた時は一番烈しかったと思われたが、この頃では、またその習慣が回復して来て、夢に見た母の姿を、枕もとに起きあがってまでも見まわす様子をする。 「おい、何をしているんだ」と、義雄が注意するのに初めて気が付き、 「また、何か云うた? お母さんが来た筈じゃのに」と、真面目くさって微笑している。  義雄はそんな時に、度々、わざとではないかと疑って見た。が、あかりの蔭に横たわったかの女の、地肌のなめらかな白い顔が、引き締って、青いように、緑のように、また紫のように見える時は、穢多《えた》でないかと云う疑いを初めて起したのを今でも忘れないに拘《かかわ》らず、虚偽《うそ》か真面目かのような問題はいつもいつも消えてしまった。そして朝になって、かの女のまずいたるんだ顔を見る度に、自分は広い野原の真ン中に狐《きつね》からすッぽかされたような不興に落ちた。 「死んだと云うものが二度と再び出て来るものか、ね」と、たまたま云ったことがある。「よくお前のおやじが出て来ないものだ!」 「親さえ生きてて呉れたら、あたいもこんなことになりゃアせん」 「無論だろうが、ね、それでも本人の心がしッかりしてイないと——」 「だから」と、からだを振り、「あいつを追い出せと云うてる!」 「そりゃアお前のある無しにゃア関係しないでも、ね」義雄は成るべくうそを云わないで通りぬけたかった。  それがかの女には渠の煮え切らない証拠に見えるので、そんな時に泣いて渠を威《おど》し付けようとしたこともある。そしてその末には、さきの亭主が去年一度帰って来て呉れと云う手紙をよこしたに対し、返事をやらなかったのを悔い、国であのつらかった別れをしたあとで、まさかの時はこちらも死ぬつもりで、医者なる兄の薬局からアヒサン[#「ア」に*]を一服盗んで来ていることを白状した。  時には、義雄もこの神経がつよい女がどんなことを仕出かすまいものでもないと心配した。かの女は今も、泣き倒れていながら、 「あいつを追い出さなければ、あたいは死んでしまう」と云った。そんな時には渠はかの女に仕込んでやる仕事の話でもして、気を転じさせる外はないと思った。 が、きょうはまだ起きッぱなしであるので、 「兎《と》に角《かく》、おれは飯を喰いたい、ねえ」 「まだ喰べないの——?」かの女は俄かにまた半身を起した。そして面倒臭そうに顔をしかめてこちらをじッとながめていたが、「今下の人が、もう直《じ》きお昼だと云うてたのに——なんにも無いよ」と云った時は、全くその顔がやわらいでいた。  かの女は渠の食塩に茶づけの給仕をしながら、ゆうべ、大野の細君が義雄の悪口を沢山云ったのを、かの女自身の恥辱であったかのように訴えた。が、渠はそれを少しも気にかけなかった。  烏山にからすががアがア云ってる声にまじって、桜の咲いている道ばたから、例の乞食の「お助けで御座います」が聴えている。  その日、お鳥が踊りの稽古に出ると、義雄は或新聞の日曜付録に頼まれた論文を書きあげてしまった。それから義雄が外出したあとへ、加集泰助が尋ねて来たが、あがってかの女と話しながら、暫《しばら》く待っていた後、また来ると云って出たそうだ。  義雄は愛宕下《あたごした》町の大野の家へ行って見たのであった。が、主人はいなかった。何だか、不断のようにずかずかあがって行きにくいような気がして、細君を呼んで貰った。  なかなか出て来なかった。それでも出て来た時は相変らずにこにこしていた。が、どこか澄ましているようなところが渠の目に付いた。 「今お稽古をしてあげてるのよ」 「そうでしょう、ね」と、先ず渠は云うより外に仕かたがなかった。この夫人も、画を教えているばかりに、矢張り、自分の女房のように、教員然たる、云い換えれば、人に対して誰れにでも子供あつかいをする風が滲《し》みて来たのを、渠は発見したのである。「ゆうべは、どうも、失敬しました」 「あなたの奥さんも随分、ねえ——?」 「あいつア、もう仕ようがないのです」 「あなただッて、そうでしょう——もう、いや」と、つッ立ったまま、からだを振って、「あなたのような人が来るのは!」 「そう云われるだろうと思ったのです」と、渠は苦笑しながら、「ですが、ねえ、まア、そんなことは云いッこなし、さ——どうせ、大野君がいなけりゃア帰りますから」 「そう——失礼、ね」こう云って、かの女は障子をしめにかかった。 「畜生!」と云うような淡い憤慨心を懐いて、義雄は、ついその近処の玉突屋へ行った。渠とも長らくこの遊びの仲間になっている有名な金貸しが来ていた。この人は、もと、欧米へまでも出かけて宗教の腐敗しているのを、実見して帰り、一種の自己発明の耶蘇教を伝えるには、外国人の補助などを仰いでいちゃア駄目だ、先ずその費用たる金を自分で拵《こしら》えなけりゃアと云う考えを以って、金貸しになった。この動機が丁度、義雄の唯一の先輩たる人がコンミションマチャントになったと同じなので、渠は初めのうちは多少の尊敬を以って接していた。が、義雄の別な友人なる弁護士や会社員と大きな花を引いたり、悪辣《あくらつ》な高利貸しとなっているのを知るに至って、もう、既に金ばかり欲しがるあり勝ちな平凡人に過ぎなくなっていると侮辱するようになった。さきに家を抵当に資本を貸せと交渉して見たのも、——どうせ出来なかったが、——義雄は向うに一つも同情などは乞わないで、あり振れたアイス[#「ア」に*]としてであった。けれども、丁度この人が独り来合わせていたので、 「どうだ、負かしてやろうか、ね」と、義雄はキュウを取った。 「今ちょッと途中で電話をかけに来たのだから」こう云って、渠は袖さきのカフスを直し、手袋をはめ始めた。 「そうか——こないだの連勝をどうして呉れるのた?」 「また、今度だ」 「わたしとやりましょう」と云って、ボーイが出たが、どうも義雄は気が乗らなかった。いつもなら、出ると直ぐ親しい感じを起す青|羅紗《ラシャ》の玉台や、こちこち云う紅白|象牙《ぞうげ》の玉などが、渠の目にもあたまにも、散らけて遠いところにあるように感じられた。  三度に勝負まけをして、渠はキュウを置いた。 「どうも、昼間は気が締まらないで駄目だ」  そしてお鳥の二階へ帰ると、やがて大野正則がやって来た。 「もう、酔ってるのか?」 「例の、ね、書き割り[#「書」に*]の監督に行ってたの、さ——いつまで寒いと云うのだろう?」 「君と一緒に浜町で目がさめると、意外のおお雪であったのも、こんな時候であったよ」 「そうだ、なア」と云いながら、大野は少し離れて坐ってるお鳥を見て、「どうだ、御機嫌はいいか、ね?」  かの女はほほ笑んだが、横を向いた。 「君の細君も無事のようじゃアないか?」斯《こ》う義雄が受けた。 「だが、ね、君の細君にかぶれて、僕のもゆうべから変だよ——君にも何かいや味を云ったそうだが、あいつも感情家だから、ねえ」 「まア、いい、さ、僕の事情のようなものじゃアないんだから——僕も」と笑いながら、「けさ、やッと逃げて来たよ」 「君が悪いんだよ」と、大野は片手を下向きに火鉢の少し上に浮《う》けて、それを上下すると同時に幾度も首を小刻みに動かした。「役者のような真似ばかりする。」と云って、お鳥は渠を初めから嫌っているのである。今もこの様子を、憎しみを帯びて見詰めているのに気が付き、 「いや」と、渠は恐れ入りましたと云うようなお辞儀をして、「お鳥さんがいらせられたのでした、な」 「ふん」と、また横を向いて。  大野は話題を転じて、画家の社会、殊に劇場の書き割り画家の社会に、卑劣な人物が多いことなどを憤慨し始めた。 「画家社会ばかりじゃアあるまいよ」と、義雄は答えた。「形式家のまだ勢力ある現代では、どの社会にでも、新らしい思想を体現し得るものを除いちゃア、みんな偽善者でなけりゃア卑劣家ばかり、さ」 「大きにそうだ——君も蟹《かに》の鑵詰めなどに熱心するのをやめて、お互いにしッかり戦って行こうよ。君は詩人、僕は画家じゃアないか?」 「そうだ、ね」と、義雄も答えた。が、戦うのは自分一個の力にあるので、如何に親友でも、自分と共に自分の自覚するだけのことを実行するものはないのだと思った。落ち付いて、腹の底から出る声で、「然し、僕は、この場合、どうしても、あの事業をやらなければならない——背水の陣を張ってる様なものだから、ね」 「それもそう、さ、な」 「あたい、行《い》て来る、わ」と、お鳥は立ちあがった。 「じゃア、勝手にしなよ!」義雄はつッ放すように答えた。もと、二人で二階を借りていた氷川の家の細君——と云っても、一老人に対する下女あがりの妾——が手紙をよこした。前にかの女が勝手に頼んで置いた勤めの口だとは云ってるが、何か渠に対する反逆《むほん》をたくらんでいるのかも知れないと思ったので、その手紙を見せろと迫ったのは今しがたのことだが、どうしても見せようとしなかった。見せないのはこれまでにも度々あったことで、身うちからのらしいのもそうしてどこかへ隠していた。「叔母さん、うちのお父さんはどこにいるのでしょう」と、義雄自身の子が云いそうな子供のハガキも、義雄はかの女の留守にこッそり机の引き出しを探した時に、ふと発見したのであったが—— 「どこへいらせられますか、奥さんは?」 「……」 「どうせ、めかけの口か、そうでなけりゃア、下《くだ》らない電話交換手ぐらいの話にきまってらア、ね」 「なんでもええ!」お鳥はぷりぷりして階段を下りて行った。  格子戸《こうしど》の明く音がしてから、大野は障子のあわいから外をのぞいた。再び座に着いてから、 「よせよ、おい、あんな女!」 「俺だッて——その時機を見ているんだ」と云って、義雄はゆうべのさまを思い出した。逃げよう、逃げようとして、とうとういやな巣まで引ッ張って行かれた。お鳥の関係に於いても、あのかな臭い溝《どぶ》をのぞき込むような場合にまで立ち至ったこともある。 「僕が今度は君の真似言《まねごと》を言って、しッぺい返しをする様だが、ね」と、大野も静子と結婚する、しないの騒ぎに、義雄が一時大野のもとの細君の方に肩を持った時の言葉を持ち出して来て、「よッぽど細君の方がいいじゃアないか?」 「情けないことを云うなよ、僕はもッともッと新らしい生活をやりたいんだ」 「それも君の説だから悪い事もなかろうが——まア、あんなへたなラシャメン[#「ラ」に*]じみた女はペケペケ!」 「だから、どうせ両方ともやめ、さ」  大野は、それから、芝居の興行と脚本作者の立ち場とを妥協的に論じ、座の方はどこへでも関係をつけるから今日の見物に分る程度の新らしい脚本を書けと、頻《しき》りに義雄に勧めた。  が、義雄はいずれ脚本は書くが、そんな妥協的態度で、とても、自分等の考えるようないい物は書けるものじゃアないと答えた。  義雄は、大野につれられてビールを飲みに行き、暗くなって帰って見ると、加集が来て、下の老細君と二人で話をしている。  渠等二人が二階へあがると、加集は云った。 「あの婆アさんは話|好《ず》ッきヤぜ」 「そうだろう、亭主がいつも遅くでなけりゃア仕事から帰らないから、その間は独りでぽつねんとしているんだ」 「田村さんは清水さんにばかりくッついてて、一向下りて来ませんと云うてたぜ」 「まさか、そんなお相手も出来ないじゃアないか?——そして、君にお鳥を貰えと云わなかったか、ね?」 「……」加集はちょッと赤い顔をしたが、「そんなこと云やせん」 「それじゃア、僕も安心だが、ね」と、義雄はわざと冷《ひや》かしを云って見た。 「ゆうべ」と、下から機嫌を取るような風に出て、 「活劇があったそうじゃ、な——?」 「誰れに聴いた?」 「清水にも、我善坊でも」 「よせ、下らない!」こう云って、義雄はこんな男は詳しいことも、短いことも聴かせるに及ばないと思った。しゃべる奴もしゃべる奴なら、聴いた奴も、面白そうにここから又我善坊へ出かけるには及ぶまい! これも、自分に両方の女に対する若しくはどちらかに対する真実の愛がないからだろう——若しそれがあらば、こんなぐらぐらした、ふた股《また》膏薬《こうやく》[#「ふ」に*]じみた男の出入は禁止する!「肝腎《かんじん》の用はどうしたい、きのうの——?」 「二三度行って見たが、いつも留守でまだ会えん」 「じゃア、その方をもッと熱心にやって呉れたらいいのに」 「やるよ、心配しないでも」と、笑っている。 「何の為めにぶらぶらしているんだ」と、云ってやりたかった。  格子が明いて、締まったようだ—— 「清水さんですか」と云う婆アさんの声がした。  二人の眼は、見えない階下の方へばかり向いていた。 「ええ」  障子が静かに明いた—— 「寒かったでしょう——?」  障子が静かにしまった—— 「そんなに寒いことも——へ」  はしご段が静かにとん、とん、とん——義雄の耳には、お鳥のいつも人前ではなかなかおかしい程気取ってるその様子までが聴えて来る。  去年の暮れに買ってやった細長い鶴《つる》の毛ショールを二つに折って、これを片手に持ったかの女が現われた。  いつもにないほど、にこにこ、にこにこしている。 「やア、女優さんのお帰りか?」こう、あぐらをかいて見あげていた加集が云った。 「馬鹿!」忽《たちま》ち恥かしそうに顔を赤くしてにらみ付け、坐りもしないで、「馬鹿!——早う往《い》んで呉れ!」 「そないに」と、ちょッと口をとがらせたが、加集のますます軽薄笑いの心を加えたのが義雄に読めた、「おこらんともええじゃないか?」  そして義雄はこのありさまを見て、却《かえ》ってかの女の外出事件に違ったこともなかったのを感づいた。      九  とンと強く叩きつける煙管《きせる》の音がして、 「わたしを何だと思ってるんだよ!」 「……」 「仮りのおめかけや、たまに旦那に来て貰う囲《かこ》い者じゃアないよ!」 「……」 「お前の女房だ位は分らない野郎でもあるまい!」 「分ってらア、な」 「それに何だッて、うちを明けるのだよ?」  義雄は朝飯をしまってから、机に向っていたのだが、下のこの怒鳴《どな》り声に耳が引ッ張られていた。また一騒ぎあるだろうとは、婆アさんのゆうべの心配のしかたで予期していた。お鳥はけさも何だか慰めを云って聴かせていたようであったのに—— 「仲間のつき合《え》いだから、仕かたがねい、さ」 「つき合《え》い、つき合いッて、幾度あるのか、ね? そんなつき合いは断ってしまいなさいと云ったじゃアないか? ※[#「石」+「緑」のつくり、読みは「ろく」、P132-上段11行目]にかせぎもしないで!」 「うえの先生でもやってることだア、な」 「先生がお手本なら、直《す》ぐ、きょう限り、わたしが断ってしまうよ」 「断るなら、断るがいいが、ね」 「生意気をお云いでない!」  義雄は自分の女房より一段どころか、二段も三段もうえを行く女もあるのだと思っているのだ。 「何が生意気でい——これでも貴さまを年中喰わせてやってらア!」 「喰わせるだけなら、ね、犬でも喰わせるよ! 米の御飯が南京米《ナンキンまい》になり、南京米が麦になり——」 「何だ、この婆々ア! 見ッともねいことを云やアがって!」 「なぐるなら、なぐって見ろ! 働きもない癖に!」  取ッ組み合って、あッちの障子に当り、こッちのから紙にぶつかりしているようであったが、大きな女のからだが畳の上に投げ飛ばされるような音がした。 「婆々ア女郎め!」 「殺してやるから、そう思え!」  台どころの方でがたがた云わせていたが、またとッ組み合いが始まったらしい。 「おい、行って見ろよ」と、義雄はお鳥に云ったが、 「あたい、おそろしい」と、ちいさくなった。  渠《かれ》が下りて見ると、婆アさんをねじ倒して、そのさか手に持っている出歯庖丁を亭主がもぎ取ったところであった。 「どうしたと云うんです、ね?」 「あの野郎がまだ目をさまさないから」と、婆アさんはからだを起し、「今、根性をつけてやろうとして」 「どッちが」と、立ったまま荒い息をして、「腐った根性でい?」 「手前《てめえ》に——きまって——らア、ね」と、これも息を三度につきながら、立ちあがり、長火鉢の座に行った。そして義雄に、「どうか——火の方へ——お近く」  亭主は、庖丁を台所の方へ投げてから、婆アさんとさし向いの座についた。そして、 「あり勝ちの夫婦喧嘩ですから、どうか悪《あし》からず」と云って、若いが、こんな場合だけに血の気の失せたような顔で笑った。  義雄には、この男がこんな老母のような女を女房と思っていられるのが不思議なほどであった。ずッと若い時からのくッつき物なら知らず、まだこの二三年来の慣れ合いだと聴いてるので、ただいろんな好き好きもあるものだと思った。 「まア、喧嘩をするにも及ばないでしょう」 「済《す》んで見りゃア」と、真面目な顔つきで亭主を見ながら、「馬鹿々々しいことですが、ねえ」 「あは、は」と、亭主は笑って見せた。 「女と云うものは思い詰めりゃア、われながらおそろしいものですから、ね——まア、先生も御用心なさいましよ」 「十分用心が必要です、ね」と、ただほほえんでいた。 「わたしが先生の奥さんなら、おどり込んで殺してしまいますが、ね——まだあなたのは、教育もおあんなさるでしょうから、おとなしく控えていらッしゃるんです、わ」 「そうでもないのだが——」こう云う人々が望む教育なるものが、今日のようじゃア、これを与えるものの方針に非常に間違ったところのあるのを、義雄はどこかで訴えたくッてならないのである。「斯《こ》うすべからず」の消極概念が殆《ほとん》ど教育界全部を占領し、「斯うすべし」がまた、ほんの形式にばかりとどまっていて、有識者と云われるものが凡《すべ》て、如何《いか》に厳格でも、また如何に熱心らしくあっても、空《くう》に他を教えようとして、少しも自己の実行如何を反省しない! 何のことはない、法律と教育とで以ってわが国人は自由なるべき人間本能の誠実を、わざわざ、無意義に制限せられているばかりだ!  たとえば、結婚と云う形その物が道徳でも実質でもない。実質が既に違った以上は、その形の破れて新《あら》たまるのを認める法律が必要だ。同時に、また婦人から云って見れば、くッ付き物が離れた場合にそこに独立する精神や生活法がいつも具備しているところの教育を、不断から、与えられていなければならない。お鳥のようなものやこの婆アさんのような、身を棄てて低い生活に安んじられるものは、寧《むし》ろどんな教育でも入《い》りはしないとしても、中流生活の婦人が無教育ではない癖に独立生活的教育の素養がないのは、わが国の発展を害する最も大なる欠陥の一つで、自分が千代子に苦しめられているのもそれが為めだと思った。 「どうせこんなことを云ったッて分らない」のだから、義雄は再び「もう喧嘩はしッこなし、さ」と云って、二階へあがった。  晩春も、もう、過ぎようとする或日の正午前のこと、お鳥は小さい声で歌いながら、三味線を独《ひと》りざらいしていた。  義雄は机に向い、鳥の啼《な》き声も乞食の哀訴も聴えなかった。  が、ふと、自分の耳を疑わせるようなことを叫んでるものがある。女のようだ——否、自分の妻のようだ—— 「あなた、少しうちへ帰って下さらないと困るじゃアありませんか? うちばかり明けて——うちがどうなっても構《かま》わないと云うのですか? 子供だッて、云うことを聴かないで——あなたがいないじゃア、どうすることも出来ないじゃアありませんか?」 「馬鹿!」渠は私《ひそ》かに応じて立ちあがった。そして肉眼の力をふさいでいたいような予期をしながら、障子のすき間から下をのぞいて見た。  道ばたに並んでいる桜の枝々からは、昨夜の雨に打たれた残りの花びらが、まだおもたそうにひらり、ひらりと落ちている。その中を、かの女のあお向いた顔だけ見えたが、段々とあとずさりして下の方まで姿を現わしながら、なお叫びつづけている—— 「困りますから、早く帰って下さいよ。子供が云うことを聴きません! どうか、お願いですから、帰って下さい! ほんとに、おねが——!」  がッくりと倒れかけた——桜の一つの根もとに敷かれた乞食のこもの端に、はき物のかかとが引ッかかったのだ。 「お助け」をやめて、ぼんやり仰いでながめていた親子が、「あは、は」と笑った。  が、それをじろりと一※[#「敝」の下に「目」、読みは「べつ」、P135-上段5行目]《いちべつ》して、かの女は僅かにからだを踏みこたえた—— 「お願いだから、ちょッとでも帰って下さい!」 「阿呆じゃ、なア」と毒々しく云って、いつのまにか後ろへ来ているお鳥の手が、義雄の背中にとまって渠に顫えを伝えていた。 「旦那、見ッともないじゃアありませんか?」下の婆アさんもいやな顔をしてあがって来てこう云った。 「なアに」と、婆アさんを叱り付けるように、「うッちゃって置け、置け!」 「あなたはいいとしても、わたしのうちで困ります、わ」 「あなた、聴えませんか?」 「また、云うてる!」お鳥は婆アさんにどうしようと云うような様子を見せた。 「わたしが兎も角下へ通して置きましょうか!」 「そうです、な、——どうか」と、お鳥の声も息詰ってるようだ。 「あなた——あなた——いないのですか?」  又窺《のぞ》いて見ると、「聴えませんか、いないのですか」とおめいてるその前を、職人体の男と女学生とどこかの夫人が別々にじろじろ見返りながら通って行く。  乞食の哀訴はそれらに対してしなかったようである。  がらりと格子戸が明いた—— 「奥さん」と、婆アさんの激しているような強い声がして、「まア、こちらへお這入《はい》りになったらどうです、ね」 「ほんとに、困ってしまう!」千代子はずかずかとこちらへ歩き出した。 「あたい、知らん!」こう云い放って、お鳥は裏の方へ向った窓ぎわへ行き、横向きに窓の真ン中の柱に身をもたせかけた。  義雄は、おもて窓に向った自分の机に対して坐った。  格子戸が、がたりと荒々しく締った——玄関の障子がまた荒々しく締った—— 「二階でしょう」 「へい——」  どたどた、どたと荒い音があがって来た。 「どうしたんです、ね、あなた!」 「……」 「子供達が云うことを聴かないで、仕ようがないじゃア御座いませんか?」 「……」 「聴えないのですか?」 「……」 「つんぼですか?」 「……」義雄が、ふと、悪かった一方の耳も先ず直ったらしいのを思い出していると、かの女はつづけて、 「たといかたかたの耳はまだ直らないとしても、一方は聴えるでしょう?」 「……」 「返事をおしなさい! 子供が——」 「黙れ! 子供は、ほんの、かこつけで、貴さま自身がだろう?」 「……」千代子は、所天《おつと》が突然ふり向いて瞰《にら》む鋭い眼の力を受けて、灰色じみた顔色をちょッと赤くした。  義雄は、かの女が小指一本ででもさわれば倒れそうな足もとで、段をあがったところからこちらを見詰めてつッ立っているのを、一歩でも近よらせないと云う勢いを見せて、 「して、子供のことぐらいを処分出来ない女だから、馬鹿なんだ!」 「そうは行きませんよ——」 「よせ!」 「父親があるのに留守ばかりじゃア——」 「おれは、ね」と、分らせるように念を押して、「手前《てめえ》のいるような家にゃア父でもない! 所天《おつと》でもない!」 「馬鹿をお云いなさんな!」 「分らず屋!」義雄はそれッ切り横を向いて、そ知らぬふりになって考えた——おれは、妻に対してもこんなことをこれで三度もやらせて置くだけが、まだ弱い——妻も矢ッ張り、その後ろに来ている婆アさんと同様、全く自分の所謂《いわゆる》無教育無自覚だと。けれども心のうちで、「若し少しでもあいつに理解力があったら、それを糸口にして、おだやかにあの状態を改造して行かせるのに!」 「どッちが分らず屋だ」とつぶやきながら、かの女は二三歩お鳥の方へ行って、「あなたもあなたでしょう、うちが困るぐらいのことは気が付かないことアないだろう!」 「……」 「自業自得《じごうじとく》で因業《いんごう》な病気にかかって、さ、入らないおかねまでつかわせたんですよ!——その衣物《きもの》だッて、拵《こしら》えて貰ったんだろう!——あすこに掛ってる白い首巻きだッて、買って貰ったんだろう! 囲い者気取りで、三味線など弾いて!」 「……」 「さア、わたしの出るところへお出なさい!」 「何をする!」と、お鳥が云った。  義雄が胸おもく張り詰めている怒りを動かして急にふり向くと、お鳥の広島銘仙の袂を千代子が取り攫《つか》んだのを、攫まれた方がふり切るところであった。同時に、お鳥は訴えるような目をこちらに向けていた。 「どこへ出るんだ!」渠は飛び込んで行って、「この気違い婆々ア!」 「婆々アでも、何でも、出るところへ出たら、分ります!」 「自分で行《い》て」と、お鳥も負けない気で、「巡査のようなものに笑われて来い!」 「笑われるのはお前さんですよ!——あなたも」と、千代子は義雄を返り見たが、鋭いにらみを避けるようにして、「こんなみすぼらしいとこにいないだッていいでしょう?」 「何をぬかす!」渠は思うさま千代子の横つらをぶった。 「そんな手荒いことは」と、婆アさんがとめようとした時は、千代子は既に横ざまに倒れていた。 「ぶつなら、いくらでも御ぶちなさい」と、案外きょうはおとなしく起きあがって、「警察へ出れば分るのですから」 「そんなことを、奥さん、云うものじゃアありませんよ。あなたも恥じなら、旦那さんにも恥じでしょう?」 「恥じも何もかまうものですか?」 「そう無茶苦茶になっちゃア、あなた——まア、下へ来て、気を落ち付けなさいよ、旦那さんや清水さんには、わたしからまたよく申しますから」  義雄もお鳥も他の二人の様子をばかり見つめていた。  婆アさんの片手に背中を押されて段を下りかけた千代子が、こちらをちょッと恨めしそうにふり向いて見た時、かの女の少し前に反《そ》った大きな前歯に血が付いてるのが見えた。 「早く引ッ越すんだ!」こう云い放って、渠はどうせ行くべき北へ行くことを思ったのだがお鳥はそうとは知らず、 「それがええにきまってる、さ」      十  毎日のようにやって来る加集だが、その引き受けた要件を一向はか取らせて呉れないので、義雄も亦《また》棄て身になって、よく方々の玉突屋へ通った。  耶蘇《ヤソ》教あがりの高利貸しとも勝負した。友人の弁護士や会社員やアメリカ帰りの無職者とも勝負した。そう親しくもない官吏や年若い銀行員等とも勝ったり、負けたりした。  多少でも名の知れている文学者と云うので、知らない人々までが面白半分に、渠の周囲にはいつも集まって来た。 「田村さん、蟹の鑵詰とかはうまく儲《もう》かりますか」などと云われて、義雄は一生懸命にやっている勝負の腰を折られたこともあるが、 「まだその時節にはならないのです」と答えながら、遠く離れたキン玉[#「キ」に*]を力一杯出して取ろうとしたが、一方のに当って一たびコシンに這入り、それから自分の玉は縦《たて》に二たび往来してなおその余力がフロク[#「フ」に*]になった。 「あは、は、は!」見ているものは一切に笑った。 「でも」と、義雄も微笑しながら、「当ったのは当ったのだろう」 「そうきつく突いちゃア、象牙の玉でもこわれますよ」と、女ボーイも口を出した。 「こわれたら、弁償するだけのこと、さ」 「然《しか》し当ることは善く当る!」こう感心したようにささやくものもあった。  こんな時には、義雄も額を油ぎらせるほど調子づいているのである。そして夢中になった時突きかたが普通の正しい姿勢と違うので、それがおのずから渠の一特色となって他人への愛嬌の種となった。渠はこれを別に頓着しなかった。  或おんな友人が西洋料理を計画しかけた時、 「田村さんなら、実費で通すから常連をつれて来て下さい、ね」と云った。 「そりゃアよかろう——あなたの為めなら、広告屋の代りにもなろう」と、渠は冗談半分に答えた。この計画は立ち消えとなった。  ところが、今回加集が一人の、玉突屋を開業したいと云う人——これが金を貸そうと云うのだ——に紹介して置くと云って、義雄を京橋へつれて行った。 「おれに常連を頼むは、真ッ平だぜ」 「ええじゃないか、二百円が出さえすりゃ?」  この人は義雄も知ってる或文学者の弟で、新らしく手を出した出版業をこの頃大抵に見限り築地橋のそばの或家の二階を借りて、年うえの、何だか分らない女と同棲しているのであった。よくよくおなじような人間にぶつかるものだと、義雄は考えた。 「僕も大切な金で」と、主人がおもおもしい気分になったのを義雄は見とめて、おのれもその気分を解したと思ったが、「加集君の紹介でもあるし」が、渠に聴かされては、力のぬけた言葉ではあった。「また、これから君にも交際して貰いたいので、加集君にも話した通り、現金が近々帰って来さえすれば、君の為めになるのなら、融通してあげてもよいのです」 「無論、僕の事業費に追加が必要なのですから」 「それは加集君からよくうかがっていますし、君の事業の有望なのも分ってますが——この急場さえ切りぬけたら、あとはどうでもええと云うような——」 「そんな無責任はしません!」 「無論、君のことだから——然し信用貸しですから、念の為めに申して置くのです」  義雄はあッちの季候では、この頃ようやく蟹が取れ出すので、六七月となって収穫の絶頂に達し、八月の半頃までで一先ずおしまいになるのだから、先ず九月一杯に返却する約束なら、決して苦しいことではないことなどを説明した。 「然し僕は君の兄さんの文学には反対で、よく攻撃の矢も向けたが——それに関係を及ぼして貰っちゃア困りますが、ね——」 「第一、兄とは別に関係のない金ですから——」 「そうなら実に結構です」  三人はそれから近所の玉屋へ行ったが、義雄は他の二人の教え手であった。  渠は玉を突きに出さえすれば、どうしても夜の十一時か十二時でなければ帰らなかった。  お鳥はこれを怒って、いつもさきに褥《とこ》へ這入っていた。 「おい、お嬢さん、どうしたい」などと、一杯機嫌でそのそばへ坐ると、向うを向いてるまま、そら寝をしていることもある。そして突然こちらを向いて、 「あたいを大事にしないからじゃないか?」  渠は、ランプの光が直接にかの女の顔に当らないように、その方へ、原稿紙の半切れを笠に張って目隠しをしたその蔭を向けるのであった。 「閨中《けいちゅう》美人!」そして穢多じゃアないかの疑いは、もう、ほんの、形式的に、渠のあたまにくッ付いていた。  或夜、風の気味だからいつもより早く、九時頃に義雄が帰って来たら、女はちょッと出て来るからと云っただけで、明るいうちに外出したままだそうだ。 「どこへいらしッたんでしょう、ね?」 「さア——」 「もう、お帰りなさいませんでは、ねえ——」 「さア——」 「女おひとりじゃア、この頃ア物騒ですから」 「なアに、あいつのことだから、また引ッかきむしるなんかして——」 「うふ」と、婆アさんは笑った。きのう女房にしろ、しないと云う喧嘩をして、義雄が首ッ玉のところをかきむしられたのを、かの女は思い出したらしい。「あのお方も気のきついお方です、ね——今どきの若い方ですから——でも、まだあなたの奥さんのほうが余ッぽどいいじゃア御座いませんか?」 「そうですか、ね?」いい加減にあしらってから、長火鉢のそばを離れ、二階にあがるが早いか、あかりを付けて戸棚をあけて見た。渠が心配したようなことではなく、女の荷物はそのまま残っている。  その代り、またそれ以上の心配がわれ知らず浮んだ。 「まさか——」と、打ち消しながらも、あの時[#「あの時」に白ゴマ傍点]を——あの、千代子がここへ躍《おど》り込んで来た時を——思い出さずにはいられなかった。千代子が帰ってから、女はまたあいつを早く追い出せとせがんだ。義雄はそう容易に法律が許さないと云って聴かせた。——お鳥は、すると、負けているからじゃないかと突ッかかった。いや、そうじゃないと押さえ付けた。——そのあげく、女はむッとしてしまって、何も云わないで出て行った。義雄はせいせいしたつもりで、散歩に出た。長くも留守にしていられない用があったので、何げなく、烏山へ登って見ようと云う気を起した。毎日、毎日、障子をあけさえすればさし向いになる山だが、これまで登ったこともなかったのだ。  すると、この山の、あッち側の急傾斜に瀕《ひん》したところで、女がこッちの来たのも知らず、松の枝に自分の細帯を結びつけ、その出来た輪につかまって、今にも首をかけようとしていた。  渠はそのそばへ駆けて行って、憎々しいほどに怒罵《どば》の声をかけた。 「何をする!」 「死ぬ! 死!」女は渠の手をふり切ろうとした。そして泣き声になって、「どうせ——みなに——こんなに恥じをかかされて——お母さんにも、兄さんにも済まん!」 「何も死ぬにゃア及ぶまい——」どうせ、こッちに対しちゃア、もう、半ば死んでいるのだから、ね、とまでも云いたかった。また一方には、申しわけに死ぬのは、申しわけをしなかったと同様ではないか? 生にばかり執着する渠には、これほど無責任なことはなかった。そう云う心のうちで、「馬鹿だ、なア!」 「実際、死ぬ気であったのか」と、義雄はあとになって尋ねて見た。 「そう、さ!」 「じゃア、なぜ兄から盗んで来ていると云うそのアヒサンで死なない——もう、棄てたのか?」 「あれはもッと大事な場合でなけりゃア——」 「二度も三度も死ねる気かい——うそを云ってらア」  こう云う対話もあったのを思うと、然し、また、今夜は、うちにいないだけ、何も事件がありそうでない——まさか外で毒薬を服用しようとは!  渠は風邪の熱を出そうとして、水を大きなコップに三四杯飲み、独りで寝どこを敷いて、そこへもぐり込んだ。  寝苦しいので、右を向いたり、左を向いたり、うつ伏しになったりしながら、渠は女の帰りを待った。——  お鳥は、おれに身をまかせる前に、ちょッと朝鮮人へ目見えに行ったことがあるぞ! 然しあれは仲働きの候補で、いやだから一日でよしたと云った。  質屋の隠居のめかけでいいなら、十円の口があると、桂庵[#「桂」に*]から聴いて来たこともあるそうだ。  おれのところへ来てから、病院通いの外は、そう独りで出歩いたことはない。 「どうせ、あたいは日かげの身だ——恥かしゅうて、うかうか外へも出られん」と云っていた。——  渠は苦しいので左を向いた。 「けれども、どうせこんな身分でいるときまったら、お前のような貧乏人は相手にしやせん」——ひょッとすると、ああ云うつもりで、何かの野心を起したのじゃアなかろうか?  あの氷川の森かげの下女細君、あれがそんな風な口をかけているのじゃアないか知らん? 一度手紙が来てから、よくあすこへ行き行きする。——  渠は右を向いた。  今夜も亦あすこなら、高が知れている——が、あいつは、二三軒の口入れ屋[#「口」に*]を歩いた経験がある。いざとならば、今度は大胆に暖簾《のれん》をくぐれよう——?  現に、この隣りの桂庵婆アさんも、こないだ、変ななぞをかけたと云った。あの婆アさんはおれのおやじの生きてる代からおれのうちへ出入りしていたのが分った。して見ると、今は逃げて去った継母がまだいる時、継母がお鳥を第一に紹介した口入れ屋はこの隣りであったろう。 「下らないことを——」と自分で云って、また寝返りした。  継母を愛していた父は死んだ——その葬式はまだその時生きていた隣りの和尚さんに頼んだが、おれはどんな形式で以ってでも宗教家の手で葬られたくない。これはおれの主義だ——まさかの時の為めに、おれは千代子にも、お鳥にも云って聴かせた、おれがおれを去る時は、決しておれの主義を恥かしめるなと。  宗教——形骸ではないか? たとい宗教心——はあるとしても、却って宗教その物にはない。生その物に執着する努力を宗教心と云うなら、刹那《せつな》々々の実生活がそれだ。今のおれの苦悶が即ち宗教心だ。——  いつのまにか、渠は、仙台の耶蘇教学校にある時、松島へ行って度々|独禅《どくぜん》[#「独」に*]をしたことや、中学教師をしている時、毎土曜日から日曜日にかけて比叡山へ登り、いろんな経文を調べたことなどを思い出していた。すると、自分の義兄の幼時からの遊び仲間であって、自分の尊敬していた比叡山の僧で、十五年も山中の行をしたものが、行を終えて下山すると直ぐ、村の女の為めに堕落したと云う記憶が伴《ともな》った。 「然し実際は堕落ではない、人間として当り前になったのだ!」——  渠はうつ伏しになった。  何だか、こう——寂しいような——身軽になったような——さッぱりしたような——足かけ二年を初めて独り寝をしているのであった。  どこかの厳粛な教会で賛美歌の声とオルガンの音とがよく揃って、その中へ悪念や悪物が何もかも消えて行くような——どこかの静寂な本堂で※[#「臘」の「月」を「虫」、読みは「ろう」、p143-下段5]燭の光が真ッ直ぐに燃えて永劫《えいごう》の声が聴えるような——そんな気分にもなった。  今一度女や事業を遠ざけて、世外の人になっても見たい——が、——或山の荒廃した堂内で一夜を明かした時、おれは狸《たぬき》でも狐でも出て来て呉れた方がいいと思った。周囲の山林を吹きまくる風が唯一の頼母《たのも》しい物であった。が——その——その風は何だ? 矢ッ張り、今感じた永劫の声だ——賛美の歌だ! 「形を以って形を追っていたのだ」まだまだそんな低級な自分ではない——自分には少くとも一種の哲想がある。否その哲想を自由に具体化した生活がある。これはいつかは小説にも表現して見なければならないと思うと、直ぐ又ほんの筆さき専門の作家や世の雑輩連の雑評に対して、今から用意した侮蔑の念が浮んだ——渠等は哲想のテツの字も分らないのだ。まして哲想を自由に具体化した人物の描写をやと。  渠は又あお向けになったが、左右に触れるべきやわらか味の物はなかった。そして自分のからだ中があせばんでいるばかりが感じられた。然しこの病気に苦しみ、女に苦しみ、事業に苦しみ、自分自身に苦しむ自分その物の熱とあせの臭みとが、この場合、一番懐かしかった。  がらがらと車の音がした。  下の障子や格子戸があいて、婆アさんが外へ出た様子だ。  義雄も知ってる通り、かの女は、亭主が十一時から十二時までに帰りさえすれば、縁日商人の職業上当り前なので、喜んで出迎えるのである。そして、丁度可なりの傾斜を登って来なければならないので、坂の中途まで行き、一緒になってその荷車を押すのだ。 「今夜はどうだ、ね?」 「あんまりいいこともねい——もう、諦めても——」 「まだ清水さんが帰らないんだよ」 「へい——珍らしいことだ、なア」  燗酒《かんざけ》のにおいが実際にして来た。  銭勘定《ぜにかんじょう》の音がちゃらちゃらするにつれて、婆アさんが一心に銀貨と銅貨と、二銭銅と一銭銅とをより分けているのが見えるようだ。  渠は熱苦しくなったからだをまたうつ伏しにして、「あれでも渠等は満足して生活して行けるのだが——」と考えていた。 <-訂正-> 直ぐこの隣りが切り開かれて、電車道になるのだが、まだ手がつけられていないので、電車の響きは遠くにばかり聴えている。が、下では、もう、あかりを吹き消すけはいがした。  神田から御成門までの切符代が無かったのか、惜しまれたのかして、曽ては、その間を歩いて、夜中の一時半頃に我善坊へ帰って来たこともある女だが、一緒になってからは、こんなに遅くまで留守にしたことはない——と、こう思いながら、渠は額を枕の切れに当てて、油あせを拭きつけた。   嫉妬のほむらがからだ中にみなぎっていたのであって、闇の中にも、壁に垂れた鬱金木綿《うこんもめん》の三味線胴や、衣紋竹《えもんだけ》にお鳥のぬけ出した不断着などが見えるのがいやさに、堅く目をつぶってその目を枕に押し伏せた。 「きょうも、おれの留守に来やアがったと云う加集の奴、とうとう物にしたのじゃアないか?」  渠はもッと早くかの女を断《た》つ筈であったのだと悔《くや》んだ。      十一  女優志願の件も、本人の柄《がら》が向くまいと云うことで、話の縁は切れたのだが、義雄はこれをお鳥にはッきりと告げなかった。告げると直《す》ぐ、また裁縫学校へ入れて呉れがうるさいにきまっていた。  学校に入れるどころではない、お鳥その物とも、どうせ手を切ってしまうのだと、義雄は思った——その時期は、樺太へ出発する時で、その後は、こちらに治療の責任ある例の病気その他に就いて何と云ってよこしても、もう、返事をしなければいい。ただ可哀そうだから、返してやりたいのは、あの質物で——事業の先発隊の用意の金をすべて持って行かせたあとで、直ぐ、なお追加の空鑵材料を送った時、金に困っていたのを見て、案外にも、お鳥は自分の所有物を提供して多少の手助けをして呉れた。その所有物の中には、母のかたみだと云う桐《きり》に鳳凰《ほうおう》か何かの縫いをした玉子色の繻子《しゅす》の帯や、水浅黄の奉書|紬《つむぎ》の裾に浪千鳥の縫いある衣物《きもの》などもある。この衣物、この帯を締めて今年の一月元旦に、かの女は自分と共に並んで写真を取ったが、如何《いか》にも野暮臭い花嫁が現われた。 「兎《と》に角《かく》、あの品だけは、どうしても、出してやるよ」と、義雄は時々念を押した。 「あたいをさえ可愛がりゃア、あんな物はやる、さ」と、お鳥は、不断その品ばかりを心配しているにも拘らず、平気で云ったことがある。 「まだ、ね」と、軽く受けて、「おれの一身を田舎婆々《ばば》アのかたみ位でふん縛ることは勿体《もったい》ないよ」 「では、直ぐに質屋から出して来い」と、かの女は怒った。  あれを出してやろうか、それとも暗に手切れ金のつもりで新しい衣物を一つ買ってやろうか、どッちを選ぼうかと考える日が義雄に来た。 「おい、何か衣物を欲しいことはないか、ね?」 「買うて呉れる」と、かの女は急に喜んでやわらかに首をかしげたが、「では、セルが欲しい」  その日、義雄は不時に這入った原稿料をふところにして、かの女と共に白木屋へ行った。二階は棚浚《たなざら》いの為めに賑《にぎ》わっていて、かの女は一方の端から他方の端まで熱心に見て歩いても、買いたい物が沢山あって、予定額の中をどれで満たせばいいのか分らなくなった。 「どれにしよ」と、のぼせ加減にかの女はあとについて来た義雄を返り見たが、渠はこうして別れることばかり考えていたので、ただ腫《は》れ物《もの》をそッとして置くような気で返事をした。 「どれでも好きなものを買えばいいだろう」 「……」かの女は、渠をふり棄てるようにして、反対の側に足を運ばせたので、渠は椅子に腰かけて、円テブルの上のマチを取りあげた。  そして去年の暮の大晦日《おおみそか》に、粗末なのだが、蒲団を一組買いに出た時のことを思い出していた。案外安く買えたので愉快であったので、その余勢で麻布※[#「かけかんむり」に「單」、読みは「たん」、p146-上段18]笥《あざぶたんす》町の通りを赤坂の新町まで古道具屋や夜店などをひやかして歩き、古物の火鉢を約束したり、火ばしや餅あみを買ったり、——そしてそれがまかったり、添え物をさせたりするのが面白さに、入らない物まで値切って見た。 「そんなに使《つこ》たら、あとで困るじゃないか」と、お鳥の方から注意をした。が、それでもなお、自分には、いろんなござござした物を買いながら、店から店を渡る興味が尽きなかった。  そして自分とお鳥とは、共に両方の手に持ち切れないほど、日常の必要物や化粧品や食物の皮包を持っていた。 「きょうの気分は、然《しか》し、丸で違う」と、義雄はわざとゆッくり煙を吹きながら、お鳥を初め多くの婦人連がちょこちょこと屈《こご》んでは歩み、歩んでは屈み、順ぐりに同じ切れをいじっては行く様子を傍観していた。 「ちょッと来てな」と、お鳥はあわただしく顔をしかめて呼びに来た、そして義雄が立ちあがると、あたりに人がいるのも構わず、渠の袂をぐッと引ッ張って、 「ちッとも、一緒に見て呉れへん——人に買われてしもたらどうする!」  かの女は急いで白羽二重《しろはぶたえ》の夏帯地ばかりかかっているところへ行き、その一つの端を攫んだと思うと、一人の女の後ろを越えて、また向うにある一つの端を取った。そして引き締った笑がおで、 「どッちがええだろ?」  中に囲まれた女は、直ぐその下からくぐり出て、お鳥にちょッといやな目付きを投げた。  義雄は、かの女をしてぐずぐずと人の邪魔をさせて置くにも及ぶまいと思ったので、わけも無く自分の方のをあごを以って示し、 「これがいいだろう」と、尤もらしく答えた。で、かの女は他方のを放したが、かの女の手に残ったのは、竹に雀の墨絵が書いてあった。 「では、これと下で見たセルとにしよか?」 「じゃア、そうしなよ」  渠はこの二つの品に半襟を一つ加えてやり、これが代金を払ってから、食堂で木原店《きはらだな》の汁粉《しるこ》を取り寄せた。      十二  お鳥が最終電車に間に合わないほどの時刻に帰って来たことが、今一回あった。そして矢ッ張り、前回と同じように、氷川の森蔭の細君のところへ行っていたのだ。そしてあの人がいろんなおどけた話をして帰さなかったものだから、つい、また遅くなったと申しわけをした。そしてまた、あの人がこッちを引きとめていたのは、亭主の留守が寂しいからであったのだからあのいやな白髪じじイ帰って来ると、人を直ぐ出て行けと云わないばかりにあしらったと、訴えるように報告した。  きょう、初めて縫い上ったセルを着ているのをちらと見て、義雄はかの女がこれを見せびらかしに行ったのだ、な、と分った。が、前回に於いて、既に女の夜遊びを懇々|戒《いまし》めて置いた言葉を破ったのを憤《いきどお》り切っていたので、何等の返事をもする気にならなかった。  かの女が義雄の枕もとに坐り、不断通りの笑がおを見せたのを、渠《かれ》は枕の上から瞰《にら》み付け、おおきな声を——下への遠慮の為め——押しつぶすようにして、「馬鹿」と一喝した。「あんな女の相手をしてイて、うちをどうするんだ!」 「……」見る見る顔色を変えて、「うちなどありゃアせんやないか?——そんあに可愛けりゃア、早うあいつを追い出して、あたいを本妻にせい!」こう云って、かの女は力一杯に義雄を蒲団の上から両手で突きのめした。 「……」義雄は返事もしないで、あお向いたまま、目をつぶった。そしてこの女も駄目だ、かの千代子も駄目だ、また、父の遺産をすべて投げうった事業も、あと僅か二百金の出来ない為めに、すッかり時期を逸してしまうかも知れないと思った時、寂《さび》しい、寂しい気持ちが胸に迫って、熱い涙が一滴自分の頬に伝ったのをおぼえた。  あかりを吹き消した音がしてから、直《す》ぐだ—— 「妻《さい》にして呉れ、妻にして呉れ」と、いつに無くこわ張ったからだを、幾度も、かの女は義雄に投げつけた。「して呉れんと、殺すぞ」とも威《おど》かした。  それでも義雄は眼を明けず、口も開かなかった。うとうとと眠りに入りかけた頃、蒲団の一端が引ッ張れたのに気が付いて、目をあけると、——いつの間にか枕もとに置いたランプがともされていて、お鳥は褥《とこ》をぬけ出で、蒲団の裾に当る押し入れの膳やまな板を入れてある方の唐紙を静かにあけた。  光があたまで遮《さへぎ》られているのを幸い、見ない振りで、細目に目をあけて、かの女の横顔を見ると、かげのせいか、低い鼻まで鼻筋がくッきり通っているように目を据えて、押し入れの中をのぞき、右の手に出歯庖丁を取り出した。  一度はぎょッとした為めに、ねむ気は全くさめてしまったが、 「なに、くそ!」再び目をつぶった。そして子供の時、空想的に望んで見たことが、今、多少の事実となって来たと考えた。自分を「ぼくさん、ぼくさん」と云って、よく菓子を呉れたり下駄の鼻緒を直して呉れたりした、あの船乗りのかみさんだ。他に土方の男が出来た為めに、亭主をくびり殺そうとした時、亭主が気が附いてはね起きると、枕もとに出歯庖丁もあった。その翌晩は船が大阪にとまる順番であった。そしてその翌々晩に、帰って来て、渠は前々夜に何事もなかったかのように、毒婦の室に入った。義雄はこんな大胆なおやじになって見たいと、おぼろげにだが、思ったことがある。「手切れの口実にはいい機会が来た」と覚悟して渠は出来るだけ息をゆるやかにしていた。  お鳥はそッと坐ったようだ、その裾の下から押し出された空気が、生あッたかく鼻を掠《かす》めて一種のにおいがあったのに、義雄は今更らのような気がした。  自分には、これがかの女をいやになる心の条件の一大原因であるとも思われた。  蒲団がめくられたかと思うと、やがてひイやりした物が軽く、義雄の左から右の方へ、その喉《のど》の上を横切った。 「そうだろう、威《おど》かしに過ぎない」とは口に出さないで、するりと顔をかの女の方から遠ざけて起き上り、 「なによウする!」 「殺してやる! 殺してやる!」  その時は、もう、出歯は義雄の手に在った。そして暫《しばら》く、二人は無言で、睨《にら》み合っていた。  お鳥は下へおりて行った。下の台所へ他人の刃物をでも取りに行ったのかと心配していると便所の戸を明ける音がした。  義雄は明けッ放しの押入れから鰹節削《かつおぶしけず》りの小刀を取り出し、机の上のナイフと持っていた庖丁とを合わせて、自分の寝ていた側の敷蒲団の下に隠した。そしてかの女と入れかわりに便所に行くふりをして下におり、台所を探して見ると、下の人の使う庖丁はあったので、これをいつもの位置とは違ってちょッと気がつき難いところに置いた。渠があがって来たら、かの女は渠の机のあたりにまごまごしていたが、また押し入れへ行って頻りに何かを探し始めた。 「ナイフも小刀もあるものかい」と、心に語りながら、義雄は堅い物を脇腹の横に避けて、それでもこれを少し押さえるようにして、もとの通りに横たわった。  渠がその翌朝の十時頃に目をさますと、平生《ふだん》の通り飯の支度は出来ていた。が、二人は無言で食事を終った。  それからも、義雄は無言で新聞を読み、便所に下り、また衣物を着かえた。そして書き終りかけの長篇評論の原稿と共に、四五冊の参考書をすッかり引きまとめ、風呂敷に包もうとしていると、お鳥は離れた方の窓下で足を投げ出し、片肱を突いて自分の裾から出た桃色のネルの端とこちらとを見比べながら、少しも小だわりの無い声で云った。 「どこへ行くの!」 「……」義雄は、もう、これッ切りこの座敷へあがる必要はないと決心していたので、返事もしたくなかった。 「ええ、どこへ行くの?」その声は一段と優しくなっていた。 「……」 「黙って行くなら、あたいも行く」と、異様な顫《ふる》えさえ帯びて来た。 「来たッて仕ようがない、さ」と、止むを得ずこれに応じて、うそは云いたくなかったが、「原稿料を取りに行くのだから、ね」  こう云って包みをかッ浚《さら》うようにしてこれをかかえるが早いか、立ち上ってはしご段の下り口まで行った。 「ちょッと待って」と、お鳥は息をはずませて起きあがって来て、義雄の袖を握った。そしてそッと段の下の方をのぞいて見てから、もとの窓ぎわの方へ義雄を無言でぐんぐん引ッ張って行き、窪んで青みがかった眼で、じッと力強く命令するように渠の顔を見詰め、かの女は先ずその白い幅ッたい顔をのぼせさせていた。      十三 「向うの愛情が熱して来ただけに、却《かえ》って始末に終《お》え難《にく》いのだ」と、義雄はその日加集の宿にかけ込んで、お鳥のことを訴えるように語った。そしてかの女と手を切る為めの奔走をして貰うように頼んだ。——質物は金が出来次第出してやること、病気は直るまで改めて治療させてやること、この二ヵ条を条件として。  加集は喜んで引き受けた。そして直ぐお鳥のところへ出かけた。もう、くッ付くなり、何となりしろと、義雄は心を落ち着けて、渠《かれ》の留守二階で、渠の自炊兼用の机に向い原稿の続きを書いていた。  すると渠はまもなく帰って来た。手には馬肉の新聞紙包を持っていたが、 「えれいおこりようだで、なア」と云いながら、その包みを投げ出し、また背広のポケットから正宗の二瓶を出して、義雄のそばにあぐらをかいた。 「また馬肉かい?」 「うん——うまいじゃないか?」  義雄は去年痲病《りんびよう》で苦しんだ頃、この肉が薬になると聴いて頻《しき》りに喰ったことがある。そして加集は能《よ》くそのお相伴《しょうばん》をしたのであった。 「おこってるッて?」 「丸ッ切り、あいつア気違いじゃ、なア」 「おこったッて、仕かたがないじゃアないか?」 「おれに、お前のようなものは仲へ立って貰わん云やがったぜ」 「じゃア、どうすると云うのだ?」 「直接に話を付ける云うた——おれのうちに隠れてるに違いない云うて、こわい顔でにらみ腐った」 「ここを知る筈アなかろう——?」 「無論だ——自分で自分のからだをひッかいたり、君の雑誌を引裂いたり、あのざまを君に見せたかったよ」 「うッちゃって置く、さ」 「帰りに下の婆アさんにそう云うたら、あいつも失敬なやッちゃ、丁度いいからおれに貰ってやれと、さ」笑いながら、「馬鹿にしやがる!」 「……」義雄はちょッと加集の顔色を見たら、何だか得意そうであった。「どうともさせて置くがいい、さ、——おれだッて、もう、二度と再び喉をだしちゃアいられないから、ね」 「今度こそ、見つかったら、ひどい目に会うぞ」 「ふ、ふん」と、義雄も心配そうに笑った。 「然《しか》しやって来る気づかいは無いし、なア」と、加集は立ちあがりながら、「まア、一杯やろうか——久し振りだ」  この時、がらりと下の格子戸が明いて、女の声がした。義雄は身の毛がよだった。  加集は抜き足して行って、下り口から下をのぞいていたが、 「なんじゃい」と、棄てぜりふで云って、にこにこ戻って来て、「広告摺《ず》りを取りに来たんじゃ——美人やで」  義雄はちッぽけな一私人の印刷屋の二階にいるのに気が附いて、ふと窓の外に目を送り、屋根から通りへ傾いている大きな横看板の裏を見た。そしてこんな家の主人を相手に何か共同の発展をしようとしている友人の、大して望みありそうでもない努力を戒《いまし》める気になった。 「晩飯にゃア早過ぎるが」と云いながらも、二人は自分等で拵《こしら》えた食事を始めようとしている時、加集への訪問客があった。 「鶴田君じゃで」と、加集は肩をすくめて義雄を見た。そして低い声で、「あの金が出来たんなら、うまいが、なア」  飛び下りるようにして迎えに行き、加集はこの鶴田と云う築地橋そばの人をも仲間に加えた。 「お約束の金は」と、鶴田はちょッと義雄に改まって云った、「いよいよ近々戻って来ますから」 「そうすれば、僕も」と、義雄の心では、その嬉しさよりも、寧ろお鳥の追跡を避けることが出来るのを、この場合、一番の幸いだとして、「出発が直ぐにも出来るのです」  食事が終ってから、三人は玉突に出かけた。そしてその夜は、義雄は加集と共に加集の二階へ帰って来て、二人で一組の蒲団を引ッ張り合って眠った。  翌朝義雄が目を覚ました時、もう、加集は昨夜断っていた通り、外出していなかった。そして下の時計が十時を打つのを数えたが、自分は起きる気にならなかった——若し人間が人間を忘れ、自分が自分をどうでもいいとならば、家が人のであろうが、仕事が自分に迫っていようが、このまま斯うして、自分が寝飽きるか、人が追ッ払うかするまで、ぐッすり寝つづけていたいものだと。  渠は仰向けにからだを延ばして見た時、これまであくせくと考えたり、働いたりして来たことの結果をすべて吐き出すようなあくびを一つした。そして自分が持って来た書物を座蒲団で巻いた枕の方へ無意味に両眼を流れ出で、両方のもみあげのあたりに伝う、生ぬるい涙じるを手の平で押しぬぐった。  また、うとうとして見たが、直ぐまた目が覚めた。下の印刷屋の格子戸が度々明いたり、締ったりする忙しさは、自分のあたまで通って来た之までの忙しさと同じようだと思った時、今度格子戸を明けるものが若《も》しお鳥であったらどうだ? うかうかしていて、なまなか柔術知りの女に寝込みでも襲われたら?  兎《と》に角《かく》、渠は思い切ってはね起きた。そうして下で顔を洗ってから、近所の牛乳屋へ新聞を読みに行った。樺太《カラフト》のカラの字だけにでも注意を集めるようになっている渠は、或新聞に、あちらの鑵詰《かんづめ》製造の景気が今年はよかりそうだと書いてあったのを見ては、微笑しないではいられなかったが、誰もかれもと小資本の製造所が出来て、その競争の結果、原料なる蟹《かに》の値段があがるばかりだとあったのには、少からず心配の念をいだいた。もう五月の半ばを過ぎたのだ。これから大切な六月一杯にかけて、早く効果を挙げさせなければ——  午後の五時頃まで待っていると、 「暑い、なア」と云って、加集は帰って来た。「二千五百円の宅地をあの○○に」と、国から出た先輩の名を挙げ、「買わせようとしてるけれど、なかなか買わんて——ついでに、またあいつのところへ寄って来たが、なア、いなかったで。おれのうちを探してるのじゃ、なア、いなかったで。おれのうちを探してるのじゃ、なア。ゆうべもおそくまで留守にして、帰って来ると、直ぐ君のヴァイオリンも三味線も皆たたき毀《こわ》したそうじゃ」 「いッそのこと、あいつのからだもたたき毀れたら、肩抜けがすらア、ね」  「きつう、おこってるんじゃで——おッそろしいぞ、あいつのことだから——鼻にえらい皺を寄せて、きのうも殺す云うてたから、なア」  この時、下の格子戸が明いたようであったが、「加集さんはおりますか」と、静かに気取った声がしたのは、確かにお鳥だ。 「とうとう来やアがった」と、義雄は低語したが、その調子が引き締まっているのを身ずからもおぼえた。それから少しのぼせたように調子がぐらついて、「どうして分ったろう?」 「加集さん。お客さんですよ」と、下のかみさんがうわ付いた声をかけた。 「へ——さア」と立ちあがったが、義雄の方をふり返り、「不思議じゃが、——君は、まア早く帰れよ」  義雄も急いで、机の原稿とそばの書物とをまとめて、風呂敷に包んでいる時、お鳥は加集のあとからあがって来た。  とッつきの三畳の間から、おもての六畳へ這入ったところに突ッ立ち、悲しみを忍ぶような、そして又憤《いきどお》りを堪え切れないような顔をして、かの女は義雄を睨み下ろした。 「どうして、また、分かったのだ?」義雄は頬のぴくぴくし出した顔にわざと笑いを湛《たた》えさせて下から見あげた。畳の縦の長さほどは距離があったが、若し飛びかかってでも来たらと云う用意に、右の方を立て膝にしていた。 「畜生!」かの女は斯う一言して、全身の力を籠めたようにからだを振った。 「そう、さ——お前も畜生なら、おれも畜生、さ、然し、ね」と、向うを荒立たせないつもりで言葉を優しくして、「おれの方はよく分った条件を加集君まで持ち出してあるのだぞ!」 「あんな者の云うことなど聴かん!」 「ふ、ふん」と、加集はかの女の正面に当るところにあぐらの片膝を抱いて、にやりにやり笑っていた。 「逃げないでも、直接に話をきめる!」 「こんな場合に、お前とおれとでかたを付けるなんて、出来るものか?——兎に角、おれは加集君にまかせてあるから、ね」ちょッと加集を見て立ちあがりながら、「僕は失敬するよ」 「では、おれがあとでよく云うから心配するな」 「逃げないでもええ! 云うことがある!」まだ睨みつづけていて、かの女の息は迫っていた。 「おれは、もう、二度とお前の命令じみたことは受けないよ」こう云って、次の間へ行こうとした時、かの女は忍び切れなくなって、両手を固めて飛びかかって来た。 「何をする!」義雄は本包みをかかえない右の方の手でかの女の左の手くびを握りとめた。見れば、方式通り、母指を中にして他の指でそれを固めているが、こんな用意をしたにも似合わず、少しも力が這入っていなかったので、「まだおれに手頼《たよ》る気でいる、な」と感じた。そして強くふり放せば倒れそうなのを加減して、形ばかり勢いよくふり放した時、自分の手と女の手とが逆《ぎゃく》につるりとすべり合ったので、その肌のすべッこさが惜《おし》めた。  が、時の勢いがあと戻りをさせなかった。全く未練の無いような強さを見せて、障子を締め切り、ずんずん下へ下りた。  自分の締めた障子が明くのを恐れたが、そんなけはいは無かった。  ※[#「孚」の「子」を「木」、読みは「うね」、p155-上段4行目]女町《うねめちょう》と木挽町《こびきちょう》四丁目と相対している通りで、ここの印刷屋の横町を抜けると、直ぐ木挽橋へ出られた。義雄は通りの方を帰って行くのを、二階から加集に見られるのもあんまり体裁のいいものではないと思って、直ぐこの横町の細い溝板を渡って、三十間堀のふちへ出た。  あとからお鳥が追ッかけて来はしないかと云う恐れにばかり追われて、おずおずと急いで橋の袂《たもと》までは来たが、いよいよこれを渡ろうとする時になって、どうしても足が進まなかった。追ッかけて来るものが無いだけ、寂しいような気がして、二足三足戻っても見た。が、思い切ってまた一二歩帰り路の方へ進んで、ぴたりと立ちどまった。この時は、もう、加集に対する嫉妬の念が胸一杯に充ち満ちて、あたまがぼうとまでしていた。 「若しや、きょう、あいつが立ち寄った時、お鳥にこと更らに自分の住所を知らせて置いて、直ぐあとからやって来いと云って置いたのではなかろうか?」堪らないほどもやもやして来た胸を押さえて、渠は跡もどりをした。  印刷屋の格子をあけて締めた時には、自分の女房を寝取られてる現場を見た心持ちも斯《こ》うだろうと思える程、義男のあたまに血がのぼっていたのをおぼえた。  印刷機械の一部や印刷紙などを積み重ねてある間《あいだ》のはしご段を、ずかずかとあがって行って三畳と六畳との間の障子をすッと明けた。注意したつもりのが、あまり勢いよく明いて、柱にぴたりとあたった。 「どうした」と、加集も多少びッくりして眉根をあげたのが、左右に引ッ張れて、ゆるい八の字に見えた。が、先刻《さつき》と同じところに、同じような坐り方をしていた。  お鳥は、然し、横になって、加集が車に乗る時に使う膝かけをその上にかけていた。 「焼けになって、慎しみを失ったのか」と云ってやりたかった。「いや、おれと別れたら、直ぐ困ることは知れ切ってるから、加集の意を迎えるつもりだろう」と思った。  こうなれば、もう、嫉妬よりも侮蔑の気が勝って来て、義雄は多少心を落ち付けた。 「なアに、ね」と坐り込み、「矢張り、僕が直接に、おだやかに、云って聴かせた方がいいと考え直したから——」 「もう、云うて入《い》らん」と、お鳥の上の膝かけが動いた。 「お鳥さんも大分わかったようだから、今少し気を落ち付けさせる為め、——少し——休むように僕は云うたんじゃ——僕も君の友人だから、君の為めになるように計るによって、なア、心配するな」 「じゃア、矢張り君に頼んで置くとしよう」と云って、また立ちあがった。もう、渠はどちらにも未練らしく言葉はつづけたくなかった。  そこを出で、再び溝板の横町を通り抜け、木挽橋を渡り、竹川町で品川行きの電車に乗った。多少すッとして軽い気持ちになった時、さッきから左の腕にかかえている書物の重さをおぼえた。 「どこへ行って仕事をするつもりだ?」こう云って、自問自答をして見たが、どうしても自分の我善坊の家へ帰る気にはなれなかった。  宇田川町で電車を下り、御成門の方へ一直線に急ぎ、またの電車線を横切って、自分がきのうまで陣取っていたところに行って見た。が、そこへもあがる気がしないので、格子を這入《はい》ったところの畳に腰かけて、それと無くお鳥の昨夜来の様子を聴いた。  婆ァさんが迷惑がった顔つきをして、昨夜のあり様を——加集にも同じ調子で語ったと思われるように——語り、 「ゆうべ初めて分ったのですが、ね、あんなおそろしい方は、もう、真ッ平です、わ——焼けになっていつこの家へ火付けをされないものでも無いのですから、ねえ——わたしも夜おそくまでたッた独《ひと》りでいるものですもの、いざと云う場合にゃア、女一人でどうすることも出来ません、わ、ね」 「まさか、そんなことも——」 「いいえ、あなた、どうして——清水さんもまだあなたに未練があるようですが、あなたもまだ思い切れないでしょう?」 「僕は、もう、大丈夫ですよ」 「尤もそれが奥さんの為めです、わ、ね——清水さんのような方は、あなたもさんざんもて遊《あす》んだのでしょう、あの加集さんにくッ付けておやんなさいよ、大した代物《しろもの》でもないじゃアありませんか、ね?」 「どうとも勝手にさせますとも!」  間代は既に今月払ってあるので、それ以後自分の責任は無いからと云って、義雄が立ちかけると、婆アさんは思い出したように、ゆうべ、我善坊の千代子がやって来て、相変わらずやきやき云いながら、弟が病気で入院したと云う樺太からの電報を見せたことを告げた。  それでも渠はこの坂を向うへ越える気になれないで、再び御成門の方へ引ッ返した。 「自分の家が無くなったのだ! そして例の金が揃わないじゃア、弟の生命《いのち》もどうなることか分からない!」  こう心に叫んで、久しく行き絶えていた浜町の怪しい家へこの夜を明しに行くと決心した。そこで小仕事に短い原稿を書いて、本夜の費用にすればいいからと。      十四  翌朝、独りになってからまた一寝入りしたが、起きて近所の銭湯に行って帰って見ると、ゆうべから頼んで置いた使いが帰っていて、或雑誌社からの稿料が来ていた。費用を払って、なお大分に残りがあった。  電車に乗る前に、朝昼兼帯のちょッとした食事を済ませ、竹川町で下車して加集のところへ行って見ると、渠《かれ》は外出していなかった。  また電車に乗って三田の薩摩《さつま》ッ原《ぱら》で下りた。渠は、鑵詰製造に必要なので釜を拵えさせたところを思い出したからである。  あの時、鋳釜《いがま》なら、値段も安くて、どこにでもあった。然《しか》し時によると熱湯の勢いで破裂することがあると云うので、鉄をうち鍛《きた》えさせることにした。  大人の手でも殆ど二かかえもあろうと云う円みの、その高さは脊延びをして中をのぞくほどの釜であった。その鉄蓋《てつぶた》は密閉して熱湯の圧力をしッかり押さえるだけの強さがあり、釜の横へ出して、また、その圧力測量機がついていた。  いよいよ出来あがったと云うので、湯の代りに水を一杯に満たせ、強力なポンプを以ってその上にまた水を送ると、圧力測量機の針がくるくるとまわった。その機械の根を締めて、また一段の力を与えると、今度は釜と蓋との密閉部から、水が多くの細い線となって吹き出し、あたりにいる人々の顔となく、胴となく、裾《すそ》となく、ちょッとの間にずぶ濡れにしてしまった。あまり広くもないおもて庭を逃げまどった人々でも、こちらでポンプの手をゆるめた後までも飛《と》ばッ尻《ちり》を喰っていた。  沸騰点以上なお四五十度の熱と同様の圧力をかけたのであったが、これではまだいけないと云うことになり、密閉部の工合をもっと緻密《ちみつ》に直させた。  そんな釜を厚い鉄板から鍛えあげさせたのである。それを、自分の身が形作られて行くような気で、鉄工所へ見に行くのを義雄は毎日の楽しみにしていた。  とんかち! とんかち! とんかち! そして赤くなった鉄が段々に延びて行く。そして又延びて行くと同時に、半円形になって行く。  これを見て、初めて、渠は実際にどんな形の物であるかを想像し得たが、二つの半円形の厚板がまだ全円に合わされないうちのこと、自分はお鳥の二階へ帰って、昼間の工場であまりに目を見疲れさせた為に早寝をしたことがある。そして自分が熱鉄の板輪《いたわ》に囲まれて、ぐんぐんと締め上げられた苦しみの夢を見た。  とんかち! とんかち! とんかち! と云う音が遠く聴える気がして毎朝目をさまし、食事が済むと直ぐまた出かけた。  やがて両半円は会合した。そしてその会合部は、上から下まで、多くの大きな鋲《びょう》を以って固められた。そして又その鋲の個所々々も、一たび熱せられて、打たれて、そして鍛えられて、釜の本体と一緒になってしまった。  それに底が出来た。また、蓋が出来た。そして渠はアミーバがその母体を離れたようにとんかちの音に別れた。  が、その音は今や自分の中にも微《かす》かに響いていた。  とんかち! とんかち! とんかち! 鉄工所の門前に近づくほど、足の歩みが急がれて、その音が段々と明らかになった。  門が見えると、渠は飛び込んだ。すると、同じような釜が一つ出来あがっていた。 「そりゃどこ行きか、ね?」 「これですか」と、知り合いの職工が答えた、「これは蟹の方じゃアごわせん——どこか東京近在の註文です」 「何に使うのだろう、ね?」 「さア——旦那も、どうです、今一つ発展しちゃア」 「うまく行きゃア、ね」と、義雄は微笑した。あちらがうまく行けば、この秋から朝鮮へ行って、すっぽんの鑵詰をやる計画と研究とも出来ていた。  そこを出てから、また行く先に迷った。  愛宕町《あたごちょう》の大野を思い出したが、あの有楽座以来何だか興がさめていて、行く気にならなかった。  で、佐久間町の弁護士なる友人を久し振りで尋ね、玉突やら晩餐やらを一緒にしてから、再び加集のところへ行って見た。が、午前からあの女と一緒に出た切りまだ帰宅しないと云う下のおかみさんの話なので、じゃア、ゆうべはとまったのかと聴くと、そうだと答えた。  いなければ待っていようともしていたのだが、果して案のじょうなるこの事実が分ったので待つのも馬鹿馬鹿しくなった。  時計を出して見ると、もう十時に近かった。これからは、もう、ゆうべのところへ行くより仕方が無かった。  その翌朝、また水天宮前から電車に乗り、竹川町で下りて、性懲《しょうこ》りもなくまた行って見ると幸いに加集はいたが、義雄を見て不安そうな顔つきをした。義雄はわざとお鳥のことは聴かずに、直《す》ぐ金の話をした。 「どうだい、鶴田君は至急運ばせて呉れないか、ねえ?」 「そう迫《せ》いても仕ようがありゃへん——外へ融通してあるのが、今月末に返る云うてるのやさかい、なア」 「じゃア、そッちで少し都合が悪いから、今一ヵ月待って呉れいとでも云って来られりゃア鶴田君もそれッ切りだろう——?」 「そんなことは無い筈じゃ——それよりゃ、君の方が九月一杯に返せんと、僕までが面目ないで」 「おれの方は大丈夫だよ——然し大丈夫と云やア」と義雄は少しどぎまぎするのをそう見せないようにして、「あいつを物にしたのかい?」こう云って、この点を突きとめさえすればもうお鳥との手切れ条件の一つなる治療条件は御免を被《こうむ》ろうと云う下心があった。 「そんなことがあるもんか」と、軽く反《そ》らせようとした加集の顔には、どこかぼんやりしたような、とぼけたところが見えたと、義雄には思われた。義雄がわざとらしくにやにやしているのに対抗したように、「そないに疑うなら、今度転宿させるところへ行《い》て見よか?」 「行こうとも!」 「では、早う行かんとかち合うで——きょうの午後二時頃に移って行く筈じゃ」 「どこだい?」 「八丁堀の電車通りの裏手じゃ」 「さア、行こう」と、義雄は立ちあがった。「おれも二度とは直接に会いたくないから、ねえ」 「会うてたまるもんかい、僕の君に対する奔走が無駄になってしまうじゃないか?」  治療代はこッちで出し、本人はそっちで占領する——そんな都合のいい計算は人間その物の十露盤《そろばん》上には無いぞ、と義雄は云ってやりたかった。  加集が道々話したに依ると、お鳥が渠の居どころを知ったのは渠が義雄に紹介した或書生のハガキが残っていたからであって、かの女はその書生を尋ねて、加集のところを知ったのだ。  二人は桜橋で電車を下り、堀に添って東へ入り、右に曲った通りへ来た。  一間ほどの窓格子の真ン中に、一尺四方ばかりの額ぶちがかかっていて、その中に桃太郎や天狗《てんぐ》やあかんべい[#「あかんべい」に傍点]などの絵が書いてあって、そのまた右に「百面相」と云う横長の看板が出たところがあった。その格子に「明間《あきま》あり」の紙札が張ってあったのを加集はいきなり破り取った。そして義雄を返り見て、低い声で、「ここじゃ——失敬な奴じゃないか、まだ札をはがしとりゃへんのや、手附け金を取ってる癖に!」 「……」義雄は黙ってちょッと苦笑いしたが、その金だッて、こちらがお鳥に自分等二人の日常費として来月十五日までの分を渡してある、その中から出したにきまってると思った。  この百面相の窓格子のはずれと、どこかの倉との間に、一間四方あまりの空地があった。そこにけち臭い氷屋の屋台店が張ってあった。そのよし簀《ず》のかげに這入《はい》り、 「今日《こんち》は」と、加集は声をかけた。そして窓の奥から婆アさんが一人、横の濡れ縁のところへ出て来たのに向って、「まだ来ませんか?」 「ええ、まだ——」 「もう、おッつけ来るでしょう——君、この二階だよ」と、屋台店の奥を高くゆび指した。  下は物置になっているが、雨ざらしの大工はしごを登って見ると、六畳敷の座敷があった。壁や天井裏はすべて新聞紙を張りまわしてあり、大きな大黒を書いた去年の柱ごよみと、石版|摺《ず》りの美人絵とが壁に向い合っている。通りに向った方は、家に付いてあがり口を取ったあとが一杯に窓で、そのそとに二三の盆栽を並べた台が、日よけの為めに掛け垂らしたよし簀から透いて見える。  その簀の一端をあげて、義雄はそとへ出もしなさそうなつばをしようとしたら、その下に氷店のあんこが伏せてあるガラス蓋が目にとまった。で、渠は顔を引ッ込めて、奥の片隅の高い小窓のそとは何であろうかと思ってのぞいて見ると、隣りの押し迫った屋根の上であった。 「わざわざひどい所を探したものだ、ねえ」 「でも、安いよって、なア——いくらだと思う?」 「いくらだッて、もう、おりゃア——」  そこへ二十四五の小奇麗なかみさんが茶を持ってあがって来た。 「御主人はいますか」と、加集はかの女に声をかけた。 「きょうは、○○の宮さんのとこへ招待されまして、つい、先刻《せんこく》出ましたが——」 「百面相ッて」と、義雄はまだ何のことか分らなかったので、「どんなことをするのです?」 「おかしい芸人で」と、かの女は愛想笑いをしながら、「ほんの、道楽が高じてこんな商売をすることになったのだそうです」 「きのう、本人が」と、加集は得意そうな顔つきで、「どこかよんでくれる宴会でもあったら、世話して呉れと云うてた」 「そりゃア何だか面白そうな仕事でしょう、ね」と、義雄は笑いながら。 「いえ、ほんの、道楽で——」 「芸が面白いよりゃ」と、加集が受けて、「本人が面白そうな人間じゃて」 「そうだろう、ね——そして氷の方もあなたのうちで——?」 「へい——」 「おい、一つやろか?」 「さア——」と、義雄は応じかねた。喉が渇《かわ》いていて、こんな応対をしているのさえ舌がくッ付き気味であったのだが、第一に何だかきたならしいような気がした。第二に、また、ここにぐずぐずしていられなかった。「来ないうちに出ようじゃアないか?」 「では、おかみさん」加集も立ちあがって、「来たら、よろしゅう頼んます」  それから電車通りへ出て、二人は氷を飲んで別れた。      十五  義雄はかかえている長篇評論の結末を書かなければ、自分自身のその日、その日をささえる金にさえ困るにきまってるのだが、落ち付いて書く場所がなかった。  この原稿を依頼した社へでも遊びに行って見ようかと考えたが、まだ書きあげないものを持って遊びに行ったとて、無責任としか見られないのにきまっていた。  渠《かれ》はふと大野を訪《おとの》うて見たくなった。そしてその細君とも話をして、いよいよ清水と手を切ったことを報告したくなった。  で、愛宕の塔下へ訪ねて行ったが、生憎《あいにく》、大野は留守であった。細君はいるとのことだったが、子供がぎゃアぎゃア云っているのが聴こえたので、——子供と云うものはその声だけでも聴くさえ義雄にはいやなので——あがる気にはなれなかった。  転じて四谷へ行き、或婦人の独身者を訪問した。この婦人は渠を冷かし半分で、 「なぜあたしを口説《くど》いて見なかったの」と云ったことがある。 「どうせ口説いたッて、物になろうとは思えない人だから、ね」と、渠は真面目《まじめ》に答えた。そして今日まで二人の交際は少しの気まずさも無く続いて来た。渠には今更の如く、こう云う交際が却《かえ》って無事で而《しか》も懐かしみもあるものであったことが分って来た。  かの女が某華族の夫人と共に催した或慈善音楽会に於いて、渠は一場の演説をしたこともあった。かの女の家でかの女と婦人論を争って、その母親に喧嘩しているのではないかと思わせたこともある。かの女の紹介で、何物であるかまだかの女にも分らない或美人——実際の美人であった——を訪ねて行って、その生活の様子を探って見たこともある。かの女が玉突屋兼業のレストランをやって見ようと云う出来心を起した時、無駄であったが、いろんな助力を与えたこともある。  そんな関係で、渠が清水鳥と云う女に熱心になっていたことも、かの女は渠から聴いてよく知っていた。が、渠がいよいよ樺太へ出発する折りは、そのお鳥を預かって呉れないかと頼んで見た時、これは三ヵ月ほど前のことだが、 「そんなきたならしい病気の人なんて、あたしいやです、わ」と、かの女は半ば怒って、はね付けた。それでも渠はこの婦人には当り前の返事だと思って、悪い気はしなかった。 「もう、この婦人しか無い、今の自分の心持ちを持って行きどころは——その、いつもの忠告通り、女と手を切ったことをうち明け、叱られて、笑われて、半ば同情の言葉を得て、二三時間だけでも、自分の落ち付きどころを借りて見よう」と、玄関の格子戸を明けたのであったが、母親なる人が出て来て、ここも亦《また》あての人の留守であるのを報じた。そしてこの老母が先ず旅の話を持ち出して、 「いつ、あなたはお立ちになりますか、ね?」 「もう、四五日中だと思います」と、義雄はわけもないように答えた。  人や自転車の行きかう間をよけながら、渠は全く途方に暮れた。  あまり好きでも無い酒を呼ぶ為めに、肉屋やバーに這入る気もなかった。 「今一度お鳥の新居へ行って見よう!」こう云うむほん気が確かに渠の心を占領したのは、渠が四谷見付けを這入り、※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p164-上段3]町八丁目近くまで歩いた頃であった。  渠はまた八丁堀へ行った時は、もうお鳥は例の六畳敷をかたづけて、角火鉢にかけたゆき平《ひら》[#「ゆ」に*]の下を吹いていた。  渠は、先刻《さっき》の若いかみさんが氷をかいているのにちょッと挨拶して、はしごをあがって行き、半ばそのからだを現わした時、自分はこわい顔をしている筈であったが、つい、笑みを漏らした。  かの女も亦こちらを返り見て、にッこりとした。そして常にでさえ珍らしかったほどの優しみと嬉しみとを籠めた目付きで、こちらを見つづけた。 「このざまはどうだ!」こう、平生《へいぜい》と違わない態度で云って、渠はかの女の大きな廂髪《ひさしがみ》の上にたかった灰を指のさきで軽く払ってやった。それからそのそばにあぐらをかいて、「どうだ御機嫌は?」 「知らん!」こう云って、かの女は渠のからだを両手で突き飛ばした。片手を後ろに突いた渠が、何とも云えなくなって、真面目な顔であぐらに直ったのを、かの女は前とは丸で違った顔でにらみ付けて、 「衣物を買うて呉れたおもたら、手切れの為めやなんて、加集に云うて——死んでお呉れ、あたいも死ぬさかい!」 「うん」と、横へ向いてはずしながら、「死ぬのは、いつでも死ねるよ。おれなどア、どうして生きて行くかが真底《しんそこ》からの問題だ」 「お前だけ生きたら、ええのだろ——あたいをどうするつもりや?」 「棄てる神があれば、ね」と渠は今度はかの女を冷やかに見て、「また拾う神もあり、さ」 「神などありゃアせん」と、かの女は目で渠を遠ざかるような色を見せた。 「じゃア、加集をどうしたんだ、あの晩にとまって、——また、その次のゆうべもだろう?」 「そんなことはない!」熱心にこちらを睨んで、訴えるように、「ゆうべうちで寝よとしたら、あの婆々アがあがって来て早く立ちのいて呉れ云うた位じゃないか? どうせ出るにきまっていたさかい、そう云うてやったら——変な顔をしたけれど——人を棄てたり、人に恥をかかせたりして!」情なさそうにべそをかいた。 「そりゃア、お前が分らないから、さ」 「そッちが分らないのじゃ——誰れが、いつまでも、めかけなどになっているもんか?」 「そうして、何かい、加集の足かけなどになったのか?」 「そんなことは無い!」かの女は怒ったように膝に力を入れて畳にぶつけ、顔を皺くちゃにして見せた。 「その顔が、お前の見え透いたうその手だよ——もう、ちゃんと、おれにゃア分ってるのだから、ね」 「……」かの女は真顔になって目を少し落して、義雄の強みを蔵する視線を避けたが、また見あげてあまえるように、「そんなら、何で来た? 帰って貰う!」 「ふん——こんな詰らない部屋でも、ね、もう、前金を払ったに相違ない以上はおれが借り主だろうぜ」 「では」と、かの女は尋常な顔になって、「人を棄てたりせんでもええじゃないか?」 「然《しか》し、ね」と義雄はわざと落ち付き払って、巻煙草を袂から出しながら、「お前とおれとは、もう、もとの通りにゃア行かないよ」 「どうして、さ?」かの女は、不思議そうに。 「二人の間には、第一、出歯庖丁が這入った」 「……」 「それから、加集が這入った」 「そんなことは無い」と、また顔をしかめた。  ゆき平《ひら》がぷうぷう吹いていたので、かの女はその蓋を取った。飯が煮えたのだ。 「誰れの為めに焚けたのだか、ね——おさしつかえは御座いますまいか?」 「丁度ええとこじゃさかい」と、かの女は渠の冷やかしに頓着せず、ゆき平をおろして、「何か買うて来《こ》か?」 「そうだ、ねえ——」と、義雄は手を懐ろに入れかけた。 「お金はこッちにもある——きょうも、あんまり癪にさわったさかい、あの婆々アから間代の五日分だけ取り返して来てやった」こう云って、かの女は喜んでいた。  かの女は正宗一本とかれいを一尾と買って来て、膳ごしらえが出来た頃、加集が案内もせずあがって来た。 「来てるのか、君」と渠は間の悪いような顔をして立った。 「ああ」義雄は、食膳代用の机に向ったまま、悪びれずに返事をした。「おれにゃア、行くところも、いるところも無いのだ。——まア、一緒に一杯やろう——坐り給え」 「僕も一本あるぞ」と苦笑しながら、ポケットから取り出したのをしおに、義雄と相対して腰をおろした。そしてからだを横にして、瓶を女の方につき出し、「お鳥さん、これもついでにつけてお呉れ」 「……」かの女はちょッとふり返ったが、取り合わなかった。 「あれから、なア、また○○の」と、先輩の名を挙げて、「とこへ行《い》て来たんじゃ——銀行家なんて、なかなかけちんぼで、なア」 「二千五百円の宅地とかでかい——まア、つごう」と、義雄は加集と自分との猪口《ちょく》に出来た酒を注いだ。  渠はお鳥に命じて、加集の持って来た正宗をも燗《かん》しろと云ったが、かの女はそれに手をつけようともしなかった。 「まア、そう嫌わんで」と、加集はかの女のつんとそッぽうを向いている横顔を見た。渠の目には、これまでに見せたこともない剣《けん》があったと、義雄は読んだ。 「じゃア、おれが燗をしてやる、さ」義雄はこう語って、火鉢へ行った。  渠は半ば加集に後ろを向けていたが、加集がじろじろとお鳥を見て、かの女の顔色を読もうとしている様子が、自分の近眼鏡の裏に写った。  その夜、加集もいろんな世間話をして、いつまでたっても帰ろうとはしなかった。  義雄はまた、このいきさつがどうなることだと、心を据えて、半ば傍観気を起していた。  お鳥だけはじれじれしていて、加集に帰れと云う素振りをばかり見せた。 「もう締めますが——」下からかみさんの声がかかった。 「じゃア、締めてもよう御座います」と、義雄は答えた。  お鳥はこらえ切れなくなった見え、 「帰って呉れ」と、加集につけつけ云った。 「帰るなら、帰るように話をつけて行く」こう、加集は強いことを云い出したが、その割りに声が顫えていた。見ると、渠の顔は、義雄には、如何にも恨みある悲しみを表しているようであった。 「こッちの範囲内に立ち入らせたのが悪かったのだ」と、義雄は私《ひそ》かに、多少、同情の念が起った。 「まア、一緒に寝よう、さ——僕も酔ってるから、ね」  お鳥は物も云わないで、自分だけの褥《とこ》を敷いていた。  義雄は下の濡れ縁をあがって、奥の便所へ行って、またはしごを登って来た時、立ちあがっている加集がこれも立っているお鳥に突きのけられて、壁の大黒ごよみにぶつかったところであった。 「喧嘩なんかするな! 僕がこの場にいる以上は、ね」こう云って、義雄は、一方に片よせて敷いた褥の上から、上の蒲団一枚を剥いで、加集に与え、「仕ようがない——君はこれにくるまって、寝て貰おう」 「かしわ餅かい?」加集は愛想らしく笑った。 「そう、さ、ね——それでも女は女だ」と、義雄は自分の寝まきに着かえながら、 「ヴァイオリンなどはぶち毀しても、衣物はこんな下らないのでも、何かの足しになると思って持って来ていらア」 「それも」と、お鳥はもう這入ってる褥の中から、「焼いたろかおもたんじゃ」 「あの婆アさんが」と、加集も少しゆったりした声になって、「火事でも出されるのを心配してたのは尤《もっと》もじゃ、なア」 「ほんとに、そう、さ、ね——然しここは、また」と、義雄は今見て来た締りを思い出して、「どうしたのだろう、ね、下の庭に戸締りも何もしてないぜ。ただよし簀《ず》を立て拡げて、細い横木で押さえてあるだけだ」此時はもう女と並んでいた。 「そりゃ僕も知らなんだ、なア」加集は心配そうに蒲団から顔を出して、「用心が悪いやないか?」 「悪くッたッて仕方が無い、さ、——君が、わざわざこんなところを見付けてやったのだから」 「そんなことまで僕も気が付きゃせん、さ」 「然し、万事よく釣り合ってらア、ね」義雄のこの言葉を聴いて、お鳥は無言でだが怒って渠の横腹をきつく突いた。  義雄も黙ってしまったが、こッそりかの女の手を引き寄せ、 「どッちが好きだ」と、指さきで書くと、 「おまえ」と、かの女は書き返した。  翌日、遅くあさ飯を一緒に喰ってしまった頃、加集は言葉を置き置き、こう云い出した—— 「僕は——これから——時間があって——出るが、なア——一体、この話は——どうなるんや?」 「どうなるッて」と、義雄もむッとして、「もう、済んだような物、さ」 「まだ済みゃせんじゃないか?」加集は眉根を引ッ釣らせて、「君は僕に依頼して、僕は君とあの女との手を切る奔走をしたんや」 「そりゃア、そうだがね、今となっちゃア、もう、取り消されたのだ。僕自身でこれと僕との間は、切れるなり、またくッ付くなりする、さ」 「でも、まだ君は取り消してない」 「じゃア、今僕が取り消すが、君の二三日来の奔走は実にありがたかった」こう云って、一つあたまを無器用に下げた。 「如何に友人間でも、君はおれを馬鹿にしてるよ——僕だッて、一日をほかのことで奔走すりゃ、それだけ金になるからだを、君の為めだおもて、この二三日棒に振ってるやないか?」 「然し君はその報酬は得ていると思うが、どうだ?」 「そう云われると、なお——」加集は言葉を中止して、お鳥が二人を少し離れて後ろ向きになっているのを横目に見た。 「あれは、たとい」と、義雄はかの女を見ずに、「何も分からない無智同様の田舎者としたところが、兎に角まだ娼婦や何かでは無い。それを——」 「そう云われると、僕も——然し君の為めに手を切らせる一つの手段としては!」 「いいや、そんなことは、今更ら意味もない申しわけだ。僕は、だから、何も君のこの二三日のことを責めるのじゃアない!」 「然し——」 「それとも、友人間のことを金にする気かい?」 「……」加集は暫《しばら》く黙っていたが、決心の色を見せて、「どうせ、君がそんな不都合をするなら、金にしたる!」 「よし」と、義雄も坐り直して、「いくらの口銭を出せばいいのだ? その代り、またあの女にも要求があるだろうから、ね」 「……」 「僕は予《あらかじ》め云って置くが、あの女もまたこれまで通りにするか、それとも矢ッ張り手を切るか、それは君にもあの女にも受け合われないのだ。が、あいつの処分はどッちとも僕自身がすることにきめたのだ」 「そう云われると、——僕も——実に——心——苦しい」加集はその背を壁にもたせて、女と義雄とをどッちにも横目で見るようにして、「実は、もう——僕のうちへもとまったし、大森の砂風呂へも一緒に行《い》たし、——」  義雄はこれを聴いて、かッとのぼせた。想像と推断とでは、既に分っていることだが、本人の口からこう当てつけられて云われると、あたまにのぼせて、からだがひイやりしてしまった。そして今までのがん張り方が馬鹿々々しくなると同時に、この女をわれからかばうのが女にも笑いの種になってはすまいかと思われた。ゆうべのありさまだッて、自分がただいい気になっていたに過ぎないのかも知れず、女が加集にむごく当ったのも却って反対の意味があって加集が馬鹿の為めにこれを理解し得なかったのだとも取れ出した。 「おい、ちょッとこッちを向け!」こう、義雄はお鳥に叫んだ。が、かの女は向きも返事もしなかった。「おれが若しお前を処分するとしても、今加集が云った事を土台にすれば、おれの方はずッと責任が軽くなるのだ——返事をしろ、お前の口からも事実だと!」 「……」かの女は矢張り無言で、少し仰向き加減にそッぽうを見ているらしく、然しからだは全体に顫えているのが見えた。  義雄はこれを見て、あの烏山でかの女が縊死《いし》しかけた時のありさまを思い合わせ、如何に憎い女でも、再びあんな真似はさせたくなかった。  渠はどう自分の身を処していいか、ちょッと度を失った時、加集は勝ち味な声で、 「兎も角、僕が一時あの女を預かるのが順当じゃ!」 「預かれるなら、預かって見ろ!」まだ実際の好意があるのをかの女にも分らせる為めに、「君が預かるのは、どうせおもちゃにする為めだろう——?」 「うんにゃ——」加集は義雄のこわい目を避けて、かの女の方に向き、「僕だって、男じゃ——君ぐらいの世話はする!」 「これまでの僕ほどでは、もう、いかないよ——今のさし迫った問題は、あの女を生かすか殺すかの問題だ。君が本気で独《ひと》り者だから、少なくとも、一生愛してやるか、僕が本気な同情でかたをつけてやるか? 如何《いか》に馬鹿だッて、あいつも、もう、そこまで突き詰めている様子だから、ね」 「そんなことを君に受け合う必要はない!」 「君は途中から逃げようと云うのだろう——?」 「……」加集はただじッと、半ば横目で、義雄を見つめていた。 「さア、もう僕はどッちでもいい!」義雄は決心した様子で他の両人を見まわして、「僕はこの場合慾情は抜きだから、あの女の意向一つにまかせるが——その前に、一つ、僕がしッかりと事実の念を押して置く必要がある。——おい」と、またお鳥を呼び、「加集との関係を白状しろ!」 「……」 「返事しろ!」 「……」 「どうしてもしないと云うのなら、今一つ聴くが、ね、お前は一時おれに来るつもりか、または加集に行く気か、どッちだ?」 「……」 「顫えているのは、自分のしたことを後悔しているのかい? それとも、おれを恐ろしいのかい?」 「……」 「うそを云ってたから、返事が出来ないのだろう——面倒だから、今一度だけ聴くが、ね、これで永久にお前と会わないことになるかも知れないのだぞ!」こう云って、義雄は言葉を切り、お鳥の前をわざと荒々しく通って、原稿の包みを手に取りあげ、もとの座に来て立ったまま、「返事が出来ないなら、返事をしない方で聴くが、ね——加集がおれに代って、お前をおもちゃにしようとするのだが、その方がよければ返事をしないがいい!」  返事が無いので、義雄は、自分のかの女に対するこれまでの待遇に対して、かの女からゆうべとけさとに全くしッぺい返しを喰らわせられたものと見た。そしてまた一段とかッとなった。 「加集! じゃア、君にまかせた」と云った声さえ、耳からでも出たようになって、一度期に忿懣《ふんまん》の情が顔に燃えあがった。  渠がからだの中心を失いかけたほどそそくさと下り口まで行った時、 「まア、待って」と云う声がして、自分の袂が引ッ張られたが、今や加集に語った言葉に免じても女々《めめ》しく再び坐りも出来ない気がして、 「放せ、もう、これッ切りだい!」握られた袂をふり払った。そうして女が足もとにばッたり倒れた音を耳にとどめて、はしごをそと向きに急ぎ下り、下駄を引ッかけるが早いか、屋台の後ろからかみさんが驚きの目を見張っているのにちょッと間《ま》の悪い挨拶をして外に飛び出した。      十六 「まア、待って」が気になってはいたが、待ってやって、拝み倒されてもそれまでのことだ。 「お前」の代りに、「あなたには」などと初めて改まった言葉を使って、これまで一層世話にはなったが、今となっては、加集にも義理がある——ぶつなり、蹴るなりして、思う十分に意趣は晴らして貰う代り、あの条件通りを行って呉れい! こんな工合に向うが出まいものでもなかったろう——結局、馬鹿を見るところであった。 「幸いにも、きょうと云うきょうこそ、下らない責任をのがれたのだ——この結果は早く誰れかに発表しなければ」と云うような気がしながら、義雄はふらふらと我善坊の家に帰った。  生垣《いけがき》の間から隣りの寺の緋鯉の池が見える室に入り、ズックの旅行|革鞄《かばん》を出して、その中へまだ手のあッたか味が残ってる原稿や書物を初め、その他に、今の原稿が終れば、直《す》ぐ何かあとを書く為めの参考書をあれやこれやとえらび入れていた。 「あなた、どこをぶらついてたのです、ねえ」千代子の無作法な歩みの足音も聴えて来て、「あッちから電報が来たことは聴いたでしょう!」 「聴いたから、あせってるのだ!」渠《かれ》はかの女を睨むようにしてちらと見たが、かの女は敷居のそとに立って、おずおずと相変らずの気違いづらをしていた。渠は私《ひそ》かに、「こいつに気違い責めにせられ、あいつには刃物責めにせられ、もとはと云えば、たといおれの仕出《しで》かしたことにしろ、たまるものかい」と考えた。 「それならいいでしょうが、——あなたは旅行なさるんですか、また自慢そうにあんな女を連れて——!」 「清水とは、ね」と、義雄は飽《あ》くまで念を押してやるつもりで、あごを堅く突き出してわざとらしくあげ下げして、「とッくに手を切ったのだ!」  こう云った時、渠はふと自分自身を返り見ると、この千代子にかぶれて、自分までが気違いじみた空気を呼吸していた。  ここにだッて、渠は一刻もとどまる気は出なかった。 「それは初めから当り前のことでさア、ね——喧嘩か何かしたのでしょう! 若しあなたの弟があッちで病死でもして御覧なさいな、あの人をあなたがあの女のために殺したも同然ですよ! あなたが、ね——あなたがですよ!」 「うるさい! 死ぬやつア、どうしたッて死ぬんだ!」渠はこう叫んで、「若《も》しやあのお鳥も——」と云うような疑惧《ぎく》の念が浮かんだ。  渠の精神はからだ中に顫えあがった。そして八丁堀の堀端を帰る時気になったかの女の最後の一言が、今やまた耳の記憶から繰り返されて、あわれッぽく渠の胸に伝わった。 「気味がよかった」と、私《ひそ》かに渠は自分を弁護し、かの「不如帰《ほととぎす》[#「ほ」に*]」劇で泣かせられるもの等のと同様な安ッぽいあわれみの心などは踏みにじってしまえと決心して、書物を七八冊ねじ込んだ革鞄を提げて立ちあがった。 「車を呼べ、車を!」 「車なんか来ませんよ!」 「なんだと!」 「あなたはちっとも御存じないのですが、ね、呼びに行ッたッて、向うが、お前さんのとこは信用が出来ないからッて、ね——」 「……」義雄はじろりとかの女を見詰めて、言葉が出なかった。 「それほどまでにあなたのうちが困っているのに」と、かの女は半ば哀訴の口調になって、「あなたはちッともふり向きもしない気ですか?」 「無論、さ!」力の抜けた声だが、渠はなお反抗せずにいられなかった、「おれにゃア妻もない! 家もない! あの事業が失敗すりゃア、おれ自身も無いか知れないのだ!」 「そんな無謀なことを云いなすったッて」などと云いながら、かの女はあとを廊下のはずれまで追って来たが、渠は自分で荷物をひッ提げて出た。  我善坊を下って西の久保の通りに出で、やッと辻ぐるまを見付けて、渠は手に提げた革鞄を車の蹴込みへ投げ込んだ。  顔や脇の下の汗を拭き拭き、かッかと照る太陽の下を走らせると、すッと軽くなった自分の世界は却って自分の世界でないように思えた。日は輝いていても、この数ヵ月来、滅多に心の晴天を仰いだこともなかった渠には、あんまり明るい光の中を半ば自分が失われて、取りとめも付かない。  先ず心から落ち付けようと、自分のからだの住いを車上で正して見た。すると目の前を横切った一人の男の子が自分の総領息子の年輩であった。 「かいるが鳴くから、かアいる」と云いながら、ゆう方よく外から帰って来たものだが、或時自分の今乗ってるような車に敷かれて、手と足とを怪我した。若しあの時|頸《くび》か胸かをでもやられたのであったら——渠は自分の身になって、ぞッとして目をつぶった。  すると、その子等の母がわさわさと落ち付きもなく、しゃりこうべにまで痩せこけて、子供を叱ったり、暮しのことを心配したりするあり様が見えて来た。あの婆々アじみて——こんなことは、もう、考えたくもないので、目を明けた。  若い婦人がからだの曲線を衣物のいい着こなしに表わして、顔を蝙蝠傘《こうもりがさ》で隠して行く。すると、お鳥はあれからどうしたろう——自分は、もう、全く傍観的にだが、今一度行って見てやろうか知らんと考えられた。  これに、また、「まア、待って」がからみ付いて来て、かの女の死んだざまが見たくなった。若し死んででもいて呉れりゃア、自分も自分の関係を憚《はばか》らず天下にさらけ出し、かの女のどうせ死ぬべきものであったこと、並に自分がどの点まで責めを負うべきかを公表して、あとは誰れにでも勝手な判断をさせてやる! 「然《しか》し、死ぬなんて——まさか——」あの加集さえあの場にいなかったら、かの女も手を拡げてもッと芝居をしただろう。自分も亦《また》もッとかの女の心をえぐれただろう。  若い女を飽くまで試みるのも面白かっただろうにと云う気になると、あの時滔々《とうとう》としゃべったことが前後の取りとめさえ無かったことを思えて来た。 「二十歳をたッた二つばかり越えたに過ぎない女の為めに、——おれもどうかしていたのだ! やり直しだぞ、お鳥! 待っていろ」と、力を入れて心に叫んだ。「お鳥——お鳥! お鳥、お鳥、お鳥!」 「そう足を踏みしめては困ります」と、車夫は走りながら後ろをふり返った。まだあの女に迷っているのかと云われたほど、義雄は顔を赤くして澄まし込んだ。  新橋停車場前の或休憩所に車を降り、荷物をそこに預けて置いて、電車に乗った。  気が引けながらも、加集がいたらいよいよ一喧嘩をする覚悟で行って見ると、下の主人公が今お鳥の室から出て、はしごを下りるところであった。 「こいつ、また、おれの遺利《いり》を奪う気ででも——」義雄はむかッとした時、 「おう、旦那」と、主人は嬉しそうに下り立って、「今あなたのお宅へお使いを出しましたのですが、な——どうも、本人の云うことがはッきり分りませんので——」 「どうかしましたか?」義雄はうッて変って自分の世界が開けたので肩身が広くなった気がしたと、同時に、「やッ付けた、な」と合点して、俄かに胸さわぎがし出したのである。 「まア、どうぞこちらへ——只今、やッとお休みになれましたから」  こう云って主人が導くままに、義雄は百面相の客間へ通った。 「アヒサンをやったのじゃアありませんか?」 「えッ、そんな毒薬を!」主人はびッくりした声を挙げると同時に、胸を反《そ》らせて左の手を軽く後ろの畳へ突き、そッちへ引ッ張れたように眼と口とを傾けた。そして下くちびるを少し受け口にして見せたが、直ぐもとの顔に直って、「わたしは、また、御酒をめしあがり過ぎたのかと思いましたが——」 「まだ医者に見せませんか?」義雄は気が気で無かった。 「いや」と、主人は渠の様子を見て、わざとらしい落ち付きを見せて、「御心配にゃア及びません——もう、一時間も前に来ましたから。然し、そばに一升徳利が出ていたので——」 「ありゃア、醤油入れでした」 「それに、大層吐きましたから、な——多分、酒を飲み過ぎたのだろうッて、医者は下剤をかけて帰りました」 「そりゃア、丁度いい思い付きでしたろう」義雄はこう云って、この、想像には描いていたが、いよいよ事実と聴いては一たび突然に驚かれた事実を、まだ物足りないような気がした。  これまでにも、かの女の留守、留守に、度々かの女の荷物を探して見た。一つは、他の男からの手紙でも来ていはしないかと思ってだが、次ぎに、それよりも重大な理由は、国を出る時用意していると云うこの毒薬の有無であった。どうしても見付からないので、うそを云ってるのだとも思った。また知り合いの医者などに、それと無く、これを飲むとどんなきき目があるか、どんな結果を呈するか、など云うことを聴いていたのだ。 「分量が多過ぎて、却《かえ》って吐いてしまったから、助かったのでしょう。あの薬は死ぬにも度合いがあって、多いと吐きますから——また少しずつなら、健康剤になって外国婦人などにはこれをわざわざ、使用するものがあって、たとえば、宴会とか舞踏会とかへ行きます、ね、少しずつやっていると、そのききめがいつか現われて、ぼうッとその顔がほんのり桜色になるそうです」 「道理で」と、主人は、はたと膝を打ち、「真ッ赤にのぼせていました。酒の酔いだと思い違えたのも、無理はないでしょう。妻《さい》が氷をかいていましたら、どんと倒れたような音がして、二階でうんうんうめく声がしたと御ろうじろ。わたしがあがって見ると、それでしょう——うちのものまでが皆七※[#「巓」から「山」をとったもの、読みは「てん」、p176-上段8]八倒《しちてんばつとう》でしたぜ」 「そりゃア」と、義雄は微笑にまぎらせて、「おさわがせしました、ね」 「全体、あの方はどうした人です」と、主人に尋ねられ、 「実は」これこれと、義雄はそこの老母も出て来た前でありの儘をぶちまけ、「こうなっちゃア、僕が少くともそれが直るまでは、看《み》てやらなけりゃアなりますまいよ」 「人助けでさア、ね」主人はまた胸を反らすようにした。「加集さんには御名刺は戴きましたが、何だかちゃらッぽこばかり云って——あんな人は」と、鼻をつまむ真似をして顔をしかめた。 「いや、そうまで薄情でも無いでしょうが、ね」 「それが、あなた」と、うち消すように首を一つ和《やわ》らかにまわして、襟を抜け衣紋《えもん》[#「抜」に*]にして、「御失敗のもとじゃありませんか?」  その様子も声も、丸で、女がお客にあまえているようだ。 「なアに、失敗と云うわけでもないのでしょう、ね、ただ僕がまだあの子に愛情が残っていて思い切れなかったのが悪いのでした」 「それもそうでしょうが、な、女なんかいくらもありまさア——わたしのうちのでも、抛《ほう》り出しさえすりゃア、直ぐあとが二人も三人も待ってまさア」 「これは悪くもない家柄ですが、ねえ」と、老母がそばから、 「道楽の為めに、好きでこんな商売をしていますんで——」 「百面相ッて、どう云うことをするのです?」 「なアに、わけアないもんですが、な」こう云って、主人は次ぎの間から古《ふる》行李《ごうり》を引きずって来て、その中からいろんな面やら道具やらを見せ、何でも手早く早変りして、一人でいろんな人物になって見せるのが芸だなどと説明する間にも、素顔にちょッと物を当てると、ひょッとこ[#「ひょッとこ」に傍点]になったり、おかめ[#「おかめ」に傍点]になったりした。 「ただの鼠じゃアあるめい」と、いつの間にか男之助[#「男」に*]になったかと思うと、面をちょッと裏返して、仁木弾正[#「仁」に*]になり、巻き物を喰わえ、「ふ、ふ、ふ、ふ」と笑った。そして、「これが○○の宮さん、○○○の宮さんのお気に入りだから、ありがてい——どうか、あなたも御|吹聴《ふいちょう》を願います」  馬鹿にされたような気をして、その室を出て、義雄は二階へ行くと、お鳥はあたまだけ、枕の上に、こちらに向けて、気だるそうに、 「来たの」と云った。 「とうとうやッつけた、ね!」 「……」かの女は顔をそむけた。涙声で「どうせ生きていられへん!」 「おれに棄てられてか?」渠は冷然とそのそばに坐った。 「……」向う向きにただ頷《うなず》いた。 「そして又加集に棄てられてだろう——?」 「……」何の返事もなかった。が、やがて独り言のように、「死にさえすりゃええのじゃ!」 「そうだ、死にさえすりゃア、おれが加集をも呼び付けて、墓地の奔走をさせ、おれも尋常に見送ってやったのだが、ね、死にそくなっちゃアまた問題が起るぞ」 「起るも起らんも無い——あいつは、あたいが、わざと、世話が出けるか云うて念を押してやったら、返事が出けなかったさかい、追い返してやった」 「それ見ろ——誰れにだッて見限られらア、ね」渠はかの女の精神が、もう、大丈夫正気になっていることを認めた、で、語法を一歩進めて、「おれだッて、もう友人の手を付けたものを二度とは、可愛がれないよ——たとい、お前の決心は精神に於いてお前を潔《きよ》めたものと許してやっても、ね」 「可愛がってなど貰わんでもええ!」 「うん、そう諦めていさえすりゃア、おれはまた一肌抜いで、お前の処分を付けてやってから出発するよ」  かの女は向うを向きッ切りであった。なんにも喰べたくないと云う上に、からだの自由が利かなかった。  渠はかの女の便器を求めに行ったり、自分の食物を用意したりして、ゆう方になった頃、加集がのッそりやって来た。 「また君ア来てるか?」ぶりりとして立っている。 「君こそ来るに及ばないんだろう!」義雄は、火鉢にかけた物の下をあおぎながら、横ざまにねめ付けた。 「君も男子だろう——あれだけはッきりと僕に委託して置いて!」 「そりゃアおれから云うことだぞ——どうして君アおれのその委託を正直に実行しない? この本人の様子を見ろ!」義雄は顎でお鳥の方を示して、「毒をあおいで死にそくなってるじゃアないか?」 「……」加集もかの女の寝姿を見やって、ぎッくりと来たようであったが、見る見る悪人のような相を顔に描いて、立ってるからだを固めた。 「貴さまアこれッ切りおれをあの女に近よせないつもりだ、な?」 「そうだ——君自身がその権利を、けさ、※[「抛」の「九」を「尤」の右上の点をとったものに替えて、読みは「ほう」、p178-上段20]棄したのだ!」 「おれだッて、若しやとおもてやって来たのじゃ、人情は持ってらア——この二三日、大事な時間を棒にふらせやがって!」 「口銭が欲しけりゃア金でやる——友人呼ばわりするな!」 「畜生!」こう叫んで、加集は義雄の横ッ腹を蹴った。 「なに、くそ!」義雄は立ちあがって、加集を力一杯に壁の美人へ突き飛ばした。みしりと云って、張り子板の音がしたので渠は下の人々に気がねする気になり、——また横たわっている女の為めをも思った。  で、勢いを盛り返して来た加集の為めに、義雄は組み敷かれて、また二三度方々を蹴られたが、こちらの手出しはさし控えた。 「壮士を二三人つれて来て、おれは貴さまとあの女とにあやまらせてやるぞ! 待ってやがれ!」  加集はこちらを尻目にかけて、はしごを下り始めた時、義雄は言葉で追ッかけた—— 「貴さまのような奴が、ね、自分の色女をおしまいにゃア売り飛ばすのだぞ!」 「売り飛ばされるような女じゃ!」 「弱虫!」こう云って、お鳥は加集が行ってしまってから、顔だけをこちらに向けた、「あたいが起きてたら、あいつを締めあげてやるのに!」 「……」お前の為めを思って負けていたのだとは、心で云ったが、義雄には正直に発言出来なかった。      十七  心配しているほどでもなく、加集は押し寄せても来なかった。然《しか》し義雄は下の家族にも注意を与えて再び渠《かれ》が来ても、あがらせるなと命じた。  室の入口なる半間のひらき戸へ、うち側から輪かぎがかかるようにして、義雄は毎日、毎夜かの女の看護をした。そしてその傍《かたわ》らで書きかけの原稿を書き終ったし、また或新聞社へ行って、樺太からあちらの通信をすることを引き受ける相談をも整えた。  二三日のうちに、お鳥のからだも段々自由が利くようになって、これまでとは打って変り、義雄に対する情が忠実でこまやかになった。そして、質物を出す話を渠がし出した時、 「あんな物はいつでもええ」と云った。  義雄はまたかの女に対して、まだ望みありそうにそッとして置いたかの女優志願は、その実駄目であったのだからとうち明け、かの女が近頃になって写真屋になりたいと云い出した志望を容れ、その方の学校へ入れてやる手続きなどをした。 「これで、兎《と》に角《かく》、お前との最初の約束は実行出来る、ね」 「学校がきまっても、金がつづかにゃ駄目じゃ——」かの女は下のかみさんを思い出したかして、「下のはな、色女であったのが、かみさんを追い出して這入《はい》ったんやそうや」 「お前も、どこかそんないい口を見付けろよ」 「あたい、そんなことせんでもええ!」 「独《ひと》りで立って行けるかい?」 「その学校さえ卒業すりゃ——」 「あやしいもの、さ、ね」  その月の末日になって、加集がまたやって来たが、今度は、いよいよ鶴田から借りる金が出来たと云う報告をしに来たのであった。  義雄と鶴田とは、後者の家で、加集の立ち会いで、貸借の手続きを完了し、その帰りに、義雄は立会人に正式以上の口銭をやって 「以降清水のいるところへ往ってはならないぞ」と、命じた。 「君のいつか云うた通り、あいつは夜になると美人に見えるが、なア——僕だッて、あんな臭い女はいやじゃ」と、加集は答えた。  このたッた一つの返事が、義雄のまだのぼせていた心とからだとに、ずッぷりと冷水をあびせかけた。 「アスタツマテ」と云う電報を、入院中だと云う弟をもはげますつもりで、樺太へ打ったのは、六月の一日であった。そしてお鳥へは渠の帰京まで予定三ヵ月の維持費を渡した。  二日の正午頃、お鳥だけが義雄を上野へ見送りに来た。かの女は、手切れの用意とはその時夢にも知らず買って貰ったかのセルの衣物に、竹に雁を書いた羽二重の夏帯を締めていた。考え込んでばかりいて、口数を利かなかった。  いよいよ乗り込むとなって、停車場のプラトフォムを人通りのちょッと絶えたところへ来た時、かの女は低い声でとぎれとぎれに、 「あたい、もう、あんたばかりおもてます依って、な、早う帰って来てよ」 「ああ——」と返事はしたが、義雄の心には、音信不通になるなら、これが一番いい時機だと云う考えが往来していた。そしてその方がかの女将来の一転化にも為めになろう、と。  然し窓のうちそとで向い合ってから、渠は右の手をかの女にさし延ばした、かの女は自分の左の方にいる人々の様子をじろりと見てから、目を下に向けて、そッと自分も右の手を出した。「三ヵ月|素直《すなお》に待っていられる女だろうか知らん」と疑いながら、渠は握った手を一つ振ってから、それを放した。そして、「あの八丁堀の家は、おれの云った通り、きッとよすだろう、ね、加集に知れないように」と、念を押した。 「そんな心配は入《い》らん!」  この優しいような、また強いような反抗の言葉が、この二十二の女の誠意に出たのか、それともこちらをいつも通り頼りない所帯持ちあつかいにした意なのか、——孰《いず》れとも義雄の胸で取れたり、うち消されたりしている間に、汽車出発の汽笛が鳴った。                    (大正三年) 底本  日本文学全集2 (株)新潮社     発行年月日 1967年9月15日 入力者 ケロケロ