「おい、あの婆アさんが霊感を得て来たようだぜ」
「れいかん[#「れいかん」に傍点]ッて——?」
「云って見りゃア、まア、神さまのお告げを感づく力、さ」
「そんな
「けれど、ね、そうでも云わなけりゃア、お前達のような者にゃア分らない。——どうせ、神なんて、
「そんなものがあるものか?」
「ないとも限らない——じゃア、ね、お前は原田の家族にでもここにいることをしゃべったのか?」
「あたい、しゃべりゃせん——云うてもえいおもたけれど、自分のうちへ知れたら困るとおもって」
「でも、あいつは、もう、知ってるぞ、森のある近所と云うだけのことは」
「森なら、どこにでもある」
「そうだ、ねえ」と受けて、義雄はそれ以上の心配はお鳥に語らなかった。無論、千代子が或形式を
が、お鳥も段々薄気味が悪くなったと見え、日の
かの女は気が気でなくなったと見え、独りでもがいて、義雄にも
「何て因果な身になったんだろう」と三畳の部屋で寝込みながら、忍び泣きに泣いた。おもての方の広い、然し向こう側の森から投げる蔭をかぶった室——六畳——には、憲兵[#「憲」に*]が三人で自炊する様になっていた。
義雄は同じ家にいる憲兵等に物も云いかわさなかったが、毎日、昼間からお鳥の看護に努めた。同時に、自分もひどい
重吉からの返事は来ず、東京に残っている重吉の女房に問い合わせると、北海道の方をまわっていると云うのであった。義雄はまだ
丁度、その時、
竜土会と云うのは、おもに自然主義派[#「自」に*]と云われる文学者連を中心としての会合で、大抵毎月一回晩餐の例会を開くことになっている。幹事は二名ずつのまわり持ちで、この月には田島秋夢[#「田」に*]と
義雄はこの会の最も忠実な常連の一人でもあるし、友人どもの顔も
義雄はそこに一番近いので、午後六時にはかッきり行った。が、まだ誰れも来ていない。
ボーイを相手に玉を突いているうちに、人がぽつりぽつり集って来た。そのうちの一人が玉場へ飛び込んで来て、
「どうだ、久し振りで負かそうか?」こう云って直ぐキュウ[#「キ」に*]を取った。例の
「また電球をぶち
「あれはどこの玉屋へ行ってもおお評判ですぜ」と、そばにいたそこの主人が少しおお
「もう、大丈夫だよ」まじめ腐って答えながら、義雄も台に向ったが、いろんなことが気にかかって、もろく勝負に負けた。
「よせよせ」と呼びに来たものもあって、義雄も二階にあがった。
「君の著書をありがとう」と挨拶するものもある。
「あんな短い紹介だが、取り
「耽溺[#「耽」に
「君の女はどうした」と、ぶしつけに聴くものもある。
「顔の色が悪いが、過ぎるのだろう」と
「また痔が悪くッて、ね、閉口しているのだ」
「じゃア、酒はやれまい」と、慰め顔に質問するものもある。が、渠はかた一方の耳がまだよくないので、左の方から云われた言葉を度
やがて
秋夢は幹事だから末席にいる。渠は鋭い皮肉な短篇小説で名を出した人だが、
こう云う人々の中にあって、いつも
眉山の自殺してから間もなく、
「無論、田村の狂死、さ」と、毒舌家の病人は笑って、「あいつが生きているうちに、おれは死にたくない」
そう言われるほど、義雄も随分毒舌の方であるし、それをあとで聴いた渠は
花村は「鳥の腹[#「鳥」に*]」と云うのを文芸|
藤庵は、或新聞記者に向って、
西は内山や中里と共に頻りにイブセン[#「イ」に*]やメタリンク[#「メ」に*]やストリンドベルヒ[#「ス」に*]の脚本を批評し合っていた。
こう云う別々な話がいつまでも別々になっていないで、互いに相まじわり、長い食卓のあちらからも、こちらからも、
「田村が乙に澄ましていやアがるので、今夜は少し
「きょうは、何と云われても、しゃべる気になれないのだ」こう云って、義雄は笑ったが、自分のいつも特別に注意を引くからから笑いも、それと好一対になっている※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p79-上段9]町の詩人の
そして、花村の耳も鼻も目も内臓も、どこもかも健全で、
次の忘年会大会の幹事を義雄も引き受けた竜土会の帰りには、おも立った人々よりも一時代あとの若手連が二三名、※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p79-上段20]町の詩人と共に付いて来た、が、中の町の隠れ家は連れ込むことをしたくなかった。と云うのは、自分の痔が果して酒の為めに非常に不気分になった上に、お鳥がうんうん
例のどぶを渡って、戸を開けると、今夜は断ってあったので締りはしてなかったが、酔っているのと早く横になりたいとの為めの荒ぢからで、自分の引き明けた戸はがらりと大きな音を立てた。
「お帰りですか」と、下のかみさんが、
「あ、只今」と答えて、渠は自分で戸締りをしてから、あがり段をあがった。
あたまの上には、無学、無趣味、
上にも下にも、こんな毛だ物同様の野蛮人種が
「
「こんな腐ったからだ! こんな死獣のたいを借りたようなからだ! こんな多くの悪病気の問屋をしているようなからだ! ひょッとすると、耳や鼻や痔は何物かの梅毒から来ていはしないかと疑われるからだ!ええッ! こんなからだはどうにでもなれ」と、義雄は二階へあがってから、自分で自分を投げ出した。
「どうしたの」と、お鳥はその重たそうな首を枕からもたげた。「お酒が悪かったのだろう——だから、あんなに行くなと云うたのに」
渠は黙って返事もしなかったが、ほッこりと迫って来る女のにおいを嗅いだ。渠には、鼻も亦右の方しか役に立っていないのだが、一方で
それでも、なお、千代子の※[#やまいだれに「叟」、読みは「や」、80-下段
お鳥がまた別にかぜの医者を呼んでいるのに、義雄がまた耳に通うほかに他の医院を
「あたいにこんな二重の苦しみをさせるから、その罰で自分もうえした二重の病気になったのだ」
「そりゃア、そうかも知れない——許して呉れ」と云って、義雄はそれをお鳥の気休めに供し、その実、自分が苦しいのにかく女の看護までをしてやらなければならない面倒を少しでも避けるようにした。
「おかアさん! おかアさん!」
義雄はぎょッとしてあたまを持ちあげた。お鳥が死んだ母親を呼んでいるのである。
病人を見ると、あお向いて、目をつぶったまま、久し振りの優しい微笑を浮べている。
その時計のこまかい確かな刻み——それが
ふと、その過ぎ行く快楽の夢を米国の
「あわれ、
の 夜中なり、
炭の 燃えさし 離れ離れ 床に その影 落し
てき。
わが
借らん と せしは
であったところへ、「何を※[#やまいだれに「叟」、読みは「や」、81-下段6]せ
それは失恋と云う物を地上に引き据えて見たのだが、英国の画家詩人ロセチ[#「ロ」に*]の「昇天
「昇天 聖女 の 身を 傾けて
まなこは、 深みて、 一しほ、 海の
平らに 静める それに
その手に 持ちしは、
髪なる きら星
とあるのも、つまり、これは失恋を天上に祭りあげたに過ぎない。
ワルツホイトマン[#「ワ」に*]にも同じ系統の「
空想のでも、天女や恋人なら、まだしも——架空のでも、おお鴉やアラバマ[#「ア」に*]から来たと云う鳥ならまだしも——義雄は身ずから穢多だと思うものを介抱しているのである。
無論、世に神聖な恋愛などはない——あっても、ただの空想で、現在に活動する人間の
穢多の熱病人に、
「死にたくはない——今、一度、この女を完全なからだに返して、その全身の愛を本統に自分に捧げさせて見ないじゃア置かないぞ。それからなら、自分が死んでもいい、また、破れ
こう考えて、渠は片手で自分の痛みの個所を押しこらえながら、熱に疲れてよく眠っているかの女の二つの病気の、直った上の
しんとした、そとには何ものかが
「おかアさん!」と、輪郭のぼやけた一声に、この僅か三ヶ月間に※[#やまいだれに「叟」、読みは「や」、82-下段12]せの見えて来た顔の微笑がまだ浮んでいる。
また、夢を見ているのらしい——この
試みに、そのあッたかい胸から、渠は自分の一方の腕をのせていたのをやわらかに
「あア、ア、ア——」頼りなげに又苦しそうにもがいたあげく、半身をがばりともたげた。が、あたりをじろじろ見渡して、「畜生! 殺すぞ」と云いながら、再び枕に
ひどい熱になやんだあとの疲れで、眠りはまだこの恨みの深い人を※[#「纒」の「黒」を「黑」、読みは「まと」、p83-上段
みじめな人生の裏家住い——こう云うことが義雄のあたまに浮んだ。こちらのいびき
「鳥ちゃん——鳥ちゃん!」
静かに呼んで見たが覚めようともしない。あお向けに吐く白い息と横向きに吐く白い息とが
過ぎ去った快楽は現在の自分を満足させるに足りないのに、矢ッ張り、こんなところにこびり付いているのは、宿無し犬が掃き溜めの汚物に飢えをつなぐと同様、ここに自分の苦痛の必然な
こう思うと、渠には女の方も
自分の恋も純潔でなければ、お鳥のも亦利害を混濁していると見ながら、ランプの光に獣性が目覚めて、二つの肉その物の
このまま死んで、腐って、骨になったら——?そうだ、その時は、
「二つのしゃりこうべ!」恨みもない、執着もない、全く関係のないあかの他人だと渠は考えた——そして、また他人の寝ごとは却ってはッきり聴えるものだと誰れかが云ったことを。
寝ている病人はまたうなされ出したが、今度は何かの
「あア—! あア—ア、ア—」と叫んだ時は、
「何か云うた?」ぼんやりとほほ笑んでる。
「うなされていたよ」
「そう——夢を見て、苦しかった」
「——」義雄はただかの女の顔を冷やかにのぞき込んで、寒い深夜のどこかそとを想像して見た。千代子が神社か大木の陰で
「熱の方は大分えいようになった。
「無理をしても悪いが、なア——おれも
「こんな二人までも苦しい目に会うのはおかしい——あたいの写真が一つ我善坊に置いてあるから、自分の写真と一つにして、あいつがそれを五寸釘でも打ってやせんだろか?」
「まさか、ねえ」と、こちらは何げなく見せて、「よしんば、そんなことをしたところで、お前とあいつとの間に無線電信でもかかっていなけりゃア、通じる筈がない、さ」
「でも、そうして人を呪い殺した奴が田辺に一人あった」
「そりゃア、自分を呪ってると云うことを伝えぎきでもしたから、神経に負けて、われとわが身を殺したの、さ」
「でも、自分はあいつに霊感が出て来たと云うたじゃないか?」
「それはちょッとそう思っただけで——きッとそれだとは思っていない」
「でも、若し感づいて、ここへやって来たらどうする?」
「今まで来なけりゃア、もう、大丈夫分りッこはないの、さ」
こう云う話があった時は、義雄とお鳥とが大工の家を
そこの細君が矢ッ張り女房のある人と一緒になっていると云う事実は、同じような事情にあるお鳥をして少しその神経を休めさせた。
「隣りの人が云うてたが、もとはあのおやじさんの息子の家で下女をしておって、おやじさんの子を
「見ッともないとしても、からだは無病息災だ」
「自分が悪いのじゃないか?」とお鳥はこちらを睨み付けた。
そこのおやじと云うのは、自分の息子が弁護士の若手として羽振りがいいのを自慢した後、義雄と同国だと分った嬉しさに、「わたしも、同じような事情で、息子と同居しておる婆アさんがやかましいのに困っておりますので、あなたのことも
「なアに、あり勝ちのことですから」と、こちらは笑って軽く受けたが、こんな死にぞくないのおやじなんかの同情は少しもありがたくないと思った。
義雄の耳は一向にはかばかしくないのもまどろッこしくて溜らないのだが、
すると、自分の身に※[#「纒」の「黒」を「黑」、読みは「まと」、p85-下段
自分の耳も面倒だ。いとこの重吉が北の方からこちらの電報に対してまだ便りのないのも面倒だ。病人のお鳥も面倒だ。然し最も面倒なのは、夫婦に関する法律の規定と父の
「人を呪えば穴二つだ[#「人」に*]——早くあの千代子がくたばって
竜士会の忘年会が、義雄と長谷天香[#「長」に*]という批評家との幹事で、午後五時から
目は落ち込んで、※[#「夾+頁」、読みは「ほお」、p86-下段1]はずッとこけて、顔全体に血の色とては少しも見えず、五六間を隔てて見たところでは、全く憂いと呪いのおも影であった。
たッた僅かのあいだ見ないうちに、身体までが実際あんなに影の薄い怨霊になってしまったのかと思われた。
羽織りや着物は不断着のままで、こちらには気が付かず、下向き勝ちに歩いて、そのかどをお鳥のいる方へ曲った。
「とうとう嗅ぎ付きゃアがった」と思いながら、直ぐ義雄はインバネス[「イ」に*]の
義雄は千代子を避けたのを誰れにも知られたくなかった。その足で辻ぐるまに乗り、竜士軒の玉突場へ行った。
が、気になって、玉が当たらないので、二階へ移って洋食を二皿ばかりやりながら、
「洋食などいやじゃ」こう云って、お鳥はわざとらしく両手を袖の中へしまっているのを見てこちらは喰い方を知らないのだと推察した。そして、そばに来ていたおかみさんの手前もあることだから、こんな
「まア、いやでも喰べさせてやるぞ」と、向うの皿の肉を自分のナイフで切ってやりながら、「こいつは好き嫌いが多くッて困るんですよ」と云った。
何ぼくどくどしい千代子でも、もう、帰ってしまっただろうと思われる頃、義雄はそこを出て、中の町へ向かった。然しまだ闇に野犬のしッぽを踏みはしないかと云うような気持ちで、おそるおそる
すると、直ぐ下の女が出て来て、鬼の首を取った手がらばなしをでもして聴かせるような待ち受けた様子で、
「今しがた、奥さんが見えましたよ」
「そうですか」と、わざと平気ではしご段をあがろうとした。
「何だか、お子さんがジフテリアで
「えッ!」渠ははしごの第一段にかた足をかけたまま踏みとまった。
下の女は言葉を続けて、
「芝の
「そうですか、ありがとう」と答えて、渠はお鳥の薬臭い寝どこへ行った。
「来たよ」と、かの
「何が?」
「あいつが、さ」
「そうか?」枕もとに坐って、そ知らぬ風はして見たが、心のうちはかき乱されていた。第一、どうしてここを嗅ぎ付けただろう? 霊感などと云っても当てになったものじゃアない。さきに、森のある近所などととぼけたのも、誰れかに聴いて知っていたのかも知れない。或は、また、先月の竜士会の帰りに※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p87-下段15]町の詩人がそばまで来たから、あの男から大体の見当を聴いて来たのだろう。また、あんなに影が薄かったのは病児の看護に疲れたのに相違ない。それにしても、自分自身で出て来たのを見ると、子供はたとい危篤だとしても、こちらが全く可愛がってもいないので、向うも焼けを起して来たのだろう。
こう考えると、千代子の身の周囲を可なり興味づよく※[#「纒」の「黒」を「黑」、読みは「まと」、p88-上段4]い付いていたこちらの不思議な幻影や、可なりおそろしく想像していた呪いの
「また喧嘩したのだろう?」
「喧嘩などしやせん」
「じゃア、あがらなかったのか?」
「そう、さ」
「……」それじゃア、まだしもよかったと、義雄は多少気を落ち付けた。
「でも」と、かの女は言葉を続け、「隣り近所へ
「どんなことを云ったのだ?」
「どんなことッて——」お鳥がふくれッつらをして語ったのに
「どいつも、こいつも仕ようのない女どもだ、なア」
「でも、皆がおかしな人だ、目ばかりきょときょとさせて、聴きたくもないことをわざわざしゃべりに来て、と云うていた」
「お前も行ったのじゃアないか?」
「あたいのはあとのことじゃ——然し」と、お鳥は余ほど譲歩してやると云う態度で、「子供が病気なのは可哀そうだから、行っておやり」
「そりゃア、行くが、ね——」考えて見ると、第一子(女であった)もジフテリヤの苦しみに枕もとの小ランプを
それでも、子が死んだら、またその死骸の処分はしなければならないし、今夜は竜士会もあることだし、お鳥が成るべく早く帰って来て呉れろと頼むにも
「今夜はどうか分からない」と云って、義雄は二階を下りた。そして下でそれとなく聴いて見ると、千代子は大変な権幕で、
「わたしも、そんな病人なんか相手にしても
それに、入院したのは赤ん坊一人と思っていたら、そうでなく生き残ってる四人の子供をたッた一人除いたあとのすべてがその病院の厄介になっているのだと分った。
車を駆けらした時は、もう、四時過ぎで、どこでもあかりをつけていた。
東京病院の受け附けに駆けつけて聴くと、赤ん坊は既に息を引取ったと告げられた。そして、次女の富美子は普通の病室に、三男の
義雄は、弟の
「あなたのおかげで、わたしも児どもの死に目に逢えなかったじゃアありませんか?」
「そりゃア、知れ切ってらア、ね」義雄はかの女に毒々しく見せたほどわる度胸をきめ込み、
「おしゃべりをしないで、どうします? あんな女のことは、
「それもよかろう、さ——また引ッ
「どこへ逃げたッて」と、かの女は児にそのまま蒲団をかけてやりながら、「このわたしの前じゃア隠れおおせませんよ」
「現在、きょう、あの弁当屋から貴さまが出たのをおれは見たのだ。面倒だからはずしてしまったのだ」
「そう——」千代子は意外だと云ったようにぽかんとした。が、負けていないで、また語を
「原田かどこかで云ってもらやア、当のは当り前だ」
「いいえ、そんなことア——あすこへは云ってなかったじゃアありませんか?」
「じゃア、※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p90-下段9]町で聴いたのだろうよ」
「あの方だッて、知りゃアしません」
「貴様が口どめされてるの、さ」
「あんなこと! あなたは余っぽど
「そんなことアどうでもいい」と、義雄は千代子の強情を押し付けたつもりになった。が、今の対応で以って見ると、かの女は中の町であんなおしゃべりをして歩いたように、どこへでもこちらの知り合いでかの女も会ったことがある人のところへは、この狂態を以って
思い出すと、かの「※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p91-上段1]町の詩人が我善坊の家へ遊びに来た時、千代子はこちらのいる前でこちらの不行状を詩人に訴えた。然し、
「そりゃア、然し、男子のことだから」と、こう※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p91-上段4]町が答えたので、
「あなたまでがそんなことを」と叫んで、かの女は詩人をいきなり突き飛ばした。すると、同じように神経質の詩人は非常に気を悪くして帰った。
それを見ても、誰れも千代子をまじめには相手にしまいが、意地悪くでも出て、こんな狂人じみた女のおお
「実に困った女だ——その歩いたあとをお鳥がまた云い消して廻ったのも
「わたしは、どうしても」と、千代子はなおその言葉をさし控えようとはしない。「どうしても、この神さまの力で、あなたの不身持ちが直るまでは、あなたと清水とがどこへまた隠れたッて、その隠れ場所を探し出していないじゃア置きません。あなたがたに隠れおおせる気があるなら、わたしにも探し出す力があります」
「そうなら、そうとして置け——だが、今回も葬式に宗教上の儀式は使わせないぞ」
「そんなことア御勝手におしなさい——また、そう云うだろうと思ってたんですから」
義雄はもと耶蘇教信者であった。そして、その教えを脱する頃になって、千代子の方が信者になった、が、かの女も今では
「死んだものなんか、掃き溜めへほうり投げて置いてもいい位のものだ」
「どうせあなたが死ぬ、死ぬと云ってたから、あの子もその通り死んだのでしょうし、うちには誰れも人情にあつい人がいないのだから——あなたは色おんなのところばかりへ入り浸りになってるし。馨さんは馨さんで、人の頼んだこともして呉れないで、勉強もしずに、どこかほつき歩いてばかりいるし。おッ母さんはおッ母さんで、まだお
こんな
「今に人が来ますから、それまで待って下さい」と、義雄は素直に答えた。が、さッきから病院の人々の死者並びにその家族に冷淡なのを怒っていたところだから、「どうせ伝染病は家へ引き取ることが出来ないのでしょう」と、からかって見た。そして、その看護婦に頼んで、会をやってる湖月へ少し遅くなるからと云う理由の電話をかけて貰った。
「まア、
「血の気のなくなった顔などア、手めえのを見ていりゃア十分だ、——手めえマイナス気ちがいイクオル死だ。子供は目をつぶって、口に締りがなく、土色をして固くなってるだろうが、そんなものも、もう、何度も見飽きてらア」
千代子の妹がきのうまで来ていたが、家の方の世話が忙しいので、代りに専門の看護婦を雇って附き切らせてあると云う富美子の病室へは、義雄は行く必要がないと思った。
富美子のはその祖父の死因と等しく
「もし生の悲痛に堪えるだけの活気がないとすれば、こいつも今のうちに死んだ方がましだのに」と考えながら、義雄は知春の隔離されてるその室で、千代子から死んだおじイさんからして後妻の姉に手を出しかけた程だから、その悪い
やがて義雄の弟がやって来たので、死骸に付き添って桐ヶ谷へ行かせることにし、今夜はそこの火葬場の茶屋へとめて貰い、あすの朝、
「とめて呉れるか知らん」と、馨はいやそうな顔をした。
「おれが前に経験があるから、云うのだ」
「では」と、しぶしぶ承知したので、義雄は渠に火葬の手続き証の出来ていたのなどを渡した。
人夫の代りに呼んだ車夫も来たと云うので、知春の室には看護婦を残し、千代子もしおしおとして、義雄等と共に出て来た。
死人の置き場が別に隔離室の建物のはずれに建っていて、田村の赤ん坊のほかに今一つの棺があった。いずれにも、別々に※[#「臘」の「月」を「虫」、読みは「ろう」、p93-下段9]
二名の看護婦が何か
「
「とうとう死んでしまって」と、千代子は棺を見詰めながら、「あんなに親が骨を折って介抱したのに——憎らしい!」
「そんなことを云ったッて、死人にゃア聴えやアしない」こういったこちらの顔を、二名の看護婦はおそろしそうにふり返って見た。渠自身もまじめになってる自分の顔にはあごひげが三分ばかり延びてるのが自分の手ざわりで分っていた。この数日を
「くるま屋」と、渠は怒鳴り付けるような声で、——「これを乗せるのだ」
「へい」車夫はおずおず棺に手をかけたが、軽いので、
先ず馨が乗り、それから
「何ですか、それは?」
「棺です」と、義雄はきつい、
「ご注意までに申しますが、ね、知れると車は警察でやかましいのです」
「じゃア、これで包んでおやりなさい」と、千代子は自分の巻いていた絹の肩掛けをこちらへ渡した。医員はそれを見て黙って本館の方へ行ってしまった。
一番長く——と云っても、きのうの夕方から——看護した若い婦人が一人、義雄等と共に裏門まで車に附いて来た。
「残念だ、ねえ、もう、これッ切りかと思うと——」
「お気の毒でした、わ、ね」
「桐ヶ谷だよ」義雄が念を押すと、
「へい」と、車は駈け出した。
千代子はすすり泣きをして、袖を目に当てた。こちらも胸が一杯になったが顔を
「そうだ。どうしても、わが国の極北へ行かなければならない——でないと、あいつ、意思が弱いのだ、
千代子の言葉に拠れば、一昨日、重吉も樺太から帰って来て義雄に会いたいと云ってるそうだ。
渠には、いよいよこの自分の事業により、やがて、じぶんの これまでの失敗と不評判とを取り返して自分の同時にまた全人的発展なるところの社会的発展をも実現することが出来ると云う希望が輝いた。
「今晩は帰ってきなさるでしょう、ね」こう千代子が聴いたのを振り向きもせず、渠は自分が幹事の忘年会が湖月で多くの芸者などをまじえて賑やかに飲んでいるありさまを想像しながら、「どうか分らない」と、
渠はそれほど、万事を投げ出してまでも、友人仲間に孤立している自分の意気込みを発表したかったのである。
よそおってまで見せるいつものむッつりとは少し違った気分で、義雄は自分の物だが、最も好まない家へ出かけて行った。
千代子も立ちどまって、
「珍らしくにこにこしてらッしゃいますが、何か面白いことでもありますか、ね?」
「……」これで、もう、
「へい——」かの
「何!こないだ渡したのが、もう、無くなったわけはない!」
「あれは」と、また向き合って、「うちの暮しに入ります——お客さんが立て換えて呉れいと云っても困る。じゃアありませんか?」
「下宿人に金を立て換えるときまってやアしない!」
「あなたは御自分のうちの商売を御存じないのですよ」
「商売はお前が勝手にしているのだ、おれは別におれの仕事がある!」
「じゃア、あんな目かけなどに夢中にならないで、せッせとその仕事をすればいいでしょう——下宿屋は、ね、亡くなられたお
「だから、勝手にするがいい、さ。おれは
「ふン」と、かの女は鼻で受けて、横を向き、「きのうの新聞に在った音楽倶楽部でしょう——ありません!」
「よし!」こう云って、渠は鳥うち帽をかぶった
「あなたは」と、かの女はついて来て、「泥棒して行く気です、ね。じゃア、お待ちなさい、わたしが出しますから」
「おれのうちの物を」と、つッ立って勢いを見せ、「おれが出すのに、何が泥棒だ?」
「だッて」と、一生懸命な口答えをするように口をとんがらかして、「※[#「かけかんむり」に「單」、読みは「たん」、p96-下段4]
「知れたことだ、今度の樺太の事業の為めにゃア、家どころか、家族やおれ自身をも犠牲にするかも知れないんだ」
「あの女におだてられてでしょう——」
「手めえにおれの心が分るものか?」
「分ってますとも!」
「ぐずぐず云わないで、出せ!」
「樺太の事業だって、成功するか、しないか、分るものじゃアない——きのうだッて、二百円よこせの電報が来たのを届けたのに、どうするんだろう?」
「どうするも、こうするも、おれの考えだ」
「あなたはおれおれとお云いなさいますが、ね、
「出せ」と、引ッたくって、「うちなんざアどうでもいいんだ!」
「そんなにあの女が——」
「いつも云う通り、ね」と、あごを突き出して、「おれは女の為に狂ってるんじゃアない!」
「狂ってるじゃアありませんか? ちッともうちにいつかないで——」
「おりゃア手前をいやなんだ!」
「いやでもなんでも、
「だから、早く自決しろと云うんだ!」
三人の子供はおずおずしながら、一緒に室をのぞいているので、女房のくどくど云うのを相手にしないで、義雄は飛び出すように家を出てしまった。
その頃、義雄は、芝公園に接する或
一度も二度も居場所を隠して歩いたが、魔のさすように発見せられるので、とうとう大胆になってしまった。樺太から事業上の電報などがいつやって来るかも知れず、また、新聞雑誌の寄稿依頼者があった場合——これが本来の職業であるから——いどころが分らないのも困ると思って、自分に家に近いここにきめたのである。
お鳥は最初これを非常に反対した。
「また、やって来て人に恥じをかかすのじゃ」
「もう、決しておどり込まないと誓わせあるのだから」
「分るもんか、あの気違いが!」
「来たら、蹴倒すだけのこと、さ」
時々、皿におかずやら、一人前のおはちに五もく飯やらを、子供が好意らしく届けて来ることもあるが、お鳥は口に入れたことがない。
「毒が這入ってるかも知れへん」
「まさか——」
「まさかと云うたッて」と、かの女は口びるを左右に引き張り、歯の間に少しつばをおどらせ、「それだけまだ向うを信じてるんじゃ」
「信じるも、信じないもないじゃアないか」と、微笑しながら、「死ねばもろともだア」
「あたい、まだ」と、
「おれも死にたかアない」こう、からかい半分にあしらいながら、義雄は、家から届けて来たものがあると、いつもみんな
かの女は一日物を云わないことがある。義雄はまたそれをいいしおにして、急ぎの原稿を書きつづけた。
障子をあけると、向うは、もう、公園の一部で、烏が沢山集まるので、烏山と名の付いた森が見える。この森と家の建ってる側との間の道幅は広いが、少し傾斜があって、上では直角に曲って、水道溜め場のある方に導く。その角を曲って来る人の姿が見えると、「旦那さまや奥さまや、お助けでございます」をやり出す
「また云うてる」と云って、お鳥はよく障子のあわいからのぞいた。親子はいかにも哀れみを乞うような様子で、往来の男女を拝んでいるが、人通りがちょッとでも絶えると、子は、
「何かたべたい、なア」と云って、足を投げ出し、横になって天をながめたりする。
「それ、それ」と親に注意されると、急に拝みの卑劣な姿勢に返って、向うから見え出したものを見ない振りで見ながら、再び物乞いの声を張りあげる。
「あの子面白い子だ——あたいも何かたべたい、なア」
「じゃア、またあすこのあんころかい?」
こう云われてかの女が機嫌を直すこともあった。義雄はそれにお付き合いしながらも、執筆を絶ったことはない。その乞食親子とこの書斎代用の二階とを舞台にして、自分の事ではないが、自分が先駆者の一人であったと思う詩界に於いて、落伍者となった架空の一詩人を点出し、その無自覚な努力をしているところを以って、或る方面に対する
「お助けでございます」が始まると、お鳥はきッと障子のそばへ行った。そして
「
「東京にゃア、人は多くいるから、ね」
「でも、きのう、あの
「お前あいつを好きだ、ね——?」
「誰がそんなこと云うた!」かの女は足ぶみして怒った。机に向かってる男を見おろして、「あんな軽薄な奴、あたい嫌いじゃ!」
「おれも嫌いだが、ね、小学時代の友人でもあるし、いろんな口聴きとして役に立つようだから——」
「そりゃ自分の勝手やないか——あたい知らん!」
そしてまた上から下りて来る女があると、かの女は先ず義雄の女房ではないかと——あれは綿服主義だとか云っていつもきたないなりをしているが、立派そうな風の、若いのを見ると、また、女優ではないかと思った。
この上を抜けたところに、帝国女優学校の仮教場があって、そこへお鳥も這入ろうとして義雄にかけ合って貰ってるし、またその用意に三味線と踊りとを稽古しているのであった。
義雄とお鳥との間に出来た最初の約束はそんなことではなかった。
かの女が一たびその故郷なる紀州に帰るまで在学して卒業した或裁縫学校へ再び入学し、一二年間その高等科を修めさせることであったが、裁縫などよりも琴の師匠にでもなる道を開いてやろうとしているうちに、義雄自身の直ってしまった或病気を急激に受け継いだが為め、殆ど半年ばかりは病院通いで経過してしまった。
「もう、そう苦にならんさかい、
「どうだ、女優になって見ちゃア?」
「そんなもの、いやじゃ!」
「何も顔を赤くしないだッていいじゃアないか?——三枚目ぐらいのところじゃア、
「三枚目たら——?」
「——」義雄はその日それに対する返事をしなかったが、かの女がそう云うことに対して有する恐れだけは、毎日のように努めて取り去ってしまうようにした。そして、顔のことは云わないで、歳がもう三四年若かったら三枚目にも、第一流の花形にも行けたにきまってるが、それにしても脊が高いのは女優として一つのいい武器だとも話した。
六畳敷きの、外に向ったところに小さい
「あたいでも成れるだろか」と聴いたこともあった。
「お前の決心一つ、さ」
「決心したッて、成れないこともある」
かの女は、それでも、
「大分乗り気になって来た、な」とは考えながら、義雄は後ろ向きにそ知らぬ風をして、友人なる有名な背景画家の大野がいつか云ったことを思い出した。
「あいつア馬鹿だぜ——少し足りないぜ」
「そりゃア、君のように芸者や
この問答があったのは、大野が義雄とお鳥とを招待した或るうなぎ屋の二階で、お鳥が便所に立った留守の時だ。かの女が澄ましてもとの座に返ったところで、大野は酔眼でかの女を小娘か何かのようにのぞき込みながら、
「可愛い、ねえ」
「ふん」と、かの女は自分の顔をしゃくって、眼を横に
「それにしても、もッと都会馴れなけりゃア、ねえ——」
「田舎ものなら、田舎ものになれる——では、女優にしておくれ」と、かの女が云ったのは、それからまた二三日あとのことだ。
女優学校へ傍聴生とでも云ったような入学の交渉は、校長が旅興行にまわっているので、返事はそれで帰るまで得られないのであった。
その校長がわが国では有名な女優であって、年中どんな忙しい生活をしているのかも知らないお鳥は、不在で分らないと云う返事を聞いただけで、それが
「そんなに心配するなよ、どうせ何事も
「だから、早う何かさせて呉れたらえいじゃないか?」じッと、また、
「じゃア、下のお婆アさんに先ず三味線でも習っているがいい、さ」
「そんなら、早う頼んでくれたらえいじゃないか?」
「そう意地悪く云うなよ」義雄は、かの女が余ほど
「本妻にして呉れ、して呉れ」が、子供が母に何かをねだるのを見ているのと同じように、渠にはうるさかった。
それには、毎日かの女のあたまを何か一つのきまったことに占領させて置く必要から、さきには、義雄が何年か以前に使ったヴァイオリンを持って来た。すると、かの女は独りでどうやらこうやら調子に
義雄は自分の家から、継母が残して逃げて行った古い三味線を、千代子の反対を受けたにも
「清水さん、お稽古をしましょう」こう本統のお師匠さんらしく呼びかけられて、お鳥が三味線を持って下りて行った時、義雄は客の加集泰助に対して二百金の周旋を頼んでいた。
渠はこの客に対して信用を置かなくなった。と云うのは、不断から軽薄な性質であるばかりか、その本職のようにやっている周旋が一向依頼通りに運んだことがない。家を抵当にするからと云って、去年から頼んであった事業費引出しの件も、とうとう意外の方面から突然に出来た。
去年の歳末に迫って子供が三人
けれども、今回は、もう、
また、渠の玉突仲間なる或鑵詰問屋の主人へかけ込んでも見たが、少くとも第一回の製品を見ないうちは、商売の法則として、金の融通が出来ないと云われた。
家を二重抵当にするか、余ほど好意ある人から信用貸しを仰ぐか、この二つの道しきゃなかったのを、この客は今度は、どこをどう
「しゃア、頼む」
「然し金のことだから、君も十分に責任を負うて呉れんと——」
「そりゃ、無論、約束する期限までにゃア——」
「おい」と、今まで何となく下へ気を取られていた加集が、
「ふ、ふん」義雄も客について又苦笑いをした。
お鳥は「今も昔は」[#「今」に*]を習ってるが、三味線がびっこのように歩いてるらしい。
「まだ声を出せないのか?」
「出せば出せるだろうが、下の婆アさんを半分馬鹿にしているから、いけないの、さ」
「無論、あの婆アさんかて」と、時々、加集に関西弁が出るのはお鳥と同じようで、「
「清水に聞いたのだろう——けれども、ね、如何に縁日商人だからッて」と、義雄は額の広い、※[#「夾+頁」、読みは「ほお」、p103-下段19]のこけた顔に、鋭い眼を眼鏡の裏から光らせながら、「そう馬鹿にするものじゃアないさ——お互いに好き合っているのだから」
「よく夫婦喧嘩をすると云うじゃないか?」
「そりゃア、また、出来心からだろう、さ」
「君等と反対だぜ、女が五十で、男が三十四では」
「僕はそう年を取ってやしないじゃアないか?」
「いや、さ、年の割り合いがよ——あいつは二十二じゃそうじゃないか?」
「欲しけりゃアやるよ、僕が樺太へ行っちまやア」実際、義雄はその金を
「君の病気の身がわりなんて」と、加集は反抗の様子を見せようとしたが、顔に多少の釣り込まれた色が見えたのを、義雄は
「声をお出しなさいよ、声を!」下の婆アさんの年に似合わない涼しい声がした。
「出さないじゃア、いつまでも出ませんよ」
「ナダイムスメノ—」低く、然し気取ってるような——
「やってる、やってる!」加集は背広の洋服に
義雄が音楽倶楽部の入場費を自家から強奪したのはその日で、——
「あたい、あの
「でも、ね、お前のお望み通りの独身者じゃアないよ」
「独身者でなかったかて」と、負け惜しみに、「自分のようなおじいさんではない」
今も
かの女はこれでもか、これでもかと云わないばかりに、紫の花の上に自分の鼻を突ッ込み、ふんふん、ふんふん嗅いで見せていた。が、
「さア、行こう」
「でけた」と、疑問的にくびを優しく動かしてから、いきなり訴えるように、「あの加集の奴、好かん!」
「……」
「あたいに、こないだから、いやらしいことばッかり云うて!」
「いいじゃアないか」と、とぼけた振りで、「向うがお前を好いて呉れりゃア?」
「では」と、花の鉢を両手で持って、すわり直した膝の上に置き、男の顔をうわ向きに正視して、「あたいを取られてもえいか?」
「うん」ふと、そうして呉れりゃア、こんな面倒はなくなると云う気が出て、「それもお前の決心一つだ」
「念の為めに聞いて置きますが、な」音楽
「この会では、正当な婦人でなければ出入りさせないことになっていますが、君はあの婦人に関係はないでしょう、な?」
「関係!」義雄は、同倶楽部の演劇研究部へ鶴子と云う女をモデルに入れる為め紹介しにつれて行った時のことを思い出していた。無論関係はなかったが、その時考えの中にあった痛いところを突かれたので、それを隠す為めにわざとらしく胸をそらせた。
こんな思い出に
義雄は、演奏芸術に対する純粋な感興によりも、
「田村さん、田村さん!」常任幹事の細君が廊下で義雄を捕えて、「あなた、今晩は、奥さんと御一緒?」
「え——」
「嘘でしょう」と、浜野嬢は、細君と目くばせしながら、踊りの時のようにからだをしなやかに動かせた。
「それで、この頃は不勉強、ね——トコセキナヨも、富本[#「富」に*]も」
「……」どうしておれの女房でないのを知ってるだろうと思った時、ふと千代子が曽て、同倶楽部の
「駄目ッて」と、細君があまえるように
「あすからでも、つづけて
「もう、僕にゃア興味がなくなったのでしょう」こう云って、渠は樺太に於ける事業に対する誇りを
「どうです、田村君、あの歌沢[#「歌」に*]は?」番組の第四が終ってから、博士は義雄に立ち話をした。
「富士の白雪などは最も面白いじゃアありませんか?」
「ちょッとひねくれて、含蓄があるようなところが、ね、お宅で初めて聴いた時から面白い物だと思いました。」
「そうでした、な、君は歌沢再興者の一人です」博士のこうした自信を交えた誇張的な挨拶も、この流派の再びあたまをあげて来た当時であったから、義雄には不愉快ではなかった。
番組第五の長唄[#「長」に*]「綱館[#「綱」に{[*]](つなやかた)}」が六左衛門等の
「こいつだ、な、お鳥を何かの手段で呪ってると云うのは!」
「お目出とうございます!」
「……」渠は吹き出したかったが、かの女の多少は遠慮しているらしい声が、持ち前の
「あなたばかりがいいことをして」と、こちらばかりに恨めしそうな目を注いで、「うちのものはどうするんです?」
浜野嬢や常任幹事の細君がじろじろこちらを見ていた。義雄は腰をかけたでもなくかけないでもなく、かの女に向って椅子の背にもたれているのに気がついた。
なおいつものような事を千代子が云ってるので、義雄は黙って廊下へ出てしまった。が、かの女はついても来なかった。
ふらふら歩きながら、暫く気を落ちつけて見ようとしたが、どうしても義雄の怒りと不面目な気とが直らなかった。
「千代子が来ているから、きッと面倒が起る。直ぐ帰れ」と、名刺の裏へ鉛筆で書き付け、案内の女に託したら、
「隣りのお方が取ってしまいました」と云って、帰って来た。
渠が扉に付いてるガラス窓の
「馬鹿々々しい!」渠は自分で自分を非難しながら、別な扉から
「僕もさッきから」と、大野は酒くさい息を吹きながら、「何か事件が起るぞと云ってたのだ。困った、ねえ」
「兎に角、君が行って何とかこの場だけは無事に済ませて呉れ給え」
「何でも君の細君を一先ず外へ出して、なだめるんだ、ねえ」
「じゃア、頼む!」
義雄はまた扉の窓からのぞくと、新式な洋服を着た紳士
やがて大野は出て来たが、
「駄目、駄目!」首をふりながら、「相変らず分らない、ねえ。おれの云うことなんか、田村の友人だから、信じないッて」
「困る、なア」
「今夜こそ逃がさないで、
「仕ようのない奴じゃアないか?」
「それもいいとして、さ、一方も亦大胆じゃアないか? 見ッともなく袂を握られながら、どうせ来たのだから、わたしもおしまいまでいましょうッて」
「おい、君」義雄は
「いやな役割だが、ねえ」と云いながら、大野はまた這入って行ったが、ぷりぷり怒って出て来た。「もうほうッとけ、ほうッとけ——バーに行こう」
東洋軒の二階でビールを飲みながら、大野は義雄を
そのうち、長唄が済んだかして、がやがやと食堂へ這入って来たものがある。その間に常任幹事もまじって来て、心配そうに二人に聴いた。
「どうしたのです?」
「実は、ねえ」と、大野が受けて、手短かにこのことのわけを話したので、義雄はそれにつづいて、
「どうもあなたに済まないことがあってはと思って——どうだ、大野君、幹事の権利であの二人を追い出して貰おうか?」
「それにも及ばない、さ、おしまいまで聴きたいと云ってるし、僕からもこの場では必らず間違いをするなと云ってあるから」
「云ったッて、気違いが分りゃアしない」
「心配するにゃア及ぶまい、あの様子じゃア、一方が悪く云やア、図々しいから、無事に受けてるよ」
最後は呂昇[#「呂」に{[*]](ろしよう)}の柳だが、義雄は
「自分だけが早く出てしまえばわけアないじゃアありませんか」と、どこからとなく無言の声が注意して呉れた。それが正面のニ重舞台の、敷きつめた赤い毛布の色が背後の
「どうせ焼けッ腹だ」と、渠も亦無言で答えた。そして花でも降って来そうな音楽に満ちた空気を、最後に於いて、出来るだけ沢山吸い込んで置こうと努めた。
大野の細君の静子がちょッと降り返ってこちらを見た。その
あれはかの女が大野と結婚する一ニ年前のことであった。世間では、大野より以前に義雄はかの女と関係があったと云ってる。それでさえ詰らないと思ってるのに、この男女がいよいよ結婚するとなって、大野が先妻を虐待すると云うごたごたの時、義雄が大野の先妻に同情したところから、またそれにもきたない関係があったと大野がわの友人等に云われた。静子からは、また、かの女と大野との間を円満に成立させる責任があるように頻りに云ってよこして、義雄に訴えるような又渠の態度に抗議するような言葉があった。
実際、大野と静子との手を握らせたのは——洋画家たる大野の或特別な画にかの女自身をして適当なモデルを供せしめる為め——義雄の
「僕は、
大野は既に大分酔っていた。その上また義雄とビールやウイスキを重ねてから、そこを出ると、電燈のちらつく樹かげで大野はふらふらと倒れかけた、静子は、
「あぶない」と叫んで、抱きとめようとしたのを、
「大丈夫です」と、身ずから踏みとまって、大野は太い
「相変らず芝居をやる男だ」と思った。
静子をまかされた義雄は、かの女と供に急いで赤電車に乗ったが、車中から窓の外は今喰った物を吐いた。渠の背中をかの女はさすっていた。そしてかの女は電車から下りると、薬屋を叩き起して宝丹を買った。
静子姉妹は新派に属する日本画家で、女二人の腕でその母と静子の先夫の子とを養っていた。
義雄は宝丹を飲ませられ、
こんな記憶の間から「母[#「母」に*]の柳」が引かれて行く後ろ姿を義雄はまざまざと見た。すると、
「田村さアん、田村さアん」と云う女の声が青山あたりの電車の窓から聴える。
そうだ、あれは、義雄の友人たる某漢詩人が有名な事件で殺されたその葬式の掛り員として、義雄等が人力車を
「すまアし込んでいて、一向気が付かないんだもの」と、聴かせられた。かの女がまだ大野との間に親しみも何もなかった時のことだとは云え、その場の情熱に燃えると、前後もかまわず、
「何て向う見ずの女だッたろう」渠は思い出して、
そして段々と自分の神経が舞台の気分に一致して来たと思う時、惜しいように幕が下った。
どやどやと聴衆が出て行くあとから、廊下の外の石段の上で、義雄と静子とお鳥と千代子とが落ち合った。
千代子はお鳥の
「見ッともないから、よせ?」と、義雄はあたりへ聴えないように云った。
「よう御座います」と、これはまた皆にも聴えるように、「わたしの勝手です!」
お鳥は何の云わないで、微笑にまぎらせていようとしている。
「うちのはどうしたんでしょう、ねえ」と、静子は首を延ばして方々を見まわした。
「僕が見て来ます」義雄は
「そんな誤解をされちゃア、僕は実に迷惑します」
「誤解じゃアない、実際ではありませんか?」
「馬鹿なことを!」
「馬鹿とは何だ?」
「どうしたんだ、君?」義雄はそこへ口を出した。
「なアに、ね」と、大野はふり向いて、怒りの為めに声まで
「そりゃア間違いです——実は、ちょッとした事件の為めに——」
「まア、君云わないでも済むことは云わないでもいいんだ——
「何が野暮くさい?」巡査が赤い顔をしているのは、息の臭いで、義雄には、酒を飲んでいると思われた。
「まア、君」と、巡査をなだめるように、「僕が僕の妻に用があって
「おれは決して酔っておらん!」
「酔ってないかも知れないが、飲んでるのは事実でしょう、顔に現われてるから」
「おれだッて、茶の代りに酒ぐらいは飲む」
「飲むのは御勝手ですが、それが為めに云いがかりを云われちゃア——」
「何が云いがかりだ?」
「実際、僕がこの友人に対してすまないことになるのですから」
「風俗壊乱だ——兎に角、警察署まで行って貰おう」
「何が風俗壊乱だ——馬鹿々々しい!」大野はこう云って、巡査をにらみ付けた。
静子がいつのまにか後ろへ来ていたが、
「あなたの為めに」と、泣き出しそうな顔をして義雄に向い、「こんな詰らない目に会うのだ、わ。——さア、行きましょう」と、大野の上衣の末を引ッ張った。
「また風俗壊乱だぞ」と、大野は押さえた声で叫んだ。
「馬鹿なことを云うにも程があるじゃアないか」と、義雄は巡査にも聴えるように静子に云って、皆と共に建物の外へ出た。
晴れた夜で、夜ふけの寒い風が星々の光をちらつかせていた。
「事件は何でもないのですから」と云いながら、倶楽部の常任幹事もついて来て、当の巡査をなだめていたようであったが、義雄は巡査がなおうるさく従って来るのを見て、
「もう、あなたがついて来るにゃア及びますまい」
「何だ、警察まで来なけりゃならん」
「馬鹿を云うな!」大野もまたむきになった。「貴さまは酔ってるんだぞ!」
「貴さまとは警察に向って無礼だぞ!」巡査も少し身がまえをして、「おれをそんなに馬鹿にする気なら、鉄拳を
「う、う、う、なぐるなら、なぐって見ろ! 酔ッ払いの警官に、人民をなぐる権利があるなら、なぐって見ろ!」
「手出しをすりゃア、おれも承知しないぞ!」義雄も大野の勢いにつり込まれて、腕がむずむずしていた。
「まア、そう手荒いことは云わないでも」と、幹事が云ってるところへ、別な巡査がやって来て、この二人で両方を引き分けた。
巡査が去ってから、幹事は云った。
「有楽座で歓待しないからと云って、あの巡査がその
「
「いろんなことが起って、すみませんでした」と、義雄は幹事に詫びたが、あらゆる面目を失ってしまった気がした。
見まわしたが、三名の女はいずれもそこにいなかった。
「だから、ね、早く田村さんと別れるようにおしなさい——どうせ、いつか、棄てられるにきまってますから」
「……」
「ね」と、のぞき込むようにして、「分りましたか?」「……」お鳥が高いあたまを少し
「あなたも」と、静子はちょこちょこ千代子のがわにまわり、「あまりひどいでしょう?」
「何がひどいのです!」千代子はその方へ向いて、
「馬鹿を云うな!」義雄も黙っていられなくなり、つかつかと出て行って、妻と、それから今の巡査とに対して押さえていた
「そんな野蛮なことを——」静子はとめようとした。
「おれが貴さまを追ッ払うように大野君に頼んだのだ!」
「おおきなお世話です——こうしてつかまえてる以上は、うちまで引ッ張って行って処分を付けます。警察へでも、どこへでも突き出してやる!」
「あなたも少しお考えなさいよ、田村さんの——」
「考えた上のことですから、ね!」
「わたし、もう、知らん!——田村さんは女をみんなおもちゃにしてしまおうとするのです」と、静子は立ちどまって泣き出した。すすり上げながら、「そんな人でもなかったのに!」
義雄は引き入れられるような感じがして、かの女の姉妹と直接に行き来していた時のことを今一度親しく思い浮べさせられた。そばへ行って、
「兎に角、ねえ、奥さん、これから大野君の家へ行って、あいつによく以後こんなことをしないように話して貰うつもりですから」
「兎に角、奥さん」と、大野も千代子をなだめるように、「これから僕の家へいらッしゃい」
「わたし、不賛成です!」静子はからだを振って、その
「貴さまにそんなことを云う」と、大野はおもおもしい声を出して、「権利があるか?」
「わたしだッて、大野さんのところなどへちッとも行きたかアありません!」
「黙れ!」義雄は妻の言葉を制してから、友人に向い、「君まで夫婦喧嘩をしちゃア困るじゃアないか!」「あいつが独り勝手な横暴なことを云やアがるから!」
「じゃア、わたしはあなたの家庭をおいとま致します」
「勝手にしやアがれ!」
「そんなことを云うなよ、君」
「なアに」と、大野はまた巡査に向った時のように怒りの声を顫わせて、力づよく、「生意気なことを云やアがる!」
お鳥はただ黙って、何かの機を見ていたのだろう、この時、さきを握られている自分の袂を両手で
「あんなことをしましたよ」と、千代子は甘えるように義雄を見あげたので、渠はいやでいやでならない妻がまだこッちに頼る気があるのだと知って、自分も逃げ出したくなった。
静子はその家路とは反対の電車に乗った——曽て義雄がかの女と一緒にそこから乗るが早いか、窓からへどを吐いた方角へだ。
お鳥はその脊高い真ッ直ぐなからだをそと輪に運んで、静子とは反対の方へずんずん行ってしまう。その歩き方は持ち前だが、これを
「今夜は、おいやでしょうが、ね、どうしても離れませんよ」と云って、千代子は渠がかの女から綿服主義にさせられているそのごつごつした羽織りの袂を握った。
「今、僕が逃げたら」と、言葉を英語に換えて、「こいつが君の重荷だから、ね——君、先ず電車に乗り給え」
「君ア色おとこだよ。まア、やさしくついて行ってやり給え。——僕はもッと酔いのさめるまで散歩する」
「じゃア」と、
「僕のワイフは、実際、飯田町へ帰ったのか、なア?」
「大丈夫、君の方へまわって行ったの、さ——どいつも、こいつも、おどかしゃアがって!」
「わたしは一生懸命です、おどかすの、おどかさないのなど云うさわぎじゃアありません!」
「黙れ! 人をさわがせたじゃアないか?」
「まア、奥さん、お静かに」大野は少しうつ向きになり、両手をうわ向きに、低く拡げて、一歩を退いた。
「また芝居をしている」義雄はこう思いながら、「じゃア、失敬するよ」
「おれは独りぽッちだ、なア」
大野は投げ出すように云って、力なさそうにつッ立った。多くの街燈から落ちる光が混乱して、渠の姿を舞台の脚燈が反対にうえから照らして、明暗の光をそこに集めたように見えた。そして電車の響きさえ丁度途切れて、相変らず
「失敬」と、今一度義雄は大野の方に向いたまま云わなければならなかった。
大野は軍人のような直立の姿勢に直り、右の手を横顔のところまであげ、ゆッくりした、低い、沈んだ調子で、同じく、
「失敬」と云って、靴の底で少しつま立つと同時に、首を前方へ傾けた。
義雄は千代子に引かれて、電車通りを、公園のふちに添って歩いていたが、あの鶴子の為めに遠のくようになった
かの女も
公園を
義雄は踏みとまった。それが
「わたしはどうかしているようだ」こう、かの女は
「訴えてどうなるんだ」と、義雄は
橋を渡って芝区へ
成るべく人通りの少い横町などをえらんで引ッ張られて行ったが、
「きゃッ」とか「恨めしや」とか、今にもこの女が
「年うえなばかりに増長して!」これは、もう、思い出したくもない。今の結婚法が改正せられ、男女どちらかの申し立てを裁判所で受理して、
ここのはただの溝のにおいに違いないが、おどんですえ腐った物の発散する分子がぷんと鼻さきへにおって来ると、何だかかな臭い気がして、母が新らしく生き返って来そうに見える。
「All or nothing[#「A」に*]——生でなけりゃア、死だ!」
この間に譲歩はない! 妥協はない! 人間その物の破壊は本統の改造だ——改造はそして新建設だ。ぶッ倒されるか、ぶッ倒すか——そこに本統の新らしい自己が生れている! 渠はこう答えながら、面倒な物を引きずっているにゃア及ばない——いッそのこと、握られた袂を、あの、柔術を習ったと云うお鳥の手を試みて、わけもなくふり切り、千代子を転がし込む気になっていた。
溝の黒い水のおもてが暗くなった。——そのまたうえが闇になった。——自己の周囲がすべて真ッ暗になって——自己も、
「どうするつもりです、わたしを!」
「……」渠の身の毛は全体によ立っていた。
「なアんだ、夫婦喧嘩かい!」こう云って、黒い影が他方の路ばたを通り過ぎた。もう、十二時を越えたと思われるのに、矢ッ張り、人通りが絶えない。
「……」かの女は、さッさと、反対の側へ引ッ張って道を進みながら、「人を水に投げ込もうたッて、そんな手は喰いませんよ」
「……」
「それこそ馬鹿げ切ってる!」
「……」渠が逃げようとして、ちょッと踏みとまると、かの女も直ぐ電気に触れたように手の握りを固めて、こちらをふり向いた。
「殺そうたッて、逃げようたッて、駄目ですよ、直ぐおお声をあげて、誰れにでも追ッかけて貰いますから、ね」
渠は答えもしないで歩いた。
避けて来た交番だが、西の久保通りの、広町
千代子がここで本統に出来心でも起したら大変なので、その交番の手前で義雄はおのれの袂をふり切った。
「おまわりさん!」かの女は実際に
義雄は自分が水をあびせかけられたと思って、つッ立った。幸いに人力車の響きが通った為め、向うへは聴えなかったようだが、渠は再び袂を握られていた。
何げないふりをして通る二人を、顔を知らない巡査がいて、怪しそうに見詰めていた。
「こんなところで喰べるくらいなら、いッそ今一つ向うの、いつもうちで取るとこへ行けばいいのに」
もう、自分の物だと思ったのか、かの女の声は以前よりも落ち付いていた。が、義雄は一層いや気がさして、無言でぐんぐんまずい酒をあおった。
二三杯ででも赤くなると云われる酒が、例外に飲んだ今夜に限り、大して顔に出たとは思われなかった。
家に帰ると、直ぐ、千代子の母——もう、
「不都合極まる女だから、千代子をきょう限り引き取って行くようにして下さい!」
「義雄さんはいつもそう云うことをおッしゃいます、が、ね、子供があるのにそんなことは出来ますまい?」
「子供などアどうでもいいんです——そんな
「またどう云うことがあったのか、聴かないじゃア分りませんが、ね——」
「みんなあなたのことから起ったのじゃアありませんか?」千代子も傍へ来て、いやな眼をぎろつかせる。
「貴さまなどの出しゃ張る幕じゃアない!」今まで黙って押さえていた心中のもやもやが一時に、ここだと云わないばかりに
「そうおッしゃると、あなたに済まないようですが、ね——この
「そんな気違い病人は、母として、直ぐ引き取って行かなけりゃアなりますまい!」
「そんなことも出来ません、わ」
「出来ますとも! 巣鴨へでも、どこへでも、つれてゆきさえすりゃアいいのです——あとの始末はゆッくりお母さんとわたしとで出来ることです」
「困ったことになりました、ねえ」と、母は娘の方へふり向いて、「この娘もあんまりわさわさして、落ち付かないからいけないのですが——」
「でも、ね」と、千代子は母に頓着せず、「あなたが好きで、わたしを一緒に車に乗せてここへつれて来たのじゃア御座いませんか?」
あれはまだ二人乗りの人力車が沢山あった時代だ。そしてこの女も二十四五の若盛りであった。或友人の紹介で尋ねて行ったのが縁となり、間もなく、とうとう約束までしてしまったが、その友人があとで義雄に向って、「結婚しろと云って紹介したのではなかった」と云ったのを思い出すと、丁度、義雄が大野の今の細君に向って云った同じような言葉と意味は違わなかったのだ。
かの女は小石川の方で、人の二階を借り、自炊をしながら、昼は小学の教員を勤め、夜は或音楽講習所の生徒であった。今の状態とは違って、おも長の上品に艶々しい顔に、姉のような優しみを帯びて、その着物の着こなしさえ、他の田舎出の女学生などとは違い、
渠は芝の
「深川の叔父さんが、あす、わたしを引き取って行くそうですよ」と、女があわてて告げたその晩に、義雄は非常手段として女を車に乗せ、かの驚きながらも寛大であった父の家へつれて来たのである。
「そんなことは十五年も二十年も昔のことだい」
それから、妻子をつれて田舎の中学教師にもなった。文学専念の為めに、東京の場末で貧乏な暮しをつづけたこともある。子供は六人も出来て、三人は死んだ。去年父が亡くなったので父の家業を千代子に引きつがせたが、その年末にはいろんなことで非常な困窮をした。
「みんなあなたのせいですよ、色気違いのあなたのせいですよ」と畳みかけて、千代子はあまり喜びもせず、この退職金、——
義雄はその他の三分の一を以って、お鳥と共に、
「昔のことだッて、今のことだッて、このわたしにゃア、変りはないのです!」
「現に」と、渠は坐った膝にまで力を入れて、「婆々アになったじゃアないか?」
「そりゃア五人も六人も子供を産んだのですもの!」
母は当り前のことを云ってると云うような顔つきをしていた。
「何かと云やア子供、子供と云う! それよりも自分自身のことをもッと忠実に考えて見ろ! 今の女の心持ちも知りゃアがらんで!」
「じゃア、あんな
「清水などア本統の問題じゃアない! 人のことなどにゃア口出ししないで、
「どうせ、あなたの云う若々しいものにゃア、今更らなれません、さ」
「手前は、お母さんと同様、ずッと時代に
「これでも、武士の——」
「またか、よせ!——武士の娘だろうが、なかろうが、
うじ虫と云われたのを母も怒ったのかして、
「わたしもあなたの御厄介にはなっていますが、ね、まさか、そんな物じゃアないつもりですよ」
「どうせ分らないのだ! 分らないものがいるところにゃア、おれの家もないのだ——勝手にしろ!」
われを忘れたように叫んでいたので、俄かに酔いが発して来た。義雄はそこへ倒れた。隣りの寺の庭にある池から、時々
「自分を去るものはすべて形骸だ、否、死だ!」
そして自分自身も亦死ぬ時があろうと云う考えに及んだ。既に
今や義雄には樺太の事業に全心全力を注ぐのがそのいのちである。早く、もッと金が欲しい! 同時に、また、よく自分を理解して呉れる女が欲しい!
ぞくぞくと寒く、そして息詰るこの酔いの苦しみはやがて又この現在の煩悶の苦しみであった。
ばちり! ばちり!
水面に踊りあがる大きな緋鯉の姿が、締め切った室に倒れた渠の肉眼に見えて来て、渠のつき詰めた思想に正しい合の手を添えて呉れるようだ。
「おれは兎に角生きている!」
「また、何か」と云われたので、渠は千代子がまだそこにいたのに気付いた、「考え込んでるんでしょう——さっき逃げて行った清水のことでも?」
「……」無に帰したことを再び思い起させられるのがいやさに、起きあがって、「下らないことは云うな」と、真面目に叱り付けたかったが、からだが利かなかった。
千代子の何かにのぼせて来たような息使いが
「以後は、ね、義雄さん」と、母もまたいたのであった、「こう云うことのないようにわたしからも云って聴かせますから、きょうのところは、あなたも、どうか、勘弁してやって下さいませ——久し振りのお帰りじゃア御座いませんか?」こんなことを云いながら、母は、押し入れから、渠の何ヵ月か触れたこともない蒲団を出して、洋書の背皮文字が金色や銀色に輝いてる二つの大きな書棚の前に拡げた。
然し、その夜も、それッ切りで、義雄は、
末の男の子は、父と云えば、恐れて少しも
うえの子二名は、父のことを母がいつも馬鹿だ、馬鹿だと話しているのを聴いているので、父のそばへ来ても何にも云わず、
で、翌朝、遅く起きると、
お鳥は二階の真ン中で、だらりと足を投げ出し、そッぽうを向いて
かの女が挨拶しないので、
「もう、別れさせて貰う!」かの女は半身を起して、こちらにねじ向け、目で義雄をにらみ、足は投げ出したままだ。「相当の手続きをして呉れ!」
「手つづきも何も入るものか?」渠はわざとゆッくりして、「別れるなら、
「では、病気を直ぐ直せ!」
「そりゃア、仕かたがないと諦める、さ、これまで随分金をかけてもまだ直らないんだからね」
「誰れがもとじゃ——お前の
「今更らそんなことア云っても駄目だ——お前の好きなようにするがいい!」
「でも、ええ気になって、引ッ張られて
「いい気でもなかったの、さ」
「
「おれが寝坊なのはお前も知ってるじゃアないか?」
「場合が違う!——ふん! あたいが紀州を出て来たのが悪かったんや」と云って、再び向う向きにぶッ倒れた。そして渠の予期通りにすすり泣きになった。
山出しも同様な癖に、紀州を出て来たのが悪いのは、義雄は初めからそう思った。無論のことだと。さきの亭主——それも本統の亭主であったか、どうだか、分からないが——に棄てられたか、
「お母さん、お母さん、あア、ア、アーアッ」、などと云って、目をさますことは氷川の方にいた時は一番烈しかったと思われたが、この頃では、またその習慣が回復して来て、夢に見た母の姿を、枕もとに起きあがってまでも見まわす様子をする。
「おい、何をしているんだ」と、義雄が注意するのに初めて気が付き、
「また、何か云うた? お母さんが来た筈じゃのに」と、真面目くさって微笑している。
義雄はそんな時に、度々、わざとではないかと疑って見た。が、あかりの蔭に横たわったかの女の、地肌のなめらかな白い顔が、引き締って、青いように、緑のように、また紫のように見える時は、
「死んだと云うものが二度と再び出て来るものか、ね」と、たまたま云ったことがある。「よくお前のおやじが出て来ないものだ!」
「親さえ生きてて呉れたら、あたいもこんなことになりゃアせん」
「無論だろうが、ね、それでも本人の心がしッかりしてイないと——」
「だから」と、からだを振り、「あいつを追い出せと云うてる!」
「そりゃアお前のある無しにゃア関係しないでも、ね」義雄は成るべくうそを云わないで通りぬけたかった。
それがかの女には渠の煮え切らない証拠に見えるので、そんな時に泣いて渠を
時には、義雄もこの神経がつよい女がどんなことを仕出かすまいものでもないと心配した。かの女は今も、泣き倒れていながら、
「あいつを追い出さなければ、あたいは死んでしまう」と云った。そんな時には渠はかの女に仕込んでやる仕事の話でもして、気を転じさせる外はないと思った。
が、きょうはまだ起きッぱなしであるので、
「
「まだ喰べないの——?」かの女は俄かにまた半身を起した。そして面倒臭そうに顔をしかめてこちらをじッとながめていたが、「今下の人が、もう
かの女は渠の食塩に茶づけの給仕をしながら、ゆうべ、大野の細君が義雄の悪口を沢山云ったのを、かの女自身の恥辱であったかのように訴えた。が、渠はそれを少しも気にかけなかった。
烏山にからすががアがア云ってる声にまじって、桜の咲いている道ばたから、例の乞食の「お助けで御座います」が聴えている。
その日、お鳥が踊りの稽古に出ると、義雄は或新聞の日曜付録に頼まれた論文を書きあげてしまった。それから義雄が外出したあとへ、加集泰助が尋ねて来たが、あがってかの女と話しながら、
義雄は
なかなか出て来なかった。それでも出て来た時は相変らずにこにこしていた。が、どこか澄ましているようなところが渠の目に付いた。
「今お稽古をしてあげてるのよ」
「そうでしょう、ね」と、先ず渠は云うより外に仕かたがなかった。この夫人も、画を教えているばかりに、矢張り、自分の女房のように、教員然たる、云い換えれば、人に対して誰れにでも子供あつかいをする風が
「あなたの奥さんも随分、ねえ——?」
「あいつア、もう仕ようがないのです」
「あなただッて、そうでしょう——もう、いや」と、つッ立ったまま、からだを振って、「あなたのような人が来るのは!」
「そう云われるだろうと思ったのです」と、渠は苦笑しながら、「ですが、ねえ、まア、そんなことは云いッこなし、さ——どうせ、大野君がいなけりゃア帰りますから」
「そう——失礼、ね」こう云って、かの女は障子をしめにかかった。
「畜生!」と云うような淡い憤慨心を懐いて、義雄は、ついその近処の玉突屋へ行った。渠とも長らくこの遊びの仲間になっている有名な金貸しが来ていた。この人は、もと、欧米へまでも出かけて宗教の腐敗しているのを、実見して帰り、一種の自己発明の耶蘇教を伝えるには、外国人の補助などを仰いでいちゃア駄目だ、先ずその費用たる金を自分で
「どうだ、負かしてやろうか、ね」と、義雄はキュウを取った。
「今ちょッと途中で電話をかけに来たのだから」こう云って、渠は袖さきのカフスを直し、手袋をはめ始めた。
「そうか——こないだの連勝をどうして呉れるのた?」
「また、今度だ」
「わたしとやりましょう」と云って、ボーイが出たが、どうも義雄は気が乗らなかった。いつもなら、出ると直ぐ親しい感じを起す青
三度に勝負まけをして、渠はキュウを置いた。
「どうも、昼間は気が締まらないで駄目だ」
そしてお鳥の二階へ帰ると、やがて大野正則がやって来た。
「もう、酔ってるのか?」
「例の、ね、書き割り[#「書」に*]の監督に行ってたの、さ——いつまで寒いと云うのだろう?」
「君と一緒に浜町で目がさめると、意外のおお雪であったのも、こんな時候であったよ」
「そうだ、なア」と云いながら、大野は少し離れて坐ってるお鳥を見て、「どうだ、御機嫌はいいか、ね?」
かの女はほほ笑んだが、横を向いた。
「君の細君も無事のようじゃアないか?」
「だが、ね、君の細君にかぶれて、僕のもゆうべから変だよ——君にも何かいや味を云ったそうだが、あいつも感情家だから、ねえ」
「まア、いい、さ、僕の事情のようなものじゃアないんだから——僕も」と笑いながら、「けさ、やッと逃げて来たよ」
「君が悪いんだよ」と、大野は片手を下向きに火鉢の少し上に
「いや」と、渠は恐れ入りましたと云うようなお辞儀をして、「お鳥さんがいらせられたのでした、な」
「ふん」と、また横を向いて。
大野は話題を転じて、画家の社会、殊に劇場の書き割り画家の社会に、卑劣な人物が多いことなどを憤慨し始めた。
「画家社会ばかりじゃアあるまいよ」と、義雄は答えた。「形式家のまだ勢力ある現代では、どの社会にでも、新らしい思想を体現し得るものを除いちゃア、みんな偽善者でなけりゃア卑劣家ばかり、さ」
「大きにそうだ——君も
「そうだ、ね」と、義雄も答えた。が、戦うのは自分一個の力にあるので、如何に親友でも、自分と共に自分の自覚するだけのことを実行するものはないのだと思った。落ち付いて、腹の底から出る声で、「然し、僕は、この場合、どうしても、あの事業をやらなければならない——背水の陣を張ってる様なものだから、ね」
「それもそう、さ、な」
「あたい、
「じゃア、勝手にしなよ!」義雄はつッ放すように答えた。もと、二人で二階を借りていた氷川の家の細君——と云っても、一老人に対する下女あがりの妾——が手紙をよこした。前にかの女が勝手に頼んで置いた勤めの口だとは云ってるが、何か渠に対する
「どこへいらせられますか、奥さんは?」
「……」
「どうせ、めかけの口か、そうでなけりゃア、
「なんでもええ!」お鳥はぷりぷりして階段を下りて行った。
「よせよ、おい、あんな女!」
「俺だッて——その時機を見ているんだ」と云って、義雄はゆうべのさまを思い出した。逃げよう、逃げようとして、とうとういやな巣まで引ッ張って行かれた。お鳥の関係に於いても、あのかな臭い
「僕が今度は君の
「情けないことを云うなよ、僕はもッともッと新らしい生活をやりたいんだ」
「それも君の説だから悪い事もなかろうが——まア、あんなへたなラシャメン[#「ラ」に*]じみた女はペケペケ!」
「だから、どうせ両方ともやめ、さ」
大野は、それから、芝居の興行と脚本作者の立ち場とを妥協的に論じ、座の方はどこへでも関係をつけるから今日の見物に分る程度の新らしい脚本を書けと、
が、義雄はいずれ脚本は書くが、そんな妥協的態度で、とても、自分等の考えるようないい物は書けるものじゃアないと答えた。
義雄は、大野につれられてビールを飲みに行き、暗くなって帰って見ると、加集が来て、下の老細君と二人で話をしている。
渠等二人が二階へあがると、加集は云った。
「あの婆アさんは話
「そうだろう、亭主がいつも遅くでなけりゃア仕事から帰らないから、その間は独りでぽつねんとしているんだ」
「田村さんは清水さんにばかりくッついてて、一向下りて来ませんと云うてたぜ」
「まさか、そんなお相手も出来ないじゃアないか?——そして、君にお鳥を貰えと云わなかったか、ね?」
「……」加集はちょッと赤い顔をしたが、「そんなこと云やせん」
「それじゃア、僕も安心だが、ね」と、義雄はわざと
「ゆうべ」と、下から機嫌を取るような風に出て、
「活劇があったそうじゃ、な——?」
「誰れに聴いた?」
「清水にも、我善坊でも」
「よせ、下らない!」こう云って、義雄はこんな男は詳しいことも、短いことも聴かせるに及ばないと思った。しゃべる奴もしゃべる奴なら、聴いた奴も、面白そうにここから又我善坊へ出かけるには及ぶまい!
これも、自分に両方の女に対する若しくはどちらかに対する真実の愛がないからだろう——若しそれがあらば、こんなぐらぐらした、ふた
「二三度行って見たが、いつも留守でまだ会えん」
「じゃア、その方をもッと熱心にやって呉れたらいいのに」
「やるよ、心配しないでも」と、笑っている。
「何の為めにぶらぶらしているんだ」と、云ってやりたかった。
格子が明いて、締まったようだ——
「清水さんですか」と云う婆アさんの声がした。
二人の眼は、見えない階下の方へばかり向いていた。
「ええ」
障子が静かに明いた——
「寒かったでしょう——?」
障子が静かにしまった——
「そんなに寒いことも——へ」
はしご段が静かにとん、とん、とん——義雄の耳には、お鳥のいつも人前ではなかなかおかしい程気取ってるその様子までが聴えて来る。
去年の暮れに買ってやった細長い
いつもにないほど、にこにこ、にこにこしている。
「やア、女優さんのお帰りか?」こう、あぐらをかいて見あげていた加集が云った。
「馬鹿!」
「そないに」と、ちょッと口をとがらせたが、加集のますます軽薄笑いの心を加えたのが義雄に読めた、「おこらんともええじゃないか?」
そして義雄はこのありさまを見て、
とンと強く叩きつける
「わたしを何だと思ってるんだよ!」
「……」
「仮りのおめかけや、たまに旦那に来て貰う
「……」
「お前の女房だ位は分らない野郎でもあるまい!」
「分ってらア、な」
「それに何だッて、うちを明けるのだよ?」
義雄は朝飯をしまってから、机に向っていたのだが、下のこの
「仲間のつき
「つき
「うえの先生でもやってることだア、な」
「先生がお手本なら、
「断るなら、断るがいいが、ね」
「生意気をお云いでない!」
義雄は自分の女房より一段どころか、二段も三段もうえを行く女もあるのだと思っているのだ。
「何が生意気でい——これでも貴さまを年中喰わせてやってらア!」
「喰わせるだけなら、ね、犬でも喰わせるよ! 米の御飯が
「何だ、この婆々ア! 見ッともねいことを云やアがって!」
「なぐるなら、なぐって見ろ! 働きもない癖に!」
取ッ組み合って、あッちの障子に当り、こッちのから紙にぶつかりしているようであったが、大きな女のからだが畳の上に投げ飛ばされるような音がした。
「婆々ア女郎め!」
「殺してやるから、そう思え!」
台どころの方でがたがた云わせていたが、またとッ組み合いが始まったらしい。
「おい、行って見ろよ」と、義雄はお鳥に云ったが、
「あたい、おそろしい」と、ちいさくなった。
「どうしたと云うんです、ね?」
「あの野郎がまだ目をさまさないから」と、婆アさんはからだを起し、「今、根性をつけてやろうとして」
「どッちが」と、立ったまま荒い息をして、「腐った根性でい?」
「
亭主は、庖丁を台所の方へ投げてから、婆アさんとさし向いの座についた。そして、
「あり勝ちの夫婦喧嘩ですから、どうか
義雄には、この男がこんな老母のような女を女房と思っていられるのが不思議なほどであった。ずッと若い時からのくッつき物なら知らず、まだこの二三年来の慣れ合いだと聴いてるので、ただいろんな好き好きもあるものだと思った。
「まア、喧嘩をするにも及ばないでしょう」
「
「あは、は」と、亭主は笑って見せた。
「女と云うものは思い詰めりゃア、われながらおそろしいものですから、ね——まア、先生も御用心なさいましよ」
「十分用心が必要です、ね」と、ただほほえんでいた。
「わたしが先生の奥さんなら、おどり込んで殺してしまいますが、ね——まだあなたのは、教育もおあんなさるでしょうから、おとなしく控えていらッしゃるんです、わ」
「そうでもないのだが——」こう云う人々が望む教育なるものが、今日のようじゃア、これを与えるものの方針に非常に間違ったところのあるのを、義雄はどこかで訴えたくッてならないのである。「
たとえば、結婚と云う形その物が道徳でも実質でもない。実質が既に違った以上は、その形の破れて
「どうせこんなことを云ったッて分らない」のだから、義雄は再び「もう喧嘩はしッこなし、さ」と云って、二階へあがった。
晩春も、もう、過ぎようとする或日の正午前のこと、お鳥は小さい声で歌いながら、三味線を
義雄は机に向い、鳥の
が、ふと、自分の耳を疑わせるようなことを叫んでるものがある。女のようだ——否、自分の妻のようだ——
「あなた、少しうちへ帰って下さらないと困るじゃアありませんか? うちばかり明けて——うちがどうなっても
「馬鹿!」渠は
道ばたに並んでいる桜の枝々からは、昨夜の雨に打たれた残りの花びらが、まだおもたそうにひらり、ひらりと落ちている。その中を、かの女のあお向いた顔だけ見えたが、段々とあとずさりして下の方まで姿を現わしながら、なお叫びつづけている——
「困りますから、早く帰って下さいよ。子供が云うことを聴きません! どうか、お願いですから、帰って下さい! ほんとに、おねが——!」
がッくりと倒れかけた——桜の一つの根もとに敷かれた乞食のこもの端に、はき物のかかとが引ッかかったのだ。
「お助け」をやめて、ぼんやり仰いでながめていた親子が、「あは、は」と笑った。
が、それをじろりと一※[#「敝」の下に「目」、読みは「べつ」、P135-上段5行目
「お願いだから、ちょッとでも帰って下さい!」
「阿呆じゃ、なア」と毒々しく云って、いつのまにか後ろへ来ているお鳥の手が、義雄の背中にとまって渠に顫えを伝えていた。
「旦那、見ッともないじゃアありませんか?」下の婆アさんもいやな顔をしてあがって来てこう云った。
「なアに」と、婆アさんを叱り付けるように、「うッちゃって置け、置け!」
「あなたはいいとしても、わたしのうちで困ります、わ」
「あなた、聴えませんか?」
「また、云うてる!」お鳥は婆アさんにどうしようと云うような様子を見せた。
「わたしが兎も角下へ通して置きましょうか!」
「そうです、な、——どうか」と、お鳥の声も息詰ってるようだ。
「あなた——あなた——いないのですか?」
乞食の哀訴はそれらに対してしなかったようである。
がらりと格子戸が明いた——
「奥さん」と、婆アさんの激しているような強い声がして、「まア、こちらへお
「ほんとに、困ってしまう!」千代子はずかずかとこちらへ歩き出した。
「あたい、知らん!」こう云い放って、お鳥は裏の方へ向った窓ぎわへ行き、横向きに窓の真ン中の柱に身をもたせかけた。
義雄は、おもて窓に向った自分の机に対して坐った。
格子戸が、がたりと荒々しく締った——玄関の障子がまた荒々しく締った——
「二階でしょう」
「へい——」
どたどた、どたと荒い音があがって来た。
「どうしたんです、ね、あなた!」
「……」
「子供達が云うことを聴かないで、仕ようがないじゃア御座いませんか?」
「……」
「聴えないのですか?」
「……」
「つんぼですか?」
「……」義雄が、ふと、悪かった一方の耳も先ず直ったらしいのを思い出していると、かの女はつづけて、
「たといかたかたの耳はまだ直らないとしても、一方は聴えるでしょう?」
「……」
「返事をおしなさい! 子供が——」
「黙れ! 子供は、ほんの、かこつけで、貴さま自身がだろう?」
「……」千代子は、
義雄は、かの女が小指一本ででもさわれば倒れそうな足もとで、段をあがったところからこちらを見詰めてつッ立っているのを、一歩でも近よらせないと云う勢いを見せて、
「して、子供のことぐらいを処分出来ない女だから、馬鹿なんだ!」
「そうは行きませんよ——」
「よせ!」
「父親があるのに留守ばかりじゃア——」
「おれは、ね」と、分らせるように念を押して、「
「馬鹿をお云いなさんな!」
「分らず屋!」義雄はそれッ切り横を向いて、そ知らぬふりになって考えた——おれは、妻に対してもこんなことをこれで三度もやらせて置くだけが、まだ弱い——妻も矢ッ張り、その後ろに来ている婆アさんと同様、全く自分の
「どッちが分らず屋だ」とつぶやきながら、かの女は二三歩お鳥の方へ行って、「あなたもあなたでしょう、うちが困るぐらいのことは気が付かないことアないだろう!」
「……」
「
「……」
「さア、わたしの出るところへお出なさい!」
「何をする!」と、お鳥が云った。
義雄が胸おもく張り詰めている怒りを動かして急にふり向くと、お鳥の広島銘仙の袂を千代子が取り
「どこへ出るんだ!」渠は飛び込んで行って、「この気違い婆々ア!」
「婆々アでも、何でも、出るところへ出たら、分ります!」
「自分で
「笑われるのはお前さんですよ!——あなたも」と、千代子は義雄を返り見たが、鋭いにらみを避けるようにして、「こんなみすぼらしいとこにいないだッていいでしょう?」
「何をぬかす!」渠は思うさま千代子の横つらをぶった。
「そんな手荒いことは」と、婆アさんがとめようとした時は、千代子は既に横ざまに倒れていた。
「ぶつなら、いくらでも御ぶちなさい」と、案外きょうはおとなしく起きあがって、「警察へ出れば分るのですから」
「そんなことを、奥さん、云うものじゃアありませんよ。あなたも恥じなら、旦那さんにも恥じでしょう?」
「恥じも何もかまうものですか?」
「そう無茶苦茶になっちゃア、あなた——まア、下へ来て、気を落ち付けなさいよ、旦那さんや清水さんには、わたしからまたよく申しますから」
義雄もお鳥も他の二人の様子をばかり見つめていた。
婆アさんの片手に背中を押されて段を下りかけた千代子が、こちらをちょッと恨めしそうにふり向いて見た時、かの女の少し前に
「早く引ッ越すんだ!」こう云い放って、渠はどうせ行くべき北へ行くことを思ったのだがお鳥はそうとは知らず、
「それがええにきまってる、さ」
毎日のようにやって来る加集だが、その引き受けた要件を一向はか取らせて呉れないので、義雄も
多少でも名の知れている文学者と云うので、知らない人々までが面白半分に、渠の周囲にはいつも集まって来た。
「田村さん、蟹の鑵詰とかはうまく
「まだその時節にはならないのです」と答えながら、遠く離れたキン玉[#「キ」に*]を力一杯出して取ろうとしたが、一方のに当って一たびコシンに這入り、それから自分の玉は
「あは、は、は!」見ているものは一切に笑った。
「でも」と、義雄も微笑しながら、「当ったのは当ったのだろう」
「そうきつく突いちゃア、象牙の玉でもこわれますよ」と、女ボーイも口を出した。
「こわれたら、弁償するだけのこと、さ」
「
こんな時には、義雄も額を油ぎらせるほど調子づいているのである。そして夢中になった時突きかたが普通の正しい姿勢と違うので、それがおのずから渠の一特色となって他人への愛嬌の種となった。渠はこれを別に頓着しなかった。
或おんな友人が西洋料理を計画しかけた時、
「田村さんなら、実費で通すから常連をつれて来て下さい、ね」と云った。
「そりゃアよかろう——あなたの為めなら、広告屋の代りにもなろう」と、渠は冗談半分に答えた。この計画は立ち消えとなった。
ところが、今回加集が一人の、玉突屋を開業したいと云う人——これが金を貸そうと云うのだ——に紹介して置くと云って、義雄を京橋へつれて行った。
「おれに常連を頼むは、真ッ平だぜ」
「ええじゃないか、二百円が出さえすりゃ?」
この人は義雄も知ってる或文学者の弟で、新らしく手を出した出版業をこの頃大抵に見限り築地橋のそばの或家の二階を借りて、年うえの、何だか分らない女と同棲しているのであった。よくよくおなじような人間にぶつかるものだと、義雄は考えた。
「僕も大切な金で」と、主人がおもおもしい気分になったのを義雄は見とめて、おのれもその気分を解したと思ったが、「加集君の紹介でもあるし」が、渠に聴かされては、力のぬけた言葉ではあった。「また、これから君にも交際して貰いたいので、加集君にも話した通り、現金が近々帰って来さえすれば、君の為めになるのなら、融通してあげてもよいのです」
「無論、僕の事業費に追加が必要なのですから」
「それは加集君からよくうかがっていますし、君の事業の有望なのも分ってますが——この急場さえ切りぬけたら、あとはどうでもええと云うような——」
「そんな無責任はしません!」
「無論、君のことだから——然し信用貸しですから、念の為めに申して置くのです」
義雄はあッちの季候では、この頃ようやく蟹が取れ出すので、六七月となって収穫の絶頂に達し、八月の半頃までで一先ずおしまいになるのだから、先ず九月一杯に返却する約束なら、決して苦しいことではないことなどを説明した。
「然し僕は君の兄さんの文学には反対で、よく攻撃の矢も向けたが——それに関係を及ぼして貰っちゃア困りますが、ね——」
「第一、兄とは別に関係のない金ですから——」
「そうなら実に結構です」
三人はそれから近所の玉屋へ行ったが、義雄は他の二人の教え手であった。
渠は玉を突きに出さえすれば、どうしても夜の十一時か十二時でなければ帰らなかった。
お鳥はこれを怒って、いつもさきに
「おい、お嬢さん、どうしたい」などと、一杯機嫌でそのそばへ坐ると、向うを向いてるまま、そら寝をしていることもある。そして突然こちらを向いて、
「あたいを大事にしないからじゃないか?」
渠は、ランプの光が直接にかの女の顔に当らないように、その方へ、原稿紙の半切れを笠に張って目隠しをしたその蔭を向けるのであった。
「
或夜、風の気味だからいつもより早く、九時頃に義雄が帰って来たら、女はちょッと出て来るからと云っただけで、明るいうちに外出したままだそうだ。
「どこへいらしッたんでしょう、ね?」
「さア——」
「もう、お帰りなさいませんでは、ねえ——」
「さア——」
「女おひとりじゃア、この頃ア物騒ですから」
「なアに、あいつのことだから、また引ッかきむしるなんかして——」
「うふ」と、婆アさんは笑った。きのう女房にしろ、しないと云う喧嘩をして、義雄が首ッ玉のところをかきむしられたのを、かの女は思い出したらしい。「あのお方も気のきついお方です、ね——今どきの若い方ですから——でも、まだあなたの奥さんのほうが余ッぽどいいじゃア御座いませんか?」
「そうですか、ね?」いい加減にあしらってから、長火鉢のそばを離れ、二階にあがるが早いか、あかりを付けて戸棚をあけて見た。渠が心配したようなことではなく、女の荷物はそのまま残っている。
その代り、またそれ以上の心配がわれ知らず浮んだ。
「まさか——」と、打ち消しながらも、あの時[#「あの時」に白ゴマ傍点]を——あの、千代子がここへ
すると、この山の、あッち側の急傾斜に
渠はそのそばへ駆けて行って、憎々しいほどに
「何をする!」
「死ぬ! 死!」女は渠の手をふり切ろうとした。そして泣き声になって、「どうせ——みなに——こんなに恥じをかかされて——お母さんにも、兄さんにも済まん!」
「何も死ぬにゃア及ぶまい——」どうせ、こッちに対しちゃア、もう、半ば死んでいるのだから、ね、とまでも云いたかった。また一方には、申しわけに死ぬのは、申しわけをしなかったと同様ではないか? 生にばかり執着する渠には、これほど無責任なことはなかった。そう云う心のうちで、「馬鹿だ、なア!」
「実際、死ぬ気であったのか」と、義雄はあとになって尋ねて見た。
「そう、さ!」
「じゃア、なぜ兄から盗んで来ていると云うそのアヒサンで死なない——もう、棄てたのか?」
「あれはもッと大事な場合でなけりゃア——」
「二度も三度も死ねる気かい——うそを云ってらア」
こう云う対話もあったのを思うと、然し、また、今夜は、うちにいないだけ、何も事件がありそうでない——まさか外で毒薬を服用しようとは!
渠は風邪の熱を出そうとして、水を大きなコップに三四杯飲み、独りで寝どこを敷いて、そこへもぐり込んだ。
寝苦しいので、右を向いたり、左を向いたり、うつ伏しになったりしながら、渠は女の帰りを待った。——
お鳥は、おれに身をまかせる前に、ちょッと朝鮮人へ目見えに行ったことがあるぞ! 然しあれは仲働きの候補で、いやだから一日でよしたと云った。
質屋の隠居のめかけでいいなら、十円の口があると、桂庵[#「桂」に*]から聴いて来たこともあるそうだ。
おれのところへ来てから、病院通いの外は、そう独りで出歩いたことはない。
「どうせ、あたいは日かげの身だ——恥かしゅうて、うかうか外へも出られん」と云っていた。——
渠は苦しいので左を向いた。
「けれども、どうせこんな身分でいるときまったら、お前のような貧乏人は相手にしやせん」——ひょッとすると、ああ云うつもりで、何かの野心を起したのじゃアなかろうか?
あの氷川の森かげの下女細君、あれがそんな風な口をかけているのじゃアないか知らん? 一度手紙が来てから、よくあすこへ行き行きする。——
渠は右を向いた。
今夜も亦あすこなら、高が知れている——が、あいつは、二三軒の口入れ屋[#「口」に*]を歩いた経験がある。いざとならば、今度は大胆に
現に、この隣りの桂庵婆アさんも、こないだ、変ななぞをかけたと云った。あの婆アさんはおれのおやじの生きてる代からおれのうちへ出入りしていたのが分った。して見ると、今は逃げて去った継母がまだいる時、継母がお鳥を第一に紹介した口入れ屋はこの隣りであったろう。
「下らないことを——」と自分で云って、また寝返りした。
継母を愛していた父は死んだ——その葬式はまだその時生きていた隣りの和尚さんに頼んだが、おれはどんな形式で以ってでも宗教家の手で葬られたくない。これはおれの主義だ——まさかの時の為めに、おれは千代子にも、お鳥にも云って聴かせた、おれがおれを去る時は、決しておれの主義を恥かしめるなと。
宗教——形骸ではないか? たとい宗教心——はあるとしても、却って宗教その物にはない。生その物に執着する努力を宗教心と云うなら、
いつのまにか、渠は、仙台の耶蘇教学校にある時、松島へ行って度々
「然し実際は堕落ではない、人間として当り前になったのだ!」——
渠はうつ伏しになった。
何だか、こう——寂しいような——身軽になったような——さッぱりしたような——足かけ二年を初めて独り寝をしているのであった。
どこかの厳粛な教会で賛美歌の声とオルガンの音とがよく揃って、その中へ悪念や悪物が何もかも消えて行くような——どこかの静寂な本堂で※[#「臘」の「月」を「虫」、読みは「ろう」、p143-下段5]燭の光が真ッ直ぐに燃えて
今一度女や事業を遠ざけて、世外の人になっても見たい——が、——或山の荒廃した堂内で一夜を明かした時、おれは
「形を以って形を追っていたのだ」まだまだそんな低級な自分ではない——自分には少くとも一種の哲想がある。否その哲想を自由に具体化した生活がある。これはいつかは小説にも表現して見なければならないと思うと、直ぐ又ほんの筆さき専門の作家や世の雑輩連の雑評に対して、今から用意した侮蔑の念が浮んだ——渠等は哲想のテツの字も分らないのだ。まして哲想を自由に具体化した人物の描写をやと。
渠は又あお向けになったが、左右に触れるべきやわらか味の物はなかった。そして自分のからだ中があせばんでいるばかりが感じられた。然しこの病気に苦しみ、女に苦しみ、事業に苦しみ、自分自身に苦しむ自分その物の熱とあせの臭みとが、この場合、一番懐かしかった。
がらがらと車の音がした。
下の障子や格子戸があいて、婆アさんが外へ出た様子だ。
義雄も知ってる通り、かの女は、亭主が十一時から十二時までに帰りさえすれば、縁日商人の職業上当り前なので、喜んで出迎えるのである。そして、丁度可なりの傾斜を登って来なければならないので、坂の中途まで行き、一緒になってその荷車を押すのだ。
「今夜はどうだ、ね?」
「あんまりいいこともねい——もう、諦めても——」
「まだ清水さんが帰らないんだよ」
「へい——珍らしいことだ、なア」
渠は熱苦しくなったからだをまたうつ伏しにして、「あれでも渠等は満足して生活して行けるのだが——」と考えていた。
<-訂正-> 直ぐこの隣りが切り開かれて、電車道になるのだが、まだ手がつけられていないので、電車の響きは遠くにばかり聴えている。が、下では、もう、あかりを吹き消すけはいがした。
神田から御成門までの切符代が無かったのか、惜しまれたのかして、曽ては、その間を歩いて、夜中の一時半頃に我善坊へ帰って来たこともある女だが、一緒になってからは、こんなに遅くまで留守にしたことはない——と、こう思いながら、渠は額を枕の切れに当てて、油あせを拭きつけた。
嫉妬のほむらがからだ中にみなぎっていたのであって、闇の中にも、壁に垂れた
「きょうも、おれの留守に来やアがったと云う加集の奴、とうとう物にしたのじゃアないか?」
渠はもッと早くかの女を
女優志願の件も、本人の
学校に入れるどころではない、お鳥その物とも、どうせ手を切ってしまうのだと、義雄は思った——その時期は、樺太へ出発する時で、その後は、こちらに治療の責任ある例の病気その他に就いて何と云ってよこしても、もう、返事をしなければいい。ただ可哀そうだから、返してやりたいのは、あの質物で——事業の先発隊の用意の金をすべて持って行かせたあとで、直ぐ、なお追加の空鑵材料を送った時、金に困っていたのを見て、案外にも、お鳥は自分の所有物を提供して多少の手助けをして呉れた。その所有物の中には、母のかたみだと云う
「
「あたいをさえ可愛がりゃア、あんな物はやる、さ」と、お鳥は、不断その品ばかりを心配しているにも拘らず、平気で云ったことがある。
「まだ、ね」と、軽く受けて、「おれの一身を田舎婆
「では、直ぐに質屋から出して来い」と、かの女は怒った。
あれを出してやろうか、それとも暗に手切れ金のつもりで新しい衣物を一つ買ってやろうか、どッちを選ぼうかと考える日が義雄に来た。
「おい、何か衣物を欲しいことはないか、ね?」
「買うて呉れる」と、かの女は急に喜んでやわらかに首をかしげたが、「では、セルが欲しい」
その日、義雄は不時に這入った原稿料をふところにして、かの女と共に白木屋へ行った。二階は
「どれにしよ」と、のぼせ加減にかの女はあとについて来た義雄を返り見たが、渠はこうして別れることばかり考えていたので、ただ
「どれでも好きなものを買えばいいだろう」
「……」かの女は、渠をふり棄てるようにして、反対の側に足を運ばせたので、渠は椅子に腰かけて、円テブルの上のマチを取りあげた。
そして去年の暮の
「そんなに
そして自分とお鳥とは、共に両方の手に持ち切れないほど、日常の必要物や化粧品や食物の皮包を持っていた。
「きょうの気分は、
「ちょッと来てな」と、お鳥はあわただしく顔をしかめて呼びに来た、そして義雄が立ちあがると、あたりに人がいるのも構わず、渠の袂をぐッと引ッ張って、
「ちッとも、一緒に見て呉れへん——人に買われてしもたらどうする!」
かの女は急いで
「どッちがええだろ?」
中に囲まれた女は、直ぐその下からくぐり出て、お鳥にちょッといやな目付きを投げた。
義雄は、かの女をしてぐずぐずと人の邪魔をさせて置くにも及ぶまいと思ったので、わけも無く自分の方のをあごを以って示し、
「これがいいだろう」と、尤もらしく答えた。で、かの女は他方のを放したが、かの女の手に残ったのは、竹に雀の墨絵が書いてあった。
「では、これと下で見たセルとにしよか?」
「じゃア、そうしなよ」
渠はこの二つの品に半襟を一つ加えてやり、これが代金を払ってから、食堂で
お鳥が最終電車に間に合わないほどの時刻に帰って来たことが、今一回あった。そして矢ッ張り、前回と同じように、氷川の森蔭の細君のところへ行っていたのだ。そしてあの人がいろんなおどけた話をして帰さなかったものだから、つい、また遅くなったと申しわけをした。そしてまた、あの人がこッちを引きとめていたのは、亭主の留守が寂しいからであったのだからあのいやな白髪じじイ帰って来ると、人を直ぐ出て行けと云わないばかりにあしらったと、訴えるように報告した。
きょう、初めて縫い上ったセルを着ているのをちらと見て、義雄はかの女がこれを見せびらかしに行ったのだ、な、と分った。が、前回に於いて、既に女の夜遊びを懇々
かの女が義雄の枕もとに坐り、不断通りの笑がおを見せたのを、
「……」見る見る顔色を変えて、「うちなどありゃアせんやないか?——そんあに可愛けりゃア、早うあいつを追い出して、あたいを本妻にせい!」こう云って、かの女は力一杯に義雄を蒲団の上から両手で突きのめした。
「……」義雄は返事もしないで、あお向いたまま、目をつぶった。そしてこの女も駄目だ、かの千代子も駄目だ、また、父の遺産をすべて投げうった事業も、あと僅か二百金の出来ない為めに、すッかり時期を逸してしまうかも知れないと思った時、
あかりを吹き消した音がしてから、
「
それでも義雄は眼を明けず、口も開かなかった。うとうとと眠りに入りかけた頃、蒲団の一端が引ッ張れたのに気が付いて、目をあけると、——いつの間にか枕もとに置いたランプがともされていて、お鳥は
光があたまで
一度はぎょッとした為めに、ねむ気は全くさめてしまったが、
「なに、くそ!」再び目をつぶった。そして子供の時、空想的に望んで見たことが、今、多少の事実となって来たと考えた。自分を「ぼくさん、ぼくさん」と云って、よく菓子を呉れたり下駄の鼻緒を直して呉れたりした、あの船乗りのかみさんだ。他に土方の男が出来た為めに、亭主をくびり殺そうとした時、亭主が気が附いてはね起きると、枕もとに出歯庖丁もあった。その翌晩は船が大阪にとまる順番であった。そしてその翌々晩に、帰って来て、渠は前々夜に何事もなかったかのように、毒婦の室に入った。義雄はこんな大胆なおやじになって見たいと、おぼろげにだが、思ったことがある。「手切れの口実にはいい機会が来た」と覚悟して渠は出来るだけ息をゆるやかにしていた。
お鳥はそッと坐ったようだ、その裾の下から押し出された空気が、生あッたかく鼻を
自分には、これがかの女をいやになる心の条件の一大原因であるとも思われた。
蒲団がめくられたかと思うと、やがてひイやりした物が軽く、義雄の左から右の方へ、その
「そうだろう、
「なによウする!」
「殺してやる! 殺してやる!」
その時は、もう、出歯は義雄の手に在った。そして
お鳥は下へおりて行った。下の台所へ他人の刃物をでも取りに行ったのかと心配していると便所の戸を明ける音がした。
義雄は明けッ放しの押入れから
「ナイフも小刀もあるものかい」と、心に語りながら、義雄は堅い物を脇腹の横に避けて、それでもこれを少し押さえるようにして、もとの通りに横たわった。
渠がその翌朝の十時頃に目をさますと、
それからも、義雄は無言で新聞を読み、便所に下り、また衣物を着かえた。そして書き終りかけの長篇評論の原稿と共に、四五冊の参考書をすッかり引きまとめ、風呂敷に包もうとしていると、お鳥は離れた方の窓下で足を投げ出し、片肱を突いて自分の裾から出た桃色のネルの端とこちらとを見比べながら、少しも小だわりの無い声で云った。
「どこへ行くの!」
「……」義雄は、もう、これッ切りこの座敷へあがる必要はないと決心していたので、返事もしたくなかった。
「ええ、どこへ行くの?」その声は一段と優しくなっていた。
「……」
「黙って行くなら、あたいも行く」と、異様な
「来たッて仕ようがない、さ」と、止むを得ずこれに応じて、うそは云いたくなかったが、「原稿料を取りに行くのだから、ね」
こう云って包みをかッ
「ちょッと待って」と、お鳥は息をはずませて起きあがって来て、義雄の袖を握った。そしてそッと段の下の方をのぞいて見てから、もとの窓ぎわの方へ義雄を無言でぐんぐん引ッ張って行き、窪んで青みがかった眼で、じッと力強く命令するように渠の顔を見詰め、かの女は先ずその白い幅ッたい顔をのぼせさせていた。
「向うの愛情が熱して来ただけに、
加集は喜んで引き受けた。そして直ぐお鳥のところへ出かけた。もう、くッ付くなり、何となりしろと、義雄は心を落ち着けて、
すると渠はまもなく帰って来た。手には馬肉の新聞紙包を持っていたが、
「えれいおこりようだで、なア」と云いながら、その包みを投げ出し、また背広のポケットから正宗の二瓶を出して、義雄のそばにあぐらをかいた。
「また馬肉かい?」
「うん——うまいじゃないか?」
義雄は
「おこってるッて?」
「丸ッ切り、あいつア気違いじゃ、なア」
「おこったッて、仕かたがないじゃアないか?」
「おれに、お前のようなものは仲へ立って貰わん云やがったぜ」
「じゃア、どうすると云うのだ?」
「直接に話を付ける云うた——おれのうちに隠れてるに違いない云うて、こわい顔でにらみ腐った」
「ここを知る筈アなかろう——?」
「無論だ——自分で自分のからだをひッかいたり、君の雑誌を引裂いたり、あのざまを君に見せたかったよ」
「うッちゃって置く、さ」
「帰りに下の婆アさんにそう云うたら、あいつも失敬なやッちゃ、丁度いいからおれに貰ってやれと、さ」笑いながら、「馬鹿にしやがる!」
「……」義雄はちょッと加集の顔色を見たら、何だか得意そうであった。「どうともさせて置くがいい、さ、——おれだッて、もう、二度と再び喉をだしちゃアいられないから、ね」
「今度こそ、見つかったら、ひどい目に会うぞ」
「ふ、ふん」と、義雄も心配そうに笑った。
「
この時、がらりと下の格子戸が明いて、女の声がした。義雄は身の毛がよだった。
加集は抜き足して行って、下り口から下をのぞいていたが、
「なんじゃい」と、棄てぜりふで云って、にこにこ戻って来て、「
義雄はちッぽけな一私人の印刷屋の二階にいるのに気が附いて、ふと窓の外に目を送り、屋根から通りへ傾いている大きな横看板の裏を見た。そしてこんな家の主人を相手に何か共同の発展をしようとしている友人の、大して望みありそうでもない努力を
「晩飯にゃア早過ぎるが」と云いながらも、二人は自分等で
「鶴田君じゃで」と、加集は肩をすくめて義雄を見た。そして低い声で、「あの金が出来たんなら、うまいが、なア」
飛び下りるようにして迎えに行き、加集はこの鶴田と云う築地橋そばの人をも仲間に加えた。
「お約束の金は」と、鶴田はちょッと義雄に改まって云った、「いよいよ近々戻って来ますから」
「そうすれば、僕も」と、義雄の心では、その嬉しさよりも、寧ろお鳥の追跡を避けることが出来るのを、この場合、一番の幸いだとして、「出発が直ぐにも出来るのです」
食事が終ってから、三人は玉突に出かけた。そしてその夜は、義雄は加集と共に加集の二階へ帰って来て、二人で一組の蒲団を引ッ張り合って眠った。
翌朝義雄が目を覚ました時、もう、加集は昨夜断っていた通り、外出していなかった。そして下の時計が十時を打つのを数えたが、自分は起きる気にならなかった——若し人間が人間を忘れ、自分が自分をどうでもいいとならば、家が人のであろうが、仕事が自分に迫っていようが、このまま斯うして、自分が寝飽きるか、人が追ッ払うかするまで、ぐッすり寝つづけていたいものだと。
渠は仰向けにからだを延ばして見た時、これまであくせくと考えたり、働いたりして来たことの結果をすべて吐き出すようなあくびを一つした。そして自分が持って来た書物を座蒲団で巻いた枕の方へ無意味に両眼を流れ出で、両方のもみあげのあたりに伝う、生ぬるい涙じるを手の平で押しぬぐった。
また、うとうとして見たが、直ぐまた目が覚めた。下の印刷屋の格子戸が度々明いたり、締ったりする忙しさは、自分のあたまで通って来た之までの忙しさと同じようだと思った時、今度格子戸を明けるものが
午後の五時頃まで待っていると、
「暑い、なア」と云って、加集は帰って来た。「二千五百円の宅地をあの○○に」と、国から出た先輩の名を挙げ、「買わせようとしてるけれど、なかなか買わんて——ついでに、またあいつのところへ寄って来たが、なア、いなかったで。おれのうちを探してるのじゃ、なア、いなかったで。おれのうちを探してるのじゃ、なア。ゆうべもおそくまで留守にして、帰って来ると、直ぐ君のヴァイオリンも三味線も皆たたき
「いッそのこと、あいつのからだもたたき毀れたら、肩抜けがすらア、ね」
「きつう、おこってるんじゃで——おッそろしいぞ、あいつのことだから——鼻にえらい皺を寄せて、きのうも殺す云うてたから、なア」
この時、下の格子戸が明いたようであったが、「加集さんはおりますか」と、静かに気取った声がしたのは、確かにお鳥だ。
「とうとう来やアがった」と、義雄は低語したが、その調子が引き締まっているのを身ずからもおぼえた。それから少しのぼせたように調子がぐらついて、「どうして分ったろう?」
「加集さん。お客さんですよ」と、下のかみさんがうわ付いた声をかけた。
「へ——さア」と立ちあがったが、義雄の方をふり返り、「不思議じゃが、——君は、まア早く帰れよ」
義雄も急いで、机の原稿とそばの書物とをまとめて、風呂敷に包んでいる時、お鳥は加集のあとからあがって来た。
とッつきの三畳の間から、おもての六畳へ這入ったところに突ッ立ち、悲しみを忍ぶような、そして
「どうして、また、分かったのだ?」義雄は頬のぴくぴくし出した顔にわざと笑いを
「畜生!」かの女は斯う一言して、全身の力を籠めたようにからだを振った。
「そう、さ——お前も畜生なら、おれも畜生、さ、然し、ね」と、向うを荒立たせないつもりで言葉を優しくして、「おれの方はよく分った条件を加集君まで持ち出してあるのだぞ!」
「あんな者の云うことなど聴かん!」
「ふ、ふん」と、加集はかの女の正面に当るところにあぐらの片膝を抱いて、にやりにやり笑っていた。
「逃げないでも、直接に話をきめる!」
「こんな場合に、お前とおれとでかたを付けるなんて、出来るものか?——兎に角、おれは加集君にまかせてあるから、ね」ちょッと加集を見て立ちあがりながら、「僕は失敬するよ」
「では、おれがあとでよく云うから心配するな」
「逃げないでもええ! 云うことがある!」まだ睨みつづけていて、かの女の息は迫っていた。
「おれは、もう、二度とお前の命令じみたことは受けないよ」こう云って、次の間へ行こうとした時、かの女は忍び切れなくなって、両手を固めて飛びかかって来た。
「何をする!」義雄は本包みをかかえない右の方の手でかの女の左の手くびを握りとめた。見れば、方式通り、母指を中にして他の指でそれを固めているが、こんな用意をしたにも似合わず、少しも力が這入っていなかったので、「まだおれに
が、時の勢いがあと戻りをさせなかった。全く未練の無いような強さを見せて、障子を締め切り、ずんずん下へ下りた。
自分の締めた障子が明くのを恐れたが、そんなけはいは無かった。
※[#「孚」の「子」を「木」、読みは「うね」、p155-上段4行目]
あとからお鳥が追ッかけて来はしないかと云う恐れにばかり追われて、おずおずと急いで橋の
「若しや、きょう、あいつが立ち寄った時、お鳥にこと更らに自分の住所を知らせて置いて、直ぐあとからやって来いと云って置いたのではなかろうか?」堪らないほどもやもやして来た胸を押さえて、渠は跡もどりをした。
印刷屋の格子をあけて締めた時には、自分の女房を寝取られてる現場を見た心持ちも
印刷機械の一部や印刷紙などを積み重ねてある
「どうした」と、加集も多少びッくりして眉根をあげたのが、左右に引ッ張れて、ゆるい八の字に見えた。が、
お鳥は、然し、横になって、加集が車に乗る時に使う膝かけをその上にかけていた。
「焼けになって、慎しみを失ったのか」と云ってやりたかった。「いや、おれと別れたら、直ぐ困ることは知れ切ってるから、加集の意を迎えるつもりだろう」と思った。
こうなれば、もう、嫉妬よりも侮蔑の気が勝って来て、義雄は多少心を落ち付けた。
「なアに、ね」と坐り込み、「矢張り、僕が直接に、おだやかに、云って聴かせた方がいいと考え直したから——」
「もう、云うて
「お鳥さんも大分わかったようだから、今少し気を落ち付けさせる為め、——少し——休むように僕は云うたんじゃ——僕も君の友人だから、君の為めになるように計るによって、なア、心配するな」
「じゃア、矢張り君に頼んで置くとしよう」と云って、また立ちあがった。もう、渠はどちらにも未練らしく言葉はつづけたくなかった。
そこを出で、再び溝板の横町を通り抜け、木挽橋を渡り、竹川町で品川行きの電車に乗った。多少すッとして軽い気持ちになった時、さッきから左の腕にかかえている書物の重さをおぼえた。
「どこへ行って仕事をするつもりだ?」こう云って、自問自答をして見たが、どうしても自分の我善坊の家へ帰る気にはなれなかった。
宇田川町で電車を下り、御成門の方へ一直線に急ぎ、またの電車線を横切って、自分がきのうまで陣取っていたところに行って見た。が、そこへもあがる気がしないので、格子を
婆ァさんが迷惑がった顔つきをして、昨夜のあり様を——加集にも同じ調子で語ったと思われるように——語り、
「ゆうべ初めて分ったのですが、ね、あんなおそろしい方は、もう、真ッ平です、わ——焼けになっていつこの家へ火付けをされないものでも無いのですから、ねえ——わたしも夜おそくまでたッた
「まさか、そんなことも——」
「いいえ、あなた、どうして——清水さんもまだあなたに未練があるようですが、あなたもまだ思い切れないでしょう?」
「僕は、もう、大丈夫ですよ」
「尤もそれが奥さんの為めです、わ、ね——清水さんのような方は、あなたもさんざんもて
「どうとも勝手にさせますとも!」
間代は既に今月払ってあるので、それ以後自分の責任は無いからと云って、義雄が立ちかけると、婆アさんは思い出したように、ゆうべ、我善坊の千代子がやって来て、相変わらずやきやき云いながら、弟が病気で入院したと云う樺太からの電報を見せたことを告げた。
それでも渠はこの坂を向うへ越える気になれないで、再び御成門の方へ引ッ返した。
「自分の家が無くなったのだ! そして例の金が揃わないじゃア、弟の
こう心に叫んで、久しく行き絶えていた浜町の怪しい家へこの夜を明しに行くと決心した。そこで小仕事に短い原稿を書いて、本夜の費用にすればいいからと。
翌朝、独りになってからまた一寝入りしたが、起きて近所の銭湯に行って帰って見ると、ゆうべから頼んで置いた使いが帰っていて、或雑誌社からの稿料が来ていた。費用を払って、なお大分に残りがあった。
電車に乗る前に、朝昼兼帯のちょッとした食事を済ませ、竹川町で下車して加集のところへ行って見ると、
また電車に乗って三田の
あの時、
大人の手でも殆ど二かかえもあろうと云う円みの、その高さは脊延びをして中をのぞくほどの釜であった。その
いよいよ出来あがったと云うので、湯の代りに水を一杯に満たせ、強力なポンプを以ってその上にまた水を送ると、圧力測量機の針がくるくるとまわった。その機械の根を締めて、また一段の力を与えると、今度は釜と蓋との密閉部から、水が多くの細い線となって吹き出し、あたりにいる人々の顔となく、胴となく、
沸騰点以上なお四五十度の熱と同様の圧力をかけたのであったが、これではまだいけないと云うことになり、密閉部の工合をもっと
そんな釜を厚い鉄板から鍛えあげさせたのである。それを、自分の身が形作られて行くような気で、鉄工所へ見に行くのを義雄は毎日の楽しみにしていた。
とんかち! とんかち! とんかち! そして赤くなった鉄が段々に延びて行く。そして又延びて行くと同時に、半円形になって行く。
これを見て、初めて、渠は実際にどんな形の物であるかを想像し得たが、二つの半円形の厚板がまだ全円に合わされないうちのこと、自分はお鳥の二階へ帰って、昼間の工場であまりに目を見疲れさせた為に早寝をしたことがある。そして自分が熱鉄の
とんかち! とんかち! とんかち! と云う音が遠く聴える気がして毎朝目をさまし、食事が済むと直ぐまた出かけた。
やがて両半円は会合した。そしてその会合部は、上から下まで、多くの大きな
それに底が出来た。また、蓋が出来た。そして渠はアミーバがその母体を離れたようにとんかちの音に別れた。
が、その音は今や自分の中にも
とんかち! とんかち! とんかち! 鉄工所の門前に近づくほど、足の歩みが急がれて、その音が段々と明らかになった。
門が見えると、渠は飛び込んだ。すると、同じような釜が一つ出来あがっていた。
「そりゃどこ行きか、ね?」
「これですか」と、知り合いの職工が答えた、「これは蟹の方じゃアごわせん——どこか東京近在の註文です」
「何に使うのだろう、ね?」
「さア——旦那も、どうです、今一つ発展しちゃア」
「うまく行きゃア、ね」と、義雄は微笑した。あちらがうまく行けば、この秋から朝鮮へ行って、すっぽんの鑵詰をやる計画と研究とも出来ていた。
そこを出てから、また行く先に迷った。
で、佐久間町の弁護士なる友人を久し振りで尋ね、玉突やら晩餐やらを一緒にしてから、再び加集のところへ行って見た。が、午前からあの女と一緒に出た切りまだ帰宅しないと云う下のおかみさんの話なので、じゃア、ゆうべはとまったのかと聴くと、そうだと答えた。
いなければ待っていようともしていたのだが、果して案のじょうなるこの事実が分ったので待つのも馬鹿馬鹿しくなった。
時計を出して見ると、もう十時に近かった。これからは、もう、ゆうべのところへ行くより仕方が無かった。
その翌朝、また水天宮前から電車に乗り、竹川町で下りて、
「どうだい、鶴田君は至急運ばせて呉れないか、ねえ?」
「そう
「じゃア、そッちで少し都合が悪いから、今一ヵ月待って呉れいとでも云って来られりゃア鶴田君もそれッ切りだろう——?」
「そんなことは無い筈じゃ——それよりゃ、君の方が九月一杯に返せんと、僕までが面目ないで」
「おれの方は大丈夫だよ——然し大丈夫と云やア」と義雄は少しどぎまぎするのをそう見せないようにして、「あいつを物にしたのかい?」こう云って、この点を突きとめさえすればもうお鳥との手切れ条件の一つなる治療条件は御免を
「そんなことがあるもんか」と、軽く
「行こうとも!」
「では、早う行かんとかち合うで——きょうの午後二時頃に移って行く筈じゃ」
「どこだい?」
「八丁堀の電車通りの裏手じゃ」
「さア、行こう」と、義雄は立ちあがった。「おれも二度とは直接に会いたくないから、ねえ」
「会うてたまるもんかい、僕の君に対する奔走が無駄になってしまうじゃないか?」
治療代はこッちで出し、本人はそっちで占領する——そんな都合のいい計算は人間その物の
加集が道々話したに依ると、お鳥が渠の居どころを知ったのは渠が義雄に紹介した或書生のハガキが残っていたからであって、かの女はその書生を尋ねて、加集のところを知ったのだ。
二人は桜橋で電車を下り、堀に添って東へ入り、右に曲った通りへ来た。
一間ほどの窓格子の真ン中に、一尺四方ばかりの額ぶちがかかっていて、その中に桃太郎や
「……」義雄は黙ってちょッと苦笑いしたが、その金だッて、こちらがお鳥に自分等二人の日常費として来月十五日までの分を渡してある、その中から出したにきまってると思った。
この百面相の窓格子のはずれと、どこかの倉との間に、一間四方あまりの空地があった。そこにけち臭い氷屋の屋台店が張ってあった。そのよし
「
「ええ、まだ——」
「もう、おッつけ来るでしょう——君、この二階だよ」と、屋台店の奥を高くゆび指した。
下は物置になっているが、雨ざらしの大工はしごを登って見ると、六畳敷の座敷があった。壁や天井裏はすべて新聞紙を張りまわしてあり、大きな大黒を書いた去年の柱ごよみと、石版
その簀の一端をあげて、義雄はそとへ出もしなさそうなつばをしようとしたら、その下に氷店のあんこが伏せてあるガラス蓋が目にとまった。で、渠は顔を引ッ込めて、奥の片隅の高い小窓のそとは何であろうかと思ってのぞいて見ると、隣りの押し迫った屋根の上であった。
「わざわざひどい所を探したものだ、ねえ」
「でも、安いよって、なア——いくらだと思う?」
「いくらだッて、もう、おりゃア——」
そこへ二十四五の小奇麗なかみさんが茶を持ってあがって来た。
「御主人はいますか」と、加集はかの女に声をかけた。
「きょうは、○○の宮さんのとこへ招待されまして、つい、
「百面相ッて」と、義雄はまだ何のことか分らなかったので、「どんなことをするのです?」
「おかしい芸人で」と、かの女は愛想笑いをしながら、「ほんの、道楽が高じてこんな商売をすることになったのだそうです」
「きのう、本人が」と、加集は得意そうな顔つきで、「どこかよんでくれる宴会でもあったら、世話して呉れと云うてた」
「そりゃア何だか面白そうな仕事でしょう、ね」と、義雄は笑いながら。
「いえ、ほんの、道楽で——」
「芸が面白いよりゃ」と、加集が受けて、「本人が面白そうな人間じゃて」
「そうだろう、ね——そして氷の方もあなたのうちで——?」
「へい——」
「おい、一つやろか?」
「さア——」と、義雄は応じかねた。喉が
「では、おかみさん」加集も立ちあがって、「来たら、よろしゅう頼んます」
それから電車通りへ出て、二人は氷を飲んで別れた。
義雄はかかえている長篇評論の結末を書かなければ、自分自身のその日、その日をささえる金にさえ困るにきまってるのだが、落ち付いて書く場所がなかった。
この原稿を依頼した社へでも遊びに行って見ようかと考えたが、まだ書きあげないものを持って遊びに行ったとて、無責任としか見られないのにきまっていた。
で、愛宕の塔下へ訪ねて行ったが、
転じて四谷へ行き、或婦人の独身者を訪問した。この婦人は渠を冷かし半分で、
「なぜあたしを
「どうせ口説いたッて、物になろうとは思えない人だから、ね」と、渠は
かの女が某華族の夫人と共に催した或慈善音楽会に於いて、渠は一場の演説をしたこともあった。かの女の家でかの女と婦人論を争って、その母親に喧嘩しているのではないかと思わせたこともある。かの女の紹介で、何物であるかまだかの女にも分らない或美人——実際の美人であった——を訪ねて行って、その生活の様子を探って見たこともある。かの女が玉突屋兼業のレストランをやって見ようと云う出来心を起した時、無駄であったが、いろんな助力を与えたこともある。
そんな関係で、渠が清水鳥と云う女に熱心になっていたことも、かの女は渠から聴いてよく知っていた。が、渠がいよいよ樺太へ出発する折りは、そのお鳥を預かって呉れないかと頼んで見た時、これは三ヵ月ほど前のことだが、
「そんなきたならしい病気の人なんて、あたしいやです、わ」と、かの女は半ば怒って、はね付けた。それでも渠はこの婦人には当り前の返事だと思って、悪い気はしなかった。
「もう、この婦人しか無い、今の自分の心持ちを持って行きどころは——その、いつもの忠告通り、女と手を切ったことをうち明け、叱られて、笑われて、半ば同情の言葉を得て、二三時間だけでも、自分の落ち付きどころを借りて見よう」と、玄関の格子戸を明けたのであったが、母親なる人が出て来て、ここも
「いつ、あなたはお立ちになりますか、ね?」
「もう、四五日中だと思います」と、義雄はわけもないように答えた。
人や自転車の行きかう間をよけながら、渠は全く途方に暮れた。
あまり好きでも無い酒を呼ぶ為めに、肉屋やバーに這入る気もなかった。
「今一度お鳥の新居へ行って見よう!」こう云うむほん気が確かに渠の心を占領したのは、渠が四谷見付けを這入り、※[#「麹」に似て、「夾+夂+勹+米」、読みは「こうじ」、p164-上段3]町八丁目近くまで歩いた頃であった。
渠はまた八丁堀へ行った時は、もうお鳥は例の六畳敷をかたづけて、角火鉢にかけたゆき
渠は、
かの女も亦こちらを返り見て、にッこりとした。そして常にでさえ珍らしかったほどの優しみと嬉しみとを籠めた目付きで、こちらを見つづけた。
「このざまはどうだ!」こう、
「知らん!」こう云って、かの女は渠のからだを両手で突き飛ばした。片手を後ろに突いた渠が、何とも云えなくなって、真面目な顔であぐらに直ったのを、かの女は前とは丸で違った顔でにらみ付けて、
「衣物を買うて呉れたおもたら、手切れの為めやなんて、加集に云うて——死んでお呉れ、あたいも死ぬさかい!」
「うん」と、横へ向いてはずしながら、「死ぬのは、いつでも死ねるよ。おれなどア、どうして生きて行くかが
「お前だけ生きたら、ええのだろ——あたいをどうするつもりや?」
「棄てる神があれば、ね」と渠は今度はかの女を冷やかに見て、「また拾う神もあり、さ」
「神などありゃアせん」と、かの女は目で渠を遠ざかるような色を見せた。
「じゃア、加集をどうしたんだ、あの晩にとまって、——また、その次のゆうべもだろう?」
「そんなことはない!」熱心にこちらを睨んで、訴えるように、「ゆうべうちで寝よとしたら、あの婆々アがあがって来て早く立ちのいて呉れ云うた位じゃないか? どうせ出るにきまっていたさかい、そう云うてやったら——変な顔をしたけれど——人を棄てたり、人に恥をかかせたりして!」情なさそうにべそをかいた。
「そりゃア、お前が分らないから、さ」
「そッちが分らないのじゃ——誰れが、いつまでも、めかけなどになっているもんか?」
「そうして、何かい、加集の足かけなどになったのか?」
「そんなことは無い!」かの女は怒ったように膝に力を入れて畳にぶつけ、顔を皺くちゃにして見せた。
「その顔が、お前の見え透いたうその手だよ——もう、ちゃんと、おれにゃア分ってるのだから、ね」
「……」かの女は真顔になって目を少し落して、義雄の強みを蔵する視線を避けたが、また見あげてあまえるように、「そんなら、何で来た? 帰って貰う!」
「ふん——こんな詰らない部屋でも、ね、もう、前金を払ったに相違ない以上はおれが借り主だろうぜ」
「では」と、かの女は尋常な顔になって、「人を棄てたりせんでもええじゃないか?」
「
「どうして、さ?」かの女は、不思議そうに。
「二人の間には、第一、出歯庖丁が這入った」
「……」
「それから、加集が這入った」
「そんなことは無い」と、また顔をしかめた。
ゆき
「誰れの為めに焚けたのだか、ね——おさしつかえは御座いますまいか?」
「丁度ええとこじゃさかい」と、かの女は渠の冷やかしに頓着せず、ゆき平をおろして、「何か買うて
「そうだ、ねえ——」と、義雄は手を懐ろに入れかけた。
「お金はこッちにもある——きょうも、あんまり癪にさわったさかい、あの婆々アから間代の五日分だけ取り返して来てやった」こう云って、かの女は喜んでいた。
かの女は正宗一本とかれいを一尾と買って来て、膳ごしらえが出来た頃、加集が案内もせずあがって来た。
「来てるのか、君」と渠は間の悪いような顔をして立った。
「ああ」義雄は、食膳代用の机に向ったまま、悪びれずに返事をした。「おれにゃア、行くところも、いるところも無いのだ。——まア、一緒に一杯やろう——坐り給え」
「僕も一本あるぞ」と苦笑しながら、ポケットから取り出したのをしおに、義雄と相対して腰をおろした。そしてからだを横にして、瓶を女の方につき出し、「お鳥さん、これもついでにつけてお呉れ」
「……」かの女はちょッとふり返ったが、取り合わなかった。
「あれから、なア、また○○の」と、先輩の名を挙げて、「とこへ
「二千五百円の宅地とかでかい——まア、つごう」と、義雄は加集と自分との
渠はお鳥に命じて、加集の持って来た正宗をも
「まア、そう嫌わんで」と、加集はかの女のつんとそッぽうを向いている横顔を見た。渠の目には、これまでに見せたこともない
「じゃア、おれが燗をしてやる、さ」義雄はこう語って、火鉢へ行った。
渠は半ば加集に後ろを向けていたが、加集がじろじろとお鳥を見て、かの女の顔色を読もうとしている様子が、自分の近眼鏡の裏に写った。
その夜、加集もいろんな世間話をして、いつまでたっても帰ろうとはしなかった。
義雄はまた、このいきさつがどうなることだと、心を据えて、半ば傍観気を起していた。
お鳥だけはじれじれしていて、加集に帰れと云う素振りをばかり見せた。
「もう締めますが——」下からかみさんの声がかかった。
「じゃア、締めてもよう御座います」と、義雄は答えた。
お鳥はこらえ切れなくなった見え、
「帰って呉れ」と、加集につけつけ云った。
「帰るなら、帰るように話をつけて行く」こう、加集は強いことを云い出したが、その割りに声が顫えていた。見ると、渠の顔は、義雄には、如何にも恨みある悲しみを表しているようであった。
「こッちの範囲内に立ち入らせたのが悪かったのだ」と、義雄は
「まア、一緒に寝よう、さ——僕も酔ってるから、ね」
お鳥は物も云わないで、自分だけの
義雄は下の濡れ縁をあがって、奥の便所へ行って、またはしごを登って来た時、立ちあがっている加集がこれも立っているお鳥に突きのけられて、壁の大黒ごよみにぶつかったところであった。
「喧嘩なんかするな! 僕がこの場にいる以上は、ね」こう云って、義雄は、一方に片よせて敷いた褥の上から、上の蒲団一枚を剥いで、加集に与え、「仕ようがない——君はこれにくるまって、寝て貰おう」
「かしわ餅かい?」加集は愛想らしく笑った。
「そう、さ、ね——それでも女は女だ」と、義雄は自分の寝まきに着かえながら、
「ヴァイオリンなどはぶち毀しても、衣物はこんな下らないのでも、何かの足しになると思って持って来ていらア」
「それも」と、お鳥はもう這入ってる褥の中から、「焼いたろかおもたんじゃ」
「あの婆アさんが」と、加集も少しゆったりした声になって、「火事でも出されるのを心配してたのは
「ほんとに、そう、さ、ね——然しここは、また」と、義雄は今見て来た締りを思い出して、「どうしたのだろう、ね、下の庭に戸締りも何もしてないぜ。ただよし
「そりゃ僕も知らなんだ、なア」加集は心配そうに蒲団から顔を出して、「用心が悪いやないか?」
「悪くッたッて仕方が無い、さ、——君が、わざわざこんなところを見付けてやったのだから」
「そんなことまで僕も気が付きゃせん、さ」
「然し、万事よく釣り合ってらア、ね」義雄のこの言葉を聴いて、お鳥は無言でだが怒って渠の横腹をきつく突いた。
義雄も黙ってしまったが、こッそりかの女の手を引き寄せ、
「どッちが好きだ」と、指さきで書くと、
「おまえ」と、かの女は書き返した。
翌日、遅くあさ飯を一緒に喰ってしまった頃、加集は言葉を置き置き、こう云い出した——
「僕は——これから——時間があって——出るが、なア——一体、この話は——どうなるんや?」
「どうなるッて」と、義雄もむッとして、「もう、済んだような物、さ」
「まだ済みゃせんじゃないか?」加集は眉根を引ッ釣らせて、「君は僕に依頼して、僕は君とあの女との手を切る奔走をしたんや」
「そりゃア、そうだがね、今となっちゃア、もう、取り消されたのだ。僕自身でこれと僕との間は、切れるなり、またくッ付くなりする、さ」
「でも、まだ君は取り消してない」
「じゃア、今僕が取り消すが、君の二三日来の奔走は実にありがたかった」こう云って、一つあたまを無器用に下げた。
「如何に友人間でも、君はおれを馬鹿にしてるよ——僕だッて、一日をほかのことで奔走すりゃ、それだけ金になるからだを、君の為めだおもて、この二三日棒に振ってるやないか?」
「然し君はその報酬は得ていると思うが、どうだ?」
「そう云われると、なお——」加集は言葉を中止して、お鳥が二人を少し離れて後ろ向きになっているのを横目に見た。
「あれは、たとい」と、義雄はかの女を見ずに、「何も分からない無智同様の田舎者としたところが、兎に角まだ娼婦や何かでは無い。それを——」
「そう云われると、僕も——然し君の為めに手を切らせる一つの手段としては!」
「いいや、そんなことは、今更ら意味もない申しわけだ。僕は、だから、何も君のこの二三日のことを責めるのじゃアない!」
「然し——」
「それとも、友人間のことを金にする気かい?」
「……」加集は
「よし」と、義雄も坐り直して、「いくらの口銭を出せばいいのだ? その代り、またあの女にも要求があるだろうから、ね」
「……」
「僕は
「そう云われると、——僕も——実に——心——苦しい」加集はその背を壁にもたせて、女と義雄とをどッちにも横目で見るようにして、「実は、もう——僕のうちへもとまったし、大森の砂風呂へも一緒に
義雄はこれを聴いて、かッとのぼせた。想像と推断とでは、既に分っていることだが、本人の口からこう当てつけられて云われると、あたまにのぼせて、からだがひイやりしてしまった。そして今までのがん張り方が馬鹿々々しくなると同時に、この女をわれからかばうのが女にも笑いの種になってはすまいかと思われた。ゆうべのありさまだッて、自分がただいい気になっていたに過ぎないのかも知れず、女が加集にむごく当ったのも却って反対の意味があって加集が馬鹿の為めにこれを理解し得なかったのだとも取れ出した。
「おい、ちょッとこッちを向け!」こう、義雄はお鳥に叫んだ。が、かの女は向きも返事もしなかった。「おれが若しお前を処分するとしても、今加集が云った事を土台にすれば、おれの方はずッと責任が軽くなるのだ——返事をしろ、お前の口からも事実だと!」
「……」かの女は矢張り無言で、少し仰向き加減にそッぽうを見ているらしく、然しからだは全体に顫えているのが見えた。
義雄はこれを見て、あの烏山でかの女が
渠はどう自分の身を処していいか、ちょッと度を失った時、加集は勝ち味な声で、
「兎も角、僕が一時あの女を預かるのが順当じゃ!」
「預かれるなら、預かって見ろ!」まだ実際の好意があるのをかの女にも分らせる為めに、「君が預かるのは、どうせおもちゃにする為めだろう——?」
「うんにゃ——」加集は義雄のこわい目を避けて、かの女の方に向き、「僕だって、男じゃ——君ぐらいの世話はする!」
「これまでの僕ほどでは、もう、いかないよ——今のさし迫った問題は、あの女を生かすか殺すかの問題だ。君が本気で
「そんなことを君に受け合う必要はない!」
「君は途中から逃げようと云うのだろう——?」
「……」加集はただじッと、半ば横目で、義雄を見つめていた。
「さア、もう僕はどッちでもいい!」義雄は決心した様子で他の両人を見まわして、「僕はこの場合慾情は抜きだから、あの女の意向一つにまかせるが——その前に、一つ、僕がしッかりと事実の念を押して置く必要がある。——おい」と、またお鳥を呼び、「加集との関係を白状しろ!」
「……」
「返事しろ!」
「……」
「どうしてもしないと云うのなら、今一つ聴くが、ね、お前は一時おれに来るつもりか、または加集に行く気か、どッちだ?」
「……」
「顫えているのは、自分のしたことを後悔しているのかい? それとも、おれを恐ろしいのかい?」
「……」
「うそを云ってたから、返事が出来ないのだろう——面倒だから、今一度だけ聴くが、ね、これで永久にお前と会わないことになるかも知れないのだぞ!」こう云って、義雄は言葉を切り、お鳥の前をわざと荒々しく通って、原稿の包みを手に取りあげ、もとの座に来て立ったまま、「返事が出来ないなら、返事をしない方で聴くが、ね——加集がおれに代って、お前をおもちゃにしようとするのだが、その方がよければ返事をしないがいい!」
返事が無いので、義雄は、自分のかの女に対するこれまでの待遇に対して、かの女からゆうべとけさとに全くしッぺい返しを喰らわせられたものと見た。そしてまた一段とかッとなった。
「加集! じゃア、君にまかせた」と云った声さえ、耳からでも出たようになって、一度期に
渠がからだの中心を失いかけたほどそそくさと下り口まで行った時、
「まア、待って」と云う声がして、自分の袂が引ッ張られたが、今や加集に語った言葉に免じても女
「放せ、もう、これッ切りだい!」握られた袂をふり払った。そうして女が足もとにばッたり倒れた音を耳にとどめて、はしごをそと向きに急ぎ下り、下駄を引ッかけるが早いか、屋台の後ろからかみさんが驚きの目を見張っているのにちょッと
「まア、待って」が気になってはいたが、待ってやって、拝み倒されてもそれまでのことだ。
「お前」の代りに、「あなたには」などと初めて改まった言葉を使って、これまで一層世話にはなったが、今となっては、加集にも義理がある——ぶつなり、蹴るなりして、思う十分に意趣は晴らして貰う代り、あの条件通りを行って呉れい! こんな工合に向うが出まいものでもなかったろう——結局、馬鹿を見るところであった。
「幸いにも、きょうと云うきょうこそ、下らない責任をのがれたのだ——この結果は早く誰れかに発表しなければ」と云うような気がしながら、義雄はふらふらと我善坊の家に帰った。
「あなた、どこをぶらついてたのです、ねえ」千代子の無作法な歩みの足音も聴えて来て、「あッちから電報が来たことは聴いたでしょう!」
「聴いたから、あせってるのだ!」
「それならいいでしょうが、——あなたは旅行なさるんですか、また自慢そうにあんな女を連れて——!」
「清水とは、ね」と、義雄は
こう云った時、渠はふと自分自身を返り見ると、この千代子にかぶれて、自分までが気違いじみた空気を呼吸していた。
ここにだッて、渠は一刻もとどまる気は出なかった。
「それは初めから当り前のことでさア、ね——喧嘩か何かしたのでしょう! 若しあなたの弟があッちで病死でもして御覧なさいな、あの人をあなたがあの女のために殺したも同然ですよ! あなたが、ね——あなたがですよ!」
「うるさい! 死ぬやつア、どうしたッて死ぬんだ!」渠はこう叫んで、「
渠の精神はからだ中に顫えあがった。そして八丁堀の堀端を帰る時気になったかの女の最後の一言が、今やまた耳の記憶から繰り返されて、あわれッぽく渠の胸に伝わった。
「気味がよかった」と、
「車を呼べ、車を!」
「車なんか来ませんよ!」
「なんだと!」
「あなたはちっとも御存じないのですが、ね、呼びに行ッたッて、向うが、お前さんのとこは信用が出来ないからッて、ね——」
「……」義雄はじろりとかの女を見詰めて、言葉が出なかった。
「それほどまでにあなたのうちが困っているのに」と、かの女は半ば哀訴の口調になって、「あなたはちッともふり向きもしない気ですか?」
「無論、さ!」力の抜けた声だが、渠はなお反抗せずにいられなかった、「おれにゃア妻もない! 家もない! あの事業が失敗すりゃア、おれ自身も無いか知れないのだ!」
「そんな無謀なことを云いなすったッて」などと云いながら、かの女はあとを廊下のはずれまで追って来たが、渠は自分で荷物をひッ提げて出た。
我善坊を下って西の久保の通りに出で、やッと辻ぐるまを見付けて、渠は手に提げた革鞄を車の蹴込みへ投げ込んだ。
顔や脇の下の汗を拭き拭き、かッかと照る太陽の下を走らせると、すッと軽くなった自分の世界は却って自分の世界でないように思えた。日は輝いていても、この数ヵ月来、滅多に心の晴天を仰いだこともなかった渠には、あんまり明るい光の中を半ば自分が失われて、取りとめも付かない。
先ず心から落ち付けようと、自分のからだの住いを車上で正して見た。すると目の前を横切った一人の男の子が自分の総領息子の年輩であった。
「かいるが鳴くから、かアいる」と云いながら、ゆう方よく外から帰って来たものだが、或時自分の今乗ってるような車に敷かれて、手と足とを怪我した。若しあの時
すると、その子等の母がわさわさと落ち付きもなく、しゃりこうべにまで痩せこけて、子供を叱ったり、暮しのことを心配したりするあり様が見えて来た。あの婆々アじみて——こんなことは、もう、考えたくもないので、目を明けた。
若い婦人がからだの曲線を衣物のいい着こなしに表わして、顔を
これに、また、「まア、待って」がからみ付いて来て、かの女の死んだざまが見たくなった。若し死んででもいて呉れりゃア、自分も自分の関係を
「
若い女を飽くまで試みるのも面白かっただろうにと云う気になると、あの時滔
「二十歳をたッた二つばかり越えたに過ぎない女の為めに、——おれもどうかしていたのだ! やり直しだぞ、お鳥! 待っていろ」と、力を入れて心に叫んだ。「お鳥——お鳥! お鳥、お鳥、お鳥!」
「そう足を踏みしめては困ります」と、車夫は走りながら後ろをふり返った。まだあの女に迷っているのかと云われたほど、義雄は顔を赤くして澄まし込んだ。
新橋停車場前の或休憩所に車を降り、荷物をそこに預けて置いて、電車に乗った。
気が引けながらも、加集がいたらいよいよ一喧嘩をする覚悟で行って見ると、下の主人公が今お鳥の室から出て、はしごを下りるところであった。
「こいつ、また、おれの
「おう、旦那」と、主人は嬉しそうに下り立って、「今あなたのお宅へお使いを出しましたのですが、な——どうも、本人の云うことがはッきり分りませんので——」
「どうかしましたか?」義雄はうッて変って自分の世界が開けたので肩身が広くなった気がしたと、同時に、「やッ付けた、な」と合点して、俄かに胸さわぎがし出したのである。
「まア、どうぞこちらへ——只今、やッとお休みになれましたから」
こう云って主人が導くままに、義雄は百面相の客間へ通った。
「アヒサンをやったのじゃアありませんか?」
「えッ、そんな毒薬を!」主人はびッくりした声を挙げると同時に、胸を
「まだ医者に見せませんか?」義雄は気が気で無かった。
「いや」と、主人は渠の様子を見て、わざとらしい落ち付きを見せて、「御心配にゃア及びません——もう、一時間も前に来ましたから。然し、そばに一升徳利が出ていたので——」
「ありゃア、醤油入れでした」
「それに、大層吐きましたから、な——多分、酒を飲み過ぎたのだろうッて、医者は下剤をかけて帰りました」
「そりゃア、丁度いい思い付きでしたろう」義雄はこう云って、この、想像には描いていたが、いよいよ事実と聴いては一たび突然に驚かれた事実を、まだ物足りないような気がした。
これまでにも、かの女の留守、留守に、度々かの女の荷物を探して見た。一つは、他の男からの手紙でも来ていはしないかと思ってだが、次ぎに、それよりも重大な理由は、国を出る時用意していると云うこの毒薬の有無であった。どうしても見付からないので、うそを云ってるのだとも思った。また知り合いの医者などに、それと無く、これを飲むとどんなきき目があるか、どんな結果を呈するか、など云うことを聴いていたのだ。
「分量が多過ぎて、
「道理で」と、主人は、はたと膝を打ち、「真ッ赤にのぼせていました。酒の酔いだと思い違えたのも、無理はないでしょう。
「そりゃア」と、義雄は微笑にまぎらせて、「おさわがせしました、ね」
「全体、あの方はどうした人です」と、主人に尋ねられ、
「実は」これこれと、義雄はそこの老母も出て来た前でありの儘をぶちまけ、「こうなっちゃア、僕が少くともそれが直るまでは、
「人助けでさア、ね」主人はまた胸を反らすようにした。「加集さんには御名刺は戴きましたが、何だかちゃらッぽこばかり云って——あんな人は」と、鼻をつまむ真似をして顔をしかめた。
「いや、そうまで薄情でも無いでしょうが、ね」
「それが、あなた」と、うち消すように首を一つ
その様子も声も、丸で、女がお客にあまえているようだ。
「なアに、失敗と云うわけでもないのでしょう、ね、ただ僕がまだあの子に愛情が残っていて思い切れなかったのが悪いのでした」
「それもそうでしょうが、な、女なんかいくらもありまさア——わたしのうちのでも、
「これは悪くもない家柄ですが、ねえ」と、老母がそばから、
「道楽の為めに、好きでこんな商売をしていますんで——」
「百面相ッて、どう云うことをするのです?」
「なアに、わけアないもんですが、な」こう云って、主人は次ぎの間から
「ただの鼠じゃアあるめい」と、いつの間にか男之助[#「男」に*]になったかと思うと、面をちょッと裏返して、仁木弾正[#「仁」に*]になり、巻き物を喰わえ、「ふ、ふ、ふ、ふ」と笑った。そして、「これが○○の宮さん、○○○の宮さんのお気に入りだから、ありがてい——どうか、あなたも御
馬鹿にされたような気をして、その室を出て、義雄は二階へ行くと、お鳥はあたまだけ、枕の上に、こちらに向けて、気だるそうに、
「来たの」と云った。
「とうとうやッつけた、ね!」
「……」かの女は顔をそむけた。涙声で「どうせ生きていられへん!」
「おれに棄てられてか?」渠は冷然とそのそばに坐った。
「……」向う向きにただ
「そして又加集に棄てられてだろう——?」
「……」何の返事もなかった。が、やがて独り言のように、「死にさえすりゃええのじゃ!」
「そうだ、死にさえすりゃア、おれが加集をも呼び付けて、墓地の奔走をさせ、おれも尋常に見送ってやったのだが、ね、死にそくなっちゃアまた問題が起るぞ」
「起るも起らんも無い——あいつは、あたいが、わざと、世話が出けるか云うて念を押してやったら、返事が出けなかったさかい、追い返してやった」
「それ見ろ——誰れにだッて見限られらア、ね」渠はかの女の精神が、もう、大丈夫正気になっていることを認めた、で、語法を一歩進めて、「おれだッて、もう友人の手を付けたものを二度とは、可愛がれないよ——たとい、お前の決心は精神に於いてお前を
「可愛がってなど貰わんでもええ!」
「うん、そう諦めていさえすりゃア、おれはまた一肌抜いで、お前の処分を付けてやってから出発するよ」
かの女は向うを向きッ切りであった。なんにも喰べたくないと云う上に、からだの自由が利かなかった。
渠はかの女の便器を求めに行ったり、自分の食物を用意したりして、ゆう方になった頃、加集がのッそりやって来た。
「また君ア来てるか?」ぶりりとして立っている。
「君こそ来るに及ばないんだろう!」義雄は、火鉢にかけた物の下をあおぎながら、横ざまにねめ付けた。
「君も男子だろう——あれだけはッきりと僕に委託して置いて!」
「そりゃアおれから云うことだぞ——どうして君アおれのその委託を正直に実行しない? この本人の様子を見ろ!」義雄は顎でお鳥の方を示して、「毒をあおいで死にそくなってるじゃアないか?」
「……」加集もかの女の寝姿を見やって、ぎッくりと来たようであったが、見る見る悪人のような相を顔に描いて、立ってるからだを固めた。
「貴さまアこれッ切りおれをあの女に近よせないつもりだ、な?」
「そうだ——君自身がその権利を、けさ、※[「抛」の「九」を「尤」の右上の点をとったものに替えて、読みは「ほう」、p178-上段20]棄したのだ!」
「おれだッて、若しやとおもてやって来たのじゃ、人情は持ってらア——この二三日、大事な時間を棒にふらせやがって!」
「口銭が欲しけりゃア金でやる——友人呼ばわりするな!」
「畜生!」こう叫んで、加集は義雄の横ッ腹を蹴った。
「なに、くそ!」義雄は立ちあがって、加集を力一杯に壁の美人へ突き飛ばした。みしりと云って、張り子板の音がしたので渠は下の人々に気がねする気になり、——また横たわっている女の為めをも思った。
で、勢いを盛り返して来た加集の為めに、義雄は組み敷かれて、また二三度方々を蹴られたが、こちらの手出しはさし控えた。
「壮士を二三人つれて来て、おれは貴さまとあの女とにあやまらせてやるぞ! 待ってやがれ!」
加集はこちらを尻目にかけて、はしごを下り始めた時、義雄は言葉で追ッかけた——
「貴さまのような奴が、ね、自分の色女をおしまいにゃア売り飛ばすのだぞ!」
「売り飛ばされるような女じゃ!」
「弱虫!」こう云って、お鳥は加集が行ってしまってから、顔だけをこちらに向けた、「あたいが起きてたら、あいつを締めあげてやるのに!」
「……」お前の為めを思って負けていたのだとは、心で云ったが、義雄には正直に発言出来なかった。
心配しているほどでもなく、加集は押し寄せても来なかった。
室の入口なる半間のひらき戸へ、うち側から輪かぎがかかるようにして、義雄は毎日、毎夜かの女の看護をした。そしてその
二三日のうちに、お鳥のからだも段々自由が利くようになって、これまでとは打って変り、義雄に対する情が忠実でこまやかになった。そして、質物を出す話を渠がし出した時、
「あんな物はいつでもええ」と云った。
義雄はまたかの女に対して、まだ望みありそうにそッとして置いたかの女優志願は、その実駄目であったのだからとうち明け、かの女が近頃になって写真屋になりたいと云い出した志望を容れ、その方の学校へ入れてやる手続きなどをした。
「これで、
「学校がきまっても、金がつづかにゃ駄目じゃ——」かの女は下のかみさんを思い出したかして、「下のはな、色女であったのが、かみさんを追い出して
「お前も、どこかそんないい口を見付けろよ」
「あたい、そんなことせんでもええ!」
「
「その学校さえ卒業すりゃ——」
「あやしいもの、さ、ね」
その月の末日になって、加集がまたやって来たが、今度は、いよいよ鶴田から借りる金が出来たと云う報告をしに来たのであった。
義雄と鶴田とは、後者の家で、加集の立ち会いで、貸借の手続きを完了し、その帰りに、義雄は立会人に正式以上の口銭をやって
「以降清水のいるところへ往ってはならないぞ」と、命じた。
「君のいつか云うた通り、あいつは夜になると美人に見えるが、なア——僕だッて、あんな臭い女はいやじゃ」と、加集は答えた。
このたッた一つの返事が、義雄のまだのぼせていた心とからだとに、ずッぷりと冷水をあびせかけた。
「アスタツマテ」と云う電報を、入院中だと云う弟をもはげますつもりで、樺太へ打ったのは、六月の一日であった。そしてお鳥へは渠の帰京まで予定三ヵ月の維持費を渡した。
二日の正午頃、お鳥だけが義雄を上野へ見送りに来た。かの女は、手切れの用意とはその時夢にも知らず買って貰ったかのセルの衣物に、竹に雁を書いた羽二重の夏帯を締めていた。考え込んでばかりいて、口数を利かなかった。
いよいよ乗り込むとなって、停車場のプラトフォムを人通りのちょッと絶えたところへ来た時、かの女は低い声でとぎれとぎれに、
「あたい、もう、あんたばかりおもてます依って、な、早う帰って来てよ」
「ああ——」と返事はしたが、義雄の心には、音信不通になるなら、これが一番いい時機だと云う考えが往来していた。そしてその方がかの女将来の一転化にも為めになろう、と。
然し窓のうちそとで向い合ってから、渠は右の手をかの女にさし延ばした、かの女は自分の左の方にいる人々の様子をじろりと見てから、目を下に向けて、そッと自分も右の手を出した。「三ヵ月
「そんな心配は
この優しいような、また強いような反抗の言葉が、この二十二の女の誠意に出たのか、それともこちらをいつも通り頼りない所帯持ちあつかいにした意なのか、——
(大正三年)
底本 日本文学全集2 (株)新潮社
発行年月日 1967年9月15日
入力者 ケロケロ