夏草 島崎藤村   一  春やいづこに   春やいづこに かすみもかげにもえいでし 糸の柳にくらぶれば いまは小暗き木下闇《こしたやみ》   あゝ一時《ひととき》の       春やいづこに 色をほこりしあさみどり わかきむかしもありけるを 今はしげれる夏の草   あゝ一時の       春やいづこに 梅も桜もかはりはて 枝は緑の酒のごと 酔うてくづるゝ夏の夢   あゝ一時の       春やいづこに   鷲《わし》 の 歌 みるめの草は青くして海の潮《うしほ》の香《か》ににほひ 流れ藻《も》の葉はむすぼれて蜑《あま》の小舟にこがるゝも あしたゆふべのさだめなき大竜神《おほたつがみ》の見る夢の 闇《くら》きあらしに驚けば海原《うなばら》とくもかはりつゝ とくたちかへれ夏波に友よびかはす浜千鳥 もしほやく火はきえはてて岩にひそめるかもめどり 蜑《あま》は苫《とま》やに舟は磯《いそ》いそうちよする波ぎはの 削《けづ》りて高き巌角《いはかど》にしばし身をよす二羽の鷲 いかづちの火の岩に落ち波間《なみま》に落ちて消ゆるまも 寝みだれ髪か黒雲《くろくも》の風にふかれつそらに飛び 葡萄《ぶどう》の酒の濃紫《こむらさき》いろこそ似たれ荒波《あらなみ》の 波のみだれて狂ひよるひゞきの高くすさまじや 翼《つばさ》の骨をそばだててすがたをつゝむ若鷲の 身は覆羽《おおひば》やさごろもや腋羽《ほろば》のうちにかくせども 見よ老鷲《おいわし》はそこ白く赤すぢたてる大爪に 岩をつかみて中高き頭《かしら》静かにながめけり げに白髪《しらかみ》のものゝふの剣《つるぎ》の霜を払ふごと 唐藍《からあゐ》の花ますらをのかの青雲《あをぐも》を慕ふごと 黄葉《もみぢ》の影に啼《な》く鹿の谷間《たにま》の水に喘《あへ》ぐごと 眼《まなこ》鋭く老鷲は雲の行くへをのぞむかな わが若鷲はうちひそみわが老鷲はたちあがり 小河に映《うつ》る明星の澄めるに似たる眼《まなこ》して 黒雲の行く大空のかなたにむかひうめきしが いづれこゝろのおくれたり高し烈《はげ》しとさだむべき わが若鷲は琴柱尾《ことぢを》や胸に文《あや》なす鷸《しぎ》の斑《ふ》の 承毛《うけげ》は白く柔和《やはらか》に谷の落《おと》し羽《は》飛ぶときも 湧きて流るゝ真清水《ましみづ》の水に翼《つばさ》をうちひたし このめる蔭は行く春のなごりにさける花躑躅《はなつつじ》 わが老鷲は肩剛《つよ》く胸腹《むなばら》広く溢れいで 烈しき風をうち凌《しの》ぐ羽《はね》は著《しる》くもあらはれて 藤の花かも胸の斑《ふ》や髀《もも》に甲《よろひ》をおくごとく 鳥の命の戦ひに翼にかゝる老の霜 げにいかめしきものゝふの盾《たて》にもいづれ翼をば 張りひろげたる老鷲のふたたびみたび羽《は》ばたきて 踴《をど》れる胸は海潮《うみじほ》の湧きつ流れつ鳴るごとく 力あふれて空高く舞ひたちあがるすがたかな 黒岩茸《くろいはたけ》の岩ばなに生《お》ふにも似るか若鷲の 巌角《いはかど》ふかく身をよせて飛ぶ老鷲をうかゞふに 紋は花菱《はなびし》舞ひ扇《あふぎ》ひらめきかへる疾風《はやかぜ》の わが老鷲を吹くさまは一葉《ひとは》を振るに似たりけり たゝかふためにうまれては羽《はね》を剣《つるぎ》の老鷲の うたんかたんと小休《をやみ》なき熱き胸より吹く気息《いき》は 色くれなゐの火炎《ほのほ》かもげに悲痛《かなしみ》の湧き上り 勁《つよ》き翼をひるがへしかの天雲《あまぐも》を凌ぎけり 光を慕ふ身なれども運命《さだめ》かなしや老鳥《おいどり》の 一こゑ深き苦悶《くるしみ》のおとをみそらに残しおき 金糸《きんし》の縫《ぬひ》の黒繻子《くろじゅす》の帯かとぞ見る黒雲の 羽袖《はそで》のうちにつゝまれて姿はいつか消えにけり あゝさだめなき大空のけしきのとくもかはりゆき 闇《くら》きあらしのをさまりて光にかへる海原や 細くかゝれる彩雲《あやぐも》はゆかりの色の濃紫 薄紫のうつろひに楽しき園となりけらし 命を岩につなぎては細くも糸をかけとめて 腋羽《ほろば》につゝむ頭《かしら》をばうちもたげたる若鷲の 鈎《はり》にも似たる爪先の雨にぬれたる岩ばなに かたくつきたる一つ羽《は》はそれも名残か老鷲の 霜ふりかゝる老鷲の一羽《ひとは》をくはへ眺むれば 夏の光にてらされて岩根にひゞく高潮《たかしほ》の 砕けて深き海原《うなばら》の巌角に立つ若鷲は 日影にうつる雲さして行くへもしれず飛ぶやかなたへ   銀 河 天《あま》の河原《かはら》を   ながむれば 星の力は   おとろへて 遠きむかしの   ゆめのあと こゝにちとせを   すぎにけり そらの泉を   よのひとの 汲むにまかせて   わきいでし 天の河原は   かれはてて 水はいづこに   うせつらむ ひゞきをあげよ   織姫よ みどりの空は   かはらねど ほしのやどりの   今ははた いづこに梭《をさ》の   音《ね》をきかむ あゝひこぼしも   織姫も 今はむなしく   老い朽《く》ちて 夏のゆふべを   かたるべき みそらに若き   星もなし   白磁花瓶賦《はくじかへいのふ》 みしやみぎはの白あやめ はなよりしろき花瓶《はながめ》を いかなるひとのたくみより うまれいでしとしるやきみ 瓶《かめ》のすがたのやさしきは 根ざしも清き泉より にほひいでたるしろたへの こゝろのはなと君やみん さばかり清きたくみぞと いひたまふこそうれしけれ うらみわびつるわが友の うきなみだよりいでこしを ゆめにたはぶれ夢に酔ひ さむるときなきわが友の 名残は白き花瓶に あつきなみだの残るかな にごりをいでてさくはなに にほひありとなあやしみそ 光は高き花瓶に 恋の嫉妬《ねたみ》もあるものを 命運《さだめ》をよそにかげろふの きゆるためしぞなきといへ あまりに薄き縁《えにし》こそ 友のこのよのいのちなれ やがてさかえんゆくすゑの ひかりも待たで夏の夜の 短かき夢は燭火《ともしび》の 花と散りゆくはかなさや つゆもまだひぬみどりばの しげきこずゑのしたかげに ほとゝぎすなく夏のひの もろ葉がくれの青梅《あをうめ》も なつの光のかゞやきて さつきの雨のはれわたり 黄金《こがね》いろづく梅が枝《え》に   たのしきときやあるべきを 胸の青葉のうらわかみ 朝露しげきこずゑより 落ちてくやしき青梅の 実のひとつなる花瓶よ いのちは薄き※[#「虫偏+嬋のつくり」、読みは「せみ」、105-3]《せみ》の羽の ひとへごろものうらもなく はじめて友の恋歌《こひうた》を 花影《はなかげ》にきてうたふとき 緑のいろの夏草の あしたの露にぬるゝごと 深くすゞしきまなこには 恋の雫《しづく》のうるほひき 影を映《うつ》してさく花の 流るゝ水を慕ふごと なさけをふくむ口唇《くちびる》に からくれなゐの色を見き をとめごころを真珠《しらたま》の 蔵《くら》とは友の見てしかど 宝の胸をひらくべき 恋の鍵だになかりしか いとけなきかなひとのよに 智恵ありがほの恋なれど をとめごころのはかなさは 友の得しらぬ外《ほか》なりき あひみてのちはとこしへの わかれとなりし世のなごり かなしきゆめと思ひしを われや忘れじ夏の夜半《よは》 月はいでけり夏の夜の 青葉の蔭にさし添ひて あふげば胸に忍び入る ひかりのいろのさやけさや ゆめにゆめ見るこゝちして ふたりの膝《ひざ》をうち照らす 月の光にさそはれつ しづかに友のうたふうた   たれにかたらむ   わがこゝろ   たれにかつげむ   このおもひ   わかきいのちの   あさぼらけ   こゝろのはるの   たのしみよ   などいたましき   かなしみの   ゆめとはかはり   はてつらむ   こひはにほへる   むらさきの   さきてちりぬる   はななるを   あゝかひなしや   そのはなの   ゆかしかるべき   かをかげば   わがくれなゐの   かほばせに   とゞめもあへぬ   なみだかな   くさふみわくる   こひつじよ   なれものずゑに   まよふみか   さまよひやすき   たびびとよ   なあやまりそ   ゆくみちを 竜《たつ》を刻みし宮柱《みやはしら》 ふとき心はありながら 薄き命のはたとせの 名残は白き瓶《かめ》ひとつ たをらるべきをいのちにて はなさくとにはあらねども 朝露おもきひとえだに うれひをふくむ花瓶《はながめ》や あゝあゝ清き白雪《しらゆき》は つもりもあへず消ゆるごと なつかしかりし友の身は われをのこしてうせにけり せめては白き花瓶よ 消えにしあとの野の花の 色にもいでよわが友の いのちの春の雪の名残を   きり/″\す 去年《こぞ》蔦《つた》の葉の   かげにきて うたひいでしに   くらぶれば ことしも同じ   しらべもて かはるふしなき   きり/″\す 耳なきわれを   とがめそよ うれしきものと   おもひしを 自然のうたの   かくまでに 旧《ふる》きしらべと   なりけるか 同じしらべに   たへかねて 草と草との   花を分け 声あるかたに   たちよりて 虫のこたへを   もとめけり 花をへだてて   きみがため 聞くにまかせて   うたへども うたのこゝろの   かよはねば せなかあはせの   きり/″\歐す   二  新 潮《にひじほ》   新 潮    一 我《われ》あげまきのむかしより 潮《うしほ》の音《おと》を聞き慣れて 磯辺《いそべ》に遊ぶあさゆふべ 海人《あま》の舟路《ふなぢ》を慕ひしが やがて空《むな》しき其夢は 身の生業《なりはひ》となりにけり 七月夏の海《うみ》の香《か》の 海藻《あまも》に匂ふ夕まぐれ 兄もろともに舟浮《う》けて 力をふるふ水馴棹《みなれざを》 いづれ舟出《ふなで》はいさましく 波間に響く櫂《かい》の歌 夕潮《ゆふしほ》青き海原《うなばら》に すなどりすべく漕《こ》ぎくれば 巻《ま》きては開く波の上《へ》の ※[#「區+鳥」、読みは「かもめ」、110-10]《かもめ》の夢も冷やかに 浮び流るゝ海草《うみぐさ》の 目にも幽《かす》かに見ゆるかな まなこをあげて落つる日の きらめくかたを眺むるに 羽袖《はそで》うちふる鶻隼《はやぶさ》は 彩《あや》なす雲を舞ひ出《い》でて 翅《つばさ》の塵《ちり》を払ひつゝ 物にかゝはる風情《ふぜい》なし 飄々《ひょうひょう》として鳥を吹く 風の力もなにかせむ 勢《いきほひ》竜《たつ》の行くごとく 羽音《はおと》を聞けば葛城《かつらぎ》の そつ彦むかし引きならす 真弓《まゆみ》の絃《つる》の響《ひびき》あり 希望《のぞみ》すぐれし鶻隼よ せめて舟路のしるべせよ げにその高き荒魂《あらたま》は 敵に赴《おもむ》く白馬《しろうま》の 白き鬣《たてがみ》うちふるひ 風を破《やぶ》るにまさるかな 海面《うみづら》見ればかげ動く 深紫の雲の色 はや暮れて行く天際《あまぎは》に 行くへや遠き鶻隼の もろ羽《は》は彩《あや》にうつろひて 黄金《こがね》の波にだゞよひぬ 朝夕《あしたゆふべ》を刻《きざ》みてし 天の柱の影暗く 雲の帳《とばり》もひとたびは 輝きかへる高御座《たかみくら》 西に傾く夏の日は 遠く光彩《ひかり》を沈めけり 見ようるはしの夜《よる》の空《そら》 見ようるはしの空の星 北斗の清《きよ》き影冱《さ》えて 望みをさそふ天の花 とはの宿りも舟人《ふなびと》の 光を仰ぐためしかな 潮《うしほ》を照らす篝火《かがりび》の きらめくかたを窺《うかが》へば 松の火あかく燃ゆれども 魚行くかげは見えわかず 流れは急《はや》しふなべりに 触れてかつ鳴る夜《よる》の浪《なみ》    二 またゝくひまに風吹きて 舞ひ起《た》つ雲をたとふれば 戦《いくさ》に臨むますらをの あるは鉦《かね》うち貝を吹き あるは太刀《たち》佩《は》き剣《つるぎ》執《と》り 弓矢を持つに似たりけり 光は離れ星隠れ みそらの花はちりうせぬ 彩《あや》美《うるは》しき巻物《まきもの》を 高く舒《の》べたる大空は みるまに暗く覆はれて 目にすさまじく変りけり 聞けばはるかに万軍の 鯨波《とき》のひゞきにうちまぜて 陣螺《じんら》の音色《ねいろ》ほがらかに 野の空高く吹けるごと 闇《くら》き潮《うしほ》の音のうち いと新しき声すなり 我《われ》あまたたび海にきて 風吹き起るをり/\の 波の響に慣れしかど かゝる清《すず》しき音《ね》をたてて 奇《く》しき魔《ま》の吹く角《かく》かとぞ うたがはるゝは聞かざりき こゝろせよかしはらからよ な恐れそと叫ぶうち あるはけはしき青山《あをやま》を 凌《しの》ぐにまがふ波の上 あるは千尋《ちひろ》の谷深く 落つるにまがふ濤《なみ》の影 戦ひ進むものゝふの 剣《つるぎ》の霜を払ふごと 溢るゝばかり奮《ふる》ひ立ち 潮《うしほ》を撃ちて漕ぎくれば 梁《やな》はふたりの盾《たて》にして 柁《かぢ》は鋭《するど》き刃《やいば》なり たとへば波は西風《にしかぜ》の 梢《こずゑ》をふるひふるごとく 舟は枯れゆく秋の葉の 枝に離れて散るごとし 帆檣《ほばしら》なかば折れ砕け 篝《かがり》は海に漂《ただよ》ひぬ 哀《かな》しや狂ふ大波の 舟うごかすと見るうちに 櫓《ろ》をうしなひしはらからは げに消えやすき白露《しらつゆ》の 落ちてはかなくなれるごと 海の藻屑《もくづ》とかはりけり あゝ思《おもひ》のみはやれども 眼《まなこ》の前のおどろきは 剣《つるぎ》となりて胸を刺《さ》し 千々《ちぢ》に力を砕くとも 怒りて高き逆波《さかなみ》は 猛《たけ》き心を傷《いた》ましむ 命運《さだめ》よなにの戯《たはむ》れぞ 人の命は春の夜の 夢とやげにも夢ならば いとゞ悲しき夢をしも 見るにやあらむ海にきて まのあたりなるこの夢は これを思へば胸満ちて 流るゝ涙せきあへず 今はた櫂《かい》をうちふりて 波と戦ふ力なく 死して仆《たふ》るゝ人のごと 身を舟板に投げ伏しぬ 一葉《ひとは》にまがふ舟の中 波にまかせて流れつゝ 声を放ちて泣き入れば げに底ひなきわだつみの 上に行衛《ゆくへ》も定めなき ※[#「區+鳥」、よみは「かもめ」、114-10]《かもめ》の身こそ悲しけれ 時には遠き常暗《とこやみ》の 光なき世に流れ落ち 朽《く》ちて行くかと疑はれ 時には頼む人もなき 冷《つめ》たき冥府《よみ》の水底《みなそこ》に 沈むかとこそ思はるれ あゝあやまちぬよしや身は おろかなりともかくてわれ もろく果つべき命かは 照る日や月や上にあり 大竜神《おほたつがみ》も心あらば 賤《いや》しきわれをみそなはせ かくと心に定めては 波ものかはと励《はげ》みたち 闇のかなたを窺《うかが》ふに 空はさびしき雨となり 潮《うしほ》にうつる燐《りん》の火の 乱れて燃ゆる影青し 我《われ》よるべなき海の上《へ》に 活《い》ける力の胸の火を わづかに頼む心より 消えてはもゆる闇の夜《よ》の その静かなる光こそ 漂《ただよ》ふ身にはうれしけれ 危ふきばかりともすれば 波にゆらるゝこの舟の 行へを照らせ燐の火よ 海よりいでて海を焚《や》く 青きほのほの影の外 道しるべなき今の身ぞ 砕かば砕けいざさらば 波うつ櫂はこゝにあり たとへ舟路は暗くとも 世に勝つ道は前にあり あゝ新潮《にひじほ》にうち乗りて 命運《さだめ》を追ふて活《い》きて帰らん   野路《のぢ》の梅 風かぐはしく吹く日より 夏の緑のまさるまで 梢《こずゑ》のかたに葉がくれて 人にしられぬ梅ひとつ 梢は高し手をのべて えこそ触れめやたゞひとり わがものがほに朝夕を ながめ暮してすごしてき やがて鳴く鳥おもしろく 黄金《こがね》の色にそめなせば 行きかふ人の目に触れて 落ちて履《ふ》まるゝ野路の梅   晩春の別離 時は暮れ行く春よりぞ また短きはなかるらん 恨《うらみ》は友の別れより さらに長きはなかるらん 君を送りて花近き 高楼《たかどの》までもきて見れば 緑に迷ふ鶯《うぐひす》は 霞《かすみ》空《むな》しく鳴きかへり 白き光は佐保姫の 春の車駕《くるま》を照らすかな これより君は行く雲と ともに都を立ちいでて 懐《おも》へば琵琶《びわ》の湖《みづうみ》の 岸の光にまよふとき 東胆吹《いぶき》の山高く 西には比叡《ひえい》比良《ひら》の峯 日は行き通《かよ》ふ山々の 深きながめをふしあふぎ いかにすぐれし想《おもひ》をか 沈める波に湛《たた》ふらん 流れは空《むな》し法皇の 夢《ゆめ》杳《はる》かなる鴨《かも》の水 水にうつろふ山城《やましろ》の みやびの都《みやこ》行く春の 霞めるすがた見つくして 畿内《きない》に迫る伊賀伊勢の 鈴鹿《すずか》の山の波遠く 海に落つるを望むとき いかに万《よろづ》の恨《うらみ》をば 空行く鷲に窮《きは》むらん 春去り行かば青によし 奈良の都に尋《たづ》ね入り としつき君がこひ慕ふ 御堂《みどう》のうちに遊ぶとき 古き芸術《たくみ》の花の香《か》の 伽藍《がらん》の壁に遺《のこ》りなば いかに韻《にほひ》を身にしめて 深き思《おもひ》に沈むらん さては秋津《あきつ》の島が根の 南の翼《つばさ》紀の国を 回《めぐ》りて進む黒潮《くろしほ》の 鳴門《なると》に落ちて行くところ 天際《あまぎは》遠く白き日の 光を泄《も》らす雲裂《さ》けて 目にはるかなる遠海《とほうみ》の 波の踴《をど》るを望むとき いかに胸うつ音《おと》高く 君が血潮のさわぐらん または名に負ふ歌枕《うたまくら》 波に千とせの色映《うつ》る 明石《あかし》の浦のあさぼらけ 松万代《よろづよ》の音《ね》に響く 舞子の浜のゆふまぐれ もしそれ海の雲落ちて 淡路の島の影暗く 狭霧《さぎり》のうちに鳴き通《かよ》ふ 千鳥の声を聞くときは いかに浦辺にさすらひて 遠き古《むかし》を忍ぶらん げに君がため山々は 雲を停《とど》めん浦々は 磯に流るゝ白波《しらなみ》を 揚げんとすらんよしさらば 旅路はるかに野辺行かば 野辺のひめごと森行かば 森のひめごとさぐりもて 高きに登り天地《あめつち》の もなかに遊び大川の 流れを窮《きは》め山々の 神をも呼ばひ谷々の 鬼をも起し歌人《うたびと》の 魂《たま》をも遠く返しつゝ 清《すず》しき声をうちあげて 朽《く》ちせぬ琴《こと》をかき鳴らせ あゝ歌神《うたがみ》の吹く気息《いき》は 絶えてさびしくなりにけり ひゞき空しき天籟《てんらい》は いづくにかある        九つの 芸術《たくみ》の神のかんづまり かんさびませしとつくにの 阿典《アゼン》の宮殿《みや》の玉垣も 今はうつろひかはりけり 草の緑はグリイスの 牧場《まきば》を今も覆ふとも みやびつくせしいにしへの 笛のしらべはいづくぞや かのバビロンの水青く 千歳《ちとせ》の色をうつすとも 柳に懸けしいにしへの 琴は空しく流れけり げにや大雅《みやび》をこひ慕ふ 君にしあれば君がため 芸術《たくみ》の天《そら》に懸《かか》る日も 時を導く星影も いづれ行へを照らしつゝ 深き光を示すらん さらば名残はつきずとも 袂《たもと》を別《わか》つ夕まぐれ 見よ影深き欄干《おばしま》に 煙をふくむ藤の花 北行く鴈《かり》は大空の 霞に沈み鳴き帰り 彩《あや》なす雲も愁《うれ》ひつゝ 君を送るに似たりけり あゝいつかまた相逢《あひあ》ふて もとの契《ちぎ》りをあたゝめむ 梅も桜も散りはてて すでに柳はふかみどり 人はあかねど行く春を いつまでこゝにとゞむべき われに惜《をし》むな家づとの 一枝《いつし》の筆の花の色香《いろか》を   月 光   さなり巌《いはほ》を撃《う》つ波の   夕《ゆふべ》の夢を洗ふとも   緑の岸に枕して   松眠りなばいかにせむ   あふげば胸に忍び入る   清き光に照らされて   われのみひとり笛吹けど   君踴《をど》らずばいかにせむ   こよひ月かげ新しき   衣《ころも》を君にもたらすも   としつき慣れてふりたるを   君し捨てずばいかにせむ   雲は緑の波を揚げ   高き潮《うしほ》を分《わか》つとも   君し涙の涸《か》れはてて   胸うごかずばいかにせむ      われあやまれり其《その》殻《から》の   安《やす》きを思へかたつむり   君し眠りの楽しくば   さめずもあれや月の光に    一 さなきだに露したゝるゝ 深き樹蔭《こかげ》にたゝずめば 老いずの夢にたとふべき 夜の思《おもひ》に酔ふものを 月の光のさし入りて 林のさまぞ静かなる 緑を洗ふ白雨《ゆふだち》の すぎにしあとの梢《こずゑ》には 清《す》みたる酒の香《か》に通《かよ》ふ 雫《しづく》流れてにほふらん 木下《こした》に夢を見よとてか 林の夜の静けさは 暗きに沈む樹々《きぎ》の葉の 影の深きによればなり おぼつかなくも樹の蔭の 闇《やみ》の深きに沈めるは 緑に煙《けぶ》る夜《よ》の月の 深き木枝《こえだ》をもれいでて 光もいとゞ花やかに さし入る影のあればなり 耳をたつればなつかしや かなたこなたに木がくれて 鳴く音《ね》をもらす子規《ほととぎす》 はるかに聞けばたえ/″\に 流れてひゞく谷の水 げにやいみじき其声は いとしめやかにつま琴《ごと》の 板戸《いたど》をもるゝ忍び音《ね》の 糸のしらべに通ふらん ひゞきをあげよ谷間《たにあひ》に むせびて下《くだ》る河水《かはみづ》や ひゞきをあげよ月影に しらべをつくる河水や よしや林の深くして 眼《め》には流れの見えずとも 月の光にさそはれて 夜の思を送れその琴    二 都《みやこ》の塵《ちり》はかゝるとも 市《いち》の響《ひびき》はかよふとも さながら月に照らされて 鏡にまがふ池のおも さゞれ波立ち池水《いけみづ》の 動けるかたをながむれば 鏡の中に水鳥の むらがり遊ぶ影の見ゆ 人の世はげにとゞまらで 時につけつゝ動くとも 芸術《たくみ》の国の静けさは この池の面《も》に似たるかな かしこに浮ぶ水鳥は 沈むともなきたが影ぞ かしこに動くさゞ波は たが浴《ゆあ》みするわざならん あゝ照る月はむかしより 人の望むにまかせたり 芸術《たくみ》の花はむかしより 人の慕ふにまかせたり ともしび秉《と》りてよもすがら 遊ぶといふもことわりや 芸術《たくみ》は長し月清し この命こそ短かけれ いのちはよしや指をりて をしからぬまで数ふとも 望《のぞみ》は遠く夢熱き そのほのほこそ短かけれ 誰《たれ》かは早く老いざらむ 誰かは早く朽ちざらむ 心の花のうつろひは 一夜《ひとよ》眠りのうちにあり これを思へば堪へがたく みぎはにくだり池水に ひゞくを聴けば音遠く 静かに沈む鐘の声    三 月光の曲銀の笛 はるけき西の国ぶりの 君吹きすさぶ一ふしは 緑の雲を停《とど》めけり つきは梢を離れいで 影花やかにさすものを 今一度《いまひとたび》はせめて君 吹けやしらべを同じ音《ね》に たとへばすめる真清水《ましみづ》の 岩にあふれて鳴るごとく 深きまことの泉より その笛の音や流るらむ いづれも末は花すぎて まことの色はあせなむを 君はいかなるたくみもて かく新しき声を吹く むかしの琴《こと》の譜《ふ》は旧《ふ》りて いくもゝとせを過ぎにけり 芸術《たくみ》の花は草と化《な》り 梁《うつばり》の塵《ちり》山と成る 薄暮《ゆふぐれ》橋のたもとにて 故《むかし》の人に逢《あ》ふごとく されば一ふし新しき 君がしらべぞなつかしき うれしや高き音《ね》をそへて 清き男の吹く笛に みどりにけぶる月影の いやうるはしく見ゆるかな    四 ゆふべとなりぬ夏の日の 長きつとめをうちすてて いざや雄々しきかひなより 流るゝ汗をぬぐへかし 洗へ緑の樹のかげの したゝる露のすゞしさに 君がくるしきあらがねの 土もとけなむ昼の夢 虫音《ね》の高く群《むれ》を呼ぶ 琴のしらべにさも似たり 風おのづから吹きにほふ たが招くともなかりけり 燃ゆるほのほのくれなゐの 塵も静かにをさまりて 楽しき園《その》にかはりゆく 夕暮さまのおもしろや 君やも行くかわれはしも 浮べる雲にたへかねて 光を浴びむ白銀《しろがね》の 花やかにさす月の光を    五 あゝ時として月見れば 空《むな》しき天《あま》の戸《と》を渡る すめる鏡と見えにけり あるときはまた世に近く いざよひ渡る横雲に いと慣れ易く見えにけり また時としてながむれば いとゞ常なき世を超《こ》えて 朽《く》ちず尽きせず見えにけり あるときはまた影清く まどかに高くかゝれども とく欠け易く見えにけり また時としてながむれば 光の糸に夜《よ》と朝を つなぎとゞむと見えにけり あるときはまた冷《ひや》やかに 花と草との分《わか》ちなく 世を照らすかと見えにけり また時としてながむれば 昔も今もさまよひて 行くへもしらず見えにけり あるときはまたさだめなき 浮べる雲に枕して ねむり静かに見えにけり   暁《あかつき》の誕生 東の空のほの/″\と 汝《な》が世は白《しら》みそめにけり この暁のさまを見て 運命《さだめ》をいかに占《うら》なはむ ことにさやけき紅《くれなゐ》の 光を放つ明星や やがて処女《をとめ》となるまでの 汝がおひさきのしるべせよ 朝風舞《まひ》をまふごとく はるかに雲の袖《そで》を吹き 鶏《とり》は寝覚《ねざめ》に驚きて 先づ黎明《しののめ》を呼びにけり はじめて朝の床の上《へ》に 汝《な》が初声《うぶごゑ》をきくときは 蕾《つぼみ》を破るあけぼのの 蓮《はちす》の花にまがふかな ぬるき潮《うしほ》に浴《ゆあ》みして 朝日に匂ふ茜染《あかねぞめ》 まだ罪もなきすがたこそ なかばは夢の風情《ふぜい》なれ いかにいかなる世なりとは 思ふこゝろもなからまし そのうるはしき眼《まなこ》もて なにをか見んと願ふらむ まだ生れ来《こ》し世の中に 願ふもとめもなからまし 空にやさしき手をのべて なにをか早やも慕ふらむ 行く末花と生《お》ひ立ちて いかなる夢を重ぬとも かゝるゆたけき朝のごと 心の空の静かなれ あゝ朽《く》ちずてふ九つの 芸術《たくみ》の神も心あらば このうるはしきみどりごに 香《にほひ》の露をそゝげかし やがて好みて琴《こと》弾《ひ》かば 指を葡萄《ぶどう》の蔓《つる》となし 耳をそよげる葦《あし》となし たなれの糸に触れしめよ やがて好みて筆持たば 心を文《ふみ》の梭《をさ》となし 胸を流るゝ雅《あや》となし 色あたらしく織らしめよ よし琴弾かず歌よまず 画をかくわざにすぐれずも せめて芸術《たくみ》を恋ひ慕ふ 深き情《こころ》を持たしめよ 盃《さかづき》あげて美《よ》き酒を こゝろ/″\にくみかはし 歌をつくりてよろこびの この暁をうたひうたはん   終焉《いまは》の夕《ゆふべ》 潮《うしほ》は落ちて帰りけり 生命《いのち》の岸をうつ波の やがて夕《ゆふべ》に回《めぐ》れるを ひきとゞむべきすべもなし 行くにまかせよ幾巻《いくまき》の 聖《ひじり》のふみはありとても 耆婆《ギバ》のたくみも海山《うみやま》の 薬も今は力なし 八月螢《ほたる》飛び乱れ 終りの床に迷ひきて まだうらわかきたをやめの 香《にほひ》の魂《たま》をさそひけり みそらの高き戸を出《い》でて 彩《あや》なす雲のくだるとき 鐘の響も沈《しづ》まりて 眠るがごとく息絶《いきた》えぬ 麗《うる》はしかりし黒髪を 吹く風いとゞ冷《ひや》やかに 枕を照らす夕暮の 星も思《おもひ》を傷《いた》ましむ 抱《いだ》きこがるゝひと/″\の 涙は床をひたすとも かをり空しく花折れて 運命《さだめ》の前に仆《たふ》れけり めぐみはあつき父母《たらちね》に さきだつことのかなしさを かこちわびてし口唇《くちびる》も 今は艶《つや》なく力なし 慕ひあへりしはらからに 永き別れを告げんとて 深き情《なさけ》にかゞやきし 心の※[#「窗」の下に「心」、よみは「まど」、129-2]《まど》も閉ぢはてぬ 病める枕辺《まくらべ》近くきて 夕《ゆふべ》の鳥の鳴く声に 涙ながらも微笑《ほほゑ》みし 色さへ今はいづくぞや 光も見えずなりぬれば みまもる人を抱きしめ 名を尋《たづ》ねつゝ手をとりし 腕《かひな》は石となりにけり 落つる日を見よひとたびは かゞやきかへり沈むごと やがて光をまとひしは つひに消えゆく時なりき あゝ死の海の底深く 声も言葉も通《かよ》はねば なげきあまりしひと/″\の 涙は潮《しほ》と流るらん 終りの床の遺骸《なきがら》は ありし名残を見すれども はやその魂《たま》はとこしへの 波に隠るゝかもめどり   うぐひす さばれ空《むな》しきさへづりは 雀《すずめ》の群《むれ》にまかせてよ うたふをきくや鶯《うぐひす》の すぎにしかたの思ひでを はじめて谷を出《い》でしとき 朔風《きたかぜ》寒く霰《あられ》ふり うちに望みはあふるれど 行くへは雲に隠《かく》れてき 露は緑の羽《はね》を閉ぢ 霜は翅《つばさ》の花となる あしたに野辺の雪を※[#「口+齒」、よみは「か」、130-9]《か》み ゆふべに谷の水を飲む さむさに爪も凍りはて 絶えなんとするたびごとに また新《あら》たなる世にいでて くしきいのちに帰りけり あゝ枯菊《かれぎく》に枕して 冬のなげきをしらざれば 誰《た》が身にとめむ吹く風に にほひ乱るゝ梅が香を 谷間《たにま》に笹の葉を分けて 凍れる露を飲まざれば 誰《た》が身にしめむ白雪の 下に萌《も》え立つ若草を げに春の日ののどけさは 暗くて過ぎし冬の日を 思ひ忍べる時にこそ いや楽しくもあるべけれ 梅のこぞめの花笠《はながさ》を かざしつ酔ひつうたひつゝ さらば春風吹き来《きた》る 香《にほひ》の国に飛びて遊ばむ   かりがね さもあらばあれうぐひすの たくみの奥はつくさねど または深山《みやま》のこまどりの しらべのほどはうたはねど まづかぎりなき一声《ひとこゑ》に 涙をさそふ秋の雁《かり》 長きなげきは泄《も》らすとも なほあまりあるかなしみを うつすよしなき汝《なれ》が身か などかく秋を呼ぶ声の 荒き響《ひびき》をもたらして 人の心を乱すらむ あゝ秋の日のさみしさは 小鹿《をじか》のしれるかぎりかは 清《すず》しき風に驚きて 羽袖《はそで》もいとゞ冷《ひや》やかに 百千《ももち》の鳥の群《むれ》を出《い》で 浮べる雲に慣るゝかな 菊より落つる花びらは 汝《な》がついばむにまかせたり 時雨《しぐれ》に染むるもみぢ葉《ば》は 汝《なれ》がかざすにまかせたり 声を放ちて叫ぶとも たれかいましをとゞむべき 星はあしたに冷やかに 露はゆふべにいと白し 風に随《したが》ふ桐《きり》の葉の 枝に別れて散るごとく 天《みそら》の海にうらぶれて たちかへり鳴け秋のかりがね   わすれ草をよみて  わすれぐさは島田氏のむすめ愛子が遺しおける歌文あまたありけるを、そが教へ親なる人の舟さしよせてしるしありやとつみあつめたるひとまきなり。序のうたは万里小路伯、小伝は東久世伯、追悼《ついとう》のうたを添へたるは竹柏園のうしなり。なほ巻の終にはともがきの手向草あまた載せたるが、いづれも深く追慕の心を寄せたり。巻のはじめなる俤《おもかげ》は、かみのつかねざまもいとつゝましく、前髪のみは西ぶりにしてうるはしく切りさげたる、まだうひ/\しき肩あげのにつかひたるなど、いづれ昔しのぶの種ならぬはなし。家は神奈川なる川崎町にありといふ。二十六年の秋よりみやこに出でて学ぶのかたはら、竹柏園のあるじにつきて歌文の道ををさめ、すぐれたるほまれありしを四とせめの春病にかゝり、年僅《わづか》に十七にてみまかりぬ。そのむかしをりをりの紀行のふみなど吾許《わがもと》にもてきて朱を加へよなどいひしことも思ひいでられ、さばかりのえにしもありければ、この巻ひもときて懐旧の情に堪へず、雑の歌の終に、病あつしかりける時とはし書して、   父母の深きめぐみをよそにして     草葉のつゆときえむとすらむ  とありしを読み、すなはち其歌にちなみて筆を起し、哀歌をつゞる。 もとより消ゆる露なれば たれかことばをつくすとも ちらぬすがたに立ちかへり もとの草葉にのぼるべき ふたとせの夏はやもきぬ のこれる人の惜《をし》みては あまる涙をそゝぎてし おくつきの花さくらんか 緑の草の生《お》ひいでて うるはしき実をたまにぬき なれがはかばをかざるとも しづこゝろなく眠るらむ あしたゆかしくさきいでて ゆふべにちるを数ふるに 拾ふもつきじ言の葉の にほひをのこすわすれ草 すぐれしゆゑにうつし世に とゞめもあへず紅《くれなゐ》の うつろひ易き色にいで なれはや早くうせにけむ あしたゆふべの行く雲の はたてに物を思ふ汝《なれ》 こゝろづくしの冥府《よみ》にまた むね驚かす夢ありや 春はたのしきうぐひすの ながおくつきに歌ふとも よみぢはいかに木蘭《もくれん》の 花より墜《お》つる露ありや 秋はさびしき黄葉《もみぢば》の ながおくつきにかゝるとも うれひをいかに目にあてて おしぬぐふべき菊ありや あゝ青塚《あをづか》の青草も いくその人かあはれまむ むさしあぶみもむらさきも つひには同じ秋一葉《あきひとは》 ゆめなおそれそ風あれて 雲はうき世にさわぐとも ゆめなおそれそいなづまの ながおくつきを照らすとも なれよ安かれくちなしの 色の泉の岸にさく よみぢの花に枕して 草葉の蔭《かげ》に寝《いね》よかし   高山に登りて遠く   望むの歌 高根《たかね》に登りまなじりを きはめて望み眺むれば わがゆくさきの山河《やまかは》は 目にもほがらに見ゆるかな みそらを凌《しの》ぐ雲の峰 砕けて遠く青《あを》に入る こゞしくくしき磐《いは》が根《ね》の 連《つら》なり亙《わた》る山脈《やまなみ》は 海にきほへる高潮《たかじほ》の 驚き乱れ湧くごとく 大山《おほやま》つみも動《ゆる》ぎいで わが精魂《たましひ》を奪ふかな 誰《たれ》かは譏《そし》り誰《た》が恨《うら》む 翅《つばさ》をのべし蒼隼《はやぶさ》は 虚《むな》しき天《あま》の戸《と》を衝《つ》きて 高きみそらにかけれども うちふりうちふる羽袖《はそで》だに 引きとゞむべき雲もなし 遠く緑におほはれて 望《のぞみ》をつゝむ野のかたに 東に下《くだ》る河波《かはなみ》の 行くへを見れば紫の 山の麓《ふもと》をうちひたし 滔々《とうとう》として流れ去る あゝ大空に風吹けば 雲おのづから舞ふごとく 迷ひの霧にこめられし 暗き谷間を歩みいで 高根にあれば時を得て はるかに揚《あが》るわが心 かへりみすれば越えてこし 山はうしろに落ち入りて 荒れにし森の影もなく さみしき野辺も見えわかず 日の照らすとも七重八重 わが故郷《ふるさと》は雲に隠れて   二つの泉 自然の母の乳房《ちぶさ》より そこに流るゝ泉あり たとへば花の処女《をとめご》の やがて優《やさ》しき母となり その嬰児《みどりご》の紅唇《くちびる》を うるほすさまに似たるかな 一つは清《す》みて冷《ひや》やかに 谷の間《あひだ》にほとばしり 葉を重ねたる青草の しげみのうちを流れけり 一つは泉あたゝかに 其色《そのいろ》暗く濁《にご》りいで ひゞきは神の鳴るごとく 巌《いはほ》の蔭に※[#「※」は「隘」のつくりに「さんずい」、よみは「あふ」、136-3]れけり 幸《さち》はあつさにつかれはて 渇《かわ》きかなしむ人にあれ あゝ樹の蔭の草深く すめる泉を飲みほして 自然《しぜん》のうちに湧きいづる 清《きよ》き生命《いのち》を汲《く》ましめよ 幸は望みの薄くして 思ひなやめる人にあれ あゝ夕風のきたるとき 熱き泉に浴《ゆあ》みして 自然のうちにほとばしる 奇《く》しき力を知らしめよ 岩と岩との谷のかげ 砂と砂との山のはを 緑の草の生《お》ひいでて 花さく園となすまでは あふれいでつゝ昼も夜も たえぬ泉としるや旅人   天の河   一 七月六日の夕 あすは思へばひととせに 一夜《ひとよ》の秋の夕《ゆふべ》なり うき世にしげるこひ草を みそらの星もつまむとや 北斗は色をあらためて よろづの光なまめきぬ あふげば清し白銀《しろがね》の 夕波高き天《あま》の河《がは》 深き泉を湧きいでて うき世の外にたちさわぐ つきせぬ恋の河水《かはみづ》は 遠くいづくに※[#「※」は「隘」のつくりに「さんずい」、よみは「あふ」、137-8]るらむ 西風《にしかぜ》星の花を吹き 天の河岸秋立ちぬ かの彦星《ひこぼし》の牽《ひ》く牛は しげれる草に喘《あへ》ぎより ふたつの角《つの》をうちふりて 水の流れを慕ふらむ げに彦星の履《ふ》みて行く 河辺《かはべ》の秋やいかならむ 高きほとりの通《かよ》ひ路《ぢ》は 白萩《しらはぎ》の花さくらむか 人行きなるゝ岸のごと 紫※[#「草冠に宛」、読みは「おん」、138-5]《しおん》の草の満つらむか ひとり静かに尋《たづ》ねよる 彦星のさまいかならむ あすの逢瀬《あふせ》を微笑《ほほゑ》みて かの琴台の美酒《うまざけ》の 盃《さかづき》に酔ふ人のごと あゆみ危ふく行くらむか または涙を墨染《すみぞめ》の 衣《ころも》の袖《そで》につゝむとも なほ観経《かんきん》の声曇る 西の聖《ひじり》の夢のごと 恋には道も捨てはてて 袖をかざして行くらむか または旅寝の夢の上《へ》に 夢をかさぬる草まくら えにしの外《ほか》のえにしとは それかよげにも捨てがたく 江口の君をたづねよる 侘人《わびびと》のごと行くらむか 天上の恋しかすがに ことなるふしはありとても さもあらばあれ彦星の たなばたつめの梭《をさ》の音《ね》に 望みあふれて慕ひゆく このゆふべこそ楽しけれ    二 七夕《たなばた》 こよひみそらの白波《しらなみ》に 楫《かぢ》の音《と》すなりひこぼしの 安《やす》の河原《かはら》に舟《ふね》浮《う》けて      今しこぐらし 風かぐはしく吹き匂ふ 花濃き岸にたづさはり 涙は顔をうるほして 老《おい》をし知らぬ夢のごと      かしこにかしこに        楫の音きこゆ 人のすなるを星も見て こひつくすらんこの夕《ゆふべ》 水影草《みづかげぐさ》のうちなびく 川瀬を見ればひととせに ふたたび逢はぬこひづまに      今し逢ふらし まだ色青き草麦《くさむぎ》の はたけのうちにたふれふし 燃えては熱き紅唇《くちびる》の たがひに触るゝ夢のごと      かしこにかしこに        ふれる袖《そで》見ゆ 人のすなるを星も見て こひつくすらんこの夕 川声《かはと》さやけしおりたちて 天《そら》より深く湧きいづる 恋の泉をうちむすび      今し飲むらし 乾くまもなき染紙を 落つる涙にけがしては 生命《いのち》の門《かど》をかけいでて 恋に朽ちぬる夢のごと      かしこにかしこに        渡るひこぼし 人のすなるを星も見て こひつくすらんこの夕   婚姻《こんいん》の祝《いはひ》の歌    一 花よめを迎ふるのうた 君待つ宵《よひ》のともしびは いとゞ火影《ほかげ》も花やかに 鶴《つる》なきわたる蓬※[#「草冠に來」、読みは「らい」、140-14]《ほうらい》の 千世《ちよ》のみどりを照すかな 祝の酒は香《か》にあふれ 錫《すず》の提子《ひさげ》をひたしけり いざや門辺《かどべ》にたちいでて 君の来《きた》るをむかへなむ 星よこよひはみそらより 人の世近くくだりきて 清《す》める光に花よめの たのしき道のしるべせよ 風よ歌へよ松が枝《え》に 小琴《をごと》をかけよひとふしは いとしめやかに道すがら よろこびの譜《ふ》をひけよかし まなこをそゝげひと/″\よ はやかの群《むれ》はちかづきぬ ともなひきたるをとめごの かゞやきわたるさまを見よ わがうるはしき花よめは むらさきにさくあやめなり そのころもには白《びゃく》だんの いとすぐれたるかをりあり 髪には谷の白百合の にほへる油うちそゝぎ むすべる見れば其《その》帯《おび》に 黄金《こがね》の糸を織りなせり いざやこよひの歓喜《よろこび》の 花のむしろにいざなひて 秋の紅葉を染めなせし 色すべり着る君を祝はん    二 さかもりのうた ためしすくなきよろこびの けふのむしろのめでたさに 身を酒瓶《さかがめ》となしはてて 祝の酒にひたらばや 瓶の中なる天地《あめつち》の 祝の夢に酔ひ/\て 心は花の香《か》に匂ふ 楽しき春の夜《よ》に似たり 比翼《ひよく》の鳥のうちかはす 羽袖《はそで》もいとゞ新しく 天の契《ちぎ》りを目にも見る 連理《れんり》の枝のおもしろや わがはなむこは紅《くれなゐ》の かほばせいとゞうるはしく まなこはひかりかゞやきて あしたの星にまがふめり わがはなよめは白百合の 白きころもをうちまとひ その黒髪の露ふかく 黄菊《きぎく》の花をかざしたり つばさならぶる鴛鴦《をしどり》も 雄鳥《をどり》の羽《はね》はまさるごと いづれか欠《か》くる世の中に ためしまれなるふたりかな たれかめでたき言の葉に 神の力は奪ふとも 契《ちぎり》の酒をくみかはす ふたりのさまを喩《たと》ふべき いかにいかなるたくみもて 画筆《ゑふで》に色は写すとも 欠くるに慣れし彩《あや》をもて ふたりのさまを画《ゑが》くべき 言ふにも足らじ貝の葉の たがひに二つ相合ふて 情《なさけ》の海にたつ波の そこによせてはかへすとも 縁《えにし》の神にゆるされて ふたり身は世に合ふのみか たがひに慕ふ胸の火は 心の空にもゆるかな 地にあるときは二人こそ またき契といふべけれ 天にありても二人こそ またき妹背《いもせ》といふべけれ 天《あま》の河原《かはら》は涸《か》るゝとも 連理の枝は朽つるとも 比翼の鳥は離るとも 二人のなかの絶ゆべしや これを思へばよろこびの 祝の酒に酔ひくだけ 胸のたのしみつきがたく このさかもりの歌となる 玉山《ぎょくざん》ながく倒れては おぼつかなくも手をうちて 高砂《たかさご》の歌おもしろき このむしろこそめでたけれ   三 農 夫   農 夫  凡《およ》そ万物に本末あり、改作耕稼《こうか》もまた結要あるべし。農民は朝《あした》に霧を払《はらつ》て出で、夕《ゆふべ》に星を戴《いただき》て帰る。遠方野山に居る時は少し休むことあれば疇《うね》を枕にするといへども、楽も亦《また》其中にあり。人は体を穏《やすき》に置て気を詰ること老病する本歟《もとか》。依之《これにより》、山人は体を詰め気は泰《やすらか》にするといふ。是《これ》によつて長命し、海人は体を泰にして気を詰る故に短命すといふ。気体不二なりといへども心は又替るにや。総じて下民の苦は眼を開きて上より心つきて見る、則《すなは》ち苦も亦明かにして、上の楽も亦弥《いよいよ》楽みなりといふ。耕桑《こうそう》は昼夜男女雨露にぬれて、農民辛苦すること甚し。耕《たがや》し織らずんば何を以てか三宝の其一とせん。民は心気をくだき身を詰めて天の造化にしたがひ力《つと》むるものは良民なり。農人は遊楽の慾薄くして唯雑食の腹に満たんことを願ふものなり。           (耕稼春秋、初巻)  序  利根川のほとりにて     一の声 見ようるはしく照る月の 緑にけぶる夜のひかり 見よゆるやかに行く水の 流れは深き利根の河 花さきにほふ川岸に 光彩《ひかり》を宿《やど》す青草《あをくさ》の 茂れるかたの静けさは 眠《ねむり》のごとく見ゆるかな     二の声 さても自在を翼《つばさ》とし 光にありて闇《やみ》を知り みそらに居りて冥府《よみ》の世の 声を聴《き》き知るわれらさへ かの魔界《ふるさと》を立ちいでて かくうるはしき月の夜に 自然の業《わざ》を眺めつゝ 岸のほとりにさまよへば 飽《あ》くとしもなき今宵《こよひ》かな     三の声 あゝ疑惑《うたがひ》と悲哀《かなしみ》の 夢ひきむすぶ人の子は いかにこよひの月を見て 夜《よる》の思《おもひ》をかさぬらん げに人のする業《わざ》よりも いや空《むな》しきはあらじかし いかに望みは高くして この天地《あめつち》を狭しとし 泣きつ笑ひつ怒りつゝ こゝろ一つにすがるとも そのなすわざを眺むれば 匍匐《はらば》ふ虫にいづれぞや よしといひ又たあしといひ むなしき岸は築くとも かの生滅《せいめつ》の波うたば 流るゝ砂にいづれぞや あしたゆふべの影々は 舞台《うてな》を馳《は》せてとゞまらず 来《きた》るは虹《にじ》のごとくにて 帰るは花の散るごとし 過《すぎ》にしあとを窮《きは》むれば いづれか児戯《じぎ》にあらざらむ 消えゆくあとを眺むれば また尋《たづ》ぬべきすべもなし 露《つゆ》霜《しも》深き利根川の 岸辺の小田《をだ》のあさゆふべ 彼鋤《すき》鍬《くは》を友として 力《つと》め耕《たがや》す身なれども 家のむかしを尋ぬれば まこと賤《いや》しき種《たね》ならず げにわれはしもこよひより 彼の心の中《うち》に住み 雄々しき彼を誘《いざな》ひて 恋さま/″\の夢を見せ 時に処女《をとめ》と身を化《な》して この月影の川岸に 奇《く》しき光を投ぐるごと あやしき影を彼に投げ 時には夢にあらはれて 安き心を奪ひ裂《さ》き 胸に霰《あられ》をそゝぎては 涙の露を落《おと》さしめ うつゝに隠《かく》れ夢に出で 光にひそみ影に見え もゆる試練《ためし》の火となりて 若き農夫を試みん     二の声 きけや一ふしほがらかに 遠く吹きすむしらべこそ 彼がすさびの笛ならめ     一の声 さなりさやけき月影に 笛のあるじをながむれば まことや彼は農夫なり     三の声 よしうるはしき青草の 岸にすわりて彼を待たなん  上のまき    一 田畠の間なる小道にて    父 ゆふべ小暗《をぐら》きともしびの 油はつきて消ゆるまで 人は眠りにさそはれて 楽しき夢に入れる間《ま》も いねられなくにたゞひとり ひとり枕をかき抱き 鴫《しぎ》の羽掻《はねがき》しば/″\も 同じ思ひにかへりつゝ このもろこしの戦《いくさ》にぞ 汝《なれ》は行かじと嘆きけむ そのこゝろねをはかりしが わが疑惑《うたがひ》は解けざりき 今こそはかく利根川の 岸辺の草に埋《うづ》もれて あしたに星の影を履《ふ》み ゆふべに深き露を分け 鋤と鍬とを肩にして 賤《いや》しき業《わざ》はいとなめど もとほまれあるものゝふの 高き流れを汲める身ぞ すぐれし馬にむちうちて 風に真弓《まゆみ》をひき鳴らし 胸に溢るゝますらをの ほまれは海の湧くがごと のぞみは雲の行くがごと 雄々しかりける吾《わが》父も 草葉の影の夢にだに 汝《な》が言の葉を泄《も》れきかば いかにはげしき紅《くれなゐ》の 血潮の涙流すらむ げに汝《なれ》はしも吾《わが》家《いへ》の 高きほまれを捨つるまで 世のことわりもわかぬまで いくさを恐《おづ》る心かや    農夫 懼《おそ》れやはするよしや今 心を奪ふいかづちの ふるふがごとく大砲《おほづつ》の まなこの前にとゞろくも われは静かに鍬とりて としつき慣れし利根川の 岸辺にいでて小田《をだ》うたむ または流るゝ弾丸《たま》飛びて 耳のほとりをかすむとも たなれの鋤を肩にして ゆふべの歌をうたひつゝ いと冷やかに桑の樹の 葉蔭《はかげ》を履《ふ》みて帰るべし    父 しからば遠き軍旅《いくさ》には などかいでしとなげくらむ    農夫 なげかざらめや戦《たたかひ》と なべてを思ふ吾身なり 剣《つるぎ》をとるも畠《はた》うつも 深き差別《けぢめ》はあらざらむ われ時として畠中に 手に持つ鍬を投げ捨てて たがやしするも畠うつも 土をかへすも草ぎるも 汗も膏《あぶら》もおろかしく 生れいでたるわれひとの 空《むな》しき生涯《いのち》一日《ひとひ》より 二日《ふたひ》につなぐためかとぞ 思へば身をも忘れつゝ 佇立《たたず》むこともありしなり まことのさまを尋《たづ》ぬれば 戦《たたかひ》とてもまた同じ 野末の草に流れゆく 活《い》ける血潮やいかならん 剣の霜に滅びゆく 人の運命《さだめ》やいかならん 誰《たれ》か火に入る虫のごと 活ける命をほろぼして あだし火炎《ほのほ》に身を焚《や》くの おろかのわざをまなぶべき 嗚呼《ああ》つはものの見る夢の 花や一時《ひととき》春行かば 剣も骨も深草《ふかくさ》の 青きしげみに埋《うも》るらん げに凄《すさ》まじき戦《たたかひ》の あとにもましてうつし世に いや悲しきはあらじかし    父 おろかしやそのくりごとは 夢見る人のいふことぞ    農夫 さなりうき世の闘争《あらそひ》は いづれか夢にあらざらん    父 あゝ汝《な》が耳は聾《しひ》たれば いかにすぐれしものゝふの ほまれの鐘も響なし 汝《なれ》が眼《まなこ》は盲《しひ》たれば いかにまことのたらちをの 言葉の花も色ぞなき かりそめならぬ世のわざを 嘲《あざけ》り笑ふ言の葉は さはやかなるに似たれども 罵《ののし》り狂ふますらをの 身の行末をながむれば みな落魄《おちぶれ》と涙のみ あゝわが胸は苦悶《くるしみ》と 恥辱《はぢ》と忿怒《いかり》に溢れたり かなしあさまし世の人に 汝《な》が言の葉の泄《も》れもせば 冷《つめ》たき汗は雨のごと いかに流れて我を浸《ひた》さん    二 まへとおなじ小道にて    母 かくても長き夏の日を ひとり思ひに沈みつゝ 緑の蔭に佇立《たたず》みて いくその時を経《へ》つるぞや ゆめな恨《うら》みそ汝《な》が父の 思ひあまりしくろがねの 拳《こぶし》のあとは紫に 深き傷《いた》みをのこすとも そはあらそひの痕としも 思へばさこそ恨みあれ 傷みはいかに夏の日の 烈《はげ》しきさまに似たりとも 汝《な》がたらちをの秋霜《あきしも》の 教《をしへ》のほどを思ひ見よ まだいとけなき昔より 好めるまゝに書《ふみ》も読み もののあはれもことわりも あらかたは知る汝が身なり たれか好みてうめる児《こ》に 禍《わざはひ》あれと願ふべき 忍びがたきを忍びつゝ 遠き軍旅《いくさ》に行きかねし    農夫 まことやわれはますらをの ほまれを知らぬ心より 遠きいくさに出《い》で立つを なげくものにはあらじかし あゝ吾《わが》胸は写すべき 言葉も知らぬかなしみを 宿《やど》せし日より昼も夜も 深き思に沈みつゝ 迷へる虫の窓にきて かなたこなたに飛ぶがごと 天《あめ》と地《つち》とに迷ふ身の おろかをかこつ外あらじ このかなしみの乳房《ちぶさ》より われさま/″\の智慧《ちゑ》を飲み にがき世の味《あぢ》物の裏《うら》 人のまことも虚偽《いつはり》も あぢはふ身とはなりしなり このかなしみはあやしくも 我をいざなひ導《みちび》きて 気は世を蓋《おほ》ふますらをの 高きほまれも夢と見せ 祭の夜の燈火《ともしび》に 戯《たは》るゝ人を影《かげ》と見せ 暗き舞台《うてな》の幻燈《うつしゑ》に もののかたちの映るごと 世のさま/″\を見せしめき このかなしみは吾胸の 深き底より湧き上り 遠きいくさに行くべきを はなたじとこそとゞむなれ    母 げにしがらみのせきとめて 流れもあへぬ谷川の そのかなしみのあらかたも われはとくより知れるなり さばれかくまで言ひはりて 軍《いくさ》の旅《たび》を厭《いと》ひなば その暁《あかつき》やいかならむ 思ふも苦し罪人《つみびと》と 名《な》にも呼ばれてあさゆふべ 暗き牢獄《ひとや》の窓により 星の光を見るの外 身に添ふ影もあらざらん 見よ花深き川岸に むつまじかりしまどゐさへ させる嵐のさわぎなば 家のむつびもたのしみも 一夜《ひとよ》のうちに破れなむ 人はこの世に生れきて 得しらぬ途《みち》を行くなれば げにさま/″\の山河《やまかは》を 越ゆべき旅の身なるぞや われも思へば前髪《まへがみ》の まだ初花《はつはな》のむかしより はやも命の傾《かたぶ》きて 秋の霜ふるこの日まで あるは行くへの雲深く 道なき森に迷ふごと 光もなくて明くる日は 空行く鳥を望み見て 張れる翼《つばさ》を羨《うらや》みし その暁も多かりき あるはなやめる旅人の 夏の緑の蔭に行き 清《す》める泉をむすぶごと げに絶えなんとばかりにて またも生命《いのち》にかへりてし その夕暮も多かりき なあやまりそあやまりそ あゆむに難《かた》き世の路《みち》を 見よ人の行く旅路《たびぢ》には 入るべき道のありながら 出《い》づるにかたき谷間《たにあひ》の 多《おほ》かるとこそ聞くものを あゝうらわかき旅人の かゝるほとりに分け入りて また帰りこぬためしさへ 世にさはなりとしるやしらずや    三 鍛冶《かぢ》の家にて    つかひの老婆 望《のぞみ》はむなし待人《まちびと》の 影はそれとも見えざりき    鍛冶のむすめ 梭《をさ》もつわざにたへかねて ゆふぐれ窓によりつゝも 汝《な》が帰りこん時をだに 待ちわびてしはあだなりや    老婆 かの蔭深き緑葉《みどりば》の 柳のほとり尋ねゆき 人やきたると待ちしかど 風は空《むな》しく川岸の 草のおもてを渡るのみ 尋ぬる影はあらざりき 青きみそらに迷ひゆく 雲と雲との絶間《たえま》より 夕日はもれて利根川の 水に光彩《ひかり》を沈めつゝ 黄金《こがね》の色は川波の ゆくへはるかに輝くも 尋ぬる人はあらざりき ゆふべにかゝる明星の いとゞさやかにあらはれて 深き光は夏の日に ふたたびしらぬ空《そら》の花 影はかなたの野の家の 屋根を帯びつゝきらめくも 尋ぬる人はあらざりき やがて川辺にたちこめし 狭霧《さぎり》のうちに閉《とざ》されて 空《むな》しく帰る渡しもり ゆるき流れに棹《さを》さして 舟やる音は夕暮の さみしき空にひゞけども 尋ぬる人はあらざりき    むすめ あゝなつかしき夕暮を 人待つ時といふとかや 天《あま》の河原《かはら》に彦星の たなばたつめと相逢《あ》ふも さみしく更《ふ》けし夜半《よは》ならで そは夕暮のころとかや まだ暮れはてぬけふなれば 人待つ望みのこるらん 今一度《いまひとたび》はいでゆきて 岸のほとりを尋ね見よ    老婆 はや花草《はなぐさ》の影暗く ねぐらにいそぐ鶏《にはとり》は 沢辺《さはべ》を帰る雛鳥《ひなどり》の そのかず/\を呼ぶぞかし 竹の林のかなたには 羽音《はおと》さびしき旅鴉《たびがらす》 雲を望みて飛び行くは 群に別れて迷ふなるらん    むすめ     一   門田《かどた》にいでて      草とりの   身のいとまなき      昼なかは   忘るゝとには      あらねども   まぎるゝすべぞ      多かりき     二   夕ぐれ梭《をさ》を      手にとりて   こゝろ静かに      織《お》るときは   人の得しらぬ      思こそ   胸より湧《わ》きて      流れけれ     三   あすはいくさの      門出《かどで》なり   遠きいくさの      門出なり   せめて別れの      涙をば   名残《なごり》にせんと      願ふかな     四   君を思へば      わづらひも   照る日にとくる      朝の露   君を思へば      かなしみも   緑にそゝぐ      夏の雨     五   君を思へば      闇の夜も   光をまとふ      星の空   君を思へば      浅茅生《あさぢふ》の   荒《あ》れにし野辺も      花のやど     六   胸の思ひは      つもれども   吹雪《ふぶき》はげしき      こひなれば   君が光に      照らされて   消えばやとこそ      恨《うら》むなれ    四 林の中    農夫 時はせまりぬ利根川の 水の流れに舟浮《う》けて 都のかたに行く人を はや岸の辺《べ》に待つならむ なかなしみそ今は我《われ》 すでに心を定めたり これより遠きもろこしの 軍《いくさ》の旅に行くべきぞ    むすめ けふ別れてはいつかまた 相逢ふまでの名残ぞや あゝ人去りて鳥なかば 鳥の行くへに花さかば 花の色香によそへつゝ なれにし岸の青草の 上にすわりて汝《なれ》がため 幸《さち》あれかしと祈らなむ    農夫 思へばわれはこの日ごろ あだなる夢に迷ひつゝ かりそめならぬ汝《なれ》が身を あやまりしこそうたてけれ    むすめ さらば二人のえにしをば あだなる夢と思ふかや    農夫 さなり波たつ海原《うなばら》の 底はありとも吾《わが》恋は そこひ知らずとかこちつゝ 汝《なれ》になげきしけふまでを あだなる夢と思ひてよ あゝあやまてり我は早や 汝に恋する心なし げにおろかしきわがために 汝《な》が身の花はつながれて 行くべきかたに得も行かず いくその時を経《へ》てしぞや なあやまりそかなしみそ すでに冷《つめ》たき石なれば 恋は用なき吾身なり めぐみは深きたらちねに 行きてまことをつくせかし    むすめ その言の葉の底をだに 汲みしらじとにあらねども あゝ汝《なれ》は吾《わが》生命《いのち》なり われは生命に離れたり たゞ忘れじとひとことの 頼むべきだにありもせば いかに苦しきなやみをも われは汝《なれ》ゆゑ忍ぶべし いかにさかしき世の人の 笑ひはすとも聞き入れじ さるをつれなき言の葉に 痛みを胸に残しつゝ かくて互《たがひ》に別れなば われはたとへば白百合の 人に折られし花のごと 今は道辺に捨てられて いとすみやかに萎《しを》れなむ 人の望みと願ひとに 満つるかぎりはあらねども 汝《なれ》夫《つま》となり父となり われ妻となり母となり 世にある上はかくてこそ 縁《えにし》の甲斐《かひ》もありけめを かゝる命運《さだめ》は朽ちてゆく かよわき人の身の常か    農夫 汝《なれ》あやまれりあやまれり 処女《をとめ》の胸の花一枝《はないっし》 二つとはなき色香ぞや かりそめならぬ汝《なれ》が身の 宝を深く蔵《をさ》めてよ あゝ心せよおろかしき われは虫にも劣《おと》る身ぞ 空に翅《つばさ》をうちのべて 思ひのまゝに舞ふ鷹《たか》も 人と生れし我よりは 賢《かしこ》き術《すべ》を知るぞかし はや川岸のかなたにて 喇叭《らっぱ》の響《ひびき》きこゆるは 舟のよそほひとゝのひて 呼ぶにやあらんあゝさらば 遠き軍《いくさ》に出《い》でたちて 命さだめぬ身なれども 軍《いくさ》の神のみめぐみに われもほまれは揚《あ》げなむを さらば汝やもたらちねの 深きめぐみをあだにせで えにしもあらばよきかたに 末栄《さかえ》ある身を立てよ    むすめ 逢ふ時あれば二人また 別るゝ時のありぞとは ことわりしらぬ身ならねど かくも惜《をし》めば惜まるゝ われら二人の名残かな さらば再びかへりきて 戦《いくさ》がたりをなさんまで 国ことなれる春秋《はるあき》の 雨と風とを厭《いと》ひてよ 剣《つるぎ》の影の霜さえて 戦《いくさ》の野辺は寒くとも かのほまれあるつはものの 猛《たけ》きわざには劣りそよ あゝ利根川の水のごと 柳のかげのあさゆふべ 胸小休《をやみ》なき吾身より 涙は汝《なれ》がかたに流れん  下のまき    一 緑の樹《こ》かげにて    農夫 はや二とせは過ぎにけり 軍《いくさ》の旅の寝覚《ねざめ》には 暁《あかつき》空《そら》に吹きすめる 喇叭《らっぱ》の声をきくごとに 思ひ浮べし故郷《ふるさと》の 今はうれしく見ゆるかな 金州城の秋深く 篝《かがり》の影の暗き夜は 露営の霜の寒さより また倚子山のたゝかひの 弾丸《たま》の霰《あられ》のたばしりて 照る日も暗きさままでを わがなつかしき故郷の 人に告げなばいかならむ 夕顔白き花影《はなかげ》に 祝の酒を汲まむとき 心雄々しき吾《わが》父は いかに眼《まなこ》をきらめかし 白髪《しらかみ》長きわが叔父《をぢ》は いかに耳をばそばだてて わが説きいづる二とせの 戦《いくさ》がたりを聞くならむ あゝなつかしの古里《ふるさと》よ 流れかはらぬ利根川よ 遠く筑波《つくば》の青山の 聳《そび》ゆるかたの雲間より 万代《よろづよ》おなじ白き日の 光はもれて山川を もとのまゝにも照らすかな あゝなつかしの古里よ 国を立ちいで春秋《はるあき》の 長き夢をば重ねつゝ 今帰りきて佇立《たたず》めば 樹蔭《こかげ》はもとのふかみどり 梅の梢に葉がくれて 鳴く鳥の音《ね》もこゝちよや さてもかなたの川岸の 深き並樹《なみき》のかげにして 風さそひくる音やなに きけば響銅《さはり》の鐃※[#「※」は「かねへん」に「跋」のつくり、読みは「はち」、163-15]《にょうはち》の うき世にありしかなしみを うき世の外に伝ふるは いかなる人の野辺おくり 六道の松明《まつ》紙の旗 すでに緑に隠れたり 静かに行くをながむれば 白き楊《やなぎ》の木下《こした》かげ 昼かゞやかす白張《しらはり》の 亡き人送るともしびは 火影《ほかげ》動《ゆる》ぎて霊魂《たましひ》の 行くへをいかに照らすらん 香《こう》のけぶりも愁《うれ》ひつゝ 天にのぼるに似たりけり そなへの花も悲みて 地に仆《たふ》るゝに似たりけり 無礼《なめげ》はゆるせ影見えし 若き聖《ひじり》にこととはむ そも誰人《たれびと》のなきがらを こは送りゆく群ならん    僧 水静かなる利根川の 流れの岸に生れてし 鍛冶《かぢ》のをとめと聞きしかど その名は君よ思ひでず げに絶えがたき恋をしも 味《あぢ》はふ人のある世かな かれも浮《う》きたる心より 花さきにほふあさゆふべ 岸辺の草にたづさはり 水の流にかはらじと 契《ちぎ》れる人のありしなり そは数ふれば夏の夜の 星より多きためしかな 行くへも遠く別れては 遂に逢瀬《あふせ》の絶えしより 若き命にさきいでし 心の春の花さへも いつしかいとゞいたましき わづらひとこそかはりけれ ふたたび桃はさきかへり ふたたび菫《すみれ》にほへども 人は空《むなし》く帰らねば 恋のなやみに朽《く》ちはてて 世にすぐれたるたをやめの 恨《うら》みやいかに長からん    農夫 それはまことか吾胸は 深き傷《いた》みを覚えたり さばれひと/″\待つらんを いざや家路にいそがなむ    僧 われあまたたび万性《まんしょう》に 高き御法《みのり》を説きしかど かくまで人をうごかせし しるきためしはあらざりき げに西風の吹けるとき 飛び散る秋の葉のごとく 思えへばかれのかほばせは 死灰《しかい》の色にかはりつゝ その口唇《くちびる》はうちそよぐ 葦《あし》の一葉《ひとは》にまがひけり あゝ大麦の青々と たわにみのりし畠中《はたなか》に 彼のゆくへをながむれば 死してくだくる人のごと さても穂かげに仆《たふ》れけむ 姿は見えず麦にうもれて    少女     一   ゆきてとらへよ      大麦の   畠《はた》にかくるゝ      小兎《こうさぎ》を     二   われらがつくる      麦畠《むぎはた》の   青くさかりと      なるものを     三   たわにみのりし      穂のかげを   みだすはたれの      たはむれぞ     四   麦まきどりの      きなくより   丸根《まるね》に雨の      かゝるまで     五   朝露しげき      星影に    片さがりなき      鍬《くは》まくら     六       ゆふづつ沈む      山のはの   こだまにひゞく      はたけうち     七   われらがつくる      麦畠の   青くさかりと      なるものを     八   ゆきてとらへよ      大麦の   畠にかくるゝ      小兎を    二 深夜    農夫 小夜《さよ》ふけにけりたゞひとり 流れに沿ふて照る月の 影を望めば白銀《しろがね》の みそらの弓につがひてし 高き光の矢は落ちて わが小休《をやみ》なき胸を射る 草木も今や沈まりて 昼の響《ひびき》は絶えにけり 世のあらそひもわづらひも 深き眠りにつゝまれて いとゞ楽しき夏の夜の 短かき夢に入りにけり 風呼び起し雲に乗る 高光《たかひか》りますすめろぎも 剣《つるぎ》をぬきてたちて舞ふ 猛《たけ》き心のますらをも 今は静かに枕して をさなごのごと眠るらん 昼も夜《よ》もなく行く川の 声なきかたを眺むれば 羽袖《はそで》もいとゞ力なく 空《むな》しき水に飛ぶ蛍《ほたる》 あゝそのかげは亡き人の 香《にほひ》の魂《たま》か汝《なれ》もまた ありし昔の思ひ出に 岸辺の草に迷ふらん あふるゝばかり湧きいづる 血潮と遠き望みとは また堪へがたきかなしみの そのしがらみにせかれつゝ うたゝ苦しき煩悶《たたかひ》を 人にはつゝみかくすとも あふげば深く吾胸に さし入る月の光には げに覆《おほ》ふべき影もなし なにを心の柱とし なにを吾身の宿とせむ 忍ぶとすれど夜の月の 空行くかげを見るときは 万事《よろづ》の映《うつ》る心地して 涙流れてとゞまらず 時には親もはらからも 家も宝も捨てはてて 世のあざけりと身の恥辱《はぢ》を 思ふいとまのあらばこそ すがりとゞむるものあらば 蹴落《けおと》すまでも破りいで 行くへも知らず黒雲《くろくも》の 風に乱れて迷ふごと またはいざよふ大舟《おおふね》の 海に流れて落つるごと または秋鳴く雁《かり》がねの ひとりみそらに飛べるごと 身はよるべなくうらぶれて 道なき野辺に分けて入り あるは身に添ふ光なく 遠き浦辺にさまよひて 知る人もなき花草《はなぐさ》に 埋《うも》れはてんと思ふなり 時にはたえて人の世の 響かよはぬ寺に入り 紅《あか》き涙を墨染の 衣《ころも》の袖につゝみつゝ 光をまとふみ仏《ほとけ》の 霊机《つくゑ》の前にひざまづき 風吹く時は暁《あかつき》の 読経《どきょう》に夢を破りすて 雨ふる時は夕暮の 鐘に心を澄ましつゝ よしや苦しき雪山《せつざん》の 氷を胸にそゝぐとも 身にまつはれるかなしみを のがれいでんと思ふなり 時には早く死にうせて 朽《く》つる形骸《むくろ》をひきはなれ たゞ霊魂《たましひ》の身となりて 暗き幽府《よみぢ》に迷ひゆき かの亡《な》き人と亡き我と 魂《たま》と魂《たま》とは抱《いだ》き合ひ いかに他界の風吹きて われら二人を飛ばすとも いかに不断の火はもえて われら二人を焼くとても 二人の魂《たま》は常闇《とこやみ》に 離れじ朽ちじ亡《ほろ》びじと 契《ちぎ》らまほしく思ふなり げにその昔ふたりして 楽しく仰ぎ見し時も 今は心の萎《しを》れつゝ 涙にぬれて見る時も 同じ光にかがゞやきて 落ちて声なき月の影      (一番鶏《どり》の声きこゆ) 鶏《にはとり》鳴きぬ指をりて その声々を数ふれば 眠りの墓にとざされて 深く沈めるこの夜《よ》やも はや生命《いのち》あるかの日にぞ よみがへるらん        いつまでか かくてあるべき嗚呼《ああ》われは 今は心を定めたり わが黒髪はぬれ乱れ わが口唇《くちびる》はうちふるふ 胸の傷《いた》みに堪へかねて くるしきさまをたとふれば 枝に別れて落つる葉の 疾《はげ》しき風に随《したが》ひて たゞよふ身こそ悲しけれ 力烈《はげ》しきいかづちの ふるふがごとくわが魂《たま》は いたくもふるひわなゝきて 思ひなやめる吾胸の 旧《ふる》き望みは絶えにけり あゝわづらひを盛《も》り入れし 身は盃《さかづき》に似たりけり 流れて落つる河波《かはなみ》よ 汝《なれ》も流れのきはみまで 行きなば行きね遠海《とほうみ》に 落ちなば落ちねわれもまた おもひひとしく溢《あふ》れいで この盃を傾《かたぶ》けむ 誰《たれ》か破《や》れにし古瓶《ふるかめ》に みどりの酒をかへすべき 誰か波うつ磯際《いそぎは》に 流るゝ砂をとゞむべき さらばこれより亡き人の 家のほとりを尋ね見て 雲に浮びて古里《ふるさと》を のがるゝ時の名残にもせむ    三 鍛冶《かぢ》の家の      ほとりにて    鍛冶     一   宝はあはれ      砕けけり   さなり愛児《まなご》は      うせにけり   なにをかたみと      ながめつゝ   こひしき時を      忍ぶべき     二   ありし昔の      香ににほふ   薄《うす》はなぞめの      帯よけむ   麗《うる》はしかりし      黒髪の   かざしの紅《あか》き      珠《たま》よけむ     三   帯はあれども      老《おい》が身に   ひきまとふべき      すべもなし   珠《たま》はあれども      白髪《しらかみ》に   うちかざすべき      すべもなし     四   ひとりやさしき      面影《おもかげ》は   眼《まなこ》の底に      とゞまりて   あしたにもまた      ゆふべにも   われにともなふ      おもひあり     五   あゝたへがたき      くるしみに   おとろへはてつ      炉前《ほどまへ》に   仆《たふ》れかなしむ      をり/\は   面影さへぞ      力なき     六   われ中槌《なかつち》を      うちふるひ   ほのほの前に      はげめばや   胸にうつりし      亡き人の   語らふごとく      見ゆるかな     七   あな面影の      わが胸に   活《い》きて微笑《ほほゑ》む      たのしさは   やがてつとめを      いそしみて   かなしみに勝つ      生命《いのち》なり     八   汗はこひしき      涙なり   労働《つとめ》は活《い》ける      思なり   いでやかひなの      折るゝまで   けふのつとめを      いそしまむ    農夫 歌ふをきけばいさましや さてもその歌なつかしや 枕をうちてよもすがら なげきあかせしものならで 誰《たれ》かかくまでなつかしき 歌の心を思ふべき さなり大方《おほかた》世の常の 親のさばかりいとし子を 傷《いた》む心に沈みなば たゞひたすらに悲哀《かなしみ》の 涙にぬれつこがれつゝ 心砕けつありなんを または命をはかなみて 夢に驚く心より 哭《なげ》きたふるゝ暁は 活《い》ける血潮も枯れなむを 汗はこひしき涙とや 労働《つとめ》は活ける思《おもひ》とや あゝうらわかき吾身すら たゞかなしみに掩《おほ》はれて 利根の岸なる古里《ふるさと》に かへりし日より鋤《すき》鍬《くわ》を 手に持つ力なきものを 流るゝ汗のしたゝりて かの白髪《しらかみ》はぬるゝまで 烈火《ほのほ》のなかの紅烙《あかやき》や 濃青《こあを》に見ゆる純鉄《じゅんてつ》は やがてかはれる紅《べに》の色 うてば流るゝ鉄滓《てつかす》の 光となりて散らば散れ こひつむせびつ中槌《なかつち》の 力をふるふ雄々しさよ げにいさましや亡き人の そのたらちをのかくまでも 今の力に鞭《むちう》ちて 昨日《きのふ》の夢と戦へる 活ける姿にくらぶれば われかなしみの墓深く はやも小暗《をぐら》き穴に入り 若き命はありながら 埋《うも》れ朽つるに似たるかな あゝあやまちぬ年老いて 霜ふる髪は乱れつゝ 流るゝ汗にうるほふも 手には膏《あぶら》をしぼりきて 烈火《ほのほ》にむかふ人のごと われもふたたび利根川の 岸のほとりの青草の しげれるかたに小田《をだ》うちて 雄々しき心かきおこし うれひに勝ちて戦はむ さなり朧《おぼろ》の春の夜の その一時《ひととき》の夢を見て たゞ花に酔ふ蝶《ちょう》のごと はかなくてのみ過す日は すでに昔となりにけり 今は緑の樹の蔭に かの智慧《ちゑ》の葉の生《お》ひ茂り 活《い》ける潮《うしほ》は流れきて ゆふべの夢を洗ひつゝ 動ける虫は巣を出でて 草のしげみにはひめぐり 力あふるゝ姿こそ げにこのごろの夏なれや 望みをさそふ朝風は 樹々《きぎ》の梢《こずゑ》をわたりけり あゝよしさらば白百合の 花さきにほふ川岸の 故《むかし》の園《その》に立ち帰りみん   夏草の後にしるす  保福寺峠鳥居峠を越えて木曽に入りしはこの夏七月の中旬なりき。福島の高瀬氏はわが姉の嫁《とつ》ぎたるところにて、家は木曽川のほとりなる小丘に倚《よ》りて立てり。門を出でて見れば大江滔々《とうとう》として流る。われこの家にありて、峨々《がが》たる高山の壮観に接し、淙々《そうそう》たる谿谷《けいこく》の深声を耳にし、露たのしく風すゞしきあした、又は雨さびしく鳥かなしき夕、興に乗じてつゞりなせる夏の日のうたぐさを集めたるはこのふみなり。  八月木曽川の岸にはうるひ、露菊のたぐひさき乱れ、山には石斛《せきこく》、岩千鳥、鷺草《さぎそう》など咲きいでて、さすがに名に負ふ谷間のことなれば、異花の奇香を放つもの少なからず。河鹿《かじか》なく声も稀《まれ》になりゆきて、桑摘《くはつみ》の鄙歌《ひなうた》おもしろく聞ゆるころより、高瀬氏の後園には草花のながめことにうれしく、九月に入りては白壁のかげなる秋海棠《しゅうかいどう》の花もさき出でぬ。われは朝夕この花園に逍遙するの楽みありければ、枝たわゝなる夏梨のかげ、葡萄棚《ぶどうだな》のもと、または百合畠の間などにありて、海の如き青空に夏雲の往来《ゆきき》するを望み、もしくは夕顔棚のほとりにありて、老いたる農夫と共にいつはり薄き風俗のさま、祭の夜の賑《にぎや》かさ、耕作の上のことなど語りつゝ田舎の風情を味ひき。  旧暦七月十五夜には月ことにあかくこの谿谷にさし入りぬ。われは家族と共に今昔の物語を楽みたりき。甥《をひ》なるひとはわれと年僅《わづか》に三つばかりたがひたれば、殆《ほとん》どまことのはらからのごとく、常に起臥《きが》を同《おなじ》うして、共に読み、共に語り、なにくれとこゝろづけくるゝ情のほどもうれし。家には昔より伝はれる古画古書または陶器漆器香具のたぐひなど少なからず、われはこれがために好古の性癖を擅《ほしいまま》にせしのみか、また蔵に納めたる図書を見るの楽みも多かりき。このふみは高瀬氏と姉とのたまものといふべきなり。  げに、美妙なる色彩に眩惑《げんわく》せられて内部の生命の捉《とら》へ難きを思ふ時、人力の薄弱にして深奥なる自然を透視するの難きを思ふ時、芸術の愛慕足らざるを思ふ時、古人がわが詩を作るは自己を鞭《むちう》つなりといへる言の葉の甚深なるを嘆ぜずんばあらず。夏草はわが自ら責むるの児にすぎざるのみ。 底本:「藤村詩集」新潮社 昭和四十三年二月十日発行 平成二年九月二十五日四十四刷 入力:mayu 校正:齋藤哲