夏草
島崎藤村
一 春やいづこに
春やいづこに
かすみもかげにもえいでし
糸の柳にくらぶれば
いまは小暗き木下闇
あゝ一時の
春やいづこに
色をほこりしあさみどり
わかきむかしもありけるを
今はしげれる夏の草
あゝ一時の
春やいづこに
梅も桜もかはりはて
枝は緑の酒のごと
酔うてくづるゝ夏の夢
あゝ一時の
春やいづこに
鷲 の 歌
みるめの草は青くして海の潮の香ににほひ
流れ藻の葉はむすぼれて蜑の小舟にこがるゝも
あしたゆふべのさだめなき大竜神の見る夢の
闇きあらしに驚けば海原とくもかはりつゝ
とくたちかへれ夏波に友よびかはす浜千鳥
もしほやく火はきえはてて岩にひそめるかもめどり
蜑は苫やに舟は磯いそうちよする波ぎはの
削りて高き巌角にしばし身をよす二羽の鷲
いかづちの火の岩に落ち波間に落ちて消ゆるまも
寝みだれ髪か黒雲の風にふかれつそらに飛び
葡萄の酒の濃紫いろこそ似たれ荒波の
波のみだれて狂ひよるひゞきの高くすさまじや
翼の骨をそばだててすがたをつゝむ若鷲の
身は覆羽やさごろもや腋羽のうちにかくせども
見よ老鷲はそこ白く赤すぢたてる大爪に
岩をつかみて中高き頭静かにながめけり
げに白髪のものゝふの剣の霜を払ふごと
唐藍の花ますらをのかの青雲を慕ふごと
黄葉の影に啼く鹿の谷間の水に喘ぐごと
眼鋭く老鷲は雲の行くへをのぞむかな
わが若鷲はうちひそみわが老鷲はたちあがり
小河に映る明星の澄めるに似たる眼して
黒雲の行く大空のかなたにむかひうめきしが
いづれこゝろのおくれたり高し烈しとさだむべき
わが若鷲は琴柱尾や胸に文なす鷸の斑の
承毛は白く柔和に谷の落し羽飛ぶときも
湧きて流るゝ真清水の水に翼をうちひたし
このめる蔭は行く春のなごりにさける花躑躅
わが老鷲は肩剛く胸腹広く溢れいで
烈しき風をうち凌ぐ羽は著くもあらはれて
藤の花かも胸の斑や髀に甲をおくごとく
鳥の命の戦ひに翼にかゝる老の霜
げにいかめしきものゝふの盾にもいづれ翼をば
張りひろげたる老鷲のふたたびみたび羽ばたきて
踴れる胸は海潮の湧きつ流れつ鳴るごとく
力あふれて空高く舞ひたちあがるすがたかな
黒岩茸の岩ばなに生ふにも似るか若鷲の
巌角ふかく身をよせて飛ぶ老鷲をうかゞふに
紋は花菱舞ひ扇ひらめきかへる疾風の
わが老鷲を吹くさまは一葉を振るに似たりけり
たゝかふためにうまれては羽を剣の老鷲の
うたんかたんと小休なき熱き胸より吹く気息は
色くれなゐの火炎かもげに悲痛の湧き上り
勁き翼をひるがへしかの天雲を凌ぎけり
光を慕ふ身なれども運命かなしや老鳥の
一こゑ深き苦悶のおとをみそらに残しおき
金糸の縫の黒繻子の帯かとぞ見る黒雲の
羽袖のうちにつゝまれて姿はいつか消えにけり
あゝさだめなき大空のけしきのとくもかはりゆき
闇きあらしのをさまりて光にかへる海原や
細くかゝれる彩雲はゆかりの色の濃紫
薄紫のうつろひに楽しき園となりけらし
命を岩につなぎては細くも糸をかけとめて
腋羽につゝむ頭をばうちもたげたる若鷲の
鈎にも似たる爪先の雨にぬれたる岩ばなに
かたくつきたる一つ羽はそれも名残か老鷲の
霜ふりかゝる老鷲の一羽をくはへ眺むれば
夏の光にてらされて岩根にひゞく高潮の
砕けて深き海原の巌角に立つ若鷲は
日影にうつる雲さして行くへもしれず飛ぶやかなたへ
銀 河
天の河原を
ながむれば
星の力は
おとろへて
遠きむかしの
ゆめのあと
こゝにちとせを
すぎにけり
そらの泉を
よのひとの
汲むにまかせて
わきいでし
天の河原は
かれはてて
水はいづこに
うせつらむ
ひゞきをあげよ
織姫よ
みどりの空は
かはらねど
ほしのやどりの
今ははた
いづこに梭の
音をきかむ
あゝひこぼしも
織姫も
今はむなしく
老い朽ちて
夏のゆふべを
かたるべき
みそらに若き
星もなし
白磁花瓶賦
みしやみぎはの白あやめ
はなよりしろき花瓶を
いかなるひとのたくみより
うまれいでしとしるやきみ
瓶のすがたのやさしきは
根ざしも清き泉より
にほひいでたるしろたへの
こゝろのはなと君やみん
さばかり清きたくみぞと
いひたまふこそうれしけれ
うらみわびつるわが友の
うきなみだよりいでこしを
ゆめにたはぶれ夢に酔ひ
さむるときなきわが友の
名残は白き花瓶に
あつきなみだの残るかな
にごりをいでてさくはなに
にほひありとなあやしみそ
光は高き花瓶に
恋の嫉妬もあるものを
命運をよそにかげろふの
きゆるためしぞなきといへ
あまりに薄き縁こそ
友のこのよのいのちなれ
やがてさかえんゆくすゑの
ひかりも待たで夏の夜の
短かき夢は燭火の
花と散りゆくはかなさや
つゆもまだひぬみどりばの
しげきこずゑのしたかげに
ほとゝぎすなく夏のひの
もろ葉がくれの青梅も
なつの光のかゞやきて
さつきの雨のはれわたり
黄金いろづく梅が枝に
たのしきときやあるべきを
胸の青葉のうらわかみ
朝露しげきこずゑより
落ちてくやしき青梅の
実のひとつなる花瓶よ
いのちは薄き蝉の羽の
ひとへごろものうらもなく
はじめて友の恋歌を
花影にきてうたふとき
緑のいろの夏草の
あしたの露にぬるゝごと
深くすゞしきまなこには
恋の雫のうるほひき
影を映してさく花の
流るゝ水を慕ふごと
なさけをふくむ口唇に
からくれなゐの色を見き
をとめごころを真珠の
蔵とは友の見てしかど
宝の胸をひらくべき
恋の鍵だになかりしか
いとけなきかなひとのよに
智恵ありがほの恋なれど
をとめごころのはかなさは
友の得しらぬ外なりき
あひみてのちはとこしへの
わかれとなりし世のなごり
かなしきゆめと思ひしを
われや忘れじ夏の夜半
月はいでけり夏の夜の
青葉の蔭にさし添ひて
あふげば胸に忍び入る
ひかりのいろのさやけさや
ゆめにゆめ見るこゝちして
ふたりの膝をうち照らす
月の光にさそはれつ
しづかに友のうたふうた
たれにかたらむ
わがこゝろ
たれにかつげむ
このおもひ
わかきいのちの
あさぼらけ
こゝろのはるの
たのしみよ
などいたましき
かなしみの
ゆめとはかはり
はてつらむ
こひはにほへる
むらさきの
さきてちりぬる
はななるを
あゝかひなしや
そのはなの
ゆかしかるべき
かをかげば
わがくれなゐの
かほばせに
とゞめもあへぬ
なみだかな
くさふみわくる
こひつじよ
なれものずゑに
まよふみか
さまよひやすき
たびびとよ
なあやまりそ
ゆくみちを
竜を刻みし宮柱
ふとき心はありながら
薄き命のはたとせの
名残は白き瓶ひとつ
たをらるべきをいのちにて
はなさくとにはあらねども
朝露おもきひとえだに
うれひをふくむ花瓶や
あゝあゝ清き白雪は
つもりもあへず消ゆるごと
なつかしかりし友の身は
われをのこしてうせにけり
せめては白き花瓶よ
消えにしあとの野の花の
色にもいでよわが友の
いのちの春の雪の名残を
きり/″\す
去年蔦の葉の
かげにきて
うたひいでしに
くらぶれば
ことしも同じ
しらべもて
かはるふしなき
きり/″\す
耳なきわれを
とがめそよ
うれしきものと
おもひしを
自然のうたの
かくまでに
旧きしらべと
なりけるか
同じしらべに
たへかねて
草と草との
花を分け
声あるかたに
たちよりて
虫のこたへを
もとめけり
花をへだてて
きみがため
聞くにまかせて
うたへども
うたのこゝろの
かよはねば
せなかあはせの
きり/″\歐す
二 新 潮
新 潮
一
我あげまきのむかしより
潮の音を聞き慣れて
磯辺に遊ぶあさゆふべ
海人の舟路を慕ひしが
やがて空しき其夢は
身の生業となりにけり
七月夏の海の香の
海藻に匂ふ夕まぐれ
兄もろともに舟浮けて
力をふるふ水馴棹
いづれ舟出はいさましく
波間に響く櫂の歌
夕潮青き海原に
すなどりすべく漕ぎくれば
巻きては開く波の上の
鴎の夢も冷やかに
浮び流るゝ海草の
目にも幽かに見ゆるかな
まなこをあげて落つる日の
きらめくかたを眺むるに
羽袖うちふる鶻隼は
彩なす雲を舞ひ出でて
翅の塵を払ひつゝ
物にかゝはる風情なし
飄々として鳥を吹く
風の力もなにかせむ
勢竜の行くごとく
羽音を聞けば葛城の
そつ彦むかし引きならす
真弓の絃の響あり
希望すぐれし鶻隼よ
せめて舟路のしるべせよ
げにその高き荒魂は
敵に赴く白馬の
白き鬣うちふるひ
風を破るにまさるかな
海面見ればかげ動く
深紫の雲の色
はや暮れて行く天際に
行くへや遠き鶻隼の
もろ羽は彩にうつろひて
黄金の波にだゞよひぬ
朝夕を刻みてし
天の柱の影暗く
雲の帳もひとたびは
輝きかへる高御座
西に傾く夏の日は
遠く光彩を沈めけり
見ようるはしの夜の空
見ようるはしの空の星
北斗の清き影冱えて
望みをさそふ天の花
とはの宿りも舟人の
光を仰ぐためしかな
潮を照らす篝火の
きらめくかたを窺へば
松の火あかく燃ゆれども
魚行くかげは見えわかず
流れは急しふなべりに
触れてかつ鳴る夜の浪
二
またゝくひまに風吹きて
舞ひ起つ雲をたとふれば
戦に臨むますらをの
あるは鉦うち貝を吹き
あるは太刀佩き剣執り
弓矢を持つに似たりけり
光は離れ星隠れ
みそらの花はちりうせぬ
彩美しき巻物を
高く舒べたる大空は
みるまに暗く覆はれて
目にすさまじく変りけり
聞けばはるかに万軍の
鯨波のひゞきにうちまぜて
陣螺の音色ほがらかに
野の空高く吹けるごと
闇き潮の音のうち
いと新しき声すなり
我あまたたび海にきて
風吹き起るをり/\の
波の響に慣れしかど
かゝる清しき音をたてて
奇しき魔の吹く角かとぞ
うたがはるゝは聞かざりき
こゝろせよかしはらからよ
な恐れそと叫ぶうち
あるはけはしき青山を
凌ぐにまがふ波の上
あるは千尋の谷深く
落つるにまがふ濤の影
戦ひ進むものゝふの
剣の霜を払ふごと
溢るゝばかり奮ひ立ち
潮を撃ちて漕ぎくれば
梁はふたりの盾にして
柁は鋭き刃なり
たとへば波は西風の
梢をふるひふるごとく
舟は枯れゆく秋の葉の
枝に離れて散るごとし
帆檣なかば折れ砕け
篝は海に漂ひぬ
哀しや狂ふ大波の
舟うごかすと見るうちに
櫓をうしなひしはらからは
げに消えやすき白露の
落ちてはかなくなれるごと
海の藻屑とかはりけり
あゝ思のみはやれども
眼の前のおどろきは
剣となりて胸を刺し
千々に力を砕くとも
怒りて高き逆波は
猛き心を傷ましむ
命運よなにの戯れぞ
人の命は春の夜の
夢とやげにも夢ならば
いとゞ悲しき夢をしも
見るにやあらむ海にきて
まのあたりなるこの夢は
これを思へば胸満ちて
流るゝ涙せきあへず
今はた櫂をうちふりて
波と戦ふ力なく
死して仆るゝ人のごと
身を舟板に投げ伏しぬ
一葉にまがふ舟の中
波にまかせて流れつゝ
声を放ちて泣き入れば
げに底ひなきわだつみの
上に行衛も定めなき
鴎の身こそ悲しけれ
時には遠き常暗の
光なき世に流れ落ち
朽ちて行くかと疑はれ
時には頼む人もなき
冷たき冥府の水底に
沈むかとこそ思はるれ
あゝあやまちぬよしや身は
おろかなりともかくてわれ
もろく果つべき命かは
照る日や月や上にあり
大竜神も心あらば
賤しきわれをみそなはせ
かくと心に定めては
波ものかはと励みたち
闇のかなたを窺ふに
空はさびしき雨となり
潮にうつる燐の火の
乱れて燃ゆる影青し
我よるべなき海の上に
活ける力の胸の火を
わづかに頼む心より
消えてはもゆる闇の夜の
その静かなる光こそ
漂ふ身にはうれしけれ
危ふきばかりともすれば
波にゆらるゝこの舟の
行へを照らせ燐の火よ
海よりいでて海を焚く
青きほのほの影の外
道しるべなき今の身ぞ
砕かば砕けいざさらば
波うつ櫂はこゝにあり
たとへ舟路は暗くとも
世に勝つ道は前にあり
あゝ新潮にうち乗りて
命運を追ふて活きて帰らん
野路の梅
風かぐはしく吹く日より
夏の緑のまさるまで
梢のかたに葉がくれて
人にしられぬ梅ひとつ
梢は高し手をのべて
えこそ触れめやたゞひとり
わがものがほに朝夕を
ながめ暮してすごしてき
やがて鳴く鳥おもしろく
黄金の色にそめなせば
行きかふ人の目に触れて
落ちて履まるゝ野路の梅
晩春の別離
時は暮れ行く春よりぞ
また短きはなかるらん
恨は友の別れより
さらに長きはなかるらん
君を送りて花近き
高楼までもきて見れば
緑に迷ふ鶯は
霞空しく鳴きかへり
白き光は佐保姫の
春の車駕を照らすかな
これより君は行く雲と
ともに都を立ちいでて
懐へば琵琶の湖の
岸の光にまよふとき
東胆吹の山高く
西には比叡比良の峯
日は行き通ふ山々の
深きながめをふしあふぎ
いかにすぐれし想をか
沈める波に湛ふらん
流れは空し法皇の
夢杳かなる鴨の水
水にうつろふ山城の
みやびの都行く春の
霞めるすがた見つくして
畿内に迫る伊賀伊勢の
鈴鹿の山の波遠く
海に落つるを望むとき
いかに万の恨をば
空行く鷲に窮むらん
春去り行かば青によし
奈良の都に尋ね入り
としつき君がこひ慕ふ
御堂のうちに遊ぶとき
古き芸術の花の香の
伽藍の壁に遺りなば
いかに韻を身にしめて
深き思に沈むらん
さては秋津の島が根の
南の翼紀の国を
回りて進む黒潮の
鳴門に落ちて行くところ
天際遠く白き日の
光を泄らす雲裂けて
目にはるかなる遠海の
波の踴るを望むとき
いかに胸うつ音高く
君が血潮のさわぐらん
または名に負ふ歌枕
波に千とせの色映る
明石の浦のあさぼらけ
松万代の音に響く
舞子の浜のゆふまぐれ
もしそれ海の雲落ちて
淡路の島の影暗く
狭霧のうちに鳴き通ふ
千鳥の声を聞くときは
いかに浦辺にさすらひて
遠き古を忍ぶらん
げに君がため山々は
雲を停めん浦々は
磯に流るゝ白波を
揚げんとすらんよしさらば
旅路はるかに野辺行かば
野辺のひめごと森行かば
森のひめごとさぐりもて
高きに登り天地の
もなかに遊び大川の
流れを窮め山々の
神をも呼ばひ谷々の
鬼をも起し歌人の
魂をも遠く返しつゝ
清しき声をうちあげて
朽ちせぬ琴をかき鳴らせ
あゝ歌神の吹く気息は
絶えてさびしくなりにけり
ひゞき空しき天籟は
いづくにかある
九つの
芸術の神のかんづまり
かんさびませしとつくにの
阿典の宮殿の玉垣も
今はうつろひかはりけり
草の緑はグリイスの
牧場を今も覆ふとも
みやびつくせしいにしへの
笛のしらべはいづくぞや
かのバビロンの水青く
千歳の色をうつすとも
柳に懸けしいにしへの
琴は空しく流れけり
げにや大雅をこひ慕ふ
君にしあれば君がため
芸術の天に懸る日も
時を導く星影も
いづれ行へを照らしつゝ
深き光を示すらん
さらば名残はつきずとも
袂を別つ夕まぐれ
見よ影深き欄干に
煙をふくむ藤の花
北行く鴈は大空の
霞に沈み鳴き帰り
彩なす雲も愁ひつゝ
君を送るに似たりけり
あゝいつかまた相逢ふて
もとの契りをあたゝめむ
梅も桜も散りはてて
すでに柳はふかみどり
人はあかねど行く春を
いつまでこゝにとゞむべき
われに惜むな家づとの
一枝の筆の花の色香を
月 光
さなり巌を撃つ波の
夕の夢を洗ふとも
緑の岸に枕して
松眠りなばいかにせむ
あふげば胸に忍び入る
清き光に照らされて
われのみひとり笛吹けど
君踴らずばいかにせむ
こよひ月かげ新しき
衣を君にもたらすも
としつき慣れてふりたるを
君し捨てずばいかにせむ
雲は緑の波を揚げ
高き潮を分つとも
君し涙の涸れはてて
胸うごかずばいかにせむ
われあやまれり其殻の
安きを思へかたつむり
君し眠りの楽しくば
さめずもあれや月の光に
一
さなきだに露したゝるゝ
深き樹蔭にたゝずめば
老いずの夢にたとふべき
夜の思に酔ふものを
月の光のさし入りて
林のさまぞ静かなる
緑を洗ふ白雨の
すぎにしあとの梢には
清みたる酒の香に通ふ
雫流れてにほふらん
木下に夢を見よとてか
林の夜の静けさは
暗きに沈む樹々の葉の
影の深きによればなり
おぼつかなくも樹の蔭の
闇の深きに沈めるは
緑に煙る夜の月の
深き木枝をもれいでて
光もいとゞ花やかに
さし入る影のあればなり
耳をたつればなつかしや
かなたこなたに木がくれて
鳴く音をもらす子規
はるかに聞けばたえ/″\に
流れてひゞく谷の水
げにやいみじき其声は
いとしめやかにつま琴の
板戸をもるゝ忍び音の
糸のしらべに通ふらん
ひゞきをあげよ谷間に
むせびて下る河水や
ひゞきをあげよ月影に
しらべをつくる河水や
よしや林の深くして
眼には流れの見えずとも
月の光にさそはれて
夜の思を送れその琴
二
都の塵はかゝるとも
市の響はかよふとも
さながら月に照らされて
鏡にまがふ池のおも
さゞれ波立ち池水の
動けるかたをながむれば
鏡の中に水鳥の
むらがり遊ぶ影の見ゆ
人の世はげにとゞまらで
時につけつゝ動くとも
芸術の国の静けさは
この池の面に似たるかな
かしこに浮ぶ水鳥は
沈むともなきたが影ぞ
かしこに動くさゞ波は
たが浴みするわざならん
あゝ照る月はむかしより
人の望むにまかせたり
芸術の花はむかしより
人の慕ふにまかせたり
ともしび秉りてよもすがら
遊ぶといふもことわりや
芸術は長し月清し
この命こそ短かけれ
いのちはよしや指をりて
をしからぬまで数ふとも
望は遠く夢熱き
そのほのほこそ短かけれ
誰かは早く老いざらむ
誰かは早く朽ちざらむ
心の花のうつろひは
一夜眠りのうちにあり
これを思へば堪へがたく
みぎはにくだり池水に
ひゞくを聴けば音遠く
静かに沈む鐘の声
三
月光の曲銀の笛
はるけき西の国ぶりの
君吹きすさぶ一ふしは
緑の雲を停めけり
つきは梢を離れいで
影花やかにさすものを
今一度はせめて君
吹けやしらべを同じ音に
たとへばすめる真清水の
岩にあふれて鳴るごとく
深きまことの泉より
その笛の音や流るらむ
いづれも末は花すぎて
まことの色はあせなむを
君はいかなるたくみもて
かく新しき声を吹く
むかしの琴の譜は旧りて
いくもゝとせを過ぎにけり
芸術の花は草と化り
梁の塵山と成る
薄暮橋のたもとにて
故の人に逢ふごとく
されば一ふし新しき
君がしらべぞなつかしき
うれしや高き音をそへて
清き男の吹く笛に
みどりにけぶる月影の
いやうるはしく見ゆるかな
四
ゆふべとなりぬ夏の日の
長きつとめをうちすてて
いざや雄々しきかひなより
流るゝ汗をぬぐへかし
洗へ緑の樹のかげの
したゝる露のすゞしさに
君がくるしきあらがねの
土もとけなむ昼の夢
虫音の高く群を呼ぶ
琴のしらべにさも似たり
風おのづから吹きにほふ
たが招くともなかりけり
燃ゆるほのほのくれなゐの
塵も静かにをさまりて
楽しき園にかはりゆく
夕暮さまのおもしろや
君やも行くかわれはしも
浮べる雲にたへかねて
光を浴びむ白銀の
花やかにさす月の光を
五
あゝ時として月見れば
空しき天の戸を渡る
すめる鏡と見えにけり
あるときはまた世に近く
いざよひ渡る横雲に
いと慣れ易く見えにけり
また時としてながむれば
いとゞ常なき世を超えて
朽ちず尽きせず見えにけり
あるときはまた影清く
まどかに高くかゝれども
とく欠け易く見えにけり
また時としてながむれば
光の糸に夜と朝を
つなぎとゞむと見えにけり
あるときはまた冷やかに
花と草との分ちなく
世を照らすかと見えにけり
また時としてながむれば
昔も今もさまよひて
行くへもしらず見えにけり
あるときはまたさだめなき
浮べる雲に枕して
ねむり静かに見えにけり
暁の誕生
東の空のほの/″\と
汝が世は白みそめにけり
この暁のさまを見て
運命をいかに占なはむ
ことにさやけき紅の
光を放つ明星や
やがて処女となるまでの
汝がおひさきのしるべせよ
朝風舞をまふごとく
はるかに雲の袖を吹き
鶏は寝覚に驚きて
先づ黎明を呼びにけり
はじめて朝の床の上に
汝が初声をきくときは
蕾を破るあけぼのの
蓮の花にまがふかな
ぬるき潮に浴みして
朝日に匂ふ茜染
まだ罪もなきすがたこそ
なかばは夢の風情なれ
いかにいかなる世なりとは
思ふこゝろもなからまし
そのうるはしき眼もて
なにをか見んと願ふらむ
まだ生れ来し世の中に
願ふもとめもなからまし
空にやさしき手をのべて
なにをか早やも慕ふらむ
行く末花と生ひ立ちて
いかなる夢を重ぬとも
かゝるゆたけき朝のごと
心の空の静かなれ
あゝ朽ちずてふ九つの
芸術の神も心あらば
このうるはしきみどりごに
香の露をそゝげかし
やがて好みて琴弾かば
指を葡萄の蔓となし
耳をそよげる葦となし
たなれの糸に触れしめよ
やがて好みて筆持たば
心を文の梭となし
胸を流るゝ雅となし
色あたらしく織らしめよ
よし琴弾かず歌よまず
画をかくわざにすぐれずも
せめて芸術を恋ひ慕ふ
深き情を持たしめよ
盃あげて美き酒を
こゝろ/″\にくみかはし
歌をつくりてよろこびの
この暁をうたひうたはん
終焉の夕
潮は落ちて帰りけり
生命の岸をうつ波の
やがて夕に回れるを
ひきとゞむべきすべもなし
行くにまかせよ幾巻の
聖のふみはありとても
耆婆のたくみも海山の
薬も今は力なし
八月螢飛び乱れ
終りの床に迷ひきて
まだうらわかきたをやめの
香の魂をさそひけり
みそらの高き戸を出でて
彩なす雲のくだるとき
鐘の響も沈まりて
眠るがごとく息絶えぬ
麗はしかりし黒髪を
吹く風いとゞ冷やかに
枕を照らす夕暮の
星も思を傷ましむ
抱きこがるゝひと/″\の
涙は床をひたすとも
かをり空しく花折れて
運命の前に仆れけり
めぐみはあつき父母に
さきだつことのかなしさを
かこちわびてし口唇も
今は艶なく力なし
慕ひあへりしはらからに
永き別れを告げんとて
深き情にかゞやきし
心の窻も閉ぢはてぬ
病める枕辺近くきて
夕の鳥の鳴く声に
涙ながらも微笑みし
色さへ今はいづくぞや
光も見えずなりぬれば
みまもる人を抱きしめ
名を尋ねつゝ手をとりし
腕は石となりにけり
落つる日を見よひとたびは
かゞやきかへり沈むごと
やがて光をまとひしは
つひに消えゆく時なりき
あゝ死の海の底深く
声も言葉も通はねば
なげきあまりしひと/″\の
涙は潮と流るらん
終りの床の遺骸は
ありし名残を見すれども
はやその魂はとこしへの
波に隠るゝかもめどり
うぐひす
さばれ空しきさへづりは
雀の群にまかせてよ
うたふをきくや鶯の
すぎにしかたの思ひでを
はじめて谷を出でしとき
朔風寒く霰ふり
うちに望みはあふるれど
行くへは雲に隠れてき
露は緑の羽を閉ぢ
霜は翅の花となる
あしたに野辺の雪を嚙み
ゆふべに谷の水を飲む
さむさに爪も凍りはて
絶えなんとするたびごとに
また新たなる世にいでて
くしきいのちに帰りけり
あゝ枯菊に枕して
冬のなげきをしらざれば
誰が身にとめむ吹く風に
にほひ乱るゝ梅が香を
谷間に笹の葉を分けて
凍れる露を飲まざれば
誰が身にしめむ白雪の
下に萌え立つ若草を
げに春の日ののどけさは
暗くて過ぎし冬の日を
思ひ忍べる時にこそ
いや楽しくもあるべけれ
梅のこぞめの花笠を
かざしつ酔ひつうたひつゝ
さらば春風吹き来る
香の国に飛びて遊ばむ
かりがね
さもあらばあれうぐひすの
たくみの奥はつくさねど
または深山のこまどりの
しらべのほどはうたはねど
まづかぎりなき一声に
涙をさそふ秋の雁
長きなげきは泄らすとも
なほあまりあるかなしみを
うつすよしなき汝が身か
などかく秋を呼ぶ声の
荒き響をもたらして
人の心を乱すらむ
あゝ秋の日のさみしさは
小鹿のしれるかぎりかは
清しき風に驚きて
羽袖もいとゞ冷やかに
百千の鳥の群を出で
浮べる雲に慣るゝかな
菊より落つる花びらは
汝がついばむにまかせたり
時雨に染むるもみぢ葉は
汝がかざすにまかせたり
声を放ちて叫ぶとも
たれかいましをとゞむべき
星はあしたに冷やかに
露はゆふべにいと白し
風に随ふ桐の葉の
枝に別れて散るごとく
天の海にうらぶれて
たちかへり鳴け秋のかりがね
わすれ草をよみて
わすれぐさは島田氏のむすめ愛子が遺しおける歌文あまたありけるを、そが教へ親なる人の舟さしよせてしるしありやとつみあつめたるひとまきなり。序のうたは万里小路伯、小伝は東久世伯、追悼のうたを添へたるは竹柏園のうしなり。なほ巻の終にはともがきの手向草あまた載せたるが、いづれも深く追慕の心を寄せたり。巻のはじめなる俤は、かみのつかねざまもいとつゝましく、前髪のみは西ぶりにしてうるはしく切りさげたる、まだうひ/\しき肩あげのにつかひたるなど、いづれ昔しのぶの種ならぬはなし。家は神奈川なる川崎町にありといふ。二十六年の秋よりみやこに出でて学ぶのかたはら、竹柏園のあるじにつきて歌文の道ををさめ、すぐれたるほまれありしを四とせめの春病にかゝり、年僅に十七にてみまかりぬ。そのむかしをりをりの紀行のふみなど吾許にもてきて朱を加へよなどいひしことも思ひいでられ、さばかりのえにしもありければ、この巻ひもときて懐旧の情に堪へず、雑の歌の終に、病あつしかりける時とはし書して、
父母の深きめぐみをよそにして
草葉のつゆときえむとすらむ
とありしを読み、すなはち其歌にちなみて筆を起し、哀歌をつゞる。
もとより消ゆる露なれば
たれかことばをつくすとも
ちらぬすがたに立ちかへり
もとの草葉にのぼるべき
ふたとせの夏はやもきぬ
のこれる人の惜みては
あまる涙をそゝぎてし
おくつきの花さくらんか
緑の草の生ひいでて
うるはしき実をたまにぬき
なれがはかばをかざるとも
しづこゝろなく眠るらむ
あしたゆかしくさきいでて
ゆふべにちるを数ふるに
拾ふもつきじ言の葉の
にほひをのこすわすれ草
すぐれしゆゑにうつし世に
とゞめもあへず紅の
うつろひ易き色にいで
なれはや早くうせにけむ
あしたゆふべの行く雲の
はたてに物を思ふ汝
こゝろづくしの冥府にまた
むね驚かす夢ありや
春はたのしきうぐひすの
ながおくつきに歌ふとも
よみぢはいかに木蘭の
花より墜つる露ありや
秋はさびしき黄葉の
ながおくつきにかゝるとも
うれひをいかに目にあてて
おしぬぐふべき菊ありや
あゝ青塚の青草も
いくその人かあはれまむ
むさしあぶみもむらさきも
つひには同じ秋一葉
ゆめなおそれそ風あれて
雲はうき世にさわぐとも
ゆめなおそれそいなづまの
ながおくつきを照らすとも
なれよ安かれくちなしの
色の泉の岸にさく
よみぢの花に枕して
草葉の蔭に寝よかし
高山に登りて遠く
望むの歌
高根に登りまなじりを
きはめて望み眺むれば
わがゆくさきの山河は
目にもほがらに見ゆるかな
みそらを凌ぐ雲の峰
砕けて遠く青に入る
こゞしくくしき磐が根の
連なり亙る山脈は
海にきほへる高潮の
驚き乱れ湧くごとく
大山つみも動ぎいで
わが精魂を奪ふかな
誰かは譏り誰が恨む
翅をのべし蒼隼は
虚しき天の戸を衝きて
高きみそらにかけれども
うちふりうちふる羽袖だに
引きとゞむべき雲もなし
遠く緑におほはれて
望をつゝむ野のかたに
東に下る河波の
行くへを見れば紫の
山の麓をうちひたし
滔々として流れ去る
あゝ大空に風吹けば
雲おのづから舞ふごとく
迷ひの霧にこめられし
暗き谷間を歩みいで
高根にあれば時を得て
はるかに揚るわが心
かへりみすれば越えてこし
山はうしろに落ち入りて
荒れにし森の影もなく
さみしき野辺も見えわかず
日の照らすとも七重八重
わが故郷は雲に隠れて
二つの泉
自然の母の乳房より
そこに流るゝ泉あり
たとへば花の処女の
やがて優しき母となり
その嬰児の紅唇を
うるほすさまに似たるかな
一つは清みて冷やかに
谷の間にほとばしり
葉を重ねたる青草の
しげみのうちを流れけり
一つは泉あたゝかに
其色暗く濁りいで
ひゞきは神の鳴るごとく
巌の蔭に溢れけり
幸はあつさにつかれはて
渇きかなしむ人にあれ
あゝ樹の蔭の草深く
すめる泉を飲みほして
自然のうちに湧きいづる
清き生命を汲ましめよ
幸は望みの薄くして
思ひなやめる人にあれ
あゝ夕風のきたるとき
熱き泉に浴みして
自然のうちにほとばしる
奇しき力を知らしめよ
岩と岩との谷のかげ
砂と砂との山のはを
緑の草の生ひいでて
花さく園となすまでは
あふれいでつゝ昼も夜も
たえぬ泉としるや旅人
天の河
一 七月六日の夕
あすは思へばひととせに
一夜の秋の夕なり
うき世にしげるこひ草を
みそらの星もつまむとや
北斗は色をあらためて
よろづの光なまめきぬ
あふげば清し白銀の
夕波高き天の河
深き泉を湧きいでて
うき世の外にたちさわぐ
つきせぬ恋の河水は
遠くいづくに溢るらむ
西風星の花を吹き
天の河岸秋立ちぬ
かの彦星の牽く牛は
しげれる草に喘ぎより
ふたつの角をうちふりて
水の流れを慕ふらむ
げに彦星の履みて行く
河辺の秋やいかならむ
高きほとりの通ひ路は
白萩の花さくらむか
人行きなるゝ岸のごと
紫菀の草の満つらむか
ひとり静かに尋ねよる
彦星のさまいかならむ
あすの逢瀬を微笑みて
かの琴台の美酒の
盃に酔ふ人のごと
あゆみ危ふく行くらむか
または涙を墨染の
衣の袖につゝむとも
なほ観経の声曇る
西の聖の夢のごと
恋には道も捨てはてて
袖をかざして行くらむか
または旅寝の夢の上に
夢をかさぬる草まくら
えにしの外のえにしとは
それかよげにも捨てがたく
江口の君をたづねよる
侘人のごと行くらむか
天上の恋しかすがに
ことなるふしはありとても
さもあらばあれ彦星の
たなばたつめの梭の音に
望みあふれて慕ひゆく
このゆふべこそ楽しけれ
二 七夕
こよひみそらの白波に
楫の音すなりひこぼしの
安の河原に舟浮けて
今しこぐらし
風かぐはしく吹き匂ふ
花濃き岸にたづさはり
涙は顔をうるほして
老をし知らぬ夢のごと
かしこにかしこに
楫の音きこゆ
人のすなるを星も見て
こひつくすらんこの夕
水影草のうちなびく
川瀬を見ればひととせに
ふたたび逢はぬこひづまに
今し逢ふらし
まだ色青き草麦の
はたけのうちにたふれふし
燃えては熱き紅唇の
たがひに触るゝ夢のごと
かしこにかしこに
ふれる袖見ゆ
人のすなるを星も見て
こひつくすらんこの夕
川声さやけしおりたちて
天より深く湧きいづる
恋の泉をうちむすび
今し飲むらし
乾くまもなき染紙を
落つる涙にけがしては
生命の門をかけいでて
恋に朽ちぬる夢のごと
かしこにかしこに
渡るひこぼし
人のすなるを星も見て
こひつくすらんこの夕
婚姻の祝の歌
一 花よめを迎ふるのうた
君待つ宵のともしびは
いとゞ火影も花やかに
鶴なきわたる蓬萊の
千世のみどりを照すかな
祝の酒は香にあふれ
錫の提子をひたしけり
いざや門辺にたちいでて
君の来るをむかへなむ
星よこよひはみそらより
人の世近くくだりきて
清める光に花よめの
たのしき道のしるべせよ
風よ歌へよ松が枝に
小琴をかけよひとふしは
いとしめやかに道すがら
よろこびの譜をひけよかし
まなこをそゝげひと/″\よ
はやかの群はちかづきぬ
ともなひきたるをとめごの
かゞやきわたるさまを見よ
わがうるはしき花よめは
むらさきにさくあやめなり
そのころもには白だんの
いとすぐれたるかをりあり
髪には谷の白百合の
にほへる油うちそゝぎ
むすべる見れば其帯に
黄金の糸を織りなせり
いざやこよひの歓喜の
花のむしろにいざなひて
秋の紅葉を染めなせし
色すべり着る君を祝はん
二 さかもりのうた
ためしすくなきよろこびの
けふのむしろのめでたさに
身を酒瓶となしはてて
祝の酒にひたらばや
瓶の中なる天地の
祝の夢に酔ひ/\て
心は花の香に匂ふ
楽しき春の夜に似たり
比翼の鳥のうちかはす
羽袖もいとゞ新しく
天の契りを目にも見る
連理の枝のおもしろや
わがはなむこは紅の
かほばせいとゞうるはしく
まなこはひかりかゞやきて
あしたの星にまがふめり
わがはなよめは白百合の
白きころもをうちまとひ
その黒髪の露ふかく
黄菊の花をかざしたり
つばさならぶる鴛鴦も
雄鳥の羽はまさるごと
いづれか欠くる世の中に
ためしまれなるふたりかな
たれかめでたき言の葉に
神の力は奪ふとも
契の酒をくみかはす
ふたりのさまを喩ふべき
いかにいかなるたくみもて
画筆に色は写すとも
欠くるに慣れし彩をもて
ふたりのさまを画くべき
言ふにも足らじ貝の葉の
たがひに二つ相合ふて
情の海にたつ波の
そこによせてはかへすとも
縁の神にゆるされて
ふたり身は世に合ふのみか
たがひに慕ふ胸の火は
心の空にもゆるかな
地にあるときは二人こそ
またき契といふべけれ
天にありても二人こそ
またき妹背といふべけれ
天の河原は涸るゝとも
連理の枝は朽つるとも
比翼の鳥は離るとも
二人のなかの絶ゆべしや
これを思へばよろこびの
祝の酒に酔ひくだけ
胸のたのしみつきがたく
このさかもりの歌となる
玉山ながく倒れては
おぼつかなくも手をうちて
高砂の歌おもしろき
このむしろこそめでたけれ
三 農 夫
農 夫
凡そ万物に本末あり、改作耕稼もまた結要あるべし。農民は朝に霧を払て出で、夕に星を戴て帰る。遠方野山に居る時は少し休むことあれば疇を枕にするといへども、楽も亦其中にあり。人は体を穏に置て気を詰ること老病する本歟。依之、山人は体を詰め気は泰にするといふ。是によつて長命し、海人は体を泰にして気を詰る故に短命すといふ。気体不二なりといへども心は又替るにや。総じて下民の苦は眼を開きて上より心つきて見る、則ち苦も亦明かにして、上の楽も亦弥楽みなりといふ。耕桑は昼夜男女雨露にぬれて、農民辛苦すること甚し。耕し織らずんば何を以てか三宝の其一とせん。民は心気をくだき身を詰めて天の造化にしたがひ力むるものは良民なり。農人は遊楽の慾薄くして唯雑食の腹に満たんことを願ふものなり。
(耕稼春秋、初巻)
序 利根川のほとりにて
一の声
見ようるはしく照る月の
緑にけぶる夜のひかり
見よゆるやかに行く水の
流れは深き利根の河
花さきにほふ川岸に
光彩を宿す青草の
茂れるかたの静けさは
眠のごとく見ゆるかな
二の声
さても自在を翼とし
光にありて闇を知り
みそらに居りて冥府の世の
声を聴き知るわれらさへ
かの魔界を立ちいでて
かくうるはしき月の夜に
自然の業を眺めつゝ
岸のほとりにさまよへば
飽くとしもなき今宵かな
三の声
あゝ疑惑と悲哀の
夢ひきむすぶ人の子は
いかにこよひの月を見て
夜の思をかさぬらん
げに人のする業よりも
いや空しきはあらじかし
いかに望みは高くして
この天地を狭しとし
泣きつ笑ひつ怒りつゝ
こゝろ一つにすがるとも
そのなすわざを眺むれば
匍匐ふ虫にいづれぞや
よしといひ又たあしといひ
むなしき岸は築くとも
かの生滅の波うたば
流るゝ砂にいづれぞや
あしたゆふべの影々は
舞台を馳せてとゞまらず
来るは虹のごとくにて
帰るは花の散るごとし
過にしあとを窮むれば
いづれか児戯にあらざらむ
消えゆくあとを眺むれば
また尋ぬべきすべもなし
露霜深き利根川の
岸辺の小田のあさゆふべ
彼鋤鍬を友として
力め耕す身なれども
家のむかしを尋ぬれば
まこと賤しき種ならず
げにわれはしもこよひより
彼の心の中に住み
雄々しき彼を誘ひて
恋さま/″\の夢を見せ
時に処女と身を化して
この月影の川岸に
奇しき光を投ぐるごと
あやしき影を彼に投げ
時には夢にあらはれて
安き心を奪ひ裂き
胸に霰をそゝぎては
涙の露を落さしめ
うつゝに隠れ夢に出で
光にひそみ影に見え
もゆる試練の火となりて
若き農夫を試みん
二の声
きけや一ふしほがらかに
遠く吹きすむしらべこそ
彼がすさびの笛ならめ
一の声
さなりさやけき月影に
笛のあるじをながむれば
まことや彼は農夫なり
三の声
よしうるはしき青草の
岸にすわりて彼を待たなん
上のまき
一 田畠の間なる小道にて
父
ゆふべ小暗きともしびの
油はつきて消ゆるまで
人は眠りにさそはれて
楽しき夢に入れる間も
いねられなくにたゞひとり
ひとり枕をかき抱き
鴫の羽掻しば/″\も
同じ思ひにかへりつゝ
このもろこしの戦にぞ
汝は行かじと嘆きけむ
そのこゝろねをはかりしが
わが疑惑は解けざりき
今こそはかく利根川の
岸辺の草に埋もれて
あしたに星の影を履み
ゆふべに深き露を分け
鋤と鍬とを肩にして
賤しき業はいとなめど
もとほまれあるものゝふの
高き流れを汲める身ぞ
すぐれし馬にむちうちて
風に真弓をひき鳴らし
胸に溢るゝますらをの
ほまれは海の湧くがごと
のぞみは雲の行くがごと
雄々しかりける吾父も
草葉の影の夢にだに
汝が言の葉を泄れきかば
いかにはげしき紅の
血潮の涙流すらむ
げに汝はしも吾家の
高きほまれを捨つるまで
世のことわりもわかぬまで
いくさを恐る心かや
農夫
懼れやはするよしや今
心を奪ふいかづちの
ふるふがごとく大砲の
まなこの前にとゞろくも
われは静かに鍬とりて
としつき慣れし利根川の
岸辺にいでて小田うたむ
または流るゝ弾丸飛びて
耳のほとりをかすむとも
たなれの鋤を肩にして
ゆふべの歌をうたひつゝ
いと冷やかに桑の樹の
葉蔭を履みて帰るべし
父
しからば遠き軍旅には
などかいでしとなげくらむ
農夫
なげかざらめや戦と
なべてを思ふ吾身なり
剣をとるも畠うつも
深き差別はあらざらむ
われ時として畠中に
手に持つ鍬を投げ捨てて
たがやしするも畠うつも
土をかへすも草ぎるも
汗も膏もおろかしく
生れいでたるわれひとの
空しき生涯一日より
二日につなぐためかとぞ
思へば身をも忘れつゝ
佇立むこともありしなり
まことのさまを尋ぬれば
戦とてもまた同じ
野末の草に流れゆく
活ける血潮やいかならん
剣の霜に滅びゆく
人の運命やいかならん
誰か火に入る虫のごと
活ける命をほろぼして
あだし火炎に身を焚くの
おろかのわざをまなぶべき
嗚呼つはものの見る夢の
花や一時春行かば
剣も骨も深草の
青きしげみに埋るらん
げに凄まじき戦の
あとにもましてうつし世に
いや悲しきはあらじかし
父
おろかしやそのくりごとは
夢見る人のいふことぞ
農夫
さなりうき世の闘争は
いづれか夢にあらざらん
父
あゝ汝が耳は聾たれば
いかにすぐれしものゝふの
ほまれの鐘も響なし
汝が眼は盲たれば
いかにまことのたらちをの
言葉の花も色ぞなき
かりそめならぬ世のわざを
嘲り笑ふ言の葉は
さはやかなるに似たれども
罵り狂ふますらをの
身の行末をながむれば
みな落魄と涙のみ
あゝわが胸は苦悶と
恥辱と忿怒に溢れたり
かなしあさまし世の人に
汝が言の葉の泄れもせば
冷たき汗は雨のごと
いかに流れて我を浸さん
二 まへとおなじ小道にて
母
かくても長き夏の日を
ひとり思ひに沈みつゝ
緑の蔭に佇立みて
いくその時を経つるぞや
ゆめな恨みそ汝が父の
思ひあまりしくろがねの
拳のあとは紫に
深き傷みをのこすとも
そはあらそひの痕としも
思へばさこそ恨みあれ
傷みはいかに夏の日の
烈しきさまに似たりとも
汝がたらちをの秋霜の
教のほどを思ひ見よ
まだいとけなき昔より
好めるまゝに書も読み
もののあはれもことわりも
あらかたは知る汝が身なり
たれか好みてうめる児に
禍あれと願ふべき
忍びがたきを忍びつゝ
遠き軍旅に行きかねし
農夫
まことやわれはますらをの
ほまれを知らぬ心より
遠きいくさに出で立つを
なげくものにはあらじかし
あゝ吾胸は写すべき
言葉も知らぬかなしみを
宿せし日より昼も夜も
深き思に沈みつゝ
迷へる虫の窓にきて
かなたこなたに飛ぶがごと
天と地とに迷ふ身の
おろかをかこつ外あらじ
このかなしみの乳房より
われさま/″\の智慧を飲み
にがき世の味物の裏
人のまことも虚偽も
あぢはふ身とはなりしなり
このかなしみはあやしくも
我をいざなひ導きて
気は世を蓋ふますらをの
高きほまれも夢と見せ
祭の夜の燈火に
戯るゝ人を影と見せ
暗き舞台の幻燈に
もののかたちの映るごと
世のさま/″\を見せしめき
このかなしみは吾胸の
深き底より湧き上り
遠きいくさに行くべきを
はなたじとこそとゞむなれ
母
げにしがらみのせきとめて
流れもあへぬ谷川の
そのかなしみのあらかたも
われはとくより知れるなり
さばれかくまで言ひはりて
軍の旅を厭ひなば
その暁やいかならむ
思ふも苦し罪人と
名にも呼ばれてあさゆふべ
暗き牢獄の窓により
星の光を見るの外
身に添ふ影もあらざらん
見よ花深き川岸に
むつまじかりしまどゐさへ
させる嵐のさわぎなば
家のむつびもたのしみも
一夜のうちに破れなむ
人はこの世に生れきて
得しらぬ途を行くなれば
げにさま/″\の山河を
越ゆべき旅の身なるぞや
われも思へば前髪の
まだ初花のむかしより
はやも命の傾きて
秋の霜ふるこの日まで
あるは行くへの雲深く
道なき森に迷ふごと
光もなくて明くる日は
空行く鳥を望み見て
張れる翼を羨みし
その暁も多かりき
あるはなやめる旅人の
夏の緑の蔭に行き
清める泉をむすぶごと
げに絶えなんとばかりにて
またも生命にかへりてし
その夕暮も多かりき
なあやまりそあやまりそ
あゆむに難き世の路を
見よ人の行く旅路には
入るべき道のありながら
出づるにかたき谷間の
多かるとこそ聞くものを
あゝうらわかき旅人の
かゝるほとりに分け入りて
また帰りこぬためしさへ
世にさはなりとしるやしらずや
三 鍛冶の家にて
つかひの老婆
望はむなし待人の
影はそれとも見えざりき
鍛冶のむすめ
梭もつわざにたへかねて
ゆふぐれ窓によりつゝも
汝が帰りこん時をだに
待ちわびてしはあだなりや
老婆
かの蔭深き緑葉の
柳のほとり尋ねゆき
人やきたると待ちしかど
風は空しく川岸の
草のおもてを渡るのみ
尋ぬる影はあらざりき
青きみそらに迷ひゆく
雲と雲との絶間より
夕日はもれて利根川の
水に光彩を沈めつゝ
黄金の色は川波の
ゆくへはるかに輝くも
尋ぬる人はあらざりき
ゆふべにかゝる明星の
いとゞさやかにあらはれて
深き光は夏の日に
ふたたびしらぬ空の花
影はかなたの野の家の
屋根を帯びつゝきらめくも
尋ぬる人はあらざりき
やがて川辺にたちこめし
狭霧のうちに閉されて
空しく帰る渡しもり
ゆるき流れに棹さして
舟やる音は夕暮の
さみしき空にひゞけども
尋ぬる人はあらざりき
むすめ
あゝなつかしき夕暮を
人待つ時といふとかや
天の河原に彦星の
たなばたつめと相逢ふも
さみしく更けし夜半ならで
そは夕暮のころとかや
まだ暮れはてぬけふなれば
人待つ望みのこるらん
今一度はいでゆきて
岸のほとりを尋ね見よ
老婆
はや花草の影暗く
ねぐらにいそぐ鶏は
沢辺を帰る雛鳥の
そのかず/\を呼ぶぞかし
竹の林のかなたには
羽音さびしき旅鴉
雲を望みて飛び行くは
群に別れて迷ふなるらん
むすめ
一
門田にいでて
草とりの
身のいとまなき
昼なかは
忘るゝとには
あらねども
まぎるゝすべぞ
多かりき
二
夕ぐれ梭を
手にとりて
こゝろ静かに
織るときは
人の得しらぬ
思こそ
胸より湧きて
流れけれ
三
あすはいくさの
門出なり
遠きいくさの
門出なり
せめて別れの
涙をば
名残にせんと
願ふかな
四
君を思へば
わづらひも
照る日にとくる
朝の露
君を思へば
かなしみも
緑にそゝぐ
夏の雨
五
君を思へば
闇の夜も
光をまとふ
星の空
君を思へば
浅茅生の
荒れにし野辺も
花のやど
六
胸の思ひは
つもれども
吹雪はげしき
こひなれば
君が光に
照らされて
消えばやとこそ
恨むなれ
四 林の中
農夫
時はせまりぬ利根川の
水の流れに舟浮けて
都のかたに行く人を
はや岸の辺に待つならむ
なかなしみそ今は我
すでに心を定めたり
これより遠きもろこしの
軍の旅に行くべきぞ
むすめ
けふ別れてはいつかまた
相逢ふまでの名残ぞや
あゝ人去りて鳥なかば
鳥の行くへに花さかば
花の色香によそへつゝ
なれにし岸の青草の
上にすわりて汝がため
幸あれかしと祈らなむ
農夫
思へばわれはこの日ごろ
あだなる夢に迷ひつゝ
かりそめならぬ汝が身を
あやまりしこそうたてけれ
むすめ
さらば二人のえにしをば
あだなる夢と思ふかや
農夫
さなり波たつ海原の
底はありとも吾恋は
そこひ知らずとかこちつゝ
汝になげきしけふまでを
あだなる夢と思ひてよ
あゝあやまてり我は早や
汝に恋する心なし
げにおろかしきわがために
汝が身の花はつながれて
行くべきかたに得も行かず
いくその時を経てしぞや
なあやまりそかなしみそ
すでに冷たき石なれば
恋は用なき吾身なり
めぐみは深きたらちねに
行きてまことをつくせかし
むすめ
その言の葉の底をだに
汲みしらじとにあらねども
あゝ汝は吾生命なり
われは生命に離れたり
たゞ忘れじとひとことの
頼むべきだにありもせば
いかに苦しきなやみをも
われは汝ゆゑ忍ぶべし
いかにさかしき世の人の
笑ひはすとも聞き入れじ
さるをつれなき言の葉に
痛みを胸に残しつゝ
かくて互に別れなば
われはたとへば白百合の
人に折られし花のごと
今は道辺に捨てられて
いとすみやかに萎れなむ
人の望みと願ひとに
満つるかぎりはあらねども
汝夫となり父となり
われ妻となり母となり
世にある上はかくてこそ
縁の甲斐もありけめを
かゝる命運は朽ちてゆく
かよわき人の身の常か
農夫
汝あやまれりあやまれり
処女の胸の花一枝
二つとはなき色香ぞや
かりそめならぬ汝が身の
宝を深く蔵めてよ
あゝ心せよおろかしき
われは虫にも劣る身ぞ
空に翅をうちのべて
思ひのまゝに舞ふ鷹も
人と生れし我よりは
賢き術を知るぞかし
はや川岸のかなたにて
喇叭の響きこゆるは
舟のよそほひとゝのひて
呼ぶにやあらんあゝさらば
遠き軍に出でたちて
命さだめぬ身なれども
軍の神のみめぐみに
われもほまれは揚げなむを
さらば汝やもたらちねの
深きめぐみをあだにせで
えにしもあらばよきかたに
末栄ある身を立てよ
むすめ
逢ふ時あれば二人また
別るゝ時のありぞとは
ことわりしらぬ身ならねど
かくも惜めば惜まるゝ
われら二人の名残かな
さらば再びかへりきて
戦がたりをなさんまで
国ことなれる春秋の
雨と風とを厭ひてよ
剣の影の霜さえて
戦の野辺は寒くとも
かのほまれあるつはものの
猛きわざには劣りそよ
あゝ利根川の水のごと
柳のかげのあさゆふべ
胸小休なき吾身より
涙は汝がかたに流れん
下のまき
一 緑の樹かげにて
農夫
はや二とせは過ぎにけり
軍の旅の寝覚には
暁空に吹きすめる
喇叭の声をきくごとに
思ひ浮べし故郷の
今はうれしく見ゆるかな
金州城の秋深く
篝の影の暗き夜は
露営の霜の寒さより
また倚子山のたゝかひの
弾丸の霰のたばしりて
照る日も暗きさままでを
わがなつかしき故郷の
人に告げなばいかならむ
夕顔白き花影に
祝の酒を汲まむとき
心雄々しき吾父は
いかに眼をきらめかし
白髪長きわが叔父は
いかに耳をばそばだてて
わが説きいづる二とせの
戦がたりを聞くならむ
あゝなつかしの古里よ
流れかはらぬ利根川よ
遠く筑波の青山の
聳ゆるかたの雲間より
万代おなじ白き日の
光はもれて山川を
もとのまゝにも照らすかな
あゝなつかしの古里よ
国を立ちいで春秋の
長き夢をば重ねつゝ
今帰りきて佇立めば
樹蔭はもとのふかみどり
梅の梢に葉がくれて
鳴く鳥の音もこゝちよや
さてもかなたの川岸の
深き並樹のかげにして
風さそひくる音やなに
きけば響銅の鐃鈸の
うき世にありしかなしみを
うき世の外に伝ふるは
いかなる人の野辺おくり
六道の松明紙の旗
すでに緑に隠れたり
静かに行くをながむれば
白き楊の木下かげ
昼かゞやかす白張の
亡き人送るともしびは
火影動ぎて霊魂の
行くへをいかに照らすらん
香のけぶりも愁ひつゝ
天にのぼるに似たりけり
そなへの花も悲みて
地に仆るゝに似たりけり
無礼はゆるせ影見えし
若き聖にこととはむ
そも誰人のなきがらを
こは送りゆく群ならん
僧
水静かなる利根川の
流れの岸に生れてし
鍛冶のをとめと聞きしかど
その名は君よ思ひでず
げに絶えがたき恋をしも
味はふ人のある世かな
かれも浮きたる心より
花さきにほふあさゆふべ
岸辺の草にたづさはり
水の流にかはらじと
契れる人のありしなり
そは数ふれば夏の夜の
星より多きためしかな
行くへも遠く別れては
遂に逢瀬の絶えしより
若き命にさきいでし
心の春の花さへも
いつしかいとゞいたましき
わづらひとこそかはりけれ
ふたたび桃はさきかへり
ふたたび菫にほへども
人は空く帰らねば
恋のなやみに朽ちはてて
世にすぐれたるたをやめの
恨みやいかに長からん
農夫
それはまことか吾胸は
深き傷みを覚えたり
さばれひと/″\待つらんを
いざや家路にいそがなむ
僧
われあまたたび万性に
高き御法を説きしかど
かくまで人をうごかせし
しるきためしはあらざりき
げに西風の吹けるとき
飛び散る秋の葉のごとく
思えへばかれのかほばせは
死灰の色にかはりつゝ
その口唇はうちそよぐ
葦の一葉にまがひけり
あゝ大麦の青々と
たわにみのりし畠中に
彼のゆくへをながむれば
死してくだくる人のごと
さても穂かげに仆れけむ
姿は見えず麦にうもれて
少女
一
ゆきてとらへよ
大麦の
畠にかくるゝ
小兎を
二
われらがつくる
麦畠の
青くさかりと
なるものを
三
たわにみのりし
穂のかげを
みだすはたれの
たはむれぞ
四
麦まきどりの
きなくより
丸根に雨の
かゝるまで
五
朝露しげき
星影に
片さがりなき
鍬まくら
六
ゆふづつ沈む
山のはの
こだまにひゞく
はたけうち
七
われらがつくる
麦畠の
青くさかりと
なるものを
八
ゆきてとらへよ
大麦の
畠にかくるゝ
小兎を
二 深夜
農夫
小夜ふけにけりたゞひとり
流れに沿ふて照る月の
影を望めば白銀の
みそらの弓につがひてし
高き光の矢は落ちて
わが小休なき胸を射る
草木も今や沈まりて
昼の響は絶えにけり
世のあらそひもわづらひも
深き眠りにつゝまれて
いとゞ楽しき夏の夜の
短かき夢に入りにけり
風呼び起し雲に乗る
高光りますすめろぎも
剣をぬきてたちて舞ふ
猛き心のますらをも
今は静かに枕して
をさなごのごと眠るらん
昼も夜もなく行く川の
声なきかたを眺むれば
羽袖もいとゞ力なく
空しき水に飛ぶ蛍
あゝそのかげは亡き人の
香の魂か汝もまた
ありし昔の思ひ出に
岸辺の草に迷ふらん
あふるゝばかり湧きいづる
血潮と遠き望みとは
また堪へがたきかなしみの
そのしがらみにせかれつゝ
うたゝ苦しき煩悶を
人にはつゝみかくすとも
あふげば深く吾胸に
さし入る月の光には
げに覆ふべき影もなし
なにを心の柱とし
なにを吾身の宿とせむ
忍ぶとすれど夜の月の
空行くかげを見るときは
万事の映る心地して
涙流れてとゞまらず
時には親もはらからも
家も宝も捨てはてて
世のあざけりと身の恥辱を
思ふいとまのあらばこそ
すがりとゞむるものあらば
蹴落すまでも破りいで
行くへも知らず黒雲の
風に乱れて迷ふごと
またはいざよふ大舟の
海に流れて落つるごと
または秋鳴く雁がねの
ひとりみそらに飛べるごと
身はよるべなくうらぶれて
道なき野辺に分けて入り
あるは身に添ふ光なく
遠き浦辺にさまよひて
知る人もなき花草に
埋れはてんと思ふなり
時にはたえて人の世の
響かよはぬ寺に入り
紅き涙を墨染の
衣の袖につゝみつゝ
光をまとふみ仏の
霊机の前にひざまづき
風吹く時は暁の
読経に夢を破りすて
雨ふる時は夕暮の
鐘に心を澄ましつゝ
よしや苦しき雪山の
氷を胸にそゝぐとも
身にまつはれるかなしみを
のがれいでんと思ふなり
時には早く死にうせて
朽つる形骸をひきはなれ
たゞ霊魂の身となりて
暗き幽府に迷ひゆき
かの亡き人と亡き我と
魂と魂とは抱き合ひ
いかに他界の風吹きて
われら二人を飛ばすとも
いかに不断の火はもえて
われら二人を焼くとても
二人の魂は常闇に
離れじ朽ちじ亡びじと
契らまほしく思ふなり
げにその昔ふたりして
楽しく仰ぎ見し時も
今は心の萎れつゝ
涙にぬれて見る時も
同じ光にかがゞやきて
落ちて声なき月の影
(一番鶏の声きこゆ)
鶏鳴きぬ指をりて
その声々を数ふれば
眠りの墓にとざされて
深く沈めるこの夜やも
はや生命あるかの日にぞ
よみがへるらん
いつまでか
かくてあるべき嗚呼われは
今は心を定めたり
わが黒髪はぬれ乱れ
わが口唇はうちふるふ
胸の傷みに堪へかねて
くるしきさまをたとふれば
枝に別れて落つる葉の
疾しき風に随ひて
たゞよふ身こそ悲しけれ
力烈しきいかづちの
ふるふがごとくわが魂は
いたくもふるひわなゝきて
思ひなやめる吾胸の
旧き望みは絶えにけり
あゝわづらひを盛り入れし
身は盃に似たりけり
流れて落つる河波よ
汝も流れのきはみまで
行きなば行きね遠海に
落ちなば落ちねわれもまた
おもひひとしく溢れいで
この盃を傾けむ
誰か破れにし古瓶に
みどりの酒をかへすべき
誰か波うつ磯際に
流るゝ砂をとゞむべき
さらばこれより亡き人の
家のほとりを尋ね見て
雲に浮びて古里を
のがるゝ時の名残にもせむ
三 鍛冶の家の
ほとりにて
鍛冶
一
宝はあはれ
砕けけり
さなり愛児は
うせにけり
なにをかたみと
ながめつゝ
こひしき時を
忍ぶべき
二
ありし昔の
香ににほふ
薄はなぞめの
帯よけむ
麗はしかりし
黒髪の
かざしの紅き
珠よけむ
三
帯はあれども
老が身に
ひきまとふべき
すべもなし
珠はあれども
白髪に
うちかざすべき
すべもなし
四
ひとりやさしき
面影は
眼の底に
とゞまりて
あしたにもまた
ゆふべにも
われにともなふ
おもひあり
五
あゝたへがたき
くるしみに
おとろへはてつ
炉前に
仆れかなしむ
をり/\は
面影さへぞ
力なき
六
われ中槌を
うちふるひ
ほのほの前に
はげめばや
胸にうつりし
亡き人の
語らふごとく
見ゆるかな
七
あな面影の
わが胸に
活きて微笑む
たのしさは
やがてつとめを
いそしみて
かなしみに勝つ
生命なり
八
汗はこひしき
涙なり
労働は活ける
思なり
いでやかひなの
折るゝまで
けふのつとめを
いそしまむ
農夫
歌ふをきけばいさましや
さてもその歌なつかしや
枕をうちてよもすがら
なげきあかせしものならで
誰かかくまでなつかしき
歌の心を思ふべき
さなり大方世の常の
親のさばかりいとし子を
傷む心に沈みなば
たゞひたすらに悲哀の
涙にぬれつこがれつゝ
心砕けつありなんを
または命をはかなみて
夢に驚く心より
哭きたふるゝ暁は
活ける血潮も枯れなむを
汗はこひしき涙とや
労働は活ける思とや
あゝうらわかき吾身すら
たゞかなしみに掩はれて
利根の岸なる古里に
かへりし日より鋤鍬を
手に持つ力なきものを
流るゝ汗のしたゝりて
かの白髪はぬるゝまで
烈火のなかの紅烙や
濃青に見ゆる純鉄は
やがてかはれる紅の色
うてば流るゝ鉄滓の
光となりて散らば散れ
こひつむせびつ中槌の
力をふるふ雄々しさよ
げにいさましや亡き人の
そのたらちをのかくまでも
今の力に鞭ちて
昨日の夢と戦へる
活ける姿にくらぶれば
われかなしみの墓深く
はやも小暗き穴に入り
若き命はありながら
埋れ朽つるに似たるかな
あゝあやまちぬ年老いて
霜ふる髪は乱れつゝ
流るゝ汗にうるほふも
手には膏をしぼりきて
烈火にむかふ人のごと
われもふたたび利根川の
岸のほとりの青草の
しげれるかたに小田うちて
雄々しき心かきおこし
うれひに勝ちて戦はむ
さなり朧の春の夜の
その一時の夢を見て
たゞ花に酔ふ蝶のごと
はかなくてのみ過す日は
すでに昔となりにけり
今は緑の樹の蔭に
かの智慧の葉の生ひ茂り
活ける潮は流れきて
ゆふべの夢を洗ひつゝ
動ける虫は巣を出でて
草のしげみにはひめぐり
力あふるゝ姿こそ
げにこのごろの夏なれや
望みをさそふ朝風は
樹々の梢をわたりけり
あゝよしさらば白百合の
花さきにほふ川岸の
故の園に立ち帰りみん
夏草の後にしるす
保福寺峠鳥居峠を越えて木曽に入りしはこの夏七月の中旬なりき。福島の高瀬氏はわが姉の嫁ぎたるところにて、家は木曽川のほとりなる小丘に倚りて立てり。門を出でて見れば大江滔々として流る。われこの家にありて、峨々たる高山の壮観に接し、淙々たる谿谷の深声を耳にし、露たのしく風すゞしきあした、又は雨さびしく鳥かなしき夕、興に乗じてつゞりなせる夏の日のうたぐさを集めたるはこのふみなり。
八月木曽川の岸にはうるひ、露菊のたぐひさき乱れ、山には石斛、岩千鳥、鷺草など咲きいでて、さすがに名に負ふ谷間のことなれば、異花の奇香を放つもの少なからず。河鹿なく声も稀になりゆきて、桑摘の鄙歌おもしろく聞ゆるころより、高瀬氏の後園には草花のながめことにうれしく、九月に入りては白壁のかげなる秋海棠の花もさき出でぬ。われは朝夕この花園に逍遙するの楽みありければ、枝たわゝなる夏梨のかげ、葡萄棚のもと、または百合畠の間などにありて、海の如き青空に夏雲の往来するを望み、もしくは夕顔棚のほとりにありて、老いたる農夫と共にいつはり薄き風俗のさま、祭の夜の賑かさ、耕作の上のことなど語りつゝ田舎の風情を味ひき。
旧暦七月十五夜には月ことにあかくこの谿谷にさし入りぬ。われは家族と共に今昔の物語を楽みたりき。甥なるひとはわれと年僅に三つばかりたがひたれば、殆どまことのはらからのごとく、常に起臥を同うして、共に読み、共に語り、なにくれとこゝろづけくるゝ情のほどもうれし。家には昔より伝はれる古画古書または陶器漆器香具のたぐひなど少なからず、われはこれがために好古の性癖を擅にせしのみか、また蔵に納めたる図書を見るの楽みも多かりき。このふみは高瀬氏と姉とのたまものといふべきなり。
げに、美妙なる色彩に眩惑せられて内部の生命の捉へ難きを思ふ時、人力の薄弱にして深奥なる自然を透視するの難きを思ふ時、芸術の愛慕足らざるを思ふ時、古人がわが詩を作るは自己を鞭つなりといへる言の葉の甚深なるを嘆ぜずんばあらず。夏草はわが自ら責むるの児にすぎざるのみ。
底本:「藤村詩集」新潮社 昭和四十三年二月十日発行 平成二年九月二十五日四十四刷
入力:mayu
校正:齋藤哲