原田甲斐の最期 眞山 青果 その一 奧州仙臺の城主松平陸奧守|綱宗《つなむね》の本屋敷は山下門内にあり、江戸家老原田甲斐|宗輔《むねすけ》の假屋はその仙臺屋敷のうちにあつた。假屋とは云へ、表高八千五百石の封祿ながら實収は他家の二萬石に近き内福にて、且つ伊達家六十二萬石の頭領の臣と呼ばれ、威勢一身にあつまる顯榮の地にあるゆゑ、その邸宅もまたそれに應じて豪奢を極む。光景として舞臺にあらはるゝは、中庭に面したる奧の間の一室にて、常に甲斐の居室とするところ。 室は十二疊ほどの廣さにて、床の間、違棚あり、次に六疊ほどの小間つゞく。床の間には土佐繪彩色の双幅を掛け、釣花瓶には季節の花を盛り、棚飾も幽雅にして鄙《ひな》びたるさまなく、机上に歌書數巻を置き、香爐に名木をくゆらしたる態《てい》は、武士の居室といはんよりは寧ろ富裕の町人などの居間らしく思はるゝ。中庭はこの室より廻縁を越して奧に望まるゝが、折から爛※[#「※」は漫の偏が火]と咲き亂れたる泰山《たいざん》府君《ふくん》(吉野櫻の一種)檐《のき》を壓するばかりに見え、深夜の微風に散る花は雪の如く白し。 時は寛文十一年三月二十六日の夜——。大名小路の犬の聲は次第に深けて、時刻は丑を過ぎて寅の刻(午前四時)にも程なかるべし。 幕あく——。室内には遠州流の圓行燈《まるあんどん》一ツ、次の間に長蝋燭の燭臺一基、更けわたる夜をしめやかに燈《とも》る。地虫《ぢむし》とか云ふ小溝に啼く虫の聲、行く春の名残を惜みて、折々耳に聞え來る。床の間に近くほの暗き邊を透かし眺むれば、そこに肱枕して後向きに横たはる人の姿を見る。柑色《かうじいろ》に濃く黒みある小袖に、薄藍模様の琥珀《こはく》らしき帶をゆるやかに結び、淺葱の畝刺《うねざし》足袋を穿く。これ原田甲斐なり。明日は板倉内膳正|重矩《しげのり》が役宅にて、訴人伊達|安藝《あき》以下一味の者と、最後の決審をうけんとするその前夜のことゝて、さすがに剛愎強情をもつて世に名高き彼も、心中の煩悶は一通りならず、兎角の思案に耽りて夜來一睡もせす、神《しん》疲れ氣《き》倦みて、倒るゝやうに疊に身を投げたるよゝ、目を閉ぢて瞑想してゐる。甲斐、五十三歳、色白く丈高く、面體《めんてい》苦《にが》みばしりて、偉丈夫ともいふべき骨相、病中のため額毛《がくもう》を伸しゐる。 舞臺やゝ暫くの間沈默。程ありて甲斐の愛妾お露、小掻巻を持ちて縁側の方より忍び足に入り來る。お露、十九、江戸の輕き町人の娘ながら、美しくしほらしきうちに品高く、時に臨みては利發なるところもある女。甲斐は常にこの女の無邪氣を愛し、才智を愛す。 お露 うたゝ寢なされてお風邪召されますな……。(そうツと掻巻を掛けんとする) 甲斐 (目をつむれるまゝ、明らかに云ふ)覺《さ》めてゐる。 お露 もうさき程、八ツ半を打ちましたが、明日のお疲れにはなりませぬか。 甲斐 (肱枕を外して、天井を見詰む)眠られないのだ。 お露 帶刀《たてはき》様にも、御苦勞のほどをお察し申して、宵からあれにお詰めなされまする。 甲斐 うむ……。(又、目をつむる) お露 平渡《ひらわたし》様、渡邊様、劍持《けんもち》様、そのほか十四五人、表お座敷にお待ち合はせなされます。 甲斐 うむ……。(呻くやうに嘆息してゴロリと寝返り、凝ツと闇に散る花片を見詰める)    犬の遠吠えの聲、折々遠く近く聞え來る。 甲斐 (長き沈默の後、ふと目を上げて呼ぶ)お露。 お露 はい。 甲斐 おぬしにもあの……あの細々と鳴く虫の音《ね》、おぬしにも聞えるか。 お露 (暫く耳を澄ましたる後)いえ、わたくしには……何も聞えませぬ。 甲斐 わしには聞える。確かに……虫の音《ね》だ。耳鳴りのためではあるまい。    甲斐、また耳を澄まして開く。お露、甲斐の物寂《ものさび》しさうなる聲に、悲しげに俯向く。 お露 この頃ぢうの御心勞……、お痛はしく存じます。 甲斐 確かに虫の音だ。(目をつぶって暫く沈默の後)あのしめやかな音を聞いてゐると、心は不思議に、十二三歳の……自分にかへる。露、そちなども或る時ふと、小兒《こども》の昔を思ひ出して……物懷しさに堪えられないやうなことがあるか。 お露 わが心の疲れます日は、何人《なんびと》にも同じであらうと思ひます。 甲斐 わしが育つたのは在所《ざいしよ》ぢや。乳をくれた乳母の家は、山寄りの片田舎であつた。若草の芽のにほふ春の夜にふと目が覺め、外は小雨か? ……と思ひながら聞くのは、あの細々とした地虫の聲であつた。田の面《も》には一面、蛙の聲がカラ/\と啼き立てるが、その騒がしい聲は耳にも入らず、あの微かにチイイと鳴く聲が耳の底に染《し》み入つて……いつまでも眠られなかつた。乳母に開けば、あれは田螺《たにし》が啼くとも、又、ある時は蚯蚓《みゝず》が啼くともいふ、はゝはゝは、何んの田螺が啼くものか、いつも剽輕《へうきん》なことをいふ乳母であったよ。はゝはゝゝ。(強ひて氣を引き立てゝ、低く笑ふ) お露 お乳母どのは、もう亡くなられたのでござりますか。 甲斐 うむ、十四の歳《とし》に別れた。五歳にして母を喪《うしな》ひ、九歳にして父に別れ……世に我等ほど、血族の縁にめぐまれぬ者はあるまい。たゞ一人の妹さへ……六日前に、この世を……去つた。殘るものとては……何ひとつ無いのだ。 お露 (氣を取り直して)旦那様。お酒を温めてまゐりませうか。 甲斐 酒——?(お露を見上げしが、ゴロリと寝返つて)欲しうもない。 お露 なれども、明日《あす》の御評定所は一世の……御大事、天下晴れての御場所と存じます。そのやうにお氣を屈託なされましては、何んとやら……心もとなうござります。まだ時刻もこざりますゆゑ、御酒《ごしゆ》の後、一時《ひととき》の間《ま》なとお眠《やす》み遊ばしてはいかゞでござります。 甲斐 なに評定など……明日のことは氣遣ふには及ばぬ。(強いて元氣らしくいふ) お露 されど、伊達安藝さまを初めお國の衆は、必死の御奔走なさうにござります。殊に御老中板倉内膳正さまは、代々伊達の御家に御恩願の筋あつて、安藝さま一味の方々とは、取分け御別懇のやうに取沙汰いたして居ります。 甲斐 先方《さき》に板倉殿の肩入れがあれば、甲斐には御大老酒井|雅樂頭《うたのかみ》といふ後楯《うしろだて》があるのだ。明日の評定などいうても、高が、田舎侍を相手の問答なのだ。はゝはゝゝ。    甲斐、元氣らしくカラ/\と笑へど、何んとなくその尻聲に力なし。 お露 されども。(思はず屹ツとして、膝を進めて甲斐を見詰める) 甲斐 されども——? (半ば壓するやうに、半ば狼狽して、女の瞳を見る)    お露、甲斐の視線に威壓されて、言ひ度きこゝろを言葉に出しかね、次第に顔を伏せ、悲しさうに俯向く。甲斐、いつまでも鋭くそれを見詰めゐる。 お露 たゞ……、たゞ……(啜り泣きつゝ)露などの耳に聞きまするは……、明日の御評定は、館《やかた》さま御爲めにも……殿さま御身にも……容易ならぬ御難所と……、取り/″\の雜説にござりますれば……、御油斷は、なるまいかと存じます。 甲斐 勿論、油斷はない。われ等一|分《ぶん》の覺悟は、既に決定してゐる。 お露 (びツくりし顔を上げ、瞳を顫はし)え、一分の御覺悟とは? 甲斐 甲斐は負けてはならぬといふことだ。伊達家萬代の礎を築くため、たとへ邪《じや》が非でも、明日の裁判には勝たねばならぬ。勝つ!必ず勝つ!これが差し當つての甲斐の覺悟、一念はただ、この覺悟のために燃え立つてゐるのだ。 お露 なれども若し御公儀から、思ひ掛けぬ御難題など出でました時には……? 甲斐 望む處《ところ》だ。天下の政治を統《す》ぶる公儀より、難題を申しかけてまでも、一《いち》原田甲斐を追ひ除けようとなさるゝなら、裁判に負けてもわれ等の耻辱ではない。公儀を相手に甲斐は争ふ。 お露 お言葉を返すやうにはこざりまするが、若し御公儀をお相手にお争ひなされましては、その時殿さまのお身に……、若し……。 甲斐 われ等の一命が、危ふしとでも申すのか、露! お露 御公儀は天下の御威勢、たとへ争うて理に勝ちましても…… 甲斐 事には負けると申すのか。(凝ツとお露を見詰めて、言葉を斷《き》る) お露 はい……。(泣く) 甲斐 われ等も有りやうは死にたくはない……。(ゴロリと又、横になつて天井を見詰めつゝ)事を好んで破滅を招くこゝろはないが……、徳川將軍の御心底は、餘りに以て……穢ない、黠《くろ》い。天下の政治とは……申されぬ仕方だ。(目を瞑つて沈思する)    芝邊の寺の鐘、遠く微かに七ツの時を報ずる。兩人、無言にしてそれを聞く。 甲斐 露。(暫くして思ひ出したやうに聲かける)女子《をなご》のそちに聞かす儀ではないが、諸國|大大名《だいだいみょう》の潰れるのは、家康どの以來徳川家の念願なのだ。加藤、福島……皆潰れた。奧州五十四群を支配する伊達の一家が、將軍家の眷戀《けんれん》をうけぬ筈はないのだ。    甲斐、投げ付けるやうに言つてプツリと言葉を斷《き》り、沈默に入る。遠寺の鐘、餘韻を漂はしてやむ。庭前の櫻、散りに散る。 甲斐 (突然、云ふ)露、わなみ[#「わなみ」に傍点]は甲斐を何んと見る。 お露 (その意味を解しかねて)は、何んと見るとは……? 甲斐 世間の噂に、仙臺の原田は鋼鐵《はがね》づくり、強情我慢の片意地男と、そここゝの小唄にさへ歌ふと聞いたが、おれは然やうに強氣《つよき》の男なのか。露、そちの眼には何んと見える。 お露 人は殿さまに、情《じやう》の脆さなどを、見ようとも致しませぬ。 甲斐 外《そと》に出て、公界《くがい》の勤めに強ければこそ、人の見ぬところに、甲斐の姿は斯程《かほど》までに疲れはてるのだ。おれは今あの地虫の鳴音《なきね》を聞いて、死んだ妹のこと……、昔のわが身など考へて……、ツク/″\とわが一生が最惜《いとほ》しまれてならないのだ。 お露 去年以來お國元の騒動、引き續いてこの頃の御裁判、お心の休まる暇《いとま》はござりますまい。 甲斐 安藝どのとて亂心者ではない。われ等とて氣違ひ、白痴《うつけ》ではない。安藝どのが訴状を認《したゝ》めて願ひ出で、われを逆臣と呼ぶからには、いづれそれには相當の理由があるであらう。 お露 (意外の言葉に驚き)え、何んでござります。 甲斐 われ等、六十二萬石のお家を預り、一藩の統卒《たばね》をなす以上、人に尻尾をつかまれ、不忠不義と呼ばれるやうな、然やうな迂濶は致さぬ筈だ。安藝どのに言分《いひぶん》あれば、われ等にも理がある。われ等に誤りあれば、彼にも思ひ違ひがあらう。申さば五分と五分、相互《たがひ》に打ち割つて話し合はゞ、いづれが是《ぜ》とも、いづれが非《ひ》とも、定められないのが人の仕事だ。露、聞いて判るか。 お露 はい。 甲斐 が、こゝに一つの蹉跌《つまづき》がある。それは訴訟だ、裁判だ。裁判には二つの正しいものを許さない。一つが正しければ、他《ほか》の一つは必す不正と見られる。一つが善なれば、その他の一つは必す惡《あく》。一つが勝てば一つは負ける。これが裁判そのものゝ約束なのだ。(口を噤んで暫く沈思したる後)五分と五分の理を持つわれ等と安藝だが、評定所に出で、白洲《しらす》に立てば、わが五分の理を立てると共に、相手方の五分の理を認めるといふ、世の定法は成り立たないのだ。十|分《ぶ》に勝つか、十分に負けるか、結果はこの二つより外はない。露、合點《がてん》がゆくか。わしの惱みは、今そこにある……。明日の苦しみは、そこにあるのだ。我等が逆臣の汚名を遁《のが》るゝには、安藝どのを讒者《ざんしや》に陷さねばならず、安藝どのに曲事《ひがごと》の咎めを遁れるには、甲斐は……不忠の罪を負はねばならぬ。二人行きて、二人罪なく歸れぬのは……裁判の白洲なのだ。安藝どのの申分も、五分の理はありと知りながら、これを十|分《ぶ》の非に陷すか、又わが五分の理を捨てて十分の罪を身に引き受けるか、つゞまる處はこの二條《ふたすぢ》のほかに出ないのだ。露、おれにはそれが苦しいのだ。    お露、ほツと太息して、答へる言葉がない。 甲斐 (また静かに言ふ)世上のことは……皆これだ。黒白正邪を分つといふ天下の裁判でさへ、實は一人を助ける爲めに一人を殺してゐるのだ。明日は安藝どのが傷つくか、俺が倒れるか、どの道一人は……惡人|讒者《ざんしや》の名を負はねばならない。(お露の悲しげに嘆息するに氣がついて、急に笑ひ出す)はゝはゝゝ。これは俺らしくもない、飛んだ愚痴を聞かせてしまつた。露よ、膝を貸せ、枕しよう。はゝはゝゝ。 お露 はい……。    甲斐、笑ひながらお露の膝に枕する時、廊下の外より若侍三四人、外《ほか》に甲斐の腹心と云はるゝ渡邊、劍持などの聲聞ゆる。 若侍一 (姿を顯はさず。聲)御宿老《ごしゆくろう》、御宿老さま! 同二 (聲)御目覺めなれば御意得たう存じます。 同一 (襖を叩いて、聲)明日の大事につき、至急御意を得たい。 同三 (聲)御宿老、御宿老……。    お露、立つて取次がんとするを、甲斐、目にて叱り止むる。 一同 (聲)御宿老、原田さま……。(二三人襖を叩く) 甲斐 騒々しい、何事だ。明日の大事とは、お呼出しの一條か。 若侍三 (聲)明日の御評定は、江戸詰役人一同にかゝはる大事ゆゑ、御料簡をも承り、われ/\一同の存慮も申し上げたうござります。推參ながら、是非——。 甲斐 (むツとせる聲)明日のお呼出しは、われ等一|人《にん》だ。お身達一同にかゝはることではない。 若侍一 (聲)いや然《さ》やうではござらぬ。安藝どのより公儀に差し出したる十七箇の訴状の中には、在江戸役人一同の罪を責めて居ります。明日の御出頭はお身さま一人でも、落着《らくちやく》の結果は一同の肩にかゝつて居ります。 同三 (聲)われ/\江戸役人一同は、お身さまの非謀を助けて、先《せん》殿さまを遊興放埒に導き、國元百姓をせたげて度々の御用金を命じ、その身は歡樂|活計《くわつけい》に耽りながら、國元萬民を塗炭の苦に陷れるなど、容易ならぬ文句がこざります。 同二 (聲)伊達安藝どのには二三日來必死の御奔走にて、板倉どのは勿論のこと、御列席の御老中方も、大半は安藝どのの訴訟に同情を動かされてゐるやうに聞きました。御宿老、明日の御評定は必死の場合と存じます。 同一 (聲)他に二三、聞き込みもこざります。御宿老、御宿老……。 甲斐 (少し思案の後)えゝ喧ましい、何事も、甲斐の一存にある。明日を待て。 若侍三 (聲)いや然うはなりませぬ。一同の一大事にござりよす。 甲斐 一大事なればこそ、待てといふのだ。(凛然たる聲を搾つて叫び、起き上る)待て、待て、待て!    一同、甲斐の断乎たる聲音《こわね》に驚きて、暫く沈默す。 甲斐 お身等一同の大事より、明日の裁決は、伊達家末代の安危にかゝはるのだ。伊達安藝どのも伊達家を憂ひ、われ等とても伊達家を憂ふ。御家《おいへ》の繁昌を願ふ至誠は、彼《あ》の人、われ等、そこに一厘の甲乙もないのだ。然るにそれが明日は……敵味方にわかれて天下の公裁《さばき》をうけねばならぬのだ。甲斐が二三日以來の煩悶はそこにあるのだ。(少し聲を沈めて)世上にては甲斐が、御別家|兵部《ひやうぶ》どのの陰謀に與《くみ》し、御幼君の存立を危ふくせんとするなどと、あらぬ雜説を申す者もあると聞く。 若侍一 (聲)いや、雜説とは申されませぬ。世上一般の取沙汰には、兵部どの御子息|東市正《いちのかみ》さまの奧方は、酒井御大老の御息女ゆゑ、その因縁によつて御幼君を退け、東市正さまに御家相續の非謀を企つるなどと、國元一同の猜疑は、お身さま一人の上にかゝつて居ります。 甲斐 それを知らぬのではない。それを知ればこそ甲斐は、わざと兵部さまに近づき、御大老の鼻息《びそく》をうかがつてゐるのだ。    一同聲を嚥《の》んで聞く。 甲斐                 甲斐はさる非謀を抱く者か否かは、恐らく知る人は知るであらう……。國元|鹽釜《しほかま》明神も照覽あれ、われ等の口からは何も申さぬ。たゞ大老に近づき、兵部どのに近附くが、此の際御家の御爲めと存ずればこそ……民百姓の膏血たる金銀を費し、賄賂をつかひ……、今日まで莫大なる國用を費して來たのだ。その金銀その賄賂の效驗あればこそ、既に先年公儀よりの難題にて危ふかりし伊達の御家も、先《せん》殿さまの御|逼塞《ひつそく》だけにて、御家の相續にも別状なかつたと同時に、御大老の御目にも、兵部殿の目にも、家老中にても甲斐はものゝわかる者……頼もしい者と、有難い御信任を……受けてゐるのだ。(聲音次第に曇りて、※[#「※」はさんずいに玄]然《げんぜん》として落涙しつゝ)現時の御大老職酒井|雅樂頭《うたのかみ》さまを、お手前等は何んと見る。世には下馬將軍とさへ呼んで、將軍家自身ですら酒井どのの機嫌を恐れて何事にも御手が下されぬといふ程の御威勢ぢや。たとへ奧州五十四郡の大守たりとも……御大老の氣受《きうけ》を損じては……所詮存續が……難《むつ》かしいのだ。幸ひに甲斐はその酒井どのの御贔屓を受ければこそ……、伊達の御家は無事に今日を保ち得るのだ。然し……、伊達安藝どのは昔氣質の一徹者、又、永年田舎に暮して江戸幕府の内幕を知らぬゆゑ……、われ等がいかに苦しんで御家のために苦心するか、その事情は察してゐないのだ。たゞ諸方に賄賂をつかひ、たゞ遊興逸樂のために……江戸役人はその日の我儘をつくしてゐると思ふらしい。が、江戸役人とて伊達家代々の家來、……それほど主家を忘れてゐようか。 若侍一 (聲)それならば御宿老には、何故評定所に出て…… 甲斐 その辯明をせぬと云ふのか。愚者《おろかもの》め! 大老の前だ、徳川の裁判をうけてゐるのだ。徳川家の希望は伊達の滅亡にあり、御大老の野心は我が婿|東市正《いちのかみ》に本家相續を致させたさにあると如何《いか》にして明言できるのだ。たはけた事を言ふものではない! 性根《しやうね》なしどもめ!    若侍一同、途方にくれるものゝ如く、沈默して言葉なし。甲斐、目をあげて凝ツと庭前を見詰むる。三|月盡《ぐわつじん》にも近き夜は、曉氣《げうき》すでに東天に動いて、静かに、顫ふがごとく明け放れんとしてゐる。花は、たゞ散る。 甲斐 (暫くして又言ふ)明日の裁判は、いかにしても甲斐の勝利だ。たとへ板倉どのがいかに安藝方に味方しても、御大老の隱微《いんび》に觸るゝことはできまい。萬一板倉どのが飽くまでも甲斐を罪に落さうとするならば、その時の甲斐には斷然たる覽悟があるのだ。心配するな。明日の評定所は甲斐の勝利に極つてゐる。皆《みんな》行つて休め、休め。    一同、甲斐の決斷に返す言葉なく、沈默して退く。引き違うて上手の廊下の方より、原田甲斐の一子帶刀《たてはき》入り來る。 帶刀、二十五歳、幼名を主殿助《とのものすけ》といふ、瞳黒く、顔白く、繪に描きたるやうな美男子。父の身を打ち案じつゝ、悲しげに入り來る。 甲斐、帶刀の入り來りしに心付かず、無言にして庭を見詰めゐる。 帶刀 (縁側を廻りて、静かに座敷に入りて坐る)父上。 甲斐 (初めて氣が付き、ぴつくりして帶刀を見る)まだ引き取らずにゐたのか。 帶刀 父上がおやすみ遊ばされぬ如く……、わたくしも……今宵はどうも、眠られませぬ。 甲斐 (わざと然り氣なく、笑顔)そちは病後の身體だぞ、氣をつけてくれねば、困るぞよ。 帶刀 先刻《せんこく》國元より飛脚状が到着いたしましたが、白石《しらいし》の叔母さまには、六日以前遂に……。 甲斐 うむ。妹は死んだ! 甲斐にたゞ一人肉親の妹は……到頭この世を去つてしまうたよ。 帶刀 叔母さまから私に宛てゝ、最期の……お文が參りました。(ハラ/\と泣く) 甲斐 そちの許へも來たか……!(ギツクリして思はず叫んで、忰帶刀の顔を見詰める) 帶刀 叔母さまは……、叔母さまは……。(後の言葉を出しかねて、悲しげに俯向く) 甲斐 妹は……自殺したのだ。甲斐を諫めるために……原田家菩提所にて自殺したのだ。そちへの書状も……恐らくその遺言であらう。然うであらう。 帶刀 はい。父上と共に乳母の家に育つた……七ツ八ツの時の、古い思ひ出なども細やかに書き認められてござりました。(懐よりその書状を出さんとする) 甲斐 (狼狽するやうに手にて抑へ)出すなよ、その書状見せてくれるな! (目を瞑《つむ》つて云ふ)妹は女氣《をんなぎ》、甲斐の心中を知らぬ。世間の風説に聞いて、たゞ惡人、お家を傾けんとする不忠者と、一|途《づ》に、思ひ詰めたのであらう。(切れ/″\ぐに、呟くやうに云ふ)安藝どのを初め、柴田、古内《ふるうち》その他の國家老等さへ、われ等を兵部どのの陰謀に加擔して、伊達家を横領せんとする逆臣のごとく思うてゐる。女の妹に……甲斐の心中がわからないのは是非もないことなのだ。妹の心根もいぢらしいが……われ等の心中も苦しいのだぞ。    甲斐、懐紙に面を掩うて、暫くの間悲嘆にくれる。庭前の夜は次第に淺葱《あさぎ》色に明け行きて、日比谷|御林《おはやし》の方には鴉の聲さへ聞え來る。 甲斐 (氣が付いて)もう夜が明けたさうな。露、途中一二軒立ち寄つて話したい處もある。評定所出頭の衣服を用意してくりやれ。大事の晴れだ。衣服は全部、新しいものを頼む。それに、肌付きには、着込みの鎖帷子《くさりかたびら》を忘れぬやうにしやれ。 お露 (ギヨツとして甲斐を見て)あの鎖帷子でござりまするか。 甲斐 強情一徹の田舎者どもが相手だ。用意のために着て行くのよ。    甲斐、平氣を装うて笑ふ。お露、不審ながら去る。                   甲斐 おゝ、夜が明けた。(立ち上りつゝ)いつもながら晩春の朝明けは……爽《さわや》かに清々《すが/\》しいなう。 帶刀 (急に顔を上げ、顫《ふる》へる瞳に甲斐を見上げて)父上! 甲斐 何んぢや……。(縁側に立ち、凝ツとわが子を見下す) 帶刀 これが、これが一生の、お別れになるのではござりませぬか。 甲斐 何? 何を……云ふのだ。(少し狼狽して)馬鹿なことを……。はゝはゝゝ。 帶刀 今日の御許定には、必ず勝利のお見込がこざりまするか。 甲斐 有る。(重く強く領肯《うなづ》く)若し今日の裁判にわれ等が敗るれば、多年苦心して築き來つた伊達家の政治は動き揺ぐだらう。如何にしても勝たねばならぬ。勝つ! 勝つ! 帶刀 それならば伊達安藝どのを、讒言無實の罪に落されまするか。 甲斐 …………。 帶刀 父上、叔母さまの御文面にも、伊達安藝どのの御心中のほどを記してござりました。安藝どのは至誠一途の御人《ごじん》、決して他人に無實《むじつ》を申しかける人ではないとござりました。 甲斐 …………。 帶刀 父上。功をお急ぎなされ、天下の條理を失はれては、末代まで御名の汚れでござりませう。原田の家の代々の歴史は、伊達家の存亡と共に…… 甲斐 えゝ、默れ! 父には父の覺悟がある。後の成行きを見るがよい。 帶刀 なれども父上……。 甲斐 默れ! 父の覺悟は鐵石だ。もはや何事も云うてくれるな。(凝ツと忰の顔を見る) 帶刀 父上……!    父は子の瞳を見詰め、子は父の瞳を見詰めて、凝ツと立ちて動かず。遠く寺々の明六ツの鐘なりて、朝雀の聲勇ましく聞ゆる。         ——(軒かに幕)—— その二 幕府御大老酒井雅樂頭忠勝の御役屋敷。時は前場と同じ日。即ち寛文十一年三月二十七日の午後より夕刻にかゝる。 酒井雅樂頭の屋敷は、今の丸ノ内大手前にあつた。流石に天下の權威をあつめ、勢力一世を風靡する下馬將軍の邸宅ほどありて、豪荘を極め豪奢をつくしたる大建築にて、舞臺に顯はるゝは其の表書院につゞきて使者の間と稱するところ。 舞臺中央には、疊敷の廊下(入側といふ)中央にありて、その上と下に各座敷あり、上手の座敷はやゝ狭く、下手の座敷は廣く、兩室とも床の間、違棚があり、相當の裝飾がある。この二室は今日の伊達家評定に、原被《げんひ》兩方の仙臺家家臣の控所となる。 廣き下手の座敷には、伊達安藝初め、柴田|外記《げき》(六十三、三千六百石、家老職)、古内《ふるうち》志摩(三十二三歳、三千三百石、家老職)、ほかに書役某、使番某の五人が詰めゐる。安藝一人は遠く壁際の柱に凭れて、默然瞑目して思案の體なるも、他の四人は一所に首を鳩《あつ》めて、不安さうに小聲にて話し合ふ。入側の隅には酒井家の家來某、端然と坐りて一同を監守してゐる。座敷のうちには火鉢、小机、煙草盆などを出す。 伊達安藝宗重(亘理《わたり》氏)は、伊達家の一門にて、遠田郡|涌谷《わくや》二萬二千六百餘石を領す。本年五十七歳、誠實剛直の老士にして、豫てより伊達兵部、原田甲斐等の奢侈浮輕なる政治をよろこばず、江戸詰めの仙臺役人等の目には一敵國の觀をなしてゐたる人。今囘深く決心するところあり、甲斐等の惡政十數條を列記して、彼等を懲らさんがために、出府して江戸幕府に訴へ出たのであるが、數囘の審問ありて今日はその最後の日、原田甲斐との對決の日にあたる。 外記 (不安さうに)では、今日の御訊問は板倉どのではないのか。 古内 板倉どのはやゝ席をはなれて、腕を組み目をつぶりて、一言の御質問もなさらなかつた。 外記 稻葉美濃どのは日頃より御大老の内人《ないじん》同様のお方、且つ原田甲斐なども御出入筋と聞く。大事の今日の裁判に、美濃守どのの調べを受くるとは……、何んとなく心もとない。これは、實に……困つたことが出來《しゆつたい》いたした。 古内 質問の箇條も、當方より差し出したる訴状によらず、主《おも》に金銀の出入《でいり》でござつた。 外記 甲斐の奢侈、兵部どのの日常御行状については……? 古内 一向にお尋ねがない。たゞ金銀|出納《すゐたふ》の事ばかり。 外記 ふうむ……。(腕を組んで、不安さうに嘆息す) 安藝 (靜かに目を開き、書役某に)書役の者。蜂屋六左衞門は、いづれの御座敷に控へて居ります。 書役 三間《みま》ほど下つて、常者《つねもの》使者の間に詰めて居ります。何か御用にござりまするか。 安藝 ちよツと、御意得たい。    書役、監督の酒井家臣に默禮して入側の奧に入る。 外記 涌谷《わくや》の殿《との》。これは何んと致したことでござらうか。 古内 昨日の御呼出し状には、板倉さま御役所にて御捌きとあつたに、今朝出頭いたして見ると、急に當御大老家に御評定席を移さるゝとは、何んとも以て合點がまゐりませぬ。    蜂屋六左衞門、入り來る。六左衞門、五十八歳、祿四百石、聞番《きゝばん》を勤めて剛直の士。 蜂屋 (座敷に入り)何か、御用でこざりまするか。 安藝 (左右を見廻し、小聲)お身は聞番をつとめらるゝが、今朝になつて、突然御評定所を當家に移されたについて、何か聞込みのことなどはござらぬか。 蜂屋 手前も、全く不審が晴れよせぬ。今朝も五ツ時《どき》になりて、急に御模様變への御達しでござりました。 安藝 月番《つきばん》御老中板倉どのの手をはなれて、御大老家の御前捌きとは、前例にも聞きませねば…… 古内 それに御白洲《おしらす》の模様も變つて、今日は板倉さまの御取調べではない。 外記 われ等の頼むは、たゞ板倉侯一人の義侠ゆゑ、何んとも以て心もとない。 古内 やはり御分家どのの手が廻つて、御大老は我々正義の者を壓倒なさるのではあるまいか。 安藝 叱ツ! (古内を睨めて後、ホツと嘆息)何んにしても、油斷のならぬ時節ではある……。    安藝を初め一同思案に耽る時、酒井家用人某に案内されて、原田甲斐、靜かに入り來る。『遅參』と小聲、小腰をかゞめて一同と同じ座敷に入らんとする。 用人 (引き止めて) いや、原田氏の御席は、こちらに設けてござる。(上手の座敷を指差す) 甲斐 拙者一人——?(不審さうに)何人《なんびと》の御指圖? 用人 板倉さまより、改めて御申付けでごぜりまする。 甲斐 板倉どの——?(ハツとして思案し)然やうにござりまするか。    甲斐、面白からぬ表情にて、上手座敷へ入る。 甲斐 (用人某に)御内方《おうちかた》御用人頭、石田彌左衞門どのは詰め居られまするか。 用人 確《しか》と存じませぬ。聞きたゞして御返事致します。 甲斐 卒爾《そつじ》ながら、急用あり、御呼出し前に御意得たい。 用人 は、かしこまりました。(去る) 甲斐 (隣室を見て聲掛ける)聞番、六左衞門どの。 蜂屋 (その席より)は。 甲斐 昨夜千住街道にて、伊達家|陪臣《ばいしん》と思はるゝ者、殺傷あまたありとの取沙汰なるが、御公儀よりその御尋ねはござらぬか。 蜂屋 (空惚けて)一向にまだ、承りませぬ。 甲斐 さて/\、粗漏《そろう》なことだ。(苦々しげに呟く)板倉どのもその場を通り合せたと聞いたが、行き届いた平常《ふだん》の御仁體にも似合はしからぬ。    甲斐、嘲笑の口氣《くちぶり》にて座につく。間をへだてゝ時計の音聞ゆる。仙臺家|申次《まうしつぎ》の役、江戸町奉行島田出雲守守政、奧より出で來る。 島田 (入側中央に立ち、上下の座敷を見て)今日御呼出しの伊達家重役の者共、願ひ人相手方、双方ともに相詰めましたか。 蜂屋 (敬禮して)御呼出しの人數、殘らず罷り出でました。 島田 なが/\訴訟延引のところ、今日は御老中御列席の上、御吟味《ごぎんみ》詰《づ》めとなさるゝ。諸公御列席にて曲直《きよくちよく》を捌かるゝ上は、勝敗いづれに決定いたすとも、決して再御吟味の願ひ出は相成り申さぬぞ。今日を以て裁判の最後となさるゝ。    一同、頭を下げる。 島田 なほ固く申し渡して置くことは、御白洲に於て勝手の發言は罷り成りませぬ。何事も御係り御老中のお問ひ出しに從ひ、有無《うむ》の御返事を申すのほか、自儘の發言、願ひ立て等は屹ツと相成らぬぞ。宜しいか、宜しいか。 甲斐 あいや、暫く。(顔を上げ)念のために伺ひ置きます。今日御列席の御役人御姓名を承りたうござります。 島田 御列座には御老中稻葉美濃守どの、同じく久世大和守どの、土屋但馬守どの、以上御三名。月番御老中は板倉内膳正どのだ。ほかに仙臺家|申次《まうしつぎ》の役として、斯く申す江戸町奉行島田出雲守、作事奉行大井新左衞門、並びに大目付大岡佐渡守、目付宮崎助右衞門等、出席いたす筈である。 甲斐 (不審さうに)御大老|雅樂頭《うたのかみ》さまの御出席は……? 島田 その分《ぶん》は、聞かぬ。或は御出席なさるゝかも知れぬ。 甲斐 一昨日書面をもつて願ひ出で置きましたが、龜千代後見職伊達兵部は、今日の證人として、お呼出しでござりませうか。 島田 いやその儀も……一向にうけたまはつて居らぬ。(紛らすやうにいふ) 甲斐 されど兵部ことは、伊達家後見を勤めまする以上は、今日の席に大切なる證人と存じまするが……。 島田 何事も御係り御老中の御存慮次第だ。われら下役《したやく》の知つたことではない。 甲斐 ふうむ。(と思案して)何んとなく今日の御評定は……甲斐には不安らしく存じられまする。 島田 (屹ツとして)何? 甲斐 今日まで、板倉侯御役宅に於て、度々のお調べではござりまするが、いつも訴人方相手方互ひ違ひの御取調べゆゑ、未だ相對して論辯等もござりませぬ。然るに今日一日の御裁判を以て吟味をお詰めなされ、そのうへ論辯願ひ立て等をお封じなさるゝとは、その意を得かねまする。御老中御列席の晴れの場所なれば、安藝にも、わたくしにも、心底殘るところなく發言をお許し下さるのが、至當《したう》かと存じられます。 島田 異《い》な事を申す男だ。そちは被告、願はれ人《にん》だぞ。伊達安藝の方より申し掛けられたる不審の條々を、明白に申し開きさへ相立てば、そちの潔白は立つではないか。何んのために論辯を願ふのだ。 甲斐 今日の御裁判は、伊達家百代の安危《あんき》の分るゝところ、一生一大事の時と存じます。(決心を以て云ふ)情《じやう》をつくし、理によつて、公明なる判決を下さるゝのが、幕府當然の御處置かと存じまする。然るに、裁判の前に立つて言語を封じ、再審再願を許されぬとは、憚りながらわたくしには諸公御存慮のほどが飲み込まれませぬ。 島田 何。 甲斐 道理によつて御判斷なさるゝ天下の御大法とは、さほどまでに窮屈に、後ろ暗いものでござりまするか。(侮蔑の笑みを漂はす) 島田 (むツとせしが)いづれ御伺ひのうへ返答いたす。國家老柴田|外記《げき》、御座敷へ出ませい。 外記 は。    外記、一禮して帶刀を障子際に置き、小腰をかゞめて奧に入る。 島田 (同じく奧に入らんとして何か思ひ出し戻り來る)伊達安藝どの、ちよと御意得たい。 安藝 は。(立ちて障子外に出て來る)    島田、甲斐の方を指差しつゝ、何やら小聲にて安藝の耳に囁く。甲斐、その樣子に一種の疑惑を感ずるものゝ如し。 甲斐 (突然、險しく叫ぶ)御入側《おいりかは》の衆、御入側の衆! 詰衆 (進み出て)御用にござるか。 甲斐 石田彌左衞門どのに至急面會したい。至急、至急! 詰衆 は。(下手奧に去る)    密談終りて、島田は奧に去り、安藝は座敷に戻り來り、古内に島田の密話を傳へる。甲斐は常にもなくイラ/\して落付かぬ處へ、詰衆の酒井家臣戻り來る。 詰衆 石田どのは所勞《しよらう》引き籠もりにて、今日は出勤のほども不定《ふぢやう》にござります。 甲斐 何、石田が所勞——? 馬鹿なこと、今日の大評定に然やうな筈はない。いま一應お取質《とりたゞ》しを願ふ。 詰衆 今日は御出動なされませぬ。(冷淡《れいたん》に答へて自席に復《かへ》る)    甲斐、不快さうに舌打ち、込み上ぐる癇癪を控ふるものゝ如く、兩手に脇腹を抑へて考ふる。やがて、傍なる小机など引き寄せしが、また考へ込む。安藝は寂然として、坐禪せる如く瞑想す。 甲斐 (急に何か思案し)古内氏々々。(次室に呼ぶ) 古内 何事でこざる。 甲斐 安藝どのに内々、御内見に入れたいものがある。御取次ぎ下され。    古内、安藝を窺ふ。安藝、首を振りて拒絶す。 古内 御吟味前に、自儘《じまゝ》の御内談はいかゞかと存ずる。 甲斐 差支えない筈だ。今日の呼出し状も安藝どのと連名なり、また先般來板倉どの役宅への出頭にも、始終同室にて物語りしたではないか。 古内 今日は格別の御吟味ゆゑ、遠慮いたす。 甲斐 御身達《おみたち》の利運《りうん》をはかるのだ。國もと片倉小十郎より、同じく甲斐等に對する彈劾書がまゐつたのだ。 古内 お答へは致しませぬ。 甲斐 然やうか。然らば申し入れまい。    甲斐、冷然として自ら嘲る如き微笑を浮べ、平常の剛愎なる彼にかへる。柴田外記、奧より歸り來る。 外記 (障子の外より呼び)原田どの。 甲斐 (傲然として見向きもせす)うむ? 外記 お手前は今朝未明に、手番《てばん》の福田をつれて、板倉さまの芝御屋敷に御内談を願つて出たといふが事實か。裁決前わたくしの面會はならぬと、厳しく御叱りを受けたといふが。 甲斐 いかにも、事實だ。(キツパリ答ふ) 外記 未練がましきことを爲《す》るな。道理によつて御裁決を待つ者が、何んの必要あつて密談を願ふのだ。 甲斐 うむ、未練かも知れない。が、狐罠《きつねわな》には陷《お》ちたくない。 外記 何——? 甲斐 貴公等自身の所作《しよさ》を考へろ。二三日來の模樣……、どうもおれには、そここゝに罠が伏せられてゐるやうに思ふ。    外記、席に戻りて安藝古内に小聲にて報告するところあり、扇子にて疊に筆談す。安藝その報告に驚き、使者某を招き、持参の革文庫より古書状、日記類を出して調査する。島田出雲守、出で來る。 島田 (下座敷に向ひ)伊達家國家老古内志摩、出よせい。    古内、一禮して出て行く。 島田 (上手障子を開き)原田甲斐先刻願ひ出しの兩條につき、御老中方まで伺ひ出たるところ、御取上げにはならぬぞ。もはやあらかた御取調べも濟みたることゆゑ、今更ら論辯にも證人にも及ぶまいとの御趣意であつた。 甲斐 それは怪しからぬ……。拙者お取調べは兩三囘に過ぎぬ。それとて金銀|出入《でいり》の勘定調べ、役人加増の取計ひ手續き等にて、格別大事な御訊問も受けませぬ。安藝の訴状は十三條より成り立ち、金銀浪費のごときはそのうちの二三箇條に過ぎませぬ。殘る十箇條ほどには、甲斐の陰謀、甲斐の逆心、君《きみ》を退け、伊達家を倒さんとする叛逆同様の箇條がある筈にこざります。その點の御詮議もなく、高が金錢帳面の御調べのみにて吟味詰めになさるゝとは、甚だ以てその意を得ませぬ。あくまでも箇條々々の論辯を願ひ、證人の御呼出しを願ひまする。 島田 相成らぬ。萬事は御係り御老中の胸臆《きようおく》にあることだ。そちは御取調べに對し、身の潔白を立てれば濟むのだ。 甲斐 いや、違ひます。例へば金穀《きんこく》國用《こくよう》の御不審にもせよ、拙者は後見職《こうけんしよく》伊達兵部どのの同意をもつて出納《すゐたふ》いたした。兵部どのと立會ひならでは、その御返答にも差支へます。 島田 さて/\男らしからぬ侍だ。今日までの其方は、事を一身に引き受けて、兵郎どのゝ名さへ出さぬではないか。なぜ急に只今となつて、御分家の出席を求めるのだ。 甲斐 男らしからぬ御處置は、他《ほか》にあると存ずる。目安《めやす》十三箇條のうち、二箇條の小罪《せうざい》によつて、訴訟を詰めらるゝは得心《とくしん》がならぬ。是非、達《た》つて、兵部どのの御出席を願ひまする。 島田 甲斐、そちも九州原田の嫡々、先祖の武名を誇りとする男ではないか。今になつて急に證人を願ひ出るとは、血迷つたか、見苦しいぞ。 甲斐 血迷ひました。狼狽しました! (バタ/\と兩手を疊に付いて)伊達家存亡にも關する大事の場合、血迷つてこそ男子、狼狽してこそ男と存じます。是非とも御公明なる御裁斷《ごさいだん》を仰ぎ奉ります。 島田 成らぬ、決して相成らぬ! 甲斐 斯くまで願つて御聞届けなくば、御大老さまに御取次ぎを願ふ。(決心の聲を張り上げ)甲斐は仔細あつて、御大老御見知りの者でござります。雅樂頭さままで願ひ出れば、甲斐の内願は何によらず御聞き入れ下さることゝ信ずる。御大老さまに御申次ぎ、御取次ぎを願ひます。(高聲に叫ぶ)    島田その聲の奧に達するを憂へて甲斐を叱れども、甲斐聞かず。安藝外記等、共々に気を揉む。 外記 (見かねて走り來り)これ/\甲斐、何を申す。然やうの暴言を申し募つて、御幼君の御身にかゝらば如何いたす。 甲斐 昨日來の評定の模様、何んとしても腑に落ちぬ。甲斐ほどの侍に、算盤勘定《そろばんかんぢやう》の惡名つけて、小罪に陷し入れんとせらるゝ段、餘りと云へばお情ない。國を傾け、君を毒する大逆の筒條ならば、大法によつて御成敗も受けよう。錢高勘定は恥辱だ、恥だ。御大老さまに御取次ぎを願ひまする。    島田途方にくれて默然たり。甲斐、憤然として立ち上る。 島田 (驚き、立ち塞つて)何處へ参る! 甲斐 御當家用人石田彌左衞門とは、かねて申し合せし次第もある。彼を以て御大老さまに、直々御目通りを願ひまする。 島田 いや、成らぬ。そちは今日願はれ人だ。御評定所の掟を破つて、自由の振舞ひは許されぬ。若し、達つてその席を動くと申さば、お小人《こびと》を呼び出し、引き渡すぞ。 甲斐 何? 甲斐の身に繩を打たうと云はるゝか。 島田 御評定前に立ち騒ぐは、天下の大法を破るものだ。お小人を呼ぼうか。 甲斐 (唇を噛んで暫く考へたる後、腹を搾りて云ふ)是非に及ばぬ……。身に獄卒の繩目をうけては、もはや侍の交りもならず……、御評定の席へも出られぬ。殘念ながら御幼君のため……御大老さま御目通り願ひは……差し控へまする。 島田 然うなうてはならぬ處。(ホツと安堵して)そちも大國を預り申す身だ。輕々しい振舞ひは龜千代どのの恥辱になるぞ。    甲斐、もとの座に復して、屹ツと目前の一點を凝視しつゝ、暗涙に耽る。酒井家の用人頭石田彌左衞門、急を聞いて急ぎ入り來る。石田は雅楽頭腹心の者にて、甲斐とも親交あり、かねて伊達兵部等の陰謀に一味す。 石田 原田氏、生憎《あいにく》風邪にて引き籠り居つたが……、如何いたされた。御用談とあれば、手前|用部屋《ようべや》にて承りませう。(島田を見て)わたくし用事にて暫時對談いたしたう存じまするが……。 島田 (不承々々に)御呼出しの間を缺かねば、兎も角も……。    島田、奧の間に去る。安藝、外記も座に戻る。 石田 (次室に聲を憚りつゝ)原田どの、又しても癇癪か。何故さやうに氣を苛《いら》つのだ。われ等は引き籠つてゐても、引くべき糸は引き、掛くべき罠は掛けてゐるつもりだ。おぬし、肉親の妹御に別れたと聞いたが、その爲め沈着を失つてゐるのではないか。 甲斐 …………。 石田 (聲を潜めて)おぬしは、今日のお座敷を死場所と定めてゐるらしいが、それは未だ早い、狼狽してゐるぞ。おぬしの背後にはお上樣《かみ》もある、石田もついてゐる、決しておぬしに敗《ひけ》をとらせるやうな事はせぬ。 甲斐 …………。 石田 おぬしは、今日の御評定にて負公事《まけくじ》になるかも知れぬ。 甲斐 何——? 石田 叱ツ! (目にて制し、耳に口を寄せ)板倉侯の智者ぶりにて、萬一おぬしが敗訴《はいそ》になれば、その時こそはおぬしの出世だ。決して騷ぐな、騷ぐ時ではない。おぬしの今日には、勝つても負けても幸運が見舞うてゐるのだ。こゝでは話がならぬ。われ等御用部屋まで、原田どの。    石田、默然たる原田を促し立てゝ去る。外記と安藝は、石田の囁きを不安さうに、凝ツと兩人の後姿を見送る時、古内志摩、欣然として奧の間より出で來る。 古内 (安藝の前に坐りて)涌谷《わくや》さま、御安心なされませ、御調べ役は代つて、板倉どのが座中にお進みなされました。 外記 何、板倉どのが御取調べ下さるか。 古内 板倉どのは、なにか御大老に御諫言など申し上げたと見え、雅樂頭さまには散々の御不興にて、席を蹴立てゝ御対座になりました。 外記 お尋ねの箇條は、やはり金銀出約のことか。 古内 板倉さま御心中は、此の際は兎に角、伊達家より原田甲斐を退去せしむれば好い。兵部どのいかに野心を逞《たくまし》うしても、甲斐を失つては手も足も出まい。彼を追ひ出しさへすれば……。    古内の話に一同喜色を浮べて悦ぶ時、原田甲斐、憤然として足音荒く、用人部屋の方より戻り來る。 甲斐 いや、今ごろ左樣の御挨拶うけようとは思はぬ。 石田 (後に續いて)これ原田氏。まだ、まだ話が殘つてゐる……。 甲斐 いや、伺ふには及ばぬ。甲斐この評定に、服罪を恐れるものではない。たゞ潔白の御裁斷を願ふのだ、政治不行届きや金銀濫費などの小罪にて、伊達家を退けられるのは心外だ。原田左馬之助以來われ等にて七代、伊達の御家も先《せん》政宗この方七代にわたつて、忠勤を抽《ぬき》んじて來た家柄だ。たとへ何人《なんぴと》のお頼みありとても、かゝる小罪にて、伊達家を追はれようとは思はぬ。聞かね、聞かぬ。 石田 (困惑しつゝ、低聲にて)なれども、それが貴公の出世になる……。 甲斐 出世——?(嘲笑)たとへ何人かゞこの公事に敗けて伊達家を浪人すれば、御旗本として先知《せんち》に召し抱へると云つても、そのやうな御頼みは受けたうない。 石田 これ、原田どの……原田どの……。 甲斐 事が引いて、何人の御迷惑になつても是非がない。甲斐は兵部どのの御出席を願ひ、一|伍一什《ぶしじふ》を御老中方の前に明かにするのだ。 石田 (屹ツとして)偖は汝、穩《おだや》かに濟むべきことを荒立て、天下の騷動を望むつもりなのか。 甲斐 (低けれども強く)百萬石のお墨付、あの話はどうなつた。 石田 む。 甲斐 お身達まで一致して、甲斐一人を小罪におとし、事を曖眛に致さうと云ふなら、甲斐はこれまで段々の實情を天下に訴へ、天下萬人の批判を仰ぐ。 石田 何。(ギヨツとして刀に手をかける) 甲斐 (悠然として座につき、冷笑)われ等は事を好むのではない。甲斐は二十七歳にして、家の重役を拜命この方、自ら伊達家のために頭領《とうりやう》の臣たる事を確信してゐるのだ。然るに板倉どのの智諜にはかられ、小罪をもつて罪を問はれ、汚名をうくること如何にしても心外だ。(わざと伊達安藝等に聞かせる心持にて)龜千代君は幼少なり、伊達家はいま危難の時だ、原田甲斐ならではこの國難を救ふ者はない。甲斐はこの信念を似て磐石に向つても當たる決心、存慮の臍《ほぞ》は固めてゐるのだ。    石田は勿論、安藝等一同も、その暴言を恐れて途方にくれる。 甲斐 なれども石田どの、そこは歩《はこ》び合ひだ。(語調を碎いて)伊達家にこの後、甲斐の一身さへ安全なれば、もとより事を好む心はない。善惡ともに御評定次第、決して天下の御作法に強ひて逆らふ心はござりませぬ。    石田、頸をうなだれて思案する。島田出雲守、急ぎ出で來る。 島田 伊達家江戸詰家老原田甲斐、出席なされませう。 甲斐 は、お待ち申して居りました。    甲斐、決心の微笑を浮べて悠然として立ち上る。城内より時の太鼓、ドヽヽヽと響き來る。           ——(幕)—— その三    やゝ暫くありて幕上る。前と同じ光景。安藝、外記、志摩、暗然として首を垂れてゐる。突然奧の間騷がしく口々に『無禮だ、無禮だ』、『控へ無禮だ』、『無禮だ/\』など大聲に罵る聲聞ゆる。こなたの三人、はツとして耳を立てる。やがて原田甲斐、島田出雲守及び同じく申次役《まうしつぎやく》大井新左衞門、その他に押されて奧座敷より突き出されて來る。 甲斐 いや、まだ言葉が殘りました。 一同 無禮だ/\、控へい。 甲斐 言上中にお座をお立ちなさる筈はない。言葉が殘つた、申し上げたい事がござります。(人人を掻き分けて奧へ入らんとする) 島田 えゝ、成らぬ。御老中はもはや御席を立たれた。 甲斐 たとへ席を立たれても、家の大事だ、お袖に縋つてもお目に入れ置きたい品がござります。 島田 ならぬ、無禮だ、さがらツしやい。 甲斐 然らば安藝と對決を願ふ。對決々々々々、對決を願ひまする。    甲斐、高聲に叫んで奧の間に躍り入らんとする。大井、背後より組みつく。 甲斐 いや、決して、決して狼籍は致さぬ。龜千代一身について、申し上げたい事がある。何とぞ今一應|御座《ござ》を、御座を……、御座を願ひまする。(屹ツと廊下に坐す)    奧の間、森然《しんぜん》して音なし。その間に島田は安藝に目くばせして、一同奧へ行けと指圖す。三人、行かんとする。悲憤の涙に首を垂れたる甲斐、安藝の姿に氣がつく。 甲斐 安藝どの、お待ち。 安藝 何。(ちよいと立ち止る) 甲斐 伊達家の大事だ、覺悟があるか。 安藝 何——。 甲斐 甲斐を退けては、家の基本は決して立たぬぞ。伊達家のため、篤《とく》と思案なさるゝが好いぞ。頼むぞ。    安藝等答へず冷笑して去る。 島田 原田氏、重々の不作法、お上《かみ》の御下知もあらう、謹慎して御沙汰を待たツしやい。 甲斐 (冷静に)心得申した。    甲斐、もとの座に戻り、一點を凝視し、こみ上げ來る涙に噎ぶ。急に思ひ立ちて机を引き寄せ、何やら願ひ状を認む。手顫へ文句をなさず。料紙を引きやぶること數枚。机を押しやりて、また沈思す。    評定席にどツと笑聲。甲斐、彈《はじ》かれしごとく立ち上る。唇をかんで寂しく聞く。    酒井家用人に導かれて、渡邊金兵衞、悄然として入り來る。甲斐腹心の者なり。 渡邊 御宿老《ごしゆくらう》。 甲斐 おゝ大儀。品川御隱居さまに、甲斐が御暇乞ひの書状、御覧に入れ奉つたか。 渡邊 は……い。 甲斐 御意はなかつたか。御言葉は……? 渡邊 書面を繰返し御讀み遊ばし、暫くは俯向いてさめ/″\と御落涙……。 甲斐 (座を進め)何、御落涙……? 渡邊 甲斐の志、決して忘却は致さぬぞ。今日決心して大老屋敷に向ふ彼の眞意を、知る者はわれ等一人。不肖われ等のために斯くも肺肝を碎かしむること、身に取つてたゞ恐ろしと思ふぞよ。 甲斐 は。(俯向く) 渡邊 さりながら、この文面にては、何とも以て心もとない。果斷に過ぎて事をなさば、たとへ今日勝公事《かちくじ》となるとも、後々龜千代の身に如何あらんや。何事もわれ等親子のために怺《こら》ふるべし。決して大老家に對して敵對がましき事あるべからずと仰せござりました。 甲斐 何、何事も怺へよと——? 渡邊 たとへ小罪によつて逐はるゝとも、われ等|存生《そんしやう》の間は決して如在《によざい》には致さぬ。御係り御老中の御裁判に服して、再訴再審など願うては、決して相成らぬ。龜千代どののため、われ等のため、固くそれを頼み置く……。 甲斐 うむ、偖てはみな板倉どのの差金《さしがね》だ。品川さまの隱和御優柔の氣性を知つて、松浦法印などから、権柄《けんぺい》づくにさゝへたのであらう。 渡邊 公儀の裁許《さいきよ》に逆らふ者は、われ等の頸《うなじ》に刄《やいば》を加ふるも同じこと、主《しう》と思ふな、家來ではないと、最後のお言葉でござりました。 甲斐 (瞑目して嘆息)板倉どのの壓迫がそこまで及べば……最早や盡す道とてもない。何事も今日までの事だ。金兵衞、その包み物のなかに紹鴎《せうおう》作|鉈削《なたけづ》りの香爐がある筈だ。火を添へてくりやれ。    渡邊、香爐に火を置き、小机の上に置く。甲斐、目にて金兵衞に去れと命ず。金兵衞去る。 甲斐、懐中より浮寝鳥《うきねどり》の香を出して静かに焚き、瞑目沈思する。 但しこの間に、安藝等の三人、及び聞番蜂谷六左衞門は欣然として評定席を出で來り、互ひに悦び、互ひに祝し合ひ、室内に戻り來る。安藝やがて懐中より鹽釜大明神の小軸を出して長押《なげし》にかけ、四人と共に拍手《かしはで》して禮拜する。 酒井家の家臣ども夕食の膳部を持ち來りて五人の者に据ゆる。給仕の者、上座敷には甲斐に一人、下座敷には三人ほど、各|瓶子《へいし》を携へて坐す. 甲斐 (目を開き、膳部を見て)これは。 給仕 當家より各ゝ方へ御馳走にござります。 甲斐 恐れ入りまする。    甲斐、口に答へたるのみにて、茫然として心に何か考へてゐる。 中小姓某、下手座教の給仕に出る。 小姓 (安藝等に)時分どき、御酒一つ召し上られませう。 安藝 これは御懇《ごねんごろ》に、勿體なう存じまする。    四人膳部に坐り、盃を取る。 小姓 今日は御評定|御利運《ごりうん》の御模樣、お目出度うござります。 安藝 何事も御公儀御威光にこざります。    甲斐、ふと利運との言葉に聞き咎む。 給仕 御酒を一つ。(瓶子を取る) 甲斐 これは粗相いたした。(自己に復《かへ》り、盃に手をかけしまゝ隣室の聲を聞く) 小姓 早速に事件落着にて、御家中一同御滿足のことと、お悦び申し上げまする。 外記 みな政道御公明の致す處でござります。 甲斐 (突然隣室に聲掛け)柴田どの、柴田どの、安藝どのがならずば、お手前に御意得たい。 外記 御役人のお許しなければ、何んとも御返答申しかねる。 甲斐 幼君龜千代どのに係《かゝ》はることぢや。 外記 御返事がならぬ。(屹ツといふ) 甲斐 …………。(唇を噛む) 給仕 原田どの。(酌を催促する)    甲斐、盃を出したれど心こゝになし。 この時酒井家の家臣『柴田外記どの、古内志摩どの、火急のお召しでござる』と呼びに來る。兩人盃を置いて、『中座失禮』と安藝及び給仕に會釋して立ちて行く。蜂屋も隨うて去る。甲斐、盃を口にあてゝ飲まんとせしが、突ツと立つて安藝の前に行き、膳を掻き寄せて坐る。 甲斐 安藝どの。われ等今日の御裁決には不同意だ。再吟味を願ひたい。御同意の加判《かはん》を願ふ。    安藝、默然として答へず。 甲斐 御幼君の御爲めを考えられよ。一原田甲斐を退去させても、御分家の續く限り、御大老の威勢の加はる限り、決して伊達家は安泰ではない。 安藝 これ、何を申す。(屹ツとして叱る) 甲斐 われ等は元より必死の覺悟、一命惜しむ心底ならず。たゞ恐れても恐るべきは御幼君の將來だ。再審を願つて、陰謀の顛末を明らかにし、御家にまつはる根本《こんぽん》の害毒を除かねば、六十二萬石は風前の燈火《ともしび》だ。それ等一切の膿血《のうけつ》を搾り出すためには、甲斐は悦んで磔獄門《はりつけごくもん》の犠牲とならう。安藝どの、姑息《こそく》の療治は後に必す悔を殘す。是非に再吟味を下さるやう、御身よりも嘆願ありたい。安藝どの、安藝どの。    默然として答へざる伊達安藝の膝に手を掛け、揺り動かす。 安藝 えゝ何をさツしやる。(扇子にて甲斐の手首を打つ) 甲斐 (むツとする心を抑へて)安藝どの、敵味方と分れても、心は同じ伊達家の臣ぢや。御幼君のため、御家のため、御勘考《ごかんかう》を煩はしたい。安藝どの、安藝どの。 安藝 …………。 甲斐 事をわけて斯くまで頼んでも、御身は同心されぬか。 安藝 えゝ諄《くど》い!    甲斐、赫ツとして、拔打に一太刀斬り付く。 安藝 餓鬼め、何をする。(脇差に手をかけしが、場所柄を考へて白扇にて身構ふる)    舞臺ゆるやかに廻りて、酒井家大廊下を見す。即ち白洲口より奧殿に通ずるところ。安藝肩先を切られながら、身を以て奧座敷に侵入する甲斐を防ぎ、よろめきつゝ來る。甲斐、それを掻き退けつゝ來る。 安藝 小忰《こせがれ》め、逆上したか……御大老屋敷だ。 甲斐 御大老にも言分《いひぶん》あり、板倉どのにも怨みあり……、おいぼれ、邪魔するな。(足を爪立て、齒噛みしつゝ奧を狙ふ) 安藝 伊達家のためだ。待て。(抱き止める) 甲斐 御家を滅ぽすは、汝の族《やから》だ。(斬る)    安藝倒れる。甲斐とゞめをさゝんとする時、大勢の足音どゝゝと廊下に聞ゆる。甲斐屹ツとその方を見る。    舞臺廻り終りて、酒井家の奧殿を見る。一面の廣間にて大老の居間に近し。舞臺空虚。時刻は夕景を過ぎて暗きなかに、廊下に走り違ふ足音しばらくつゞき、『刄傷だ』、『狼藉者』など呼ばはる聲騷がし。やがて遠くより近づき來る石田の下知の聲聞ゆる。 石田 (聲)玄關を閉ぢて伊達家の家來は一人も入れるな。玄關を閉ぢよ。玄關……。それ狼藉者は奧に向つた。皆出合へ、酒井家の衆は皆出合へ。    原田甲斐、鬢髪《びんぱつ》を亂し奧殿の廣きに戸惑ひしつゝ、廊下、橋掛り等を迷ひつゝ廣間に入り來る。柴田外記、脇差を抜いて後を慕ひ來る。甲斐の隙をうかゞつて、背後より一刀を浴びせる。 甲斐 (振り返つて)卑怯者、何をする。 外記 恐れ多いぞ、御場所柄だ。 甲斐 板倉どのにお怨みあり、御大老は在《おは》さぬか。原田甲斐見參申す。御大老どの、板倉どのは在さぬか。(奧殿めがけて進む) 外記 逆賊!(また斬りかゝる)   甲斐、赫ツとして外記を切る時、奧の方より蜂屋、來る。三人の立ち廻りとなる。その間に安藝も後を追ひ來りて、閾際《しきゐぎは》に倒れ昏倒し、甲斐は蜂屋を傷つけ、奧殿へ侵入せんとする。石田彌左衞門、長刀をもち走り來る。 石田 原田甲斐、逆上したか、待て。 甲斐 御大老に物申す。百萬石の墨付を頂戴するのだ。 石田 おのれ暴言、御大老に難題申しかけるのか。 甲斐 何、難題——?(身を顫はして石田を睨みたる後)謀反人《むほんにん》は大老だ——。天下の謀反人は御大老だ。徳川家を倒し、天下をとれば、甲斐に百萬石を與ふると云つたは誰だ。甲斐の一命、無駄には死なない。天晴れ雅樂頭《うたのかみ》と引ツ組んで、酒井家三十五萬石を絶家にするのだ。 石田 (酒井家來に)それ斬れ。    酒井家來十數名斬りかゝれども、甲斐と外記は立ち廻りしてゐることゆゑ、みな手を下しかねて躊躇する。 石田 えゝ言ひ甲斐なし。(地團駄踏みて) 敵味方の用捨はない。伊達家の者は皆斬れ/\、一人ものこすな。    一同勢ひを得て亂鬪となる、數十人亂れ入りて、蜂屋を初め、甲斐、外記、安藝みな酒井家の家來に斬られて倒れる。 石田 (上下に走り廻り)狼藉者をしとめた。酒井家一手に於て、狼藉者をしとめました。(家臣等に)それ面々《めん/\》は、諸方の門をかためて、伊達家陪臣どもの騷動を禦《ふせ》げ、玄關を固めよ。    石田呼ばはりつゝ去る。諸士も去る。舞臺空虚、甲斐の唸り聲、際立ちて聞ゆる。板倉内膳正(長|上下《かみしも》)、島田出雲守、大井新左衞門、古内志摩その他、靜かに出で來る。 内膳 (甲斐の骸《なきがら》を見て)極悪人め!(と叱り安藝の傍に寄る)安藝しつかり致せ。板倉内膳正ぢや。氣を確かに持て。    大井等、安藝を抱き起す。ガツクリして動かず。 内膳 伊達安藝、柴田外記。御場所柄をわきまへて、神妙の振舞ひ、殘るところなき致し方ぢや。お上《かみ》のお耳には内膳正より申し上ぐるぞ。蜂屋六左衞門、原田甲斐の毒刄に倒れて、氣の毒に思ふぞ。    蜂屋、口を動かして何か言ふ。 内膳 (抑へて)聞えぬか。(わざと大聲)原田甲斐の刀に斃《たふ》れて氣の毒に思ふ。序《つい》でをもつて御上聞にも達するであらう。死後の名譽と悦ぶがよいぞ。    蜂屋、拜禮する。甲斐、息を吹きて、少しく進み寄る。 甲斐 板倉どのに、板倉どのに……物申したし。 内膳 (ハタと睨み)御大老の御居間近くを騷がし、おのれ逆賊、憎いやつだ!それに就き申し渡す一儀あり、安藝よく聞けよ。(口には安藝を呼びつゝ一歩甲斐に近づき)そちが肺肝を碎いて、蔭ながら盡したる精忠には、御大老の御心をも動かし奉つて龜丁代の家は萬代不易《ばんだいふえき》、徳川家のあらん限り決して退轉の憂ひはなかるべしと、いま判然《はつきり》と仰せ出されたぞ。また汝の苦衷に感じ入るの結果、分家兵部には隱居を命じ、一關三萬石は本家龜千代所領として没収するぞ。(甲斐の耳に口を寄せ、高聲)兵部は絶家、一關三萬石は本家に下さるぞよ。 甲斐 おゝ——。(躍り上らんばかりに悦ぶ) 内膳 たゞしこゝに憂ふべき一事は、御大老さまぢや……。何か思召さるゝ筋あつて、この際隱居のお望みなれど、これは内膳正より改めて御思召し止りを願ひ出る料簡だ。まづ以て伊達家の行末、千秋萬歳と祝ひ申すぞ。 甲斐 は、は……。(坐り直して拜禮せんとして、微笑のまゝ落入る)    内膳正、じツとその態を凝視しつゝ……           ——(幕)—— 底本 講談社「真山青果全集」第三巻 昭和五十一年五月二十五日第一刷