蒲生氏郷 幸田露伴  大きい者や強い者ばかりが必ずしも人の注意に値する訳では無い。小さい弱い平々凡々《へいへいぼんぼん》の者もなかなかの仕事をする。蚊《か》の嘴《くちばし》といえば云うにも足らぬものだが、淀川《よどがわ》両岸に多いアノフェレスという蚊の嘴は、その昔《むかし》その川の傍の山崎村に棲《す》んでいた一夜庵《いちやあん》の宗鑑《そうかん》の膚《はだえ》を螫《さ》して、そして宗鑑に瘧《おこり》をわずらわせ、それより近衛《このえ》公《こう》をして、宗鑑が姿を見れば餓鬼《がき》つばた、の佳謔《かぎやく》を発せしめ、したがって宗鑑に、飲まんとすれど夏の沢水《さわみず》、の妙句《みようく》を附《つ》けさせ、俳諧《はいかい》連歌《れんが》の歴史の巻首を飾《かざ》らせるに及《およ》んだ。蠅《はえ》といえば下《くだ》らぬ者の上《うえ》無《な》しで、漢の班《はん》固《こ》をして、青蠅《せいよう》は肉汁《にくじゆう》を好んで溺《おぼ》れ死することを致《いた》す、と笑わしめたほどの者であるが、そのうるさくて忌々《いまいま》しいことは宋《そう》の欧《おう》陽修《ようしゆう》をして憎蒼蠅賦《ぞうそうようふ》の好文字を作《な》すに至らしめ、その逐《お》えば逃《に》げ、逃げてはまた集るさまは、片倉小十郎をしてこれを天下の兵に擬《なぞら》えて、さすがの伊達《だて》政宗《まさむね》をして首《こうべ》を俛《ふ》してともかくも豊臣《とよとみ》秀吉《ひでよし》の陣《じん》に参候《さんこう》するに至るだけの料簡《りようけん》を定めしめた。微物《びぶつ》凡物《ぼんぶつ》もまたかくのごとくである。本《もと》より微物凡物を軽んずべきでは無い。そこで今の人が好んで微物凡物、云うに足らぬようなもの、下らぬものの上無しというものを談話の材料にしたり、研究の対象にするのも、まことにおもしろい。蚤《のみ》のような男、蝨《しらみ》のような女が、どう致した、こう仕《つかまつ》った、というがごとき筋道《すじみち》の詮議立《せんぎだて》やなんぞに日を暮《くら》したとて、もっとも千万《せんばん》なことで、その人に取ってはそれだけの価《あたい》のあること、細菌《さいきん》学者が顕微鏡《けんびきよう》を覗《のぞ》いているのが立派な事業で有ると同様であろう。が、世の中はお半や長右衛門《ちようえもん》、おべそや甘郎《あまろう》ばかりで成立っている訳でも無く、バチルスやヒドラのみの宇宙でも無い。獅子《しし》や虎《とら》のようなもの、鰐魚《わに》や鯱鉾《しやちほこ》のようなものもあり、人間にも凡物で無い非凡な者、悪く云えばひどい奴《やつ》、褒《ほ》めて云えば偉《えら》い者もあり、矮人《わいじん》や普通人で無い巨人《きよじん》も有り、善なら善、悪なら悪、くせ者ならくせ者で勝《すぐ》れた者もある。それ等《ら》の者を語ったり観《み》たりするのも、流行《はや》る流行らぬは別として、まんざら面白くないこともあるまい。また人の世というものは、その代々《だいだい》で各々《おのおの》異なっている。自然そのままのような時もある、形式ずくめで定《き》まりきったような時もある、悪く小利口《こりこう》な代もある、情慾《じようよく》崇拝《すうはい》の代もある、信仰《しんこう》牢固《ろうこ》の代もある、だらけきったケチな時代もある、人々の心が鋭《するど》く強くなって沸《たぎ》りきった湯のような代もある、黴菌《ばいきん》のうよつくに最も適したナマヌルの湯のような時もある、冷くて活気の乏《とぼ》しい水のような代もある。その中で沸り立ったような代のさまを観たり語ったりするのも、また面白くないこともあるまい。細かいことを語る人は今少くない。で、別に新らしい発見やなんぞが有る訳では無いが、たまの事であるから、沸った世の巨人がどんなものだったかと観たり語ったりしても、悪くはあるまい。蠅の事について今|挙《あ》げた片倉小十郎や伊達政宗に関聯《かんれん》して、天正《てんしよう》十八年、陸奥《むつ》出羽《でわ》の鎮護《ちんご》の大任を負わされた蒲生氏郷を中心とする。  歴史家は歴史家だ、歴史家くさい顔つきはしたくない。伝記家と囚《とら》われてしまうのもうるさい。考証家、穿鑿家《せんさくか》、古文書《こもんじよ》いじり、紙魚《しみ》の化物《ばけもの》と続《ぞく》西遊記《さいゆうき》に罵《ののし》られているようなそういう者の真似《まね》もしたくない。さればとて古い人を新らしく捏《こね》直《なお》して、何の拠《よ》り処《どころ》もなく自分勝手の糸を疝気筋《せんきすじ》に引張りまわして変な牽糸《あやつり》傀儡《にんぎよう》を働かせ、芸術家らしく乙《おつ》に澄《す》ますのなぞは、地下の枯骨《ここつ》に気の毒で出来ない。おおよそは何かしらに拠って、手製の万八《まんぱち》を無遠慮《ぶえんりよ》に加えず、こうも有ったろうというだけを評釈的に述べて、夜涼《やりよう》の縁側《えんがわ》に団扇《うちわ》を揮《ふる》って放談するという格で語ろう。  今があながち太平の世でも無い。世界大戦は済《す》んだとは云え、どこかしらで大なり小なりの力瘤《ちからこぶ》を出したり青筋を立てたり、鉄砲《てつぽう》を向けたり堡塁《ほるい》を造ったり、造艦所《ぞうかんじよ》をがたつかせたりしている。それでもまずまず女房《にようぼう》には化粧《けしよう》をさせたり、子供には可憐《かれん》な衣服《なり》をさせたりして、親父殿《おやじどの》も晩酌《ばんしやく》の一杯《いつぱい》ぐらいは楽んでいられて、ドンドン、ジャンジャン、ソーレ敵軍が押寄《おしよ》せて来たぞ、酷《ひど》い目にあわぬ中《うち》に早く逃《に》げろ、なぞということは無いが、永禄《えいろく》、元亀《げんき》、天正の頃《ころ》は、とても今の者が想像出来るような生優《なまやさ》しい世ではなかった。資本主義も社会主義も有りはしない、そんなことは昼寝《ひるね》の夢《ゆめ》に彫刻《ちようこく》をした刀痕《とうこん》を談ずるような埒《らち》も無いことで、何もかも滅茶《めちや》滅茶《めちや》だった。永禄の前は弘治《こうじ》、弘治の前は天文《てんぶん》だが、天文よりもまだ前の前のことだ、京畿《けいき》地方は権力者の争い騒《さわ》ぐところであったから、早くより戦乱の巷《ちまた》となった。当時の武士、喧嘩《けんか》商買《しようばい》、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄《こにだ》取《と》り、すなわち物取りを専門にしている武士というものも、そうそうチャンチャンバラばかり続いている訳では無いから、たまには休息して平穏《へいおん》に暮《く》らしている日もある。行儀《ぎようぎ》のよい者は酒でも飲む位の事だが、犬を牽《ひ》き鷹《たか》を肘《ひじ》にして遊ぶほどの身分でも無く、さればと云って何の洒落《しやれ》た遊技《ゆうぎ》を知っているほど怜悧《りこう》でも無い奴《やつ》は、他《ほか》に智慧《ちえ》が無いから博奕《ばくち》を打って閑《ひま》を潰《つぶ》す。戦《いくさ》ということが元来《がんらい》博奕的のものだから堪《たま》らないのだ、博奕で勝つことの快さを味わったが最期《さいご》、何に遠慮《えんりよ》をすることが有ろう、戦乱の世はいつでも博奕が流行《はや》る。そこで社《やしろ》や寺は博奕場になる。博奕道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残《なごり》だ。そこで博奕の事だから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭《か》ける料が無くなる。負ければ何の道の勝負でも口惜《くや》しいから、賭ける料が尽《つ》きても止《や》められない。仕方が無いから持物を賭ける。また負けて持物を取られてしまうと、ついには何でもかでも賭ける。いよいよ負けてまた取られてしまうと、ついには賭けるものが無くなる。それでも剛情《ごうじよう》に今一ト勝負したいと、それではおれは土蔵一ツ賭ける、土蔵一ツをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度戦の有る節《せつ》には必ずおれが土蔵一ツを引渡《ひきわた》すからと云うと、その男が約を果せるらしい勇士だと、ウン好《よ》かろうというので、その口約束《くちやくそく》に従ってコマを廻《まわ》してくれる。ひどい事だ。自分の土蔵でも無いものを、分捕《ぶんどり》して渡す口約束で博奕を打つ。相手のものでも無いのに博奕で勝ったら土蔵一卜戸前受取るつもりで勝負をする。こういうことが稀有《けう》では無かったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力《いりよく》もヘチマも有ったものでは無い。そうかと思うと一方の軍が敵地へ行向う時に、敵地でも無く吾《わ》が地でも無い、吾が同盟者《どうめいしや》の土地を通過する。その時その土地の者が敵方へ同情を寄せていると、通過させなければ明白な敵対|行為《こうい》になるので武力を用いられるけれども、通過させることは通過させておいて、民家に宿舎することを同盟謝絶してその一軍に便宜《べんぎ》を供給しない。つまり遊歴者諸芸人を勤倹《きんけん》同盟の村で待遇《たいぐう》するように待遇する。するとその軍の大将が武力を用いれば何とでも随意《ずいい》に出来るけれど、好い大将である、仁義《じんぎ》の人であると思われようとする場合には、寒風雨雪の夜でも押切《おしき》って宿舎する訳には行かない。憎《にく》いとは思いながらも、非常の不便を忍《しの》び困苦を甘受《かんじゆ》せねばならぬ。こういう民衆の態度や料簡方《りようけんがた》は、今ではちょっと想像されぬが、なかなか手強《てごわ》いものである。現に今語ろうとする蒲生氏郷は、豊臣秀吉すなわち当時の主権|執行者《しつこうしや》の命によりて奥羽《おうう》鎮護《ちんご》の任を帯びていたのである。しかるに葛西《かさい》大崎《おおさき》の地に一揆《いつき》が起って、その地の領主木村父子を佐沼《さぬま》の城に囲んだ。そこで氏郷はこれを援《たす》けて一揆を鎮圧するために軍を率《ひき》いて出張したが、途中の宿々《しゆくじゆく》の農民共は、宿も借さなければ薪炭《しんたん》など与《あた》うる便宜をも峻拒《しゆんきよ》した。これ等《ら》は伊達政宗の領地で、政宗は裏面はとにかく、表面は氏郷と共に一揆鎮圧の軍に従わねばならぬものであったのである。借さぬものを無理借りする訳には行かぬので、氏郷の軍は奥州の厳冬の時に当って風雪の露営《ろえい》を幾夜もあえてした困難は察するに余りある。こういう場合、戦乱の世の民衆というものはなかなかに極度まで自己等の権利を残忍に牢守している。まして敗軍の将士が他領を通過しようという時などは、恩も仇《あだ》もある訳は無い無関係の将士に対して、民衆は剽盗《ひようとう》的の行為に出づることさえある。遠く源平時代よりその証左は歴々と存していて、特《こと》に足利《あしかが》氏中世頃から敗軍の将士の末路は大抵《たいてい》土民のために最後の血を瀝尽《れきじん》させられている。ひとり明智《あけち》光秀《みつひで》が小栗栖《おぐるす》長兵衛に痛い目を見せられたばかりでは無い。こういうように民衆もなかなか手強《てごわ》くなっているのだから、不人望の資産家などの危険はもちろんの事想察に余りある。その代りまた手苛《てひど》い領主や敵将に出遇《であ》った日には、それこそ草を刈《か》るがごとくに人民は生命も取られれば財産も召上《めしあ》げられてしまう。で、つまり今の言葉で云う搾取《さくしゆ》階級も被《ひ》搾取階級も、どれもこれも「力の発動」に任せられていた世であった。理屈《りくつ》も糸瓜《へちま》も有ったものでは無かった。債権《さいけん》無視《むし》、貸借《たいしやく》関係の棒引《ぼうびき》、すなわち徳政はレーニンなどよりずっと早く施行《せこう》された。高《こうの》師直《もろなお》に取っては臣下の妻妾《さいしよう》は皆自己の妻妾であったから、師直の家来達は、ご主人も好いけれど女房の召上げは困ると云ったというが、武田《たけだ》信玄《しんげん》になると自分はそんな不法|行為《こうい》をしなかったけれども「命令|雑婚《ざつこん》」を行わせたらしく想われる。どこの領主でも兵卒を多く得たいものはそういうことをあえてするを忌《い》まなかったから、共婚主義などは随分《ずいぶん》古臭《ふるくさ》いことである。滅茶苦茶なことの好きなものには実に好い世であった。  こういう恐《おそ》ろしい、そして馬鹿《ばか》げた世が.続いた後に、民衆も目覚《めざ》めて来れば為政者権力者も目覚めて来かかった時、この世に現われて、自らも目覚め、他をも目覚めしめて、混乱と紛糾《ふんきゆう》に陥《おちい》っていたものを「整理」へと急がせることに骨折った者が信長《のぶなが》であった、秀吉であった。醍醐《だいご》の醍の字を忘れて、まごまごしていた佑筆《ゆうひつ》に、大の字でよいではないかと云った秀吉は、実に混乱から整理へと急いで、たとえば乱れ垢《あか》づいた髪《かみ》を歯の疎《あら》い丈夫《じようぶ》な櫛《くし》でゴシゴシと掻《か》いて整え揃《そろ》えて行くようなことをした人であった。多少の毛髪は引切っても引抜《ひきぬ》いても構わなかった。そのために少し位は痛くっても関《かま》うものかという調子で遣《や》りつけた。ところが結《むす》ばれた毛の一卜かたまりグッと櫛の歯にこたえたものがあった。それは関八州横領の威《い》に誇《ほこ》っていた北条《ほうじよう》氏であった。エエ面倒《めんどう》な奴《やつ》、一トかたまり引ッコ抜いてしまえ、と天下整理の大旆《たいはい》の下に四十五|箇《か》国の兵を率《ひき》いて攻《せめ》下《くだ》ったのが小田原陣であったのだ。  北条氏のほかに、まだ一トかたまりの結ばれがあって、工合《ぐあい》好《よ》く整理の櫛の歯にしたがって解けなければ引ッコ抜かれるか址断《ひつちぎ》られるかの場合に立っているのがあった。伊達政宗がそれであった。伊達|藤次郎《とうじろう》政宗は十八|歳《さい》で父|輝宗《てるむね》から家を承《う》けた「えら者」だ。天正の四年に父の輝宗が板屋峠《いたやとうげ》を※[喩の右側が足]《こ》えて大森に向い、相馬《そうま》弾正大弼《だんじょうたいひつ》と畠山《はたけやま》右京亮《うきようのすけ》義継《よしつぐ》、大内|備前《びぜん》定綱《さだつな》との同盟軍を敵に取って兵を出した時、年はわずかに十歳だったが、先鋒《せんぽう》になろうと父に請《こ》うた位に気嵩《きがさ》で猛《さか》しかった。十八歳といえば今の若い者ならば出来の悪くないところで、やっと高等学校の入学試験にパスしたのを誇るくらいのところ、大抵の者は低級雑誌を耽読《たんどく》したり、活動写真のファンだなぞと愚《ぐ》にもつかないことを大したことのように思っているほどの年齢《ねんれい》だ。それがどうであろう、十八で家督《かとく》相続してから、輔佐《ほさ》の良臣が有ったとは云え、もう立派に一個の大将軍になっていて、その年の内に、反復常無しであった大内備前を取って押《おさ》えて、今後異心無く来り仕えるはずに口約束をさせてしまっている。それから、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四、と今年天正の十八年まで六年の間に、大小三十余戦、盧名《あしな》、佐竹、相馬、岩城《いわき》、二階堂、白川、畠山、大内、これ等を向うに廻《まわ》して逐《お》いつ返しつして、次第次第に斬勝《きりか》って、既《すで》に西は越後《えちご》境《ざかい》、東は三春《みはる》、北は出羽《でわ》に跨《またが》り、南は白川を越《こ》して、下野《しもつけ》の那須《なす》、上野《こうづけ》の館林《たてばやし》までも威※[夕+臼に炎]《いえん》は達し、その城主等が心を寄せるほどに至っている。特《こと》に去年盧名義広との大会戦に、さすがの義広を斬靡《きりなび》けて常陸《ひたち》に逃げ出さしめ、多年の本懐を達して会津《あいづ》を乗取り、生れたところの米沢城《よねざわじょう》から乗出して会津に腰《こし》を据《す》え、これからいよいよ南に向って馬を進め、まず常陸の佐竹を血祭りにして、それから旗を天下に立てようという勢《いきおい》になっていた。仙道《せんどう》諸将を走らせ、盧名を逐って会津を取ったところで、部下の諸将等が大《おおい》に城を築き塁《るい》を設けて、根を深くし帶《ねもと》を固くしようという議を立てたところ、さすがは後に太閤《たいこう》秀吉をして「くせ者」と評させたほどの政宗だ、ナニ、そんなケチなことを、と一笑に附《ふ》してしまった。云わば少しばかり金が出来たからとて公債《こうさい》を買っておこうなどという、そんな蝨《しらみ》ッたかりの魂魄《たましい》とは魂魄が違《ちが》う。秀吉、家康はもちろんの事、政宗にせよ、氏郷にせよ、少し前の謙信《けんしん》にせよ、信玄にせよ、天下麻《あさ》のごとくに乱れて、馬烟《うまげむり》や鬨《とき》の声、金鼓《きんこ》の乱調子、焔硝《えんしょう》の香、鉄と火の世の中に生れて来た勝れた魂魄はナマヌルな魂魄では無い、皆いずれも火の玉だましいだ、炎々烈々《えんえんれつれつ》として已《や》むに已まれぬ猛※[夕+臼に炎]《もうえん》を噴《ふ》き出し白光を迸発《ほうはつ》させているのだ。言うまでも無く吾《わ》が光をもって天下を被《お》おう、天下をして吾が光を仰《あお》がせよう、と熱《いき》り立っているのだ。政宗の意中は、いつまで奥羽の辺鄙《へんぴ》に鬱々《うつうつ》として播居《ばんきよ》しようや、時を得、機に乗じて、奥州駒《おうしゆうごま》の蹄《ひづめ》の下に天下を蹂躙《じゆうりん》してくれよう、というのである。これが数え年で二十四の男児である。来年卒業証書を握《にぎ》ったらべそ子《こ》嬢《じよう》に結婚《けつこん》を申込《もうしこ》もうなんと思い寝《ね》の夢魂《むこん》七三《しちさん》にへばりつくのとはちと違《ちが》っていた。  諸老臣の深根《しんこん》固帶《こてい》の議をウフンと笑ったところは政宗も実に好い器量だ、立派な火の玉だましいだ。ところがこの火の玉より今少しく大きい火の玉が西の方より滾転《こんてん》殺到《さつとう》して来た。命に従わず朝《ちよう》を軽んずるというので、節刀を賜《たま》わって関白《かんぱく》がいよいよ東下して北条氏を攻めるというのである。北条氏以外には政宗が有って、迂闊《うかつ》に取片付けられる者では無かった。その他は碌々《ろくろく》の輩《やから》、関白|殿下《でんか》の重量が十分に圧倒《あつとう》するに足りていたが、北条氏はとにかく八州に手が延びていたので、ムザとは圧倒され無かった。強盗《ごうとう》をしたのだか何をしたのだか知らないが、黄金をたくさん持って武者修行、悪く云えば漂浪《ひようろう》して来た伊勢《いせ》新九郎《しんくろう》は、金貸をして利息を取りながら親分肌《おやぶんはだ》を見せてはだんだんと自分の処《ところ》へ出入する士《さむらい》どもを手なずけてついに伊豆《いず》相模《さがみ》に根を下し、それから次第に膨脹《ぼうちよう》したのである。この早雲《そううん》という老夫《おやじ》もなかなか食えない奴で、三略の第一章をチョピリ聴聞《ちようもん》すると、もうよい、などと云ったという大きなところを見せているかと思うと、主人が不取締《ふとりしまり》だと下女が檐端《のきば》の茅《かや》を引抽《ひきぬ》いて焚付《たきつ》けにする、などと下女がヤリテンポウな事をする小さな事にまで気の届いている、凄《すさま》じい聡明《そうめい》な先生だった。が、金貸をしたというのはけだし虚事《きよじ》ではなかろう。地生《じおい》の者でも無し、大勢で来たのでも無し、主人に取立てられたというのでも無し、そんな事でもしなければ機微にも通じ難く、仕事の人足も得難かったろう。明治の人でも某老《ぼうろう》は同国人の借金の尻拭《しりぬぐ》いをしてやりやりして、ついにおのずからなる勢力を得て顕栄《けんえい》の地に達したという話だ。嘘《うそ》八百万両も貸付けたら小人島《こびとじま》の政治界なんぞには今でも頭の出せそうに思われる理屈がある。で、早雲は好かったが、その後氏綱《うじつな》、氏康《うじやす》、これもまず好し、氏康の子の氏政に至っては世襲《せしゆう》財産《ざいさん》で鼻の下の穴《あな》を埋めている先生で、麦《むぎ》の炊《た》き方を知らないで信玄にお坊《ぼ》ッちゃんだと笑われた。下女が乱暴に焚付《たきつけ》を作ることまで知った長氏《ながうじ》に起って、生《なま》の麦をすぐに炊けるものだと思っていた氏政に至って、もう脈はあがった。麦の炊きようも知らない分際で、台所|奉行《ぶぎよう》から出世した関白と太刀打《たちうち》が出来るものでは無い。関白が度々《たびたび》上洛《じようらく》を勧めたのに、悲しいことだ、お坊さん殻威張《からいば》りで、弓矢でこいなぞと云ったから堪《たま》らない。待ってましたとばかりに関白の方では、この大石を取れば碁《ご》は世話無しに勝になると、堂々たる大軍、徳川を海道より、真田《さなだ》を山道より先鋒《せんぽう》として、前田、上杉、いずれも戦にかけては恐ろしく強い者等に武蔵《むさし》、上野《こうずけ》、上総《かずさ》、下総《しもうさ》、安房《あわ》の諸国の北条領の城々六十余りを一月の間に揉潰《もみつぶ》させて、小田原へ取り詰《つ》めた。  最初北条方の考では源平の戦に東軍の勝となっている先蹤《せんしよう》などを夢《ゆめ》みていたかも知れぬが、秀吉は平家とは違《ちが》う。おまけに源平の時は東軍が踏出《ふみだ》して戦っているのに、北条氏は碌《ろく》に踏出してもいず、まるで様子が違っている。勝形は少しも無く、敗兆《はいちよう》は明らかに見えていた。しかし北条も大々名だから、上方勢《かみがたぜい》と関東勢との戦はどんなものだろうと、上国の形勢に達せぬ奥羽の隅《すみ》にいた者の思ったのも無理は無い。また政宗も朝命を笠《かさ》に被《き》て秀吉が命令ずくに、自分とは別に恨《うらみ》も何も無い北条攻《ぜ》めに参会せよというのには面白い感情を持とうはずは無かった。そこで北条が十二分に上方勢と対抗《たいこう》し得るようならば、上方勢の手並《てなみ》の程も知れたものだし、何も慌《あわ》てて降伏的《こうふくてき》態度に出る必要は無いし、かつ北条が敵し得ぬにしても長く堪《た》え得るようならば、火事はさほどに早く吾《わ》が廂《ひさし》へ来るものでは無い、と考えて、狡黠《こうかつ》には相違無いが、他人|交際《づきあい》の間柄《あいだがら》ではあり、戦乱の世の常であるから、形勢観望、二《ふ》タ心《ごころ》抱蔵と出かけて、秀吉の方の催促《さいそく》にも畏《かしこ》まり候《そうろう》とは云わずに、ニヤクヤにあしらっていた。一ツは関東は関東の国自慢《くにじまん》、奥羽は奥羽の国自慢があって、北条氏が源平の先蹤を思えば、奥羽は奥羽で前《ぜん》九年|後《ご》三年の先蹤を思い、武家の神のような八幡《はちまん》太郎《たろう》を敵にしても生やさしくは平らげられなかった事実に心強くされていた廉《かど》もあろうし、また一ツは何と云っても鼻ッ張りの強い盛《さか》りの二十三四であるから、噂《うわさ》に聞いた猿面《さるめん》冠者《かんじや》に一も二も無く降伏の形を取るのを忌々《いまいま》しくも思ったろう。  しかし政宗は氏康のような己を知らず彼を知らぬお坊ッちゃんでは無かった。少くも己を知りまた彼を知ることに注意を有《も》っていた。秀吉との交渉《こうしよう》は天正十二年頃から有ったらしい。秀吉と徳川氏との長湫《ながくて》一戦後の和が成立して、戦は勝ったがやはり徳川氏は秀吉に致された形になって、秀吉の勢威|隆々《りゆうりゆう》となったからであろうか、後藤《ごとう》基信《もとのぶ》をして政宗は秀吉に信書を通ぜしめている。如才《じよさい》無い家康はもちろんそれより前に使を政宗に遣わして修好している。家康は海道一の弓取として英名|伝播《でんぱ》しており、かつ秀吉よりはその位置が政宗に近かったから、政宗もおよそその様子《ようす》合《あい》を合点《がてん》していたことだろう。天正十六年には秀吉の方から書信があり、また刀などを寄せて鷹《たか》を請《こ》うている。鷹は奥州の名物だが、もとより鷹は何でもない、これは秀吉の方から先手《せんて》を打って、政宗を引付けようというにあったこともちろんである。秀吉の命に出たことであろう、前田|利家《としいえ》からも通信は来ている。が、ここまではいずれにしても何でも無いことだったが、秀吉も次第に膨脹《ぼうちよう》すれば政宗も次第に膨脹して、いよいよ接触《せつしよく》すべき時が逼《せま》って来た。その年の九月には家康から使が来、また十二月には玄越《げんえつ》というものを遣わして、関白の命を蒙《こうむ》って仙道《せんどう》の諸将との争《あらそい》を和睦《わぼく》させようと存じたが、承れば今度《このたび》和議が成就《じようじゆ》した由、今後また合戦《かつせん》沙汰《ざた》になりませぬよう有りたい、と云って来た。これは秀吉の方に政宗の国内の事情が知悉《ちしつ》されているということを語っているものである。まだその時は政宗が会津を取っていたのでは無いが、徳川氏からの使いの旨《むね》で秀吉の意を猜《すい》すれば、秀吉は政宗が勝手な戦をして四方を蚕食《さんしよく》しつつその大を成すを悦ばざること分明であることが、政宗の胸中に映らぬことは無い。それでも政宗は遠慮《えんりよ》せずに三千|塚《づか》という首塚を立てるほどの激《はげ》しい戦をして盧名義広を凹《へこ》ませ、とうとう会津を取ってしまったのが、その翌年の五月のことだ。秀吉の意を破り、家康の言を耳に入れなかった訳である。そこでこの敵の盧名義広が、落延びたところは同盟者の佐竹|義宣《よしのぶ》方であるから、佐竹が、政宗という奴はひどい奴でござる、と一切の事情をなるべく自分方に有利で政宗に不利のように秀吉や家康に通報したのは自然の勢である。これは政宗も万々《ばんばん》合点していることだから、その年の暮《くれ》には上方の富田|左近将監《さこんしようげん》や施薬院《せやくいん》玄以《げんい》に書を与えて、どんなものだろうと探《さぐ》ると、案の定《じよう》一白や玄以からは、会津の盧名はかねてより通聘《つうへい》しているのに、貴下《きか》が勝手にこれを逐《お》い落して会津を取られたことは、殿下《でんか》において甚《はなはだ》しく機嫌《きげん》を損《そん》じていらるるところだ、と云って遣《よこ》した。もうこの時は秀吉は小田原の北条を屠《ほふ》って、いわゆる「天下の見懲《みご》らし」にして、そしてその勢で奥羽を刃《やいば》に血ぬらず整理してしまおうという計画が立っていた時だから、もちろん秀吉の命を受けての事だろう、前田利家や浅野長政からも、また秀吉の後たるべき三好《みよし》秀次《ひでつぐ》からも、明年小田原征伐《せいばつ》の砌《みぎり》は兵を出して武臣の職責を尽《つく》すべきである、と云って来ている。家康から、早く帰順の意を表するようにするがお為《ため》だろう、と勧めて来ていることももちろんである。明けて天正十八年となった、正月、政宗は良覚院《りようがくいん》という者を京都へ遣《や》った。三月は斎藤九郎兵衛が京都から浅野長政等の書を持って来て、いよいよ関東奥羽平定の大軍が東下する、北条征伐に従わるべきである、会期に違《たが》ってはなりませぬぞ、というのであった。そこで九郎兵衛に返書を齎らさしめ、守屋《もりや》守柏《しゆはく》、小関《おぜき》大学の二人を京へ遣ったが、政宗のこの頃は去年大勝を得てから雄心勃々《ゆうしんぼつぼつ》で、秀吉東下の事さえ無ければ、無論常陸に佐竹を屠って、上野下野と次第に斬靡《きりなび》けようというのだから、北条征伐に狩出《かりだ》されるなどは面白くなかったに相違無い。ところが秀吉の方は大軍堂々といよいよ北条征伐に遣って来たのだ。サア信書の往復や使者の馬の蹄《ひづめ》の音の取り遣りでは無くなった、今|正《まさ》に上方勢の旗印《はたじるし》を読むべき時が来たのだ。金の千成《せんなり》瓢箪《びようたん》にまた一ッ大きな瓢箪が添《そ》わるものだろうか、それとも北条氏|三鱗《みつうろこ》の旗が霊光《れいこう》を放つことであろうか、猿面冠者の軍略兵気が真実その実力で天下を取るべきものか。政宗は抜《ぬ》かぬ刀を左手《ゆんで》に取り絞《しぼ》って、ギロリと南の方を脾睨《へいげい》した。  たぎり立った世の士《さむらい》に取って慚《は》ずべき事と定まっていたことは何ヶ条もあった。その中《うち》まず第一は「聞《きき》怯《お》じ」というので、敵が何万来るとか何十万寄せるとか、あるいは猛勇で聞えた何某《なにがし》が向って来るとかいうことを聞いて、その風聞に辟易《へきえき》して闘《たたか》う心が無くなり、降参とか逃走とかに料簡《りようけん》が傾《かたむ》くのを「聞怯じ」という。聞怯じする奴ぐらいケチな者は無い、いかに日頃利口なことを云っていても聞怯じなんぞする者は武士では無い。次に「見《み》崩《くず》れ」というのは敵と対陣はしても、敵の潮《うしお》のごとく雲のごとき大軍、または勇猛|鷙悍《しかん》の威勢を望み見て、こいつは敵《かな》わないとヒョコスカして逃腰《にげごし》になり、度《ど》を失い騒ぎかえるのである。聞怯じよりはまだしもであるが、士分の真骨頂の無い事は同様である。「不覚」というのはまたその次で、これはその働きの当《とう》を得ぬもので、不覚の好く無いことはもちろんであるが、聞怯じ見崩れをする者よりは少しは恕《じよ》すべきものである。「不鍛煉《ふたんれん》」は 「不覚」が心掛《こころがけ》の沸《たぎ》り足らないところから起るに比してまたいちだんと罪の軽いもので、場数を踏まぬところから起る修行不足である。聞怯じ、見崩れする奴ほど人間の屑《くず》は無いが、さて大抵《たいてい》の者は聞怯じもする、見崩れもするもので、独逸《ドイツ》のホラアフク博士が地球と彗星《すいせい》が衝突《しようとつ》すると云ったと聞いては、眼《め》の色を変えて仰天《ぎようてん》し、某国のオドカシック号という軍艦《ぐんかん》の大砲《たいほう》を見ては、腰が扱けそうになり、新学説、新器械だ、ウへー、ハハアッと叩頭《こうとう》する類《たぐい》は、皆これ聞怯じ見崩れの手合《てあい》で、こういう手合が多かったり、また大将になっていたりしてくれては、戦ならば大敗、国なら衰亡《すいぼう》する。平治《へいじ》の戦の大将|藤原《ふじわら》信頼《のぶより》は重盛《しげもり》に馳《はせ》向《むか》われて逃出してしまった。あのような見崩れ人種が大将では、義朝《よしとも》や悪《あく》源太《げんた》が何ほど働いたとて勝味は無い。鞭声《べんせい》粛々《しゆくしゆく》夜《よる》河を渡《わた》ったかの猛烈《もうれつ》な謙信《けんしん》勢《ぜい》が暁《あかつき》の霧《きり》の晴間から雷火《らいか》の落《おち》掛《かか》るようにどっと斬入った時には、まず大抵な者なら見るとすぐに崩れ立つところだが、さすがは信玄勢のウムと堪《こら》えたところは豪快《ごうかい》淋漓《りんり》で、斬立てられたには違無かろうが実に見上げたものだ。政宗の秀吉における態度の明らかに爽《さわ》やかで無かったのは、潔癖《けつぺき》の人には不快の感を催《もよお》させるが、政宗だとて天下の兵を敵にすれば敵にすることの出来る力を有《も》っていたので、彼《か》の南部《なんぶ》の九戸《くのへ》政実《まさざね》ですらとにかく天下を敵にして戦った位であるから、まして政宗がそう手ッ取早く帰順と決しかねたのも何の無理があろう。梵天丸《ぼんてんまる》の幼立《おさなだち》からして、聞怯じ、見崩れをするようなケチな男では無い。政宗の幼い時は人に対して物羞《ものはじ》をするような児《こ》で、野面《のづら》や大風《おおふう》な児では無かったために、これは柔弱《にゆうじやく》で、好い大将になる人ではあるまいと思った者もあったというが、小児の時に内端《うちば》で人に臆《おく》したような風な者は柔弱臆病とは限らない、かえって早くから名誉心《めいよしん》が潜《ひそ》み発達しているためにそういう風になるものが多いのである。片倉小十郎|景綱《かげつな》というのは不幸にして奥州に生れたからこそ陪臣《ばいしん》で終ったれ、京畿《けいき》に生れたらば五十万石七十万石の大名にはきっと成っていたに疑無い立派な人物だが、その炯眼《けいがん》は早くも梵天丸のその様子を衆人の批難するのを排《はい》して、イヤイヤ、末《すえ》頼《たの》もしい和子《わこ》様《さま》である、と云ったという。二本松《にほんまつ》義継のためににわかに父の輝宗が攫《さら》い去られた時、鉄砲《てつぽう》を打掛《うちか》けてそのために父も殺されたが義継をも殺してしまった位のイラヒドイところのある政宗だ。関白の威勢や、三好秀次や浅野長政や前田利家や徳川家康や、その他の有象《うぞう》無象《むぞう》等の信書や言語が何を云って来たからといって、禽《とり》の羽音、虻《あぶ》の羽音だ。そんな事に動く根性骨《こんじようぼね》では無い。聞怯じ人種、見崩れ人種ではないのである。自分が自分で合点するところが有ってから自分の碁《ご》の一石を下そうという政宗だ。確かに関白と北条とを見積ってからどうとも決めようという料簡だ、向背《こうはい》の決着に遅々《ちち》としたとてしかたは無いのだ。  そこで政宗が北条氏の様子をも上方勢の様子をも知り得る限り知ろうとして、眼も有り才も有る者共をたくさんに派出したことは猜知《すいち》せられることだ。北条の方でも秀吉の方でも政宗を味方にしたいのであるから、便宜《べんぎ》は何ほどでも有ったろうというものだ。で、関白はいよいよ小田原攻《ぜめ》にかかり、事態は日に逼《せま》って来た。ところへ政宗が出した視察者の一人の大峯《おおみね》金七《きんしち》は帰って来た。  金七の復命は政宗|及《およ》びその老臣等によって注意をもって聴取られた。もちろん小田原攻め視察の命を果して帰ったものは金七のみでは無かったであろうが、その他の者の姓名《せいめい》は伝わらない。金七が還《かえ》っての報告によると、猿面冠者の北条攻めの有様は尋常《じんじよう》一様、武勇一点張りのものではない、その大軍といい、一般《いっぱん》方針《ほうしん》といい、それからまた千軍万馬往来の諸雄将の勇威と云い、大剛の士、覚えの兵等の猛勇で功者な事と云い、北条方にも勇士猛卒十八万余を蓄《たく》わえているとはいえ、とうてい関白を敵として勝味は無い。特《こと》に秀吉の軍略に先手先手と斬《きり》捲《まく》られて、小田原の孤城《こじよう》に退嬰《たいえい》するを余儀《よぎ》なくされてしまっている上は、籠中《ろうちゆう》の禽《きん》、釜中《ふちゆう》の魚となっているので、遅《おそ》かれ速《はや》かれどころでは無い、瞬《またた》く間に踏《ふみ》潰《つぶ》されてしまうか、さなくとも城中|疑懼《ぎく》の心の堪え無くなった頃を潮合《しおあい》として、扱《あつか》いを入れられて北条は開城をさせられるに至るであろう、ということであった。金七の言うところは明白で精確と認められた。ここに至って政宗も今更ながら、さすがに秀吉というものの大きな人物であるということを感じない訳には行かなかった。沈黙《ちんもく》はしばし一座を掩《おお》うたことであろう。金七を退《しりぞ》かせてから政宗は老臣等を見渡《みわた》した。小田原が遣付《やりつ》けらるればその次は自分である。北条もこなたに対しては北条|陸奥守《むつのかみ》氏輝《うじてる》が後藤基信に好《よし》みを通じて以来|仲《なか》を好くしている、猿面冠者を敵にして立上るなら北条の亡《ほろ》ぼされぬ前に一日も早く上州野州武州と切って出て北条に勢援《せいえん》すべきだが、仙道諸将とはかねてよりの深仇《しんきゆう》宿敵であり、北条の手足を※[椀の右側が手編]《も》ぐために出ている秀吉方諸将の手並のほども詳《くわ》しく承知してはいぬ。さればと云って今更帰伏して小田原攻参会も時おくれとなっている、忌々しくもある。切り合って闘《たたか》いたいが自分の方の石の足らぬ碁だ、巧《うま》く保ちたいが少し手数《てかず》後《おく》れになっている碁で、幾許《いくばく》かの損は犠牲《ぎせい》にせねばならなくなっている。そして決着はいずれにしても急がねばならないところだ。胸算《むなざん》の顔は眼玉がパッチパチ、という柳風《りゆうふう》の句があるが、さすがの政宗だから見苦しい眼パチパチもしなかったろうけれど、左思右考したには違い無い。しかしどうしても天下を敵に廻《まわ》し、朝命に楯《たて》をついて、安倍《あべ》の頼時《よりとき》や、平泉《ひらいずみ》の泰衡《やすひら》の二の舞をしてみたところが、骰子《さい》の目が三度も四度も我《わ》が思う通りに出ぬものである以上は勝てようの無いことは分明だ。そこで、残念だがしかたが無い、小田原が潰されてしまってからでは後手《ごて》の上の後手になる、もう何を※[欄の東が各]《お》いても秀舌の陣屋の前に馬を繋《つな》がねばならぬ、と考えた。そこで、どうである、徳川殿の勧めに就《つ》こうかと思うが、といいながら老臣等を見渡すと、ムックリと頭《こうべ》を擡《もた》げたのが伊達藤五郎|成実《しげざね》だ。  藤五郎成実は立派な奥州侍の典型だ。天正の十三年、すなわち政宗の父輝宗が殺されたその年の十一月、佐竹、岩城以下七将の三万余|騎《き》と伊達勢との観音堂《かんのんどう》の戦に、成実の軍は味方と切《きり》離《はな》されて、敵を前後に受けて恐ろしい苦戦に陥《おちい》った。その時成実の隊の下郡山《したこおりやま》内記《ないき》というものが、ここで打死してもしかたが無い、いったんは引退かれるがよくはないか、と云った折《おり》に、ギリギリと歯を切《くいしば》って、ナンノ、藤五郎成実、魂魄《たましい》ばかりに成り申したら帰りも致そう、生身《なまみ》で一卜歩《あし》でも後へさがろうか、と罵って悪戦苦闘の有る限りを尽した。それでその戦も結局勝利になったため、今度《このたび》の合戦、全くその方《ほう》一手のために全軍の勝となった、という感状を政宗から受けたほどの勇者である。戦場には老功、謀略《ぼうりやく》も無きにあらぬなかなかの人物で、これも早くから信長秀吉の眼の近くに居たら一ケ国や二ケ国の大名にはなったろう。政宗|元服《げんぷく》の式の時にはこの藤五郎成実が太刀《たち》を奉《ほう》じ、片倉小十郎景綱が小刀《しようとう》を奉じたのである。二人は真に政宗が頼み切った老臣で、小十郎も剛勇だが智略分別が勝《まさ》り、藤五郎も智略分別に逞《たくま》しいが勇武がそれよりも勝っていたらしい。  その藤五郎成実が主人の上を思う熱心から、今や頭を擡げ眼を※[目に爭]《みは》って、藤五郎存ずる旨を申上げとうござる、秀吉関東征伐は今始まったことではござらぬ、既《すで》に去年冬よりしてその事定まり、朝命に従い北条攻めの軍に従えとは昨年よりの催促《さいそく》、今に至って小田原へ参向するとも時は晩《おく》れおり、遅々|緩怠《かんたい》の罪は免《まぬか》るるところはござらぬ、たとえ厳しく咎《とが》められずとも所領を召上げられ、多年|弓箭《ゆみや》にかけて攻取ったる国郡をムザムザ手離さねばならぬは必定《ひつじよう》の事、我が君今年正月七日の連歌《れんが》の発句《ほつく》に、ななくさを一卜手によせて摘《つ》む菜《な》哉《かな》と遊ばされしは、仙道七郡を去年の合戦に得たまいしよりのてと、それを今更秀吉の指図に就かりょうとは口惜しい限り、とてもの事に城を掻《か》き寨《とりで》を構え、天下を向うに廻して争おうには、勝敗は戦の常、小勢《こぜい》が勝たぬには定まらず、あわよくばこなたが切勝って旗を天下に樹《た》つるに及ぼうも知れず、思召しかえさせられてしかるべしと存ずる、と勇気|凜々《りんりん》四辺《あたり》を払《はら》って扇《おうぎ》を膝《ひざ》に戦場|叱咤《しつた》の猛者《もさ》声《ごえ》で述べ立てた。その言の当否《とうひ》はとにかく、こういう場合こういう人のこういう言葉は少くも味方の勇気を振興《しんこう》する功《こう》はあるもので、たとえ無用にせよいわゆる無用の用である。ヘタヘタと誰《だれ》も彼も降参気分になってしまったのではその後がいけない、その家の士気というものが萎靡《いび》してしまう。藤五郎もそこを慮《おもんばか》ってこういうことを言ったものかも知れぬ、またあるいは真に秀吉の意に従うのが忌々しくてこう云ったのかも知れぬ。政宗も藤五郎の勇気ある言を嬉《うれ》しく聞いたろう。しかしなんらの答は発せぬ。片倉小十郎は黙然《もくねん》としている。すると原田|左馬介《さまのすけ》宗時という一老臣、これも伊達家の宗徒《むねと》の士だが成実の言に反対した。伊達騒動の講釈や芝居で、むやみに甚《ひど》い悪者にされている原田|甲斐《かい》は、その実|兇悪《きようあく》な者では無い、どちらかと云えばカッとするような直情の男だったろうと思われるが、その甲斐はすなわちこの宗時の未だ。宗時も十分に勇武の士で、思慮もあれば身分もあった者だが、藤五郎の言を聞くと、イヤイヤ、そのお言葉は一応ご尤《もつとも》には存ずるが、関白もなかなか世の常ならぬ人、匹夫《ひつぷ》下郎《げろう》より起って天下の旗頭《はたがしら》となり、徳川殿の弓箭に長《た》けたるだに、これに従いおらるるというものは、畢竟《ひつきよう》朝威を負うて事を執《と》らるるが故でござる、今もしこれに従わずば、勝敗利害はしばらく※[欄の東が各]《お》き、上《かみ》は朝庭に背《そむ》くことになりて朝敵の汚命を蒙《こうむ》り、従って北条のごとくに、あらゆる諸大名の箭の的《まと》となり鉄砲の的となるべく、行末の安泰|覚束《おぼつか》無《な》きことにござる、と説いた。片倉小十郎もこの時宗時の言に同《どう》じて、朝命に従わぬという名を負わされることの容易ならぬことを説いた、という説も有るが、また小十郎はその場においては一言も発せずにいたという説もある。その説に拠《よ》ると小十郎はなんらの言をも発せずにしまったので、政宗はその夜ひそかに小十郎の家を訪うた。小十郎は主人の成りを悦び迎《むか》えた。政宗は小十郎の意見を質《ただ》すと、小十郎は、天下の兵はたとえば蠅のようなもので、これを撲《う》って逐《お》うても、散じてはまた聚《あつ》まってまいりまする、とちょうど手にしていた団扇《うちわ》を揮《ふる》って蠅を撲つ状《まね》をした。そこで政宗も大《おおい》に感悟《かんご》して天下を敵に取らぬことにしたというのである。いずれにしても原田宗時や片倉小十郎の言を用いたのである。  そこで政宗は小田原へ趨《おもむ》くべく出発した。時が既に機を失したから兵を率《ひき》いてでは無く、云わば帰服を表示して不参の罪を謝するためという形である。藤五郎成実は留守《るす》の役、片倉小十郎、高野|壱岐《いき》、白石《しらいし》駿河《するが》以下百騎余り、兵卒|若干《じやつかん》を従えて出た。上野を通ろうとしたが上野が北条領で新関が処々《しよしよ》に設けられていたから、会津から米沢《よねざわ》の方へ出て、越後《えちご》路《じ》から信州|甲州《こうしゆう》を大廻《おおまわ》りして小田原へ着いた。北条攻は今その最中であるが、関白は悠然《ゆうぜん》たるもので、急に攻めて兵を損ずるようなことはせず、ゆるゆると心|長閑《のどか》に大兵《たいへい》で取巻いて、城中の兵気の弛緩《しかん》してその変の起るのを待っている。何の事は無い勝利に定まっている碁だから煙草《たばこ》をふかして笑っているという有様だ。茶の湯の先生の千《せんの》利休《りきゆう》などを相手にして悠々と秀吉は遊んでいるのであった。政宗参候の事が通ぜられると、あの卒直な秀吉もさすがにすぐには対面をゆるさなかった。箱根の底倉《そこくら》に居て、追って何分《なにぶん》の沙汰《さた》を待て、という命令だ。今更政宗はしかたが無い、底倉の温泉の烟《けむり》のもやもやした中に鬱陶《うつとう》しい身を埋めているよりほか無かった。日は少し立った。すぐに引見されぬのはもちろん上首尾《じようしゆび》で無い証拠《しようこ》だ。従って来た者の中で譜代《ふだい》で無い者は主人に見限りを付け出した。情無いものだ、蚤《のみ》や蝨《しらみ》は自分がたかっていたその人の寿命《じゆみよう》が怪《あや》しくなると逃《に》げ出すのを常とする。蚤は逃げた、蝨は逃げた。貧乏《びんぼう》すれば新らしい女は逃腰《にげごし》になると聞いたが、政宗に従っていた新らしい武士は逃げて退いた。その中でも矢田野《やだの》伊豆《いず》などいう奴は逃出して故郷の大里《おおさと》城に拠って伊達家に対して反旗を飜《ひるが》えした位だ。そこで政宗の従士は百|騎《き》あったものが三十人ばかりになってしまった。  ところへ潮《しお》加減《かげん》を量《はか》って法印《ほういん》玄以、施薬院|全宗《ぜんそう》、宮部《みやべ》善祥坊《ぜんしようぼう》、福原|直高《なおたか》、浅野長政諸人が関白の命を含《ふく》んで糺問《きゆうもん》に遣《や》って来た。浅野|弥兵衛《やへえ》が頭分《かしらぶん》で、いずれも口利《くちきき》であり、外交|駈引《かけひき》接衝《せつしよう》応対の小手《こて》の利いた者共である。しかし弥兵衛等も政宗に会ってみて驚《おどろ》いたろう、まず第一に年はわずかに二十四五だ、短い髪《かみ》を水引《みずひき》すなわち水捻《みずねり》にした紙線《こより》で巻き立て、むずかしい眼を一《ひ》卜筋《すじ》縄《なわ》でも二《ふ》タ筋縄でも縛《しば》りきれぬ面魂《つらだましい》に光らせていたのだから、異相という言葉で昔から形容しているが、全く異相に見えたに相違無い。弥兵衛等もただ者で無いとは見て取ったろうが、関白の威光を背中に背負《せお》っているのであるから、まず第一に朝命を軽んじて早く北条攻に出陣しなかったこと、それから盧名義広を逐払《おいはら》って私に会津を奪《うば》ったこと、二本松を攻略《こうりやく》し、須賀川《すががわ》を屠《ほふ》り、勝手に四隣を蚕食《さんしよく》した廉々《かどかど》を詰問した。もちろんこれは裏面において政宗の敵たる佐竹義宣が石田三成にこれらの事情をよいように告げて、そして大有力者の手を仮《か》りて政宗を取押えようと謀《はか》ったためであると云われている。政宗が陳弁《ちんべん》はこれら諸方面との取合いの起った事情を明白に述べて、武門の意気地《いきじ》、弓箭の手前、已《や》むに已まれず干戈《かんか》を執《と》ったことを云立てて屈しなかった。また朝命を軽んじたという点は、四隣皆敵で遠方の様子を存じ得申さなかったからというので言開きをした。翌日また弥兵衛等は来って種々の点を責めたが、結局は要するに、会津や仙道諸城、すなわち政宗が攻略蚕食した地を納め奉《たてまつ》るがよかろう、と好意的に諭《さと》したのである。そこで政宗はしかたが無い、もとより我慾《がよく》によって国郡を奪ったのではござらぬ、という潔《いさぎよ》い言葉に吾が身をよろおって、会津も仙道諸郡も命のままに差上げることにした。  埒《らち》は明いた。秀吉は政宗を笠懸山《かさがけやま》の芝《しば》の上において引見した。秀吉は政宗に侵掠《しんりやく》の地を上納することを命じ、米沢三十万石を旧《もと》のごとく与うることにし、それで不服なら国へ帰って何とでもせよ、と優しくもあしらい、強くもあしらった。歯のあらい、通りのよい、手丈夫《てじようぶ》な立派な好い大きな櫛《くし》だ。天下の整理はかくのごとくにして捗取《はかど》るのだ。惺々《せいせい》は惺々を愛し、好漢は好漢を知るというのは小説の常套《じようとう》文句《もんく》だが、秀吉も一瞥《いちべつ》の中に政宗を、くせ者ではあるが好い男だ、と思ったに疑無い。政宗も秀吉を、いやなところも無いでは無いが素晴《すば》らしい男だ、と思ったに疑無い。人を識《し》るは一面に在り、酒を品《ひん》するはただ三杯だ。打たずんば交りをなさずと云って、瞋拳《しんけん》毒手の殴《なぐ》り合《あい》までやってから真の朋友《ほうゆう》になるのもあるが、一見して交を結んで肝胆《かんたん》相照らすのもある。政宗と秀吉とはどうだったろう。双方《そうほう》共に立派な男だ、ケチビンタな神経|衰弱《すいじやく》野郎、蜆貝《しじみがい》のような小さな腹で、少し大きい者に出会うとちっとも容《い》れることの出来ないソンナ手合では無い嚊《かかあ》や餓鬼《がき》を愛することが出来るに至って人間並の男で、好漢を愛し得るに至ってはじめてこれ好漢、仇敵を愛し得るに至ってホントの出来た男なのだ。猿面冠者も独眼竜《どくがんりゆう》も立派な好漢だ、ケチビンタな蜆ッ貝野郎ではない。貴様《きさま》がかねて聞いた伊達藤次郎か、おぬしがかねて聞いた木下藤吉か、と互《たがい》に面《おもて》を見合せて重瞳《ちようどう》と隻眼《せきがん》と相射った時、ウム、面白そうな奴、話せそうな奴、と相愛したことは疑無い。だが、お互に愛しきったかどうだか、イヤお互に底の底までは愛しきれなかったに違無い。政宗は秀吉の男ぶりに感じてこれを愛したには相違ないが、帰ってから人に語って、その底の底までは愛しきらぬところを洩《もら》したことは、尭雄僧都話《ぎようゆうそうずばなし》に見えているとされている。秀吉も政宗の押えにかの手強《てごわ》な蒲生氏郷を置いたところは、愛してばかりはいなかった証拠だ。藤さんと藤さんとお互に六分は愛し、四分は余白を留《とど》めていたのである。戦乱の世の事だ、いずれにも無理は無いと為《な》すベきだ。  関白が政宗に※[にんべんに凧]刀《はいとう》を預けて山へ上って小田原攻の手配りを見せた談《はなし》などは今しばらく措《お》く。さて政宗は米沢三十万石に削《けず》られて帰国した。七十万石であったという説もあるが、そういうことは考証家の方へ預ける。秀吉が政宗の帰国を許したについては、秀吉の左右に、せっかく山を出て来た虎《とら》を復《ふたた》び深山に放つようなものである、と云った者があるということだ。そんなことを云った者は多分石田左吉の輩ででもあろう。その時秀吉は笑って、おれは弓箭沙汰を用いないで奥羽を平定してしまうのだ、汝等《なんじら》の知るところでは無い、と云ったというが、実にその辺《あたり》は秀吉の好いところだ。政宗だとて何でいったん関白面前に出た上で、また今更に牙《きば》をむき出し毛を逆立《さかだ》てて咆哮《ほうこう》しようやである。  小田原は果して手強い手向いもせず、埒も無く軍気が沮喪《そそう》して自ら保てなくなり、ついに開城するの已むを得ざるに至った。秀吉は何をするのも軽々と手早い大将だ、小田原が済むとすぐに諸将を従えて奥州へと出掛けた。威を示して出羽奥州一卜撫《な》でに治めてしまおうというのである。政宗が服したのであるから刃向《はむか》おうという者は無い。秀吉が宇都宮《うつのみや》に宿営した時に政宗は片倉小十郎を従えて迎接《げいせつ》した。小十郎は大谷|吉隆《よしたか》について主家を悪く秀吉に思取られぬよう行届いた処置をした。吉隆も人物だ。小十郎が会津盧名の旧領地の図牒《ずちよう》の入っている筐《はこ》を開いて示した時には黙《だま》って開かせながら、米沢の伊達旧領の図牒の入っている筐を小十郎が開いて示そうとした時には、イヤそれには及び申さぬ、と挨拶《あいさつ》したという。大谷吉隆に片倉景綱、これも好い取組だ。互に抜目の無い挙動応対だったろう。秀吉の前に景綱も引見された時、吉隆が、会津の城お引渡しに相成るには幾日《いくにち》をもってせらるるお積りか、と問うたら、小十郎は、ただ留守居《るすい》の居るばかりでござる、いつにても差支《さしつかえ》はござらぬ、と云ったというが、好い挨拶だ。平生行届いていて、事に当って埒の明く人であることが伺《うかが》われる。これでその上に剛勇で正実なのだから、秀吉が政宗の手から取ってしまいたい位に思ったろう、大名に取立てようとした。が、小十郎は恩を謝するだけで固辞して、あくまで伊達家の臣として身を置くを甘《あま》んじた。これもまた感ずべきことで、何という立派なその人柄だろう。浅野六右衛門正勝、木村|弥一《やいち》右|衛門《えもん》清久は会津城を受取った。七月に小田原を潰して、八月には秀吉はもう政宗の居城だった会津に居た。土地の歴史上から云えば会津は盧名に戻さるべきだが、盧名は一度もう落去したのである、自己の地位を自己で保つ能力の欠乏《けつぼう》していることを現わしているものである。この枢要《すうよう》の地を材略武勇の足らぬものに托《たく》しておくことは出来ぬ。まして伊達政宗が連年血を流し汗《あせ》を瀝《したた》らして切取った上に拠《よ》ったところの地で、いやいやながら差出したところであり、人情として涎《よだれ》を垂《た》らし頤《おとがい》を朶《た》れているところである、またさなくとも崛強《くつきよう》なる奥州の地武士《じぶし》が何を仕出《しだ》さぬとも限らぬところである、またそういう心配が無くとも広闊《こうかつ》な出羽奥州に信任すべき一雄将をも置かずして、新付《しんぷ》の奥羽の大名等の誰にもせよに任かせておくことは出来ぬところである。これにおいて誰かしらしかるべき人物を会津の主将に据《す》えて、奥州出羽の押《おさ》えの大任、わけては伊達政宗をのさばり出さぬように、表はじっとりと扱《あつか》って事端を発させぬように、内々はごっつりと手強くアテテ屏息《へいそく》させるような、シッカリした者を必要とするのである。  このむずかしい場処の、むずかしい場合の、むずかしい役目を引受けさせられたのが鎮守府将軍|田原《たわら》藤太《とうだ》秀郷《ひでさと》の末孫《ばつそん》と云われ、江州《ごうしゆう》日野《ひの》の城主から起って、今は勢州|松坂《まつざか》に一方の将軍星として光を放っていた蒲生|忠三郎《たださぶろう》氏郷であった。  氏郷が会津の守護、奥州出羽の押えに任ぜられたについては面白い話が伝えられている。その話の一ツは最初に秀吉が細川越中守|忠興《ただおき》を会津守護にしようとしたところが、越中守忠興が固く辞退した、そこで飯鉢《おはち》は氏郷へ廻《まわ》った、ということである。細川忠興も立派な一将であるが、歌人をもって聞えた幽斎《ゆうさい》の後で、人物の誠実《せいじつ》温厚《おんこう》は余り有るけれど、不知案内の土地へ移って、気心の知りかねる政宗を向うへ廻して取組もうというにはいかがであった。もしその説が真実であるとすれば、忠興が固辞したということは、忠興の智慮《ちりよ》がなかなか深くて、よく己《おのれ》を知り彼を知っていたということを大《おおい》に揚《あ》げるべきで、忠興の人物をいちだんと立派にはするが、秀吉に取っては第一にはその眼力が心細く思われるのであり、第二に辞退されて、ああそうか、と済ませたことが下らなく思われるのである。で、この話は事実で有ったか知らぬが面白く無く思われる。  また今一つの話は、秀吉が会津を誰に托そうかというので、徳川家康と差向いで、互に二人ずつ候補者を紙札《しさつ》に書いておいてから、そして出して見た。ところが秀吉の札《ふだ》では一番には堀《ほり》久太郎《きゆうたろう》秀治《ひではる》、二番には蒲生忠三郎、家康の札では一番に蒲生忠三郎、二番に堀久太郎であった。そこで秀吉は、奥州は国侍《くにざむらい》の風がなかなか手強い、久太郎で無くては、と云うと、家康は、堀久太郎と奥州者とでは茶碗《ちやわん》と茶碗でござる、忠三郎で無くては、と云ったというのである。茶碗と茶碗とは、固いものと固いものとが衝突《しようとつ》すれば双方《そうほう》砕《くだ》けるばかりという意味であろう。で、秀吉が悟《さと》って家康の言を用いたのであるというのだ。この談《はなし》はよほどおもしろいが、この談が真実ならば、蟹《かに》では無いが家康は眼が高くて、秀吉は猿のように鼻が低くなる訳だ。堀久太郎は強いことは強いが、後に至って慶長の三年、越後の上杉景勝の国替《くにがえ》のあとへ四十五万石(あるいは七十万石)の大封《たいほう》を受けて入ったが、上杉に陰《かげ》で糸を牽《ひ》かれて起った一揆《いつき》のために大に手古摺《てこず》らされて困った不成績を示した男である。また氏郷は相縁《あいえん》奇縁というものであろう、秀吉に取っては主人筋である信長の婿《むこ》でありながら秀吉には甚だ忠誠であり、縁者として前田又左衛門利家との大《だい》の仲好しであったが、家康とは余り交情の親しいことも無かったのであり、政宗はかえって家康と馬が合ったようであるから、この談もちと受取りかねるのである。  今一ツの伝説は、秀吉が会津守護の人を選ぶについて諸将に入札《いれふだ》をさせた。ところが札を開けて見ると、細川越中守というのが最も多かった。すると秀吉は笑って、おれが天下を取るはずだわ、ここは蒲生忠三郎で無くてはならぬところだ、と云って氏郷を任命したというのだ。おれが天下を取るはずだわ、という意は人々の識力眼力より遥《はるか》に自分が優《まさ》っているという例の自慢である。この話に拠ると、会津に蒲生氏郷を置こうというのは最初から秀吉の肚裏《とり》に定まっていたことで、入札はただ諸将の眼力を秀吉が試みたということになるので、そこがちと訝《いぶ》かしい。往復ハガキで下らない質問の回答を種々の形の瓢箪《ひようたん》先生《せんせい》がたに求める雑誌屋の先祖のようなものに、千成瓢箪殿下が成下《なりさが》るところがいささか憫然《びんぜん》だ。いろいろの談のいずれが真実だか知らないが、要するに会津守護は当時の諸将の間の一問題で好談柄《こうだんべい》で有ったろうから、したがって種々の隠測談《おくそくばなし》や私製任命や議論やの話が転伝して残ったのかも知れないと思わざるを得ぬ。  何はあれ氏郷は会津守護を命ぜられた。ところが氏郷も一応は辞した。それでも是非|頼《たの》むという訳だったろう、そこで氏郷は条件を付けることにした。今の人なら何か自分に有利な条件を提出して要求するところだが、この時分の人だから自己利益を本として釣鉤《つりばり》の※[金偏に幾]《かかり》のようなイヤなものを出しはしなかった。ただ与《あた》えられた任務を立派に遂行《すいこう》し得るためにその便宜《べんぎ》を与えられることを許されるように、ということであった。それは奥羽鎮護の大任を全《まつと》うするに付けては剛勇の武士を手下に備えなければならぬ、ついては秀吉に対してかつて敵対行為を取ってその忌諱《きい》に触《ふ》れたために今にどの大名にも召抱《めしかか》えられること無くている浪人《ろうにん》共をも宥免《ゆうめん》あって、自分の旗の下に置くことを許容《きよよう》されたい、というのであった。まことにこの時代の事であるから、一能あるものでもかつて秀吉に鎗先《やりさき》を向けた者の浪人したのは、たとい召抱えたく思う者があっても関白への遠慮で召抱えかねたのであった。氏郷の申出は立派なものであった。秀吉たる者これを容《い》れぬことの有ろうはずは無い。敵対または勘当《かんどう》の者なりとも召抱《めしかかえ》扶持《ふち》等|随意《ずいい》たるべきことという許しは与えられた。小田原の城中に居た佐久間|久右衛門尉《きゆうえもんのじよう》は柴田勝家の甥《おい》であった。同じくその弟の源六は佐々《さつさ》成政《なりまさ》の養子で、二人いずれも秀吉を撃取《うちとり》にかかった猛将佐久間|玄蕃《げんば》の弟であったから、重々秀吉の悪《にく》しみは掛《かか》っていたのだこれ等の士は秀吉の敵たる者に扶持されぬ以上は、秀吉が威権を有している間はたとい器量が有っても世の埋木《うもれぎ》にならねばならぬ運命を負うていたのだ。まだその他にもこういう者はたくさん有ったのである。徳川家康に悪《にく》まれた水野三右衛門のごときもその一例だ。当時自己の臣下で自分に背《そむ》いた不埒な奴に対して、何々という奴は当家において差赦《さしゆる》し難き者でござると言明すると、どの家でもその者を召抱えない。もし召抱える大名が有ればその大名と前の主人とは弓箭沙汰になるのである。これは不義背徳の者に対する一種の制裁《せいさい》の律法であったのである。そこでこういう埋木に終るべき者を取入れて召抱える権利をこの機に乗じて秀吉から得たのは実に賢《かしこ》いことで、氏郷に取ってはその大《だい》を成すゆえんである。前に挙げた水野三右衛門のごときも徳川家から赦されて氏郷に属するに至り、佐久問久右衛門尉兄弟も氏郷に召抱えられ、その他同様の境界《きようがい》に沈淪《ちんりん》していた者共は、自然関東へ流れ来て、秀吉に敵対行為を取った小田原方に居たから、小田原没落《ぼつらく》を機として氏郷の招いだのに応じて、いわゆる戦場往来のおぼえの武士《つわもの》が吸寄せられたのであった。  氏郷が会津に封ぜられると同時に木村伊勢守の子の弥一右衛門は奥州の葛西大崎に封ぜられた。葛西大崎は今の仙台よりもなお奥の方であるが、政宗の手は既《すで》にその辺にまで伸《の》びていて、前年十一月に大崎の臣の湯山《ゆやま》隆信《たかのぶ》という者を引込んで、内々大崎氏を図《はか》らしめていたのである。秀吉が出て来さえしなけれは、無論大崎氏葛西氏は政宗の麾下《きか》に立つを余儀《よぎ》なくされるに至ったのであろう。この木村父子は小身でもあり、武勇もさほどでは無い者であったから、秀吉は氏郷に対して、木村をば子とも家来とも思って加護《かば》ってやれ、木村は氏郷を親とも主とも思って仰《あお》ぎ頼め、と命令し訓諭《くんゆ》した。これは氏郷に取っては旅行に足弱を托《かず》けられたようなもので、何事も無ければまだしも、何事か有った時には随分|厄介《やつかい》な事で迷惑《めいわく》千万である。が、致方《いたしかた》は無い、領承するよりほかは無かったが、果してこの木村父子から事起って氏郷は大変な目に会うに至っているのである。  氏郷はどんな男であったろう。田原藤太十世の孫の俊賢《としかた》が初めて江州蒲生郡を領したので蒲生と呼ばれた家の賢秀《かたひで》というものの子である。この蒲生郡を慶長《けいちよう》六年すなわち関《せき》ケ原《はら》の戦の済んだその翌年三月に至って家康は政宗に賜わっている。仲の悪かった氏郷の家の地を貰《もら》ったから、大きな地で無くても政宗にはちょっと好い心地であったろうが、既《すで》に早く病死していた氏郷に取っては泉下に厭《いや》な心持のしたことで有ろう。家康もまたちょっと変なことをする人である。氏郷の父の賢秀というのは、当時の日野|節《ぶし》の小歌に、陣とだに云えば下風《げふ》おこる、具足《ぐそく》を脱《ぬ》ぎやれ法衣《ころも》召せ、と歌われたと云われもしている。下風という言葉は余り聞かぬ言葉で、医語かとも思うが、医家で風というのはその義が甚だ多くて、頭風《とうふう》といえば頭痛《ずつう》、驚風《きようふう》といえば神経|疾患《しつかん》、中風《ちゆうふう》といえば脳溢血《のういつけつ》その他からの不仁《ふじん》の病《やまい》、痛風《つうふう》はリョウマチス、なお馬痺風《ばひふう》だの何だのと云うのもあって、病とか邪気とかいうのと同じ位の広い意味を有していて、また一般にただ風といえば気狂《きちがい》という意で、風僧《ふうそう》といえはすなわち気狂|坊主《ぼうず》である。中風の中は上中下の中では無いと思われるから下風とは関せぬ。これは仏経中の翻訳語《ほんやくご》で、甚だ拙《せつ》な言葉である。風はやはりただの風で、下風は身体《からだ》から風を泄《も》らすことである。鄙《いや》しい語にセツナ何とかいうのが有る、すなわちそれである。その人が心弱くて、戦争とさえ云えば下風おこる、とても武士にはなりきらぬ故に甲冑《かつちゆう》を脱ぎ捨てて法衣を被《き》よ、というのが一首の歌の意である。これが果して賢秀の上を嘲《あざけ》ったとならば、賢秀はしかたの無い人だが、またその子に忠三郎氏郷が出たものとすれば、氏郷はいよいよ偉《えら》いものだ。しかし蒲生家の者は、その歌は賢秀の上を云ったのでは無く、賢秀の小舅《こじゆうと》の後藤末子に宗禅院という山法師があって、山法師の事だから兵仗《へいじよう》にもたずさわった、その人の事だ、というのである。なるほどそうでなければ、法衣めせの一句が唐突《とうとつ》過ぎるし、また領主の事をそう酷《ひど》く嘲りもすまいし、かつまた賢秀は信長に「義の侍」と云われたということから考えても、賢秀の上を歌ったものではないらしい。但《ただ》し賢秀が怯《よわ》くても剛《つよ》くても、親父《おやじ》の善悪は忰《せがれ》の善悪には響《ひび》くことでは無い、親父は忰の手細工《てざいく》では無い。賢秀は佐々木の徒党であったが、佐々木|義賢《よしかた》が凡物で信長に逐落《おいおと》されたので、いったんは信長に対し死を決して敵となったが、縁者の神戸《かんべ》蔵人《くらんど》の言に従って信長に附《つ》いた。神戸蔵人は信長の子の三七《さんしち》信孝《のぶたか》の養父である。そこで子の鶴千代丸《つるちよまる》すなわち後年の氏郷は十三歳で信長のところへ遣《や》られた。云わば貿秀に異心無き証拠の人質《ひとじち》にされたのである。  信長は鶴千代丸を見るとなかなかの者だった。十三歳といえば尋常《じんじよう》中学へ入るか入らぬかの齡《とし》だが、沸《たぎ》り立っている世の中の児童だ、三太郎|甚六《じんろく》等のご機嫌取りの少年雑誌や、アメリカの牛飼《うしかい》馬飼めらの下らない喧嘩の活動写真を看《み》ながらアメチョコを嘗《な》めて育つお坊ちゃんとは訳が違う。その物ごし物言いにも、だんだんと自分を鍛《きた》い上げて行こうという立派な心の閃《ひらめ》きが見えたことであろう、信長は賢秀に対《むか》って、鶴千代丸が目つき凡ならず、ただ者では有るべからず、信長が婿《むこ》にせん、と云ったのである。これは賢秀の心を攬《と》るために云ったのでは無くその翌年鶴千代丸に元服をさせて、信長の弾正《だんじよう》ノ忠の忠の字に因《ちな》み、忠三郎|秀賦《ひでます》と名乗らせて、真にその言葉通り婿にしたのである。目つきはなるほどその人を語るが、信長が人相の術を知っていた訳では無い、十三歳の子供の目つきだけでは婿に取るとまでは惚れないだろうが、別にこういうことが伝えられている。それは鶴千代丸は人質の事ゆえ町野《まちの》左近《さこん》という者が附人《つきびと》として信長居城の岐阜《ぎふ》へ置かれた。ある時稲葉《いなば》一鉄《いつてつ》が来て信長と軍議に及んだ。一鉄は美濃《みの》三人衆の第一で、信長が浅井朝倉を取って押えるに付けては大功を立てている、大剛にして武略も有った一将だ。しかし信長に取っては外様《とざま》なので、後に至って信長がその将材を憚《はばか》って殺そうとした位だ。ところが茶室に懸《かか》っていた韓《かん》退之《たいし》の詩の句を需《もと》められるままに読みかつ講じたので、物陰でそれを聞いた信長が感じて殺さずにしまったのである。詩の句は劇的伝説をもって名高い雲横雪擁の一|聯《れん》で有ったと伝えられているが、坊主かえりの士とは云《い》え、戦乱の世においてこれを説くことが出来たと云えば修養のほども思うべき立派な文武の達人だ。この一鉄と信長とが、四方の経略、天下の仕置《しおき》を談論していた。夜は次第に更《ふ》けたが、談論は尽《つ》きぬ。もとより機密の談《はなし》だから雑輩は席に居《お》らぬ。燭《しよく》を剪《き》り扇《おうぎ》を揮《ふる》って論ずる物静かに奥深き室の夜はいよいよ更けて沈々となった。一鉄がフト気がついて見ると、信長の坐《ざ》をやや遠く離《はな》れて蒲生の小忰《こせがれ》が端然《たんぜん》と坐っていた。坐睡《いねむり》をせぬまでも、十三歳やそこらの小童《こわつぱ》だから、眼の皮をたるませて退屈しきっているべきはずだのに、耳を傾《かたむ》け魂を入れて聞いていた様子は、少くとも信長や.自分の談論が解《わか》って、そしてその上に興妹を有《も》っているのだ。さすがに武勇のみでない一鉄だから人を鑑識《かんしき》する道も知っている。ヤ、こりゃ偉《えら》い物だぞ、今の年歯でこうでは、と感歎《かんたん》して、畏《おそ》るべし、畏るべし、この児の行末は百万にも将たるに至ろう、と云ったという。随分|怜悧《りこう》な芸妓《げいしや》でも、いい加減に年を取った髯面野郎《ひげづらやろう》でも、相手にせずにそこへ坐らせておいて少し上品な談話でもしていると、大抵の者は自分は自分だけの胸の中で下らぬ事を考えているか坐睡《いねむ》りしたりするものである。鶴千代丸のこの事のあったのは、ただ者で無いことを語っている。一鉄の眼に入ったほどのものが、信長の胸に映らぬことは無い。おまけに信長は人を試みるのが嫌《きら》いでは無い男で、森|蘭丸《らんまる》の正直か不正直かを試みた位であるから、何ぞに附けて鶴千代丸を確《しか》と見定めるところがあって、そして吾が婿にと惚れ込んだのであろう。  鶴千代丸は信長一鉄の鑑識に負《そむ》かなかった。十四歳の八月の事である。信長が伊勢の国司の北畠《きたばたけ》と戦った時、鶴千代丸は初陣《ういじん》をした。蒲生家の覚えの勇士の結解《けつかい》十郎兵衛、種村《たねむら》伝左衛門という二人にも先んじて好い敵の首を取ったので、鶴千代丸に付置かれた二人は面目無いやら嬉《うれ》しいやらで舌を巻いた。信長も大感悦《だいかんえつ》で手ずから打鮑《うちあわび》を取って賜わったが、そこでいよいよその歳の冬十二になる女子を与えて岐阜で式を行い、その女子に乳人《めのと》加藤|次兵衛《じへえ》を添えて、十四と十二の夫婦を日野の城へと遣った。もはや人質では無く、京畿に威を振《ふる》った信長の縁者、小さくは有るが江州日野の城主の若君として世に立ったのである。  これよりして忠三郎は信長に従って各処の征戦に従事して功を立てており、信長が光秀に弑《しい》された時は、光秀から近江《おうみ》半国の利を啗《くら》わせて誘ったけれども節を守って屈せず、明智方を引受けて城に拠って戦わんとするに至った。それから後は秀吉の旗の下に就いてだんだんと武功を積んだが、特《こと》に九州攻めには、掘《ほり》秀政《ひでまさ》の攻めあぐんだ巌石《がんじやく》の城に熊井《くまい》越中守を攻め伏せて勇名を轟かした。今ここに氏郷の功績を注記したい意も無いから省略するが、かくて十余年の間に次第に大身《たいしん》になり、羽柴《はしば》の姓を賜わって飛騨守《ひだのかみ》氏郷といえば味方は頼もしく思い、敵は恐ろしく思う一方の雄将となってしまった。秀賦の名は秀吉と相《あい》犯《おか》すを忌《い》んて改めて氏郷としたのであって、先祖田原藤太秀郷の郷の字を取ったのである。天正の十六年、秀吉が聚楽《じゆらく》の第《だい》を造ったその年、氏郷は伊勢の四五百森《よいおのもり》へ城を築いて、これを松坂と呼んだ。前の居城松ケ島の松の字をめでたしとして用いたのである。当時|正四位下《しようしいのげ》左近衛少将《さこんえのしようしよう》に任官し、十八万|石《ごく》を領するに至った。  小田原陣の時、無論氏郷は兵を率いて出陣していて、割合《わりあい》に他の大名よりは戦に遇《あ》っており、戦功をあらわしている。それから関白が武威を奥羽に示すのに従属して、宇都宮から会津と附いて来たのであるが、今しも秀吉の鑑識をもって会津の城主、奥州出羽の押えということに定められたのである。  氏郷は法を執《と》ること厳峻《げんしゆん》な人で、極端に自分の命令の徹底的《てつていてき》ならんことをしかるべき事とした人である。もちろん乱れ立った世に在っては、一軍の主将として下知《げじ》の通りに物事の捗《はこ》ぶのを期するのは至当の訳で、さなくても軍隊の中においては下々の心任せなどが有ってはならぬものであるが、それでもおのずからに寛厳《かんげん》の異があり程度がある。郭《かく》子儀《しぎ》、李《り》光弼《こうひつ》はいずれも唐の名将であるが、陣営の中のさまは大《おおい》に違っていたことが伝えられている。氏郷は恐ろしく厳《きび》しい方で、小田原北条攻のために松坂を立った二月七日の事だ、一人の侍に蒲生重代の銀の鯰《なまず》の兜《かぶと》を持たせておいたところ、氏郷自身先陣より後陣まで見廻ったとき、ここに居よというところにその侍が居なかった。そこで氏郷が、きっとここに居よ、と注意を与えておいて、それから組々を見廻り終えて還った、よくよく取締めた所存の無かった侍と見えて、またもやここに居よと云付けたところに居なかった。すると氏郷は物も言わずに馬の上で太刀を抜くが否《いな》や、そっ首|丁《ちよう》と打落して、兜を別の男に持たせたので、士卒等これを見て舌を振《ふる》って驚《おどろ》き、一軍|粛然《しゆくぜん》としたということである。巌石の城を攻落した時に、上坂《かみさか》左文《さもん》、横山|喜内《きない》、本多|三弥《さんや》の三人が軍《いくさ》奉行《ぶぎよう》でありながら令を犯して進んで戦ったので厳しくこれを咎《とが》めたところ、上坂横山の二人は自分の高名《こうみよう》のためではなく、火を城に放とうと思うたのであると苦しい答弁をしたので免《ゆる》されたが、本多は云分立たずであったので勘当されてしまった。三弥は徳川家の譜代侍の本多佐渡正信の弟で、隠《かく》れ無い勇士であったがかくのごとくで、その他旗本から抜け出でて進み戦った岡左内、西村|左馬允《さまのすけ》、岡田|大介《だいすけ》、岡半七等、いずれも崛強《くつきよう》の者共で、その戦に功が有ったのだったが、皆令を犯した廉《かど》で暇《いとま》を出されて浪人するの已むを得ざるに至った。  氏郷はかくのごとく厳しい男だったが、他の一面にはまた人を遇《ぐう》するにズバリとした気持の好いところも有った人だった。必らずしも重箱の中へ羊羹《ようかん》をギチリと詰《つ》めるような、形式好き融通《ゆうずう》利《き》かずの偏屈者《へんくつもの》では無かった。前に挙げた関白その他に敵対行為を取って世の余され者になった強者共《つわものども》を召抱えたごときはその著しい例で、別にこういう妙味《みようみ》のある談《はなし》さえ伝わっている。それは氏郷が関白に従って征戦を上方《かみがた》やなんぞで励《はげ》んでいた頃、すなわち小田原陣前の事であろうが、ある時松倉|権助《ごんすけ》という士が蒲生家に仕官を望んだ。権助は筒井《つつい》順慶《じゆんけい》に仕えていたがどういう訳であったか臆病者と云われた。そこで筒井家を去ったのであるが、蒲生家へ扶持《ふち》を望むについてこういうことを云った。拙者は臆病者と云われた者でござる、但し臆病者も良将の下に用いらるる道がござらば御扶持を蒙《こうむ》りとうござる、と云ったのである。筒井家は順慶流だの洞《ほら》ケ峠《とうげ》だのという言葉を今に遺《のこ》している位で、余り武辺の芳《かん》ばしい家ではない。その家で臆病者と云われたのは虚実はとにかくに、これも芳ばしいことでは無い。ところが氏郷はその男を呼出して対面した上、召抱えた。自分から臆病者と名乗って出た正直なところを買ったのだろう、正直者には勇士が多い。臆病者が知遇に感じて強くなったか、多分は以前から臆病者なぞでは無かったのだろう、権助は合戦あるたびに好い働きをする。で氏郷はたちまち物頭《ものがしら》にして二千石を与えたというのである。後にこの男が打死《うちじに》したところ氏郷が自ら責めて、おれが悪かった、も少しユックリ取立ててやったらば強いて打死もせずにだんだん武功を積んだろうに、と云ったということだ。この話を咬《か》みしめてみると松倉権助もおもしろければ氏郷も面白い。  氏郷は法令厳峻である代りには自ら処することも一毫《いちごう》の緩怠《かんたい》も無い、徹底して武人の面目を保ち、徹底して武人の精神を揮《ふる》っている。いわゆる「たぎり切った人」である、ナマヌルな奴では無い。蒲生家に仕官を望んで新規《しんき》に召抱えられる侍があると、氏郷はこう云って教えたということである。当家の奉公はさして面倒な事は無い、ただ戦場という時に、銀の鯰の兜を被《かぶ》って油断なく働く武士があるが、その武士に愧《は》じぬように心掛けて働きさえすればそれでよい、と云ったという。もちろんこれはまだ小身《しようしん》であった時の事で有ろうが、訓諭も糸瓜《へちま》も入ったものではない、人を使うのはこれで無ければ嘘《うそ》だ。碌《ろく》な店も工場も持っていぬ奴が小やかましい説教沙汰ばかりを店員や職工に下して、おのれは坐蒲団《ざぶとん》の上で煙草《たばこ》をふかしながら好い事をしたがるごとき蝨《しらみ》ッたかりとは丸で段が違う。言うまでも無く銀の鯰の兜を被って働く者は氏郷なのである。こういう人だったから四位の少将、十八万石の大名となってからも、小田原陣の時は驚くべき危険に身を暴露《ばくろ》して手厳《てきび》しい戦をしている。それは氏郷の方から好んでしだしたことではないが、他の大将ならばあるいは遁逃的《とんとうてき》態度に出て、そして敵をしてその企図《きと》を多少なりとも成就《じようじゆ》するの利を得、味方をして損害を被《こうむ》るの勢を成さしめたであろうに、氏郷が勇敢に職責を厳守したので、敵は何の功をも立てることが出来なかった。これは五月三日の夜の事で、城中に居縮《いすく》んでばかりいては軍気は日々に衰《おとろ》えるばかりなゆえに、北条方にさる者有りと聞えた北条|氏房《うじふさ》が広沢重信をして夜討《ようち》を掛けさせた時と、七月二日に氏房がまた春日《かすが》左衛門尉《さえもんのじよう》をして夜討を掛けさせた時とである。五月三日の夜のは小田原勢がまだ勢の有った時なのでなかなか猛烈であったが、蒲生勢の奮戦《ふんせん》によってもちろん逐払《おいはら》った。しかしその時の闘《たたかい》はいかにもとっさに急激に敵が斫《きり》入《い》ったので、氏郷自身まで鎗《やり》を取って戦うに至ったが、事済んで営に帰ってから身内をばあらためて見ると、鎧《よろい》の胸板《むないた》掛算《けさん》に太刀※[やまいだれに比]《たちきず》鎗※[やまいだれに比]が四ケ処、例の銀の鯰の兜に矢の痕《あと》が二ツ、鎗の柄《え》には刀痕が五ケ処あったという。もって氏郷が危険を物の数ともせずして、自分の身を自分が置くべきとする処に置いた以上は一歩も半歩も退かぬ剛勇の人であることが窺《うかが》い知られる。つまり氏郷は他を律することも厳峻な代りに自ら律することも厳峻な人だったのである。  かくのごとき人は主人としては畏《おそ》ろしくもあれば頼もしくもある人で、敵としてはいわゆる手強い敵、味方としては堅城《けんじよう》鉄壁《てつぺき》のようなものである。しかしかくのごときの人には、ややもすれば我執《がしゆう》の強い、古い言葉で云えば「カタムクロ」の人が多いものだが、さすがに氏郷は器量が小さくない、サラリとした爽朗《そうろう》快活なところもあった人だ。かつて九州陣巌石の城攻《しろぜめ》の時に軍令に背《そむ》いて勘当された臣下の者共が、氏郷と交情の好かった細川越中守忠興を頼んで詫言《わびごと》をしてもらって、また新《あらた》に召抱えられることになった。その中に西村左馬允という者があって、大の男の大力《だいりき》の上に相撲《すもう》は特更《ことさら》上手《じようず》の者であった。その男が勘当を赦《ゆる》されて新に召還《めしかえ》されたばかりの次の日出仕すると、左馬允、汝《なんじ》は大力相撲上手よナ、さあ一番来い、おれに勝てるか、といって氏郷が相撲を挑《いど》んだ。氏郷ももとより非力の相撲《すもう》弱《よわ》では無かったのであろう。左馬允は弱った。勘気を赦されて帰り新参になったばかりなので、主人を叩《たた》きつけて主人が好い心持のするはずは無いから、当惑《とうわく》するのに無理は無い。しかし主命である、挑まれて相手にならぬ訳には行かぬから、心得ましたと引組《ひつく》んで捻合《ねじあ》った。勝てば怒《おこ》られる、わざと負けるのは軽薄《けいはく》でもあり心外でもある、と惑《まど》わぬことは無かったろうが、そこは人の魂の沸り立っている代である、左馬允は思い切って大力を出してとうとう氏郷を捻倒した。そこで、ヤア左馬允、汝は強い、と主人に笑ってもらえれば上首尾《じようしゆび》なのだが、そうは行かなかった。忠三郎氏郷ウンと緊張《きんちよう》した顔つきになって、無念である、サアもう一度来い、と力足《ちからあし》を踏んで眼《まな》ざし鋭《するど》く再闘《さいとう》を挑んだ。観《み》ているものは気の毒で堪《たま》らない、オヤオヤ左馬允め、負ければ無事だろうが、勝った段にはもともと勘気《かんき》を蒙った奴である、手討《てうち》になるか何か知れた者では無いと危《あや》ぶんだ。左馬允もこうなっては是非が無い、ここで負けてはたとい過《あや》まって負けたにしても軽薄者|表裏者《ひようりもの》になると思ったから、油断なく一生懸命に捻合った。双方死力を出して争った末、とうとう左馬允は氏郷を遣付《やりつ》けた。その時はじめて氏郷は莞爾《かんじ》と笑って、好い奴だ、汝はこのおれによう勝ったぞ、と褒美《ほうび》して、その翌日|知行米《ちぎようまい》加増《かぞう》を出したという。この談の最初一度負けたところで、褒詞《ほめことば》を左馬允に与えて済ます位のところなら、少し腹の大きい者には出来ることだが、二度目の取ッ組合をしたところがちょっと面白い。氏郷の肚《はら》は闊《ひろ》いばかりでなく、奥深いところがあった。  こういう性格で、手厳しくもあり、打開けたところもあり、そしてその能《のう》は勇武もあり、機略もあった人だが、その上に氏郷は文雅《ぶんが》を喜び、趣味《しゆみ》の発達した人であった。矢叫《やたけ》び鬨《とき》の声の世の中でも放火殺人専門の野蛮《やばん》な者では無かった。机に※[憑の心が几]《よ》りて静坐《せいざ》して書籍《しよせき》に親んだ人であった。足利以来の乱世でも三好|実休《じつきゆう》や太田|道灌《どうかん》や細川幽斎は云うに及ばず、明智光秀も豊臣秀吉も武田信玄も上杉謙信も、前に挙げた稲葉一鉄も伊達政宗も、皆文学に志を寄せたもので、要するに文武両道に達するものが良将名将の資格とされていた時代の信仰にも因《よ》ったろうが、そればかりでも無く、人間の本然《ほんねん》を欺《あざむ》き掩《おお》うべからざるところから、優等資質を有している者が文雅を好尚《こうしよう》するのはおのずからなることでも有ったろう。今川や大内などのように文に傾《かたむ》き過ぎて弱くなったのもあるが、大将たるほどの者は大抵《たいてい》文道に心を寄せていて、相応の造詣《ぞうけい》を有していた。我儘《わがまま》な太閤|殿下《でんか》は「奥山に紅葉《もみじ》踏《ふ》み分け鳴く蛍《ほたる》」などという句を詠《えい》じて、細川幽斎に「しかとは見えぬ森のともし火」と苦しみながら唸《うね》り出させたという笑話を遺《のこ》しているが、それでも聚楽第に行幸《ぎようこう》を仰いだ時など、代作か知らぬが真面目《まじめ》くさって月並《つきなみ》調《ちよう》の和歌を詠じている。政宗の「ささずとも誰かは越えん逢坂《おうさか》の関の戸|埋《うず》む夜半《よわ》の白雪」などは関路ノ雪という題詠の歌では有ろうか知らぬが、どうしてなかなか素人《しろうと》では無い。「四十年前少壮ノ時、功名イササカマタ自《みず》カラヒソカニ期ス、老来不レ[#「レ」は返り点]識|干戈《かんか》ノ事、只|把《と》ル春風|桃李《とうり》ノ巵《さかずき》」なぞと太平の世の好いお爺《じい》さんになってニコニコしながら、それでいて支倉《はせくら》六右衛門、松本忠作等を南蛮から羅馬《ローマ》かけて遣っているところなどは、味なところのある好い男ぶりだ。その政宗監視の役に当った氏郷は、文事に掛けても政宗に負けてはいなかった。後に至って政宗方との領分争いに、安達《あだち》ヶ原《はら》は蒲生領でも川向うの黒塚《くろづか》というところは伊達領だと云うことであった時、平|兼盛《かねもり》の「陸奥《みちのく》の安達か原の黒塚に鬼《おに》寵《こも》れりというはまことか」という歌があるから安達が原に附属した黒塚であると云った氏郷の言に理が有ると認められて、蒲生方が勝になったという談は面白い公事《くじ》として名高い談である。その逸話《いつわ》は措《お》いて、氏郷が天正二十年すなわち文禄《ぶんろく》元年|朝鮮《ちようせん》陣の起った時、会津から京まで上って行った折の紀行をものしたものは今に遺っている。文段歌章、当時の武将のものとしてはその才学を称すべきものである。辞世の歌の「限りあれば吹《ふ》かねど花は散るものを心短き春の山風」の一章は誰しも感歎するが実に幽婉《ゆうえん》雅麗《がれい》で、時や祐《たす》けず、天吾を亡《うしな》う、英雄|志《こころざし》を抱いて黄泉《よみ》に入る悲涼《ひりよう》愴凄《そうせい》の威をいかにも美《うる》わしく詠じ出したもので、三百年後の人をしてなお涙珠《るいじゆ》を弾《だん》ぜしむるに足るものだ。そればかりでは無い、政宗も底倉幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千ノ利休を師として茶事《さじ》を学んで、秀吉をして「辺鄙《ひな》の都人」だと嘆賞させたが、氏郷は早くより茶道を愛して、しかも利休門下の高足《こうそく》であった。氏郷と仲の好かった細川忠興は、茶庭の路次《ろじ》の植込《うえこみ》に槙《まき》の樹《き》などは面白いが、まだ立派すぎる、と云ったというほどに佗《わび》の趣味に徹した人だが、氏郷も幽閑《ゆうかん》清寂《せいじやく》の茶旨《ちやし》には十分に徹した人であった。利休が心ひそかに自ら可なりとしていた茶入《ちやいれ》を氏郷も目が高いので切《しき》りに賞美してこれを懇望《こんもう》し、ついに利休をしてそれを与うるを余儀無くせしめたという談も伝えられている。また氏郷がある時に古い古い油を運ぶ竹筒《たけづつ》を見て、その器を面白いと感じ、それを花生《はないけ》にして水仙《すいせん》の花を生け、これも当時風雅をもって鳴っていた古田《ふるた》織部《おりべ》に与えたという談が伝わっている。織部は今に織部流の茶道をも花道をも織部好みの建築や器物の意匠《いしよう》をも遺している人で、利休に雁行《がんこう》すべき侘道《わびどう》の大宗匠《おおそうしよう》であり、利休より一段簡略な、侘に徹した人である。氏郷のその花生の形は普通に「舟」という竹の釣花生《つりはないけ》に似たものであるが、舟とは少し異ったところがあるので、今にその形を模《も》した花生を舟とは云わずに、「油さし」とも「油筒」とも云うのは最初の因縁《いんねん》から起って来ているのである。古い油筒を花生にするなんというのは、もう風流において普通を超えて宗匠分になっていなくては出来ぬ作略《さりやく》で、宗匠の指図や道具星の入れ智慧を受取っている分際《ぶんざい》の茶人の事では無い。かの山科《やましな》の丿貫《べちかん》という大《だい》の侘茶人が糊《のり》を入れた竹器に朝顔の花を生けて紹鴎《じようおう》の賞美を受け、「糊つぼ」という一器の形を遺したと共に、作略|無礙《むげ》の境界《きようがい》に入っている風雅の骨髄《こつずい》を語っているものである。天下指折りの大名で居ながら古油筒のおもしろみを見付けるところは嬉《うれ》しい。山県《やまがた》含雪《がんせつ》公《こう》は、茶の湯は道具沙汰に囚《とら》われるというので半途《はんと》から余り好まれぬようになったと聞いたが、時に利休も無く織部も無かったためでも有ろうけれど、氏郷がわびの趣味を解して油筒を花器に使うまで踏込《ふんご》んでいたのは利休の教を受けた故ばかりではあるまい、たしかに料簡《りようけん》の据《す》えどころを合点して何にも徹底することの出来る人だったからであろう。しかも油筒ごとき微物を取上げるほどの細かい人かと思えば、細川越中守が不覚に氏郷所有の佐々木の鐙《あぶみ》を所望した時には、それが蒲生重代の重器で有ったに拘《かかわ》らず、また家臣の亘利《わたり》八右衛門という者が、ご許諾《きよだく》なされた上は致方なけれどもご当家重代の物ゆえに、ただ模品《うつし》をこしらえてお遣わしなされまし、と云ったほどにも拘らず、天下に一ツの鐙故他に知る者は有るまいけれど、模品《うつし》を遣わすなどとは吾が心が恥《はず》かしい、と云って真物《ほんもの》を与えた。そこで忠興も後に吾が所望したことが不覚《そぞろ》であったことを悟って、返そうとしたところが、氏郷は、いったん差上げたものなればご遠慮には及ばぬ、と受取らなかった。忠興も好い人だから、氏郷の死後にその子|秀行《ひでゆき》へとうとう返戻《へんれい》したという談がある。竹の油筒を掘《ほ》り出して賞美するかと思えば、ケチでは無い人だ、家重代の者をも惜気《おしげ》無く親友の所望には任せる。なかなか面白い心の行きかたを有《も》った人だった。  さて話は前へ戻る。かくのごとき忠三郎氏郷は秀吉に見立てられて会津の主人となった。当時氏郷は何万石取っていたか分明でないが、松坂に居た天正十六年は十六万石もしくは十八万石であったというから、その後は大戦も無く大功も立つ訳が無いから、大抵十八万石か少しそれ以上ぐらいで有ったろう。しかるに小田原陣の手柄が有って後に会津に籠めらるるについては、大沼、河沼、稲川、耶摩《やま》、猪苗代《いなわしろ》、南の山以上六郡、越後の内で小川の庄、仙道には白河、石川、岩瀬、安積《あさか》、安達、二本松以上六郡、都合十二郡一庄で、四十二万石に封《ほう》ぜられたのだ。十八万石ほどから一足飛《いつそくとび》に四十二万石の大封を賜わったのだから、たとい大役を引受けさせられたとは云え、奥州出羽の押えという名誉を背負い、目覚ましい加禄《かろく》を得たので、家臣連の悦《よろこ》んだろうことは察するに余りある。これは八月十七日の事と云われている。  ちょうど仲秋の十六夜の後一日である。秋は早い奥州の会津の城内、氏郷は独《ひと》り書院の柱に倚《よ》って物を思っていた。天は高く晴れ渡って碧落《へきらく》に雲無く、露《つゆ》けき庭の面《おもて》の樹《き》も草もしっとりとして、おもむきの有る夜の静かさに虫の声々すずしく、水にも石にも月の光りが清く流れて白く、風流に心あるものの幽懐《ゆうかい》も動くベき折柄の光景だった。北越の猛将上杉謙信が「数行ノ過雁月三更」と能登《のと》の国を切従えた時|吟《ぎん》じたのも、霜《しも》は陣営に満ちて秋気清きちょうどこういう夜であった。三国の代の英雄の曹《そう》孟徳《もうとく》が、百万の大軍を率いて呉《ご》の国を呑滅《どんめつ》しようとしつつ、「月明らかに星|稀《まれ》にして、烏鵲《うじやく》南《みんなみ》に飛ぶ」と槊《さく》を馬上に横たえて詩を賦《ふ》したのもちょうどこういう夜であった。江州日野五千石ばかりから取上って、今は日本無双《ぶそう》の大国たる出羽奥州、藤原の秀衡《ひでひら》や清原武衡の故地に踏みしかって、四十二万石の大禄を領するに至った氏郷がただ凝然《ぎようぜん》と黙々《もくもく》としている。侍座《じざ》していたのは山崎家勝というものだった。いかに深沈《しんちん》な人とは云え、かかるめでたき折に当って何か考えに沈んでいる主人の様子を、訝《いぶか》しく思ってひそかに注意した。するとこれはまた何事であろう、やがて氏郷の眼からはハラハラと涙《なみだ》がこばれた。家勝は直ちに看《み》て取って怪《あやし》んだ。が、たちまちにして思った、これは感喜の涙であろうと。蟹《かに》は甲《こうら》に似せて穴《あな》を掘る。しかたの無いもので、九尺《くしやく》梯子《ばしご》は九尺しか届かぬ、自分の料簡がその辺だから家勝にはその辺だけしか考えられなかった。しかしそれにしてはどうも様子が腑《ふ》に落ちかねたから、恐る恐る進んで、恐れながら我が君にはご落涙《らくるい》遊ばされたと見受け奉《たてまつ》ってござるが、殿下の取分けてのご懇命、会津四十二万石の大禄を被《かず》けられたまいし御感《ぎよかん》のおん涙にばしおわすか、と聞いてみた。自分が氏郷であれば無論嬉し涙をこぼしたことであろうからである。すると氏郷はちょっと嘆息して、ア、そのようなことに思われたか、我《われ》羞《はず》かしい、と云ったが、いちだんと声を落してほとんど独語のように、そうでは無い山崎、我たとい微禄小身なりとも都近くにあらば、何ぞの折にはいかようなる働きをも為し得て、旗を天下に吹《ふき》靡《なび》かすことも成ろうに、大禄を今受けたりとは申せ、山川|遥《はるか》に隔《へだ》たりて、王城を霞《かずみ》の日に出でても秋の風に袂《たもと》を吹かるる、白川の関の奥なる奥州出羽の辺鄙《ひな》に在りては、日頃の本望も遂げむことは難《かた》く、我が鎗《やり》も太刀も草叢《くさむら》に埋もるるばかり、それが無念さの不覚《そぞろ》の涙じゃわ、今日より後は奥州の押え、贈《ぞう》太政大臣《だいじようだいじん》信長の婿たるこの忠三郎がよし無き田舎《いなか》武士《ざむらい》の我武者《がむしや》共をも、事と品によりては相手にせねばならぬ、おもしろからぬ運命に立至ったが忌々《いまいま》しい、と胸中の鬱《うつ》をしめやかに洩《も》らした。無論家勝もこれを聞いて解《わか》った。なるほど我が主人は信長公の婿だ、今にわかに関白に楯突《たてつ》こうようはあるまいが、云わば秀吉は家来筋だ、秀吉に何事か有らば吾が主人が手を天下に掛けようとしたとて不思議は無い、男たる者の当り前だ、と悟るに付けてかような草深い田舎に身柄と云い器量と云い天晴《あつぱれ》立派な主人が埋められかかったのを思うと、凄然《せいぜん》惻然《そくぜん》として家勝も悲壮《ひそう》の感に打たれない訳には行かなかったろう。主人の感慨、家臣の感慨、粛《しゆく》として秋の気は坐前坐後に満ちたが、月は何知らず冷やかに照っていた。  氏郷が会津四十二万石を受けて悦ばずに落涙したというのは何という味のある話だろう。鼻糞《はなくそ》ほどのボーナスを貰《もら》ってカフェーヘ駈込《かけこ》んだり、高等官になったとて嚊殿《かかあどの》に誇るような極楽蜻蛉《とんぼ》、菜畠《なばたけ》蝶々《ちようちよう》に比べては、罪が深い、無邪気で無いには違い無いが、氏郷の感慨の涙もさすがに氏郷の涙だと云いたい。それだけに生れついているものは生れついてるだけの情懐が有る。韓信が絳灌《こうかん》樊※[くちへんに會]《はんかい》の輩と伍《ご》を為すを羞《は》じたのは韓信に取ってはどうすることも出来ないことなのだ。樊※[くちへんに會]だって立派な将軍だが、「生きてすなわち※[くちへんに會]等と伍を為す」としかたが無しの苦笑をした韓信の笑には涙が催《もよお》される。氏郷の書院柱に靠《よ》りかかって月に泣いたこの涙には片頬《かたほ》の笑《えみ》が催されるではないか。さすがに好い男ぶりだ。蜻蛉蝶々やきりぎりすの手合の、免職《めんしよく》されたア、失恋したアなどという眼から出る酸《す》ッぱい青臭《あおくさ》い涙じゃ無い。忠三郎の米の飯は四十二万石、後には百万石も有り、女房《にようぼう》は信長の女《むすめ》で好い器量で、氏郷死後に秀吉に挑《いど》まれたが位牌《いはい》に操《みさお》を立てて尼《あま》になってしまったほど、忠三郎さんを大事にしていたのだった。  天下の見懲《みこ》らしに北条を遣りつけてから、その勢の刷毛《はけ》ついでに武威を奥州に示して一《ひ》卜撫《な》でに撫でた上に氏郷という強い者を押えにして、秀吉は京へ帰った。奥州出羽は裏面ではモヤモヤムクムクしていてもまず治まった。ところがおさまらぬのは伊達政宗だ。せっかく啣えた大きな鴨《かも》をこれから※[くちへんに敢]《く》おうとして涎《よだれ》まで出したところを取上げられてしまった犬のような位置に立たせられたのである。関白はじめ諸大将等が帰ってしまってみると何とかしたい。何とかする段には仕方はいくらでもある。仕方が無ければ手も引込めているのだが、仕方が有るから手が出したくなる。しかし氏郷という重石《おもいし》はかなり重そうである。氏郷は白河をば関《せき》右兵衛尉《うひようえのじよう》、須賀川をば田丸《たまる》中務少輔《なかつかさしようゆう》、阿子《あこ》が嶋《しま》をば蒲生源左衛門、大槻《おおつき》を蒲生忠右衛門、猪苗代《いなわしろ》を蒲生四郎兵衛、南山《みなみやま》を小倉|孫作《まごさく》、伊南《いなみ》を蒲生左文、塩川を蒲生喜内、津川を北川平左衛門に与えて、武威も強く政治も届く様子だから、政宗も迂闊《うかつ》に手を掛ける訳にはゆかぬ。こうなると暴風雨は弱い塀《へい》に崇《たた》る道理で、魔の手は蒲生へ向うよりは葛西大崎の新領主となった木村伊勢守父子の方へ向って伸《の》ばされ出した。木村父子は武辺もさほどでは無く、小勢《こぜい》でもある。伊勢父子がドジを踏んでマゴマゴすれば蒲生はこれを捨てておく訳にはゆかぬ、伊勢父子の居る地方と蒲生の会津とはその間遥に距《へだた》っているけれども必ず見継《みつ》ぐだろう。蒲生が会津を離れて動き出せば長途の出陣、不知案内の土地、臨機《りんき》応変《おうへん》の仕方は何ほども有ろう、木村蒲生に味噌《みそ》を附けさせれば好運は自然にこなたへ転げ込んで来る理合《りあい》だ、というような料簡はおのずから存したことであろう。政宗方の史伝に何もこういう計画をしたという事が遺っているのでは無いが、前後の事情を考え計と、邪推《じやすい》かは知らぬがこう思える節が有るのである。また木村父子は実際小身で無能で有ったから、今度葛西大崎を賜わったについては人手が足らぬから急に浪人共を召抱えたに違い無く、浪人共を召抱えても法度《はっと》厳正にこれを取締《とりしま》れば差支無いが、元来|地盤《じばん》が固く無い処へ安普請《やすぶしん》をしたように、規模《きぼ》が立たんで家風家法が確立していないところへ、世に余され者の浪人共を無鑑識に抱え込んだのでは、いずれおとなしく無いところが有るから浪人するにも至った者共が、ナニこの奥州の田舎者《いなかもの》めと侮《あなど》って不道理を働くことも有勝《ありがち》なことで、そうなればさなきだに他国者の天降《あまくだ》り武士を憎んでいる地侍《じざむらい》の怒《おこ》り出すのもまた有り内の情状であるから、そこで一揆も起るべき可能性が多かったのである。戦乱の世というものはいつもその下とその上と和睦《わぼく》し難いような事情が起ると、第三者がひそかにその下に助力してその主権者を逐落《おいおと》し、そしてその土地の主人となってしまうのである。あるいは特《こと》に利を啗《くら》わせてその下をしてその上に負《そむ》かせて我に意《こころ》を寄せしめおいて、そして表面は他の口実をもって襲《おそ》ってこれを取るのであるし、下たるものもまたかくのごとくにして自己の地位や所得を盛上《もりあ》げて行くのである。ひそかに心を寄せるのが「内通」であり、利を啗わせて事を発《おこ》させるのが「嘱賂《そくろ》を飼《か》う」のであり、まだ表面には何の事も無くても他領他国へ対して計略を廻《めぐ》らすのが「陰謀《いんぼう》」である。たとえば伊達政宗が会津を取った時、いったんは降参した横田氏勝のごときは、降参してみると所領を余り削減《さくげん》されたので政宗を恨《うら》んだ。そこで政宗から会津を取返したくて使を石田三成へ遣《つか》わしたりなんぞしている。そういう理屈だから、秀吉の方へ政宗が小田原へ出《で》渋《しぶ》った腹の底でも何でも知れてしまうのである。かくのごときことは甲《こう》にも乙《おつ》にも上《かみ》にも下《しも》にも互に有ることで、戦乱の世の月並で稀《めず》らしい事では無い。小田原は松田|尾張《おわり》、大道寺《だいどうじ》駿河《するが》等の逆心から関白方に亡ぼされたのであり、会津は盧名の四天王と云われた平田松本|佐瀬《させ》富田等が心変りしたから政宗に取られたのである。政宗は前に云った通り、まだ秀吉に帰服せぬ前に、木村父子が今度拝領した大崎を取ろうと思って、大崎の臣下たる湯山隆信を吾に内通させて氏家《うじいえ》吉継《よしつぐ》と与《とも》に大崎を図らせていたのである。そういう訳なのであるから、大崎の一揆の中にその湯山隆信等が居たかどうだかは分らぬが、少くとも大崎領に政宗の電話が開通していたことは疑無い。サア木村父子が新来無恩の天降り武士で多少の秕政《ひせい》が有ったのだろうから、土着の武士達が一揆を起すに至って、その一揆はなかなか手広くまた手強かった。木村伊勢守が成合《なりあい》平左衛門を入れておいた佐沼城《さぬまじよう》を一揆は取囲んだ。佐沼は仙台よりはまだずっと奥で、今の青森線の新田駅《につたえき》あるいはせみね駅あたりから東へ入ったところであり、海岸へ出て気仙《けせん》の方へ行く路にあたる。伊勢守父子は成合を救わずにはいられないから、伊勢守吉清は葛西の豊間《とよま》城、すなわち今の登米郡《とめぐん》の登米《とよま》という北上川|沿岸《えんがん》の地から出張し、子の弥一右衛門清久は大崎の古河《ふるかわ》城、今の小牛田《こごた》駅より西北の地から出張して、佐沼の城の後詰《ごづめ》を議したところ、一揆の方はあらかじめ作戦計画を立てていたものと見えて、不在になった豊間と古河の両城をソレ乗取《のつと》れというのでたちまち攻《せめ》陥《おと》してしまった。佐沼は豊間よりは西北、古河よりは東に当るが、豊間と古河との距離《きより》は直接にすればさのみ距《へだた》っておらぬとは云え、さほどに近い訳でも無いのに、かくのごとく手際よく木村父子が樹に離れた猿か水を失った鮒《ふな》のように本拠《ほんきよ》を奪《うば》われたところを見ると、一揆の方には十分の準備が有り統一が保てていて、思う壷《つぼ》へ陥《おとしい》れたものと見える。ナマヌル魂の木村父子は旅《りよ》の卦《け》の文にいわゆる鳥その巣を焚《や》かれた旅烏《たびがらす》、バカアバカアと自ら鳴くよりほか無くて、何共《なんとも》せん方《かた》ないから、自分が援助するつもりで来た成合平左衛門にかえって援けられる形となって、佐沼の城へ父子共|立寵《たてこも》ることになった。  西を向いても東を向いても親類縁者が有るでも無い新領地での苦境に陥っては、二人はかねての秀吉の言葉に依って、会津の蒲生氏郷とは随分の遠距離だがその来援を乞《こ》うよりほか無かった。一体余り器量も無い小身の木村父子を急に引立てて、葛西、大西、胆沢《いさわ》を与えたのはちと過分であった。どうも秀吉の料簡が分らない。木村父子の材能が見抜けぬ秀吉でも無く、新領主と地侍とがどんなイキサツを生じ易いものだということを合点せぬ秀吉でも無い。いったん自分に対して深刻の敵意を挟《さしはさ》んだ狠戻《こんれい》豪黠《ごうかつ》の佐々成政を熊本に封じたのは、成政が無異で有り得れば九州の土豪等に対して成政は我が藩屏《はんぺい》となるので有り、また成政がドジを踏めば成政を自滅《じめつ》させてしまうに足りるというので、ついに成政はその馬鹿《ばか》暴《あら》い性格の欠陥《けつかん》により一揆の蜂起《ほうき》を致して大ドジを演じたから、立花、黒田等諸将に命じて一揆をも討滅《とうめつ》すれば成政をも罪に問うてしまった。木村父子は何も越中|立山《たてやま》から日本アルプスを越えて徳川家康と秀吉を挟撃《きようげき》する相談せした内蔵介《くらのすけ》成政ほどの鼬《いたち》花火《はなび》のような物狂わしい火炎魂を有《も》った男でも無いし、それを飛《とび》離《はな》れた奥地に置いた訳はちょっと解《げ》しかねる。事によるとこれは羊をもって狼《おおかみ》を誘《さそ》うの謀《はかりごと》で、このような弱武者の木村父子を活餌《いきえ》にして隣《となり》の政宗を誘い、政宗が食いついたらばこん畜生《ちくしよう》めと殺してしまおうし、またどこまでも殊勝気《しゆしようげ》に狼が法衣《ころも》を着とおすならば物のわかる狼だからそのままにしておいてよい、というので、何の事は無い木村父子は狼の窟《いわや》の傍《そば》に遊ばせておかれる羊の役目を云い付かったのかも知れない。筋書《すじがき》がもしそうならば木村父子は余り好い役では無いのだった。また氏郷に対して木村父子を子とも家来とも思えと云い、木村父子に対して氏郷を親とも主とも思えと秀吉のくれぐれも訓諭《くんゆ》したのは、善意に解すれば氏郷を羊の番人にしたのに過ぎないが、人を悪く考えれば、羊が狼に食い殺された場合は番人には切腹させ、番人と狼と格闘《かくとう》して狼が死ねば珍重珍重、番人が死んだ場合には大概《たいがい》草臥《くたび》れた狼を撲《ぶ》ちのめすだけの事、狼と番人とが四ッに組んで捻合《ねじあ》っていたら危気《あぶなげ》無しに背面から狼を胴《どう》斬《ぎ》りにしてしまう分の事、という四本の鬮《くじ》のどれが出ても差支《さしつかえ》無《な》しという涼《すず》しい料簡《りようけん》で、それで木村父子と氏郷とを鎖《くさり》で縛《しば》って膠《にかわ》で貼《つ》けたようにしたのかも知れない。してみれば秀吉はよいけれど、氏郷は巨額の年俸《ねんぽう》を与えられたとは云えごくごく短期の間にその年俸を受取れるかどうか分らぬ危険に遭遇《そうぐう》すべき地に置かれたのだ。番人に対しての関白の愛は厚いか薄いか、マア薄いらしい。会津拝領は八月中旬の事で、もうその歳の十月の二十三日には羊の木村父子は安穏《あんのん》に草を※[くちへんに敢]《は》んではいられなくなって、跳《は》ねたり鳴いたり大《おお》苦《くるし》みをし始めたのであった。一体《いつたい》氏郷は父の賢秀の義に固いところを受けたのでもあろうか、利を見て義を忘れるようなことは毫《ごう》もあえてしておらぬ、この時代においては律義《りちぎ》な人である。また佐々成政のような偏倚《へんき》性格を有《も》った男でも無かった。だから成政を忌《い》むように秀吉から忌まれるべきでも無かった。が、氏郷を会津に置いて葛西大崎の木村父子と結び付けたのは、氏郷に対してもし温かい情が有ったとすれば、秀吉の仕方はいささか無理だった。葛西大崎と会津との距離《きより》は余り懸隔《けんかく》している、その間に今一人ぐらい誰かを置いて連絡を取らせてもよいはずと思われる。温かでは無くて、冷たいものであったとすれば、あの通りでちょうどよいであろう。氏郷が秀吉に心ひそかに冷やかに思われたとすれば、それは氏郷が秀吉の主人信長の婿で有ったことと、最初は小身であったが次第次第に武功を積んで人品|骨柄《こつがら》のなかなか立派であることが世に認めらるるに至ったためとで、他にこれということも見当らぬ。しかし小田原征伐出陣の時に、氏郷が画師《えし》に命じて、白綾《しらあや》の小袖《こそで》に、左の手には扇《おうぎ》、右の手には楊枝《ようじ》を持ったる有りのままの姿を写させ、打死せば忘れ形見にも成るべし、と云い、奉行町野|左近将監《さこんしようげん》繁仍《しげより》の妻で、もと鶴千代丸の時の乳母《うば》だった者に、この絵は誰に似たるぞ、と笑って示したので、左近が妻は、忌々しきことをせさせたもう君かな、おん年も若うおわしながら何のためにかかる事を、と泣いたという談《はなし》が伝わっている。戦の度ごとに戦死と覚悟《かくご》してかかるのが覚悟有る武士というものでは有るが、ちょっとおかしい、氏郷の心中奥深きところに何か有ったのではないかと思われぬでもないが、またさほどに深く解釈せずとも済む。秀吉が姿絵《すがたえ》を氏郷の造らせたということを聞いて感涙《かんるい》を堕《おと》したというのも、何だかちょっと考えどころの有るようだが、全くの感涙とも思われる。すべてにおいて想察の纏《まと》まるような材料は無い。秀吉が憎んだ佐々成政の三蓋笠《さんがいがさ》の馬幟《うまじるし》を氏郷が請《こ》うて、熊《くま》の棒《ぼう》という棒鞘《ぼうざや》に熊の皮を巻《まき》付《つ》けたものに替《か》えたのは、熊の棒が見だてが無かったからと、かつは驍勇《ぎようゆう》の名を轟《とどろ》かした成政の用いたものを誰も憚《はばか》って用いなかったからとで有ったろうが、秀吉に取って面白い感じを与えたかどうか、有らずもがなの事だった。しかしもちろんそんな些事《さじ》を歯牙《しが》に掛ける秀吉では無い。秀吉が氏郷を遇《ぐう》するに別に何も有った訳では無い、ただ特《こと》にこれを愛するというまでに至っておらずにいささか冷やかであったというまでである。細川忠興が会津の鎮守を辞退したというのは信じ難い談《はなし》だが、忠興が別に咎立《とがめだて》もされずこの難い役を辞したとすれば、忠興はなかなか手際《てぎわ》の好い利口者である。  氏郷が政宗の後の会津を引受けさせられたと同じように、織田|信雄《のぶかつ》は小田原陣の済んだ時に秀吉から徳川家康の後の駿《すん》遠《えん》参《さん》に封ぜられた。ところが信雄はこの国替《くにがえ》を悦《よろこ》ばなくて、強《し》いて秀吉の意に※[にんべんに午]《さから》った。そこで秀吉は腹を立てて、貴様は元来国を治め民を牧《やしな》う器量が有る訳では無いが、故信長公の後なればこそ封地を贈《おく》ったのに、我儘《わがまま》に任せて吾が言を用いぬとは己を知らぬにも程がある、というので那賀《なか》二万石にしてしまった。信雄は元来立派な父の子でありながら器量が乏《とぼ》しく、自分のために秀吉家康の小牧山《こまきやま》の合戦《かつせん》をも起させるに至ったに関《かか》わらず、秀吉に致されて直《じか》に和睦《わぼく》してしまったり、また父の本能寺の変を鬼頭《きとう》内蔵介《くらのすけ》から聞かされても嘘《うそ》だろう位に聞いたほどのナマヌル魂で、かの無学文盲の佐々成政にさえ見限られたくらいの者ゆえ、秀吉に逐《お》われたのも不思議は無い。前田利家は余り人の悪口を云うような人では無いが、その世上の「うつけ者」の二人として挙《あ》げた中の一人は、しかと名は指して無いが信雄ではないかと思われる。氏郷の父賢秀が光秀に従わぬために攻められかかった時|援兵《えんぺい》を乞《こ》うたのにも、怯懦《きようだ》で遷延《せんえん》して、人質を取ってから援兵を出すことにし、それも捗々《はかばか》しいことを得《え》せず、相応の兵力を有しながら父を殺した光秀征伐の戦の間《ま》にも合わなかった腑甲斐《ふがい》無《な》しであるから、高位高官名門大封の身でありながら那賀へ逐われ、次《つい》で出羽の秋田へ蟄《ちつ》せしめられたもしかたは無い。しかし秀吉がこれを清須《きよす》百万石から那賀へ貶《へん》したのも余り酷《ひど》かった。馬鹿《ばか》でも不覚者でも氏郷に取っては縁《えん》の兄弟である、信雄信孝合戦の時は氏郷は柴田《しばた》に馴染《なじみ》が深かったが、信孝方に付かず信雄方に附《つ》いたのである。その信雄がかくのごとくにされたのは氏郷に取って好い心持はせず、秀吉の心の冷たさを感じたことであろう。しかし天下の仕置《しおき》は人情の温い冷たいなどを云ってはおられぬのである、道理の当不当で為すべきであるから致方《いたしかた》は無い。致方は無いけれどもちと酷過ぎた。秀吉のこの酷いところ冷たいところを味わせられきっていて、そして天下の仕置はどうすべきものだということを会《え》しきっている氏郷である。木村父子の厄介《やつかい》な事件が起ったとて、かねても想い得切っていることであり、またいかにすべきかも考え得抜いていることである、今更何の遅疑《ちぎ》すべきでもない。  木村父子は佐沼から氏郷へ援を請うた。遠くても、寒気が烈《はげ》しくても棄《す》ててはおけぬ。十一月五日には氏郷はもう会津を立っている。新領地の事であるから、留守《るす》にも十分に心を配らねばならぬ、木村父子の覆轍《ふくてつ》を踏《ふ》んではならぬ。会津城の留守居には蒲生左文|郷可《さとよし》、小倉《おぐら》豊前守《ぶぜんのかみ》、上坂《かみさか》兵庫助《ひようごのすけ》、関入道|万鉄《まんてつ》、いずれも頼みきったる者共だ。それから関東口白河城には関右兵衛尉、須賀川城には田丸中務少輔を籠《こ》めておくことにした。政宗の方の片倉|備中守《びつちゆうのかみ》が三春の城に居るから、油断のならぬ奴への押えである。中山道口《なかせんどうぐち》の南山城には小倉作左衛門、越後口の津川《つがわ》城には北川平左衛門尉、奥街道口の塩川城には蒲生喜内、それぞれ相当の人物を置いて、さて自分は一番|先手《さきて》に蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、二番手に蒲生四郎兵衛、町野左近将監、三番に五手組《いつてぐみ》、梅原弥左衛門、森|民部丞《みんぶのじよう》、門屋《もんや》助右衛門、寺村半左衛門、新国《につくに》上総介《かずさのすけ》、四番には六手組、細部九郎右衛門、玉井|数馬助《かずまのすけ》、岩田市右衛門、神田《かんだ》清右衛門、外池《とのいけ》孫左衛門、河井公左衛門、五番には七手与《ななてぐみ》、蒲生将監、蒲生|主計助《かずえのすけ》、蒲生忠兵衛、高木助六、中村仁右衛門、外池甚左衛門、町野|主水佑《もんどのすけ》、六番には寄合与《よりあいぐみ》、佐久間久右衛門、同じく源六、上山弥七郎、水野三左衛門、七番には弓鉄砲頭、鳥井四郎左衛門、上坂源之丞、布施《ふせ》次郎右衛門、建部《たけべ》令史、永原孫右衛門、松田金七、坂崎五左衛門、速水《はやみ》勝左衛門、八番には手廻《てまわり》小姓与《こしようぐみ》、九番には馬廻《うままわり》、十番には後備《あとそなえ》関勝蔵、都合その勢六千余騎、人数多しというのでは無いが、本国江州以来、伊勢松坂以来の一族縁類、切っても切れぬ同姓や眷族《けんぞく》、多年|恩顧《おんこ》の頼み頼まれた武士、または新規|召抱《めしかかえ》ではあるが、家来は主の義勇を慕《した》い知遇を感じ、主は家来の器量骨柄を愛《め》でいつくしめる者共、皆おのおの言わねど奥州出羽初めての合戦に、我等が刃金《はがね》の味、胆魂《きもだましい》の程を地侍共に見せ付けてくれんという意気を含《ふく》んだ者を従えて真黒になって押出した。その日は北方奥地の寒威《かんい》早く催《もよお》して、会津|山嵐肌《やまあらしはだ》に凄《すさま》じく、白雪|紛々《ふんぷん》と降りかかったが、人の用い憚《はば》かりし荒気《あらき》大将佐々成政の菅笠三蓋《すけがささんがい》の馬幟《うまじるし》を立て、これは近き頃下野の住人、一家|惣領《そうりよう》の末であった小山小四郎が田原藤太相伝のを奉《たてまつ》りしよりそれに改めた三《み》ッ頭《かしら》左鞆絵《ひだりどもえ》の紋《もん》の旗を吹靡《ふきなび》かせ、凛々《りんりん》たる意気、堂々たる威風、膚《はだへ》撓《たゆ》まず、目まじろがず、佐沼の城を心当《こころあて》に進み行く、と修羅場《しゆらば》読《よ》みが一卜汗かかねばならぬ場合になった。が、実際は額《ひたい》に汗をかくどころでは無い、鶏肌《とりはだ》立《だ》つくらい寒かったので、諸士軍卒もいささか怯《ひる》んだろう。そこをさすがは忠三郎氏郷だ、戦の門出《かどで》に全軍の気が萎《な》えているようではよろしく無いから、諸手《もろて》の士卒を緊張《きんちよう》させてその意気を振《ふるい》い立たせるために、自分は直膚《すぐはだ》に鎧《よろい》ばかりを着したということが伝えられている。鎧を着るには、鎧下と云って、錦《にしき》や練絹《ねりぎぬ》などで出来ているものを被《き》る。袴《はかま》短く、裾《すそ》や袖《そで》は括緒《くくりお》があってこれを括る。身分の低い者のは錦などでほ無いが、まずは直垂《ひたたれ》であるから、鎧直垂とも云う。漢語のいわゆる戦袍《せんぽう》で、斎藤|実盛《さねもり》の涙ぐましい談《はなし》を遺《のこ》したのもその鎧直垂についてである。氏郷が風雪出陣の日に直膚に鎧を着たというのも、ふざけ者が土用《どよう》干《ぼし》の時の戯《たわむ》れのように犢鼻褌《ふんどし》一ツで大鎧を着たというのでは無く、鎧直垂を着けないだけであったろうが、それにしても寒いのには相違無かったろう。しかしこういう大将で有ってみれば、士卒も萎《し》けかえって顫《ふる》えているわけには行かぬ、力肱《ちからひじ》を張り力足を踏《ふ》んだことだろう。こういう長官が居なくて太平の世の官員は石炭《せきたん》ばかり気にして焚《く》べて仕合せな事である。  冗談《じようだん》はさて置き、新らしい領主の氏郷が出陣すると、これを見て会津の町人百姓は氏郷を気の毒がって涙をこぼしたという。それは噂《うわさ》によれば木村伊勢守父子も根城《ねじろ》を奪《うば》われた位では、奥州侍は皆敵に怒ったのであるし、ご領主のご領内も在来の者共の蜂起《ほうき》は思われる、剛気《ごうき》の大将ではあらせられてもお味方は少く、土地の者は多い、敵《かな》わせられることでは無かろう、痛わしいおん事である、定めし畢竟《ひつきよう》はいかなる処《ところ》にてか果てさせたもうであろう、と云うのであった。奥州に生立《おいた》って奥州武士よりほかのものを見ぬものは、一ツは国自慢で、奥州武士という者は日本一のように強い者に思っていたせいもあろうが、その半面には文雅で学問が有って民を撫《ぶ》する道を知っていたろう氏郷の施為《しい》が、木村父子や佐々成政などと違って武威の恐ろしさのみをもって民に臨《のぞ》まなかったため、僅々《きんきん》の日数であったに関《かかわ》らず、今度の領主はどういう人で有ろうと怖畏《ふい》憂虞《ゆうぐ》の眼を張って窺《うかが》っていた人民に、安堵としたがって親愛の念を懐《いだ》かせた故であったろう。  氏郷の出陣には民百姓ばかりで無い、町野左近将監もいささか危ぶんで、願わくは今しばらく土地にも慣れ、四囲の事情も明らかになってから、戦途に上って欲しいと思った。会津から佐沼への路は、第一日程は大野原を経て日橋川《ひはしがわ》を渡《わた》り、猪苗代湖《いなわしろこ》を右手《めて》に見て、その湖の北方なる猪苗代城に止《とど》まるのが、急いでも急がいでも行軍上至当の頃合であった。で、氏郷の軍は猪苗代城に宿営した。猪苗代城の奉行は、かつて松坂城の奉行であった町野左近将監で、これは氏郷の乳母を妻にしていて、主人とは特《こと》に親しみ深い者であった。そこで老人の危険を忌む思慮《しりよ》も加わってであろうが、氏郷を吾が館《やかた》に入れまいらせてから、ひそかに諫言《かんげん》を上《たてまつ》って、今この寒天にここより遥《はるか》に北の奥なるあたりに発向したもうとも、人馬も労《つか》れて働きも思うようにはなるまじく、不案内の山、川、森、沼、ご勝利を得たもうにしてもなかなか容易なるまじく思われまする、ここは一応こらえたまいて、来年の春をもってお出なされてはいかがでござる、と頻《しき》りに止めたのである。町野繁仍の言も道理では有るが、それはもう魂の火炎が衰《おとろ》えている年寄武者の意見である。氏郷この時は三十五歳で有ったから、氏郷の乳母は少くとも五十以上、その夫の繁仍は六十近くでもあったろう。老人と老馬は安全を得るということについては賢《かしこ》いものであるから、大抵の場合において老人には従い、老馬には騎《の》るのが危険は少い。けれどもそれは無事の日の事である。戦機の駈引《かけひき》には安全第一はむしろ避《さ》くべきであり、時少く路長き折は老馬は取るべからずである。今起った一揆は少しでも早く対治してしまってその根を張り枝《えだ》を茂《しげ》らせぬ間に芟《かり》除《のぞ》き抜《ぬき》棄《す》てるのを機宜《きぎ》の処置とする。かつまた信雄が明智乱の時のような態度を取っていた日には、武道も立たぬし、秀吉の眼も瞋《いか》ろうし、木村父子を子とも旗下《はたした》とも思えと、秀吉に前もって打っておかれた釘《くぎ》がヒシヒシと吾胸に立つ訳である。で、氏郷は町野に対して、汝《なんじ》の諫言を破るでは無いが、どうもそうは成りかねる、たとい運|拙《つたな》く時利あらずして吾が上はともなれかくもなれ、子とも見よ、親とも仰《あお》げと殿下の云われた木村父子を見継《みつ》がぬならば、我が武道はこの後全く廃《すた》る、と云切った。町野も合点《がてん》の悪い男ではなかった。老眼に涙を浮べて、ご尤《もつとも》のおん仰《おおせ》と承わりました、しからば某《それがし》も一期《いちご》のご奉公、いさぎよくおン先を駈け申そう、と皺腕《しわうで》をとりしぼって部署に就《つ》く事に決した。こういう思慮を抱き、こういう決着をあえてしたのは必ず町野のみでは無かったろう、一族譜代の武士達には、よくよく沸《たぎ》り切った魂の持主と、分別の遠く届く者を除いては、随分数多いことで有ったろうし、そして皆氏郷の立場を諒解《りようかい》するに及んで、奮然《ふんぜん》として各自の武士魂に紫色や白色の火※[陷のこざとへんが無くて右側に炎]《かえん》を燃やし立てたことであろう。それで無くては四方八方|難儀《なんぎ》の多い上に、横ッ腹に伊達政宗という「くせ者」が凄《すご》い眼をギロツカせて刀の柄《つか》に手を掛けている恐ろしい境界《きようがい》に、毅然《きぜん》たる立派な態度をどうして保ち得られたろう! であるから氏郷の佐沼の後詰《ごづめ》は辺土の小戦のようであるが、他の多くの有りふれた戦には優《まさ》った遣りにくい戦で、そして味わってみるとなかなか濃《こま》やかな味のある戦であり、鎗《やり》、刀、血みどろ、大童《おおわらわ》という大味な戦では無いのである。  ここに不明の一怪物がある。それは云うまでもなく、殊勝《しゆしよう》な念仏《ねんぶつ》行者《ぎようじや》の満海《まんかい》という者の生れ代りだと言われている伊達の藤次郎政宗である。生れ代りの説は和漢共に随分俗間に行われたもので、恐れ多いことだが何某《なにがし》天皇はある修行者の生れ代りにわたらせられて、その前世の髑髏《どくろ》に生いたる柳《やなぎ》が風に揺《ゆ》られる度《たび》ごとに頭痛を悩《なや》ませたもうたなどとさえ出鱈目《でたらめ》を申していたこともある。武田信玄が曾我《そがの》五郎《ごろう》の生れ代りなどとは余り作意が奇抜《きばつ》でむしろ滑稽《こつけい》だが、宋《そう》の蘇《そ》東坡《とうば》は戒《かい》禅師《ぜんし》の生れ代り、明《みん》の王陽明は入定《にゆうじよう》僧《そう》の生れ代り、陽明先生のごときはご丁寧にもその入定僧の屍骸《しがい》に直《じき》に対面をされたとさえ伝えられている。二生《にしよう》の人というのは転生《てんしよう》を信じた印度《インド》に行われた古い信仰《しんこう》で、大抵《たいてい》二生の人は宿智すなわち前生修行の力によって聡明《そうめい》であり、宿福すなわち前世善根の徳《とく》によって幸福であり、果報広大、はなはだ貴ぶべき者とされている。政宗の生るる前、米沢の城下に行いすましていた念仏行者が有って満海と云った。満海が死んで、政宗が生れた。政宗は左の掌《たなごころ》に満海の二字を握《にぎ》って誕生《たんじよう》した。だから政宗は満海の生れ代りであろうと想われ、そして梵天丸《ぼんてんまる》という幼名はこれに因《よ》りて与えられた。梵天はこの世の統治者《とうちしや》で、二生の人たる嬰児《えいじ》の将来は、その前生の唱名《しようみよう》不退《ふたい》の大功徳《だいくどく》によって梵天のごとくにあるべしという意からの事だ。満海の生れ代りということを保証するのはご免《めん》蒙《こうむ》りたいが、梵天丸という幼名だったことは虚誕では無く、またその名が梵天《ぼんてん》帝釈《たいしやく》に擬《ぎ》した祝福の意であったろう事も想察される。思うに伊達家の先人には陸奥介《むつのすけ》行宗《ゆきむね》の諡《おくりな》が念海、大膳《だいぜんの》太夫《たいふ》持宗が天海などと海の字の付く人が多かったから、満海の談も何かそれらから出た語り歪《ゆが》めではあるまいか。すべての奇異な談は大概浅人妄人無学者好奇者が何かちょっとした事を語り歪めるから起るもので、語り歪めの大好物な人は現在そこらにたくさん転がっている至ってお廉《やす》いしろ物であるから、奇異な談は出来《でき》傍題《ほうだい》だ。何はあれ梵天丸で育ち、梵天丸で育てられ、片倉小十郎のごとき傑物《けつぶつ》に属望《しよくぼう》されて人となった政宗は立派な一大怪物だ。人取る魔《ま》の淵《ふち》は音を立てぬ、案外おとなしく秀吉の前では澄《す》ましかえったが、その底知れぬ深さの蒼《あお》い色を湛《たた》えた静かな淵には、馬も呑《の》めば羽をも沈めようという※[さんずいに回]《まき》を為《な》しているのである。不気味《ぶきみ》千万《せんばん》な一怪物である。  この政宗は確に一怪物である。しかし一怪物であるからとてその政宗を恐れるような氏郷では無い。※[さんずいに回]の水の巻く力は凄《すさま》じいものだが、水の力には陰《かげ》もある陽《おもて》もある、吸込みもすれば湧《わき》上《あが》りもする。よく水を知る者は水を制することを会《え》して水に制せらるることを為さぬ。魔の淵で有ろうとも竜宮《りゆうぐう》へ続く渦《うず》で有ろうとも、怖るることは無い。いわんや会津へ来た初よりその政宗に近づくべく運命を賦与《ふよ》されているのであり、今は正にその男に手を差出して触れるべき機会に立ったのである。先方の出す手が棘々《とげとげ》満面《だらけ》の手だろうが粘滑《ぬらぬら》油膩《あぶら》の手だろうが鱗《うろこ》の生えた手だろうが蹼《みずかき》の有る手だろうが、どんな手だろうが構わぬ、ウンとその手を捉《つかま》えて引《ひき》ずり出して淵のヌシの正体を見届けねばならぬのである。秀吉は氏郷政宗に命令しておいた。新規平定の奥羽の事、一揆《いつき》騒乱《そうらん》など起ったる場合は、政宗は土地案内の者、政宗を先に立て案内者として共に切《きり》鎮《しず》めよ、という命令を下しておいた。で、氏郷はその命の通り、サア案内に立て、と政宗に掛らねばならぬのであった。その案内人が甚《はなは》だ怪しい物騒千万なもので、こなたから差出す手を向うから引捉《ひつつか》んで竜宮の一町目あたりへ引込もうとするかどうかは知れたもので無いのである。この処活動写真の、次の映画幕はどのような光景を展開するか、タカタカ、タンタン、タカタカタンというところだが、賢い奴は猿面冠者の藤吉郎で、二十何万石という観覧料を払った代り一等席に淀君《よどぎみ》と御神酒《おみき》徳利《どくり》かなんかで納《おさ》まりかえって見物しているのであった。しかも洗ってみればその観覧料も映画中の一方の役者たる藤次郎政宗さんから実は巻上げたものであった。  木村伊勢領内一揆蜂起の事は、氏郷から一面秀吉ならびに関東押えの徳川家康に通報し、一面は政宗へ、土地案内者たる御辺《ごへん》は殿下のかねての教令により出陣征伐あるべし、と通牒《つうちよう》しておいて、氏郷が出陣したことは前に述べた通りであった。五日は出発、猪苗代泊り、六日は二本松に着陣した。伊達政宗は米沢から板谷《いたや》の山脈を越《こ》えてヌッと出て来た。その兵数は一万だったとも一万五千だったとも云われている。氏郷勢よりは多かったので、兵が少くては何をするにも不都合だからであることは言うまでも無い。板谷山脈を越えればすぐに飯坂《いいざか》だ。今は温泉場として知られているが、当時は城が有ったものと見える。政宗は本軍を飯坂に据《す》えて、東の方《かた》南北に通っている街道《かいどう》を俯視《ふし》しつつ氏郷勢を待った。氏郷の先鋒《せんぽう》は二本松から杉《すぎ》ノ目《め》、鎌田《かまだ》と進んだ。杉ノ目は今の福島で、鎌田はその北に在る。政宗勢もその先鋒はその辺まで押出していたから、両勢は近々と接近した。蒲生勢も伊達勢の様子を見れば、伊達勢も蒲生勢の様子を見たことだろう。しかるに伊達勢が本気になって案内者の任を果し、先に立って一揆対治に努力しようと進む意の無いことは、氏郷勢の場数を踏んだ老功の者の眼には明々白々に看《み》えた。すべて他の軍の有している真の意向を看破することは戦に取って何より大切の事であるから、当時の武人は皆これを鍛錬《たんれん》して、些細《ささい》の事、機敏の間にも洞察《どうさつ》することを力《つと》めたものである。関ヶ原の戦に金吾《きんご》中納言《ちゆうなごん》の裏切を大谷刑部が必ずそうと悟《さと》ったのもそのためである。氏郷の前軍の蒲生源左衛門、町野左近将監等は政宗勢の不誠実なところを看破したから大《おおい》に驚いた。一揆討伐に誠意の無いことは一揆方に意を通わせていて、そして味方に対して害意を有《も》っているので無くて何で有ろう。それが大軍であり、地理案内者である。そこで前隊から急に蒲生四郎兵衛、玉井数馬助二人を本隊へ馳《は》せさせて政宗の異心|謀叛《むほん》、疑無しと見え申す、そこに二三日もご逗留《とうりゆう》ありてなおその体《てい》をもご覧有るべし、と告げた。すると氏郷は警告を賞してこれに従うかと思いのほか、大《おおい》に怒って瞋眼《しんがん》から光を放った。ここはさすがに氏郷だ。二人を睨《にら》み据《す》えて言葉も荒々しく、政宗謀叛とは初めより覚悟してこそ若松《わかまつ》を出でたれ、いずくにもあれ支えたらば踏《ふみ》潰《つぶ》そうまでじゃ、明日《あす》は早天に打立とうず、と罵《ののし》った。総軍はこれを聞いてウンと腹の中に堪《こた》えが出来た。  政宗勢の方にも戦場往来の功を経た者はもちろん有るし、他の軍勢の様子を見て取ろうとする眼は光っていたに違無い。見ると蒲生勢は凛《りん》としている、その頃の言葉に云う「戦《たたかい》を持っている」のである。戦を持っているというのは、いつでも火蓋《ひぶた》を切って遣《や》りつけてくれよう、というのである。コレハと思ったに違いない。  氏郷は翌日早朝に天気の不利を冒《おか》して二本松を立った。今の街道よりは西の方なる、今の福島近くの大森の城に着いた。政宗|遅滞《ちたい》するならば案内の任を有《も》っている者より先へも進むべき勢《いきおい》を氏郷が示したので、政宗も役目上《やくめじよう》仕方が無いから先へ立って進んだ。氏郷はその後から油断無く陣を押した。何の事は無い政宗は厭々《いやいや》ながら逐《おい》立《た》てられた形だ。政宗は忌々しかったろうが理《り》詰《づ》めに押されているので仕方が無い、どうしようも無い。氏郷は理に乗って押しているのである、グングンと押した。大森辺から北は大崎領まで政宗領である。北へ北へと道順《みちじゆん》に云えば伊達郡、苅田《かつた》郡、柴田郡、名取郡、宮城《みやぎ》郡、黒川郡であって、黒川郡から先が一揆|叛乱地《はんらんち》になっているのである。その間|随分《ずいぶん》と長い路程《ろてい》であるが、政宗は理に押されてシブシブながら先へ立たぬ訳にゆかず、氏郷は理に乗ってジリジリと後から押した。政宗がもしも途中で下手《へた》に何事か起した日には、吾が領分では有るし、勝手は知ったり、大軍では有り、無論政宗に取って有利の歩合《ぶあい》は多いが、吾が領内で云わば関白の代官同様な氏郷に力沙汰に及んだ日には、免《まぬか》るるところ無く明白に天下に対して弓を挽《ひ》いた者となってしまって、自ら救う道は絶対に無いのである。そこを知らぬ政宗では無いから、振《ふり》捩《もぎ》ろうにも蹴《け》たぐろうにもせん術《すべ》無くて押されている。またそこを知り切っている氏郷だから、業《わざ》をするならしてみよ、と十分に腰《こし》を落して油断無くグイグイ押す。氏郷の方が現われたところでは勢を得ている。でも押す方にも押される方にも、力士《りきし》と力士との双方に云うに云われぬ気味合《きみあい》が有るから、寒気も甚《ひど》かったし天気も悪かったろうが、福島近傍の大森から、政宗領のはずれ、叛乱地の境近くに至るまでに十日もかかっている。  この間政宗は面白く無い思をしたであろうが、その代り氏郷も酷《ひど》い目にあっている。それはこの十日の間に通った地方は政宗の家の恩威《おんい》が早くから行われていた地で、政宗の九代前の政家、十代前の宗遠《むねとお》あたりが切従えたのだから、中頃これを失ったことが有るにせよ、今また政宗に属しているので、土豪《どごう》民庶《みんしよ》皆伊達家|贔屓《びいき》であるからであった。本来なら氏郷政宗は友軍であるから、氏郷軍の便宜《べんぎ》をば政宗領の者も提供すべき筋合《すじあい》であるが、前に挙げたごとく人民は蒲生勢を酷遇《こくぐう》した。寒天風雪の時に当って宿を仮《か》さなかったり敷物《しきもの》を仮さなかったり、薪《たきぎ》や諸道具を供することを拒《こば》んだ。朧《おぼろ》月夜にしくものぞ無き、という歌なんどはよいが、雪まじり雨の降る夜の露営《ろえい》つづきはいかに強い武人であり優しい歌人であり侘《わび》の昧知りの茶人である氏郷でも、木《こ》の下風《したかぜ》は寒くして頬《ほお》に知らるる雪ぞ降りけるなどは感心しなかったろう。桑折《こおり》、苅田、岩沼、丸森《まるもり》などの処々、こういう目を見たのであるから、蒲生家の士の正望《まさもち》の書いたものに「憎しということ限り無し」と政宗領の町人百姓の事を罵っているのも道理である。  押されつ押しつして、十一月の十七日になった。仲冬の寒い奥州の長途も尽きてようやく目ざす叛乱地に近づいた。政宗は吾が領のほとんど尽頭《はずれ》の黒川の前野《まえの》に陣取った。前野とあるのは多分|富谷《とみや》から吉岡《よしおか》へ至る路の東に当って、今は舞野《まいの》というところですなわち吉岡の舞野であろう。そこでその日政宗から氏郷へ使者が来た。使者の口上は、明日路ははや敵の領分にて候《そうろう》、当地のそれがしが柴の庵《いおり》、何の風情《ふぜい》も無く侘しゅうは候が、なにかと万端|御意《ぎよい》を得たく候間、明朝御馬を寄せられ候わば本望たるべく、粗茶《そちや》進上|仕《つかまつり》たく候、という慇懃《いんぎん》なものであった。日頃懇意の友情こまやかなる中ならば、干戈《かんか》弓鉄砲の地へ踏込む前に当って、床の間の花、釜《かま》の沸音《にえおと》、物静かなる草堂の中で風流にくつろぎ語るのは、趣《おもむき》も深く味も遠く、何という楽しくもまた嬉《うれ》しいことであろう。しかし相手が相手である、伊達政宗である。異《おつ》な手を出して来たぞ、あやしいぞ、とは氏郷の家来達の誰しも思ったことだろう。皆氏郷の返辞を何と有ろうと注意したことであろう。ところが氏郷は平然として答えた。誠にご懇志《こんし》かたじけのうこそ候え、明朝参りてお礼を申そうず、というのであった。  イヤ驚《おどろ》いたのは家来達であった。政宗謀叛とは初めより覚悟してこそ若松を出たれ、と云った主人が、政宗に招かれて躪《にじ》り上《あが》りからその茶室へ這入《はい》ろうというのである。もし彼方《かなた》においてあらかじめ大力|手利《てきき》の打手《うちて》を用意し、押取《おつとり》籠《こ》めて打ってかからんには誰か防ぎ得よう。主人もし打たれては残卒全《まつた》からず、何十里の敵地、そこの川、どこの峡《はざま》で待設けられては人種《ひとだね》も尽きるであろう。こはこれ一期《いちご》の大事到来と、千丈《せんじよう》の絶壁に足を爪立《つまだ》て、万仭《ばんじん》の深き淵に臨んだ思がしたろう。飛んでも無い返辞をしてくれたものだと、恨《うら》みもし呆《あき》れもし悲みもした事であろう。しかし忠三郎氏郷は忠三郎氏郷だ。しおらしくも茶を習うたる田舎《いなか》大名が、茶に招くというに我が行かぬ法は無い、往《ゆ》いて危いことは有るとも、招くに往かずば臆《おく》したに当る、機に臨みて身を扱《あつか》おうに、何程の事が有ろうぞ、朝の茶とあるに手間《てま》暇《ひま》はいらぬ、立寄って政宗が言語《ものいい》面色《つらつき》をも見てくりょう、というのであったろう。政宗の方にはどういう企図《きと》が有ったか分らぬ。蒲生方では政宗が氏郷を茶讌《ちやえん》に招いたのは、正に氏郷を数寄屋《すきや》の中で討取ろうためであったと明記している。しかしそれは実際そうだったかも知れぬが、何も政宗の方で手を出している事実が無いから、蒲生方でそう思ったという証拠にはなるが、政宗方でそういう企《くわだて》をしたという証拠にはならぬ。また万一そういう企をしたとすれば、鶺鴒《せきれい》の印《いん》の眼球《めだま》で申開きをするほどの政宗が、直接自分の臣下などに手を下させて、後に至ってどうともすることの出来ぬような不利の証拠を遺そうようはない。前野と敵地大崎領とは目捷《もくしよう》の間《かん》であるから、あるいは一揆方の剛の者を手引して氏郷の油断に乗じて殺させ、そして政宗方の者が起《た》ってその者共をその場で切殺して口を滅《めつ》してしまおう、という企をしたというのならば、その企もいささかは有り得もすべきことになる。さも無くば政宗にしてはちと智慧が足らないで手ばかり荒いように思える。ただし蒲生方の言も全く想像にせよ中《あた》っているところが有るのでは無いかと思われるゆえんは幾《いく》箇条《かじよう》もあり、またずっと後に至って政宗が氏郷に対して取った挙動《きよどう》でちょっと窺《うかが》えるような気のすることがある。それは後に至って言おう。ここでは政宗に悪意が有った証《あかし》は無いというのを公平とする。が、何にせよこの時蒲生方に取って主人氏郷が茶讌に赴《おもむ》くことを非常に危ぶんだことは事実で、そしてその疑懼《ぎく》の念を懐いたのも無理ならぬことであった。氏郷がその請《こい》を拒《こば》まないで、何程の事やあらんと懼《おそ》れ気《げ》も無しに、水深うして底を知らざる魔の淵の竜窟《りゆうくつ》鮫室《こうしつ》の中に平然として入ろうとするのは、縮《ちぢ》むことを知らない胆《きも》ッ玉《たま》だ。織田信長は稲葉一鉄を茶室に殺そうとしたし、黒田|孝高《よしたか》は城井谷《しろいだに》鎮房《しずふさ》を酒席で遣りつけている世の中であるに。  夜は明けた、十八日の朝となった。氏郷は約に従って政宗を訪《と》うた。氏郷は無論馬上で出かけたろうが、服装はどうであったか記されたものが無い。いかにこれから戦に赴《おもね》く途中であるとしても、皆具取《かいぐとり》鎧《よろ》うて草摺長《くさずりなが》にザックと着なした大鎧で茶室へも通れまいし、またいかに茶に招かれたにしても直《ただち》にその場より修羅の衢《ちまた》に踏込もうというのに袴《はかま》肩衣《かたぎぬ》で、その肩衣《かたぎぬ》の鯨《くじら》も抜いたような形《なり》も変である。利久高足と云われた氏郷だから、必ずや武略では無い茶略をしかるべく見せて、工合《ぐあい》のよい形で参会したろうが、ちょっと想像が出来ない。これは茶道《さどう》鍛錬《たんれん》の人への問題に提供しておく。氏郷の家来達はもちろん甲冑《かつちゆう》で、鎗や薙刀《なぎなた》、弓、鉄砲、昨日に変ること無く犇々《ひしひし》と身を固めて主人に前駆《ぜんく》後衛《こうえい》した事であろう。やがて前野に着く。政宗方は迎《むか》える。氏郷は数寄屋の路地へ潜門《くぐり》を入ると、伊達の家来はハタと扉を立てんとした。これを見ると氏郷に随って来た蒲生源左衛門、蒲生忠左衛門、蒲生四郎兵衛、町野左近将監、新参ではあるが名うての荒武者佐久間|玄蕃《げんば》が弟と聞えた佐久間久右衛門、同苗《どうみよう》舎弟《しやてい》源六、綿利《わたり》八右衛門など一人当千の勇士の面々で火の中にもあれ水の中にもあれ、死出|三途《さんず》主従《しゆじゆう》一緒《いつしよ》と思詰めたる者共が堪《たま》りかねてツツと躍《おど》り出た。伊達の家来はこは狼籍《ろうぜき》に近き振舞《ふるまい》と支《ささ》え立《だ》てせんとした。制して制さるる男共であればこそ、右と左へ伊達の家来を押退《おしの》け押飛ばして、楯《たて》に取る門の扉をもメリメリと押破った。氏郷の相伴《しようばん》つかまつって苦しい者ではござらぬ、蒲生源左衛門|罷《まか》り通る、蒲生忠右衛門罷り通る、町野左近将監罷り通る、罷り通る、罷り通る、と陣鐘《じんがね》のような声もあれば陣太鼓《じんだいこ》のような声も有る、陣法螺《じんぼら》吹立てるような声も有って、間《あわい》隔《へだ》たったる味方の軍勢の耳にも響《ひび》けかしに勢い猛《たけ》く挨拶《あいさつ》して押通った。茶の道に押掛《おしかけ》の客というも有るが、これが真個《ほんと》の押掛けで、もとより大鎧|罩手《こて》臑当《すねあて》の出で立ちの、射向《いむ》けの袖に風を切って、長やかなる陣刀の鐺《こじり》あたり散らして、寄付《よりつき》の席に居流れたのは、鴻門の会に樊※[くちへんに會]《はんかい》が駈《かけ》込《こ》んで、怒眼を円《つぶら》に張って項王《こうおう》を睨《にら》んだにも勝《まさ》ったろう。外面《そとも》はまた外面で、士卒おのおの兜の緒を緊《し》め、鉄砲の火縄に火をささぬばかりにし、太刀を取りしぼって、座の中に心を通わせ、イザと云えばオッと応《こた》えようと振い立っていた。これではたとい政宗に何の企が有っても手は出せぬ形勢であった。  茶の湯に主と家来とは一緒に招く場合も有るべき訳で、主従といえば離れぬ中である。しかし主人と臣下とをいかに茶なればとて同列にすることはその主に対しては失礼であり、その臣下に対しては僭上《せんじよう》に堪うる能《あた》わざらしむるものであるから、織田|有楽《うらく》の工夫であったかどうであったか、客席に上段下段を設けて、膝《ひざ》突合《つきあ》わすほど狭《せま》い室ではあるが主を上段に家来を下段に坐《ざ》せしむるようにした席も有ったと記《おぼ》えている。主従関係の確立していた当時、もとより主従は一列にさるべきものでは無い。多分政宗方では物《もの》柔《やわ》らかにその他意無きを示して、書院で饗応《きようおう》でもしたろうが、鎧武者を七人も八人も数寄屋に請《しよう》ずることは出来もせぬことであり、主従の礼を無視するにも当るから、ご免《めん》蒙《こうむ》ったろう。さて政宗出坐して氏郷を請じ入れ、時勢であるから茶談軍談|取交《とりま》ぜて、むしろ軍事談の方を多く会話したろうが、この時氏郷が、佐沼への道のほどに一揆の城は何程候、と前路の模様を問うたに対し、政宗は、佐沼へはこれより田舎町(六町ほどか)百四十里ばかりにて候、その間に一揆の寵りたる高清水《たかしみず》と申すが佐沼より三十里こなたに候、その外には一つも候わず、と謀《はか》るところ有るために偽《いつわ》りを云ったと蒲生方では記している。殊更《ことさら》に虚言《きよげん》を云ったのか、精《くわ》しく情報を得ていなかったのか分らぬ。次いで起る事情の展開に照らして考えるほかは無い。ぜ候わば今日道通りの民家を焼《やき》払《はら》わしめ、明日は高清水を踏《ふみ》潰《つぶ》し候わむ、と氏郷は云ったが、目論見《もくろみ》の齟齬《そご》した政宗は無念さの余りに第二の一手を出して、毒を仕込みおいたる茶を立てて氏郷に飲ませた、と云われている。毒薬には劇毒で飲むと直《じき》に死ぬのも有ろうし、程経て利くのも有ろうが、かかる場合に飲んで直に血反吐《ちへど》を出すような毒を飼おうようは無いから、仕込んだなら緩毒《かんどく》、少くとも二三日後になってその効をあらわす毒を仕込んだであろう。氏郷も怪《あや》しいと思わぬことは無かった。しかし茶に招かれて席に参した以上は亭主が自ら点じて薦《すす》める茶を飲まぬというそんな大きな無礼無作法は有るものでないから、一団の和気を面に湛えて怡然《いぜん》としてこれを受け、茶味以外の味を細心に味いながら、しかもお服合《ふくあい》結構の挨拶の常套《じようとう》の讃辞《さんじ》まで呈《てい》して飲んでしまった。そして茶事が終ったから謝意を叮嚀《ていねい》に致《いた》して、その席を辞した。氏郷の家来達も随って去った。客も主人も今日これから戦地へ赴かねばならぬのである。  氏郷は外へ出た。政宗方の眼の外へ出たところで、蒲生源左衛門以下は主人の顔を見る、氏郷も家来達の面を見たことであろう。主従は互《たがい》に見交わす眼と眼に思い入れよろしくあって、ム、ハハ、ハハ、ハハハ、と芝居ならば政宗方の計画の無功に帰したを笑うところであった。けれど細心の町野左近将監のような者は、殿、政宗が進じたる茶、別儀《べつぎ》もなくお味わいこれありしか、まった飲ませられずにおン済ましありしか、飲ませられしか、いかに、いかに、と口々に問わぬことは無かったろう。そして皆々の面は曇《くも》ったことだろう。氏郷は、ハハハ、飲まねば卑怯《ひきよう》余瀝《よれき》も余さず飲んだわやい、と答える。家来達はギェーッと今更ながら驚き危ぶむ。誰《た》そあれ、水を持て、と氏郷が命ずる。小《こ》ばしこい者が急に駛《はし》って馬柄杓《ばびしやく》に水を汲《く》んで来る。その間に氏郷は印籠《いんろう》から「西大寺《さいだいじ》」(宝心丹《ほうしんたん》をいう)を取出して、その水で服用し、彼に計謀《はかりごと》あれば我にも防備《そなえ》あり、案ずるな、者共、ハハハハハハ、と大きく笑って後を向くと、西大寺の功験早くたちまちにカッと飲んだ茶を吐《は》いてしまった。  以上は蒲生方の記するところに拠《よ》って述べたので、伊達方にはもちろん毒を飼うたなどという記事の有ろうようは無い。毒を用いて即座にまたは陰密に人を除いてしまうことは恐ろしい世にはどうしても起り、かつ行われることであるから、かかる事も有り得べきではある。毒がいは毒飼で、毒害は.かえってアテ字である、その毒飼という言葉が時代の匂《にお》いを表現している通り、この時代には毒飼は頻々《ひんぴん》として行われた。けれども毒飼は最もケチビンタな、蝨《しらみ》ッたかりの、クスブリ魂の、きたない奸人《かんじん》小人|妬婦《とふ》悪婦の為すことで、人間の考え出したことの中で最も醜悪《しゆうあく》卑劣《ひれつ》の事である。自死に毒を用いるのは恥辱《ちじよく》を受けざるためで、クレオパトラの場合などはまだしも恕《じよ》すべきだが、自分の利益のために他を犠牲《ぎせい》にして毒を飼うごときは何という卑《いや》しいことだろう。それでも当時は随分行われたことであるから、これに対する用心もしたがって存したことで、治世になっても身分のある武士が印籠の根付《ねつけ》にウニコールを用いたり、緒締《おじめ》に珊瑚珠《さんごじゆ》を用いたごときも、珊瑚は毒に触《ふ》るれば割れて警告を与え、ウニコールは解毒《げどく》の神効が有るとされた信仰に本《もと》づく名残りであった。宝心丹は西大寺から出た除毒|催吐《さいと》の効あるものとして、その頃用いられたものと見える。さてこの毒飼の事が実に存したこととすれば、氏郷はよいが政宗は甚《いた》く器量が下がる。ただし果して事実であったかどうかは疑わしい。政宗にも氏郷にもゆかりは無いが、政宗のために虚談想像談で有って欲しい。政宗こそかえって今歳《ことし》天正の十八年四月の六日に米沢城において危うく毒を飼わりょうとしたのである。それは政宗が私に会津を取りかつ小田原参向|遅怠《ちたい》のために罪を得んとするの事情が明らかであったところから、最上《もがみ》義光《よしみつ》に誑《たぶら》かされた政宗の目上が、政宗を亡《な》くして政宗の弟の季氏《すえうじ》を立てたら伊達家が安泰《あんたい》で有ろうという訳で毒飼の手段を廻《めぐ》らした。幸《さいわい》にそれは劇毒で、政宗の毒味番が毒に中《あた》って苦悶《くもん》即死《そくし》したから事|露《あら》われて、政宗は無事であったが、そのために政宗は手ずから小次郎季氏を斬《き》り、小次郎の傅《もり》の小原《おばら》縫殿助《ぬいのすけ》を誅《ちゆう》し、同じく誅されそこなった傅の栗野《あわの》藤八郎は逃げ、目上の人すなわち政宗の母はその実家たる最上義光の山形へ出《いで》奔《はし》ったという事がある。小次郎を斬ったのは鈴木七右衛門だったとも云う。これも全部は信じかねるが、何にせよ毒飼騒ぎのあったことは有ったらしく、また世俗のいわゆる鬼役《おにやく》すなわち毒味役なる者が各家に存在したほどに毒飼の事は繁《しげ》かったものである。されば政宗が氏郷に毒を飼ったことは無かったとしても、蒲生方では毒を飼ったと思ってもあながち無理では無く、氏郷が西大寺を服したとても過慮《かりよ》でも無い。またずっと後の寛永《かんえい》初年(五年か)三月十二日、徳川二代将軍秀忠が政宗の藩邸《はんてい》に臨んだ時、政宗が自ら饗膳《きようぜん》を呈した。その時将軍の扈従《こじゆう》の臣の内藤|外記《げき》が支え立てして、御主人役《おんあるじやく》に一応御試み候え、と云った。すると政宗は大《おおい》に怒って、それがし既《すで》にかく老いて、今さら何で天下を心掛きょうず、天下に心を掛けしは二十余年もの昔、その時にだに人に毒を飼うごとききたなき所存は有たず、と云い放った。それで秀忠が笑って外記のために挨拶が有ってそのままに済んだ、という事がある。政宗の答は胸が透《す》くように立派で、外記は甚だ不面目であったが、外記だとて一手《ひとて》さきが見えるほどの男ならば政宗がこの位の返辞をするのは分らぬでもあるまいに、何でこんなことを云ったろう。それは全く将軍を思う余りの過慮から出たに相違無いが、みすみす振飛ばされると分ってながら一卜押し押してみたところに、外記は外記だけの所存が有ったのであろう。政宗と家康と馬の合ったように氏郷と仲の好かった前田利家は、温厚にして長者の風のあった人で、敵の少い人ではあったが、それでも最上の伊白《いはく》という鍼医《はりい》のために健康を危うくされて、老臣の村井|豊後《ぶんご》の警告により心づいてこれを遠ざけた、という談《はなし》がある。毒によらず鍼によらず、陰密に人を除こうとするがごときことは有り内の世で、最も名高いのは加藤清正|毒《どく》饅頭《まんじゆう》一件だが、それ等の談は皆|虚誕《きょたん》であるとしても、各自が他を疑いかつ自ら警《いまし》め備えたことは普《あまね》く存した事実であった。政宗が毒を使ったという事は無くても、氏郷が西大寺を飲んだという事は存在した事実と看《み》て差支あるまい。  その日氏郷は本街道、政宗は街道右手を、並んで進んだ。はやこの辺は叛乱地で、地理は山あり水あってちょっと錯綜《さくそう》し、処々に大崎氏の諸将等が以前|拠《よ》っていた小城《こじろ》が有るのだった。氏郷軍は民家を焼払って進むだところ、本街道筋にも一揆の籠った敵城があった。それは四竈《しかま》、中新田《なかにいだ》など云うのであった。氏郷の勢《せい》に怖れて抵抗《ていこう》せずに城を開いて去ったので、中新田に止まり、氏郷は城の中に、政宗は城より七八町|距《へだ》たった大屋敷《おおやしき》に陣取ったから、氏郷の先隊四将は本隊を離れて政宗の営の近辺に特に陣取った。無論政宗を監視する押えであった。この中新田附近は最近、すなわち足掛《あしかけ》四年前の天正十五年正月に戦場となった処で、その戦は伊達政宗の方の大敗となって、大崎の隣大名たる葛西|左京太夫《さきようのたいふ》春信《はるのぶ》が使を遣わして慰問《いもん》したのはまだしも、越後の上杉|景勝《かげかつ》からさえ使者を遣《よこ》して特に慰問《いもん》されたほど諸方に響《ひび》き渡り、また反覆《はんぷく》常無き大内定網は一度政宗に降参した阿子島《あこじま》民部《みんぶ》を誘って自分に就かせたほど、伊達の威を落したものだった。それは大崎の大崎|義隆《よしたか》の臣の里見|隆景《たかかげ》から事起って、隆景が義隆をして同じ大崎の巨族たる岩出山《いわでやま》の城主|氏家《うじいえ》弾正《だんじよう》を殺させんとしたので、弾正が片倉小十郎に因《よ》って政宗に援を請うたところから紛糾《ふんきゆう》した大崎家の内訌《ないこう》が、伊達対大崎の戦となり、伊達が勝てば氏家弾正を手蔓《てづる》にして大崎を呑《の》んでしまおうということになったのである。ところが、氏家を援《たす》けに出た伊達軍の総大将の小山田《おやまだ》筑前《ちくぜん》は三千余騎を率《ひき》いて、金の采配《さいはい》を許されて勇み進んだに関らず、岩出山の氏家弾正を援けようとして一本槍に前進して中新田城を攻めたため、大崎から救援の敵将等と戦っている中に、中新田城よりは後に当っている下新田城や師山《もろやま》城や桑折《くわおり》城やの敵城に策応されて、袋《ふくろ》の鼠《ねずみ》のごとくに環攻《かんこう》され、総大将たる小山田筑前は悪戦して死し、全軍ほとんど覆没《ふくぼつ》し、陣代《じんだい》の高森《たかもり》上野《こうづけ》は聟《むこ》舅《しゆうと》の好《よし》みをもって哀《あわれみ》を敵の桑折(福島附近の桑折《こおり》にあらず、志田《しだ》郡|鳴瀬川《なるせがわ》附近)の城将黒川月舟に請うてわずかに帰るを得たほどである。今氏郷は南から来て四竈を過ぎてその中新田城に陣取ったが、大崎家の余り強くも無い鉾先《ほこさき》ですら、中新田の北に当って同盟者をさえ有した伊達家の兵に大《だい》打撃《だげき》を与え得た地勢である。氏郷の立場は危いところである。政宗の兵が万一敵意をあらわして、氏郷勢の南へ廻《まわ》って立切った日には、西には小野田の城が有って、それから向うは出羽奥羽の脊梁《せきりよう》山脈に限られ、北には岩出山の城、東北には新田の城、宮沢の城、高清水の城、その奥に弱い味方の木村父子が居るがそれは一揆が囲んでいる、東には古川城、東々南には鳴瀬川の股《また》に師山城、松山城、新沼城、下新田城、川南には山に依《よ》って桑折城、東の一方を除いては三方皆山であるから、四方策応して取って掛《かか》られたが最期《さいご》、城に拠って固守すれば少しは支え得ようが、動こうとすれば四年前の小山田筑前の覆轍《ふくてつ》を履《ふ》むほかは無い。氏郷が十二分の注意をもって、政宗の陣の傍へ先手《さきて》の四将を置いたのは、仮想敵にせよ、敵の襟元《えりもと》に蜂《はち》を止まらせておいたようなものである。動静監視のみでは無い、もし我に不利なるべく動いたら直《ただち》に螫《さ》させよう、螫させて彼が騒いだら力足《ちからあし》を踏ませぬ間に直に斬立てよう、というのである。七八町の距離というのは当時の戦には天秤《てんびん》のカネアイというところである。  小山田筑前が口惜《くちおし》くも大失敗を演じた原因は、中新田の城を乗取ろうとして掛ったところ、城将|葛岡《くずおか》監物《けんもつ》が案外に固く防ぎ堪《こら》えて、そこより一里内外の新田に居た主人義隆に援を請い、義隆が直ちに諸将を遣わしたのに本づくので、中新田の城の外郭《そとぐるわ》までは奪《と》ったが、その間に各処の城々より敵兵が切って出たからである。たとえば一箇の獣《けもの》と相搏《あいう》ってこれを獲《え》ようとしている間に、四方から出て来た獣に脚《あし》を咬《か》まれ腹を咬《か》まれ肩を攫《つか》み裂《さ》かれ背を攫《つか》み裂《さ》かれて倒れたようなものである。氏郷は今それと同じ運命に臨まんとしている。なぜといえば氏郷は中新田城に拠っているとは云え、中新田を距《さ》ること幾許《いくばく》も無いところに、名生《めう》の城というのがあって、一揆が籠っている。小さい城では有るがかなり堅固《けんご》の城である。氏郷が高清水の方へ進軍して行けば、戦術の定則上、是非その途中の敵城は落さねばならぬ。その名生の城にして防ぎ堪えれば、氏郷における名生の城はあたかも小山田筑前における中新田の城と同じわけになるのである。しかも政宗は高清水の城まで敵の城は無いと云ったのであるから、蒲生軍は名生の城というのが有って一揆が籠っていることを知らぬのである。されば氏郷は明日名生の城に引かかったが最期である、よしんば政宗が氏郷に斬って掛らずとも、傍観《ぼうかん》の態度を取るだけとしても、一揆方の諸城より斬って出たならば、蒲生勢は千手《せんじゆ》観音《かんのん》でも働ききれぬ場合に陥《おちい》るのである。  明日はいよいよ一揆勢との初手合せである。高清水へは田舎道六十里あるというのであるが、早朝に出立して攻掛かろう。もし途中の様子、敵の仕業《しわざ》に因《よ》って、高清水に着くのが日暮《ひぐれ》に及んだなら、明後日は是非攻め破る、という軍令で、十八日の中新田の夜は静かに更《ふ》けた。無論政宗勢は氏郷勢の前へ立たせられる任務を負わせられていたのである。しかるにその朝は前野の茶室で元気好く氏郷に会った政宗が、その夜の、しかも亥《い》の刻、、すなわち十二時頃になって氏郷陣へ使者をよこした。その言には、政宗今日夕刻よりにわかに虫気《むしけ》に罷《まか》り在《あ》り、何とも迷惑《めいわく》いたしおり候、明日のお働き相延ばされたく、御《お》ン先鋒《さき》を仕《つかまつり》候事成り難く候、とあるのであった。金剛《こんごう》の身には金剛の病《やまい》、巌石も凍《いて》融《とけ》の春の風には潰《くず》るる習いだから、政宗だとて病気にはなろう。虫気というは当時の語で腹痛苦悩の事である。氏郷及び氏郷の諸将はこれを聞いて、ソリャコソ政宗めが陰謀《いんぼう》は露顕《ろけん》したぞ、と思って眼の底に冷然たる笑《えみ》を湛えて点頭《うなず》き合ったに違いあるまい。けれども氏郷の答は鷹揚《おうよう》なものであった。仰《おおせ》の趣は承り候、さりながら敵地に入り、敵を目近《まぢか》に置きながら留《とど》まるべくも候わねば、明日は我が人数を先へ通し候べし、ご養生候て後よりお出候え、と穏《おだ》やかな挨拶だ。この返答を聞いて政宗は政宗で、ニッタリと笑ったかどうだか、それは想像されるばかりで、何の証も無い。ただもし政宗に陰険な計略が有ったとすれば、思う壷《つぼ》に氏郷を嵌《は》めて先へ遣ることになったのである。  十九日の早朝に氏郷は中新田を立った。伊達勢は主将が病気となってヒッソリと静かにしている。氏郷は潮合《しおあい》を計って政宗の方へ使者を出した。それがしはただいま打立ち候、油断無くゆるゆるご養生の上、後よりお出候え、というのであった。そして氏郷は諸軍へ令した。政宗を後へ置く上は常体の陣組には似《に》るべからず、というのであったろう、五手与《いつてぐみ》、六手与、七手与、この三与《みくみ》を後備《あとそなえ》と定め、十番手後備の関勝蔵を三与の後へ入替えた。前にも見えた五手与、六手与などというのは、この頃の言葉で五隊で一集団を成すのを五手与、六隊で一集団を成すのを六手与というのであった。さてこの三与はもちろん政宗の押えであるから、十分に戦を持って、皆後へ向って逆歩《しりあし》に歩み、政宗打って掛らばすぐにも斬《きり》捲《まく》らん勢を含《ふく》んでいた。逆歩に歩むとは記してあるが、それは言葉通りに身構《みがまえ》は南へ向い歩《あし》は北へ向って行くことであるが、それとも別に間隔《かんかく》交替《こうたい》か何かの隊法《たいほう》があって、後を向きながら前へ進む行進の仕方が有ったかどうか精《くわ》しく知らない。但《ただ》し飯田忠彦の野史《やし》に、行布二[#「二」は返り点]常蛇陣一[#「一」は返り点]とあるのは全く書き損《そこな》いの漢文で、常山蛇勢の陣というのは、これとは異なるものである。何はあれ関勝蔵の一隊を境《さかい》にして、前の諸隊は一揆勢に向い、後の三与は政宗に備えながら、そして全軍が木村父子救援のために佐沼の城を志して、差当りは高清水の敵城を屠《ほふ》らんと進行したのは稀有《けう》な陣法で、氏郷雄毅深沈とは云え、十死一生、危きこと一髪《いつぱつ》をもって千鈞《せんきん》を繋《つな》ぐものである。既に急使は家康にも秀吉にも発してあるし、また政宗が露骨《ろこつ》に打って掛るのは、少くとも自分等全軍を鏖殺《みなごろし》にすることの出来る能《よ》く能く十二分の見込《みこみ》が立たなくてはあえてせぬことであると多寡《たか》を括《くく》って、その政宗の見込を十二分には立たせなくするだけの備えをしていれば恐るるところは無い、と測量の意味であるところの当時の言葉の「下墨《さげすみ》」を仕切っており、一揆征服木村救援の任を果そうとしているところは、その魂の張り切り沸り切っているところ、実に懦夫《だふ》怯夫《きようふ》をしてだに感じてしかして奮《ふる》い立たしむるに足るものがある。  高清水まで敵城は無いと云う事であったが、それは真赤な嘘《うそ》であった。中新田を出てわずかの里数を行くと、そこに名生の城というが有って一揆の兵が籠っており、蒲生軍に抵抗した。先隊の四将、蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、蒲生四郎兵衛、町野左近等、何|躊躇《ちゆうちよ》すべき、しおらしい田舎武士めが弓箭《ゆみや》だて、我等が手並を見せてくれん、ただ一《ひ》ト揉《もみ》ぞと揉立てた。池野作右衛門という者一番首を取る、面々励《はげ》み勇み喊《おめ》き叫んで攻立った。作右衛門|素捷《すばや》く走り戻《もど》って本陣に入り、首を大将の見参《げんざん》に備え、ここに名生の城と申す敵城有って、先手の四人合戦|仕《つかまつ》った、と述べた。サアここである。氏郷がここで名生の城に取掛けて手間取っておれば、四年前の小山田筑前と同じ事になって、それよりもなお甚だしい不利の場合に身を置くことになるのである。鏖殺《おうさつ》さるべき運命を享受《きようじゆ》する位置に立つのである。  氏郷は真に名生の城が前途に在ったことを知らなかったろうか。種々の書には全くこれを知らずに政宗に欺《あざむ》かれたように記してある。なるほど氏郷の兵卒等は知らなかったろうが、氏郷が知らなかったろうとは思えぬ。縮みかえっていた小田原を天下の軍勢と共に攻めた時にさえ、忍びの者を出しておいて、五月三日の夜の城中からの夜討《ようち》を知って、使番をもって陣中へ夜討が来るぞと触れ知らせたほどに用意を怠《おこた》らぬ氏郷である。ましていまだかつて知らぬ敵地へ踏込む戦、特に腹の中の黒白《こくびやく》不明な政宗を後へ置いて、三里五里の間も知らぬごとき不詮議《ふせんぎ》の事で真黒闇《まつくらやみ》の中へ盲目《めくら》探《さぐ》りで進んで行かれるものでは無い。小田原の敵の夜討を知ったのは、氏郷の伊賀衆《いがしゆう》の頭《かしら》、忍びの上手《じようず》と聞えし町野|輪之丞《りんのじよう》という者で、毎夜毎夜忍びて敵城を窺《うかが》ったとある。伊賀衆というのは伊賀侍、もしくは伊賀侍から出た忍びの術を習得した者共という義で、甲賀衆《こうがしゆう》と云うのは江州甲賀の侍に本づく同様の義の語、そして転じては伊賀衆甲賀衆といえば忍びの術を知って偵察《ていさつ》の任を帯びている者という意味に用いられたのである。日本語も満足に使えぬ者等が言葉の妄解《もうかい》妄用を憚らぬので、今では忍術は妖術《ようじゆつ》のように思われているが、忍術は妖術では無い、潜行《せんこう》偵察の術である。戦乱の世において偵察は大必要であるから、伊賀衆甲賀衆がなかなか用いられ、伊賀流甲賀流などと武術の技としての名目《めいもく》も後には立つに至った。石川五右衛門は伊賀河内の間の石川村から出た忍術者だったまでだ。町野輪之丞は伊賀衆の頭とある、頭が有れば手足は無論有る。不知案内の地へ臨んで戦い、料簡不明の政宗と与《とも》にするに、氏郷がこの輪之丞以下の伊賀衆をポカリと遊ばせておいたりいたずらに卒伍《そつご》の間に編入していることの有り得る訳は無い。輪之丞以下は氏郷出発以前から秘命を受けて、妄談者流の口吻《こうふん》に従えばそれこそ鼠になって孔《あな》から潜《もぐ》り込《こ》んだり、蛇《へび》になって樹登《きのぼ》りをしたりして、ある者は政宗の営を窺いある者は一揆方の様子を探り、必死の大活躍をしたろうことは推察《すいさつ》に余り有ることである。そしてこれ等の者の報告によって、至って危い中から至って安らかな道を発見して、精神|気魄《きはく》の充《み》ち満《み》ちた力足を踏みながら、忠三郎氏郷は兜の銀の鯰《なまず》を悠然《ゆうぜん》と遊《およ》がせたのだろう。それで無くて何で中新田城から幾里も距《へだ》らぬところに在った名生の敵城を知らずに、十九日の朝に政宗を後にして出立しよう。城は騎馬武者の一隊では無い、突然に湧《わ》いて出るものでも何でもない。まして名生の城は木村の家来の川村|隠岐守《おきのかみ》が守っていたのを旧柳沢の城主柳沢隆綱が攻取って拠っていたのである。それだけの事実が氏郷の耳に入らぬ訳はない。  氏郷は前隊からの名生攻の報を得ると、その雄偉《ゆうい》豪傑《ごうけつ》の本領を現わして、よし、分際《ぶんざい》知れた敵ぞ、瞬《またた》く間にその城乗取れ、気息《いき》吐《つ》かすな、と猛烈果決の命令を下した。そして一方五手組、六手組、七手組の後備《あとぞなえ》に対《むか》っては、おもしろいぞ、おもしろいぞ、名生の城攻むると聞かば必定《ひつじよう》政宗めが寄せて来うぞ、三段に陣を立てて静まりかえって待掛けよ、比類無き手柄する時は汝等に来たぞ、と励まし立てる。後備の三隊は手薬錬《てぐすね》ひいて粛《しゆく》として、政宗来れかし、眼に物見せてくれんと意気込む。先手は先手で、分際知れた敵ぞや、瞬く間に乗取れという猛烈《もうれつ》の命令に、勇気既に小敵を一卜呑みにして、心頭の火は燃えて上《のぼ》る三千丈、迅雷《じんらい》の落《おち》掛《かか》るがごとくに憤怒《ふんぬ》の勢|凄《すさま》じく取って掛った。敵もさすがに土民ではない、柳沢隆綱等は、ここを堪《こら》えでは、と熱湯の玉の汗になって防ぎ戦った。しかし蒲生勢の恐ろしい勢は敵の胆《きも》を奪《うば》った。外郭は既に乗取った。二の丸も乗取った。見る見る本丸へ攻め詰めた。上坂源之丞、西村左馬允、北川久八、三騎並んで大手口ヘ寄せたが、久八今年十七八歳、上坂西村を抜いて進む。さはせぬ者ぞと云う間もあらせず、敵を切伏せ首を取る。先んぜられたり、心外、と二人も駈入りて手痛く戦う。氏郷本陣の小姓《こしよう》馬廻りまで、ただ瞬く間に陥《おと》せ、と手柄を競《きそ》って揉立《もみた》つる。中にも氏郷が小小姓《こごしよう》名古屋《なごや》山三郎《さんさぶろう》、生年《しようねん》十五歳、天下に名を得た若者だったが、白綾に紅裏《もみうら》打ったる鎧下《よろいした》、色々糸縅《いろいろおどし》の鎧、小梨打《こなしうち》の冑《かぶと》、猩々緋《しようじようひ》の陣羽織《じんばおり》して、手鑓《てやり》提《ひつさ》げ、城内に駈入り鑓を合せ、目覚ましく働きて好《よ》き首を取ったのは、猛《たけ》きばかりが生命《いのち》の武者共にも嘆賞《たんしよう》の眼を見張らさせた。名古屋は尾州《びしゆう》の出で、家の規模として振袖の間に一《ひ》卜高名《こうみよう》してから袖を塞《ふさ》ぐことに定まっていたとか云う。当時この戦の功を讃《たた》えて、鎗仕《やりし》鎗仕《やりし》は多けれど名古屋山三は一の鎗、と世に謡《うた》われたということだが、正にこれ火裏《かり》の蓮華《れんげ》、人の眼《まなこ》を快《こころよ》うしたものであったろう。あるいは山三の先登はこの翌年、天正十九年|九戸《くのへ》政実を攻めた時だともいうが、その時は氏郷のみでは無く、秀次、徳川、掘尾、浅野、伊達、井伊《いい》等大軍で攻めたのだから、何も氏郷が小小姓まで駈出させることは無かったろう。この戦は瞬間《しゆんかん》に攻落すことを欲したから、北村、名古屋の輩《やから》までに力を出させたのである。それはともあれかくもあれ、敵も一生懸命に戦ったから、蒲生勢にも道家《どうけ》孫一《まごいち》、粟井六右衛門、町野新兵衛、田付《たづき》理介《りすけ》等の勇士も戦死し、兵卒の討死|手負《ておい》も少くなかったが、ついに全く息もつかせず瞬く間に攻落してしまって、計取る首数六百八十余だったと云うから、城攻としては非常に短い時間の、随分|激烈《げきれつ》苛辣《からつ》の戦であったに疑無い。  政宗は謀《はか》った通りに氏郷を遣り過して先へ立たせてしまった。氏郷は名生の城へ引掛るに相違無い、と思った。そこで、いざ急ぎ打立てや者共と、同苗《どうみよう》藤五郎成実、片倉小十郎景綱を先手にして、揉みに揉んで押寄せた。ところが氏郷の手配《てくばり》は行届いていて、かの三隊の後備は三段に備を立てて、静かなること林のごとく、厳然として待設けていた。すわや政宗寄するぞ、心得たり、手を出さば許すまじ、弾丸《たま》振舞わん、と鉄砲の火縄の火を吹いている勢だ。名生の城は既に落されて烟《けむり》が揚《あが》り、氏郷勢は皆城を後にして、政宗いかんと観ているのである。これを看て取った政宗は案に相違して、どうにも乗ろう潮《しお》が無い。仕方が無いから名生の左の野へ引取って、そこへ陣を取った。  氏郷は名生の城へ入ってこれに拠った。政宗が来ぬ間に城を落してしまったから、小山田筑前と同じようにはならなかった。氏郷が名生の城を攻めるに手間取っていたならば、名生の城で相図《あいず》の火を挙げる、その時宮沢、岩手山、古川、松山四ヶ処の城々より一揆勢は繰出《くりだ》し、政宗と策応して氏郷勢を鏖殺《おうさつ》し、氏郷武略|拙《つたな》くて一揆の手に斃《たお》れたとすれば、木村父子は元来論ずるにも足らず、その後一揆共を剛、柔、水、火の手段にあしらえば、奥州は次第に掌《たなごころ》の大きい者の手へ転げ込むのであった。しかし名生の城は気息《いき》も吐《つ》けぬ間に落されてしまって、相図の火を挙げる暇《いとま》なぞも無く、宮沢、岩手山等四ヶ処の城々の者共は、策応するも糸瓜《へちま》も無く、かえって氏郷の雄威《ゆうい》に腰を抜かされてしまった。  政宗は氏郷へ使を立てた。名生を攻められ候わばそれがしへも一方仰付けられたく候いしに、かくては京都への聞えもいかがと残念に候、と云うのであった。氏郷の返辞はアッサリとして妙《みよう》を極《きわ》めたものであった。この敵城あることをば某《それがし》も存ぜず候間に、先手の者ども、はや攻落して候、と空《そら》嘯《うそぶ》いて片付けておいて、さてそれからが反対に政宗の言葉に棒《ぼう》を刺して拗《こじ》っている。京都への聞え、お心づかいにも及び申すまじく候、この向うに宮沢とやらん申す敵城の候、それを攻められ候え、しかるべく聞え候わむ、というのであった。政宗は違儀も出来ない。宮沢の城へ寄せたが、もとより政宗の兵力宮沢の城の攻《せめ》潰《つぶ》せぬことは無いに関らず、人目ばかりに鉄砲を打つ位の事しかしなかった。宮沢の城将岩崎|隠岐《おき》は後に政宗に降った。  明日は高清水を屠《ほふ》ってしまおうと氏郷は意を洩《も》らした。名生の一戦は四方を震駭《しんがい》して、氏郷の頼むに足りまた畏《おそ》るるに足る雄将である事を誰にも思わせたろう。特《こと》に政宗方に在って、一揆の方の様子をも知り、政宗の画策《かくさく》をも知っていた者に取っては、驚くべき人だと思わずにはいられなかったろう。そこで政宗に心服している者はとにかく、政宗に対してかねてからイヤ気を持っていた者は、政宗に付いているよりも氏郷に随身した方が吾が行末も頼もしい、と思うに至るのも不思議では無い。ここに政宗に取っては厄介《やつかい》の者が出て来た。それは政宗の臣の須田《すだ》伯耆《ほうき》という者で、伯耆の父の大膳《たいぜん》という者は政宗の父輝宗の臣であった。輝宗が二本松義継に殺された時、後藤基信が殉死《じゆんし》しようとしたのを政宗は制した位で、政宗は殉死を忌《いみ》嫌《きら》ったけれど、その基信も須田大膳も、馬場右衛門という人もついに殉死してしまった。殉死の是非は別として、不忠の心から追腹《おいばら》は切られぬ。大膳の殉死は輝宗に対する忠誠に出でたのだ。ところが殉死を忌嫌う政宗の意は非とすべきでは無いが、殉死を忌む余りに殉死した者をも悪《にく》んだ。で、大膳は狂者のように謂《い》われ、大膳の子たる伯耆まで冷遇さるるに至った。父が忠誠で殉死したのである、その子は優遇されなくても普通には取扱われてもしかるべきだが、主人の意に負《そむ》いたという廉《かど》であろう、伯耆は自ら不遇であることを感じたから、何につけかにつけ、日頃不快に思っていた。これもまた凡人《ぼんじん》である以上は人情の当《まさ》にしかるべきところだ。氏郷の大将振り、政宗の処置ぶり、自分が到底《とうてい》政宗に容《い》れられないで行末の頼もしからぬことなどを思うと、今にして政宗を去って氏郷に附《つ》いた方が賢いと思った。ちょうどその家を思わぬでは無い良妻も、夫の愛を到底得ぬと思うと、誘う水に引かれて横にそれたりなぞするのと同じことである。人情といい世態という者はさてさてなさけ無いものだ。大忠臣の子は不忠者になって政宗に負《そむ》いたのである。  そこでその十九日の夜深《よふか》に須田伯耆は他の一人と共に逃げ込んで来て、蒲生源左衛門を頼んだ。ただ来たところで容れられる訳は無いから、飛んでもない手土産《てみやげ》を持って来た。それは政宗と一揆方との通謀《つうぼう》の証拠になる数通の文書であった。逃げて来た二人の名は蒲生方の記には山戸田《やまとだ》八兵衛、牛越《うしごえ》宗兵衛とある。須田は政宗が米沢を去った後に氏郷の方へ来て、政宗の秘を訐《あば》いた者となっている。  蒲生源左衛門は須田等を糺《ただ》した。二人は証拠文書を攘《と》って来たのだから、それに合せて遂一《ちくいち》に述立てた。大崎と伊達との関係、大崎義隆の家は最上義光を宗家としていること、最上家は政宗の母の家であること、母と政宗とは不和の事、政宗が大崎を図った事、そんな事をも語ったろうが、それよりはまず差当って、一揆を勧めたこと、黒川においての企の事、中新田にて虚病の事、名生の城へ氏郷を釣《つり》寄《よ》せる事、四城と計《はかりごと》を合せて氏郷を殺し、一揆の手に打死を遂げたることにせんとしたる事、政宗方に名生の城の落武者来りて、余りに厳しく攻められて相図|合期《ごうご》せざりしと語れる事等を訐《あば》き立てた。そしてその上に、高清水に籠城している者も、また佐沼の城を囲んでいる者も、皆政宗の指図に因《よ》って実は働いている者であることを語り、よく政宗が様子をお見留めなされて後にお働きなさるべしと云った。  二人が言は悉皆《しつかい》信ずべきかどうかは疑わしかったろう。しかし氏郷は証拠とすべきところの物を取って、かつ二人を収容して生《いき》証拠《しようこ》とした。もうなまじいに働き出すことは敵に乗ずべきの機を与えるに過ぎぬ。木村父子を一揆が殺す必要も無く政宗が殺す必要も無いことは明らかだから、焦慮《しようりよ》する要は無い。かえってこの城に動かずにいれば政宗も手を出しようは無い、と高清水攻をあえてせずに政宗の様子のみに注意した。伊賀衆はしきりに働いたことだろう。  氏郷は兵粮《ひようろう》を徴発《ちようはつ》し、武具を補足して名生に拠るの道を講じた。急使は会津へ馳《は》せ、会津からは弾薬《だんやく》を送って来た。政宗は氏郷が動かぬのを見て何ともし難かった。自分に有理有利な口実があって、そして必勝鏖殺が期せるので無ければ、氏郷に対して公然と手を出すのは、勝っても負けても吾身の破滅であるから為す術は無かった。須田伯耆が駈込んだことは分って居るが、氏郷の方からは知らぬ顔でいる。そこで十二月二日まで居たが、氏郷は微動だに為さぬので、事皆成らずと見切って、引取って帰ってしまった。もちろん氏郷の居る名生の城の前は通らず、断りもしなかったが、氏郷がこれを知って黙《もく》していたのであることももちろんである。もう氏郷は秀吉に対して尽すべき任務を予期以上の立派さをもって遂げているのである。佐々成政にはならなかったのである。一揆等は氏郷に対して十分畏れ縮んでおり、一揆の一雄将たる黒沢豊前守という者は、吾子を名生の城へ人質に取られているのを悲んで、佐沼の城から木村父子を名生に送り届けるから交換して欲しいと請《こい》求《もと》めたので、これを諾《だく》してその翌月二十六日、その交換《こうかん》を了《りよう》したのである。豊前守の子は後に黒沢六蔵と云って氏郷の臣となった。  浅野長政は関東の諸方の仕置を済ませて駿河《するが》府中《ふちゆう》まで上《のぼ》った時に、氏郷の飛脚《ひきやく》に逢《あ》った。江戸に立寄って家康に対面し、蒲生忠三郎を見継《みつ》がんために奥州へ罷《まか》り下《くだ》る、ご加勢ありたし、と請うたから家康も黙ってはおられぬ。結城《ゆうき》秀康を大将に、榊原《さかきばら》康政を先鋒にした。長政等の軍は十二月中旬には二本松に達した。それより先に長政は浅野六右衛門を氏郷の許《もと》へ遣った。六右衛門は名生へ行ったから、一切の事情は分明した。長政は政宗を招《よ》ぶ、政宗は出ぬわけには行かぬ、片倉小十郎その外三四人を引連れて、おとなしく出て来て言訳をした。何事も須田伯耆の讒構《ざんこう》ということにした。それならば成実盛重両人を氏郷へ人質に遣りて、氏郷これへ参られて後にその仔細《しさい》を承わりて、言上《ごんじよう》可申《もうすべし》と突込《つつこ》んだ。政宗は領掌《りようしよう》したが、人質には盛重一人しか出さなかった。氏郷は承知しなかった。ついに十二月二十八日成実は人質に出た。この成実はかつて政宗に代って会津の留守をしたほどの男で、後に政宗に対して何を思ったか伊達家を出た時、上杉景勝が五万石をもって迎えようとした。しかし景勝には随身しないで、また伊達家へ帰ったが、その時はわずかに百人|扶持《ぶち》を給されたのみであったのに、斎藤|兵部《ひようぶ》というものが自ら請うて信夫《しのぶ》郡の土兵五千人を率いて成実に属せんことを欲したので、成実は亘理《わたり》郡二万三千八百石を賜わって亘理城に居らしめらるるに至ったという。いわゆる埋没さるること無き英霊底《えいれいてい》の漢《おのこ》である。大坂陣の時は老病の床に在ったが、子の重綱に対《むか》って、この戦は必ず一度和談になって、そして明年に結局を見るだろう、と外濠《そとぼり》を埋《う》められてから大阪が亡びるに至るだろうことを予言した片倉小十郎と共に実に伊達家の二大人物であった。その成実を強要していったんにせよ人質に取った氏郷は、戦陣のみでは無い樽俎《そんそ》折衝《せつしよう》においても手強《てごわ》いものであった。  その年は明けて天正十九年正月元日、氏郷は木村父子を携《たずさ》えて名生を発して会津へと帰るその途で、浅野長政に二本松で会した。政宗の様子はすべて長政に合点出来た。長政はそこで上洛する。政宗も手を束《つか》ね居てはならぬから、秀吉の招喚《しようかん》に応じて上洛する。氏郷は人質を返して、かの二人が提出した証文を持参し、これも同じく上洛した。政宗が必死を覚悟して、金箔《きんぱく》を押した磔刑《はりつけ》柱《ばしら》を馬の前に立てて上洛したのはこの時の事で、それがしの花押《かきはん》の鶺鴒《せきれい》の眼の睛《たま》は一ト月に三たび処を易《か》えまする、この書面の花押はそれがしの致したるには無之《これなく》、と云い抜けたのもこの時の事である。鶺鴒の眼睛《がんせい》の在処《ありどこ》を月に三度易えるとは、平生から恐ろしい細かい細工《さいく》をしたものだ。  政宗はかくのごとく証拠書類を全然否定して剛情に自分の罪を認めなかった。溝《どぶ》の底の汚泥《おでい》を掴《つか》み出すのは世態に通じたもののすることでは無い、と天明度《てんめいど》の洒落《しやれ》者《もの》の山東京伝《さんとうきようでん》は曰《い》ったが、秀吉もさすがに洒落者だ。馬でも牛でも熊でも狼でも自分の腹の内を通り抜けさせてやる気がある。人の腹の中が好いの悪いのと注文を云っている絛虫《さなだむし》や蛔虫《かいちゆう》のようなケチなものではない。三百《さんびやく》代言《だいげん》気質《かたぎ》に煩《わずら》わしいことをもって政宗を責めはしなかった。かえって政宗に、一手をもって葛西大崎の一揆を平《たいら》げようと命じた。あるいはこれは政宗が自ら請うたのだとも云うが、いずれへ廻っても悪い役目は葛西大崎の土酋《どしゆう》で、政宗のために小苛《こつぴど》い目に逢《あ》ってしまった。  この年の夏、南部の九戸《くのへ》左近政実という者が葛西大崎などのより規模《きぼ》の大きい反乱を起したが、秀次の総大将、氏郷の先鋒、諸将出陣というので論無く対治されてしまい、それで奥羽は腫物《はれもの》の根が抜けたように全く平定した。氏郷はこの時も功が有ったので、前後|勲功《くんこう》少からずとて七郡を加増せられ、百万|石《ごく》を領するに至った。  多分九戸乱の済《す》んだ後、天正十九年か二十年の事であったろう。前年の行《ゆき》掛《がか》りからどうも氏郷政宗の間が悪い。自分の腹の中で二人に喧嘩《けんか》されては困るから、秀吉は加賀|大納言《だいなごん》前田利家へ聚楽《じゆらく》での内証《ないしよう》話《ばなし》に、大納言|方《かた》にて仲を直さするようにとの依頼《いらい》をした。利家もちょっと迷惑で無いことも無かったろう。仲の悪い二人を一室に会わせて仲が直ればよいが、かえって何かの間違から角《かど》立《だ》った日には、両虎《りようこ》一澗《いつかん》に会うので、相《あい》搏《う》たずんば已《や》まざるの勢である。刃傷《にんじよう》でもすれば喧嘩両成敗、氏郷も政宗も取潰されてしまうし、自分も大きな越度《おちど》である。二桃三士を殺すの計《はかりごと》とも異なるが、一席の会合が三人の身の上である。秀吉に取ってはそういうことが起っても差支は有るまいか知らぬが、自分等に取っては大変である。そこで辞したいは山々だったろうが、両人の仲悪きは天下にも不為《ふため》であるという秀吉の言には、重量《おもみ》が有って避《さ》けることが出来ぬ。是非が無いから、氏郷政宗を請待《しようたい》して太閤の思わくを徹《てつ》することにした。氏郷は承知した。政宗も太閤内意とあり、利家の扱いとあり、理の当然で押えられているのであるから戻《もど》くことは出来ぬ。しかし主人の利家は氏郷と大《だい》の仲好しで、かつまた免れぬ中の縁者である、又左衛門が氏郷|贔負《びいき》なのは知れきった事である、特《こと》に前年自分が氏郷を招いた前野の茶席の一件がある。いかに剛胆《ごうたん》な政宗でも、コリャ迂闊《うかつ》には、と思ったことで有ろう。けれども我儘に出席をことわる訳にはならぬ、虚病も卑怯《ひきよう》である。是非が無い。有難《ありがた》き仕合《しあわせ》、当日|罷出《まかりい》で、ご芳情《ほうじよう》御礼《おんれい》申上ぐるでござろう、と挨拶せねばならなかった。余り御礼など申上たいことは無かったろう。しかしさすがは政宗である、シャ、何事も有らばあれ、と参会を約諾《やくだく》した。  その日は来た。前田利家もかなり心《こころ》遣《づか》いをしたことであろうが、これはまた人物が大きい、ゆったりと肉つきの豊かなところが有って、そして実はなかなか骨太であり、諸大名の受けもよくて徳川か前田かと思われたほどであるから、かかる場合にも坦夷《たんい》の表面の底に行届いた用意を存していたことであろう。相客には浅野長政、前田徳善院、細川越中守、金森法印、有馬法印、佐竹|備後守《びんごのかみ》、その他五六人の大名達を招いた。場処はもちろん主人利家の邸で、高楼《こうろう》の大広間であった。座席の順位、人々の配り合せは、こういう時において非常に主人の心づかいの要せらるるものだ。無論氏郷を一方の首席に、政宗を一方の首席に、いわゆる両立《りようだて》というところの、双方《そうほう》に甲乙上下の付かぬように請《しよう》じて坐せしめた事だろう。それから自然と相客の贔負《ひいき》贔負《ひいき》が有るから、右方贔負の人々をば右方へ揃《そろ》え、左方贔負の人々を左方へ揃えて坐らせる仕方もあれば、これを左右|錯綜《さくそう》させて坐らせる坐らせ方も有る訳で、その時その人その事情に因《よ》って主人の用意は一様に定《さだま》った事では有るまいが、利家がこの日人々をどう組合せて坐らせたかは分らない。但しこの日の相客の中で、佐竹の家は伊達の家と争い戦った事はあるが元来が親類合だから、伊達が蒲生に対する場合は無論備後守は伊達贔負の随一だ。徳善院は早くから政宗と懇親《こんしん》である。細川越中守は蒲生贔負たること言うまでも無い。浅野弾正大弼長政はなかなか硬直で、場合によれば太閤殿下をも、狐《きつね》に憑《つ》かれておわすなぞと罵ることもあるほどだが、平日は穏便《おんびん》なることが好きな、物分りのよい人であるから、氏郷贔負では有るが政宗にも同情を吝《おし》む人では無い。有馬、金森、いずれもなかなか立派に一卜器量ある人々であり、他の人々も利家がその席を尊《たつと》くして吾子の利長利政をも同坐させなかったほどだから、皆相応の人々だったに疑無い。主人利家に取っては自分の支持をするものが一人でも多いのがよい訳だから、子息達も立派な大名である故同座させた方が万事に都合が好いのだが、そこは又左衛門利家そんなナマヌル魂では無い。両者の仲裁仲直りの席に、司会者の側の顔を大勢並べて両者を威圧するようにするのは卑怯で、かかる場合万々一間違が出来れば、左方からも右方からも甘《あま》んじて刀を受けて、一身を犠牲にして、そしてあくまでも双方を取《とり》纏《まと》めるのを当然の覚悟とするから、助勢なんぞはかえって要せぬのである。  人々は座に直った。利家は一坐を見ると、伊達藤次郎政宗は人々に押つけられまじい面魂《つらだましい》でウムと坐っている。それもそのはずで、いろいろの経緯《いきさつ》があった蒲生忠三郎を面前に扣《ひか》えているのであるから。また蒲生忠三郎氏郷も、何を云わぬばかりの様子でスイと澄《す》ましている。これもそのはずだ。氏郷は「錐《きり》、嚢《ふくろ》にたまらぬ風情《ふぜい》の人」だと記されているから、これも随分恐ろしい人だ。厄介な人達の仲直りを利家は扱わせられたものだ。前田家の家臣の書いているところに拠ると、「その節御勝手衆も申候は、今日政宗の体《てい》、大納言殿御ン屋にて無く候わば、まんをも仕《つかまつ》られ申すべく候、また飛騨守《ひだのかみ》殿も少《すこし》も少もさようの事|堪忍《かんにん》これなき仁にて、事も出来申候事もこれ有るべく候えども云々《うんぬん》」とある。まんとは我儘である。氏郷政宗二人の様子を饗応掛りの者の眼から見たところを写しているのである。そこで利家が見ると、政宗は肩衣でいる、それはよい、脇指《わきざし》をさしている、それもよいが、その脇指が朱鞘《しゆざや》の大脇指も大脇指、長さが壱尺八九寸もあった。そんな長い脇指というものが有るもので無い。利家の眼はかような恐ろしく長い脇指を指している政宗の胸の中を優しく見やった。ここを我等から政宗の器量が小さいように看て取ってはならぬ。政宗は政宗で、むしろここが政宗の好い処である。脇指はいかに長くても脅《おど》かしにはならぬ、まして一坐の者は皆血烟りの灌頂《かんちよう》洗礼を受けている者達だ。だからその恐ろしく長い大脇指は使うつもりで無くて何で有ろう。使うつもりである、ほんとに使うつもりであったのである。好んでこれを使おうようは無いが、主人の挨拶、相手の出方、罷《まか》り間違ったら、おれはおれだ、の料簡がある。何十万石も捨てる、生命《いのち》も捨てる、屈辱《くつじよく》に生きることは嫌《いや》だ、遣りつけるまでだ、という所存があったのである。沸り立った魂は誰もこうである。これが男児たる者の立派な根性《こんじよう》で無くて何で有ろう。後に至っては政宗もずっと人が大きくなって、江戸の城中で徳川の旗本から一|拳《けん》を食わせられたが、その時はもう「蟻《あり》、牡丹《ぼたん》に上《のぼ》る、観を害せず」で、殴《なぐ》った奴は蟻、自分は大きな白牡丹と納まりかえったのである。が、この時はまだ若盛り、二十六七せいぜい二十八である。まだ泰平《たいへい》の世では無い、戦乱の世である。少しでも他に押込まれて男を棄《す》てては生甲斐《いきがい》が無いのである。壱尺七八寸の大脇指は、珍重珍重。政宗は政宗だ、誰に遠慮がいろうか。元来政宗はまた人に異った一《ひ》卜気象《きしよう》が有った者で、茶の湯を学んでから、そこはいかに政宗でも時代の風には捲《まき》込《こ》まれて、千金もする茶碗を買った。ところがそれを玩賞《がんしよう》していた折から、ふと手を滑《すべ》らせてその茶碗を落した。するとさすが大々名でもハッと思うて胸ドッキリと心が動いた。そこで政宗は自ら慚《は》じ自ら憤《いきどお》った。貴《たつと》いとはいえ多寡《たか》が土細工の茶碗だ、それに俺ほどの者が心を動かしたのは何事だ、エエ忌々しい、とその茶碗を把《と》って、ハッシ、庭前の石へ叩《たた》きつけて粉《こな》にしてしまったということがある。千両の茶碗を叩きつけたところはちと癇癪《かんしやく》が強過ぎるか知らぬが、物に囚《とら》われる心を砕いたところは千両じゃ廉《やす》いくらいだ。千両の茶碗をも叩《たた》ッ壊《こわ》したその政宗が壱尺七八寸の叩き壊し道具を腰にしている、何を叩き壊すか知れたものでは無い。そしてその対坐《むこうざ》に坐っているのは、古い油筒を取上げて三百年も後までその器の名を伝えた氏郷である。片や割《われ》茶碗《ぢやわん》、片や油筒、好い取組である。氏郷その日の容儀《ようぎ》は別に異様では無かった。「飛騨守殿|仕立《したて》は雨かかりの脇指にて候」とある。少し不明であって精《くわ》しくは分らぬ。が、政宗のごときでは無く、尋常《じんじよう》に優しかったのであろう。主人はじめその他の人々も無論普通礼服で、法印等|法体《ほつたい》の人々は直綴《じきとつ》などであったと思われる。何にせよ政宗の大脇指は目に立った。人々も目を着けてこれを読んだろう。仲直り扱いの主人である又左衛門利家は又左衛門利家だけにさすがに好かった。その大脇指に眼をやりながら、政宗殿にはだてなる御ン仕立、と挨拶ながら当てた。綿の中に何かが有る言葉だ。実に味が有る。又左衛門|大出来《おおでき》、大出来。太閤が死病の時、この人の手を押頂いて、秀頼《ひでより》の上を頼み聞えたが、実に太閤に頂かせるだけの手をこの人は持っていたのだ。何とまあ好い言葉だろう、この時この場、この上に好い語は有るまい。政宗は古禅僧の徳山《とくさん》の意気である、それもたしかにおもしろい。しかし利家は徳山どころではない、大《だい》禅師《ぜんじ》だ。「政宗は殊《こと》のほか当りたる体にて候」と前田の臣下が書いているが、いかに政宗でも、扱い役である利家に対《むか》ってこの語をいかんともすることは出来無かったろう、殊のほか当ったに相違無い。しかし政宗も悪くはなかった、遠国《えんごく》に候故、と云って謹《つつし》んでおとなしくしたという。田舎者でござるから、というようなものだ。そこで盃《さかずき》が二ッ座上に出された。利家は座の中へ出て、殿下の意を伝え、諸大名も自分も双方の仲好からん事を望む趣意を挨拶し、双方へ盃を進め、酒礼よろしく有って、ついに無事円満にその席は終ってしまった。利家の威も強く徳もあり器量も有ったので上首尾に終ったのである、殿下が利家にこの事を申付けられたのもご尤《もつとも》だった、というので秀吉までが讃《ほ》められて、氏郷政宗の仲直りは済んだ。「だてなる御《おん》仕立」は実に好かった。「だて」という語は伊達家の衣裳《いしよう》持物《もちもの》の豪華《ごうか》から起ったの、朝鮮《ちようせん》陣《じん》の時に政宗の臣遠藤宗信や原田宗時等が非常に大きな刀や薙刀《なぎなた》などを造ったから起ったのだなどと云うのは疑わしい。も少し古くから存した言葉だろう。 天正二十年すなわち文禄《ぶんろく》元年、かの朝鮮陣が起ったので、氏郷は会津に在城していたが上洛の途《と》に上った。白河《しらかわ》を越え、下野《しもつけ》にかかり、遊行《ゆぎよう》上人《しようにん》に道しるべした柳の陰に歌を詠《えい》じ、それから那須野《なすの》が原へとかかった。茫々《ぼうぼう》たる曠野《あらの》、草莱《そうらい》いたずらに茂《しげ》って、千古ただ有るがままに有るのみなのを見て、氏郷は「世の中にわれは何をかなすの原なすわざも無く年や経ぬべき」と歎《たん》じた。歌のおもてはもちろん那須野が原の世に何の益をもなさで今後も甲斐なく年を経るであろうかと歎じたのである。しかし歌は顕昭《けんしよう》阿闍黎《あじやり》の論じたごとく、詩は祇園《ぎおん》南海《なんかい》の説いたごとく、その裏に汲めば汲むべき意の自然に存しているものである。この歌を味わえば氏郷が身ようやく老いんとして志《こころざし》いまだ遂《と》げざるをば自ら悲み歎じたさまが思い浮められる。それから佐野《さの》の舟橋《ふなばし》を過ぎ信濃《しなの》へ入ったところ、火を有《も》つ浅間の山の煙は濛々《もうもう》漠々《ばくばく》として天を焦《こが》している。そこで「信濃なる浅間の岳《たけ》は何を思う」と詠み掛けたりなぞしている。自分が日頃胸を焦《こ》がして思うところが有るからであったろう。  肥前《ひぜん》名護屋《なごや》に在って太閤に侍《じ》していた頃、太閤が朝鮮陣の思うようにならぬを悦《よろこ》ばずして、我みずから中軍を率い、前田利家を右軍、蒲生氏郷を左軍にして渡海《とかい》しようと云った時、氏郷が大《おおい》に悦んで、人生は草葉の露《つゆ》、願わくは思うさま働きて、と云ったことは名高い談《はなし》である。その事は実現しなかったけれども、氏郷の英雄の意気と、太閤に頼もしく思われた程度とは想察に余りある。氏郷が病死したのは文禄四年二月七日で、齢《よわい》は四十歳で有ったが、その死後右筆《ゆうひつ》頭《がしら》の満田《みつだ》長右衛門《ちようえもん》がある時氏郷の懸《かけ》硯《すずり》を開いて、「朝鮮へ国替《くにかえ》仰《おお》せ付けられたく、一類|眷属《けんぞく》ことごとく引率してかの地へ渡り、直ちに大明《だいみん》に取って掛り、事果てぬ限りは帰国仕るまじき旨《むね》の目安《めやす》」を作りおかれしが、これを上《たてまつ》らるるに及ばずして御寿命が尽きさせられた、と歎じたという。これをケチな史家共は、太閤にその材能を忌まれたから、氏郷が自ら安んぜずしてそういう考《かんがえ》を起したのであるというが、そんな蝨ッたかりの秀吉でもない氏郷でもない、九尺|梯子《ばしご》は九尺梯子で、後の太平の世に生れて女飯《おんなめし》を食った史伝家輩は、元亀《げんき》天正の丈《たけ》高い人を見損《みそこな》う傾《かたむき》がある。  太閤が氏郷を忌んで、石田三成と直江《なおえ》兼続《かねつぐ》の言を用い、利休の弟子《でし》の瀬田|掃部《かもん》正忠に命じて毒茶を飲ませたなどと云うのは、実に忌々しい。正忠の茶に招かれて、帰宅して血を咯《は》いたことは有ろうが、それは病気の故で有ったろう。無い事に証拠は無いものであるから、毒を飼わなかったという証拠は無い訳だが、太閤が毒を飼ったということは信ぜられない。太閤がそんなことをする人とは思えないばかりで無い、そんなことをする必要がどこにあるであろう。氏郷が生きていれば、豊臣家はかえってあんなにはならなかったろう。氏郷が利家と仲好く、利家は好い人物であり、氏郷と家康とは肌合が合わぬのであった。そういうことを知らぬような寝惚《ねぼ》けた秀吉では無い。ある時氏郷邸で雁《がん》の汁《しる》の会食があって、前田肥前守、細川越中守、上田|主水《もんど》、戸田|武蔵守《むさしのかみ》など参会したことがあった。食後雑談になって、もし太閤殿下に万一の事があったら、天下を掟《おきて》するものは誰だろうということが話題になった。その時氏郷は、あれあれ、あの親父《おやじ》、と云って肥前守利長を指さした。利長の親父はすなわち利家だ。利長は、飛騨殿は何を申さるるや、とおとなしい人だから笑った。皆々はちと合点しかねた。で氏郷は、利家は武辺《ぶへん》なり、北国三州の主なり、京都までの道すがらに足に障《さわ》る者もなく、毛利は有りても浮田が遮《さえぎ》り申す、家康上洛を心掛けなばこの飛騨がこれ有る、即時に喰《くい》付《つき》て箱根《はこね》を越《こ》えさせ申すまじ、また諸大名多く洛に在りて事起らば、なおさら利家の味方多からん、と云ったと云う。氏郷が家康に喰付けば、政宗が氏郷に喰付きもするだろうが、それはとにかくとして、氏郷は利家|贔屓《びいき》であった。また他の場合にも氏郷は利家が天下を掟するに足ることを云い、前田殿を除きてはと問われたら、その時はおれが、と云ったので、徳川殿はと問う者が出たところ、あの物悋《ものおし》みめがナニ、と云った談《はなし》が伝えられている。氏郷が家康を重く視ていず、また余り快く思っていなかったことは実際だったろう。秀吉も猜忌《さいき》の念の無いことは無い。しかし氏郷を除きたがる念があったとすれば、よほど訳の分らぬ人になって、秀吉の価《あたい》は大下落する。氏郷に毒を飼ったのは三成の讒《ざん》に本づくと、蒲生家の者は記しているが、氏郷は下血を患《わずら》ったと同じ人が記し、面《おもて》は黄に黒く、項頸《うなじ》の傍《かたわら》、肉少く、目の下|微《すこ》し浮腫《ふしゆ》し、その後|腫脹《しゆちよう》いよいよ甚《はなはだ》しかったと記してある。法眼《ほうげん》正純《まさずみ》の薬、名護屋にて宗叔《そうしゆく》の薬、また京の半井《なからい》道三《どうさん》等の治療《ちりよう》を受けたとある。一朝《いちよう》一夕《いつせき》の病気ではない。想像するに腎臓《じんぞう》などの病で終ったのだろう。南禅寺|霊三《れいざん》和尚《おしよう》の慶長二年の氏郷像賛に「可レ[#「レ」は返り点]惜談笑中窃置二[#「二」は返り点]|鴆毒《ちんどく》一[#「一」は返り点]」この句が有ったとしても、それは蒲生の家臣の池田|和泉守《いずみのかみ》が氏郷の死を疑ったに出た想像に本づいたものであろう。下風の謡が氏郷の父の賢秀の上を笑ったのであろうとも、一族の山法師の崇禅院の事を云ったのであろうとも、何でも差支無いと同じく、深く論ずるに値せぬ。  かの氏郷が自ら毒飼をされた事を知って、限りあればの歌を詠ずると、千利休が「降ると見ば積らぬさきに払えかし雪には折れぬ青柳《あおやぎ》の枝」という歌を示して落涙《らくるい》したなどというのは余り面白くない演劇だ。降ると見ばの歌を聞いたとて毒を飼われてしまった後に何になろう。かつその歌も講釈師が示しそうな歌で、利休が示しそうな歌ではない。氏郷の辞世の歌は毒を飼われたのを悟って詠じたと解せずともよかろう。二月七日に死んだのである。春の事であり、花を惜《おし》むことを詠んだので、その中おのずからに自ら傷《いた》むでいるのである。別に毒の匂などはせぬ。政宗をさえ羽柴|陸奥守《むつのかみ》にしている太閤が、何で氏郷に毒を飼うような卑劣|狭小《きようしよう》な心を有《も》とう。太閤はそんなケチな魂を有ってはいぬ人と思われる。ただ氏郷が寿命《じゆみよう》が無くて、朝鮮へ国替の願を出さずにしまったことは、氏郷のために、太閤のために惜んでも余りある。太閤は無論悦んでこれを許した事であろうに。家康も家康公と云ってしかるべき方である、利家も利家公と云ってしかるべき人である、その他上杉でも島津でも伊達でも、当時に立派な沸り立った魂は少くないが、朝鮮へ国替の願を出そう者は、忠三郎氏郷のほかに誰が有ったろう。                           (大正十四年九月) 底本 幸田露伴<ちくま日本文学全集>    一九九二年三月二〇日 第一刷 底本の親本 現代日本文学大系4 筑摩書房