青年
島崎藤村
洋服屋の看板は出して居ないが、東京で實地修業して、しかも男の職人の中に三年も揉まれて來たといふ女の裁縫師が仙臺にあつた。この人の造つた服は評判が好かつたので、關君も、私も、月賦拂ひの約束で頼むことにした。關君は、年齢は私より一つ下だつたが、背はずつと高くて、紺色の背廣を注文した。私は切地の見本を繰つて、黒の綾羅紗を見立てた。そして、外套の方を關君と同じ紺にした。
これは私が仙臺に居た頃のことだつた。關君は私が仙臺へ行ってから懇意に成つた人で、失張私と同じ學校の教師だつた。何時の間にか吾儕は親しい友達に成つた。同じ家から學校へ通ふやうに成つた.一緒に洋服を新調しよう、と其様なことの相談までもするやうに成つた。
私は粗末な羽織袴を用意して行つた丈で、着物らしい着物も持たなかつたから、何か仙臺で作るつもりであつたが、しかし斯ういふ背廣なぞを着るといふことは、私にとつて始めてだつた。假縫の出來て來る頃、吾儕は廣瀬川の畔へ移つた。新しい、眺望の好い家を借りて住んだ。そこは關君と私が家賃を半分づゝ出し合つて、關君の懇意なといふ年をとつた寡婦に來て賄つて貰つた。この寡婦の連子は吾儕の生徒だつた。
新調の洋服が出來上つた。それを着て、吾儕は一緒に學校へ通つた。關君は祖母さんと二人ぎりであつたが、そのうちに肺を煩つて居た母親さんと、妹とが、ある温泉場の方から歸つて來た。
「母や妹がお目に懸る筈ですが、大分今夜は疲れて居るやうですから—」
と其晩、關君は私の部屋へ來て言つた。關君は又、母親さんの病氣の爲に、金を遣い、多くの家財を賣拂ひなどしたことを私に話した。翌朝、私は關君の母親さんに逢つて見たが、立派な、品のいゝ、氣苦勞の多さうな人だつた。古い大きな食卓の置いてある部屋で、寡婦などの一緒に居る處で、私は關君の妹といふ人にも紹介された。吾儕の年配は結婚期に達した頃だつた。關君の周圍にある友達は、一人は最早結婚して居たし、一人は遠からずお嫁さんを迎へるといふ話だつた。關君は關君で、ある女學校に約束した人があつて、その若い婦人から來る手紙を讀むのを樂みにして居た。
斯ういふ中で、獨身の私が物數奇な人々の注意を引いたのは不思議でも何でもない。關君、君が媒酌人をしたら可いぢやないか。」斯様なことが始まりで、終には同居して居る寡婦まで、私に向つて妙な謎のやうなことを言ふやうに成つた。
「何か私は貴方に頼まれることが有る筈ですが……」
斯う寡婦が鋭い眼付をしながら私に言つたことがあつた。
ある日、關君の家では舊の人々を集めて先祖の祭といふのをした。その日ほど關君が酒癖を顯したことはなかつた。女學校の寄宿舎の方に居た關君の妹も、その日は手傳ひにやつて來て、仙臺平の袴を着けて坐つて居る關君の紅い顔を眺め乍ら、「兄さんは其様に御酒を召上る方だとは思はなかつた」と言つて呆れた位だつた。其時、關君は、私を前に置いて、奈何にでも酌れば取れるやうな謔語を自分の妹に言つて笑つた。
開君まで斯ういふ調子で居るといふことは、私に取つて心苦しかつた。私の過去は悲慘で、我ながら驚くばかりの暗い道を辿つて來た。私の若い生命はこの仙臺へ來て、はじめて夜が明けたかと思はれる位だ。私はこゝへ來る迄に、もう散々、苦勞した。私には考へなけれはならないことが多かつた。その秋、私は自分の母親を失つた。同居して居る寡婦に就いても、種々面白からぬ風評を耳にした。敢て人の噂を信ずるではないが、結句關君の重荷を増すばかりだといふことを知つた。
十一月の未、私は斯の家の解散説を持出した。これには關君も同意した。そこで私は荷物を引纏めて、ある旅舎へ移つた。
休息! 休息! 私は結婚といふやうな問題を離れて、すこし休みたかつたのである。古い、田舎臭い旅舎ではあつたが、しかし靜かな二階で、私は過去の感動を思ひ起すことが出來た。そして現在の單純な生涯を樂んだ。私の心は全く女といふものに煩はされて居なかつた。私は鳥のやうな自由を得た。行きたいと思ふ時に行き、坐りたいと思ふ時に坐ることが出來るやうに成つた。
斯うなると勉強も出來た。考へてばかり居たところで同じことだから、ずん/\持つて居るものを吐出して了つて、それから新しいものを容れようと思つた。私は又、是迄老人の書ばかり讀んで、何時の間にか自分も老人臭く成つたといふところへ氣がついた。其時の私の説では、世にある多くの傑作は青年に用は無い。老成な「テンペスト」は閉ぢて、先づ若々しい「ロメオ、アンド、ジユリエット」を開け。斯の思想を抱いて、私は學校の圖書館から種々な書籍を借出して來ては讀んだ。その圖書館には、外國人の教師なぞが歸國の際に多く寄附して行つたものが有つた。中には私の讀みたいと思ふもので、未だ紙の折目の切つてないやうな書籍もあつた。それを私は借りて來て、塵埃を拂つて、夜遅くまで旅舎の二階で讀み耽つた。
丁度この旅舎で、私は小池君と一緒に成つた。小池君も矢張學校へ出る同僚の一人だつた。私の部屋は裏の物置小屋の二階、小池君のは階下の入口の爐邊に近い座敷で、よく話しに往つたり來たりした。私が仙臺で一番懇意に成つた人は關君と、この小池君とであつた。小池君は酒もいかず煙草も燻さず、菓子が好きで、胃病の藥を服んで居ながら、それで甘い物は廢められない方だつた。私が小池君に感服したのは思想だ。同僚は多勢あつても、小池君のやうな人は見なかつた。小池君は又、沈鬱な煩悶家で、絶えず不平を鳴らしたり、反抗の精神を示したりした。吾儕は一緒に炬燵にあたりながら、紙傘の洋燈の下で長い冬の夜を迭つたことも多かつた。
やがて春が來た.鶯は私の部屋の窓の下へも來て鳴いた。吾儕の生徒の中には随分苦學するものもあつて、牛乳や新聞の配達までやつて居たが、その苦學生の一人が亡くなつた時、私は小池君、關君などと一緒に葬式の場に列なつた。暗い過去を思はせるやうな涙が私の頬を傳つて流れた。
仙臺の町から聞える遠い海のひゞき—春潮の音—それも小池君の耳には何等の感興を引かなかつた。沈鬱な小池君はます/\悶え苦むばかりだつた。
ある日のこと、私が小池君の部屋へ入ると、小池君は眼前の事物に興味を失つて了つたといふ眼付をして、しばらく私の顔を眺めて居たが、唐突に斯様なことを言出した。
「君—僕は結婚しようかと思ふが、奈何だらう。」
其時、小池君は机の抽斗から、質朴な郷里の方の人らしい若い女の寫眞を出して私に見せた。そして、新しい生涯を開くべく決心したと言つた。小池君は、樂しい思想を持つ關君などとは違ひ、極めて大膽に、ある冒險事業に向つて突進しようとする人の如くであつた。
底本:「藤村全集第三巻」筑摩書房
1967(昭和42)年1月10日発行