( ) はひらがなのルビ。 < > はカタカナのルビ。 【 】は傍点を示す。 読みの「'イ」は「ゐ」を示す。 読みの「'エ」は「ゑ」を示す。 羅生門 巌谷小波:作  むかしむかし京の九條(クデウ)の羅生門(ラシヤウモン)と云ふ處に、毎晩恐ろ しい鬼が出て、通りがかりの者を取て喰ふと云ふ評判、京の町中(マチヂウ) に廣まりまして、しまひには誰も怖(コハ)がつて、日が暮れるともう其處 を通る者はありませんでした。  丁度其頃、同し京の都に、源(ミナモト)の賴光(ライクワウ)と云ふ大將があり ました。此方(コノカタ)は其の以前(マヘ)に、碓井(ウス'イ)の貞光(サダミツ)、卜 部(ウラベ)の季武(ス'エタケ)、坂田の公時(キントキ)、渡邊の綱(ツナ)、此の四天 王(シテンノウ)に、平井の保昌(ホウシヤウ)と云ふ一人武者(ヒトリムシヤ)を連れて、大 江(オホエ)山の酒顛童子(シユテンドウジ)を退治たと云ふ、評判の【えらい】大 將でありました。  或晩(アルバン)の事、此の四天王と一人武者は、御殿の一室(ヒトマ)に集ま りまして、賴光樣から下さつたお酒を、一同(ミンナ)で仲よく飮みながら、 種々(イロン)な話をして居りましたが、其中(ソノウチ)に平井の保昌は、他(ホカ) の者に向ひまして、『なんと諸君(ミンナ)聞いたか、九條の羅生門に鬼が 出るとさ。』と云ひますと、渡邊の綱はこれを聞いて、『馬鹿な事を云 ひたまへ。鬼なんていふものは、此間(コナヒダ)大江山で退治てしまつた から、もう日本中(ニツポンヂウ)には居ない筈だ。』『處が居ると云ふ評判 だからをかしい。』『なアにそれは評判ばかりさ。よしんばあの時に生 き殘つた奴があつても、賴光樣の御威光に恐れて、唐(カラ)か天竺(テンジク) へ逃げてつたらう。』『渡邊君、君は變に僕のいふ事をけなすが、それ ぢやア何かイ、君は僕を、いゝ加減な事を云ふと思(オモツ)てるんだネ。』 『なアにさうぢや無いけども、あんまり馬鹿々々しいからさ。』『君が そんなに疑ぐるなら、物は試(タメ)しだ、行て見るが一番早いや。』『そ れぢやア平井君、君は僕を行けないと思つてるんだネ。』『行けるなら 行つて見たまへ。』『行けなくつてさ。憚(ハバカ)りながら渡邊の綱だ、 鬼なんぞが恐くつて、賴光の四天王と云はれるものか。さアこれから直 ぐに行て見るさ。』と、只さへ強い男が、今夜はお酒を飮んでますから、 猶(ナホ)の事勢(イキホヒ)が出まして、直ぐに支度を致し、『それぢや行て來 るから、何か印(シルシ)をくれたまへ。』『よろしい、此札(コノフダ)を印(シ ルシ)に立てゝ來たまへ。』『そんなら此札を證據に、門の側(ソバ)へ立て て來るから、僕がほんとに行くか行かないか、明日(アシタ)の朝見て來た まへ。なアに、高が鬼の一匹や二匹、此の綱が生捕(イケドリ)にして御覽 に入れらア。』と、これから馬に乘りまして、威勢よく御殿を出ました。  處が其晩は生憎(アヤニク)雨で、おまけに風も出て來ましたから、前後も わからぬ眞闇黒(マツクラヤミ)、往來は人兒(ヒトツコ)一人通りませんから、凄い の凄くないの、大抵な者なら、只戸外(オモテ)へ出たばかりで、ブルブル 戰慄(フル)へてしまひます。けれども渡邊の綱は、元より評判の強い男で すから、こんな雨風は何とも思ひません、頻(シキ)りに馬を急がせて、羅 生門へと來掛りました。 『もう此處(ココ)が羅生門だ。ドレ何處に鬼が居やがるんだ。』と、方々 さがしましたけれども、一向角(ツノ)も見えませんから、『それ見ろ、平 井奴(メ)いゝ加減な事を云やがる。ドレ札(フダ)を此處等へ立てゝ、そろ そろ歸るとしやうか。』と、獨語(ヒトリゴト)を云ひながら、札を石壇の上 に立てゝ、そのまゝ歸らうとしますと、誰とも知らず後(ウシロ)から、 『コリヤ待て。』と云ひながら、兜(カブト)の錣(シコロ)を攫(ツカ)む者があ ります。  綱は不意を喰(クラ)ひましたけれども、ビクともしません、『誰だ?』 と云ひながらその手に觸(サワツ)て見ますと、其太さは丸太(マルタ)の樣で、 しかも毛むくぢやらですから、さてこそ鬼奴(オニメ)が出やがつたなと、 唐突(イキナリ)刀を取り直して、その手を下から拂ひますと、鬼はキヤツと 云て放しましたが、今度は前の方へまはつて、おのれ一ト口と飛びかゝ つて來ました。  見ると、その丈(セイ)は門よりも高く、目は鏡の樣に光つて、口から火 を吐く鹽梅(アンバイ)は、まるで大きな竈(ヘツツイ)の樣です。  其處で綱と鬼は、入れ違ひ飛びちがひ、暫らくの間鬪ひましたが、流 石の鬼も、綱の強いには驚いたと見えて、その中に隙(スキ)を覗(ウカガ)ひ、 一目算(モクサン)に逃げ出しましたから、おのれ逃げたつて逃がすものかと、 其跡から追駈(オツカ)けましたけれども、何しろ先は大きいから、駈(カケ) る方ぢや敵(カナ)ひません、とうとう見失つてしまひました。  殘念だとは思ひましたが、逃げたものは仕方がありませんから、その まゝ取て返しますと、丁度羅生門の石壇の下に、何だか落ちて居るもの があります。何だらうと思つて拾つて見ますと、これは大きな鬼の腕で すから、さては先刻(サツキ)手應(テゴタヘ)がしたとき、此奴(コイツ)を切り取 て、やつたのか、肝腎(カンジン)の正體は逃がしても、これさへあればよ い土産だと、綱はその腕を大切(ダイジ)に抱へて、やがて御殿へ歸つて 來ました。  其處で此の腕を、平井を初め一同(ミンナ)に見せ、また賴光樣の御覽に も入れました處、いづれも大きに感心致しまして、頻(シキ)りにその手柄 (テガラ)を褒めましたが、此事がやがて京の町中へ聞えまして、渡邊の綱 の強勢(ガウセイ)な名は、いよいよ高く成りました。  さて綱は、その腕を持て自分の家(ウチ)へ歸りましたが、何しろまだ鬼 は生きて居るのですから、何日何時(イツナンドキ)取り返しに來るかもしれ ないと、これを巖疊(ガンデフ)な箱の中へ入れまして、確乎(シツカリ)と葢(フ タ)を致し、これを自分の居間におきまして、誰が來ても決して見せない 事にして居りました。  すると、或晩の事で、表の戸をトントンと叩くものがあります。取次 (トリツギ)の者が出て見ますと、品の好(イ)いお婆さんがたつた一人、其處 に立て居りますから、『何方(ドナタ)で厶(ゴザ)います。』と聞きました。 お婆さんはニコニコ笑ひながら、『私(ワタクシ)は此方(コチラ)の旦那樣のお 幼少(チイサ)い時分、お乳をあげた乳母(ウバ)で厶(ゴザ)いますが、旦那樣 が御自宅(オウチ)で厶(ゴザ)いますなら、一寸お目に掛りたう厶(ゴザ)い ます。』と云ひますから、『それぢやア暫らくお待ち下さいまし。』と、 それから奧へ行て、綱に此事を申しますと、綱は考へまして、『ナニ乳 母が……今時分(イマジブン)……』と、變に思ひましたが、なんぼ強い綱 だつて、一度はお乳を飮んだ事もありますから、乳母と聞て何だか懷(ナ ツカ)しく思ひまして、『さうか、それぢやア兎も角も座敷へ通せ。』と、 取次の者に云ひ付けまして、乳母を座敷へ通させまして、軈(ヤガ)てそ れに會ひました。 『オヽ乳母(バ)<ア>(ヤ)か、久し振だつたなア。』と云ひますと、乳母は さも嬉しさうに、『オヽこれは綱樣、いつも御機嫌宜(ヨロ)しう、何より 結構な事で厶(ゴザ)います。』『お前も達者で目出度いな。』『難有う 厶います。』とたがひに挨拶を致しましたが、乳母はやがて申しますに は、『時に綱樣、今日(コンニチ)町で噂を聞きましたら、貴郎(アナタ)は此頃 羅生門で、鬼の腕をお取りなさいましたとか。さてさて御手柄な事で厶 (ゴザ)いましたな。』『イヤ、實は生捕(イケドリ)にする心算(ツモリ)だつた が、とうとう逃がしてしまつて、殘念な事をしたよ。』『なアに、たと ひお逃がしなすつても、腕をお取りになれば澤山ぢや厶(ゴザ)いません か。私(ワタクシ)もお乳をあげた坊樣(ボツチヤマ)が、こんなにお成長(ミオホキク) おなり遊ばして、鬼の腕をお取りなすつたと聞きますと、自分で鬼の首 を取たより、どんなに嬉しいか知れやしません。つきましては、その鬼 の腕と云ふものを、何卒(ドウカ)此の乳母(バ)<ア>(ヤ)にも、お見せなすつ ては下さいませんか。』『イヤ、これはどうも見せる事ならん。』『そ れは又何故(ナゼ)で厶(ゴザ)います。』『鬼と云ふ奴は執念深(シウネンブカ) いもので、何日何時(イツナンドキ)取りに來るか知れないから、實は堅く葢 (フタ)をして、誰が來ても見せないのだ。』『その御用心は御道理(ゴモツト モ)で厶(ゴザ)いますが、他(ホカ)の者とは違ひますから、此の乳母(バ)<ア> (ヤ)には御見せなすつても、大丈夫ぢや厶(ゴザ)いませんか。』『然し どうもそれは困る。』『それでは貴郎(アナタ)は、私(ワタクシ)を鬼の間諜者 (マハシモノ)だと思つて居らつしやるんですか。』『なに、决してそんな事 を思やしない。』『それぢやアお見せなすつても可(イ)いぢやございま せんか。私も一生の思ひに、鬼の腕と云ふものを見て置き度う厶(ゴザ) いますから、何卒(ドウカ)見せて下さいまし。』と、達(タツ)ての依賴(タノミ) ですから、綱も仕方がありません、『實は誰にも見せない筈なんだけど も、お前だから見せてやる。まア此方(コツチ)へお出(イ)で。』『それぢや 見せて下さいますか、難有う厶(ゴザ)います。』と、これから綱は先に 立て、乳母を自分の居間へ連れて來ました。  見ると、向ふに丈夫さうな箱があります。綱はその側(ソバ)へ來て、 『さア、此の中に這入(ハイツ)てるのだが、外へ出すわけには行かないか ら、此方(コツチ)へ來て覗(ノゾ)いて御覽。』と云ひながら葢(フタ)を取りま すと、乳母は喜んで、『ヘエまア、どんな物で厶(ゴザ)いますか、ドレ よく拜見致しましやう。』と、その側へ摺(ス)りよつて、ぢつと見て居 りましたが、唐突(イキナリ)その腕に手を掛(カケ)て、『嬉しや腕を取り返し た。』と云ふかと思ふと、見る見る中(ウチ)に相(サウ)は變つて、恐ろしい 鬼の正體を現はし、そのまゝ逃げやうとしますから、『南無三(ナムサン)一 杯喰はされたか。おのれ返してなるものか。』と、刀を拔て切りかけま したが、鬼も一生懸命です、右へ跳(ヲド)り左へ飛ぶ中(ウチ)、隙(スキ)を ねらつて天井をかき破り、そのまゝ屋根から拔け出して、雲を霞と逃げ てしまひました。  綱は二度迄取り逃がして、切齒(ハギシリ)して悔(ク)やしがりましたが、 鬼の住家(スミカ)が解りませんから、退治に行く事も出來ません。仕方が ないから、其中に何處へか出たら、三度目の正直、今度こそは逃がすも のかと、手ぐすね引いて待て居ましたが、其後(ソノノチ)は鬼も、綱の武勇 に驚いたと見えて、またと再び、京の町へは出ませんでしたから、それ からは世間の人も安心して、夜も平氣で歩行(アル)くやうになりましたと さ。        めでたしめでたし。