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菊の紋 

巌谷小波:作

 むかしむかしまづある處に、廣い野原があつて、其處(そこ)に可愛らしい菊の花が二輪(りん)、奇麗に咲いて居りました。
 二輪(ふたつ)とも同じ根から生へて、同(おんな)じ形に咲いて居るのですから、云はゞ同胞(きやうだい)ですが、只その色が異(ちが)つて居ますから、黄色い方をお黄(きい)ちやん、白い方をお白(しろ)ちやんと云つて居ました。
 晝間は一所(いつしよ)の日向(ひなた)で遊び、夜は同し露を喰べて、誠に仲よく咲いて居りましたが。或る日の事、其處へ一人の老爺(おぢい)さんがやつて參りまして、此の二輪の菊の花を、つくづくと眺めて居つた末が、やがてお黄(きい)ちやんに向ひまして、
(老) お前はほんとに奇麗な花だが、何と私(わし)と一所に、自家(うち)のお庭へ來る氣はないか。

と、云ひますから、黄菊は不思議に思ひまして、
(黄) それは何しに行()くんです?

と尋ねますと、老爺(おぢい)さんはニコニコしながら、
(老) 一躰(いつたい)私(わし)は、此の近所に居る菊作人(きくつくり)だが、これからお前を自家(うち)へ連れてつて、もつと大きな、もつと奇麗な、好()い花にしてあげやうと思つてさ。

(黄) お前さん許(とこ)へゆくと、もつと大きな、もつと奇麗な、好()い花になれますか。

(老) はア成るとも成るとも。こんな野原に居るのとは違つて、甘(うま)いものも澤山(たんと)喰べされりやア、美()い衣服(きもの)もどつさり着せてやるから、厭でも立派な花に成れるのさ。

と、善()い事づくめで申しましたから、お黄ちやんはムラムラと其氣になりまして、
(黄) まア好いこと。妾(あたい)行()き度いワ。

(老) さうか。そんなら直ぐに連れてつてやらう。ドレ、それぢやア【おんぶ】しな。

と、やがて黄菊をば拔き取りまして、自分の家(うち)へ連れて行かうとします。
 先刻(さつき)からこれを見て居たお白ちやんは、お黄ちやんばかり連れてつて、自分は【置いてきぼり】にされるんですから、羨ましいやら、心細いやらに、老爺(おぢい)さんの袂(たもと)をつかまへまして、
(白) アラお黄ちやん行()くの? そんならあたいも連れてつて頂戴なア……

と云ひますと、老爺(おぢい)さんは恐い目をしまして、
(老) いけないいけない。お前はいけないよ。

(白) だつて今迄一所に居たんだから、單獨(ひとり)になつちやア淋しいワ。

(老) そんな事を云つたつて、お前は何にも色がないぢやないか。そんな色の無いものを、いくら骨折て仕込んだつて、碌(ろく)な物になりやしないから、お前は失張り野原に居て、芒(すすき)とでも遊んで居るがいゝのさ。

と、そつけもなくはねつけまして、黄菊ばかりを【おんぶ】して、サツサと行てしまいました。
 さて黄菊のお黄ちやんは、老爺(おぢい)さんに連れられまして、其自家(うち)へ行て見ますと、前に聞いた通り、老爺さんが大層可愛がつてくれまして、まづ今迄の垢(あか)を落とし、衣服(きもの)も好()い衣服(きもの)と着かへさせ、食事(ごぜん)も甘(おいし)い物ばかり喰べさせ、また居所(ゐどころ)だつて、今までの樣な、青天井(あほてんじやう)の野原とはちがつて、ちやんと屋根のある、奇麗な花壇に置てくれて、荒い風にも當てませんから、お黄ちやんは、裏店(うらだな)の兒が、俄(にはか)に御殿へ上つたやうに、只もう嬉しくつて嬉しくつて今迄仲好くして居たお白ちやんの事なんかは、まるで忘れてしまひました。
 さうして段々月日が立ちますと、案(あん)の條(でう)甘(おい)しい物の效驗(ききめ)で、躰(せい)が追々に伸び、花瓣(はなびら)も次第に大きく成て、今までとはまるで別の樣な、見事な花に成りました。
 すると、或日の事で、そこの村のお庄屋さんが、老爺(おぢい)さんの處へやつて來まして、
(庄) コレコレ老爺(おぢい)さん。お前の處にほんとの菊の花はないかネ。

と、云ひますから、老爺(おぢい)さんは變に思ひまして、
(老) これはお庄屋樣、よく入らつしやいました。しかし妙な事を仰有(おつしや)るぢやありませんか、私(わたくし)は長年菊を作つて居りますが、まだ僞(うそ)の菊といふのを作つた事は厶(ござ)いませんが……

(庄) イヤ、それは道理(もつとも)だが。實は此の土地の殿樣が、今度(このたび)菊の御紋をば、御定紋(ごぢやうもん)になさるに就ては、その形を取るために、いろいろの菊を御覽に成たところ、どうも花瓣(はなびら)が長かつたり、色が交つたりして、殿樣の仰有るやうな、十六瓣(ひら)の色の白い、純粹(ほんと)の菊といふものは見當らないのさ。そこでお前は菊作人(きくつくり)だから、お前の處へ來たらあるだらうと思つて、それでわざわざ尋ねに來たんだが、なんとさう云ふ純粹(ほんと)の菊はあるまいか。

と云ひますと、老爺(おぢい)さんは小首を傾けましたが、
(老) イヤさう云ふ菊はありませんが、茲に私が丹精して拵(こしら)へた菊があるんです。これを一つ御覽下さい。これなら屹度御氣に入りましやう。

と、例のお黄(きい)ちやんを自慢さうに見せましたが、お庄屋さんは頭(かしら)をふつて、
(庄) イヤイヤ。そんな變形花(かはりばな)ぢやアいけない、此方(こつち)は純粹(ほんと)の菊が欲しいんだ。だが無けりや仕方が無い、また他を探しましやう。

と、そのまゝ老爺(おぢい)さん處を出まして、それから廣い野原の方へ、腕を組んでやつて來ましたが、不圖(ふと)聞くと、路傍(みちばた)に何だか泣いてる者があります。
 オヤ何だらうと、立ち留つてよく見ますと、小さい、白い、菊の花ですから、
(庄) オイオイ、お前は菊の花ぢやないか。何をそんなに泣いてるんだ?

と聞きますと、菊は涙を啜(すす)りながら、
(白) ハイ、妾(わたくし)はお白ちやんと云つて、白い菊でございますが、姉さんのお黄(きい)ちやんは、菊屋の爺(おぢ)さんに連れてかれて、甘(おい)しい物を喰べたり、好()い衣服(きもの)を着たりしてますけども、妾(わたし)は白いから、いけないツて、【置いてきぼり】にされましたから、それで泣いてるんで厶(ござ)います。

と、云ふ顏をつくづくと見ますと、まぎれもない十六瓣(ひら)で、色も眞白な菊ですから、お庄屋さんは横手を打ち、
(庄) イヤこれだこれだ。殿樣の仰有るのは是に差異(ちがひ)ない。

と、云ひながらお白ちやんを抱き起し、
(庄) コレ泣くな泣くな。お前ははんとに善()い菊だのウ。菊屋の老爺(おやぢ)は馬鹿だから、お前を構はずに行たけども、乃公(おいら)の方には、お前が直ぐにお役に立つのだ。もう泣くにやおよばないから、直ぐに乃公(おいら)と一所にお出で!

と、思ひがけない言葉ですから、お白ちやんは驚きまして、
(白) ……オヤ……それぢや妾(わたし)がお役に立つの。

(庄) お役に立つどころぢやない。殿樣はさぞお喜悦(よろこび)だらう。それでお前がこれから御殿へ上つて、殿樣の御紋になれば、菊屋の花壇に居るよりは、どんなに出世か知れやしない。さアさア、泣かずに一所にお出で。

と、これからお庄屋さんは、自分の家へ連れてゆき、すつかり奇麗に手を入れて、立派な駕籠(おかご)で御殿に上げました處、殿樣は殊の外のお喜悦(よろこび)で、直ぐに此の白菊をば、お家の御定紋になさいましたが、黄菊のお黄(きい)ちやんは、相變らず菊屋の花壇に居て、奇麗に咲いて居るばかり、流石に見物には褒められましたが、紋に成て殘りもせず、やがて素枯(すが)れてしまひました。