( ) はひらがなのルビ。 < > はカタカナのルビ。 【 】は傍点を示す。 読みの「'エ」は「ゑ」を示す。 一休和尚 巌谷小波:作 問 紫野(ムラサキノ)あつて、鳶色野(トビイロノ)無きは、是(コレ)如何(イカニ)? 答 大徳寺(ダイトクジ)あつて、小徳寺無きが如し。 問 一休和尚あつて、二休和尚無きは、是(コレ)如何(イカニ)? 答 日本お伽噺あつて、三本お伽噺無きが期し。                  問 三日坊主(ミツカバウズ)  月 日             答 一休和尚 『門松(カドマツ)は冥土(メイド)の旅の一里塚、めで度くもありめで度くも 無し』と、これはまことに名高い歌で。その意味(ワケ)は、『お正月にな ると、何處でも門松を立てゝ、めで度(タイ)めで度と云つて居るが、あれ はまことに馬鹿げた話。人間はお正月の來る度に、一つ宛(ヅツ)年を取 つて、段々死期(シニメ)に近くなつて行(ユ)くのだから、丁度(チヤウド)門松 は、冥土へ行く道中の、一里塚と同し事だ。それを考へると、お正月位 おめで度くないものは無い。』と、かう云ふ事を云つたのですが、全體 この歌は、何(ド)う云ふ人が詠(ヨ)んだかと云ふと、是は今から五百年 程も前に、大徳寺(ダイトクジ)の一休(イツキウ)禪師(ゼンジ)と云ふ、豪(エラ)い 坊さんが詠(ヨ)んだのでございます。  此の一休と云ふ坊さんは、幼少(チイサ)い時の名を千菊丸(センギクマル)と云 ふて、應永(オウエイ)元年の正月の元日、而(シカ)も旭日の昇るのを相圖(アヒ ヅ)に、おぎやアと生まれたのでございますが、實は恐多(オソレオホ)くも、 當時(トキ)の天子樣、後小松天皇樣の、御胤(オタネ)だと云ふ事でございま す。  幼少(チイサ)い時分から普通(ナミ)の人間とは異(カハ)つて、まことに利發 な兒でございましたので、かういふ兒は寧(イツ)そ坊さんにして學問をさ せた方が、後(ノチ)に立派な豪(エラ)い者に成れるだらうと、丁度その六歳 (ム)<ツ>(ツ)の時、紫野(ムラサキノ)の大徳寺へ入れて、養叟(ヤウソウ)禪師(ゼンジ) と云ふ人のお弟子にしまして、それからは名も坊さんらしく、一休とい ふ名に改めました。  處が、元より天性(ウマレツキ)怜悧(リカウ)な兒ですから、お經でも習字(テナラ ヒ)でも、その記憶(オボエ)の早い事と云つたら、他(ホカ)のお弟子が十遍習 つても、中々覺えられない事なども、たつた一度で呑込んでしまひ、自 分より年長(トシウヘ)の者の、まだ知らない事までも、よく心得て居るとい ふ位ですから、お師匠さんも賴もしがつて、頻(シキ)りに可愛がつて居り ました。  或日の事でございます。一人の武士(サムラヒ)が、獸(ケダモノ)の革で拵(コシ ラ)へた袴(ハカマ)を穿(ハ)いて、此の大徳寺へ尋ねて參りました。一休は是 を見て、突然(イキナリ)一枚の紙へ、 一 此(コノ)寺(テラ)の内へ革の類(タグヒ)堅く禁制なり。若(モ)し革の物 入(イ)る時は、其身に必ず【ばち】當るべし。 と、かう書いて表へ張り出しました。武士(サムラヒ)はこれを見て、『小僧 奴(メ)、乃公(オレ)が革の袴を穿いて居るもんだから、こんな事を云つて からかふ氣だな。よし、それぢやア此方(コツチ)も困らしてやるぞ。』と、 やがて一休の側(ソバ)へ來まして、『おいおい、お前は革の物禁制だと 云ふが、此のお寺の中にだつて、太鼓(タイコ)と云ふ物があるぢやないか。 太鼓は革で拵(コシラ)へたものだぜ。あれは一體如何(ドウ)したものだ。』 と、一番遣(ヤ)り込める心算(ツモリ)で云ふと、一休は少しも驚かず、『そ れだから御覽なさい、この通り【ばち】が當るぢやありませんか。』と、 云ひながらドンドン叩いて、『如何(ドウ)です。貴郎(アナタ)もこの太鼓の やうに、【ばち】を當てゝあげましやうか。』と、反對(アベコベ)に遣り 込めましたので、武士(サムラヒ)は頭を掻いて、『成る程、これは一言(ゴン) も無い。』と、閉口してしまひましたが、『よし覺えてろ。今度(コンダ) 乃公(オレ)の家へ來たら、屹度(キツト)此の意趣返しをしてやるぞ。』と、 機會(オリ)を伺(ウカガ)つて居ります中、やがて二三日經つてから、一休は お師匠樣のお伴(トモ)で、その武士(サムラヒ)の處へ參りました。  すると、共の門の前の橋の側に、一本の制札(セイサツ)が立てゝあつて、  一 此の【はし】渡る可からず と、書いてございます。お師匠樣はこれを見て、『如何(ドウ)だ小僧、 この橋を渡られなければ、彼方(ムカフ)の家へ行く事が出來ないぢやない か。』と云ひますと、一休は平氣な顏で、『關(カマ)はないから中央(マンナ カ)を通つて入(イ)らつしやい。』と、自分が先に立て、其橋の中央(マンナカ) を、わざと大手(オホデ)を振つて渡つて行きました。と、以前の武士(サムラ ヒ)は、急いで中から出て來て、『こりやこりや此の制札が見えんのか、 何故(ナゼ)此のはしを渡つて來た?』と、恐ろしい聲して叱りつけます と、一休はニツコリ笑つて、『【はし】渡るべからずとあつたから、中 央(マンナカ)ばかり通つて來た。』と、澄まして答へましたので、流石の武 士(サムラヒ)も舌を卷いて、『成る程、これは豪(エラ)い小僧だ。迚(トテ)も乃 公達(オレタチ)の手には合はぬ。』と、大層感心したさうでございます。  それから又、或時お師匠樣のお留守番をして居りますと、餘所(ヨソ)か ら圓いお饅頭(マンヂウ)を一個(ヒトツ)貰ひました。其處(ソコ)で其お饅頭を、 少し割つて袂の中に隱し、御師匠樣のお歸來(カヘリ)を待つて、剩餘(ノコリ) を半分出しますと、お師匠樣はその饅頭を手に取りながら、『はてな、 月の破片(カケラ)は何處にあるな。』と仰有(オツシヤ)いましたので、一休は 直ぐに答へて、『雲に隱れて居りました。』と、云いながら袂から出し ました。是はお月樣も圓いもの、お饅頭も圓いものですから、お饅頭を お月樣に譬(タト)へて、遠廻はしに尋ねましたのを、直ぐにそれと悟つて、 袂にあるのを、雲に隱れて居たと、矢張(ヤツパ)りお月樣の事で答へまし たので。まだ十歳(トウ)か十一の兒にしては、まことに氣の利いた返答で したから、お師匠樣も喜んで、直ぐそのお饅頭を、みんな御褒美に下だ さいました。  又、或晩の事でございます、一休は小用(コヨウ)に行かうと思つて、一 人臥床(ネドコ)を出まして、椽側を通つて參りますと、お師匠樣のお居間 の方で、何だかお魚を燒くやうな臭氣(ニホヒ)が、プンプン匂つて參りま すから、『はてな。一體坊さんは精進(シヤウジン)で、お魚なんぞ喰べては ならんと、平常(フダン)からお師匠樣が、嚴しく仰有(オツシヤ)つて置きなが ら、御自分ばかりは關(カマ)はないで、お魚をあがると云ふ法があるもの か。』と、つかつかそのお居間へやつて參り、『へい、何ぞ御用でござ いますか。』と、唐突(ダシヌケ)に首を突込みますと、お師匠樣も驚いて、 『誰も呼びはせんぞ。彼方(アツチ)へ行(イツ)てろ行てろ!』『へい、參れ と仰有(オツシヤ)るなら參りますが、お師匠樣、其處(ソコ)で今召上つてらつ しやるのは、一體何でございます?』と、尋ねますと、お師匠樣も仕方 がございませんから、『これは鹽引(シホビキ)の鮭(サケ)だ。』『へい。… …それは何樣(ドン)な木に實(ナ)るものでございます?』『いやこれは木 の實では無い。鮭といふ魚(サカナ)の類(タグヒ)だ。』一休は不思議さうな 顏をしまして、『ヘエ、鮭といふ魚? 魚? お師匠樣、お魚は喰べて も關(カマ)はないのでございますか。』『いや關(カマ)はんと云ふ事は無い が、乃公(オレ)はちやんと此の鮭に、引導(インダウ)が渡してあるから、喰 べても罰(バチ)は當らないのだ。』『ヘエ、なんと云ふ引導(インダウ)でご ざいます?』『汝(ナンヂ)元來(グワンライ)枯木(コボク)に似たり。放たんとす れど、再び水中に游泳すること能(アタ)はざらん。しかず、吾が腹中に入 (イ)りて、佛果(ブツクワ)を得んには、喝(クワツ)! と斯うだ。』『それは 一體何の事でございます?』『五月蠅(ウルサ)い奴だな。此の引導(インダウ) の譯(ワケ)は、よく聞いて置け! 斯(カウ)云ふ事だ。汝(オマヘ)は魚だけれ ども、もう死んでしまへば枯木(カレキ)も同然、可哀さうだからと云ツて 水の中へ入れてやつた處で、元の通り泳ぐことも出來まい。そんなら寧 (イツ)そ乃公(オレ)のお腹(ナカ)へ這入つて、乃公(オレ)と一所に成佛(ジヤブツ) するがいゝと、かう云つて喰べてやれば、鮭もさぞ難有い事だらう。南 無阿彌陀佛々々々々々々!』と、さも勿體を付けて話しますと、一休は 嬉しがつて、『難有うございます。お蔭樣で引導の譯が分りました。』 と、急いで自分の臥床(ネドコ)へ歸りましたが、やがて其翌日(アクルヒ)にな りますと、一休はお庭のお池から、大きな鯉を捕(ツカマ)へて來て、臺所 の俎板(マナイタ)の上で、これを料理仕初めましたから、他のお弟子は驚い て、直ぐにお師匠樣へ告訴(イヒツ)けますと、お師匠樣も驚いて、臺所へ 來て小言(コゴト)を云ひましたが、一休は落付いたもので、『いや、御心 配には及びません。此の鯉にはもうちやんと引導が渡してございますか ら、私(ワタクシ)が喰べましても關(カマ)はないのでございます。』と云ひま すから、『さては此の小僧、昨夜(ユフベ)乃公(オレ)の鮭を喰べたのを見て、 直ぐとこんな眞似をするのだな。』と、お師匠樣も苦笑(ニガワラ)をしな がら、『まてまて、それでは一つ智慧を試してやらう。』と、やがて又 一休に向ひ、『それでは何と云ふ引導を渡した?』と尋ねますと、一休 は澄ました顏で、『エヘン! 汝元來生木(ナマキ)に似たり。放たざらん とすれど、動(ヤヤ)もすれば水中へ逃れ入(イ)らんとす。濁(ニゴ)れる池中 (チチウ)に住まんよりは、寧(ムシ)ろ吾が腹に入(イツ)て糞(フン)と成れ! 喝 (クワツ)! かう云つてやりました。』と、立派に返答を致しました。こ れは、鯉がまだ生きて居りますから、如何(ドウ)かして元のお池へ歸ら うと思つて、頻(シキ)りにピンピン跳(ハ)ねますが、あんな汚(キタナ)いお池 へ歸る位なら、もつと奇麗な乃公(オレ)のお腹(ナカ)の中へ、這入てしまふ 方がいゝぢやないかと、かう云ふ事を云つたので。隨分自分勝手な引導 でございますが、小兒(コドモ)にしては如何にも氣轉の利いた言葉ですか ら、流石のお師匠樣も、もう小言が云へなくなつて、其儘引込んでしま つたさうでございます。  かう云ふ風(フウ)で、その爲(ス)る事爲(ナ)す事が、一々人を驚かす程の、 智慧のある事ばかりですから、實に不思議な小僧だ、末賴もしいお弟子 だと、段々評判に成りまして、終(シマヒ)には此の事が、當時(トキ)の將軍 義滿(ヨシミツ)公の、お耳へも這入るやうになりました。  すると義滿公は、『さう云ふ面白い小僧が居るなら、一度呼んで智惠 を試して見たいものだ。』と、わざわざ大徳寺へお使者(ツカヒ)で、一休 を御殿へお召しに成りました。此時一休は、お師匠樣の養叟(ヤウソウ)禪師 と一所に、初めて御殿へ上りましたが。見ると、正面には將軍義滿公、 其の左右には、山名、畠山、細川、一色(イツシキ)などゝ云ふ、立派なお大 名がずらりと列(ナラ)んで、何だか恐ろしい權式でございます。けれども 一休は【びく】ともしません。義滿公の御前(ゴゼン)へ出て、まづ丁寧 にお辭儀を致しますと、義滿公は莞爾(ニツコリ)笑つて、『大徳寺の怜悧(リ カウ)な小僧と云ふのは、一休其方(ソノハウ)の事か。』と仰有(オツシヤ)ると、 一休は少し顏をあげて、『別に怜悧(リカウ)な事もございませんが、世間 には馬鹿が多いと見えまして、私(ワタクシ)の樣な者でも、何(ド)うやら目 に立つのでござりましやう。』『うむ面白い。其の返答からして怜悧(リ カウ)らしいな。處で今日は其方に難題を出すが、直ぐに此處(ココ)で返答 を致すのだぞ。』『畏(カシコマ)りましてござります。』『それでは一休、 其方の後(ウシロ)の衝立(ツヒタテ)に、虎が一匹畫(カ)いてあるが、あれを目前 (メノマヘ)で縛つて見ろ。』と、仰有(オツシヤ)いますから、その衝立(ツヒタテ)を 振向いて見ますと、成程大きな虎が畫(カ)いてございます。けれどもそ れは畫('エ)の虎ですから、如何(ドウ)したつて縛ることは出來ません。 で、何と云ふかと思つて、將軍を初め一座の大名達は、一同(ミンナ)一休 の顏を見て居りますと、一休は格別困つた樣子も無く、やがて繩を持つ て參りまして、『はい、何時(イツ)でも縛つて御覽に入れますから、何方 (ドナタ)かあれを追ひ出して下さいまし!』と、大名達を見廻はしました が、元より畫に書いた虎ですもの、誰が何と云つたつて、動く筈はござ いませんから、一同(ミンナ)只顏を見合はしたばかりで、一言(ゴン)の返答 も出來ずに居りますと、義滿公はポンと膝をお打ちに成つて、『おゝ、 一休出來(デカ)した。其方(ソノハウ)の返答が好(ヨ)いによつて、其虎は免(ユ ル)してつかはす。棄て置け棄て置け!』と、大層お褒めなさいました。  それから又義滿公は、今度はお庭の松樹(マツノキ)をお指しなすつて、 『如何(ドウ)だ一休、あの松樹は曲(マガツ)てるが、眞直(マツスグ)か。』と 仰有(オツシヤ)いますと、何と思つたか一休、『左樣でございます。あの松 位眞直(マツスグ)なものは御在(ゴザイ)ますまい。』と、申しますから、義 滿公は不思議に思召(オボシメシ)て、『あの松は、あの通り、曲り屈(クネ)つ て居るものを、何と思つて其方は、眞直だと申すのだ?』と、重ねてお 尋ねに成りますと、一休は眞顏(マジメ)になつて、『さうです、大層曲り 屈(クネ)つて居りますが、その曲り屈(クネ)つた形を、曲り屈(クネ)つたまゝ に見せて居りますから、まことに正直なものでござります。世間には、 隨分曲り屈(クネ)つた者でも、外面(ウハベ)を眞直に見せやうと思つて、頻 (シキ)りに表を飾る者がございますが、それから見ますと、此松位正直な 眞直な者はございますまい。』と、憶面(オクメン)も無く申しましたから、 義滿公は舌を卷いて、『成る程其方は怜悧(リカウ)な奴だ。今に定めし豪 (エラ)い者に成るだらう。』と、頻りに感心なさいまして、それから又御 褒美の品を、澤山賜つたといふ事でございます。  これほど怜悧(リカウ)な人でしたが、又學問には大層身を入れたもので、 丁度廿二の時でございました、江州(ゴウシウ)の堅田(カタダ)といふ處に、 宗曇(サウドン)和尚といふ、名高い坊さんが居りまして、學問も深ければ、 智惠も澤山あるといふ事を、兼てから聞いて居りましたから、如何(ドウ) かして其のお弟子に成つて、十分修業をしやうと思ひまして、わざわざ 京都から山を越えて、江州の堅田へやつて參りました。  さて宗曇(サウドン)和尚の處へ參りまして、お目に掛り度いと申しまし たが、何と思つたか宗曇(サウドン)は、門を堅く〆め切つて、中々會つて やりません。けれども一休は、『この儘歸つては何の役にも立たない。 何時(イツ)まで掛(カカツ)ても關(カマ)はないから、明く迄此處で待てゝやら う。』と、此方(コツチ)も隨分強情です、門の前に蹲踞(シヤガ)んだぎり、 ちつとも動かずに居りましたが、其中に日は暮れて、お腹(ナカ)は減(ヘ) る、寒くは成る、どうも苦しくつてたまりませんが、此處が辛抱の仕所 (シドコロ)だと、ぢつと我慢をして、とうとう夜の明けるまで、何處へも 行かずに居りましたから、宗曇和尚もこれを見て、『成る程これは感心 な男だ。』と、翌日(アクルヒ)は直ぐ門の内(ナカ)へ入れて、それからは丁寧 に、物を教へてやりましたので、一休も喜こんで、一生懸命に勉強しま したか、智惠も學問も、どんどん進んで參りました。  かう云ふ風(フウ)で一休は、性來(ウマレツイ)て怜悧(リカウ)な上に、學問にも 亦精(セイ)を出しましたから、云はゞ鬼に鐵棒(カナボウ)でございます。忽 ちの中に豪(エラ)い坊さんに成りまして、お師匠樣の養叟(ヤウサウ)禪師が、 年を取つて死んでしまつてから、とうとう大徳寺の和尚に直(ナホ)つて、 一休樣一休樣と、世間の人や、大勢の坊さんにも、尊敬(アガ)められる 身分に成りましたが。かう成ると又をかしなもので、あまり一休を難有 がる處から、『實に一休樣は豪(エラ)い方だ、自分が召上つたお魚を、水 の中へお吐きなさると、直ぐそのお魚が生き返つて、ピンピン泳いで廻 はるさうだが、何と豪いものでは無いか、活佛(イキボトケ)樣とはあのお方 の事だらう。』と、こんな評判をするやうに成りました。すると一休は、 此事を聞込(キキコン)で、『ハヽヽ、馬鹿な事を云ふ奴等だ。何ぼ乃公(オレ) が豪(エラ)いと云つたつて、手品師(テヅマツカヒ)ぢやあるまいし、喰べた魚 を生かして出すやうな、そんな事が出來るものか。そんな事を眞(マ)に 受けられては、却(カヘツ)て此方(コツチ)の迷惑だ。だが、其方(ソツチ)でさう 思つてるなら、此方(コツチ)にも仕樣があるぞ。』と、やがて市中(マチ)の 賑かさうな處へ、 一 來(キタ)る何日(ナンニチ)、さがり松の邊(ホトリ)、紫野に於いて、魚を 喰(クラ)つて其儘元の魚に吐き出し、水中に躍(オド)らしむる事なり。 御望(オンノゾミ)の御方々、御見物に御出(オイデ)待ち奉(タテマツ)る。             太夫(タイフ)は天下(テンカノ)老和尚一休大禪師 と、かう云ふ高札(タカフダ)を出しました。世間の人は是を見て、『さて は評判ばかりでは無く、ほんとにさう云ふ事をなさるのか。是は何より 見物(ミモノ)だぞ早く行つて見て來やう。』と、男も女も、大人も小兒(コド モ)も、吾も吾もと先を爭つて、其日の朝早くから、どんどん大徳寺へ押 しかけて參りました。  見ると、お座敷の正面には、大きな盥(タラヒ)へ水を入れて、其側には 立派なお膳に、種々(イロイロ)なお魚がちやんと料理して、さも甘味(オイシ) さうに列べてあります。  やがて時刻が參りますと、一休和尚は紫の法衣(コロモ)で、手に拂子(ホツ ス)を持ちながら、徐々(シヅシヅ)と出て參りましたが、見物の方には目も 呉れず、唐突(イキナリ)お箸を取りあげて、お膳の上のお魚を、さも甘味(オ イシ)さうにムシヤムシヤムシヤと、一つも殘さず喰べてしまひました。 『さアこれからが見物(ミモノ)だぞ。』と、お庭に列んで居る見物人は、 みんな一生懸命に目を見張つて、『今にあのお口から、生きた魚が飛び 出すのだな。』と待ち構へて居りますと、一休はやがて立ち上つて、 『いや、皆さん大きに御苦勞御苦勞、よく見物にお入來(イデ)ぢやつた。 しかし今日はお氣の毒ぢやが、腹の工合(グアヒ)が惡いと見えて、魚が滿 足に出さうもないによつて、口から吐くのは廢止(ヤメ)にして、今に尻か ら押し出さうと思ふ。』と、云つたぎりツイと立つて、共儘奧へ這入つ てしまひましたから、見物人は呆氣(アツケ)に取られて、『何の事だ馬鹿 馬鹿しい。』と、小言を云ふ者もあれば、『坊さんの癖に嘘を吐(ツ)く。』 と、腹を立てる者もあつて、ワイワイ喧(ヤカマ)しく云つて居りましたが、 其中に少し怜悧(リカウ)さうな男は、『いや、實に一休樣は豪(エラ)いお方 だ。一體ほんとの佛法には、不思議といふものは無い筈なのに、喰べた 魚を生かして吐くなどと、不思議な事を云ひ囃(ハヤ)すのは、世間の人の 了簡(リヤウケン)違ひだから、そんな事は出來ないものだと、その迷(マヨヒ)を 解く爲めに、あゝ云ふ事をしてお見せなすつたのだ。實に豪いお方だ。』 と、頻(シキ)りに感心して歸つたさうですが、成る程一休の了簡も、矢張 り其心算(ツモリ)であつたのでしやう。  さて一休は、此話からいよいよ名高く成りまして、日本國中誰知らぬ 者も無い位でしたが、其頃又將軍家の御家臣(ゴケライ)で、蜷川(ニナガハ)新 右衞門と云ふ人が御在(ゴザイ)ました。此人は武士(サムラヒ)でございます が、至つて學問が好きで、よく此の大徳寺へ遊びに來まして、一休と種 種(イロイロ)な話をして見ますのに、いかにも豪い坊さんですから、後(ノチ) には其のお弟子同樣に成つて、頻りに問答を致しました。問答といふの は、此のお寺の宗旨(シウシ)にある、學問の一つでございまして、種々(イロ イロ)な至難(ムヅカシ)い問を出すのを、巧く答へるのでございますが、これ は大分硬いお話で、容易にお解(ワカ)りになりますまいから、態(ワザ)と 此處には申しますまい。  此通(コノトホリ)一休と云ふ坊さんは、まことに豪い人でしたが、又至つ て氣作(キサク)な、面白い坊さんで、或年のお正月などには、何處から持 ち出したか、一個(ヒトツ)の大きな髑髏(サレカウベ)を、杖の頭(サキ)に指しあ げて、世間の人がおめで度がつて、騷ぎ廻つて居る中を、『御用心御用 心。』と云ひながら、持つて廻つたと云ふ事です。  初めにも申しました、『門松(カドマツ)は冥土(メイド)の旅の一里塚めで 度くもありめで度くもなし。』と云ふ、あの歌を詠(ヨ)んだのは、丁度 其時の事で。『世間の人は、誰でも今に死んでしまふ、死んでしまへば 此の通り、髑髏(サレカウベ)に成つてしまふのだから、ウカウカしては居ら れないぞ。御用心々々々!』と、氣を付けてやつたのでございます。是 は其頃の世間の人が、兎角美(イ)い衣服(キモノ)着たり、甘(ウマ)い物喰べた りして、遊んでばかり居るといふ、まことに好(ヨ)くない風俗(フウ)でし たから、それを誡(イマシ)めたものでございましやう。  さて一休は、かう云ふ面白い坊さんでしたから、其一代の中(ウチ)には、 斯(カウ)云(イ)ふ面白いお話の種を、澤山殘して置きましたが、文明(ブンメ イ)十三年の四月、八十七まで長生(ナガイキ)をして、めで度く大往生を遂 げました。大往生とは、まことに安々と死んでしまふことで、豪(エラ)い 人で無ければ、中々出來ることではございません。        めでたしめでたし!。