( ) はひらがなのルビ。 初午の太鼓 巌谷小波:作  まづある處に、雪雄(ユキヲ)炭三(スミザウ)と云ふ、二人の少年が在りまし た。古語に所謂(イハユル)名詮自稱(メウセンジシヤウ)、其性質も雪と炭で、彼(カレ) は至(イタツ)て優しい兒でありましたが、是(コレ)はまた大の横着者(ワウチヤクモ ノ)でした。  此兩人(フタリ)は等しく犬を愛して、各自(メイメイ)一匹宛(ヅツ)飼(カツ)て居 りました。其名は−−雪雄の方がシロ、炭三の方がクロ、何れも自分の 名から出たものと見えます。  雪雄のシロを可愛がるのは實に非常なもので、三度々々の飯の菜(サイ) も、决して自分一人では喰べず、其中(ソノナカ)の幾分かを殘しては、必ず シロに遣(ヤ)るやうにして居ますから、シロの方でも雪雄を慕ふことは、 まるで親か兄弟の如くで、何處へ行くにも屹度(キツト)其後に付いて廻は り、殆ど其寢間(ネマ)を同一(ヒトツ)にしない斗(バカ)りの有樣でした。  性質が其名の如く異つて居る丈(ダケ)、雪雄は兎角(トカク)炭三を嫌つて、 常から一所に遊ばぬやうにして居ましたが。畜生とは云へ自(ヲノヅカ)ら 其主の意を承(ウ)けて、シロも彼(カ)のクロを厭(イヤ)がり、會〃<*1>(タマタ マ)途中で行き逢ふても、决して舌を甜(ネ)ぶり合ふやうな事はせず、却 (カヘツ)て脊(セナ)の毛を逆立(サカダ)てゝ、やゝともすると噛<*2>(カ)み合ひ 掛けるのを、炭三は横着者の事ですから、面白がつてけし掛けますけれ ど、雪雄は根が柔和(オトナシイ)故、其樣(ソン)な爭鬪(アラソヒ)を好まず、いつ もシロを呼び立てゝ其塲を避ける樣にして居ました。 <*1>〃:「ゝ」と「ヽ」を上下に重ねた繰り返し記号:補助なし <*2>噛:「齒」偏+「交」:補助7746  或る日の事で厶(ゴザ)います。雪雄は學校から歸つて、例の如くシロ を相手に、暫時(シバラク)戲れて居りましたが。やがて定めの時刻が來ま した故、シロに分れて自分の居間へ這入り、今日學校で習つて來た本の 復習を初めました。  すると俄(ニワカ)に戸外(オモテ)の方で、シロの啼(ナ)き立てる聲がしまし たが、やがて噛<*3>み合ひを初めたと見えて、恐しい呀(ウメ)き聲が聞え ました。 <*3>噛:「口」偏+「齒」:補助2258  さてはクロと喧譁を初めたに、これは棄てゝ置かれぬ事だと、雪雄は 讀みかけた本を其儘置いて、大急ぎで戸外(オモテ)へ出て見ますと、丁度 此時シロは、尾を卷いて迯(ニゲ)る敵手(アイテ)のクロを、一生懸命に追か けてる處です。  元より爭鬪(アラソヒ)さへ好まぬ雪雄、迯(ニ)げる者を追ひかけるとは、 餘計な事と思ひました故、やがて口笛を吹き立てゝ、追つて行くシロを 呼び立てましたが、−−常ならば此聲を聞いて、直ぐに飛んで來るシロ が、今日は氣が先に斗(バカ)り走つて居るせいか、少しも耳に入れず、 尚一散(サン)に走つて行きますから、雪雄も續いて駈け出しましたが、此 方(コチラ)は二本、彼方(ムカフ)は四本、足の數でも敵(カナ)はない道理で、と うとう行衞を見失ひました。  今は仕方がないから、何(イヅ)れ其中に歸て來(クル)だらうと、雪雄は 一トまづ家(ウチ)へ歸りましたが、其日も漸く黄昏(クレガタ)に成て來るの に、何故(ナゼ)かシロはまだ歸つて來ず、これは變だと思ひながら、再 び戸外(オモテ)へ出て探しましたけども、皆目(カイモク)姿が見えません、− −遂に日が暮れて、夜に成ても、シロの聲が仕ませんから、さア雪雄は 心配仕初(シハジ)めました。  其處(ソコ)でわざわざ提灯(テウチン)をつけて、例の口笛を吹き鳴らしなが ら、迷兒(マヒゴ)の迷兒のシロやアいト云はぬ斗(バカ)りに、自家(ウチ)の 周圍を探して歩行(アル)きましたが、−−ワンと答へて來る者もなければ、 尾を揮り(フ)ながら飛びつく者も無く、−−憐れやとうとう大切のシロ は、行方不知(ユキガタシレズ)と成てしまひました。  若(モ)しや撲犬師(イヌコロシ)にでも遣(ヤ)られやしないか。−−此の不審 はそろそろ雪雄の腦を痛め初めて、さあどうしても寢られません。  然し頸輪(クビワ)に符(フダ)も付いてるから、まさかそんな筈も無いが。 −−かうも亦思ひ直したものゝ、兎に角氣に成て氣に成て……添寐(ソヒネ) をして居る阿母(オツカ)さんは、疾(ト)うに鼾(イビキ)をかき初めたのに、雪 雄は不憫(フビン)さ夢も結ばず、シロの事のみ思ひ續けて、やがて其夜も 明けました。  夜が明けてから、今一度探して見ましたが、まだ其所在(アリカ)は知れ ません。−−其中(ソノウチ)に三日と立ち四日と過ぎ遂には一週間ほどに成 りましたけども、とうとう行衞が知れませんから、さては何處でか取ら れたものかと、やうやうに諦(アキ)らめはしたものゝ、何しろ兄弟同樣に して居たシロが、俄(ニワカ)に居なく成たのですから、まことに淋しくて 溜(タマ)りません。  月日の立つのは速いもので、一月ほどは間も無く經ち、丁度二月の初 旬(ハジメ)と成りました。  或る日の事です、雪雄は阿母(オツカ)さんと一所に、淺草の公園へ遊び に行きました。凌雲閣(リヤウウンカク)にも昇りパノラマも見物しそれから、 玉乘や生人形を見て、池の緋鯉に麩(フ)を遣つたりする中に、其日も暮 れかゝつて來ましたから、さアそろそろ歸らうと、阿母(オツカ)さんに急 き立てられて、仁王門から中店(ナカミセ)へ出ましたが、歸途(カヘリ)には玩 器(オモチヤ)を買てやらうと云ふ、阿母(オツカ)さんの兼ての口約束、中〃<*1> 雪雄は忘れません。阿母さんの袂を引きながら、邊在(トア)る玩器屋(オモチ ヤヤ)の店先に立ち寄り、あれかこれかと見廻はす中、不圖(フト)目に就い たのは、向ふの棚の上の太鼓です。  もはや初午(ハツウマ)にも間も無いこと、自家(ウチ)にある太鼓は破れて來 たから、一個(ヒトツ)新らしいのが欲しいと思つて居た矢先、彼(アレ)を買 て貰ふことに仕やうと、やがて阿母さんに向つて。 (雪)阿母(オツカ)さん! あの太鼓買て頂戴な! (母)ナニ太鼓? まア赤兒(アカンボ)見たいだねエ。もう學校へも行て る兒が、太鼓なんぞ可笑(オカシイ)ぢやないか。 (雪)ウーン、太鼓が好いんだよう。今度の初午に叩くんだからさア。 (母)そんなら自家(ウチ)に一個(ヒトツ)あるぢやないか。 (雪)あれはもう破けて來て、ちつとも鳴らないからさア。 (母)さうかイ……でもあんな大きな物買つて、阿母さんが重くツて困 るわネ。もつと小さなのにおしな! (雪)ウーンあれが好いんだよ、小ちやいのは約(ツマ)らないヤ。……阿 母さんが重けれヤ僕が持つて行く……ナニ車に乘ツてけば譯(ワケ)は無い ヤ。 (母)そんなら仕方が無い買つてあげやう。  茲(ココ)でとうとう太鼓を買て貰ひましたから、雪雄は娯(ウレ)し喜んで、 其太鼓を大切(ダイジ)さうに抱へながら、やがて吾家へと歸りました。 −−さてこれからが面白い處、然し紙數(カミカズ)に限(カギリ)があるから、 意地が惡い樣ですが、あとは次號と致しましやう。 『幼年雜誌』第四卷第四號(明治二十七年二月十五日發行)  さて雪雄は、淺艸(アサクサ)の中店(ナカミセ)で太鼓を買つて歸りましたが、 それからと云ふものは、毎日此(コレ)を叩いて、神樂(カグラ)や馬鹿囃子(バ カバヤシ)の稽古に餘念無く、さしも戀しかつたあのシロの事は、此爲めに 少しは紛(マギ)れて居りました。  其の中に日は經つて、やがて初午(ハツウマ)に成りました。  すると、其前の晩の事で厶(ゴザ)います。−−明日(アシタ)は一番此太 鼓を、お稻荷樣(此近所にある)へ持ち出して、思ふさま叩いて遊(アス) ばうと、そればつかりを樂みにして、漸く枕に就きますと、アヽラ不思 議や! 寐る前に隣の室(マ)の棚の上に置いた例の太鼓が、俄かにドロ ドロドロと鳴り出しました。  オヤツと思つて頭を擡(モチヤ)げると、又ドロドロドロ!……もはや家 内(カナイ)は寐靜まつて、誰も太鼓を打つ者は無い筈……と云ふて鼠にし ては、ちと鳴り音が巧(ウマ)すぎる。ト思ふとさア不審で堪(タマ)りません。  叩きもせぬのに太鼓が鳴る……何だかをかしい、どうやら氣味が惡る いト、普通(ナミ)の小兒(コドモ)ならソツとして、直ぐに蒲團でもヒツ被(カ ブ)るに、阿母(オツカ)さんでも呼び起こす處を、雪雄は割に氣の強い小兒 (コドモ)ですから、そんな意氣地の無い眞似はしません。  此奴(コイツ)は變だなト訝(イブ)かりながら、ムクムクと起き上り、枕元 にあつた手燭をつけて、隣の室(マ)に行て四邊(アタリ)を見廻はしましたが、 更に人らしい影も見えず、太鼓は依然として棚の上にあります。  なんの事だと呟やきながら、其儘歸らうとすると、又ドロドロドロと 鳴り出して、今度は「坊ちやん! 坊ちやん!」と云ふ樣に聞えました。  雪雄は吃驚(ビツクリ)して又太鼓の方を見ると、太鼓は自然(ヒトリデ)に動 いて棚から落ち、其はづみにコロコロコロと轉(コロ)げて來て、「坊ちや ん! お懷しう厶(ゴザ)います」と云ひながら、雪雄の前に止まりまし たから、流石の雪雄もギヨツとして、一足さがつて手燭をさしつけ、キ ツと太鼓を見つめると、さても不思議や、−−其面(ソノオモテ)は鏡である ものゝ樣に、あの懷かしいシロの顏が、アリアリと現はれて居ます。 (雪)ヤツお前はシロか。 ト、云ながら抱付(ダキツ)くと、シロはうれし相に頭(カシラ)を振て。 (シロ)坊ちやん! お懷しう厶(ゴザ)いました。 ト、云ひながらスウーツと脱(ヌ)け出し、雪雄の躰(カラダ)に取りついて、 其手首をペロペロなめました。  別れてから一ト月餘りと云ふものは毎日思ひ出さぬ日とては無く、戀 しくも懷しくも、思ひ詰めて居たシロが、今夜計(ハカ)らずも歸つて來た 事ゆゑ、雪雄は夢かと喜んで。 (雪)シロや! アーよく歸つて來て呉れた。私(ワタシ)はほんとにお前 の爲めには、どれほど心配したか知れないよ。シテ今迄は一躰何處に居 たんだ? ト言葉優しく問ひかけますと、何思つたかシロは、俄かにサメザメと泣 き出しました。 (雪)オヤお前は泣くのか、如何(ドウ)したのだねエ? ト又膝を進ませて尋ねますと、シロは漸く涙を拂ひ、 (シロ)坊ちやん! 私(ワタシ)はもはや此世の犬では厶(ゴザ)いません。 (雪)ナニ、此世の犬では無い? (シロ)何をお隱し申しましやう、私は炭三さんに、打(ブ)ち殺された ので厶(ゴザ)います。 (雪)ヱッ? それぢやアアノ炭三奴に……ソ、それは一躰如何(ドウ) 云ふ譯だ? ト今は雪雄も急(セ)き込(コン)で來ました。シロは又涙を呑み込み。 (シロ)さればお聞き下さいまし! 日外(イツゾヤ)此方(コナタ)の御門の前 で、あのクロ奴と喧譁を致しました時、貴郎(アナタ)が頻(シキ)りにお止め 下さいましたが、クロ奴があんまり生意氣な事致しましたから、一度懲 (コ)らしめてやらうと存じて貴郎(アナタ)が折角お止め下さるのも聞かず、 追ひ駈けましたが運の盡(ツキ)……。あのお稻荷樣の社(ヤシロ)まで行きま すと、思ひがけない炭三さんが、突然(イキナリ)出て來て横合から、此シロ 奴の前脛(ムカフズネ)を、イヤツと云ふはど拂ひました。……不意を喰(クラ) つて私も、思はず其塲へノメリますると、重ねかゝつて炭三さんが、私 の頭をさんざんに…… (雪)打つたか。 (シロ)ハイ……散々打ち据へました上、まだ飽(ア)き足らず私の、四 本の脚を繩で括(クク)つて、鳥居の側(ソバ)の松樹(マツノキ)に、逆樣(サカサマ) に釣り上げまして……下から石を打ちつけるやら、棒でもつてなぐるや ら…… (雪)酷(ヒド)い事を仕やがつたな。 (シロ)さんざん責めさいなんだ揚句(アゲク)、鼻柱をタツタ一ト打(ウチ)。 脆(モロ)くも最期を遂げましたが、それから後はお定まりの、穢多(エタ)の 手に渡されまして、皮をはがれて忽(タチマ)ちに、斯樣(カヨウ)な姿と成り變 り、あの中店(ナカミセ)の玩弄器屋(オモチヤヤ)に、暫らく曝(サラ)されて居りま す處へ、折よく貴郎(アナタ)がお出で下すつて、再びかうしてお目に掛る も、盡(ツキ)せぬ縁とやらでム(ゴザ)りましやう。  淨瑠璃でも聞いて居る樣に、涙ながらの物語。雪雄は之を聞き了(ヲハ) るや否や切齒(ハガミ)をして悔(クヤ)しがりながら、 (雪)まあまあ可愛さうに、ざぞ痛かつたらう、苦しかつたらう! そ んな事とは夢にも知らず、大方(オホカタ)誰ぞに取られた事と、毎日行衞を 探しては居たに、一度の囘向(エカウ)も仕なかつたは、私の不覺だ許して くれ! (シロ)勿躰(モツタイ)無い、何を仰有います、それも是も皆私の自業自得 (ジゴウジトク)、貴郎(アナタ)のお言葉を用ひませぬ故、罸(バチ)が當つたの で厶(ゴザ)いましやう。 (雪)それにしてもあの炭三奴、罪も恨も無い者を、嬲(ナブ)り殺しと は憎(ニ)ツくい奴。ヨシ明日(アシタ)は乃公(オレ)が行て、お前の仇(カタキ)を 屹度取てやる。 (シロ)イヤ其仇(ソノカタキ)ならお手を借るまでも無く、私が自分で討ち ますが、只暫らくのお暇(イトマ)を、何卒(ドウゾ)お許し下さいまし! (雪)左樣(サウ)云ふ事なら暇(イトマ)もやらう、シテ其手筈は? (シロ)斯樣(カヨウ)で厶(ゴザ)います。 とシロは雪雄の耳の端(ハタ)へ來て、何やら頻りに耳語(ササヤ)きました。    *   *   *   *   *  話變つて彼(カ)の炭三は、クロの敵手(アヒテ)のシロ犬をば、思ふ存分に 撲(ブ)ち殺しまして、何喰はぬ顏で居りましたが、やがて初午の當日、 朝早くから家を出(イ)で、稻荷の社(ヤシロ)へ來て見ますと、誰が釣(ツル)し たか大きな太鼓が、例の鳥居の前の松樹(マツノキ)から、さア打てと云はぬ 斗(バカ)りに下がつて居ります。 (炭)此奴(コイツ)は妙だ! まだ誰も打たぬ先に、一番叩いて呉れやう か。 ト云ひながら進みよつて、有り合ふ撥(バチ)で一ト打々(ウチウ)つと、此(コ) はいかに太鼓の綱が、プッツリ切れて、大太鼓は、炭三の背中の上へ− −ズド−−ン!……ギウ! 『幼年雜誌』第四卷第五號(明治二十七年三月一日發行)